中山修一著作集

著作集14 外輪山春雷秋月

火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛

第七章 『青鞜』創刊以降の婦人運動家たちの「恋愛創生」

一.新聞や雑誌による「同性の愛」の発見

高群逸枝の『大日本女性史 母系制研究』が刊行された一九三八(昭和一三)年に、日本は、国家総動員法を制定し、二年後の一九四〇(昭和一五)年に大政翼賛会と大日本産業報国会を結成するに至ります。こうして、アジア・太平洋戦争に向けての戦時体制が形づくられてゆきました。

一方、この『大日本女性史 母系制研究』の出版に先立って、それを支援するために、「高群逸枝著作後援会」が結成されました。呼びかけ人は、平塚らいてうと『東京朝日新聞』の竹中繁子でした。そして、それに賛同した六五人の氏名が、『大日本女性史 母系制研究』の跋文のなかで、謝辞とともに公開されました。当時の婦人解放運動に直接参加していた人や、その運動を支持していた人たちが、壮観にもここに結集していました。平凡社の下中彌三郎、『婦人公論』の嶋中雄作、その兄で社会運動家の島中雄三など、少数の男性も含まれていましたが、そのほとんどは婦人でした。

そこで、その賛同者に名を連ねていた婦人のなかから、主として市川房枝、金子しげり(茂)、神近市子、窪川稲子(いね子)、佐藤(田村)俊子、富本一枝、野上弥生子(彌生)、丸岡秀子、長谷川時雨、平塚らいてう(雷鳥)の一〇名の女史に着目し、とりわけ富本一枝と平塚らいてうを中心に置きながら、こうした女性たちのセクシュアリティーを巡る行動や言説、あるいは、その人が関係する隣人についての言及等を素材にして、高群逸枝が一九二六(大正一五)年に著わした『戀愛創生』(萬生閣)の書名に因んで、『青鞜』創刊のころから戦時体制へ至るこの三〇年間の、婦人解放運動の担い手であった彼女たちそれぞれの「恋愛創生」の一断面を、ここで描写しておきたいと思います。

それではまず、日本における「同性の愛」の発見の経緯から話を進めます。わが国において女性の特異なセクシュアリティーについて公然と関心が集まったのは、明治末年のころではないかと思われます。

一九一一(明治四四)年八月一一日の『婦女新聞』に掲載された第一頁の社説は、「同性の愛」という表題をつけて、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーについて論じています。以下は、その書き出しの部分です。『婦女新聞』は週刊新聞で、女学生などがその主な読者となっていました。

『女同士の情死』と題して、二人の女工が手を携へて投身したりし新聞紙に報せられたる事あり。最近に一博士の令嬢と、一官吏の令嬢とが共に高等女學校卒業の敎育ある身にして、同じやうなる最期を遂げたるあり。新聞紙は之を同性の愛、世俗に所謂オメの關係なりとして審しまざる樣子なるが、同性間に、果たして異性間の如き愛の成立し得るものなりや否や。容易に信じ難けれども、若し眞に成立し得るものとせば、娘持つ母及び女子敎育家は、最愛なる子女の監督法に就て新なる警戒を加へざるべからず。かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども、又それだけに重大な問題なるを以て、眞面目に研究する必要あり

この社説では、女工の例と令嬢の例を、ともに「オメ」の関係とみなしながらも、前者については、女性相互の「熱烈な精神的友情」に基づく関係とし、後者については、男性的な女と女性間の「肉的堕落」との烙印を押します。社説は、二種類の「同性の愛」の内的違いを、このような文言を使って解説するのです。

後者の所謂オメなるものは、實に不可思議の現象にして、今日の生理學心理學にては殆んど説明しがたし。然り、説明はせられざれども、事實の存在は否定すべきにあらず。恐らくは是れ病的現象ならん。……前者に於ては、關係ある二人の境遇年齢性格等が相似たるを要するに反し、後者は、一人が必ず男性的性格境遇の女子にして、他を支配するを要す。前者は熱烈なる精神的友情に因て成立するに反し、後者は不可思議な肉の接觸を俟ちて成立するが如し。前者は死を共にするまで互い同情すれども、後者は、元來が肉的堕落なれば、さまでに双方の精神が一致せず。即ち一方的男性的の女は、常に巧なる一種の手段を弄して他を操縦するなり。されど、いかにしても不可思議なるは、操縦せらるゝ女が、全然對手の術中に陥りて、眞の戀愛状態に陥ること、異性に對すると殆んど差違なき事なり

そしてこの社説は、結論として、次の点を指摘します。「後者のオメなるものは、前者の病的友愛なると同じく、病的肉慾とでも稱すべきものにして、生理學者も未だ鍬を入れざる未開墾地なれば、吾等はこゝに論斷を下す事能はざれども、不可思議なる事實の存在だけは如何にしても否むべからず。されば、娘持つ親達は、最愛の娘を他に托するに當りて、單に同性なるの故のみを以て安心すべきにあらざるなり」

同新聞の同日付けの第四頁には、「同性愛の研究」と題された特集が組まれ、「某醫師」「某宗敎女學校卒業生」「某高等女學校校長」「某夫人」「某心理學者」「洋行歸りの某氏」および「某軍人」からの聞き取りの結果が公開されています。そのなかには、異性間の愛とまったく変わらない同性間の愛の事例や、男女の夫婦とまったく変わらない女夫婦の事例や、しつけのために預かっていた娘のもとへ夜な夜な訪ねてくる女の事例などが、赤裸々に、そして詳細に報告されていました。この「同性愛の研究」は、社説にいう「説明はせられざれども、事實の存在は否定すべきにあらず」を、具体的内容を挙げて、例証するものでした。

このときの『婦女新聞』の社説および特集の立ち位置は、見てきたとおり、良妻賢母主義や家父長制主義が異性愛によって成り立っている以上、同性愛はそれを否定しかねない反体制的行為であるがゆえに、即刻追撃しなければならないといったような政治的に過激なものではありませんでした。同性の愛という行為は、いまだ学説にない、知識を超えた実に「不可思議な」現象であるがゆえに「病的な」ものとして執筆者には映っており、その感染を避けるという観点から、年ごろの娘をもつ親や子女教育に携わる人たちに対して警鐘を鳴らすといった啓蒙的な論調が、ここにおいて展開されているのです。このようにして、この時期、女性間の「不可思議な」セクシュアリティーが、「かゝる問題は人生の機微に關し、紳士淑女の輕々しく口にすべき事にあらざれども」、新聞というひとつのメディアをとおして、新たに社会的に「発見」されたのでした。

