本稿「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」を書き終えたいま、ここに少しばかり、記述内容を振り返りながら、本稿の主題にかかわる考察と結論を書き留めておきたいと思います。
過去においても、そして今日においても、モリスに興味を抱く人の最大の関心事は、おそらく次の点にあるのではないでしょうか。詩作とデザインと政治活動が彼のなかでどうつながっていたのであろうか。そしてまた、ラファエル前派の著名な画家であるロセッティの絵画作品にしばしば登場する、妻のジェインは、モリスとのあいだでどのような家庭生活を送ったのだろうか。こうした一種の謎が、人びとの関心を惹きつけ、これまでに多くの伝記や研究書が書かれてきました。私の関心も、当然ながら、そこにあり、本稿執筆に際しての主要な動機ともなっていました。
モリスが生まれたのは、一八三四年三月二四日です。この時期は、前世紀の中葉からはじまる英国の産業革命がほぼ完成し、到来した産業社会にふさわしい美術教育の開始へ向けて、政府が介入する時期にあたります。現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と王立美術大学の祖型となるデザイン師範学校がサマセット・ハウスに開設されるのが一八三七年でした。他方、ウィリアム四世の死去を受けて即位したヴィクトリア女王は、一八三八年にウェストミンスター大寺院で戴冠式を行ない、続く一九四〇年に、二一歳に満たない若さで結婚をします。当時の王室へ向けられた大衆の関心は低調でした。そうしたなか、夫君のアルバート公は、「産業と芸術の結婚」の唱道に強い熱意を示し、ついに一八五一年に、サウス・ケンジントンのハイド・パークでの大博覧会(正式名称は、万国産業製品大博覧会)の開催に漕ぎ着けます。開会にあたってのヴィクトリア女王のスピーチの一節は、「これまでに経験したいかなる礼拝式にも勝る」というものでした。五月から一〇月までの開催期間中、六〇〇万人を超す人出でにぎわい、英国の産業と経済にかかわる威力と影響力の大きさを、自国民のみならず世界に対して見せつけました。まさしく、大博覧会は、ヴィクトリア時代の「新しい英国(New Britain)」を象徴するものでした。しかし、一七歳のモリスは、会場に入ることを嫌い、その手前で座り込んでしまいました。敏感にも、新しい文明の悪臭を感じ取ったのでしょう。
学校教育の胎動や博覧会の開催といった「新しい英国」へ向けての動きを光の部分としますと、陰の部分として、ゴシック回帰の動きが存在していました。一八世紀後期から一九世紀初期の英国にあって、装飾的なゴシック様式は、人気のデザイン言語となっていました。しかし、ヴィクトリア時代になると、中世主義の熱狂は、様式というよりも、政治的な批判の原理となってゆきます。「新しい英国」の基盤は、産業、貿易、金融、そして軍事力です。それへの批判力として、歴史と宗教に根拠を置く「ゴシック・リヴァイヴァル」という心的状況が、当時の社会と芸術の川底に流れていたのでした。
英国の詩人のキーツは一八二一年に、シェリーは翌年の一八二二年に、すでに黄泉の客となっていました。モリスの成長期は、こうした先人たちへの評価の時期と重なり、青年モリスは、彼らが歌い上げていた「ロマン主義」、あるいは、その先にある「反抗的精神」を身につけてゆきました。大博覧会を巡る逸話も、モリスのそうした精神的発達段階において生じた出来事として見ることができます。
一八五三年にモリスはオクスフォード大学に入学します。そこで親交を結ぶことになるのがバーン=ジョウンズです。彼らは、キーツやシェリーの詩を読み、マロリーやフロワサールを含む中世の文学に親しみ、さらにはカーライルやピュージン、そして『建築の七灯』に代表されるラスキンの作品から多くを学びました。その過程のなかでモリスは、経済的な価値が、それ以外の諸価値に取って代わってしまったヴィクトリア時代の資本主義への反感を強め、中世の過去の世界へと熱狂してゆきます。大学を卒業すると、ゴシック・リヴァイヴァルの著名な建築家であったストリートの事務所で一時期働き、その後、ラファエル前派の画家のロセッティの勧めもあって絵に関心をもつ機会もありましたが、長続きはしませんでした。モリスの生涯を眺めるとき、彼の最初の本格的な活動が、詩人としてのそれであったことがわかります。おそらく一八五七年の作と思われる作品に、「我が貴婦人の礼讃」と題された詩があります。将来妻となるであろうジェインとその容姿が表現されており、モリスの中世的騎士道精神が十全に反映された作品でした。どうやらモリスは、美を象徴化し、愛を理想化するうえでの対象として、このとき女性(ジェイン)をみなしていたようです。翌一八五八年、モリスの最初の詩集『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』が出版されます。騎士のラーンスロットと王妃のグウェナヴィアの不義の愛を題材にした詩は、モリスとジェインのその後の人生を暗示しているようにも読むことができます。
詩人モリスは、こうして誕生しました。その後、苦悩と思索の日々にあって断続的に詩作は続き、『イアソンの生と死』(一八六七年)、『地上の楽園』(一九六八―七〇年)、『愛さえあれば』(一八七三年)、『折ふしの詩』(一八九一年)を発表するなかで、詩人としてのモリスの評価は、いやがうえにも決定的なものになってゆきます。一八七七年にはマシュー・アーノルドの後任としてオクスフォード大学の詩学教授職への就任がモリスへ要請されましたし、一八九二年にはテニスンの死去に伴い、桂冠詩人の地位提供の打診も受けています。これらの申し出は、もし受諾されていれば、詩人としての最高の名誉を名実ともにモリスにもたらすものであったにちがいありません。しかし実際には双方ともモリスは辞退しました。モリスにとって詩作は、生涯にわたる全体の活動の一部であり、それがすべてであるというわけではありませんでした。モリスは、詩人にはじまり、次にデザイナー、そして最後には、政治活動家という領域へと自らの進むべき道を切り開き、いずれが主ともいえない結び合わされた世界のなかにあって活動を続けてゆくことになるのです。
モリスは一八五九年にジェインと結婚します。新居となる〈レッド・ハウス〉を設計したのは、ストリートの事務所で知り合った建築家のウェブでした。ここでモリスのロマンティシズムは、詩の世界に続いて、今度は、〈レッド・ハウス〉の調度品に刻み込まれてゆきます。協同者は、ウェブ、ロセッティ、バーン=ジョウンズといった建築家や画家の面々でした。〈レッド・ハウス〉は、モリスにとって、工人の技術の結晶体である中世のカセドラルのようなものだったのかもしれません。ここにおいてモリスは、詩情の物質化を体験しました。その行為は、精神的内面と、人が生きる空間である室内という内面とが重なり合うことを意味します。モリスは、〈レッド・ハウス〉の内装を友人たちの協力のもとにデザインする過程において、室内を構成する家具、壁紙、テクスタイル、ステインド・グラス――すべてこれらは、その原理において、人がそこから読み取る物語や詩に満たされた「装飾」によって成り立っていることに、正しくも気づかされたのでした。この経験のうえに立って、詩作という虚構の世界から一歩踏み出して、より現実世界に近づき、一八六一年、モリス二七歳のときに、室内用品のデザインと製作を業務とするモリス・マーシャル・フォークナー商会(一八七五年に、単独経営のモリス商会に改組)を設立することになるのです。これが、モリスがデザイナーとして、そしてまた、ビジネスマンとして身を立てる瞬間でした。
ここで話を少しもどしますが、ジェインを最初に見出したのは、ロセッティでした。オクスフォードでの壁画製作に際して、場末の演劇小屋でジェインを見初めたロセッティは、彼女を絵のモデルに使います。そして、画家とモデルという関係は、ジェインがモリスと結婚したのちにおいても続きました。これが、ジェインを巡ってロセッティとモリスのあいだに図らずも生じた、俗にいう「三角関係」で、一〇〇年以上立ったいまにおいてさえ、伝記作家や研究者の関心事となって引き継がれている事柄なのです。それでは、当時、女性の置かれていた状況はどのようなものだったのでしょうか。
