第三章の「『女人藝術』からアナーキズム派が身を引く」において詳述していますように、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織するという道を開きました。一九三〇(昭和五)年一月二六日、無産婦人芸術連盟の創設に向けて結集したのは、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の計一四名でした。続いて、三月一日に『婦人戦線』が産声を上げます。こうして「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここに誕生したのでした。
『婦人戦線』は、蔵原惟人らが唱道するマルクス主義系の雑誌である『戦旗』などに対抗する、アナーキズム系の機関誌でした。高群は、こう振り返ります。
『婦人戦線』は……当時のボル系の『戦旗』や『文芸戦線』等のはなやかさにくらべると、明治末年の大逆事件、大正十一年の労働組合総連合創立大会事件、震災直後の甘粕事件等以来、不運の過程をたどりつつあったアナ系のものとしてははなはだ微力なものだったが、時代を語る歴史的存在としては記憶されてよいものだろう1。
それと同時に『婦人戦線』は、らいてうが「婦人戦線に参加して」(『婦人戦線』第二号)において述べているように『青鞜』を引き継ぐものでもありました。高群は、『青鞜』と『女人藝術』を比較して、こう回顧します。
明治末創刊の「青鞜」と昭和四年発刊の「女人芸術」とをくらべると、時代色のちがいがはっきりする。前者にはもゆる情熱と理想へのあこがれがあり、後者にはニヒリズムやナンセンス、エロ、メカニズムが混在し、中心的性格がみとめられない2。
『婦人戦線』は月刊の雑誌で、各号それぞれに主題が設定されていました。この雑誌の編集上の輪郭を把握するために、以下に、創刊から廃刊までの通巻一六号の主題と、加えて高群自身の主な掲載文のタイトルを一覧にします。発行兼編集印刷人は、最初の二号は「高群逸枝」、次の第一巻第三号から翌年の第二巻第五号までが「橋本逸枝」、最終号になる第二巻第六号が「城夏子」です。
□一九三〇(昭和五)年 三月号(第一巻第一号)主題「創刊宣言」/高群「婦人戦線にたつ」 四月号(第一巻第二号)主題「家庭否定」/高群「家庭否定論」 五月号(第一巻第三号)主題「戦闘小説」/高群「女闘士殺さる(戯曲)」 六月号(第一巻第四号)主題「ブル・マル男をうつ」/高群「無政府主義の目標と戦術」 七月号(第一巻第五号)主題「性の処理」/高群「無政府主義と性の処理」 八月号(第一巻第六号)主題「女流糾弾」/高群「生田花世さんに私信がはり」 九月号(第一巻第七号)主題「無政府孌愛」/高群「無政府孌愛を描く」 一〇月号(第一巻第八号)主題「都會否定」/高群「美人論(都會否定論の一)」 一一月号(第一巻第九号)主題「無政府道徳」/高群「階級道徳と無政府道徳」 一二月号(第一巻第一〇号)主題「無政府自傳」/高群「高群逸枝」 □一九三一(昭和六)年 一月号(第二巻第一号)主題「我等の婦人運動」/高群「我等の婦人運動」 二月号(第二巻第二号)主題「性の経済」/高群「新無政府主義問答(八)」 三月号(第二巻第三号)主題「一周年記念號」/高群「婦人戦線一年 婦人思想史」 四月号(第二巻第四号)主題なし/高群「随筆・夜を行く」 五月号(第二巻第五号)主題「男性物色」/高群「孌愛と性慾」 六月号(第二巻第六号)主題なし/高群「みぢめな白百合花の話」
これ以外に高群は、「吠えろ女性」を第一巻第四号から第二巻第一号までと、第二巻第四号に連載しています。これは、松井須磨子の人生を題材にした長編叙事詩で、第一章が「序曲」で、最後の第十六章の表題が「妻」です。そこから判断しますと、「吠えろ女性」は、連載誌廃刊に伴う未完の作品となった可能性もあります。
また、第一巻第六号の巻末や第一巻第八号の巻頭を見ますと、解放社から出版予定の高群逸枝著『強権に抗す』の広告が掲載されています。そのなかに「内容目次」が紹介されており、第一篇「無政府主義の思想と實行」、第二篇「無政府主義者宣言」、第三篇「無政府原理考」となっています。その説明によると、既発表の雑誌論文等を集めて一著に編集されたもののようで、この本は『黒い女』の姉妹編として位置づけられていました。広告の文面には、次のような文字が踊ります。
全人類を、民衆を、労働者農民を、婦人を、眞に開放し眞に導く思想は何か、無政府主義である!……醜怪なる強権マルキシズムの没落は既に時間の問題となり終わり、今や全民衆の認識と創造力はアナーキズムにおいて偉大なる飛躍を準備しつゝある時、我等いかに生くべきか? 何を為すべきか? 本書は強くそれに應ゆるであらう。
しかし、この本については、調べた限りでは国立国会図書館にも所蔵がありませんので、出版されることなくお蔵入りしたのではないかと思われます。当局によって「発禁」が命じられた可能性も否定できませんが、他方で、高群の側に何か個人的な問題が生じ、それにより原稿が取り下げられたことも考えられます。といいますのも、この時期高群は、「最大の夫婦の危機」に向かおうとしていたからです。憶測するに、そのような事情が背後にあったためなのでしょうか、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」において、高群自身、この本については何も言及しておらず、いまになっては、その出版事情は闇に閉ざされたままとなっています。しかし、『強権に抗す』という書題、それに加えて、広告に示された「内容目次」から判断しますと、労働者に対する資本家の、農民に対する地主の、婦人に対する男性の、その強権と抑圧とを糾弾し、そこからの真の解放を目指して、マルキシズムに備わる強権的専制主義を排除し、アナーキズムの絶対自由の思想内容が述べられていたものと思われ、『婦人戦線』の路線を強く背後で支える読み物となることが想定されていたにちがいありません。
しかし高群は、この時点ではまだ十分にマルクス主義を理解していなかったようです。といいますのも、後年、こう告白しているからです。
アナキズムにたいしては、ほとんどそれ[大逆事件で落命した郷土の無政府主義者たち]以上のことを知らず、したがってクロポトキンも、バクーニンも、プルードンも、ルクリュも知らず、これらについては、昭和六年の六月に「婦人戦線」を廃刊(通巻一六)して、郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心するようになってから、マルクス、レーニンらの学説をも含めて、はじめてようやく知りえたといえるくらいのものであった3。
