中山修一著作集

著作集4 富本憲吉と一枝の近代の家族(下)

第二部 家庭生活と晩年の離別

第六章 千歳村での生活の再生

一.陽と陶の成城学園転入、壮吉の誕生、そして新居の完成

上京すると、陽と陶は、成城学園へ転入した。そのときの様子を、陽と同学年だった井上美子は、後年『私たちの成城物語』のなかで、こう回想している。

 富本家は、昭和二年に小田急線が開通する一年近く前、郷里の大和安堵村から家族とともに上京、窯を祖師谷の丘に築く準備をされた。住居と窯ができ上るまでのしばらく、高田馬場の線路の近くに仮住居があった。長女陽、次女の陶の姉妹が成城学園に入学、目白に家があった私とは、毎日電車の時間を決めて一緒に通学していた

また、美子の記憶によると、富本家のふたりの姉妹とは、相互に家に遊びにいく仲であった。「姉妹は、目白林泉園の私の家にも遊びに来て泊まったり、高田馬場の家に私が遊びに行き、小母様(一枝夫人)から小さな竹行李に入った(憲吉作)陶の帯留をいただいたりした」

一方陽は、高田馬場での仮住まい生活を、次のように記憶していた。

 大正十五[一九二六]年の秋、大和から東京に移り住んだ私たちは、千歳村の家が建つまでの間の借家住いをしていた。その借間の二階六帖ふた間いちめんに『窯辺雑記』の見返しの黄いろい和紙が拡げられていて、部屋じゅうが黄いろく見えたのを想いおこす。製本屋に回す前に、父が献本一冊一冊の見返しの紙に墨で絵や文字を書き、それを並べかわかしていたのであった。かわいたものから母が揃えていたが、当時、母のお腹には弟の壮吉がいて、母は出産まぢかであった

『窯邊雜記』が刊行されたのは、東京移転のちょうど一年前の一九二五(大正一四)年の一一月であった。一年が立ったこの時期に献本の見返しに絵や文字を書いていることから推し量ると、これは、『窯邊雜記』ではなく、銀座尾張町の生活文化研究會という『窯邊雜記』と同じ版元から、翌一九二七(昭和二)年の二月に出版されようとしていた『富本憲吉模樣集』だったのではないかと思われる。二月五日の東京朝日新聞に掲載されたこの模樣集の広告を見ると、「五百冊を限り著者親しく表見返しに『野葡萄』を描く」と書かれてあり、それから判断するならば、このとき陽が目撃した絵は、この野葡萄の模様だったのではないだろうか。

ちょうどそのころ一枝は、身重の体ではあったものの、一九二七(大正一六)年の『婦人之友』一月号のために「東京に住む」を執筆し、寄稿した。大正から昭和へと改元されるのが、年も押し迫った一二月二五日だったためであろうか、実際に「東京に住む」が掲載されたこの号は、「昭和二年」ではなく、「大正一六年」の新年号となっているのであるが、そのなかで一枝は、東京移住について、こう書いていた。

いくどか廻り來た大和國の四季に、住馴れた私達が、東京に移り住むやうになつたそこには樣々の理由があつたが、そのなかでも特に大きく強い事柄があり、むしろ樣々の理由といふよりそのこと一つが根本的の動きであつて、それ以外の私共のいふ理由は枝葉の問題に過ぎないが、その根本の問題にふれることは家庭的のことで、今は書くことがゆるされない。かいつまんで云ふなら人間同志のなかに必ずかもされる危機、その危険期に私達も亦等しく陥つた。さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛な感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つたその結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた

この曖昧で私的な文章を読み、一枝たちの東京移住の真の理由を正確に理解した読者は、どれくらいいたであろうか。つまり、一枝は、誰に読んでもらうことを念頭に置いて、この「東京に住む」を公表したのであろうか。すべての読者だろうか。あるいは、自分と同じく、与えられた性に違和感をもつ人たちであろうか。それとも、かつて「小さな学校」の教師を務めた小林信のことが意識されていたのだろうか。それはよくわからない。少なくとも最後の「今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つた」という文言のところは、「東京に住むことゝなつた」決意として、明らかに読み手の印象に残り、これまで幾つかの雑誌や週刊誌に随筆や小説を大和の安堵村から発信してきていた富本一枝というひとりの書き手の、一種独特ではあるが、東京への「転居通知」として、伝わったにちがいなかった。

改元から八日後の昭和二(一九二七)年一月二日、一枝は男児を出産した。命名するにあって、父親から「吉」の一文字を譲り受け、「壮吉」の名が与えられた。それから三七年後の話になるが、憲吉が亡くなって一年後の一九六四(昭和三九)年に憲吉の回顧展が開かれた。そのとき、リーチは、憲吉の陶工としての事実上の第一作である《梅鶯模様菓子鉢》を英国からもってきた。その鉢の見込みには久左という署名が書いてある。そこで濱田庄司は、壮吉に尋ねた。「令息の壮吉君に聞きますと、富本家には久左衛門、久右衛門を隔代に使った家憲があって富本は久左衛門に当るのだそうです。そういえばこの頃『美術新報』等に書かれた文章にも、安堵久左衛門という筆名があったように思います」。そうした富本家の家憲に従うならば、誕生した壮吉は、「安堵久右衛門」を名乗るにふさわしい立場にあった。壮吉の誕生は、一枝の実家でも喜びをもって迎えられた。一枝の父親の越堂は、壮吉の初節句のときに、《桃太郎》【図一】を描き贈った。桃太郎が着る狩衣に「壮吉」の模様が描かれている。

憲吉にとっては、東京という新天地での、妻子をかかえての再出発となった。忠告してくれる人も多かった。「十數年前友達の忠告をふりすてて田舎に歸り住んだ私が、又親子四人で東京に移り、まだ住居さへ決まらぬうちに出産があつて五人となつた。ある人は貧乏について、ある人は作品の不安を、色々と矢張り私がひとりで田舎にかへつた時の樣に忠告して呉れた」。作品については、「都會に住めば都會から生まれる作品を、私がもし作り得る樣なら、私は本當に美術家として生きて居る」ことになるだろうし、貧乏については、「貧乏は恐らく私共に來ることは可なり決定的のことではあるが、それについて恐れないつもりで居る」。続けて、こうもいう。「どこに住まうと富本は富本ではないか。出來る陶器にも考へにも變りはないではないか」10。東京であろうと、自分は自分。悲壮感が漂う。そして――。

十年以上貯へられ燃やされた石炭の力が働くに充分な蒸氣を一杯につめこんで來たつもりで居る。安全辨から餘分な蒸氣が立ち上るほどに用意されたつもりで居る。死は近い[、]仕事を待つ。このエンヂンを使へるだけ使う人はないか。その意氣込みを私ひとりで胸に持つて東京に出て來たつもりで居る11

いつしか訪れるであろう死期も、意識に上りはじめる。残された時間はそう多くはない。美しくて安い陶器の量産――富本憲吉というエンジンを使いこなす人はいないのか。使い慣れた安堵の窯を閉じ、未知のこの地に新たに築窯する憲吉は、改めて自分が、「模倣から模倣に生きなければならぬ人」ではなく、「創り出し得る人」として生きる定めをもって生まれてきたことを、諦観にも似た境地に立って、静かに悟る。

 いかにもがき躍進を志したところで、太いものは太い樣に、細いものは細い樣に、或は創り出し得る人と模倣から模倣に生きなければならぬ人とは生れたその時から決まつて居ると思へる。四十二歳(一九二七年)になつて私の考へがここまで來たような氣がする12

壮吉の誕生から一箇月が立ち、今度は『富本憲吉模樣集』が産声を上げた。すでに前章の「安堵村での新しい生活」において詳述しているように、憲吉は、「形は身體骨組であり、模様はその衣服である」13と考えていた。そして「模様から模様を造る可からず」の精神のもと、前例にとらわれない新しい模様を創案することに一貫して心血を注ぎ、「繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模様も亦模様の世界」と主張するほどまでに技量を磨き、自信をもちはじめていた。しかしその一方で、「去年から今年へかけて發行の途中にある自分の模樣集の原稿を撰り出す時、自分の模樣を造る力の足りないのを情けなく思ふ。十年間にかいた數百枚の原圖から模樣として本當の生命を持つものが何枚あらう」14と、いまだ自らの力不足も嘆いていた。一九二七(昭和二)年二月五日の東京朝日新聞に『富本憲吉模樣集』の広告が掲載され、それには、「富本と模樣」と題された、次のような柳宗悦の推薦文がつけられていた。

 富本の模樣集が出版された。幾十枚の挿繪を見れば、鮮かな一個性の世界が目前に展開する。……陶磁器のために準備せられたものではあるが、全く模樣として獨自の價値をおびる。……如何に出發し、苦闘し、成就したか、一個性のよき歴史である。寫眞及び製版は田中松太郎氏の技による。共に完璧に近い15

『富本憲吉模樣集』は、十余年の歳月のなか安堵村において憲吉が「出發し、苦闘し、成就した」模様創案のまさしく集大成であり、同時に、新たに東京において製陶をはじめるに際しての、跳躍台となるものであった。憲吉は、「三人が見て呉れる樣に」と認めたうえで、この『富本憲吉模樣集』を一冊ずつ子どもたちに残す。さらに、子どもに宛てたこの文には、「私は四拾弐歳になつた……やりたい仕事が山程あるのに人の命は短かい、実に短かい、父 千九百弐拾七年弐月」16の文字が墨筆で刻まれている。

壮吉が生まれ、『富本憲吉模樣集』が刊行され、憲吉にとっては喜びの日々であったにちがいない。しかし、その一方では、千歳村に新築する家の設計や打ち合わせに追われ、多忙を極めていたものと思われる。家を設け、仕事場をもつとなれば、それにふさわしい資金も必要になるだろう。憲吉は、金策にも奔走した。

仕事場は十坪ばかり、窯は大和時代より少し大きくしたが、金が足りず、大和の仕事場に建てた家を売り払った。そのうえで資生堂の主人の福原信三氏や写真家の野島康三氏というような友人たちから三千円ずつ出資してもらった。自分でも二口の六千円ほどを生家からもらってきた17

福原は写真家でもあり、野島とのつながりも深い。ところで、この多額の借金の返済はできたのであろうか。「この出資金の返済のために、頒布会を作って白磁の八寸ぐらいの壺を四〇円で分けることを考えたが、四口ぐらいしか加入者がなく、だれも相手にしてくれなかったのである。私はそれまで金に困ったことはほとんどなかったのだが、すでに妻子をかかえ、独立している身でもあり、初めて前途の多難を思った」18

いよいよ新居が完成し、一家は、高田馬場の借家から千歳村へと引っ越した。建築地は、「東京市外北多摩郡千歳村下祖師谷八三五」であった。井上美子は、このように回想する。「小田急線開通の晩夏、昭和二年にわが家が建ったのと同じころ、富本家の新居と窯も完全に完成して北側の奥、成城田んぼの突き当たりの丘に移られた。その年生まれた壮吉君と、一家は五人に増えていた。陽ちゃんと私もこの年の三月小学校を卒業して女学校一年となった」19。小田急線が開通したのも、成城学園女学校が創設されたのも、この一九二七(昭和二)年の春のことであった。

それでは、憲吉自身が設計したと伝えられているこの新居は、どのようなものであったのであろうか。俳人の水原秋櫻子は、「祖師谷の客間」と題したエッセイをのちに書いているが、以下は、その一節である。広々とした客間(居間)が特徴的であった。

 玄関の扉がひらかれると、そこは狭い靴脱ぎで、左手に手荷物を置く棚があり、その上の壁にはたいてい陶板が掲げられてゐた。正面の壁は帽子や外套を掛けるやうになつてをり、左寄りに客間へ入る扉があつた。……畳ならば四、五十疊も敷けやうといふ板の間に絨毯が敷かれ、二三脚の卓とそれをかこむ椅子とが適当に配置されてゐる。南側は一面の硝子戸で、ゆるい傾斜をもつた庭に面し、その庭の尽きたところからは、垣をへだてゝ田の眺めがひらける20

さらに、陶の息子の海藤隆吉も、後年「祖師ヶ谷の家」というエッセイを書き、そのなかで、次のような体験談を披露している。この家は明らかに、英国風の間取りをもつ家であった。

 祖父の設計であるというその家は、英国の影響がとても強いものであった。それに気付いたのは、先年イギリスを旅行した折、元駐日英国大使であるヒュー・コータッツィさんの家に滞在させていただいた時のことである。……邸内、庭を案内していただきながら、「あっ!これは祖師ヶ谷の家だ」と体感的にそう思ってしまった。間取り、雰囲気、いわばコンセプトが同じなのだ。……その英国の古い家にも、北に面した玄関ホールの南側に大きな居間、その西側に食堂、その北に台所、玄関ホールから左の東側には子供部屋、寝室とゲストルームがあり、テラス、ローズガーデンに続く南の庭からは田園が遠望され……祖師ヶ谷の家と位置関係までもが奇妙なまでに一致していて……祖父がこういった英国風生活を理想とし、それに近づけようと設計したのが、あの家であったのではないだろうか21

しかしながら、双方のエッセイで紹介されている祖師谷の家は、そののちに建築家の笹川慎一によって増改築がなされた以降のこの家の様子であり、新築当初の様子は、細部においてこれらの描写とは少し異なっていたかもしれなかった。この家からの陽と陶の通学もはじまった。陶は、その当時のことをこう記憶していた。

当時最新の教育を実施されていた小原[国芳]先生の成城学園に、二人の子供をお願いする事が決まりました。今の成城学園が丁度牛込から砧といわれた雑木林の中に新しく移って来た直後の頃の事でした。昭和の初め、校舎は美しい富士山を西に眺められる雑木林の中に建っていました。成城女学校の毎日はお十時の時間があり、皆おやつを持参して一休み致しました。試験等、殆ど自主的に受けるシステムで、進度もそれぞれが違っていて勉強した所までを、各自が先生と生徒の一対一で受けておりました22

憲吉と一枝は、おそらく、こうした規則に縛られない、自由でのびのびとした校風を歓迎したことであろう。親の気持ちは、たとえそうであったとしても、陽と陶の置かれている状況からすれば、円通院の「小さな学校」での個人授業から、一斉授業や集団生活を特徴とする学校生活へと、自分たちの学習環境が、突然にも変化することを意味していた。そうした環境の変化にいち早く順応することが、ふたりの娘たちにはまず求められたものと思われるが、彼らの心理的な負担と緊張は、それなりに大きかったにちがいなかった。

陽と陶の転校に先立って、すでに平塚らいてうは、長女の 曙生 あけみ を一九二三(大正一二)年の春に、長男の 敦史 あつぶみ を翌年の春に、牛込原町の成城中学校の敷地内にあった成城小学校に入学させていた。校長が沢柳政太郎で、主事が小原国芳であった。らいてうは、ふたりの子どもを成城小学校に入れた理由をこう語る。

そのころ、公立の小学校は保護者会費として、二、三十銭納める程度でしたが、成城の授業料は月に八円です。この法外ともいえる授業料を承知の上で、世間からブルジョア学校と見られている成城へ、ぜひとも二人の子供を入れたことは、けっして成城小学校が、それほど素晴らしい学校とおもったわけでなく、なんとしても、他の一般の小学校でおこなわれている、文部省教育というものが、いやでたまらなかったからでした。……公立小学校の、あの画一的な型に押しこめる教育が、ここにはありません。国定教科書に見られる、あの無感情な、無意味な文章はなんということでしょう。しかもそのなかにもられた思想といえば、封建時代の服従道徳の残骸か、軍国主義的思想か、露骨な低級な功利主義、もしくは、たんなる知識でしかありません23

ところが、校舎は壊れなかったものの、関東大震災がきっかけとなって、一九二五(大正一四)年に学校は牛込から きぬた 村へ移ることになり、らいてう一家も、それに合わせて、千駄ヶ谷から京王線沿いの千歳村烏山の借家へと引っ越すことになった。するとそのとき、らいてうの夫の奥村博史が学園の絵画の教師を引き受けることになり、成城の教職員は地元に家をもつことという学園建設の方針に従って、この夫婦は借金を抱え込みながらも、この砧村の一角に新居を構えることになった。らいてうは、当時の砧村について、こう述べている。

 当時の砧村は、高台一帯が赤松林と草っ原で、 はぎ すすき くず などが生い茂る、文字どおりの草分けの地でした。番地こそあっても、あたりは野原のなかの一軒家で、小田急の成城学園駅は、わたくしの家から目と鼻のところにあり、家の窓からプラット・ホームと改札口が一目で見渡せます。屋根のないプラット・ホームが、草むらのなかに浮かんでいるだけの駅でした24

そして新居については、次のように語る。「この家の設計には建築費三千圓といふ嚴たる制限がありました。しかもアトリエ附で家族は夫婦に子供二人、女中一人といふ条件がありました。ずいぶん無理も多く、苦心を要したに相違ありません。一、建築地、北多摩郡砧村喜多見 一、地坪、平地、南向、百坪 一、木造平屋建、屋根獨逸式青色セメント瓦 一、建坪二十六坪(別に屋根裏二階五坪) 一、建築費三千圓(但し電燈工事、井戸、給水工事、下水工事、門垣等の附属工事を除く) 一、設計者 大内章正氏 一、大工 前島謙男氏」25といった概要だった。これは、らいてうの「砧村に建てた私たちの家」というエッセイからの引用であるが、一枝の「東京に住む」と同じく『婦人之友』の大正一六年新年号に掲載されたものである。

さらに、柳田国男を祖父にもち、のちに南薫造の孫の南建と結婚することになる八枝子は、自著の『洋画家南薫造 交友関係の研究』のなかで、興味深い話を披露している。八枝子の父親は柳田為正といい、一九二七(昭和二)年に為正は、「牛込から転校のために、父親柳田国男と書生二人と共に、新築した家に急ぎ移り住んだ」26

一九一五(大正四)年生まれの為正は陽とは同年齢であったし、さらに加えて、井上美子も、中江家の三男の昭男も、そしてらいてうの長女の曙生もみな、小学校の同級生だった。一方で、らいてうの長男の敦史と陶が同じ一九一七(大正六)年の生まれであった。

中江百合子と三人の息子たちは、らいてう一家や富本家よりも一足先に成城の地に引っ越してきていた。のちに三男の昭男と結婚し中江家に入った泰子(旧姓植村で、植村家も成城の居住者)は、姑(中江百合子)から、次のように聞かされていた。

以下は、中江泰子と井上美子の共著の『私たちの成城物語』からの引用である。前章の「安堵村での新しい生活」において、すでに紹介しているように、長男の誘拐事件をきっかけとして、中江家は一九二〇(大正九)年末に関西から東京の本郷区弓町へと移転した。「しかし、ただでさえ人一倍神経質だった長男は、誘拐にあって以来ますます人を遠ざけ、東京へ出て来てからも、なかなか心を開かなくなっていた。長男に対する両親の心配は一通りではなかったようだ」27。そうしたなか、百合子は自由主義教育の実践校としての成城学園の存在を知ることになる。「大正十四年四月、成城学園の開校が決まると、何事も徹底的に実行する姑[百合子]は、土地の人の家以外は何も見当たらぬ砧村の地に、大地主だった石井彦左衛門(現在スーパー石井社長の祖父)の借家を借り、引っ越しを決行することになった。……女学生だった長女は成城に女学校がまだ併設されていなかったので、舅と弓町に残ることになった」28。さらに、泰子の回想は続く。「中江家が借家住まいをやめて、いよいよこの地に土地を買い求め家の新築に取りかかることにしたのは、私[嫁ぐ以前の植村泰子]が成城小学校に入学したころである。まだまだ空き地は沢山あったが、舅が決めたのは成城もはずれの雑木林と竹藪の二千坪ほどの土地、地番も祖師谷二丁目の飛地だった。駅から歩くと男の足でも急いで十五分、足弱な女子供だと三十分近くもかかる不便な場所である。……田んぼをはさんで祖師谷寄りの高台には、手を振れば見える距離に大和の安堵村から上京された富本憲吉氏の家がある」29

述べてきたように、成城学園の移転や小田急線の開設に伴い、この時期、この地へは、たとえば上で紹介した奥村博史と平塚らいてうのような美術家や社会活動家、柳田国男のような学者、そして中江家のような実業家といった、いわゆる上流中産階級の人たちが家族とともに移住してきており、彼らの新しい生活がはじまろうとしていた。さらに加えるならば、これまでしばしば引用してきた『私たちの成城物語』の一方の著者である泰子の植村家が駒込の 大和郷 やまとむら から、もう一方の著者の美子の井上家が目白の林泉園から、この成城の土地に大きな邸宅を設け、前後して引っ越してきた。こうした学校や電鉄、人びとの動きのなかにあって、「雑木林と畑に囲まれ、そのころはまだ武蔵野のおもかげが濃く残っていた」30自然環境を背景としながら、富本憲吉一家の千歳村での新生活と家族同士の交流もまた、同じく幕が開こうとしていったのであった。

二.国画会工芸部の新設、量産陶器への挑戦、そしてリーチとの交流

安堵村を出て半年が過ぎた一九二七(昭和二)年の四月、梅原龍三郎の推薦により国画創作協会第六回展において、憲吉は陶磁器と素描写真一〇〇点を出品した。これが、国画会工芸部の誕生へ向けての第一歩となるものであった。二〇〇六(平成一八)年発行の『国画会 八〇年の軌跡』には、このときの様子が、こう記されている。

 国画会工芸部は一九二七年(昭和二年)四月の国画創作協会第六回展に、第二部(洋画)の梅原龍三郎の勧めで、友人であった富本憲吉が陶磁器と素描写真一〇〇点を推薦出品し、五月に第二部の会員として迎えられ、工芸部を新設したことに始まる31

憲吉にとって、この推薦出品は、この年の二月にすでに刊行していた『富本憲吉模樣集』の内容にかかわって、実作をもって展覧する絶好の機会になったものと思われる。そして同時に、日本画、洋画、彫刻の各部門に加えて工芸の部門を新設できたことは、これもまた憲吉にとって、「繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模様も亦模様の世界」というこの間に到達していた美術領域を俯瞰する独自の視点が現実のものとなったことを意味していた。国画創作協会第六回展は、そうした点において、安堵での製陶活動を総括し、締めくくる場であったし、同時に、東京での新たな展開に向けての幸先のよいスタートの場となったのであった。

この時期は、国画創作協会から国画会へと大きく組織が変わる節目に相当する。そこで、先に触れた『国画会 八〇年の軌跡』を参照しながら、この団体の変遷を少したどっておきたいと思う。国画創作協会は、一九一八(大正七)年に、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳といった京都の新進気鋭の日本画家たちによって創設された。彼らは当時の文部省美術展覧会(文展)の審査に対する不信から脱退へと進み、創作の自由を尊重する姿勢を鮮明にするとともに、日本画と洋画の垣根を低くし、絵画全体を論じる土壌もまた形成していった。そうしたなかにあって、土田麦僊は、一九二五(大正一四)年に、梅原龍三郎と川島理一郎を同協会に迎え入れ、第二部として洋画部を設置した。このとき、協会の評議員に川路柳虹、田中喜作、福原信三、野島康三を加え、清新なる芸術創造を目指すことになった。洋画部の公募は一九二六(大正一五)年にはじまり、翌年(一九二七年)には、金子九平次を迎えて彫刻部が、同じく富本憲吉を迎えて、官設展である帝展に先駆けて、工芸部が設置された。

しかしながら、この国画創作協会は、主として経済的な理由から一九二八(昭和三)年に解散し、第一部の日本画が解消すると、梅原龍三郎の主導のもとに第二部の洋画部が「国画会」として独立し、展覧会名も通称の「国展」を継承し、絵画、彫刻、工芸の三部門をもって再出発した。このとき、あるいはその翌年、工芸部には濱田庄司とバーナード・リーチが新たに会員に迎えられた。洋画部が初公募を行なった一九二六(大正一五)年を国画会としての第一回展とみなし、その後毎年展覧会が重ねられ、一九三〇(昭和五)年の第五回展において平塚運一により版画部が、そして一九三九(昭和一四)年の第一四回展において福原信三と野島康三によって写真部が新設され、現在の五部門体制が整ってゆく。

すでに前章の「安堵村での新しい生活」において述べているように、これまで憲吉は、文部省が開催する文展、農商務省が催す農展、そのいずれの官設展に対しても批判的な態度をとってきていたし、公募団体の運営に直接携わるようなこともなかった。そうしたなか憲吉は、国画会工芸部の運営の舵取りを任されることになったわけである。当然ながら、アカデミズムとは異なる、在野精神にあふれる審査の基準や考え方を憲吉は明確化する必要があったであろう。これについて憲吉は、こう述べている。「展覧會だからとて作の大きさを競ふことはない。小さくても會場で見劣りがするなど考へない。反對に色を強くしたりなどする當て込みの會場藝術は排斥する」32

単に展示のための「会場芸術」を退ける。そして「写し」を戒め、「独創力」の重要性を強調する。「作者自身が手盬にかけた作品が欲しい。自ら轆轤をひき、繪を描 ママ てい ママ もので楽しみ乍らの製作こそ望ましいが、ものの寫しなどでは困る。研究消化するのならいい。今の作品は獨創力が缼けて居る」33。さらに続けて、国画会工芸部の公募の考え方に触れて、このように主張する。「國展は作者の履歴などを問題にしない。玄人でも素人でも其區別はない。ただ官設展の樣に固くなるとアカデミックに傾くから、此點を避けて楽しみ面白味のある作品を集めたい。單に陶器ばかりではなく染織も刺繡も……」34

こうして一九二八(昭和三)年に、国展工芸部の最初の公募がなされた。次は、そのときの憲吉の感想である。

 先づ應募作品の大多數が實に獨創性に乏しい事を感じた。……獨創のないテクニツク丈の工藝品は決してそれを立派な藝術品だとは言へないのである。帝展に四部が出來て、美術工藝の黎明は近づけりの聲を近頃よく聞くが、私の今年國展へ應募した諸作を見た感想によると、未だ未だの感が深かつた事を言はざるを得ないのである。……官私設の區別なく、工藝家たるものは、暁の輝きに近付くべく一致團結し、工藝家自身の自覺に由つて、美術工藝を進歩發達せしめなければならぬ事を深く感じた次第であつた35

憲吉の「獨創性」への執念は、安堵村から千歳村へと確かに引き継がれていた。この年(一九二八年)の七月、憲吉は、「武蔵野雜草譜」と題して、移住してきた武蔵野にみられる雑草(ゲンノショウコ、スズナ、ヘビイチゴなど九種の野草)を写生し、あわせて一つひとつに一言を付して、それをもって野草譜の第一巻として完成させた。冒頭、憲吉はこう書き記す。

久しく住みなれた大和で雜草から直接模樣を造り、模樣から模樣を造る事を斷然やめてから随分多い年月は流れ去つた。モウ直接日光にさらされ寒風に吹きつけられて勞働しなくとも見てかへり、その總合と組みたてによつて寫生は出來る筈であるのに、永い間の習慣が矢張りそうはさせないで無理にも自分をひき廻す36

憲吉の野草の観察は、野原においてだけではなく、さらに町中の花屋にも及ぶ。「この間夕飯後散歩に新宿に出かけた。時々のぞいてみる花屋の飾窓に私は薊のむれをみつけた。この薊は獨逸種のものだ。切り花としてつくられた花らしく野生のあの強健さや輝いたきれいさはないが買つてきて早速描いてみた。花は濃淡三四色」37。アザミは、生涯にわたって憲吉の心を引きつけた野草のひとつであった。

もっとも、憲吉にとって模様のモティーフとなるものは、植物だけとは限らなかった。濱田庄司はこうしたことを記憶していた。

私はいく度か訪ねたことがありますが、富本は新築の家に高くてもユンケルのストーブを入れたいという。そしてユンケルは入りましたが、しかしそのためにこんどは戸が粗末になって、ユンケルの熱で空いたり曲がったりしてしまった。また夏になると、網戸を入れた窓がこれも出来があやしくて、戸や網戸の隙間から入った虫が、あべこべに外へ逃げられないだけの網戸です。富本も苦笑しながらそばへいって見ているうちに、やがてその中の美しい蛾を見つけて、たちまちその写生がはじまり、そうしてひとつのいい模様をこしらえてしまうのです。ここに本当の美術家がいると私も見とれてしまいました38

その一方で、製陶の場も、自宅工場の窯だけに止まらず、冬場は地方の窯へと移った。冬場の地方窯での研鑽について、憲吉は、以下のように語っている。

 東京の新窯をはじめて使ったのは一九二七年の八月でした。東京では冬になりますと風がひどくて、地下室のない私の仕事場では素地が凍って仕事になりませんので、一月から二月にかけては地方の窯場を廻り、その地方の特色ある技法を研究しました。 信楽 しがらき 益子 ましこ 、瀬戸――瀬戸は二、三度―― 波佐見 はさみ 、京都――二回ほど――など廻り、その土地の材料を使い、その土地の職人と一緒になってやりました。こうして各地方の伝統を研究して、最後に(四十九歳の時)焼物の技法としては最も複雑な色絵の研究に九谷に行きました。ここには牡丹の咲くころから米を刈り取るころまで、およそ十ヵ月ばかり北出塔次郎君の所にいて、研究を重ねました39

憲吉がはじめて地方の窯に出かけたのは、一九二九(昭和四)年のことで、信楽だった。この間憲吉は、片時もウィリアム・モリスの思想を忘れることはなかった。つまりそれは、裕福な一握りの人のために存在する芸術ではなく、万人が享受できる芸術であった。特権的な階級が崩壊し、民主化された平等な社会が出現した暁には、人びとが日常の生活に必要とする物質、たとえば焼き物、家具、織物などは、どのような姿へと変化することになるのであろうか。その形や模様は、あるいは生産の仕組みや体制は――。これが、英国留学に先立って美術学校の学生であったころから芽生えていた憲吉の課題であった。憲吉は、こういう。「私はまだ陶芸をめざす前から、ばくぜんと心に描いていた英国のウイリアム・モリスの思想にいくらかでも自分の道を近付けたいという念願をいだいていた。信楽へいったとき、私は一つの試みをした」40

それは、あらかじめ向こうの職人に注文の寸法を出して、大皿のロクロを引かせておき、あとで行って自分で絵付けをすることである。こうしてできた何十枚という鉄絵の大皿を、従来にない安い値段で市販したものである41

人びとの生活における物質的平等性を担保しようとすれば、どうしても一定の量を確保しなければならないし、同時に、安価でなければならない。これが憲吉の一貫した念願であり、いままさしく、安くて美しい量産陶器の試作に挑んでいるのである。信楽での試作について、憲吉はこうもいう。

 私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた。信楽にいったときは、その考えを実行に移したもので、このときの大皿は絵だけを私が描いたものだから、安く売ることができた。ロクロから仕上げまで、一貫して自分で作る陶芸と、ロクロは職人まかせにして、絵付けだけをやる場合とでは、そこにハッキリした区別をおき、後者にはあまり高い値段を付けてはならないというのが私の終始一貫した信条である42

こうした日常の生活に向けての安い陶器が、憲吉の手によって国画会の展覧会に陳列され、販売された。「この信楽の大皿を作った前後のこと、昭和三、四年ごろだったと記憶するが、国画創作協会のあとに国画会というものができ、私はその工芸部の展覧会で、前記の方針にもとづいて、一点制作の高いものと、そうでない安いものの両方を売ったことがある」43。しかし、評価はあまり芳しくなかった。「私の考えは、必ずしも歓迎されたとはいえないようだ。そのころ、まだ工芸家は一点制作の“芸術品”に専念すればよいという考え方が支配的だったのである」44。その時代の人びとの期待は、「芸術家」としての工芸家を日常生活品の製作に向かわせることを許さなかったのであろう。憲吉の回想するところでは、このようなこともあった。

 その時分、東海道線静岡駅の駅売り土びんに「山は富士、茶は静岡」と書いたものをお茶入り五銭ぐらいで売っていたことがある。私はこの土びんに二、三百個ばかり簡単な たで の花の絵付けをして、国画展の展覧会で売ったことがある。……駅売り土びんのような身近な焼き物にも、よい意匠が浸透することを望んだからである。土びんは伊賀で焼いたものだった45

信楽に続いて、翌年には波佐見へ出かけた。一九三〇(昭和五)年二月二八日夜、長崎の光永寺の二階にて、憲吉はこう書き記している。「千九百参拾年壹月、家族五人が東京の家や工場を閉めきり長崎への旅に上つた。寒い千歳村の寒氣を避けるため、一方では私の仕事での年中行事の一つになつて居る地方窯を訪ひそこで安價な陶器を試作する爲でもある。最初は別に一家を持ちそこから波佐見に行く豫定であつたが、正木氏の好意によつて五人の居候がこの光永寺の隅から隅迄走り廻り飛び歩いて約壹ケ月半の日を過ごした。……波佐見には都合四度行つた。……私は此の[波佐見への]旅行で中尾で貳百五拾、西原で前後千五百の既成素地に筆を執り、或いはゴム版を使用し、木原では五拾の自製素地と百の既成素地に染附して陶器を造つた」46

同年五月一九日の東京朝日新聞に、「富本陶展」との見出しで、銀座鳩居堂での展覧会の記事が掲載された。内容は、柳宗悦の影響下にある濱田庄司や河井寛次郎の「下手物」趣味と比較した、富本憲吉の作品紹介となっている。「木食五行にはみそをつけた柳宗悦君が工藝鑑賞に向つて投じた一石『下手物美』の論は以外の波紋を畫いて、陶に携はる新人達が競争の形でらちもなきゲモノの濫作に浮身をやつして居る圖は昭和の一奇観である、富本憲吉君は河井君とは違つて始めから貴族的なものは作らず……もつとも富本君は全くゲモノ屋になり終せた次第でなく、肥前波佐見で試みた磁器の中には銀らん手も赤繪もあるのだが、濱田君の……繪高麗陶に至つては……大悪陶の亂舞である」47

この間柳宗悦は、一九二五(大正一四)年に、雑誌『木喰上人之研究』に研究成果を寄稿していたし、翌年(一九二六年)の四月には、「日本民藝美術館設立趣意書」を公表し、九月には地方紙『越後タイムス』に「下手ものゝ美」を発表していた。『雜器の美』と題された「民藝叢書第壹篇」が工政會出版部から上梓されたのが一九二七(昭和二)年のことで、ここには、柳宗悦の「下手ものゝ美」、濱田庄司の「正しい美」、富本憲吉の「陶片集」、河井寛次郎の「陶器の所産心」などが所収されていた。

他方で濱田庄司は、関東大震災の翌年(一九二四年)に英国から帰朝すると、沖縄の壺屋窯で作陶を進めながら、柳や河井寛次郎とともに、一九二五(大正一四)年には、木喰上人の遺跡訪問のために紀州へ旅をし、一九二七(昭和二)年には、東北、山陰、九州でその地の民芸品の調査を行なっていた。

こうして一九三〇(昭和五)年も年の瀬を迎えた。前年(一九二九年)にアメリカで起こった世界恐慌の影響が日本へももたらされ、日本経済が危機的状況に陥った年でもあった。憲吉はこの一年をしみじみと振り返る。

