晩年志村ふくみは、自著の『伝書 しむらのいろ』の巻末に掲載されている「結、しむらのいろ 三代をとおして」のなかで、一代目に相当する、実母の小野豊( とよ ) について、こう書いています。
大阪の商家に生まれ、夕陽丘女学校を卒業して、十九歳で医家に嫁ぎ五人の子供を産んだ母・豊は、女学校時代の友人富本(尾竹)一枝によって大きく運命が展開した1。
尾竹一枝の妹の福美もこの女学校に通っていました。そのときの福美の同級生に小野豊がいました。年の近い三人は、よく一緒になって遊びました。志村「ふくみ」の名は、一枝の妹の福美からとられているといいます。
志村の別のエッセイに、「母との出会い・織機( はた ) との出会い」と題された一文があり、そのなかで、実母の豊が、若き日に大和(奈良)の安堵村に一枝を訪ねていたことを紹介しています。
やがて三児の母となった或る日、阪急電車の中で、音信の絶えて久しい尾竹一枝さんにばったり出会った。その時は既に結婚され、富本憲吉夫人になっていたのであるが、偶然の再会を喜び合い、その時より終生の深い友情で結ばれることになった。母はいまも小筥に一枝夫人の手紙を大切にしまっているが、巻紙にあふれるような豊かな筆致で、率直すぎるほどに母を戒め、いたわり、なかには三メートルに及ぶほどの手紙もある。先日、それをみせてもらっていると、はからずも再会の日の手紙が出てきた2。
一枝からのその手紙には、こう記されていました。
あんまり突然でまだ嘘だったと思えるのです。私はうれしく思えます。このごろにないうれしさです。あなたは昔のようにいい方でした。善良さにあふれていました。……きのうはいい日でした。近い中に是非安堵村にいらして下さい3。
一枝は、女学校を卒業すると、しばらく絵の勉強をするも、一九一一(明治四四)年九月に平塚らいてうによって創刊された『青鞜』に魅了されると、さっそくその社員に加わり、退社したのちは、英国の地で、デザイナーで詩人にして社会主義者でもあったウィリアム・モリスの思想と実践を学び、帰朝したばかりの富本憲吉と結ばれ、翌年の一九一五(大正四)年三月に東京を離れ、夫の生地である安堵村に移ると、憲吉は製陶の道へ歩みはじめ、一方の一枝は、『婦人公論』や『婦人之友』などへの常連寄稿者として自らの活路を見出そうとしていたのでした。
阪急電車のなかでの最初の再会からしばらくして、豊のもとへ一枝からの電報が届きました。「カマヒラク アスコラレタシ」。志村は、そのときの母の様子をこう記します。
「見るもの見るもの新鮮で、美しいて、世界が違うてみえた」 貧乏しても、美しい物を創るために打ち込んでいる二人、夫が窯から出してきた壺を、宝物のように讃える夫人、明治から大正、昭和と、はじめて封建社会の厚い壁を突き破り、女性解放の実践に入った女性の吹き上げるような生活があった4。
豊は、安堵村での一枝の生活に、このように驚きました。そしてまた、次のように、目を見張りました。
「女かて、自分の思いを貫いて生きている人がいる」 母は心を揺さぶられて帰ってきた。その日から夫人の死に至るまで、五十余年、「富本さんから受けた恩は語りつくせるものではない」と常々語っている5。
豊と一枝が阪急電車の車内で偶然にも遭遇したときには、まだ、第四子であるふくみは生まれていません。ふくみが生まれるのは、一九二四(大正一三)年九月三〇日のこと。しかし、二歳のときにふくみは、実父母である小野元澄( もとずみ ) と豊の手から離れ、元澄の実弟で日本郵船会社に勤務する志村哲・日出( ひで ) 夫妻の養女に出されます。そして養父母に連れられて、東京吉祥寺に移り住むことになるのです。
一方、その出来事の前後にあって豊は、富本夫妻を通じて柳宗悦の知遇を得、民芸の世界に接することになります。民芸作家のなかに、青田( あおた ) 五良( ごろう ) という機織りをする青年がいました。ふくみは、「母との出会い・織機( はた ) との出会い」のなかで、さらにこう綴ります。
その頃、上賀茂の社家の一隅では、陶器、木工、金工、染織と新しい民芸運動がはじまっていた。その中に青田五良という青年がいて……青田さんは貧乏のどん底で、糸を紡ぎ、染め織り、体がボロボロになるまで苦闘して、遂に夭折してしまった。母が青田さんに織物を習ったのはその時期わずかであったが……「まだこの道は暗く、人のかよわぬ道だが、いずれは誰かが歩いてくるだろう。私はその踏台になる」といっていたという6。