続く翌週(八月一八日)の『婦女新聞』は、島中雄三の「同性の戀と其實例」を掲載します。執筆者の島中雄三は嶋中雄作の兄ですが、弟の「嶋中」と区別するために、しばしば本人は「島中」姓を名乗っていました。さて、そのなかで島中は、男子間の同性の恋(男色)も女子間の同性の恋も、結局のところ、その原因も、その実態も、その結果も、類似していることを指摘します。そのうえで、なぜそのような現象が起きるのか、次のように分析するのでした。

近來男色が稍々衰へたのは、東洋的武士道的の克己道徳、禁欲道徳が廃れて男子の性欲が自然的方法によつて満足される機會が多くなつた結果である、それと反對に、女子の間に両性の戀が盛になつたのは、男子の誘惑が多くなり、社會の道徳的制裁が弛み、印刷物其他によつて隠れたる社會の暗黒面が暴露され、其結果一般に淫靡なる空氣が深窓の中にも通ふと同時に、官能的刺戟が著しく強くなつて性欲の發作年齢が以前よりは早くなつて居るに拘らず、結婚難てふ社會的現象と極端なる男女隔離主義とに依つて、精神的にも肉體的にも適當に性欲を満足するの機會に遠つた結果と見るべきものが大部分である

このように島中は、女性間の同性の恋は、以前に比べて性に目覚める年齢が早まるも、その性的欲求を満たす機会が彼女たちにとって遠のいていることに、おおかた起因していると説くのです。そして後段では、新橋の芸妓の中村時子の例を引き、「兎に角彼女は女を惹き着ける強い魔力を有つて居た……何の女も何の女も痩せて衰へて蒼くなつて其れでも思ひ切れないで泣いたのである、無論時子は常に男装して居つた……然れども彼女は到底男ではない……但だ其の方法は絶對の秘密で、彼女及び彼女と關係した女以外は何人も知らない、又何人にも話さないのである」と、男性的な女の事例を紹介します。

ここで言及されている時子は、性別表現のひとつの指標となる衣装に関して、「常に男装して居つた」ことからから判断すると、体の性と異なり、心の性については「男」であることを自認していた可能性があります。また、「何人にも話さないのである」という表現から推測すると、時子が「カミング・アウト(coming out)」を拒否していた可能性も否定できません。島中は最後に、この評論文をこう結びます。「敎育家、心理學者、生理學者などの大に研究して然るべき問題である、臭い物に蓋をするのは差支えないとしても、臭きを恐れて何時までも遁げて居つては敎育の實は擧るまいと思ふ」

こうした『婦女新聞』の報道を受けるようなかたちで、『新公論』の九月号は「性慾論」と題して幾編かの論考を掲載します。そのなかには、内田魯庵の「性慾研究の必要を論ず」、桑谷定逸の「戰慄す可き女性間の顚倒性慾」が含まれていました。前者の論説は、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなどの欧米諸国においてこの分野の研究がどのような状況にあるのかを、当該国で刊行された雑誌や書籍を紹介しながら、論じるものでした。一方、後者の論説では、多様な視点からこの「顚倒性慾」が論じられているため、一言で総括することはできないのですが、一般に「顚倒性慾」は、学校(女学生)、工場(女工)、病院(看護婦)、遊郭(遊女)などの女が集う場所では広く見受けられるものであることを指摘し、男装(異性装)については、このように書きます。「顚倒的な女には、出來ることなら男装し男職したいといふ強い傾向がある。此の場合の男装は便利の爲めでもなく、又た他の女に印象を與へる爲めでもなく、唯だ何となく夫れが自分の身體に適するやうに思ふからである」。ここで表現されている「自分の身體に適するやうに思ふ」は、文脈的には「自分の気持ちに適するやうに思ふ」と読み替える方がふさわしく、そうであれば、今日にいうところの、性自認(ジェンダー・アイデンティティー)に関する事柄が、すでにこの時期にあって、暗に言及されていたことになります。そしてこの論説は、このようにもいいます。「顚倒性慾の豫防法に付ては、今日未だ確説はない。否、先天的に其ういふ素質を有つて居る者に對しては、人間の力では殆んど何うすることも出來ないのである」

以上に述べてきましたように、一九一一(明治四四)年は、ふたりの女工に続く、さらにふたりの令嬢の情死をきっかけとして、「同性の愛」にかかわる関心が社会的に高まった年でした。くしくもこの年の九月、『青鞜』が平塚らいてうの手によって創刊され、それに吸い寄せられるようにして、年が明けると、尾竹一枝(雅号に「紅吉」を使い、結婚後は富本一枝)が青鞜社の社員となるのでした。

二.『青鞜』における「女性間の同性戀愛」への言及

らいてうと紅吉の「同性の恋」の実際につきましては、第二章「平塚らいてうと尾竹紅吉の『同性の恋』の顛末」において詳述していますので、ここでは繰り返しません。ここでは、婦人解放運動の文脈から少し触れることにします。

すでに言及しました『新公論』一九一一(明治四四)年九月号に掲載の「性慾研究の必要を論ず」のなかで、著者の内田魯庵は、「Havelock Ellis の “Studies in the Psychology of Sex” といふは五冊物で性慾に關する各方面の研究を集めてある。之も一應寓目して置くべきものだ。此エリスは誰も知つてる通り現代精神界の趨勢に隻眼を持つている評論家であるだけ、文章も立派で……」と、この本を高く評価しました。その一部分が日本語に訳され、「女性間の同性戀愛――エリス――」のタイトルで『青鞜』に掲載されたのは、一九一四(大正三)年の四月号(第四巻第四号)においてでした。巻頭に、らいてうの筆になる一文が端書きのように寄せられており、そのなかで、抄訳掲載の経緯が、次のように記されています。

 女學校の寄宿舎などで同性戀愛といふやうなことが行はれてゐるやうなことを屡々耳にはいたしますけれど、私自身はさういう事實を實際目撃したこともなければ、自身経験したこともありませんでしたので半ば信じられないやうな氣もいたしました、全く何の興味もこの問題にもつことが出來ませんでした。ところが私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人によつて私はこの問題に非常な興味をもつやうになりました。私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました。そして色々のことを考へさせられました結果、いよいよこの問題に就いて、知りたくなりました10

このときすでに紅吉は青鞜社を退社していましたが、ここでらいてうは、紅吉のことを「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」として公言したのでした。明らかにこれは、今日的な用語法に従えば、個人のセクシュアリティーについて赤の他人が吹聴することを意味する「アウティング(outing)」といえるにちがいありません。しかもらいてうは、「私はその婦人の愛の對象として大凡一年を過しました」と、素っ気なく他人事のようにいっています。本当にこの愛は、紅吉かららいてうへの一方的な愛だったのでしょうか。らいてう自身は、紅吉のことを「愛の對象として」全く何も考えていなかったのでしょうか。第二章の「平塚らいてうと尾竹紅吉の『同性の恋』の顛末」において述べていますように、事実は決してそうではありませんでした。他方、紅吉も、らいてうのセクシュアリティーについて、自分のそれと絡めて、間接的ではありますが、その二年前に「アウティング」していました。以下は、『東京日日新聞』に掲載された、記者の小野賢一郎による尾竹紅吉へのインタヴィューです。