 拾月末第一窯、自宅で展覧、拾貳月二十日第二窯を隣の中江[百合子]氏新邸に展覧、誰かの言に、尻から火のつく生活、その火で焼いた陶器、その私の陶器が面白かる可き筈もなけれど、その陶器で親子五人が此の不景気な千九百参拾年が兎に角平穏無事に過ぎて行つた事を喜ぶ。
 益子窯で安價品に手をつけ出せた事、金銀泥を同時に上繪出來た事、白繪がけが完成した事等手法上では四五見る可きものあり、模樣の僅少を補ふに足ると思う。『楽焼工程』の出版されたのも今秋である48

それでは来年(一九三一年)は、どのような年になるのであろうか。展望する。

 來る千九百参拾一年は……英京での展覧會、印度への旅行或は瀬戸窯の見學、雜誌工藝での意見の發表、凡ては未知であり……恐らく尻から火のつく程度はますますはげしさを加へるだろう。然し進まう、進むより外ない、只一つの道に向つて踴り上がつて進むより仕方がない49

すでにこのとき、来年の「英京での展覧會」が予定されていたのであろう。リーチからの誘いだったものと思われる。憲吉は、リーチが帰国する前後のことをこう回想する。

 そして最初楽焼から出發して、我國の工藝界に尠からず貢献し、陶器の世界に新しい運動を起し、圖案についての新味など幾多の業績を遺して大正九年 ママ 月神戸から英國に歸つて行つた。私としても本當に相許し、仕事の上での友達は結局彼一人であつたと思ふ。一つの船に乗つて生活の荒波を乗切つて行く二人でもある。仕事に疲れ生活することに疲れ、ひとり寂しく煙草を吸うとき、思ふことは自然とリーチに走ることは止むを得ない50

その一方で憲吉は、英国の美術雑誌『ザ・ステューディオ』をとおしてリーチの作風の変化に気づき、陶器づくりの考え方にかかわって、ふたりのあいだに溝のようなものができつつあるのを悟る。

 或る人がステユデオ年冊を見せて呉れた。矢張り第一にリーチのものを見る。今の自分とは遠い氣がする。恐らく自分の作品の寫眞を彼が見る時には丁度同じ事を感じ同じ考へに打たれる事と思ふ。リーチは矢張り英國人だつた。東洋でつけて行つた薄い皮が破り捨てられた。それが彼の本道であると思ふ、數多い英國作家のうちでは何んといつても光つては居るが、自分とは大變な加速度で互に離れて行くと思つた51

帰国後リーチは、セント・アイヴスに窯を設け、引き続き製陶の道を歩んでいた。当時の英国における、リーチのようなステューディオ・ポター(個人陶芸作家)を取り巻く美術の世界は、どのようなものであったのであろうか。『二〇世紀英国の工芸』の著者のターニャ・ハトッドは、そのなかでこう書いている。

 進歩的な絵画や彫刻や版画を展示するロンドンのウェスト・エンドの驚くべき数のギャラリーは、同時に美術工芸品のためにも空間を提供した。……そのようなわけで、ステューディオ・セラミック(個人陶芸作品)が、ウェスト・エンドのギャラリーにとって最もお気に入りの工芸であったことは驚くべきことではない52

一九二〇年代から三〇年代にかけての英国にあっては、ウィリアム・モリスの思想と実践に影響を受けたアーツ・アンド・クラフツの限界を乗り越え、新しい近代精神に誘発されて誕生したデザイン・産業協会のような団体によってデザインの近代運動が展開されていた。つまり、家具、陶器、織物、印刷物などの旧来の工芸は、手から機械へと、その生産手段が置き換わりながら、そのための新しいデザインの模索が進行していたのである。しかしその一方で、旧来の工芸品は、生活用品から美術作品へと、その目的を変えて生き残り、新たな別の道を選択しようとしていた。

そうした状況下にあって、ウェスト・エンドの多くのギャリーは芸術家としてのステューディオ・ポター(個人陶芸作家)に着目し、機械生産の近代陶器とは別の相に属するステューディオ・セラミック(個人陶芸作品)を積極的に取り扱いはじめていたのであった。そのなかの代表的なギャラリーのひとつがボザール・ギャラリーであった。ハロッドは、続けてこう書いている。

ブルートン・プレイスにあったフレデリック・レッソーアが経営するボザール・ギャラリーは、短い期間ではあったが、とりわけ陶器に寛大な姿勢を示した。……バーナード・リーチは一九二八年と一九三三年に展覧会を開いたし、一九二九年には彼の日本の友人である河井寛次郎が、そして、一九三一年には、リーチと富本憲吉が合同展を開催した53

憲吉は、リーチとの合同展を開くに際して、「英国に行く富本憲吉氏の陶器」と題した一文を六葉の写真(染付コーヒー茶器、金襴手大飾壺、角型天目大皿を含む)とともに『婦人之友』(一九三一年四月号)に寄稿している。以下は、そのなかの一節である。

 リーチが日本を去るにあたり、曾て私が學生生活を過ごしたロンドンで、私の作品を發表する展覧會を必らず開くことを約しておいた。去年末彼からの手紙で、愈々本年五月、ロンドン、ボンドストリートのホーザールギヤレリーで開くといふ。同時に同じ場所で二人が作品を並べることは、一つには如何なる變化が東洋人である私と、西洋人である彼との間に起つたかを見る機會として、二つには久しき友情の表はれとしての興味が懸つてゐる54

ちょうどそのころのことだったのであろうか、千歳村の富本宅を訪問した濱田庄司は、ひとつの宣言文を目にしている。それは、こういうものであった。「私の記憶では、成城へ移ってからと思いますが、食堂に宣言文が掲げられていて、自分たちは家族一同、娘や家庭教師まで全部で五人、イギリスへ船に乗って出かけたい。みんな気を引き締めて、望みを実現しよう。というような意味でした」55。しかしながら、このリーチとの合同展のための渡英は実現しなかった。どのような作品が展示されたのかも、その全容は正確にはわからないが、おそらくはそのときのものと思われる作品が、現在ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されている。深皿(ディッシュ)、壺(ジャー)、平皿(プレイト)の三点である。博物館の所蔵番号およびクレジットから判断して、深皿と壺は一九三九年に現代美術協会によって寄贈されており、平皿については、寄贈者名がなく、一九三一年の所蔵を表わしているので、展覧会の会期中にこの博物館が直接購入したものと思われる。深皿は土焼芍薬模様で、壺は土焼刷毛目鉄絵模様、平皿は「曲る道」模様の染付の磁器である。憲吉は、若き日のイギリス留学中、毎日のようにこの博物館に通って、展示作品のスケッチをした。のちに憲吉はこうもいっている。「もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う」56。ボザール・ギャラリーでの二人展で、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が「曲る道」を購入したことは、憲吉にとって格別の喜びとなったことであろう。

一方で憲吉は、地方窯での量産陶器の試作に、引き続き力を注いでいた。一九三二(昭和七)年には、瀬戸へ出かけた。「瀬戸では 信濃 ママ [品野]という部落で六寸の中皿を作らせたことがある。これは運賃、荷造り全部を含めて東京の私のところに着いて一枚十二銭だったが、それに私が模様付けして焼いたものが市中の茶わん屋で五十銭ぐらいに売られた。私の絵付けは一枚三十銭ほどで一日に二、三百枚くらいは軽く描いたものだ」57。こうした大量の絵付けを試みているとき、百枚の皿の真ん中に折松葉の模様を描いた貧しい工人のことが、憲吉の頭に繰り返し浮かぶ。

 百、描いて幾文といふ工賃のために、おそらく貧しい工人の一つづゝ描いたと思へる折松葉を一つ 中央 まんなか に描いた皿。その折松葉を描いて私の皿模樣とするだけでは私には足ない。
 何としてそれと同等の力を人にも自分にも與へるだけの模樣を創りたい。皿の眞中に一つ模樣を描いて置いた時いつも思ひ出すのはこの皿である。ああ、百描いていくらと言ふ工賃のために描かれた此の一筆の折松葉58

この憲吉の言葉は、一九三二(昭和七)年の「陶片集(二)」(『新科学的』第三巻第六号所収)からの引用であるが、すでに同じ文言が、一九二七(昭和二)年の「陶片集」(民藝叢書第壹篇『雜器の美』所収)のなかにも現われている。これは、貧しき無名の工人と、その人が描く折松葉模様への憲吉の嫉妬心とも競争心ともとれるし、量産陶器の宿命的課題へ向けられた情熱的なまなざしともみなすことができるであろう。

憲吉は仕事場のことを「 工場 こうば 」【図二】と呼んだ。そして陶器家は、そのなかで仕事をする、自営業の肉体労働者でもあった。「轆轤し繪附けする仕事場を飾りたてて、應接室のやうにしてゐる陶器家があるが、私はさういふことをするのは嫌ひである。それで製作と云はず仕事と云ひ、工房などと稱へずにコウバと云ふのが私の永年の習慣である。陶器をつくるといふ仕事は、肉體的にも容易ならぬ苦しい仕事である。……如何に私が泥にまみれ、身をすりへらすやうにして仕事をしてゐるか――一見されるとよく解らうと思ふが」59。もちろん陶器家にも、矜持というものがある。「陶器家と雖も政治家文藝家に伍してゆづる可きでない。乾山、偉大なる彼は芭蕉と伍し、或は當時の政治家に比してその偉大さ、むしろ旗は乾山にあがらざるを得ない。陶器家よ進む可きではないか」60

しかしながら、憲吉が創設した国画会工芸部では、極めて変則的な運営が強いられるようになっていた。それは、立場や考え方が異なる民芸派の人たちの参入に起因するところが大きかった。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記述されている。「ここに、もう一人工芸部に大きな影響を及ぼしたのが柳宗悦であった。柳は民芸運動の指導者で宗教哲学者であったが、美術についても造形が深く……その後河井寛次郎、芹澤銈助、柳悦孝、外村吉之助、舩木道忠、棟方志功らの民芸運動の作家たちが工芸部に加わり活動を続けた」61

一九三三(昭和八)年四月二九日の東京朝日新聞に、美術評論家の仲田勝之助の署名入り記事「春陽會と國畫會(四)」が掲載されているが、これはおそらく、その年の国画会の展覧会評として読むことができるであろう。民芸派の人たちの作品と憲吉の作品を対比して、こう批評する。

 工藝部は帝展にもあるが、ここのはあゝした種々雜多な工藝家の集まりとは事變り、いづれも趣味を同じくする友人同士といったやうな人々で、柳宗悦氏等の稱へる民藝風な作品が多い。……富本憲吉氏の作はやゝこれらとは類を異にし、ずつと高級な精良品で……これならどこへだしても恥しくない。黒釉壺白磁大壺等をその代表的作品とする。かうした立派な藝術作品に至つては價の廉不廉など問うべき限りではない62

続けて仲田は、リーチ作品の回顧特別陳列に触れて、こう書いている。

 なほ今年は會員バーナード・リーチ氏の作品回顧特別陳列がある。目錄によればエツチング、素描、陶器(これが一番多い)家具、装てい、圖案等百余點といふことである。……何の爲にかく回顧陳列をなしたかについて主催者側から聞くのを失念したが、恐らく一西欧人の日本に残して行つた足跡を示すためであろう63

同じこの年(一九三三年)の四月一〇日の夜に、憲吉は、リーチについてこう書き記していた。

僕が東京で日本間の一つも無い新居を造つた事につき何か理由があるだらうとか一昨年英國に送つた近作を見てなぜ味の無い磁器の染付類を焼くかと書いてよこした彼[リーチ]の手紙に對して返事もせずに置いてはあるが遇へば話して見たいと考へて居る。……話し合ひたい事では安い陶器を焼く理由、器機製の陶器、圖案のオリヂナリテーについて、經濟組織の事等々際限なくある64

一九二九(昭和四)年に、渡英した柳宗悦と濱田庄司はリーチと再会し、あわせて、この訪英のときに濱田は、河井寛次郎の作品を携え、ふたりの展覧会をロンドンで催した。続いて一九三一(昭和六)年には、リーチと合同で憲吉が、同じロンドンのギャラリーで展覧会を開催している。そして今年(一九三三年)の国展においてリーチ作品の回顧特別陳列がなされた。こうした一連の交流をとおして、リーチと日本との距離が再び縮まっていったのであろう。一九三四(昭和九)年のリーチ来日の決定がなされた。憲吉にも、「リーチが來春日本に來るといふことを柳[宗悦]あてにいつてきたというニユースが聞こえて來る」65。以下は、一九三三(昭和八)年一二月に憲吉が書いた文章の一節である。期待感が漂う。

一昨年ロンドンでかれと私の作品を一室にならべて展覧會をやつた時以降の作品をかれは今秋ロンドンで列べそれを全部まとめて日本に發送した。この作品を二日から銀座鳩居堂で陳列してゐる。ガレナ釉を、宋窯風の方向を、かれがどう變化させたか、久しく接しないかれの作品に期待を有つものはただに私達友人及び彼の作品を愛好する人々だけではなからうと思ふ。……作品を乗せた船はもう日本についた。さうして彼は來春日本の土を再び踏む66

一九三四(昭和九)年の四月にリーチは訪日し、約一年間、この地に滞在した。自著の『東と西を超えて――自伝的回想』の巻末年譜の「一九三四年」の項目には、「日本工芸協会によって日本に招待される。柳と濱田と一緒に地方の工芸品を調査するために日本各地を旅行。七箇所の工房(濱田、富本、河井の工房を含む)で製作。松坂屋と高島屋で展覧会。松江でスリップウェアを製作」67と記されている。

リーチが富本の仕事場を訪れた。【図三】の写真は、室内でカメラを構えるリーチその人である。このとき憲吉は、「安い陶器を焼く理由、器機製の陶器、圖案のオリヂナリテーについて、經濟組織の事等々」を話題にしたであろう。しかしながら、返ってくる言葉は、必ずしも好意ある肯定的なものではなかったにちがいない。むしろそれよりも、リーチの口をついて出たのは、憲吉と柳とのあいだに存する工芸思想上の隔たりの穴埋めにかかわる提案だったものと思われる。以下はリーチの回想である。

はじめのうちは、柳と富本はかなりうまくやっていたが、しかし、のちになって、工芸のあり方に関する柳の考えが美術館や工芸品店で具体的なかたちをなすようになったころから、だんだんと相違点が目立ちはじめてきた。性格の違いも一因としてあった。遅きに失した感はあったが、柳は私に、二人の溝を埋めてもらえないかと頼んできた。私は実際努力してみたが、失敗に終わった。富本はせっかちだった。極めて鋭敏な知覚力をもつ彼の眼識は、柳の意見に常に共鳴するわけではなかったし、また同時に、これこそ民芸であると主張する工芸品店の多くを認めてもいなかった。柳が宗教的な間口の広い見解をもっていたのに対して、わが友人である富本は、ある種見事なまでの品格を備えていた68

この時点で、憲吉と柳、あるいは憲吉と民芸派の作家たちのあいだに横たわる工芸の本質論にかかわる見解の相違は、修復がもはやできないほどまでに、大きくなっていたにちがいなかった。「私としても本當に相許し、仕事の上での友達は結局彼一人であつたと思ふ」そのリーチも、民芸派に近い作家のひとりであることがわかるにつれて、深い寂寥感が憲吉の胸を覆ったことであろう。

憲吉の志は一貫していた。この年(一九三四年)の暮れも、憲吉は地方へ出かけ、日常陶器を焼いた。憲吉の足は、品野に約一週間滞在し、その後赤津へとさらに伸びる。以下は、一九三五(昭和一〇)年四月号の『塔影』に憲吉が寄稿した「赤津にて」の一節である。「私は一年に一度は必ず地方の窯へ行つて日常用の陶器を焼く。昨年の暮も、その安價な陶器を焼く爲に、尾張の瀬戸に近い品野町に行き、一週間程滞在の上仕事をした。……今度は仕事の都合でその品野から一里ばかり山を越えた赤津といふ小さな町に行き、皿の絵附を試みた」69。憲吉は、品野と赤津で経験した昼の空と夜の様子をこう対比して、描写する。「品野や赤津の空は、晝は煤煙でどんよりと暗く、無限の悲しみの中にあるが――夜になると急に工場の火が方々からはなやかに燃えだす。……曇天だった夜空も、いつしか星が煌めいて……その美しさ特異さは、私には嬉しい印象である。……美術家の正確な精神は凡ゆるものの美しさを詳らかに眺め取入れることであらう」70。【図四】は、煙をはく、そのときの赤津の窯である。

昼の「無限の悲しみ」、そして夜の「その美しさ特異さ」のうちに、真の美術家の精神のありようを噛み締める。こうしてリーチが来日した一九三四(昭和九)年もいつしか、期待感から寂寥感へと移り変わりながら暮れていった。

三.一枝のマルクス主義との出会いと執筆活動

千歳村での新生活がはじまって一年が過ぎようとしていたころ、長谷川時雨が主宰する『女人藝術』の創刊が進められていた。創刊にあたって長谷川は、かつての『青鞜』の社員にも、協力を求めたものと思われる。神近市子はこう振り返る。「世田谷のボロ家に、ある日、長谷川時雨女史が生田花世女史を伴って来訪され、婦人が作品を発表するための文芸雑誌をつくりたいが協力してくれないか、といわれた。私には『青鞜』や『番紅花』の思い出や経験があり、一も二もなく賛成した」71。さらに続けて神近は、この『女人藝術』を次のように振り返る。

 『女人芸術』は、昭和三年七月に創刊された。編集会議は長谷川女史のお宅で開かれ、資金面は夫君の三上於菟吉氏がカバーしてくれた。当時の婦人文筆家で、この雑誌に執筆しない人はないだろう。表紙も絵も女流画家に依頼し、創刊号の巻頭写真にはソ連に旅行中の中条(宮本)百合子の近影が選ばれた。私は山川菊栄女史といっしょに、主として評論を書いた。
 林芙美子が『放浪記』を連載して一躍流行作家の列に入り、上田(円地)文子が戯曲『晩春騒夜』を発表して小山内薫に認められたのもこの『女人芸術』である。この雑誌では、上記の人々のほかに生田花世、岡田禎子、板垣直子、大田洋子、中本たか子、矢田津世子、真杉静枝らが活躍した。
 平林たい子女史の出世作は『戦旗』に掲載されたが、私との初対面は、やはりこの『女人芸術』の会合である。が、時雨女史の健康上の理由から、この雑誌は昭和七年五月号で廃刊となり、その後とうとう復刊することはできなかった72

一枝も、この雑誌の刊行に協力している。この雑誌のために一枝が書いた文や座談会の収録記事に、「七月抄」(第一巻第三号、一九二八年九月号)、座談会「女人藝術一年間批判會」(第二巻第六号、一九二九年六月号)、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」(第二巻第七号、一九二九年七月号)、「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて」(第二巻第八号、一九二九年八月号)、「鼠色の廃館――長崎風景の一つ」(第三巻第四号、一九三〇年四月号)、「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」(第四巻第七号、一九三一年七月号)、および、座談会「母として目覺めらなければならない時相」(第五巻第一号、一九三二年一月号)などがある。

『火の鳥』もまた、一枝にとってこの時期の発表の場であった。この雑誌は、『女人藝術』の創刊から三箇月遅れて一九二八(昭和三)年一〇月に、同じく女性のための文芸誌として、渡邊とめ子(筆名は竹島きみ子)によって誕生した。廃刊は、『女人藝術』が一九三二(昭和七)年六月であるのに対して、『火の鳥』は、それより一年以上のちの一九三三(昭和八)年一〇月であった。『女人藝術』には、にぎやかで、華やいだ側面があったが、それに比べれば、『火の鳥』は、落ち着いた、地味な編集に特徴があり、度重なる発禁が原因となって廃刊に追い込まれたと伝えられている。このふたつの雑誌は、刊行された期間や女流文筆家への門戸の開放といった点で共通しており、その意味で競合誌という関係にあった。一枝は、そうしいた双方の雑誌の性格を踏まえたうえで執筆したのであろうか、うまく書き分けているようにも見受けられる。この『火の鳥』に掲載された一枝の文は、「光永寺門前――長崎風景の一つ」(第二巻第四号、一九三〇年四月号)、「米を量る」(第三巻第九号、一九三〇年九月号)、および「哀れな男」(第五巻第四号、一九三一年四月号)の三編である。

『婦人公論』は、東京移住以前からの一枝の主たる発表雑誌のひとつであった。この時期の一枝は、この雑誌に「洋服の布地は自由に選びたい」(一六六号、一九二九年六月)と「共同炊事に就いて」(一八三号、一九三〇年一一月)を書いている。一方、『婦人画報』に目を向けると、一枝が関係した座談会形式の記事が三点掲載されている。そのうちの最初のふたつが、「今と昔の先端婦人」(三二六号、一九三二年八月号)と「尾崎行雄先生に話を聽く」(三三八号、一九三三年八月号)である。

以上が、一九二八(昭和三)年(『女人藝術』掲載の「七月抄」)から一九三三(昭和八)年(『婦人画報』掲載の「尾崎行雄先生に話を聽く」)までの、東京移住後の一枝の執筆活動の主だった内容である。一枝が思想関連の嫌疑で代々木署に検挙されるのが、一九三三(昭和八)年八月五日であるので、この日までをもって一枝の執筆活動の前半とし、この日から、一九三九(昭和一四)年一月一日(『婦人公論』掲載の「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)と「探偵になりそこねた話」)までを後半として、括ってみたいと思う。それ以降、アジア・太平洋戦争が終結するまでのあいだ、一枝の執筆は途切れる。

東京移住前の安堵村での一枝の執筆物は、主として、夫の仕事、子どもの教育、自然の美しさなどを題材にした日記や手紙形式のものに加えて、自分の日常的内面を描写したり吐露したりした随筆風のものや「貧しき隣人」や「鮒」にみられるような短編の小説で構成されていた。東京移住後の一枝の前半の執筆内容を概観すると、一部を除き、特徴的なことは、夫や子ども、あるいは自然や日常生活に関するものは影を潜め、それに代わって、思想的な内容のものへと移行したことであろう。

それでは、『女人藝術』が創刊された一九二八(昭和三)年ころは、文芸にとってどのような時代であったのあろうか。この時期の日本を概観していえることは、社会運動のみならず政治や経済の分野においても、大きな変動期を迎え、同時に文芸もまた、そのことと無関係な存在としては成り立たなくなっていた。関連する重要な項目を幾つか拾ってみると、一九二〇年代において農民運動や労働運動が高揚し、一九二五(大正一四)年には普通選挙法が成立する。しかし同時に、その一方で治安維持法もまた成立し、一九二八(昭和三)年には最初の総選挙が実施されるも、このとき非合法の共産党の活動に衝撃を受けた政府は、治安維持法を適用して、共産党員やその同調者を一斉に検挙する。いわいる「三・一五事件」である。他方経済に目を向けると、その前年(一九二七年)には、多くの中小銀行の休業や倒産が相次ぎ、金融恐慌がはじまるなか、独占資本と金融資本が支配的な地位を占めるようになってゆく。こうして社会主義と共産主義の思想がこの時期急速に広まり、文壇においてもその影響が表われ、プロレタリア文学の隆盛を見ることになるのである。

この時期、たとえばマルクス主義者の蔵原惟人は、「マルクス主義文藝批評の基準」(一九二七年八月五日)や「生活組織としての藝術と無産階級」(一九二八年三月)、「プロレタリア・レアリズムへの道」(一九二八年四月八日)などのプロレタリア芸術運動の指針となるような論評を次々に執筆している。おそらくこうした論評が、『女人藝術』や『火の鳥』などの文芸雑誌に集う新進気鋭の婦人文筆家たちの関心を引き、話題になったものと思われる。蔵原は、「マルクス主義文藝批評の基準」と題された評論文を、結論として次のような言葉で結ぶ。

 我々の全行動はすべて、無産階級の政治的解放という唯一の目的によって規定される。したがつて我々の文藝批評もまた單なる文藝批評として、文藝作品の批評として、それだけで完結したものであつてはならない。それは文藝作品の批評であると同時に、それ自身、つねに、プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダであり、また階級闘争への大衆のアジテーションでなければならない。マルクス主義者批評家は文藝作品の批評に際して、つねにこのことを頭においておくことが必要である73

続けて「生活組織としての藝術と無産階級」において蔵原は、芸術の機能について、このように説く。

 藝術はなんらかの意味において 生活の ・・・ 組織 ・・ である。このことはブルジョア藝術についても、プロレタリア芸術についてもひとしくいいうる。ブルジョア藝術は、藝術家がそれを欲するといなとにかかわらず、その影響下にある読者、観客、聴衆等々を、ブルジョア的イデオロギーの方向へ組織してきたし、いまもまた組織しつつある。プロレタリア藝術は現在における被圧迫大衆の「感情と思想と意思とを結合し、それを高める」ことをその意識的目的としている74

そして蔵原は、この評論文の最後を、「しからばこの我々のプロレタリア・レアリズムなるものと、過去の藝術におけるレアリズムないしは自然主義なるものとはいかなる関係にあるのであるか?ここに我々の当面する最も重要な問題―― 藝術に ・・・ おける ・・・ 階級性 ・・・ の問題にゆきあたる」75という文言で締めくくる。

それでは、蔵原が指摘する「プロレタリア・レアリズムなるもの」とは、どのようなものであるのであろうか。「プロレタリア・レアリズムへの道」という表題がつけられた、三つ目の評論において、蔵原は、それについて言及する。蔵原の考えを短く要約すれば、おおかたこのようになる。近代文学におけるブルジョア・レアリズムは、抽象的なる「人間の本性」から出発し、人間の個人的本能的生活を描くに止まっている。一方、小ブルジョア・レアリズムは、あらゆる生活の問題の解決を抽象的な正義や人道に求め、階級調和的な立場をとる。それに対して第三のレアリズム、つまりプロレタリア・レアリズムは、社会発展の推進力は階級と階級の調和にあるのではなく、公然たるその闘争にあるとの観点に立ち、プロレタリア前衛の「眼をもつて」この世界を見ようとする。そこでプロレタリア作家に求められなければならないのは、あくまでも、現在における唯一の客観的観点であるところの「階級的観点」であり、他方、描かれる「題材」については、「戦闘的プロレタリアート」のみに限定される必要はなく、労働者、農民、小市民、兵士、資本家等々、およそプロレタリアートの解放に何らかの関係を有するあらゆるものが描写の対象となりうる。以上のような論点について蔵原は詳述したあと、この評論を終わるにあたって、次のように結論づける。「すなわち、第一に、プロレタリア前衛の『眼をもつて』世界を見ること、第二に、嚴正なるリアリストの態度をもつてそれを描くこと――これがプロレタリア・レアリズムへの唯一の道である」76

何らかのかたちで一枝も、こうしたマルクス主義的芸術観に触れたものと思われる。文芸雑誌『番紅花』の刊行に際しては森鴎外を、小説「鮒」のときには島崎藤村を訪ねたように、マルクス主義的芸術観を学習するにあたっては、蔵原惟人に直接面会を求めたかもしれない。もっとも、青鞜時代に突然自宅に上がり込んだ大杉栄に同伴していた荒畑寒村や、安堵村時代に石垣綾子を紹介したことのある旧知の賀川豊彦のような、すでに述べてきている社会主義者や社会運動家を頼って、マルクス主義に関する理論学習を行なった可能性も否定できない。こうしたことを実証する資料はいまのところ見当たらないが、それでもそう推量するのは、これから紹介する「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」、「米を量る」、「共同炊事に就いて」、「哀れな男」、そして「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」などの作品を執筆するうえで下地となるマルクス主義的芸術観にかかわって、一枝は独習により学びえたというよりも、誰か確かな知識をもちえる人物に教えを乞うたと考える方が、より自然なように思えるからである。

千歳村で新たに生活をはじめた一枝が最初に書いた作品は、『女人藝術』に寄稿した「七月抄」(一九二八年九月号)で、これは、夏の日の田舎で体験した三日間の様子が日記形式で綴られた文である。しかし、座談会「女人藝術一年間批判會」(一九二九年六月号)への出席を経て、次に寄稿した「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」(一九二九年七月号)は、形式、内容ともに、「七月抄」とは大きく異なるものであった。この間にあって、明らかに一枝は、マルクス主義へ関心を示すようになっていた。「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」の出出しの舞台設定は、こうである。

 K、M、H、N、I、O、これらの諸氏はいづれも當代の人々で、みな私の親しく感じる友人である。唯、夢である。一九二九年六月、千歳村の夜明けのことであつた。……友人の幾人かが中央に置かれた卓の周圍に集まつてなにかしきりに話してゐる。……私が小説をかくと言ふことだが小説を書けるような人間だろうか。もし小説を書くといふことで相談をうけたら、それに賛成してよいかどうか、それをしきりと相談している77

この夢のなかで繰り広げられる「小説をかくと言ふ」私(一枝と考えていいだろう)を巡っての論議に参加している「K、M、H、N、I、O」は、一体誰なのであろうか。イニシャルから連想して、神近、望月、松田、長谷川、平塚、平林、中本、今井、生田、大田などの名前を挙げることは可能かもしれないが、実際はどうだったのか、正確にはわからない。ズボンをはいていることに着目すれば、Kは男性であり、蔵原(あるいは寒村や賀川)だった可能性も排除できない。しかし、それはそれとして、これだけ多くの発言者が登場することを考えれば、内容は別にしても、直近に行なわれた座談会「女人藝術一年間批判會」の形式を、一枝はうまく借用したといえなくもない。ちなみに、「女人藝術一年間批判會」の出席者は、平塚らいてう、富本一枝、今井邦子、新妻伊都子、生田花世、伊福部敬子、望月百合子、上田文子、中本たか子、平林たい子、林芙美子、八木秋子、熱田優子、素川絹子、小池みどりの面々であった。

「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」の特徴は、比較的に分量も多く、話題が多岐にわたり、展開にスピード感があるところにある。そこで、代表的な発言内容や人物描写を少しずつ拾い上げながら、できる限り簡潔に、そのストーリーを跡づけてみたいと思う。それはおおよそ、次のようになる。

「小説を書く?それには先ず態度を決める必要がある。あなたがプロ派に屬すか、必然的に崩壊の道程に現に置かれてゐるブル派に屬して仕事を始めるか、この問題が肝心な點だと私は思いますが――本人はいつたいそのどちらを撰ぶつもりです!?」(M氏)。「百姓の生活描寫、工場に働くものゝ描寫、プロレタリヤ藝術は有産階級文學の如く堕落してはゐない。プロレタリヤ藝術は社會本位の思想にあつて價値を生じる。軽蔑すべき個人主義は我等にとつて明らかに過去の産物にすぎない」(K氏)。「流行兒マルクスのことでは食傷しきつてゐる。マルクスだつてエンゲルスだつて恐れるものですか!マルクスに藝術のことがわかると思ふのは馬鹿者である」(N夫人)。もしかすると、I氏は共産黨員で××[革命]政府の間者かもしれない――。I氏は和服に靴ばきである。

こうして論議は白熱し、延々と続く。私はH氏の家へ向かう。「もうすこし待てないものだらうか、私は今社會主義の誕生と發展の方向を調べてゐる最中でいそがしいし、その上Oが熱を出してゐるので一寸隙がないが――」(H氏)。O氏は純白の着物に着替えて、光った一本のメスを隠し持っている。「濡れてしまつたマッチが、とぼせると思ふのですか、君は?!」(O氏)。「Oさん!芝居ですか、本當に殺すつもりですか!?」。「血が出るのはいやだ!私は血がふき出すのがいやなんです!止して下さいたら!」。

場面は一三階建ての建物の最上階の部屋。外では、新しい生活の歴史の第一頁を歩み出した大群による夜明けの行進が続き、世界××[革命]とプロレタリアートの最終勝利を祝う歌が聞こえる。「あなたの右手に運命的なトランプをもち、左の手にはヤースナヤ、ポリヤーナの老爺さんの思想の生煮へをもつてゐる。……今、あなたは二つの毒素をこの窓から吹き散らしておしまひなさい。勇ましく!勇ましく!」(K氏)。そしてK氏は眼下の行進に対して敬礼するように私に求める。「何故、敬禮が出來ないのです!人間のために、人間の歴史のために、今日程敬意を表してよい特筆されるべき日に」(K氏)。

舞台は衣裳部屋へと移る。さらに多くの友人たちが加わり、誰しもみなが、今着ている服を脱ぎ去ることもなく、その上に、真新しい服を重ね着しようとしている。

そして場面は会議室へ。私はKを呼ぶ。「會議は未だ續くのですか」。「まだ五六時間、そう、夜明まで續くでせうね!」(K氏)。「夜明?夜明?私の赤ん坊はどうなります。私は家に歸へりたい」。「それではかうなさい。私は友人としてあなたをこゝから無事に出してあげやう。だけどあなたは着物をきかへてからでなければ危険だ――」(K氏)。「きもの?私はこんな風に私の着物ちやんと持つてゐる。私はこのまゝで十分です」。「しかし、あなたが今着てゐる着物は個人のきものですよ。私の貸そうと云ふのはマルキシズムの着物なのだ。あなたは法則としてこの着物をきる義務がありますよ」(K氏)。私はKのズボンにほころびがあるのに気づき、「あなたこそ着物をおきかへなさいね」といってみた。すると、「なに、私にはまだまだ着換へが澤山ある」と言い返し、Kは、風呂敷のなかから新しい色の着物を取り出した。「これはマルキストの衣服でせう。私はマルキストではない。マルクスの資本論だって讀みかけなんです。赤面しますよ、これをきることは全く衒学の徒だ。私はいやだ!」。断わったにもかかわらず、Kは、私の背後に回って、この服に手を通させようとする。私は夢中でKの手を払いのけた。

それから私は、左の戸口に駆け寄り、把手を回した。そのとき、背後から一発の銃弾が放たれた。死に絶えた私は、こう口走った。「私が×[赤]色の服を着るでもなく着ないでもなく、實に曖昧にひつかけたことがいけなかつた。けれど、私はひつかけて置くより外、どうすることも知らなかつたのです。まあ、死んだことはよい経験でありました」。そこへひとりの影の男が現われて、「こいつの着物を見ろ!まだ着物に手を通してゐない!意思のない、バランスのとれない思想の借用に抵抗したことだけは確かだね――」といった。しかし多くの人びとは、「なんだ!成程この人間は着物に手を通してゐなかつた!着換へることが命のやりとりになるのを知つてゐたら、ピストルなんか飛んではこなかつたらうに!案外才智のない人間だつたとみえるね!」と言い放って、憐憫と冷笑とを私に浴びせた。この声を聞いたところで、私は夢から覚めた。以上が「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」の概略である。

ここからわかるように、この時期一枝は、ある種思想的混沌のなかに身を置いていた。この「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」は、マルクス主義へ足を踏み入れてみたいという誘惑に駆られながらも、躊躇して思いとどまる、そうした一枝の心的葛藤が、夢という舞台の上を率直に自由に駆け回っている作品といえよう。時代が一枝に突き付けたものは、「小説を書く?それには先ず態度を決める必要がある。あなたがプロ派に屬すか、必然的に崩壊の道程に現に置かれてゐるブル派に屬して仕事を始めるか、この問題が肝心な點だと私は思いますが――本人はいつたいそのどちらを撰ぶつもりです!?」という、厳しい二者択一の問いであった。「マルキストの衣服」を本当に着ることができるのかどうか、その判断が求められたともいえる。しかしこの時点では、「着るでもなく着ないでもなく、[袖に手を通さずに]實に曖昧に[肩に]ひつかけた」程度の感触を味わったにすぎなかったということであろうか。マルクス主義はいまだ一枝にとって、着心地の悪い借り着の域を出るものではなかった。