豊は、本心から織物を続けたかったのでしょう。しかし、家庭婦人にはそれは限度を超える望みだったにちがいありません。断念しました。そして、納屋に機道具がそのままにして残されたのでした。
一九二六(大正一五)年の秋、富本憲吉一家も、安堵村から東京の祖師谷へと移住します。どういう経緯でふくみが、一枝の家を訪問したのかは定かでありませんが、訪れた時期は、文化学院に転入学することになる一九四〇(昭和一五)年の年が明けたころだったのではないかと思われます。ふくみは、一枝にはじめて会ったときのことを、こう回想します。
一、二月の寒い季節で、夫人は白磁の大壺に蠟梅を活けていられた。その頃、十七、八だった初対面の私をみるなり、「まあ、お母様そっくり」と声をあげられて、まず驚いたのは私だった。なぜなら夫人は、私の母にまだ一度も会ったことはなかったからである。夫人の知っている実の母がいるということまで、とっさに私は気づかなかったので、ぼんやりしている間に夫人はあわてて何やらまぎらわしてしまわれた。このことがあってはからずも私は自分の出生を知ることになったが、やはり夫人は私にとって、出会うべきわずかの貴重な存在の方であった7。
このときの訪問は、ふくみにとって、まさしく天地動乱に匹敵する、人生最大の過酷な事件であったにちがいありませんでした。
さらに後年、ふくみは、「富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする」展の図録に一文を寄稿し、そのなかで文化学院入学と一枝について触れ、このように述べることになります。
その頃、昭和十六年は大東亜戦争がはじまった年だった。午後三時、お茶の水駅に花が降るといわれたほど、文化学院の生徒はお洒落で華やかだった。……偶然にも私を文化学院に導いて下さったのは富本憲吉夫人の一枝さんだった8。
文化学院は一九二一(大正一〇)年に西村伊作によって開学された学校で、『我に益あり・西村伊作自伝』(紀元社、一九六〇年)に記述されているように、その学校は、決して権力に屈することのない真の自由と、それに基づく文化の創造を標榜していました。富本夫妻が、新宮の西村家をはじめて訪問したのは、一九一七(大正六)年のことで、それ以降も、一九三二(昭和七)年の座談会「今と昔の先端婦人」(『婦人画報』八月号)では、一枝は、伊作の娘の西村アヤと同席していますし、一九三五(昭和一〇)年の「家を嫌ふ娘を語る座談會」(『婦人公論』五月号)では、文化学院院長の伊作本人と直接言葉を交わしています。また、自分の娘の陽も、一枝は文化学院に入れていました。こうした西村伊作との親交の継続が背景にあって、当時長崎に住んでいたふくみの養父の漢口への転任に際して、日本に独り残すふくみの勉学の場について、おそらく豊に相談を受けた一枝は、長崎の活水女学校から東京の文化学院への転入学を斡旋したものと推測されます。文化学院の自由教育は、ふくみの感性を見事なまでに育みました。ふくみは、文化学院での生活をのちに顧みて、「ほんとに短い期間なのに、その一年が自分の生き方に強烈な影響を与えています」9と、鶴見和子に語っています。
しかしその一方で、一枝との最初の出会い以降、この間のふくみの胸中は、出生の不安で張り裂けんばかりの状態にありました。文化学院在学中の一九四一(昭和一六)年の正月、ふくみは、近江八幡の小野家で、はじめて元澄と豊が、自分の実の両親であることを知らされるのです。そしてそのとき、一台の織機がふくみの目に止まりました。これこそが、豊が安堵村で受けた感動の一条の糸が、さまざまな出来事に翻弄されながらも、その後、実の娘のふくみへと、しっかりとつなぎ渡されてゆく、まさにその端緒となる瞬間でもあったのでした。
戦争が終わり、志村は、一九四九(昭和二四)年に結婚し、洋子と潤子のふたりの子どもをもうけるも、結婚生活に悩みます。そのとき一枝は、ふくみにこう助言しました。
その後、私が家庭を捨てて、現在の織の道に入る時、自分の体験を通して、最も適切な助言をあたえて下さったのも一枝夫人であった。 「家庭を捨てるなら思い切って捨てよ。出たり、入ったりして、夫や子供に未練を残してはならない。あともふりむかずに仕事に没頭しなさい。私はそれが出来なかった。あなたはやりとおしなさいよ。本当に捨てたものは、また別の形で必ずかえって来る」と痛切な思いで言われた10。
志村は、夫と別れ、東京の養父母に二児を預けたまま、近江八幡の実家へ帰ります。そこから、志村の織物への道がはじまるのです。志村、三一歳の転機でした。そのときの気持ちを、後年志村はこのように書きます。