一般的にいって、多くの女性たちの行動は、ヴィクトリア女王自身が、結婚、母性、寡婦について実際に示した態度を踏襲するものでした。そしてまた、一八五四年にイギリスの詩人のコヴェントリー・パットモーが出版した『家のなかの天使』に倣うものでもありました。ヴィクトリア女王の時代に「天使」は、どこの家にもいました。「天使」は、いまでこそ抑圧された女性としてみなされますが、当時にあっては、家の外には活動の場を設けず、唯一家族のことだけに思いを巡らせ、性的な目覚めという罪を身に宿さない女の代名詞となっていました。その観点に照らしてジェインの生き方を見てみますと、自覚的であったかどうかは別にして、彼女は、明らかに、時代の規範から離れた、あるいは時代の価値に抗った女性でした。一方モリスは、それに対してあからさまな批判や嫉妬を見せることもなく、このふたりの恋人のために、ロセッティと共同して、ロンドンから離れた田舎家の〈ケルムスコット・マナー〉を賃借します。これだけを見ますと、ジェインは、自由奔放に愛に生きる女性のように映ります。このことについては、おそらく彼女には彼女なりの、「グウェナヴィアの抗弁」ならぬ、内に秘めた「ジェインの抗弁」があったものと思われます。モリスはそれに耳を傾けたでしょうか。その結果が、〈ケルムスコット・マナー〉の発見へとつながった可能性もあります。見方によっては、モリス独自のフェミニズムは、この点において凝縮しているといえなくもありません。参考までに言い添えると、ジャン・マーシュが「ジェイニーの抗弁」(『ウィリアム・モリス協会の雑誌』第七巻第三号、一九八七年秋に所収)を書いています。
ジェインはまた、絵画作品のモデルという仕事を誇りに思っていただけではなく、有能な刺繍家でもありました。その初期の作品は、〈レッド・ハウス〉の内装の一部として姿を現わしますし、後年には、〈ケルムスコット・マナー〉の室内を見事に飾りました。ジェインは、決してフルタイムの賃金労働者ではありませんでしたが、家庭内の仕事に埋没することなく、自分のもつ才能を自ら開花させたという意味において、ジェインの生き方は、そのおよそ一世紀後に出現するフェミニズム運動を先取りするものでした。
もう少し、ヴィクトリア時代の女性を取り巻く環境について、見ておきたいと思います。大博覧会が開かれた一八五一年にジェインは一二歳になるのですが、この年の人口調査によりますと、二〇歳以上の女性で結婚していない人はわずか二九パーセントにすぎませんでした。しかし、適切な結婚相手を見つけることは、意外にも困難な問題をはらんでいました。当時英国では、男性に比べて女性の人口は、五〇万人以上も多く、独身の女たちは、いわゆる「余剰女性」とみなされ、そのなかには、都会の片隅にあって身を落とす者もいました。ラファエル前派の画家たちが興味をもったのは、そうした日の当たらない陰の女性たちでした。ロセッティがジェインを見出すのも、この文脈に合致します。そのような女性たちやその家族が期待するのは、本人より上の階級の男性と結婚することによって階級を変えることでした。ジェインとモリスの結婚は、階級の点から見れば、階級上昇という、女性であれば誰しもが望む最高の条件での結婚でした。しかし、ジェインには満たされないものがあったようです。ロセッティの前でモデルとしてポーズをとるときも、ジェインは、現状に不満げで、遠くに何かを待ち望む表情をします。そしてジェインは、モリスを愛していなかったともいっています。何がそうさせたのでしょうか。結婚に際して女性の意思がほとんど尊重されない、その時代の結婚のあり方に、暗に異議を申し立てているようにも感じられます。
あるいは、こうも考えられるかもしれません。当時の画家や彫刻家に求められた表現上のひとつの規範は、裸体であれ着衣であれ、理想化された女性の美しさを描くことでした。あまりにも現実的に女性を描く作家には批判が集まりましたし、妖精や女神のモデルになっている女性が労働者階級の女であることがわかれば、その絵の鑑賞者たちは、おそらく不満を漏らしたでしょう。そしてまた、実際のところ、絵のモデルという職業は、売春を連想させる、不道徳なものとして受け止められる傾向が一般にあったのでした。ラファエル前派に属する画家たちは、そうした環境に逆らって製作しました。同じくジェインにあっても、底辺の階級を低く見る差別意識や、絵のモデルを卑しい職業とみなす選別意識への反抗心が、逆に、モデルを誇りに思う気持ちを適切にも育てさせたのかもしれません。しかし、ジェイン自身は、多くのことを語っていません。
モリスとジェインの新居となる〈レッド・ハウス〉の内装を手掛けたことにその端を発し、一八六一年に設立されたモリス・マーシャル・フォークナー商会は、芸術家たちの共同体であると同時に、素人によるデザインの工房でもありました。扱った製作品目は、教会装飾、ステインド・グラス、室内装飾、家具、タイル、テイブルウェア、壁紙、そしてテクスタイルといった、ほぼすべての装飾美術の領域に及びました。こうした、商会でデザインされ製作された品目が、内面を飾ったり、内面に設置されたりすることによって、教会や住居の室内は、神聖なる赤子が宿る子宮という宇宙にも似て、歴史と宗教に満ちた精神世界を包み込む空間へと、その姿を変えてゆきました。それは、紙の上の詩の世界と等価の、物質に刻まれた視覚世界でもありましたし、それゆえに、詩情を構成するイメージと言語の物質化と呼ぶこともできます。そして、これらの製造品は、粗悪な産業生産品に甘んじていた中産階級の人びとにとっての大きな福音となって、高い評判を呼ぶことになりました。かくして、モリスのデザイナーとしての、また企業経営者としての地位も、この時代に、確立してゆくことになるのです。
これまで、モリスの業績は、詩人、デザイナー、そして政治活動家としての分野に光があてられてきましたが、モリスの「四番目の世界」ともいえるビジネスマンとしての業績に経済史の研究者たちが着目しはじめたのは、比較的遅く、一九九〇年代になってからのことでした。それは、資本主義経済下の大規模な企業経営に代わる、モリス商会のような小規模経営への関心が高まったことに起因するものでした。またこの時期の英国にあっては、環境問題への関心も高まりました。このことが、モリスの「五番目の世界」の扉を開くことになるのです。チュークスバリー寺院の修復を理不尽な破壊行為であるとみなしたモリスは、すばやく仲間を集めると、反対の声を上げました。一八七七年のそのときに設立されるのが、古建築物保護協会でした。今日の、環境保護運動家としての新しいモリス像の発見は、ここに由来しているのです。
古建築物保護協会を組織した一八七七年の前後は、モリスの家庭にとっても、またモリス自身にとりましても、大きな転換の時期に相当します。クロラールへの過度の依存により精神状況を悪化させたロセッティと別れ、ジェインが、夫のもとへ帰るのが一八七六年の春のことであり、数箇月後のその年の夏には、長女のジェニーにてんかんの発作がみられるようになりました。それは、有効な薬も治療方法もない当時にあっては、本人はいうにおよばず、家族にとっても、生涯途切れることなく味わうことになる悲しみと苦しみを意味しました。
ロセッティは一八八二年に死去します。そして翌年の八月、ジェインは、新しい恋人となる旅行家で文筆家のウィルフリッド・スコーイン・ブラントと出会うのです。ジェインは、このとき、そろそろ四四歳になろうとしていました。ブラントは、利己主義的で虚栄心が強く、性的関係をもった女性の数を誇らしげに語るタイプの男性でした。ジェインが惹かれた理由はよくわかりません。ロセッティを恋しく思う心が残っていて、ブラントはその代役だったのかもしれませんし、ジェニーの看病に追われ、疲れ果てていたのかもしれません。また、夫の実家へ足を運ぶことをためらう絶好の口実に使うほどに、ジェイン自身も病弱でした。いずれにしましても、ジェインはロセッティを真剣に愛していたようですが、ブラントとの関係は、残された記録からは、性的な関係が認められるものの、そのことも含めて幾分気まぐれな、うわべだけの恋愛だったようです。モリスは、このふたりの親密な関係について、何も語っていません。ジェインがブラントと別れるのは、一八九二年のことでした。ブラント自身は、もし自分がジェインのそばにいなかったならば、とっくに彼女は精神病院へ入れられていたであろうと豪語しています。なぜモリスはジェインとの本格的な別居や離婚を考えなかったのでしょうか。いや、ひょっとしたら考えたかもしれません。しかしそうしたことは、結果から判断すると、実行されませんでした。
そうした家庭内の波乱のなかにあって、デザイナーとしてモリスに転機が訪れます。ジェインがロセッティと別れる二年前の一八七四年に、〈ケルムスコット・マナー〉は、ロセッティとの共同賃貸が解消され、モリスが自由に使える別荘に生まれ変わります。そして翌一八七五年には、モリス・マーシャル・フォークナー商会は単独経営のモリス商会へと改組されます。モリスが染色の実験に入るのもこの年で、これが発端となって、その後モリス商会は、一八八一年にマートン・アビーの地で染織事業の新たなる拡大に乗り出すのです。こうした旺盛なデザイン活動を展開する一方で、この時期、古建築物保護協会を組織するに先立って、すでにモリスは、もうひとつの公的な活動に深く関与していました。それは、ブルガリア問題へのトルコの弾圧を支持する勢力に抵抗するように英国民に呼びかけるために一八七六年に設立された東方問題協会を舞台とした活動でした。これがモリスの政治活動の起点となるものです。