一九二九(昭和四)年の他の執筆物は、「洋服の布地は自由に選びたい」(『婦人公論』六月)と「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて」(『女人藝術』八月号)である。前者は、家庭でつくる日常の子ども服についての感想文であり、「あまりお裁縫が上手でないものですから、思ふような型はできません。南洋土人が腰に巻く更紗、描更紗などで簡單なものを作つています」78と、書き止めている。後者は、らいてうを礼讃する文で、その意味で、内容的には、すでに発表している「あの頃の話」(『婦人公論』一九二五年四月)のほぼ繰り返しとなっている。

一九三〇(昭和五)年には一枝は、憲吉の波佐見での製作に同行しており、そのときの見聞録として、『女人藝術』(四月号)に「鼠色の廃館――長崎風景の一つ」を、『火の鳥』(四月号)に「光永寺門前――長崎風景の一つ」を寄稿している。しかし、この年に発表した作品として注目されなければならないのは、『火の鳥』(九月号)の「米を量る」と『婦人公論』(一一月)の「共同炊事について」ではないだろうか。

「米を量る」という小説は、前半は、下駄の鼻緒が切れた「私」が車夫の帰りを待つあいだ、車屋のお 内儀 かみ さんが小さい子どもや赤ん坊の世話をしながら家事労働をする様子について、後半は、やがてもどってきた夫の車に乗せられて帰宅するあいだに、その車夫から聞かされた貧しい生活にかかわる持論について、短く描写されている。そして、「今壓伏されてゐる階級がやがて近い将来に資本家といふものを減失させて社會の人間全體がプロレタリヤ意識のもとに統率され結成される日が必然的にやつてくる」79という「私」の観点から、この作品は書かれている。この時期(昭和六年ころ)、「出口が北側だけにしかない、こじんまりした成城学園前駅の前の空き地には、いつも人力車が客待ちをしていた」80。おそらく一枝は、ここで体験した内容を描いているものと思われるが、明らかに、蔵原惟人がかつて指摘したような、プロレタリア作家に求められる観点が、この作品には直接的に投影されているのである。

「共同炊事に就いて」という評論文においては、一枝の階級的観点は、近い将来に新たに到来するであろう「共同食堂、共同炊事場、共同修理場、共同洗濯場等」81へと向けられる。一枝は、このように説く。

 搾取することによつて成立つてゐる資本主義社會にあつては隷屬的地位にあるものゝ解放を極力さまたげてゐる。……一般家庭婦人の解放も不平等、隷屬的な地位から、支配、被支配といふ差別のない地位へ移るための闘争の必要は必然性をもつて私達に迫つてゐる。……個々の経済から、共同経済に、個々の家庭生活から社会生活へ、そのために彼女等の個々の鍋釜を共同炊事場の鍋釜に置き換へなければならない。……資本主義社會に於てその資本力を樹立するものが男性であるやうに、家庭にあつても男性が特権を保持してゐる。資本家の獨裁がプロレタリヤ階級の擡頭を恐れて壓迫手段をとるやうに家庭内から婦人が支配する家族形態を破壊してゆくことを男性は極力拒止するであらう。しかし、経済の上で社會關係の上で、それら生活様式の革命は必然的な勝利を獲得するであらう。……私達は個々の家庭から鍋釜を運び出し、社會的な共同食事場にそれを置き換へなければならない。……私達に近づきつゝある新しい社會は、搾取なき合理的社會消費を營むために、経済生活の新しい建設のために完全に解放された婦人の共同による、これら責任ある任務を待つものである82

以上が、「共同炊事に就いて」の要約であるが、同じ成城地区に住む、平塚らいてうや中江百合子が、もしこれを読んだとしたら、どう感じたであろうか。それについての言説は残されていないようなので、詳しくはわからないが、富本家も含めてそれぞれの家で女中を雇い、家事の大半をその人たちに任せていたであろうと思われる当時の家庭環境のなかにあって、一枝が主張するこうした地域共同の炊事実践は、本当に可能だったのであろうか。確かにこのような疑問が一方で残るものの、明らかなことは、この時期の一枝は、必然的に社会革命と同時に家庭革命が起き、解放された婦人による共同炊事が近づいていることを、疑うことなく確信していたということであろう。

次の年、一九三一(昭和六)年に発表された一枝の作品は、『火の鳥』に掲載された短編小説「哀れな男」(四月号)と批評文の「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」(『女人藝術』七月号)に二編であるが、さらに色濃くマルクス主義的思想傾向が投影されたものとなっている。

一枝にとって、プロレタリア小説としての「哀れな男」は「米を量る」に続く二作目である。主人公である「俺」は二箇月前に工場労働者としての首をはねられ、失業の貧困のなか、藤木という人物のところに行き、五十銭の無心をする。「藤木は俺が階級意識をしつかりもつて居ないと今夜も繰返へして言つて居た。……この意識がぼんやりして居ては火花がたつだけで燃えあがりつこはない――そんなところから階級闘争の激烈な火の手なんか上る道理はないから、と」83。帰りの夜道、大きな風呂敷包みを背負った行商から帰宅途中の「おかみさん」に出会う。背中の荷物が重たそうだったので、もってあげよう思って「俺」は善意から声をかけるが、「おかみさん」は「俺」のことを追いはぎだと思い込み、風呂敷包みを下ろすと、道に座り込み、両手をすり合わせて「俺」を拝む。「俺はこの仕草を見てはつとした。俺はおかみさんをいたわつてゐるつもりなのだ。おかみさんを苦しめてゐる……しかし俺達悲しい生活をする階級のものを虐げてゐる狼共の貧慾な、傲慢な、人間らしくない奴等が俺にこんな悲しい道化をさせたのではないのか」84。そこから「おかみさん」というひとりの人間の悲痛な身の上話がはじまり、逆に、生活に困っているとみられてしまった「俺」に風呂敷のなかのメリヤスの商品を差し出す。「俺」はどんなに顔が赤くなり、屈辱を味わおうとも、「おかみさん」に迷惑をかけた償いとして、ここを逃げ出すわけにはゆかなかった。そして藤木に無心した五十銭銀貨を差し出した。「おかみさん」はその受け取りを断わり、しかし最終的には、「おかみさん」のがま口に入っているわずかな小銭と交換することを提案してきた。「俺は久しく振落してきたうれしいはつきりと澄んだものを拾つたやうで、泪がこぼれかけた。哀しい生活をしてゐる人間にだけ微笑みかけてくる幸福!俺は心から感動した」85。これが「哀れな男」の粗筋である。

一方の「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」と題された文は、『女人藝術』という文芸雑誌の存在意義を論じるもので、蔵原がいうような、「プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダであり、また階級闘争への大衆のアジテーション」としてのこの雑誌の役割を強調するとともに、主宰者である長谷川時雨に注文をつける。以下は、最後の締めくくりの一節である。

 大衆を××[革命]的階級闘争の精神から文化的に政治的に教育するための手段と方法が、この言論機關に於て最も効果的に精力的にはたされることを思ふとき、賢明なる長谷川時雨氏は必ずやプロレタリア運動が當面する客観的情勢の變化に従つて氏がそれを一つ一つ採りあげ、それに正しい論理的解決を與へながら、女人藝術を通じて婦人大衆を、眞に××[革命]的階級闘争の精神に於て、文化的に政治的に指導し發展させてゆかれようと思ふし、またそこまでゆかなければならないと強く思ふからだ。
 女人藝術よ、後れたる前衛になんか決してなるな!86

かくして一枝は、「後れたる前衛になんか決してなるな!」と声高に檄を飛ばした。しかしながら、一枝のマルクス主義の「階級的視点」から書かれた小説や批評文は、ここまでに紹介してきた五編が、おそらくはすべてであり、この「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」をもって最後となる。明らかにここにひとつの潮目を認めることができ、これ以降、検挙されるまでの約二年間は、すべて座談会形式での発言であって、思想的な内容によって構成された単独の執筆から一枝は完全に距離を置くことになる。一枝の思想が表舞台から消えた空白の二年間がここに存在するのである。

一九三二(昭和七)年に一枝の発言が散見されるのは、「母として目覚めなければならない時相」(『女人藝術』一月号)と「今と昔の先端婦人」(『婦人画報』八月号)においてであり、ともに座談会を収録した記事である。前者の座談会で注目されるのは、「母親」としての自覚の上に立って子どもの成長に伴う諸問題が論議されていることであり、この年一枝は満年齢で三九歳になり、家庭にあっては一七歳の陽、一五歳の陶、五歳の壮吉の三人の母親であった。後者の座談会で注目されてよいのは、「昔の先端婦人」として神近市子、平塚雷鳥、富本一枝(富本憲吉氏夫人)、今井邦子が、対する「今の先端婦人」として川瀬美子(女人藝術)、細川ちか子(新築地劇團)、原泉子(左翼劇場、中野重治氏夫人)、佐野京子、西村アヤ(文化学院)が出席していることである【図五】。一九〇八(明治四一)年生まれの西村アヤは、西村伊作の娘で、一九一七(大正六)年に夫婦で新宮の西村邸に滞在したおりに、一枝はアヤに会っていると思われる。括弧内は、この記事のなかで出席者につけられている肩書きや所属名であるが、目を引くのは、「昔の先端婦人」のなかでは一枝にだけ「富本憲吉氏夫人」という肩書きがついていることであろう。かつて青鞜で活躍した「新しい女」たちは、もはやこの時代になると「昔の先端婦人」として分類されるようになり、ジャーナリズムのうえで「先端婦人」の世代交代が進んでいた。

翌一九三三(昭和八)年には、唯一「尾崎行雄先生に話を聽く」(『婦人画報』八月号)のなかに、一枝の発言が認められる。この記事は、一年前の座談会で「昔の先端婦人」として出席していたメンバーと同じ今井邦子、富本一枝、神近市子、平塚明子(らいてう)の四名が逗子の尾崎邸を訪れ【図六】、婦人参政権、常識の英國人非常識の日本人、英國婦人の保存力などをテーマに尾崎行雄と会談したときの記録である。冒頭の尾崎についての略歴紹介の一部を引用すると、「尾崎行雄先生は三重懸士族尾崎行正氏の長男で、安政六年十一月神奈川縣津久井郡又野村に誕生されました。慶應義塾卒業後、十九歳で新潟新聞の主筆となり、更に朝野新聞、報知新聞の主筆を経、三十九歳で隈板内閣の文部大臣に任ぜられました。四十七歳の時から十年間東京市長に推され、大正二年から三年にかけて、有名な護憲運動に活躍され、引きつゞき司法大臣に任ぜられましたが、これを最後に官を退き、七十五歳の今日まで静かな生活を續けられて來られました」87。この横須賀線に乗っての小旅行に近い、「昔の先端婦人」四人での心躍る尾崎邸訪問は、六月二日のことであった。しかしその後、六月六日にロシア文学研究家の湯浅芳子が、七月二二日に作家の矢田津世子が、そして八月五日に一枝が、それぞれに警察に検挙され、左翼関係者への運動資金の提供という嫌疑で特高課の取り調べを受けるという、悲惨な事態が発生するである。

四.地域での交流と一枝と陽の検挙

それではこれより、千歳村で新生活がはじまった一九二七(昭和二)年から、一枝が官憲の手により身柄が拘束される一九三三(昭和八)年までの約六年間の富本家の家庭生活や地域との交流、検挙へ至る道筋などについて、その一端を跡づけてみることにしたい。

大和時代の一枝は、安堵村での生活の様子を書き止め、しばしば雑誌へ寄稿していた。しかし、東京に移転してからは、そうした内容の原稿を書くことはほとんどなく、したがって、千歳村での家庭生活や地域での交流の様子を、本人の言葉を利用するかたちで再現することには、実際問題として困難性が伴う。しかしながら、幸いなことに、近くに住んでいた平塚らいてうが、自伝『元始、女性は太陽であった』において、また中江泰子と井上美子が『私たちの成城物語』において、若干そのことについて触れており、その範囲において再構成することは可能であろう。

中江百合子の三男と結婚した泰子は、成城での百合子の交友関係を、こう書いている。

姑[百合子]の交友関係は平塚らいてう、富本一枝、神近市子さんなどかつての青鞜社の錚々たるメンバー、寸劇を演じてくれたこともある姑の姉の新劇女優東山千栄子伯母や岸輝子さん、井上夫人はもちろんのこと成城草分け時代からのおつき合いの柳田国男夫人などなど、書家あり、画家あり、音楽家ありと、まことに賑やかだった88

この引用文に続けて、泰子は、こうした交流が「世間の評価や、巷の噂などに関係なく」89行なわれたことも、付け加えている。

美子は、憲吉の初窯のときの様子を記憶していた。「私の記憶ではある日、富本一家が揃って朝から私の家で過ごされたことがあった。……食堂で昼食、その日は夜の食事も大勢一緒で、子供たちは大いにはしゃいでいた。後になって、母が語っていたのは、その日が初窯の火を止めた翌日で、作品の仕上がりが気になり、家にいてはとても落ち着いていられないので、一家総出で私宅に避難というとおかしいが、とにかく私の家で過ごされることになったらしい」90。さらに加えて、「大正時代、父が松永安左衛門氏と一年余ロンドンに滞在していたちょうど同じころ、憲吉氏も彼の地におられたようなので……当時の古きロンドンの話に花が咲いたことと思う」91とも、述べている。

憲吉の初窯については、「富本憲吉氏陶器會」として、『みづゑ』の「美術界 昭和二年九月」の欄において、次のように報じられている。

會費A百圓よりE五圓迄の五種にて氏の東京に於ける初窯陶器を頒布さる、詳細は東京小石川竹早町九〇野島熙正氏宛92

このように初窯の陶器を頒布できたことから推し量ると、東京での築窯は無事成功したのであろう。はじめての窯出しまでのはやる気持ちを抑えながら、井上宅に「避難」して共通するロンドン生活について語り合った憲吉にとって、この成功は、大きな喜びだったにちがいなかった。

らいてうがエピソードとして伝記に書き残しているのは、娘の曙生が急性盲腸炎を発症したときの様子である。とりわけ一枝と百合子に世話になっている。

 昭和五年十月に大阪でひらかれた、関西婦人連合大会に、わたくしは関東消費組合の無産者組合代表として出席しました。……その留守中に……当時曙生は、成城小学校を卒業したあと、自分の選択によって自由学園女子部に進み、二年に在学中でした。とつぜん腹痛がはじまったことについて、日ごろから我慢づよい性質の曙生は、父親にもそのことを告げず、一晩中痛みをこらえていたのでした。そして、ようやく翌日になって招いた村の医者の、決定的な誤診によって、まさに曙生は、死の淵をのぞくことになったのです。……報せで駆けつけてくれた富本一枝さんの機敏な働きで、曙生は赤十字病院に運ばれて手術を受け、すでに手遅れを案じられていた症状にもかかわらず、奇跡的に回復することができました93

しかし、その予後は思わしくなく、三回の手術を繰り返し、二年にわたる療養生活を強いられることになった。

 曙生の発病以来、富本一枝さんの示してくれた温かい心遣いは、それによって曙生の生命が救われたばかりか、病児を守って看病に専念するわたくしを、大きく励ましてくれるものでした94

このときらいてうは、中江百合子からも救いの手を差し伸べられている。回想は続く。

 中江さんは実に人の面倒見のよいひとで、曙生の看護にわたくしが病院に泊まりこみになっているとき、敦史の世話を引き受けてくださって、敦史は中江家から玉川学園に通学しました。不時のお金が入用となって、どうにも他に工面のあてがないときは、とっておきの場所として、中江さんのところへ、よく駆けこんだもので、こんなことから、わたくしの家ではよく冗談に「中江銀行」などと呼んでいました95

曙生が急性盲腸炎を発症した一九三〇(昭和五)年の年の瀬の一二月二〇日のことであった。すでに紹介しているように、憲吉は、窯出し後の作品を隣の中江邸に並べて、展覧した。百合子の知り合いや友人が、憲吉の陶器を求めて、集まってきたものと思われる。憲吉は、開窯について、このようなことを語っている。

 開窯の結果一にかかつて我等五人の親子が生活の資たり。結果よき時はあたり前なりと思ひ、惡しき時は先づその金銭の損失を如何にして補給す可きやを思ひ煩ふ。未だ熱ある窯に栗、銀杏など焼きて子供等と楽しむ。追ひせまる實生活の苦しみを暫し忘るる開窯の餘技なり96

陶器の製作は、陶土、釉薬、燃料、温度などに、大きく影響を受け、窯を開けてみるまで、わからないこともあろう。「結果よき時」は感動の瞬間であり、生活の夢が広がり、一方「結果惡しき時」は、予定の数量がそろわず、収入の減少を意味する。開窯には子どもたちも加わり、栗や銀杏を焼く。美子は回想する。「窯出しの日の窯場の前の広庭には、次々に大皿、壺、大小の作品が運び出され、並べられ、大勢のお客たちで賑わった」97。一方で中江家の三男の昭男は、「子供時代から富本憲吉窯を覗くのが好きだったらしく」98、その影響もあってか、後年、重責を退いたのちは、お弟子さんたちと一緒に成城の自宅で作陶に励むことになる。

百合子は、一九三二(昭和七)年に急性の結核で長男(一九歳)を、そして一九三四(昭和九)年には観劇の昼食の食中毒で夫(五四歳)を亡くした。「夫の死後悲しみの時が過ぎると……当時は暮らしも豊かだったので、一流の料理教師、板前さんが泊まりがけで招かれ……習い覚えた手料理を富本[憲吉]氏の器に盛りつけ、友人、知己、子供の友人たちに御馳走するのが何よりの楽しみで、やがて自宅で料理教室を開き、それは戦争の一時期を除き、昭和四十年病に倒れるまでつづいた」99

料理は、一枝も得意だった。一枝の手料理については、陽と同学年であった美子がこう回想する。一枝は、「子どもたちから『かあさん』と呼ばれていた」100。「お誕生祝いに呼ばれてかあさんの手づくりの鶏の丸焼き、おなかの中に干しぶどうが入ったご飯が詰めてあって、あの美味しかったこと。青々した田んぼを見下ろせる食堂で賑やかな食卓を囲んだ情景は、今も忘れ得ない」101。これが陽の何歳の誕生祝いだったのかは、美子はとくに言及していないので、何年の出来事かは判然としない。そして続けて、「富本家にとっても一番平和な時期だったかもしれない」102と書いている。

ここに一枚の写真【図七】がある。おそらく一九三〇年代はじめの、「一番平和な時期」と思われるころの富本家の家族写真であろう。ちょうど同じ時期のスナップと思われるが、壮吉が陶土でおもちゃをつくっているところの写真【図八】も、雑誌に掲載されている。こうやって、憲吉は壮吉の遊び相手になっていたものと思われるし、そこから自分自身も学んだ。「幼兒壮吉が七月初満三年六ケ月にて泥で造り出したトンボ、面、汽車等を見るに、繪畫で即ち平面で表現し得ざる立體を、同じく立體である彫刻でならば自由にかつ苦しみなく現はす事が出來たのを見た」103。さらにさかのぼれば、安堵村時代には、ふたりの娘のために憲吉は、ままごと遊びに使う品々も土で焼いていたし、「子供等が繪をかき陶土をひねるのを見るのは實に楽しい」104とも書いていた。

しかしながら、「一番平和な時期」も過ぎ、その後、憲吉と一枝の不仲は、周囲の目にも明らかに見受けられるようになってゆくのである。

憲吉と一枝の夫婦喧嘩のようなものは、安堵村での生活においても、人の目に留まっていた。前章の「安堵村での新しい生活」のなかで詳述したように、奈良女子高等師範学校の学生であったころ、丸岡秀子は、憲吉と一枝が醸し出す近代的な生活に魅せられて、日曜日の休みになると、安堵村を訪れた。そして、ふたりの激しい口論を目撃した。秀子は、自伝的な小説『ひとすじの道』のなかで、こう書いている。

洗濯や掃除を手伝っていたある日のことだった。ベランダで怒鳴り合っている二人の大声がきこえた。急いで台所から茶の間に出て見ると、両手をひろげて、「さあ、来い」「さあ、いらっしゃい」と、二人とも息を荒げているところだった。けんかの理由は何だったか、わからないまま、「よしっ」と声をかけ合って立ち上がった二人に、恵子は驚いた。……どっちともいえない大柄な二人の、この取っ組み合いは、凄まじいものがあった105

もちろん子どもたちも、こうした光景を、安堵村でも千歳村でも、日常的に目にしていたにちがいない。陽は、このように回想する。

 ここどうしたらええやろな――父がいいます。そうですね、かえって白磁のままのほうがいいんじゃないですかね――父は母にすなおに従うときもあり、突然おこりはじめることもありました。なにをっ、生意気なこというな。えらそうなことをいうなら、自分でやってみい――
 幼かったころはただ父が憎らしく、少し成長してからはあんなにおこるくらいなら、なぜ母の意見などきくのだろうといぶかしんだものでした106

おそらく美子もまた、陽の家に遊びに行ったおりなどに、こうした憲吉と一枝の激しい言い争いを目にし、驚いたことであろう。

しかし、この時期のふたりのあいだには、もう少し深い溝ができつつあったものと思われる。それは、一枝の左翼思想への傾斜にかかわる問題に起因していた。

たとえば、当時、無産婦人の労働者としての意識を覚醒させる教育と組織つくりとに携わっていた帯刀貞代は、一枝との出会いを次のように振り返る。

 私が富本さんにはじめておめにかかったのは、昭和のはじめだった。そのころ私は江東の亀戸で、女子労働者のためのささやかな塾をひらいていて、富本さんは神近市子さんを誘って、そこをみにこられたのだった。
 そのつぎのあざやかな記憶は、昭和大恐慌のさなかで、塾にきていた女子労働者たちの六十日にわたる合理化・工場閉鎖とのたたかいが惨敗したあと、こんどは、こちらから富本さんをお訪ねしたときのことである。……明治の末年には平塚らいてう氏らの青鞜運動に参加され、婦人解放への道をひらかれた。このころから社会問題にふかい関心をもたれ昭和のはじめ、解放運動のきびしい時代には、かげの援助者としておおくの人びとをはげました107

一枝は、当時のこうした働く女性の解放運動に対して、帯刀の言葉を借りれば、「かげの援助者としておおくの人びとをはげました」。帯刀の『ある遍歴の自叙伝』(草土文化、一九八〇年)にも、そうした一枝の具体的な姿の一端が描かれている。さらに加えるならば、それに先立つ一九五七(昭和三二)年に、岩波新書の一冊として『日本の婦人――婦人運動の発展をめぐって』を上梓した際、帯刀は、その本の扉の裏に「この貧しき書を富本一枝様に捧ぐ」という献辞を添えたのであった。解放運動への支援の一方で、この時期一枝は、マルクス主義的芸術観を下地とする、「米を量る」や「哀れな男」といった小説、それに加えて、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」「共同炊事に就いて」「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」といった批評文を積極的に執筆した。ちなみに、短編小説「哀れな男」の舞台設定は、帯刀の「労働女塾」のあった江東から三河島までの帰り道の出来事であった。

しかしながら、こうした一枝の表立った文筆行為に対して、憲吉は、極めて不愉快な態度を示したものと考えられる。というのも、すでに著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』の「緒言」において紹介しているように、イギリス留学からの帰朝後、「ウイリアム・モリスの話」を書き上げて『美術新報』(一九一二年の二月号と三月号)に寄稿したときの心情について、憲吉は、こう述懐しているからである。

[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ ママ んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども108

「ちょっと来い」という言葉は、いうまでもなく、警察による連行を意味している。しかしその一方で、ロンドンでは「彼の組合運動などを調べてきました」109と、はっきりといっている。憲吉は「組合運動」という間接的な表現を使用しているものの、これが社会主義運動を指し示していることは、ほぼ間違いないであろう。確かに憲吉は、イギリス留学中、モリスの社会主義を学んだ。しかし、帰国してみると、捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院によって逮捕者全員に有罪の判決が言い渡されたのち、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された。そうした時代の推移のなかにあって、憲吉は、「ウイリアム・モリスの話」において、モリスの社会主義について言及することをためらった。そしてその結果、「それは一切抜きにして美術に関することだけ」に絞って、つまりは、政治活動家としての一面は意識的に割愛し、もっぱらデザイナーとしての側面にかかわって、モリスの伝記的叙述を構成したのであった。

一枝に先立って、すでに憲吉は、東京美術学校入学以前に『平民新聞』を読んで、美術家で社会主義者で詩人であったモリスを知り、美術学校入学後は、卒業製作を早めに提出するとロンドンへ渡り、その地で社会主義に触れていた。しかし、その後にあって、その知識を積極的に公開することも、自らそうした運動に直接身を乗り出すこともなかった。それは、美術家として作品を生み出そうとする純真で無二の行為が、その時々の国家権力のあるまじき横暴によって遮断されることに、強い恐怖心と警戒心を抱いたためであった。そのことについて憲吉は、こう回想する。

[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村透氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません110

「獄死」という言葉の使用から推量できるとすれば、帰国後の憲吉は、それほどまでの深みにおいてすでに社会主義を理解していたということであろう。こうした憲吉の全き社会主義理解の視点に立てば、この時期の一枝の執筆内容は、明らかに、官憲に「ちょっと来い」といわれかねないものであり、そのことを憲吉は、一枝に比べれば臆病すぎるまでに、しきりと恐れていたものと思われる。すでに、前章の第五章「安堵村での新しい生活」において詳述しているように、安堵村の生活において、富本一家の生活には警察の目が向けられていたし、この千歳村での生活においても、それは一段と厳しいものになっていたにちがいなかった。壮吉の親友だった詩人で作家の辻井喬は、後年こう振り返る。

 尾竹紅吉は私の同級生富本壮吉の母親であった。彼とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである111

一方、南八重子は、憲吉が増改築のため山谷に仮住まいをしていたことについて、こう記述している。「富本憲吉は、昭和二年に東京都世田谷区祖師谷に自ら設計して建てた家の増改築を笹川[慎一]に依頼している。富本は山谷の仮住まいから昭和九年にその家に戻っている。南[薫造]の日記の昭和七年七月四日に、妻と山谷の家を訪問しているが留守だったと書いている」112。一枝が代々木署に検挙されたときの住所が、一九三三(昭和八)年八月一九日の東京朝日新聞の記事によると、「澁谷區代々木山谷町一三一」113であり、陽が暴漢に襲われ、金銭を強奪されたときの翌年一九三四(昭和九)年七月一八日の東京朝日新聞の記事に目を向けると、陽の住所は、やはり「澁谷區代々木山谷町一三一」114となっている。確かにこの時期、少なくとも一枝と陽は山谷に住んでいた。そうであれば、少なく見積もっても、南薫造が妻と山谷の家を訪問した「一九三二(昭和七)年七月四日」から、陽が強奪事件に見舞われた「一九三四(昭和九)年七月一七日」までの二年ものあいだ、一枝と陽は祖師谷の家を不在にしていたことになる。憲吉と陶と壮吉は、どちらに住んでいたのであろうか。資料に乏しく、それはよくわからない。さらに疑問に思われるのは、本当に増改築のためだけに富本一家は山谷に仮住まいをしていたのであろうか。いくら何でも、二年間は少し長いような気もする。ひょっとしたら、確かな証拠となるものは見出せないが、増改築だけが理由だったのではなく、夫婦の不仲に起因して、あるいは、場合によっては官憲の目を逃れるために、この間、事実上の別居をしていたのではないだろうか。夫婦の仲が険悪化していたことが原因であったとしても、あるいは、そうではなく、ふたりの相談の結果、警察の監視から身をかわすことがねらいであったとしても、いずれにしても、これまで述べてきたように、一枝の思想問題が、夫婦間の確執として背後に存在していたことは、十分に推量されるところであろう。

そしてこれもまた、すでに指摘していることではあるが、「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」(『女人藝術』一九三一年七月号)が節目となって、それ以降検挙されるまでの約二年間は、座談会形式の記事のなかでの発言は別にすると、思想的な内容によって構成される単独の執筆から一枝は完全に距離を保つことになる。一枝の思想が表舞台から消えた空白の二年間がここに存在するのであるが、このこともまた同様に、上にあって言及した夫婦間の確執のありようと、どこかで大きく通底していたのではないだろうか。このように考察を進めてみると、この時期、増改築に伴う、住まいを移しての仮の生活の必要性が実際にあったとしても、それとは別に、官憲の目をくらますための一時的な住まい替えの必要性もまた存在していたのかもしれなかったし、他方、思想関連の原稿の執筆を一枝が停止したことについても、同じ根拠に根ざした判断が、この夫婦に作用していたにちがいなかったとする推断も、必ずしも否定することはできないのではなかろうか。

しかし、住まいの移動によって、さらには執筆の停止によって、何とか状況の改善を計ろうとしたのかもしれなかったが、功を奏すことなく、とうとう、憲吉が恐れていた「ちょっと来い」という事態が、一枝の身の上に実際に発生した。一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出しをつけて、次のように報じた。

青鞜社時代の新婦人として尾竹紅吉の名で賈つた現在女流評論家であり美術陶器製作家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は過日來夫君と軽井澤に避暑中の處、去る五日單身歸京した所を警視廰特高課野中警部に連行され留置取調べを受けてゐるが、女史は先週本欄報道の女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露したもので、富本女史は野中警部の取調べに對して去る七日過去を清算轉向する事を誓つたと115

この記事で注目されていいのは、ひとつには、検挙される直前まで、憲吉と一枝は軽井沢で一緒に過ごしていたことである。ここから推量できることは、警察の動きにかかわる情報が不足し、純粋に避暑を楽しんでいたとも考えられるが、迫りくる危機を察知し、夫婦で協力して身を隠していた可能性もあり、いずれにしても、少なくともこの時点では、夫婦間に確執が存在していたとしても、それが大きな亀裂となって別居をしなければならないような決定的な事態にまでは発展していなかったのではないかということである。

次に、八月五日に検挙され、その二日後の七日には、早くも転向を誓約していることである。すでに言及しているように、四年前の「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」のなかで一枝は、「私の赤ん坊はどうなります。私は家に歸へりたい」と書いていた。極めて暗示的な表現である。検挙されたこのとき、壮吉はもはや赤ん坊ではなかったものの、まだ六歳の幼児であった。こうしたことが、転向の決意を早めたのであろうか。あるいは、そもそも一枝のマルクス主義は、これもまた、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」で使用されている文言であるが、「着るでもなく着ないでもなく、[袖に手を通さずに]實に曖昧に[肩に]ひつかけた」程度のものであり、一枝にとって脱ぎ捨てるのもさほど難しいことではなかったのであろうか。

さらに目を引くのは、嫌疑が、湯浅芳子を中心としたグループの一員として資金の提供を行なったという点である。一枝が連行されたときにはすでに湯浅は検挙、収監されていた。以下は、前週(八月六日)発行の『週刊婦女新聞』の「湯浅芳子氏起訴――左翼に資金提供で」という見出しの記事である。

 去る六月六日菊富士ホテルから本富士署に檢擧され、警視廰特高課の取り調べを受けてゐたロシア文學研究家の湯浅芳子氏は去る二日検事の起訴により市ヶ谷刑務所に収容された。同氏は左翼方面へ運動資金として三百數十圓を提供したもので、當局の取調べに對し今後轉向を誓つた由であるが許されず、収容されたものである116

おそらく、このときの取り調べで湯浅は、「左翼方面へ運動資金として三百數十圓を提供した」ことにかかわって、その内訳の一部として一枝から約百円の資金供与があったことを自白したのであろう。さらにその内訳のなかには、矢田津世子から提供を受けた百五十円ほどの資金も含まれていたものと思われる。というのも、さらにその一週間前の『週刊婦女新聞』(七月三〇日発行)が、七月二二日の矢田の検挙について報じ、その記事には、続けて次のようなことが書かれているからである。

氏は跡見高女出身で女人藝術から賈り出した作家であるが、去年の暮頃共産黨関係の者に百五十圓の資金を提供した事件らしく尚檢擧の手は他の作家にも及ぶものと見られてゐる117

矢田の釈放については、『週刊婦女新聞』(八月二〇日発行)は、こう書いている。「今後プロ文學及左翼組織に全く關係せぬとの轉向の誓約書を入れたので起訴保留となり去る九日に釋放された」118

こうした『週刊婦女新聞』のなかの一連の記事からおおかた浮かび上がってくるこの事案の全体像は、昨年(一九三二年)末ころ湯浅芳子が、『女人藝術』に集う矢田から約百五〇円を、一枝から約百円を受け取り、合計で三百数十円を運動資金として左翼関係の者に渡し、その嫌疑での取り調べで、中心人物の湯浅は、転向の意思表明を行なったものの認められずに入獄させられ、一方の矢田と一枝は、検挙後、転向の誓約書を上申して釈放されたということであろう。

しかし、これで終わったわけではなかった。八月二七日発行の『週刊婦女新聞』は、「富本夫人長女檢擧」の見出しをつけて、以下のような記事を掲載した。

 既報、去る五日共産黨シンパの 疑嫌 ママ で代々木署に 權擧 ママ され、特高課の取調べを受けてゐた工藝美術家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は轉向を誓つたので去る十八日二週間振りに釋放された、がその喜びも束の間、入れ違ひに女史の長女文化學院二年の陽子嬢(一九)が代々木署に檢擧留置され、同じ嫌疑で取調べを受けてゐる119

陽自らも、資金の提供者として直接このグループに加わっていたのであろうか。それとも、一枝から湯浅への受け渡しや連絡などの使い走りにかかわるような端役を演じていたのであろうか。嫌疑の具体的内容は、わからない。しかし、それはどうであれ、いまだ学生の身であった若い陽は、このときの出来事をどう受け止めたのであろうか。また、母親や姉の不在のなか、陶や壮吉はどのような思いで、この間を過ごしたのであろうか。一方、親としての憲吉や一枝の気持ちは、どうだったのであろうか。このことについて憲吉や一枝が書き残したものは、いまだ何も見出せない。思うに、あれだけ「ちょっと来い」に恐れ慄いていた憲吉にとっては、一枝に続くこのときの陽の検挙と留置は、あたかも心の最深部がえぐり取られるような過酷な出来事として実感されたにちがいなかった。母親の一枝はどうだろう。そのとき、自責の念を強く感じ取ったかもしれなかった。というのも、一年半前の『女人藝術』(第五巻第一号、一九三二年一月号)の座談会「母として目覺めらなければならない時相」のなかに、次のような一枝の発言を見出すことができるからである。司会役の小池みどりが、「それでは次に、子供が思想的に×[赤]くなつて行くといふ風なことを知つた場合に、母親は子供に對してどういふ態度を取るかといふことに就いて、皆さんいろいろお話して戴きたいと思ひます」120といって、子どもの左傾化問題へと論点を移す。これに対して一枝は、「現在の若い學生が一般に左翼化するといふことは、これは何と云ひますか、社會の發展の過程で當然のこと、必然性でせうね」121と、冒頭でまず、一般論としてこう述べる。しかしながら、全面的に子どもを信頼し、放任することを是認しているわけではなく、安易な容認や傍観の姿勢にははっきりと異を唱える。

