中山修一著作集

著作集4 富本憲吉と一枝の近代の家族(下)

第二部 家庭生活と晩年の離別

第七章 離別とそれぞれの晩期

一.終戦と離別

戦争が終わった。しかし憲吉は、すぐには東京へもどらなかった。「私の履歴書」に、憲吉はこう書いている。「昭和二十年八月、疎開先で終戦を迎えると、九月から学校が始まるので生徒や教官をみな東京へ帰したが、私だけは寒冷地における焼き物の研究を続けるために残った。陶磁器を寒冷地で焼くと、窯から取り出したとき水分が凍って膨張するためぼんぼん割れてしまう。その保温方法を試みるため九月から翌年の一月まで五ヵ月間残ったのである」。そして、そのときの様子をこう振り返る。

 冬はセーターをせんたくして外に干すと、日が照っていても、すぐにカチカチに凍ってしまい、手のつけられない寒さだった。だが、なによりも助かったのは、私一人になったため、比較的潤沢に食糧が回ってきたことである。
 飛騨の高山の十ヵ月間、いろいろ苦労はあったが、俗世間を忘れて清潔な孤独と青年のごとき純粋さを味わった貴重な期間でもあった

憲吉は、この寒冷地である飛騨高山に残留し、焼き物の試作をするとともに、これまでの自分を見つめ、今後の身の振り方を考えたものと思われる。「敗戦でどんでん返しになった世の中に、従来、帝国芸術院と称していたものがそのまま存続するのはおかしい」という考えから、「終戦の翌月、つまり九月に芸術院会員辞任の届けを提出した」。しかし、この辞意の申し出は、清水澄芸術院長に撤回させられてしまい、翌年(一九四六年)春に開催された戦後最初の日展の工芸部門の審査長を務めたのち、改めて「五月に再び私は芸術院へ辞表を出した。このときは、同時に美術学校(いまの芸大)の教授の辞表も出した」。こうして憲吉は、すべての公職から身を引いた。

一方、民芸派とのあいだにこれまで見られた確執については、晩年に、無形文化財の記録として文化庁が『色絵磁器〈富本憲吉〉』を編集するに際して、憲吉が口述し、内藤匠が筆録した「富本憲吉自伝」のなかにおいて、憲吉はこう語っている。刊行は、没後の一九六九(昭和四四)年。

国画会の工芸部には民芸の連中がいました。彼らは民芸こそ唯一のほんとの工芸だと主張(近頃では工芸の一部だと改変したようだが)しているが、民芸の連中のやってることは創造性が僅少で、平気で繰り返しをやってる。私から見れば民芸は熱心に集められた博物館だ。博物館のつもりで工芸品がつくられては困る――これは無形文化財の人々にも言いたいことです――と考えるのです。それでついに民芸の人々は国展から離れ、私共は止まって[一九四六年の]国展の二十周年を迎えた。ところが視野の狭い民芸展をやっても一般公募がついてこないことを知った彼らは、再び入会したいと梅原[龍三郎]君に運動した。梅原君から再三手紙が高山にきました。出てから十年も経って意見が緩和したからはいろうというならいいが、出ていって二年か三年でまたはいろうという。おかしな事だと私は断った。それでも民芸を入れたので、国展を私は出てしまった。私以外の会員で民芸でない人は皆出てしまった。かくして私は二十余年も育てた国展の工芸部と別れ、国展の工芸部も性格をまるで替えて、民芸の工芸部になってしまった

そして続けて、こう憲吉は語る。「かくて国画会も、芸術院も関係がなくなりました。また美術学校の方も辞表を出しておきましたのが大分たって聞き届けられました。そこで 六十一 ママ 歳の ママ 月に私はただ一人大和に向かい、子供の時から育った家に帰りました」。一方、「私の履歴書」のなかでは、憲吉は、この安堵村帰還について次のように書き記している。

私にしてみれば、二十年間の東京生活の間に、船腹の貝殻のようにまといついたすべての社会的覊絆や生活のしみを、敗戦を契機に一挙に洗い落としてしまいたかったのである。すでに郷里の大和へ一人で引き揚げる覚悟もついていた。私は陶淵明の帰去来の辞の詩文を胸中ひそかに口ずさみながら大和へ発った。……あれもこれも投げ捨てて、とにかく裸一貫で私は大和へ帰った。東京でなにものかに敗れたというような、みじめな思いはちりほどもない。耳順六十歳にして、私はむしろ軒昂たる意気込みだった。ロクロ一台、彩管一本をかたわらに私は新しい制作への意欲に燃えていたともいえよう

以上が、「私の履歴書」と「富本憲吉自伝」に書き残されている、東京を離れるに際しての憲吉の思いである。ここには、妻一枝のことは、いっさい出てこない。「東京でなにものかに敗れたというような、みじめな思いはちりほどもない」という語句のなかに、一枝にかかわる思いが表出している可能性はあるものの、それも確かではない。しかしながら、家族史の観点からすれば、夫婦の離別は特別に重要な意味をもつ。憲吉が高山から東京にもどった一九四六(昭和二一)年一月から、祖師谷の家から安堵村の実家に帰還する六月までの数箇月のあいだ、憲吉と一枝は、どのようなことを話し合ったのだろうか、とりわけ、憲吉が家を出なければならなかった理由は何だったのであろうか、それに対して一枝はどう応じたのであろうか――これらについて、残された資料は極めて限定的ではあるものの、ここで考察を加えなければならない。

一九六九(昭和四四)年九月の『婦人公論』(第五四巻第九号)に掲載された、女性史研究家の井手文子による「華麗なる余白・富本一枝の生涯」のなかに、以下のようなことが書かれてある。

 なぜ、憲吉は一枝のもとを去ったのであろう。その別離の理由を水沢澄夫はある日彼から聞いた。長くためらったのち、憲吉は「あの人はレスビアンだった」と言ったという

水沢澄夫は美術評論家であり、憲吉との交友は長いものの、一九五七(昭和三二)年一〇月の『三彩』(第九二号)に「富本憲吉模様選集」と題してその書評を寄稿しているので、憲吉からこのことを聞かされたとすれば、おそらくはこのころの時期だったのでないかと思われる。憲吉が語ったとされる「あの人はレスビアンだった」という言葉が表に出るまでには、水沢と井手というふたりもの人物が介在する。したがって、この言説が絶対的に正確かどうかについての確証は何もない。しかしながら、憲吉も一枝も、本人たちは直接何も語っておらず、この水沢と井手を経由した憲吉の言葉が、現段階にあって唯一、ふたりの離別の理由を知るうえでの手掛かりを与えているのである。

それでは、一枝がレズビアンであったかどうかを論じるに先立って、ここで改めて、自己のセクシュアリティー(あるいは、セクシュアル・アイデンティティー)にかかわる一枝の主たる言説を、時間軸に沿って拾い上げ、その変化の様子を確認しておきたいと思う。

まず、独身時代の一九一四(大正三)年の言説である。一枝、二一歳。

私にはちいさな時分から美しい女の人をみることが非常に心持のよいことで、また、大變に好きだつたのです。それで私の今迄の愛の對 ママ になつてゐた人のすべては悉く美しい女ばかりでした。私の愛する人、私の戀しいと思ふ人、そしてまた、私を愛してくれる人、戀してくれる人の皆もやつぱり女の人ばかりでした。
 ですから美しい綺麗な女の人と言へば私に有つてゐそうのないほど非常な注意と異常な見守り方をもつて來てゐました10

小さいときから自分の性的指向が美しい女に向かっていたことを、何ひとつ隠すことなく、率直に語っている。罪悪感に悩まされている様子も全くない。次の言説は、憲吉と結婚して二年と数箇月が立った、二三歳のときのものである。青鞜時代を振り返って一九一七(大正六)年に書かれている。

 評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと 悶躁 もが いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした11

このように、青鞜の社員であったころの自分について、「どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと 悶躁 もが いてゐた」と告白している。次の文も、上と同じく「結婚する前と結婚してから」からの引用である。

 彼と私は、思想に於いてまだまだ ひど く掛け離れてゐる。長い間語らずに怒り合ふ時もある。二人とも興奮しきつて沈黙つて大地をみてゐる時もある。もう別れてしまふやうな話までもち出す。……私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼を寂しく悲しくするか知れない12

憲吉との考えの隔たりがあることを認めたうえで、「単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ」と、自分を責める。注目すべきは、この段階で早くも、「別れてしまふやうな話」が、ふたりのあいだの会話に上っていることである。

次は、一九一九(大正八)年、一枝二六歳のときの言説である。

 久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。勿論、それを恥ぢた[こ]ともあつたし、強く責めて來た時もあつたが、とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた。それが「或る事」から、まるで考へが變つて仕舞つた。そしてどうにかしてそこに見つけた光りを、少しでも見失ひたくないと思つて、どれだけ一心に唯その光りに寄り縋つて來たろう。限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること、それが自分の探るべき一つのものであつた13

独身時代の久しいあいだ、自分が「不良心なもの」で「不徳義なもの」で「不道徳な人間」であったことを告白する。しかし、結婚という「或る事」をきっかけに、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること」に努めようとする。

次の言説は、東京に移転するにあたっての一九二七(昭和二)年の言説である。一枝は、三三歳になっていた。

さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた[。]その結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた14

しかしながら、「限りなく善くなること、限りなく正しい道を求めること」に向けられた努力も空しく終わったようで、「悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛の感情」が依然として残る。「どうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心」する。次は、同じ「東京に住む」に書かれてある、そのときの心情である。

 かつて若かつた頃、なにかにつけて心の轉移といふ言葉を使つたものであるが、まことの轉移といふものは、並大抵の力では出來るものではなく、身と心をかくまでも深く深く痛め悩まして、身をすてゝかゝつてはじめて出會ふものであり行へるものであることを沁染と知ることが出來た15

一枝は、若いときから「心の轉移」を企てようとするたびに、心身ともに痛め、苦しんだことを打ち明ける。そうしたなか、「神を見る心」の必要性を知る。次も、上と同じく「東京に住む」からの引用である。

 神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。
 こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた16

かくして、「新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた」。そこで、ここに帰依するために「小さい自我を捨てた」。

次は、東京へ移ってのちの、一枝四二歳のときの一九三六(昭和一一)年の座談会での発言である。

子供に對しては一生懸命で、自分の夫に對しても一生懸命で、それで濟めばいゝんですけど、その上自分に對しても一生懸命というやうな氣持ちがいつもついて廻つてゐる。これを捨てきらうと思つてどれだけ苦労してきたかわからないんですけど、どうしても殺しきれなくて……といって、それぢや他のものを少々削つたらよかろうと思ふんですけれども、それがさつき言つたやうにボタンが一つ除ててゐても自分の責任のやうに思ふと來てるもんですから今はもう首でも縊らなきや始末がつかないやうな氣持で……17

ここで注目しなければならないのは、「自分に對しても一生懸命というやうな氣持ち」を「捨てきらうと思つてどれだけ苦労してきたかわからない」。しかし、それを「殺しきれなくて……今はもう首でも縊らなきや始末がつかない」という発話の箇所であろう。

次は、その二年後の一九三八(昭和一三)年に発売された書籍のなかの「春と化粧」と題された随筆における一節である。このとき一枝には、すでに孫もでき、人生の熟年期に達していた。

 私は化粧を否みはしない。却つて化粧せぬことを嫌ひさへする。しかし、化粧といふものは、いよいよ美しくするためのものである。或ひはむしろ、缺點を覆ひ、美點を一層に補ふものだといふ方が、本當かも知れない。……
 私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである18

最後の「私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである」という一文を見る限りでは、一枝は、女性へと向かう自分の性的指向の違和感から解放されている。最初に紹介した独身時代の言説にもどった印象を受ける。性的指向というものは自由な意思によって変更や修正ができるものではなく、その観点に立てば、それに抗うことは意味をなさず、静かに自分の性的指向を受け入れるしか道はない――こうした思いにたどり着いたのであろうか。

以上が、独身時代から安堵村での生活を経て、東京でのこの時期までに一枝自身によって発話された、自己のセクシュアリティーについての大まかな流れである。これだけで、一枝のセクシュアリティーの総体を把握することはもちろんできないが、この限られた資料から少し浮かび上がってくる特性を指摘することができるとすれば、独身時代は、自身のセクシュアリティーを明るく語っているものの、結婚後、罪悪感に強く悩まされ、それでも東京への移住以降は、検挙までは、全くこれへの言及はなく、検挙後の発話には、罪悪意識が和らぎ、むしろ、開放的にさえなっているということであろう。

これは、時間軸に沿った一枝自身が同定する自己のセクシュアリティーについての変化である。他方、憲吉は「あの人はレスビアンだった」といったというが、果たして、上で紹介した言説から判断して、一枝のセクシュアリティーを「レズビアン」のカテゴリーに入れることは適切であろうか。性自認(ジェンダー・アイデンティティー)にかかわって、一枝が、自分の心の性を「女」として認識していれば、女性へ向かう性的指向から見て、確かに「女性同性愛者(レズビアン)」の範疇に入れることが可能であろう。しかし、もし一枝が、自分の心の性を「男」として認識していれば、つまりFTM (female to male) の「トランスジェンダー」であったとすれば、たとえ女性を愛したとしても、その愛は同性愛とはならずに、異性愛となるであろう。その場合には、憲吉に向けられた愛が、憲吉の認識は別にして、同性愛的なものとなる。あるいは、一枝の性的指向が、女性と、男性である憲吉との双方に向けられていたと理解すれば、「両性愛者(バイセクシュアル)」ということになり、一枝のセクシュアリティーの曖昧さは、さらに複雑化する。そのため、一枝自身、自分のセクシュアリティーをはっきりと決めかねていた可能性もあり、その場合は「クウェスチョニング」の状況にあったということになるのではないだろうか。

上で紹介した一枝の一連の言説に、トランスジェンダーであったことを明確に示すものは見当たらないが、性別表現のなかの服装に着目すれば、一枝は生涯和装で過ごし、とくに独身時代は、男性と見まがうようなマントや袴を着用し、その後も好んで、男物と思われる帯や下駄を使用した。雅号については、どうだろうか。青鞜時代の一枝は、「 紅吉 こうきち 」の二文字を使った。後年一枝は、「あれはやはり私の小さい時から持っているその気分から出たものです」19と語っている。「紅」が女を、「吉」が男を表象しているとすれば、身体の性が女で、心の性が男であることを、無意識のうちに、あるいは意識的に、言い表わしていたのかもしれない。結婚してから離別するまで、「紅吉」の雅号は使われていないが、離別後の最晩年、一枝は「紅」の一文字を使っている。これは、心の性である「男」を切り捨て、身体の性である「女」に回帰したいという願望の表われなのであろうか。たとえ、服装や雅号に、そうした男性的な表現傾向を思わせる要素があったにしても、あるいは、すでに著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』で言及しているように、青鞜時代に吉原に登楼したとき、相方を勤めた美しい花魁に接し、身請けしたいという気持ちになったことがあったとしても、確かに可能性は高いものの、それだけをもって、一枝がFTM (female to male) の「トランスジェンダー」であると同定することは必ずしもできないであろう。このように、本人による明確な「カミング・アウト」がなされていない以上、一枝を「女性同性愛者(レズビアン)」「トランスジェンダー」「両性愛者(バイセクシュアル)」の、どれかひとつのカテゴリーに入れて理解することには、多くの困難が伴うのである。一枝の場合には、はっきりとした境界線を引くことができないところに、そのセクシュアリティーのもつ特質があり、無理にひとつのカテゴリーの枠にはめ込むよりは、そのことをそのまま受け入れることの方が、さらに妥当性は増すように思われる。また、さらなる特質を挙げるとすれば、一枝の性的指向が、何か際立った能力をもつ美しい女性に向かっていたということ、つまりは、性的指向の基準となるものが「才能」と「美」であったということ、そして、それに加えて、生涯をとおして見た場合、対象者が、限定された特定のひとりやふたりではなく、多人数にわたっていたということであろう。

それでは次に、他者の視線という観点から一枝のセクシュアリティーを見てみたいと思う。一枝には、「青鞜の女」ないしは「新しい女」であったというラベリングが、その後に至るまでついてまわる。そしてそのラベルには、「らいてうとの同性の恋」という意味が含まれていたり、あるいは、酒を飲み、吉原に登楼する「男の行動様式をもつ女」という意味が重ね合わされていたりする。そのような視線から一枝を見る人にとっては、一枝は驚きの対象であり、さらには侮蔑の対象とも化す。二、三の事例をここに紹介しておきたい。

井上美子は、成城学園での陽の同級生である。美子は、陽の母親である一枝が、かつての「青鞜の女」であることを知る。そのときの驚きをこう記す。

 そのころは子供で何も知らず、ただ陽ちゃんたちの愉快なおかあさんとのみ思っていたが、この方こそ、明治時代、平塚らいてうさんの『青鞜』に身を投じ、尾竹紅吉と号して男装し、らいてう女史に心酔して青鞜同人の中に波紋を巻き起こした有名な女性だったのだ。青鞜の新しき女性たちの吉原見学、青や紅の五色の酒の話題がジャーナリズムに騒がれたのもこの方の先走りが元であったとか20

紅吉は、宮本百合子の小説「二つの庭」にも、姿を現わす。モデルとなっているのは、伸子が宮本本人であり、素子が共同生活者であった湯浅芳子であろう。この小説のなかで伸子は、紅吉のセクシュアリティーに驚く。しかしこの驚きは、現実世界においては宮本が湯浅から受けた驚きでもあったにちがいない。

 伸子とは二つ三つしか年上でない素子の二十前後の時代は「青鞜」の末期であった。女子大学の生徒だの、文学愛好の若い女のひとたちの間に、マントを着てセルの袴をはく風俗がはやった。とともに煙草をのんだり酒をのんだりすることに女性の解放を示そうとした気風があった。二つ三つのちがいではあったが、そのころまだ少女期にいた伸子は、おどろきに目を大きくして、男のように吉という字のつくペンネームで有名であった「青鞜」の仲間の一人の、セルの袴にマントを羽織った背の高い姿を眺めた。その女のひとは、小石川のある電車の終点にたっていた21

さらにもうひとつ、これは柳宗悦の妻の兼子の言説である。

 これは内輪の話ですけれど、富本さんは奥さんと仲があまりよくなくなっちゃって、お別れになったでしょう。奥さんは、柳と富本さんがあまりよくなかったことを大変気にしていらしたらしくて、柳が倒れたときに、偶然赤いバラの花を持って見舞いにいらっしゃったの、久し振りで、一人で。それで、柳がこれこれだと。そのとき柳は倒れちゃって何もわからなかったので、そのままお帰りになって。奥さんはとてもいい方でしたね。ただ、ちょっと変わっていらっしゃる方でしたね。『青鞜』なんぞに入っていらしたくらいだから22

ここでは、「変わっていらっしゃる方」と「『青鞜』なんぞに入っていらした」こととが、分かちがたく結びついている。これが当時の一枝に向けられた一般的なまなざしだったのかもしれない。

それでは、その青鞜である。著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第四章「憲吉と一枝の結婚へ向かう道」において詳述しているように、一枝のセクシュアリティーにかかわって、平塚らいてうは一枝を「殆ど先天的の性的轉倒者とも思はれるような一婦人」としてアウティングした。アウティングされた一枝のらいてうへのその後の態度はどうであったか。一時的な反抗や悪態はあったものの、最終的には、「あの頃の話」(『婦人公論』一九二五年四月)や「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて」(『女人藝術』一九二九年八月)、そして「痛恨の民」(『婦人公論』一九三五年二月)などにみられるように、らいてう礼讃への道をひた走るのである。それは、自分が「先天的の性的轉倒者」であることを率直に認めたことを意味するのであろうか。すでに上で紹介しているように、一九一九(大正八)年の一枝二六歳のときの言説に、「久しい間、幾年か私は、自分を不良心なものと思つたし、不徳義なものだとして見てゐたし、不道徳な人間だと思つて見過して來た。勿論、それを恥ぢた[こ]ともあつたし、強く責めて來た時もあつた」というくだりがあるが、このくだりが、そのことを物語っているのであろうか。一方のらいてうは、当時の一枝から浴びせられた悪口について、そしてふたりの同性愛的関係の清算について、そののち、こう語っている。「青鞜から身を引いたあと、一時、紅吉[一枝]は、わたくしのことを、さんざんあることないこと悪口を言ったものですが、どんなに悪口を言われようとも、わたくしには彼女の気持ちが分かり過ぎるほど分かっていましたから、悪口を言うだけ辛いのだろうとおもって、そんなことはなんとも考えませんでした。わたくしが奥村と結婚したあと、[わたくしへの]紅吉の同性愛的な振舞いがなくなったのは、むろんのことです」23

結婚後東京を離れ、自然豊かな安堵村へ生活の場を移したことは、単に築窯して陶器をこさえることだけではなく、こうした一枝が抱えるセクシュアリティーの問題をいかに乗り越えるかということもまた、夫婦の課題として、大きく関連していたにちがいなかった。また、安堵村から東京への移住にも、同種の課題が関与していた。憲吉の製陶にかかわっては、一枝はよき助言者であったし、一枝のセクシュアリティーに関しては、憲吉がよき伴走者であった。その限りにおいては、このふたりは優れて理想的なカップルであった。しかし、助言者の指摘が実際の製作者である憲吉の思いを必要以上に傷つけるとき、あるいは逆に、伴走者の掛け声が実際の走者である一枝の思いを理不尽にも踏みにじるとき、一気にバランスは瓦解し、激しい口論へと発展したことであろう。それでは、イデオロギーにつてはどうであろうか。社会主義を巡る両者の姿勢の違いも鮮明であった。憲吉は、中学時代からの社会主義のよき理解者ではあったものの、もちろん理論家でもなければ、活動家でもなかった。芸術を最優先するがゆえに、冷静にも、あるいは小心にも官憲の目を恐れた。それとは対照的に一枝は、水平社が設立されたときは部落問題に、プロレタリア文学が隆盛すればその文学に、いったんその魅力に引かれてしまうと、一種独特の義侠心にも似た正義と友情に燃え、わき目もふらずにのめり込んでいった。他方、パートナーに求める関心については、どうであったであろうか。夫である憲吉の関心は、常に妻の一枝に向けられた。しかし妻の関心は、夫だけに止まず、常に美しい女性へも向かっていった。どうしてもふたりの関心はひとつにならない。関心のずれが、不信や嫉妬を生んだかもしれない。こうした動きのとれない人間関係を引きずった状態で、この夫婦は戦後を迎えた。憲吉が、「あの人はレスビアンだった」と水沢に語ったとすれば、その背後には、以上に述べてきたような、夫婦の歴史に刻まれた一枝のセクシュアリティーにかかわる問題と両人の内的な緊張関係が、重苦しくも無言のまま潜在していたものと推量される。

こうした夫婦の悪化した精神的な環境のなかにあって、戦後の新しい生活を一枝とともにこれから再構築しなければならないことを考えた場合、それは憲吉にとって、あまりにも大きすぎる負担だったのかもしれない。終戦というこの時期、これまで張りつめていた生活という緊張の糸が見事に切れてしまった可能性もある。尊大さが小心さを土俵の外へと押し出したといえなくもない。再出発にあたって、すべてを一度無に帰したいという思いが強まったと見ることもできよう。しかしいずれにしても、最も深い心の奥底からの憲吉の叫び声は、夫をもつ人間がそれとは別の人間に恋愛や性愛の感情を抱くことにはもはや耐えられないという悲痛なうめきの声であったにちがいない。このことは決して誰にもいえなかった。それでも一度だけ、抑えきれずに口をついて出た。「あの人はレスビアンだった」。この一語に込められた重く沈んだ苦悩こそが、すでに紹介しているように、深尾須磨子が高野芳子にいった「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」の内実だったのである。

結果として、憲吉の希望と展望は、すべてを捨て去り、独りになり、新たな仕事と再び向き合う方向へと進んで行った。一九四六(昭和二一)年の一月に飛騨高山から祖師谷の自宅にもどると、敗戦によりこれまでの秩序や体制が新しく切り替わろうとするなか、帝国芸術院と東京美術学校に対して決然と辞表を提出したように、憲吉は、多くを語ることもなく、短くきっぱりと一枝に離婚を申し出たものと思われる。それに対して、一枝がどう応じたのか、それを示す資料は現在のところ見当たらない。状況から想像するしかない。結果を見れば、一枝は同意しなかったことになる。そこで憲吉は、やむなく実質的な離婚を胸に刻み、家を出たのであろう。このときの様子を、陶の息子の海藤隆吉が、こう書いている。

 東京を離れる日、私の父が自転車の荷台にトランクだかリュックサックだかを乗せて、成城学園の駅まで送っていったという。「途中の橋のところで、おとうさんが立ち止まって、しばらくじっと風景を見ていたんだよ。その時に『もうここには帰ってこないんじゃないか』と感じたんだけれどね」と、父はその日のことを何十年も経ってからもなお、鮮明に覚えていて、私に話してくれた24

「途中の橋のところで、おとうさんが立ち止まって、しばらくじっと風景を見ていた」その憲吉の姿に、隆吉の父親は、祖師谷との永遠の別れを読み取った。法的な手続きを経ないまま安堵村に帰ったとはいえ、憲吉の離婚に対する決意の固さは明白であった。イギリスにいるバーナード・リーチに、このような手紙を書き送っている。そのなかで、いみじくも「離婚(divorce)」という言葉を使っているのである。日付は一九四七年一〇月二八日。原文は英語であるので、翻訳のうえ、以下にその一部を示す。

停戦のあと、私は、東京美術学校の教授職と帝国芸術院の会員を辞任した。昨年の六月に東京を離れて大和へ帰った。離婚をして、いまは安堵村で独り暮らしている25

それでは、憲吉が家を出たあと、残された一枝は、そのことを子どもたちにどう説明したのであろうか。おそらく一枝は、自分のセクシュアリティーについて、家族へ「カミング・アウト」しなかったものと思われる。もしそうであれば、憲吉からの離婚の申し出の理由にかかわって、あるがままの真実を伝えることはできなかったものと推測される。つまり、真実とは異なる別のストーリーを一枝は用意したのではないか。それに相当しそうな事例が残されている。以下も、海藤隆吉の回想である。

 同じ日のこと[憲吉が東京を離れる日のこと]は、娘の目には違ったものに映ったようだ。母に聞いた話だと、「おとうさんは『ちょっと大和の様子を見てくる』とおっしゃって、荷物も持たずにお出かけになったのよ」となり、もちろんすぐに帰ってくることを家族は疑わなかったという。家族との間の「帰ってきてください」「いや帰らん」という手紙が、そのころに幾つも残されている26

これからわかることは、「おとうさんは『ちょっと大和の様子を見てくる』とおっしゃって、荷物も持たずにお出かけになったのよ」というストーリーが家族のなかで形成されていたことである。おそらくは、父親が家を出た理由として、一枝によってこうした事実とかけ離れた、その場しのぎのストーリーがつくり上げられ、子どもたちに伝えられたものと思われる。しかし、父親は一向に帰ってこない。子どもたちは、父親が家を出た理由や帰ってこない理由に内在する母親のセクシュアリティーについて、どの程度気づいていたのであろうか。それはわからない。ある程度気づいていたとしても、それを口にすることはできなかったであろうし、母親の告げる理由を信じるほかなかったのではないだろうか。こうして、憲吉から離婚の申し出であったことも、その理由も、母親から子どもたちに語られることはなかったものと推量される。

そこで、どのような事情があって、夫なり、父親なりが家を出たのか、家族のなかで納得ができる理由を探さなければならなかったものと思われる。直接それに関係するかどうかは別として、どうやらこのとき、憲吉の戦時中の陶画集について家族のあいだで物議をかもしたようである。その物議の様子に触れる前に、そのことと関連するので、すでに前章の「千歳村での生活の再生」のなかで言及した東京朝日新聞(一九四五年三月二三日)の記事を再度ここに引用しておきたい。

帝国藝術院會員富本憲吉氏はわが陸海特別攻撃隊神鷲の盡忠精神に感激、丹精こめて描いた日本の花々の陶畫を特攻隊宿舎に贈るため、各十枚一組の陶畫集をこのほど陸海軍大臣に献納した27

おそらくこの記事は、少なくとも当時の富本家の子どもたちの誰も(場合によっては一枝自身も)読んでおらず、したがって、この新聞に書かれてあるような、この陶画集献納の事実関係が、家族のなかで十分に理解されていなかった可能性もある。陶画集にかかわる、以下も、隆吉の回想である。隆吉は、一九四八(昭和二三)年に生まれている。

 私が育った昭和三〇年前後の富本家、祖父・憲吉が去って数年後のそのころ、家族の間でこの画集・献辞が話題になったことを覚えているが、画集の実物はすでにそのころの富本家にはなかったようだ。母・陶(憲吉次女)は「お父さんは荒鷲に捧げると画集に書き込んでしまってお母さんにあきれられたのよ」と言っていたし、壮吉叔父(憲吉長男)は彼のノートの中で「若鷲に捧ぐ」と書いている。家族の記憶に重く残ったこの献辞は、伝言ゲームのように、各自の許容できる言葉に変化していたことが興味深いのだが、実際に接してみると荒鷲でも若鷲でもなく「神鷲」と書かれていた28

ここからわかることは、母親である一枝から子どもたちへ伝えられた言葉は、それ自体正確なものではなかった可能性もあるし、聞き取った方も、必ずしも母親の言葉どおりではなく、自分の理解しやすい言葉や内容に置き換えてしまっているということであろう。隆吉がいうように、次第に真実から遠のいてゆく、まさしく「伝言ゲーム」が、久しくこの家族のなかで展開されていたのである。隆吉の回想は続く。

 終戦後、家族の間でこの「神鷲」が大問題になる。外部からの圧力によるものではなく、家庭内でそれが顕在化したのだからつらくて悲しい。共産主義に傾倒していた祖母・一枝とその周辺の人たちにとって、人民による新生日本の大義のもと「神鷲」に象徴される旧弊な思想傾向を糾弾することは、そこに描かれた美しい花を愛でることよりも重要であったのだろうか……。ともあれ思想信条を否定された夫が、父が、祖父が、家族のもとを去るという事実が残ってしまった29

この一文から読み取ることができるのは、戦争が終わると、共産主義的立場から一枝は、この陶画集に添えられた「わが陸海の神鷲に捧ぐ」という献辞を問題にし、そのことにより、自らの思想信条を否定された憲吉は、家族のもとを去ることになった、というストーリーである。明らかに憲吉は、ここで、軍国主義者、戦争協力者、戦犯という烙印が押されている。おそらくこれが、夫婦離別についての一枝がつくり上げたストーリーであり、その後、「伝言ゲーム」さながらに、細部のかたちは変えられたとしても、残された家族のあいだで密かに言い伝えられてゆくことになる。こうして、憲吉からの離婚の申し出とその理由は完全に覆い隠され、別の事象に置き換えられてしまったのである。そのことは、高井陽・折井美那子著の『薊の花――富本一枝小伝』のなかに、はっきりと表われている。

 [敗戦を迎え]価値観が一変した中で、憲吉の心は複雑にゆれていた。 一九 ママ 年に出版した木版画集の中に一枚、“荒鷲にささぐ”としたものがあった。戦争賛美などというにはあまりにもささやかなものだったが、潔癖な憲吉には、「あれはあの時のことだ」と簡単にすますわけにはいかない気持ちがあった30

共著者の高井陽は富本家の長女である。この本は陽が亡くなったあとに出版されている。しかも、上の引用文には注もなく、このように断定するうえでの根拠資料がいっさい示されていない。そのことから判断できることは、この文章は、共著者の折井が何か確かな一次資料に基づいて記述しているのではなく、たとえば「一九年」や「荒鷲にささぐ」といった事実とは異なる表記が例証しているように、生前にあって陽に、あるいはほかの富本家の誰かに、つまりは陶なり壮吉なりに聞いた話を、そのまま書き表わしているのではあるまいか、ということである。その点でこの本は、家族に伝わる、本人に最大限配慮された「一枝伝」となっている。しかし、それゆえに、明らかにほかの資料に刻まれている「あの人はレスビアンだった」という語句も、「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」といった文言も、いずれもが言及されることなく黙殺され、その内容や意味についての検討が、見事なまでに放置されているのである。折井自身の考えだったのか、生前の陽を含む富本家の意向だったのかはわからないが、いずれにしても、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題については、それはなかったこととして、完全に隠されてしまった31

しかし、「わが陸海の神鷲に捧ぐ」の献辞が、戦後ただちに富本家において物議をかもしたことは事実であったと思われる。壮吉の学友の辻井喬が、こう証言しているからである。

[紅吉は]やがて富本憲吉と結婚し、次第にマルクス主義に近付き、当時は治安維持法と呼ばれた法律で非合法であった共産党との関連で検挙されるが彼女には当然のことではあるが罪の意識はない。敗戦後、彼女は戦争に反対しなかった夫を責めるようになる。天才的な陶芸家であった父親と、常にアウラを発しているような存在であった母親・紅吉の葛藤の烈しさを、私は次第に同級生富本壮吉の言動の端々に見るようになった32

「敗戦後、彼女は戦争に反対しなかった夫を責めるようになる」――これが、家庭内の物議の内容であろう。このことに関連して、隆吉は、「最終推敲のなされていない文章」としながらも、生前の壮吉のノートに、「戦犯・追放」と題して、次のようなことが記されているという。

 父は第二次大戦終りに近く、美しい花を主としたカラー木版を限定で出版した。色絵陶板の原画的な日本画である。その目次の文章に「これをわが若鷲に捧ぐ」と筆寫した。……母はその一行を見て「これはいりますかね」と版元の人もいる席で父に顔をむけた。「何でや!」父は母のいわんとする処をすでに察して強く反論の姿勢をとった。話はそのままになって出版のはこびとなった33

戦争が終わると、このときの話が大問題へと発展した。壮吉のノートには、続けて、こう綴られているという。

敗戦となって戦犯裁判がはじまった。……文化人の戦争協力を罰する項があると報じられ、父は当時読売新聞の記者であった二人の婿をつかまえて連夜夜明けまでききただしていた。……母は[二人の婿と]同じ『心配なんか、大丈夫ですのに』と言いつつ少しばかりの冷笑というか、従来の父の天皇崇拝と自分の左派指向のことのなりゆきに『どうですあなた!』といった気持ちを表明していたように見えた。……『国やぶれて家なく窯なく陶工ひとり故郷に帰る』という文章をいくつか大和のひとり居のころ書いているが、この戦犯さわぎが別の方向に決着していれば、父の後半生は別の姿をみせたのかもしれない34

この文末には「富本壮吉(昭和63年のノートより)」とある。このとき、壮吉は病床にあり、最期が迫っていたものと思われる。そのため記憶が曖昧になっている可能性はある。また、隆吉による注記を見ると、映画監督であった壮吉は、「自ら父母のことを映画化しようと書きつづったノートがある」とも明記している。したがって、この「戦犯・追放」も、そのためのシナリオの草稿の一部であって、必ずしも事実そのものではない可能性も残る。さらにいえば、終戦の年の壮吉の満年齢は一八歳であり、憲吉と一枝の夫婦の置かれている心の陰影のようなものを、すべて理解していたとは思えないし、事実、「わが陸海の神鷲に捧ぐ」と憲吉が書いたものを、「これをわが若鷲に捧ぐ」と、誤って記述している。そうした幾つかの点に目を向ければ、当時壮吉は、夫婦のあいだで交わされた「戦犯・追放」の実際の会話の場にいたのではなく、この話の内容は、「父の天皇崇拝と自分[母]の左派指向」を含めて、のちに母親(一枝)に聞かされたものだったのではないかという推量の余地が排除できずに残る。つまり、その後にあって壮吉は、最晩年の病を押して、母から伝えられたストーリーを、さらに映画という形式にふさわしく創作的に書き改め、それがこういうかたちをとって、現在、陶の息子の隆吉の手もとに残っているのではあるまいか。

