中山修一著作集

著作集14 外輪山春雷秋月

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『著作集14』PDFダウンロード (9.5MB)  更新日:2025年2月11日

はじめに――著作集14の公開に際して

二〇一三(平成二五)年の三月末日をもって私は、神戸大学を定年退職し、それ以降、南阿蘇(南郷谷)の小庵に蟄居し、執筆活動に専念することを決意しました。神戸大学在職中は、学術論文の執筆や講演活動などが研究上の主要な柱となっていましたが、定年後は、それに加えて、詩歌や小説、随筆などの創作表現のみならず、わが熊本の郷土人の紹介にも積極的に関心を拡げ、取り組んでまいりました。

ここに公開する著作集14『外輪山春雷秋月』は、副題に示していますように、高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子といった火の国の女が、青鞜の女たち、とりわけ平塚らいてうと富本一枝と、どのような友愛を織りなしてきたのかを描いた、いわば「肥後烈女伝」ということになります。

もともと私は、著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』の第二部「わが肥後偉人点描」におきまして、高群逸枝と蔵原惟人をそれぞれに取り上げる予定にしていました。といいますのも、高群は熊本県の生まれであり、同じく蔵原の両親が熊本県出身であり、他方で、高群が女性史研究の道に進む際に発足した著作後援会に富本一枝が加わっていたことを、そしてまた、プロレタリア文化運動の中心的存在であった蔵原が官憲から追われているところをかくまったのが富本憲吉・一枝夫妻だったことを、これまでの自身の研究から気づいていたからです。しかし、実際に書くために資料を読み始めてゆきますと、高群は、富本一枝以上に青鞜の女であった平塚らいてうと深い交わりがあったことがわかってきました。すでにそのときまでに、「わが肥後偉人点描」において中村汀女と石牟礼道子を取り上げていましたので、あっという間に、私の脳裏にあって高群逸枝、中村汀女、そして石牟礼道子の三人の肥後人が、青鞜の平塚らいてうと富本一枝とに結び付き、この五人の女性たちのあいだには、百年余にわたって歴史的連珠が展開され、何か強い友愛のようなものがそこに横たわっていたのではないかという直感が、迫ってきました。それであれば、高群と藏原を単独で取り上げるよりも、火の国の女たちと青鞜の女たちとが繰り広げる絵錦のなかにふたりを配した方が、よりその存在の意味が鮮明化するにちがいないと思い立ち、この「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」が構想されてゆきました。

しかし私は、女性史の専門家でも、近代文学や古代史を専攻する者でもありません。したがいまして、書くには自ずと限界があります。それでも書きたいと思ったのは、先達の郷土人のもつ激しい情念の一端を知りたかったからにほかなりません。火の国とは、ご存知のとおり、東に大阿蘇を、西に不知火海を抱く、肥後の国の別称です。私もいまこの阿蘇の地に隠れるようにして住み、文をつくっています。大事な記憶が遠ざかる前に、「火の国の女たち」を自分自身の手で書くことによって、阿蘇の噴煙や不知火の蜃気楼に似た彼女たちの熱い思いに直接触れてみたいと考えます。自分の手慰みに書いた素人の文ではありますが、ご興味をもっていただけるようでしたら、熊本にゆかりの方々、そして、女性史をはじめとする関連諸学の専門家の方々に、今後ご批評をちょうだいできれば幸いに思います。



二〇二四年四月二四日
陽春の阿蘇南郷谷の小さきわが庵にて
中山修一

目次

凡 例
一.本文中『 』は書名、雑誌名、新聞名を示し、「 」は論文や詩、記事等の表題を表わしている。また、強調すべき固有の事象についても「 」が用いられている。
一.本文中《 》は作品名を示し、〈 〉は建物の名称を表わしている。
一.本文中の【 】は図版の参照番号を指し示している。
一.引用文および引用語句内の[ ]は本著作集の著者による補足である。