橋本憲三が水俣に帰ると、年が明けた一九六七(昭和四二)年の一月、『高群逸枝全集』の第六巻「日本婚姻史/恋愛論」が出版され、翌二月、最終配本となる第七巻の「評論集・恋愛創生」が世に出ます。この「評論集・恋愛創生」の巻末にあります「解題/編者」において、憲三は、こう書きました。
あとにして思えば、死の当日、彼女はおそらく眼前の死の自覚なくて、はしなくも後事を私に託する発言をした。彼女を失っていまは廃屋と化した二階の一室、彼女が三十余年前に机上ただ一冊「古事記伝」を置き、「女性史学事始」をなしたその一室に、私はひとり老残を横たえて、未完のままのこされた彼女の自伝「火の国の女の日記」の整理にしたがい、その刊行について理論社社長小宮山量平氏の然諾および前述のように全集発行の申し入れを受けるにいたる。かくて「火の国の女の日記」は一九六五年六月に刊行、その書をも含む「高群逸枝全集」は一九六六年二月第一回刊行、同六七年二月最終回刊行をみる。彼女に負う私の義務もここに終わるのである1。
この文を含む「解題/編者」の末尾には、「遺影のもとで一九六七年一月一日橋本憲三しるす」とあります。この日、おそらく憲三の胸は、万感の思いで満たされていたにちがいありません。
この「解題/編者」を書き終わると、憲三の関心は、逸枝の墓廟の建立に向かいます。逸枝の生地は、現在の宇城市松橋町で、そこには弟の清人が住んでいました。また、憲三自身も、水俣市の出身ではなく、必ずしも、なじみの土地というわけではありませんでした。そこで憲三は、墓をどこに建てるか、少し迷ったようです。
建墓の場所について、第一に私の頭に浮かんできたのは、払川の彼女の両親の墓側だった。……高群家の当主清人氏にこのことをつげてその意向をただしたところ、たぶん自分を最後として払川には後継者がなくなるだろうし、またここはあまりに遠い。……むしろ帰住の地をすすめたいということだった。けっきょく、水俣になったのだった。 正直にいえば、私は水俣をついのすみかとは考えていないらしい。心はいつも世田谷の森の家から彼女が死んだ病院のあの一七号室にはせている。……ただ、骨だけは故山に埋めねばならない。故山は東京よりも彼女が愛したから。 墓所はぜひ私の居室からながめられるところをとのぞんだ。幸いにこののぞみはきかれて……秋葉山の小丘に九九坪の土地を恵まれた。 ……眼下段々畑のつきるところに市役所と図書館と第一小学校が麓と川の間に別天地をなし、全市街とそれを囲む山々と、海と、天草島を一望におさめる。もちろん私の小さな家もみられる。私の家から歩いて一五分の地点2。
墓廟の形状は、「幅および奥行き各三・八メートル、高さ二・三メートル」3の石積みで、製作は、大塚石材に発注されていました。一月二〇日の「共用日記」には、「大塚さん――昨々日から山口に石を注文に出かけ今朝帰ってきたと。雪のため、山元では三月はじめごろ出荷のみこみと、……明後日から墓所の整地はじめを依頼」4と、あります。そして、五月二二日、墓廟は完成し、逸枝の霊骨を入れる段取りが整いました。
夕ぐれ時、お骨を骨座にいれる。その他に、全集と愛用の万年筆。憲平の土。愛鶏たちのお骨。白ばら。静子と二人で。故人も安心しなはったろう。自分の家に入って。と病床の姉がいう5。
こうして六月七日の逸枝没後三年目の命日を前にして、無事納骨が終わりました。
墓廟の正面左手には、彫刻家の朝倉響子に依頼した、「高さ八五センチ、幅七〇センチ」6の逸枝の等身大胸像のレリーフがはめ込まれることになっていました。完成したレリーフが到着したのは、翌年(一九六八年)の八月一日でした。次は八月九日の「共用日記」からの引用です。「6時起床。静子をたのみレリーフを山下まで運ぶ。8時まえ上山、献花。大塚さんすでにあり、レリーフも上げあり。8時仕事はじめ」7。続く翌日、「8時上山、献花と昼べんとう。午後3時施工終了。下山」8。そして、次の一一日に、「午前清掃。ひとりで除幕式」9を執り行ないました。こうして旧盆に間に合ったことに、憲三はきっと安堵したことでしょう。
全集の完結、墓廟の建造に続く、三番目の憲三の大きな仕事は、『高群逸枝雑誌』の刊行でした。憲三は、この季刊誌に、逸枝に関する若手研究者の最新の成果や新たに発掘された関連資料などを掲載することにより、日本における女性史学の樹立者である妻の業績を顕彰しようと考えたのでした。一九六八(昭和四三)年九月三日の「共用日記」には、「Mさん10時ごろ。高群雑誌の原稿『最後の人1』持参」10と記されています。「Mさん」が石牟礼道子であることは、いうまでもありません。道子は、こう書きます。
そのお仕事は氏の晩年の日々の、せめてもの慰めであった。『高群逸枝雑誌』はそのような意図を秘めて出され始めた。同人は先生と弟子の私のふたりであった11。
一〇月一日、『高群逸枝雑誌』の第一号が発刊されました。この号の誌面は、橋本憲三「『火の国の女の日記』の後」、高群逸枝「《拾遺》額田王」、石牟礼道子「最後の人1 序章 森の家日記(一)」、加えて「たより」欄から構成されました。「たより」には、四箇月前の六月七日の逸枝の命日に平塚らいてうから届いていた電文も転載されています。「本日、逸枝さんの五回忌をおむかえして、ご冥福のますますゆたかならんことを心からお祈りいたします。合掌」12。らいてうと逸枝夫妻との変わらぬ友情を、ここからも読み取ることができます。
他紙に先駆け、地元の『熊本日日新聞』が、一九六八(昭和四三)年一〇月四日、『高群逸枝雑誌』が創刊されたことを伝えました。とりわけ石牟礼道子の「最後の人」に、関心が向けられています。以下は、「高群逸枝雑誌の創刊」(八面)という見出し語をもつ囲み記事のなかの一節です。
「最後の人」は長編評伝の第一回。「序章 森の家日記(一)」で、一九六六年夏、逸枝なきあと東京・世田谷の森に家が取りこわされる前に一度見ておきたいと上京した石牟礼氏が、残務整理もすませていよいよ、憲三氏とともに森の家をあとにするところから始まる。憲三氏は「瞑目したまま軽く呟くように、『逸っぺごろ、また水俣にゆきますよ』と熊本なまりでそういわれた」――それは逸枝自身が帰省のために森を出た昭和十五年八月の朝へと連想をさそい、さらに連想はさかのぼって招婿婚の研究当時の逸枝の日常へと連なったりする。逸枝の日記、憲三氏の談話ノートなどを随所に混じえながら、ある時は伝記風に、ある時は日記風に、書き進めていく。逸枝と著者との自由な対話といった趣のすべり出しである。
そして続けて、以下のように、今後の成果に期待を寄せるのでした。
雑誌は季刊の建て前をとり、研究論文、エッセー、評伝、創作など表現形式は自由、同人以外の寄稿も歓迎する。特定の学者一個人の研究を目的とする雑誌が、しかも地方で定期的に発行されるという例はきわめてまれであるが、この雑誌が息長く刊行され、成果をあげることを期待したい。
この創刊号の裏表紙の見返しには、『高群逸枝全集』を推薦する「高群全集に思う」と題された道子の文が掲載されています。そのなかで、憲三に言及した箇所を、次に引用します。
このような大事業をなして彼女が現世に得たものは名声にあらず富にあらず地位にあらずむしろその逆のものであったが、この事業の生涯の協力者であった夫憲三の至純の愛ひとつを抱きえた事は涙あふるる思いがする13。
こうして『高群逸枝雑誌』は、高群女性史学にとっての継続的な砦となることを目指して、水俣という小さな地方都市から産声を上げました。
年が明けて一九六九(昭和四四)年一月一日、『高群逸枝雑誌』の第二号が発行されました。この号には、石牟礼道子「最後の人2 序章 森の家日記(二)」と並んで、息子の石牟礼道生の「母への手紙」も掲載されました。大学生になっていた道生が、この時期、母親をどのように見ていたのか、その一端が、この文の末尾の詩片に現われていますので、その箇所を引用します。
なにもかも あなたがしっているところのものは すべて超越していて そんなことをさりげなく話すあなた そしてときには まだなんにも知らない 幼い少女の澄みきった心のように でも恥じらいながら知ろうとして またためらう娘のように14。
続く一九六九(昭和四四)年四月一日発刊の『高群逸枝雑誌』第三号の「たより」の欄には、らいてうからの手紙が掲載されています。前年の一二月三〇日に書かれたその手紙には、このようなことが記されていました。
いよいよ年も暮れようとしております、心ならずもご無沙汰申し上げましたが、あなた様のお心づくしで高群逸枝研究の雑誌が出ますことを心からうれしくおよろこびいたします。…… お立派なお墓が出来上がりましたことを知りうれしくおもいます。 この夏頃でしたが、やっとの思いで、お住いの跡――桜児童遊園を訪れました。……あの告別式の日の森のお家の印象はどこにも見出せません。 ……お二方さまのお住いの跡であることも、あのコウカンな女性史をおかきになったところであることも何一つの表示もないのを、また近所の人たちも全く何も知らないらしいのをたいへんさびしく感じました15。
おそらくこのとき、「高群逸枝記念碑」のようなものをこの公園に建立する思いが、らいてうの頭をよぎったようです。しかし、「その後私の健康がすぐれない日のみ多く病院のご厄介になったりしおりまして心ならずも年末を迎えてしまいました。この冬を何とか無事に乗り越えまして、春とともに元気を出したく念じております」16。そして、この手紙は、「お妹さまにも、今ちょっとお名前が浮びませんが御地の高群さん研究家のあのご婦人にもよろしくお伝え下さいませ」17という言葉でもって結ばれています。「お妹さま」が静子で、「あのご婦人」が石牟礼道子であることは、明らかです。少なくとも逸枝の「森の家」での葬儀の際に、静子とらいてうは顔をあわせていますし、道子は、「森の家」滞在中に憲三に連れられて、らいてう宅を訪れています。
らいてうの体調がすぐれないなかにあっても、「高群逸枝記念碑」の建立の準備は進められてゆき、逸枝の没後五周年に当たる一九六九(昭和四四)年六月七日に、「高群逸枝記念碑」の除幕式が挙行されました。式典では、建碑世話人として一五名の名前が読み上げられられました。そのなかには、平塚らいてうや渋谷定輔に加えて、熊本出身の俳人である中村汀女の名前もありました。健康がすぐれず上京できなかった憲三に代わって、渋谷が遺族の挨拶文を読み上げました。碑の表には、逸枝自筆の詩章が刻印され、裏には、渋谷が原案を起草した、次のような由来記がはめ込まれています。
高群逸枝住居跡の碑 歴史学者詩人高群逸枝は深く武蔵野の森を愛し出世作「日月の上に」は一九二〇年ここの森の中で書かれました そして一九三一年研究所を設け定住し女性史の研究に献身して先駆的な不滅の業績をうちたて 一九六四年六月七日ここに偉大な生涯を終えられました 一九六九年春18
この除幕式については、「高群逸枝さんの記念碑 東京の旧居跡に完成」という見出しで、六月九日の『熊日』(三面)において取り上げられました。以下は、その一節です。
碑は「萬成」といわれる明るい茶色の自然石で、表面に「時のかそけさ春ゆくときのそのとき( ママ ) [時]の時のか( ママ ) [ひ]そけさ花ちるときのその時の」と高群さんの詩が刻まれている。橋本さんは病身のため除幕式に出席できず、手紙を送って「ありし日のかたみをとどめられることは故人の光栄はもとより、唯一人の家族である私にとっても感激です」と喜びの言葉を送ってきた。
「高群逸枝記念碑」の除幕式からさかのぼる半年前の一九六九(昭和四四)年一月二八日、石牟礼道子の出世作となる『苦海浄土 わが水俣病』が講談社から刊行されました。道子は、その「あとがき」に、こう書きました。
ここにして、補償交渉のゼロ地点にとじこめられ、市民たちの形なき迫害と無視のなかで、死につつある患者たちの吐く言葉となるのである。 「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。……上から順々に、四十二人死んでもらおう。奥さんがたにも飲んでもらう。胎児性の生まれるように。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。あと百人ぐらい潜在患者になってもらう。それでよか」 もはやそれは、死霊であり、生霊たちの言葉というべきである19。
死をもって死をあがなうことを望む、この「死霊であり、生霊たちの言葉」は、膠着状態にあった水俣病患者の補償問題を巡る、まさしく宣戦布告となるものでした。四月、水俣病患者家庭互助会は一任派と訴訟派に分裂します。一任派とは、厚生省(現在の厚生労働省)が誘導する、第三者機関による裁定に「白紙委任」をもって身をゆだねようとする人たちを指します。しかしこれでは、原因企業であるチッソ株式会社(一九六五年に新日本窒素肥料株式会社からチッソ株式会社に社名変更)の責任を白日の下に晒すことはできません。一方、訴訟派は、法廷の場において責任の所在を明確にしたうえで、前例なり法的規範なりのなかにあって賠償を勝ち取ろうとしました。六月、水俣病患者および家族のうちの一一二人は、チッソ株式会社を相手取り、損害賠償請求訴訟を熊本地方裁判所に起こします。いわゆる「第一次訴訟」と呼ばれるものです。
そうしたなか、熊本日日新聞社は、『苦海浄土 わが水俣病』に対して熊日文学賞を石牟礼道子に授与します。しかし道子は、これを辞退します。一二月一四日の『熊日』の一五面を開くと、「『水俣病』にかかわること 熊日文学賞の辞退について」という見出しの道子の寄稿文が目に入ります。読んでも、辞退についての具体的な理由は何も書かれてありません。「水俣病市民会議会員」という所属名のもと、書き手としてのいまの心境が幾分詩的に綴られているのみです。以下は、この文の末尾の一節です。
ものを書くなどということは、本来処世の道とは外れ、度しがたい世界にかかわることだと、私にはおもえる。まして、余生を生きている命でもって水俣病にかかわり、ひとたびは死んだ祖たちやはらからたちを生む、産親にならねばなどと、こいねがうなどとは。 なんと、夜とも昼とも、おどろおどろして定めがたい心象風景の中をのみ、さすらっていることであろう。 つつしんで熊日文学賞をご辞退申上げるゆえんである。