しかし、この引用文の出典を示した末尾の注のなかにおいて具体的に述べていますように、実際には、「郊外の森の中に退き、日本女性史研究に学究として専心する」もっと早い段階において、疑いもなく高群は、マルクス主義を知り、海外のアナーキストたちの存在についても承知していました。
それはそうであったとしましても、この引用文に続いて高群は、アナーキズムの限界について、このように語るのでした。
アナキズムの欠点は、必然論でなく、発展説ではないこと、したがって婦人解放史に学的根拠を与ええないことであるとおもう。またそれは同時に実践への弱点でもあるといえる4。
『婦人戦線』廃刊までにあって、もしそのような理解に達していたのであれば、自身のアナーキストとしての取るべき道筋は何か、そう高群は自問したものと思われます。それは、一口でいえば、平塚らいてうが『青鞜』の発刊に際して述べた「元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」5を、確かな史料に基づき学術的に実証することだったにちがいありません。より一般化するならば、その自問の結果は、「火の国の女詩人」であり「アナーキスト高村逸枝」の義務と責任において、前人未踏のひとつの新しい学問として「女性史学」を打ち立てて、かつて日本には、女性が中心となっていた時代があり、次にそれが後退し、女性にとって被圧迫の時代を迎え、いまやっとこの時代に至って、そこから立ち上がろうとする女性の一群が出現しようとしているという認識と構想のもとに、まさしく日本女性がどう生きてきたのか、古代から現代までの全史を自ら通覧し、それを叙述することだったのではないでしょうか。
過去の歴史に遡行して、そしてまた、ひとつのヴィジョンの先にある未来を展望して、いまの自分ないしは自分たちの生存のあり方を確認しようとする、詩人にしてアナーキストがたどる、ある種宿命的な身のゆだね方を、一九世紀英国のウィリアム・モリスに求めることができます。といいますのも、いよいよ晩年に入るとモリスは、中世の農民反乱を扱った「ジョン・ボールの夢(A Dream of John Ball)」(歴史小説)を、現在の社会主義者の政治的行動を素材にした「希望の巡礼者たち(The Pilgrims of Hope)」(物語詩)を、そして、革命後の人びとが生きる新世界を描写した「ユートピア便り(News from Nowhere)」(夢想的物語)を著わし、さらに加えて、最晩年のモリスは、アーニスト・ベルファット・べクスとの共著による『社会主義――その成長と成果(Socialism: Its Growth and Outcome)』を公刊し、そのなかで、過去から現在を経て未来へと進む社会主義とその運動の発展史を記述していたからです。こうしてモリスは、このときここに立つ詩人にしてデザイナーであり、はたまた社会主義者としていまに生きる自己を客観的歴史のなかに発見し、その存在の確かさを証明しようとしたのでした。
他方、高群はどうでしょうか。確かに高群は、モリスの「ユートピア便り」を読んでいました。わずか一箇所ではありますが、『戀愛創生』のなかにおいて、それについて言及しています。このモリスのユートピアン・ロマンスは、すでに過去においては堺利彦によって「理想郷」の訳題のもとに抄訳され、『平民新聞』に連載されていましたし、その後も、「芸術的社会主義」という名辞のもとにモリスの思想と実践に関する研究書や紹介書が絶えることなく続くなかにあって、高群が『戀愛創生』を発表する五箇月前の一九二五(大正一四)年の一一月には、布施延雄が「無何有郷だより」という訳書題でもって、至上社から上梓していたのでした。
それでは以下に、高群の『戀愛創生』から、モリスに関連する記述の一部を引用します。
ウイリアム・モリスの「無何有郷だより」をみると、多くの子供達が、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには學校といふものはない6。
このなかの「子供達」を「女性たち」に、そして「學校」を「家庭」に置き換えて読み直してみますと、こうなります。「多くの女性たちが、そこでは、自由な生活をして、森から丘へと遊び戯れてゐる。そこには家庭といふものはない」。このとき高群が発見した、モリスの描くユートピアは、自らの心に宿す理想世界と完全に一致したのではないでしょうか。
加えて、夫の橋本憲三は、生前の高群の言葉として、このようなことを書き記しています。
[すべてを書き終わったら]また出発しましょう。あたたかいところに行って、そこで私は『女性の歴史』で書けなかった未来像を叙事詩のかたちで描くでしょう。たぶん私の最後の叙事詩となるでしょう7。
この一文は、最晩年には、暖かい原郷であるあの熊本の「火の国」に帰還して、モリスに倣って「ユートピア便り」を書きたいという、見果てぬ夢を語っているようにも読めます。本人が述べていますように、その叙事詩が描く内容は、『女性の歴史』(上、中、下、および続の全四巻)で扱われた女性の過去と現在の姿に続く、解放のための闘争に立ち上がった女性たちのその後の未来社会になることが想定されていたようです。しかし、それが世に出ることは、残念ながら、ありませんでした。
しかし、モリスの場合もそうでしたが、高群のアナーキズム的詩編も、超現実的で夢想的で、非論理的なものとして、とりわけ「科学的社会主義」の立場に立つ論者から強い非難を浴びました。あるいは、一笑にふされることも、しばしばありました。高群は、自作について、このように論じます。
大正一〇[年]に生田長江の推せんで「新小説」に自叙伝的長篇詩「日月の上に」を発表し、ついで「放浪者の詩」、関東震災直前の陰鬱な時代相をえがいた長篇叙事詩「東京は熱病にかかっている」を出していた。いずれも自己に忠実な作風のものであって、またそれらは、山川菊栄がらいてうの「青鞜」を嘲笑していったいわゆる空想主義やセンチメンタル性が、もっとも極端につきつめられ、謳歌された、あるいは投げ出され、それらを通じて生きる道を知ろうとしていた必死的な身がまえをもった作品だったといえる8。
高群の一連の詩編は、蔵原惟人たちが主張していたプロレタリア文学と全く異なっていました。プロレタリア文学が、プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダとして、主として小説という形式によって階級闘争の実相を描こうとするのに反して、高群の文学は、あたかもその昔の野生の小鳥の美しいさえずりに似て、自身の生まれながらの言葉を誰に遠慮することもなく大声で発する詩歌の形式のなかに誕生しました。つまりこの文学は、理論の宣伝手段でも、理屈の強制支配でもなく、独り自身の解放を奏でる歌声だったのです。しかし、それに共鳴した女性たちが少なからずいました。そのひとりが、平塚らいてうでした。高群は、自分を客体化した表現を使って、こういいます。