 紅「煤煙を通じて平塚の性格をみますと或る微妙な點が私と似通つたところがあるのです、世間の人から見ると一寸不思議に思へるやうな興味を持つてゐるやうですから會つて見ると果たしてさうでした」
 記「その興味といふのは例へばドンナものです」
 紅「それは今は言へません、私は子供の時分から面白い氣分を持つてゐますが夫れは自ら獨り樂しむ氣分であつて決して口に出して話す氣分ではないのです、死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」11

この記事で重要なのは、らいてうのセクシュアリティーについては、「或る微妙な點が私と似通つたところがある」といい、自分のセクシュアリティーについては、「死ぬる時に遺言状の中には書くかしれませんが」、それまでは、「カミング・アウト」しないといっている点ではないでしょうか。

第二章「平塚らいてうと尾竹紅吉の『同性の恋』の顛末」で触れていますように、らいてうは、紅吉のことを「私の少年」と呼び、一方で「同性の戀」について思いをめぐらせていたという事実があります。「私の少年」と呼ぶ以上は、らいてうは紅吉を「男」として認識していたのでしょう。そして「同性の戀」という言葉を使う以上は、らいてうは紅吉を「女」と認識していたのでしょう。「女性間の同性戀愛――エリス――」の端書きにおいて、らいてうは、すでに紹介していますように、「私の近い過去に於て出逢つた一婦人――殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人によつて私はこの問題に非常な興味をもつやうになりました」と書き綴っています。らいてうは、紅吉のセクシュアリティーのうちに女性性と男性性との混成を見出し、そのことを根拠に、「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」という表現を使って「アウティング」したものと思われます。それでは、「女性間の同性戀愛――エリス――」に書かれてあった内容は、実際はどのようなものだったのでしょうか。まず、「女性間の同性戀愛」の、陰に隠れた実態について、エリスはこう説明します。

婦人同士は、男子よりヨリ ・・ 親密であることは習慣上吾々の頭にありふれた ・・・・・ ことであるので、彼等の間にこんなやうな異常な欲情が存在してゐやうとは一寸思ひ及ばぬことである。そして此原因と關係して吾人の注目すべきは、婦人が性的アブノーマルな表現に關して、甚だしきはその正則の場合すらも全く知らないで、絶對的沈黙を守ると云ふことである。婦人は同性にして非常に烈しい性的牽引を感じても、其愛情が性的變態であることに氣がつかぬ。そして一度之れを意識した時には譬へ之を發表すれば他人の肩に載っている重荷を軽くしてやる事が出來ると知れてゐても、極力自己の内部経験の本性を暴露されないように努める12

らいてうが「アウティング」したのは、ここでいわれている、「之を發表すれば他人の肩に載っている重荷を軽くしてやる事が出來る」に従ったのかもしれません。次にエリスは、性的に転倒した女たちにみられる特性を、次のように語ります。

彼等は常の服装の場合には大いに男性的單純さを表現してゐる、そして殆どあらゆる場合に、どんな些細でも化粧と云ふやうな事は忌み嫌ふのである。之れ等の事實が明に現はれない時でも、凡ての無意識になさるゝ身振りや習慣が、女の知り合に斯ういふ人は男に生るべき筈であつたのに、と云ふ考へえを起さしめる。粗暴な、エナーヂエテイツクな動作、腕の樣子、愛想もない、ブツキラボーな言葉づかい、音聲の抑揚、男の樣に率直で、名譽心に富む事、殊に男に對する羞しいと云ふやうな樣子はなく、と云つて又殊更に大膽を装ふのでもない態度、凡て是等の事實は、鋭敏な観察者に、底に潜んでゐる心理的變態を観察せしむるには充分である13

紅吉を指して「殆ど先天的の性的轉倒者とも思われるやうな一婦人」という以上は、紅吉の言動やしぐさや身なりのなかに、らいてうは、ここで述べられている婦人の「心理的變態」を観察したのでしょう。また、エリスは、こうもいいます。「轉倒した婦女は女性美の熱心な賞讃者であるが、殊に肉體のしつかりした美をたゝへる。此點は普通の女の性的情緒の中には極僅少な美的感情しか交つてゐないのに比して異つてる點である」14。それでは、「性的轉倒」は何が原因で起こるのでしょうか。エリスの見立ては、こうです。

 男子の獨立と、因習道徳――譬へば女は家の中の陰氣な倉の内で嘆息しながら、決して來る事のない男を待たねばならないと云ふ樣な舊い敎へに對する嫌悪を敎へられた女は、何處迄もこの獨立 ママ 發展さして仕事のある所に愛を探さうとする所まで達する。私は敢て此等の近世の運動の慥かな影響が直接性的轉倒を惹起したとは云はないが、間接な原因は確かにあると思ふ15

エリスが描写する、「女は家の中の陰氣な倉の内で嘆息しながら、決して來る事のない男を待たねばならないと云ふ樣な舊い敎へに對する嫌悪」――これが、女性の解放や独立を叫ぶ、近代の婦人運動の原点となる思いであるにちがいありません。エリスはいみじくも、この近代運動が「間接な原因」となって「性的轉倒を惹起した」とみなすのです。であれば、近代日本の婦人運動の原点に位置づく青鞜社の運動には、これ自体に、「性的轉倒」を招来せしめる力が必然的に最初から内在していたことになります。そして、その歴史的主人公が、まさしく、紅吉、その人だったのです。もっとも、医学的観点から、あるいは統計学的観点から、女児の誕生にあっては、性的指向が女へと向かうレズビアンや、FTMのトランスジェンダー男性が常に一定の割合で生まれることが実証されるならば、近代の婦人運動のイデオロギーとは直接関係なく、女学生や女工のような集団同様に、婦人運動という女の集団においても、避けがたく「同性の戀愛」が一定数発生する可能性は否定できません。しかしながら、らいてうの個人的事例にみられるように、「私の少年」や「同性の戀」という用語を使って自らの性愛について公然と語る一方で、「同性の戀愛」という現象に強い関心をもち、外国の書を翻訳して雑誌に掲載しては、そこから積極的に学ぼうとしたのは、疑いもなく、先行する女学生や女工たちの集団ではなく、この時代に新しく胎動した婦人たちの集団のなかにおいてでありました。その意味においては、女性解放の近代運動の萌芽と、「同性の戀愛」へ向けられた知的なまなざしとは、相互に大きく関連していたといえるでしょう。そしてそれは、「新しい女」の内実ともかかわることでありました。紅吉が「新しい女」の前衛的実践の役割を気楽にも担い、他方、らいてうが後衛に陣取り、その理屈の枠組みを必死になって習得しようとしたと見ることも、可能かもしれません。