年が変わり、一九七〇(昭和四五)年が訪れました。一月二〇日の憲三の日記に、こう記されています。「Mさん、妙子さん(妹)、久木野日当野ゆき。居室の前の県道(旧国道)から窓べに立っている私をみて自動車をおりてあいさつ。きょうから山の家びらきとのこと」20。この日道子は、訪問者を謝絶して一日一〇時間、執筆に専心した逸枝の「森の家」に倣うかのように、白浜町(通称日当猿郷)にある自宅の書斎を出て、「山の家」に設けた仕事場へ移ったようです。憲三は次の日、この「山の家」を訪ねました。
私は翌朝家の前からバスに乗って久木野に向かい、竹下橋下車、近道をとって急坂を登っていった。……その戸をたたいた。たたきながら「しまった」と独語した。自分はいま明らかに不時の闖入者だ。これは世田谷の森の生活の鉄則を忘却した行為だ。私は深く恥じた21。
新しく設けられたこの「山の家」の仕事場で書かれた可能性もある、「亡命」と題された短文を、道子は『熊日』に寄稿します。次は、四月二九日の六面に掲載されたその文の書き出しの部分です。
故あって、この春は逃亡行の春だった。 合間に「水俣病に対する企業の責任――チッソの不法行為」というむずかしい論文を、学者さんたちと共同執筆するための研究会や、「水俣病を告発する会」の例会や、「高群逸枝雑誌」の二人会議に出没していたから、シッポを出して歩く狸のようなものである。
『熊日』に「亡命」が掲載された翌月の五月二〇日、道子は、憲三に手紙を書きます。緊迫した様子が、そこには綴られていました。このときの道子の心情がよく表われています。長くなりますが、断片的に以下に、引用します。
体力も気力も限界にきています。……毎晩徹夜で人の相手をしたり手紙をかいたり。水俣病がひとつの極点にきているので、もう私も、自分では手のつけられないモノに化身してしまって……母がねむらない私をオロオロしてみにきます。…… 急速に歯車がまわり出し、すべての小状況、大状況に対して、無限の違和感を重くひきずっていますが(人間関係、( ママ ) )、自分の感懐を点検するゆとりはいま皆無です。…… 無名の人々の魂魄に立ちあうには、自分も一無名者にならねばならぬとだけおもいます。私にいま出来るのは皆さんの雑用だけです。…… ご遺言状のことで(裁判のきめ手)、また、東京基地をつくるため仲間と出京します。二十五日ごろ「補償処理委員会」の結論が出されるでしょう。 ……どうかおねがいですから、逸枝雑誌は、村上さんと河野さんのお原稿でお出し下さるようおねがいいたします。(この度は、)東京に行ったら、どのようになるか判断つきかね、期限のお約束、安易にできませんのです。あるいは、告発の会の巻きぞえでタイホ、などありえますのです。…… ……森の家のまぼろしをみながら、出発いたします。……22
この手紙を書き終えた道子は、前年に渡辺京二が呼びかけて熊本市内に発足していた「水俣病を告発する会」のメンバーや水俣病の患者らとともに、厚生省の補償処理委員会の会場へ乗り込むために、逮捕されることを覚悟のうえで、東京に向かいました。道子は、その「処理」の様子を、こう書きます。
昭和四五年五月末〈水俣病補償処理委員会〉(座長・千種達夫)は、厚生省に患者代表とチッソ首脳を呼び、死者最高四百万円(実質は三百万前後)で、公式に認定されている患者たちの大半を、文字どおり、〈処理〉し去った23。
道子の上京により、創刊号(一九六八年一〇月)に第一回を掲載して以来、休むことなく連載されてきていた「最後の人」が、第七号(一九七〇年四月)掲載の第七回を最後に途切れます。第八号(一九七〇年七月)は、村上信彦の「高群逸枝の柳田国男5」と河野信子の「現代の喪失『女性の歴史』覚書2」で構成され、加えて、道子の穴を埋めるかのように、憲三の「題未定――わが終末期」の第一回が登場するのでした。
東京から帰ると、ただちに道子は、憲三を訪ねたものと思われます。七月五日の憲三の「共用日記」には、次のようなことが書き込まれています。
10時-12時Mさんと話す。非常な仕合せであった。高群雑誌についてある了解。朝から原稿書き(さびしい風の日です)24。
「仕合せであった」理由も、「ある了解」についても、不明です。しかしこのとき、憲三の体調がさらに衰えを見せ、自死さえ考えていたことは確かですので、そのことと、何か関係があったのかもしれません。憲三は、道子が訪れる数日前に発刊された『高群逸枝雑誌』第八号に掲載された「題未定――わが終末期」のなかで、このようなことを書いています。「私は昨年の三月から感冒のため臥床がちとなり、そのうちかぜはとれたが全身の神経炎らしい極度の不快感を覚え、その日の天候によって心身の乱調が顕著に知覚されるようになった」25。そして、こうも告白するのでした。
私はできるだけ長生きしたいと希望しているのではないのだ。売薬を利用したり病院にいったりするのは、当面の‶肉体的苦痛″からのがれたいためである。じつをいえば私はいつも死を欲しているのである。それもはっきりいえば自然死ではなくて自死なのだ。私一個にのこされた仕事があるから、つまり「まだ生きている」のだ26。
一方、らいてうの体調も芳しくなく、このような内容の手紙が、憲三のもとに届きました。「……まだ自伝もなかなか書き上がりませんが、老齢のため手術は出来ないものらしく、気長に治療をする覚悟をしております。〈渋谷区千駄ヶ谷 代々木病院より〉」27。それに対して憲三は、一二月一二日に、「平塚さんにおみまい状(代々木病院三階病棟)」28を書いています。そして、年が明けた一九七一(昭和四六)年五月二四日、らいてうはその人生に幕を閉じます。次は、二日後の二六日の「共用日記」からの引用です。
平塚らいてうさん逝去。24日午後10時36分。本日の朝日新聞で妹よりつたえられ驚く。故人の霊前に報告とともに霊位をまつり白いバラを捧げ冥福を祈る。/弔電のあと、弔文を敦史明生( ママ ) [曙生]さんあてに書き、香奠をおくる。山上29。
続く、五月三〇日の「共用日記」には、「らいてうさん葬送の日。遙拝」30の文字が記されています。かくして平塚らいてうが亡くなったことにより、すでに先立って富本一枝も黄泉の客となっており、本論で扱っている火の国の女たち(高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子)と、青鞜の女たち(平塚らいてうや富本一枝ら)との友愛は、実質的にここに終焉したのでした。
この間、一九七〇(昭和四五)年四月一日刊行の『高群逸枝雑誌』第七号に掲載された「最後の人 第七回 序章 森の家日記7」を最後に、道子の「最後の人」の執筆が止まっていました。次は、一九七一(昭和四六)年一〇月二七日の憲三の「共用日記」からの引用です。
午後Mさんみえる。一昨日東京から帰ったと。信州そばにゆく。/『苦海浄土』第二部のこと。/自叙伝のこと。その他。/高群評伝のために、これから定期的に私の聞書をテープにとること。談話――ニュース多岐にわたる。十五日までに高群雑誌原稿を書くと31。
「十五日までに高群雑誌原稿を書く」というのは、翌年(一九七二年)一月一日発刊予定の『高群逸枝雑誌』第一四号に掲載する「最後の人 第八回 序章 森の家日記8」の原稿を「一一月一五日までに」書くという意味でしょう。これは、「最後の人」の執筆再開を意味します。しかし、「最後の人 第八回 序章 森の家日記8」を書き上げるや、再び、執筆が止まります。続く「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」が『高群逸枝雑誌』に登場するのは、一九七三(昭和四七)年一月一日刊行の第一八号です。この間道子は、再び水俣病闘争に身を投じることになるのでした。
二度にわたる「最後の人」の休載と、道子にとっての水俣病闘争は、完全に時期的に重なります。一九六九年一月の『苦海浄土 わが水俣病』の刊行から一九七〇年五月の「補償処理委員会」の粉砕を目指しての上京までを第一幕としますと、第二幕は、新認定患者の川本輝夫らがチッソとの自主交渉闘争を開始する、この年(一九七一年)の一〇月から、水俣病裁判にかかわって熊本地裁で判決が下される一九七三(昭和四八)年三月までということになります。
人口約五万人の水俣で、およそその一割以上がチッソの従業員であったり関係者であったりする、いわゆる企業城下町にあって、事を荒立てることなく、政府の示す調停案を受け入れようとする一任派の存在もありました。その一方で、加害企業の責任を問い、被害者の救済と補償を、司法の判断にゆだねて希望をつなごうとする訴訟派の人たちもいました。しかし、また別のグループの動きもありました。すでに亡くなった人たちや、いま生きて死者のごとき存在にある人たちは、自分の口で自分の苦しみや悲しみを訴えることはできません。もとより法廷はこうした吐血した魂魄の表現の場ではなく、たとえ裁判において勝訴したとしても、この無念さは、誰の胸に伝わることもなく、血と地に埋もれて残ることになります。その心を代弁して、責任企業であるチッソの経営者に直接訴えかけ、誠意ある謝罪と補償を引き出そうとする活動家やそれを支援する義人はいないのか――。さらには、死者の霊を慰めるために文を書く文学者や、映画や写真でもってそれを表現する映像作家はいないのか――。加えて、この病は、単に一企業の犯罪的行為がもたらした結果というだけに止まらず、日本の近代化の過程に忌まわしくも宿る、生産至上主義や利益至上主義の副産物でもあり、それを問おうとする批評家や学者はいないのか――。水俣病の病理は深く、こうした設問に対しての納得ゆく解答がない限り、この事件に幕を引くことはできない――。一方の裁判闘争に期待を寄せながらも、他方で、こうした独自の考えのもとに、ある種衝動的に、そして衝撃的に立ち上がったのが、自主交渉闘争に参加した患者や文化人たちであり、そして、多くのその支援者たちでした。石牟礼道子の姿も、この集団のなかにありました。
一九七一(昭和四六)年一〇月六日、熊本県は、川本輝夫ら一六名を水俣病患者に認定します。一一月一日、「いよいよ新認定患者(以後川本派、ないし、自主交渉派とよばれる)グループ一八世帯、チッソ水俣工場正門前(鹿児島本線水俣駅前)座り込み」32。しかし、当事者能力のない工場を相手では真の交渉とはなりえず、一二月六日、自主交渉派は、東京の丸の内にあるチッソ本社前に陣取りました。それより二日後の八日、社長との会談が実現します。直接社長に自分たちの要求を認めさせようとする自主交渉派と、政府の中央公害審議会の指示に従おうとする会社側とのあいだには、大きな立場の開きがありました。以下は、川本輝夫と社長が交わした、そのときの会話の一部です。
川本 ……わしゃ今日は、血書書こうとおもうて、カミソリもって来た。 社長 (息をひくようなかすかな声)え? 川本 血書を書く、血書を。要求書の血書を。 社長 !…… 川本 あんたはそして、わしの小指を切んなっせ、ほら。 社長 …… 川本 その返答はわしが……あんた、社長の指もわしが切る、いっしょに。 社長 いや、それはごかんべんを33。
日はとっくに暮れていました。十数時間に及ぶ話し合いも、患者側の要求は受け入れられず、社長は担架で運ばれる結末となりました。以降、年越しの座り込みが続きます。道子はそれを、こう描写します。
遠くこころに昏れる雪景色をふり払い、わたくしは起きて、ふたたび路上に寝ているものたちの姿をまじまじとみる。 「こうなればもう、東京乞食じゃなあ」 なぜそのようにいうとき、こうもはればれと互いの顔がまぶしいのか。 ……よろばいいでてここに辿りきたったものたちと、これに相寄り殉ずる無名者たちの集団。……そのような景色の上に照る一九七一年大晦日から一九七二年への、まだ明けやらぬ元旦東都の月。 丸の内東京ビル、チッソ本社前。……あまねく全身をうち晒してその底にねむるものたちが、こころの中の渚に打ちあがり、ひくひくと地の霊のごときものに化身しようとして、元旦の満月とまみえていた34。
こうして川本派による自主交渉闘争は、次の一九七二(昭和四七)年へと持ち越されてゆきました。そうしたなか、道子の視力低下は、限界にまで達していたようです。この年の六月二二日の「共用日記」には、「石牟礼さんから手術直前のたより。15日。あと2年生きるために手術と(順天堂病院眼科)」35と、書かれてあります。道子の祖母の「おもかさま」も失明していました。道子も、そうなる不安を抱き、手術に臨んだものと思われます。おそらく手術はうまくゆき、何とかそれ以上の進行を食い止めることができたにちがいありません。それから四箇月の月日が流れ、今度は水俣病の闘いにとっての、大きな朗報がもたらされました。一〇月一五日の『熊日』の朝刊は、一面トップで、こう伝えたのでした。
四大公害訴訟をしめくくる水俣病裁判は十四日結審、来年三月に予定されている判決を待つばかりとなった。公害の恐ろしさと悲惨さを法廷で思い切り訴え、チッソへの恨みをぶっつけた原告の患者家族、全国の支援団体の人たちは「これからが公害追放の真の闘いだ」と決意を新たにしている。患者たちは近く東京のチッソ本社に出向き、「即刻、原告の要求に応ぜよ」と迫る一方、水俣病裁判の報告キャラバンやチッソ糾弾の署名運動を全国的に展開する。判決での完全勝訴を目ざすのはもちろん、公害の原点だった‶ミナマタ″を、公害絶滅の原点にしようという決意も高まった。
この日の紙面の九面に目を移しますと、道子の寄稿文「魚に曳かれて」が掲載されています。そのなかで道子は、末尾の一節を、このように締めくくりました。
窓の外の秋がかなしくて頭の芯がうずいた。ずうっと前に、この夫婦とこんな話をした。 「なして、水俣の茂道あたりにおいでなはりました?」 「わしゃ熊本近辺の人間で料理屋しょったけん、水俣の魚がおいしゅうして、水俣の魚に曳かれて、魚食いにな」 爺さまがそういうと、婆さまがにこにこっとさしうつむき、ちいさな声でこう言ったのだ。 「なんの、わたしが昔、あんまりよかおなごだったけん、わたしにひかれて来なはったとばい」