それでは、一方の憲吉は、そのことについて、何か触れているだろうか。すでに紹介しているように、「東京でなにものかに敗れたというような、みじめな思いはちりほどもない」と回想している。これが、「わが陸海の神鷲に捧ぐ」を巡る家族間での論議を念頭において書かれたものであるかどうかの確証はないものの、それでもあえてこの憲吉の字句を、言葉のもつ作用と反作用というある種の力学に即して解釈しようとすれば、逆に、「なにものかに敗れ、みじめな思いをした」という意味にとれなくもない。そうであれば、壮吉の書いた「戦犯・追放」と結びつき、一枝に責められ、陶画集につけた献辞を悔い、その責任を一身に背負って、祖師谷の家を出たという筋書きも成り立たないわけではない。しかしこれが、憲吉が家を出た本当の理由だったのであろうか。検討を要するところであろう。

若くして特別攻撃隊神鷲が花となって散ってゆく時局に目を向けた憲吉が、実際の花束に代えて何枚かの花の絵を、特攻隊神鷲の宿舎に贈ったからといって、法廷とは異なる家庭のなかにあって、何ゆえに、戦犯のごとくに断罪されなければならなかったのか。そしてまた、そのように裁く資格が本当に一枝にはあったのか――。これでは、確かに隆吉がいうように、あまりにも「つらくて悲しい」。「わが陸海の神鷲に捧ぐ」という一語の存在が理由となって、長年連れ添ったふたりであろうとも、離別するものであろうか。もしそのことが離別の本当の理由であるとするならば、当時戦場の兵士たちに思いを馳せ、千人針や慰問袋、あるいは日章旗の寄せ書きに加わった大勢の人たちは、どうなるであろうか。戦後、一方が一方の戦争責任の重さを責め立てて、夫婦のあいだで別れ話のようなものが持ち出されたであろうか。あまりにも現実離れしてはいないか。

「わが陸海の神鷲に捧ぐ」の献辞が、戦後ただちに富本家において物議をかもしたことは事実であったかもしれないが、しかし、家族のあいだに言い伝えられているこのストーリーは、内容的には真実であるとは思えない。というのも、裁かれる側の憲吉が、天皇崇拝者であり戦争讃美者であったことを例証するような資料は、いまのところ存在していないし、そしてまた、裁く側の一枝についていえば、この戦争に反対する意思を表明した意見書のようなものも、反戦活動に従事していたことを示す形跡のようなものも、何も資料として残されていないからである。つまり、壮吉のノートに、「従来の父の天皇崇拝と自分[母]の左派指向のことのなりゆき」という語句があったとしても、それを裏づけるに十分な証拠となる資料が、見たところ現存していないのである。むしろ憲吉については、それとは反対の側面を示す資料が残っている。たとえば、著作集2『ウィリアム・モリス研究』において詳述しているとおり、憲吉は美術学校時代に日露戦争への痛烈な批判を込めた自製の絵はがきをつくっているし、その後卒業を待たずして英国へ渡った目的には、当時の徴兵制から逃れることが含まれていた。これだけからも、若き日の憲吉の反戦にかかわる姿勢は明確であろう。さらにいえば、著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第一章「富本憲吉と尾竹一枝の出会い」で述べているように、一九一一(明治四四)年五月の憲吉の東京から大和への帰郷の場面を想起するがよい。四月二七日のバーナード・リーチの日記には、「トミー[富本憲吉]は落ち着いて仕事に打ち込むために、五月三日ころに田舎へ帰る。高圧的な官僚主義的芸術の影響から逃れるためもあるのではないかと思う」35と、記されている。そして東京を離れるに際しては、「森田[亀之輔]は僕の歸国を東京から夜にげと評し、岩村[透]先生は国家のために何むとかと言はれた」36。このように引き止める者もあった。しかし憲吉は、自分の芸術を官僚や国家のために捧げることなど全く念頭になく、「高圧的な官僚主義的芸術の影響から逃れるため」もあり、恩師の岩村からは「国家のために何むとかと言はれた」にもかかわらず、それを振り切るようにして、森田の表現を借りれば「夜にげ」のごとくに、安堵村へ帰るのである。

もうひとつ加えるならば、一九四〇(昭和一五)年六月に、憲吉にとっての二番目の随筆集となる『製陶餘録』が世に出た。憲吉はその「序」において、こう書いている。「年齢の故であらうか近頃の私は、文章、繪、特に陶器に對し、以前程の感激を以て接する事が出來なくなつた。これは一つには、矢張り世界中が熱鐡を互の柔かい身體にぶちこみ合つて居て、今日ありて明日なき命と云ふはかない世情の反影による事と思ふ」37。果たしてこれを、天皇崇拝者の言葉として、そしてまた戦争讃美者の言葉として、本当に読むことができるであろうか。

しかし、隆吉の記憶を信じるならば、陶は、「お父さん[憲吉]は荒鷲に捧げると画集に書き込んでしまってお母さん[一枝]にあきれられたのよ」と、いっていたという。資料的には立証できないものの、仮に憲吉が戦争推進論者で、一方の一枝が戦争反対論者であったとすれば、一枝と憲吉との思想上の溝は埋めがたいものとして残り、たとえそれにより憲吉が家を出たとしても、一枝は永久に憲吉を許せなかったはずである。つまり、「戦犯・追放」という壮吉の言葉を借りれば、一度「追放」した一枝が「戦犯」の憲吉をいとも簡単に「免罪」にすることなど、とてもありえないと考えるのが、一般的であろう。ところが一枝は、憲吉の最期に至るまで、「免罪」どころか、憲吉への確かな思いを胸に抱き続けるのである。そうしたことを考え合わせると、別れる理由として一枝の描いたと思われるこのストーリーは、あくまでも自己のセクシュアリティーを隠すための一時しのぎの子ども向けのパフォーマンスであり、すべてが真実というわけではなく、むしろ、おおかた虚偽なのではないかとの推断がすぐさま浮上する。陶が「お父さん[憲吉]は荒鷲に捧げると画集に書き込んでしまってお母さん[一枝]にあきれられたのよ」といっていたとしても、これもまた、「荒鷲に捧げる」という事実とは異なる表現からも明らかなように、陶が直接目撃した一枝のそのときの様子を言い表わしたものではなく、「お父さん[憲吉]が荒鷲に捧げると画集に書き込んでしまったので、私はあきれてしまったのよ」といったたぐいのその後の一枝の言葉を、「伝言ゲーム」のなかにあって、能動と受動あるいは主体と客体の関係にかかわって単に「言い換え」をしただけのものだったのではないだろうか。こうした分析が正しければ、陶のこの言説を含めて、これまでに論じてきた、高井陽・折井美那子著の『薊の花――富本一枝小伝』での記述の内容も、壮吉の「戦犯・追放」における描写の中身も、そのすべての最初の発信元はまさしく一枝本人であり、その後にあって、何がしかの変形は加えられつつも、一枝の呪縛のなかにあってひとつの大きな「家族の神話」が語り継がれていったということになろう。

しかしながら、それでも実際問題として、「追放」と「戦犯」の関係が、換言すれば、高邁が低俗を冷たく笑うという図式が、一枝と憲吉とのあいだにあったかもしれない。おそらくはあったであろう。しかしそれが、直接的で最大の離別の理由だったとは断定しがたい。むしろ憲吉は、それを、東京脱出のいい口実として内心受け取った可能性もある。というのも、その方が、「あの人はレスビアンだった」という理由を前面に押し出して自分を得心させるよりも、いくぶん気が楽だったのではないかと推量できるからである。そもそも憲吉は、自分の妻のセクシュアリティーについて他人に対してアウティングすることをためらっている。この箇所を正確に引用すれば、すでに紹介しているように、井手文子は、「長くためらったのち、憲吉は『あの人はレスビアンだった』と言った」と書いているのである。そのためらいの気持ちは、他人に対してだけでなく、自分に対しても、同じようにあったのではないだろうか。青鞜社を離れる際の紅吉からの悪口についてのらいてうの回想を想起してみよう。「どんなに悪口を言われようとも、わたくしには彼女の気持ちが分かり過ぎるほど分かっていましたから、悪口を言うだけ辛いのだろうとおもって、そんなことはなんとも考えませんでした」。ひょっとしたら憲吉も、このときこれに近い心境にあり、一枝のセクシュアリティーを責めるよりも、むしろ自分が「戦犯」になることに甘んじたのではないだろうか。もしそうであれば、このとき憲吉は、何か押し出されるような気持ちで、家を出たことになる。

それにしても一番気になるのは、一方の当事者である一枝が、この憲吉との別れについて、口を閉ざしたままで、何も語っていないことである。一枝は何を考えていたのだろうか。これは一枝が直接書き残した言葉ではないが、いとこの尾竹親が書くところによると、一枝はこう述懐したことがあったという。

戦後、私は一時死のうと思って、古い手紙など、身のまわりのものを焼き捨てたことがありました……38

これだけでは、文脈も前後の関係も書かれていないので、正確には何も読み取れない。しかし一枝は、かつて、ほぼ同じような言葉を使って、あることを表現したことがあった。

私は本当に、死んでしまはうと思ひました。えい、本当に死ぬ積りでした。……私の大切な大切な愛にヒゞが入つたんですもの、もう何うしたつて直りつこはないんです39

著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第二章「一枝の進路選択と青鞜社時代」で言及しているように、これは、平塚らいてうと奥村博が一夜をともにしたとき、自分がいかに不安な気持ちでその晩を過ごしたのかを、伊藤野枝に涙ながらに打ち明け、それに続けて、紅吉(一枝)が漏らした言葉である。これをもって、数箇月間続いたらいてうと紅吉との「同性の恋」は終末へと向かっていく。ここから類推すると、「戦後、私は一時死のうと思って」という言葉には、憲吉との「私の大切な大切な愛にヒゞが入つたんですもの、もう何うしたつて直りつこはないんです」という意味が、付着していたかもしれない。それにしても、直接の一枝の言葉が資料に見出せないのは、どうしてなのだろうか。想像をめぐらす以外に方法はないのであるが、ひょっとしたら、憲吉が別れ話を持ち出したとき、一枝は虚を衝かれ、心身が硬直したごとくに、身動きがとれなかったのではなかろうか。いくら終戦直後の過去を清算したうえでの新生活の開始時期とはいえ、芸術院会員も、美術学校の教授職も、自分との結婚生活も、すべてを捨て去りたいという憲吉の真意がつかめず、言葉を失ってしまい、同時に思考も停止してしまい、それを再生するだけの復元力が蘇らなかったと考えることはできないだろうか。もっとも、すでに紹介しているように、結婚後の早い段階で、「もう別れてしまふやうな話までもち出す」憲吉ではあった。したがって、憲吉にとっては、以前から何か事が起こるたびに、頭に浮かんでいた事柄であったかもしれないが、しかし、一方の一枝にしてみれば、それが本当に現実の姿となって眼前に現われてみると、そのショックへの耐性が、大きくその限度を超えた可能性が残る。一枝が、憲吉との離別についていっさい口にしていないのは、その結果によるものだったのではないかと推量される。

すでに何度か引用により紹介している文言ではあるが、いま一度、一枝の「結婚する前と結婚してから」のなかの次の言葉をここで想起する必要があろう。「僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした」。そして続けて、「私の心は悩む、そして度々考へた。単純な自然的な正直な生活を營むには、未だ未だ私は眞實でない。眞實が足りぬ。それがどんなに彼[憲吉]を寂しく悲しくするか知れない」。

一枝は戦後のこの時期に至っても、いまだ「自然的な正直な生活」から遠く離れ、「眞實」世界に身を置いていない。一枝が、離別に関連して一種のストーリーをつくり上げなければならなかった背景に、自らのセクシュアリティーにかかわる問題があったことは、すでに推論したとおりである。もし、離別の本当の理由を子どもたちに語ろうとすれば、どうしても自分のセクシュアリティーについて話さなければならなくなる。「カミング・アウト」するべきか、するべきでないか、一枝は悩んだにちがいない。しかし一枝の気持ちは、それを避ける方向へと動いた。もしそれを話せば、子どもたちは驚きと悲しみのなかで、かつてのらいてう同様に「先天的の性的轉倒者」の刻印を押し、それにより、憎悪と不信を母親に向けるであろう。もしそうなれば、すでに父親と離れ、寂しい思いをしている子どもたちを、さらに母親さえも失いかねない最悪の不幸な事態へと、突然にも突き落としてしまう危険性が、十分に予測される。思うに一枝は、うそをついてでも、子どもたちを守ろうとしたのではないか。その限りでは、誰も一枝の言動を責めることはできない――たとえ「それがどんなに彼[憲吉]を寂しく悲しくするか知れない」にしても。

しかし、こうした事実のすり替えは、戦後のこのときの離別の理由だけに止まらなかったのではないだろうか。すでに言及しているように、安堵村を離れるに際しての理由について、一枝は、「その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない」といった。この言説から推察すれば、自分のセクシュアリティーに触れるのを避けるために、同じように一枝は、結婚後東京から安堵村へ移った事情についても、さらには安堵村から千歳村へ住む場所を変えなければならなかった理由についても、真実に代わって、何か別のストーリーをつくり上げたものと思われる。それが、三人の子どもたちへ、さらには、子どもたちから孫たちへと、いまに至るまで伝えられてきているのではないだろうか。その事例となるであろうものを、高井陽・折井美那子著の『薊の花――富本一枝小伝』のなかに見出すことができる。ひとつは、結婚後、すぐにも東京を離れて安堵村へ帰還する箇所の描写である。

 二人は約半年間の新婚生活を東京ですごしたのち、大正四年三月、新しい芸術を創造する希望を抱いて、大和安堵村に帰った40

本当に、「新しい芸術を創造する希望を抱いて」のみの理由で、「大和安堵村に帰った」のであろうか。もうひとつの別の理由はなかったのであろうか。この記述箇所では、新婚旅行から帰った直後に発行された『淑女畫報』(一九一四年一二月号)に掲載されている「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」と題された記事については全く触れられていない。なぜなのか。著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第四章「憲吉と一枝の結婚へ向かう道」で言及しているように、この記事は題名からもわかるとおり、一枝の性的指向を暴露する内容であった。そして、そのことがひとつの大きな理由となって、大和への帰還がなされたことは、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』の第五章「安堵村での新しい生活」において詳述しているとおりである。つまり、指摘されなければならないことは、『薊の花――富本一枝小伝』のなかでは、東京から安堵村へ向かう場面の記述から、一枝のセクシュアリティーにかかわる問題が完全に抜け落ちてしまっているわけであるが、それはなぜなのかということである。

加えていえば、すでに著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』で言及しているように、この雑誌記事の重要なところは、憲吉と一枝の結婚式当日の写真が掲載されていることである。平塚らいてうは、自伝のなかで、「やがて紅吉は富本憲吉氏と大正三年 一一 ママ 月電光石火的な早さで結婚してしまいました。習俗に殉じたようなその振袖、高島田姿の写真に、私はあきれるだけでなく、紅吉にかけた期待が大きかっただけ、失望をさらに新たにしました」41と、書いている。らいてうが見た紅吉(一枝)の「習俗に殉じたようなその振袖、高島田姿の写真」とは、おそらく、この記事のなかに見出される図版写真のことなのではないだろうか。この写真は、らいてうをして驚きと失望へ導いたように、確かに、青鞜のなかにあって自由奔放に振る舞う「新しい女」という一面と、育った家庭から受け継いだ習俗に殉じる「旧い女」という一面との、紅吉(一枝)固有の二面性を象徴しているように読める。この相対する両面性が、さらには境界なきセクシュアリティーと複雑にも絡み合って、結婚後の一枝の闇のごとき底知れぬ苦悩を形成していくのである。

『薊の花――富本一枝小伝』にみられる、もうひとつの事例は、安堵村を離れて東京へ移住する際の事情についての描写の箇所に求めることができる。いっさいの証拠を示すこともなく、つまりは、必要とされる実証や論証が全く行なわれないまま、次のように、断定的に記述されているのである。

 その頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に決定できないでいた。
 そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月にも及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた42

これが、一枝から陽へ、陽から折井へと「伝言ゲーム」よろしく、伝えられた内容だったのではないだろうか。一枝のセクシュアリティーにかかわる問題は完璧に封印され、それに代わって、あろうことか、「憲吉の起こした女性問題」が、何の証拠の提示もなしに、移転の理由として唐突にも登場するのである。明らかに、「一枝の女性問題」が「憲吉の女性問題」に置き換えられている。戦後の離別については、戦争讃美への憲吉の償いとしての大和帰還がストーリー化されたが、ここでは、東京移住について、「憲吉の起こした女性問題」がストーリーに組み込まれているのである。

そうだったからといって、著者である陽と折井を責めることはできないであろう。というのも、憲吉が敬愛したウィリアム・モリスの初期の伝記にみられるように、モリスの政治活動、妻ジェインの出自、長女ジェニーの病といった、その当時にあって世間の目に触れさせたくないと思われた事象については、意図的に記述が薄められた先例が、一〇〇年近く前の話ではあるが、すでに存在しているからである。このことは、著作集2『ウィリアム・モリス研究』のなかですでに指摘しているとおりである。しかし、ただ違うのは、『薊の花――富本一枝小伝』においては、妻(陽からすれば母親)の隠したい部分にかかわって、虚構のストーリーを用いて、夫(陽からすれば父親)にその責めを負わせているところであろうか。一枝と陽の、つまり、一般化すれば、母と娘の特異なきずなのありようが、この場合はこうしたかたちで露出していると見ることができるかもしれない。

東京から安堵村へ移住したのち、確かに一枝は、青鞜時代の自分について、「僞もつゐた。人を欺しもした」と告白している。また、安堵村から東京への移住の理由については、「今は書くことがゆるされない」といって、真実を語ることを避けた。そして、『薊の花――富本一枝小伝』においては、東京移転にかかわる理由として、「憲吉の起こした女性問題」という、証拠が示されていないという意味において、疑うこともなくまさしく「架空の話」が記述のなかに組み入れられてしまった。さらには、戦後の憲吉との離別については、一枝は口を開かない。これらの一連の一枝の言動は、一体何を物語っているのであろうか。極めて単純化していえば、たとえ人をだます結果を招くことになろうとも、真実を語ることができないということに起因して、別の何かに置き換えて話を捏造しなければならない宿命が、一枝の生涯を貫くものとして存在していたのではないかということになろう。こうしたことが直接の要因となっていたかどうかは即断できないが、平塚らいてうや神近市子、帯刀貞代や丸岡秀子、あるいは石垣綾子や志村ふくみのような、身近に交流した多くの友人たちが自伝を書き残しているにもかかわらず、そのなかにあって最後まで一枝は、自分の生涯を一著にまとめることはなかった。自身の言葉にある「眞實が足りぬ」ことによるものだったのであろうか。

他方、すでに詳述しているとおり、青鞜時代の一枝は、一九一二(大正元)年一〇月二七日の『東京日日新聞』の「東京觀(三二) 新しがる女(三)」のなかで、記者のインタビューに答えて、次のようにいったことがあった。「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」43。ここで一枝がいっている「面白い氣分」とは、自己の性的指向を指しているのであろうか。もしそうであるとするならば、すでにこのとき、一九歳の若き一枝は、少なくとも生きているあいだは、それについて口にしない、つまり「カミング・アウト」しないと、強く心に決めていた可能性がある。別の言葉に置き換えれば、真実を真実として語れない、あるいは語らない自分が、すでにその時点で形成されていたのではあるまいか。そうした自分が、自責と自嘲とがないまぜになって「眞實が足りぬ」といいつつも、それでも誠実に真実を求めようとするとき、あるいは求めなければならないとき、ここに一枝の生と性にかかわる真の苦しみと悲しみが横たわっていたように思われる。結婚以前の自分について、「とかく眞實の自分を探りあてる間近になると卑怯にも一時逃れをやつてゐた」44と述べ、容赦なく自己を責めたことがあった。さらに結婚後、安堵村から東京へ移住するときには、こうも書いている。

 この久しい間の爭闘、理性と感情この二つのものはいまだにその闘を中止しようとはしない。そうしてそのどちらも組しきることが出來ない人間のあはれな煩悶を冷酷にも見下してゐる。平氣でゐる感情に行ききれないのは自分が自分に似合ず道徳的なものにひかれてゐるからで、といって理性を捨切つて感情に走ることをゆるさないのは根本でまだ×に對して懀惡や反感と結びついてゐるために違いない。……本當にこの心の底には懀惡しかないのか、それでは偽だ。あんまり苦しい45

この文章を読み解くうえで最大のポイントとなるのは、伏字となっている「×」にどの一字をあてるかということになろう。あえて「性」をあててみたい。自分のセクシュアリティーを憎悪する。しかし、それだけでは、偽りであるし、あまりも苦しすぎる。ここに、セクシュアリティーの解放を巡る理性と感情の激しい対立の一端をかいま見ることができよう。自己の特異なセクシュアリティーに向けられた憎しみと、憎みきれない苦しみとが、混然一体となって一枝の心身を襲う。一枝が神を見るのは、そのときのことであった。

戦後まもなくしてのことであろうか、志村ふくみの困難な時期に一枝は、このようにいって、ふくみを励ましている。

その後、私が家庭を捨てて、現在の織の道に入る時、自分の体験を通して、最も適切な助言をあたえて下さったのも一枝夫人であった。
「家庭を捨てるなら思い切って捨てよ。出たり、入ったりして、夫や子供に未練を残してはならない。あともふりむかずに仕事に没頭しなさい。私はそれが出来なかった。あなたはやりとおしなさいよ。本当に捨てたものは、また別の形で必ずかえって来る」と痛切な思いで言われた46

一枝は、「夫や子供に未練を残して」「家庭を捨て」られず、「仕事に没頭」できなかったことを後悔しているのであろう。それは、言葉を換えれば、母から受け継いだ「良妻賢母」という思想をどうしても捨て去ることができなかったことを意味する。一方で、夫や子どもの存在が妨げとなって、あるいは自分の捨てきれない道徳心から、自己の固有のセクシュアリティーに、全面的に正直に従えない。おそらくはこれが、「出たり、入ったり」の意味であろう。そして、この「出たり、入ったり」が、常に家庭生活の影となって、苦しみを生み出してきた。そうであれば、「良き妻」や「賢き母」といった、与えられた役割にいたずらに拘泥することなく、尊厳としての自己のセクシュアリティーをひたすら忠実に守り、愛する美しい人との暮らしを大切にしながら、自分の本当に望む仕事が文筆活動にあるとするならば、それに向けて誠意をもって努める――ひょっとしたらこれが、一枝にとって、「自然的な正直な生活」に近づくための本来の道筋であり、「眞實」世界に身を置くための正しい方法だったのではないだろうか。その観点に立てば、離別により一枝は、夫を失うという悲しみに襲われたとしても、それとは別に、いままでに知ることのなかったある種の精神的解放感を味わうことができたのかもしれなかった。それは、離別後の一枝の生き方にかかわる問題でもあった。「本当に捨てたものは、また別の形で必ずかえって来る」――思うにこの言葉は、おそらくは、自分から先に家を出ることができなかった悔悟と、去った夫への妻の矜持か未練といったものとがない交ぜになった一語であろう。この混沌とした幾筋にも複雑に絡み合った「痛切な思い」が、一枝をして離婚というひとつの絶対的な最終結論へとたどり着かせることを妨げたのではないだろうか。

それでは他者は、一枝の生涯をどう見ていたのであろう。富本一枝という生き方をひとつのテクストとするならば、親友の神近市子といとこの尾竹親は、それをどうリーディングしたのか、以下に引いておこう。

一九六五(昭和四〇)年一一月号の『文學』に、「雑誌『青鞜』のころ」と題した神近市子への単独インタビュー記事が掲載されている。一枝が亡くなる前年である。そのなかで、神近は一枝に言及して、このようなことを述べている。「あのめぐり合いも、不幸でしたね。このあいだ有名な占いの人が、あの人をみて、ひょっと言ったことがあるんです。この人は大天才の星がある、ところが家事星というのが、非常に大きく働きかけて、それに天才のほうがくわれてしまったって。あの人の生涯を見れば、絵描きとしては、もしもお父さんの後を継ぐということで一本でいけば、そうとう伸びています。今でも、とってもいい字を書きますしね。」「ですから、その占いの人が言ったという星の話はなるほどというところがあります。いまでも風采からしても、言うことからしても、相当変わっていますからね。その点富本[憲吉]先生のほうがかえって、才能的にはもって生まれたものは少なかったかもしれません。先生の絵とか作品とかに対する彼女のアドバイスというものが、批評の役割を相当果たしていたでしょう。だから、富本先生の作品は、[戦後一枝と別れて]あちらにいかれてからの作品よりも、三十四、五から五十代までの作品がいちばんいいといいますね」47

それから三年が立った一九六八(昭和四三)年一一月に竹坡の息子の尾竹親の手によって『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』が出版された。そのなかに「紅吉考」と題した一章があり、それを書くために親は、二度ほど成城の自宅へ一枝を訪ねている。次は、その「紅吉考」からの引用である。「まだ父[竹坡]が生きている頃、富本[憲吉]氏は、たまに柳橋の家にも現われたが、背の高い軍人のようで、ちょっと近よりがたいところがあった。口数が少なく、どこかに気取ったところがあり、開けっぴろげな尾竹の家風とは、何となく異質なものがあった。」「その間に三人もの子をもうけながら、実質的な夫婦関係のないままに、戸籍の上だけの反古のような妻の座を引きずっていた一枝の心情は今もって私のわかりかねることの一つである。」「青春時代に受けた心の傷あとが、その後の彼女の人生のなかに後遺症として尾を引き、言葉というものに対する彼女の考え方を、大きく制約していたのではないかと思われる。従って、一枝にあっては、青春というものが、遠い過去の形のままで凍結され、肉体だけが老化した感じを受け、彼女のなかには、明治と大正の女が、そのまま生き続けている印象が強かった」48

神近は、一枝の生まれもった才能の大きさを語り、親は、青春がそのままの状態で凍結された一枝について語った。『青鞜』の創刊にあたって、らいてうは、「元始、女性は太陽であった」にもかかわらず、いまや女性は、男性を頼りに生きる月にすぎない存在に化してしまっていることを指摘した。あえていえば、一枝が一心に大阪から上京し、青鞜の社員になろうとしたのも、『青鞜』を読み、「太陽と月」の入れ替わりにも似て、「女と男」のあいだにあって密やかに揺れ動く自己のジェンダー/セクシュアリティーの曖昧な存在を鋭敏にも知覚したためだったのではないだろうか。これが、神近の述べる、多数者には認められない一枝固有の越境的知覚の鮮烈さであり、一方、このときの純粋無垢な知覚の発露を限りとして、親が述べるように、一枝の時空はすべて凍結されてしまった――このように考えることもできるかもしれない。この考えが正しければ、一枝の青春期の行動は、意識的であろうと、無意識的であろうと、「婦人問題(女性解放)とジェンダー/セクシュアリティー」という極めて本質かつ先鋭な問題を直感的かつ身体的に提起したことになる。

しかしまた、そのことの発展的問題としてある程度連動するのではないかと想定されるが、憲吉と一枝の夫婦のあいだには「倫理とジェンダー/セクシュアリティー」というパートナー相互の存在と尊厳にかかわる根源的な問題が一貫して起生していたのではいかと思われる。結婚したのちも、妻は、夫以外の特定の他者に、それが同性であるならば、親密な思いを寄せる行為をしてもよいのであろうか、他方、結婚した以上は、夫は、たとえそれが同性であろうと、自分以外の特定の他者に、親密な思いを寄せる行為が妻にみられたとしても、それでもその行為に理解を示し、終生見守らなければならないのであろうか。突き詰めれば、この倫理的争点が、ふたりの結婚期間中の、苦悶し口論した実質的な中身であったのではないか。東京から大和への帰郷、大和から東京への移住、そして最後の憲吉単独の大和への逃走は、「倫理とジェンダー/セクシュアリティー」を巡っての強く凝縮された結節点としてとらえることもできよう。そしてこの観点から見れば、東京から大和への帰郷と大和から東京への移住は、妻の行為に対する夫婦間の相互理解の同調的範囲を示したものであり、最後の憲吉単独の大和への逃走は、妻の行為に対する夫の理解の限界的放棄を示したものといえるにちがいない。最終的にその結果、憲吉が去ることによって一枝は、自己のセクシュアリティーの貴重な理解者を喪失し、一方で、神近が指摘するように、そのとき憲吉は、一枝の発揮する「批評の役割」を自ら手放したことになる。

述べてきたように、憲吉の大和帰還は、厳密には法的な離婚ではなく、離別による別居という形式であった。それでは最後に、それに際してはどのような財産の分割が行なわれたのか、このことについて触れておきたいと思う。これについても、はっきりしたことはわからない。ただ一通の手紙がそのことについて少し物語っている。この手紙は、一九四八(昭和二三)年の夏に、陶の夫の海藤日出男に宛てて、憲吉から出されたものである。以前憲吉が仕事場としていた 工場 こうば を少し改装して、自分たちの生活空間として使わせてもらえないかという陶夫婦の問い合わせに対する返事らしい。

要事から書きます 工場は勿論 あの家に附属したもの故、諸君のうち誰が使用され様とも結構であります 私は去年八月申し送りました通り家の半分を一枝に その残りの半分を三人におくりましたから私のものではありません、あの家には私の書物や衣服がありますが帰へって行くのがいやでモウ一切捨てるつもりで居ます49

この手紙から、家の半分を一枝に、残りの半分を陽、陶、壮吉の三人の子どもに分与したいとする意向が、すでに家族に伝えられていたことがわかる。これにより、祖師谷の家屋敷と工場はもちろんのこと、家具調度品から作者留め置きの作品に至るまで、さらには預貯金や野尻湖の別荘も含めて、すべて家族に残したまま憲吉は東京を離れたものと推察される。まさに裸一貫、生まれたままの姿で、生まれ故郷に帰ったことになる。これが、原因や理由はどうであろうとも、自分独りの一方的な判断で東京を去り、その結果稼ぎ手を失うことになった家族への、憲吉なりの償い方、ないしは責任のとり方だったのかもしれない。あるいは、一枝とのいっさいの関係を断とうとする、離縁にあたっての憲吉の強い意志の表われだったのかもしれない。さらには、折半しなかった理由には、今後の壮吉の養育費や教育費などへの配慮が含まれていたのかもしれなかった。いずれにせよ、このとき憲吉は、家族だけではなく、すべての社会的地位も、そしてすべての財産も放棄した。こうして、戦争が終わると、時を同じくして、憲吉と一枝の いくさ にも似た夫婦という関係もまた終結した。三二年に及ぶ結婚生活であった。

以上に述べてきたことが、「二十年間の東京生活の間に、船腹の貝殻のようにまといついたすべての社会的覊絆や生活のしみを、敗戦を契機に一挙に洗い落としてしまいたかった」と憲吉が晩年に回顧した、その物語の概略的顛末であった。

二.離別後の憲吉の晩期

一九四六(昭和二一)年六月、憲吉は、祖師谷の家を出た。憲吉の色絵作品のひとつに《色絵若芦文皿》【図一】がある。「富本の東京窯、祖師谷窯を南に下ると、自然に湧き出る清い水をたたえる周囲二丁ほどの池があった。この池の芦は幾多の美しい模様の源となった。富本がこの地を去るに臨んで、その若芦の図に次のように題した」50

今日の若芦風になびけど
明日、烈しき陽の光
射る如く、ふりそそげば
再び立ちて、細けれど鋭き芽
天に向いて、矢をはなつ
今日、風になびけど、折れず
明日、天を指す、鋭きその芽51

憲吉は、祖師谷の生活に別れを告げ、安堵村へ向かうに際して、今日は風になびくも、決して折れることなく、明日再び立って天を指す、この若い芦の力強さに、自分の心模様を重ねたのであろう。

憲吉の安堵村帰還に帯同したのは、藤本能道であった。藤本は、憲吉が東京美術学校の工芸技術講習所の主事を務めていたときの助手であり、戦時中の「高山疎開」にも同行し、寝食をともにしていた。藤本は、こう回想する。

敗戦後、郷里に帰られる時、京都に立寄り、河井寛次郎氏をまず訪ねられ、半日以上も楽しそうに話し合っておられた。お伴の私はお二人の話題の多いのに驚いたことを覚えている52

京都における窯業界のことや、民芸派の国画会復帰のことなども、おそらく話題になったにちがいない。

帰郷したとき、憲吉は、満年齢でちょうど六〇歳になっていた。「そのころ先生の生家は荒れてはいたが塀を巡らした大きな長屋門と倉をもつ数寄屋風の立派な建物」53であった。母ふさが一九二九(昭和四)年二月四日に死去して以来、実質的にこの屋敷は無住の状態になっていたものと思われる。新しい製作への意欲をもっての大和帰還ではあった。「だが、生活の不如意は予想以上だった。少なからぬ田地は農地改革法によって取り上げられてしまい、しばらく静養しようにも遊んでいては一日も食べていかれない。画を描いたり焼き物をしたりしてほそぼそと暮らした」54。田を失ったことは、落款のデザインにまで及ぶ。さらに憲吉は、次のように振り返る。

 そういえば、そのころの作品は、落款の書体に、富本の「富」の字から「田」が抜けている。これは、田地をすべて奪われたので、そのことを自ら諷したものである。この落款は二十一年六月から年末までの作品に共通したものである。ついでながら、私は大正十二年の大和時代から、作品の年代を知るために毎年、署名の書体を変えている55

憲吉の没後、一九七四(昭和四九)年に、この生家を改築し、富本憲吉記念館を開館することになる辻本勇が、憲吉と親交を結ぶようになるのが、ちょうどこのときのことであった。「安堵在住時代私は富本先生を憲ちゃんと呼んでいた」56と、幼少のころを回顧しているのは、勇の兄の忠夫である。その忠夫に連れられて、若き勇は、ある日この生家を訪ねた。「私も話には聞いていて、瀬戸物を作られる偉い人だぐらいの事は知ってはいましたが、他の事はすこしも知りませんでした。おみやげに柿を持って石橋を渡り、門をくぐって兄の後から恐る恐る玄関に入り、招じられるままに八畳の離れ座敷へ通されました」57。これが、勇にとっての憲吉とのはじめての出会いであった。勇の回想は続く。「後で兄より聞いたのですが、当時先生は作陶されず、絵を描いたり、字を書いたり、模様類の整理や、新聞社から依頼された原稿を書かれる等、瞬時もゆるがせにされなかったとの事でした。農地改革法によって田圃は殆ど取り上げられ、田舎に帰られたものの予想以上の困苦を味わわれた事でしょう。不足する食糧を補うために兄と相談されて、皆乏しい中から、墨だけの小品ならば米五升、彩色のもので一斗とか、そういった物々交換を行ない」58ながら、憲吉は、戦後の物資の乏しい生活に耐えていた。

さらに兄からの話として、勇は次のようなこともまた記憶していた。あるとき忠夫が、憲吉の行水を手伝い、背中を流していると、突然にも憲吉は、「ボクはもう日本が嫌になった、英国にでも行きたい、一人だけならどうにでもなる」59と、孤独と寂寞に打ちひしがれたような、悲痛の声を上げた。憲吉の英国逃亡の願望は、これが最初ではない。というのも、一九一二(明治四五)年七月二七日の南薫造に宛てた大和からの手紙のなかで、憲吉は、このように書いているからである。「実はコンド安藝へ行かふと云ふたのは君に遭って充分後の事をたのむで置きたかったからであった。僕又近頃の中に英国にたつ事にした。寒い拾二月や一月頃着くのも困るから成る可く四月頃出発し様と考へて居る。……獨り寂シクあむな處へ行ったって仕方がない。然し今日本に居て家族の奴等や東京の混乱した下等な美術界を見せられて居るより良ろふかと考へる。言はば押し出される様に逃げて行くのだと考へると馬鹿にカナシイ」60。しかし憲吉は、実際にこのとき渡英することはなかった。それから三四年の歳月が流れた。東京を去り、生まれ故郷の大和に帰ったものの、家は荒れ果て、窯もなく、食べるものや着るものにも事欠く過酷な生活が、いよいよ老境に近づこうとする憲吉を待ち受けていた。このときもまた憲吉は、三四年前のあの若き日の心境と同じように、曾遊の地である英国へ逃げ出したいという強い思いに駆り立てられたのであろう。大和でも、東京でもなく、家族関係の猥雑さや美術界の醜悪さから完全に解き放された、地球の反対側に位置する英国こそが、遊学以来、憲吉が終生求めてやまなかった心安らぐ理想郷だったのかもしれない。