一八七〇年代の終わりに近づくころから、モリスは、自らの芸術論について積極的に語りはじめます。その最初のものが「装飾芸術」(一八七七年)と題された講演でした。このなかでモリスは、本来的に結合されていたはずの、「大芸術」である絵画や彫刻と、「小芸術(装飾芸術)」である生活用品が、ルネサンス以降の発展過程において著しく分離し、その結果として、この現代が悲惨な状況にあることを指摘します。そしてモリスは、いわゆる芸術至上主義を退け、「小芸術」のかつての輝きを取り戻すために、手工芸の復興を説くのです。モリスの主要な批判の対象は、ヴィクトリア時代の産業がもたらしていた生産品の醜悪なデザインと、それに従事する者の、喜びを伴わない過酷な労働にあり、これらの論点が核心部分となって、その後の彼の芸術論はさらに政治的に進化し発展してゆくことになります。モリスの講演集として、一八八二年に『芸術への希望と不安』が、そして一八八八年に『変革の兆し』が刊行されます。
そして、さらに重要だったことは、そうした芸術上のモリスの視点は、多くの美術家や工芸家の共感を得て、アーツ・アンド・クラフツ運動という、ひとつの大きな実践上の潮流を形成していったことでした。そのなかには、マクマードウのセンチュリー・ギルドやアシュビーの手工芸ギルド・学校も含まれます。このようにして、モリス商会の実践とモリスが唱える芸術論は、一九世紀から二〇世紀への世紀転換期にあって、計り知れない大きな力となって、自国のみならず、ドイツや日本のデザインや建築の世界へ影響を与えたのでした。たとえば、ドイツの建築家のヘルマン・ムテジウスは、モリスが亡くなった一八九六年から在英ドイツ大使館の一員となって当地のアーツ・アンド・クラフツを調査し、帰国後、そのときの見聞をまとめて、一九〇四―〇五年に三巻本として『イギリスの住宅』を発表します。そして一九〇七年、ムテジウスは、近代のデザイン運動の先駆け的団体といえるドイツ工作連盟を創設するのです。
他方、東京美術学校の学生であった富本憲吉は、ウィリアム・モリスの思想と実践に関心を抱き、一九〇九年に英国に渡ると、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でモリスの実作に触れる一方で、当時レサビーが校長を務め、モリスの娘のメイが刺繍の外来講師をしていた中央美術・工芸学校でステインド・グラスを学びます。そして帰朝すると、来日中だった英国人のバーナード・リーチと知り合い、ともにふたりは製陶に関心を示しはじめます。富本が、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本とする「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に二回に分けて寄稿するのは、一九一二年のことでした。
東方問題協会での活動に端を発したモリスの政治活動は、加速してゆきました。一八八三年にはH・M・ハインドマンの率いる民主連盟(翌年に社会民主連盟に改称)に加わるも、意見の対立から翌年社会民主連盟を脱会します。次の一八八五年にモリスは社会主義同盟を結成し、機関紙『コモンウィール』の創刊にも献身的に携わってゆきます。モリスは、この『コモンウィール』に、一八八五年四月から翌年六月にかけて、現代における社会主義的生活について長編の詩の形式で物語った「希望の巡礼者たち」を、一八八六年一一月から翌年一月にかけて、中世のワット・タイラーの乱を主題とした「ジョン・ボールの夢」を、そして一八九〇年の一月から一〇月まで、革命後の理想社会を描いた「ユートピア便り」を連載します。いわゆるこれが、現在、過去、未来を舞台にした、モリスの社会主義が表出された散文ロマンスの三部作と呼ばれるものです。ジョージ・バーナード・ショーは、モリスについてこういっています。「政治的に自分を定義しなければならないとき、モリスは、自分のことを共産主義者と呼んだ。……彼は、ありきたりのマルクス主義者ではなかった」。そのモリスは、こういっています。「完全なる社会主義と共産主義のあいだには、私の気持ちのなかでは少しの違いもありません。事実上共産主義は、社会主義の完成形のうちに存在します。社会主義が戦闘的であることに終止符を打って、勝利を得たとき、そのときそれは共産主義となるのです」。
『コモンウィール』へ精力的に散文ロマンスを寄稿していたこの時期、決してモリスは、書斎にだけ閉じこもっていたわけではありませんでした。モリスは、不況や失業にあえぐ労働者たちのデモの隊列にしばしば加わり、そしてまた、演台に立っては政治と芸術について演説を行ない、実践的政治活動家としての役割を積極的に担うことになるのです。たとえば、一八八七年一一月一三日のいわゆる「血の日曜日」にトラファルガー広場で官憲に致命傷を負わされた仲間の葬儀に際しては、モリスはひつぎ持ちを務めたこともありました。
後年のモリスは、残された装飾美術のひとつである印刷と造本の分野において新たな活動の場を開拓することになります。それには伏線がありました。モリスとバーン=ジョウンズは大学以来の友人でした。それぞれの結婚後も、親しい交流が続きました。しかし、一八六〇年代の終わりまでには、双方の結婚は波乱に満ちたものとなっていました。といいますのも、モリスの妻のジェインはロセッティとの愛に深くかかわるようになっていましたし、一方、バーン=ジョウンズは、メアリー・キャサヴェッティ・ザンバコとの愛に夢中になっていたからです。このとき、モリスもバーン=ジョウンズの妻のジョージアーナ(愛称はジョージー)も、傷心の身にありました。一八七〇年、モリスは、三〇歳の誕生日のお祝いとしてジョージーに、『詩の本』と題された手づくりの詩集を贈りました。最初に現われる詩のタイトルが「川の両岸」です。プレゼントの意味と詩の解釈は別にしまして、この詩集にはモリスのカリグラファー(能書家)としての才能が十分に発揮されていますし、それ以上に、本をつくることへの関心がこのとき喚起されたのではないかと思われます。モリスは、それからおよそ二〇年後の一八九一年に、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉の近くに、私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを設けることになるのです。この印刷工房から、五三点の書籍と九点の冊子が印刷されました。そのなかには、キーツやシェリー、それにロセッティの詩集、ラスキンの『ゴシックの本質』や『チョーサー作品集』などが含まれ、モリスのお気に入りの作品が書籍化されてゆきます。また、『イアソンの生と死』や『地上の楽園』といった自作の詩集や、『ジョン・ボールの夢』や『ユートピア便り』といった自作の散文ロマンスも復刻されました。モリスがジョージーに贈った『詩の本』のなかの幾つかの詩は、『折ふしの詩』と題された詩集に収録され、工房創設初年の一八九一年という早い時点で出版されています。こうしてジョージーに対するモリスの思いは、このケルムスコット版の『折ふしの詩』のなかに、永遠のものとして刻み込まれることになったのでした。それだけではありません。この印刷工房を設立するのは、モリスが亡くなる五年前のことです。ひょっとすると、すでにこの時期、自分の最期が近いことを悟って、己の愛した書物と己の書いた書物とを、自分の手で、あたかも遺言を書くように、あるいは、あたかも墓石を刻むように、美しくまとめたかったのかもしれません。
ケルムスコット・プレスから生み出された書籍には、そのために考案された独自の字体が本文に用いられ、各頁には、必要に応じてオーナメントやイラストレイションなどが豪華にも使用されました。主としてイラストレイションは、画家で友人のバーン=ジョウンズが担当しました。こうした手づくりの本は、単なる文字による情報の伝達だけではなく、視覚表現と融合することによって、知識と画像が重なり合うひとつの小宇宙を創出することになります。モリスにとっては、室内を装飾すること(機能とイメージの融合)と、書物を装飾すること(言語とイメージの融合)とは、同じ地平にあったものと思います。
夏目漱石がイギリスに渡るのは、モリスが亡くなって数年後のことですが、そのとき漱石は、モリスが唱道していた「理想の書物」に影響を受けたものと思われます。いまでこそ、文庫本などに所収されている漱石の作品はどれも文字のみで組んでありますが、一九〇六年の初版の『漾虚集』などを見てみますと、はっきりと文学と視覚芸術の交流、別の言葉でいえば、作家と画家の協同を読み取ることができるのです。