三.富本一枝の悲痛と『變態性慾論』の刊行

青鞜社を離れた紅吉は、この雅号を捨て、戸籍名の尾竹一枝にもどります。一九一四(大正三)年の一〇月に富本憲吉と結婚すると、翌年の三月に、住むところを喧騒の都会から憲吉の実家がある奈良の安堵村へ移します。すると、ちょうどその年の六月、羽太鋭治と澤田順次郎の共著になる『變態性慾論』が春陽堂から出版されました。著者の肩書きは、羽太鋭治が「ドクトル、メヂチーネ」、そして澤田順次郎が「國家醫學會會員」となっており、総頁数七〇〇頁を超える大部なもので、主として同性愛と色情狂を扱っていました。明確な証拠は見出せませんが、おそらく憲吉と一枝は、この本を読み、ここから多くのことを学んだものと思われます。

この本の「第一編 顚倒的同性間性慾」の「第七章 女子に於ける先天的同性間性慾」が、内容的に、とりわけふたりの関心事になったにちがいありません。まず「緒論」のなかで、女性間性欲の海外での名称として、「サフヒズム」「レスビアン、ラブ」「レスビアニズム」などが使われていることが紹介され、一方わが国においては、異名として「といちはいち」「おめ」「でや」「おはからい」「お熱」「御親友」などの隠語があり、「おめ」とは「男女」を指すことも述べられていました。「緒論」に続いて、この第七章は、「第一節 女性間性慾の原因」「第二節 女性間性慾の行はるゝ社會の階級」「第三節 女性間性慾者の情死」「第四節 外國に於ける女性間性慾」「第五節 女子精神的色情半陰陽者」「第六節 女子同性色情者」「第七節 女性間同性色情と男子的女子との中間者」「第八節 男性的女子」「第九節 男性化又男化」の全九節で構成されています。そしてさらには、「第九章 顚倒的同性間性慾の利害及び其社會に及ぼす影響」の「第三節 矯正及び治療法」もまた、ふたりにとって興味のある箇所だったものと思われます。といいますのも、ここには、催眠術によって異性に対する性欲を回復させる「催眠療法」、運動、食物、精神の慰安による「攝養法」、そして、異性との正式な交接を招来する「結婚療法」が挙げられていたからです。

しかし、ここに挙げられていた「結婚療法」をもってしても、一枝に備わる「子供の時分から面白い氣分を持つてゐます」という実感を変更することは、そう容易なことではありませんでした。一枝は、「結婚する前と結婚してから」のなかで、自身の青鞜社時代を、こう振り返ります。

 評判を惡くして心のうちで寂しく暮してゐた事もあつた。可成り長く病氣で轉地してゐた時もあつた。全く寂しく暮してゐた時もあつた。どうにかして眞面目な人生に眼を醒ましたいと悶躁 もが いてゐた。僞もつゐた。人を欺しもした。いぢめもした。愛しもした16

振り返って内省してみると、青鞜社員のときの自分が、寂しく、もがき、そして、うそをつき、人をだまし、またあるときは、人をいじめ、人を愛する――そのような人間であったことへと思いが至ります。これこそが、数年前の自分の「新しい女」の内実だったのです。確たる信念があるわけではなく、確たる理想があるわけでもなく、おもしろおかしく、奔放に振る舞う「紅吉」がそこにあったのでした。

一枝は、この「結婚する前と結婚してから」のなかで、こうも書いています。「都會を出立して田舎に轉移した彼と私は彼の云ふ高い思想生活を私達の爲めに營むべく最もよい機會をここに見出したことに強い自信とはりつめた意志があつた」17。そしてさらには、「彼は、都會は、私を必ずや再び以前に歸すことを、再び私の落着のない心が誘起される事をよく知つてゐた」18。憲吉と一枝の夫婦は、結婚をひとつの好機ととらえ、一枝のいうところの「落着のない心」、つまり同性へ向かう性的指向が二度と誘発されることがないことを強く望みました。そのためには、都会を離れ、対象となるような若くて美しく才能あふれる女性と触れ合う機会がほとんどないこの大和の田舎へ移転し、高い精神性のもとに新しい生活をはじめることが、ふたりにとっては、どうしても必要だったのです。しかしながら、一枝の「落着のない心」は、「彼の云ふ高い思想生活」でもって解決することはなく、そこには大きな悲痛が横たわっていたのです。たとえば一枝は、「子供と私」と題したエッセイの冒頭において、このようなことを告白しています。

「子供と私」を書くについて、私は考へました。私は子供について書く資格が本當に有るだらうか。恥づかしくはなからうか。恐らく自分は子供について書けないのが本當で、書くのは間違つてゐるのだと。……しかし、また思い返してみると、書くのが本當のやうに思はれたのです。これを書く事は自分が子供にもつてゐる心なり態度を深く反省する機會にもなるし、或意味で正直に自分の態度を責めてもらへる事にもなると思つたのです。……最初に書いて置きます。私は子供にとつて決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません19

なぜここまで、母親としての自分を責めるのでしょうか。一枝の性自認が「男」であったとするならば、それに起因して、子どもを慈しむ母性のような母親固有の感情がどうしても湧いてこなく、それを自覚したうえで、「決して善い母親ではありません。親切な母親ではありません」と、いっているのかもしれません。

この「子供と私」が掲載されたのは、一九二一(大正一〇)年一月号の『婦人之友』においてでした。そして、その五箇月後に、高群逸枝が世に出る最初の詩集となる『日月の上に』が叢文閣から上梓されます。小説家の有島武郎と『中央公論』の記者で人妻の波多野秋子が、軽井沢の別荘で縊死するのは、それから二年後の一九二三(大正一二)年の六月のことでした。続いて、同年の九月に関東大震災が起こると、その半月後に、アナーキストの大杉栄と伊藤野枝、加えて大杉の妹の男児が、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦によって殺害されるという悲惨な事件が発生しました。高群は、一九三六(昭和一一)年刊行の自身の『大日本女性人名辭書』のなかに、「波多野あき子」を「社會運動」の項目に、「伊藤野枝」を「記者」の項目に採録します。しかし、羽太鋭治と澤田順次郎の共著により一九一五(大正四)年に刊行されていた『變態性慾論』のなかにみられる「顚倒的同性間性慾」に該当する女性については、その項目を設けることはありませんでした。太古の昔から、こうした傾向をもつ女性が一定の割合で存在していたであろうことは想像に難くないのですが――。

こうしたなか、大正天皇の死去に伴い、一九二六(大正一五)年の年末に、元号が大正から昭和へと変わります。そのころになると、『青鞜』を源流とする日本の婦人運動に参加していた女性たちも、次第に円熟期に入ろうとしていました。