たゞそれ[左翼化]を、犠牲を拂つても構はない、一遍引張られて行つて豚箱に這入るのも、それもいゝ經験だと行つて傍觀してゐていゝものでせうか。若しも自分の子供が左翼的なものに關心を持つてどんどん行かうとする所が見えれば……さうふ場合は或る程度迄子供を無理にでもそこから退かせて、その子供を制御して行く事が母親の責任であつて、その子供をそんな風のちよつとした、全くつまらない事の爲に浮上らしてしまつてはいけない122

明らかなことは、この時点で一枝は、左翼化は「社會の發展の過程で當然のこと、必然性」と認識しながらも、一方で、「ちよつとした、全くつまらない事」であるがゆえに、母親の責任として、子どもから遠ざけなければならないと考えていたということであろう。こうした考えが一年半立っても変わっていなかったとすれば、陽の左翼化を押し止めることができなかった母親として、このとき一枝は、自分自身のこととも絡め合わせて、何か名状しがたい罪悪感か虚無感のようなものに襲われたにちがいなかった。

ところで、湯浅芳子が検挙され、市ヶ谷刑務所に送られた容疑は、『週刊婦女新聞』の伝えるところによれば、「左翼方面へ運動資金として三百數十圓を提供した」ことになっているが、運動資金を受け取ったのは、具体的には誰だったのであろうか。そしてそれは、何に使われたのであろうか。どうしても、こうした疑問は残る。しかしながら、このことを明白にするための証拠は、現段階では何も残っていないようにも思う。そこでこれからの記述内容は、幾つかの傍証は踏まえるものの、いまだ仮説の域を出ないものになるやもしれないが、今後の研究の発展過程におけるひとつの検討課題として、横道にそれながらも、書き残しておきたい。

矢田津世子が検挙されたとき、『週刊婦女新聞』は、「氏は……女人藝術から賈り出した作家であるが、去年の暮頃共産黨関係の者に百五十圓の資金を提供した事件らしく」と書いた。また、一枝が検挙されたとき、同じく『週刊婦女新聞』は、「女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露した」ものである、と書いた。それでは、『女人藝術』に関係する「女流作家の左翼グループ」として「去年[一九三二年]の暮頃」に親しかった湯浅、矢田、一枝につながる人脈を考えたときに浮かぶ人物は誰だろうか。まず、中條(宮本)百合子が考えられそうであるが、しかし、湯浅と中條の共同生活は、すでにこの年の二月に破綻しているので考えにくく、そこで考えられるのが、前衛芸術家で舞台芸術の演出家であった村山知義の妻で、童話作家の村山 籌子 かずこ である。籌子は、一九二九(昭和四)年の『女人藝術』(三月号)に「私を罵つた夫に与ふる詩」を寄稿している。矢田の小説「反逆」が『女人藝術』に掲載されるのが一九三〇(昭和五)年の一二月号である。そしてその年(一九三〇年)の一一月に、中條とともに湯浅はソヴィエトから帰国し、『女人藝術』の活動に参加する。したがって、四人の交友がはじまるのは、それ以降のことになる。しかし、一枝が籌子を知るのは、それよりずっと以前のことであった。岡内籌子(のちに村山姓)は一九二一(大正一〇)年五月に、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科の一期生として、すでに前章の「安堵村での新しい生活」で紹介している田中綾子(のちに石垣姓)らとともに入学する。そして、その後の富本憲吉夫妻との出会いについては、村山籌子研究家のやまさき・さとしが、次のように書く。

大正十二年三月末から四月のはじめにかけて、卒業旅行と称して彼女たち一期生一行はミセス羽仁とともに(総勢二五名)横浜港発の欧州航路伏見丸の一等船客となり、「西洋」を勉強しつつ、神戸に上陸して奈良近辺の「東洋」を学んだが、奈良では全員、富本の屋敷に泊り、かれの案内で仏像をみて廻った。しかし籌子に衝撃を与えたのは憲吉のカマドであり、その夫人、一枝との対面であって、青鞜の流れを汲む富本一枝はその後籌子の受難時代にその胸を貸して終生の友人となったし、憲吉はのちに籌子の遺言によって墓碑銘を揮毫するのである123

それでは、一枝が「その胸を貸して」籌子を支援したと思われる、籌子のその「受難時代」とは、いつのことだったのであろうか。やまさき・さとしは、具体的な時代は明示していないが、別の箇所でこのようなことを書いている。

[夫の]知義は治安維持法違反で都合三回、累計して四年五ヵ月の間(昭和五年、七―八年、一五―一七年)、獄につながれ、思想犯の妻として経済的にも社会的にも家庭的にも辛酸をなめたけれども、彼女は手紙執筆、差し入れに東奔西走、留守宅をまもった。……彼女はしかし知義だけを救援し知義だけに手紙をかいたのではない。籌子は、小林多喜二、蔵原惟人、中野重治、壷井繁治、鹿地亘、立野信之、窪川鶴次郎など多数の仲間にも手紙をかき、かれらの留守宅を激励し、差し入れを援助した124

知義の二度目の収監が一九三二(昭和七)年の二月で、蔵原惟人が獄窓の人になるのが、同じ年の七月であった。次の引用は、一九三二(昭和七)年七月二一日に籌子に宛てて蔵原が出した獄中からの手紙の書き出しである。無論、検閲のことも念頭に、読まなければならない。

 無沙汰していますが、お變りありませんか。百六日拘留を無事に了えて、この十八日にこちらに移つて來ました。檢擧された時には、櫻の花が、やつと咲きかかつたばかりだつたのに、もうすつかり眞夏になつてしまいました。經つて見れば早いものですね。
 色々とご心配有難うございます。もうかれこれ三年もお逢いしませんね。色々と變つたこともあることと思います。是非御手紙を下さい。書物の差入れについてお願いします。私はこの機會を利用して、大いに勉強するつもりで、次のような計畫を立てましたから、差入れもどうぞそれに従つてやつて下さい。
 午前中――語學、數學、自然科學(物理、化學、生物學)
 午 後――社會科學(歴史、經済學、教育學)哲學
 夜――英語、ロシヤ語及び日本語の小説、詩等125

この手紙を最初として、それ以降、獄の内と外とを結ぶ書簡のやりとりが続くことになる。そして、さらなる悲劇が籌子を襲う。次の年(一九三三年)の二月二〇日に小林多喜二が逮捕され、同日、拷問により死亡するのである。これは籌子のみならず、当時のプロレタリア文化運動にかかわる多くの人たちにとって衝撃のニュースとして伝わったであろう。おそらくこの時期が、籌子にとっての最大の「受難時代」だったにちがいない。

このように傍証を積み重ねてゆくと、湯浅が「左翼方面へ運動資金として」提供したとされる三百数十円は、一九三二(昭和七)年の暮れころに、最終的に村山籌子の手に渡ったのではないかと想像されるが、どうであろうか。しかも、その支援を発案したのは、ひょっとしたら、ほかならぬ一枝自身だったのかもしれない。しかし、それを実証するうえでの根拠となる資料はなく、やはり、湯浅芳子を中心として計画された運動資金集めだったのであろうか。そしてそれは、たとえば共産党の資金局(あるいは金策係)のような組織へと、流れていったのであろうか。

加えて、もうひとつ傍証となる言説を紹介しておきたい。籌子の夫の村山知義が、最初に検挙されるのが、一九三〇(昭和五)年の五月ことであるが、後年に執筆した『演劇的自叙伝3 1926~30』に、そのときの様子が詳しく記述されている。まず、自分の検挙について。

 検挙される原因は、既に上述した商業新聞にも、検挙の近いことが知らされてあった。そのほかにも、心の奥に、もしこのことが探知されたら、只事ではなくなる、と思われるもの、それこそ、起訴され、投獄せられる筈のものが二つあった。それは私が「赤旗」を秘密で読むグループにはいっていたこと、また共産党に毎月資金を提供していたことである126

知義のときと同じように、確かに一枝の場合も、「商業新聞にも、検挙の近いことが知らされてあった」。というのも、すでに引用しているように、『週刊婦女新聞』(七月三〇日発行)の矢田の検挙についての記事のなかに、「檢擧の手は他の作家にも及ぶものと見られてゐる」と書かれているからである。もし、一枝がこの記事を読んでいたのであれば、自分に迫りくる検挙は、ある程度予知できたのではないだろうか。

一方、一枝や陽が、「『赤旗』を秘密で読むグループにはいっていた」かどうかはわからないし、「共産党に毎月資金を提供していた」かどうかも定かではない。しかしながら、そうしたグループには属さず、一回限りの資金の提供であったとしても、知義のいう「只事ではなくなる」行為であることは、ふたりとも何がしか事前に自覚していたであろう。もしそうであったとすれば、検挙されたこと自体は、「来るべきものが来た」といった程度で、ふたりにとってそれほど大きな衝撃とはならなかったのではないだろうか。

また、運動資金の集め方については、同じ巻の『演劇的自叙伝』のなかにあって知義は、次のように、明かしている。

 例の「平出検事の本」の中の第二篇「プロレタリア文化運動と党及共青同盟」第一章「党資金関係」第一節「技術部」(略税テク)の項を読むと……「一九二九年(昭和四年)四・一六事件の直後七月に田中清玄を中心とする再建中央委員会が出来、党中央と分離して、技術部長の下に、連絡・配布・印刷・金策・住宅・倉庫の各係りを設けた。……シムパサイザー(党同情者)をナップ、医者、教授、学生、産業労働調査所、記者、その他に分け恒常的に運動資金を集めさせ、同年八月ごろ蔵原惟人に、文化運動内から党活動資金の蒐集を依頼し、八月中に、林房雄らから合計三百円を集めた……」127

これを読むと、一枝は「ナップ」(全日本無産者芸術協議会)グループの一員として、陽は「学生」グループの一員として、党への運動資金の提供を確信的に行なったのかもしれない。しかし一方、「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」(『女人藝術』一九三一年七月号)のなかで一枝は、『女人藝術』の思想上の位置づけにかかわって、次のようなことを主張していた。

 勿論、私としては女人藝術それ自身が明確に反資本主義、反帝国資本主義の立場にまで發展して女人藝術のそのものが指導的な役割をもつところまでいつてほしいが、だからといつて、女人藝術をかんたんに中間物との故をもつて解消させたり、婦人戦旗に合流させたり、ナツプへ持込んで一つになるよやうな極端なことをやらなくてもいいと思ふ128

この時点で一枝は、雑誌『女人藝術』を、プロレタリア文化運動のなかにあって、「中間物」として、その存在意義を強調しているのである。

同巻の『演劇的自叙伝』のなかで、さらに知義は、取り調べにあたって取調官と交わす会話についても、体験に基づき証言する。「彼等から一応特別扱いされて然るべきだ、というような甘ったれ根性があった。芸術家でインテリだから、彼らの目から見ると、一段上に見られる筈と思っていた」129。しかし、実際はそうではなかった。

「あんたは蔵原[惟人]の手を通じて、去年[一九二九年]九月以来二月迄に、いくらずつ出したかね?」
「何をですか?」と私はいった。
「金だよ、金。共産党へ渡す金だよ。」
「何のことだか、わかりませんね。」
 この問答を見て見るがいい。取調官に対する被疑者の卑下した態度がはっきり現われているではないか。心の中では、彼らより遥かに優越者だと思いながら、何でせめて彼らと同等な言葉づかいができないか? 小説で見るような、同じ立場に立った時の労働者たちと同じ言葉づかいができないのか?130

一枝や陽の取り調べに際して、たとえ婦人であろうと、取調官がこうした強権的な態度を和らげるようなことは、おそらくはなかったであろう。そのとき、進歩的な人間の目からすれば明らかに悪法であったが、治安維持法という法律によって守られた取調官は、ふたりのことを、国家体制を転覆させる「国賊」とみなし、投獄や獄死をちらつかせながら、「転向」を強要したものと思われる。他方、一枝と陽の精神のなかには、知義と同じく「芸術家でインテリ」としての泉のように湧き出だす「自由と正義」が宿っていたにちがいなかった。この「自由と正義」に向けられた情熱は、このときの一枝や陽の行為が、実際には籌子個人への直接的な資金の援助ではなかったとしても、一枝と籌子を強く結びつける共有された精神として、その後も静かに持続していったものと思われる。というのも、一九四六(昭和二一)年八月に籌子が亡くなり、児童文学者協会と新協劇団の合同による告別式「村山籌子さんにお別れする会」が有楽町の保険協会講堂で開かれたとき、葬儀委員の一員として、蔵原惟人、関鑑子、原泉らとともに一枝もまた名を連ね、「 ママ 人の思ひ出を語る」で、登壇することになるからである131。そして翌年(一九四七年)、知義の随筆集である『亡き妻に』(櫻井書店)が出版されたおりには、著者名も含めその題簽【図九】を一枝が揮毫する。一枝が死去して一一年が過ぎた一九七七(昭和五二)年に、知義もまた亡くなる。そのとき、葬儀委員長を務めたのが盟友の蔵原惟人であった132

それでは本題にもどる。一九三三(昭和八)年八月五日に一枝が検挙されたとき、そして続けて、一枝の釈放と同時に陽が留置されたとき、憲吉は、どのような行動をとったであろうか。つまり、着替えや食べ物の差し入れや、もらい下げの嘆願等にかかわることであるが、それを明らかにするにふさわしい資料は、残念ながら見当たらない。また、同じように、一枝や陽が釈放されて帰宅したとき、憲吉がどのような言動でもって対応したのかも、確かな資料に基づいての再現はできない。そもそも、左翼グループの一員として一枝が運動資金を提供したことを事前に憲吉は知っていたのか、一枝は運動資金をどのようにして調達したのか、そのようなことと陽はどう関連していたのであろうか、このようなこともすべて含めて、いまのところ、状況から察して想像するしかほかないのである。ほぼ明白なことは、釈放後、一枝も陽も直ちに祖師谷の家にはもどらず、少なくともふたりは、どうやら一緒に山谷に住み続けたということである。しかしながら、これが、憲吉との不仲に起因した別居を意味するのか、あるいは、祖師谷の家の増改築にあたっての実質的な仮住まいを意味するのか、これもまた、不明のままとなっている。

釈放から一週間が立った。八月二五日に日比谷の東洋軒において、九月に上海で開催される世界反戦会議を支持するために、「極東平和の友の會」の発会式が執り行なわれた。「發企人は秋田雨雀、江口渙、長谷川如是閑他科學者文士等の百餘名であるが、婦人の側では野上彌生、市川房枝、長谷川時雨、林芙美子、望月百合子、平塚らいてう、坂本眞琴、窪川いね子、生田花世、神近市子、大田洋子、川崎ナツ、關鑑子の諸氏」133であった。昨年来、村山知義や蔵原惟人が投獄に処され、今年に入って小林多喜二が拷問死し、さらには、廃刊になっていたものの、『女人藝術』のかつての仲間である湯浅芳子が起訴により刑務所に送られ、同じ仲間の矢田津世子と富本一枝が検挙、取り調べの末、釈放されたばかりであった。こうした最近の一連の出来事について、「極東平和の友の會」の発会式に参集した女性たちは、それをどう受け止め、どのように話題にしたであろうか。プロレタリア文化運動の余儀ない終焉について口にする者もいたかもしれない。あるいは、別の誰かが、この年(一九三三年)のはじめのドイツにおけるアドルフ・ヒトラーの首相就任と共産党への弾圧について、詳しい情報を提供したにちがいなかった。さらにはまた、半年前の『婦人公論』誌上で扱われた「主義と貞操」も話題になったかもしれない。というのも、「共産党の検挙者に婦人が多い」という内容の東京朝日新聞の記事を受けて、「主義と貞操の問題」と題した特集をすでに『婦人公論』(一九三三年三月号)が組んでおり、この発会式に出席していた平塚雷鳥(らいてう)、野上彌生子、窪川いね子(佐多稲子)の三名も、その特集に寄稿していたからである。

雷鳥の評論は「女性共産黨員とその性の利用」と題したもので、そのなかで雷鳥は、「共産黨檢擧のいつの場合も、必ず幾人かの女性をその中に見る。そしてそれらの女性は、又大方黨幹部の男性と性關係をもつ人たちです。……彼等自身は同志愛などと呼んでゐるものの……女性が道具とされているか、最上の場合が便宜上の性の相互利用といつた程度の機械化され、物質化された性關係であつて、何等の新しい貞操観念も、性道徳の新思想も見出されません」134と述べ、続けて、「社會組織がどんなに變らうとも、人間の創造性が性によらねばならず、人間を産み、育てるものが女性である限り、女性の『性』の社會に對し、種族、人類に對する使命を變へることは出來ません。して見れば、わたくしたち女性は、女性がこの使命に安心して生き、安心してその使命を果せるやうな社會を造ることに努むべきです」135との持論を展開する。まさしく、「産み、育てる」女性の使命の安定的な遂行こそが、性にかかわる雷鳥にとっての普遍的な価値なのであろう。

一方、野上の評論「平凡なことか」は、雷鳥の考えとは対照的に、ジャーナリズムの女性に対する興味本位の報道に苦言を呈したうえで、報道のごとき「事実」がもし仮に存在していたとしても、肯定的に受容すべく、理解を示す。「少なくともわたしは、婦人黨士のあるものが、資金獲得のために彼女の若さと美貌を利用したと云ふことが、果してどこまで××であるかは、疑問だと思つてゐる。かりに一歩をゆづつて、ある程度の事實があつたとしても、べつに珍しいことでも、おどろくことでもない。史上の例によつて見ても、また小説戯曲の中においても、秘密な非合法的な團體運動ではそれはむしろ平凡な××であることをわれわれは見出さないであらうか。……また黨士らのあひだの戀愛問題についても、むしろ最も自然な現象と云ふべきであらう。共通の思想、共通の理解、共通の認識において、おなじ仕事にたづさはつてゐる若い男女の熱情が、すすんで戀愛にまで燃えあがることは……殆んど必然である」136

そして、「何れの矛盾か」の表題で寄稿した窪川(佐多)は、この『婦人公論』の特集に先立ち、すでにこの主題にかかわって東京朝日新聞の婦人襴に「女共産黨員への抗議」と題する一文を書いていたらいてうの発言内容をとらえ、これをもって、「かつてのブルジョア民主々義に根底をおいた青鞜社の婦人解放論者であつた雷鳥女史の今日の立場」137とみなしたうえで、「かつての性の平等を唱へた雷鳥女史にして、も早、今日のプロレタリア婦人の××な活動、婦人の大きな自覚と闘争力については、何ものも理解することができなくなってゐるということは、何という皮肉なことであつたらう」138と述べ、雷鳥の無理解と限界を指摘した。

このように三者三様の「主義と貞操」に関する意見が、この『婦人公論』の特集で語られていたのであるが、こうしたテーマに対して、このとき、「極東平和の友の會」の発会式に同席した機会を利用して、引き続き三人の論戦が繰り広げられるようなことがあったとすれば、共産主義や共産党に対する認識や立ち位置の違いなどが、三者のあいだでさらにより鮮明になっていったものと推量される。他方もし、この「主義と貞操」という課題が、一枝にも投げかけられていたとするならば、一枝は、それに対してどのような主張をしたであろうか。興味のあるところではあるが、この特集の寄稿者に含まれていない。

ところで、こうした思想の弾圧は一枝の周りだけに止まらなかった。「富本一枝女史検挙」の記事を掲載した一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、偶然にも、その「二行時事」のなかで、「津田清楓畫伯治安維持法違反で去月十七日檢擧轉向を誓ひ七日釋放」を伝えた。間違いなく憲吉はこれを読み、目を見張り、愕然としたことであろう。憲吉にとっての最初期の展覧会が、二〇年前のことになるが、一九一三(大正二)年の五月に大阪の三越で開催した「富本憲吉・津田清楓工芸作品展」であった。憲吉の楽焼きの図案に人気が集まり、極めて売れ行きは好調で、憲吉が製陶の道に入るきっかけとなる、思い出深い展覧会であった。その展覧会のパートナーであった津田清楓がここへきて検挙されたのである。憲吉が最も避けたかった道を、津田が突き進んだ。憲吉の思いは、どうだったであろうか。

それから一年後の一九三四(昭和九)年に、今度は次のような事件が、陽に降りかかった。以下は、一九三四年七月一八日の東京朝日新聞の「富本憲吉氏の令嬢襲はれる」との見出しがついた記事の一部である。

十七日夜九時半頃澁谷區代々木山谷町一三一、美術陶器製造業、富本憲吉氏長女、文化學院大學部三年生陽子さん(二〇)が新宿からの歸途自宅付近の暗闇で、學生服無帽の青年が金を貸せと脅迫、金五銭在中の蟇口を強奪逃走した139

陽にとっては、一年前の検挙に続く、身の危険を感じる恐怖の出来事だったにちがいない。その新聞記事によると、陽は山谷交番へ訴え出て、三人の巡査の追跡の結果、犯人は神宮裏参道で捕らえられた。

この一九三四(昭和九)年という年は、ウィリアム・モリス生誕一〇〇年にあたり、日本においても、それを記念して四月に東京の丸善で「ウィリアム・モリス展」が開催され、一〇月には『モリス記念論集』と題された書物も刊行された。しかしながら、こうした一連の行事に憲吉が関与したことを示す、とくに大きな痕跡は何も残されていない。憲吉は、『美術新報』への「ウイリアム・モリスの話」の寄稿(一九一二年)の段階から、とりわけモリスの社会主義の側面にかかわっては、堅く口を閉ざし、寡黙を貫き通していた。たとえばモリスのことを、「社会主義者」という肩書でもって憲吉が呼ぶのは、戦後になってからのことである。

しかしその一方で、すでにこれまでに詳しく述べてきているように、結婚に際しては、いまだ強く支配していた家制度にとらわれることなく、富本家の戸主であることさえも事実上放棄し、小作農の争議にかかわっては、地主でありながらも、将来的な農地の解放を予見して親戚の者といがみ合い、家庭にあっては、村人たちが浴びせる冷笑も意に介さず、女中や一枝に代わって率先して井戸の水くみに励み、妻に対しては、男尊女卑の価値観を超えて対等、平等を心がけ、子どもが教育を受ける段階になれば、良妻賢母教育や国家主義的教育を避けて、自由教育や民主主義教育に強い関心を示し、自分の仕事にあっては、モリスに倣い、いわゆる「芸術のための芸術」を否定し、万人が必要とする生活のための芸術を目指してしていた。このように憲吉は、公的な場面では、社会主義を声高に主張することに極めて否定的ではあったが、その反面、私的な場面では、学習することによって若くして身につけた、あるいは、一種生得的であったかもしれないが、いわゆる社会主義的な思考と実践を積極的に自分の実生活のなかに取り入れることによって、旧い価値や伝統的な制度の継承を断ち切り、それに代わる近代精神に基づく新しい生活様式の発現へ向けて邁進していたのであった。

それでも、憲吉の思想上の弱点はあった。あるいは、モリス思想との違いはあった。憲吉は、製陶の道に入る最初の段階から、多くの人びとが手にすることができるように安価な量産陶器の製作に専心し、さらにこの時期になると、ヨーロッパのモダニストに倣い、一品製作から機械生産への移行も視野に入れていた。しかし、憲吉が焼く量産陶器は、本人の意に反し、現行の政治経済の体制下にあっては、高価な焼き物と化して市場に出回り、一部の比較的裕福な人にしか手に入らないものになっていた。ここに大きな矛盾があった。一九世紀のモリスも、二〇世紀のモダニストも、共通して抱いていたのは社会改革への展望であった。近代の新しい精神に基づいた視覚制度の出現に先行して、政治や経済にかかわる社会改革が必要とされたのである。言葉を換えれば、視覚制度の刷新と社会制度の刷新はコインの表と裏の関係にあることが認識されていたといえる。憲吉の量産は、人びとの生活の解放へ向けての大きな力となることはなかった。むしろそれとは反対に、資本主義経済体制の懐のなかへと、やすやすと絡めとられていくのである。憲吉の苦悩はここに集約されていたものと思われる。しかしながら、社会制度の革新へ向けての大衆的運動に直接身を投げ出すことはなかった。

またこの年(一九三四年)には、すでに詳述しているようにバーナード・リーチが来日し、憲吉は待ちに待った再会を果たしている。しかし、製陶や民芸を巡る考えの相違だけが明らかになり、遠い存在にも思えるようになっていった。一枝と陽の検挙、陽の身に降りかかった強奪事件、リーチとの意見のすれ違い――この時期、疑いもなく憲吉は孤独だったにちかいない。胸に冷たい寂寥が忍び寄るなか、憲吉の思いは過去の記憶へと連なる。このときも眼前に、誕生の地の安堵村、あるいは曾遊の地であるイギリスが現われてきたかもしれない。

 爐に沸る釜の妙にして幽かなる音、紙障子にうつる鳥影、屋敷をかこむ竹藪に鳴る葉擦れれの音、それらと共に、二十歳時代英國で過した時のことだが田舎家で頭より大きい一塊の石炭を、石造りの大きなファイアプレートで燃しながら、電燈もなく蝋燭もつけずに、その燃える石炭の火あかりで編物をしてゐた老婦人を思ひ出す140

この「田舎家」とはどこなのか、この「老婦人」は誰なのか――ついつい、想像力を羽ばたかせてみたくもなる。場所は、「ケルムスコット・マナー」、老婦人の名は、ウィリアム・モリスの娘の「メイ・モリス」。憲吉がロンドンに滞在していた当時、刺繍家であったメイは、憲吉が学んだ中央美術・工芸学校を退職し、父のウィリアムが生前別荘として使っていたケルムスコット・マナーに住んでいた。そうだ、憲吉は密かにメイに会いに行ったのではないか、そしてこの場面こそが、窓越しに見た、暖炉の明かりのなかで刺繍に励むメイ、その人の姿だったのではなかろうか――以上の記述は、あくまでも勝手気ままに飛翔させた想像の産物なのではあるが、そうはいえ、このようにして憲吉は、つらい現実から離れて過去を追い求め、孤独な自分を慰めていたのかもしれなかった。

さて、空想の世界から現実世界にもどると、この時期、千歳村では増改築の工事が進行していたものと思われる。増改築を依頼した笹川慎一と憲吉は、安堵村時代から長く続く友人同士であった。南八重子は、薫造の一九二八(昭和三)年一月六日の日記のなかに、このようなことが記載されていることを紹介している。

約束に由り十一時頃、笹川氏來訪。直ちに[息子の]陽造と一緒に富本君を千歳村に訪ふ。霜とけて路甚だ惡るし。細君は留守。かまは半出來の所也。お雑煮の御馳走、三時半家を出る。途中まで富本も一緒に來る。日没に富士美しき色に見ゆ。東には十四日頃の月かゝる。新宿にて名物の中村屋のカレーエンドライスを食べて笹川君と別れる。明晩大阪に立つとの事141

ちょうどこの昭和のはじめころに中江百合子の成城の新邸も建築されている。泰子は、『私たちの成城物語』のなかで、「見渡す限り住宅とて見当たらぬ畠と雑木林と竹藪の中、中江家もいよいよ新築に取りかかり……人並はずれて背の高かった家族のために、家具調度品は笹川慎一氏のデザインによる何もかもLサイズの特注品であった」142

それから五、六年が立ち、今度は富本家の増改築がはじまり、その仕事が笹川に依頼されたのであろう。「富本は新築の家に高くてもユンケルのストーブを入れたいという。そしてユンケルは入りましたが、しかしそのためにこんどは戸が粗末になって、ユンケルの熱で空いたり曲がったりしてしまった」――これは、すでに紹介した濱田庄司が富本邸を訪問した際の回想の一文であるが、このことを想起するならば、このときの工事には、こうした戸の不具合の解消も含まれていたにちがいない。

すでに言及しているように、南八重子は「富本は山谷の仮住まいから昭和九年にその家に戻っている」と自著に書いている。おそらくは薫造の日記に書き記されている内容から判断して、そのように記述しているのであろうが、もしそうであるとするならば、一枝たちが祖師谷の家にもどるのは、一九三四(昭和九)年七月の陽が強奪に遭った事件以降からこの年の年末までの、どこかの時点だったということになる。正確にその引っ越しの日を特定することはできないものの、増改築の工事が終わると、富本家の家族は、仮住まいの山谷町を離れてもとの千歳村にもどり、そこで新しい生活を再開したものと思われる。

五.帝国美術院改組、色絵磁器研究、そして民芸派との対立

リーチの一年あまりの日本滞在中に、憲吉とリーチのふたりは、結局、十分に心を通わせることはなかった。そして、一九三五(昭和一〇)年の五月に、リーチは帰国の途についた。ちょうどその時期、帝国美術院の改組劇が幕を開け、憲吉は、不本意ながらも、その劇のなかへと巻き込まれていくのである。一九三五(昭和一〇)年五月二九日の東京朝日新聞夕刊は、「帝國美術院改組 けふ閣議決定 院長には清水博士」の見出しのもと、次のような内容を伝えている。

定例閣議は二十八日午前十時十五分から首相官邸で開かれたが既報の帝國美術院の改組斷行に關する「帝國美術院官制制定の件」「美術研究所官制制定の件」は閣議劈頭松田文相より提議された、先づ松田文相は帝國美術院の由來を説き時代に副はぬ同美術院の宿弊について事例を挙げて説明、文部當局は……従来美術院會員は卅名であつたのを五十に擴大し美術界の實力のある新人、巨星を集め刷新の實を挙げたいと説明、文部省案の改革案を付議決定した143

この松田源治文部大臣による帝国美術院の改組は、表向きは、会員の定数を三〇から五〇に拡大し、在野から人材を求めることにあったが、意味するところは、美術領域の国家による統制の強化であった。これにより旧帝国美術院は自然消滅し、このとき、四九名(一名欠員)の新会員が発表された。すべての旧会員はそのまま新会員に任命されたうえで、新たに帝展以外の在野の団体から新会員が選ばれた。四九名の内訳は、日本画二〇名、洋画一四名、彫刻九名、工芸六名で、他方、所属団体の構成は、多くは帝展会員だったが、院展同人や二科会員、それ以外の会派も若干含まれ、国画会からは、梅原龍三郎と富本憲吉のふたりが新会員となった。

「帝國美術院官制」は全八条で構成され、第一条のなかに「帝國美術院は美術の發達に資するため展覧會を開催することを得」144とある。展覧会の起源は、一九〇七(明治四〇)年に文部省美術展覧会(文展)にはじまり、一九一九(大正八)年に文部省直轄による帝国美術院展覧会(帝展)に改められていた。日本画、洋画、彫刻に加えて、工芸の部門が新設されるのは、一九二七(昭和二)年のことであった。同日の東京朝日新聞が報じるところによると、「今秋の第一回新帝展は積弊を破つて審査員を全廢して會員の共同審査を行ひ名實共に優秀なる代表作品を選抜すると共に従來玉石混淆の無鑑査組は全部取消して更めて人選する事に決定した」145

しかしながら、積弊の壁は厚く、実際には、必ずしもそのようには進まなかった。憲吉は、当時を振り返って、晩年にこのように書いている。

 このときいっしょに、私も民間の工芸を代表して 芸術 ママ [美術]院会員となった。ところが工芸は定員が五、六人で、あとからはいったのは私一人、それも、四〇代という最若年で、在野にあって一人わが道を歩いてきた私が、急に会員として乗り込んできたので、前からの連中はとっては歯車にはさまった石のような違和感があったにちがいない146

そしてさらに、帝展や帝国美術院にあって、当時いかに乱脈や情実が横行していたのかについても、憤慨を交えて、こう述べる。

 私にしても、当時の帝展や 芸術 ママ 院の聞きしにまさる乱脈ぶりには、あきれざるをえなかった。たとえば、文部省で無鑑査を選ぶということがあった。その人選を文部省から 芸術 ママ 院に諮問してきたが、そのとき、帝展入選何回以上という線で決めようというのが大方の旧会員の意見であった。……私はまた別に意見があった。……
 だが、このような意見はまったくかえりみられなかった。……ところが、いざフタをあけてみると、どうだろう。そこには、さらに驚くべき現象が起こっていた。無鑑査に選ばれたのは、みな 芸術 ママ 院会員の息子とか養子とか、血筋につながるものばかりだったのである。……私はただただ、ぼう然とするばかりだったのであった。……
 いったい、官展グループには美術の本質的価値とは、なんの関係もないはずの序列がいくつも設けられ、まるで目に見えぬ肩章が、いつも両肩に置かれてあるようなぐあいだった。……私は、こんなところにいたのでは、とても責任をもって後進を指導することのできないという感じを年とともに深く胸に刻みつけられていったのだった147

「美術の本質的価値とは、なんの関係もない」そうした血縁と階級が主として支配する美術の旧世界は、憲吉にとって許しがたい、最も嫌悪すべきものであった。憲吉だけではなく、それぞれの立場と考えから、この改組に疑問や不満をもつ会員が多く存在し、紛糾は続いた。結局、第一回の新帝展はその年の秋には開催できずに、年が改まった一九三六(昭和一一)年の春まで持ち越された。展覧会が終わると、紛糾は会員の辞意表明へと発展した。六月一三日の東京朝日新聞は、「帝院崩壊に直面」「六重鎮も文相に反旗」という見出しをつけて、日本画の小室翠雲と菊池契月の二氏が辞表を提出し、洋画の石井柏亭、安井曾太郎、山下新太郎、有島生馬の四名がそれに続く見通しであることを伝えている。そして、さらに続けて、「當局不信頼の爆弾的聲明」という見出し記事のなかで、和田英作、川合玉堂、鈴木清方、横山大観、梅原龍三郎、前田青頓、平櫛田中、富本憲吉を含む一四名の連名をもって帝国美術院会員辞任に関する声明書が発表されたことを報じた148

しかし、意のある方向へと進むどころか、「挙国一致体制」の美名のもとに、さらに大同団結は強化されていった。翌年の一九三七(昭和一二)年六月二四日の東京朝日新聞には、「帝國藝術院誕生す 七十二會員づらり 偉觀・新象牙の塔 美術騒動も一段落」の見出しが踊る。記事によれば、この帝国芸術院は、梅原龍三郎や富本憲吉を含む、既存の帝国美術院の会員四六名は辞令を用いずに自動的に会員となり、新たに「文芸」一六名、「音楽」四名、「能楽」二名、「建築」二名、「書道」二名を加えた計七二名の新会員によって発足し、官制および新会員の氏名が二四日の官報で公布される運びとなった149

このとき、これまでの帝国美術院展覧会(帝展)は再び文部省の主催下に置かれ、新たな「文展」として改編されてゆく。同年(一九三七年)の七月二七日の東京朝日新聞には、「美術の秋・生みの悩み 文展審査員決る 藝術院會員も参加させて 堂々の五十六名の陣容」という見出し記事とともに、日本画、洋画、彫刻、工芸の四部門の審査員の名前が、富本憲吉の名前を含めて、一覧表として挙がっている。憲吉にとっては、おそらく迷惑千万といったところだったにちがいない。