モリスは終生、美しい家に住むことと、美しい本をもつことを理想としていました。またモリスは、ジェインを見初めると、「我が貴婦人の礼讃」と題された詩を書き、そのなかで、将来の「美しい妻」の姿を描写しました。思い起こせば、結婚をきっかけとしてモリス・マーシャル・フォークナー商会が設立されると、その工房から「美しい家」にかかわる多様な室内用品が製作され、販売されてゆきます。そして、いよいよ晩年になると、これまでの愛読書や自著が「美しい本」となってケルムスコット・プレスから復刻されてゆきます。このことを踏まえるならば、「美しい家」も「美しい本」も、見事にモリスは成功を収めたということになります。しかし残念ながら、「美しい妻」につきましては、明らかに失敗に帰しました。生涯、ジェインとモリスは、モリスの詩題にありますように、「川の両岸」に立つ関係のままで終わってしまったのでした。
モリス一家は、一八七八年に、ハマスミスのテムズ川河畔にある〈ケルムスコット・ハウス〉に転居していました。ここがモリスの終の住処となる屋敷で、健康を悪化させたモリスは、一八九六年の一〇月三日にここで息を引き取り、その後〈ケルムスコット・マナー〉の近くの教会墓地へと運ばれ、永遠の眠りにつくことになります。墓石は、〈レッド・ハウス〉を設計したウェブによってデザインされました。六二歳と約半年という、比較的短い人生でした。ジェインによると、モリスの最後の言葉は、世界から「迷妄」をなくしたいというものでした。それでは、遺された妻のジェインと、ふたりの娘であるジェニーとメイは、その後の人生をどのように過ごしたのでしょうか。
一八三九年一〇月一九日に生まれたジェインは、モリスが亡くなったとき、五七歳になろうとしていました。ジェインの晩年は、比較的落ち着いたものでした。しかし、同じところに長く住むことはなく、夏のあいだは〈ケルムスコット・マナー〉、そして冬のあいだは、主としてロンドンのメイの家や避寒地で過ごしました。この間、モリスの公式伝記の執筆がバーン=ジョウンズ家の娘婿であるマッケイルにゆだねられます。妻であるジェインは、そのために積極的に情報の提供を行なったのではないかと思われそうですが、実際は、決してそうではありませんでした。自分の貧しい出自や、夫以外の男性との恋愛について、あからさまに書かれることへの一種の拒否反応があったのでしょう。マッケイルを励まし、主として情報の提供を行なったのは、個人的に最もモリスに近かったジョージー(バーン=ジョウンズ夫人)でした。マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(全二巻)は、誰の目から見ても、主人公たるモリスに対して最大限の配慮が施された伝記として完成しました。しかし不思議なことに、生前モリスへの同情などほとんど示すことがなかったジェインの読後の感想は、モリスへの同情が足りないという、著者への不満でした。
亡くなる数箇月前に、モリス家の遺産を管理していた管財人の計らいにより、これまで借家として使用していた〈ケルムスコット・マナー〉の所有権が、ジェインへ移転されました。もともとは、ロセッティとの共同生活のために、ロセッティとモリスが話し合って共同名義で借り上げた田舎家でした。その意味で、ジェインにとっては、大いなる感傷の場でもありました。しかし、ジェインの名義になったあと、一度もそこへ足を運ぶことなく、その冬を過ごしていたバースで、一九一四年の一月の末に、突然にも他界します。遺体は、夫が眠るケルムスコット教会墓地の墓石の下に埋葬されました。
ジェニーは、一八六一年一月一七日に〈レッド・ハウス〉で生まれました。順調に成長期を過ごしますが、一八七六年の夏以降、てんかんの発作がみられるようになります。それは、当時にあっては回復の見込みのない病で、本人から、学業の楽しみも、結婚の幸せも、すべてを奪い去ることを意味していました。モリスの死去後のジェニーは、付き添い看護婦の世話のもと、おおかた〈ケルムスコット・マナー〉で過ごしますが、ジェイン亡きあとは、賄い付きの施設へ入れられ、残りの人生を送ります。他界したのは、一九三五年七月一一日のことでした。母親と同じく、享年七四歳でした。
一八六二年三月二五日に、メイもまた、ジェニー同様に〈レッド・ハウス〉で生まれました。メイの人生も、姉のジェニーとは意味が異なりますが、極めて特異なものでした。一八八五年に父親の手によって社会主義同盟が結成されたとき、メイもまた、その設立人のひとりとして宣言文に署名をします。当時の初期社会主義の理想にあっては、結婚は、「自由な愛」や「平等な愛」と固く結び付くものでした。そのひとつの事例として、メイもよく知る、マルクスの娘のエリナ・マルクスと、妻のあるエドワード・エイヴリングとの共同生活を挙げることができます。しかしそれは、結果として、実に不幸な夫婦関係でした。そうしたなか、若き小説家であるジョージ・バーナード・ショーとメイが出会うのは、モリス一家が住む〈ケルムスコット・ハウス〉の地下のボート置き場(馬車小屋)で開かれていた社会主義同盟ハマスミス支部の日曜日の夜の例会のときだったと思われます。ある日の夜、集会と夕食がすみ、戸口で別れのあいさつをしようとすると、食堂からメイがやってきました。ショーが書くところによれば、これが、ふたりにとっての「神秘の婚約」になるものでした。ふたりの交際がはじまります。しかし、その交際が深刻なものになると、ショーは結婚を拒み続けるのでした。感情を湧き立たせておきながら拒絶されたメイは、他の同志に関心を移します。その男性は、社会主義同盟の仲間で、メイより一歳年上のハリー・スパーリングという人物でした。進歩的な考えをもつふたりの結婚は、実につつましやかなものでした。しかし、しばらくするとふたりの新居に、バーナード・ショーが入り込むようになり、不可思議な「三角関係」がはじまり、ついには、夫のスパーリングが家を出て、パリへ向かうという結末を迎えます。その後、ショーは別の女性と結婚し、メイとスパーリングの離婚が成立するのは、モリスが亡くなった三年後の一八九九年のことでした。
その年にメイは、中央美術・工芸学校の刺繍科の主任に任命されます。富本憲吉がこの学校でステインド・グラスを学ぶのは一九〇九年の春のことです。このときメイはすでに退任し、外来講師となっていました。どの程度メイが来学していたのか、そして、ふたりが校内で顔を会わせる機会があったのか、それらを示す資料につきましては、私は未見です。またメイは、一九〇七年の女性芸術ギルドの設立に際して、その中心人物としての役割も担います。こうして、父親モリスの影響のもとに英国全土に広がったアーツ・アンド・クラフツ運動のなかにあって、メイは刺繍家としてその活躍の場を確保してゆくのです。
ところで濱田庄司は、一九二九年の五月から八月までの柳宗悦の短い英国での滞在中に、連れ立って、「テームス川上流のケルムスコットに、モリスの旧居を訪ね、まだ健在だったモリスの妹さんから、モリスの日常をいろいろ聞いている」、と書き記しています。このとき応対した「モリスの妹さん」というのは、「モリスの娘さん」のメイだった可能性も残ります。その一方で、この時期メイは、メアリー・ロブという、親密な愛情関係で結ばれたひとりの女性と暮らしていましたので、「モリスの妹さん」というのは、メアリー・ロブだったかもしれません。
このころメイは、ケルムスコットのこの地に、モリスの記念館のような集会場を建てたいという意向をもっており、〈ケルムスコット・マナー〉の戸をたたく、この時期の絶えることのないモリス巡礼者たちに寄付の呼びかけを行なっていました。メイは、日本からのこのふたりの巡礼者にも声をかけたでしょうか。それはわかりませんが、完成したのは、彼女の死の四年前のことでした。
メイの才能は、刺繍家としてだけではなく、父親の著作集の編集者としても開花しました。全二四巻で構成された著作集は一九〇五年から一五年にかけて刊行されており、濱田と柳が、生前のモリスの詩や散文ロマンスに関心を示していたとすれば、このときの英国滞在中に、ふたりはその著作集を手に取った可能性もあります。しかし濱田も柳も、著作集についても、また、メイから聞いたと思われる「モリスの日常」についても、とくに何も書き残していないようです。そこから判断しますと、〈ケルムスコット・マナー〉へ足を延ばしたのは、研究目的ではなく、単なる旧居見物か表敬訪問だったのかもしれません。
著作集の刊行に続いて、二巻本の補遺が、一九三六年に出版されました。メイの編集になる著作集と補遺が、まさしく、その後現代に至るモリス研究の礎石となるものです。メイは、一九三八年一〇月にその生涯を閉じます。ジェニーにもメイにも子どもはなく、事実上モリスの一家は、これをもって途絶えることになりました。
改めて振り返ってみますと、ジェインが生きたヴィクトリア時代は、すでに上に述べていますように、「新しい英国(New Britain)」を生み出しました。しかし、それだけではありません。女性の生き方にも、大きな変化をもたらしました。早くも一八六〇年代に「時の女(Girl of the Period)」が登場し、九〇年代には、それに続いて、「新しい女(New Woman)」が出現するのです。