次の年(一九七三年)の三月、熊本地裁で水俣病訴訟(第一次訴訟)に判決が下り、原告が勝訴します。その後、訴訟派と自主交渉派は合流し「水俣病東京交渉団」を結成すると、東京本社でチッソとの交渉を開始し、七月、「補償協定書」に調印するに至り、この時期激化した水俣病闘争が、事実上の終焉を迎えました。こうして、道子にとっての水俣病闘争第二幕も、ここにその幕を降ろすのでした。次の一節は、道子の「まだ灯らぬ闇の中から」から引いたものです。
水俣病裁判の判決が出たあとの訴訟派と、それを待機していたチッソ本社内の自主交渉派が合同して行った東京チッソ本社での交渉が、最後のつめにはいったときからわたしは帰郷し、ほとんど外に出なくなった。 高群逸枝さんの故事にならい、積極的な意思で外部を遮断し、残された仕事を仕上げるためでもある。予定の仕事と残りの命をくらべると、人いちばいスローモーションの私は、世間との義理もおつきあいもひたすらごじたいして、だれにも逢わずにとじこもってしまっても、仕事を残したまんま、死んでしまうことになる36。
このときの道子は、おそらく、「世間との義理もおつきあいもひたすらごじたいして」執筆に専念した結果でしょうか、実に多産な仕事ぶりを発揮します。闘争資金の捻出のために企画された、道子を編著者とする『水俣病闘争 わが死民』(現代評論社、一九七二年四月)に続いてこの時期、闘争にかかわる初出原稿を集成した『流民の都』(大和書房、一九七三年三月)、『苦海浄土』の第三部となる『天の魚』(筑摩書房、一九七四年一〇月)、さらに加えて、自身の過酷な出自と育ちを語った論集である『潮の日録 石牟礼道子初期散文』(葦書房、一九七四年一二月)を上梓するのです。
またこのとき、道子は、雑誌の刊行にも乗り出します。一九七三(昭和四八)年の秋、水俣病闘争の同志であった松浦豊俊と渡辺京二とともに編集兼発行人となって季刊誌『暗河』を創刊するのです。この号の「編集後記」に、このような道子の言葉があります。
*このような異常世界が、日常と化してしまっては、わたくしたちがついこのあいだまで、たしかに持っていた筈の、あの当たり前の「日常」というものの原型はもう、見ることが出来なくなるのかもしれません。……お月さまの光の下の、山野の吐く息づかいのような雑誌になれば、と思っています37。
また、渡辺京二は、こう書き記します。
創刊号の執筆者は石牟礼・赤崎・石本の三氏が水俣市、三原氏が福岡市に在住する以外はみな熊本市の住人である。……私は七年前に「熊本風土記」という雑誌を出して十二号にして休刊にいたらしめた前科者である。……ただ私は、「風土記」の中心的な書き手であった石牟礼・松浦・上村の各兄姉の力作が「暗河」創刊号の誌面の中心となっていることに、やや心なぐさめられる思いがする38。
かくして道子は、水俣病訴訟の判決言い渡しを境として、一九七三(昭和四七)年以降、新たな文筆活動の道へと入ってゆくのでした。
それでは、この時期の道子の暮らしと仕事のありようは、どのようなものだったのでしょうか。道子は、このように書いています。
いま自分の家と、秘密の仕事場の間を往き来するばかり、活字だけでわずかにこの世への片道通信を発しているわたしのことを、家のものたちは、半ばあわれがり、 「おるげのもぐら殿」 とか、「もぐら女( じょ ) 」などという。じっさい、おてんとうさまに当たると、光やなまな風がまぶしすぎて、水晶体のないまなこがくらみ、心臓がいかれてしまい、掘り出されたオケラのようなあんばいである39。
それでは、仕事の方は、どうでしょうか。
もっとくだいていえば、この世に不幸感を持っている魂の歴史を自分のものにして、自分もそのなかにいま生きている意味を、納得したい、というのが、そろそろ、ものを書き出した十代の頃からの気持ちだった40。
この初心が、一九七三(昭和四八)年に、一気に開花してゆきます。この年、「椿の海の記」の第一回を『文芸展望』の創刊号に、そして「西南役伝説」の第一回を『暗河』の創刊号に発表し、連載がはじまるのです。両作品ともに、「この世に不幸感を持っている魂の歴史」を叙述するもので、前者は自分自身の、後者は下層の人びとの魂を扱っていました。そしてこのとき、もうひとつ、道子の胸を占めている、強い思いがありました。
水俣病問題にかかわっていて、おくれた主要なテーマはいまひとつあり、それは、わが国だけでなく、世界のなかでも今までかえりみられなかった「女性の歴史」をはじめて書いた詩人高群逸枝の評伝を書きたいことである。…… 彼女へのわたしの関心は、その業績にふれるには、あまりに無学、晩学で、これから勉強しなければならないけれど、水俣病にかかわっているうち、最初の予定にはなかった左眼の失明や、残りの視力もおぼつかないので、それには触れられそうもない。それより彼女の仕事に一貫しているこの世への愛や、その裏にある深い孤独や、詩人の魂ともいうべきものに、近づきたいと思っている。とはいえ、私の視力は時間の問題なので……本当は書ける日があるのかどうかおぼつかない41。
「本当は書ける日があるのかどうかおぼつかない」と語る道子でしたが、「この世への愛や、その裏にある深い孤独や、詩人の魂ともいうべきものに、近づきたい」という思いが、道子の背中を強く押したのでしょうか、途絶えていた「最後の人」の執筆再開がここにはじまります。一九七三(昭和四八)年一月一日刊行の『高群逸枝雑誌』の第一八号に「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」が登場し、ちょうど一年後の第二二号に「最後の人 第十回 第一章 残像1」が掲載されると、それ以降、「『恋愛論』解説 高群逸枝のまなざし」を掲載した第三〇号を除いて、憲三が亡くなる年(一九七六年)に発刊される第三一号の「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」まで、休むことなく連載は続いてゆくことになるのです。事実上、これで『高群逸枝雑誌』は廃刊となります。 一方の憲三は、その間、どのような生活を送っていたのでしょうか。妹の静子は、こう回想しています。
憲三は東京の仕事の後片付けをすませ、水俣の姉妹のところへ引き越して来ましたが、窮鳥を待ち構えた姉フジノの懐へは入らず、自分の家を売却した金の一部で姉の屋敷内に二階建を造り、一階と二階半分を姉の店の倉庫に貸し、家賃と自分の食事代を相殺させてけじめをつけました42。
おそらく「森の家」の本や屋敷を処分した代金は、水俣で憲三が住む二階建ての家の建設と、逸枝の墓廟の造営と、加えて『高群逸枝雑誌』の刊行の費用に使われたものと思われます。外国旅行はおろか国内旅行さえも楽しむわけでなく、かといって美酒や美食に打ち興じるわけでもなく、極めてつつましい生活ぶりだったようです。この二階半分の居室で憲三は、ときには道子を加えて『高群逸枝雑誌』の編集作業を行ない、窓から見える、秋葉山の中腹に建立した妻の墓碑に手をあわせては、日々、ありし日の逸枝の面影に心を寄せていたにちがいありません。
建物の外回りの階段や、母屋と建物のあいだに茂る庭木については、道子がこう語ります。
東京の森の家とくらべたら、寝るだけの部屋の、卒然たるリアリズムなんですよ。地上からこの二階に通じる露台というか、階段が建物の外にあります。……森の家の樹木群には及ぶべくもありませんが、あの森の樹々のたたずまいをいたく恋いしたっている静子が、それを再現すべく願望して、心をくだいていて、松や梅や槙の間に、もちの木、いすの木、百日紅、楓、寒椿、八つ手、ゆすらうめ、南天、すすき、すずらん、バラ、彼岸花などが育っています43。
加えて、この時期の憲三の執筆と健康の状態についても見てみたいと思います。道子の「最後の人」の連載再開とあたかも入れ替わるかのように、これまで『高群逸枝雑誌』に連載されてきた憲三の「題未定――わが終末記」は、一九七二(昭和四七)年七月一日刊行の第一六号に掲載された第九回をもって休載となります。連載開始の時期から比べて、さらに体力や気力が衰えてきたようです。その号の巻末の「編集室メモ」に、そのことがよく現われています。
私は前号の終末期の原稿をベッドの上で書いているとき鼻から血を出した。はじめ気分が悪くなり、次の瞬間、「ふいに思考がふっ切られ、目が見えなくなり、頭の中にモヤのようなものが立ちこめ、鼻から赤い血がぽたぽたと紙の上に落ちてきた」のである。……こういった中で、15号はかなりの編集ミスをおかした。発送は他の援助にあずかった。現在は小康状態44。
それから一年が立った一九七三(昭和四八)年八月三日の「共用日記」には、「突然、尿の排出がわるくなり、下腹部張る。午後5時ころ上田病院に静子とゆく。前立腺肥大にて手術(入院を要す)」45との記述があります。八月七日「市立病院にゆく。(上田病院の紹介をもって)。静子と」46。続く八月一三日「市立病院に入院。精密検査はじまる」47。半月後の八月二八日、「十時すぎ一時退院で帰室。21号編集にかかり、早速第一便原稿を下田印刷に送る。夜になり、あとのもの全部おわり、投函する」48。
憲三が「森の家」を離れ、帰郷した水俣の地で『高群逸枝雑誌』を発刊すると、美しい花に引き寄せられるチョウのように、多くのたよりが舞い込み、一方で、大学の学生や教員たちがしばしば訪ねてくるようになりました。しかし、必ずしも、歓迎されるべき訪問者たちばかりではありませんでした。この手術を挟んで、その前年から亡くなるまでの約四年間、憲三は、身体的のみならず、精神的にも大きな困苦を抱えてゆきます。主としてそれは、この時期の外部からの高群逸枝巡礼者たちによってもたらされました。
連載最後となる「題未定――わが終末記 第九回」が掲載された『高群逸枝雑誌』(第一六号)の発行から四箇月が立った、一九七二(昭和四七)年一一月一三日、詩人の秋山清が、自宅を訪ねてきました。このことにつきましては、次の年(一九七三年)の六月に思想の科学社から上梓されます、秋山の『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』に詳しく、そこからの引用をもって、構成したいと思います。
「橋本さんはいますか」 「どなたですか、身体がわるくてあまり人と会わんようにしているのだが――」 と機嫌のよくなさそうな返事の後で、彼は部屋の中の寝台から起き上がる気配だった。私が名をいって紹介状を差し出すと、彼の気むずかしい顔もいくらか和らぐかに見えた49。
憲三は、以前秋山が『日本読書新聞』に書いていた自叙伝「小組のへそ」を読んでおり、そのことや渋谷定輔の『農民哀史』のことなどが話題になり、いよいよ本題に入ります。秋山は「『高群逸枝全集』から何故に、アナキズムの立場から書いた多くの論説が脱落させられたか、それを敢えてしたのは、本人の意思か、本屋の要求か、橋本憲三自身の意向によるものか」50を、遠慮することなく憲三に問いました。それに対して憲三は、概略このように答えました。「あれらを書いた時期、まだ彼女は未熟だった。本人も自分のその頃書いたものをそのように見ていたらしく思う。それらしいことが『火の国の女の日記』にも書かれてあったと思う。要するにそれから以降の研究が主ですから」51。この返事は、「現在高群逸枝に集まっている強い注目の中には、あの頃の論説を重く見ているところからのもの」52に起因しているものもあるのではないかと確信する秋山を必ずしも満足させるものではなく、さらに秋山の質問が続きます。「『婦人戦線』の諸論文、『女人芸術』誌上のマルキシズムとの文学論争、さらにはそれ以前の、たとえば『婦人公論』誌上で山川菊栄ととり交わした恋愛論争などを、単行本として刊行するか、全集の別冊としてでも出すことはどうか。私はそれをすすめますよ」53。この提案に対して憲三の反応はこうでした。「いや、私は肥後モッコスですから、一度きめたことは――」54。「何が肥後モッコスだ!」――出そうになった言葉を自身で引き取りました。秋山の真意は、「昭和三、四、五、六年ごろ、アナキズムを拠りどころとして展開した高群逸枝の論争、主張、啓蒙などの活動が、未熟な時期であった、という主観的な判断から、その人の生涯の業績の中でオミットされていいものか、ということ」55でした。帰り際、憲三は秋山に、『高群逸枝雑誌』に何か寄稿するように示唆したようです。それを受けて、翌年(一九七三年)の二月一七日、秋山は、憲三に宛てた手紙という形式をとり、採否は一任するとしたうえで、「全集の編集にたいする私の不審や疑問について、率直に問いただす文章を送った」56のでした。長文です。一言に要約するとその内容は、「全集」と称しながら、なにゆえに、とりわけ逸枝自身が編集者として責任をもつ『婦人戦線』に書いたアナーキズムを拠り所とした彼女の論文が、未熟な時期に書かれたものであったという理由から削除されたのか、その正当性を全集の編集者である憲三に直接問い、それら一連の論考のもつ歴史的重要性を指摘するものでした。さっそく憲三は、二月二一日にその返信をしたためます。
お原稿一読しました。結論から申しまして、これは取捨をおまかせくださった寛大なお心にあまえてご指示どおり急ぎ返送させていただきたいと思います。 原稿には私と見解を異にするところがあまりに多く、私が責任者となっている雑誌に掲載することでお説を私が認めたと誤解されることをさけたいのです。ご了承をお願いします57。
それでは、この返信のなかで憲三が書いている「私と見解」とは、どのようなものだったのでしょうか。さかのぼること七年前の一九六六(昭和四一)年、「森の家」で全集の編集と校正に精を出していたとき、同居していた道子に、憲三はこう自身の考えを開陳しています。
全集とは何でしょうね。全集をどう規定するか。選集という形もあるでしょう。ある基準でいえば、彼女の全集はこの二倍でも足りないくらいです。全集を出す意味について僕は彼女と対話するのです。 つまり彼女のみていた真理、この真理でもって、彼女は孤絶したこの家の外の世界に貢献したといえばいえる。それに到達するまでの、彼女にいわせれば紙クズ。彼女によって否定されたものを全集にとりあげることは、彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける。これは僕の法治主義です58。