二歳の時、志村家の養女となった私は、三十代の頃、二人の子をかかえて生きて行かねばならぬ帰路に立った時、何を糧( かて ) にして生きてゆけばよいのかもわからず藁( わら ) をもすがる思いで織物をはじめた。無一文、機も糸も買うすべさえなく心ははやるもののすべてが一からの出発だった11。
そうしたふくみの心を支えたのが、実母の豊でした。しかし、「母は織物に対する智識はまことに幼稚で専門の技術などまったく知らなかったから暗中模索の日々であり、失敗の連続だった」12。それでも「母以外に師はなく、平織を植物染料からなる色彩だけを唯一たよりにして、前人のいない道を歩いていった。しかし私の中には柳宗悦著の、『工藝の道』が深く根づき一すじの道を指し示していた」13。
この道に入って三年が過ぎました。一九五八(昭和三三)年に、志村は、日本伝統工芸展に紬織着物《秋霞譜》を出品して、奨励賞を受賞しました。しかし、これが柳宗悦の逆鱗に触れることになるのです。
それが賞をとったでしょう。そしたら柳先生に呼ばれて、名前を出したって。そして伝統工芸展なんかで賞を受けるなんてとんでもない、これは「名なき仕事」を、なぜあなたは自分だけの名誉にしたのか、もう民芸から破門だと、私を14。
柳の工芸論は、無署名性(アノニマス・デザイン)にひたすら価値を見出し、作家の個性や独創性に重きを置くものではありませんでした。柳の見解は、次の一文にもよく表われています。
想うに個性の表現が藝術の目的の如く解され、個性美が最高の美の樣に想はれるのは個人主義の惰性による。……「俺達は個性があるのだ」などゝ高飛車に出ても、頼りないいひ草である。つまらぬ個性、奇態な個性、そんなものが如何にこの世には多いことか15。
こうして志村は、私淑する柳から「破門」を宣告され、途方に暮れるも、「個人作家」という、すでに胎内に宿した「近代的な自我」を捨て去ることもできず、自然と民芸から離れてゆくことになるのです。ちょうどそのころのことであろうと思われますが、一枝が柳邸を訪れています。柳は病床にありました。以下は、応対した妻の兼子の、そのときの記憶です。
柳が倒れたときに、偶然赤いバラの花を持って見舞いにいらっしゃったの、久し振りで、一人で。それで、柳がこれこれだと。そのとき柳は倒れちゃって何もわからなかったので、そのままお帰りになって16。
これが、単なる病気見舞いであったのか、それとも、ふくみが「破門」されたことを知った豊からの連絡を受けて、一枝がそれについての事情を聞くために柳に会いに行ったのか、それはいまとなっては確かめようがありませんが、いずれにしても、前途を失いかけたふくみを気遣う豊と一枝が、その陰にあって存在していたことは間違いなさそうです。
他方で、いっさいの模倣も骨董趣味も否定し、「模様より模様を造る可からず」を揺るぎない信念とする富本憲吉は、すでに柳とは対極の考えをもつようになっており、国画会を一度脱会した民芸派の人たちが、戦後ただちに復帰を計ろうとしたときは、富本は、民芸派の工芸観のみならず、その理不尽なる振る舞いにも耐えかねて、長年にわたって自分が産み育ててきた国画会工芸部を自ら出て、新たに新匠美術工芸会(のちに新匠会に改称)をつくるに至っていました。後年富本は次のように語ります。
民芸は他力本願の芸術を説くが、私は自力本願ですよ。梅原(龍三郎氏)を仲介に入れて柳(故宗悦氏)と一晩けんかをしたが、合うはずがない。それで国展を飛び出して戦後に新匠会を結成した17。
志村が、新匠会に出品するのは、この「破門」に先立つ一年前からでした。
志村の書いたもののなかに、「富本先生にいただいたことば」という題のエッセイがあります。以下はその挿話です。憲吉は、終戦の翌年に家族を残したまま独り祖師谷の家を出て、京都の地で作陶に励んでいました。
或る年の夏の終り……先生から一寸話したいことがあるから、京に出たついでに立寄ってほしいとの葉書をいただいた。 そんな事ははじめてであるし、私は何事であろうと、おそるおそる烏丸頭町の御宅に伺った。露地を曲ると、「富本」とかいた軒灯が見え、こじんまりした御住居は秋も間近い宵のせいか、しっとり水を打った前庭に、鈴虫が降るように啼き、香の薫りの漂っていたのを今も思い出す。 先生はくつろいだ夏衣の姿で入ってこられるなり、何の前ぶれもなし、こう話された。 「工芸の仕事をするものが陶器なら陶器、織物なら織物と、その事だけに一しんになればそれでよいが、必ずゆきづまりが来る。何でもいい、何か別のことを勉強しなさい。その事がいいたかった」18。