らいてうは、こうした逸枝を東京の片隅で発見し、ある面での自己の後継者とみなしたのである。ただ、らいてうと逸枝とのちがいは、前者が高等教育をうけた高級官吏のお嬢さんであったのにたいして、後者はほとんど無教育といっていい山間の農家出身の貧しい小学教師の娘でしかなかった点であった9。
一方のらいてうは、高群についてこう書きます。
ともあれ、門外不出の研究生活に精進される高群さんとの文通は、そののちも折にふれて続けられ、「無性に好きなひと」として、高群さんの存在はいつもわたくしの心から消えることはないのでした10。
らいてうと高群の相互には、深い友愛が存在していました。それは終生続くことになります。
こうして、機関誌『婦人戦線』を廃刊にするや、一転して高群は、集団的婦人運動に幕を降ろし、婦人問題を考えるうえでの原点に遡るべく「女性の歴史」にかかわる孤高の学術研究へと突き進んでゆくのでした。
『婦人戦線』は、逸枝が思い描く「ユートピア」を発信する拠点となるものでした。しかし、その一方で、この拠点が置かれた橋本と高群の夫婦が住む「上荻窪二六九」の自宅には、さまざまな人が吸い寄せられてきました。逸枝が回顧するところによれば、「筋ちがいの個人や団体の寄付勧誘者もあれば、家出した娘や妻、身の上相談の母や夫たちもくる。むろん、特高や憲兵も。……それに私は『婦人戦線』には別名、匿名までつかって四、五種の原稿を書かなければならない。それらの過労が編集の上にも影響をしないはずはなく、雑誌は生気を失ってきた。年を越したころから売れ行きががた落ちして、解放社から負担金を請求されるようになった」11。そのころのことです、もともとは夫の憲三の主導ではじまった雑誌の刊行であったにもかかわらず、その夫が、消極的な態度を見せ始めます。なぜだったのでしょうか。アナーキズムに対する熱情が冷めてしまったという精神的変容が底辺に存在していたことは明らかであるとしましても、それに関連した具体的な要因も幾つか考えられそうです。たとえば、解放社に支払う負担金が重荷になっていたのではないか、特高や憲兵による連行を避けようとしたのではないか、あるいは、当初志していた女性史研究の道に妻を連れ戻そうとしたのではないか、はたまた、第一三章の「高群逸枝を顕彰する力とそれに棹さす力のはざまで」において後述するような、夫婦のあいだに表に出すことがはばかられるような問題が発生し、そのことへの対応が迫られていたのではないか――おそらくは、何かひとつの要因によってというよりも、むしろ複合的な要因が絡み合って、そのときの憲三の内なる思いは形成されていたのではなかろうかと推量されます。結果として逸枝は、意に反して、責任感と使命感を放棄して、一九三一(昭和六)年の六月号を最後に、『婦人戦線』の刊行を断念することになるのでした。
『婦人戦線』の刊行を断念することは、この夫婦にとって、分裂を回避し、夫婦の関係を何とか持続させるうえでの、残された唯一の道でした。その選択肢が、ふたりのなかでどう形づくられていったのか、以下は、それについてのひとつの素描ということになります。
このころ逸枝は、『婦人戦線』の月例研究会や、他組織との合同研究会等にしばしば出席していました。それは彼女にとって大いに裨益するものでした。しかしながら、それに対して夫が示した態度は、実に冷淡なものでした。それでは、妻の言葉に耳を傾けたいと思います。
こうして私には研究集団も革命運動の一環たるべきことがようやく切実に自覚されてきた。私は革命者でなければならなかった。ところが私がこの転機に直面し、いわばウルトラの自分に良心の呵責を感ずるようになってくるにつれて、それと反比例してKの興味は去っていくようだった。私は彼をともに会合に出るように誘ったが、彼は、 「ひとりで行きなさい」 と突き放した12。
なぜ憲三は、会合への出席に対して後ろ向きの態度をとったのでしょうか。その理由については、逸枝は直接何も明確に述べていませんが、その結果がどのようなことをもたらすかについては、十分に理解できていたようです。
こうなると彼が冷酷であることはかつて城内校で経験ずみだった。しかし城内校の場合は繊月城跡とか球磨川探訪等の問題にすぎなかったが、こんどはそれとちがい、私がひとりで私の目ざすコースをとることは、きょくたんにいえば彼と私とが、敵味方に分裂することだった。ここにきて私は最大の夫婦の危機感にさえ、見舞われる思いだった13。
「敵味方に分裂する」という言葉に着目すれば、「最大の夫婦の危機」とは、逸枝は、革命者であることを強く望み、一方の夫の憲三は、それへの情熱がすでに薄れ、日和見主義者へと後退した結果、そのことによってもたらされるであろう、夫婦間の亀裂ということになるのではないでしょうか。こうして、ここに来て、アナーキズムに対する親密度の差が「最大の夫婦の危機」をもたらしたのでした。夫婦それぞれに言い分はあるでしょう。逸枝は、両者の言い分を、このようにまとめています。少し長くなりますが、この時期のふたりの立場をよりよく理解するうえで必要かと思われますので、以下にその箇所の全文を引用します。まず、自身の言い分について――。
私は最初から集団を組織する確信も、ましてその集団の主宰者となる自信もなかったが、それらのことをむしろ強くすすめたのはKではなかったか。それだのにKが途中で外れて私をひとりにすることは無責任ではないか。これが他のことなら私はこれまでやってきたようにKに曲従するだろう。しかし、この場合はそうした私的問題ではない。すでに引き受けたときに私の態度は決定している。私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならないというのが、私のいい分だった14。
次に、夫の言い分について――。
彼のいい分は、彼は私に女性史研究をすすめておきながら、いっぽう偶然のことで『婦人戦線』を持ち込んで、こんな手違いになったことをあやまりたい。けれど前から懸案の研究所の場所も世田ケ谷に物色中であるから、彼はそのほうを押し進めることにしよう。研究と運動とが両立しないわけでもなかろうというのだった15。
このように、『婦人戦線』と女性史研究を巡って、ふたりの見解が対立します。それぞれがそれぞれの立場を強く主張し譲らなければ、「最大の夫婦の危機」は現実のものとなり、夫婦の関係は崩壊します。そこで、逸枝が書くところによれば、「研究生活に入る前に私とKとはつぎのような話し合いをした」16のでした。いわば、「設立準備会合」です。
夫は妻に、このようなことを伝えます。