四.戦時体制へ向かう時期の婦人運動家たちの性と愛を巡る言動

一九三〇(昭和五)年、『婦人公論』の五月号は、「同棲愛の家庭訪問」を特集しました。この特集にあって、深尾須磨子と荻野綾子、吉屋信子と門馬千代子、金子しげりと市川房枝の三組のカップルの「同棲愛」家庭が紹介されます。深尾須磨子と荻野綾子のカップルを扱った「姉妹藝術の上に」の記事では、ふたりの住まいを訪ねた記者は、冒頭、このように書きます。「一枚の表札に『深尾』と『荻野』が仲よく並んでゐる。晝間なのに格子戸の鍵がかゝつているのは、女ばかりの住居の用心のためであろう。案内を乞ふ聲に應へて出て來たのはステージでお馴染みの荻野さんだ」20。また、金子しげりと市川房枝のカップルが住む屋敷を訪問して「婦人運動の彼方」を執筆した記者は、こう書き出します。「あら、金子さんと市川さんが同性愛?……麗かな春の陽かげの一日、四谷仲町の二人のお住居 すまひ を訪れた記者でした。市川房枝さん。婦人運動の第一線に立つ房枝さん。……金子さんは……わが國婦人参政運動の闘士であります」21

この記事から推測しますと、もうこの時期になると、愛する女同士が一軒の家に住み、あたかも夫婦であるかのように生活するのは、さほど珍しいことではなくなっていた観があります。といいますのも、すでに紹介していますように、ほぼ二〇年前の一九一一(明治四四)年八月一一日の『婦女新聞』に掲載された、「同性の愛」という表題がつけられた第一頁の社説において、「生理學者も未だ鍬を入れざる未開墾地なれば、吾等はこゝに論斷を下す事能はざれども、不可思議なる事實の存在だけは如何にしても否むべからず。されば、娘持つ親達は、最愛の娘を他に托するに當りて、單に同性なるの故のみを以て安心すべきにあらざるなり」という主張がなされていたのに反して、この『婦人公論』の論調においては、そうした「不可思議なる事實」がことさら強調されることもなかったからです。

当時、ロシア文学者の湯浅芳子と小説家の中條百合子(のちの宮本百合子)も共同生活に入っていましたが、一九二七(昭和二)年一二月の出発から一九三〇(昭和五)年一一月の帰国までふたりはソヴィエトに滞在し、ヨーロッパの各地を旅行していたため、この『婦人公論』の「同棲愛の家庭訪問」の取材対象からはやむなく外されたのかもしれません。しかしながら、ふたりが野上弥生子の家ではじめて会って一箇月と少しが過ぎた、一九二四(大正一三)年の五月二一日と二二日にまたがって書かれた湯浅から中條へ宛てて書かれた手紙には、このようなくだりがあります。

私の性格のかなり複雑なことはあなたも御存じですが、そのあなたのご存じよりももっともっと私にはこみ入った矛盾だらけの不幸な生れつきがあるのです。生理的には一通り何の欠点もない女ですが、しかも女でいて女になりきれないというところ、(まだまだ言い足りないが)すべての不幸がまず一番ここにあるのではないかとおもいます。
 人生にとって一番意義のある得難く尊いものは何ですか?あなたはなんだとおもいます。芸術ですか、愛ですか。
 その何れにも見離された人間は何を目的に生きるのです。まして私は愛を知らないんじゃない!
 もうやめ、やめ、こんなこと22

湯浅が告白(カミング・アウト)しているのは、明らかに、女が女になりきれない女性の心の性にかかわる精神的苦痛についてでしょう。トランスジェンダー(当時の用語に従えば「男女」あるいは「おめ」)を、のちになって「選択」したものではなく、生まれながらにして本人が備え持つ「本性」であるという立場に立つならば、これを自分の意思や努力によって変更したり、捨て去ったりすることはもはやできず、何を目的に生きればいいのかを、自問するも、答えはない。その苦しみを湯浅は率直に中條に訴えているのではないでしょうか。そのことは、おそらく富本一枝にも、あてはまったものと思われます。

『女人藝術』を主宰し、引き続き『輝ク』の刊行に尽力した長谷川時雨が、一九四一(昭和一六)年八月に亡くなります。その後、近代文学研究者の尾形明子は、『女人藝術』を調査するうえから、この雑誌の編集に携わっていた熱田優子に聞き取りを行なう機会をもちました。以下は、尾形が聞き書きした、富本一枝に関する熱田の発話内容です。

すらっとしていたけれど筋肉質でしっかりした体型でね。芸術家の奥さんというより、富本さん自身が芸術家。着物をきりっと粋に着こなしていて、感性が鋭くて趣味もよかった。……女の人が好きで、横田文子がかわいがられていたわね。それで長谷川さん、私たちにひとりで祖師谷に行ってはいけないよって言っていたけど、大谷藤子さんも親しかったのではないかしら23

上の発話内容は、熱田と尾形のふたりが伝達者として中間に入っており、いわゆる「伝言ゲーム」の危険性が全くないわけではありません。それでも、もし長谷川が、「ひとりで[一枝の自宅のある]祖師谷に行ってはいけないよ」といって、生前に周囲の人間に注意を促していたことが本当に事実であるとするならば、一枝のセクシュアリティーは、すでに「公然の秘密」となっていただけではなく、美貌と才能をもつ女性にとっては、「危険な存在」になっていた可能性さえ残ります。しかしその一方で、その発話内容は、一枝が女性にとって頼れる味方であることを示唆しているようにも読むことができます。事実一枝は、多くの女性の才能を発掘しては、それを誌上で発表し、彼女たちを勇気づけていたのでした。たとえばこの時期、『婦人文藝』に「福田晴子さん」(一九三五年一月号)を、『中央公論』に「宇野千代の印象」(一九三六年二月号)を、『麵麭』に「仲町貞子の作品と印象 手紙」(一九三六年二月号)を、さらに『婦人公論』に「原節子の印象」(一九三七年四月号)を寄稿し、彼女たちの美質なり作品なりを紹介するのでした。

『婦人公論』の「同棲愛の家庭訪問」の記事から三年後、「共産党の検挙者に婦人が多い」という内容の『東京朝日新聞』の記事を受けて、「主義と貞操の問題」と題した特集を『婦人公論』(一九三三年三月号)が組みました。この特集のなかで、平塚雷鳥(らいてう)、野上彌生子、窪川いね子が自説を開陳します。