このように官の力には服従させられ、老獪な策士芸術家には思いのままに操られる――まさしく砂を噛むような日々だったのではないだろうか。憲吉は、この時代を次のように回顧する。

 昭和元年から終戦まで東京で過ごした二十年は、社会の荒波にはもまれ、そのうえ美術界の喧騒の中に身を置いて多事多難であった。だが、その間にも、私はひとり自分の開くべき道を一歩々々、切り開いていった150

憲吉のいう「自分の開くべき道」とは、一体何だったのであろうか。憲吉の製作論、あるいはデザイン論の一端をここで見ておこう。以下に引用する発言は、最初のふたつは晩年に執筆した「私の履歴書」から引いたもので、それ以外はすべて、『製陶餘録』(一九四〇年刊行)に収録されている、「昭和元年から終戦まで東京で過ごした二十年」のうちに憲吉が書き記したものである。あわせて参考までに、この『製陶餘録』に所収されている三点の写真も、ここに紹介しておきたい。【図一〇】は「書斎の憲吉」、【図一一】は「水曳する憲吉」、そして【図一二】が「絵付する憲吉」で、どれも、土門拳の撮影によるものである。

まず、轆轤で形をつくる。そうして出来上がった二、三〇個の皿や鉢や壺を戸外の干し台の上に一列にならべる。

そのうちから最も形の整った約三分の一を白磁に選ぶ。次の三分の一を彫線や染め付けに用いる。最後の三分の一を色絵の素地とする151

その理由は、「染め付けや色絵は、いわばほかに見どころがあり、形の欠点を補うことができるが、白磁の形は、いっさいゴマカシのきかない純一のものでなければならないと考えている」152からである。憲吉は、白磁の美しさを、人間の裸体の美しさになぞらえる。

 模様や色で飾られた衣服を脱ぎすて、裸形になつた人體の美しさは人皆知る處であらう。恰度白磁の壺は飾りである模樣を取り去り、多くの粉飾をのぞきとつた最も簡單な、人で言へば裸形でその美しさを示すものと言へよう。……私は白磁の壺を最も好んでいる153

このように、一切の模様や彩色を排除した、純粋な形態の美しさだけで成り立つ白磁に、憲吉は心を奪われる。白磁同様に、全く無駄のない美しさをもったものが、確かに憲吉の少年時代にあった。それは時計という機械だった。

 私は時計の裏をひらき機械を見ることを一つの楽しみとしてゐる。今はあまりやらないが、少年時代にはこのことに熱中したあまりに時計師にならうと本氣に考へたものだ。……私が少年であった時代には勿論、飛行機も自動車の玩具もなく、手に持つていじることの出來たものと言えへば、この時計だけであつた。……もし私の現在が少年期であつたなら、私は自動車のエンヂンを楽しみ、その美しさに心をうばはれてゐよう154

すべての造形美術が、時計や飛行機や自動車のような機械のもつ美しさに倣うとするならば、美というものは、装飾という美術的要素に由来するのではなく、その形態に必要不可欠な構造という工学的要素から発生することになる。憲吉は、こう明言する。

 今私は、建築及び工藝を通じて、必要缺くべからざる構造が必然的に美をうむと言う理論の根本的な問題に達した。すくなくとも装飾は第四第五次的のものであつて、殆んどすべての既成造型美術に對して感興をひかなくなつてゐることは本當である155

これこそ、まさしくモダニズムの論理であろう。憲吉ははっきりと、こうも言い切る。「装飾の遠慮と云う語が建築にあるが、装飾の切り捨てを私は要求する」156

それでは、美と用途の関係については、どう考えているのであろうか。それについて憲吉は、「陶器に詩はない、然し實用がある。美も用途という母體によつて生み出された美でない限りは皆嘘の皮の皮といふ感がする。用途第一義」157を唱える。明らかに、機能主義に立っている。一方、機械についてはどうか。

古い道具時代から研究され發達し切つた陶器といふ技術が、今の機械時代の實用工藝品としては見捨てられ過去のものとして扱はれるのもさう遠くはないと確信する、私はさう信じて私の道を進める158

憲吉の展望するところが、「工芸からインダストリアル・デザインへ」と向かっていることは、明瞭であろう。憲吉は、紛れもなく、純然たるモダニストであった。

 所謂趣味ある陶器が床や棚に列び、讀む書物、着る衣服から室までを、現代のものを使はずに金にあかし心を勞してよせ集めた古いもので飾りたてて住む人がある。この種の人々に限つて、味といふことをやかましくいふ。私より見ればこれこそ憫むべき俗物の一種であると斷定する。現代を本當に考へるならその人のいひ望む工藝の殆どすべては死んだ殻に同じく、決してこの現代に生きてはをらぬことを知るであろう159

死んだ殻に寄り添うのか、それともこの現代に生きるのか――憲吉が選び取る「自分の開くべき道」は、明々白々、歴然としていた。

一九三五(昭和一〇)年一一月二三日から二七日まで、上野松坂屋において、「富本憲吉新作陶磁展」が催された。そのとき東京朝日新聞に掲載された松坂屋の広告【図一三】には、「現代陶匠の最高峰をなす新帝國美術院會員富本氏の新作陶磁約二百點を蒐めて!」160とのコピーがみられる。この年の五月の帝国美術院改組に伴って、憲吉は新会員に任命されており、そこで「新帝國美術院會員」の肩書がつく。さらに出品点数から判断して、大和時代を含めてこれまでの過去の個展をはるかに超える大規模のものだったにちがいない。憲吉は、「東京に移って間もないころは、大和にいたころにつづいて白磁と染め付けとを主として焼いた」161といっている。そうであれば、このときの陶磁展は、主に白磁と染付の新作二〇〇点ほどが、六階会場に壮観にも並べられ、販売されたものと思われる。

年が明けた一九三六(昭和一一)年の一月一九日から二二日まで、同じく上野松坂屋で「富本憲吉日本畫展覧会」が開かれた【図一四】。続けてこの年、「ぼたんの花の咲くこと(ママ)から稲の穫り入れまで、およそ八ヶ月も[九谷]に滞在して、じっくり絵付けの研究に打ち込んだ」162。ついに憲吉の関心は、色絵磁器の研究へと向かった。

楽焼きからはじまり、白磁、染め付けを自家薬籠中のものとしたので、最後には磁器の上に模様をつける上絵が残ったわけである。磁器に上絵することは焼き物の技巧としては最高のものであり、最も複雑で、それだけに非常に豊かな表現力を持つものである。九谷へ行ったのは、いわば私の焼き物造りの技法上の総仕上げだったともいえるだろう163

九谷では、色の合わせ方が秘密になっており、親方がすべて自分で色を合わせたうえで職人に与えられる方法がとられていた。しかし、憲吉にとっては、「色の事はすでに研究ずみで問題なかった。そこで北出塔次郎さんという方の窯を借りて主として、窯の構造、材料の詰め方、薪のたき方を勉強した」164。八箇月の長期滞在が終わり、東京にもどると、さっそく憲吉は、「色絵の窯を築き、上絵をほどこした焼き物を作って松坂屋で展覧会をやった。小品ながら百点ばかりの作品が八割まで売れてしまった。当時としては大成功であった」165。同年の一〇月一〇日の東京朝日新聞の上野松坂屋の広告【図一五】には、「富本憲吉第二回新作陶器展」と銘打って、「加賀九谷の窯にて先生が研究制作された、古九谷を偲ばしむる多彩な繪付けせる妍麗にして氣韻高き試作品に會心の近作をも併せて展觀」166とある。同じく一〇月一四日の東京朝日新聞には「富本憲吉氏作陶展」の見出しで展覧会評が出た。評者いわく、「淡々たる手法に終始して來た氏が、古九谷を研究し、それを取入れた結果一段と重厚さを増した、殊に藍色の茄子文の大皿、山歸來の大皿にその感が深く、嘗つての清純そのもの味は多少欠けた憾みはあるが、氏の研究の結果によつて、古九谷の持つ嫌味は失せ、古九谷としての新しい境地が開拓されんとするの曙光が見えるのは嬉しい」167。こうして、憲吉の色絵磁器に関する九谷での研究成果が、好評のうちに世に出て行ったのであった。

九谷(一九三六年)での色絵磁器の研究に先立って、すべて述べているように、この間憲吉は、信楽(一九二九年)、波佐見(一九三〇年)、益子(一九三〇年)、瀬戸の品野(一九三二年)、そして品野と赤津(一九三四年)で量産陶器の試作に励んでいる。冬場は寒くて陶土が凍り、東京では仕事ができなくなることに加えて、東京の小さな窯に比べて地方の大きな窯の生産力は、量産するに適していた。憲吉が量産に向かう精神を支えていたのは、繰り返すまでもなく、若き日に知りえた、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであり、また詩人でもあったウィリアム・モリスの存在であった。

憲吉が地方の窯で試していた量産方法は、最初から最後までのすべての工程をひとりの陶器家が行なう一品製作とは異なり、デザイン(見本となるプロトタイプの製作)を起こし、轆轤を引き、模様を描いて、火を焚いて焼き上げる製陶工程を幾つかに分けて、分業によって同一の陶器を大量に生産する試みであった。憲吉が受け持つパートは、最終的にはデザインの部分に限られ、残りのパートは、憲吉がデザインし製作した一個の原型(プロトタイプ)に従い、忠実かつ量的に再現できる腕のいい職人ないしは技術者にゆだねられることになる。憲吉は後年、分業について、英国での経験をこう語る。

私の知って居る約五十年前の英国では、既に図案者と製作者との名が別々に記されている事が普通であった168

そしてまた憲吉は、これまでの自分の実践について、後年こう振り返る。

 私は工芸の図案については音楽の場合に楽譜をつくる作曲家と、実際に楽器で演奏するプレーヤーとがあるのと同じような関係を考えているんです。……私なんか模様をこ[し]らえる側のコンポジ[シ]ョンのほうに固執しているんじやないか169

このように早い段階から、デザイン(憲吉のいうところの「形と模様」)と実製作との分離、つまりは分業に対する理解が憲吉の体内で、はっきりと輪郭をなしていたわけであり、これが、量産陶器を可能にする基本となる考え方であった。これは、西洋のデザイン史の文脈に照らしていえば、まさしく「モダン・デザイン」誕生へ向けての近代精神の発露に相当する核心的な部分であり、それには、当然ながら、生産手段が手から機械へと進むことが展望されなければならない。実際そのことも、憲吉の視野に入っていた。晩年憲吉は、柳宗悦に対して機械の問題について次のような見解を示していたことを回想している。

 民芸というものは柳君がはじめて私のところへきて、フオーク・アートこういうことをやっていこうと思うんだけれども、なんと訳すべきかと、きくくらいのものでしたね。私ははじめっからそういうものをやるとどうも狭まくなるからだめだ、というていた。その時分に私がおぼえておりますのは、柳君に向って、君が民芸は工芸の一部だというのなら承認しよう、しかし全部の工芸を民芸だけにしてしまうということには不賛成だ。私は手の工芸が、水が下に流れていくように、機械になっていくのをせき止めるようなことはだめだ。もし君がこれから民芸をどんどん盛んにしていくと、その流れに対してうしろで戸を押しているようなものだ、その押し手がなくなるとさっと流れてしまう。手の工芸といえども機械生産を認めながらやらなければいかぬ、これが私の考えだった170

憲吉と柳のあいだの見解の相違は、単に機械の問題だけではなかった。個性や個人主義といった問題についても、見解が異なっていた。一九三一(昭和六)年に柳は、「個人工藝家」ないしは「工藝美術家」に向けて、その製作態度を強く批判し、こう述べている。

 想うに個性の表現が藝術の目的の如く解され、個性美が最高の美の樣に想はれるのは個人主義の惰性による。……「俺達は個性があるのだ」などゝ高飛車に出ても、頼りないいひ草である。つまらぬ個性、奇態な個性、そんなものが如何にこの世には多いことか171

これに対して憲吉は、一貫して個性や独創力の重要性を説き、これまで繰り返し主張してきた。その最も早い段階のものが、英国留学から帰朝後の一九一二(明治四五)年に『美術新報』に寄稿した「ウイリアム・モリスの話」の結論部分に相当する次の一語である。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します172

憲吉はまた、民芸運動を推進する人たちが、地域や民族のかつての生活に眠る「下手物」や「民芸品」に強い関心を示し、収集や展示をすることについても、骨董の排斥や「写し」の否定という立場から、必ずしも賛同することはできなかった。憲吉は、こうもいう。

 亡びかけた民族の數人を読んで來て、都の楽堂に着飾つた男女が輝く電燈の下で彼等の歌をきく程馬鹿げた腹立たしいものはない。彼等の歌はかかる場所でかかるドギマギする心の有樣のものを聞く可きものでない。下手ものも人々に此の調子で玩ばれない樣私は心から祈る173

そうしたなか、ウィリアム・モリス生誕一〇〇年を記念して一九三四(昭和九)年に出版された『モリス記念論集』のなかで「書物工藝家としてのモリス」と題する一文を寄稿していた壽岳文章が、次の年、続けてモリスに関連して「ウィリアム・モリスと柳宗悦」を『工藝』に発表するのである。

モリスが、工芸の領域で、わが国に与えた影響はどうであろうか? ジャーナリズムのうえでは、明治の末ごろからしばしば「美術家」モリスの名が、書物や雑誌へかつぎだされているが、明治四十五年二月発行の、「美術新報」第十一巻第四号に載った富本憲吉氏の一文、その他二、三をのぞき、工芸家モリスの仕事に、深い理解を示したものは、まず少ないといってよい。まして、作品のうえに、モリスの意図がとりいれられた(とりいれられることの可否は別問題として)顕著な例を私は知らない。しかし、私たちはいま日本に、欧米のどの国においてよりもモリスにちかい、ひとりの熱心な工芸指導者と、その指導者に統率される工芸運動とをもっている。それは、柳宗悦そのひとと、その提唱による民芸運動とである174

柳の思想と実践に強い共感を覚えていた壽岳は、この論文で、憲吉の「ウイリアム・モリスの話」について、まず枕詞的に短く触れ、それに対比するかのように、柳をモリスに擬したうえで、その偉大さを賞讃するのである。憲吉が日本に最初に紹介した工芸家モリスの偉大さが、ここに至って、柳の偉大さへと置き換えられた観があった。壽岳のこの論文は、発表された時期と内容からして、富本と民芸派とのあいだに薄っすらと存在していたこれまでの溝がまさしく決定的なものになる、その瞬間と化す役割を担ったようにも推量される。

こうして、工芸を巡る複雑な立場や見解の対立は、そのまま国画会工芸部の運営においても影を落とした。そこで、ひとつの妥協案が生み出された。以下は、一九三六(昭和一一)年三月二五日の「洋画の春 上野と銀座から」と見出しがつけられた東京朝日新聞の記事の一部である。

[國畫會]工藝部は同會長年の懸案を解決して、帝院第四部會員富本憲吉氏と濱田庄司、芹澤光次郎(染色)两氏とが工藝部を两分して富本氏が第一部、濱田、芹澤两氏が第二部を行ふこととなつた175

そして、その年(一九三六年)の一〇月に、東京駒場に日本民藝館が開館し、初代館長に柳宗悦が就任した。『国画会 八〇年の軌跡』には、このように記されている。「一九三七年(昭和一二年)に富本と民芸派の工芸観の対立や、民芸派の拠点となる日本民芸館の設立をめぐり、柳宗悦に意を一つにする民芸派の会員が国画会を退会した。それから約一〇年、富本を中心とした工芸部が続くことになる」176

そうした出来事の一方で、この時期の、一九三七(昭和一二)年五月一一日の京都日日新聞に目を向けると、「世紀の一斷面」という見出しで、「機械工業への認識と文化的教養を與へよ」といった内容の憲吉の談話が掲載されている。しかし、憲吉の思いなど届くはずもなく、機械工業の生産力は、民生用品から離れ、軍事物資へと集中してゆく。他方、すでに紹介しているように、一九三七(昭和一二)年六月二四日の東京朝日新聞には、「帝國藝術院誕生す 七十二會員づらり 偉觀・新象牙の塔 美術騒動も一段落」の見出しが踊り、憲吉の苦悶はいとも簡単にからめ取られ、美術はもとより、文芸、音楽、能楽、建築、書道を含む芸術の全領域の挙国一致体制が一層強化されてゆく。

時代の推移は加速する。この年の七月の盧溝橋事件に端を発し、日支事変(日中戦争)が起こる。その拡大とともに、言論や物資がさらに統制され、自由や人権が一段と制約され、戦時国家へ向けた体制再編がいよいよ急速に進む。暗黒のアジア・太平洋戦争へと向かう道を、ひたすら日本は転がり落ちてゆくことになるのである。

富本家と同じ成城地域に住む平塚らいてうは、当時をこう振り返る。

 いま当時のわたくしの手帳を操ってみますと、昭和十三[一九三八]年七月に成城学園内で、防空防火の講演と映画会が開かれることがメモされてあります。家庭防空・防火関係の会合では、おそらくこのときが成城地域の最初のものであったとおもわれます。昭和十四[一九三九]年になると警防団がつくられ家庭防空・防火体制は一段と強化され、町会自治会は、もんぺの仕立講習会をひらいて、戦時下の家庭婦人がもんぺを着用する、国民精神総動員運動に協力しました177

こうして家庭内の防空および防火の体制が強化される一方で、燈火管制が実施され、贅沢品の製造や販売も禁止された。この時局にあって、富本家の台所では、石油焜爐から薪竈へ、さらには、それに代わって木炭竈へと変わっていった。

 家では久しく石油焜爐を使用してきたが、日支事變の直前あたりから、いよいよ戰争となれば石油など安々と使つてなど居れなくなる。……思ひきつて薪を使う竈をそれに代へ木炭竈も使うことにした。ところが薪は日増しに値が上つてくる。もともと職業用の松薪だつた。相當豐富に積まれてゐるのでまるで ただ ・・ のやうに女中がぼんぼん使つてくれる。これではやりきれないと結局木炭ばかりにした178

事態はさらに深刻化する。窯を焚く職業用の松薪が不足してきたのである。憲吉は、いざとなれば、自宅庭のケヤキ(欅)を切ることも覚悟する。

いま私の家の庭に大きな株の欅が幾本か植ゑられてゐる。これは欅の薪をとるために残されてきた株で……いまは、株からのび育つた數本の若木がたくましい枝を空高くさしのばし美しい景色をつくってゐる。もし、いよいよ松薪がなくなり、木炭もなくなったら、この欅を伐つて焚くことも亦やむを得ぬことだなど、極めて味氣ないことまで考へる179

また、こんなこともあった。信州の山で知人を介して松薪を大量に買いつけ、窯を焚く秋まで、乾燥のために寝かせて置いてもらうことにしていたが、秋になっても、なかなか積み出してくれない。催促を繰り返したあげく、やっと届きはしたものの、「見ると、驚いたことには山からたつたいま伐り出したという生々しい代物だった」180。寝かせているあいだに、松薪の値段が高騰したため、憲吉が購入したものは高値で別の客に売り飛ばされ、その結果が、こうした悪行を引き起こしたらしい。憲吉は「實に腹がたつた。そのために仕事の豫定がすつかり狂つて了つてどれだけ迷惑したか知れない。陶器を焼くことを止めて了ひたくなるのもかうした事があるからだ」181

松薪の不足に加えて、人手も不足してきた。

その上この頃のやうに勞力不足になると松薪を割つてくれる人にことかく有樣だ。……私は自分で鉈を振つて薪を割る決心でゐる。現に止むを得ない時は工場の若い人達と競つて鉈を振り、窯に焚く松をさかんに割つてゐる182

そうしたなか憲吉は、一九三八(昭和一三)年の秋には、文展に色絵陶板を出品した。東京朝日新聞は、「文展の工藝から」と題して、写真とあわせて、次のような作品評を掲載する。「富本憲吉氏の陶技には古典を新しく生かさんとする多くの苦心が拂はれてゐることがうかゞはれ、今度の色繪陶板に見る清楚な感じは我々の生活に食い入るもの」183がある。

一九四〇(昭和一五)年の六月には、『窯邊雜記』(一九二五年刊)に続く、憲吉にとっての二番目の随筆集となる『製陶餘録』が世に出た。ちょうど満五四歳の誕生日を迎えたときのことであった。「序」において、憲吉は、こう書いている。「年齢の故であらうか近頃の私は、文章、繪、特に陶器に對し、以前程の感激を以て接する事が出來なくなつた。これは一つには、矢張り世界中が熱鐡を互の柔かい身體にぶちこみ合つて居て、今日ありて明日なき命と云ふはかない世情の反影による事と思ふ」184

「今日ありて明日なき命と云ふはかない世情」は、工芸界の大同団結を促す。一九四〇年九月九日の東京朝日新聞によると、「美術界にも新體制を樹立する氣運が日とゝもに濃くなつてゆく、この秋、在野各派の別なく工藝美術家を持つて一丸とする全工藝界の一元化運動が實を結び、愈近く我が工藝美術家を統治する大同団結が繪画、彫刻に率先して行はれることとなつた」185。このとき結成されたのが「工藝美術作家協會」で、香取秀眞、津田信夫、清水亀蔵、板谷波山とともに、富本憲吉も五名の顧問のひとりとして加わった。

続いて、同年(一九四〇年)一一月三日の招待日を期して、紀元二千六百年奉祝美術展覧會が開催された。このとき憲吉は、津田、清水、板谷と一緒に、作品の陳列に関与している。開幕前日の新聞は、こう報道した。「工藝部は、従來の工藝陳列室の他に廣大な彫刻室の壁面に數寄屋造りの陳列棚を新造し、こゝに半数以上の約三百点を陳列するが、硝子越しに見る陳列ケースから出て各作品が陳列されるため非常に鑑賞しやすく、この優位を新人連の作品に提供して……新人優遇の英斷陳列を行ふのである、陳列の新體制の出來栄えは如何か、期待されている」186

同じく一一月には、東京朝日新聞掲載の広告によれば、六月の『製陶餘録』に引き続き、同じ版元である昭森社から、写真版の『富本憲吉陶器作品集』が出版された。広告文には、「陶器に專念すること三十年、著者今や帝國藝術院會員として斯界の最高地位に處る。……限定版に付至急申込まれたし」187とある。

そして、年が明けた一九四一年の六月、現代巨匠工藝展が上野の松坂屋で開かれた。東京朝日新聞の「美術単評」は、「藝術院會員たる工藝家を集めただけあつて注目すべき作も多い」としながら、清水亀蔵の技巧、香取秀眞の手際のよさ、津田信夫の形の美しさ、板谷波山の優雅さを賞讃する一方で、憲吉については、「富本憲吉の作中では鉄仙文の大皿が華麗にして新鮮、格調も高いが、椿文の『飾筥』の色は共感を呼ばない」と評し、それ以外では、「清水六兵衛は低調、六角紫水はこり過ぎての失敗」188と書く。

アジア・太平洋戦争に突入したのは、その半年後の一九四一(昭和一六)年一二月のことであった。

六.子どもの成長、そして一枝の文筆再開とセクシュアリティー

『婦人画報』に掲載された、一枝に関連する座談会形式の三点の記事のうち、残りのもう一点が、「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」(三五七号、一九三四年一一月号)である。これはあくまでも座談会の収録記事であり、富本一枝の筆名で雑誌等に掲載されるのは、検挙からおよそ一年と四箇月が経過した一九三四(昭和九)年一二月の『婦人文藝』に掲載された「『父親の鼻』の辨解」(第一巻第六号)が、その最初となるものであった。『女人藝術』の廃刊後、神近市子の手によって『婦人文藝』が創刊された。その経緯について、晩年、神近はこう述べている。

 多くの女流作家・評論家・劇作家を輩出した『女人芸術』が、昭和七年に廃刊となってしまった。翌年、中心になっていた長谷川時雨氏は『輝ク』という新聞タイプのものを出したが、これも長くはつづかなかった。そこで私は、夫の鈴木[厚]とともに、新雑誌『婦人文芸』を出した。昭和 ママ 年のことである。『女人芸術』のころからの山川菊栄、林芙美子、円地文子氏や、平林たい子、宮本百合子氏などの参加もあり、また、壷井栄氏が処女作「月給日」を発表したのもこの雑誌であった。
 しかしこの『婦人文芸』も、経済的理由や戦争気運の高まり、そのほかの理由で、三年ほどで休刊の止むなきに至ってしまった189

一枝は、この神近が創刊した『婦人文藝』に積極的に寄稿し、同誌が主催する座談会にも出席している。そのなかの主なものとして「福田晴子さん」(一九三五年一一月号)と「時事批判座談會」(一九三六年一一月号)を挙げることができよう。

『婦人公論』も、一枝にとって重要な発表誌であった。『婦人公論』を発行する当時の中央公論社の社長が嶋中雄作で、雄作とは通っていた中学こそ異なるが、中学時代に憲吉は、雄作によって『平民新聞』を紹介され、その新聞をとおして英国一九世紀のデザイナーであり社会主義者であり詩人でもあったウィリアム・モリスの存在を知ることになる。憲吉が東京美術学校に入学する以前の話である。一枝が目立って『婦人公論』や『中央公論』に寄稿するのは、そうした憲吉と雄作の中学時代からの間柄があったことに由来していたのかもしれない。『婦人公論』に掲載された一枝の文および写真は、次の九点にのぼる。「痛恨の民」(二三四号、一九三五年二月)、「家を嫌ふ娘を語る座談會」(二三七号、一九三五年五月)、「働く婦人と離婚の問題」(二四七号、一九三六年三月)、「私の好きな時間 佐藤俊子さんと富本一枝さん」(写真)(二五八号、一九三七年二月)、「原節子の印象」(二六〇号、一九三七年四月)、「私の顔」(写真と文)(二六一号、一九三七年五月)、「明日の若木――娘から孫へ」(二七八号、一九三八年九月)、そして、最後が「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)と「探偵になりそこねた話」(ともに、二八二号、一九三九年一月)である。

一九三六(昭和一一)年には、『中央公論』に「宇野千代の印象」(二月号)を、そして『麵麭』に「仲町貞子の作品と印象 手紙」(第五巻第二号、二月号)を寄稿する。この『麵麭』、そして一九三七(昭和一二)年の『新女苑』と一九三八(昭和一三)年の『文體』は、一枝にとってこの時期の新たな発表誌であった。一枝は一九三七(昭和一二)年の『新女苑』に「親の態度に就て」(第一巻第三号、三月号)と「鏡」(第一巻第一二号、一二月号)を書いているし、翌年の一九三八(昭和一三)年には、『文體』において、「猫兒(夢)」(第一巻第一号、一一月号)と「少年の日記」(第一巻第二号、一二月号)を世に問うている。その一方で、書籍に所収されたものとして、同じくこの年(一九三八年)の一一月に双雅房より発刊された『新装 きもの随筆』に、一枝の「春と化粧」を読むことができる。

以上が、一九三三(昭和八)年八月五日に検挙されて以降、一九三九(昭和一四)年一月一日の『婦人公論』に掲載された「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)および「探偵になりそこねた話」までの、一枝の東京移住後の後半部分にかかわる執筆活動の概略である。

それではこれより、こうした一枝の文筆再開を一方の軸としながら、他方子どもたちの成長や友人たちとの交流、あわせて一枝のセクシュアリティーの様相なども織り込みながら、検挙後からアジア・太平洋戦争に突入する一九四一(昭和一六)年ころまでのおよそ八年にわたる、一枝を中心とした富本家の千歳村生活を描写してゆきたいと思う。

一九三三(昭和八)年七月三〇日の『週刊婦女新聞』は、「おしらせ」の欄で「奥村指輪の會」について触れている。「藝術的指輪を創始して好評を博してゐる洋畫家奥村博史氏を依囑して、深尾須磨子、武者小路實篤、富本憲吉、水谷八重子、柳原燁子、加藤武夫等文壇劇團の諸氏が發起で、『奥村指輪の會』と云ふのを組織し、會員を募集中である」190。これについて平塚らいてうは、こう振り返る。「最初に作ったのは、時代のやや古い黒白のオニクスのカメオの指輪で、自分の小指にはめるものとしてでした。次には、富本憲吉さんが、インドから持ち帰った指輪を、一枝さんの指に見て、それを借りて同じものをわたくしのために、作ってくれました。……こうして奥村の指輪作りがはじまりましたが、自作の指輪を、はじめて世に発表したのは昭和八年のことです。これは奥村の指輪作りにたいへん興味をもっていられた富本憲吉さんのたってのおすすめで、国画会工芸部に、持ち合わせたもの七点を出品したのでしたが、それが批評家筋にも好評で、意外の反響がありました」191

その翌年の一九三四(昭和九)年の秋季皇霊祭の日(現在の秋分の日)の午後、『婦人画報』の企画により、平塚らいてうの夫の奥村博史のアトリエ【図一六】を会場として、奥村家の家族(四名)と富本家の家族(五名)、それに洋画家の安宅安五郎の娘の良子も加わり、「家族會議」【図一七】が催された。安宅安五郎は、一枝の妹の福美の夫である。奥村家の長女曙生と富本家の長女の陽は、成城学園の小学校で同学年であったが、ともに成長し、曙生は「小學校は成城、女學校は自由学園、そして今は東洋英和の幼稚園師範科」192に通い、陽は「小學校も女學校も成城、今は文化學院の高等部」193に在籍していた。この日の「家族會議」は、「今日は曙生ちやんや陽子ちやんの職業や結婚に對するお考へをうかゞひその考へ方の基礎になつていゐる敎育、學校敎育や家庭敎育も一應檢討し、一方お父樣お母樣の御意見もうかゞひ度いと思います」194という、記者からの導入の言葉ではじまった。そのなかで陽は、結婚については、「條件としては特に退屈なんでなければ、餘り可愛がつて呉れない人の方がいゝわ、いくら可愛がつて呉れたつてどうせさう長いこと可愛がつて呉れられるものぢやなし、それにさうなつたらうるさいわね。貧乏ぢやいやだわ。金持の人と云う譯でなく生活能力のある人よ」195と語り、記者の「陽子ちやんはどう云う職業に就て――何をやりたいと考へますか」という質問に対して、陽は、「望みはないの、自分の考へて居ることも殆ど何が何だか分んないし、希望もないし、どこを見ても風みたいにふらふらして――だから曙生ちやんの考へ方なんか私として羨しいと思ふわ」196と答えている。これが、ちょうど満年齢で一九歳になったところの陽の結婚や職業についての思うところであった。

この「家族會議」が開かれたちょうどそのころ、曙生は「ノート抜萃」を、陽は「感想にかへて」を、一九三四(昭和九)年九月一七日の『輝ク』(第二年第九号)に、示し合わせたように同時に寄稿していた。『女人藝術』の後継紙である『輝ク』は、四頁構成の月刊新聞で、女性文筆家のあいだの掲示板的な役割を担っていた。一九三五(昭和一〇)年に入ると、陽は『行動』(第三巻第三号)の三月号に「明日」を書いた。これは、自伝的な小説の形式をとっており、「瑛子」は陽自身であろう。大人になってからの「瑛子」の心的状況を知ることができる箇所を幾つか断片的に拾い出して、以下に引用してみたい。世間ではいまだに青鞜の「紅吉」が生きていた。

 二十いく年か前、「新しい女」と世間からはやされた女達の、なかでもジャアナリズムが持ちあげた代表的數人のうちの一人を瑛子は母にしてゐた。そのペンネエムが男のやうな變つたものであつたせいか、その時代のひとを親に持つ友達から瑛子は「あなたのお母さんは×××吉とおつしやつたんですね」といふやうにきかれる事がたびたびであつた。……女學校の若い國語の敎師が授業中、瑛子の母のことを矢張りきき嚙りのまゝにふりまはす時など瑛子は消え入りたいほどの思いであつた。……男ものゝと間違ふやうな着物にセルの袴といふいでたちでそこいら中をのし歩いてゐたといふその敎師の言葉で母の姿を想像して情けながる瑛子に同情する友達もあつた197

「瑛子」の視線は、両親の不仲へと注がれる。「瑛子も娘らしく成人し下の小さい子供たちにしてもめいめいの生活をするやうになつて來たのに家庭の底を流してゆくものは穏やかなものでもなく、危險をふくむ信號がのべつに提示されてゐるのをかんじるたびに瑛子はげつそりした。しかもその片方、瑛子はいつになつても消えることのない欲望に對する新鮮な母の情熱に羨ましさとおどろきをかんじるのだつた」198。母親の苦しみと不満は、娘の「瑛子」の目には、父親の言動が大きく邪魔立てをし、抑圧しているのか、思いどおりに自分らしく立ち振る舞うことができないことにあるように映る。

「いつそお母さんもいい加減にごじぶんのなさりたいことをおやりになればかへつてよくなるのではないかしら。見込みのない努力を今になつてまだすることなんか馬鹿馬鹿しい話ね。」
 瑛子はそのうち父のゐる前でも平氣でそんな事が云へるやうになつた程大人めいてきた。しかも息するばかりの肉親の感情だけが壁づらや部屋の隅々にへばりついてゐて、誰も彼も生身でぶつかりあひ言いたいだけの事を云ひちらすより激しい疲れかたをしてゐるのである199

「瑛子」は、互いに傷つけ合い、精神を擦り減らす両親の日常を見て、呆れ果て、情けなく思う。そして、気持ちを整理する。「併し文學の生活と一つになつていくより道がないのだとすれば、すべてをなげ出して文學に専心することだけでひたむきに進んでゆかうと瑛子ははつきり心を決めて、中途半端でくるしんでゐる母の姿を再びくり返すことのないやうに絶えず意識しながら、今まで徒らに消費してゐる ママ かりであつた精神と肉體を、目的のある確かさで回復させてゆきはじめた。その矢先き瑛子は晄吉を知つた」200。恋愛感情が生まれる。「晄吉は瑛子の入つてゐる同人雜誌のメンバアで小説を書いてゐる文科の大學生であつた。瑛子は晄吉の暖い影を急速にかんじはじめ、その影につつまれてはじめて生々とした朝夕を迎へる娘になることが出來た」201

この年(一九三五年)の陽は多産で、発表誌も広がった。この『行動』三月号の「明日」に続いて、四月一七日の『輝ク』(第三年第四号)に「今朝の夢」と題した短文を書くと、次に『婦人公論』(第二〇巻第七号)の七月号に「季節の香――日記より」を、さらに『文藝通信』(第三巻第九号)の九月号に「風薫りて」を執筆した。そして年が明けた一九三六(昭和一一)年の『婦人公論』(第二一巻第一号)の新年号には、「笑ひのない顔」(画は寺島貞志)が掲載された。「季節の香――日記より」は、自己の心象風景を短くスケッチしたものであるが、擱筆日は「一九三五・六・一」とあり、すでに文化学院を卒業し、まもなく八月には満年齢で二〇歳の誕生日を迎えようとしていた。「風薫りて」と「笑ひのない顔」は、陽にとってはじめて挑む小説といっていいだろう。若い男女の触れ合いが描かれている。女の方は、陽らしくもあり、置かれていた実際の心情が投影されているようにも読める。このように作品を並べてみると、確かにこの時期、陽は作家を目指していたものと思われる。どれもすべて、著者名は「富本陽子」である。しかしながら、そのあと筆の勢いが衰える。時局がそうさせたのか、結婚後の出産や子育てが理由なのか、あるいはそれ以外に何かあったのか、それはよくわからない。