そして、憲吉は、続けてふくみにこう諭しました。
あなたは何が好きか。文学ならば、国文学でも仏文学でも何でもよい。勉強しなさい。私はこれから数学をやりたいと思っている。若い頃英国に留学した時、建築をやりたいと勉強したが、それが今大いに役立っていると思う19。
一瞬の出来事でした。志村はいいます。「私は全く予期していなかったせいか、あっと思い、いきなり心の中に何かを呑み込んだ感じであった。後で考えればまことに分かり切った事であるが、わざわざ私を呼んで『これが云いたかった。』と率直な口調で云われた事が、実に鮮明な印象としてのこった」20。
憲吉は、本格的な製陶の世界に入るに先立って、ウィリアム・モリスの例に倣い、さまざまな工芸の実践に手を染めています。織物の試作も、そのひとつでした。そのときのインスピレイションの源泉となったものは、存命中に父豊吉が残していた推古布と呼ばれる標本でした。
實は私の父が生存中に集めておいた二十種ばかりの推古ぎれと云ふ標本を持つて居ります、此れで見ると小さい一寸四方程のきれが語る當時の支那印度遠くは中央亞細亞の文明、それが長時間に美しくされた植物や礦物の染料、模樣の形式の面白み、私は或日獨り畫室に坐りこむで自分で織物を始めようと云ふ決心を此れを見て致しました21。
さっそく行動へと移されました。
先づ倉へ行つて曾祖母が使つたと云う最もプリミティーブな「手ばた」と云ふのに糸をのべて最初の試作をやりました、只今は研究中で何むとも申し上げられませむ、此の「手ばた」と云ふのはモー私の地方の百姓の手から亡むで仕舞つたもので、隨分器機の方から申せば馬鹿げたものです22。
バーナード・リーチとの出会いがなければ、憲吉は陶工ではなく、織工として身を立てていたかもしれなかったのです。おそらく本人たちの誰も気づかなかったでありましょうし、また、特段強調する必要もないのですが、実はここに、豊、ふくみ、洋子の三代にわたる織り姫たちの前に立って先導するかのような、憲吉の後ろ姿がありました。まさしくそれは、縁( えにし ) と呼ぶにふさわしい糸で織りなされた、いまも歴史のなかにあって密かに息づく人間模様なのです。
志村は、一枝の辛辣な作品評にも耳を傾け、他方、憲吉を自ら進んで師と仰ぎました。
織物の道に志した時、まず一枝さんに受けた助言は鮮烈で、厳しいものだった。その後、京都に住んでから唯一の師は富本憲吉だった。折にふれ先生の住所をたずね、作品をみていただいた。陶芸と染織の道はことなるが、私は富本憲吉の弟子だとかたく思っている23。
一九六三(昭和三八)年に憲吉が、続いて一九六六(昭和四一)年に一枝が、この世を去りました。これにより、染織家としての志村の揺籃期は終わり、成熟期へ向けて新たな旅につくことになります。「何でもいい、何か別のことを勉強しなさい」――この言葉は、憲吉からふくみへの遺言だったのかもしれません。その後ふくみは、日本の伝統色を研究し、ゲーテの色彩論を学び、独自の理論世界を展開しながら、究極の「しむらのいろ」へと到達してゆきます。一九八一(昭和五六)年には、娘の洋子も、ふくみを師として染織の道に入り、かくして「しむらのいろ 織女三代記」が幕を開け、その八年後には、都機工房を設立。そしてふくみは、あたかも師の受賞歴を追うかのように、一九九〇(平成二)年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、二〇一五(平成二七)年に文化勲章を受章するのでした。
述べてきましたように、志村ふくみの染織家としての原風景には、富本憲吉と一枝の存在が大きな位置を占めていました。志村の実父母が小野元澄と豊、そして養父母が志村哲と日出でした。そうすれば、志村にとっての憲吉と一枝は、製作するうえでの、あるいは生きるうえでの見習うべき手本としての第三の両親ということになるかもしれません。一枝は、青鞜の時代、よくも悪くも、「同性の恋」や「五色の酒」そして「吉原登楼」といった話題をさらって、「新しい女」の一面を社会に見せつけました。一方憲吉は、結婚に際して一枝に、「例へ法律とか概観で、そうでないにしても尾竹にも富本にも未だ属しない、ひとつの新しい家が出来るわけである。そう考へて居て貰ひたい」24と告げています。つまりそこには、良妻賢母思想の旧い生き方も、家父長的な旧い家制度も否定され、新しい女性の生き方や新しい家族のあり方が展望されているのです。工芸も美術も、同じくこの観点に立って、「視覚の制度」も「製作の制度」も、旧来の価値が刷新されなければならなかったのです。ここに、広くモダニズム(近代主義)の内実がありました。師の憲吉が、ウィリアム・モリスと尾形乾山(初代)をもって父と母としたように、志村の場合は、こうしたふたりを人生の父母としながら、大成の染織家へ向けて、その揺籃期を過ごしたのでした。