憲三の立場に立てば、女性史学という学問の存在にかかわる啓示に先導されて、つまりは、すべからく人類が到達しなければならないひとつの大きな真理に導かれて、自身の大衆運動の戦線に幕を閉じ、いっさいの来客を断って「森の家」の書斎に独り恒久に蟄居した、まさしくそのときこそが、高群逸枝が学者として蘇生復活する瞬間であり、それ以前に彼女の身辺にみられたものは、そのために必要とされた、いわば産湯の残り湯であり、使用済みの布切れであり、これを全集に所収することは、清が濁によって、つまりは、清書された玉稿が書き散らされただけの紙クズによって混濁させられることを意味し、それを認めれば、「彼女をはずかしめ、僕もはずかしめを受ける」ということになるのでしょう。これが、編集者としての高群逸枝の業績についての評価であり、全集編集の方針となるものでした。しかし、そうした思いは、アナーキズムに関する論考が全集から欠落していることに不満を示す秋山には理解してもらえず、その手紙から四箇月後の六月、秋山の『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』が世に出るのでした。それをおそらく見たであろう憲三が、そのとき、いかなる心的状況に立ち入ったのかは、裏づける資料もなく、想像するしかありません。
秋山清に続いて、水俣の憲三を訪ねてきたのは、作家の瀬戸内晴美でした。憲三の「共用日記」によりますと、この年(一九七三年)の二月一日、「午後八時三十分-10時50分、瀬戸内さん、村上彩子さん(筑摩書房)とみえる。石牟礼さん同道」59。翌二日、「午前一一時、瀬戸内さん村上さん、Mさん。瀬戸内さんお墓まいりしてくださったと。紅梅白梅がさいていたと。室にいらず、そのまま水俣駅へ(庭で静子あう)」60。瀬戸内は、そのときはじめて会った憲三の印象にかかわって、このように書いています。
水俣の静子さんのお宅の片隅の倉庫の二階に独り棲いをしていられた憲三氏は、想像していたより若々しく、写真で見るよりスマートで、どことなく粋でハイカラな老人であった。 物静かだが愛想がよく、どんな不躾な質問にも積極的に答えてくれた。 ……私が望むなら、どこまでも私の取材に協力しようという姿勢を見せて下さった61。
この一文に続けて瀬戸内は、「私はまだ逸枝の伝記を書くまでの準備は出来ていないし、憲三氏と逸枝の愛のかたちを知りたかったので、憲三氏の好意にあふれた申し出にも、すぐに飛びついていかなかった」62と、書きます。もしそうであれば、瀬戸内の水俣訪問の目的は、一体何だったのでしょうか。このとき筑摩書房の村上彩子が同伴していることや、その五箇月後に「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が筑摩書房発刊の文芸雑誌である『文芸展望』に登場することから推し量れば、やはりこのときの訪問は、逸枝と憲三の伝記を書くに当たっての事前の了解をとるためだったのではないかと思われます。実際のところ、ちょうどこのとき、季刊誌となる『文芸展望』の創刊が迫っていました。四月の創刊号には、石牟礼道子の「椿の海の記」の第一回が掲載されて、連載がはじまります。そして、次の七月刊行の第二号に、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載され、これまた連載が進んでゆくのです。このようにして、これからしばらくのあいだ、道子の「椿の海の記」と瀬戸内の「日月ふたり」のふたつの作品が、『文芸展望』を舞台にして共演することになるのでした。
続く「日月ふたり(第二回)――高群逸枝・橋本憲三――」は、一〇月発売の第三号にその姿を現わし、第四号は休載となりました。問題が起こったのは、年が変わった一九七四(昭和四九)年の三月のことでした。「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された、四月に発売予定の第五号の見本誌が、筑摩書房の村上彩子から事前に送られてきたとき、それを見るや、ついに憲三の堪忍袋の緒が切れてしまったのです。一九七四(昭和四九)年の憲三の「共用日記」には、このように書かれてあります。
三月二六日「文芸展望5、村上彩子さんからとどく(筑摩書房)。瀬戸内氏『日月ふたり』3、掲載」。 三月二八日「瀬戸内氏にははじめて手紙をかく」63。
「日月ふたり」の第三回を読んだ憲三は、このときはじめて瀬戸内に手紙を書きました。前年夏の手術以降も、相変わらず憲三の体調はすぐれなかったようです。おそらくこの時期、ベッドに臥すことが多い日々を送っていたにちがいありません。「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」64と書き添えて、憲三は、この手紙のコピーを道子に託します。疑うことなくこれは、憲三から道子に手渡された遺言書に近いものでした。実際この手紙は、『高群雑誌』終刊号(第三二号)において公開されます。『高群逸枝雑誌』は、憲三の死去に伴い第三一号をもって自動的に事実上の廃刊となっていたのですが、この『高群雑誌』終刊号(第三二号)は、万やむを得ず、没後四年が立った一九八〇年一二月に発刊され、「もろさわよう子様へ」と「瀬戸内晴美様への手紙」と題されたふたつの手紙文を含むことになります。「もろさわよう子様へ」は、静子が書いたもので、全体としてその文は、もろさわようこが執筆した「高群逸枝」(集英社刊の『近代日本の女性史』に所収)に対して幾多の誤認を指摘する内容となっています。一方の「瀬戸内晴美様への手紙」は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」にかかわる誤謬が憲三本人の手によって詳細に指摘されたもので、生前道子が憲三から預かっていた瀬戸内宛ての手紙の写しです。まさに『高群雑誌』終刊号(第三二号)は、無念の思いでもって橋本静子と石牟礼道子が編著者となって公刊した、逸枝と憲三の名誉を毀損するこれまでに発表された文章に対しての遺族側からの反論ないしは抗議の場となっていたのでした。
それではまず、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」には、どのようなことが書かれてあったのかを見てみたいと思います。憲三の瀬戸内宛ての反駁の手紙は、手紙としては実に長大なもので、そのなかで、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのですが、そのうちの最大の核心部分は、『婦人戦線』のころの同人であった松本正枝が、逸枝の恋人が自分の夫の延島英一であったことを、聞き手の瀬戸内晴美に語る、次の場面でした。
逸枝の印象を訊くと、 「そうですねえ」 と、ちょっと遠い所を見る目つきをして、 「とにかく変わった人でしたから」 といい、口辺に微笑とも苦笑ともとれる笑いを浮べながら、 「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」 という。 「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」 「ええ、アナーキーな恋ですから」 「その頃の恋の相手の方を御存じでいらっしゃいますか」 正枝さんは、小さな肩をちょっと落とすようにして、ふっと座を立つと部屋を出ていった。玄関のつきあたりにあった炊事場でお湯をわかしてきた薬かんをさげてほどなく部屋にもどってきた人は、白い柔和な表情で、またふっと軽く微笑して坐りながらさらりといってのけた。 「存じておりますとも」 さっきの話のつづきのつもりらしい。 「うちの主人でしたから」65
逸枝を中心とする無産婦人芸術連盟が結成されたのは、一九三〇(昭和五)年の一月でした。構成員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四名。そして、続く三月に、この結社の機関誌となる『婦人戦線』が創刊され、それは、翌年(一九三一年)六月刊行の第二巻第六号まで続きます。この間、松本正枝もこの雑誌に論考を寄稿しますが、瀬戸内に宛てた手紙のなかで憲三は、「松本さんの『婦人戦線』論文はほとんど(あるいは全部)延島さんの代筆。たぶん住井すゑさんはご存知でしょう」66と書いていますので、松本正枝はこの雑誌の活動にほとんど加わっておらず、実質的には、夫の延島英一が関与していたことになります。これが、『婦人戦線』を巡るおおかたの環境でした。そして四〇年以上が経過したこの時期に至って、松本正枝は、逸枝と自分の夫の延島がその当時恋人関係にあったことを瀬戸内に暴露したのでした。
それでは次に、それに対して憲三は、手紙のなかで、どう反論したのでしょうか、それを見てみたいと思います。「あの人はアナーキストでしたからね……恋愛もアナーキーに実践なさいましたよ」という語句については、「事実は全く正反対。恋愛論においても。実践において」67と主張し、「ということは、橋本さんの他に恋人がいたということでしょうか」という発語については、「現在の私、次号を読まない私には、『恋人』の語は適当とは思われません。強いて考えれば、表層的擬恋の状況とでもいうものではないかと思われるのです」68と、切り返します。逸枝と延島は、『婦人戦線』を通して、ともにアナーキストとして思想的に共感しあう間柄でした。瀬戸内の問いかけに、松本はそれを「アナーキーな恋」と表現し、一方の憲三は、「表層的擬恋の状況」という言葉で表わします。
さてそれでは、本当のところ、逸枝と英一の関係はどのようなものだったのでしょうか。それを解き明かす証拠となる一次資料、たとえば、双方の当時の日記や書簡類が残されていないようですので、断定することはできません。それにしてもなぜ、どのような事情があって松本正枝という女性は、真偽は別として、かくも簡単に自分の夫の過去の品行を他人に打ち明けたのでしょうか69。他方、それにしてもなぜ、どのような判断があって瀬戸内晴美という作家は、必ずしも真実とは限らない正枝の発話をそのまま信じて、自分の文にやすやすと取り入れたのでしょうか70。
瀬戸内自身、正枝をこう評価していますので、以下に引用します。
正枝さんの話し方は決して逸枝さんと夫との情事を非難しているふうではなく、過去の事実として語っているという感じを受けたし、高群逸枝という天才女人の多面的な性格の説明にはなっても、逸枝の人格の瑕瑾として感じるような話し方ではなかった。 ユーモラスで皮肉なことを、全く飄々として顔でいってのけるのは、この人の天性のものか、晩年身につけたものかわからなかったが、私には好感が持てた71。
瀬戸内は、はっきりと、ここで「情事」という言葉を使って、逸枝と延島の関係を断定しています。明らかに瀬戸内は、事前に憲三に確かめることも、何か別の資料に当たることもなく、ひたすら正枝の語りに好感を寄せているのです。つまり、伝記執筆に必要とされる、事象にかかわるクロス・チェックがなされていないのです。一方、憲三にとって、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」は、自分の認識とは程遠い記述が至る所で散見される内容となっており、憲三はこの文を、ペンが剣に変貌した一種の凶器として、心身が震える思いで受け止めたのではないかと推量されます。事実、瀬戸内に宛てたこの手紙のなかで憲三は、「このところ、雪が舞ったり、冷雨にみまわれたり、不注意で血圧が一四〇~八〇の正常からいっぺんに一八五~九六に上昇、気分がわるく、体力気力……がおとろえ、頭がふらふらしているけれども、とにかくベッドで(仰向けになって)」72書いていることを告白するのでした。
その後「日月ふたり」は、第四回が、一〇月発刊の『文芸展望』第七号に掲載され、翌年(一九七五)年一月の第八号に掲載された最終回をもって、この連載は終了するのでした。この時点で終了することになった経緯について、瀬戸内はこう明かします。
「日月ふたり」を書きはじめると、憲三氏はたいそう喜ばれ、毎月懇切な批評や、誤りの訂正をして下さった。こまごましたお手紙で私にはすべて有難かった。 しかし、話が逸枝と延島英一の恋愛のことに進むと、俄然神経質になられて異常なほどしつこく、延島未亡人の正枝さんが、逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかといって来られた。 それまで私に示されていたのとは全くちがう憲三氏があらわれた。私は憲三氏のショックが以外でもあり、意外でもないような気がして、複雑な想いにとらわれた。正枝さんから私はそういうものは見せられていないといっても、信じてもらえないようであった。…… 私は正直いって、憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、「日月ふたり」を書きつづける意欲を失っていった73。
前述していましたように、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を掲載した、四月発売予定の『文芸展望』第五号が筑摩書房の村上彩子から憲三のもとに送られてくるのは一九七四(昭和四九)年三月二六日のことで、憲三が瀬戸内にはじめて手紙を書くのは、その二日後の二八日でした。したがいまして、「『日月ふたり』を書きはじめると、憲三氏はたいそう喜ばれ、毎月懇切な批評や、誤りの訂正をして下さった。こまごましたお手紙で私にはすべて有難かった」といったような事実は、おそらくなかったものと考えられます。次に瀬戸内は、「延島未亡人の正枝さんから、逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかといって来られた」と書いていますが、確かにこのときの手紙で、憲三はこのことについて、こう触れています。「次号で私の知らないことで、たとえば彼女の手紙などで私にとって最悪なことを知らされるような事態になろうとも、私の信念はかわらず、かくれてみえないところにあり、私は災禍、受難ととるだろうと思います」74。しかしながら、「俄然神経質になられて異常なほどしつこく」という瀬戸内の表現には、それ以降も数回にわたって憲三からの問い合わせが続いたことを連想させるものがありますが、その後に続く手紙類は現存していないようですので、確認することはできません。したがって、この手紙が最初で最後だった可能性もあります。