この時期になると、二歳違いの陶もまた、自らの将来を選択する年齢に近づいていた。陶はピアノに興味をもっていた。一九三四(昭和九)年の秋に奥村のアトリエで開かれた「家族會議」で、一枝が陶に、「陶ちやんはどうしてピアノへ入つたかしら」と水を向けると、「ピアノが欲しくてしやうがなかつたわ、とても駄目なんだけどすることがないから――だつて、ピアノをポコポコやつて居るだけでせう」202と答えている。一方で一枝は、自分の経験談を語る。「私は聲楽家になりたいと思つて潜かに入學試験の用意をしたり願書までかいたのですけれど、どうしても父が繪描きなものですから――家を繼がなければいかんと云ふので音楽をやる希望を潰されて了つたんですが、やつて見たいと思ふことをやれないと云ふことは子供の将來に決定的な不幸をもつて來ると思ひました。どうしても繪を描けと云はれて描いても楽しい氣持ちで描いたことはありませんね。それも油繪なんか許されないで――そこへ丁度青鞜の運動が興つたものですから」203

そして、この「家族會議」は、一枝とふたりの娘の次の言葉のやり取りで終わる。何か締まりの悪い幕切れの観は拭えないだろう。

富本夫人 お母さんなんか何時も自分は母親の資格がないと思つて――。
陶子 お母さんつたら何時もあんなことを云ふんだもの――。
陽 さう云はれたら子供はどうすればいゝの――。
記者 ではこれで――どうも色々有難うございました204

安堵村の生活のなかにも、すでに音楽があった。当時しばしば安堵村を訪ねていた丸岡秀子は、こう回想する。「[製作途中の憲吉の作品について、求められて一枝が意見を述べた]そのあと、ゆつくり、大きな朝顔の形の口をつけた蓄音機から流れてくる音楽を、それぞれが聞いて過ごすこともあった」205。また一枝は、陶が生まれる少し前の話であるが、東京音楽学校が発行する雑誌『音楽』(第七巻第三号、大正五年三月)に「冬日哀傷篇(斷章)」を寄稿している206。このようして、音楽のある家庭環境で陶は育った。しかし、実際に音楽学校を受験するに際しては、憲吉も一枝も反対した。陶はこう振り返る。「[円通院の小さな学校で]私達姉妹が受けたこのような特別な教育がどれだけ私の人間形成の上で役に立ったのか、それはわかりません。社会生活になじめなかったり、特に、後に官立音楽学校で勉強するようになった時、団体生活が窮屈で途方にくれました。両親が音楽学校受験を最後まで反対した意味が今頃になってよく分かるような気が致します。その入学試験は厳しく、四次まで続きました。いよいよ最後の合格発表の日に、両親そろって上野の山に結果を見に来てくれた時の事は本当に嬉しく、今も忘れられません」207

続けて、こうも回想する。「しかし在学中私のように欠席が多かった生徒は珍しかった事でしょう。学期末になると母が筆で半紙に、遅刻、欠席一回につき一枚ずつのお届けを何枚も書いてくれ、それを私は恐る恐る教務課に届けたものでした。厳しい官立学校をよくぞ無事に卒業できたものです」208

以下は、『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第二巻』に記載されている陶の東京音楽学校在籍期間中の演奏活動をまとめたものである。

昭和九年十二月一日 選科洋楽演奏会
  ピアノ獨奏 ソナタ 作品九〇 第一楽章 ベートーヴェン作
昭和十五年三月二十六日 卒業演奏(第二日)
  ピアノ獨奏 バッハ作・半音階的幻想曲とフーゲ
昭和十五年六月十六日 学友会第一二四回洋楽演奏会
  ソプラノ獨唱 石神以代子 伴奏 富本陶
  歌劇「カルメン」よりミカエラの詠唱……ビゼー
昭和十七年五月二日 研究科聴講生修了演奏会
  ピアノ獨奏 ブラームス作・ワルツ・作品三九209

こうした演奏活動から判断できるように、奥村博史のアトリエで「家族會議」が開かれた一九三四(昭和九)年には、陶は、東京音楽学校の選科に在籍しており、一九四〇(昭和一五)年三月に本科を卒業、そのとき満年齢の二二歳に達していた。さらにそれから二年後の一九四二(昭和一七)年五月、アジア・太平洋戦争のさなか、陶は研究科聴講生を修了する。

それでは一枝は、どのようなかたちで文筆の再開を果たしたのであろうか。一九三四(昭和九)年一二月に発行された『婦人文藝』(第一巻第六号)に、一枝の「『父親の鼻』の辨解」と題された手紙文を読むことができる。これがおそらく、代々木署から釈放された一九三三(昭和八)年八月以降一枝が雑誌に寄稿した最初の文であろう。一年と数箇月の空白があったことになる。友人の神近市子は、一九三四(昭和九)年七月に『婦人文藝』を創刊すると、さっそく一枝に寄稿を要請したものと思われる。一枝は、「この間から時折あなたに話してゐたやうに私は『父親の鼻』といふ随筆を送る考へ」210でいたが、それができないまま時間が流れてしまったようである。この文は、次の書き出しではじまる。「この間から約束の原稿が氣にかゝり、どうかして今度こそ約束を破るやうなことをしたくないと思つてゐたのに、いそがしさが中々ついてまはりその上に小さい子供が舊居に移る早々百日咳になつて夜もろくに眠れない日が私にもかれこれ三週間近く續いてゐるので頭の具合がよけいによくない」211。「小さい子供」とは、壮吉のことであろう。そしてまた、「舊居に移る」というのは、山谷町での仮住まいを終え、もとの祖師谷の家にもどったことを意味しているのであろう。「『父親の鼻』の辨解」の掲載が『婦人文藝』の一二月号であったことから推量すれば、千歳村への引っ越しはその数箇月前のことということになる。『婦人画報』の企画による「家族會議」が開かれたのが一九三四(昭和九)年の秋季皇霊祭の日(現在の秋分の日)の午後で、場所は同じ成城地区(砧村)の奥村邸のアトリエにおいてであった。ひょっとすれば、すでにこのときには引っ越しが完了していたのかもしれなかった。この文の最後は、神近への温かい激励の言葉で締めくくられていた。

 雜誌がよくゆくやうに。經済的に可成り困難なその仕事です。並々ならぬ苦労を重ねていられやうと思ふと氣の毒です。……䕃でごそごそ惡態をつく勇者が多くても、さて投げた石が自分に戻つて傷つくことを恐れる人々が多いことを思つて、信じたところへまつしぐらに進んで下さい。友人としてあなたの仕事の善き完成を不斷に願つてゐます。面と向つてはこんな事は一寸テレて言へないから。さよなら212

次の年(一九三五年)の『婦人公論』(第二〇巻第二号)の二月号に一枝は「痛恨の民」を書いた。女学校卒業ののち、憧れの青鞜社の社員となったものの、自ら引き起こした行動が世間の強い批判を浴びてしまい、そうしたなかにあっても自分をかばい、救ってくれた平塚らいてうに対する感謝の気持ちが綴られている。まさしく、このコラムの表題にあるとおり、この文は一枝自身にとっての「青春懺悔」を浮き上がらせていた。

その数箇月後、一枝は、「家を嫌ふ娘を語る座談會」に出席した。出席者は、西村伊作(文化學院長)、奥むめお(婦人セツツルメント)、竹田菊(山脇高女敎諭)、草間八十雄(東京少年保護所長)、川崎なつ(文化學院敎授)、そして一枝と嶋中雄作(本社社長)であった。その内容が、『婦人公論』(第二〇巻第五号)の五月号に掲載されている。一枝は、子どもに向き合う母親の姿勢について、こう持論を展開する。

子供がある年齡に達したならば、自分の子供だつていふ考へをまづ棄てなければならないんだと、非常に考へて來ました。母親も子供も同時に社會人であつて、その態度をはつきり持たない限り、家庭から悲劇といふものがなくなる時がないと思ふんです。子供の家出とか、子供が家を嫌ふとかいふ一つの問題があつた時には、それを子供として考へるより子供を社會人として考へてやらなければ、到底解決がつかないと思ひます213

それに対して西村伊作が、「人間に對する所有慾がいけないんですね」214と、一言うまく挟むと、一枝は続けて、このように述べる。「そうなんです。自分の子供とか、自分が親であるとかいふ考え方は、親である自分を非常に縛り、子供も縛り、親子ともどもに苦しんでゐるといふことを、近頃自分の問題として考へて居ります」215。一枝には陽のことが念頭にあったのであろう。すでに述べてきたように、陽は、伊作が院長を務める文化学院を卒業すると、両親の不仲に苦しむも、文筆活動に自分の意思を向け、そのなかでひとりの男性と出会っていた。この時期、母親としての一枝は、娘の陽の家出とか、家を嫌う問題とかに日々接していたのであった。

陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件である二・二六事件が起きた直後の一九三六(昭和一一)年の三月、一八年に及ぶ海外生活を終えて、佐藤(田村)俊子がカナダから帰って来た。俊子と一枝(紅吉)は、青鞜時代にらいてうに紹介されて以来の友人であった。当時(一九一二年)俊子は、「逢つたあと」と題した次の詩を『青鞜』に書き送っている。

紅吉、/おまいはあかんぼ――――だよ。/この――――の長さは/おまいの丈の長さと、/おんなじ長さ、さ。

紅吉、/おまいの顔色はわるいね。/まるで、すがれた蓮の葉のやうだ。/Rのために腕を切つたとき、/それでもまつかな、/赤い血がでたの、紅吉。

紅吉、/おまいのからだは大きいね。/Rと二人逢つたとき、/どつちがどつちを抱き締めるの。/Rがおまいを抱き締めるにしては、/おまいのからだは、/あんまりかさばり過ぎてゐる。

紅吉/おまいの聲はとんきよだね。/けれど、金屬の摺れるやうな聲だ。/おまいの、のつけに出す聲は、/火事の半鐘を、/ふと、聞きつけた時のやうに人をおどろかせる。

紅吉、/でも、おまいは可愛い。/おまいの態のうちに、/うぶな、かわいいところがあるのだよ。/重ねた両手をあめのやうにねぢつて、/大きな顔をうつむけて、/はにかみ笑いをした時さ216

若き日の一枝(紅吉)の様態を、かつてこのような詩によって描写していた俊子であった。その俊子が、帰国後のこの年(一九三六年)の初夏のある日、憲吉の開窯に招かれ、千歳村を訪れた。二度目の訪問であった。そのときの様子を俊子は、「千歳村の一日」と題して一文にまとめ、『改造』へ寄稿する。

 日本に歸つてから、これ程快い、ゆつたりとした天候に廻り會つたことがないと一人で喜んでゐると、千歳村のケー[一枝]さんから、「 おかま ・・・ を開けますから遊びにいらつしやい。」と電話がかゝつた。……法隆寺の近くにテー[富本]氏夫妻が住んでゐた頃、そこを訪れた思ひ出は古るいものだが、テー[富本]と云ふ名は、私には何時になつても、その頃の若やかな匂ひの高い、歐洲文化の雰圍氣の手で育つた新しい藝術家と云ふ印象と結び付いてゐる。……ケー[一枝]さんが又昔も今も同じで、少しも變つてゐない。相變らずの「氣を揉む」人である。あの人の愛や友情や正直は、この「氣を揉む」精神から生れてくるのだ。日本の古るい知友の内で、私の「懐しき人々」の記憶の上にとゞまつてゐた人たちである217

「火を消してから三十時間にもなると云ふのに、顔を差出すと頬が焼けるように熱い、驚くほどの熱度である。もう おかま ・・・ から取り出されたテー[富本]氏の製作品が日光の下に並んでゐる。……小壺、箱、湯呑、掛額などの、おかまから取り出された製作品が室内へと運ばれる」218

この日一枝は、丸岡秀子も招待していた。そして、やってきた丸岡を俊子に紹介する。その瞬間を秀子は、こう描写している。

 今日も、大ぜいの客が窯あけの時間を待っていた。広い南向きの応接間はその人たちで詰まっていた。……窓ぎわの棚には、いつも見る白磁の壺に、紫のあじさいが、贅沢に入っていた。すると、そのすぐそばの皮の椅子に一人の女がかけている。ワンピースの紫は、あじさいの紫よりも濃く、まるで今日の主賓のように、大きな応接間の一番豪華な椅子にどっしりとかけていた219

この女性が、かつての田村俊子(いまの佐藤俊子)であった。俊子と秀子は、二〇歳ほどの年の差があった。秀子は「田村俊子」の名前を憶えていた。「その名は明治の終りから大正にかけて、女の作家として、目立つ存在であった。……そして『女作家』、『 木乃伊 ミイラ の口紅』、『 炮烙 ほうらく の刑』などの代表作を一応は読んでもいたからである」220。この日から俊子と秀子のあいだに深い友情が芽生える。そして晩年の一九七三(昭和四八)年に、秀子は、「昭和十一年から十三年までの三年間の[俊子からの]手紙」221を基にした交友録『田村俊子とわたし』を中央公論社から上梓するのである。それによると、帰国後のこの三年は、俊子にとって、思うように作品が書けず、金銭の管理が甘いがゆえに友だちを失い、人の夫との道ならぬ恋にも陥り、満たされぬ苦悶の歳月であった。俊子は、何かにつけて秀子を頼った。秀子も悪い気はしなかった。いつも寄り添うように、俊子を支えた。秀子が一九三七(昭和一二)年に高陽書院から出した処女作『日本農村婦人問題』の書題は俊子の発案によるものであった。しかし、この濃密な交友にも終わりが来る。最終的に俊子は、嶋中雄作の計らいにより、「中央公論社特派員」の肩書きで中国に渡るも、一九四五(昭和二〇)年四月、上海の地で客死する。

丸岡秀子は、同じく『田村俊子とわたし』のなかで、このようなことを回想している。「彼女[俊子]はピンポンが好きだった。ことに富本さんの家にでかけると、一枝さんと二人でピンポンをした。二人とも両袖を帯にはさんで向かい合うと、体も派手に大きく動かしたが、それ以上に舌戦の方が激しかった。『全然相手にならないわ』『どっちのいうことよ』『この勝負いただき』『どういたしまして』」222。ふたりがピンポンを楽しむ様子【図一八】が、『婦人公論』(一九三七年二月号)に「私の好きな時間」と題して、紹介されている。

すでに、前章の「安堵村での新しい生活」において言及しているように、一枝と秀子のあいだには、かつてこのようなことがあった。一九二三(大正一二)年、奈良女高師の四年生であった秀子は、学生最後の夏を、富本家の海浜の休暇に加えてもらって尾道の向島で過ごした。そのときそこへ、秀子の先輩で友人でもあった美貌の「Mさん」が一枝を訪ねて来て、ふたりは、親密に泳ぎを楽しんだ。その親密さに秀子が傷ついたのではないかと疑った一枝は、そのようなことが書いてあるかどうかを確かめるために秀子の日記を盗み見た。それから十数年の月日が流れた。その間、富本一家は安堵村から東京の千歳村へ移住し、一方の秀子は、就職、結婚、出産、夫の死、再就職と、若くして人生の過酷さを十分に味わっていた。正確に時期を特定することはできないが、おそらくこの窯開き以降のことであろうと思われる。秀子が一枝と一緒に成城の町中を歩いていたおりのことである。秀子がひとつの話題を切り出した。その場面が、一九八三(昭和四八)年に偕成社から出版された秀子の自伝的小説『ひとすじの道』に表われているので、そこから適宜引用するかたちで、以下に、その場面を再現したいと思う。本文中では「恵子」という名で登場するが、これが秀子であることはいうまでもなく、したがってここでは、「秀子」に置き換えて表記することにする。

秀子には、「Mさん」のことも、どこか頭の片隅にあったものと思われる。秀子は一枝に向かって、ずばりと切り出す。「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」。このぶつけられた言葉にいらだつ一枝は、「それが私へのお返しですか」と反駁するも、秀子は、「あなたは美人がお好きでした。それはみとめていらっしゃるでしょう」と、追い打ちをかける。一枝は「この奴」といった表情を見せた。この日別れたすぐあとに、一枝からの手紙を秀子は受け取る。それには、こう書かれてあった。「美人に生まれることは、よきかなです。しかし、心のむなしい美は、すぐに厭かれてしまいます。形ばかり美しくなっても、中身のない美人はごめんです。目をたのしませるのも、時間の問題です。ばかなことをいうものではありません。あなたの肉体が弱っているので、そんなことがいえるのです。なぐさめではありません」。この手紙が届いた翌日、秀子は一枝を訪ねた。「昨日のお手紙で、わたしを慰めたり、納得させたとは、まさか思ってはいらっしゃらないでしょうね。わたしがいいたいのは、これまでのあいだ、さんざんご自身を浪費なさったことが残念でならないのです。誰にしても、あなたから愛されることは、喜びだったと思います。おなかの底からきれいな、あなただからです。だが、あなたご自身の仕事が、いくらでも、おできになれる環境にいらっしゃりながら、その才能をお持ちになりながら、あなたは大切なエネルギーを浪費なさった、分散なさってしまったと思うことが残念なんです」。絵や書の製作あるいは小説の執筆こそが一枝が開花させるべき天与の仕事であると感じていた秀子の目には、同性へ向ける一枝の性的指向がエネルギーを浪費、分散させてしまい、その結果、本来の自分の仕事がおろそかになっているように映るのである。一枝はこの痛烈な指摘に抗議した。「あなたは、ひどい。あなたのことだけを思っていたこともあったのに……」。それに対して秀子は、一枝の美質を認めたうえで、次のような言葉を使って、これまでに受け取った恩恵の数々に感謝の気持ちを示したのであった。「わかっています。わたしはあなたから、他の人のように溺愛はされませんでした。だが、どれだけ励まされたか、わからないんです。それだけでよかったのです。もし、あなたがいてくださらなかったら、わたしは生きていられなかった時もありました。わたしは、あなたから、どっさりのことを学びました」223

一九三〇(昭和五)年一月、高群逸枝は平塚らいてうとともに無産婦人芸術連盟を結成した。らいてうは、自伝『元始、女性は太陽であった③』で、こう回顧する。

 昭和五年に、わたくしは高群逸枝さんの呼びかけをうけて、高群さんを中心にして結成された「無産婦人芸術連盟」のメンバーに加わりました。……その機関誌として、雑誌「婦人戦線」第一号が、この年の三月号から刊行されました。……無産婦人連盟の綱領は、次のようなものでした。
一 われらは強権主義を排し自治社会の実現を期す。標語 強権主義否定!
二 われらは男性専制の日常的事実の曝露清算を以て、一般婦人を社会的自覚にまで機縁するための現実的戦術とする。標語 男性清算!
三 われらは新文化建設および新社会発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。標語 女性新生!
 そのころ――いいえ、その後も終始、高群逸枝さんほど、わたくしを惹きつけたひとはありません。ただ、もう無性に好きなひとでした224

このときらいてうは、高群のもつ人間としての情熱の豊かさ、感情表現の自由さに魅了された。それは、青鞜時代の紅吉(一枝)がもっていた魅力と、どこか通底するところがあった。らいてうは、続けてこう書く。

 高群さんを発見したよろこびのあまり、そのころわたくしが手紙形式で描いた文章――それは名前は出していませんが、宛名に富本一枝さんを想定したものでした――のなかで、こんなふうに言っています。
 「わたしはまあなんと高群さんを知ることが遅すぎたのでせう。この国に、しかも同性の中にかういふ人がゐられたとは。わたしの心はまるで久しく求めて、求めて求め得なかった姉妹を今こそ見出したやうな大きな悦びに波打ってゐます。そしてそれはどうやら十数年前、あなたをはじめて知った時のわたしのあの悦びと好奇心とにどこか似通うもののあるのを感じます。……」225

高群は、翌一九三一(昭和六)年に、六月号をもって『婦人戦線』(通計一六号)を廃刊。翌七月、荏原郡世田谷町満中在家の森のなかに研究所兼自宅を建てて、そこへ移ると、世間との交渉を完全に絶ち、女性史研究に入った。こうした厳しく孤独な学究生活のなかから、『大日本女性人名辞書』(一九三六年)、『母系制の研究』(一九三八年)、『日本女性社会史』(一九四七年)、『女性史学に立つ』(一九四七年)、『招婿婚の研究』(一九五三年)といった、女性史研究にかかわる、まさしく前人未踏の学問的成果が生み出されていくのである。この一連の研究について、らいてうは次のように評価する。

 そして、高群さんのこの研究によって、明治四十四年「青鞜」の創刊に際して、わたくしの内部から噴きこぼれるようにして叫ばれた「元始、女性は太陽であった」という言葉に学問的な実証があたえられることになったのです226

一九三六(昭和一一)年一〇月、高群逸枝の『大日本女性人名辞書』が厚生閣から出版されると、数々の新聞紙上での書評に恵まれた。さらにそれに続いて、年が明けた一月、今度は「高群逸枝著作後援会」が発足した。高群は、こう回想する。

 私にとって、いっそう思いがけなかったことは、この出版が機縁となって、先輩知友たちによって、「高群逸枝著作後援会」が生まれたことだった。後援会は平塚らいてうさんと東京朝日の月曜会を主催していられた竹中繁子さんとの発議で、発起人にはつぎの人びとが名を連ねられた227

それによると、発起人は総計六五名だった。そのなかには、らいてうと竹中はもちろんのこと、市川房枝、生田花世、今井邦子、原信子、長谷川時雨、富本一枝、奥むめお、神近市子、野上弥生子、窪川稲子、山川菊栄、丸岡秀子、深尾須磨子、円地文子、佐藤俊子、嶋中雄作が含まれていた。

一九三六(昭和一一)年の『婦人公論』三月号に目を向けると、座談会とは異なる、これまでにない新しい形式の企画が掲載されている。「働く婦人と離婚の問題」という課題に対して、司会の嶋中雄作が、出席している一二人の婦人を順に指名して、即興的に感想を述べさせるという形式であった。参加者の一二名のなかには、今井邦子、宇野千代、奥むめお、市川房枝が含まれていた。一枝は六番目に指名された。与えられた課題についてのこのときの一枝の返答の一部は、次のようなものであった。まず、妻として。

私はやつぱり自分の夫が、たとへばシヤツのボタンが れてゐたりすることは自分の恥だと思ひます。それから しは になつたハンカチをポケツトから見つけた時にはやつぱり自分の恥だと思ふんです228

母親としては、あるいは家族の一員としては、どうだろうか。

それから子供に對しては、自分としてはおそらく一杯の力でやつてるんです、子供に淋しい思ひをさせたくないといふことで。もちろん私は仕事をもつてゐなかつたものですから、たとへば小説を讀むとか、ちよつとしたものを書くとかいつてもそれはすべて家の中だけで出來たことですから、さう皆さんの思つてゐらつしやるやうな苦しみはなかつたんですけれども、それぢや家の中で自分が家族の一人として、妻君としてちやんとやつているかといへば、どこか自分は變つた人間で、なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐるものですから、そういふ點でいつも變な氣持ちになつてばかりゐたんです229

上のふたつの引用から読み取れることは、良妻賢母にかかわる一枝の全き精神であろうか。しかし、「どこか自分は變つた人間で、なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐる」という言葉に隠されている内容は、何だろうか。具体的に伝わってこない。続けて一枝は、このようにいう。「子供に對しては一生懸命で、自分の夫に對しても一生懸命で、それで濟めばいゝんですけど、その上自分に對しても一生懸命というやうな氣持ちがいつもついて廻つてゐる。これを捨てきらうと思つてどれだけ苦労してきたかわからないんですけど、どうしても殺しきれなくて……」230。一枝が「殺しきれなくて」心身にいまだ宿している願望や欲求のようなものとは、一体何なのであろうか。本格的な小説を書くことであろうか。あるいは、マルクス主義のことであろうか。ここからは特段何も読み取れない。しかし、続けて一枝は、このようにいう。「……といって、それぢや他のものを少々削つたらよかろうと思ふんですけれども、それがさつき言つたやうにボタンが一つ除ててゐても自分の責任のやうに思ふと來てるもんですから今はもう首でも縊らなきや始末がつかないやうな氣持で……」231。ここまで読むと、「殺しきれなくて」と一枝がいっている言葉の意味は、実は、女性が女性を愛する性的指向のことではないかとの思いが一瞬脳裏をよぎる。つまり、「ボタンが一つ除ててゐても自分の責任のやうに思ふ」気持ちが邪魔をして、「自分に對しても一生懸命というやうな氣持」、つまり「殺しきれなくて」自分の心身を強く支配する性的指向に、素直に向き合うことができないいらだちを暗に告白しているのではないだろうか。もしこの判断が正しいとするならば、小説執筆の願望も、マルクス主義への憧憬も、いずれもこの段階で、すなわちプロレタリア文学の衰退と軌を一にして、一枝の心身から消えかかっていることを意味するであろう。裏返していえば、確かにこの時期あたりから、積極的に女性を求め、愛し、支える一枝の姿が、さらに一段と際立ちはじめるのである。

すでに安堵村時代に一枝は、一九二一(大正一〇)年の『婦人公論』四月号(六四号)に、白蓮の言動を批判する「伊藤白蓮氏に」を書いている。確かにそうした個人を対象とした批評文の事例はあるものの、一転して千歳村に移ってからは、とりわけ検挙体験以降のこの時期において、一枝は、特定の女性についての印象や作品を好意的に紹介する機会を多くもつようになった。たとえば、「福田晴子さん」(『婦人文藝』一九三五年一一月号)、「宇野千代の印象」(『中央公論』一九三六年二月号)、「仲町貞子の作品と印象 手紙」(『麵麭』一九三六年二月号)、「原節子の印象」(『婦人公論』一九三七年四月)などがそれに相当する。

それでは、各誌に掲載された人物評について、以下に簡単に紹介しておきたい。『婦人文藝』に掲載された人物評のタイトルは誤植されて「福田時子さん」という表記になっており、また同号の目次を見ると、「福田晴子氏」となっている。入稿時の実際の一枝の原稿はどうなっていたのかわからないが、ここでは「福田晴子さん」という題で表記しておきたい。ちなみに、この号には、福田晴子による「文藝時評」も掲載されている。「福田晴子さん」のなかで、一枝は、三年前の正月の初対面のときに、福田に次のような言葉をかけたことを書いている。「あなたは文藝批評家になられるといい。あなたの書かれるものには躊躇と饒舌がない。總括的にいく場合とかく機械的に出たがる女の惡い點があなたにはないやうに思へる。ものを書く女の中にあなたのやうな人は一寸見当たらない」232

一枝は、『中央公論』の「宇野千代の印象」で、「ウソつきのウノさん」とか「ウノさんはイケナイ ひと 」とかいって自己を侮蔑する宇野の、その本質部分に存する、あるがままに生きる美質を褒める。「私が宇野さんに正直さを感じるのは、嘘をついても、人に迷惑をかけても、いくど別の男のひとと暮しても、夫婦でないのに寝ても、拵へごとでない氣がして、その宇野さんとは別に、ひどく誠實で、自己反省の強い宇野さんが感じられてならない」233

『麵麭』に掲載の「仲町貞子の作品と印象 手紙」は、仲町に宛てた手紙形式による一文である。仲町が訪ねて来たときの印象について、一枝はこう書いている。「あなたは静かな方でした。あなたは日本の女の人ではないやうな皮膚や眼や眉をもつてゐらした。私は、普通から見て癖をもつ人間にいつも好意をもつたりひかれるせいか、あなたの髪のかたちまでよく覺へてゐます」234

『婦人公論』に寄稿した「原節子の印象」は、原の美しさを絶賛する言葉でもってはじまる。次は冒頭の一節である。「原節子の美しい顔と美しい整ひをもつからだを見て、何か書かねばならないことは、夢で見た美しいひとのことを想ひ起して書くことがむつかしいことと同じだ。生れながら美しいひとは、得難い寶石で、どこをどんなにほめてよいか、それはただ人の心をうつとりさせ、眺めてゐるだけで充ちたりる」235

それでは、自分の顔については、どうか。「原節子の印象」が掲載された翌月の『婦人公論』に「私の顔」(写真と文)と題した一枝の一文を読むことができる。自身の顔について一枝は、次のような思いをもっていた。「つまらない顔です。私は、自分の顔に確信がないので、寫眞をとることが嫌ひです。凸凹のすくない平たい顔といふものは、陰影がなくてつまらないものです。色艶のわるい、お洒落なんかしてもし甲斐のない顔で、濃い長い睫毛も、微笑を浮べるにいい、そんな唇ももつてゐません」236

一九三六年の『婦人文藝』一一月号には「時事批判座談会」が記録されている。出席者は、富本一枝、深尾須磨子、村岡花子、丸岡秀子、平林たい子、石本静江の六名で、それに加えて、この雑誌の主宰者である神近市子が司会進行役を務めた。座談会は、税制改革案について、上流婦人の問題、退職手當法について、公衆衛生のこと、婦人の虐待、産兒の過剰、流行は制御できるかといった話題に及び、当時の婦人の社会的関心事について広く論議されている。

翌年の一九三七(昭和一二)年一月に、『新女苑』という雑誌が実業之日本社から創刊された。一枝は、この新雑誌の第一巻第三号に「親の態度に就て」(一九三七年三月号)を、次に、第一巻第一二号に「鏡」(一九三七年一二月号)を寄稿した。前者は、両親の無理解と厳格さが一八歳の少女を家出に追い込んだ事件についての論評であり、後者は、妻(うた)に先立たれ、家督を継いだはずの娘夫婦(おそらく四女の貞子夫婦であろう)は理由があって遠方へ行ってしまい、洗礼を受け、寂寥のなかにあった父親(熊太郎)との最期の別れの場面が描写されている。

このように、この時期になると一枝は、母も父も失くしていた。それに代わるかのように、成田穣と結婚した娘の陽に新しい生命が誕生した。そのときの様子を描いたものが、一九三八(昭和一三)年九月号の『婦人公論』(二七八号)に掲載された「明日の若木――娘から孫へ」である。以下はそのなかの一節である。

 かつて私も、私の三人の子供も、それぞれの時代でこれと同じように、親達から頼もしく思はれ、親たちの悦びの中で歩き初めた。ひとりで、急に立つて、歩いて、歩いたことに初めて氣がついて茫然となつて尻餅をついた時、私の母は、そうして私は、自分の子供に降るほど祝福の花をまいてやつたはずだつた。偉いね。偉いね。一人で歩けるやうになつた、手をうつて悦んだのは、もう遠い日の思ひ出になつて了つたが、私から生れた子供が、その子供に私と全くちがはない言葉で、褒めたり悦んでやつてゐるのを聞くと、愛情と言ひきるだけでは足りない感情がこみあがつてくる。私は岱助を優しく膝に抱きあげる。そうして、かう言つた。「よく生れて來てくれた。よく生れて來てくれた」と。だが岱助にこんな言葉はわからなかつた。身體に力を入れて私の膝からずり落ちて、母親のそばへ行つて了つた237

いつの間にか一枝も、孫の顔を見る年齢になっていた。しかし、その一方で、女性への関心は、衰えることはなかった。同年(一九三八年)一一月に双雅房から『新装 きもの随筆』が発行された。そのなかに、長谷川時雨、宇野千代、福田晴子、佐藤俊子を含む多数の執筆陣の随筆に交じって、一枝の「春と化粧」も見出すことができる。擱筆日は「十二年四月」とある。そして、次に引用するものが、最後の一節である。

 私は化粧を否みはしない。却つて化粧せぬことを嫌ひさへする。しかし、化粧といふものは、いよいよ美しくするためのものである。或ひはむしろ、缺點を覆ひ、美點を一層に補ふものだといふ方が、本當かも知れない。流行の如何ではないのである。それに、流行といふものは、一つのヒントだと考へていゝだらう。支配されるべきものでも追ふものでもない。それは終始、自分の持ち味といふものを助長し生かすことのためにとり容れられ、従はされる筈のものにちがひない。
 私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである238

「私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである」という最後の語句は、どういう意味なのであろうか。「私は、夜街を歩くときはいつも、そうした化粧の乙女に出会うことを密かに願っている」くらいの軽い意味であろうか。それとも、「私は、そうした化粧の乙女を見たいという思いをどうしても抑えきれず、夜になると街に出て、歩き回る」といった、積極的な意味が含まれているのであろうか。一枝の女性への関心の度合いがどの程度にもとれる、解釈の幅の広い表現であるといえる。いずれにせよ、これをもって、自分のセクシュアリティー、とりわけ性的指向についての控えめながらも一種の「カミング・アウト」としてみなすことも可能かもしれない。

ここで、安堵村から千歳村へ移住するときに、一枝が『婦人之友』(一九二七年一月号)に書いた「東京に住む」の一節を想起しなければならない。

 神を見る心、ひたすらに信頼する世界、祈り、これを失してゐたことがすべての悩みの根源であることを強く思つた。私は自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ、そこで新しく生まれてこない限り自分達の生活は何度建て直しても駄目であることを知つた。
 こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである。世界が限りなく廣く私達の前に幕をあげた239

すでに、前章の「安堵村での新しい生活」のなかで詳述しているように、自分のセクシュアリティーについて悩んだ一枝は、「自分の心を捨てゝ神の意志を尊く思ひ」、何とかして自分たちの生活を建て直したいと願っていた。しかしながら、「こゝに歸依したことは同時に小さい自我を捨てたことである」という語句と、「私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである」という語句とのあいだには、明らかに大きな溝があることが認められる。このことは、人固有の属性、つまり本性にかかわるものと考えられているセクシュアリティーを、その人の自由な意思によって破棄したり、修正したり、制限したりすることが実際上不可能であることを示しているのであろうか。

一九三七(昭和一二)年一月の『新女苑』の創刊に続いて、一九三八(昭和一三)年一一月には、『文體』というタイトルの雑誌が新たに刊行された。一枝は、この雑誌の第一巻第一号に「 猫兒 ねこつこ (夢)」(一九三八年一一月号)を、続けて第一巻第二号に「少年の日記」(一九三八年一二月号)を投稿した。前者の「猫兒(夢)」は、「私」が引っ越した薄気味悪い部屋に、突然現われた猫の顔をした子どもについての短いお話である。後者の「少年の日記」は、昨日の下校時の生徒の喧嘩を巡っての先生と子どもたちとのやり取りが「僕」の目から描写されている小品である。

