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更新日:2024年10月11日
はじめに――著作集4の公開に際して
ここに公開する著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』は、第二部として「家庭生活と晩年の離別」を扱い、次の三章によって構成されています。
第五章 安堵村での新しい生活
第六章 千歳村での生活の再生
第七章 離別とそれぞれの晩期
現役時代、英国デザインの歴史を学ぶにつれて、私は、一九世紀末にみられたあの田園回帰運動やアーツ・アンド・クラフツ運動に次第に強い関心をもつようになり、幸いにも一九九二(平成四)年の暮れに、阿蘇高森町の色見地区の牧野道を上った一区画に小さな山荘をもつことができました。ウィリアム・モリスの別荘〈ケルムスコット・マナー〉の単なる真似事にすぎないことは十分に承知しながらも、それ以降、春と夏の休みの一時期を家族とともにここで過ごし、自然に囲まれた生活を楽しむようになりました。そうするなか、二〇一三(平成二五)年三月に私は神戸大学を定年で退職し、その後の生活を、栄華の巷から距離を置いた阿蘇山中のこの山荘において過ごすことを決意しました。
しかしながら、事態は思ったように順調には進みませんでした。永住のために家や庭はどうにか整備ができたものの、それが終わるや、阿蘇中岳の噴火がはじまり、半年以上ものあいだ、降灰に苦しめられました。さらに、二〇一六(平成二八)年の四月一四日と一六日、突如として熊本を大きな地震が襲い、普段の生活が一変しました。続けて、それから一箇月も立たない五月一一日の未明、今度は激しい胸痛が襲い、緊急入院をすることになりました。心筋梗塞でした。冠動脈の一箇所にステントを留置し、幸い一命はとりとめましたが、退院後は、体力や気力にかかわる活動能力がこれまでの六、七割程度にまで低減し、超低速生活を強いられることになりました。何とか論文が執筆できる心身の状態が整ったのは、その年の紅葉の季節を迎えるころであったかと思います。それから一年と数箇月が立ち、どうにか著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』を脱稿することができました。この著作集4の第二部「家庭生活と晩年の離別」は、その前半部分に相当する、著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第一部「出会いから結婚まで」を引き継ぐものです。このようにしてこの家族のすべての物語は、定年退職をまたぎ、自然災害と病の困苦に耐えながら、やっといま阿蘇のこの地で完結することになりました。感慨深い著作物の誕生でした。
二〇一八年三月一五日
冬を越した阿蘇南郷谷の小さきわが庵にて
中山修一
目次
- はじめに――著作集4の公開に際して
- 第二部 家庭生活と晩年の離別
- 第五章 安堵村での新しい生活
一.家と窯の建設と陽の誕生、そして来訪者たち
二.西村邸滞在と富本憲吉氏夫妻陶器展覧會、そして陶の誕生
三.製陶と模様に苦闘する憲吉
四.リーチとの別れと新たな交友関係の展開
五.村での日常生活と訪問者たち、そして孤立
六.一枝の執筆活動と娘たちの教育
七.奈良女子高等師範学校の学生たちとの交流と安堵村生活の終焉 - 第六章 千歳村での生活の再生
一.陽と陶の成城学園転入、壮吉の誕生、そして新居の完成
二.国画会工芸部の新設、量産陶器への挑戦、そしてリーチとの交流
三.一枝のマルクス主義との出会いと執筆活動
四.地域での交流と一枝と陽の検挙
五.帝国美術院改組、色絵磁器研究、そして民芸派との対立
六.子どもの成長、そして一枝の文筆再開とセクシュアリティー
七.戦時体制のもとで - 第七章 離別とそれぞれの晩期
一.終戦と離別
二.離別後の憲吉の晩期
三.離別後の一枝の晩期
四.そして、ふたりの最期
- 第五章 安堵村での新しい生活
- 初出一覧
- 著者について
一.本文中『 』は書名、雑誌名、新聞名を示し、「 」は論文や詩、記事等の表題を表わしている。また、強調すべき固有の事象についても「 」が用いられている。
一.本文中《 》は作品名を示し、〈 〉は建物の名称を表わしている。
一.本文中の【 】は図版の参照番号を指し示している。
一.引用文および引用語句内の[ ]は本著作集の著者による補足である。