雷鳥の評論は「女性共産黨員とその性の利用」と題したもので、そのなかで雷鳥は、「共産黨檢擧のいつの場合も、必ず幾人かの女性をその中に見る。そしてそれらの女性は、又大方黨幹部の男性と性關係をもつ人たちです。……彼等自身は同志愛などと呼んでゐるものの……女性が道具とされているか、最上の場合が便宜上の性の相互利用といつた程度の機械化され、物質化された性關係であつて、何等の新しい貞操観念も、性道徳の新思想も見出されません」24と述べ、続けて、「社會組織がどんなに變らうとも、人間の創造性が性によらねばならず、人間を産み、育てるものが女性である限り、女性の『性』の社會に對し、種族、人類に對する使命を變へることは出來ません。して見れば、わたくしたち女性は、女性がこの使命に安心して生き、安心してその使命を果せるやうな社會を造ることに努むべきです」25との持論を展開します。まさしく、「産み、育てる」女性の使命の安定的な遂行こそが、性にかかわる雷鳥にとっての普遍的な価値なのでしょう。

一方、野上の評論「平凡なことか」は、雷鳥の考えとは対照的に、ジャーナリズムの女性に対する興味本位の報道に苦言を呈したうえで、報道のごとき「事実」がもし仮に存在していたとしても、肯定的に受容すべく、理解を示します。「少なくともわたしは、婦人黨士のあるものが、資金獲得のために彼女の若さと美貌を利用したと云ふことが、果してどこまで××であるかは、疑問だと思つてゐる。かりに一歩をゆづつて、ある程度の事實があつたとしても、べつに珍しいことでも、おどろくことでもない。史上の例によつて見ても、また小説戯曲の中においても、秘密な非合法的な團體運動ではそれはむしろ平凡な××であることをわれわれは見出さないであらうか。……また黨士らのあひだの戀愛問題についても、むしろ最も自然な現象と云ふべきであらう。共通の思想、共通の理解、共通の認識において、おなじ仕事にたづさはつてゐる若い男女の熱情が、すすんで戀愛にまで燃えあがることは……殆んど必然である」26

そして、「何れの矛盾か」の表題で寄稿した窪川は、この『婦人公論』の特集に先立ち、すでにこの主題にかかわって『東京朝日新聞』の婦人襴に「女共産黨員への抗議」と題する一文を書いていたらいてうの発言内容をとらえ、これをもって、「かつてのブルジョア民主々義に根底をおいた青鞜社の婦人解放論者であつた雷鳥女史の今日の立場」27とみなしたうえで、「かつての性の平等を唱へた雷鳥女史にして、も早、今日のプロレタリア婦人の××な活動、婦人の大きな自覚と闘争力については、何ものも理解することができなくなってゐるということは、何という皮肉なことであつたらう」28と述べ、雷鳥の無理解と限界を指摘したのでした。

共産主義や共産党に対する、あるいは生殖や母性に対する認識や立ち位置の違いが、三者のあいだで鮮明になっています。『女人藝術』は、すでに前年(一九三二年)の六月に廃刊になっていましたが、この特集は、かつてこの雑誌のなかで展開された「アナ・ボル論争」を彷彿させるものでした。こうしてこの時期、女性のあいだで、政治と性にかかわる話題が再び焦点化されたのでした。

『婦人公論』が「主義と貞操の問題」と題した特集を組んだのは一九三三(昭和八)年の三月号でした。その少し前、ドイツではアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、共産党への弾圧を強化します。一方で日本では、「蟹工船」を書いた小林多喜二が逮捕され、その日のうちに拷問によって虐殺されます。まさしく世界は、極めて強権的な政治が支配する時代へと足を踏み入れようとしていたのです。それからおよそ半年後の八月、富本一枝が検挙され、留置されます。『讀賣新聞』は、「富本一枝女史 検舉さる 某方面に資金提供」の見出しをつけて、次のように報じました。

澁谷區代々木山谷町一三一國畫會員としてわが國工藝美術界の巨匠(陶器藝術)富本憲吉氏の夫人で評論家の富本一枝女史(四一)は去る五日夕刻長野懸軽井澤の避暑地から歸宅したところを代々木署に連行そのまゝ留置され警視廰特高課野中警部補の取調べをうけてゐる、さきごろ起訴された湯淺芳子女史の指導によつて、某方面に百圓と富本氏制作の陶器を與へたことが暴露したものである、女史は青鞜社時代からの婦人運動家で女人藝術同人として犀利な筆を揮つたことがあり、最近では湯淺女史らと共にソヴエート友の會に關係左翼への關心を昂めてゐた29

このころ、平塚らいてうの夫の奥村博史は、指輪製作に精を出していました。らいてうは、こう振り返ります。「最初に作ったのは、時代のやや古い黒白のオニクスのカメオの指輪で、自分の小指にはめるものとしてでした。次には、富本憲吉さんが、インドから持ち帰った指輪を、一枝さんの指に見て、それを借りて同じものをわたくしのために、作ってくれました。……こうして奥村の指輪作りがはじまりましたが、自作の指輪を、はじめて世に発表したのは昭和八年のことです。これは奥村の指輪作りにたいへん興味をもっていられた富本憲吉さんのたってのおすすめで、国画会工芸部に、持ち合わせたもの七点を出品したのでしたが、それが批評家筋にも好評で、意外の反響がありました」30

一九三三(昭和八)年七月三〇日の『週刊婦女新聞』は、「おしらせ」の欄で「奥村指輪の會」について触れています。「藝術的指輪を創始して好評を博してゐる洋畫家奥村博史氏を依囑して、深尾須磨子、武者小路實篤、富本憲吉、水谷八重子、柳原燁子、加藤武夫等文壇劇團の諸氏が發起で、『奥村指輪の會』と云ふのを組織し、會員を募集中である」31。会員を募って支援するという形態にあっては、このときの「奥村指輪の會」は、その四年後に発足する「高群逸枝著作後援会」の先駆けとなるものであったかもしれません。

その翌年の一九三四(昭和九)年の秋季皇霊祭の日(現在の秋分の日)の午後、『婦人画報』の企画により、平塚らいてうの夫の奥村博史のアトリエを会場として、奥村家の家族(四名)と富本家の家族(五名)、それに、一枝の妹の福美(夫は洋画家の安宅安五郎)の娘の良子も加わり、「家族會議」が催されました。奥村家の長女の曙生と富本家の長女の陽は、成城学園の小学校で同学年でしたが、ともに成長し、曙生は「小學校は成城、女學校は自由学園、そして今は東洋英和の幼稚園師範科」32に通い、陽は「小學校も女學校も成城、今は文化學院の高等部」33に在籍していました。この日の「家族會議」は、「今日は曙生ちやんや陽子ちやんの職業や結婚に對するお考へをうかゞひその考へ方の基礎になつていゐる敎育、學校敎育や家庭敎育も一應檢討し、一方お父樣お母樣の御意見もうかゞひ度いと思います」34という、記者からの導入の言葉ではじまりました。そのなかで、曙生は、結婚については、「明るさと、深さと、優しさと強さとを持つている人、なぜかと云ふと、ふかさのある人はどうかすると暗いところがあるし、優しさを持つて居る人は強いとこが缺け勝ちですから」35と語り、職業については、「實際に幼稚園に働き乍らでも勉強は一生出來ると私考へますけど。唯だ机の上での學問より實際の生活を持つた勉強が本當だと思ひましたから――」36と述べています。