憲吉の東京美術学校教授辞職の意向は、一九四六(昭和二一)年七月に認められた61。続けて同年一〇月には、帝国芸術院会員の辞任も決まった62。それらに先立って、四月には、国画会創立二十周年記念展において「富本憲吉二十年史室」が設けられるも、国画会への復帰を願う民芸派との溝は、さらに大きくなっていた。憲吉は、こう語る。「国画会と決別したのもこのときのことである。長い間、もやもやしていた“民芸派”とのつながりをハッキリ断ったのもこのときだったといってよい」63。憲吉は、「新匠會小史」のなかで、このときの事情を次のように解き明かしている。

 昭和二十一年四月、即ち終戦の翌春[国画会]第二十回展の記念として、梅原[龍三郎]君と私の二十年回顧室を造り、今迄の歩いて來た跡を考へて見た事もあつた。それより以前終戦前後に民芸の浜田[庄司]君から、梅原君を通じ再び民芸が国展に復帰したき事の交渉を受けた。私としては一度出て行つた民芸が再び帰るなら永年に関係して來た国展ではあるが、脱会するより仕方がないと返事を送るより途がなかつた64

一方『国画会 八〇年の軌跡』には、このように綴られている。「一九三七年(昭和一二年)に富本[憲吉]と民芸派の工芸観の対立や、民芸派の拠点となる日本民芸館の設立などをめぐり、柳宗悦に意を一つにする民芸派の会員が国画会を退会した。それから約十年、富本を中心にした工芸部が続くことになる。しかし、戦後一九四六年(昭和二一年)富本らが退会し、工芸部は解散することになった。翌一九四七年(昭和二二年)再び梅原[龍三郎]からの要請もあり、柳宗悦、濱田[庄司]、河井[寛次郎]、芹澤[銈介]、柳悦孝、外村[吉之介]によって新たに工芸部が再建された」65

この国画会離脱を受けて生まれたのが、「新匠美術工芸会」という新しい工芸の団体であった。憲吉は続けて、このように語っている。

 その後新人の民芸の諸君をのぞく人達も、私のあとを追ひ国画会を脱し、新たに工芸家のみの団体を造りたき希望を私によせて來たので、私は一切から身を退く決心をひるがへし一人の会員として老残の身をかへり見ず新しい此の団体に入会する事とした。新匠美術工芸会と云ふ名のもとに第一回展が東京に開催した66

一九四七(昭和二二)年六月、新匠美術工芸会の第一回展が、東京日本橋高島屋において開催された。会誌『新匠』(第参号)によると、このとき出品した作家は、稲垣稔次郎、小合友之助、北出塔次郎、鈴木清、富本憲吉、徳力孫三郎、内藤四郎、平野利三郎、福田力三郎、古山英司、増田三男、森一正、山永光甫、山脇洋二、山田喆、矢部連兆、河井隆三、竹内泉石、富岡伸吉の一九名であった67

展覧会が開催されたこの六月、上京したおりに憲吉は、祖師谷に一度帰宅している。一枝とどのような会話がなされたのか、それを構成する資料は残されていない。しかし、ここで憲吉は、「續陶器技法感想」を執筆した。巻末の「昭和二十二年六月二日 東京・祖師ケ谷にて 富本憲吉」の文字が、そのことを示している。これは、四月に安堵村で書いていた「陶技感想五種」に続く二番目の巻き物に相当する。両巻を通じて、白磁、青磁、染附、鐵釉銅彩、色繪の五種類の技法について、その要領骨子が述べられており、同年一〇月の『美術と工藝』(第二巻第三号)に「陶技感想二篇」と題されて掲載された。この号には、「ロクロの展開」として、白磁壺、青磁花瓶、鐵釉銅彩刷毛目鉢、染附皿、色繪陶盤の五作品が写真により紹介され、加えて、けしの花の写生画も四点添えられている。さらに興味深いのは、技法や作品の紹介だけに止まらず、続けて、「圖案に關する工藝家の自覺と反省」と題された一文により、憲吉の工芸図案についての持論が展開されていることであろう。憲吉はこう語る。

 私は今よりおよそ三十年前、欧洲の工藝圖案および工藝對社會等についての學習を終り、歸朝第一に感じたことは、この國には著作權同様の圖案權の法律もなく、人々は勉強のために歴史的な作品を模倣する他、自分の作品としてその模倣したものを平氣で發表出來ることに驚いた。その頃から圖案權の法律を作る必要があることは、雜誌その他で幾度か述べたが行われることなく今日に及んでいるのは残念である68

この図案権についての憲吉の主張は、前年(一九四六年)八月の『美術及工藝』(第一巻第一号)に掲載された「工藝家と圖案權」においても、すでに表明されていた。前置きとして、まず憲吉は、次のようにいう。「日本は、敗戦によつて有史以來はじめての社會革新をなし、民主々義國家として、文化國家として再出發の途上にある。この時に當つて工藝にたづさはるものとして我々も亦、幾多重要な問題をもち、その解決を全く新しい立場に於いてしなければならぬことは當然である」69。そして本題に入り、作家の独創性と良心の重要性を説く。「先づ、最も考へたいことは、工藝の指導性に就いて、それと不可分の關係にある工藝作家の獨創性と作家的良心の問題だと思う」70。具体的には、それはどのようなことであろうか。

 そのためには、作家として有名な陶工が、自らロクロせず、自ら窯を焚くことも知らず、多くの工人弟子の手になつたものを自作の如く稱して高價にその作品を賈るといふボス的やりかたへの反省、實に重大なことは圖案權の問題だと思ふ。これまでに圖案權を有たなかつたことが、日本の工藝を現在見る樣なものにしたことは斷言しても過言ではあるまい。……従來日本の作家は人のつくつた模樣圖案を平氣で借用し……いさゝかの恥も感じないできた。それを自他共にゆるして通用してきたこと自體奇怪千萬なことだつた。……換言すれば圖案權がないから、よき圖案家の發生もなかつたと言へよう。その結果として、藝術作品はもとより、一般國 ママ が使ふ日常諸雜器につまらないものが多くなるわけだ71

模倣や「写しもの」を戒める憲吉の論法の先には、新しい模様の創出や図案の法的保護の重要性が展望されている。若き日から「模様から模様を造る可からず」を強く心に誓い、その一方で、自ら轆轤に向い、窯を焚き、白磁、青磁、染附、鐵釉銅彩、色繪という、製陶の技法を一つひとつ独自に習得してきた憲吉にとって、作品の独創性と作家の良識は、決して譲ることのできない、核心となる魂の部分であった。そして、それは同時に、戦後の再出発に際しての、意気軒高な御旗となる部分でもあった。

しかし、この年(一九四七年)も次第に秋が深まってゆく。寂寥感が忍び寄る。このとき憲吉は、次のような切々たる詩を書いた。

半ば枯れたる荻
風になびき倒れむとして倒れず
あゝ秋風になびく荻
窯なく放浪のわれに似たる
あゝ秋風になびく荻
われに似たる72

このあとに「昭和二十二年立冬 大和國安堵村舊宅にて 憲吉寫並文」の文字列が続く。この詩片と茶碗の絵は、水原秋櫻子が主宰する句誌『馬酔木』の一九四八(昭和二三)年正月号の巻頭詩に用いられた。憲吉は当時の自分を「窯なく放浪のわれ」として描き、祖師谷の池の若芦と同じく、安堵の枯れかけた荻にも、「倒れむとして倒れず」にたたずむ、その姿に己を重ねるのであった。

憲吉は、当時の苦境を次のように振り返る。

 大和の生家では工房も窯もなく、思うように仕事ができないので京都へ通うことにした。蛇ケ谷の福田力三郎という新匠[美術工芸]会会員のへやを借りたのが京都で陶芸生活にはいった初めである。だが、大和から京都まで通うのには往復に四時間を費やし、それだけで体力を消耗することが激しかった。それにもまして、仕事が中途半端になるのがやりきれなかった。
 本窯も色絵窯も持たず、絵の具一式を新たにつくったが、その材料も不足がちだった。非常な努力で焼いた作品が、何人かの人手に渡っていった。だれも同じであろうが、この時分がいちばん、つらい時期であった73

長時間を要する京都通いの不便さを解消するため、憲吉は京都住まいをはじめた。「しばらくして、やっとの思いで清水の寺に近い小房を借り、そこから仕事場に通うようになった」74。すでに前節「終戦と離別」の最後の箇所で紹介したように、憲吉は、一九四八(昭和二三)年に、祖師谷の工場の使い方についての問い合わせに対して陶の夫の海藤日出男に宛てて返信を出しているが、その封筒の裏には、「七月十四日夜/富本憲吉/京都市東山区清水弐丁目二四一 松風方」75と記載されている。「清水の寺に近い小房」とは、この松風栄一の居宅の一室を示しているのであろう。それからしばらくして憲吉は、「京都市上京区新烏丸頭町」に居を移し、最晩年に山科に新居を設けるまで、長らくここを生活の場とした。

京都において作陶するにあたっては、新匠美術工芸会の会員の協力が実に大きかった。次も憲吉の回想である。「最初にそこで世話になったのが新匠[美術工芸]会の会員の福田力三郎君の兄さんの窯であります。次いで同じ会員の山田喆君の工房に、次いで鈴木清君の関係のある光陶苑の一部を借りて、本窯を焼いています」76。この時期の憲吉は、友人の窯を渡り歩く、まさしく「窯なき放浪の陶工」の身であった。

藤本能道は、京都時代の憲吉の様子の一端を、後年次のように振り返る。

 先生は新匠 工芸 ママ 会の中では染 ママ の稲垣稔次郎氏の仕事を高く評価されていた。漆芸の山永光甫氏、金工の内藤四郎、増田三男両氏などにも期待を寄せられていた。一身上のことは安堵村時代からのお弟子の近藤悠三氏にたびたび相談されていたようだ。
 仕事場は新匠会員の福田[力三郎]氏や山田喆氏の世話になり、三十三年[一九五八年]に鈴木清氏の工房の続きに専用の棟が改築されるまではその状態が続いた。住まいは上京区烏丸頭町に、祖師ヶ谷時代の内弟子天坊武彦氏の持家で二室ほどの小さな家を借りられて、一室を建て増し、そこで上絵の仕事を始められた77

当時の憲吉を知る人たちは、さらに詳しく、こう語る。福田力三郎は――。

 始めて祖師ケ谷の先生のお宅へ伺ったのは昭和十三の三月の末。……魚の干物、味噌汁、菜の浸物といった簡単なものだったが、始めてお訪ねして、先生と家族的な食事をするという思いもよらぬ事に容易に喉を通らなかった。……[昭和二十一年の]その年の末から、私の工場で制作を始められた。終戦後、最初の個展が、大阪の高島屋で開かれ、磁器色絵陶板二十数点、そして、その下図とも言う可き、日本画が併せ陳列された。……終戦後まだ誰もその虚脱から立ち直れなかった時、この展観は、大きな反響を呼んだ。私は先生の強い制作意欲に深く頭が下がった78

福田の追憶は、そして、次のように続く。

 昭和二十二年六月、第一回の新匠工芸展が東京で開かれ、先生は、「形の展開」と言う、五点の作品を出品された。白瓷壺、青瓷広口花瓶、鉄描銅彩鉢、染附皿、色絵陶板等第一回新匠展を飾るにふさわしい絢爛たるものだった。私は能うる限りの力をそゝいで、これ等の作品のために、素土や釉薬や絵ノ具を作り、窯を焼いた。そして、先生の風格のある轆轤や、気迫のこもった染付けの絵付けを、目を見張り、息を呑んで見つめた79

山田喆にとって強く記憶に残っていることは、一九四一(昭和一六)年ころに盛んになった、五条坂辺の一部の陶磁器工芸家の保存運動についての憲吉の示した見解であった。「その後で富本先生に会いました。先生は『工芸家と称する人の中には、自分で仕事はしなくて、ちょうど、社長のような立場の工芸家も居るから、そういう人は別に作家として保存する必要もないじゃないか、私共はそういうことは反対だ』と云われたことがあります。そして先生は手を出して。『この手を見てくだされば、作家であるか、そうでないか、よくおわかりでしょう』と、云われましたが印象深く記憶しています」80

喆の息子の山田光は、憲吉のことを以下のように回想する。

 富本先生にはじめて御目にかゝったのは、昭和十六、七年頃ではなかったかと思う。父の共をして、御不在の東京から先生の避暑地先の野尻湖へ御訪づねしたのを思い出す。……
 先生の京都での作陶生活の第一歩が福田松斎陶苑であるとすれば、第二期に当るとも云へる時期が平安陶苑へ通われた頃では無いかと思われる。父が平安陶苑の土ものゝ工場をまかされていた事から、今の私達の工場へ通われる時期が一年半ほど続いた。その間、私はいたらぬ助手として、先生の御仕事の近くに接する事になった。その当時の先生は、旅人そのものであった。定まった窯もなく、工場もなくと云った御姿であった81

一九四九(昭和二四)年一〇月二五日の毎日新聞(大阪)に目を移すと、「秋深む温泉郷 女弟子と精進の絵筆 夫人と別居の陶匠富本憲吉氏」という見出しをつけて、憲吉が石田寿枝とともに奥津温泉に遊ぶ様子を報じている。長文の記事であるため、以下の引用はその一部分である。一〇月五日ころから滞在し、街を散策するふたりの姿が、いつしか人のうわさになりはじめた。記者が、滞在先の河鹿園を訪ねた。記事は、次の一節からはじまる。

吉井川上流の温泉郷“奥大津”のホテル、河鹿園の奥まつた二階の一室に絵皿をならべてしきりに絵筆を運ぶ老陶匠とそのかたわらで毛糸の編物をしながら食事から一切の身のまわりの世話をしているその女弟子との厳しい師弟の規律の中にも和やかな愛情あるひたむきな生活が去る五日ごろからはじまった。……時折りこの奥津村(岡山県苫田郡)の湯の街に散策の歩を運ぶ二人の姿はいつしか人のうわさを生みはじめた。……一昨年夏以来、東京世田谷区祖師谷二丁目の自宅から姿を消し夫人一枝さん(五六)とは別居して京都の清水寺近くの五条坂の陶工松風栄一氏の一室を借りうけた富本憲吉氏は近く出版する「富本憲吉作品集」の原稿執筆のためとはいえ、ひよつこりこの河鹿園に女弟子とともに姿をみせたのだつた82

記事のなかには、憲吉が記者に語った談話の内容が、次のように引用されている。

石田君は郷里が島根県なので帰り道に一寸寄つてもらい仕事の手助けを頼んだのがつい長くなつてしまつた。妻とは性格が合わぬので別居したが戸籍はまだ切れていない。東京の祖師谷で“山の木書店”というのを経営しているらしいが生活は相当苦しいと聞いている。石田君とは仕事の上だけのつながりであるが私が石田君と奥津に来ていることがわかれば世間は決してそうは思わぬだろう。二、三年のうちにははっきりしたいと考えている83

島根県の出身の石田とは帰省の帰り道にここで合流し、仕事の手助けをしてもらいながら、長期の滞在になったようである。「先生」「石田君」と互いを呼び、かいがいしく世話をする夕食の際の石田の振る舞いを織り込みながら、さらに記事は続き、石田の経歴について、こう記述する。

東京の女子美術を中退。当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た石田さんは在籍中からずつと絵画の創作を続けていたという。いまでは父母とも他界し三高を卒業して大学受験準備中の弟さんと京都で一緒に暮しながら現在富本氏が仮寓している松風氏の元で陶芸の勉強をしているそうだ……石田さんは名を寿枝といい年は三十三、京都左京区川端丸太町に住む人で昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつたもの、一方、一枝夫人は平塚雷鳥女史の青鞜社に尾竹紅吉のペンネームで活躍した女性解放運動の先駆者である84

ある意味でこの記事は憲吉にとって都合のよいものであったかもしれない。というのも、著名既婚男性が若い女性と温泉地に長期滞在していれば、仕事上のつながりといえども、「世間は決してそうは思わぬ」わけであり、石田との関係をいつ、どのような方法で世間に公表するかを、この滞在に至るまでのあいだに、憲吉は思案していたとも考えられるからである。翌春には、京都市立美術大学における教授採用の発令も待っていた。そうした観点に立てば、この記事は、率直に記者の質問に応じていることなどから判断して、必ずしも不意を突かれた暴露記事ではなく、因果を含めて懇意の記者に書かせたものだったのではないのかという推量も生まれてくる。さらに推量を進めれば、この新聞記事には、郷里での報告をすませ、これから実質的な結婚生活(内縁関係)をはじめるにあたっての世間へのお披露目の意味が暗に含まれていたのかもしれないし、両人にとってみれば、この奥津温泉での長期滞在は、事実上の新婚旅行を意味するものだったのではないかとも考えられる。もはや両親を亡くしていた石田の孤独感と、すでに家庭生活を放棄していた憲吉の寂寥感とが、どこかで相通じ、ふたりのあいだに共感と同情が生まれていたことも否定することはできない。そしてまた、三〇歳ほどの年齢の差を考えるとき、対等な男女の愛というよりはむしろ、父親と娘にみられる親子の愛に近いものが、このときまでに両者間に形成されていた可能性も、十分に残される。いずれにしてもこの記事は、世間的に名が知られた陶匠の新しい私生活へ向けての公的な宣言であることはいうまでもないが、それだけではなく、意識的に石田に光をあてさせることによって、俗にいう「日陰の女」の身になることを避けようとする憲吉の何らかの配慮が作用して生まれたのではないかという推量もまた、最後まで完全に排除することはできないであろう。

以上がこの記事の本文であり、そのあとに、「別れようと思わぬ」という小見出しをつけて、次のような一枝の談話が続く。

ことしの三月ころ松風さんから主人が助手の女の方と結婚する意志があるらしいと聞きましたが信用しませんでした。私は別れようとは夢にも考えたことはありません。朝夕、富本の作品を眺めて暮しておりますが、富本の心の奥には私があることと確信しています。富本の幸福のためによく話合つて見ましよう85

本文記事のなかの「二、三年のうちにははっきりしたい」という憲吉の言葉は、今後離婚にかかわる協議に決着をつけ、正式に籍を入れて、石田と結婚したいという意味のことを示唆しているのであろう。ところが一枝は、「私は別れようとは夢にも考えたことはありません」という明確な意思表示をする。なぜ別れようとしないのであろうか。また一枝は、「朝夕、富本の作品を眺めて暮しております」という。『富本憲吉陶画集』の「目錄」に「本画集を謹みてわが陸海の神鷲に捧ぐ」という献辞を書き添えた憲吉を、戦争讃美者として強く批判したとされるあのときの一枝の勢いは、一体どこへ行ってしまったのであろうか。さらにいえば、憲吉は、「妻とは性格が合わぬので別居した」と、性格の不一致を離別の理由に挙げ、率直に記者に語る。しかし一枝は、「富本の心の奥には私があることと確信しています」と言明する。どこからそのような自信は生まれてくるのであろうか。いずれにしても、事の推移から判断すれば、談話のなかで、「富本の幸福のためによく話合つて見ましよう」とはいっているものの、結局のところ、離婚という結末へ向かうことはなかった。「憲吉の幸福」とは、一枝にとっては、たとえ現実には破綻していても、いつまでも自分との夫婦関係を、形式的ではあれ維持し続けることだったのかもしれない。しかしそれは、真の「憲吉の幸福」ではなく、あくまでも「一枝の幸福」にすぎなかったのではあるまいか。この記事は大阪版に掲載された記事なので、東京にいる一枝や知人たち(以下に登場する尾竹親や井手文子、そして神近市子を含む)が実際にそれを手にしたかどうかはわからないが、この記事を読んだ多くの読者は、疑いもなく、憲吉と一枝のあだに横たわる意識の違いのようなものを確実に感じ取ったにちがいなかった。

一枝のいとこの尾竹親は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』(一九六八年刊)のなかの「紅吉考」で、すでに一度引用しているので繰り返しになるが、次のように書いている。「その間に三人もの子をもうけながら、実質的な夫婦関係のないままに、戸籍の上だけの反古のような妻の座を引きずっていた一枝の心情は今もって私のわかりかねることの一つである」。他方、それに呼応するかのように、女性史研究家の井手文子は、『婦人公論』(一九六九年九月号)に寄稿した「華麗なる余白・富本一枝の生涯」のなかで、このように書く。

 富本一枝はそれからの長い長い年月を、「戸籍のうえだけの反古のような妻の座をひきずって」生きたと言われている。憲吉が家を残したからといって、生活費を送らず、しかも若い女性と同棲しているという事実は、法律的には妻の側から十分な離婚の理由となる。だが、一枝はそれをしなかった。なぜ。おそらく明治生れの一枝の孤独への恐怖もあったのだろう。妻の資格を欠く女といわれることは、彼女には耐えがたかったのだ。主観的には彼女は夫につくしてきた。あるいは、夫を奪った女に対するやや陰惨な復讐の気持もあったのかもしれない。その女性は妻の座を求めていた。そして一枝は「あの人には悪い女がついています。どうか別れるように話してください」と友人に頼んでいる86

それでは、石田寿枝という女性は、そもそも、どのような人物だったのであろうか。そして、憲吉はこの女性といつ、どのような経緯で知り合い、その後、どのような暮らしをしたのであろうか。正確にはほとんど何もわからない。伝聞や風評は別にして、先に紹介した、奥津温泉での憲吉と石田の様子を伝える毎日新聞の記事が、現時点におけるおそらく唯一の両者の間柄を示す文書資料となっており、それ以外には、手掛かりになる有効な資料が見出せていないのである87。しかしながら、神近市子の言説のなかに、そのことに少し触れるような内容の箇所が残されている。「富本一枝 相見しは夢なりけり」と題したエッセイにおいて、神近は、このようなことを記述しているのである。一枝が亡くなった翌年の一九六七(昭和四二)年の一文である。

 ある日憲吉氏は、小さなカバン一つ持ってフラリと家を出られ、その儘帰られなかった。若き彼女が京都に待っていたかどうか、それは私には分からない88

さらに神近は、別のエッセイ「朋友富本一枝」では、こう回顧する。こちらは、それから六年後の一九七三(昭和四八)年に執筆されたものである。

 彼女[一枝]の末路は悲しかった。それはどうしたことか、富本氏が別の女の人のところに行ってしまわれたからだった。岐阜あたりのどこかで出張焼物をしておられた時季に知合った婦人だとかで、富本氏は夫人のところに帰らず、行き切りになってしまった。そしてその行先で死亡された89

上のふたつの引用文は、何を語っているのであろうか。生前一枝が神近に漏らした内容に基づいて書かれたものであることは、ほぼ間違いないであろう。そうであれば、このことについての一枝の理解は、東京美術学校の教授をしていたときの岐阜県(飛騨高山)への出張の際に憲吉はこの女性と知り合い、戦争が終わると、駆け落ちでもするかのように小さな荷物ひとつを手にしたままふらりと家を出て、この女性の住む京都に向かい、それ以降一度も帰宅することなくその地で死亡した、ということになろうか。もしこれが、揺るぎなき事実であったとするならば、前節の「終戦と離別」で記述した内容は、おおかた瓦解することになるし、もしこれが、一枝によって捏造された離別の理由にかかわる別のストーリーであったとするならば、前節で記述した内容は、さらに強固に例証されたことになるだろう。事実であるのか捏造であるのか、それを明らかにするために語らせるにふさわしい決定的な資料が、いまのところ見出せない。ただ、前述の毎日新聞の記事は、「当時官吏であつた父と一緒に朝鮮の京城に渡り戦後引揚げて来た」あとの「昭和二十三年、富本氏が京都松風陶歯会社内に窯を築いたとき、松風工業研究所で輸出陶器の研究を続けていた石田さんは助手になり、同年十二月松風工業を退いて富本氏の身のまわりの世話などをするにいたつた」と、伝えている。この記事の記載内容が全き事実であるとするならば、戦時中の疎開先の飛騨高山でふたりが出会っていた可能性は、皆無に等しいであろう。しかしながら、ただひとつの証拠だけをもってして、現時点で、その可能性を完全に捨て去ることはできない。一枝や神近の発話や言説の真偽にかかわることであり、慎重にならざるを得ず、他の証拠との照合がどうしても必要であろうと思われるからである。今後の研究にゆだねるほかない。その結果にもよるが、もし仮に、飛騨高山で知り合った女性を追って憲吉は家を出たとする一枝の理解内容が本当に真実なるものであったとするならば、子どもたちのなかで信じられていた、「本画集を謹みてわが陸海の神鷲に捧ぐ」の献辞の責任をとって父親は家を出たという理由とのあいだに大きな齟齬が生じることになる。他方これとは逆に、飛騨高山で知り合った女性を追って憲吉は家を出たとする一枝の理解内容が創作された虚偽なるものであったとするならば、自己のジェンダー/セクシュアリティーに関して「カミング・アウト」できなかったことに起因する、やむを得ない発話だったのではないかと推量されるものの、朋友の神近市子をしてそう信じ込ませてしまった一枝の妄言の罪はさらに重いものとなろう。いずれにしても、憲吉が、いつ、どこで石田寿枝と知り合い、どのような経緯をたどって一緒に生活をはじめるようになったのか、それを実証するうえでの手掛かりとなりうる新資料(毎日新聞の記事以外の、たとえば、石田本人の書簡とか日記のようなもの)の今後の発掘が、大きな鍵を握ることになろう。憲吉と石田が知り合った背景だけではなく、正確な石田の人物像についても、そしてまた、憲吉と石田のそれ以降の生活の実際についても、そうした新たな資料を援用したさらなる研究の発展が、必然的に明らかにしてくれるものと期待される90

こうして憲吉は、石田寿枝というひとりの若い女性を伴侶として、新しい暮らしに入っていった。松風栄一の居宅の一室から、京都市上京区新烏丸頭町にある天坊武彦の持ち家へと居を転じたのは、ちょうどこのころのことであった。志村ふくみは、「先生は新しい伴侶を得られ、烏丸の住まいに落着かれた」91と、書いている。ここに至って、「窯なき放浪の陶工」の私生活も、徐々に安定の方向へと向かっていったものと思われる。

憲吉と石田が奥津温泉に滞在した秋の日も過ぎ、年が明けた一九五〇(昭和二五)年一月六日、南薫造が広島県内海の生家で死去した。二日前に脳溢血で倒れ、六六歳の若さで、そのまま帰らぬ人となった。南は、憲吉が東京美術学校の教授に就任する一年前の一九四三(昭和一八)年の五月に同校の教授を辞任し、翌年郷里へ疎開すると、戦後も引き続きその地において、画家としての生活を続けていた。すでに著作集2『ウィリアム・モリス研究』と著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』において詳述しているように、学生時代、イギリス留学時代、帰国後の模索の時代――これらのどの時代についても、南を抜きにして憲吉を語ることはできない。一枝と憲吉との出会いも、『白樺』に南が寄稿した一文がきっかけであった。友人の少なかった若き日の憲吉にとって、間違いなく南は、自分の苦悩に常に寄り添ってくれる、慈愛に満ちた父親のごとき存在であった。しかしながら、南の死去に際してどう憲吉が対応したのか、それを物語るものが何も現存していないらしい。当時九歳の孫の南建が、このとき喪主を務めた。その後建と結婚した八枝子は、薫造の死去から六一年が過ぎた二〇一一(平成二三)年に、『洋画家南薫造 交友関係の研究』を上梓する。そのなかで、八枝子はこう書いている。

 南の訃報に接したときの富本はどういう思いでいただろうか。自身も祖師谷の家族から離れて単身奈良に帰り、その後京都に住むようになり、戦後の大きな転換期にあり落着かなくしていただろう。弔文等、残されたものはない92

薫造が亡くなったその年(一九五〇年)の五月一日に、憲吉の京都市立美術大学における教授採用の発令がなされた93。『百年史 京都市立芸術大学』は、新制大学としての当時の発足の様子を次のように語っている。

 昭和二五年二月、文部省より京都市立美術大学設置の認可があり、四月より新制大学として開学するはこびとなった。新しい美術大学については種々構想が検討されていた。……
 しかし、まず美術学部に日本画科・西洋画科・彫刻科・工芸科の四学科のみを設置する単科大学として発足したのである。長崎太郎が初代学長に就任し、小野竹喬・黒田重太郎・上野伊三郎・松原厚・佐和隆研・岡本午一・榊原紫峰・須田國太郎・富本憲吉・重久篤太郎・秋野不矩・辻晉堂・小合友之助・平舘酋一郎・鷹阪龍夫・吉川武・向井正也らによって当初の教授陣が構成された94

さらに『百年史 京都市立芸術大学』は、開学当初の工芸科陶磁器専攻のカリキュラムについて、以下のように書き記す。筆者は小山喜平である。

(一)昭和二五年美術大学が発足し、工芸科として授業が行なわれた。陶磁器に関する授業は毎週一日通年で行なわれた。工芸科の教室での授業であり、土から焼成迄の全工程を含む授業は組まれなかった。主として絵付を中心に授業が行なわれた。
(二)昭和二七年工芸科は現在の工芸ガイダンス的性格から各専攻の分離独立となった。この年から陶磁器専攻として新しいシステムにより授業が行なわれる様になる。カリキュラムの基本は土から焼成迄全工程を体験させながら、制作を行なう事になる。設備は手廻しロクロ四台でのスタートであったが……以降毎年の整備を行ないながら授業をスムースに進めるための努力がなされる。カリキュラムはロクロの基本的な技術の体験とスケッチ等を通して文様や形態の研究に対する指導が行なわれた。窯は五条の共同の登窯が使用された95

憲吉自身は、教授就任のころをこう振り返る。「京都市立美大は戦時中、東山区の飛行機の監視所になっていたため、学校は廃校同様の荒れほうだい、教室のつくえやイスは燃してしまってなんにもないという哀れな状態だった。私は前に美校(現在の芸大)の教授をしていたので、なんとなく、同じようなところと思っていたが、まるでようすがちがっているのでとまどった。就任して、一、二年は困難な時期がつづいたが……」96

一九五一(昭和二六)年に入ると、新匠美術工芸会は「新匠会」に名称を改め、翌年(一九五二年)には、会誌『新匠』【図二】も創刊された。そのなかの「會員名簿」97には、安堵村時代の憲吉の下仕事をしていた当時二〇歳に満たなかった近藤悠三(京都市東山区清水新道一ノ二九一七)や、憲吉が主事を務めた東京美術学校の工芸技術講習所時代の助手であり、憲吉の大和帰還にも同行した藤本能道(鹿児島市下新荒田町三〇一)の名前も、かいま見ることができる。京都市立美術大学における近藤雄三(悠三)の助教授採用は一九五二(昭和二七)年四月一日、藤本能道の講師採用は、さらに四年後の一九五六(昭和三一)年四月二日であった98。その後近藤は、京都市立美術大学の教授(さらには学長)に昇任し、藤本は、採用から六年後に東京芸術大学に移動し、そののち、その大学の教授(さらには学長)に就任する。こうして両者は、憲吉から授かった薫陶を背景に、日本の高等教育機関において工芸(とりわけ陶磁器の分野)の研究と教育を先導するようになる。

そのころ憲吉は、『新匠』(第参号)に、このような一片の詩句を寄せた。

強き風よ/新匠を吹け/右より左より
吹く風よりはげしく進む/新匠を見よ
或は蛇行する如く/或は踴進する如く
新匠は進む99

この詩は、国画会や民芸派と袂を分かち、いまや「新匠」の名の下にあって清新な工芸の息吹を鼓舞してやまない憲吉の頑強な心情を吐露した一作であろう。すでに憲吉の高潔さは、周囲のよく知るところであったが、そのことにかかわって、のちに近藤悠三は、さらにさかのぼって安堵村での憲吉の「潔癖な」製作態度をこう回想している。

その頃私が一番感じましたことは、先生の助手としていろいろな仕事を致しましたが、作品が少しでも気にいらないと、「近藤君、すまんが、こわしてくれ」と云って沢山の作品をこわしてしまわれました。潔癖な方だと思いました。それから絵を陶器に書かれる時も、素焼きの時に頭の中で図柄の構想は出来ているはづなのに、少しでも気に入らないと、どんどんこわしてしまわれました。偉い先生だと思いましたね。それから、私がロクロをひいていますと、「近藤君、土を伸ばすことだけだったら職人の方がずっとうまいものだ。作家とはそれ以外の余ゆうをうんと勉強しなくてはいけないよ」と云われましたが、今でも頭に残っております100

すでに紹介したように、憲吉は、まず福田の松斎陶苑、次に山田の平安陶苑、そしていまや、鈴木の工房を仕事場として使用していた。『新匠』(創刊号)に掲載された「會員名簿」には、鈴木清の住所は「京都市東山区泉涌寺東林町二七」となっている。そして、藤本能道の回顧するところによれば、前述のとおり、「三十三年[一九五八年]に鈴木清氏の工房の続きに[憲吉]専用の棟が改築される」。このように、この時期の憲吉は、新たに得た伴侶とともに、天坊から借りた新烏丸頭町の家に住み、建て増した一室【図三】で上絵の仕事をする一方で、そこから通いながら、主として泉涌寺東林町の鈴木の工房【図四】【図五】において自己の製作に邁進し、他方で、新制大学として誕生したばかりの京都市立美術大学の工芸科の教授として、学生の指導と大学の運営に携わってゆく【図六】。

家には、仕事上の関係者だけではなく、志村ふくみや辻本勇のような若い知人たちもよく訪ねてきた。志村の書いたものに、「富本先生からいただいたことば」と題したエッセイがある。以下はその書き出しである。

 或る年の夏の終り……先生から一寸話したいことがあるから、京に出たついでに立寄ってほしいとの葉書をいただいた。
 そんな事ははじめてであるし、私は何事であろうと、おそるおそる烏丸頭町の御宅に伺った。露地を曲ると、「富本」とかいた軒灯が見え、こじんまりした御住居は秋も間近い宵のせいか、しっとり水を打った前庭に、鈴虫が降るように啼き、香の薫りの漂っていたのを今も思い出す。
 先生はくつろいだ夏衣の姿で入ってこられるなり、何の前ぶれもなし、こう話された。
 「工芸の仕事をするものが陶器なら陶器、織物なら織物と、その事だけに一しんになればそれでよいが、必ずゆきづまりが来る。何でもいい、何か別のことを勉強しなさい。その事がいいたかった」101

そして、憲吉は、続けて志村にこう諭した。「あなたは何が好きか。文学ならば、国文学でも仏文学でも何でもよい。勉強しなさい。私はこれから数学をやりたいと思っている。若い頃英国に留学した時、建築をやりたいと勉強したが、それが今大いに役立っていると思う」102。一瞬の出来事であった。志村はいう。「私は全く予期していなかったせいか、あっと思い、いきなり心の中に何かを呑み込んだ感じであった。後で考えればまことに分かり切った事であるが、わざわざ私を呼んで『これが云いたかった。』と率直な口調で云われた事が、実に鮮明な印象としてのこった」103。工芸の領域や分野は違っても、憲吉を自ら師と仰ぐ志村は、戦後の日本を代表する染織工芸家のひとりとして大成してゆく。

終戦の翌年、兄に連れられて安堵村の生家を訪ねたおりに、憲吉との最初の出会いを果たしていた辻本は、当時主として大阪で事業を展開していた。その辻本も、事業の経営が軌道に乗りはじめると、時間を見つけては京都通いを楽しむようになっていた。

 京都の御宅へ電話して、行きますからと伝えると、今は工房の方ですとの事で、工房へ行くのですが、必ずその時、安堵で出来たものを持って行く事にしていました。
 「先生、これ昨日大和に帰って安堵から持って来ました」
 梨、柿、野菜、新鮮なものなら、なんでも持って行く。こんなささいな事が、特に喜んでいただけたようでした。その様子を拝見しているのが、私にとって唯一の楽しみであり、私の心の中だけにしまいこんだひそかな誇りであったのかもしれません104