「時の女」と呼ばれた人たちは、一般に自立心が強く、開放的な精神の持ち主で、それは、髪の色や化粧、男言葉の使用など、ファッションや行動に表われました。市街地は、いまだ男性の支配地でしたが、七〇年代に入るころには、こうした「時の女」たちが、食事や買い物、美術館訪問などを楽しむために、出没するようになりました。このことは、女性たちの意識の変化によるところも大いにありましたが、この時期、バスや鉄道といった交通手段が発達したことも大きな要因となっていました。九〇年代に入ると、「時の女」に批判的だった、時のジャーナリズムは、「新しい女」の現象に着目するようになります。彼女たちは、多くの点で「時の女」の特質を引き継ぎ、たばこを吸い、大胆にも男性との会話に加わり、町にも繰り出しました。しかし、独自の特質も兼ね備えていました。つまりそれは、「時の女」に見受けられた、異性とのうわべの恋愛ごっこのようなものから離陸し、それに取って代わって、結婚を見下し、女らしさを軽蔑するようになったことでした。「新しい女」の独立心は、仕事をもつことでさらに強化されました。なかには、ある者は作家や芸術家として、ある者は政治活動家として、自分の道を見出してゆきました。六〇年代の「時の女」は、ある種官能的であったがゆえに、騒動も引き起こしましたが、九〇年代の「新しい女」は、男性の庇護に頼ることなく、辛抱強く、生きる道を模索するようになりました。こうした女性の生き方の変化を、ジェインもメイも、多かれ少なかれ、感じ取っていたものと思います。ジェインが「時の女」を体現するものであるとすれば、「新しい女」を体現したのが、その娘のメイだったのかもしれません。
そのこととは別に、すでに紹介していますように、一八七〇年にモリスは、エドワード・バーン=ジョウンズの妻のジョージーに、二五編の自作詩で構成される『詩の本』と題された彩飾手稿本を贈りました。その第一編の詩題が「川の両岸」でした。その詩は、こうした言葉ではじまります。
おお冬よ、おお白い冬よ、汝は過ぎ去った 我は、もはや荒野に独り佇むことなく 円弧を描くように、木や石の上を飛び跳ねて、越えてゆく
しかし、現実世界には越えられない「川」が存在していたのです。
「ウィリアム・モイスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」を書き終えたいま、私の胸に刻まれた残像は、「川の両岸」という観念でした。「川の両岸」に立っていたのは、モリスとジョージーだけではありません。ジェインとロセッティのあいだにも、また、メイとショーのあいだにも、「川の両岸」が存在していました。さらにそれだけではありません。いうまでもなく、主人公たるモリスとジェインの「両岸」にも、ふたりを隔てる深刻な「川」が流れていたのでした。それぞれの「川」の発生原因や意味合いは異なります。それでも、どうしてもここで、この夫婦の人生にとっての主題とは何だったのか、そのことを問いたくなります。その答えをあえて一言にまとめれば、おそらくそれは、モリスが詩題に用いた、この「川の両岸」という観念だったのではないか――そうした残像が、擱筆後のいまの私を支配しているのです。
果たしてモリスは、身の回りに流れる多くの「川」をどのように理解していたのでしょうか。モリスには、それらの「川」が、人が勝手に踏み込めない大自然のなかにあってそのいのちを輝かせる、神聖化された大いなる清流に感じられていたのかもしれません。といいますのも、モリスは、人間の愛情にかかわる問題には、まったく抗うことなく、静かに受け入れたように見えるからです。これが、モリスがジェインとの決定的な別居や離婚を考えなかった理由なのでしょうか。それだけではないかもしれません。作者であるモリスは、『ジョン・ボールの夢』のなかで、民衆の前に立つジョン・ボールに、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である」と語らせています。すべての人間関係が、このフェローシップによって成り立っていることを確信していたとするならば、おそらくモリスは、ジェインと自分だけではなく、広く人と人との人為的な分断を適切な行為として考えることはなかったのではないでしょうか。それはそれとして、別の観点に立てば、あるときからモリスは、愛の対象としてではなく、扶養の対象としてのみ妻のジェインを考えるようになってしまった可能性も、全く否定することはできません。もしそうであれば、そこには、病をもつジェニーの存在が大きく作用していたものと考えられます。しかし、いずれにいたしましても、根拠となる具体的な資料が残されているわけではありません。そのため、モリス夫妻の人間関係の成り立ちについての解釈は、人によって異なり、そしてまた、時代によって変化するものと思われます。
しかしそれでも、「川の両岸」という観念には、男女の関係、あるいは夫婦の関係においては、「近代」の価値が必然のうちに付着していたように考えられます。ジェインは、決してヴィクトリア時代に一般的にみられた「家のなかの天使」ではありませんでした。「家のなかの天使」が、夫に服従し、子どもの世話に専念する妻の立場を表象しているとすれば、ジェインは、明らかに「家から飛び立った天使」でした。「家から飛び立った天使」は、川を渡って対岸へとたどり着きます。ジェインに続く娘のメイは、母親と違って、離婚を経験しました。これは、「家のなかの天使」にはっきりと別れを告げる行為でした。メイも家の外に出て、父親に倣って政治活動に参加し、同時に、刺繍家としての腕も磨きました。さらには、父親の著作を二四巻に、そして補遺二巻にまとめ、各巻に序文を付して学識の豊かさを披瀝しました。こうしてメイの編集によってできたものが、『ウィリアム・モリス著作集』と『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』です。
このように見てみますと、ジェインが家を出て飛び立った先は、男性には許されても、既婚女性にはこれまで許されることのなかった、反社会的で、反道徳的な不義という名の異性との関係でした。もっとも今日の社会においては、男性、女性にかかわりなく、そうした婚外の親密な男女の関係は、断罪されて当然の行為とみなされているのですが……。
一方、メイが家を出て向かった先は、女性にとってほとんど往来する場所とはそれまでに考えられてこなかった社会という名の異次元の空間でした。明らかに、この親子の行動は、伝統的で保守的な既成の価値や概念を打ち破るものでした。おそらく、ジェインもメイも、ヴィクトリア女王の時代にあってはほとんど考えられなかった、夫と妻を分かつ「川の両岸」の存在に、意識的であろうと無意識的であろうと、自らの経験のなかから、気づきはじめたのではないでしょうか。これまでに構築された男女間の抑圧や支配という強圧的な構造に割れ目が生じ、そこに個というふたつの岸辺が生まれ、その結果、「川の両岸」が出現しました。こうした地殻変動のなかにあって「近代」の扉が少し開いたのです。「近代の夫婦」の誕生と、「川の両岸」の出現とは、コインの表と裏の関係だったように私には感じられます。その意味において私は、ジェインとメイという母と娘の行動を、第二次世界大戦後の英国の女性解放運動(ウーマン・リブ)に先立つ、その発端の一事例として、歴史的に位置づけられるのではないかと考えるのです。
他方、「川の両岸」という観念は、家庭人としてのモリスとジェインという一組の夫婦にとっての主題に止まらず、ウィリアム・モリスというひとりの社会人にとっても、同じく主題になりえたものと思います。といいますのも、「川の両岸」という観念は、中世の「ゴシック精神」とヴィクトリア時代の「新しい英国精神」という関係にも、また当時の「資本」と「労働」という関係にも、投影することがモリスには可能だったと思われるからです。前者のふたつの岸のあいだには「ルネサンス(人間中心主義/自然の汚染化)」という川が、後者の岸のあいだには「搾取(利益至上主義/労働の疎外化)」という川が流れていました。しかしモリスは、人間の愛情問題とは違って、こうした時代の濁流には、極めて現実的な、そして毅然とした態度で抵抗しました。こうして、濁流として存在する社会文化的な「川」を越えるための手段として、「革命」というヴィジョンが生み出されてゆきました。明らかにモリスにとって、詩とデザインと社会主義の三つの世界は、それぞれが別々に単独で存在する世界ではなく、どれもが「川」を乗り越えて「両岸」を重ね合わせてひとつにするための、あるいは「川」そのものを消滅させるための、表現上の、また実践上の共通の方法論として存在していたのでした。さらに重要なことは、モリスのなかにあっては、これらの方法論が連環していたことではないでしょうか。詩的な「象徴化と理想化=夢」にはじまって、デザインという「夢の物質化=空間の革命」を経て、散文的な「革命=ヴィジョン」へと到達したことが、その証左となります。「川」が消滅しない限り、「両岸」は存続します。たとえば、『イギリス文化と産業精神の衰退――一八五〇年から一九八〇年まで』の著者のマーティン・J・ウィナーは、英国の文化を、「田園」と「産業」のふたつの翼をもつ鳥に例えます。そして、この両翼は、一九世紀のこの時期につくられたというのです。英国のこの時代から一世紀以上の時が立った今日において、なおもモリスの思想と実践に人びとの関心が向かうのは、形を変えながらも、いまだ私たちの過去から現在へ至る社会と文化のなかに「川」という濁流が存在しているからにほかならないからではないでしょうか。