一方陽は、結婚については、「條件としては特に退屈なんでなければ、餘り可愛がつて呉れない人の方がいゝわ、いくら可愛がつて呉れたつてどうせさう長いこと可愛がつて呉れられるものぢやなし、それにさうなつたらうるさいわね。貧乏ぢやいやだわ。金持の人と云う譯でなく生活能力のある人よ」37と語り、記者の「陽子ちやんはどう云う職業に就て――何をやりたいと考へますか」という質問に対しては、「望みはないの、自分の考へて居ることも殆ど何が何だか分んないし、希望もないし、どこを見ても風みたいにふらふらして――だから曙生ちやんの考へ方なんか私として羨しいと思ふわ」38と答えています。これが、二〇歳前後の曙生と陽の結婚や職業についての思うところでした。「新しい女」の娘世代が、このようにして育っていました。しかし一方で、この「家族會議」で注目していいのは、以下の終幕の部分です。陶は、富本家の次女です。

富本夫人 お母さんなんか何時も自分は母親の資格がないと思つて――。
陶子 お母さんつたら何時もあんなことを云ふんだもの――。
陽 さう云はれたら子供はどうすればいゝの――。
記者 ではこれで――どうも色々有難うございました39

何か締まりの悪い幕切れとなってしまいました。しかし、この発話内容が、一枝のセクシュアリティーに起因する「母性」の実態だったのかもしれません。

さらにその翌年(一九三五年)の八月二八日の『讀賣新聞』に目を向けますと、そこに、「女の立場から」という欄を創設する旨の社告を見出すことができます。それによると、「朝刊婦人面に『女の立場から』なる題下に、女性ならでは説き盡し得ぬ鋭利にして繊細な社會批評と豊富な識見による女性のための時事解説とを九月二日付の紙面より連日掲載することゝした」とあり、執筆者として、岡本かの子(月)、山川菊榮(火)、野上彌生(水)、富本一枝(木)、神近市子(金)、茅野雅子(土)が紹介されていました。いずれも当時のオピニオン・リーダーたちです。この企画から、社会問題にかかわって広く女性の意見を求めようとするメディアの姿勢の一端をうかがうことができます。

しかし、言論を封殺する動きも、一方で進んでいました。その典型的な事例が、一九三六(昭和一一)年二月に起きた、陸軍青年将校らによるクーデター未遂事件です。この「二・二六事件」の衝撃が冷めやらぬ三月、一八年に及ぶ海外生活を終えて、佐藤俊子がカナダから帰ってきました。佐藤俊子(かつての田村俊子)と富本一枝(かつての尾竹紅吉)は、青鞜社時代に平塚らいてうによって紹介されて以来の親しい友人同士でした。その俊子が、帰国したこの年の初夏のある日、憲吉の開窯に招かれて、千歳村を訪れました。この日一枝は、丸岡秀子も招待していました。丸岡は、奈良女子高等師範学校時代に、安堵村の富本夫妻をしばしば訪れており、それ以来続く、信頼を寄せ合う間柄でした。

俊子と秀子は、二〇歳ほどの年の差がありました。それでも秀子は「田村俊子」の名前を憶えていました。「その名は明治の終りから大正にかけて、女の作家として、目立つ存在であった。……そして『女作家』、『木乃伊 ミライ の口紅』、『炮烙 ほうらく の刑』などの代表作を一応は読んでもいたからである」40。この日から俊子と秀子のあいだに深い友情が芽生えます。そして晩年の一九七三(昭和四八)年に、秀子は、「昭和十一年から十三年までの三年間の[俊子からの]手紙」41を基にした交友録『田村俊子とわたし』を中央公論社から上梓するのです。それによりますと、帰国後のこの三年は、俊子にとって、思うように作品が書けず、金銭の管理が甘いがゆえに友だちを失い、窪川いね子(のちの佐多稲子)の夫である窪川鶴次郎との道ならぬ恋にも陥り、満たされぬ苦悶の歳月でした。俊子は、何かにつけて秀子を頼ります。秀子も悪い気はしません。いつも寄り添うように、俊子を支えます。秀子が一九三七(昭和一二)年に高陽書院から出した処女作『日本農村婦人問題』の書題は俊子の発案によるものでした。しかし、この濃密な交友にも終わりが来ます。最終的に俊子は、嶋中雄作の計らいにより、「中央公論社特派員」の肩書きで中国に渡るも、一九四五(昭和二〇)年四月、上海の地で客死するのでした。

『女人藝術』の廃刊から二年後の一九三四(昭和九)年に、神近市子の手によって、女性のための新しい文芸雑誌である『婦人文藝』が創刊されていました。その経緯について、晩年、神近はこう述べています。

 多くの女流作家・評論家・劇作家を輩出した『女人芸術』が、昭和七年に廃刊となってしまった。翌年、中心になっていた長谷川時雨氏は『輝ク』という新聞タイプのものを出したが、これも長くはつづかなかった。そこで私は、夫の鈴木[厚]とともに、新雑誌『婦人文芸』を出した。昭和 ママ 年のことである。『女人芸術』のころからの山川菊栄、林芙美子、円地文子氏や、平林たい子、宮本百合子氏などの参加もあり、また、壷井栄氏が処女作「月給日」を発表したのもこの雑誌であった。
 しかしこの『婦人文芸』も、経済的理由や戦争気運の高まり、そのほかの理由で、三年ほどで休刊の止むなきに至ってしまった42

創刊から二年後の一九三六(昭和一一)年の『婦人文藝』一一月号に、「時事批判座談会」の様子が掲載されます。出席者は、富本一枝、深尾須磨子、村岡花子、丸岡秀子、平林たい子、石本静江の六名で、それに加えて、この雑誌の主宰者である神近市子が司会進行役を務めます。座談会は、税制改革案について、上流婦人の問題、退職手當法について、公衆衛生のこと、婦人の虐待、産兒の過剰、流行は制御できるかといった話題に及び、当時の婦人の社会的関心事にかかわって広く論議されるのでした。

以上ここまで述べてきました内容は、『青鞜』創刊以来、日本における婦人解放運動の先駆者たちが織りなしてきていた、性と愛にかかわる極めて断片的な描写にしかすぎませんが、そうした彼女たちそれぞれの「恋愛創生」を時代の後景としながら、いよいよ一九三八(昭和一三)年の六月、高群逸枝の『大日本女性史 母系制の研究』が堂々完成し、厚生閣から出版されたのでした。一九三一(昭和六)年七月に「森の家」に隠棲して以来、俗世との交渉をいっさい断ち、優に七年に及ぶ一意専心の結晶でした。以下は、同書末尾の「紹介辭」における市川房枝の文です。