……そのくるしみのためによそ目には逆上して支離滅裂にさえなり手のつけようもなくなったようなあなたのなかに、あなたの本来の火の国的な炎のような個性や高貴な才能や、あなたの全面的に人をはっとさせる野性的な美貌――これらの抑圧されていたものが一時に輝き出たことはまさに驚嘆すべき現象だったと思う。……どんなことをしてもあなたを手ばなしたくなかったのです。しかし馴れてくると、あなたがやはり従順なので、私もまた持ちまえの独裁者になったようだった。……もう私たちも三十歳をいくつか越した。ここらで根性をすえてかからねばならない。……私はあなたのもっとよい後援者になろうと思うのだ。……社会運動はロマンチシズムではいけないと思う。また、各人にはそれぞれ長所がある。その長所をもって貢献すべきだと思う。あなたの長所と使命とは、長い年月、あなたのなかに蓄積せられてきた女性史の体系化だ。生活は私が保証する17。
すると、かつての「独裁者」から変容したこの夫の言葉に、妻は「感謝のあまりいつものくせで泣いてしまった」18のでした。そして妻は、こう応じます。
でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう。……名声も収入もなく、だからただ貧困と病苦とだけが伴う。……それは、こんな私をただ一人で保護してくださるあなたをまでもたぶんまきこんでしまうことになるでしょう19。
それに対して夫は、「いいよ、二人でやろう」20といって、笑ってうなずくのでした。
実に仲睦ましい会話内容です。かくして、「最大の夫婦の危機」はこれで消滅し、新しい夫婦の未来像が構築されてゆきました。逸枝は、次のごとくに、いいます。
こうして、私は夫のつよい心からのすすめもあって、意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界にはいっていったのであった21。
逸枝がこのとき振り捨てた「過去いっさいの生活」とは、具体的には何を指すのでしょうか。何も明示されていません。そしてまた、「火の国の女の日記」において逸枝が書く「最大の夫婦の危機」の内実と、「おそろしい未知の世界」に入る決意とのあいだには、明らかに大きな隔たりがかいま見られ、決して語り尽くされているとはいえません。それぞれの内面に存する、譲りがたい思いは、具体的にどのよう観点に立って首尾よく整理がなされたのでしょうか。このときの話し合いの過程から構築されるに至ったであろう夫婦関係にかかわる新たな原理が、それ以降のこのふたりの言動を規定する重要な鍵となる部分ではないかと考えられます。裏を返せば、このときの話し合いの内容が明らかにされない限り、この夫婦が晩年に至るまで自身の人生とどう向き合おうとしたのか、その真実の姿についての理解は、自ずと散漫にならざるを得ないのではないかと思われるのです。しかしながら、本人たちはそれについて何も語っていません。いまや、それは推論するしかないのです。そこで、関連しそうな、残された部分的紙片を拾い上げながら、あくまでもひとつの参考的試論として、以下にその物語を組み立ててみたいと思います。
憲三と逸枝が合意した和平の姿は、一見すると、一年前に『婦人戦線』の第二号に逸枝が書いた「家庭否定論」からはとても想像できない夫婦像となっています。改めて該当箇所を引用します。そこには、こうした言説が並べられていました。
そこで目ざめた婦人は、「家庭をケトバス」ことが唯一の最上の手段であることを知つた。 家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐるではないか22。
他方で、のちに逸枝は、「毎朝八時にKを送り出すと帰り夕方五時までは扉はすべて鍵をかっ( ママ ) て仕事一すじに専念した」23と回想しています。なぜ、「鍵をかけて」まで家のなかに閉じこもる必要があったのでしょうか。果たして、ふたりが合意した家庭とは、まさしく豚小屋か刑務所のような場となることが、想定されていたのでしょうか。
ここでどうしても思い起こしたいのが、第一章「高群逸枝と平塚らいてうの邂逅と『婦人戦線』の創刊」ですでに触れています、逸枝の家出のくだりです。六年前の一九二五(大正一一)年の九月、次のような置き手紙を残して、逸枝は、当時自宅に寄宿していた憲三の友人男性と駆け落ちをします。「さよなら。さよなら。……金を少しください。××さんに返します。そこまでいっしょに行き、わかれ、それからひとりになります」24。このとき、憲三は、警察に保護された逸枝を迎えにゆき、東京に連れ戻します。このように、実際のところすでにこの夫婦は、先立って「最大の夫婦の危機」をこのとき経験していたのでした。しかし憲三は、妻のこの行為に耐え切れず、別居を切り出したり、離婚を迫ったりすることはありませんでした。なぜでしょうか。逸枝が亡くなったあと、憲三は「森の家」で石牟礼道子とおよそ五箇月間の同居生活をします。そのときの生活の様子を石牟礼はノートに書き留めていました。主としてその内容を綴った作品が「最後の人」で、そのなかに、憲三にとっての逸枝像が、こう描写されています。「最後の人」は、その後水俣に帰還した憲三が発行することになる『高群逸枝雑誌』に連載された、逸枝と憲三を扱った評伝です。
あのひとは、あのひとの心は、人類とともにいつもあって、僕はそれをおもう……彼女はやはり天才者だった……。彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う。もっと早く気づくべきだった……25。
このように憲三は、妻の逸枝を「天才者」であることを認めているのです。それであれば、その「天才者」が決行した別の男性との逃避行も、自身の妻に対する日頃の言動に反省を促すことこそあれ、「天才者」のみに許される特権的行為として、相手を責めることもなく、容認へと向かったのではないでしょうか。しかし、逸枝には、次のような恋愛感覚が、感性の一部に宿っていたことも事実でした。以下は、生田長江が逸枝を「天才者」と評したときの詩集「日月の上に」に現われている一節です。原郷「火の国」に伝わる、幼き日に見聞きした遺俗なのでしょう。逸枝は、原始母系制の残照をここに見出していたのかもしれません。
お祭の夜には 若い男女の 自由戀愛が許される 若い衆はくじ引をして 女をきめる 女は従順( すなを ) にお化粧をして それを待つてゐる26。
したがいまして、妻が家に男を招き入れないように、そしてまた、妻が男と家から出てゆかないように、「扉はすべて鍵をかけて」おくように夫が妻に命じたとも考えられますが、他方で、妻にしてみれば、「自由戀愛」は太古の昔の恋愛形式の名残であり、男の嫉妬心はその後に生まれた支配原理の一部である以上、大した罪の意識はなかったものと思われます。しかしながら、これから入る「おそろしい未知の世界」を前にして、もはや「自由戀愛」に興じる余裕などはないとはいえ、それをきっぱりと遮断し、執筆へ向けた不退転の決意を自分から形に表わそうとして、ひょっとしたら無意識のうちに、心の鍵のみならず、進んで「門外不出」の「鍵をかけて」籠城してしまったのかもしれません。妻は、こういいます。