私は思います。モリスの偉業は、両岸のあいだに流れる川の存在に気づいたモリスの洞察力と分析力の大きさであり、それに基づいて展開されたモリスの連環的な思索と実践の強靭さであり、その間にあって決して失われることのなかったモリスの勇気と希望の輝きでした。川が存在する限り、夢が現われ、ユートピアが語られ、ヴィジョンが提示されます。たとえば現代にあっては、グリーン主義者たちが、歴史のなかから懸命にモリスを呼び出しています。彼らが見ているのは、一言でいえば、「自然破壊」や「労働破壊」、そして「生活破壊」という複合化された濁流なのです。環境や資源の限界を逸脱した生産=消費構造から、私たちはどう脱却を図るのか。高度に細分化した労働から全体的に把握可能な労働へと、私たちはどう転換するのか。生活用品の量的所有の豊かさから質的使用の喜びへと、私たちはどう脱皮し、どう自ら制御可能な生活形式を創出するのか。こうした社会文化的な課題が、いま問われているのです。
そして、より深刻なのは、かかる課題はさらに次元を超えて先鋭化し、一国のみならず、地球的規模において人びとの分断と抑圧を招来していることです。当然ながら私たちは、支配者と被支配者、迫害者と難民、富者と貧者、多数者と少数者、そして強者と弱者のあいだを隔てる汚染された「川」の流れにも、目を向けなければなりません。
このようにモリス以来、いまも闘いは続いています。課題が解決しない限り、次の時代も、そしてまた次の時代も、時代は常にモリスを必要とし続けてゆくでしょう。そして同時に、それにあわせるように、その時代にふさわしいモリス研究が持続的に立ちあらわれてくるにちがいありません。そのなかには、重厚な学術研究書以外にも、モリスに寄せる淡い恋文のようなものから、社会的闘争にあたっての宣言文のような硬派なものまで、さまざまな立場と視点からの多様な研究が含まれることが予想されます。誰しもが、それぞれに自分のお気に入りのモリス像をもつことができるのです。
さて、いま書き終えた私の「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」の場合は、力不足のために、そうした研究の名にも値しない、雑駁で小さな独りよがりの論考になってしまいました。そのことを十分に自覚したうえで、それでも、今後のモリス研究に少しでも役に立つようなことがあれば、私にとって望外の喜びになるであろうことを最後に一言書き残して、本稿の「考察と結論」をここに閉じたいと思います。
すでに「序章」において詳しく述べていますように、最初にウィリアム・モリスの家族についての物語を書きたいと思ったのは、モリス没後一〇〇年を迎えた一九九六年ころでした。しかしその後、偶然のきっかけから、私の研究上の関心は、富本憲吉はいかにしてモリスの思想と実践を知り、それはその後の彼の人生にどう影響を及ぼしたのか、といったテーマに向かってゆきました。それからおよそ四半世紀が立ち、富本研究が一段落すると、やっと執筆の環境が整い、いま念願かなって、「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」を脱稿することができました。
本来であれば、執筆にあたっては、可能な限り、一次資料となるモリスとその友人たちが書いている著述物、書簡、そして手稿、加えて、仲間とともに製作したモリスの多くの作品群に目を通すために、また、二次資料についても、できる限り広い範囲にわたって精読を進めるために、所蔵する博物館や美術館、さらには図書館や資料館といった関係施設へ足を運ばなければなりませんでした。しかし、大学人としての現役生活をすでに終え、いまや山中で隠棲する一研究者の身には、英国での現地調査は、事情が許しませんでした。それでも、トプシーとジェイニーの夫婦の物語を書いてみたいという思いは捨て去ることはできず、その後の整理や売却から免れたり、神戸大学附属図書館から借り出されたままになっていたりと、幸いにしていまだ私の書棚に残る、モリス関連の以下のような資料を手掛かりに、相互に照合しながら、より信頼性の高い記述に従って、その物語を書くことにしました。そこで、執筆に際して手もとに置いて参照した書目をここにまとめておきたいと思います。なお、原著データのあとに括弧書きで、その翻訳書のデータを挙げていますが、これもあくまで書棚に確認できるもののみであり、未所有ながらも、実際には翻訳されているものが、まだいくらかあるのではないかと想像します。そのようなわけで、以下のリストは、ウィリアム・モリスにかかわる現時点での書誌というものではなく、あくまでも、私が本稿執筆に際して参考にした個人所有の書籍の目録(参考蔵書目録)です。この点につきまして、あらかじめ、ご了解いただきたいと思います。
001. 「モリスに關する参考書」、加田哲二『ウヰリアム・モリス――藝術的社會思想家としての生涯と思想』岩波書店、1924年、375-382頁。
002. 東京ヰリアム・モリス研究會編『モリス書誌』(ヰリアム・モリス誕生百年祭記念文獻繪畫展覧會目録)丸善、1934年。なお展覧会は、1934年4月24日から5月3日まで、同研究會によって東京日本橋の丸善で開催。
003. 富田文雄編「日本モリス文獻目録」、モリス生誕百年記念協會編『モリス記念論集』川瀬日進堂、1934年、207-238頁。
004. 「参考文献」、小野二郎『ウィリアム・モリス――ラディカル・デザインの思想』中公新書、1973年、196-215頁。
005. 牧野和春、品川力(補遺)「日本におけるウィリアム・モリスの文献」、『みすず』第18巻第11号、みすず書房、1976年,33-42頁。
006. David Latham and Sheila Latham, An Annotated Critical Bibliography of William Morris, Harvester Wheatsheaf, London and St. Martin’s Press, New York, 1991.
007. 兼松誠一編『日本におけるウィリアム・モリス文献』(非売品)、1997年(名古屋市鶴舞中央図書館所蔵)。
008. The Victoria and Albert Museum: A Bibliography and Exhibition Chronology, 1852-1996, Compiled by Elizabeth Lames, Fitzroy Dearborn Publishers, London and Chicago, 1998.
009. 「ラファエル前派とその時代」展(大丸ミュージアム・梅田)、1985年。
010. 「ウィリアム・モリス」展(伊勢丹美術館、大丸ミュージアム)、1989年。
011. May Morris 1862-1938, William Morris Gallery, London, 1989.
012. 「ロセッティ」展(Bunkamura ザ・ミュージアム、愛知県美術館、石橋財団石橋美術館)、1990-91年。
013. 「ケルムスコット・プレス創設100周年記念 ウィリアム・モリス」展(丸善)、1991年。
014. Japan and Britain: An Aesthetic Dialogue 1850-1930, Lund Humphries, London, 1991.
015. 「Japanと英吉利西――日英美術の交流1850-1930年」展、世田谷美術館、1992年。
016. 「ヴィクトリア朝の栄光――繁栄の時代の英国の生活文化」展(神戸・阪急ミュージアム、京都市美術館、大丸ミュージアム・東京、福岡市博物館)、1992-93年。
017. Vision of Love and Life: Pre-Raphaelite Art from Birmingham Collection, England, Art Services International, 1995.
018. Linda Parry ed., William Morris, Philip Wilson Publishers, London, 1996.
019. William Morris Revisited Questioning the Legacy, Whitworth Art Gallery, Crafts Council, Birmingham Museum and Art Gallery and Authors, 1996.