では、本当に瀬戸内は、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」のでしょうか。この点をここで吟味しなければなりません。といいますのも、本人がそう語っている以上、そのことはそのとおりであるにちがいないと思われますが、それだけが理由となって「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」わけではないのではないかと考えられる余地が、他方で残されているからです。
瀬戸内晴美と筑摩書房の村上彩子が、はじめて憲三を水俣に訪ねたとき、石牟礼道子も立ち会っています。おそらくそのとき、憲三がつくる『高群逸枝雑誌』のことが話題になり、道子も、この雑誌に逸枝と憲三の評伝である「最後の人」を連載していることを話したにちがいありません。それから一年が過ぎた一九七四(昭和四九)年の四月に、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』に登場するのですが、ちょうど同じ月に、「最後の人 第十一回 第一章 残照2」も世に出るのです。道子の「最後の人」の連載が順調に進んでいることに、このとき瀬戸内は気づいたにちがいありません。ふたりは、まさしく競合するテーマで執筆しています。瀬戸内の連載回数は、いまだ三回で、道子のそれは、すでに一一回を数えます。扱っている資料は、松本正枝などからの聞き取りもありますが、主に瀬戸内が利用しているのは、逸枝と憲三が著わした『火の国の女の日記』です。一方の道子は、「森の家」での憲三との同居生活の実際から「最後の人」を書き起こすという、極めて有利な立場にありました。
それとは別に、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」から五箇月後の九月、鹿野政直と堀場清子の夫婦が憲三を訪ねてきました。鹿野は、日本近代史を専門とする早稲田大学の教授で、堀場は女性史家です。ともにふたりは、逸枝の生き方と業績に共鳴していました。翌一〇月に「日月ふたり(第四回)――高群逸枝・橋本憲三――」が出た二箇月後の一二月から、いよいよ憲三と堀場清子のあいだで、郵便を介した一問一答形式による「おたずね通信」がはじまります。憲三の一二月三一日の「共用日記」には、「堀場さんの『おたずね第一信』41項を書きあげる」75とあります。
除夜が明け一九七五(昭和五〇)年の幕が上がりました。一月四日「午後一時すぎ鹿野堀場夫妻みえる。6時ごろ天水荘へ帰泊」76、一月五日「午前九時すぎ夫婦みえる。ナポレオンで昼食のごちそうになる。明日午後五時の汽車にて帰郷とのこと。そのとき立ち寄られるとのこと。それまで資料をお借りになる。資料をおもちになって夫妻天水荘へ」77。一月六日「午後5時すぎ夫婦みえる。おわかれ」78、一月一〇日「私の誕生日。78歳。……石牟礼さんみえる。誕生日祝いの赤飯と折をもらう」79。「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三――」が『文芸展望』(第八号)に掲載されたのは、それから五日後の一月一五日のことでした。文末には、「(了)」の文字が記されていました。
憲三が瀬戸内に宛てて送った手紙のなかには、「固有名詞――地名人名などの誤植は校正者にはわからないと思われるものがありますから、『日月ふたり』完結後に、正誤表をつくってみて、差し上げようと思っています」80という記述がありました。仮にこのまま連載を続け、今後そうした「正誤表」が『高群逸枝雑誌』などにおいて発表されることになれば、瀬戸内の立場はどうなるでしょうか。ましてや、固有名詞だけに止まらず、内容についての「正誤表」も公開されるならば、瀬戸内の文の信憑性や信頼性が厳しく問われることになりかねません。あるいはまた、同じくこの先、道子の「最後の人」や堀場の「おたずね通信」が書籍化されるようなことになれば、どうでしょう。もしそうしたことが現実のものとなれば、自分の書く「日月ふたり」は、その実証性と論証性において明らかに劣り、そのことによって作家としての名声に傷がつく可能性に、瀬戸内は思いを巡らせたかもしれません。そうであったとすれば、そのことが、主たる要因であったかどうかは別にして、「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」まさしく別の大きな要因ということになります。さらには、それとは全く異なる要因があった可能性も指摘することができます。すでに引用した文から明らかなように、瀬戸内は、「憲三氏と逸枝の愛のかたちを知りたかった」と書いています。もしそれだけが執筆の目的であったとするならば、五回の連載をとおして、一九二五(大正一一)年の九月、逸枝が置き手紙を残して、当時自宅に寄宿していた憲三の友人男性と家を出た「事件」と、『婦人戦線』時代の逸枝と延島英一との恋愛を巡る「事件」とを書き終えたいま、もはや瀬戸内の関心は完全に燃焼してしまい、その後に続く、逸枝の女性史学の完成へ向けての物語まで書く意欲は最初からなく、五回目のここがちょうど連載の「(了)」にふさわしい時期だったのかもしれません。瀬戸内がこう書いているところが印象的です。「堀場さんが熱心に憲三氏に取材しているという噂が聞こえてきた。私は内心ほっとした。そして憲三氏が堀場さんの方へ向いてくれ、私を釈放してくれたら有難いとさえ思った」81。以上のように見てゆきますと、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」という言葉には、少なからず疑問符がつくことになります。
以上ここまで、「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」という瀬戸内の言説に対しまして、それ以外の理由で「『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」可能性はないか、その点を検討してきました。瀬戸内のこの言説は、一九八三(昭和五八)年に筑摩書房から刊行された『人なつかしき』に所収されています「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」から引用したものです。しかしながら、「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」には、幾つかの誤謬が含まれています。たとえばこのなかで、瀬戸内は、「『日月ふたり』を書きはじめると、憲三氏はたいそう喜ばれ、毎月懇切な批評や、誤りの訂正をして下さった。こまごましたお手紙で私にはすべて有難かった」82と、書いていますが、すでに憲三の「共用日記」から引いて示していまように、憲三がはじめて瀬戸内に手紙を送るのは、一九七四(昭和四九)年三月二八日のことで、「日月ふたり」の第三回を読んだあとのことでした。これをもって判断しますと、この言説は、明らかに誤謬ということになります。またもう一例を挙げますと、瀬戸内は同じこの文のなかで、「私は堀場さんの質問と答えを読みながら、憲三氏の答えを語る表情まで目に浮かぶようであった。憲三氏は私にも、私が望むなら、どこまでも取材に協力しようという姿勢を見せて下さった」83と、書いています。これは、前述していますように、一九七三(昭和四八)年二月一日に、瀬戸内が憲三を訪ねたときに交わされた会話の場面です。しかし、よく考えてみますと、鹿野と堀場が憲三を訪ねるのは、それから二年後の一九七五(昭和五〇)の一月四日であり、堀場と憲三の一問一答形式の「おたずね通信」が、ふたりの共著のもと『わが高群逸枝』(上下二巻)という書題で朝日新聞社から上梓されるのは、さらに遅れて一九八一(昭和五六)年九月のことでした。これを根拠に判断しますと、「私は堀場さんの質問と答えを読みながら、憲三氏の答えを語る表情まで目に浮かぶようであった。憲三氏は私にも、私が望むなら、どこまでも取材に協力しようという姿勢を見せて下さった」という言説が、誤謬であることは疑いを入れません。そこで、これらふたつの事例を基に推し量るならば、同じくこの文に書かれてある、瀬戸内の「憲三氏の次第にヒステリックになる追及をもてあまし気味になり、『日月ふたり』を書きつづける意欲を失っていった」という一語自体もまた、同じく虚偽であった可能性を残すのです。そうなりますと、『人なつかしき』に所収されています「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」における記述内容はもとより、『文芸展望』に連載された「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」における物語の内容についても、その信憑性に大きな揺らぎが生じることになります。その結果、瀬戸内の言説に必ずしも信頼を置くことができなくなったうえは、逸枝と延島のあいだに見受けられた、いわくありげな「事件」についても、本当にそれが、瀬戸内が断定するような「情事」であったのかは疑わしく、いまや一種の戯言として聞き流すしかないように思料されるに至ります。
それはさておき、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」を読んで、誤りを指摘するために瀬戸内に手紙を書いた一九七四(昭和四九)年の三月以降の憲三は、心身ともにさらに悪化が進み、一進一退の状態にありました。それから半年後に憲三を訪問した堀場清子は、そのときの様子を、こう描写します。
朝日評伝選『高群逸枝』の取材のために、鹿野政直と私とが、はじめて橋本氏を訪ねた昭和四十九年九月、氏は「事件」の衝撃の渦中にあった。それ以外のことを聞こうとする私達の質問に対し、氏の答えはいつもその点にたちもどって、少なからず困惑させられた。逸枝との愛の一体化と、女性史の大成とに生涯をかけ、女性一般の未来のために多大の貢献をされた氏の、最晩年での傷つけられ方が、いたましかった84。
堀場は、訪問当日の憲三の様子について、「『事件』の衝撃の渦中にあった。……最晩年での傷つけられ方が、いたましかった」と、表現しています。しかし、その「いたましさ」は、「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」によってのみもたらされていたというわけではありませんでした。もうひとつの憲三にとっての「いたましさ」が、鹿野と堀場の水俣訪問二箇月前に、すでにもたらされていたのでした。それは、『文學界』に掲載された戸田房子の「献身」と題された小説で、逸枝の臨終の際に起こったある「事件」が主題化されていました。ここでもまた、憲三の認識とは大きく異なる描写が至る所で闊歩していたのです。その物語は、こうしてはじまります。
昭和三十九年晩春の朝のことである。二人の男が彼女の寝室に入って行き、ベッドの中の綿のはみ出た蒲団と色褪せて毛のすり切れた毛布にくるまっている鷹子を、そっと担架に移した。……門の前に待機していた白い救急車に鷹子を運び入れた。 鷹子の夫の楠昌之は、萎えた開襟シャツとズボンで担架のあとから歩いていた。彼は七十歳にはまだ間のある年齢であったが、老年に特有の黄ばんだ艶のない顔をして、額と鼻のわきに彫り込んだような皺をつくっていた。…… 彼のあとから、かなりおくれて、坂本滋子が両手に紙バックと風呂敷包みをさげて、急ぎ足で救急車の方へ近づいて来た85。
[本城]鷹子が高群逸枝で、楠昌之が橋本憲三、坂本滋子が、市川房枝の側近のひとりの女性、おそらくは画家の高良真木であることは明白で、医師の竹内茂代が発案し参議院議員の市川の紹介で入院が決まった国立東京第二病院に、一九六四(昭和三九)年五月一二日の朝九時過ぎ、逸枝が搬送されるところを描いている場面であることは、その事情を知る者にとっては、これもまた、容易に判断がつくことでした。そして、この物語には、市川房枝と竹内茂代が、脇田さつきと山下照代という仮名で登場しますし、石崎せつ子という婦人が、おそらくは平塚らいてうのことでしょう。
この小説では、全編にわたって、楠昌之つまり橋本憲三は、妻の気持ちを理解しない、横暴で利己主義に凝り固まった、腹黒い風采の上がらない男として描かれています。逸枝が息を引き取ったあとの霊安室での様子についての描写にも、その一例を見ることができます。それは、次のような会話で構成されています。
「実は脇田先生にお願いがあるのですが、お聞きいただけないでしょうか?」 「どういうことでしょう?」 「新聞に妻の死亡広告を出したいのですが、先生にお名前を出していただきたいのです。いかがでしょうか?」…… 「新聞広告をするとなれば、二、三十万は覚悟しなければなりませんよ」 「金はいくらかかってもかまいません」 「失礼なことを伺うようですが、ご用意があるのですか?」 「沢山ではありませんが、銀行預金が四百万ございます。亡き妻のために出来る限りのことをしたいと思います」 女たちはあッという愕きでいっせいに楠昌之に視線を集中した。四百万円! いったいどこから得たお金なのだろう。鷹子の悲惨な生活を見かねて授けつづけてきた女たちは、自分たちにすら縁遠い巨額な金を昌之が持っていたと知って茫然となった86。
続けて脇田さつきは、こういうのでした。