想像するに、こうした篤実な交流の積み重ねが、そして、胸中にしかと「しまいこんだひそかな誇り」が、辻本にみられる、富本憲吉記念館の創設という、私財を投じてののちの一大事業へとつながっていったのであろう。

憲吉の戦後の京都での生活も安定してきた。当時をこのように振り返る。「世間が落ち着くにつれ、私の生活もだんだん改善された。そして小さいながらも市中に一軒を構えることができるようになった。生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた。大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けたことのある色絵金銀彩も戦後七、八年して、ようやく本格的に取り組むことができるようになった」105。しかし、金銀彩には、技術上の大きな問題が横たわっていた。「焼物に銀彩を施すことは無理である。銀は変化はなはだしく、数年たつと銹て灰黒色になってしまう。……また、金銀彩を焼き付ける場合、金と銀とでは火に溶ける温度が違う。金が十分に焼き付くまで温度を上げると、銀はよほど厚くかけておいても蒸発してしまうおそれがある」106。そこで憲吉は、「白金泥を少量混入することを考えた。そうすると、銀が赤に付着する時間と、金の付着する時間がほぼ同じ時間になることがわかった」107。こうして、金、白金、銀の三種を混ぜ合わせた新しい合金が工夫されることによって、銀に変色をきたさない、憲吉独自の色絵金銀彩がこのとき生まれたのであった。

この時期に憲吉が好んで色絵更紗(赤更紗)や金銀彩に用いた模様のモティーフは、「テイカカズラ(定家かずら)」であった。憲吉の息子の壮吉は、こう記憶していた。テイカカズラは「昭和初年、安堵村から東京千歳村に居を移し窯をきずいた父憲吉が、大和からうつし植えたものである。……五瓣の花模様はいつしか四瓣となって、染付、色絵、金銀彩さまざまに用いられた。五分割して描くことの不便、連続させる上での不便……そう父は言っていた」108。テイカカズラは白い花を咲かすつる草の一種で、実際は五弁であるが、連続パタンに適した「四弁花模様」【図七】へと、憲吉は改変する。

そしてまた憲吉は、この時期、「シダ(羊歯)」の連続パタンにも成功している。赤絵の上に金彩と銀彩を用いて、連続するシダのパタンを描いたものが、いわゆる「金銀彩羊歯模様」【図八】【図九】と呼ばれるものである。シダについては、憲吉はこうした思い出をもっていた。

安堵村時代に憲吉は九谷を訪ね、知人を介して、九谷焼の名工として世に知られていた石野龍山に面会した。そのとき憲吉は、『景徳鎮陶録』という本のなかに、 鳳尾草 ほうびそう の灰を釉薬に使うと、シナの焼き物のようなちりめんジワができると書いてあるが、それがどんな草なのかを調べてくれまいか、年寄りの遺言として聞いてくれ、と龍山に頼まれた。その後憲吉は、ブッセルという英国人が『景徳鎮陶録』を訳した本から、鳳尾草が「ファーン(シダ)」であることを知った。「この石野龍山の話は、前からリーチにも話してあり、鳳尾草の正体がわかったら、お互いに知らせ合おうと約束してあったので……急いでリーチのところへ手紙を出した。ところが、リーチもほとんど同時にブッセルの本でこのことを知り、私に知らせるために大和へやってきた。私の手紙とは東海道線の上り下りで行き違いになったわけである」109。このときふたりは、実際はシダの葉である鳳尾草を自宅の裏山へ採りに行き、焼いて灰にして、釉薬として使ってみた。すると、龍山がいっていたとおりのちりめんジワが現われてきたのであった。晩年憲吉は、こう書いている。「石野龍山はもう故人であるが、生前、情熱を籠めて私に頼んだ鳳尾草の正体がわかり、これで彼が夢にも忘れられなかった、ちりめんジワを得られたのだから、一度くらい彼の墓前にそのことを報告してあげたいと思っている。残念ながら、まだ、その機会に恵まれていないのである」110。ちりめんジワ自体は、「石野龍山のように、中国陶磁の写しを専門にし、その通りのものをまねたい人にだけ重要なことである」111のであろうが、しかし鳳尾草(シダ)そのものは、憲吉にとっての、この時期の重要な連続パタンのモティーフとなってゆくのである。

こうした植物をモティーフにした連続繰り返しのパタン・デザインは、ウィリアム・モリスの壁紙やタペストリーにも多くみられる。すでに著作集2『ウィリアム・モリス研究』において詳述しているように、東京美術学校時代に憲吉は、文庫(図書館)へ行っては、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、「ウィリアム・モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠たち』、および、「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの書物のすべてか、そうでなくても、少なくともどれかには目を通した可能性がある。これらの本には、図版を含め、モリスの連続繰り返しパタンが紹介されていたのであった。

一方、この時期の憲吉は、植物の連続模様だけではなく、文字模様にも力を入れている。好んで描いたのが、「風花雪月」や「壽」、それに「春夏秋冬」や「富貴」【図一〇】などの文字であった。そのなかの「風花」と「壽」について、少し言及しておきたい。一九四七(昭和二二)年に、中村汀女が主宰し、一枝が編集を担当する句誌『風花』が創刊され、憲吉の題薟とイラストがその表紙に使われている。また、「壽」の文字が、新たにこの時期に見出した伴侶の名前(寿枝)の上の一字であることも疑いを入れない。こうした「風花」や「壽」といった文字を自分の陶器の模様に利用するにあたって、何か特別な意図が憲吉にあったのだろうか。にわかに立証はできないものの、単なる偶然の選択によるものとも考えにくい。

ところで、一九四九(昭和二四)年の《常用文字八種図》(奈良県立美術館所蔵)のなかで、憲吉は「壽」の文字のデザインについて、このように書いている。

文字を模様として取扱ふ事は随分以前から考へて居た事であるが、それを考へ出すと欧州中世の装飾文字や、若い頃見たカイロ市回教寺院の建物前面に大きく彫られた回教文字に唐草模様を配されたのが頭に来て、全く手も足も出なかった。この寿文字は李朝期織物にあったもので多分古代支那から受けついだものと思はれる。それをヴァリエートしたもので横に長く帯模様にも、左右上下に連続模様にも使用に便利である112

著作集2『ウィリアム・モリス研究』における詳細な検討からもわかるように、憲吉の美術学校時代の卒業製作は、明らかに文字デザインの実験の場となっていた。さらに上記の引用からも、憲吉は、その後のロンドン滞在中やそれに続くエジプトとインドにおける調査旅行中に、文字のもつ重みにかかわって、圧倒されんばかりの何か強い体験をしていたことがわかる。

このように見てくると、色絵金銀彩も、テイカカズラやシダといった植物を用いた連続模様も、あるいは文字模様も、突然にもこの時期、単なる思いつきにより創案されたのではなく、そのインスピレイションの起源をたどるならば、それは間違いなく、生地である安堵村での生活、学生時代の文庫での学習、加えて、英国留学中の見聞にまでさかのぼることができるであろう。若き日に憲吉が受けた美的衝撃は、確かに内にあって温存されていたわけであり、老境へと向かうなかにあってのこうした陶技と模様の開花が、そのことを明瞭に物語っているのである。

一九五三(昭和二八)年二月、リーチが来日し、翌年の一一月まで長期にわたり滞在した。そのときの滞在記録が『バーナード・リーチ日本絵日記』である。そのなかに「十一月二十一日」として、次のようなことが記されている。

 昨日の午後、富本にそのささやかな家で会い、夕食もそこでとった。ささやかな家ながら、その中に含まれているものはすべて、その配置と言い、選び方と言い、彼自身の性格がにじみ出てみごとである。――煎茶趣味――それは抹茶とも違うし、明らかに民藝ではない113

このときまでに、憲吉と柳宗悦(ないしは民芸)との関係を、リーチがどこまで把握していたのかはわからないが、すでに両者の関係は完全に断ち切れていた。もし憲吉が、この間のことをリーチに説明したとすれば、おそらくこのような内容だったのではないだろうか。「民芸は他力本願の芸術を説くが、私は自力本願ですよ。梅原(龍三郎氏)を仲介に入れて柳(故宗悦氏)と一晩けんかをしたが、合うはずがない。それで国展を飛び出して戦後に新匠会を結成した」114

この滞在期間中に、憲吉とリーチの対談が企画され、「作陶遍歴」と題されて、一九五四(昭和二九)年の『淡交』(第八巻第七号)に掲載された。内容は、ふたりの出会いから作陶へ入るきっかけにはじまり、全体として、これまでの両人の歩んできた陶工としての道のりを振り返るものになっている。

憲吉とリーチが向かい合って「作陶遍歴」を語ったこの年(一九五四年)、憲吉は、「乾山の『陶工必用』について」と題した一文を『大和文華』(第一三号)に寄稿した。冒頭憲吉はこう書いている。「大和文華館の好意により、永年望んで得られなかった、尾形乾山著『陶工必用』の全文が寫眞に写されて、去年十一月私に送られた」115。すでに著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』において詳述しているように、憲吉が石井白亭からその名を聞き、ふたりして訪ねたのが、六世乾山(浦野乾哉)の家であった。憲吉が通訳を務め、ただちにリーチは六世乾山に入門した。つまりこれが、両者にとっての「作陶遍歴」の最初に位置する出来事だったのである。初代尾形乾山の「此書完成が今より約貳百貳拾五年前であり」116、それよりのち途切れることなく乾山の陶技が伝承され、死去する直前に六世乾山は、「リーチさんとあなたの樣な人を二人も弟子に持つた事をあの世で先生の[三浦]乾也に自慢出來ますわい」117と、憲吉にいった。その意味からすれば、リーチは、直系の「七世乾山」を襲名する立場にあり、憲吉はその傍系に位置する継承者といってよい。憲吉は、この『陶工必用』のもつ、自分にとっての特別な意味を、次のように説明する。

歴史家でない私は代々の系譜を調べたりする事に興味がないものであり、特に家元とか何代とかと無理にその傳統を表圖だけに連ける如き事は大嫌ひな性格であるが、乾山には何か連關がある如く思へる。その上に私の樣に素人から入った陶器家は廣く色々な技法に渡つて、次ぎつぎに試みて居るので系體的に關係あるだけでなく、この書の樣に陶器全般に亙つて書かれたものを實験的に研究する事は、たとひ永くかかつてもやつて見たいものだと思ひ出した。今はその材料の字義、種類について研究中である118

リーチが日本を発って数箇月後の一九五五(昭和三〇)年の二月、憲吉は、第一回の重要無形文化財技術保持者(色絵磁器)に認定された。認定者は「人間国宝」とも呼ばれる。しかし憲吉は、この認定を決して喜ばなかった。そして翌年九月、「京都の御所の東の仮りの住居にて、自宅に育てた鈴虫の声を聞きながら」119、この認定を受けて憲吉は、「富本憲吉自伝」として自分の経歴について口述し、内藤匡が筆記した。そのなかで憲吉は、こう語っている。「認定するのは政府の勝手ではありましょうが、この無形文化財というものについては、私は反対なのであります。……イミテーションを作るのは職人で、芸術家ではありません。図案(形も図案の一つです)ができて、自分のこしらえた絵具なりなんなりを十分使いこなして、創作するのが美術家であります。しかるに今の無形文化財を受けている人は創作力のない職工がだいぶおります」120

重要無形文化財技術保持者の認定を受けたこの年(一九五五年)の一一月、「富本憲吉作陶四十五年記念展」が開催された。「一九五五年は私が英国でスティンドグラスを初めてから四十五年になりますので、それを記念して東京の高島屋の大ホールで展覧会を開きました。焼物約三百点と、図案、スケッチ、絵巻物などを、大和時代、東京時代、京都時代と分類して陳列しました」121。憲吉が、ロンドンの中央美術・工芸学校のステインド・グラス科に入学するのは一九〇九(明治四二)年のことなので、厳密にいえば、この年が「作陶四十五年」ではなかった。この展覧会には、《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》【図一一】が展示されて、注目を浴びた。内藤は書き記す。「この八角箱は素地を作るに大そう困難した。助手が二人して苦心して磁土を型に打ってくれたが、二十数個を手がけて、完全に仕上がったのは二個だけだ。一つは赤更紗に、一つは金銀彩にした。モチーフはやはりテイカカズラを四弁花に変形したものである」122。ふたりの助手のうちのひとりが、のちに京都市立芸術大学の教授になる小山喜平であった。このときの様子を小山は、こう述懐する。

 [私は]美大を卒業後専攻科へ進み、続いて二年先生の指導を受ける事が出来た。その間、先生の泉涌寺の工房へも通い勉強をかねてお手伝いをした。東京で作陶四十五周年展を準備しておられた頃である。大学への出講日以外は工房で作陶を続けておられたが、朝の十時には車が止まり工房へ入られ、夕方五時には又車が迎えに来られる。食事とティータイムの外は制作三昧である。……出品作が次第に焼成されて行ったが八角の大型の飾箱が窯出しされた時の喜びは大変なものであった。一つは金銀彩に一つは色絵で仕上げられた。
 展覧会は盛会であった。高松宮様も会場にみえ歓談された。志賀直哉さんや武者小路実篤さんら旧友の方々が多数会場に参集された。浜田庄司さんも御令息さんをつれ会場にみえた時、子供もこんなに大きくなりましたと話しかけた浜田さんの顔には旧友の再会の笑があった123

柳原睦夫も、この時期の憲吉から指導を受けていた。柳原はのちに、大阪芸術大学の教授となる。

 私が先生のご指導をいただいたのは、昭和二十九年から亡くなられるまでの九年間です。美術大学の学生として、卒業後は研究室の助手に採用していただき一層お目にかかる機会が多くなりました。大学と東山泉涌寺の工房を三日にあけず往来したものです。
 この時期は先生の晩年の円熟期にあたり、赤絵金銀彩の技法を完成され、羊歯模様や四弁花模様の名作がたてつづけに創出されてゆきました124

同じく柳原は、憲吉の英語力にも、目を奪われた。

 先生のご自慢の一つに、本場英国仕込みの英語があります。これはなかなかのもので、私共がペラペラ喋るアメリカ英語とは趣の違った格調の高い古風なものでした。たえず大学を訪れる海外の陶芸家や留学生の応援は、まさに先生の独壇場でした。体格風貌ともに欧米人に比べて遜色がなく、服装の選択と着こなしに於いては、アメリカ人など足もとにも及ばないスタイリストの先生が、得意のキングスイングリッシュを話される様子は、一寸絵になる光景でした。私達は羨望と畏敬の念で舌をまいて眺めていたものです125

「作陶四十五年記念展」が終わると、翌一九五六(昭和三一)年九月に、「作陶四十五年記念展」の展示作品のなかから約五〇点が選ばれて解説された『富本憲吉陶器集』が、内藤匡の編集によって美術出版社から刊行された。他方この時期、すでに述べているように、重要無形文化財技術保持者の認定に伴う「色絵磁器」と「自伝」に関する憲吉からの聞き取りも、同じく内藤の手によって進められていた。さらにこの年の夏は、「模様集」の刊行へ向けて、その準備が急がれていた。こうして翌年(一九五七年)、中央公論美術出版より『富本憲吉模様選集』が上梓された。出版されると、憲吉とは「すでに二十六、七年にわたる」126つきあいのある美術評論家の水沢澄夫が、『三彩』に次のような書評を寄稿した。

 一九一二年から五六年にいたるほぼ半世紀にわたる名匠の陶歴の中から、その間にくりかえし使われた陶器模様三十図を、紺紙に金泥で描き、解説もまた作家みずからが日本紙に筆写したものを、ともに原色版におこしてつくられた見事な図譜。さきに美術出版社から出された「富本憲吉陶器集」と同じ装釘の姉妹篇である。
 模様のなかのあるものは雄健、あるものは細緻、陶器作家にとってよき参考図譜であるばかりでなく、内外の陶器愛好家にとって貴重な資料となるだろう。巻末に英文解説をつけたことは適切だ127

「作陶四十五年記念展」の開催、あわせて『富本憲吉陶器集』と『富本憲吉模様選集』の刊行――どれもが、これまでの製陶活動の偉業の全貌を俯瞰するにふさわしい内容であり、おそらく誰の目にも、まさしく前人未到の輝かしい記念碑的企てとして映じたことであろう。しかし、その一方で憲吉は、どうしても開花させなければならない別の大きな若芽を、決して捨て去ることなく懐にしっかりと抱え持っていた。つまりそれは、モリスに由来する工芸の思想と実践にかかわる若き日に抱いた強い志であった。憲吉はいう。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた128

もし憲吉が、若くして最初から、ひとりの師匠のもとに弟子入りをし、そこで単に陶技を盗み学ぶようなかたちで大成した陶芸家であったならば、重要無形文化財技術保持者の認定を拒むような態度は決して取らなかったであろうし、モリスの社会思想を受容する機会もまた、おそらくは永遠に巡ってくることはなかったであろう。憲吉は、明らかに違っていた。製陶の世界に入る以前に、美術、工芸、建築の世界を知り、その近代的思想を吸収していたのである。憲吉の場合それは、モリスの多様な工芸分野での実践であり、その実践にかかわる社会主義的思想であった。焼き物の製作は、リーチとの交友がきっかけとなって、偶然にもあとからついてきた単なる派生物にすぎなかった。その意味で憲吉は、陶工という現実世界の仮の姿に先立って、その身の本質的真実は美術家であり、さらに加えるならば、社会思想家であり、そしてまた詩人だったといってよい。憲吉がいかに本来的に美術家であったのか、たとえば、晩年に口述された次の言葉がそのことを如実に例証している。

昔ある陶芸家が私の仕事を指して、素人の仕事だと言った事があります。私が自分でロクロをして形を作ると聞いて、金がなくてロクロ師を雇えないからだといい、私自身が嫌になるほど、いま世に行なわれているあの首のない白磁の壺を作ったのを見て、ロクロが下手で引き延ばせないからだ、と批評したことがあります。彼らはイミテーション以外に形を作ることを知らないのです。彼の作った物は要するに職人のまねた形に過ぎません。芸術家の創作した形ではありません129

「首のない白磁の壺」は、轆轤がひけないからでも、轆轤師を雇う資力がないためでもなく、憲吉の立場に立てば、明らかにそれは、胴に対する口部の高さにかかわるバランスの問題であり、突き詰めれば、美術家としての憲吉独自の審美性と独創性の発露の一部となる箇所であった。もっとも、憲吉の轆轤の腕は、お世辞にも一流とはいえなかったようである。藤本能道は、このように振り返る。「先生の仕事振りは決して器用と言えるものではなく、轆轤の技術は下手とさえ言えると思う。中年から稽古されたためか土が延びず、どうかすると中心が定まらず、危なげに見えたが、削り、書き上げてみると独特の含みある美しい形となっていた」130

それでは憲吉にとって、製陶の技法とは何か、陶器の図案(形や模様)とは何か、そして焼き物は一体誰のためにあるのか、一部の富裕層のためにあるのか、それとも広く大衆のためにあるのか――。京都市立美術大学の教授職を得てしばらくすると、憲吉は、「わが陶器造り」の執筆に取りかかった。その理由のひとつは、「私の関係している美術学校に陶器科なるものが創設され、学生諸君のために講義という形式で技法その他のことを口述する必要が生じた」ことにあり、「次に[初代の]尾形乾山が七十歳の死期の近きをさとり『陶工必用』という書を残しておいた」先例に倣うためであり、「その他この書に筆を執った理由としては……ここに書かれた一行の指示によって半年、一カ年の苦しみを数日間に短縮出来たかも知れないということを心において初歩の人々のために書く」131ことであった。「わが陶器造り」を読むと、憲吉が、こう語る箇所がある。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない132

たとえば「作陶四十五年記念展」における白眉の陳列品となった《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》が、国宝のごとき「一品の高価品」であるとするならば、一方で憲吉が、強い責任感のもと「少しでもその標準を上げることに力を尽す」必要性を主張するのが、安価な「公衆の日常用陶器」に対してなのである。「一品の高価品」がプロトタイプ(原案ないし手本)としての役割を果たし、「公衆の日常用陶器」にうまく適応されてはじめて、「数万の日常品が少しでもその標準を上げること」につながるものと考えるならば、美術家の真の創案による「一品の高価品」と、法的に保障された美術家の有する図案権のもとに大量に生産される「公衆の日常用陶器」とのあいだには、何ら隔たりはなく、憲吉の思いのなかでは、むしろ両者は、表裏一体の関係にあるものであったにちがいなかった。続けて憲吉は、こうも書く。

公衆のためのよき陶器を作るには技法を心得た人によって図案を指導されるべきであると思う故に、ここに図案権とわが国現代陶器の大略を書いた。私はこのことを三十年間いいつづけているが、公衆にも作家にも何一つ反応がない。安くて誰にも買える日常陶器を大量に、しかも相当な図案で焼き出そうとする私の企てに一つの賛成を聞いたことがない。私はいうたことは必ず実行に移したい性格なので、二十年ほど前瀬戸で一枚売価五十銭の中皿を千個単位で焼いたことがある。資生堂から依頼されて帯留一万五千個を一個二円五十銭ぐらいで焼いたのも記憶している133

この短い引用にも「図案」や「図案権」という用語が出てくる。どのような意味を込めて、憲吉はこの言葉を使っているのであろうか。以下は、「わが陶器造り」のなかの「図案」と題された一節の冒頭の書き出しである。ここに「図案」の概念がこう規定されている。

図案という語は、英語のDesignという語から来たものと思う。同じ字を建築で通用しているような計画とか設計とかの意味ならもっと判然とするように思える。何か図案というと、絵ではない模様風の染物等の平面に限られたもののように明治以来慣らされてきた。ここでは陶器を造る最初の計画、設計という意味の図案を書く134

こうした規定を踏まえるならば、憲吉が理解していた「図案」は、今日でいうところの「デザイン」に相当する。この時期、憲吉の脳裏では、明治以来使い慣らされてきた「図案」という言葉が指し示す意味内容が解体され、それに代わって、「デザイン」という本来の英語が含み持つ原義に即した概念が生成されようとしているのである。つまり、「図案」という用語を使用する限り、「染物にみられる絵ではない模様風の代物」、転用すれば、「陶器にみられる絵ではない模様風の代物」になってしまう。そうではなく、「デザイン」という概念を用いれば、製作にかかわる全工程(たとえば陶器であれば、着想、陶土、成形、装飾、焼成、さらには販売を含む)の計画と管理を、その言葉に担わせることが可能になるのである。そうした概念の進化は、ひとり憲吉だけのものではなく、大学の学科や専攻科内の呼称においても同様の進展がみられた。この時期、教育の現場にあっても、「工芸」という母体から産み落とされた「インダストリアル・デザイン」という幼児が、その第一歩を踏み出そうとしていた。『百年史 京都市立芸術大学』には、このような記述が残されている。

 昭和三八年[一九六三年]より教員の定年制を実施することになり、黒田重太郎・上野伊三郎・榊原紫峰・富本憲吉……が退官し、開学以来の有名教授が大学を去った。
 同年四月、工芸科の定員を二五名に増員し、工芸科の図案専攻をデザイン専攻に、染織図案専攻を染織専攻に改称し、美術専攻科においても同様に改称が行なわれた135

定年直後の新学期からの改称であったことを考えれば、「図案」から「デザイン」への呼称の変更は、憲吉の考えが広く深く投影された結果だったのかもしれなかった。いずれにしても、大量に安価に生産される日常使いの美しい陶器の出現と、「デザイン」という新しい概念の一般化とは、その当時、車の両輪のごとき不可分の関係にあったものと思われる。憲吉の量産陶器への強い思いとその実践は、さらに最晩年に至るまで続く。

藤本能道が京都市立美術大学の講師として着任するのが、一九五六(昭和三一)年の四月であった。藤本はこう回想する。「そのころ、自作の見本を八坂工芸という問屋に出して安い実用品を量産されることを熱心に実行されていた。また、愛媛県の砥部の陶石に興味を感じられたのか、三十一年から三十三年まで断続的に出向かれ制作をされている」136。内藤匡は、「一九五六年九月二十三日彼岸の中日の夜、伊予国、砥部の窯場にて」137、憲吉の重要無形文化財技術保持者の認定に伴って、「磁器の上の色絵について」聞き取りを行なった。京都での聞き取りに続くものである。そのとき憲吉は、素地について、こう口述している。「乾山の伝書に、近江の比良山の白土という物が書いてあります。これも調べてみますと、大そういいのですが、砂を三分の二以上含んでいますので、素地として使える量が僅かしかありません。今私は四国の砥部の素地を研究に砥部に来ています。これも大そういい材料のようですが、土地の人はそれに適した取り扱い方をまったく知っていません」138

憲吉の量産陶器について、藤本は、さらに次のように述懐する。模様の単純化の重要性を指摘したあと、「信楽で自身で描かれた量産の大皿と、京都で『富泉』として作られた家庭食器ではその点よく考慮されていて、後者には力強い筆力を必要とする文様はなるべくさけて、全体としてさわやかな感じにとの配慮が見える」139

一九六一(昭和三六)年五月、東京でのロータリークラブの第五二回国際大会の開催にあわせて、日本橋の高島屋八階ホールにて、「富本憲吉作陶五十年記念展」が開催された。内藤匡は、この展覧会図録に「作陶五〇年記念展について」の一文を寄稿し、そのなかで憲吉のこれまでの作風の変遷にかかわって、次のように書き添えた。

 焼物のいろいろの技法を自由に使いこなすばかりでなく、先生の更らに優れた点は美しい新鮮な模様を作られた事だ。昔の図案を改良したり、それにヒントを得たりしたのでなく、先生自身で自然を観察して、新らしく創り出したものばかりを使われた。そこで、大正の時代から先生は“模様の作家”として知られた。やがて“色絵の作家”と歌われ、“金銀の作家”と讃えられるようになったが、やはり私は、“模様の作家”の方が先生を最もよく表わしているように思う140

そして続けて内藤は、今回の展覧会について、こう紹介する。「此の五〇年間に先生の創られた模様はおびただしい。そのうちから十数点を選び、これを約五〇点の皿、陶板、壺、飾箱、香炉等に焼いて、図案と共にならべて、作陶五〇年記念展を開く事にした。図案の作り方、その応用のしかた、熟練した手腕等を研究鑑賞するにはまたとないよい機会だ。御覧んになることをおすすめします」141。この図録は、英文による配慮も行き届いており、内藤による英文の序文には、憲吉の来歴のみならず、国展、民芸、新匠会の三者の関係もまた明示されていた。この展覧会を朝日新聞は、「若々しい装飾感覚」という見出しをつけて、「こんどの展観では、銀彩の効果をみごとに生かした飾り箱や、円や斜線でしょうしゃな構成を見せた大ザラの表現など、その若々しい装飾感覚に注目したい」142と、評した。

一九五三(昭和二八)年二月に続いて、この年(一九六一年)の八月、バーナード・リーチが来日した。戦後二度目の訪問であった。しかし、彼のおよそ五〇年来の旧友であり、民芸運動の主導者であった柳宗悦は、すでにこの五月に亡くなっていた。「私は民芸館で、旧友柳宗悦の霊前で香を焚いた」143。続いてリーチの「一〇月二五日」の日記には、安堵村を訪問したことが記されている。

 昨日、富本と堀内と私は、奈良を通り抜け、京都からおよそ四五マイル離れた法隆寺の近くにある安堵村のトミー[富本]の旧宅へ車で行った。……何年もの月日を経たのちに、このゆかりの地を再び訪れることは、感動的であった。前と同じように庭には古い石があり、古い蔵の脇には同じ木蓮の木が立ち、門番小屋の外側には、変わることなく、緩やかな流れの掘割があった――五〇年の歳月が流れていたのだった144

リーチの日記は、この安堵訪問には、わけがあり、それは、まじかに迫った憲吉の国家的栄誉の顕彰に関係していたことを伝えている。先祖への報告や祝賀会の打ち合わせのようなことが考えられるが、リーチは具体的には何も語っていない。安堵村の生家を訪ねる五日前の一〇月一九日、朝日新聞は、この年の文化勲章の受章者として、憲吉をはじめ、作家の川端康成、京大名誉教授(中国文学)の鈴木虎雄、東大名誉教授(構造化学)の水島三一郎、日本画の福田平八郎、同じく日本画の堂本三之助(印象)の六氏が内定したことを報じていた145。「川端康成氏ら六人 文化勲章の受章者きまる」の見出しがつけられたこの記事のなかで、憲吉の受章は、工芸分野にあっては板谷波山に次ぐ二人目であることが紹介され、さらに、一〇名の選考委員の名前も公表された。そのなかには、倉敷レイヨン社長の大原総一郎の名前も含まれていた。受章が決まると、憲吉の身辺では、急に慌ただしさが増してゆく。

 受章が決まって、最初に奈良県郡山中学の同級生で、大和の同村の出身である今村荒男君(元阪大学長)が電話をよこした。「えらいものをもらうんだね。僕が去年もらったのは文化功労年金で、君のやつの方が、ずっと上だよ。しっかりせにゃいかんね」ということだった。暗に、僕がまた「[重要無形文化財技術保持者の認定のときと同じように]そんなものいらんよ」と断わるのではないかと心配してくれたのかもしれない146

しかし、この受章を断わることはなかった。一一月三日の文化の日、その授与式が皇居で行なわれ、その後受章者たちは、天皇陛下を囲んで昼食をともにし、歓談した。そのとき憲吉は、「陶器の上に溶解度のちがう金と銀を重ねて置けるよう工夫した苦心談を披露」147した。

授与式から一〇日が立った一一月一三日、大原美術館に新たに設けられた陶器館の開所式が行なわれた。その日の様子を、大原総一郎は、「大原美術館 陶器館開設の日に」と題して綴り、『民藝』(第一〇九号、一九六二年一月号)に寄稿している。以下は、その一部である。

 去る十一月十三日、来日中のリーチさんと富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司の四氏を倉敷に迎え、大原美術館の新しい陶器館の開館式を行いました。……この陶器館は、去年の終り頃着工を決意し、今年の十一月頃を目指して完成させるよう計画したものでした。建物は昔の米倉です。……八つの土蔵は……その中の北側にある三棟が陶器館となり……一号館は浜田さん、二号館の二階は富本さん、階下はリーチさん、三号館は河井さんの作品にあてられており、現在では、二百点ばかり陳列されています。これらの陶器は今から三十年近く前に、父が好んで蒐めたものに端を発して現在に及んでいます148

この日の夕刻、四人は、倉敷民芸館の主催による講演会に臨んだ。美術館裏手の新渓園で催され、テーマは、中世英国の陶器についてであった。憲吉は、楽焼きをはじめたころ、たまたま本屋で見つけたローマックス著の『風雅なる英国の古陶器』という洋書をリーチと奪い合うようにして読んだ思い出を語っている。この講演会での講話の内容は、「四陶匠は語る」と題して抄録編集され、同じく『民藝』同号に掲載された。このとき話題になった、『風雅なる英国の古陶器』という本については、著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』においてすでに言及しているように、その経緯は判然としないが、現在、駒場の日本民藝館に残されている。

この開館式の様子については、リーチの日記でも、「倉敷――一一月一二―一四日」の箇所で触れられている。しかし、招待された四人の陶工の心のなかについての描写はない。文化勲章を受けたばかりの憲吉。憲吉とは絶縁状態の民芸派に属する河井、濱田、そしてリーチ。さらに加えれば、このたび、文化勲章の選考委員を務める一方で、四人の常設展示室を設けた大原総一郎。民芸を唱導するも、この五月に亡くなった柳宗悦。そこには複雑な人間関係があったことが想像される。果たして開所式のこの一日、彼らはどのような会話をしたのであろうか。

この秋のある日のことである、リーチと憲吉は、丹波の山に車で一日旅行を楽しんだ。「私は日本の田舎が、かくも見事に美しいことを発見しつつある。そして、農家の一年を表わすために、時間と技量があれば、田園生活を一連の図案に描いてみたいと思った。自分も同じ思いをもっている、と富本は私にいったが、彼の場合は、イギリスの田舎生活が念頭にあった」149。さらに滞在中の回顧が続く。この一文のすぐあとに、リーチはこう書き記す。「京都では、堀内家に滞在した。最近[栃木県の佐野地方で]発見され、森川勇氏の所有になる初代乾山の陶器を見るために、私は、[六代]乾山の娘の尾形奈美とそこへ向かった。富本は、自分の思いが的中し、もしそれらの作品が贋作であることがわかったならば、やっかいな立場になることを恐れて、どうしても行こうとはしなかった。そこで私は、堀内と奈美と一緒に出かけた」150。果たしてリーチの目には、どう映ったか。「最初のひとまとまりの陶器を見て、私は仰天した。それらすべてが本物であることを確信したからである!」151。リーチは、年が改まった一九六二(昭和三七)年の「一月六日、高度三万フィートの上空を大阪から東京へと飛ぶ」152

憲吉は、リーチとの最後の別れについて、こう書いている。

彼が日本を離れる日も近づいたある日、工房で昔のように長い間、話し合ったが、別れぎわ、彼は私の手を握り「もう、これで、お互い死ぬまで会えないかもしれないね」と目にいっぱい涙をためていた。五十年前、リーチとともに、いたずら半分にやった即席楽焼きが私たちの生涯の道を決定した。思えば、陶芸一筋につながる長い友である。私も感慨無量だった153

リーチが関西を発って一箇月が過ぎた。一九六二(昭和三七)年の二月に入ると、日本経済新聞は、憲吉の「私の履歴書」を一〇回に分けて連載した。各回のタイトルは以下のようなものであった。

一 十二歳で父を失い家督をつぐ
二 ふらふらと東京美校に入学
三 日本で最初のバンドを作る
四 二十三歳、ロンドンに留学
五 カメラ提げて回教寺院回り
六 楽焼が陶芸一筋の生涯を決める
七 多事多難の二十年
八 安い陶器を作って売る
九 終戦の翌月芸術院を去る
十 思いもかけぬ文化勲章

このような流れに沿って憲吉は、自分の歩んできた道を振り返った。死去する一年数箇月前の最晩年、まもなく人生の終わりを迎えようとするこのときに、最期の言葉として、憲吉は何を語っているのであろうか。最終回の「思いもかけぬ文化勲章」の最終部分には、量産陶器のさらなる発展へ向けての期待と、乾山が書き残した『陶工必用』の解読へ向けての意欲が、綴られていた。

 若いころからの私の念願であった“手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう”という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま私は一つの試みをしている。
 それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。……すでに市販もされて、なかなか好評だということだが、価格が私の意図するほど安くないのが残念である。だが、これも、まだ緒についたばかりだから、やがて、コストダウンの方法が見つかるかもしれない154

そして続けて――。

 もう一つ、かねてから初代乾山の「陶工必用」という本(大和文華館所蔵)を写真にとってもらってあるが、ことしは、これを読んで乾山の処方通りの材料を集め、乾山の楽焼きや色絵の実験をやるつもりでいる。私の実験の結果が、ひとり私の陶芸ばかりでなく、日本の陶芸界全体にお役に立てればよいと考えている次第である155

これをもって、「私の履歴書」の連載は完結した。そしてこれが、憲吉にとっての事実上の絶筆となるものであった。

思い起こせば、中学時代に堺利彦が訳載したウィリアム・モリスの「理想郷」を『平民新聞』に読み、モリスの思想と仕事に憧れを抱いて渡英すると、サウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参し、モリスの実作を見ては、英国風の気高き趣味に胸を打たれ、その一方で、日本ではなく、この博物館において、垂れ下がる梅の枝と詩句を描いた初代乾山の焼き物にはじめて遭遇するのである。憲吉は、純正美術と応用美術の両者(たとえば絵画と更紗の両作品)が、差別されることなく同等の美的価値をもつものとして陳列されていることに驚き、この博物館を知らなかったならば、自分は工芸家になることはなかったであろう、とのちに告白する。帰朝すると、バーナード・リーチと知り合い、焼き物に熱中するリーチを連れ、通訳として六世乾山を訪ねた。こうしてリーチは知遇を得て、乾山の弟子として焼き物の世界に入る。他方憲吉は、初代乾山の梅の図柄に寄り添い、《梅鶯模様菓子鉢》をリーチの窯で焼く。この楽焼きが憲吉の処女作となるものであった。このころの憲吉と自分は、すべてを分かち合う、さながら兄弟のごとき関係であった、とリーチは回顧する。ほぼこれと時期を同じくして、『美術新報』に憲吉は、「ウイリアム・モリスの話」を寄稿した。それを出発点として、「芸術のための芸術」でも「国宝」でもなく、「生活のための芸術」と「日用雑器」を重視する、憲吉のモリスに倣った哲学が、苦闘を伴いながらも晩年まで展開されてゆく。同じく晩年には、初代乾山の『陶工必用』に出会う。そしてその伝承内容を、さらなる自分の血と肉にしようと努める。没後、その間リーチの手もとに置かれていた《梅鶯模様菓子鉢》が、最終的にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に寄贈される。