020. 「ヴィクトリア朝挿絵本とウィリアム・モリス」展(大阪芸術大学)、1996年。
021. 「ウィリアム・モリス」展(京都国立近代美術館、東京国立近代美術館、愛知県美術館)、1997年。
022. 「自然の美・生活の美――ジョン・ラスキンと近代日本」展(ラスキン・ギャラリー[シェフィールド]、郡山市立美術館、神奈川県立近代美術館)、1997年。
023. Design & the Decorative Arts: Britain 1500-1900, V&A Publications, London, 2001.
024. Diane Waggoner ed., ‘The Beauty of Life’: William Morris and the Art of Design, Thames & Hudson, London, 2003.
025. 「マッキントッシュとグラスゴー・スタイル」展(サントリーミュージアム[天保山]、伊勢丹美術館、三重県立美術館)、2000年。
026. 「理想の書物――W・モリスのケルムスコット・プレス」展(福岡大学図書館)2002年。
027. 「ヴィクトリア・ヌード――19世紀英国のモラルと芸術」展(神戸市立美術館、東京藝術大学大学美術館)2003年。
028. 「ウィリアム・モリスとアーツ&クラフツ」展(大丸ミュージアム・梅田、大丸ミュージアム・東京)、2004年。
029. 「ウィリアム・モリス」展(群馬県立館林美術館、美術館「えき」KYOTO、呉市立美術館)、2006年。
030. Karen Livingstone and Linda Parry ed., International Arts and Crafts, V&A Publications, London, 2005.
031. 「生活と芸術――アーツ&クラフツ」展(京都国立近代美術館、東京都美術館、愛知県美術館)、2008-09年。
032. A Note by William Morris, on his Aims in Founding the Kelmscott Press, reprinted MCMLXIX by Photolithography in the Republic of Ireland at the Irish University Press.
033. May Morris ed., The Collected Works of William Morris, 24 vols. Longmans, London, 1910-15, reprinted by Routledge/Thoemmes Press, London and Kinokuniya Co., Tokyo in 1992.
034. Three Works by William Morris, Lawrence & Wishart, London, 1968, fifth printing in 1986.
035. William Morris, The Beauty of Life: An Address Delivered at the Town Hall, Birmingham, in 1880, Brentham Press, London, 1974.
036. A Book of Verse: A Facsimile of the Manuscript Written in 1870 by William Morris, Scolar Press, London, 1980, paperback edition 1982.
037. William S. Peterson ed., William Morris, The Ideal Book: Essays and Lectures on the Arts of the Book, University of California Press, Berkeley, 1982.[ピータースン『理想の書物』川端康雄訳、晶文社、1992年]
038. The Novel on Blue Paper by William Morris, edited and introduced by Penelope Fitzgerald, Journeyman Press, London and New York, 1982.
039. William Morris’s Socialist Diary, edited and annotated by Florence Boos, Journeyman Press, London and New York, 1985.
040. The William Morris Kelmscott Chaucer: A Facsimile of the 1896 Edition, with 87 Original Illustrations by Edward Burne-Jones, Omega Books, Hertfordshire, 1985.
041. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984.
042. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part A] 1881-1884, Princeton University Press, Princeton, 1987.
043. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987.
044. Gillian Naylor ed., William Morris by Himself: Designs and Writings, Macdonald & Co (publishers), London & Sydney, 1988.[ネイラー編『ウィリアム・モリス』多田稔監修、ウィリアム・モリス研究会訳、講談社、1990年]
045. Peter Faulkner ed., William Morris: Selected Poems, Carcanet Press Limited, Manchester, 1992.
046. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME III 1889-1892, Princeton University Press, Princeton, 1996.
047. Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME IV 1893-1896, Princeton University Press, Princeton, 1996.
048. ウィリアム・モリス「民衆の芸術」ほか[『民衆の芸術』中橋一夫訳、岩波書店、1953年に所収]
049. ウィリアム・モリス「ユートピアだより」[『ユートピアだより』松村達雄訳、岩波書店、1968年]
050. ウィリアム・モリス「装飾芸術」ほか[『民衆のための芸術教育』内藤史朗訳、明治図書出版、1971年に所収]
051. ウィリアム・モリス「ジョン・ボールの夢」ほか[『ジョン・ボールの夢』生地竹郎訳、未来社、1973年に所収]
052. ウィリアム・モリス「ユートピアだより」[五島茂責任編集『ラスキン モリス』中央公論社、1979年に所収]
053. ウィリアム・モリス「世界のかなたの森」[『世界のかなたの森』(文学のおくりもの14)、小野二郎訳、晶文社、1979年]
054. Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
055. J. W. Mackail, The Life of William Morris, volume I and Ⅱ, Longmans, Green and Co., London, 1899.
056. Mrs. Townshend [Emily Caroline Gibson], William Morris and the Communist Ideal, Fabian Society, London, 1912.[タウンセェンド夫人『ウヰリアム・モリス評傳』(新生會叢書第七篇)加田哲二訳、下出書店、1921年]
057. Arthur Compton-Richett, William Morris: Poet, Craftsman, Social Reformer, A Study in Personality, E. P. Dutton and Company, New York, MCMXIII (1913).
058. 加田哲二『ウヰリアム・モリス――藝術的社會思想家としての生涯と思想』岩波書店、1924年。
059. E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955, reprinted by Pantheon Books, New York in 1976.
060. Philip Henderson, William Morris: His Life, Work, and Friends, Thames and Hudson, London, 1967.[ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、1990年]
061. 小野二郎『ウィリアム・モリス――ラディカル・デザインの思想』中公新書、1973年。
062. Jack Lindsay, William Morris: His Life and Work, Constable, London, 1975, reprinted by Taplinger Publishing Company, New York in 1979.
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066. Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994.
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068. 大熊信行『社會思想家としてのラスキンとモリス』新潮社、1927年。
069. モリス生誕百年記念協會編『モリス記念論集』川瀬日進堂、1934年。
070. Ray Watkinson, William Morris as Designer, Studio Vista, London, 1967. [ワトキンソン『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』羽生正気・羽生清訳、美術出版社、1985年]
071. Richard Tames, William Morris: An Illustrated Life of William Morris, 1834-1896, Shire Publications Ltd, Bucks, 1972.
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074. Stephen Coleman and Paddy O’Sullivan ed., William Morris & News from Nowhere: A Vision for Our Time, Green Books, Devon, 1990.
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083. Lionel Lambourne, Utopian Craftsmen: The Arts and Crafts Movement from the Cotswolds to Chicago, Astragal Books, London, 1980.[ラバーン『ユートピアン・クラフツマン――イギリス工芸運動の人々』小野悦子訳、晶文社、1985年]
084. Jon Catleugh, William De Morgan: Tiles, Richard Dennis, Shepton Beauchamp, Somerset, 1983, reprinted in paperback in 1991.
085. Peter Stansky, Redesigning the World: William Morris, the 1880s, and the Arts and Crafts, Princeton University Press, New Jersey, 1985.
086. Steven Adams, The Arts and Crafts Movement, Quintet Publishing Limited, London, 1987. [アダムス『アーツ・アンド・クラフツ――ウィリアム・モリス以降の工芸美術』野中邦子訳、美術出版社、1989年]
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088. Mary Greensted, The Arts and Crafts Movement in the Cotswolds, Alan Sutton, Gloucestershire, 1993.
089. 岡田隆彦『ラファエル前派――美しき〈宿命の女〉たち』美術公論社、1984年。
090. Jan Marsh, Pre-Raphaelite Sisterhood, Quartet Books, London, 1985.[マーシュ『ラファエル前派の女たち』蛭川久康訳、平凡社、1997年]
091. Jan Marsh, Pre-Raphaelite Women: Images of Femininity in Pre-Raphaelite Art, George Weidenfeld and Nicolson, London, 1987.[マーシュ『ラファエル前派画集「女」』川村錠一郎訳、リブロポート、1990年]
092. Steven Adams, The Art of the Pre-Raphaelites, Quintet Publishing Limited, London, 1988. [アダムズ『ラファエル前派の画家たち』高宮利行訳、リブロポート、1989年]
093. Mary Bennett, Artists of the Pre-Raphaelite Circle, Catalogue of Works in the Walker Art Gallery, Lady Lever Gallery and Sudley Art Gallery, Lund Humphries, London, 1988.
094. Virginia Surtees, Rossetti’s Portraits of Elizabeth Siddal, A Catalogue of the Drawings and Watercolours, Scola Press, Hants, 1991.
095. Jon Whiteley, Oxford and the Pre-Raphaetites, Ashmolean Museum, Oxford, 1989, reprinted 1993.
096. Teresa Newman and Ray Watkinson, Ford Madox Brown and the Pre-Raphaelite Circle, Chatto & Windus, London, 1991.
097. Jan Marsh, Dante Gabriel Rossetti: Painter and Poet, Weidenfeld and Nicolson, London, 1999.
098. A. W. N. Pugin, Contrasts, Leicester University Press, 1973, first published in 1836.
099. A. Welby Pugin, The True Principles of Pointed or Christian Architecture, Academy Editions, London, 1973, first published in 1841.