「私はね、楠さん、そんなにお金をお持ちでいながら、皆さんから金銭的な援助を平気で受けていらしたあなたのお気持ちがわかりません。私は、あなたがたお二人をいままで貧乏だとばかり思っていました。そのように事を運んできました。いま考えますと、貧乏でなかったあなたがたに対して大変失礼なことであったと思います。お詫びいたします。――死亡広告のことは、私の素志と相容れない点がありますので、私の名前を出すのは遠慮いたします。どうかあしからず」87。
「献身」が『文學界』に発表されたのは、一九七四(昭和四九)年の七月でした。ちょうどそのとき、村上信彦から、一〇月一日刊行予定の『高群逸枝雑誌』第二五号のための「私のなかの高群逸枝8」の原稿が送られてきました。そのなかで村上は、「最近出たモデル小説」88という用語を使って、その小説に触れていました。驚いた憲三は、「最近出たモデル小説」の詳細を問い合わせます。すぐにも返信がありました。八月三一日に書かれた村上からの返事は、以下のようなものでした。
ある雑誌のモデル小説というのは、「文学界」7月号の戸田房子の「献身」です。一読して、市川房枝たちの側からの考えだということが分かります。高群さん入院前后をめぐるあなたと一部の女たちとの対立をえがいたもので、私はあなたから事情を聞いていたのですぐ見当がついたのです。私としては、よむことをおすすめすべきかやめることをすすめるべきか判断がつきません。たゞ、よんだら不快を感ずるだけでしょう89。
そのあと憲三は、この小説を入手し、取り急ぎ読んだでしょう。もっとも、憲三の読後感は、調べる限り、資料には残されていないようです。しかし、「不快」どころか、実際には、突然背後から鈍器のようなもので頭を殴られたような、激しい衝撃を憲三は感じたにちがいありません。というのも、現に実在する人物が、小説という虚構空間に連れ込まれ、あることないこと、おもしろおかしく、罵倒され中傷されている場面に出くわしたとき、それに怒りを覚えない人はいないと思われるからです。「小説」である限り、そこに描かれている内容に、著者は責任をもつ必要はないかもしれませんが、名誉を棄損された「モデル」は、いかばかりの傷を負うことでしょうか。それにしても、「小説」という隠れ蓑をうまく使って、一〇年前の出来事がなぜいまになって蒸し返されなければならないのでしょうか。発表された時期を考えますと、瀬戸内春美の「日月ふたり」に誘発されたとも考えられます。
逸枝の臨終を主題にした「献身」は、憲三にとりまして、細部の事実関係には承服しがたい箇所が多々含まれていたにしましても、出来事自体は実際にあったことですので、憲三をそう驚かすものではなかったかもしれません。しかし、実際の出来事に事寄せて、個人を攻撃する態度には、憲三は、許しがたく耐えがたいものを感じ取ったにちがいありません。それは、次のような、霊安室での楠昌之と脇田さつきの、死亡広告と金銭を巡る会話をそばで聞いていた坂本滋子の心情を描写した箇所によく表われています。
坂本滋子は昌之から金の話を聞いた瞬間から、打ちのめされた気持ちになっていた。…… 昌之の行為はずるくきたない。どこまで男らしくない男であろうと、滋子は彼を心の底から軽蔑した。そういう男と半世紀近くも一緒に暮してきた鷹子のことを思うと、だまされつづけた鷹子が可哀想でならない。なぜ昌之との共同生活を解消しなかったのかと、いまさら言ってみても仕方がないが……日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか90。
しかしここで、高良真木がモデルではないかと思われる坂本滋子や著者の戸田房子を責めることはできません。男性を清算して女性を新生させようとする思考は、もとをただせば、逸枝が創案したともいえるからです。逸枝が主導した無産婦人芸術連盟の標語であった「強権主義否定」「男性清算」「女性新生」を想起すれば十分でしょう。しかしながら、上で引用した、坂本滋子の心情を戸田房子が描いた表現部分、つまり、「だまされつづけた鷹子が」「日常生活をとりしきってくれる便利な男として目をつぶっていた間に、すっかり昌之にしてやられたではないか」の箇所は、明らかに事実とは異なっています。それにしても、事実を曲げてまで、男にだまされた女の哀れさという虚構をつくり上げ、そのうえに立って女性を擁護し男性を断罪するところに、潜在的に定型化されたこの時代の女性の固定的視点がにじみ出ているようにも感じ取れます。果たしてこれが、どうあろうとも男性を悪の化身として措定し、それを標的に闘おうとする、同時代の女性解放運動家たちにとっての日常活動の常套手段というものだったのでしょうか。あるいは、それとの関連が深い女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものにおける当時の際立つ記述手法のひとつだったのでしょうか91。こうして「献身」は、書かれていることの真偽はともかく、市川房枝とその周辺の女たちに秘められていた不満の大きさと執念の深さだけではなく、自らが確信する女性擁護/男性断罪の定式をも、自ずと表出した「女性史」の一幕となったのでした。
それでは、これに対して憲三は、どう向き合ったのでしょうか。それを見るためには、一九六四(昭和三九)年六月七日に逸枝が死去した直後の、周囲の人間の動きへとさかのぼらなければなりません。逸枝を慕う村上信彦のそのときの体験は、こうでした。
取るものもとりあえず、国立東京第二病院に駆けつけ、霊安室に直行した。室の中央の台の上に遺体が安置され、顔に白布をかけてある。一方に一段高い畳敷の小さな部屋があって、先客が集まっている。平塚らいてう、市川房枝、浜田糸衛、高良真木、熊本から来られた友人の五人である。……だが私は興奮していた。「なぜもっと前に知らせてくれなかったのです」と廊下で橋本氏に食ってかかり、こんなことになるなら面会謝絶を無視して押し入ってでもいま一度会っておきたかった。面会謝絶を忠実に守ったばかりに唯一無二の機会を逸してしまった。おれはばかだった……。無念と怒りが渦巻いて、私は強く詰め寄った。さだめし血相を変えていたにそういない92。
このとき村上は、憲三から、東京では密葬のみとし、その後本葬儀を熊本で執り行なう予定であることを聞かされ、この日が事実上の最後の別れとなりました。しかしその後、周囲の意見に押されて、自宅の「森の家」で葬儀が行なわれることになり、案内状が送られてきたものの、村上は出席しませんでした。葬儀も終わった、六月一八日に村上は、らいてう宅を訪ねます。この日の話題は、主に逸枝のことでした。村上は、こう書いています。
いろいろ話しているうちに、らいてうが高群さんをどのように評価していたかも分かり、この二人の女性の関わりを興味ふかく感じた。そのとき私は十日前の霊安室でのはしたない振舞を詫びたのであるが、私がまず詫びねばならなかったのは橋本氏だったと分かる日が、やがてやって来るのである93。
村上が霊安室で顔をあわせた「熊本から来られた友人」というのは、当時鎌倉に住んでいた熊本出身の志垣寛だったかもしれません。志垣は、逸枝と憲三の古くからの友人で、逸枝の葬送の儀に際しては葬儀委員長を務めました。次の引用は、七月七日に橋本静子宛てに出された志垣の私信にある末尾からの一節です。
平塚さんのきもいりで、近く例の女子連と会見することになっています。私が近く雑誌に逸枝さんのことを書くというのが評判になって、向うから会見を申込んできました。よく説明して納得させようと思っています94。
ここでいう「例の女子連」とは、逸枝の入院等で立ち回った、市川房枝の取り巻きの浜田糸衛や高良真木たちを指すものと思われます。次も、同じく志垣から静子に宛てて書かれた七月一二日のはがきの一部です。「市川女史一派の人々数人とあい、くどくど不平談をきゝました。要するに橋本君が金持ちだった事が不満の種でした」95。当時志垣が書こうとしていた文は、「高群さんと橋本君」と題されて、『日本談義』の八月号(一六五号)誌上の「高群逸枝女史追悼特集」に掲載されました。内容の一部は、第一一章の「夫の姉妹からの援助、『望郷子守唄』の建碑、そして最期」においてすでに引用していますので、ここでは割愛します。一方、この特集に憲三が寄稿したのは、「終焉記」という題の文でした。内容的は、逸枝の最期の入院に至るまでの経緯について、時系列に沿ってその様子が記述されています。さらに、その雑誌が刊行された直後に、今度は「高群追悼特集に添えて」という一文を起草します。擱筆日は、八月一五日です。この文を書かねばならなかった理由について、憲三は、こう記しています。
『日本談義』(165号)高群追悼特集のなかにみえる一グループと私とのことについて、グループの方では早く志垣氏に申し込んでらいてう家で会見、一方的な談話発表が行われたそうであるが、私はまだ誰にも深くは語っていない。私からみればすでに誤謬だらけといっていい風説が伝えられており、『談義』によっても誤伝をうみそうな危惧があり、この際私からの「真実」を明らかにすることは私のつとめの一つではないかと考えられてきた96。
この文は、A(市川房枝)、B(浜田糸衛)、C(高良真木)、D(初見の人)、E(市川みさを)と明記したうえで、「終焉記」のなかの論争点となるにちがいない重要な箇所を一つひとつ取り上げ、それについてより具体的に捕捉し釈明したもので、かなりの長文となっています。末尾の一節を、以下に引用します。
A(市川)は私が当然にも病人の身柄一切に責任を負って個室をとったり、葬儀を正したり、死亡広告を出したりしようとすることを迷惑がっているという実感を私に与え、しばしばあなた(私)はそれでよいだろうが、自分の面目は丸つぶれだという意味のことをいわれるのだが、私はそのつどけげんに思い、考えても見るが氷解できなかった。一つの実例をいえば、私は霊安室で主治医からの解剖希望をことわった。故人は肌身を人目にさらすことを極端にきらっていたから私はそれを尊重したのである。するとA(市川)はあなたはそれでよいだろうが病院にたいして自分の面目は丸つぶれだといったものである。…… 私はいま妻の霊前にぬかずいて一切のことがらをかなしく反芻し、彼女の声を聞こうとしている97。
市川房枝は、希代の女性史学者である高群逸枝の戦前からの後援者のひとりでした。そのため、逸枝の最期の入院に際して市川は、参議院議員という立場から、「清貧の学者」として、つまりは「施療患者」に準じる者として逸枝を受け入れられないか国立東京第二病院と掛け合っていたようです。また、葬儀に要するおおかたの費用についても、自身が負担する心づもりができていたかもしれません。その前提として、市川とその取り巻きには、逸枝と憲三は乞食同然の「貧民」であるというひとつの思い込みが、疑うことなく、長年意識下で形成されていたのでした。ところが憲三の口から、多額の資金が用意されていることを聞かされたのです。かくして、彼女たちがもつ暗黙の「貧民」像が崩れ落ちてしまいました。たとえて表現すれば、いつも餌を与えてかわいがっていた病弱の飼い犬が、最後の死に際になって飼い主に逆らい、自力で立ち上がると、元気な姿で大声を出して、周りを威嚇するかのように自身で自身の死に場所を決めようとした、といったところでしょうか。ここに、市川グループと憲三との反目の原因があったといえます。市川にしてみれば、自身が中心となってこれまで逸枝支援を要請してきた友人たちに対して、そしてまた、自身が仲介の労をとった病院に対して、「自分の面目は丸つぶれ」ということになるのかもしれません。一方の憲三は、なぜ自分の自由意思で妻の死に向き合うことができないのかという疑念に、そのときさいなまれたものと推量されます。そこで、異例ではありますが、それらのことも踏まえながら、この問題につきましての私見を以下に少し述べることにします。結論的にいえば、たとえどんなに生前故人に多大な援助を与えていたといえども、入院や葬式は、最終的には、遺された親族の判断にゆだねられるべき事柄であって、仮に親切心からであろうとも、あるいはまた、たとえ「貧民」とみなす思い込みがあったにせよ、強引にそのなかに割り込み、差配しようとする行為は厳に慎むべきことではなかったろうかと理解します。他方、憲三が貯えていた金融資産についてですが、逸枝は自由業ですので、退職金があるわけでも、年金が保証されているわけでもなく、年をとり筆が細れば執筆料の収入も細くなり、かといって、ときおり恵まれる支援の金品もあくまでも相手次第で、いつ途切れるかわからず、そのような家計環境のなかにあって、常にその日暮らしをするわけにもゆかず、老後の生活や、医療や葬式などのために将来必要となるであろうと思われるしかるべき資金を用意していたからといって、必ずしもそれは、非難に値する事柄ではなかったのではないかと思量します。逸枝が亡くなる日まで、着るものも貧相、家具や食器も貧弱、口にするものも粗食であったこのふたりの、貧しさに甘んじた暮らしぶりを考えたとき、また、たとい日ごろはそうであろうとも、愛する妻との最後の別れのときだけはできる限りの贅を尽くして見送りたいという夫の心情を考えたとき、日常的にはその支援行為に深い謝意を捧げながらも、このとき市川が示した言動ばかりは「考えても見るが氷解できなかった」状況に立たされてしまった憲三のつらさは、いかばかりのものであったろうかと推察されます。総じていえば、この対立には、明らかに個人的問題に対する過剰介入が災いしているように思われますし、加えれば、男性の行為のすべてを強権行使の結果とみなすような、ひとつの強固な女性固有の視点が、さらに問題を複雑化させているとも、感じられないわけではありません。社会的経験を積んだ今日にあっては、著名人の場合、近親者による本葬儀と、その後の「お別れの会」が切り分けられて営まれるようになってきていますが、当時にあってはいまだその線引きは明確でなく、あたかも遺族と後援者との綱引きを見るかのような、そのときの混乱と双方の不信は、誠に不幸な出来事であったとしかいいようがありません。