人は、厳然たる事実として父と母から生命を受け継ぐ。その観点に立てば、工芸家としての憲吉は、父をモリスに、そして母を乾山にもったことになる。さらにそれに加えるならば、憲吉の生没地は、明らかにロンドンのサウス・ケンジントンであり、リーチは、生涯にわたりそれぞれが日英にあって同じ道を歩き続けた七箇月違いの若き弟であった。上に引用した「私の履歴書」におけるモリスと乾山への最終的言及が、疑いもなく、それらのことをすべて、静かに例証しているのである。

他方、この「私の履歴書」の全編を通覧してわかる特質も、幾つか存在する。ひとつは、初回から第六回の終盤に至るまでが独身時代にかかわる記述であるということである。若き日の出来事と思い出が、かくも大きな衝撃となって最後の最後まで憲吉の心を強く支配していたのであろうか。別のいい方をすれば、実際に製陶人生を開始したのちのことよりも、そこに到達するまでに展開された様態の方が、憲吉の記憶にとっては、重みをなすものであり、同時に、意味をなすものであったということになろう。

もうひとつ特徴を挙げるとすれば、この連載のなかにあって、一枝のことも結婚生活のことも、そして、のちの伴侶についても、いっさいその話題が登場することはなかったということである。その意味で、憲吉の「私の履歴書」は、あくまでも「私の仕事の履歴書」であって、「私の家族の履歴書」は全く含まれていない。裏を返せば、「私の家族の履歴書」など、決して易々と表に出される筋合いのものではなく、それは自分だけの心にそっとしまい込むものであるというような何がしかの夢想的判断が、執筆中の憲吉の脳裏を常時支配していたのかもしれなかった。あるいはそれとは逆に、一枝との過去の結婚生活も、いまの伴侶との内縁関係にある生活も、もはや心の重きをなすものではなく、事実としてただあるだけの、いっさいそれにとらわれない空なる存在となってしまっていたのかもしれなかった。さらに可能性を広げるならば、そうした二者択一的な明確さとは様相を異にする、曖昧で複雑で、行ったり来たりの、もはや輪郭を描くことさえできない何か別の模様が、愚痴や嘆きとなって、憲吉の心を覆っていたのかもしれなかった。憲吉は、文化勲章の皇居での授与式にどちらかの女性を同伴することもなかったし、自分の死後について、常々こうも漏らしていた。以下は、藤本能道の言葉である。

 先生は六十歳にして、それまでに得た地位も何もかも捨て再出発しようとするような気の強い反面、よく愚痴もいわれ「私は嘆くことの多い人間だ」と笑われ「私には墓はいらぬ。死んでも拝んだりするような事はして欲しくない。作品が墓だ」と晩年、常々口ぐせのように言われた。自分の行った行為を、作品を見、感じることによって正当な評価を望むだけで、結果としての地位や伝説のような論議は困るとの教えのように感じられた156

憲吉は、父親の死後、長男として家督を相続したにもかかわらず、従来の家制度を継承することなく、その外側にあって生きようとした。その結果、結婚に際しては、富本家にも尾竹家にも属さない、ともに家を出た男女がつくる新しい家族という集団の形成を目指した。しかし、それは完成することなく、夫の立場にある憲吉の方から、途中でその集団を脱した。同じようにそのとき、帝国芸術院や東京美術学校という集団からも離れた。どの集団の組織原理も、当時の憲吉にしてみれば、耐えて無言のまま内面化することができなかったのであろう。それらのことは、この文脈において、何を意味するのであろうか。このときまでに憲吉は、強固に因習に残る国家的な制度としての「家」、相互の信頼のうえに本来築かれるはずの「夫婦」、本人の力量や思いとは無関係に体制維持の都合により供与される「栄誉」――それらはどれも、色あせやすく、移ろいやすく、壊れやすく、あくまでも他者の現世界であり、永遠に安住できる自己の「墓所」にはなりえないことを悟っていたにちがいなかった。それでは、ここに至って、憲吉にとっての確かなるものとは一体何だったのであろうか。それは、「家」でも「夫婦」でも「栄誉」でもなく、ひたすら自分がこしらえた「作品」、ただそれだけだったにちがいなかった。おそらくは、こうした思いが強められていくなかで、「墓不要」という次なる意識が形成されていったものと思われる。自分の判断と責任において、すでに家制度からも婚姻制度からも距離を置いていた憲吉は、したがって、入るにふさわしい「家」の墓廟も、墓石を共有するにふさわしい「夫婦」の相方も、この時点に至るまでに完全に失っていたといえる。確かに、京都市立美術大学教授、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)、文化勲章受章者という、金銀彩にも似た華麗なる「栄誉」は身にまとっていたものの、それも埋葬とともに消滅するとすれば、生きて残るのは、やはり、魂としての「作品」だけであり、憲吉はそれを強く思いに秘めていたのであろう。上の引用に認められるように、藤本は、憲吉の性格として、気の強い側面と、嘆き愚痴をこぼす側面とを指摘している。「窯なき放浪の陶工」が、嘆き愚痴をこぼす側面を表象しているとすれば、気の強い側面を表わす字句としては、さしずめ「すべての不合理を捨てて個に生きる 近代人 モダニスト 」ということになろう。悲嘆と信念というふたつの対照的な色彩によって一体的に描き出された 近代の図案 モダン・デザイン こそが、憲吉その人のあるがままの心模様だったのではないだろうか。

「私の履歴書」の連載が終了してしばらくすると、建築中であった新しい住まいが完成する。辻本勇は、このように記す。

昭和三十七年(一九六二)の六月、かねてから吉村順三氏の設計で建設中だった山科御陵 ママ の後に新居が完成、京都二条御所近くの寓居から、富本は石田寿枝と共に引っ越した。彼女が富本の身のまわり一切の世話をするようになったのは、富本が松風の家を出て、二条城近くに住んだ時からだ157

新烏丸頭町の借家は、二間ほどの居室と、上絵の仕事をするために増築された別室とからなる、実に簡素な設えであった。これで、長いあいだの幾分不自由な仮住まいの生活も終わった。しかし一方で、憲吉の体は日に日に弱まりはじめていた。このことを考えるならば、この新しい家の建設は、自分が住むためというよりも、むしろ、十数年にわたる内助の功に対する感謝の気持ちとして、自分よりもはるかにこれから長く生きることになるであろう伴侶へ遺すためのものだったのかもしれない。もっとも、憲吉が伴侶と定めたこの石田寿枝という女性については、すでに述べているように、関係する資料があまりにも乏しく、この間ふたりが新烏丸頭町でどのような暮らしをしていたのか、あるいは、新居に移り住んだのち、憲吉は自らの最期をどうこの女性に託そうとしたのか、そうしたことを正確に再現して記述することは実際上難しい。新居への移転は、東京の憲吉の家族にも知らされた。いま、その転居通知のはがきが、孫の海藤隆吉の手もとに残されている。

三.離別後の一枝の晩期

憲吉は、一九四六(昭和二一)年六月に、祖師谷の家を出て、安堵村に帰った。そのとき一枝は、五三歳であった。ここから一枝の戦後の生活がはじまる。神近市子は、一枝の晩期について、こう語る。

晩年は夫君と別居され、青春時代の華やかな紅吉を思うと涙をそそられるような淋しい日々だったが、花森安治氏が彼女をかばって、いつまでも『暮しの手帖』に執筆を依頼した。中村汀女氏も彼女を選者に迎えて、最後まで彼女の才能を評価された。その意味では、一枝さんは幸せな人であった。私たちの友情も終生変わらなかった158

中村汀女(本名は斎藤破魔子)は、一九〇〇(明治三三)年に熊本市の江津湖畔に生まれ、『ホトトギス』に初投句するのが、一九二〇(大正九)年の二〇歳のときで、同じくこの年、同郷出身で税務官吏であった中村重喜と結婚する。その後順調に句作を続け、一九四〇(昭和一五)年に『春雪』を発表すると、さらに続けて、戦局厳しいなかにあって、一九四四(昭和一九)年、『汀女句集』を刊行することになる。一枝と汀女が知り合うのは、戦争末期の耐乏生活を強いられていた、ちょうどこの時期であった。汀女は、自伝『汀女自画像』のなかで、こう書き記している。

作家の大谷藤子氏とは近所だから知り合い、そして紹介してもらったのが富本一枝氏である。さっそく買い出しに連れられた。小田急線の鶴川に住まっておられる神近市子氏を「たよる」というのであった。初対面、わが家にあったビールを二本おみやげにした。神近家にはいろいろな人たちが来ていられたようだ。その日もさっそくビールをあけられていたが、富本一枝氏が、「あら、私にも飲ませて下さいよ」と言われたのに、私はちょっと驚いた。「女にもやはり飲む人がいるのだなあ」といった感じであった。神近家を中つぎにしてそこから三里入ったところの農家へ行く。ひたすらに歩けばよかった159

こうして、戦時下の買い出しや疎開を通して女性たちは協力し合い、それに伴い交流の輪も広がっていった。続けて汀女は、こう書く。「この縁故で、私たちは神近家に疎開荷をあずけ、また農家にも荷をあずける日が来た。また、二十二年に創刊した、主宰誌『風花』の編集も富本一枝氏がやって下さることになったのである」160。『風花』創刊の話が持ち上がったのは終戦の翌年(一九四六年)のことであった。汀女はこの年、盲腸炎を起こして、北沢の鵜沢病院に入院した。「院長、生生子、ゆみ女の夫妻は俳句を作っておられ、やがて句会、私は二階の病室からその座敷に加わった。そこで『風花』発刊の話が出たのであった。発行は二十二年の四月、富本憲吉氏が表紙を描いて下さった」161

汀女の直前の発病により、刊行が一箇月遅れ、『風花』創刊号が実際に発行されたのは、奥付によると、一九四七(昭和二二)年の五月一日であった。さらにこの創刊号の奥付には、編輯者に富本一枝、發行者に中村汀女の名前が記載され、發行所は風花書房で、所在地の住所は、汀女の自宅の「東京都世田谷區代田二ノ九六三」となっている。また、「本號特價十八圓」の文字も並ぶ。目次に目を移すと、最初の行に「表紙・扉・カット」として富本憲吉の名前が明記されている。【図一二】が、憲吉のデザインによるその表紙である。この創刊号には、九人の執筆者が寄稿し、そのなかには、武者小路實篤の「畫をかく事で」、室生犀星の「(俳句)蕗の とう 」、そして河盛好蔵の「何を讀むべきか」などが含まれていた。汀女は、このような著名人への原稿の依頼について、「こうしたお願いなども編集をやって下さった富本一枝氏の配慮であった。諸先生にはほとんど稿料というものもさしあげ得なかった」162と、自伝のなかで回顧している。この句誌にとっての最重要部分が、いうまでもなく、「風花集」と「選後評」であった。「風花集」は、多くの投稿句から汀女が厳選した作品が掲載され、一枝の娘の成田陽の句や、陽の小学校時代からの友人の井上美子の句も含まれた。「選後評」では、「風花集」のなかから秀作一五句が選ばれ、それぞれの作品について汀女が短評をつけた。そのなかには、陽、美子、そして鵜沢病院の院長夫妻の作品も含まれていた。そして最後の「後記」に、編集を担当した一枝の言葉を読むことができる。一枝は、このように書き出す。

 創刊號の編輯後記を書かうとして、私は感慨深い思ひです。昨年の十二月から約半歳、本誌を發刊するにつけて苦勞しました。中村さんも私も、出版事情が日に日に悪い時期に、雜誌を出すといふことがどんなに困難な仕事であるかと云ふことは充分計算にいれてゐましたが、さて仕事にかかつてみると、豫期しない障害が次々にやつてきて、幾度か引き返したくなりました。それでもとにかく此處まで辿りつきました。それだけに嬉しさ格別です163

一枝は、「私は感慨深い思ひです」と書く。その思いは、単に、大きな苦労のうちに何とか創刊することができたという達成感だけに止まらず、この句誌の第一号の「後記」を書くにあたって、かつての『青鞜』や『紅番花』のときのことがにわかに一枝の胸に蘇り、そうした過去の思い出とない交ぜになって、感慨は一層の複雑さを増していたものと思われる。あのときは、憲吉を知ったばかりの時期だった。他方いまは、憲吉が家を出たばかりの時期である。その間の結婚生活は、自分にとって一体何だったのであろうかと、ふと自問したとしても不思議ではない。憲吉に表紙のデザインを依頼したのは、いつだったのであろうか。一枝がいうように「昨年の十二月から約半歳」が編集期間であったとするならば、すでに憲吉は祖師谷を出て、家にいない。もしこの期間に依頼しているとすれば、一枝は安堵村の憲吉に、この件で連絡をとったことになる。思い起こすと一枝は、『青鞜』や『紅番花』のときも、安堵村にいる憲吉に連絡をとり、木版に使う下絵や表紙を飾る原画の製作を依頼していた。くしくも一枝は、この『風花』の編集作業を通して、若い日のあのときと全く同じような内容と方法により、憲吉との交流を再体験したのであった。しかし違うのは、『青鞜』や『番紅花』のときは、ふたりの関係のはじまりを意味したが、『風花』の場合は、その終わりを意味していた。

『風花』創刊号の刊行から一箇月が立った一九四七(昭和二二)年の六月、新匠美術工芸会の第一回展が東京日本橋の高島屋で開かれた。このとき憲吉は上京し、祖師谷の旧宅において「續陶器技法感想」と題する巻き物を描いた。一枝は、憲吉のデザインした表紙で装丁された『風花』を差し出し、お礼をいったにちがいない。ふたりの心が和んだ一瞬だったかもしれない。しかし、家を出てからこの間、憲吉は、一枝に二十余通の手紙を書き送ったにもかかわらず、一枝からの返信は滞っていた164。憲吉はそのことについて怒りをあらわにしたかもしれなかった。一年ぶりの再会であった。この滞在中にどのようなことが話し合われたのかについては、資料に乏しく再現することはできないが、結果から見れば、もはや夫婦としての同居生活が再開されることはなかった。それでもその一方で、この創刊号のために揮毫した題薟の「風花」が、書体として微妙に進化を遂げながら、その後の憲吉の文字模様として、しばしば使われてゆくことになるのである。

第四号と第五号は合併号として、同年(一九四七年)の一二月一日に発行された。柳田國男が「病める俳人への手紙」を、水原秋櫻子が「俳壇月評」を寄稿し、他方、娘の成田陽も、創刊号の「(詩)四章」に続けて、この合併号には、「めんどりの歌(詩)」と題する詩を書いた。この詩は四連からなり、「五羽のめんどり/あさもやをくぐり/コスモスをくぐり/大きく羽搏く」165の第一連ではじまる。めんどりのあるがままの動きをとらえた純朴な歌となっている。「後記」には汀女自身の一文もあり、このようなことが書かれている。「十一月風花句會は思ひ立つて、郊外吟行となり、祖師谷の富本邸に集りました。折からの小春日に、丘の孔楽紅葉美しく、稲架の並ぶあたゝかい畦道を歩いて、いゝ作品が集りました」166

のちに平塚らいてうは、成城地区の婦人仲間の句会について、次のように回想している。どうやら一枝自身は、句作には、全く関心を示さなかったようである。

 知人の料理研究家中江百合子さんのさそいかけで、成城に住む婦人仲間の句会が、一九四六年十一月から、中村汀女さんをむかえて[祖師谷の中江邸で]ひらかれていました。わたくしがそれに加わったのは、四八年のはじめごろかと思います。……中江さんとごく親しいあいだがらの富本一枝さんも、ときには顔を見せますが、句作にはまったく加わろうとしません。……彼女の句というものは、ついぞ目にしたことがありません。……句会の日は……まだ物の不足していたころですから中江さんが手ずからつくってくれる、蒸し寿司やお雑煮をいただくことが、また楽しみの一つでした。……『風花』は、四七年に創刊されましたが、わたくしはその三号から出句しています167

一九四八(昭和二三)年の一二月一日に発行された第一〇号を開くと、「風花集」に、平塚明子(らいてう)と中江百合(百合子)の作品が、そろってそれぞれ三句、掲載されている。しかしながら、それ以上に目を引くのは、この号に「少年少女圖書出版 山の木書店」の広告【図一三】が掲載されていることである。広告されている書籍は、吉野源三郎著『人間の尊さを守ろう』(定価一二〇円)、久保田万太郎著『一に十二をかけるのと 十二に一をかけるのと』(定価一三五円)、中澤不二雄著『ぼくらの野球』(定価七〇円)の三冊で、出版社の所在地は「東京都世田谷區祖師谷町二ノ八二九」となっている。一枝は、この時期あたりから、『風花』の編集業務から少しずつ離れ、「山の木書店」という出版社を立ち上げると、児童図書の刊行事業に全力を注ぐようになっていったものと思われる。

この「山の木書店」については、ほとんど資料がなく、陽の息子の富本岱助が後年書いた「祖母 富本一枝の追憶」が貴重な手掛かりを与えている。それによると、このような背景から「山の木書店」は生まれた。

 祖母についての思い出は、数多くあるが、とりわけ印象的な事と言えば終戦直後に設立した「少年少女図書出版・山の木書店」もその一つであろうか。
 戦争が終って間もなく昭和二十二年、祖母は私の母、陽と共に児童向け専門の出版社を設立する爲に準備を進めていた。スタッフは祖母と母の二人しか居らず、資金の調達を始めとして、当時統制下にあった紙の調達や、原稿の執筆依頼、印刷所の手配、と言った慌しい日々を送っていたが、或る日、祖師谷の家に出資金が大きなトランクで持ち込まれた事があった。当時は五銭・十銭といった少額の貨幣がまだ充分通用する時代であったから、その百円札の束が山になっている様子は子供心にもかなり迫力を感じ、家が随分と金持ちになった様に思ったものだった。
 この出版社に出資された方は、祖母の友人の甥で、秩父の山林業を手広く営んでおり、そこから「山の木書店」と名付けられたそうである168

「山の木書店」は、このような経緯をたどって、一枝と陽の親子の手によって誕生した。岱助が一〇歳になるころの話ではないだろうか。ところで、ここに岱助が書いている、この新会社に出資をした、秩父で手広く山林業を営む祖母の友人の おい とは、どのような人物だったのであろうか。戦争末期、憲吉は東京美術学校の「高山疎開」に伴い、飛騨高山で学生たちと一緒に生活をしていたが、一方、残された一枝たちは、大谷藤子の実家のある秩父へ戦火を逃れて疎開した。おそらくこのときに、甥として大谷から紹介され、面識を得た人物なのであろう。憲吉が家を出ると、一枝と陽は、児童図書の出版会社の設立を思い立ち、そのための資金援助をこの大谷の甥に求めたものと思われる。こうして出版事業に理解を示し、出資してくれる人も現われ、一枝と陽にとっての戦後生活は、一見順調に滑り出したように見えた。しかし、「山の木書店」の経営は、その後決して順調に推移したわけではなかった。岱助の追憶は、次のように続く。

 紆余曲折のすえ昭和二十三年十一月に第一冊の『人間の尊さを守ろう』(吉野源三郎著)が発行された。
 戦後の混乱期の最中に、あえて児童向けの本を出版する事は、単に生計の爲だけになされたのではなく、子供達に良質の本を与えたい、と言う祖母の思いが強く働いていた様で、さかのぼって見ると、幼かった娘達と共に夫婦合作の手づくりの家族小冊子『小さな泉』にその原点があったのではないだろうか。その二十数年にわたる思いが、「山の木書店」に結びついて行き、第一冊目が発行されたのだが、幼い私が、広間に積まれた返本の山の中で遊んだ記憶がある程なのだから、あまり売れ行きは良くなかった様であった169

また、ちょうどこのころ、一枝の身の回りでひとつの出来事が起きた。作家の近藤富枝が、一九八二(昭和五七)年発刊の自著『相聞 文学者たちの愛の軌跡』のなかで記述している話である。記述内容に即してその出来事へ至る背景を要約すると、だいたい次のようになる。一九四四(昭和一九)年の八月、富本一枝から「特別の交際」を求められた大谷藤子は、一枝には過去に多くの女性と関係を重ねていた経緯があったため、躊躇するところはあったものの、ついにそれに応じる関係になり、一九四五(昭和二〇)年春からの疎開中も、藤子の母方の実家で一緒に共同生活をするほどの親しい仲になっていたが、戦争が終わり東京にもどると、一九四八(昭和二三)年ころ、S女にその大切な愛を奪われてしまった。こうした背景から、この出来事は生まれた。

 あるとき藤子は一枝の家でS女と出会い、争ってもみあいとなり、眼鏡をとばしてメチャメチャにするという事件があった。藤子もS女も和服一本槍なので、八つ口はさけ、帯はほどけ、どちらも惨澹たる姿だったにちがいない。S女とて藤子より一歳年長の世帯持ちなのである……。
 藤子は一枝の経営する少年少女出版、山ノ木書房に、秩父の山持ちの甥を動かして出資し、S女は自分の主宰する歌誌に、一枝の随筆やカットを採用して生活を授けた。どちらも一枝を独占しようとして懸命であった。しかしこの闘いは世なれぬ藤子の負けであった170

富本一枝と大谷藤子は実名が使われている。この一文が世に出たとき、ふたりはすでに世を去っていた。明らかに「S女」とは、当時存命していた中村汀女のことであろう。旧姓が斎藤なので、そこから採られたイニシャルだったのかもしれない。「歌誌」とは、句誌の『風花』を指しているものと思われる。著者の近藤富枝は、一枝が大谷に求めた関係を「特別な交際」という表現を使っている。もし一枝がこの時期、自分の心の性を「男」としてはっきりと認識していたのであれば、「特別な交際」は、たとえ女同士であろうとも、決して「同性愛」などではなく、それは、れっきとした「異性愛」を意味する。一枝とS女とのあいだにも、同様の「特別な交際」が存在していたかどうかはわからない。しかし、双方に何らかの好意的感情が働いていたことは疑いを入れないだろうから、この三者は、いわゆる「三角関係」に近い間柄にあったわけであり、つまり、この出来事は、一枝という「男」を巡る、ふたりの女による奪い合いだったということになろうか。

以上のような判断が可能となるのは、何はともあれ、近藤の描写内容が、いっさい疑う余地のない真実であることが前提となる。創作的な手が加えられていたり、あるいは別の何か思惑によって脚色さていたりしていれば、話はすべて振り出しにもどる。

『女人藝術』についての本を執筆していた尾形明子は、大谷藤子が亡くなる年(一九七七年一一月没)の夏に直接本人に電話をし、一枝についての回想を聞き出している。

戦争の少し前ごろから親しくなりまして、富本さん、家中で秩父の私の実家に疎開してみえたりしました。感覚の鋭い魅力的な人でした。背が高くて、ちょっと首をかしげるのが癖でしてね。一時ちょっとしたことから気まずくなってしまいましたが晩年はお気の毒でしたね。富本憲吉さんが別の女の人と暮らしていろいろ辛いこともあったようです。淋しがり屋で子供っぽさの脱けきらない人でしたから171

大谷のいう「一時ちょっとしたことから気まずくなってしまいました」の意味する内容が、この出来事を指しているのであろうか。即断はできないものの、もし、この出来事がほぼ事実であったとするならば、人間関係が気まずくなったことは横に置くとしても、いわゆる「日䕃茶屋事件」にみられるような、傷害事件にまで発展しなかったことは、三者それぞれにとって、結果的に幸運だったのではないだろうか。

いずれにしても、山の木書店は最終的に行き詰ってしまった。岱助は、こう続ける。「『フィリップの本』(小牧近江著・二十三年)、『ミラノ物語』(辰野隆・鈴木信太郎・横塚光雄著・二十四年)、『柿の木のある家』(壷井栄著・二十四年)等が続けて出版されていったが、昭和二十五年『ジァンヌ・ダルク』(横塚光雄著)を最後に、再三の資金繰りも空しく潰れてしまった」172

一枝と陽にとって、この倒産は、大きな挫折だったものと思われる。岱助が指摘しているように、児童図書の刊行が『小さな泉』の延長線上に位置づけられていたとすれば、この間長らく抱き続けてきた大きな夢が、またしても短期間のうちにあって十分な成果を上げることもなく終焉したことになる。その一方で、金銭的にも、意に反して、はるかに大きな負債を抱え込んでしまったにちがいない。全財産が残されていたとしても、日々の働き手としての夫が家を出てしまった現状にあっては、並々ならぬ生活上の痛手を甘受しなければならなかったのではないだろうか。一枝も陽も、編集者や書き手としての経験は、多少なりともあったにせよ、企業経営者としての実務は、これまでに体得することのなかった異次元の別世界であり、そうしたことが、おそらく失敗の要因となっていたのであろう。

この時期一枝は、まさしく寒風が身をたたく荒れ地の片隅に、独り無言のまま立っていたものと思われる。一九六九(昭和四四)年に「華麗なる余白・富本一枝の生涯」を『婦人公論』に発表した、女性史研究家の井手文子は、そのなかで、男女のエゴイズムにかかわって、このようなことを指摘している。

 というよりも、男と女のエゴイズムの相違かもしれない。男のそれが、あくまで個の貫徹に帰着するのにくらべて、女のそれは、子を産み、育てるというなかから、そのエゴをふくらませ、子供に賭け、人間一般への愛憐にまで昇華させていく場合が多いのである。しかも、男性優位の社会では、老年の男のエゴによりそう若い女性はかならずあり、いっぽう老年の女は、腕をもがれていくように、子供たちとも切りはなされ、多くは荒涼とした晩年をすごすのである。憲吉が第二妻として京都で暮した女弟子は、ごく普通の“女らしい”女性だった173

一般論としてではなく、実際の一枝はどうだったのであろうか。いとこの尾竹 したし は、一九六八(昭和四三)年に『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』を上梓し、そのなかで親は、晩年の一枝がこう漏らした、と記す。「戦後、私は一時死のうと思って、古い手紙など、身のまわりのものを焼き捨てたことがありました……」174。この挿話が、憲吉が祖師谷の家を出た一九四六(昭和二一)年ころのことなのか、大谷藤子と中村汀女と一枝とのあいだにいがみ合いが生じた一九四八(昭和二三)年ころのことなのか、憲吉と石田寿枝が同居をはじめたと思われる一九四九(昭和二四)年ころのことなのか、それとも、「山の木書店」の倒産が決定的になった一九五〇(昭和二五)年ころのことなのか、「戦後」というだけであって、正確な時期を、必ずしも特定することはできない。そのため、一枝の死へ向かう気持ちは、憲吉が家を出たときの失意から生み出された感情として一方的に断定することもできず、一九四八(昭和二三)年から一九五〇(昭和二五)年にかけて一枝が味わった幾つかの大きな苦難がもたらした結果の心情だった可能性も、いまだ十分に残されている。神近市子は、一九六五(昭和四〇)年刊行の雑誌『文學』に所収されている「雑誌『青鞜』のころ」のなかで、「紅吉[一枝]のことといえば、さいきん富本先生のラブレターが出てきたと言っておられました」175と、語っている。このラブレターは、死のうと思って焼き捨てた、そのときの古い手紙のなかの数通だったのであろうか。いずれにしても一枝は、憲吉からのラブレターを、おそらく後生大事に、この日まで残していたことになる。そのことでいえば、一枝だけではなく、南薫造もバーナード・リーチも、憲吉からの手紙類を几帳面にも手もとに残していた。しかし、一方の憲吉には、そうしたものを残す習慣はなかったようである。

死を意識したのがこの時期であったとすれば、何とか一枝は、それを思い止まった。一体何が、あるいは誰が、一枝を支えたのであろうか、それを語らせるにふさわしい資料は、いまなお見出せない。高井陽と折井美耶子は、「山の木書店が残した負債を、肩代わりしたのは、暮しの手帳の花森安治だった」176と書いている。とはいえ、いかなる根拠も示されていないために、もはや再検証はできない。たとえそれが事実であったとしても、負債総額、肩代わりした時期や条件、花森がその役を買って出た理由や経緯について、いっさい言及がなされておらず、それゆえに、それらのこともまた、すべて不明のままとなっている。しかしながら、結果から判断してはっきりいえることは、一枝の再起は、花森安治がつくる季刊雑誌である『暮しの手帖』に執筆の場を得ることによって果たされた、ということになろう。ここでの一枝の顔は、句誌『風花』の編集者でも、「山の木書店」の経営者でももはやなく、随筆家であり、童話作家であった。すでにこの『暮しの手帖』には、平塚らいてうが、第二号に「陰陽の調和」を、第六号に「ゴマじるこの作り方」を寄稿し、好評を博していた。同じくして、料理研究家として活躍していた中江百合(百合子)も執筆陣に加わり、第四号に「私のお料理」、第五号に「秋の献立二つ」、第六号に「お正月の献立」を、立て続けに披露した。すでに述べているように、らいてうも中江も、一枝と同じく、最初からの成城の住人であり、最も親しい間柄の隣人であった。

一枝の第一作は、「奥さんと鶏」と題されたエッセイで、掲載号は、一九五一(昭和二六)年六月発刊の第一二号であった。近所に住む鶏を飼う夫婦の話が、その内容である。文の末尾には、括弧書きで(筆者は随筆家)と記されている。『風花』四・五合併號に、娘の陽の「めんどりの歌(詩)」が掲載されていたことを想起するならば、ひょっとしたら陽は、この「奥さんと鶏」に登場する鶏(めんどり)を、一枝のエッセイに先立って、自分の詩のモティーフに使用していたのかもしれない。

次は、「村の保育所」(一九五二年六月、第一六号)で、内容は、岡山県御津郡野谷村の保育所についての現地報告である。図版も多く、臨場感が漂う。出出しは、こうである。「朝霧の中を、山から田からこどもたちは野菜をさげてやってくる。大根の子、人参の子、蕪、葱、玉葱、南瓜を頭にのせた子。こどもたちは毎朝こうして給食に使う野菜を家から運んでくる」177。そのあと、この村の子どもや母親たちの生活の一部が具体的にリポートされ、最後を一枝はこうした言葉で結ぶ。「言葉や形だけでなく、眞の意味で次ぎの世代をになう日本の子どもたちを健やかに守り育てるこそ、いい加減なことでごまかしてはならない事業であろう。そのためにも、二度とふたたび戦争にひきづりこまれたくないとこの村の托児所を見ながら私は心から願わずにはいられなかった」178

エッセイとしては、さらにもう一編、「春未だ遠く」(一九五三年三月、第一九号)が続く。これは、母親がつくってくれた味噌汁についての回想である。冒頭、このような言葉ではじまる。「早春といつても、まだまだ朝のつめたさは、きびしい。ひとりで炊事仕事をやつていると、なにかにつけ台所に立つて亡つた母のことが思われる。とりわけ冬の日の朝晩、家族のために母が心を盡してこしらえた味噌汁のおいしさが思い出されて、氣がつくと、いつのまにか私は母のつくつてくれた味噌汁をこしらえていることが多かつた」179。このとき、母も父も一枝は亡くして久しかった。自身も満で六〇になろうとしていた。亡き母や父の面影が去来する日が、最晩年に向かうなか、次第に多くなってゆく。

一枝がエッセイ(取材報告を含む)として『暮しの手帖』に書いたのは、以上の三編であった。しかし、一枝の才能は、これ以降、童話作家として開花してゆくことになる。「お母さまが読んできかせるお話」を『暮しの手帖』に連載しはじめるのは、「春未だ遠く」の一号前の第一八号(一九五二年一二月発刊)からであった。それまで、この「お母さまが読んできかせるお話」は、第一号から第三号までを木田久が、第四号から第一二号までを町田仁が、第一三号から第一六号までを山下毅雄が担当していたので、一枝は四代目の執筆者ということになる。第一七号は休載され、第一八号から、書き手に一枝を得て連載が再開された。この号に掲載された一枝にとって最初となる童話作品は、「おくびょうな兎」であった。それよりのち、第八〇号(一九六五年七月発刊)掲載の「遠い国のみえる銀の皿」に至るまで、国内外の御伽噺や寓話、民話や昔話などを題材にした「お母さまが読んできかせるお話」が、一枝の手によって紡ぎ出されてゆくのである。各号の「お話」につける影絵は、毎回藤城清治が担当した。かくして、少年少女図書出版「山の木書店」の理念は、長期間にわたる「お話」の連載という姿に身を変えて、残りの生を燃やし続けながら、再生への道をひた進む。

編集者の花森安治は、当時の一枝をこう振り返る。

 富本さんは、上背があって、藍みじんのような着物が似合って、それを明治の山の手の女のひとがしたように、ゆったりと着て、長い髪を無雑作にたばねて、大きな声で、いつでも明るく、わらいながら入ってきた。
 入ってくると、ぼくの前に椅子をもってきて、きちんと坐って、きまって胸元から、原稿用紙をひっぱり出した。
 次の号にのせる〈お話〉のあらすじを、ぼくに話して聞かせるためである。……
 富本さんは、あらすじをぼくに聞かせるとき、いつも原稿用紙をふところから取り出すので、てっきりそれにはメモが書きつけてあるのだろうとおもいこんでいたが、あるとき、なにかの拍子に、それをのぞきこんだら、字は書いてなくて、場面割りにした絵組みだった。
 へえ、といったら、富本さんは、ふふふとうれしそうにわらって首をすくめた180

このようなエピソードから判断すると、時代は変われども、一枝自身は、父親ゆずりの明治期のままの根っからの絵描きだったのかもしれない。

一枝は、『暮しの手帖』の「お母さまが読んできかせるお話」と並行して、一九五六(昭和三一)年と一九五七(昭和三二)年の一時期、仏教童話も書いている。「 牛雲 ニューワン おしょうさま」「山伏と親鸞さま」「クマラジューのねがい」「行基さま」181などを含む数編がそれに相当し、いずれも『仏教童話全集』に所収されている。注目されていいのは、「行基さま」の最後の語句ではなかろうか。「こんどみなさんが、奈良にいったときには、大仏さまの前に立って行基さまにまつわる、こんなおはなしを思いだしてみるのも、また面白いことではないでしょうか」182。こう書きながら、一枝自身が、憲吉と過ごした安堵村での生活を思い出していたのかもしれなかった。そしてさらに注目されるのは、こうして本文が終った次の頁に、「大仏さま」の写真ではなく、「法隆寺の壁画」の写真が掲載されていることである。すでに詳述しているように、古くから安堵村全体が法隆寺とは強いきずなで結ばれていたし、かつて憲吉も、一九一一(明治四四)年の『美術新報』(第一〇巻第一一号)に寄稿した「法隆寺金堂内の壁畫」に、その壁画にかかわる図版を使用したことがあった。憲吉が使った図版と全く同じものではないが、「法隆寺の壁画」の写真がこのとき使われたのには、何か特別な理由があったのであろうか。それとも、単なる埋め草だったのであろうか。

仏教童話を書いた次の年(一九五八年)、一枝は、『大法輪』(第二五巻第九号)に「愛者 父の信仰と母の信仰」を書き、小さいときの自身の仏教体験を紹介しつつ、両親の信仰生活の一端について回顧している。宗教や両親への回帰の現象とも、考えられる。一枝の年齢が、そうさせているのであろうか。

大法輪閣刊行の『仏教童話全集』に所収された「お話」や、年に四回『暮しの手帖』に連載していた「お話」を執筆するに際して、一枝は、どのようにしてその題材を集めたのであろうか。興味深いことに、民俗学者の柳田国男の自宅を訪れたエピソードが残されている。すでに紹介しているように、成城学園が牛込から成城へ移転するのに伴い、柳田は一九二七(昭和二)年にこの地に転入した。息子の為正は、陽と同年齢であった。その意味で、柳田もまた、らいてう、中江、一枝と同様に、成城地区に移り住んだ最初の住民であり、同じ時期に子育てを体験した世代でもあった。ある日の柳田邸訪問について、一枝は、このように回想する。