100. The Seven Lamps of Architecture by John Ruskin (1849), Farrar, Straus and Giroux, New York, Tenth printing, 1986.
101. John Ruskin, The Stones of Venice (1851-53), edited and introduced by Jan Morris, Faber and Faber, London, 1981.
102. Lewis Foreman Day, Every-Day Art: Short Essays on the Arts not Fine, Garland Publishing, New York & London, 1977, first published in 1882.
103. John Sedding, Art and Handicraft, Garland Publishing, New York & London, 1977, first published in 1893.
104. Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900.
105. Hermann Muthesius, The English House, translated by Janet Seligman, BSP Professional Books, Oxford, London and Edinburgh, 1987, first published as Das englische Haus, Wasmuth, Berlin, in 1904, 1905 (3 volumes).
106. W. R. Lethaby, Architecture, Williams & Norgate, London, 1911.
107. W. R. Lethaby, Philip Webb and his Work, Oxford University Press, London, 1935, first appeared as a series of articles in The Builder in 1925.
108. Morris as I knew him by Bernard Shaw, William Morris Society, London, 1966.
109. Godfrey Rubens, W. R. Lethaby: His Life and Work 1857-1931, The Architectural Press, London, 1986.
110. Nicholas Penny, Ruskin’s Drawings in the Ashmolean Museum, Phaidon・Cristie’s Limited, Oxford, 1989.
111. Morna Daniels, Victorian Book Illustration, The British Library, London, 1988.
112. Noël Riley, Victorian Design: Source Book, Phaidon, Oxford, 1989.
113. 高橋裕子・高橋達史『ヴィクトリア朝万華鏡』新潮社、1993年。
114. Lionel Lamboune, Victorian Painting, Phaidon, London, 1999.
115. John M. MacKenzie ed., The Victorian Vision: Inventing New Britain, V&A Publications, London, 2001.
116. Suzanne Fagence Cooper, The Victorian Woman, V&A Publications, London, 2001.
117. Paul Atterbury and Suzanne Fagence Cooper, Victorians at Home and Abroad, V&A Publications, London, 2001.
118. 谷田博幸『ヴィクトリア朝百貨事典』河出書房新社、2001年。
119. Peter Funnell and Jan Marsh, A Guide to Victorian & Edwardian Portraits, National Portrait Gallery Publications, London, 2011.
120. 岡田隆彦(編著)『アールヌーボーの源流――ウィリアム・モリスとその仲間たち』岩崎美術社、1978年。
121. 山本正三『ウィリアム・モリスのこと』相模書房、1980年。
122. Wilfrid Scawen Blunt and The Morrises, by Peter Faulkner, William Morris Society, 1981.
123. ピーター・スタンスキー『ウィリアム・モリス』草光俊雄訳、雄松堂出版、1989年。
124. ジャック・ド・ラングラード『D・G・ロセッティ』山崎庸一郎・中条省平訳、みすず書房、1990年。
125. ペギー・ヴァンス『ウィリアム・モリスの壁紙のデザイン』海野弘訳・監修、千毯社、1990年。
126. クリスティーン・ポールソン『ウィリアム・モリス――アーツ・アンド・クラフツ運動創始者の全記録』小野悦子訳、美術出版社、1992年。
127. 『ウィリアム・モリスのデザイン』(ノーラ・C・ギロー「序」)海野弘訳・監修、千毯社、1990年。
128. べス・ラッセル『ヴィクトリアン花刺繍――ウィリアム・モリスの世界』山梨幹子訳、文化出版局、1994年。
129. クリス・ブリックス『ゴシック・リヴァイヴァル』鈴木博之・豊口真衣子訳、岩波書店、2003年。
以上が、本稿の執筆に際し、手もとにあって私が参考にしたモリス関連の個人所蔵の資料の一覧(参考蔵書目録)です。ご覧のように、著訳者や関係機関、ならびに友人たちから贈られてきた数点を別にすれば、執筆を思い立った一九九六年以降、関連資料の収集や購入が事実上ストップしています。といいますのも、そのときただちに執筆に着手できていればよかったのですが、すでに述べていますように、偶然のきっかけから、それ以降の私の関心は富本憲吉と富本一枝の研究へと向かい、モリス研究からは少し遠ざかったかたちになっていたからです。そのような経緯があって、今回の執筆に当たっては、最近の研究成果については、残念ながら、ほとんど参照する機会をもつことはありませんでした。しかしその一方で、一九八七年にウィリアム・モリス協会の会員になって以来送付を受けています研究雑誌や会誌につきましては、執筆に際して適宜参照することができ、そのことは幸いでした。近年にあっては、この協会によって、『ウィリアム・モリス研究雑誌』が年四回、『会誌』が年三回発行されています。
「序章」においてすでに述べていますように、本稿においては、注釈や出典などの表示を省略させていただいております。といいますのも、多くの読者のみなさまにとりましては、注や出典の表記は、わずらわしいものになることが十分に予想されたからです。しかし、専門家の方にとりましては、それは重要な要素であり、それが記載されていないことに対して不満を向けられるかもしれません。そこで、できる限り本文のなかにおきまして、引用文献や参照資料等につきまして明示するようにいたしました。モリスの生涯について関心をもち、その一歩を踏み出された研究者であれば、私がどの文献を信用し、そのどの部分から引用しているのかは、すぐにも、手に取るようにおわかりになるものと思われます。また、本文におきまして私が記述や引用に用いた文は、すべて英文資料を自ら訳した日本語によって構成されています。もし不適切な翻訳があれば、それはすべて私の責任に帰されるものであります。私は、本稿を、語りの調子を重視して、話し言葉で記述しました。そのことも、注や出典を省略させていただいた要因になっています。正直に申し上げますと、私は、モリスの長編の物語詩に倣って、トプシーとジェイニーという一組の男女を主人公とする一編のロマンスを書いてみたかったのです。もちろん、叙述内容は架空の話ではなく、当然ながら、記述に当たっては、すべてしかるべき歴史的資料に根拠を置いています。みなさまには、成功しているかどうかは別にして、本稿がそのような産物として生み出されたことをご理解いただければ、とてもありがたく思います。
次に、本稿に掲載されるべき図版につきましても、ここで少し説明しておきたいと思います。視覚資料は、文字による記述以上に、多くの場合、雄弁で的確な情報を提供します。したがいまして、本稿に対しましても、当然ながら図版を掲載することを考えました。しかし、その一方で、次の著作集7『日本のウィリアム・モリス』におきましても、モリスを論じることが予定されており、さらには、各巻の小さな箇所においてもすでにモリスを扱っていたり、今後扱うことも十分に予想されたりし、そうした状況であるのであれば、論稿ごとに関係する図版を小さく個別にまとめてゆくよりも、むしろウィリアム・モリスに関連するすべての画像を一括して整理し、テーマごとにまとめて掲載した方が、読者のみなさまの便益にかなうのではないかと考えました。そうした思いから編集されたものが、著作集7『日本のウィリアム・モリス』の第三部「画像のなかのウィリアム・モリス」です。版権フリーの限定されたもののなかからの複製ですので、枚数に限りがあったり、テーマによって偏りがあったり、さらには、古い資料からの再利用になりますので、画質が悪いものも多くみられます。それでも、古いがゆえにモリスの時代の臨場感や雰囲気を直接的に表現しているものも多く含まれており、また、テーマごとにまとめていますので、独立したモリスの作品集のような性格も有しており、それなりに楽しんでいただけるのではないかと想像しています。巻をまたぎますので、ご不便をおかけするかもしれませんが、ご活用いただければありがたいですし、できれば今後も、随時補強し、充実させてゆきたいと考えています。いずれにいたしましても、参考蔵書目録の特別な成り立ちに加えまして、視覚資料の作成にかかわる特殊な事情につきましても、読者のみなさまにご理解をいただければ幸いに思います。
本来であれば、ここで謝辞を書かなければなりません。しかし、書き始めましたが、少し長くなることがわかりました。そこで、本稿「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」の謝辞として、著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』の第三部「わが学究人生を顧みて」の第四編「遥かなる英国の仲間たちへの謝辞」を改めて書き起こしました。こちらも巻をまたぐことになりますが、ご高覧いただければ、ありがたく存じます。
それでは、万感の思いを込めて、「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」をここに擱筆します。最後までおつきあいいただきましたお一人おひとりに心からのお礼を申し上げます。ありがとうございました。
(二〇二一年一二月)