憲三は、「高群追悼特集に添えて」を書き上げると、この一文を、『日本談義』と一緒に、らいてうに送りました。すると、このような返事が返ってきました。
また本日は追悼号の「日本談義」ならびに委しい解説御送り頂き、早速ルンべを使って、少しずつ拝読しております。今迄一方的にのみきかされてはおりましたが、私なりの解釈、受けとり方はしておりましたが、あなた様から直接いろいろうかがいまして更に深く考えさせられ、遺憾に存じます点も少くありません。私もこんなに弱り込まず、今少し気力が出ましたら高群さんについて、ほんとに書きたいとおもいます。「火の国の女の日記」命あるうちに拝見したいものです98。
それから一〇年の歳月が流れた一九七四(昭和四九)年の七月、戸田房子の「献身」が突如として『文學界』に出現したのです。このとき、筆舌を超える表現しがたい鈍い波動が憲三を襲ったにちがいありません。戸田房子という作家は、逸枝の入院や臨終に立ち会った形跡はありませんので、浜田糸衛や高良真木のような人に取材したか、あるいはそうした人が、戸田を使って書かせたのではないかと、憲三は即座に直感したことでしょう。一〇年前のらいてう宅が「例の女子連」による「不平談」の場と化したように、今回の「献身」においても、さながら彼女たちの怨念の吹き溜まりとなっていたのです。そこで憲三は、少しでも自身と妻に科せられた、いわれなき汚名を晴らすために、過去に『日本談義』に書いていた「終焉記」のコピーに、未発表のまま手もとに残しておいた「高群逸枝特集に添えて」のコピーを添付し、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」という題をつけて、身近な人に配布したのでした。いまとなっては、どれだけ多くの人が過去のこの出来事を覚えていたか、そこまではわかりません。また、このふたつの文が、どれだけ汚名解消に役立ったか、それも知ることはできません。しかしながら、当時の憲三にしてみれば、一〇年もの時が経過したいまになって、再び受難に遭遇することになった妻の名誉を救い出し、その夫たる自分自身を慰謝する方法は、これ以外に残されていなかったのではないでしょうか。かくして、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」が、憲三にとっての最後の抗弁となりました。この間、病魔に侵された憲三の心身は、さらに深刻度を増していたのでした。
(1)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1971年(第3刷)、374頁。
(2)橋本憲三「『火の国の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、5頁。
(3)同「『火の国の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、7頁。
(4)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、156頁。
(5)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(6)前掲「『火の国の日記』の後」『高群逸枝雑誌』第1号、7頁。
(7)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、159頁。
(8)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(9)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(10)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(11)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。
(12)「たより」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、32頁。
(13)石牟礼道子「高群全集に思う」『高群逸枝雑誌』第1号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1968年10月1日、裏表紙見返し(ノンブルなし)。
(14)石牟礼道生「母への手紙」『高群逸枝雑誌』第2号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年1月1日、23頁。
(15)「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年4月1日、28頁。
(16)同「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、同頁。
(17)同「たより」『高群逸枝雑誌』第3号、同頁。
(18)渋谷定輔「高群逸枝記念碑除幕式の経過」『高群逸枝雑誌』第5号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1969年10月1日、6頁。
(19)石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社、1969年、289頁。
(20)橋本憲三「題未定――わが終末期 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、22頁。
(21)同「題未定――わが終末期 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、23頁。
(22)石牟礼道子からの手紙文。『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、13頁。
(23)石牟礼道子『天の魚』筑摩書房、1974年、205頁。
(24)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、165-166頁。
(25)前掲「題未定――わが終末期 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、21頁。
(26)同「題未定――わが終末期 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、24頁。
(27)「たより」『高群逸枝雑誌』第11号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1971年4月1日、30頁。
(28)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、167頁。
(29)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、170頁。
(30)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(31)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、171頁。
(32)前掲『天の魚』、219-220頁。
(33)同『天の魚』、169-170頁。
(34)同『天の魚』、6-7頁。
(35)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、175頁。
(36)『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、藤原書店、2006年、539頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『西日本新聞』(1974年4月6日)に掲載された「まだ灯らぬ闇の中から」のようですが、その日の紙面にはその形跡を確認することができませんでした。
(37)『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、創刊号、1973年秋季号、167頁。
(38)同『暗河』創刊号、168頁。
(39)前掲『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、540頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『西日本新聞』(1974年4月6日)に掲載された「まだ灯らぬ闇の中から」のようですが、その日の紙面にはその形跡を確認することができませんでした。
(40)同『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、497頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『九重華』(1973年9月11日)に掲載された「未完なる叙事詩を書くこと」のようですが、この雑誌の存在を確認することができませんでした。
(41)同『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、497-498頁。巻末の「後記」によれば、初出は、『九重華』(1973年9月11日)に掲載された「未完なる叙事詩を書くこと」のようですが、この雑誌の存在を確認することができませんでした。
(42)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、16頁。
(43)石牟礼道子「最後の人 第十二回 第一章 残像3」『高群逸枝雑誌』第24号、1974年7月1日、27頁。
(44)「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』第16号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1972年7月1日、30頁。
(45)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。
(46)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(47)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(48)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(49)秋山清『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』思想の科学社、1973年、8-9頁。
(50)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、9頁。
(51)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(52)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(53)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、10頁。
(54)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(55)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、11頁。
(56)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、156頁。
(57)同『自由女論争 高群逸枝のアナキズム』、同頁。
(58)石牟礼道子「最後の人 第六回 序章 森の家日記6」」『高群逸枝雑誌』第6号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年1月1日、27-28頁。
(59)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、178頁。
(60)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(61)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、68頁。
(62)同『人なつかしき』、69頁。
(63)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、184頁。
(64)橋本憲三「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、52頁。
(65)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、424頁。
(66)前掲「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、59頁。
(67)同「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、54頁。
(68)同「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。