 数年前のことである。私は、子どもの読みもののことで、そこに必要な河童のことをうかがいに先生をお訪ねした。その頃は、清水昆氏の河童が皆からよろこばれていたときだったので、私が河童のことを申しあげると、「いまは、河童ばやりだからな」と、いたずらっぽい顔つきで笑われたが、私がむきになって、それを打ち消すようにいうと、「あなたは、すぐ、むきになる」といいながら、書斎から草色の表紙の本を持っていらして、「これは、あげます。ゆっくり読んでごらんなさい。役に立つと思う」といわれた。丸山学という人の著した、「熊本県民俗誌」という本だった183

一枝は、自分が執筆する「お話」の題材を求めて、しばしば柳田の「お話」を聞きに出かけた。一枝の回想は、こう続く。

 私は、先生の成城町のお住居とそんなに遠くはない処に住みながら、自分勝手なお願いのときにしか、先生をお訪ね出来ずにいたことを、日の経つにつれ悔やまれている。昔話と民話のことで、どれほど先生から教えて頂いたかしれない。狸和尚の書画の話、狼の眉毛という話など、とりわけ面白くうかがったものである184

こうして一枝は、取材のために柳田に「お話」を聞きにいったが、逆に、一枝のもとに「お話」を聞きにくる人もいた。井手文子である。一九二〇(大正九)年の生まれの井手は、自分の娘の陶よりも三歳若い新進の研究者であった。井手は、『青鞜 元始女性は太陽であった』の執筆をはじめようとしていた。一枝が『暮しの手帖』に書きはじめたころの一九五三(昭和二八)年前後の出来事ではないかと思われる。初対面の「富本一枝はパタパタとスリッパの音をたてて私の前に現われた。髪は無造作な櫛巻きで、あらい格子紡ぎのキモノをつけ、ひどく粋であった。彼女はハリのある大きな声で、つづけざまにこんな風に話しだした」185

私はたいへん我儘もので、それに馬鹿もので、ただ、むしょうに青鞜社に憧れていたんです。ともかく青鞜社にいたといっても時間が短いでしたし、異質な人間で、自分一人で動いていたので、本当に青鞜社の精神を代表したものではないんです。だからわたくしの話を聞いたってあまり役に立ちませんよ186

おそらくこれが、一枝の偽らざる本心だったのではないだろうか。というのも、『暮しの手帖』の花森さえも、「富本さんは、みんな知っているようにあの青鞜社のころの尾竹紅吉である。しかし、富本さんと僕は、戦後ずいぶんながいつき合いだったのに、そのことは一度も話題に上らなかった」187と、後年述懐しているからである。しかし、井手には、重い口を開いた。そのときの井手の記憶はこうである。「だが、そんなスゲない言葉に似合わず、彼女は己が青春を語りだすと、吹き出す泉のように止まる様子もなかった。馬鹿と自嘲しながらも、青春への回顧がひとつの矜持にまでたかめられ、燃えつづけていたのである」188

一枝が『暮しの手帖』に連載をはじめた「お母さまが読んできかせるお話」の二作目は、「亀さんに口をひつかかれた犬の話」(一九五三年三月、第一九号)であった。発刊された翌月の一九五三(昭和二八)年四月、神近市子が第二六回衆議院選挙に左派社会党から立候補し、見事に初当選を果たした。立候補するにあたって神近は、親しい何人かの友人に相談した。そのときの友人たちの反応はどうだったのであろうか。自伝のなかで、神近は次のように書き記す。

 友人は賛否両論に分かれた。平塚らいてう女史、深尾須磨子女史は大賛成だった。富本一枝さんは大反対で、
 「議員なんかになって何をするんです。おやめなさい!」
と、きびしかった。
 私は平林たい子さんに電話をかけた。
「アハハ、やってごらんなさいよ。落ちてもいいじゃありませんか。何でもやってみることですよ。そこから思想はまた広がりますよ」
 私はハラを決めた189

神近は、なぜ一枝が、「議員なんかになって何をするんです。おやめなさい!」といったのか、その理由については何も書いていないので、一枝の真意はわからない。したがって、このとき一枝が置かれていた立場や気持ちを踏まえたうえでの推量に頼るほかない。

つい最近、それまで企業経営の外側にありながら、いきなり出版社経営の内側に入って、一枝は大失敗をした。このことを念頭に置いて推量するならば、これまで議員活動の外側にあった神近が、いきなり神輿に乗せられて、運動資金を借りてまで、未経験の内側の「議員なんかになって何をするんです。おやめなさい!」と、一枝は、自分と同じような苦しみの再来を恐れるがあまり、暗に神近の判断の甘さや見通しの安易さを指摘しようとしたのかもしれない。

あるいは、こうも考えられる。神近も、この六月で よわい 六五になろうとしていた。そう多くの時間が残されているわけではない。そのことを念頭に置くならば、『暮しの手帖』に「お母さまが読んできかせるお話」の連載をはじめたばかりの一枝が、神近に対しても、いままでどおりに、否、いままで以上に、天職ともいえる本来の文筆活動に専念してほしいという願いを抱いたとしても、決しておかしくはない。もし、そういう期待を神近にもったとするならば、一枝のその言葉には、人生の終盤の最も大事なこの時期に脇道へ逸脱し、浮ついた気持ちで「議員なんかになって何をするんです。おやめなさい!」という、一枝なりの、友への思いやりが込められていたのかもしれない。

さらには、次のような単純な見方も、可能かもしれない。つまり一枝は、政党や議会、さらには多数決の原理といったものに対して個人的に十分な信頼を置いておらず、そうであるがゆえに、「議員なんかになって何をするんです。おやめなさい!」という、一見厳しい、冷めた言葉を、神近に返したのかもしれない。もっとも、この時期の一枝の政治的信条を適切に構成する資料は残されていない。その後の座談会などで「社会主義」という言葉はよく口にしているものの、しかしながら、その内容にまで踏み込んで自説を披歴しているわけではない。他方、『暮しの手帖』における、「村の保育所」についての現地からの報告や、あるいは「お母さまが読んできかせるお話」を執筆しようとした動機などを考え合わせると、この時期の一枝の関心は、平和を願う母親たち、健やかに育ってほしい子どもたち――そういった具体的で将来的な人間の存在にひたすら向けられており、抽象的な政治や形式的な論議などには、それほど強い興味をもっていなかったのではないだろうか。

学生だった吉永春子が、一枝にはじめて会ったのは、ちょうどそのころに開催された集会でのことだった。卒業後ジャーナリストの職にあった吉永は、一九九一(平成三)年に講談社より『紅子の夢』を出版し、その「あとがき」に、こう記している。「この小説の主人公は、明治末年から大正のはじめに、“新しい女”として旋風をまきおこした、尾竹紅吉こと、富本一枝がモデルである。その彼女が、三十数年前、私の目の前を通りすぎた。それはほんの一瞬のことだった。しかし、その瞬間、電気に触れたように身体が震えた。その位彼女の印象は強烈だった」190。小説は、その出会いの瞬間からはじまる。「夏子」が吉永で、〈雲〉(紅子)が一枝であろう。

 夏子が、〈雲〉に出逢ったのは、昭和二十九年のことだった。その年の春に開かれた、「世界婦人大会」に、女子学生だった夏子は、かり出されて、受け付けを手伝っていた。開会の時間も迫り、人の出入りもやっと落ち着き始め、夏子はホッとして、椅子にもたれた。その時だった。夏子の目の前を、得体の知れない気体のような塊が動いた。〈雲〉のようだ。〈雲〉は、電磁気を発しているのか、通り過ぎた瞬間、夏子の身体に、インパルスが走った。眼を上げると、ホワイト・グレーの〈雲〉は、ゆっくりと廊下を歩き、カーヴをえがきながら曲った。フラフラと誘われるように後を追うと、〈雲〉は、すぐ横の部屋に消えていった。「控室」と書かれたその部屋の前で、夏子は、二秒間迷った後、ドアを開けた191

安堵村時代にも一枝は、自由学園の石垣綾子や奈良女子高等師範学校の丸岡秀子といった学生たちに強い印象を与え、魂を揺さぶった。ふたりはともにその後、婦人運動の分野で大きな足跡を残す存在へと成長してゆく。一方、当時の吉永は、早稲田大学の学生で、女性史を勉強していた。出会いから三〇年以上もの歳月が経過した時期に、なぜ一枝をモデルにした小説を書く必要があったのか、それはわからないが、一枝の魅力がこの間ずっと吉永にまといつき、その魅力の内実と向かい合い、たとえ部分的に実像から離れようとも、自分にとっての一枝像を消えぬ文字にして残しておきたいという誘惑が、後年の吉永を襲ったのかもしれない。一九八二(昭和五七)年に出版された石垣の自伝『我が愛 流れの足跡』のなかにも、また、自身の大人への成長過程を描き出した、一九八三(昭和五八)年刊行の丸岡の『ひとすじの道』にも、一枝は、忘れ得ぬ人として登場する。こうした若い女子学生たちは、一枝の何に、一枝のどこに、これほどまでに魅了されたのであろうか。一枝の書く物、着物の着こなし、口から出る言葉、どれもがすべて、彼女たちにとって、極めて新鮮で、強く刺激的で、深く感動的でさえあったのであろう。その意味でまさしく一枝は、吉永が例えるように、「得体の知れない気体のような塊」である電磁気をもつ〈雲〉に似た存在だったのかもしれない。しかしながら、『紅子の夢』の場合は、そこに登場する主人公は、あくまでも小説という虚構世界のなかにあって創り出されたひとりの女性像であって、かつて実際に生きた真なる一枝の姿とは大きく異なっていた。

神近市子が衆議院議員に当選した翌年(一九五四年)三月、アメリカの水爆実験により、南太平洋のビキニ環礁で操業していた日本のまぐろ漁船の第五福竜丸が被災し、その事件をきっかけに、原水爆禁止運動のうねりが高まっていった。ユージェニー・コットン夫人が会長を務める国際民主婦人連盟は、副会長であった平塚らいてうから送られてきた原子兵器に反対する訴えを受けて、世界母親大会を一九五五(昭和三〇)年七月にスイスのローザンヌで開催することを決定した。日本側はそれに呼応し、積極的な連帯の意思を示した。らいてうは、そのときの様子を、次のように振り返る。

 六月七、八、九の三日間、東京でひらかれた日本母親大会の圧倒的な盛況は、いまのようにテレビこそありませんが、新聞やラジオ、ニュース映画などで大きく報じられ、それはおおげさにいえば、日本中を震撼させたとすら言えます。母親大会は、その第一日目から、日本中の注目を浴びることになりました。
 それも無理もないことで、今までの婦人運動とはなんのかかわりもない、市井の母親たちが、ふだん着のまま、なかには子どもを背負った格好で、日本中からかけつけてきたのですから、当の主催者側からして、おどろいたのでした192

世界母親大会に一箇月先立つ、日本母親大会(第一回東京大会)は、豊島公会堂を全体会場として、二、〇〇〇人の参加者を得た。一枝も、そこにいた。ある参加者は、感動のあまり、そのときの一枝の姿がのちのちまで忘れられなかった。

第一回母親大会が豊島公会堂でひらかれたとき、あの大きな黒い瞳で、満員の会場を見つめながら「日本の女の歴史が一ページめくれたのよ、たいへんなことよ」とくり返していた[富本一枝の]姿が忘れられない193

すでにこの年(一九五五年)の四月に、らいてうは、新評論社から自伝『わたくしの歩いた道』を上梓しており、六月に開催された日本母親大会は、最終章の「戦後の婦人運動」の記述内容の延長線上に位置づく、大きな出来事となった。その一方で、『わたくしの歩いた道』は、らいてうがこれまでにかかわった青鞜社の盛衰と、それを出発点にした婦人運動の発展についての叙述に、多くの紙幅が振り当てられており、日本における婦人運動史や女性史といった新しい学術研究が胎動してゆくうえでの大きな原動力となり、そしてまた、尽きることのない源泉となった。その本のなかでらいてうは、「富本一枝さん」と題した一節を設け、次のように、入社前後の一枝(紅吉)を描写していた。

型破りな、男とも女とも判らない妙な手紙を度々よこす大阪の変な人として、姿は見えないけれども、かなり早くから社の人たちに、軽い好奇心のようなものをもたせていました。……上京後は社の事務所にも、私の家にもよく来るようになり……人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなかがやいた顔をして、大きな、丸みをもったからだを、着物と羽織とおついの、いきな久留米 飛白 かすり に包んで、長い腕をそらして、いつも得意然と市中を歩き、大きな声でうたったり、笑ったり、実に自由な、無軌道ぶりを発揮していました194

『わたくしの歩いた道』が出版された翌年の一九五六(昭和三一)年は、婦人参政権実施一〇周年にあたった。雑誌『世界』は、「日本における自由のための闘い」という視点から、「『青鞜社』のころ――明治・大正初期の婦人運動――」と題する座談会【図一四】を組み、その収録記事を、この年の二月号(第一二二号)と三月号(一二三号)に分載した。出席者は、平塚らいてう(婦人団体連合会長)、山川菊栄(評論家)、富本一枝、村田静子(東京大学史料編纂所所員)の四名で、司会を林茂(東京大学助教授・政治学)が務めた。一枝の肩書きは、記載がない。冒頭、司会の林は、このように述べる。

最近、婦人参政權實施十周年が祝われましたことは御存じのとおりでありますが、これは敗戦に續く占領期間中に實現を見ましたので、いわば占領軍の措置によつたものとも見られることは事實であります。しかし、その實現の前には、戦前、日本の婦人たちによる長い参政權要求の歴史がありました。そうして更にさかのぼりますと、その前には、政治的地位の問題だけではなく、いろいろな意味での婦人解放のための運動があったことも事實であります195

この前置きを読むと、婦人参政権実施一〇周年にあたって、単に過去の参政権の要求運動のみならず、明治期までさかのぼり、日本の婦人解放の運動の全体的な歴史を、「日本における自由のための闘い」という視点から発掘しようとする、学術的関心の息吹のようなものを感じさせる。そして、続けてその前置きは、その重要な位置を占める運動のひとつが、『青鞜』の刊行であったという認識を示す。

『世界』では「日本における自由のための闘い」としてこれまで數回にわたつていろいろな人物や問題をとりあげてまいりました。それは、日本においてわれわれの先人たちが如何に自由のためにたたかつて來たかを顧み、今後のその發展のためにも豊かな糧にしたいためであります。今回はその一つとして、明治末期から大正の初、第一次欧洲大戰の頃までの『青鞜』の運動を採上げることに致しました196

この座談会は、おそらく生きた青鞜の本格的な最初の(あるいは最後の)口述であり、このころから、もはや単なる風聞や伝承の域を超えて、青鞜についての歴史分析が、時を得て加速することになるのである。

次の年の一九五七(昭和三二)年には、『世界』と同じ版元の岩波書店から、帯刀貞代の『日本の婦人――婦人運動の発展をめぐって』が出版される。すでに紹介しているように、その扉の裏には、「この貧しき書を富本一枝様に捧ぐ」という献辞が添えられていた。 続いて一九五八(昭和三三)年には、三一書房から松島栄一編による『講座女性5 女性の歴史』が刊行された。本書は、第一部において「女性の歴史――近代日本の女性の歩み――」が本論として記述され、第二部が「史料編」という、二部構成になっている。この「史料編」に、一枝の「青鞜前後の私」も所収されており、巻末の「あとがき」には、編者の松島栄一によって、「またこの本のために、貴重な体験の一端を話して下さり、激励してくださった富本一枝さんや帯刀貞代さんや三井礼子さんに深く感謝するものである」197という謝辞が述べられていた。

「史料編」のなかの一枝の「青鞜前後の私」には、二年前の『世界』誌上の座談会で自身が発話した内容が多く取り入れられている。最後の結論部分で一枝は、自分をこう位置づける。「私自身、まるで草履と下駄を片方づつはいて道を歩いているような人間だと言えましよう」198。明らかにこの文脈では、母から受け継いだ「旧い女」と青鞜の「新しい女」を念頭に、「草履と下駄」という表現を使っている。しかしながら、この「草履と下駄」という感触は、自覚的であったか、無自覚的であったかはわからないが、一枝固有の一致しない「体の性と心の性」の問題も含まれていたのではないだろうか。

一九六一(昭和三六)年は、『近代思想』が創刊されて五〇周年という節目の年になった。大杉栄とともに『近代思想』の創刊に携わった荒畑寒村は、次のように書き留めている。

 昭和三十六年に『近代思想』四巻、復活『近代思想』一巻を復刻出版した遠藤斌君の発起で、五月十六日、創刊五十周年の小集会を世田谷区粕谷の蘆花公園内、徳富蘆花の旧宅「恒春園」で開いた。主催者、蘆花公園管理の後閑林平君、『学芸通信』経営の川合仁君、ペリカン書房主人の品川力君、詩人の秋山清君、エスぺランチストの山鹿泰治君、昔の『青鞜』同人の尾竹紅吉君(富本一枝夫人)、大杉栄の二女の菅沼幸子君、近藤真柄夫人、その他二、三のほか『近代思想』の旧同人では安城二郎と私とが加わって、午後一時から夜に入るまで清談に興じたのである199

すでに半世紀が過ぎ、『近代思想』の往年の関係者は、そのほとんどが故人となっていた。一枝と寒村は、このときの席で、どのような話をしたであろうか。すでに著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』で詳述しているように、一枝(紅吉)が青鞜の社員だったころ、大杉と寒村が上野から根岸の方へと散歩をしていたとき、大杉が、いきなり初対面の紅吉の自宅に上がり込み、食事をご馳走になったうえに、「あなたは知らぬ男にでも、空腹だといえば飯を出してくれるが、もし性欲に飢えていると言ったらどうしますか」といって、紅吉をからかって、おもしろがったことがあったが、このような昔話を、一枝と寒村のふたりは、話題にしたのかもしれない。あるいは、堀保子、伊藤野枝、神近市子との三人の女性を巡る大杉の多角恋愛とその結末である「日䕃茶屋事件」についての思い出話が語られたであろうか。そこには、三人三様のその後の女の生き方があった。何が幸せなのだろうか、誰が幸せなのだろうか。一枝は、そうした話題に寄り添いながらも、この五〇年間の自分の歩んできた道をそっと振り返っていたのかもしれなかった。

実は一枝と寒村のあいだには、戦後すぐに、こうした出会いがあった。婦人参政権が実施された最初の一九四六(昭和二一)年三月の総選挙(戦後第一回)において、寒村は東京二区で社会党から立候補した。寒村が世田谷区の下北沢の駅前で演説をしていると、聞いていた群衆のなかのひとりの女性が一〇〇円の寄付をした。「どこかで見たような人だと思ったのも道理、それは『青鞜』時代に一度会ったことのある尾竹紅吉(富本一枝)女史であった」200

資金を援助したり、品物を人に分け与えたりする行為は、一枝の性格を物語るうえでの重要な側面といえる。事例を挙げるのに事欠かない。たとえば、作家の中野重治は、戦前のことではあるが、次のような出来事を記憶していた。

 富本一枝さんはむかし青鞜社の一員だった。それは知っていたが、眼の前に見る一枝さんには一向「青鞜」らしいところがなかった。……「新しい女」どころではない。「古い日本の女」がそこにいた。「古い日本の女」は物のくれ方によく出ていた。……二度目か三度目かに訪ねた時そこに皿が一枚出ていた。……とにかく私がほめた。……それが好もしいという意味のことを普通にひと口いったのに過ぎなかった。しかし帰りに、靴をはいている私に彼女が紙にくるんでその皿を押しつけた。押しつけたというのは、拒否できない何気なさでそれを私に受取らせてしまったとういうことだった201

この一九六一(昭和三六)年は、『近代思想』にとってのみならず、『青鞜』にとってもまた、創刊五〇周年を祝うべき年となった。この年の九月三日に発刊された『朝日ジャーナル』(第三巻第三六号)は、座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」を掲載した。編集子いわく。「婦人解放のあけぼのを告げた女性だけの雑誌『青鞜』が発刊されたのは、明治四四年九月一日。今年は、ちょうど五〇年目にあたる。その半世紀の間、いわば“新しい女”たちは、どのような道を歩んできたのであろうか。婦人運動の草分けの平塚らいてうさんらに『今と昔』を語ってもらった」202。この座談会へは、平塚らいてう、山川菊栄、富本一枝、市川房枝が出席し、井手文子が司会を担当した。一枝は、戦後の動向について、こう語っている。

 そんなふうに女の発言権が、自分でも知らないうちに強まってきたのは、やはりもう戦争をしたくないという強い気持ちでしょうね。戦争中に、いろいろな意味で苦労してきたお母さんには、一番これが強かったわけですね。子どもを守る会、母親大会は、戦争はいやだ、子どもは死なせたくないというお母さんの気持ちが集まったので、新憲法は大いにそれを役立たせる基礎にはなっていたと思います203

そして一枝は、これからの若い女性たちに期待を寄せる。

 いまの母親大会とか、そういうものが、一つのデモに終わってはならないということもありますが、社会主義社会でないと、本当の解放はあり得ないにしても、いまの世では無理なことがたくさんあって、放っておいてはダメですから、やはりやっていかなければならない。その意味では、これからの若い人たちに信頼する以外に手がないし、また恐らくうまくやるだろうと思っています204

このときの座談会の司会を務めた若い井手は、出席者の美しい老いの姿に圧倒された。のちに、以下のようにそのときを振り返り、とりわけ一枝の身のこなしを、「日本女性の近代的完成の姿」という言葉でもって評した。

平塚らいてうが青磁色のキモノに白髪、白い扇をひろげた姿も優雅だったが、とくに富本一枝の黒い麻のキモノに白い博多帯、そして何よりも男もののような桐の正目の分厚い下駄が目に残った。その丸い形の木の履物が、厚い絨毯の上をコトコトととおるのを見たとき、編集者は、あの人がいちばん素敵だといったものである。そこに日本女性の近代的完成の姿があった。彼女は柔軟な態度で、しきりに若い世代に期待し、「社会主義にならなければ」と言っていた205

「富本一枝の黒い麻のキモノに白い博多帯、そして何よりも男もののような桐の正目の分厚い下駄」という装いが、どうして「日本女性の近代的完成の姿」として井手の目に映ったのであろうか。その説明はない。推測するに、井手は、「男尊女卑」から「男女同権」へと向かう近代的な性のあり方に照らして、一枝の着こなしをもって、男との十全たる対等性を表象している図像として認識したのではないだろうか。しかしながら、この図像は、近代化の過程を潜り抜け、時間をかけて徐々に完成したものではない。明らかに一枝にとって、この着こなしは、若き日の男物のセルの袴にマント姿にはじまる、一貫した、変わることのない図像なのである。いとこの尾竹親は、自分の母親のきくが、こう話したことを記憶していた。「一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……」206。これが一枝の原型となる着衣姿であり、同時に、一枝を見る周囲の一般的な視線だったのではないだろうか。決して一枝は、生涯にわたって、ブラウスにスカート、そしてハイヒールといった女性性を表象する図像を自分の性別表現に用いることはなかった。あるいは、それを否定してきたとさえいえる。そのように考えるならば、この日の一枝の身のこなしは、「日本女性の近代的完成の姿」として理解するよりも、むしろ、「一枝個人の身体的性と異なる心の性を直截的に表現した進化形」として理解する方が、妥当ではないかと思われる。もっとも最後まで、一枝は、性自認(ジェンダー・アイデンティティー)に関して明確に「カミング・アウト」することはなかった。したがって一枝を、「トランスジェンダー」であったと最終的に決定づけることは、いまでもできない。

同じくこの年の九月号の『婦人界展望』も、「“青鞜”発刊五十周年」と題して、らいてうと一枝の対談を載せた。見開き二頁のごく短いものではあったが、そのなかで一枝は、「当時、青鞜へ書いていたものをいま読むと、汗が出ます。若い一途なままをむきだして書いたのですね」207と語っている。司会者が、紅吉という当時のペンネームに言及すると、それに対して、「そう、私は、いまでもそうですけど紅いいろが好きなのです」208と応じ、さらに、当時の服装について話題が向けられると、一枝は、「私はかすりが好きでしたので着ていたのです。それに日本婦人がズロースをつけるようになつたのはずつとあとのことでしよう。画をかく私には、はかまはどうしても必要だつたのです」209と、返答している。

性別表現に関連するペンネームや服装にかかわって、ここでの一枝の応答は、明らかに身体的性の範囲から発せられている。心の性を表現していると思われる、「紅吉」の「吉」という男性性を連想させる文字についても、袴にマントという男性性を強調する装いについても、決して触れられることはなかった。それだけではなく、この対談では、らいてうが口移しにブドウ酒を紅吉の口に含ませたことも、らいてうが自分の胸を紅吉の胸に押し当てたことも、らいてうが紅吉のことを「私の少年」と呼んだことも、さらにはらいてうが、「先天的の性的轉倒者」という名辞を紅吉に与えたことも、いずれについても同様に、いっさい触れられることはなかった。

この記事は、らいてうと一枝の直接の対談である。読者は、おそらくそうした事柄の真相を知りたかったのでないだろうか。しかしながら、明らかに『青鞜』に書かれている実際の挿話であるにもかかわらず、無関心を装う取り扱いとなっていた。こうしたセクシュアリティーにかかわる出来事は、軽々に口にすることではなく、書いても書かなかったことにするとか、読んでも読まなかったことにするとか、何かそのようなことが、雑誌編集者を加えて、両対談者のあいだで暗黙の了解事項となっていたのであろうか。学術的には、目をつぶるどころか、むしろ積極的にこの部分を取り上げない限り、青鞜社における婦人運動の全容は、その正確な姿を現わすことはないのではないかと思われるのであるが――。

そうしたなか、翌一〇月、井手文子の『青鞜 元始女性は太陽であった』が、弘文堂から世に出た。「まえがき」の文頭において井手は、次のように書く。

 「新しい女」の雑誌『青鞜』が発刊されてから、今年一九六一年はちょうど五〇年目にあたる。『青鞜』については、最近、思想史の面からも文学史の面からも、また婦人運動史の角度からも注目されはじめ、日本の近代化に果した役割が評価されはじめた。しかしこの雑誌と、雑誌を核にした女性集団の動きの全貌は、まだ歴史のなかに正当に位置づけられていない210

かくして本書において、半世紀の時の流れを経たいま、「この雑誌と、雑誌を核にした女性集団の動きの全貌」が、原資料に照らし出されて歴史のなかに配置された。他方「まえがき」の文末において井手は、「平塚らいてう、富本一枝その他の生存されている当事者の方々は、すべて温かい手をさしのべて下さった」211ことに対して感謝の意を表した。数年前に一枝から聞き取ったことが、第三章の「愛と性の自由」の執筆の際、その行間に反映されていったものと思われる。こうして、青鞜の尾竹紅吉にかかわる歴史研究の最初の原像が、井手文子というひとりの女性研究者の筆力を得て、ここに産み落とされたのであった。

憲吉と結婚した一枝は、生活の場を東京から安堵村へ移した。そしてそこで、「結婚する前と結婚してから」という一文を書いた。そのなかで、結婚前の生活を、こう描写している。

 私は思ふ。自分の過ぎこしは、あの美しくしか ママ 果敢い 石鹸玉 シヤボンダマ の、都大路に誇ら[し]くかなしく吹きすぎたるやうに!!212

そして後段で、再び次のように、同じ石鹸玉の比喩表現を使う。意識的であったのか、無意識的であったのかはわからないけれども、繰り返しの手法を用いることによって、結果的に、「都大路のシャポン玉」は、より一層強調されることになった。

 私の意志と、私の希望は最後まで騒音の都大路に高く誇ら[し]く、しかし悲しく浮き上り光つた果敢い 石鹸玉 シヤボンダマ に過ぎなかつた213

明らかに以上のふたつの引用からわかるように、一枝は、誇らしく美しくもあるが、悲しくはかなくもある、あの空高くに舞い上がったシャボン玉のような両義的な存在として、自分の青鞜時代を認識しているのである。

それでは一枝は、井手のこの『青鞜 元始女性は太陽であった』を、どう読んだであろうか。その感想は、残されていない。想像するに、結婚直後に書いた「結婚する前と結婚してから」では、青鞜時代の自分をシャボン玉に例え、数年前に書いた「青鞜前後の私」では、下駄と草履を片方ずつはいた人生として、自分の歩んできた道を語った一枝である。必ずしも、自分がたどったこれまでの生き方に対して自信をもって全面的に肯定しているわけではない。そうした自分が、そのままのかたちで過去の人物として歴史のなかに納まることに、一枝は、何か焦りのようなものを感じたかもしれなかった。しかし、内容が事実であれば、それはもはや消し去ることはできない。一枝が多く口を開かないのも、そうしたことに遠因があった可能性もある。その後、いとこの尾竹親は、一枝の青春とその後について、こうした見方を示した。

 青春時代に受けた心の傷あとが、その後の彼女の人生のなかに後遺症として尾を引き、言葉というものに対する彼女の考え方を、大きく制約していたのではないかと思われる。従って、一枝にあっては、青春というものが、遠い過去の形のままで凍結され、肉体だけが老化した感じを受け、彼女のなかには、明治と大正の女が、そのまま生き続けている印象が強かった214

『青鞜』発刊五〇周年にあわせて一九六一(昭和三六)年一〇月に出版された、『青鞜 元始女性は太陽であった』にあっては、その主題からして当然のことなのではあるが、一枝は「青鞜の紅吉」という一時代に留め置かれている。それでは、それ以降の一枝の実像は、どうだったのであろうか。親が観察するように、内面にあって「明治と大正の女が、そのまま生き続けている」、まさしく「遠い過去の形のままで凍結され、肉体だけが老化した」状態だったのであろうか。親は、「私の知る晩年の一枝は、寡黙で、非常に用心深い女性であったように思う」215と書く。晩年の一枝がもしそうであったとするならば、それは何に由来していたのであろうか。ひとつには、いま述べたように、わずか一年あまりの短い青鞜時代に若い一九歳の娘が引き起こした自由奔放な過去の出来事にかかわって、発刊五〇周年を機会に再び照明があてられた驚きや戸惑いに由来していたとも考えられる。またひとつには、一枝の場合、生まれながらにして体と心の性が一致していなかった可能性があり、もしそうであったとするならば、このことがもたらす精神的悲痛と混乱に由来していたのではないかとの推測もできよう。それ以上に、いまひとつには、憲吉との結婚生活の破綻による離別がもたらした辛苦と孤独に由来していたことも十分に想像される。しかし、いずれもが基底にあって相互に関連し合っており、そのことを考慮に入れるならば、どれかひとつの事由がそうさせているのではなく、複雑に絡み合った重い心的状態が、一枝をして「寡黙で、非常に用心深い女性」に仕立て上げていたものと推量される。

一九六一(昭和三六)年一一月、憲吉は、文化勲章を受章した。一枝はどのような気持ちでこのニュースに接したのだろうか。それに関連するような資料も残されていない。新聞掲載の写真などを見る限り、皇居での授与式にそろって出席することはなかった。その意味で、憲吉は「窯なき陶工」であると同時に、「妻なき陶工」でもあった。一方一枝には、自分こそが憲吉の妻であるという強い思いが残存していたのであろうか。「その受 ママ 報告の墓参りに、安堵村を憲吉が訪ねると聞いた時、一枝は矢も楯もたまらなくなって、安堵村に行った。しかし、はれやかな多勢の人に囲まれた憲吉の前に、一枝はどうしても行くことができなかった。一枝は隣家に足をとどめ、憲吉の声だけをひそかに聞いて、会うこともなく東京に帰った」216。憲吉が祖師谷の家を出たのが一九四六(昭和二一)年の六月。あれから、もう一五年を超える歳月が流れていた。もし、このときの安堵村訪問が本当に事実であったとするならば、一枝は、どんな思いに駆られて安堵村までやって来たのであろうか。さらには、そのこととも関連するだろうが、帰路の一枝の胸のうちには、一体どのような情景が流れていたであろうか。関心は尽きない。しかし、それを語ることができるのは、本人一枝以外に誰もいない。

年が変わった翌一九六二(昭和三七)年の六月、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」に新築中であった住まいが完成し、憲吉と石田はそこへ引っ越した。転居通知は、東京の家族へも届けられた。そのはがきを手にしたときに一枝の心中に湧き上がったであろう複雑な思い――それを確認できる資料も、同様に、いまだ見出すことはできない。このとき一枝は、満年齢にしてすでに六九歳になっていた。

四.そして、ふたりの最期

憲吉は、新居の庭に竹の植え込みをつくった。これを眺めていると、一一歳のときに失くした父豊吉のことが、しきりと思い出される。色絵竹模様の角陶板に、憲吉は、次のような自作の詩句を書いた。

新庭に竹を植えたり
六拾五年前、世を去りし/わが父を思はむ爲めなり
拾月の薄日さす庭に/石に腰して微風に動く影を見る
影は植えられたる杉苔と白河砂にあり
太き竹幹は動かず/風にそよぐ竹葉のみ動く
不肖の子われ/七拾歳を越して亡き父を想ひ
動中の静の影を見て楽しむ217

この詩句を憲吉がつくったのは、なかに書かれてあるとおり、一〇月の薄日射す日のことだった。そのころだったのであろうか、この新居を壮吉が訪ねてきた。そのときの様子を壮吉は、次のように記憶していた。

「“静中動”ということば、死んだ父親がよく言っていたんやがねえ、――ようやくわかったなアーあの笹の影、見てみい、綺麗やなあ」風が吹きすぎ、笹の葉かげがかすかにゆれているのを父は示した。……父の病が重いことを知らされていた私と、それを知らず黙って笹の葉影を眺めつづける父と。長い時間が流れていった218

他方、憲吉が母親ふさのことを回想したものは、ほとんど残されていない。ふさは、すでに紹介しているように、憲吉が四三歳になる一九二九(昭和四)年に他界していた。

憲吉の容態は悪化の一途をたどっていた。「この年の十二月、大阪府立成人病センターに二週間入院、旧友の今村荒男所長の診断を受けたが、もはや医術の及ばぬ状態だった」219。そしてそのことは、祖師谷に住む家族に知らされた。長女の陽は、そのときのことをこう記している。年は一九六三(昭和三八)年に変わっていた。「父の病気が肺がんだと知ったとき、私は、離れ住む父のところにすぐにもゆきたいと思いました。……一月半ばの寒い日のことです。車窓にうつる風景が夜の明けはじめから白く変わってきて、その年はじめてみる雪げしきとなりました」220。陽は、以前に石田寿枝と会っていた。いつのことだったのか、どのような話をしたのか、そのことを正確に語らせる資料はないが、おそらくそのとき、父を母のもとに返してほしいと、石田に懇願していたのではないだろうか。そのため、京都へ行くのは、陽にとってつらかった。「父と暮らしているひとと、私はずっと昔、ひどくいい争ったことがあったのです。お互いに顔もみたくないといい切って別れて以来のことだったので、とりわけ気持ちが重いのでした」221。陽は夫に同伴してもらっていた。そして、一枝から預かった手紙を携えていた。新居を訪ねるのも、はじめてであった。「私たちが通されたのは十畳の日本間で、そこにはいままで父が描いていたかと思われる絵巻きがひろげられ、絵筆のしたくが整っています。……庭に植えられた四方竹の細かい枝が時おり雪の重みをはじきとばしています。二、三時間もたったかと思われたころ、おりをみて父に母からの手紙を渡し、内緒ごとのように声を低めて、『お困りになれば私、もって帰りますから。』とつけ加えた」222。無惨な結果になった。「家に戻ってからも、私は持ち帰ってきた母の手紙のことをなかなか母にはいいだしにくいのでした。父が読んでくれたとは伝えたのですが、父の手で破かれたその閉じ目にはあわただしく引きさいたあとがあまりにも生々しい痕をとどめていたからです」223