こうして一九三八(昭和一三)年が終わると、一九三九(昭和一四)年の『婦人公論』新年号(二八二号)を「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)と一枝の「探偵になりそこねた話」が飾った。「第一線をゆく女性 青鞜社」は、生田花世、長谷川時雨、富本一枝、岡田八千代、平塚らいてう、神近市子の六名がひとつのテーブルを囲み、お茶を飲みながら会話を楽しんでいる写真【図一九】である。だがよく見ると、一枝だけはその輪に加わらず、中央の少し高い所に陣取り、誰がどんな発言をしているのか、聞き耳を立てているようにも見える。何かこれが、青鞜時代から変わらぬ、集団における一枝の立ち位置だったようにも思えてくる。おそらくこの位置が、中心から距離を保ち、周縁から全体を見渡して、人の立ち振る舞いや主張の内容を鋭く観察できる、一枝にとって、最も居心地のよい場所だったのであろう。その意味で、この一枚の写真は、一枝という人間を知るうえでの絶妙の視覚的暗喩となっているといえる。この写真には、平塚らいてうの筆名で、一文が添えられている。「その昔、女も人間だといつて私たちが起ち上つたとき、人たちは眼をまんまるにして驚き、あやしんだ。……今日こゝに集まつた青鞜の人たちの頭にはもう白いものが幾すぢも見え……我が子の話には、いつか孫の噂もまざるやうになつた。でも、 今の ・・ 時代 ・・ のほんたうの理想に最も敏感に、そして勇敢に生き抜きたいとおもふ。これが青鞜魂なのだから」240。上で触れているように、この茶話会の様子が『婦人公論』に取り上げられたのは、日支事変(日中戦争)の勃発から数えて二度目の一九三九(昭和一四)年の新年号であった。「 今の ・・ 時代 ・・ のほんたうの理想」に言及しているらいてうの脳裏には、あるいは、それぞれ一人ひとりの出席者の脳裏には、どのような「理想」が描かれていたのであろうか。

同じくこの新年号に掲載されている「探偵になりそこねた話」は、一枝の子どものころの思い出話である。一枝は義賊や義侠の世界に憧れ、親の目を盗んでは、そうした本を押し入れで読み漁った。当時街には「針金強盗」が出没していたが、いっこうに捕まる気配がない。そこへ「針金強盗」が現われた。一枝は、はやる心で、探偵よろしく、そのあとをつけた。するとその男は、薬問屋の店へと入っていった。何と、人違いだった。

「第一線をゆく女性 青鞜社」(写真)の出席者のひとりで、かつて『女人藝術』を主宰し、引き続き『輝ク』の刊行に尽力していた長谷川時雨が、一九四一(昭和一六)年八月に亡くなった。その後、近代文学研究者の尾形明子は、『女人藝術』を調査するうえから、この雑誌の編集に携わっていた熱田優子に聞き取りを行なう機会をもった。以下は、尾形が聞き書きした、一枝に関する熱田の発話内容である。

すらっとしていたけれど筋肉質でしっかりした体型でね。芸術家の奥さんというより、富本さん自身が芸術家。着物をきりっと粋に着こなしていて、感性が鋭くて趣味もよかった。長谷川さんが亡くなって間もなく遺品展を開いた時、スペインの闘牛士が使うような肩掛け――長谷川さん、お芝居なんかに行く時、それを着物の上からふわっと羽織って、とても優雅だったけど、それを買ってくれてね、その上に白磁の壺を置くのだと言って。でもその後に会ったら黄八丈の着物に巻き付けていて、なんだかジプシー女のような雰囲気でびっくりして。同じショールだなんて思えない。女の人が好きで、横田文子がかわいがられていたわね。それで長谷川さん、私たちにひとりで祖師谷に行ってはいけないよって言っていたけど、大谷藤子さんも親しかったのではないかしら241

上の発話内容は、熱田と尾形のふたりが伝達者として中間に入っており、いわゆる「伝言ゲーム」の危険性が全くないわけではないが、それでも、もし長谷川が、「ひとりで祖師谷に行ってはいけないよ」といって、生前に周囲の人間に注意を促していたことが本当に事実であるとするならば、一枝のセクシュアリティーは、すでに「公然の秘密」となっていた可能性がある。これまでに紹介しているように、丸岡秀子は一枝に「ずいぶん浮気をなさったから、もう思い残すことはないでしょう」といった。佐藤俊子は一枝のことを「相變らずの『氣を揉む』人である」と評した。他方一枝は、自分のことを「どこか自分は變つた人間で、[家族の者に]なにか申譯ないやうな氣持ちが終始してゐる」と内面を吐露した。同じく一枝は、「私はそうした化粧の乙女を見たいと希つて、ある夜も、またある夜も街を歩くのである」と、さらに直接的な表現を用いて、自己に内在する女性への関心の強さを明らかにした。こうした幾つかの言説は、どれもが、ここでいうところの「公然の秘密」への密やかなる言及なのであろうか。そうともいえるであろうし、そう断定すべきものでもないかもしれない。

一方、尾形を介した熱田の発話には、横田文子と大谷藤子のふたりの名前が具体的に挙げられている。ふたりとも、『女人藝術』に連なる小説家である。それ以外にも一枝が関心を寄せる女性がいたかもしれない。すでに言及しているように、この間の一時期、少なくとも一枝と陽は、祖師谷の家を離れて、「澁谷區代々木山谷町一三一」に住んでおり、それについては、一枝が思想的内容の文を雑誌に寄稿することを巡っての憲吉との不和に起因した別居ではなかったのか、あるいは、官憲の監視の目を逃れるための夫婦相談のもとでの一時移転ではなかったのか、あるいは、祖師谷の家の増改築に伴う仮住まいだったのではなかったのか――といった幾つかの観点から推量してきた。しかしここに至って、一枝が「澁谷區代々木山谷町一三一」に住まいをもった理由として、さらに加えて考えられるとすれば、利便性のいい都心に独立した家を設けることによって、こうした女性同士の交流を日常的に円滑に進めることが意図されていたのかもしれなかったし、あるいはまた、一枝の女性を愛する行為を巡って憲吉と対立が生じ、一枝が祖師谷の家を出た可能性も否定することはできない。もっとも、それらを証明するための証拠となる資料はいまのところ見出すことはできず、単なる可能性の列挙に止まっており、その単純形式上の列挙のなかには、もうひとつ、陽の文化学院(お茶の水)への通学、陶の東京音楽学校(上野)への通学――こうしたことへの配慮の結果という可能性も加えることができるであろうし、さらには、平塚らいてうが、息子の敦史が出会った学校教育上での試練というかたちで自伝のなかで語っている、いわゆる「成城騒動」242の渦中にあって、学齢に達した壮吉の成城学園小学校への入学を避けるために、都心に住居を移した可能性も十分に残されている。後年陶は、「弟が母と山谷小学校の近くに住み、私と父がここで[この祖師谷の家で]二人で暮らし、お互いに行き来していた頃がありました」243と回顧している。しかしながら、いつからいつまで、何のために、家族が二手に別れて住んでいたのかについては、陶は何も語っていないし、姉の陽についても、全く触れられていない。おそらく、どれかひとつの理由だけで「澁谷區代々木山谷町一三一」に移転したのではなく、上で挙げた幾つかの理由のなかの幾つかかが複雑に重なり合って別居が決意されたのではないだろうか。しかし、くわしくはわからない。

尾形明子が、一枝に関して熱田優子から聞き取った内容は、自著の『『女人芸術』の世界――長谷川時雨とその周辺』のなかにも、見出すことができる。以下は、その一部である。

[富本一枝さんは]戦後は共産党の方へ傾いて、憲吉さんが相変わらず陶器を作っていると、あなたいつまでもそんなものを作っているとドン・キホーテになるわよと言ったり、もう喧嘩ばかり。別居はそうしたことも原因していたのでしょうね。戦後一時少年ものの出版をしようとしたらしく円地文子さんや私に声を掛けてきましたが、結局そのままでした244

尾形は貴重な聞き取り調査をしているものの、惜しむらくは、熱田の発話内容が正確に読み手に伝わってこない。「憲吉さんが相変わらず陶器を作っていると、あなたいつまでもそんなものを作っているとドン・キホーテになるわよと言ったり、もう喧嘩ばかり」と書かれてあるが、このような富本夫婦の不和を熱田が目にしたのはいつの時期のことであろうか。文頭に「戦後は」とあるので、一般的にはそのように読むのが自然であろうが、しかし、書かれている内容からすれば、その可能性は低く、やはり実際にそうした現場を熱田が直接目撃することができた、『女人藝術』の発行期間中の出来事だったのではないだろうか。また熱田は、この夫婦喧嘩の横にいて、一枝の「ドン・キホーテになるわよ」の言葉の意味をどのように理解したのであろうか。残念なことに、最も重要であると思われる喧嘩の理由について、尾形は聞いていないようであるし、熱田は語っていない。さらに加えれば、「別居はそうしたことも原因していたのでしょうね」とあるが、この「別居」についても、一枝が検挙される前後の一時期の「別居」を指しているのか、それとも、戦後すぐからの永遠の「別居」を指しているのか、これもまた、判然としない。そのあとすぐに「戦後一時」という文字が続くので、先の「戦後は」は、ひょっとしたら「戦前は」の単純な誤植ということはないだろうか。そうであろうとなかろうと、いずれにしても、熱田の証言からわることは、不仲の時期や理由はともかくとして、憲吉と一枝の喧嘩はしばしば周囲の人びとの目に留まり、それが「別居」の一因になったと考えられていたということであろう。

すでに本章の冒頭において紹介しているように、一枝は、一九二七(大正一六)年の『婦人之友』新年号(実際は「昭和二年」の新年号)のために「東京に住む」を執筆し、そのなかで次のようなことを書いていた。

さうして久しい間そこに悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛な感情の幾筋かの路を味ひ過ぎた。さうしてどうにかしてその境地から匍ひ出し、今後の生涯を立派に生き抜かうと決心し、そのためにこれまでの境遇、生活を見事にぶち破つて新しい生活を築きたてたいと思つたその結果へ枝葉の理由が加へられ、東京に住むことゝなつた245

これが、東京移住に際しての、つまりは、千歳村での生活の再生へ向けての、一枝の決意であった。しかしながら、上で見てきたように、憲吉と一枝の不和は、すでに修復不可能な限界近くにまで達していた。一度は、「今後の生涯を立派に生き抜かうと決心」したものの、結果的には、ふたりの関係は、そこから遠いものになっていたといわざるを得ない。一枝にしてみれば、「悩み、嘆き、かなしみ、ありだけの人間らしい悲痛な感情」を乗り越えて、「どうにかしてその境地から匍ひ出し」たかったのであろうが、実際にはそれがどうしてもできなかったことが、不仲の原因のひとつとしてふたりのあいだに潜んでいたのではないだろうか。

「探偵になりそこねた話」を最後に一枝の筆は止まった。一九四一(昭和一六)年一二月、日本はアジア・太平洋戦争へと突き進む。富本家の家族たちも、引き続き、戦時体制下のさらなる過酷な耐乏生活と向き合うことになる。

七.戦時体制のもとで

そののち染織家として大成する志村ふくみが、どういう経緯で一枝を訪問したのかは定かではない。訪れた時期は、一九四二(昭和一七)年に文化学院を卒業する、ちょうどその前後のころだったのではないだろうか。志村の実母の小野とよが、一枝の妹の福美と同じ女学校の同級生で、子ども時代、三人は連れだってよく遊んでいた。偶然に再会した小野が窯出しの日に安堵村の一枝を訪ねたことは、すでに、第五章「安堵村での新しい生活」で述べているが、その娘が、志村ふくみであった。志村は、一枝にはじめて会ったときのことを、こう回想する。

 一、二月の寒い季節で、夫人は白磁の大壺に蠟梅を活けていられた。その頃、十七、八だった初対面の私をみるなり、「まあ、お母様そっくり」と声をあげられて、まず驚いたのは私だった。なぜなら夫人は、私の母にまだ一度も会ったことはなかったからである。夫人の知っている実の母がいるということまで、とっさに私は気づかなかったので、ぼんやりしている間に夫人はあわてて何やらまぎらわしてしまわれた。このことがあってはからずも私は自分の出生を知ることになったが、やはり夫人は私にとって、出会うべきわずかの貴重な存在の方であった246

これ以降、一枝と志村の、そして憲吉と志村の、それぞれの交流が続く。後年志村は、「富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする」展の図録に一文を寄稿する。そのなかで、文化学院について、そして一枝と憲吉についてこう言及している。

その頃、昭和十六年は大東亜戦争がはじまった年だった。午後三時、お茶の水駅に花が降るといわれたほど、文化学院の生徒はお洒落で華やかだった。……偶然にも私を文化学院に導いて下さったのは富本憲吉夫人の一枝さんだった。織物の道に志した時、まず一枝さんに受けた助言は鮮烈で、厳しいものだった。その後、京都に住んでから唯一の師は富本憲吉だった。折にふれ先生の住所をたずね、作品をみていただいた。陶芸と染織の道はことなるが、私は富本憲吉の弟子だとかたく思っている247

また志村ふくみは、別の箇所で、私信に書かれた内容を次のように披露している。若い志村宛に出されたものではなく、おそらくは、実母の小野とよの財力を頼って出されたものであろう。

 やがて東京の祖師ケ谷に移られてからの夫人の手紙に、「壺を買っていただけないでしょうか、富本が最近たった一つ焼いた銀襴手の大壺です。胸まわり一尺以上あります(私は国宝になるほどのものだと思われるほど立派です)」。巻紙に墨をたっぷりふくませて書かれたその文字は、銀襴手の大壺がそこにあるように、堂々と立派で貧しさなど微塵も感じさせないものであるが、「私達は生活のため、今手許にたった一つだけのこして来た大切な壺を売るより道がないのです」とある248

この手紙がいつ一枝から出されたのかを正確に特定することはできないが、松薪が底をつきはじめ、燈火管制もあり、思うように窯に火を入れることができなくなった、一九三七(昭和一二)年にはじまる日支事変(日中戦争)以降のことだったのではないだろうか。

丸岡秀子の挿話のなかにも、こうした生活の困窮を知らせる一枝からの電話の話が出てくる。

「いま、赤貧を洗うが如しなの」と電話があつた翌日には、大きなバラの花束をかかえて訪ねてくる。「きのうの赤貧が、きょうの花束とは」と驚くわたしに、またそんな皮肉を、と睨んだ表情は、貧しさを知らない人だと思わせた249

憲吉にも、手もとが不如意のときがあった。次は、陶磁研究家の小山富士夫の回顧談である。

先生にいつはじめてあったのか記憶しない。東京・祖師谷の工房はまれに訪れたので恐らく昭和五、六年ごろだろう。二度目か三度目におたずねした時貧[乏]書生の私に「君五十銭かしてくれたまえ」といわれ、それをにぎって私と一緒に電車に乗られた。電車賃もない時が富本先生にもあったようである250

しかしその一方で、開戦前後の富本家の家計は、結構潤沢だったようである。後年、長男の壮吉が、このような思い出を語っている。

 第二次大戦が始まったころ、わが家の経済は、かなり贅沢なものであったようだ。高島屋、松坂屋などで催した展覧期は盛況。太平洋戦争が真珠湾で悲劇的な幕を切った時、米国の人の財産が大蔵省から売りに出されたが、父が野尻湖に買った別荘は、その「敵産物件」の一つであった。当時の価格で八千円であったというからともかく大変な贅沢である。その別荘で、中学生の私はただひたすら湖のハヤを釣り……。父が夏休み中励んでいたスケッチの内容について考えることもなく――そしてまた、鯉を釣り……251

憲吉は、この野尻湖で写生をしながら、かつて美術学校の学生だったときに教わった日本画家の川端玉章のことを思い出している。

戦前よく信州の野尻湖の別荘に秋の紅葉を描きに行ったものだが、あるとき、人々が東京に引き揚げた後の静かな境地で写生をしていた。ところがいままでと全然異なった墨色が出た。「オヤッ」と思ってかわくのを待って見たが墨色が変わらぬ。そのとき、こつ然として前述の[川端玉章]先生のことばとともに、ありし日の先生がうしろからのぞきこまれているような思いにかられてゾーッとした252

玉章は、退任前の最後の授業のとき、憲吉のところに来て、「ちょっと起て」といって、一枚の水墨画を描いた。そして、こういっていたのである。

ここに君の描いた絵と、僕の描いたものと二つある。この二つはどちらも、いま描いたばかりだが、僕のは墨がかわいても、いまのぬれたのと同じ効果を持つ。君のはかわくとかさかさになり、焼いたするめのようになってしまう。君と僕の絵のちがいはそれだけだ253

もっとも時局は、もはや憲吉に「静かな境地で写生」を許す状況にはなかった。アジア・太平洋戦争は、一九四一(昭和一六)年一二月八日、マレー半島への上陸とともに、ハワイの真珠湾攻撃にはじまり、その後日本軍の戦線は拡大し続けた。しかし、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、戦局は大きく傾き、南太平洋の日本軍は次々と壊滅の道をたどっていった。神近市子は、米軍による本土空襲が近づく気配を感じていた。「昭和十八年にはいると、英軍がベルリンを夜間攻撃しはじめた。もはやドイツの敗色は濃厚であった。日本では学徒兵が動員され、国民兵の兵役が四十五歳まで延長されて、“決戦はこれからだ”と叫ばれていたが、私は早晩東京もベルリンのように絨毯爆撃の猛威にさらされると考えた」254。疎開の開始である。神近の回想は続く。

そんなとき、私の頭に浮かんだのが、旧知の中溝家のある府下(都制が敷かれたのが昭和十八年)の鶴川だった。そこには、富本憲吉氏が、「ひとりで静かに絵を描きたい」ということで一軒の茅葺き小屋を借りておられたが、氏は、その家をまだ見ていず、家賃の交渉もしていない段階だった。そこで私は富本氏にたのんで、その家を譲ってもらうことになった255

こうして本郷の下宿間を出て、鶴川での神近の疎開生活がはじまった。

詩人の深尾須磨子が祖師谷へ疎開するのも、一枝との縁であった。その経緯から疎開生活中の一枝との交流までが、『わが青春・深尾須磨子』の第三章「祖師ケ谷時代[前期]」のなかに描かれている。著者は高野芳子。高野は深尾との出会いを、こう回想する。「私がはじめて深尾須磨子に会ったのは、昭和十八年二月七日、太平洋戦争がはじまって間もない頃のことであった。誰からの紹介もなしに、おさげ髪の先にリボンを結んだ十七歳の少女は、期待と畏れに胸をはずませて、その扉をたたいた。九州の片田舎の女学校から、女子大に入ってまだ一年もたたない女の子にしては、いささか生意気に過ぎたであろうか」256。深尾、五四歳、詩人としてすでに社会に認められた存在であった。若くして深尾の詩に強い感動を経験していた高野は、この日をきっかけに、しばしば休日になると、高田馬場駅に近い「寂光莊」と呼ばれる深尾の家を訪れるようになった。しかし、「いよいよ、東京空襲がはじまりそうだというので、誰もが疎開をしだした。……『神近市子が鶴川にしたらよいというんだけどねえ』など、考えあぐんでいるうちに、耳よりな情報が入ってきた。富本一枝さん……が知らせてくれた。富本家のすぐ近くに手頃な小屋があいているというのである」257。この小屋には、入り口の引き戸を開けると土間があり、その土間を挟んだ右手に五畳半の和室、左手に八畳の和室がついていた。裏手には、錆びついた手押しポンプとほこりだらけのゴエモン風呂があった。深尾は、一九四四(昭和一九)年の春もまだ浅いある日、この小屋に引っ越し、こうして疎開生活がはじまった。女子大の寮に住んでいた高野も、ほとんど週末にはここへ来て、深尾と一緒に過ごした。

ここへ移ってきて最初のころの話である。ゴエモン風呂がまだ使えない。そこで深尾は、高野を連れて富本家に行き、お風呂を使わせてもらうことになった。以下は、そのときの富本家の人びとの様子についての、高野の観察である。

「ちょうどよい時にきて下さったわ、まあコーヒーでも」と一枝さんに案内されて通された広い洋風の居間には、古びたソファーにもたれた憲吉さん、誰かが床にすわりこんでいたり、椅子にかけていたり、何とも形容しがたいサロン風景に、私は一瞬とまどった。コーヒーの匂い(その頃は珍らしかった)とたばこの匂いがいりまじり、家族でありながら、ひとりひとりが全く別のことを考えているふうな、何かけだるいような、ぜいたくなような、きらびやかだが、重く沈んだ暗さの漂った雰囲気であった。ここには、買出しだ疎開だと戦争にふりまわされている一般庶民のくらしとはかけはなれた別世界の優雅(?)さがあった258

憲吉は、湯上りのふたりを待っていた。「『どうぞ、これを』憲吉さんが手にとって差し出した白地の湯呑は藍で薊のもようがえがかれ、その中に踊るように、須磨子の文字が染付けられていた。……『これは、あなたに』憲吉さんはうすい藍色の美しい玉をひとつ、私の手にのせてくれた」259

一枝と深尾の交流がいつからはじまったのかは、正確に特定できないが、一枝から深尾に宛てた手紙が現存する。「御手紙有難く拝見致しました……いつものなさけない性分で中々気楽に伺へないので 軽部[清子]さんにまたひつぱつて行つて頂かうと考へてゐました お近いうちにおたづね致したく おさしつかへのないかぎりお会ひ下さい 壮吉もきのうから山谷小学校の一年生になりました 校長と受持教師の訓話をきいてゐるうしろ姿をながめながら泪つぽくなつてゐました……陶器のお金おそれ入りました 冨本からもよろしくお礼申して居ります 四月二日 冨本一枝 深尾須磨子様 侍史」260

壮吉が小学校に入学した年であることから判断すると、この手紙が出されたのは、おそらく一九三三(昭和八)年の四月二日だったと推定される。一枝が検挙される四箇月前のことである。また、手紙からわかることは、壮吉が山谷小学校に入学していることである。なぜ、ふたりの姉と同じように、成城学園小学校に入れなかったのであろうか。それは、いわゆる「成城騒動」の余波によるものであったのであろうか。あるいは、別の理由があって都心に移転せざるを得なくなり、その結果として、この小学校へ壮吉を入学させたのであろうか。詳細はわからない。しかし確かなことは、この時期、一枝と陽のふたりだけではなく、壮吉も含めて、あるいは一家全員そろって、「澁谷區代々木山谷町一三一」の家に住んでいたということであろう。それにしても、なぜこの手紙がいまに至るまで残っていたのであろうか。というのも、一枝から深尾に宛てた手紙は、すでにこのときゴエモン風呂の焚きつけにされた経緯があったからである。

次の挿話も、疎開中の出来事についての高野の回想である。このときまでに高野は、深尾のことを「マダム」と呼ぶようになっていた。

「何か、たきつけにつかう紙くずないかしら」「いいものが、ある、ある」マダムは行李いっぱいにつめこまれた手紙類を持ちだしてきた。おどろいたことに、その殆んどが富本一枝さんからのものであった。私は、焚き口に手紙をポンポン投入れて火をつけた。読んでみたい誘惑にかられた。胸をドキドキさせながら、文面に目をはしらせると、「どうじゃ、ようもえとるか」マダムがのぞきにきた。「そんなものを読んではいけない。いいか、封筒に入れたままもすんだ」私はワルサをみつけられた子供みたいに小さくなって、その上に枯枝をくべ、古い柱のきれっぱしをのせた。実によく燃えた。メラメラと燃えあがるほのおをみつめながら、私は、一枝さんの情熱がゴエモン風呂をわかしていることにあわれさを感じた261

また、疎開生活のなかでは、こんなこともあった。深尾は高野芳子のことを「ヨシコ」と呼んでいた。

「深尾さん、まだ起きていらっしゃいます?一枝です、ちょっとここ あけて頂けないかしら」……白い着物をゾロリと着流して、一枝さんは素手に大きな魚を一匹、高々とかかげるようにぶらさげて立っていた。一枝さんの目は少しつりあがり、うるんでみえた。月の光に、青ぐろくヌメヌメと魚のうろこが光り、尾っぽをつかんだ手がこきざみにふるえている。……マダムは殊さらにとりすましたうけこたえをしているが、いっこうに手をだそうとはしない。素手で受けとるには、何やら気味がわるすぎるのだ。私はあかりをつけて急いで大皿を探した。皿にのせてもらった魚は、ずっしりと意外な重さで、なまぐさい匂いが立ちこめた。……「あの方、どうかなさったのかしら」「さっきから 魚をさげて じっとその辺に立っていたのかもしれないよ」「まさか」「ヨシコのことが気になって 気になってしようがないのかもしれない」「どうして?どうしてなの?」「そんなことは分らなくたっていいんだよ。さあおやすみ」と言われても、おいそれと眠れるものではなかった262

その出来事から一夜が明けた。ヨシコは、マダムから同性愛について話を聞いた。ヨシコの回想は、こう続く。

翌日 女と女が愛しあう、いわゆる同性愛について、ギリシヤの女詩人サッフオあたりまでさかのぼって解説してもらえたのは、もうけものだったが、「ほら、以前同居していらした荻野綾子さん、あの方とはどうだったの?」「何が?」「何がって、その…今のおはなしみたいな…」と、ためらいがちに投げてみた質問も、「アホーやなあ、そんな噂を真にうけとったのか」と、軽くいなされた。そうであったのかもしれず、なかったのかもしれず、確証はない。だが、「何もびっくりするには及ばない。そんなこともあるというだけの話だよ。ゆうべのことだって…」といわれても、前夜のできごとが、それとどう結びつくのか、私には判じ難かった263

それにしても、ヨシコは、マダムと荻野綾子の関係を知っていた。どのような経緯で知ったのであろうか。それはわからない。しかし、このふたりの関係は、すでに多くの人が知るところとなっていた。というのも、すでに一九三〇(昭和五)年五月号の『婦人公論』に「同棲愛の家庭訪問」と題した記事が掲載されており、深尾須磨子と荻野綾子、吉屋信子と門馬千代子、金子しげりと市川房枝の三組のカップルの「同棲愛」家庭が紹介されていたからである。深尾須磨子と荻野綾子のカップルについて、訪問者であるその記事の記者は、冒頭、このように書いていた。「一枚の表札に『深尾』と『荻野』が仲よく並んでゐる。晝間なのに格子戸の鍵がかゝつているのは、女ばかりの住居の用心のためであろう。案内を乞ふ聲に應へて出て來たのはステージでお馴染みの荻野さんだ」264。この雑誌が発売されたときは、ヨシコはまだ五歳前後の幼子だったことを勘案すれば、ヨシコがこのことに気づくきっかけは、長じてその後に誰かに聞かされたことによるものであろう。

当時、湯浅芳子と中條百合子(のちに宮本姓)も共同生活に入っていたが、一九二七(昭和二)年一二月の出発から一九三〇(昭和五)年一一月の帰国までふたりはソヴィエトに滞在し、ヨーロッパの各地を旅行していたため、この『婦人公論』の「同棲愛の家庭訪問」の取材対象からはやむなく外されたのかもしれなかった。しかしながら、ふたりが野上弥生子の家ではじめて会って一箇月と少しが過ぎた、一九二四(大正一三)年の五月二一日と二二日にまたがって書かれた湯浅から中條へ宛てて書かれた手紙には、このようなくだりがある。

私の性格のかなり複雑なことはあなたも御存じですが、そのあなたのご存じよりももっともっと私にはこみ入った矛盾だらけの不幸な生れつきがあるのです。生理的には一通り何の欠点もない女ですが、しかも女でいて女になりきれないというところ、(まだまだ言い足りないが)すべての不幸がまず一番ここにあるのではないかとおもいます。
 人生にとって一番意義のある得難く尊いものは何ですか?あなたはなんだとおもいます。芸術ですか、愛ですか。
 その何れにも見離された人間は何を目的に生きるのです。まして私は愛を知らないんじゃない!
 もうやめ、やめ、こんなこと265

湯浅が告白(カミング・アウト)しているのは、明らかに、女が女になりきれない女性の心の性にかかわる精神的苦痛についてであろう。トランスジェンダーを、のちになって「選択」したものではなく、生まれながらにして本人が備え持つ「本性」であるという立場に立つならば、これを自分の意思や努力によって変更したり、捨て去ったりすることはもはやできず、何を目的に生きればいいのかを、自問するも、答えはない。その苦しみを湯浅は率直に中條に訴えているのではないか。こうした性自認(ジェンダー・アイデンティティー)にかかわる同じような心的状況が、深尾須磨子と荻野綾子のあいだにも、あるいは、深尾須磨子と富本一枝のあいだにも、存在していたのであろうか――ヨシコは、同性愛についてマダムから聞く話のなかから、こうしたことについて何か少し読み取ったかもしれないし、全く何も心に残らなかったかもしれない。どちらであったろうか――。

マダムとヨシコの会話は続く。マダムは、憲吉の心情を察して、「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」と、ヨシコに問いかけてみた。

「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」と同意を求められても、何がどうお気のどくなのか見当もつかず、私には返事のしようがなかった。その大きな魚は、“もったいながりや”のマダムも、さすがに食べてみようとは言いださず、庭の隅のいちぢくの木の下に穴を掘って埋めてしまった266

富本家につながる坂を上っていく女たちの姿が、この時期しばしば見受けられた。陽の息子の岱助も、一九四四(昭和一九)年の六月の誕生日で、七歳にまで成長していた。ヨシコと岱助は、なかなかの仲よしだった。「女子大生といっても、一人娘でのんびり育った子供気分のぬけきらない私と、年にしてはオシャマなこの男の子はヘンに気があった」267。あるときのことである。

岱ちゃんと畦道でもち草をつんでいると、富本邸へ上がっていく坂道に、小ぶとりの男の姿が見えた。「あの人ね、男みたいだけど、本当は女なんだよ。名前は、オモべ・ワルコ」もどってから大真面目でマダムにその話をすると、彼女ははじけたように笑いだした。「バカだねえ、岱助にかつがれたりして、あれは、軽部清子なんだよ」と、この風変りな女性の話を一くさりきかされた。作家の大谷藤子さんも、しばしば富本邸への道を上っていった268

そののちヨシコは、画家の堀文子との会話のなかで、「祖師ケ谷の話が出て、ちょうどその頃、堀さんも何回か富本邸へ訪ねてきたことがあるとききおどろいた」269ことも、回想している。

このころヨシコや岱助が目撃した女性はその一部で、一枝が特別に親しくしていた多くの女性たちが、このように、富本家へと続く坂道を上っていったものと思われる。大和の安堵村から東京の千歳村へ移住してこのかた、その真の実態はどうであれ、すでに言及している資料に明確に残っている名前に限って列挙しても、それなりの数になる――深尾須磨子、軽部清子、横田文子、堀文子、大谷藤子。

一九三五(昭和一〇)年の『中央公論』一二月号の「新人傑作集」に所収されている「血縁」が、大谷藤子の作家としてのデビュー作のひとつであろう。一九六三(昭和三八)年に憲吉が亡くなると、ただちに筆を執り、「失われた風景」と題するエッセイに仕上げ、富本家を訪問していた当時を懐かしんだ。「私は戦争中から戦後にかけて、しげしげと富本家を訪ねた。陶芸家として第一人者である先生を訪ねたのではなく、夫人と親しくしていたからだった。ときどき泊まり込んだりした」270。大谷は、泊まり込んだ翌日のある朝のことを鮮明に記憶していた。

 私はいまでも思い出すが、富本家に泊った翌朝早く、近くの雑木林を歩きまわったことがある。朝霧が丘にたなびいて、すがすがしい初夏の季節だった。私の着物は朝露にしっとりと濡れ、みづみづしく照り映えた若葉の香りがあたりにたちこめていた。私はその香りをなつかしみ、ほっとひと息つくような思いだった。なんという静かな自然のたたずまいだろう。私は心のやすまるのをおぼえた。そのとき先生[憲吉]の仕事場になっている建物のあたりに人影が見えた。遠くから眼を凝らすと、それはたしか先生だった。こんなに朝早く、中止しているはずの仕事場に先生は入っていくのだろうか。邸から道を距てたところにある小づくりな建物が先生の仕事場になっていた。私が近づくと、先生はうつむいて、ろくろをまわしておられた271

大谷の記憶はまた、当時の憲吉と一枝の研ぎ澄まされた神経のありようにも向かう。

 先生[憲吉]も夫人[一枝]も神経が鋭く、ハラハラするようなことがあった。二人は同質の神経をもっていて、不意に鋭く研ぎすまされてカチあうときがあると私には思われた。美を理解する高度の神経をもっている二人は、その点では類いなく似合いの夫婦だった。夫人は直観力の鋭さで、先生よりも或いは純粋な美の理解者であったかも知れない。夫人は心の芸術家だった。しかし先生は現実に仕事をしていて、美を表現するための苦しみをしているということで夫人とはちがっていた。……しかし二人の神経が研ぎすまされてカチあうのは、多くは愛情の問題だった。二人は少しも妥協しなかった。……二人はもとめすぎ、少しでも疑惑のある愛は許すことが出来なかった。それが疑心暗鬼でも神経が研ぎすまされた。美を追求する同じ神経の純粋さで、たち向かうのだった272

大谷の観察するところによれば、憲吉と一枝が「カチあう」のは、憲吉の作品を巡る評価についてというよりは、むしろ「多くは愛情の問題」であり、ふたりとも「少しでも疑惑のある愛は許すことが出来なかった」。それでは、その「少しでも疑惑のある愛」とは、一体、何を指しているのであろうか。それについて大谷は、具体的には何も語っていない。

ところで長男の壮吉も、一九四四(昭和一九)年の一月の誕生日で、一七歳にまで成長していた。七歳の孫の岱助が、軽部清子のことを「オモべ・ワルコ」と呼ぶくらいだから、当然息子の壮吉も、母親一枝を頻繁に訪ねてくる女友だちについて、さらには、修復の見込みがもはや期待できそうにない憲吉と一枝の夫婦関係について、何らかの強い思いを抱いていたであろう。学友に、西部グループの創業者の堤康次郎を父にもつ堤清二がいた。清二は、自分の出生にかかわって悩みをもっていた。そうしたことから、壮吉と清二のふたりは接近し、終生の友となる。壮吉は、自分の苦しみを清二に打ち明ける機会をしばしばもったことであろう。清二は、それを自分の問題と重ね合わせて、共有しようとしたにちがいない。戦後大学を出ると、壮吉は映画監督の道を選び、一方清二は、実業家として腕を振るうとともに、「辻井喬」の筆名で文芸の世界に入り、壮吉が亡くなると、その鎮魂歌ともいうべき作品「終りなき祝祭」を上梓するのである。著者の辻井喬は、その「終りなき祝祭」の「序章」で、「壮吉は終生、両親の関係を映像化することを願い続けていた」273と述べ、壮吉の助監督を長年務めていた人物から聞いた話として、以下のことを紹介する。

その助監督の話とは彼[壮吉]が三島由紀夫の短篇を素材にした作品を撮っていた時のことである。夜、ロケーションの先の宿舎で酒が入った時、
「僕ね、同じ三島由紀夫の原作でも『午後の曳航』の方を撮りたかったんだ」と言い出した。この『午後の曳航』のクライマックスは、母の情事を少年が隣室の腰板の穴から覗く場面なのである。助監督が「自分も読んでいる」と答えると、
「あの少年と同じ経験しているんだ。もっとも僕の場合、相手は女性なんだよ、男じゃない、父親はほったらかしにされて、一晩中部屋の中を歩いている。そんな両親の様子を僕が見ている」と彼[壮吉]は言った274

それでは、三島由紀夫の「午後の曳航」のクライマックスの場面に対応して、辻井喬の「終りなき祝祭」では、その場面が、どうのように描かれているのであろうか。主人公は田能村壮吉。その父親は善吉、母親は文。勤務していた学校の生徒を連れて飛騨高山に疎開していた善吉が、途中で一度東京の自宅にもどる。着いたのは夏の夜の一〇時に近かった。玄関から入ろうとしたが、家のなかは静まりかえっている。秩父の知り合い先へ疎開したのかと思い、善吉はそっと庭先に回ってみた。