だがもう賽は投げられていた。いまはだれに訴えることもできないし、さく衣をきせられた狂人のように、どんなにわめいてみたところで、一軒家のひとりぼっちの私の声は、けっしてどこにもとどかないだろう。けっきょく私は出発し、前進するほかなかったのだった27。
それはそれとして、すでに上で紹介したように、憲三は、「彼女は三十七歳で研究にはいったが、僕はもっと早く準備をしてやれたらなおよかったと思う」と、漏らしています。もし、こうした憲三の後悔の言葉をこのとき直接聞かされていたとすれば、なぜそうしてくれなかったのか、逸枝は、涙ながらに訴えたかもしれません。といいますのも、その一〇年くらい前に、すでに逸枝はこう漏らしていたからです。
妾が女詩人として/九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸であつた 云つて呉れるな/貴女の御本領は詩作ですなどと/なぜ我々は/詩作の爲めに苦しまねばならないのか28
逸枝にとってのつらい日々は、上京して以来、続いていました。その延長として、駆け落ちもしました。もしそのころ、自分の気持ちを少しでもわかってくれていたら、何も、いがみ合う事態に陥ることはなかっただろうにという思いが、切々と逸枝の胸に込み上げてきたにちがいありません。以下は「放浪者の詩」のなかの一節です。
ある日妾が浮氣をして お嫁に行つて仕舞つたので こんなに二人は仲が悪るく 睨み合つて暮らしてゐるのだ29
このふたりの話し合いのなかで、憲三は、妻に対する態度を変える必要性に気づかされたものと思われます。それは、それまでの憲三が無自覚のうちに身につけていた伝統的な男性の存在様式に手を加えることでした。晩年に至って憲三は、同居中の石牟礼道子に、こうささやきます。かつて逸枝は、「家庭をケトバス」という表現を使いましたが、このときの憲三は、「家庭爆破」という言葉を用います。
ボクはね、男の一生を棒に振って女房につくした、という風におもわれているのですよ。僕は家庭爆破に、いささかの協力をしただけですよ。かといって僕たちはとくにボクは、家庭の遺制、つまり男権社会の遺制の中に育ったから、とくにボクはそれをひきずっていたから、一度これを爆破しなければ、女性は、全面的に生れ替ることはできない。それが自分の体験でよくわかるのです30。
「家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐる」――これが逸枝の認識でした。しかし、かくして「家庭爆破」により「豚小屋と刑務所」が、その姿を消した以上、それに代わる新しい何らかの空間が再建されなければなりません。それは、どのようなものだったのでしょうか。
それは、逸枝にとっては、憲三の要求を受け入れ、本来的に身に宿していた詩人である部分とアナーキストである部分を振り捨て、それに代わって、しっかりとした婦人解放の自覚のうえに立って、女性史の未出現の書き手としてその王道へと進み入ることであり、憲三にとっては、望むと望まざるとにかかわらず、いつしかしみついてしまっていた「男権社会の遺制」を意識的に振り払い、編集者としての職分をしっかりと自覚したうえで、「天才者」である書き手だけが含み持つ金色の才能を探り当てることだったのではないかと推量されます。
ここでいう「編集者としての職分」とは、出版社との事前の打ち合わせや契約、書き手の書く原稿の整理やとりまとめ、献本や寄贈本の送付、印税収入の管理、原稿用紙やインクなどの購入、図書館での調査、古書店などにおける史料等の発掘と入手、日々送られてくる雑誌や新聞や手紙類の整理整頓といった業務を含みます。その一方で、生活のためには、やむなく、いわゆる「売文」も書かなければならず、そのためには雑誌社や新聞社などとの交渉が欠かせません。そして、さらに重要なことは、日常的に書き手のよき相談相手になり、悩んでいるときなどには、執筆の方向性を与えたり、打開策を示したりする業務も加わるのです。先を読む力に裏打ちされた高度の管理能力が問われる仕事であるといわざるを得ません。まさに、平凡社での経験が生かされる場面です。当然ながら、編集者なくして書き手は存在できませんし、書き手なくして編集者は存在できません。それは、たとえば金魚鉢という空間における金魚と水の関係に似ています。「家庭をケトバス」ことで「家庭爆破」が起こったのちに再建が予定されていた夫婦の関係とは、そのような次元においてはじめて機能する新しい男女の関係だったのではないでしょうか。これが、逸枝が『戀愛創生』で説いた一体主義の原像だったのかもしれません。石牟礼は、憲三のもつ美質をこう評価します。
事業家、経営者として、憲三がいかにすぐれた資質者であることか、『高群逸枝全集』を出現させてゆく過程をつぶさに見てゆくと『大日本女性人名辞典( ママ ) 』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも隠されているその綿密な企画力、実行力、全過程への心配り、さらには事後処理の完璧さにおどろく31。
石牟礼は、この一節で憲三を「編集者」という言葉は使わず、「事業家、経営者」という用語で形容しています。「事業家、経営者」とは、「労働者」を賃金で雇い、強権的に支配する立場にある人を連想します。かつて逸枝は、苦しい日々を送っていたころの日記に、このような文でもって夫の強権ぶりを書き記していました。
きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うのだろう。これはブルジョアがプロレタリアートにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉と同じように悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない32。
もし憲三が「編集者」の立場を逸脱し、今後、「事業家、経営者」としての顔を露わに見せるようになれば、逸枝は、再び単なる著述家プロレタリアートの位置におとしめられる可能性があります。それを考えると、逸枝にとって、「事業家、経営者」としての夫に、完全に身をゆだねるには、あまりのも大きな危険が伴います。だからといって、「編集者」としての夫の優れた能力をこのまま見捨てるわけにもゆきません。さらに加えるならば、すでに上で引用していますように、家出をした際には、「金を少しください。××さんに返します」と、憲三に依頼しています。旅先の郵便局で受け取るつもりでいたのでしょうが、これは、日常の金銭的管理が逸枝自身の手によって自立的になされていなかったことを示唆します。さらに、第一章「高群逸枝と平塚らいてうの邂逅と『婦人戦線』の創刊」において示しているとおり、らいてうが観察するところでは、逸枝は、「身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした」。このことは、身体的にひ弱であったことを表わします。加えて、憲三が石牟礼に語ったところによれば、逸枝は「洗濯がとても下手で、僕の方がずっと上手で……放浪は出来ても商売など出来る筈はない」33女性でした。そうした諸々の事情を勘案すれば、もはやこの場に及んでは、夫を信じ、そこに身をゆだねるほかないのです。逸枝は、こう書いています。