それは紺紙に認められた西行法師の歌でした。
――逢うことを夢なりけりと思い分く心の今朝は恨めしきかな――
余白に母の見舞いのことばが、二行ほど追記されてありました224

らいてうが記するところによると、その見舞いの言葉は、「あたたかな春日のいちにちもはやくきて、おからだのためによい日となるようねんじて居ります。」225というものであった。らいてうは、この紺色に書かれた手紙について、このように述べている。「この紺色に一枝さんが、最後のおもいをしたためた手紙は、一枝さんの生前から、陽ちゃんが掛け軸に表装しておかれたそうですが、わたくしがこのことを聞いたのは、一枝さんが亡くなってのちのことです」226。憲吉によって引き裂かれた手紙ではあったが、陽にとっては、決して粗末にできず、母親の偽らざる真心を表わしたものとして、大切に残しておきたかったのであろう。いずれにしても、破かれた手紙と、そのなかに書かれてあった内容――ここに憲吉と一枝の最後の思いが、明らかににじみ出ていた。いうまでもなく、決して交わることはなかった。

春になった。三月三一日、この年より、京都市立美術大学では、「教員の定年制を実施することになり、黒田重太郎・上野伊三郎・榊原紫峰・富本憲吉・川端彌之助・小合友之助・平舘酋一郎・久松眞一・金尾音美・上野リチの教授が退官し、開学以来の有名教授が大学を去った」227。そして、「川村[多實二]学長の任期満了にともない、富本憲吉元教授が選出され、[五月六日付で]学長に就任した」228。しかし、すでにこのとき、憲吉は、大阪府立成人病センターに再入院していた。次第に死期が迫ってきた。陽は回想する。

そうなってからは、日いちにち母はあせりをみせはじめました。「なにも私がおとうさんに会いに行ったからって、悪いことはないはずですからね。」そんな意味のことばを繰り返し、まるで落ちつかないのです。まさか別宅にいる父を見舞うことはできぬとあきらめていた思いが、せき切ってあふれ出たかのように見えました。いよいよ母が父をたずねるときまったのは、初夏の軽い風が舞い、もの影がみな濃くうつりはじめる六月のはじめのことでした。……ふうっとため息をついたり、ぼんやりと裏庭にたたずんでいる母の後ろ姿が、にわかに小さくみえたりしました。……母は弟と連れ立って父に会いに出かけました229

一枝と壮吉が病室に入った。すでに病院の近くの親戚の家では、親族が集まり、陽夫婦と陶も、その場で時間を過ごし、一枝たちがもどって来るのを待った。陽の回想は続く。「ただ待っているだけの時間でした。それは妙に割りきれぬ、それでいてしぜんと上ずってゆくようなつらい時間であったのです。娘として割り込んでゆけぬ場所に、いま父と母がいるのだと感じたからなのかもしれません。あるいは、複雑な愛情の屈折をしいられた恨みもそこには混じっていたともいえましょう」230。一枝たちが帰って来た。そして、こう報告した。

 思ったほどやつれてはいられなかったですよ。ゆきがけ、花屋に新しいアザミの花をみつけたので、買ってゆきました。紅色のガラスの花生けといっしょにね。
 おとうさん、はいっていったときちょうど目をさましておられてね、ふしぎそうな顔で、私とアザミの花を見比べるようになさって、
――どこから持ってきたんや――
っていわれるの。もしかしたら、昔は家の近所にもずいぶんアザミがありましたからね、その花かと思いなさったんじゃなかろうかね。
――どこが苦しいですか?――ってきくとね、
――ここや、ここがあつうてあつうて――
と、胸のへんをさしなさるんです。
――ここですか?――
って、かあさんがね、胸に手をあててあげると、
――いや、もっとこっちや――
って、また別のほうに私の手をひっぱりなさるの。
 もうこれでおしまい、っていう気持ちでいらしたんじゃなかったのかね。
 もちろん、あのひとにもちゃんとあいさつしました。だってべつに私のほうではなんとも思っていないんだからね。
 氷のかけらでも口に入れてあげてください、なんていわれましたがね、あなたがなれておられるんだからしてあげてくださいって、私、断りました。だって、そんなことして、もし、のどにでもつまったらそれこそなんていわれるかわかったもんじゃありませんからね。
 帰りがけに、
――また参りますよ――
って、声をかけましたがおとうさん眠っておられるようでした231

一枝の話のあとに、壮吉が、こう言葉を足した。

 あのアザミの花をさ、いけるときにね、あのひとこんなこといってたよ。
――なんや、こんな枯れた花もまじってますがな、この枯れたんはほかしまっせ。どこの花屋で買うて来やはったかしらんけど、あんまり新しいことおまへんなあ――
って、さ232

壮吉は、後年、憲吉の最期について、次のように語っている。

父の死ぬ二日前。
大阪府立病院のベッドで昏睡していた父がふっと眼をあけ、窓の外を見るともなく見た。
 窓の外には灰色のビル街が荒々しく広がっている。見えるとも思えぬ まなこ をこらして、やがてつぶやいた。
「おい壮吉……見てみい、ほれ、田植えはもう済んだんやなァ……青い田んぼ……きれいやなァ……青い田んぼや……」
 その父の眼前にあったのは、大和川に沿って、はてしなく美しくひろがる青田であったのだ233

朝日新聞が報じた憲吉死亡に関する複数の記事234を総合すると、一九六三(昭和三八)年六月八日夜の九時半に大阪府立成人病センターで肺がんにより憲吉は死去、その後、六月一〇日の午後、京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三の自宅で密葬、一三日に天皇陛下により供物料が贈られると、続く一四日の閣議で政府は、従三位、勲二等旭日重光章を憲吉へ贈ることを決定、翌一五日の午後二時から奈良県生駒郡安堵村東安堵の生家において告別式が執り行われた。また、辻本勇が『近代の陶工・富本憲吉』のなかで記述しているところによれば、村道には奈良県の計らいで玉砂利が敷かれ、告別式は、故人の遺志を奉じての簡素極まるもので、喪主を壮吉、葬儀委員長を今村荒男が務め、五〇〇有余名による会葬とともに、四〇二通もの弔電が届き、恭しく霊骨は、菩提寺円通院の墓に埋葬された235。一方、神近市子の書くところによると、「一〇〇〇万円かかったという山科(やましな)の家も、多額の銀行預金も、皆その人[石田寿枝]の物になった」236

死去翌々日の六月一〇日の朝日新聞は、「陶芸界に新しい道開く 惜しまれる富本氏の死」の見出しをもって、いち早くその死を悼んだ。

「早いことなおらんと学生に講義できない」――日本陶芸界の巨星、富本憲吉氏(重要無形文化財)は後進の指導の責任を痛感する言葉を最後に、八日夜、七十七歳と三日の生涯を閉じた。……富本氏の座右銘は「平常心」で、その遺作は「金銀彩春夏秋冬壺」。これはことし三月に同大学[京都市立美術大学]で開かれた教授クラスの人たちの「作家展」に公開された。……陶芸家の河井寛次郎氏は……「前代の伝統のキズナ[写し]を断ち切り、陶芸界の一階段上った大事な人でした」と語っていた237

憲吉は生前、次のような詩句を陶板に書いている。「独り生れ ひとり死に行く 人の身も亦 可なし」238。そして、「私には墓はいらぬ。死んでも拝んだりするような事はして欲しくない。作品が墓だ」239が、憲吉の晩年の口癖だった。かくして、遺作「金銀彩春夏秋冬壺」の主題のごとくに金銀赤緑に輝く四季を重ねた「七十七歳と三日の生涯」が、「平常心」にふわさしい簡潔さを伴って閉じられていった。

後年、壮吉が、憲吉の残した遺言について回想している。

 郷里、奈良県安堵村には、代々の墓所があり、憲吉の父母の墓も、父によって作られているのだが、父は自分の墓は『不要』と遺言にしるして死んでしまった。『陶工にとっては、その作品だけが墓であると思うべし』というのである。……その後を読んで困ってしまった。『骨は灰にして賀茂川に流してしまうべし』と書いてあったからである。……出来るかぎり父の心を尊重したいとは思ったが、やはり骨灰を賀茂川に流すわけにはいかず……今村荒男先生(故人)も苦笑されるばかり。結局は、まさか墓も建てないでは、命日に参って下さる方にも不便であろう、という様なところで、先祖代々の墓地に石塔を建てた240

しかし、壮吉にも憲吉の気持ちがわかりはじめていた。

 父が死んで七年たったいま、その一本の石塔には、やはり父の姿を見出すことは出来ず、折につけ見る作品の中に生々しい父の思いと生命力を感ぜずには居られない241

「生々しい父の思いと生命力」を感じるにふさわしい時が早くもやって来た。憲吉が死去して一年後の一九六四(昭和三九)年の六月から七月にかけて、朝日新聞の主催による憲吉の遺作展が開催され、大阪大丸、東京伊勢丹、倉敷美術館を巡回した。東京新宿・伊勢丹六階を会場とする「富本憲吉陶芸展」の会期は、六月一二日から二一日までの一〇日間であった。初日には、バーナード・リーチによる「憲吉と私」と濱田庄司による「憲吉の作品について」、このふたつの講演会が、午後一時より同百貨店七階のホールにおいて行なわれた。リーチは、憲吉の処女作《梅鶯模様菓子鉢》をイギリスから持ち帰っていた。リーチの講演が終わると、次に濱田が話をはじめた。

 このテーブルの上にあります鉢、これは今度リーチが飛行機で持って来てくれたのですが、今のリーチの話によると文字通り富本憲吉の陶工としての第一作ですが、実際はリーチも半分は形を手伝った鉢であります。
 リーチはどうもけずり方がまずかったといっておりますけれども、見たところなかなかよく出来ております。
 私がこの鉢を最初に見たのは、四十何年か前イギリスにおりましたとき、リーチの書斎でのことでしたが、すでに色の使い方に富本式の感覚がはっきりしているのに関心したことを覚えています242

一枝もこの日、この展覧会会場に来ていた。濱田のスピーチが続く。そして濱田は、一枝に言及する。

 先ほど私は思いがけず会場で富本の奥さんから、『窯辺雑記』という富本の昔の著書をいただきました。私が懐かしく、早速中をパラパラと開けてみますとたいてい覚えのある話でありますが、一つ忘れていたのにこういうのがあります。「幼児の何事もなく笑う顔は、両親でない外の人達にも満足を与える。この種の喜びを与え呉るる美術品を容易に造る人はないか」と書いてあります。元気な富本に会うような気がしました243

一枝は、濱田が持ち出したこの挿話をどういう思いで聞いたであろうか。おそらく、一心に陽と陶を育て、全力で土と模様に立ち向かった、まさしく死闘にも近い、あの安堵村での憲吉との生活だったのではなかったろうか。その陽も、会場にいた。安堵村での思い出が頭を過ったにちがいない。父親の代表的模様のひとつである「サワアザミ(沢薊)」を食い入るように見つめた。

 その一輪のアザミの花はうなだれて咲き、鋭いとげをもつ葉先が力強く描かれていました。一幅の水墨画でありましたが、私はその絵の前からすぐに立ち去ることができないでいたのです。
 亡父の遺作展会場の一ぐうでのことであります。作陶五十年間に父が作り出した数多い作品のなかから、それぞれの年代をおって選び出された数百点の、それはひとつでありました244

この遺作展の会期中の六月一五日。朝日新聞の「画廊」欄は、「『美と用』の融合の世界」と題して、次のように、この展覧会を評した。

 こんどの遺作展には楽焼の処女作(明治四十五年)から未完成の最終作(昭和三十八年)まで、二百二十六点の陶芸をはじめとして、画帳や書なども出品されている。が、会場を歩きながらとくに心を引かれた作品は、晩期の花やかな金彩・銀彩の仕事ではなく、昭和十年前後から戦前にかけての仕事だった245

この批評を呼んだ一枝は、どのような思いに駆られたであろうか。自分と別れたあとの京都時代の作品ではなく、憲吉と一緒に過ごした祖師谷時代の作品をほめているではないか。溜飲が下がる思いだったのではないだろうか。「画廊」欄の執筆者は、晩年の金銀彩の飾り筥にみられる華麗な「人工の妙」よりも、むしろ、戦前の白磁にみられる「端正なフォルム」を賞讃した。そして執筆者は、最後をこう結んだ。

 もう十年ほど前だったろうか、富本は、一品制作ではなく、小ざらや茶わんなど、量産してゆきたい、と話してくれたことがあった。クラフトマン・デザイナーとして富本の意匠感覚が陶芸の分野以外にもひろがっていったらどんなにたのしいことかと、その時考えたが……この問題はまだ今後も続いている。富本の仕事を、そのひとつの出発点と考えられないだろうか246

遺された富本家の家族にとって、遺作展で見た作品の「生々しい父の思いと生命力」は、憲吉が遺言に言い残したように、まさに「墓」に勝るものであったにちがいなかった。 こうして遺作展も終わり、憲吉の死からちょうど一年が過ぎた。一枝の体力と気力も、このころになると徐々に、衰えはじめていたのかもしれなかった。

『暮しの手帖』の「お母さまが読んできかせるお話」の第一作が掲載されたのが、第一八号(一九五二年一二月発刊)の「おくびょうな兎」であった。それから一三年間、第三〇号や第四二号などに休載はあるものの、一枝は走り続けた。しかし、第八〇号(一九六五年七月発刊)掲載の「遠い国のみえる銀の皿」をもって、筆が止まった。それからさらに一年が過ぎた。最期が近づいてきたことを、一枝は感じるようになったのであろうか。最晩年のこの時期になると、憲吉は父親の豊吉のことをしきりと思い出していたが、一枝は、母親のうたへ強い思いを寄せた。

著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の第四章「憲吉と一枝の結婚へ向かう道」のなかで詳述しているように、娘らしく厳格に育てようとしてきた母親のうたは、「新しい女」としての一枝への批判が高まりはじめたときには、世間の人びとや親戚一同に対して申しわけないという思いで一杯になっていたし、一枝が結婚するときには、自分が嫁ぐときにもってきた先祖伝来の九寸五分の短刀を一枝に渡し、「帰りたくなれば、これで死ね」といい、「ごはんは三膳たべてはいけない。おつゆは一杯だけにしなさい」と教えていた。大和の旧家の長男に嫁がせる母親の気持ちには、おそらく言葉で表わせないような実に複雑なものがあったであろうし、一方、画家として跡取りを考えていた父親の一枝に寄せる思いも、この結婚により断たれることになった。以下は、一九六六(昭和四一)年六月号の『こどものしあわせ』に一枝が寄稿した「母の像 今日を悔いなく」の冒頭の一節である。

 母は五十二才でなくなった。私は、母のその年から二十年もよけいに生きている今になって、母から訓し教えられていたことがやっとわかって、あらためて、母のしたこと、口癖のようにいってきかせてもらっていたことが、骨身にこたえ、「お母さんご心配ばかりかけてごめんなさい」と、朝ごとに母の写真に手を合せ、母をなつかしみ、母に詫びている247

そして、次の言葉が、「母の像 今日を悔いなく」の文末を飾る。「今日いちにちを悔いなく過ごした母を、私はなつかしく偲びつづけている」248

ちょうどその前後のころのことであったであろう、いとこの尾竹親が一枝を訪ねて来た。訪問の時期は、一九六六(昭和四一)年の「一度は春、一度は夏であった」249。親は、『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』と題する、父親の伝記を執筆しようとしていた。それを聞いた一枝は、「えらいですねえー、私も、父のことを前から書きたいと思って、何度か、暇をみては書きかけたんですが、未だにそのままになっているんです。とにかく竹坡叔父さんが、余りにも素晴らしかったので、どうも父の印象が薄くなっちゃって……」250と、受け答えた。そのとき親の目には、こう映った。「私のこの仕事を羨み、感心しながらも、その時の一枝は、遠く彼女自身の青春をのぞき込むような面持ちであった」251

このころ一枝は、『婦人民主新聞』の「小石」というコラムに、短い論評の連載をはじめていた。三月一三日に「米軍の迷走」、五月八日に「戦争とはいわずに」、そして七月一七日に「危ない街角」が掲載された。時事問題への関心は、決して衰えることはなかった。しかし、それ以上に目を引くのは、この三編の末尾の署名が、「紅」の一字になっていることである。署名を入れるにあたって、「遠く彼女自身の青春をのぞき込むような面持ち」のなかから、まず「紅吉」の二文字が、頭に浮かんだものと思われる。しかし、一枝は躊躇した。そしてそこから、一方の「吉」を抹消した。想像するに、「紅吉」の「紅」が体の性で、「吉」が心の性を表象していたとすれば、最後の最後のこの段階で、つまり、死期が迫っていることの自覚のうえに立って、心の性を切り離し、何としてでも体と心を一体化させることによって、本来の体の性に帰依したいという強い衝動が、この瞬間に走ったのではないだろうか。自分の人生を悩ませ続けてきた性の不一致の決然たる否定を、この「紅」の一字は、表わしていたのかもしれない。「お母さんご心配ばかりかけてごめんなさい」という、母へのわびる思いが、そうさせたと考えることもできるだろうし、そしてまた、そうすることによって一枝は、「今日いちにちを悔いなく過ごした母」の生き方に倣おうとしたのかもしれなかった。しかし、一枝本人は何も語っていない。したがってこの解釈は、単なる私的な憶測の域を出るものではない。七月一七日の『婦人民主新聞』の「小石」欄に寄稿した「危ない街角」が、一枝の絶筆となった。

壮吉は、一枝の最期をこう回顧する。

 その年は、垣根に美しく朝顔の花が咲きそろっていた。……母の亡くなった年である。
 食欲のおちた母に、何かすこしでもたべさせたいと思っていた私は、新鮮な白身の魚を求めて小田原や三崎にまで買いに行った。
 そして、朝顔の花と葉を、ガラスの小皿に冷凍させ、その上にその白身の刺身をホンのわずか盛って出したものだ252

すでに一枝の体には、がんが発生していた。

母の腹は、亡くなる一年程まえから、かなり大きかった。そして「どうもオヘソが横に移っていくね」と風呂あがりのときに言っていた。
 いまにして思えば、その時すでに癌が腹の中に生まれていたのかもしれない。……
 そんな母の最期の日々のなか、朝刊を母の枕辺で読んでやっていた。
『紅衛兵、北京に続々大結集』という記事があった。そのニュースをきいた母が、やがて言った――「急に――急に視てはダメだねー。ゆっくり、そのことを考えた方が、いいんじゃないかね」253

そして壮吉は、こう続ける。

 凍った皿のサシミなど、口にしたくもないのに、一口は食べてみせる。腫れあがった腹の苦しさよりも、毛沢東の紅衛兵の未来をこたえる。……どうも、これが母のシンの姿であったような気がする254

いよいよその時が来た。以下は、らいてうと一枝の最後の場面である。

 病室に入ったわたくしは、いきなり、一枝さんの手を握りしめました。その手は、いつものようにふっくらと柔らかで、病人のようでも、老人のようでもなく、長い腕も、太く、堅く逞しくて、皮膚にもつやがあり、何日も食欲のない日が続いている病人とはとてもおもえません。タオルを額においた顔も、病苦のかげを見せず、わたくしにしずかに笑いかけて、はっきりした声で話もできる一枝さんの様子に、この分なら、まだまだ当分は大丈夫と、わたくしはいちおう救われたおもいさえしたのでした。
 ところが、それからわずか二日おいて、一枝さんはこの世を去ったので、わたくしはお見舞いでなく、お別れに行ったことになりました。半世紀以上も親しい交わりをつづけた友だち――わたくしより七つも年下の彼女が先に逝ってしまったことに、悲しさよりも、腹立たしさが、先に立ちました255

一方、神近にとっての一枝との最後は、信州の温泉宿であった。

 彼女の病気は癌だった。まだ初期の頃は私も知らされず信州の温泉に誘って二人ででかけて行った。宿には前から約束してあったので、別建のテラスも温泉もついた二階の広間だった。そこで毎日口喧嘩を楽しみ乍ら、二人で一週間位休養した。
 それが最後だった256

一九六六(昭和四一)年九月二二日、肝臓がんにより、一枝は息を引き取った。七三年と五箇月の生涯であった。つい数箇月前に、一枝を自宅に訪問していた親にとって、「誰よりも先に、この竹坡の伝記を読んでもらいたいと思っていた人だけに、……その死は、非常なショックであった」257。その親は、一枝の葬儀について、こう書き記す。「一枝の葬儀は、簡素で、無造作であった。しかし美しかった。孫を相手にしているときのものだという、 おばぁ ・・・ ちゃん ・・・ になった晩年の一枝の、寂しく笑った写真が、大きく伸ばして壁にかかり、祭壇もなく、大きな棺のまわりには、小さな花だけが美しく飾られた。通夜には、平塚[らいてう]氏、神近[市子]氏、仲のよかった歌津ちゃんこと小林氏、それに中村汀女氏などの顔が見られた。……愛息の壮吉氏の、泣きくずれる姿が、彼女の死をいっそう悲しいものにしていた。小さな平塚氏のからだにも、神近氏の顔、押しだまった小林氏の表情にも、同じように得難い友を失った心の慟哭と実感とがあった。そして又、そこには、遠く過ぎ去った青春を感傷する女の情緒が匂っていた」258

一枝の死は、即刻周りの人に知らされた。丸岡秀子は、「ちょうど、ボーヴォワールが来て、逢いに行っていたとき、『いま、富本一枝さんが亡くなられました』という報告に、ベッドにかけつけ、『なぜ、なぜ、先に逝ってしまったのですか』と声をあげて泣いた」259。市川房枝が一枝の死を知ったのは、国際文化会館のロビーで新聞を読んでいるときだった。「隣で富本一枝氏が逝去された事を話している人がいた。びっくりして失礼ですがと伺ったら、今日正午になくなったとの事、早速お宅に電話でお悔やみを述べ、お花の手配をして、二十四日の葬儀にうかがった」260。中野重治は、昼寝をしていたとき、電話でその知らせを受けた。「富本一枝さんが亡くなった。今日午後一時十三分、肝臓癌で逝ったというのが電話の内容だった。私は眼がさめてしまうのといっしょに自分が気落ちするのを感じた。気落ちはがくっとというのとはちがって、いくらかのろのろとして、しかし大きな半径で元へ戻らぬものなことがはっきりしたたちのものだった」261。出棺のときは、台風の影響で、大雨に見舞われた。中野は、こう書く。「二十三日の夜一般の人をまじえた通夜があった。二十四日午後二時葬式がはじまった。そのとき強い雨が来て、止みそうになったかと思うとまた強くなり、棺は雨のなかを出て行った」262

遺骨は、憲吉と同じく、安堵村の円通院の墓に埋葬された。一枝の遺言だったのか、家族の意向だったのかは、わからない。こうして簡潔な二基の石塔が並んだ。しかしこれは、見てきたように、憲吉の生前の思いとは大きく異なる形式であった。

他方、前述のとおり、一九一二(大正元)年一〇月二七日の『東京日日新聞』の「東京觀(三二) 新しがる女(三)」のなかで一枝は、記者のインタビューに答えるかたちで、「私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」といっていた。果たして、遺言状のなかにそのことは書かれていたのであろうか。これもまた、確認することはできなかった。

月日が流れた。その間一枝の思いは、関係者のなかに生き続けた。

花森安治の思いやりにより、生前一枝が『暮しの手帖』に連載した童話が精選され、AとBの二分冊の形式にまとめられて、『お母さんが読んで聞かせるお話』(暮しの手帖社)【図一五】という書題で一九七二(昭和四七)年に世に出た。厳密には、影絵作家の藤城清治との共著のかたちをとるが、「富本一枝」を著者名とするはじめての一枝の単行本であった。花森は「あとがき」に、次のように書いた。「ほんとうなら、このあとがきは、富本一枝さんが書くはずであった。……富本さんがなくなったのは七十三才だった。今年は七回忌にあたる」263

「山の木書店」も、その精神が受け継がれ、「山の木文庫」となった。孫の岱助がこう語る。

祖母が亡くなって、二十五年の歳月が流れた。祖師谷の家は建て替えられ、柿の木も伐り倒され、当時の面影はほとんど残っていないが、祖母の最後の夢でもあった子供達の爲めの読書活動が、私の妻の京子と友人たちの力で実現され、祖父の工房跡に「山の木文庫」として活動を続けている。……多くの善意と共に十八年前に生まれた「山の木文庫」は、祖母の書庫にあった数百冊の児童図書が基になって始められ、現在四千冊程度の蔵書を有する迄になっている。……毎週金曜日の午後になると、大勢の子供達が小脇に本を抱えて集まって来る264

一九八七(昭和六二)年九月二四日の『新婦人しんぶん』は、「二五周年を迎える新婦人 創立のころの人びと」の連載コラムで、一枝を取り上げた。「命のかぎり自分自身を生きた世紀のロマンティスト 作家富本一枝さん」と見出しをつけたその記事【図一六】で、主婦連会長で、新婦人代表委員の櫛田ふきは、次のように書いた。

 平塚らいてうとともにすすんで新日本婦人の会のよびかけ人になり、中央委員となって、青鞜いらい半世紀ぶりに婦人運動の戦列に加わったのである。京都から扇子屋をよびよせて、らいてう筆「元始女性は太陽であった」の文字を飾った新婦人の扇子をつくらせたのも富本一枝の発案だった。新婦人しんぶんにはしばしば随想を書いたが、名文家であり、革命的な思想の持ち主であった265

一枝が、新日本婦人の会の結成に参加し、中央委員になったのは、亡くなる四年前の一九六二(昭和三七)年の一〇月ことであった。さらに櫛田の一枝評は続く。

 彼女は画家としても、詩人としても、また作家としても、書家としても一家をなし得る才能と力量があった。しかもあれこれの雑誌の編集者として他の作品の輝きのため労を惜しまず、自らの才能はその仕事の裏づけにひそめた。……彼女の三人の忘れ形見はそろって個性的な芸術家に育った。彼女ほど多くの友を愛し、多くから愛された人はめずらしい。誰の心にも美しい思い出を刻んでいまも余韻が残る266

創刊からしばらくのあいだ一枝が編集を担当した中村汀女の句誌『風花』は、その後長く愛読され続けるも、惜しまれて二〇一七(平成二九)年の一〇月号(七七四号)をもって終刊した。最終号に「終刊のごあいさつ」を寄稿した汀女の孫の小川晴子は、そのなかで、創刊号の「後記」に一枝が書いていた言葉を引用して、こう書いた。

 『風花』創刊号の後記に富本一枝氏が記された「風花を立派なものにするためには編集者の責任が重大であることは申すまでもありませんが、良き投句者と好意ある読者のご支援がなければ成し遂げられないことです。」との文章があります。「風花」の七十年の歴史は、まさにこれを築き上げてくださった会員の皆様の、俳句を詠む喜びと、結社を愛する深い情熱と、弛まない精進の結晶であります。『風花』は私共の心の支えであり、大きな誇りでもあります267

翌月(二〇一七年一一月)、句誌名が『風花』から『今日の花』へと変更され、主宰者も、汀女の娘の小川濤美子から、その娘の小川晴子に引き継がれ、その創刊第一号(通巻七七五号)が、新たに世に出て行った。『今日の花』の表紙【図一七】を飾るイラストには、『風花』創刊号のために憲吉が描いたイラストがアレンジされて、再利用された。こうして、創刊号の「後記」において一枝が記した精神と、創刊号の表紙のために憲吉が作製したイラストが、七〇年もの時空を超えて、いまなお生き続けようとしているのである。

いよいよ最後になるが、憲吉と一枝の三人の子どもたちは、亡くなった両親をどのように思い、どのような言葉を残して逝ったのだろうか、そのことを書き残しておきたい。

まず、長女の陽――。成田穣と離婚後、高井春彦と再婚。息子の岱助は富本姓にもどる。一九七五(昭和五〇)年に、憲吉の『窯辺雜記』(一九二五年刊行)が復刻され、新装版が世に出た。陽は、その新しい書籍に「新装復刻にあたって」の一文を寄稿した。そしてその文末を、次のような言葉で締めくくった。父に寄せる母の思いを引き継ぐものであった。

なお、晩年を母と離れて京都山科の寓居に送った父の最後に、母がおくった西行法師の歌、
 逢ふことを夢なりけりと思ひ分く
 心の今朝は恨めしきかな  西行
この一首をいま私もまた父にとどけたい思いでいっぱいである268

こうした思いを胸に、陽は、一九八二(昭和五七)年三月二日に、他界した。

次に、長男の壮吉――。東京大学文学部を卒業後、映画界に入る。助監督、監督として活躍し、のちにテレビ演出家に転身。妻裕子とのあいだに一男一女をもうける。晩年の一九八五(昭和六〇)年、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』が上梓されるとき、その本のために「西洋朝顔の皿」と題して一稿を起こした。そのなかで壮吉は、母親を巡る複雑な心情を、こう吐露した。

 子どもとして、……つまり内側から尾竹紅吉を見ていた人間としては、この文章を書くのさえ冷静でありにくいのだが……母が死んで一八年。そして正直いって母を忘れたかった日々。しかし、いま折井さんの記されたものを読んでみて、何か静かに富本一枝に逢った気がして――これから、母の人生をはじめて見てゆきたい、と思う269

壮吉は、それから四年後の一九八九(平成元)年五月二七日に、比較的若くして世を去った。

そして、次女の陶――。海藤日出男とのあいだに一男一女をもうける。離婚後、富本姓にもどる。ピアノ教師として桐朋学園で長らく教鞭をとり、のちに桐朋学園大学名誉教授。かつて家族で過ごした祖師谷の家の庭には、憲吉が植えた大きなケヤキ(欅)の木があった。陶の思い出のなかでは、晩年に至るまで、いつまでも、その大木の姿と家族とが重なり合っていた。以下は、富本憲吉研究会の会員の羽田野朱美が、一九九六(平成八)年に祖師谷の自宅を訪ねたときの、陶の言葉である。

秋になると落ち葉かきがとても大変なのよ。でも私は、今も父や母や姉、弟がこの枝に腰掛けて見護ってくれているような気がするの270

羽田野が、「研究会で、六月の先生の命日に『薊忌』をさせて頂いておりますが、その時にお墓の掃除やお参りも……」というと、陶は、「そうですか……、有り難うございます。本当に親不孝で、なかなか行けないんです、お墓参りに」271と、お礼の言葉を返している。一九九八(平成一〇)年一二月二四日、ひとり残されていた陶もまた、帰らぬ人となった。

ここまで記述してきた「富本憲吉と一枝の近代の家族」という物語は、憲吉、一枝、陽、陶、壮吉の五人の家族がそれぞれに苦闘し、思考し、表現した生活史の一部の断片であり、「近代」という新しく日本で展開された大きな歴史の全体像に比すれば、あまりにも小さなひとつの出来事にすぎないものであったかもしれない。しかしそれでも、今後さらに時間をかけて清新な真実と解釈が適切に生み出され続けながら、途切れることなく受け継がれてゆくにふさわしい価値と意味をもった近代日本の歴史的挿話ではなかったかと、語り手には思われる。もしそれが正しい理解であるとするならば、その継承のすべてを、最後までおつきあいいただいたすべての読み手の方々の手に、いまここに、しっかりとゆだねたいと思う。

(二〇一八年)

第二部 第七章 図版

(1)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、222頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(2)同『私の履歴書』、同頁。

(3)同『私の履歴書』、同頁。

(4)同『私の履歴書』、223頁。

(5)同『私の履歴書』、同頁。

(6)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、77-78頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(7)同「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、78頁。

(8)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、223-224頁。

(9)井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、346頁。

(10)尾竹一枝「Cの競争者」『番紅花』第1巻第3号、1914年、107頁。

(11)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、71頁。

(12)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、74頁。

(13)富本一枝「海の砂」『解放』第1巻第7号、1919年12月号、31頁。

(14)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻、1927年1月号、108頁。

(15)同「東京に住む」『婦人之友』、112頁。

(16)同「東京に住む」『婦人之友』、111頁。

(17)「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』第21巻第3号、1936年3月号、216頁。

(18)富本一枝「春と化粧」『新装 きもの随筆』双雅房、1938年、279頁。

(19)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、233頁。
 この一文は、この書籍のなかの「紅吉考」と題された独立したひとつの章から引用したものである。著者の尾竹親は、この章題の「紅吉考」の「紅吉」に、「べによし」というルビをふっている。そして、「ちょっと見ただけでは、女の名とは思えない。それでも、〈べによし〉と読むと、やはりそこには女の情感が伝わってくる」(233頁)とも、書いている。しかし、青鞜時代の一枝が、自分のことを「こうきち」と呼んでいたことは、平塚らいてうが確かに証言している(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった』第2巻、大月書店、1992年、27頁を参照)。それでは、なぜ親は、「紅吉」に「こうきち」ではなく「べによし」というルビをふったのであろうか。親が一枝の自宅を訪ね、聞き取りをしたのは、一枝が亡くなる前年の1965年のことであった。もともと一枝は、「べによし」という呼称をもってこの雅号に思い至ったものの、あるときから、らいてうが証言するように、「こうきち」を自称しはじめたのかもしれない。いや、そうではなくて、最初から「こうきち」を自認していたのかもしれない。いまになっては、もはやそれは、よくわからない。それでも、もし後者であったとするならば、なぜ最晩年に至って一枝は、親の聞き取りに際して「べによし」という呼び名を告げたのであろうか。このとき、男性名と間違われる可能性を、少しでも和らげたいとの思いが働いた可能性を完全に否定することはできない。最晩年の一枝は、『婦人民主新聞』のコラムの「小石」にエッセイを寄稿しているが、その三編とも、末尾の署名が「紅」の一文字なのである。このことと、「べによし」という呼称とのあいだには、何か通底する一枝の精神的生まれ変わりのようなものが存在していたと見ることはできないであろうか。

(20)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、62頁。

(21)『宮本百合子全集 第六巻』新日本出版社、2001年、298頁。

(22)水尾比呂志『評伝柳宗悦』筑摩書房、2004年、588-589頁。

(23)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、77頁。

(24)海藤隆吉「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』(展覧会図録)、松下電工汐留ミュージアム編集、2006年、6頁。

(25)『生誕120年 富本憲吉展』(展覧会図録)、朝日新聞社、2006年、257頁。

(26)前掲「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』、同頁。

(27)『東京朝日新聞』、1945年3月23日、2頁。

(28)海藤隆吉「昭和20年1月刊『富本憲吉陶画集』解題」『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』(展覧会図録、ルヴァン美術館)、2008年、14頁。冒頭、陶の息子である著者の海藤隆吉は、こう述べている。「昭和20年1月加藤版画研究所から出された『富本憲吉陶画集』は、今回がおそらく初めての公開展示となる。『陸海の神鷲に捧ぐ』と添えられた一行により、作家自身が戦後の日本での公開を好まなかったこともあるが、没後40数年、平成18~19年の『生誕120年富本憲吉展』に至るまでの展覧会で、まるで無視されるが如く触れられなかったのは、展覧会関係者が『神鷲』の一行についての解題を避けたのではないかと思えてならない」。なお、この海藤の寄稿文には、「本画集を謹みてわが陸海の神鷲に捧ぐ」の献辞が添えられた『富本憲吉陶画集』の「目錄」の図版がつけられている。