 弱い肉體と闘ひながら女性史第一巻「母系制の研究」の大冊を完成出版された女史、心からの敬意と感謝を捧げると同時に、廣く一般の方々――特に婦人の方々に對し、女性の手になるこの女性史を、是非とも書架に飾られんことをおすゝめします43

次に、金子しげりの文からの一節を引用します。

 われわれは、われわれの歴史を知ることによつて、現在のわれわれの使命に最も正しく立つ事が出來るのではないだろうか。同時に日本の發展の爲には、男子も亦その伴侶たる女性について知るに吝かであつてはならない。
 茲に女史の勞を深く犒ひ……續稿の爲に、女史の健康を念じてやまない44

そして同年の一一月に双雅房から『新装 きもの随筆』が発行されます。このエッセイ集には、高群が結成した無産婦人芸術連盟に連なる望月百合子や城夏子、他方で、「高群逸枝著作後援会」に連なる富本一枝、長谷川時雨、圓地文子、佐藤俊子といった人たちも寄稿していました。

こうして一九三八(昭和一三)年が終わると、一九三九(昭和一四)年の『婦人公論』新年号は、「第一線をゆく女性 青鞜社」と題された一枚の写真を掲載します。この写真は、生田花世、長谷川時雨、富本一枝、岡田八千代、平塚らいてう、神近市子の六名がひとつのテーブルを囲み、お茶を飲みながら談笑している場面です。写真には、平塚らいてうの筆名で、短文が添えられていました。

 その昔、女も人間だといつて私たちが起ち上つたとき、人たちは眼をまんまるにして驚き、あやしんだ。……今日こゝに集まつた青鞜の人たちの頭にはもう白いものが幾すぢも見え……我が子の話には、いつか孫の噂もまざるやうになつた。でも、今の時代 ・・・・ のほんたうの理想に最も敏感に、そして勇敢に生き抜きたいとおもふ。これが青鞜魂なのだから45

この茶話会の様子が『婦人公論』に取り上げられたのは、日支事変(日中戦争)の勃発から数えて二度目となる新年号でした。新年を祝うこの号において、「今の時代 ・・・・ のほんたうの理想」に言及したらいてうの脳裏には、あるいは、それぞれ一人ひとりの出席者の脳裏には、どのような「理想」が描かれていたのでしょうか。そしてそれは、いかなるかたちで達成できるのでしょうか。『大日本女性史 母系制の研究』を上梓するや、手を休めることなく、引き続き「森の家」に蟄居し一日一〇時間の労働をもって、次の著作となる「招婿婚の研究」の完成に向けて、全身全霊を傾けようとしていた高群逸枝も、かつて青鞜の女たちが抱いていた「理想」をしっかりと共有し、いまなお維持していたにちがいありません。満年齢にして、らいてう五二歳、一枝四五歳、そして逸枝四四歳の一九三九(昭和一四)年の初春でした。

しかし、実際には、もはや悠長に「理想」を語る余裕は残されておらず、まさしく「きもの」から「もんぺ」へと駆り立てようとする時勢が、このとき彼女たちを取り巻いていたのです。以下は、らいてうによる回想です。

 日支事変の拡大以来、戦時国家への再編成は急速に進められ、市民に対する防空、防火心得の宣伝が行なわれるようになり、昭和一三年の四月には、燈火管制規則が実施されることになりました。……昭和一四年になると警防団がつくられ家庭防空・防火体制は一段と強化され、町内自治会は、もんぺの仕立講習会をひらいて、戦時下の家庭婦人がもんぺを着用する、国民精神総動員運動に協力しました46

かくして、ついに一九四一(昭和一六)年の一二月、日本はアジア・太平洋戦争へと突き進んでゆくのでした。

(1)『婦女新聞』第586号、1911年8月11日(金)、1頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、265頁。)

(2)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(3)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(4)『婦女新聞』第587号、1911年8月18日(金)、4頁。(「婦女新聞 第12巻 明治44年」、不二出版、1983年3月15日/復刻版発行、276頁。)

(5)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(6)同『婦女新聞』、同頁。(同上、同頁。)

(7)桑谷定逸「戰慄す可き女性間の顚倒性慾」『新公論』第26巻第9号、1911年、38頁。

(8)同『新公論』、41頁。

(9)内田魯庵「性慾研究の必要を論ず」『新公論』第26巻第9号、1911年、6頁。

(10)「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』第4巻第4号、1914年4月、1頁。

(11)「東京觀(三二) 新らしがる女(三)」『東京日日新聞』、1912年10月27日、日曜日。

(12)前掲「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、3頁。

(13)同「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、17頁。

(14)同「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、19頁。

(15)同「女性間の同性戀愛――エリス――」『青鞜』、21頁。

(16)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、71頁。

(17)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、72頁。

(18)同「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』、同頁。

(19)富本一枝「子供と私」『婦人之友』1月号、1921年、55頁。

(20)「同棲愛の家庭訪問」『婦人公論』第15巻第5号、1930年5月号、18頁。

(21)同『婦人公論』、22頁。

(22)黒澤亜里子(編)『往復書簡 宮本百合子と湯浅芳子』翰林書房、2008年、41頁。

(23)尾形明子「富本一枝と『女人藝術』の時代」『彷書月刊』2月号(通巻185号)、弘隆社、2001年、17-18頁。

(24)平塚雷鳥「女性共産黨員とその性の利用」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、132頁。

(25)同「女性共産黨員とその性の利用」『婦人公論』、133頁。

(26)野上彌生子「平凡なことか」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、138頁。

(27)窪川いね子「何れの矛盾か」『婦人公論』第18巻第3号、1933年3月、142-143頁。

(28)同「何れの矛盾か」『婦人公論』、143頁。

(29)『讀賣新聞』、1933年8月9日夕刊、2頁。

(30)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、283-284頁。

(31)『週刊婦女新聞』、1934年7月30日、2頁。

(32)「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』第357号、1934年11月号、83頁。

(33)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、同頁。

(34)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、80頁。

(35)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、83頁。

(36)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、同頁。

(37)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、82頁。

(38)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、84頁。

(39)同「女性の敎育と職業と結婚の問題を中心に 家族會議」『婦人画報』、88頁。

(40)丸岡秀子『田村俊子とわたし』中央公論社、1973年、9頁。

(41)同『田村俊子とわたし』、240頁。

(42)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、245頁。

(43)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、「紹介辭」の2頁。

(44)同『大日本女性史 母系制の研究』、「紹介辭」の2-3頁。

(45)平塚らいてう「第一線をゆく女性 青鞜社」『婦人公論』第24巻第1号、1939年1月号、10頁。

(46)前掲『元始、女性は太陽であった③』、319頁。