 床まである上部がガラスの戸が開いたままになっている。善吉は留守のあいだに草がずいぶん伸びたと思った。部屋のなかには中空に上った月の光の奥になっていてよく見えない。蚊帳が吊ってあるのが分った。夜具が白く浮上ってくる。人が浴衣を着て寝ている姿がぼんやりと見えてきた。声を掛けようと一歩踏み出して善吉は思いとどまった。彼女の動きが不自然なのだ。と、腕のようなものが、白い浴衣の肩を捕えた。寝ているのは一人ではない。小さい呻き声が聞え、それを制止するような囁きが続いた。……「誰ですか、あんたは」文の怯えた声があがった。……隣の部屋から誰かが起きたらしく、そっと、部屋の奥に入ってきた。壮吉らしかった275

著者の述べるところによれば、「終りなき祝祭」は、壮吉が死に向かう病床で書き残した手記が土台になっている。手記自体は公表されていないので、正確には何もわからない。これまでの自分の人生のなかにあって壮吉が受け止めた、消しがたい強固な思いが反映されているだろうと想像される反面、心身の衰弱とあいまって、正確な記憶が徐々に溶解した内容となっている可能性もあるのではないだろうか、とも思われる。いずれにしても、手記の実態は別にして、「純文学書下ろし特別作品」という文字が添えられたこの「終りなき祝祭」は、あくまでも創作という虚構空間での出来事の描写であり、したがって、描かれている内容がすべて真実あるとは限らない。おそらくは、そのほとんどが絵空事であろう。しかしながら、内容や形式はどうであれ、生前公に口に出せなかった苦悩の実相を、あるいは逆に、何としてでも口に出したかった苦悩の残像を、没後、本人に代わって、友人の筆をして語らしめた真の力は、それは一体何だったのであろうか。「手記を読み終った時、私には田能村善吉と妻の文の愛憎の構造をはっきりさせることが、旧友の心を慰める一番の方法のような感じがしてきた」276。この言葉で「序章」は終わり、「第一章」の田能村文の検挙の場面から物語ははじまる。

戦局が深まるにつれて、憲吉の製陶はほとんど中断されていたものと思われる。そうしたなか、一九四三(昭和一八)年五月四日の東京朝日新聞は、三年前に偶然にも中宮寺の倉庫から発見された青銅造りの釈迦誕生仏を収納する厨子が、二年余の歳月を経て完成し、このほど寄進されたことを報じている。「中宮寺・お釈迦様の喜び 華麗なる厨子を寄進 昭和美術の粹を凝縮」との見出しがつけられ、記事のなかに、「佛陶器は富本憲吉氏が製造」277の文字がみられる。

その一年後、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』によると、「昭和十九年五月、文部省は突如本校改革を断行し、校長および教官の更迭を行なった。これは、明治三十一年の所謂美校騒動以来の大きな改革であった」278。この改革の流れのなかにあって、一九四四(昭和一九)年五月二九日、東京美術学校は、結城素明、六角紫水、朝倉文夫を含む九名の教授の依頼免本官と富本憲吉、安井曾太郎、梅原龍三郎を含む七名の教授任命を文部大臣に上申した。教授就任にあたって、憲吉は、「私は教育に携るなどその任でないかも知れぬ。一陶工としての生活が全生命であり、それすら満足に果たせない始末なので、一應御斷りしたのであるが、情勢は一私事に拘泥する秋でもなし、私として兼々圖案といふものに對して考へてゐたこともあるので御引受した次第である」279と前置きしたうえで、次のように抱負を語っている。

 工藝の根本内容は圖案にあるのであつて、個々専門の技術はそこから生れる表現手段であると考へる。立派な圖案が出來れば立派な工藝は生れる、と私は信じてゐる。その根本となる圖案力の養成を目的として、工藝部全般の圖案教育を私は受持ちたいと思つてゐる280

このように憲吉は、工芸を構成する木工、金工、染織、塗装(漆など)、窯業などの「個々の専門技術」の根本に「圖案」という概念を据え、その養成を目的とした「圖案教育」に強い意欲を示す。ここに、今日につながる「デザイン」と「デザイン教育」の黎明を認めることもできるであろうし、そしてまた、そうした憲吉の考えは、いわゆる「民芸」との違いを必然的に浮き彫りにしたであろう。

続く七月一四日、憲吉は、工芸技術講習所の兼任を命じられた。この工芸技術講習所は、同じく『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』によると、さかのぼる「工芸研究所」、続く「工芸指導員養成所」の設置計画を踏まえて、一九四〇(昭和一五)年一一月一四日に勅令として官制公布され、翌年一月に開所した。開所して一年後の一九四二(昭和一七)年四月には、岐阜県高山市において第一回出張講習教室が開かれ、当地で、主として木材工芸、飛騨春慶塗、陶磁器製作等の実技体験の機会が生徒たちに与えられた。一九四四(昭和一九)年の高山出張講習教室は、五月一日から九月末日にかけて実施され、兼任の発令を受けて憲吉も参加し、指導にあたった。これ以降も、憲吉の東京と高山の往復が続く。

B29型長距離爆撃機による本土空襲は、一九四四(昭和一九)年六月の北九州爆撃からはじまり、一一月には、東京がはじめての爆撃に見舞われた。以下は、神近市子の回想である。

 私の思ったとおり、翌一九年六月、サイパン島の守備隊が玉砕し、そこを基地としたB29が十一月から本土の爆撃を開始した。都市での食料事情も極度に悪化した。私は家の裏に七羽の鶏を飼ったが、そのわずかな卵さえ、買出しにやってきた富本一枝を狂喜させるような時代になってしまった。
 「まあ、きょうは九つもある。二つは茹でて私が食べる。あとの七つは病気の息子に持っていってやるわ」
 彼女は入口の戸をガラリとあけるより早く、物置小屋の中をのぞいて甲高い声をあげるのだった281

こうした一枝の買い出しに、しばしば大谷藤子も同伴した。一枝の戦時スタイルがおしゃれだったことが、大谷の記憶に残っているし、何よりも一枝は、大谷にとって不思議な魅力をもつ存在であった。

 私は夫人に誘われて食糧の買い出しに出かける日が多かった。電車で三十分ばかり乗り、それから一里の道を歩くのである。低い山々の間にある村の街道を、長身の夫人は網袋をしょって軽快な足どりで歩いて行った。私は夫人がそのころ人々の日用品になっていたリュックサックをしょっているのを見たことがない。麻のしゃれた網袋の中には食糧を包むための風呂敷や袋がいれてあるのだった。……夫人は不思議な魅了があって、そばにいると私を仕合せな気持ちにさせた。「神近さんのところへ寄りますよ」282

往復二里の買い出しの帰りに、ふたりして神近市子の家に立ち寄り、一休みすることもあった。「『お茶だけでなく、何かお出しなさいよ』夫人は神近氏にこう言ったりして、のびのびとした。……『これいつあげましたか』夫人はそんなことを言いながら、お菓子皿をとりあげてつくづく眺めたりした。……その[神近の住む]農家も、後になって空襲で焼けた。……『ほんとうに丸焼けですよ』夫人は気の毒そうに言って、とりあえず衣類などを行李につめて届けるのだった」283

一枝が大谷と一緒に買い出しに行った帰りに立ち寄るとき、神近は、若き日の自分と尾竹紅吉(一枝)との女同士のかかわりを思い出したかもしれなかった。のちに神近は、雑誌のインタビューに答えて、このようなことを告白している。

 また、尾竹紅吉のことですが、平塚[らいてう]さんと同性愛だったというお話があります。それで奥村博さんの出現かなにかで、尾竹さんが平塚さんに反感をもつことがあるんです。そのときに、精神的な同性愛というようなものでしょうね、尾竹さんが私に密着していたことがあったのです。で、あそこに来いとか、あそこに移ってこいとか、だから私は彼女の家に、一ヶ月ぐらい泊まっていたことがあります284

空襲が激しくなってくると、村々を訪ねて食料を調達するこうした買い出しの生活も限界に達し、米軍が投下する焼夷弾から命を守るために、富本家も、祖師谷の家を離れ、疎開を余儀なくされた。大谷は回想する。「富本さん、家中で秩父の私の実家に疎開してみえたりしました」285

一九四五(昭和二〇)年に入ると、戦局はさらに悪化の一途をたどった。三月一〇日、焼夷弾一九万個の投下により約十万人が焼死した。東京大空襲である。そうしたなか、三月二三日の東京朝日新聞は、「神鷲へ陶畫集献納」の見出しをつけて、このような記事を掲載した。

帝国藝術院會員富本憲吉氏はわが陸海特別攻撃隊神鷲の盡忠精神に感激、丹精こめて描いた日本の花々の陶畫を特攻隊宿舎に贈るため、各十枚一組の陶畫集をこのほど陸海軍大臣に献納した286

自分が教える生徒と同じ年ごろの特別攻撃隊員が国のため若くして南の海に散っていく姿が、いたたまれない思いに憲吉を駆り立てていったのであろう。憲吉は、この大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)について、どのような思いをもっていたのであろうか。直接その思いを表明した資料は、見出せない。しかし、若かりし日、ロンドン留学から帰国し、欧州で戦争がはじまると、かの地の友人に思いを馳せ、次のような考えを開陳していた。

 世界は大戰の波に渦まき、フツトボールの競技に號外を以て熱狂せしロンドンは今如何にして野蠻にして禮を知らぬ新興の國を打たむとはする。われに禮をおしへ義を開發せしわが友は如何に又何處にあらむ。血と劍は争ひの最後の手段にして第二位に屬すべきものなる可し。最後にして第一位にあるものは藝術なる可し。友よ健闘せよ、第二位も第一位も皆藝術家にして戰士なる汝の手にあり287

この思いが、変わることなく温存されていたとするならば、芸術こそ最上位に位置すべき営みであり、戦争は最後の手段であるも、はじまった以上は、奮闘しなければならない――このとき憲吉は、このような受け止めをしていたのではなかろうか。

この時期、もはや東京での工芸技術講習所の教育活動は困難となり、それに代わって、本拠地を高山へ移し、そこで活動が続けられることになった。あわせて東京美術学校所蔵の美術品の一部もこの地に搬入された。いわゆるこれが、「高山疎開」と呼ばれるものである。憲吉は、このときの飛騨高山での生活をこう振り返る。

 なにはともあれ、まず窯だけは一つ確保した。地元の渋草焼きという古くからある窯を一つ借りたわけである。これで一応、曲がりなりにも授業を進めることにしたが、しかし、実際にはなかなか講義どころではなかった。疎開して一ヵ月もたたぬうちに、全員栄養不良になってしまったのである。……その間、私も食糧確保には活躍した。……高山に学級疎開したのは終戦の年の四月から九月まで、ほんの短い期間であった。十五、十六人の教官と学生が、ともかく“美”を目的として、あの戦争の最中を半年間、窮乏に耐えながら生活したのである。……講義らしい講義もなく、夜になると、炉端で車座になって私が工芸や美術の話をして聞かせた。学生たちもよろこんで聞いたし、私も話をするのが楽しかった288

一方、教育者としてのこのときの憲吉について、『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』は、次のように記している。

 さて、富本憲吉は終戦直前の最も困難な時期に講習所主事として運営に尽力した。上野直昭の日記によってもその奔走ぶりが推察できる。芹沢銈介や稲垣稔次郎を迎えて染織部門も開拓しようとしたようである。昭和二十年初頭に彼が講習所のために立てた左記の計画書も残っている289

この計画書を見ると、あたかもバウハウスにおけるデザイン教育のごとくに「基礎教育」と「完成教育」に分けられ、ともに実技と学課で構成され、その統合されたところの教育目標が、はっきりと「意匠能力ノ養成」「計画能力ノ養成」「実技能力ノ養成」の語句で表現されている。これこそが、憲吉が教授に就任するに際して抱負として語っていた「圖案教育」の理想を体現するものであったにちがいない。しかし、実現することはなかった。

一九四五(昭和二〇)年四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦した。八月一五日、終戦のこの日を憲吉は岐阜県の飛騨高山で迎えた。一枝たちは、大谷の実家のある埼玉県の秩父で――。すべてが終わった。憲吉五九歳、一枝五二歳の暑い夏だった。

(二〇一七年)

第二部 第六章 図版

(1)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、61頁。

(2)同『私たちの成城物語』、同頁。

(3)高井陽「新装復刻にあたって」、富本憲吉『窯邊雜記』文化出版社、1975年、6頁。

(4)「富本憲吉模樣集」広告、『東京朝日新聞』、1927年2月5日、1頁。

(5)富本一枝「東京に住む」『婦人之友』第21巻第1号、1927年新年号、108頁。

(6)濱田庄司『無藎蔵』講談社文芸文庫、2000年、265頁。

(7)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、132頁。

(8)同『製陶餘録』、132-133頁。

(9)同『製陶餘録』、133頁。

(10)同『製陶餘録』、同頁。

(11)同『製陶餘録』、同頁。

(12)同『製陶餘録』、135頁。

(13)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、44頁。

(14)同『窯邊雜記』、123-124頁。

(15)柳宗悦「富本と模樣」(「富本憲吉模樣集」広告)『東京朝日新聞』、1927年2月5日、1頁。

(16)富本陶・海藤隆吉「父を語る[富本憲吉]」『季刊銀花』第125号、2001年、35頁。

(17)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、210-211頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載。]

(18)同『私の履歴書』(文化人6)、211頁。

(19)前掲『私たちの成城物語』、62頁。

(20)水原秋櫻子「祖師谷の客間」『陶説』36号、1956年、77頁。

(21)海藤隆吉「祖師ヶ谷の家」『富本憲吉のデザイン空間』(展覧会図録)、松下電工汐留ミュージアム編集、2006年、7-8頁。

(22)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、93頁。

(23)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、254-255頁。

(24)同『元始、女性は太陽であった③』、261頁。

(25)らいてう「砧村に建てた私たちの家」『婦人之友』第21巻第1号、1927年新年号、103頁。

(26)南八枝子『洋画家南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年、56頁。

(27)前掲『私たちの成城物語』、41頁。

(28)同『私たちの成城物語』、42-44頁。

(29)同『私たちの成城物語』、72頁。

(30)前掲『私の履歴書』(文化人6)、210頁。

(31)『国画会 八〇年の軌跡』国画会、2006年、11頁。

(32)前掲『製陶餘録』、69頁。

(33)同『製陶餘録』、69-70頁。

(34)同『製陶餘録』、70頁。

(35)富本憲吉「國展工藝部に就て」『美之國』第4巻第6号、1928年、26頁。

(36)富本憲吉「武蔵野雜草譜」『みずゑ』第282巻、1928年8月号、13頁。

(37)富本憲吉「薊」『美之國』第98号、1933年7月号、55頁。

(38)濱田庄司『無盡蔵』講談社、2000年、270-271頁。

(39)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、75-76頁。口述されたのは、1956年9月12日。

(40)前掲『私の履歴書』(文化人6)、218頁。

(41)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(42)同『私の履歴書』(文化人6)、219頁。

(43)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(44)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(45)同『私の履歴書』(文化人6)、219-220頁。

(46)同『製陶餘録』、207-213頁

(47)『東京朝日新聞』、1930年5月19日、6頁。

(48)前掲『製陶餘録』、191-192頁。

(49)同『製陶餘録』、192頁。

(50)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、67頁。

(51)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、116-117頁。

(52)Tanya Harrod, The CRAFS in BRITAIN in the 20th Century, Yale University Press, 1999, p.128

(53)Ibid.

(54)富本憲吉「英國に行く富本憲吉氏の陶器」『婦人之友』第25巻第4号、1931年4月号、142-143頁。なお、この寄稿文の題名は、目次においては、「英國に行く私の陶器」となっている。文末には「富本憲吉」の署名もみられる。そうしたふたつ点からして、この寄稿文の題名としては、目次に掲載されている「英國に行く私の陶器」の方が、よりふさわしいものと思われる。

(55)前掲『無藎蔵』、269頁。

(56)前掲『私の履歴書』(文化人6)、200頁。

(57)同『私の履歴書』(文化人6)、220頁。

(58)富本憲吉「陶片集(二)」『新科学的』第3巻第6号、1932年、41頁。なお、この引用文は、次の資料にも見ることができる。富本憲吉「陶片集」、日本民藝美術館編『雜器の美』(日本民藝叢書第壹篇)、工政會出版部、1927年、78頁。この書籍の復刻版は下記のとおりである。森仁史監修『雑器の美』(叢書・近代日本のデザイン51)、ゆまに書房、2013年。

(59)前掲『製陶餘録』、113頁。

(60)同『製陶餘録』、114頁。

(61)前掲『国画会 八〇年の軌跡』、11-12頁。

(62)『東京朝日新聞』、1933年4月29日、9頁。

(63)同『東京朝日新聞』、同頁。

(64)前掲『製陶餘録』、175-176頁。

(65)同『製陶餘録』、181頁。

(66)同『製陶餘録』、184頁。

(67)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 314.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、405頁を参照]

(68)Ibid., p. 76.[同『東と西を超えて――自伝的回想』、71頁を参照]

(69)富本憲吉「赤津にて」『塔影』第11巻第4号、1935年、47頁。

(70)同「赤津にて」『塔影』、47-48頁。

(71)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、213頁。

(72)同『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、214頁。

(73)蔵原惟人『藝術論』潮流社、1950年、13-14頁。

(74)同『藝術論』、15頁。

(75)同『藝術論』、29頁。

(76)同『藝術論』、45頁。

(77)富本一枝「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」『女人藝術』第2第7号、1929年、4頁。

(78)富本一枝「洋服の布地は自由に選びたい」『婦人公論』第166号、1929年6月、206頁。

(79)富本一枝「米を量る」『火の鳥』第3巻第9号、1930年9月、50頁。

(80)前掲『私たちの成城物語』、83頁。

(81)富本一枝「共同炊事に就いて」『婦人公論』第183号、1930年11月、217頁。

(82)同「共同炊事に就いて」『婦人公論』、216-218頁。

(83)富本一枝「哀れな男」『火の鳥』第5巻第4号、1931年4月号、2頁。

(84)同「哀れな男」『火の鳥』、7頁。

(85)同「哀れな男」『火の鳥』、13頁。

(86)富本一枝「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」『女人藝術』第4巻第7号、1931年7月号、68頁。

(87)「尾崎行雄先生に話を聽く」『婦人画報』第338号、1933年8月号、64頁。

(88)前掲『私たちの成城物語』、183頁。

(89)同『私たちの成城物語』、同頁。

(90)同『私たちの成城物語』、63-64頁。

(91)同『私たちの成城物語』、65頁。

(92)「美術界 昭和二年九月」『みずゑ』第271号、1927年9月、40頁。

(93)前掲『元始、女性は太陽であった③』、298-299頁。

(94)同『元始、女性は太陽であった③』、300頁。

(95)同『元始、女性は太陽であった③』、301頁。

(96)前掲『製陶餘録』、48頁。

(97)前掲『私たちの成城物語』、65頁。

(98)同『私たちの成城物語』、202頁。

(99)同『私たちの成城物語』、74-75頁。

(100)同『私たちの成城物語』、62頁。

(101)同『私たちの成城物語』、63頁。

(102)同『私たちの成城物語』、同頁。

(103)前掲『製陶餘録』、190-191頁。

(104)前掲『窯邊雜記』、129頁。

(105)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、114-115頁。

(106)高井陽「アザミの花――母(富本一枝)、父(富本憲吉)の断片」、高井陽・折井美那子『薊の花――富本一枝小伝』ドメス出版、1985年、9-10頁。

(107)帯刀貞代「富本一枝さんのこと」『新婦人しんぶん』、1966年10月6日、3頁。

(108)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(109)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(110)同『色絵磁器〈富本憲吉〉』、同頁。

(111)辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、2頁。

(112)前掲『洋画家南薫造 交友関係の研究』、115頁。しかしながら、同書の14頁には、「南の日記には富本の時々の来訪が記されているが、昭和8(1933年)2月8日に白瀧[幾之助]の61才の祝賀の相談に南を訪れている。同年7月4日、南は妻と山谷の富本の新居を訪問しているが、夫妻とも留守だったという」という記述がみられる。したがって、こちらが正しければ、南夫妻が山谷の富本夫妻を訪問したのは、昭和7(1932)年7月4日ではなく、昭和8(1933)年7月4日となる。

(113)『東京朝日新聞』、1933年8月19日夕刊、2頁。「母といれ違ひに今度は娘を檢擧 富本一枝夫人釋放」が見出しで、記事は、「澁谷區代々木山谷町一三一國畫會員で工藝美術家富本憲吉氏の夫人一枝(四一)は、去る五日、輕井澤の避暑先から歸京した所を代々木署に檢擧され、警視廰特高課野中警部の取調べを受けてゐたが清算を誓つたので十八日朝釋放され、二週間振りに自宅に歸つたが、『母歸る』の喜びも束の間、今度は一枝の長女、文 ママ 學院二年生陽子(一九)が十八日朝母と入違ひに代々木署に檢擧され、目下取調べを受けてゐる 母が早くも思想的轉向したとも知らず依然彼女を回つてゐた思想的關係の嫌疑によるものと見られてゐる」が全文である。

(114)『東京朝日新聞』、1934年7月18日、11頁。

(115)『週刊婦女新聞』、1933年8月13日、2頁。

(116)『週刊婦女新聞』、1933年8月6日、2頁。

(117)『週刊婦女新聞』、1933年7月30日、2頁。

(118)『週刊婦女新聞』、1933年8月20日、2頁。

(119)『週刊婦女新聞』、1933年8月27日、2頁。

(120)座談会「母として目覺めらなければならない時相」『女人藝術』第5巻第1号、1932年1月号、12頁。

(121)同座談会「母として目覺めらなければならない時相」『女人藝術』、16頁。

(122)同座談会「母として目覺めらなければならない時相」『女人藝術』、17-18頁。

(123)やまさき・さとし「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』ほるぷ出版、1978年、565頁。

(124)同「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』、570頁。

(125)蔵原惟人『藝術書簡』新日本文學會、1950年(再版)、5頁。この書簡集には、一九三二年七月から一九四〇年八月までの獄中から出された書簡が所収されており、大半は、村山籌子宛てのもので、内容は、獄中生活の様子や差し入れ(主に書籍)の依頼などとなっている。

(126)村山知義『演劇的自叙伝3 1926~30』東邦出版、1974年、424頁。

(127)同『演劇的自叙伝3 1926~30』、424-425頁。

(128)前掲「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」『女人藝術』、67頁。

(129)前掲『演劇的自叙伝3 1926~30』、429頁。

(130)同『演劇的自叙伝3 1926~30』、同頁。

(131)前掲「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』、624-625頁を参照。

(132)同「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』、627頁を参照

(133)『週刊婦女新聞』、1933年8月27日、2頁。

(134)平塚雷鳥「女性共産黨員とその性の利用」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、132頁。

(135)同「女性共産黨員とその性の利用」『婦人公論』、133頁。

(136)野上彌生子「平凡なことか」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、138頁。

(137)窪川いね子「何れの矛盾か」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、142-143頁。

(138)同「何れの矛盾か」『婦人公論』、143頁。

(139)『東京朝日新聞』、1934年7月18日、11頁。

(140)前掲『製陶餘録』、97頁。

(141)前掲『洋画家南薫造 交友関係の研究』、115頁。

(142)前掲『私たちの成城物語』、72-73頁。

(143)『東京朝日新聞』、1935年5月29日、1頁。

(144)同『東京朝日新聞』、同頁。

(145)同『東京朝日新聞』、2頁。

(146)前掲『私の履歴書』(文化人6)、212頁。

(147)同『私の履歴書』(文化人6)、212-213頁。

(148)『東京朝日新聞』、1936年6月13日、11頁。

(149)『東京朝日新聞』、1937年6月24日、2頁。

(150)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(151)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(152)同『私の履歴書』(文化人6)、214-215頁。

(153)前掲『製陶餘録』、64-65頁。

(154)同『製陶餘録』、139-140頁。

(155)同『製陶餘録』、140-141頁。

(156)同『製陶餘録』、107頁。

(157)同『製陶餘録』、109頁。

(158)同『製陶餘録』、108頁。

(159)同『製陶餘録』、134頁。

(160)『東京朝日新聞』、1935年11月20日、5頁。

(161)前掲『私の履歴書』(文化人6)、214頁。

(162)同『私の履歴書』(文化人6)、215頁。

(163)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(164)同『私の履歴書』(文化人6)、215-216頁。

(165)同『私の履歴書』(文化人6)、216頁。

(166)『東京朝日新聞』、1936年10月10日(夕刊)、7頁。

(167)『東京朝日新聞』、1936年10月14日(夕刊)、5頁。

(168)中村精「富本憲吉と量産の試み」『民芸手帖』178号、1973年3月、36頁。

(169)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、10頁。

(170)同座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』、12頁。

(171)『柳宗悦全集』(第14巻)筑摩書房、1982年、6頁。[初出は、「工藝美術家に告ぐ」『大阪毎日新聞』(京都版附録)、1931(昭和6)年1月6日および7日の紙面に掲載。]

(172)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年、27頁。

(173)前掲『製陶餘録』、80-81頁。

(174)壽岳文章『壽岳文章書物論集成』沖積社、1989年、475-476頁。[初出は、「ヰリアム・モリスと柳宗悦」『工藝』50号、1935年。]

(175)『東京朝日新聞』、1936年3月25日、11頁。

(176)前掲『国画会 八〇年の軌跡』、12頁。

(177)前掲『元始、女性は太陽であった③』、319頁。

(178)前掲『製陶餘録』、91-92頁。

(179)同『製陶餘録』、90-91頁。

(180)同『製陶餘録』、95頁。

(181)同『製陶餘録』、同頁。

(182)同『製陶餘録』、95-96頁。

(183)『東京朝日新聞』、1938年11月8日、6頁。

(184)前掲『製陶餘録』、「序」1頁。

(185)『東京朝日新聞』、1940年9月9日、3頁。

(186)『東京朝日新聞』、1940年11月2日(夕刊)、2頁。

(187)『東京朝日新聞』、1940年11月16日、3頁。

(188)『東京朝日新聞』、1941年6月28日、4頁。

(189)前掲『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、245頁。

(190)『週刊婦女新聞』、1934年7月30日、2頁。

(191)前掲『元始、女性は太陽であった③』、283-284頁。

(192)「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』第357号、1934年11月号、83頁。

(193)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、同頁。

(194)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、80頁。

(195)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、82頁。

(196)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、84頁。

(197)富本陽子「明日」『行動』第3巻第3号、1935年、240-241頁。

(198)同「明日」『行動』、243頁。

(199)同「明日」『行動』、同頁。

(200)同「明日」『行動』、243-244頁。

(201)同「明日」『行動』、244頁。

(202)前掲「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、87頁。

(203)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、同頁。

(204)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、88頁。

(205)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、109頁。

(206)『東京芸術大学 東京音楽学校篇 第二巻』音楽之友社、2003年、912頁。

(207)富本陶「円通院の世界地図」『もぐら』桐朋女子高等学校音楽科文集委員会編集、1988年、93頁。

(208)同「円通院の世界地図」『もぐら』、同頁。

(209)『東京芸術大学百年史 演奏会篇 第二巻』音楽之友社、1993年、326頁、593頁、600-601頁、および672頁。

(210)富本一枝「『父親の鼻』辨解」『婦人文藝』第1巻第6号、1934年12月号、131頁。

(211)同「『父親の鼻』辨解」『婦人文藝』、同頁。

(212)同「『父親の鼻』辨解」『婦人文藝』、133頁。

(213)「家を嫌ふ娘を語る座談會」『婦人公論』第20巻第5号、1935年5月号、169頁。

(214)同「家を嫌ふ娘を語る座談會」『婦人公論』、170頁。

(215)同「家を嫌ふ娘を語る座談會」『婦人公論』、同頁。

(216)「編輯室より」『青鞜』第2巻第10号、1912年10月、135-136頁。

(217)佐藤俊子「千歳村の一日」『改造』第18巻第6号、1936年6月、296頁。

(218)同「千歳村の一日」『改造』、300頁。

(219)丸岡秀子『田村俊子とわたし』中央公論社、1973年、9頁。

(220)同『田村俊子とわたし』、9頁。

(221)同『田村俊子とわたし』、240頁。

(222)同『田村俊子とわたし』、217頁。

(223)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、134-136頁。

(224)前掲『元始、女性は太陽であった③』、303-305頁。

(225)同『元始、女性は太陽であった③』、305-306頁。

(226)同『元始、女性は太陽であった③』、309-310頁。

(227)『高群逸枝全集第10巻 火の国の女の日記』理論社(第8刷)、1976年、261頁[第1冊は1965年に発行]。

(228)「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』第21巻第3号、1936年3月号、216頁。

(229)同「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』、同頁。

(230)同「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』、同頁。

(231)同「働く婦人と離婚の問題」『婦人公論』、同頁。

(232)富本一枝「福田晴子さん」『婦人文藝』第2巻第11号、1935年11月号、144頁。

(233)富本一枝「宇野千代の印象」『中央公論』1936年2月号、202頁。

(234)富本一枝「仲町貞子の作品と印象 手紙」『麵麭』第5巻第2号、1936年2月号、82頁。

(235)富本一枝「原節子の印象」『婦人公論』第22巻第4号、1937年4月号、296頁。

(236)富本一枝「私の顔」『婦人公論』第22巻第5号、1937年5月号、219頁。

(237)富本一枝「明日の若木――娘から孫へ」『婦人公論』第23巻第9号、1938年9月号、47頁。

(238)富本一枝「春と化粧」『新装 きもの随筆』双雅房、1938年、279頁。

(239)前掲「東京に住む」『婦人之友』、111頁。

(240)平塚らいてう「第一線をゆく女性 青鞜社」『婦人公論』第24巻第1号、1939年1月号、10頁。

(241)尾形明子「富本一枝と『女人藝術』の時代」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、17-18頁。

(242)「成城騒動」について平塚らいてうは、自伝(平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、302頁)のなかで、次のように語っている。「昭和七年から八年にかけて起こった、成城騒動と呼ばれる事件……これは初代の成城教育の実力者の小原国芳氏が、成城学園とはべつに新しい建学の理想をもって玉川学園をつくったことに端を発したもので、最初のうちは小原氏が、成城と玉川の両方を兼任されていました。それで敦史は、本来ならば成城小学校から同じ成城の上級へ進むべきところですが、小原氏がしきりに玉川教育の美点を説かれるので、玉川学園の方へ入りました。ところが、玉川の生徒たちの気風とどうしてもそりが合わないことから、二年生の途中でまた成城へ戻り、成城高等学校尋常科へ移りました。この尋常科の三年生から四年生にかけて、小原氏の去就をめぐっていわゆる成城騒動がおこり、学園の父兄、生徒は小原支持と排撃のまっ二つに分れストライキのようなことになり、今まで家庭的な雰囲気と相互の信頼感でまとまっていた学園村は、大騒動となりました……で、結局、小原氏が成城学園を退き、玉川学園に専心するということで、騒動はもとに戻りましたが、敦史はこのトラブルになかでよほど少年期の感じやすい心を傷つけられたとみえ、成城学園への通学を断念すると言い言い出して、とうとう日本大学附属二中へ転校してしまいました」。

(243)羽田野朱美「回想・富本憲吉――陶工と出会った人々(2)」、富本憲吉研究会会誌『あざみ』第6号、1998年、112頁。

(244)尾形明子『『女人芸術』の世界――長谷川時雨とその周辺』ドメス出版、1980年、136頁。

(245)前掲「東京に住む」『婦人之友』、108頁。

(246)志村ふくみ『一色一生』求龍堂、1982年、197-198頁。

(247)志村ふくみ「香り高き芸術家――西村伊作と富本憲吉」『富本憲吉と西村伊作の文化生活――暮らしをデザインする』(展覧会図録、ルヴァン美術館)、2008年、3頁。

(248)前掲『一色一生』、223頁。

(249)丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、32頁。

(250)小山富士夫「富本憲吉氏のこと」『朝日新聞』1963年6月11日、11頁。

(251)富本壮吉「父に習った鰻釣り」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、15頁。

(252)前掲『私の履歴書』(文化人6)、196-197頁。

(253)同『私の履歴書』(文化人6)、196頁。

(254)神近市子『神近市子自伝』講談社、1972年、224頁。

(255)同『神近市子自伝』、同頁。

(256)高野芳子『わが青春・深尾須磨子』無限、1976年、15頁。

(257)同『わが青春・深尾須磨子』、36頁。

(258)同『わが青春・深尾須磨子』、47頁。

(259)同『わが青春・深尾須磨子』、48頁。

(260)『日本近代文学館資料叢書[第Ⅱ期]文学者の手紙5』博文館新社、2007年、89頁。この『資料叢書』に採択されている深尾須磨子宛富本一枝書簡には、「この年、一枝は憲吉の女性問題で一時別居。戦後、本格的別居」という注が付されている。「憲吉の女性問題」とは、具体的にどのようなことを指すのであろうか。このように断定する以上は、再検証に必要な正確な情報が提供されるべきものと考えられるが、ここには、いっさいの根拠となる証拠が示されていない。

(261)前掲『わが青春・深尾須磨子』、49頁。

(262)同『わが青春・深尾須磨子』、50-51頁。

(263)同『わが青春・深尾須磨子』、51頁。

(264)「同棲愛の家庭訪問」『婦人公論』第15巻第5号、1930年5月号、18頁。

(265)黒澤亜里子(編)『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』翰林書房、2008年、41頁。

(266)前掲『わが青春・深尾須磨子』、52頁。

(267)同『わが青春・深尾須磨子』、46頁。

(268)同『わが青春・深尾須磨子』、52頁。

(269)同『わが青春・深尾須磨子』、同頁。

(270)大谷藤子「失われた風景」『學鐙』第60巻第12号、1963年12月号、42頁。

(271)同「失われた風景」『學鐙』、44頁。

(272)同「失われた風景」『學鐙』、同頁。

(273)辻井喬『終りなき祝祭』新潮社、1996年、7頁。

(274)同『終りなき祝祭』、同頁。

(275)同『終りなき祝祭』、200-202頁。

(276)同『終りなき祝祭』、19頁。

(277)『東京朝日新聞』、1943年5月4日、3頁。

(278)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』ぎょうせい、1997年、959頁。

(279)富本憲吉「圖案力の養成」『美術』第1巻第7号、1944年8月、8頁。

(280)同「圖案力の養成」『美術』、同頁。

(281)前掲『神近市子自伝』、225頁。

(282)前掲「失われた風景」『學鐙』、42-43頁。

(283)同「失われた風景」『學鐙』、43-44頁。

(284)神近市子「雑誌『青鞜』のころ」『文學』第33巻第11号、1965年11月、64-65頁。

(285)前掲『『女人芸術』の世界――長谷川時雨とその周辺』、134頁。

(286)『東京朝日新聞』、1945年3月23日、2頁。

(287)富本憲吉「東京に來りて」『卓上』第4号、1914年9月、21頁。

(288)同『私の履歴書』(文化人6)、220-222頁。

(289)『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇 第三巻』ぎょうせい、1997年、875頁。