(29)同『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』、同頁。

(30)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、182頁。本来であれば、一次資料に基づき正しく、「わが陸海の神鷲に捧ぐ」と書くべきところであったものが、引用文にみられるように、「荒鷲にささぐ」という字句になっている。こうした誤記の原因は、生前にあって陽から折井に伝えられたものを、再検証することなく、そのまま折井が書き記したことによるものではないかと推量される。そうであるならば、明らかに陽は、実際に「わが陸海の神鷲に捧ぐ」の献辞を見たことはなく、母親(一枝)からの教示を受けて「荒鷲にささぐ」の字句を知ったことになる。つまりこれは、一枝から陽へ、陽から折井への、海藤隆吉が「昭和20年1月刊『富本憲吉陶画集』解題」において指摘しているような「伝言ゲーム」が、まさしく機能していたことを表わしている。さらには、それに続いて刊行された、渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、2001年)においても、「この画集を謹んで荒鷲に捧ぐ」(262頁)と明記されており、家族の手を離れてもなお、「本画集を謹みてわが陸海の神鷲に捧ぐ」と、正確に修正されることはなかった。
 以上は、伝言内容の虚偽性は別にして、「伝言ゲーム」が正常に機能した一事例であるが、ついでながら、以下に、正常に機能しなかった一例を挙げておきたい。陽が一九三五(昭和一〇)年七月の『婦人公論』(第二〇巻第七号)に寄稿した一文に「季節の香――日記より」と題されたものがある。おそらく陽は、存命中に正しくこの題名を折井に伝えていたのではないかと推察されるが、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(173頁)では、「季節の香――日記より」ではなく、「季節の春」と誤記されている。これを見ると、この場合には「伝言ゲーム」が正しく機能しなかったことがわかる。しかしながら、陽が、自分の作品の題名といえども、誤って折井に「伝言」した可能性も否定できない。もしそうであれば、陽の記憶の不正確さが、ここにおいても、明らかに露呈していることになる。一方、渡邊澄子『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(253頁)では、『薊の花――富本一枝小伝』のなかにみられる「季節の春」という誤表記がそのままのかたちで現われており、執筆にあたり、先行研究における記載内容にかかわって正しく一次資料を用いての再検証が行われた形跡は残されていない。

(31)一枝の同性へ向かう性的指向については、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、1985年、168頁)のなかでは、次にように書かれてある。著者によれば、あくまでもそれは「誤解されやすい同性への熱中」なのである。
 「一枝がまわりの人にできる限りの援助の手をさしのべるという生き方に徹するのはこの頃[『婦人公論』に「共同炊事に就いて」を寄稿した一九三〇年ころ]からである。それは、人に尽くすことは最高の美徳と教えた母の訓えでもあり、一枝自身の困っている人を見すごすことができないヒューマニズムでもあった。しかしその底には、天賦の素質をもちながら自己の芸術を完成させることのできない己に代って、他に尽くすことによる間接的な自己表現、あるいは代償行為といった心持が、無自覚的にひそんでいた。それは広い意味でいえば母の心ともいえる。しかし一枝は純粋なあまり、夢中になりすぎたし、若くて、美しくて、有能な女性には、理屈抜きで好意をもった。こうして、一枝の一生のうちで誤解されやすい同性への熱中が何度か繰り返される」。

(32)辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、3頁。

(33)前掲「昭和20年1月刊『富本憲吉陶画集』解題」『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』、14-15頁。

(34)同「昭和20年1月刊『富本憲吉陶画集』解題」『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』、15頁。

(35)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 65.[リーチ『東と西を越えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、55頁を参照]

(36)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、23頁。

(37)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、「序」1頁。

(38)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、264頁。

(39)『伊藤野枝全集』第1巻、學藝書林、2000年、156頁。

(40)前掲『薊の花――富本一枝小伝』、114頁。

(41)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった②』大月書店、1992年、125頁。

(42)前掲『薊の花――富本一枝小伝』、149-150頁。

(43)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。

(44)前掲「海の砂」『解放』、31頁。

(45)前掲「東京に住む」『婦人之友』、110頁。

(46)志村ふくみ『一色一生』求龍堂、1982年、198頁。

(47)神近市子「雑誌『青鞜』のころ」『文學』第33巻第11号、1965年11月、68-69頁。

(48)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、251-252および255頁。

(49)前掲「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』、同頁。

(50)富本憲吉校閲、内藤匡記「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、62頁。

(51)同「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、同頁。

(52)藤本能道「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、166頁。

(53)同「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、163頁。

(54)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、224頁。

(55)同『私の履歴書』、同頁。

(56)辻本忠夫「憲ちゃんの思い出」『陶説』第125号、1963年、65頁。

(57)辻本勇『富本憲吉と大和』専門図書株式会社、1972年、11-12頁。

(58)同『富本憲吉と大和』、13-14頁。

(59)同『富本憲吉と大和』、15頁。

(60)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、53-54頁。

(61)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』ぎょうせい、1997年、876-877および1018頁を参照。

(62)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、70頁を参照。

(63)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、223頁。

(64)「新匠會小史」『新匠』創刊号、1952年、8頁。

(65)『国画会 八〇年の軌跡』国画会、2006年、12頁。

(66)前掲「新匠會小史」『新匠』創刊号、同頁。

(67)『新匠』第参号、1955年、21頁を参照。

(68)富本憲吉「圖案に關する工藝家の自覺と反省」『美術と工藝』第2巻第3号、1947年10月、16-17頁。

(69)富本憲吉「工藝家と圖案權」『美術及工藝』第1巻第1号、1946年8月、8頁。

(70)同「工藝家と圖案權」『美術及工藝』、同頁。

(71)同「工藝家と圖案權」『美術及工藝』、8-9頁。

(72)富本憲吉「繪と詩」『馬酔木』第27巻第1号、1948年、ノンブルなし。

(73)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、225頁。この引用文なかで富本憲吉は、「新匠会」の名称を用いている。「新匠美術工芸会」から「新匠会」への名称変更は、『新匠』(創刊号)の最終頁の展覧会記録によると1951年のことである。したがって、『私の履歴書』の執筆時は、この団体は「新匠会」と称していたものの、記述の内容に即して表記するならば、憲吉が京都で作陶をはじめた当時は「新匠美術工芸会」だったということになる。このことは、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)のなかの「富本憲吉自伝」においても、同様のことがいえる。なお、現在(2017年時点)は、「新匠工芸会」の名称が使用されている。

(74)同『私の履歴書』日本経済新聞社、同頁。

(75)前掲「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』、同頁。

(76)前掲「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、78頁。

(77)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、160頁。

(78)福田力三郎「富本先生の思い出」『陶説』第125号、1963年、62頁。

(79)同「富本先生の思い出」『陶説』、64頁。

(80)座談会「富本憲吉先生を偲ぶ」『陶説』第125号、1963年、53頁。

(81)山田光「富本先生を憶う」『陶説』第125号、1963年、67頁。

(82)『毎日新聞』(大阪)、1949年10月25日、2頁。

(83)同『毎日新聞』、同頁。

(84)同『毎日新聞』、同頁。

(85)同『毎日新聞』、同頁。

(86)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、347-348頁。

(87)既刊の伝記は、石田寿枝はどのような人物で、どのような経緯でふたりは知り合い、その後どのような暮らしをしたのかについて、どう記述しているのかを、参考までにここに紹介しておきたい。
 まず、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、一九八五年刊)では、「翌二二年に一度東京に帰ってきたが、再び家を出て京都に向った憲吉は、死の日まで遂に一枝のもとには戻らなかった。やがて、憲吉はデザイン研究所にいた若い女性と生活をともにするようになった」(184頁)、と短く表記されているだけで、その女性の名前すら明示されていない。後述するように、おそらくこの時期であろうと思われるが、娘の陽は直接石田に会い、激しい言い争いをしている。折井はともかくとしても、陽が石田の名前を知らないはずはなく、その名前を含めて石田という固有の人物の存在自体が、意図的に伏せられてしまったような感があり、この本のもつ特殊な成り立ちを浮かび上がらせている。
 次に、『近代の陶工・富本憲吉』(双葉社、一九九九年刊)の著者の辻本勇は、本文のなかでは、「昭和三十七年(一九六二)の六月、かねてから吉村順三氏の設計で建設中だった山科御陵壇の後に新居が完成、京都二条御所近くの寓居から、富本は石田寿枝と共に引っ越した。彼女が富本の身のまわり一切の世話をするようになったのは、富本が松風の家を出て、二条城近くに住んだ時からだ」(193頁)、とだけ書き、巻末の「富本憲吉年譜」においては、「一九四九(昭和二四)年」の項目に、「京都市上京区新烏丸頭町の天坊家の別宅を借りて居宅とする。一〇月、奥津温泉河鹿園に石田寿枝を帯同して滞在。それ以降彼女を内助者として暮らす」(234頁)、とのみ記載する。しかしながら、そのように書くにあたっての根拠資料に使われたと思われる毎日新聞の記事の存在についてはいっさい明かされておらず、したがって、その記事の具体的内容からさえも、読者は遠ざけられてしまったかたちとなっている。
 それから二年遅れて出版された『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、二〇〇一年刊)は、毎日新聞の記事の存在を明示した点以外は、『近代の陶工・富本憲吉』の「富本憲吉年譜」の記述内容とほぼ同一の内容となっている。著者の渡邊澄子は、「一九四九年一〇月、憲吉は石田を伴って奥津温泉に遊んだが、その頃すでに天坊武彦工房の離れで二人は生活をはじめていたらしい。憲吉と石田の関係を『毎日新聞』が六段抜きで『女弟子と精進の絵筆――夫人と別居の陶匠富本憲吉氏』として、二段抜きの憲吉の写真を添えて報じている」(305頁)、と書き、毎日新聞の記事の内容については、「この新聞記事が一枝に与えた不快さは想像に難くないので、愉しくないが部分引用によって紹介しておこう」と前置きして、次のように、概要のようなかたちをとって短くまとめる。「吉井川上流の温泉郷『奥大津』のホテル、河鹿園の奥まった二階の一室に絵皿を並べて絵筆を運ぶ師匠の傍らで毛糸の編み物をしながら一切の身の回りの世話をする若い女弟子との間には和やかな愛情が漂っている。富本憲吉氏は近く出版する『富本憲吉作品集』の原稿執筆のためにこの河鹿園に若い女弟子と共にきているのだった。女弟子とはどんな人か。『先生』『石田君』と呼びあっているが、この女性について仕事上の関係だがこうして一緒にいれば世間はそうは思わないだろう。二、三年内にははっきりさせたい、と富本氏。すき焼きの夕食時、『お味は?』などとまめまめしく世話をする石田さんに記者が『絶対従順ですか』と問うと『困ります』と顔を赤らめた。彼女は名を寿枝といい三三歳。今はそれまでいた松風工業を退いて富本氏の世話をするようになっているという」(305-306頁)。この要約は、明らかに、全体的で客観的というよりは選択的で恣意的であり、記事に記載されている一番肝心な石田の経歴に至っては、触れられることもなく、そのほとんどすべてが見事に抜け落ちてしまっているのである。なぜなのだろうか。「一枝に与えた不快さ」をおもんばかる気持ちが、そうさせているのであろうか。それでは伝記として正しく成立しない。
 上述のとおり、先行するどの既存評伝においても、憲吉と石田の出会いの背景や石田の人物像、さらには、その後のふたりの生活の実態が、はっきりとした輪郭をともなって描き出されることはなかった。というよりは、むしろ隠蔽される傾向さえ見受けられた。資料上の手掛かりが実際に少ないことに起因していたのか、富本家の人びとないしは石田その人自身に対する配慮によるものだったのか、あるいは、それぞれの著者の置かれている極めて特異な執筆環境に由来していたのか、それはわからない。いずれにせよ、その結果として、憲吉の晩年の人生の十数年をともに過ごした女性の姿が、いまなお、ほとんど闇に隠されたままとなっているのである。伝記というものが、生きた人間の公私にわたる真実の歴史を伝えるものであり、その記述に際しては、絶対的に厳密に確認可能な事実に肉薄しなければならないものである以上、石田に関するこうした記述の現状にあって、憲吉研究、一枝研究のいずれの領域からであろうと、ともにいま要請されなければならないのは、過去に残されているであろう関連する一次資料(毎日新聞の記事以外の、たとえば、石田本人の書簡とか日記のようなもの)が首尾よく発掘され、一般公開がなされた暁に、それらに基づき石田の存在に正しく光があてられ、憲吉と石田との生活がどのようなものであったのか、その実相が明らかにされることではないかと思われる。
 そうした観点に立って、渡邊澄子の上の引用に続く記述の内容と手法とに関しての愚考を、蛇足ながら以下に、付け足しておきたい。渡邊は、「何人もから得た評価」を根拠に、石田の金銭にかかわる性向について、一枝と比較する観点に立って以下のような記述を加えている。「対等に生きる、また生きたがる女よりも、下位にいて献身する女のほうがいいという男性の根が、憲吉に本卦返り的に出ていたのだろうか。一枝が価値を与えるのは本当に優れたもの、美しいものでなければならなかった。たとえそれがどれほど苦心の作であろうとも彼女の鑑賞眼に叶わなければ憲吉は即座に叩き割ってしまったというが、石田は利益勘定に鋭敏で、あまりよくないものでも万金に変えてしまえる才能の持ち主で、その点に関してはみごとに強い人とは何人もから得た評価だった」(同書、307頁)。「何人もから得た評価」とは、具体的には、誰と誰の言説なのだろうか。単なる多勢に無勢の風評なのか、それとも、再検証になくてはならない、それを綴った確たる文書が、いまどこかの図書館で公開されているのであろうか。はたまた、妄想のごとき自作自演の評価なのか、疑問は尽きない。さらにこのなかで、憲吉が石田を内助者に選んだ行為にかかわって、「本卦返り的に出ていたのだろうか」と指摘し、暗に憲吉が「対等に生きる、また生きたがる女よりも、下位にいて献身する女のほうがいいという男性」であるかのごとくに扱うが、憲吉にそうした女性観が本性として本当にあるのであれば、しかるべき資料を用いて正確に実証するべきであったであろうし、一方の石田についても、本当に「下位にいて献身する女」なのかにかかわって、それを例証するにふさわしい決め手となる一次資料が存在するのであれば、思い入れや思い込みからではなく、読み手の判断力を信頼して、より積極的に、そしてより説得的に、そうした原資料に基づいて語るべきだったのではないだろうか。
 こうした指摘は、次の渡邊の言説にも、同様にあてはまるであろう。「山科に純日本風の家が完成し、石田と移り住んだのは憲吉の死のちょうど一年前の一九六二年六月、七六歳の時である。憲吉はこの家を好きになれず安堵に帰りたいとしきりに洩らしたが、あんな汚いところはいやと石田が反対したという。憲吉の死に際して、枕茶碗に憲吉の気にいっていた湯呑みを置いたところ、どうせ壊してしまうことになるのだから一点ものでなく大量生産用のものにと強く主張して変えたという話も残されている」(同書、同頁)。
 同じように、確かな根拠となる資料をいっさい示すことなく、晩年の憲吉の製作態度についても、一方的に渡邊は、このように断罪する。「なるほど晩年の憲吉の芸術観は変化している。憲吉はウィリアム・モリスの『美を多数者の日常生活に』の思想を自らの創作の理念として『私は骨董を排斥する』を座右の言としていた。憲吉の造る陶器は、高価な骨董ではなく日常生活を豊かにするためという信念によっていた。量産主義をとったゆえんである。しかし、晩年の憲吉には変化が生じている。陶器を焼くより絵を描いたほうが簡単ですぐ金になる、いくら以上だすなら描いてやるというふうになっていて、かつての理想主義から遠くなっていたように思える」(同書、同頁)。資料を示して正しく論証することもなく、己の主張をより有利に導かんがために、勝手に歴史的真実を大きくねじ曲げてしまう、こうした語りの手口は、極めて問題的であるといわざるを得ない。明らかに、憲吉をおとしめ、読者を欺いているし、かといって、適切なる一枝擁護にも、当然ながらつながっていない。実証(エヴィデンス)なき強弁は単なる絵空事と同様の空論にすぎず、学術的観点からその内容に同意することは、おそらく、何人たりともできないであろう。創作や小説とは異なり、歴史研究の場で常に求められなければならないのは、独断や独善を排した、一歩でも真実に近づこうとするひたむきな実証研究ではないだろうか。

(88)神近市子「このひとびと③ 富本一枝 相見しは夢なりけり」『総評』、1967年10月20日、4頁。今後の研究の結果、飛騨高山で知り合った女性を追って憲吉は家を出たとする一枝の理解内容が創作された虚偽なるものであったことが判明した場合には、この引用文のすぐあとに続く、次の一文の内容も、生前一枝から聞かされたことに基づいて神近が書いているものであろうから、同じく信憑性に欠けるものとなろう。「一〇〇〇万円かかったという山科(やましな)の家も、多額の銀行預金も、皆その人の物になった。憲吉氏は、年老いたら山に入るのだと常に言っておられたそうである。――お前もついてくるか?といわれることがあるというので、私は一枝夫人にイエスと答えるように勧めていた。私には、彼女はその日が来るのを心待ちにしていたようにも考えられるのである。しかし、すべては夢だった。おふたりともおやすみなさい」(同「このひとびと③ 富本一枝 相見しは夢なりけり」、同頁)。

(89)神近市子「朋友富本一枝」『在家佛教』第234号、1973年9月、54頁。

(90)現時点における、これにかかわる私見を、概略以下に述べておきたい。想定できることは、憲吉が家を出たのは、おおかた疑いなく、戦争讃美者であったことを償うためでも、飛騨高山で知り合った女性と駆け落ちするためでもなかったであろう。もしそうした理由を一方で子どもたちに語り、また一方で神近市子に漏らしていたとすれば、確かに事実とは異なるにせよ、あくまでもそれは、自身のジェンダー/セクシュアリティーに関して「カミング・アウト」できないことの裏返しの行為であったのではないかと推測され、ただ一方的に一枝を強く非難しただけですまされる問題ではない。人に固有のセクシュアリティーは、生まれながらものであり、のちに自分が好んで選択したものではない以上、一枝自身に、直接その責任のすべてがあるわけではない。むしろそれにかかわって深く悩み苦しんでいるのは、一枝本人なのである。離婚を承諾しなかったのも、もしそうすれば、自分のセクシュアリティーにかかわる「違和感」を間接的であろうとも結果的に告知することにつながり、このことについての周りの適切な認識と理解が必ずしも得られているわけではない時代状況にあって、それだけは、どうしても一枝は、一生涯避けて通りたかったのではあるまいか。
 一方、憲吉についても、身の回りの世話をする女性がこの時点で出現したからといって、倫理的観点から一方的にそれを強く批判することも、同じくできないであろう。独りの身で生活することを支える利便性がいまだ十分に整備されていないこの時代にあっては、ある種固有の自然さの発現であり、その意味で、憲吉をずるい、情けない男として安易に描き切ることにも躊躇せざるを得ないように思えてくる。
 他方、憲吉と一枝の年齢差は七歳、憲吉と石田のそれはおおよそ三〇歳。一枝と石田の時代経験や生活体験の差は、あまりにも大きい。そして、一方の関係には法的保障があり、一方には、それがない。さらにはまた、憲吉はすべての財産を一枝に残して家を出た。片や、そう長くないうちに若くして事実上の未亡人になるであろう石田のために、憲吉が、可能な限りの資産をつくっておきたいと考えたとしても、何ら不思議はない。この時期の色絵金銀彩への挑戦にも、あるいは最晩年の新居建設にも、多少なりとも、そうした思いが含まれていたのかもしれない。確かに、ともに女子美術の中退者という共通点はあった。しかし上で見てきたように、一枝と石田には、年齢や経験、法的保障、財産の遺し方等々に関連して大きな違いがあった。憲吉はそうした差異にどう対応したのであろうか。これらのことを考慮に入れるならば、憲吉と一枝、そして憲吉と石田、このそれぞれのカップルが男女の関係として成り立つうえでの愛情や役割にかかわる基本となる原理のようなものは、決して同一のものではなかったことが想定される。つまり、それぞれのカップルにとっての「真実」が異なっていた可能性が大きいのである。そうであれば、例証するにふさわしい資料が十全に渉猟されていない状況下にあっては、一方の成り立ちの原理と、別のもう一方の原理とを憶測により単純に比較したり、現在の価値観を頼りに一面的に優劣を決めたりすることには、当然ながら、慎重でなければならない。そこには、より複雑で多面的な批評の尺度が、事前に、十分な検討を踏まえたうえで用意されなければならないであろうし、そもそも、歴史の真なる相を明らかにするまえに、事の善悪を問うこと自体、早計にすぎるであろう。そのようなことを考えた場合、憲吉と一枝、憲吉と石田、それぞれのカップルがそれぞれに、この特定の歴史上の組み合わせの文脈のなかにあって、男女の自然で正直な一面にかかわって本質的にも身をさらしていたのではないかと、新資料の発掘までのいまは、こう推論しておきたい。

(91)志村ふくみ「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』美術出版社、1974年、233頁。

(92)南八枝子『洋画家南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年、15頁。

(93)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、74および519頁を参照。

(94)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、10頁。

(95)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、419頁。

(96)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、226頁。

(97)「會員名簿」『新匠』創刊号、1952年、6頁。

(98)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、519頁を参照。

(99)『新匠』第参号、1955年、3頁。なお、この詩の末尾に付けられた擱筆日は「1953・1・10」。

(100)座談会「富本憲吉先生を偲ぶ」『陶説』第125号、1963年、53-54頁。

(101)前掲「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、229頁。

(102)同「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、同頁。

(103)同「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、同頁。

(104)前掲『富本憲吉と大和』専門図書株式会社、33-34頁。

(105)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、同頁。

(106)前掲「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、57頁。

(107)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、226-227頁。

(108)富本壮吉「『定家かずら模様』あれこれ」『陶工・富本憲吉の世界――その人間と詩魂』富本憲吉記念館発行、1983年、62頁。

(109)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、217頁。この逸話は、別の箇所でも詳しく触れられている。富本憲吉「わが陶器造り」『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、83-84頁を、同様に、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、22および30-31頁を参照。

(110)同『私の履歴書』日本経済新聞社、218頁。

(111)同『私の履歴書』日本経済新聞社、同頁。

(112)富本憲吉記念館編『富本憲吉の陶磁器模様』グラフィック社、1999年、124頁。

(113)バーナード・リーチ『バーナード・リーチ日本絵日記』(柳宗悦訳/水尾比呂志補訳)講談社、2002年、263頁。

(114)「文化勲章の人々(5) 富本憲吉氏 つらぬく反骨精神」『朝日新聞』、1961年10月25日、9頁。

(115)富本憲吉「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』第13号、1954年、45頁。

(116)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、48頁。

(117)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、45頁。

(118)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、同頁。

(119)前掲「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、80頁。

(120)同「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、79頁。

(121)同「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、80頁。

(122)前掲「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、57頁。

(123)小山喜平「富本先生を偲ぶ」『陶工・富本憲吉の世界――その人間と詩魂』富本憲吉記念館発行、1983年、92頁。

(124)柳原睦夫「京都市立美術大学時代の富本先生」『現代の眼』443号、東京国立近代美術館、1991年、2頁。

(125)同「京都市立美術大学時代の富本先生」『現代の眼』、同頁。

(126)水沢澄夫、書評「富本憲吉模様選集」『三彩』第92号、1957年、16頁。

(127)同、書評「富本憲吉模様選集」『三彩』、同頁。

(128)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、219頁。

(129)前掲「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、80頁。この逸話は、別の箇所でも詳しく触れられている。富本憲吉「わが陶器造り」『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、33頁を参照。

(130)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、164頁。富本憲吉の轆轤の技については、八木一夫も言及している。八木一夫「富本さんのこと――理ではない そこからはみ出たもの」『富本憲吉陶芸作品集』美術出版社、1974年、225-226頁を参照。

(131)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、11-13頁。

(132)同『富本憲吉著作集』、43頁。

(133)同『富本憲吉著作集』、同頁。

(134)同『富本憲吉著作集』、30頁。

(135)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、12頁。

(136)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、161頁。

(137)富本憲吉述、内藤匡記「磁器の上の色絵について」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、41頁。

(138)同「磁器の上の色絵について」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、41頁。

(139)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、166頁。

(140)『富本憲吉作陶五十年記念展』(展覧会図録/国立近代美術館資料)、1961年、ノンブルなし。

(141)同『富本憲吉作陶五十年記念展』(展覧会図録/国立近代美術館資料)、1961年、ノンブルなし。

(142)「若々しい装飾感覚」『朝日新聞』、1961年5月25日、7頁。

(143)Bernard Leach, op. cit., p. 268.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、347頁を参照]

(144)Ibid., p. 270.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、350-361頁を参照]

(145)「川端康成氏ら六人 文化勲章の受章者きまる」『朝日新聞』、1961年10月19日、1頁を参照。

(146)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、228頁。

(147)「陛下と文化勲章受章者の午後」『朝日新聞』、1961年11月4日、15頁。

(148)大原総一郎「大原美術館 陶器館開設の日に」『民藝』第109号、1962年1月号、8-9頁。

(149)Bernard Leach, op. cit., p. 274.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、356頁を参照]

(150)Ibid., p. 274.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、356-357頁を参照]

(151)Ibid., p. 274.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、357頁を参照]

(152)Ibid., p. 274.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、356頁を参照]

(153)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、228-229頁。

(154)同『私の履歴書』日本経済新聞社、229頁。

(155)同『私の履歴書』日本経済新聞社、同頁。

(156)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、167頁。

(157)前掲『近代の陶工・富本憲吉』、193頁。

(158)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、242頁。

(159)中村汀女『汀女自画像』日本図書センター、1997年、92頁。

(160)同『汀女自画像』、93頁。

(161)同『汀女自画像』、97頁。

(162)同『汀女自画像』、102頁。

(163)富本一枝「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、44頁。

(164)「富本憲吉研究会例会 報告2」、富本憲吉研究会会誌『あざみ』第5号、1997年、90頁を参照。以下の引用は、「富本憲吉研究会例会 報告2」に記載されている「安堵帰郷50周年・富本憲吉書簡展――手紙、待つ。」に関する一部分(同頁)である。
 「富本が誕生して110年、安堵に帰郷して50年になるが、それを記念する形で[一九九六年の]今夏、[富本憲吉]記念館で『富本憲吉書簡展』が企画された。書簡は富本が帰郷したばかりの昭和21年9月から22年4月かけて東京の一枝夫人宛に送られた20通余り。印象的なのは、安堵に戻った憲吉がやがてそのまま一枝夫人と“別れていく”にも拘わらず、熱意を込めて夫人に手紙を書き送り続けていることである。憲吉の想いに反して、一枝からの返信は滞る。だが、手紙を待つ憲吉自身も彼女がやって来ないであろうことに気付いている」。
 このとき展観された「一枝夫人宛に送られた20通余り」の憲吉の書簡が、富本憲吉記念館の閉館以降、どのようなかたちで保存されてきているのかは、不明。

(165)成田陽「めんどりの歌(詩)」『風花』四・五合併號、風花書房、1947年、26頁。

(166)中村汀女「後記」『風花』四・五合併號、風花書房、1947年、48頁。

(167)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、79-80頁。

(168)富本岱助「祖母 富本一枝の追憶」『いしゅたる』第12号、1991年1月、16頁。

(169)同「祖母 富本一枝の追憶」『いしゅたる』、同頁。

(170)近藤富枝『相聞 文学者たちの愛の軌跡』中央公論社、1982年、175頁。初出誌は、「誄歌」『婦人公論』昭和54年12月臨時増刊号。

(171)尾形明子『『女人芸術』の世界――長谷川時雨とその周辺』ドメス出版、1980年、134頁。

(172)前掲「祖母 富本一枝の追憶」『いしゅたる』、同頁。

(173)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、347頁。

(174)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、264頁。

(175)前掲「雑誌『青鞜』のころ」『文學』、68頁。

(176)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、192頁。

(177)富本一枝「村の保育所」『暮しの手帖』第16号、1952年6月、36頁。

(178)同「村の保育所」『暮しの手帖』、41頁。

(179)富本一枝「春未だ遠く」『暮しの手帖』第19号、1953年3月、143頁。

(180)「あとがき・花森安治」、富本一枝・藤城清治『お母さんが読んで聞かせるお話A』暮しの手帖社、1972年、166頁。

(181)富本一枝「牛雲おしょうさま」『仏教童話全集』第8巻(中国・1)、大法輪閣、1956年7月、40-55頁。富本一枝「山伏と親鸞さま」『仏教童話全集』第6巻(日本・3)、大法輪閣、1956年12月、120-133頁。富本一枝「クマラジューのねがい」『仏教童話全集』第3巻(インド・3)、大法輪閣、1957年5月、34-51頁。および、富本一枝「行基さま」『仏教童話全集』第7巻(日本・4)、大法輪閣、1957年7月、62-79頁。

(182)富本一枝「行基さま」『仏教童話全集』第7巻(日本・4)、大法輪閣、1957年7月、78頁。

(183)『月報合本資料第一』(定本柳田國男集付録)筑摩書房、1981年、52頁。

(184)同『月報合本資料第一』(定本柳田國男集付録)、53頁。

(185)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、331頁。

(186)同「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、同頁。

(187)前掲「あとがき・花森安治」、富本一枝・藤城清治『お母さんが読んで聞かせるお話A』、同頁。

(188)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、同頁。

(189)前掲『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、233頁。

(190)吉永春子『紅子の夢』講談社、1991年、274頁。

(191)同『紅子の夢』、9頁。

(192)前掲『元始、女性は太陽であった④』、213-214頁。

(193)「まないた」『婦人民主新聞』、1966年10月2日、1頁。

(194)平塚らいてう『わたくしの歩いた道』新評論社、1955年、121-124頁。

(195)「『青鞜社』のころ――明治・大正初期の婦人運動――」『世界』第122号、1956年、115頁。

(196)「『青鞜社』のころ――明治・大正初期の婦人運動――」『世界』、同頁。

(197)松島栄一「あとがき」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、199頁。

(198)富本一枝「青鞜前後の私」、松島栄一編『女性の歴史』(講座女性5)、三一書房、1958年、178頁。

(199)荒畑寒村『荒畑寒村著作集9 寒村自伝(上)』平凡社、1977年、333頁。

(200)荒畑寒村『荒畑寒村著作集10 寒村自伝(下)』平凡社、1977年、210頁。

(201)中野重治「富本一枝さんの死」『展望』第96号、1966年、101-102頁。

(202)座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』第3巻第36号、1961年、67頁。

(203)同座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』、76頁。

(204)同座談会「婦人運動・今と昔――この半世紀の苦難の歩み――」『朝日ジャーナル』、77頁。

(205)前掲「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』、346頁。

(206)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、247頁。

(207)「“青鞜”発刊五十周年」『婦人界展望』第85号、1961年9月号、8頁。

(208)同「“青鞜”発刊五十周年」『婦人界展望』、同頁。

(209)同「“青鞜”発刊五十周年」『婦人界展望』、9頁。

(210)井手文子『青鞜 元始女性は太陽であった』弘文堂、1961年、1頁。

(211)同『青鞜 元始女性は太陽であった』、4頁。

(212)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、70頁。

(213)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、71頁。

(214)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、247頁。

(215)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、255頁。

(216)高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、204頁。引用した内容にかかわって、注記はいっさいない。したがって、何を根拠に、このように書かれているのか、再検証する手立てが残されていない。推量するに、存命中に陽から聞き取った内容を、折井が、このような表現で書き表わしたものと思われる。陽や折井に、記憶違いや勘違いがなかったとはいえない。

(217)『生誕120年 富本憲吉展』(展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、210頁。

(218)富本壮吉「父、富本憲吉のこと」『現代の眼』185号、東京国立近代美術館、1970年、6頁。

(219)前掲『近代の陶工・富本憲吉』、194頁。

(220)高井陽「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、5頁。

(221)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、6頁。

(222)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、7-8頁。

(223)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、8頁。

(224)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、同頁。

(225)前掲『元始、女性は太陽であった④』、311-312頁。

(226)同『元始、女性は太陽であった④』、312頁。

(227)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、12頁。

(228)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、同頁。同じく、『朝日新聞』、1963年5月6日、7頁を参照。

(229)前掲「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、8-10頁。

(230)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、11頁。

(231)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、11-12頁。
 他方井手文子は、憲吉との別れの場面をこのように書く。「やがて娘や息子とともに憲吉の病室を訪れた一枝は、人目もはばからず抱き合った。息子の壮吉は『明治ロマンの終焉』とつぶやいた。」(井手文子「華麗なる余白・富本一枝の生涯」『婦人公論』第54巻第9号、1969年9月、349頁。)
 最後の病室での憲吉と一枝の面会については、「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」のなかで、病室から帰ってきた母親(一枝)からの報告として陽が描写している内容が正確なのか、あるいはその後、おそらく壮吉から聞いた話であろうと思われるが、「華麗なる余白・富本一枝の生涯」のなかでの井手の描写が正確なのか、いまとなっては確かめようがないし、加えてそのとき、憲吉の意識がしっかりしていたのか、それとも、すでに相手が誰なのかが判別できないくらいの深い昏睡状態に陥っていたのかも定かではない。病室に入った一枝と壮吉、そのときの様子を語る一枝とそれに聞き入る陽と陶――ここには、遺族としてのそれぞれの立場からの複雑な思いや気持ちが交錯していたにちがいなかった。さらにその後にあっては、一枝の生涯を描こうとする井手文子の書き手としての思惑も介在していたであろう。しかしまた、それらとは別に、最後の面会に先立って陽が自宅へ持参した一枝からの見舞いの手紙を、それを読んだ憲吉は無惨にも破り引き裂いて、陽へ突き返したという行為の存在。これは、元気なときの憲吉が示した、一枝への最終的で明確な意思表示としてみなしてよいであろう。最後の病室での憲吉と一枝の面会の場面は、こうしたことのすべてを重ね合わせながら、いまは想像するしか方途が残されていない。

(232)同「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、13頁。

(233)富本壮吉「父に習った鰻釣り」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、16頁。

(234)朝日新聞が報じた富本憲吉死亡に関する記事は、次のとおりである。『朝日新聞』、1963年6月9日(夕刊)、11頁。『朝日新聞』、1963年6月10日(夕刊)、7頁。『朝日新聞』、1963年6月14日(朝刊)、15頁。および『朝日新聞』、1963年6月14日(夕刊)、6頁。

(235)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、196-197頁を参照。

(236)前掲「このひとびと③ 富本一枝 相見しは夢なりけり」『総評』、同頁。

(237)『朝日新聞』、1963年6月10日(朝刊)、14頁。

(238)『生誕120年 富本憲吉展』(展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、118頁。

(239)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、同頁。

(240)前掲「父、富本憲吉のこと」『現代の眼』、同頁。

(241)同「父、富本憲吉のこと」『現代の眼』、同頁。

(242)濱田庄司『無藎蔵』講談社文芸文庫、2000年、264-265頁。

(243)同『無藎蔵』、268頁。

(244)前掲「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、4頁。

(245)『朝日新聞』、1964年6月15日、11頁。

(246)同『朝日新聞』、同頁。

(247)富本一枝「母の像 今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編集『こどものしあわせ』第121号、草土文化、1966年6月号、3頁。

(248)同「母の像 今日を悔いなく」、日本子どもを守る会編集『こどものしあわせ』、同頁。

(249)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。

(250)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233-234頁。

(251)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、234頁。

(252)富本壮吉「西洋朝顔の皿」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、22頁。

(253)同「西洋朝顔の皿」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、23頁。

(254)同「西洋朝顔の皿」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、23-24頁。

(255)前掲『元始、女性は太陽であった④』、309-310頁。

(256)前掲「朋友富本一枝」『在家佛教』第234号、1973年9月、54頁。

(257)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、233頁。

(258)同『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、263頁。

(259)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、32頁。

(260)市川房枝『だいこんの花 市川房枝随想集』新宿書房、1979年、241頁。

(261)前掲「富本一枝さんの死」『展望』、101頁。

(262)同「富本一枝さんの死」『展望』、103頁。

(263)「あとがき・花森安治」、富本一枝・藤城清治『お母さんが読んで聞かせるお話A』暮しの手帖社、1972年、166頁。

(264)前掲「祖母富本一枝の追憶」『いしゅたる』、17頁。

(265)『新婦人しんぶん』新日本婦人の会発行、1987年9月24日、2頁。

(266)同『新婦人しんぶん』。

(267)小川晴子「終刊のごあいさつ」『風花』終刊号(第774号)、2017年、3頁。

(268)高井陽「新装復刻にあたって」、富本憲吉『窯辺雜記』(新装復刻版)文化出版社、1975年8頁。

(269)前掲「西洋朝顔の皿」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』、24頁。

(270)羽田野朱美「陶工の花図譜」(上)、富本憲吉研究会会誌『あざみ』第8号、2002年、51頁。

(271)羽田野朱美「回想・富本憲吉――陶工と出会った人々(2)」、富本憲吉研究会会誌『あざみ』第6号、1998年、37頁。