この物すごいエゴイストは興味のない事柄や人物には冷淡だが、決意したことにはさりげない誓いのうちにも、私を心のずいから信頼させるものを持っていた。私はいまは遠慮なくそれに依存しようと思った34。
逸枝が指摘するように、確かに憲三は、エゴイストなのでしょう。これは、本人の「本性」にかかわる部分で、「男権社会の遺制」とは別の相に属するにちがいなく、自身の意思や判断によって容易に破棄することはできません。つまり、エゴイストに関しては、終生続くことが予想されます。しかし、一方の逸枝自身にも、将来の希望にかかわってエゴイズムが内在していました。いま一度、その箇所を引用します。
でも私には長所なんてものはないの。だから長所をもって貢献するという自信もないの。ただ私の希望を率直にいうなら、それは私が将来有名な学者になることではなく、生涯無名の一坑夫に終わることなの。これはもちろん一種のエゴイズムでしょう35。
つまり、ここにあって、単なる夫婦の表層的愛を越えた、立場の異なるふたりの内から湧き出るエゴが向かい合っているのです。そして、そのエゴが互いに支え合って、つまり、うまく利用し合って、ふたりの関係が何とか安定的に保たれようとしているのです。どちらかの一方が、そのエゴを内にしまい込み、相手のエゴの批判に走れば、一瞬にしてその関係は瓦解する恐れがあります。この新たな最少人数によるプロフェッショナルな家内制生産工房には、こうした特殊な力が存在し作用していたのでした。これが、旧い「家庭」が崩壊し、その後に新たに生まれ出ようとする「職場」における、いわば「職務規定」となるものでした。文学的でもあり、経営学的でもある、この空間的構造を支える原理的力学をふたりは相互に認識することによって、「森の家」で操業を開始するにあたっての話し合いは、最終結論へと導かれていったのではないかと、愚考する次第です。
以上を内容とする「設立準備会合」の結果、『婦人戦線』の継続について「私はこの責任を生命にかけても堅持しなければならない」という逸枝のひたむきな思いは退けられ、これまでと同じように夫の主張に、否、もはや夫ではなく編集者としての主張に、逸枝はやむなく従うことになります。かくして、奥付に名が挙がる「発行兼編集印刷人」たる逸枝の頭を越えて、おそらく憲三の強力な主導のもとに解放社との協議が進められ、『婦人戦線』は廃刊へと至る一方で、同じ版元から出版が予定されていたアナーキズム論集である『強権に抗す』も、同じ運命をたどることになったものと思われます。
『女人藝術』が終刊するのが、翌年(一九三二年)で、その次の年(一九三三年)には、プロレタリア文学の旗手と目されていた小林多喜二が官憲の一方的強権により虐殺されます。その意味において、憲三の「編集者」あるいは「事業家、経営者」としての目は、まさしく「機を見るに敏」に、機能していたのでした。
こうして『婦人戦線』は姿を消しました。一方の逸枝のこのときの心情は、どうだったのでしょうか。一九三一(昭和六)年六月に発刊された『婦人戦線』の最終号(第二巻第六号)に、逸枝は、「みぢめな白百合花の話」と題された短編の寓意物語を寄稿しています。以下は、物語に入る前の冒頭の前言です。
これは童話といふよりも、幼な心の記録とでもいふべきものです。幼な心には色々な悲しみがあります。みぢめな境遇にある子供は、えてかうした頼りない心の悲しみを味はうものです。おお、わたしはほんとうにそんな子でした。そして今も36。
これは、最後の「そして今も」の字句を巡って、両義的な解釈が可能な一文ではないかと推量されます。ひとつの解釈として、「そして今も」のあとに、「別のみぢめな境遇に私はあるのです」を補ってみます。すると、現在の「みぢめな境遇」が浮かび上がってきます。おそらく、憲三との話し合いの結果は、必ずしも十分に自分の心を満たすものではなく、それによって、子どものときに味わったような「頼りない心の悲しみ」が逸枝の身を包んでいる――そのようなことが示唆されているのかもしれません。しかし、女性史を書きたいという自分の意思は事実であり、憲三の言い分にも事実が含まれ、それでも割り切れない部分が事実として残る。こうした真実の積み重ねのなかにあって身動きがとれないむなしい自分の姿を、逸枝は「みぢめな白百合花」に例えて、自画像化しようとしたのではないでしょうか。最終号を意識するなかにあっての、これがこのときの逸枝の偽らざる心情の一部だったにちがいありません。晩年、逸枝は、自分の性格について、こうしたことを漏らしています。
私は自分に自信がなく、ひとに対して依頼心と依存心があり、自分自身だけでは考えを発展させることができないのをなんとしよう。ここに私の夫への奴隷根性があるのだろう37。
そうであれば、逸枝の悲しみや苦しみは、部分的には、内在の「依頼心と依存心」とに起因する自己の「奴隷根性」から派生するところの、一種の自己憐憫の情だったのかもしれません。
他方で、もうひとつの解釈として、「そして今も」のあとに、「変わることなく私はそう思い続けているのです」という補助線を引いてみます。すると、現在もなお子ども時代の「みぢめな境遇」のことが頭から離れず、逸枝の身にのしかかっている姿が浮かび上がってきます。「頼りない心の悲しみ」のなかには、母と娘の精神的葛藤が含まれている可能性も排除できません。
「嫁入り婚」の時代にあっては「嫁と姑の問題」がつきまといますが、「婿取り婚」の場合は、「母と娘の問題」が介在します。それを前提に考えますと、原始母系制に関心を抱いた最初のころ、高群は実際の母親と自分との関係に思いが至ったのではないかと想像されます。まず母があって、次に「婿取り婚」によって娘が生まれ、さらに次に、同じく「婿取り婚」によってまた娘が生まれる、こうした安定した継承が母系制の原理であるとするならば、自分自身の系譜にその遺俗は見当たらないか、そう思い高群は、身近な場所に目を向けた可能性はないでしょうか。といいますのも、「母と娘」が生き生きとした関係でつながっていれば、そこに母系制の遺俗の残照をかぎ取ることができますし、逆に険悪な関係で成り立っていれば、そこに母系制が終焉した要因を類推するきっかけを見出すことができるかもしれないからです。結果として見出した高群自身の「母と娘」の関係は、正確にはわかりません。しかし、六年前の一九二〇(大正九)年、高群が二六歳のときに、母親は亡くなりますが、立ち会えなかった娘に対して母親は、「世の中に貢献する仕事をするように草葉のかげからいつも祈っている」38という言葉を遺します。そのことから連想しますと、「意を決し、ここに過去いっさいの生活をふりきって、おそろしい未知の世界」である母系制研究に参入するにあたり、高群は、「みぢめな白百合花」を自分自身の手で母親の墓前に捧げようとした可能性もあながち否定できないように考えます。