そうした原風景を揺籃期にもつ志村のもとに、そののち歳月が流れ、新作能「沖宮」の原作者である石牟礼道子から、天草四郎の能衣装に使う「みはなだ色(天青の色)」と、あやの能衣装に使う「緋の色(紅花の色)」の依頼が舞い込みました。果たして、どのような思いを込めて志村は、染め抜いてゆくことになるのでしょうか。石牟礼没後の二〇一八(平成三〇)年一〇月六日、水前寺成趣園能楽殿において「沖宮」はその初演を迎えます。この物語のハイライトは、島原・天草の乱で落命した総大将の天草四郎と、雨乞いの人柱となって沖へ流される幼子のあやの、このふたつの魂による、いのちたちの母である大妣君( おおははぎみ ) が住む海底の沖宮へと向かう道行きです。それにつきましては、第一五章「志村ふくみ監修の能衣装による石牟礼道子の『沖宮』初演」において詳述することにします。
(1)志村ふくみ『伝書 しむらのいろ』求龍堂、2012年、188頁。
(2)志村ふくみ「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』駸々堂、1980年、25-26頁。
(3)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、26頁。
(4)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、同頁。
(5)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、同頁。
(6)同「母との出会い・機織との出会い」、原ひろこ編『母たちの時代』、31-32頁。
(7)志村ふくみ『一色一生』求龍堂、1982年、197-198頁。
(8)志村ふくみ「香り高き芸術家――西村伊作と富本憲吉」『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』(展覧会図録、ルヴァン美術館)、2008年、3頁。
(9)志村ふくみ・鶴見和子『いのちを纏う 色・織・きものの思想』藤原書店、2006年、71頁。
(10)前掲『一色一生』、198頁。
(11)前掲『伝書 しむらのいろ』、189-190頁。
(12)同『伝書 しむらのいろ』、190頁。
(13)同『伝書 しむらのいろ』、191頁。
(14)前掲『いのちを纏う 色・織・きものの思想』、72頁。
(15)『柳宗悦全集』(第一四巻)筑摩書房、1982年、6頁。
(16)水尾比呂志『評伝柳宗悦』筑摩書房、2004年、588頁。
(17)「文化勲章の人々(5) 富本憲吉氏 つらぬく反骨精神」『朝日新聞』、1961年10月25日、9頁。
(18)志村ふくみ「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』美術出版社、1974年、229頁。
(19)同「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、同頁。
(20)同「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、同頁。
(21)富本憲吉「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、12頁。
(22)同「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』、12-13頁。
(23)前掲「香り高き芸術家――西村伊作と富本憲吉」『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』、同頁。
(24)山本茂雄「富本憲吉・青春の軌跡――出会い・求婚・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、75頁。