それはそれとして、話し合いの結果を受けて、高群は、いよいよ女性史研究に向かうことを改めて決意します。それでは高群は、ここへと至るこの間、女性の置かれている状況をどう認識していたのでしょうか。いま一度『戀愛創生』に立ち戻りたいと思います。そのなかに、こうした一節があります。
婦人ほど、悲惨なものが、今日あろうか。彼女は暗黒、彼女は打ちひしがれてゐる。八方から叩かれてゐる。死滅しないのは、死滅する餘裕がないからである39。
別の箇所では、このようにも述べます。
愛の女神を原始の森の中から連れてきて現在の家庭のなかにおしこめたならどうであらうか。彼女はきつと、遠い故郷にあこがれて涙の日を送るに違ひない。 (中略) しかし、絶へてゐるということは、あきらめてゐるといふことではない。彼女は、積極的に、かの光明と、自由とへ、この家庭を推し進めて行かうとする意志と、行為とをもつて立つであろう。 このとき、彼女は社會に宣戦し社會に火蓋をきらねばならない40。
ここにいう「愛の女神」とは、高群の化身であるにちがいありません。その彼女が、いままさに「社會に宣戦」を布告しようとしているのです。高群の信じるところによれば、結婚制度のはじまりとともに、自由で自然な「恋愛生活」も終わりを告げ、一夫一婦制のもと、妻は夫の私有財産の一部と化し、女たちにとっての耐えがたい屈辱の時代が幕を開けたのでした。屈辱から立ち上がり、「かの光明と、自由とへ」解き放された暁には、何が待っているのでしょうか。それは、高群の書物のタイトルにある「戀愛創生」の一語に凝縮されるところの新世界であるにちがいありません。つまりは、人類がすでに失ってしまい、いまや忘れ去られてしまった「恋愛」の創生(あるいは再生ないしは復活)がそこに待っているのです。それは、高群にとってみれば、一方で、私有財産と一夫一婦という強権制度の解体を、そしてもう一方で、理にかなったひとつの母性保護の創造を含意するものでした。
それでは、「愛の女神」がかつて住んでいた「原始の森の中」とは、どのような世界だったのでしょうか。それに相当する部分を拾い出してみます。
農耕の生活が安定するやうになつてくると、ここに始めて人類は、経済的に最も安定した生活を送ることが出來た。それと共に、母系制度が確實な形をとつて現はれ、民族は財産共有の基礎の上に立てられた。即ち、それは共産主義的な社會の形式であつた。婦人はこの血族團體の指導者であり、支配者であつて、大いに尊敬せられ、彼女の意見は、家庭内におけると同様、種族の問題に関しても大いに尊重せられた。彼女は仲裁者であり、裁判官であり、神官として宗教的信仰の義務を盡していた41。
逸枝は、女を中心として成り立っていたであろうと思われる社会の根幹をなす「母系制度」に着目します。こうして、いまだ闇に閉ざされていた「女性の歴史」の発掘作業がはじまるのです。それは、男によってつくられた「歴史」を敵に回しての高群にとっての「聖戦」であったにちがいありません。といいますのも、それは、婦人解放のための史的根拠の創出であり、解放戦線に使用する「武器」の製造を意味したからです。そのための場として、富農で援助者の軽部仙太郎・なみ夫妻が、間口一〇間、奥行き二四間の二百坪の土地を貸し与えました。一九三〇(昭和五)年一二月二日の日記に憲三は、「軽部仙太郎さんみえる。家屋新築の件」42と書いています。すでにこのころから、『婦人戦線』からの撤退は考えられており、逸枝にとっての新たな転戦の場が設けられようとしていたのかもしれません。住所表示は「世田谷町満中在家五六二番地」で、小田急線の経堂駅から徒歩二〇分のところにあり、周りは森と雑木林が点在し、富士山を望むこともできました。そこに、六室からなる二階建てを新築し、その一室が逸枝の仕事部屋にあてられました。逸枝と憲三はこの家を「森の家」、のちには「女性史学研究所」と呼びました。「上荻窪二六九」の借家からこの新居にこの夫婦が引っ越したのは、『婦人戦線』の事実上の最終号が発刊された六月一日からちょうど一箇月後の一九三一(昭和六)年七月一日のことでした。
逸枝は、仕事初日のことにつきまして、晩年に至るまで忘れることなく、記憶していました。
仕事場はできたけれども、五坪の書斎のまんなかに、三尺の机をぽつんと置き、『古事記伝』(本居宣長)を一冊のせて座ったとき、書架や書庫にはまだ何一つなく、金もなく、多難な前途がしみじみと思いやられた……43。
他方で、この日逸枝は、刊行をまぢかに控えた『婦人生活戦線』につける「序文――若き友に與ふ」を書きました。この「序文――若き友に與ふ」は、「これを書いてゐる今、窓の外はいちめん七月である」ではじまり、「昭和六年七月一日 世田ケ谷の寓居にて 著者」で終わります。そして、四日後の七月五日に寶文館から世に出ました。この『婦人生活戦線』は、「第一 現代と婦人生活」「第二 婦人問題の發展」「第三 婦人運動の諸相」「第四 戀愛と結婚」の全四章から構成される、若い女性に向けて書かれた婦人論でした。印税収入は、当面の生活費と研究費にあてることが企図されていたものと思われます。こうして、逸枝の女性史研究がスタートしたのです。そのとき逸枝は、三七歳になっていました。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、236頁。
(2)高群逸枝『愛と孤独と』理論社、1958年、217頁。
(3)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、287頁。 しかしながら、この高群の言説は、明らかに虚偽といわなければなりません。といいますのも、高群が「森の家」において隠棲を開始するのは一九三一(昭和六)年の七月からですが、それより五年早く出版されていた『戀愛創生』(萬生閣、一九二六年)において、マルクス主義についても、無政府主義者についても、本人自らが言及しているからです。以下に、その一部を引用します。最初はマルクス主義に関しての部分です。 マルクス主義の理論は、その有名な唯物史観に根をもつてゐる。 唯物史観といふのは、人間の一切の生産樣式は、物質的事情、経済関係の如何によつて決定する。人間の社會生活の外観は勿論、その精神生活、政治、法律、道徳、宗教、文藝、科學、哲學等も、すべて、その時代の経済組織を中心として變化する。といふのである。 (中略) この生産関係の総和が、社會経済の骨組みをするので、法律、政治など、上部構造を作り上げる、眞實の基礎。また、それに相應する、ある社會的自覺を生む基礎。(『戀愛創生』、303頁) 次に、無政府主義者についての部分です。 無政府共産主義者として數へらるゝものに、プルードン、バクニン、クロポトキンがある。 プルードンは、平等を強く主張した。境遇の平等、機会の平等等を。 プルードンは、國家的支配を否定し、人間としての自由を熱望し、バクニンは、革命的無政府主義者として、革命の化身といはれ、人間平等の精神に立脚して、一切の特権制度に反對した。 彼の理想社會は、政府といふ組織を持たないばかりでなく、いかなる種類の制度をも持たなかつた。 (中略) クロポトキンの思想は、「パンの略取」「相互扶助」等で有名である。(『戀愛創生』、335-336頁) なにゆえに高群は、明らかに虚偽なる言説を、晩年の一九五八(昭和三三)年に刊行した『女性の歴史』(下巻)に盛り込んだのでしょうか。あえて憶測すれば、「森の家」において学究生活に入る以前の自身のアナーキストとしての姿に蓋をして、人目から遠ざけたかったからなのではないでしょうか。しかし、たとえそうであったとしても、実際には、本や雑誌に書いた文まで消し去ることはできず、そう思うと、高群のこの仕業は理解に苦しみますし、もしこれが、編集者たる憲三の指示によるであったとすれば、さらに不信は深まります。
(4)同『女性の歴史』下巻、同頁。
(5)らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」『青鞜』第1巻第1号、1911年、37頁。
(6)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、253-254頁。
(7)橋本憲三「三つの言葉――後記にかえて」『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、483頁。
(8)前掲『女性の歴史』下巻、286頁。
(9)同『女性の歴史』下巻、同頁。
(10)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、310頁。
(11)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、237頁。
(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻、236-237頁。
(13)同『高群逸枝全集』第一〇巻、237頁。
(14)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(16)同『高群逸枝全集』第一〇巻、242頁。
(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻、241-242頁。
(18)同『高群逸枝全集』第一〇巻、242頁。
(19)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(20)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(21)前掲『愛と孤独と』、10頁。
(22)高群逸枝「家庭否定論」『婦人戦線』第1巻第2号、1930年、婦人戦線社、22頁。
(23)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、250頁。
(24)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、228-229頁。
(25)石牟礼道子「最後の人4 序章 森の家日記(四)」『高群逸枝雑誌』第4号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年7月1日、23頁。
(26)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、78頁。
(27)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、244-245頁。
(28)前掲『日月の上に』、248-249頁。
(29)高群逸枝『放浪者の詩』新潮社、1921年、31頁。
(30)石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、22頁。
(31)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、356頁。初出は、石牟礼道子「『最後の人』覚え書き(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、52頁。 しかし、本文に使用しています『最後の人 詩人高群逸枝』からの引用文のなかの「『大日本女性人名辞典( ママ ) 』は逸枝の名で出されたが、研究に着手した彼女のカードを整理して憲三が書いたものであった。これを出版したときのパンフレットなどを読んでも」という字句は、対応する初出にはありません。のちに加筆挿入されたものと思われます。
(32)前掲『高群逸枝全集』第九巻、226頁。
(33)石牟礼道子「最後の人 第十一回 第一章 残像2」『高群逸枝雑誌』第23号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年4月1日、28頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、242頁。
(35)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(36)高群逸枝「みぢめな白百合花の話」『婦人戦線』第2巻第6号、1931年、婦人戦線社、36頁。
(37)高群逸枝『昨今の歌』講談社、1959年、46頁。
(38)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、185頁。
(39)前掲『戀愛創生』、113頁。
(40)同『戀愛創生』、278-279頁。
(41)同『戀愛創生』、44-45頁。
(42)前掲『高群逸枝全集』第九巻、239頁。
(43)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、244頁。