(69)松本正枝につきまして、ここで少し検討しておきます。高群逸枝が主宰する『婦人戦線』が創刊されたのは、一九三〇(昭和五)年三月でした。それから七箇月遅れてその年の一〇月に、松本正枝(本名は延島治)の夫の延島英一が『解放戦線』を発刊しました。逸枝は、自身の『婦人戦線』だけでなく、延島の『解放戦線』にも寄稿します。一方延島は、松本正枝の筆名で逸枝の『婦人戦線』に論考を書きます。堀場清子は、『婦人戦線』の同人であった住井すゑに、『婦人戦線』における松本正枝名の論考は、自伝特集号の際の文以外はすべて延島英一の代作であったことを確認したうえで、自著の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』(ドメス出版、2009年、58-59頁)のなかで、次のように自身の見解を述べていますので、ここに紹介します。 [『解放戦線』は]延島英一の主宰で、解放社から5冊まで出た。逸枝は毎号力作の論文を寄せ、その高揚感から、英一との間に稀有の思想的共鳴があったと感じさせる。彼の妻松本正枝(本名延島治)は、1970年代になって瀬戸内晴美氏に、『解放戦線』は「二人の恋の記念碑」と語り、故事を白日の下に曳き出した。二人が‶恋愛関係″だったか否かを、私は審かにしない。……英一の側に恋愛感情のあったのは事実であろう。『婦人戦線』最後の2冊(2巻5号・6号)の「松本正枝」書名の論文は、あげて高群攻撃である。振られた男の恨み節とでもいうべきか。それにしても、代作によって『婦人戦線』同人になっていた(晩年に至るも同様の姿勢だった)、延島治という人の心理が、私には解りにくい。 その「松本正枝」が、『埋もれた女性アナキスト 高群逸枝と「婦人戦線」の人々』(国立国会図書館デジタルコレクション個人送信にて閲覧可能)に、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」という題で一文を載せています。この冊子は、城夏子、望月百合子、八木秋子、大道寺房、松本正枝、大塚せつ子の六名の論考に加えて、秋山清の『婦人公論』初出の旧稿が再録されて構成されています。発行されたのは、一九七六(昭和五一)年の九月、『婦人戦線』の最終号から四五年が経過していました。また、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が終了して一年が、『婦人戦線』の刊行に深くかかわっていた橋本憲三が死去して四箇月が立っていました。このときの自身の境遇を、松本正枝はこう語ります。「わたしは男の子二人。都の老人ホームに入っています。子どもたちは大きくなればみんな家をとび出して家庭を作っていますから。延島英一が死んでからあとは、本当に解放されました。生きているうちはやっぱり、なにかとしばられますから。くだらないことを言って叱られたり」(17頁)。 それでは、「『婦人戦線』時代の想い出――高群逸枝のある恋愛事件――」のなかで、松本正枝は、その「事件」について、実際にどう書いているのでしょうか。 ラブレターを先に女性から手渡されてどうして男性がそれを受けないでいられましょう。「据膳食わぬは男の恥」という言葉を英一が教えられたのはその時だったでしょう。思想的に大いに共鳴しあいしかも肉体的に喜びを分ちあえる友はそうざらにいないでしょう。彼女は橋本氏にないものを彼に見出したのでしょう(31-32頁)。 こうして、自分の夫の英一と逸枝のあいだに、肉体関係があったことを、誰にはばかることもなく、明言するのです。そして、瀬戸内の「日月ふたり」については、次のように言及します。 一つの事件を三人三様にいい立てるのですから、「日月ふたり」を文芸展望に発表されて橋本氏を高群氏という素材を名器に仕上げた人と評する瀬戸内さんの多大な研究・取材は実に大きいと思います(33-34頁)。 最後にこの文を、松本正枝はこのような言葉で結ぶのでした。 故人となった高群氏の「婦人戦線」時代を高く評価する人々、反面「実り少ない時期であった」と過小評価する、むしろ否定する橋本氏。しかし、高群氏をあの当時私が尊敬していた事、また今でも尊敬している事はかわりありません(34頁)。 この三つの引用文から見えてくるものは何でしょうか。「思想的に大いに共鳴しあいしかも肉体的に喜びを分ちあえる友はそうざらにいないでしょう。彼女は橋本氏にないものを彼に見出したのでしょう」と書く松本正枝のこの言説をもって、英一と逸枝のあいだに「情事」あるいは「恋愛関係」が存在していたことを例証する重要な根拠(エヴィデンス)であるとみなす人もいるでしょう。本文で紹介していますように、たとえば瀬戸内晴美は、はっきりと「情事」という言葉を使っています。 しかし、その一方で、自分の夫と「肉体的に喜びを分ちあえる友」であった逸枝を、「あの当時私が尊敬していた事、また今でも尊敬している事はかわりありません」と述べ、自らがこの情報を提供した「瀬戸内さんの多大な研究・取材は実に大きいと思います」と語る松本正枝の心理と人間性に、疑問を投げかける人もいるかもしれません。たとえば堀場清子は、上で引用したように、「二人が‶恋愛関係″だったか否かを、私は審かにしない。……それにしても、代作によって『婦人戦線』同人になっていた(晩年に至るも同様の姿勢だった)、延島治という人の心理が、私には解りにくい」と書きます。 つまり、松本正枝(本名は延島治)による、自身の夫延島英一にかかわる四五年前の不倫の暴露は、人によって受け止め方が違うのではないかということです。このように受け止め方に違いがある言説は、最終的事実確認がいまだできていない以上、証拠としての有効性や信頼性に乏しく、一般的にいえば、伝記を執筆するに際しては、参考までに紹介することはあっても、事柄の断定に用いられるべきではないものと思料します。私も、そうした立場をとって、いま本文執筆に当たっていることを、ここに書き添えます。 あえていうならば、この言説は、不倫をしたであろうと思われる夫の、その妻の言説だということです。必要とされる証拠(エヴィデンス)は、あくまでも、不倫をした当事者の、日記か書簡に記された言説に求められなければなりません。そうした物証が現時点で存在しないのであれば、何らかの利害関係があることを排除できない妻の言説のみをもって、英一と逸枝の関係を「情事」ないしは「恋愛関係」と決定づけるのは困難ではないかと思われます。もし仮にこの言説が、何らかの理由から真実性を欠くものであったとするならば、どうでしょうか。夫の英一の名誉はいうまでもなく、その相手とその夫の名誉もまた、損なわれることになるのです。そこで、この「事件」を記述の素材にするに当たっては、極めて慎重な配慮が必要になるのではなかろうかと愚考します。 私自身には、一般論としての観点からいえば、この世の中には、「情事」や「恋愛事件」に異常にも関心をもつ著述家や記者がいて、その人に、極端に誇張された「事件」を吹聴し、それを嬉々として文にする書き手の姿と、それを読んで端無くも歓喜する読者の姿とを、遠くから眺めては愉快な感情に浸る人間がいても、決しておかしくはないのではないかという、否定しがたい思いがあり、そのことを率直にここに書き記しておきます。
(70)すでに本文において示していますように、一九七四(昭和四九)年の三月二六日に、橋本憲三は、瀬戸内晴美の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された、四月に発売予定の『文芸展望』第五号の見本誌が、筑摩書房の村上彩子から事前に送られてくると、二日後の二八日に、瀬戸内に宛ててはじめての手紙を書きます。その手紙のなかで憲三は、瀬戸内が書いた内容について、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのでした。このとき憲三は、自分と自分の妻が、事実と異なる姿でもって世間に公表されたことに、耐えがたい無念と憤慨を感じたのではないかと推量されます。 さらにそれから四箇月が過ぎた、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」には、次のような文字が書き込まれています。堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』(ドメス出版、2009年、186頁)からの引用です。 八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。 八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」。 瀬戸内晴美の『談談談』が大和書房から出たのは、そのおよそ半年前のことでした。こうして、憲三は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」のなかだけでなく、『談談談』においても、事実無根の記述を見出すのでした。その箇所は、小沢遼子と中山千夏を相手に語る、おそらく次に引用する部分(瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁)であったのではないかと思われます。 瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。 中山 普通との反対みたいね。 憲三は、こうした部分を読んで、「さんたんたる事実無根の記事」と「共用日記」に書き付けたものと思われます。瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、「共用日記」によれば、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、とても信じがたいことです。瀬戸内のこの一文に接した憲三は、おそらく仰天したにちがいありません。 続けて瀬戸内は、小沢と中山に対して、こんなことも話題にします。 瀬戸内 ……きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの。「婦人戦線が潰れたところがよくわからないんですけど、逸枝さんはよく聞いてみると、男を作って、しょっちゅう逃げ出していたそうですが、ほんとうですか?」「ええ、ほんとうですとも。われわれの時代のアナキストは恋愛に対してもアナーキーで、逸枝さんはそれを実行なさいました。人の亭主でもなんでもおかまいございませんの」「だれか逸枝さんの相手で覚えている方ございませんか?」「はあ、ございますとも」そのおばあさんはそれからちょっと出ていってお茶を入れて、「うちの人です」(笑い)。 小沢・中山 へえー(笑い)。 瀬戸内は、「きのう私が訪ねて行ったおばあちゃまのところできいてみたの」といっていますが、この「おばあちゃま」というのは、たぶん松本正枝(本名は延島治)のことでしょう。そして、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏を相手にしたこの対談について、「本書のための語り下ろし 昭和四十八年五月十日赤坂にて」(同書、⑳④頁)と書いています。それであれば、「おばあちゃま」を訪ねたのは、前日の五月九日で、水俣訪問から三箇月後のことになります。そこから類推しますと、「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」と語ったのは、橋本憲三本人ではなく、松本正枝だった可能性が派生します。もしそれが真実であったとするならば、瀬戸内は、小沢遼子と中山千夏のみならず、多くの読者に対して、憲三にかかわっての虚偽の印象を植え付けたことになるのです。 昨日人から聞いた醜聞を、真偽を確かめることもなく、さもおもしろそうに他人に吹聴し、さらにそのうえに、それを自慢げに文字に書く、瀬戸内晴美という作家は、どのような人物だったのでしょうか。私は瀬戸内の専門家ではありませんし、ほとんど彼女の作品も読んでいませんので、それを語る資格は全くありません。しかし、これまでの私の富本一枝研究において、瀬戸内晴美という小説家の存在については気づいていました。そこで、一枝のいとこの尾竹親と、一枝の古き友人の丸岡秀子の言説を引き、瀬戸内作品の含み持つ特殊性の一端をここで紹介し、あわせて、それについて検討しておきたいと思います。 富本一枝のいとこの尾竹親は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』(東京出版センター、1968年、217頁)のなかで、次のようなことを書いています。 人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。 瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした小説で( ・・・ ) あってみれば( ・・・・・・ ) 、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである。 以上の引用は、瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』(文藝春秋、1966年)という本のなかで描写されている、青鞜社時代に紅吉(一枝の筆名)が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における竹坡(親の父親)の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所であろうかと思われます。はっきりと「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」が指摘されているところに、注目する必要があります。 次に、丸岡秀子の場合を見てみます。以下の引用は、自身の『田村俊子とわたし』(中央公論社、1973年、239頁)の「あとがき」の冒頭の一文です。 なぜ、いまごろになって、これを書いたのだろう、と書いてしまって思う。やっぱり、書かないではいられなかったからだった、というよりない。 だが、ひとつには瀬戸内晴美さんが、『田村俊子』をまとめられたとき、わたしとしては俊子について思う存分、語れば語れる機会だった。瀬戸内さんからはそのために、何度かその機会を作るように依頼されたのだが、わたしは大病つづきのために、それができなかった。もしあのとき、健康で俊子を語っていたら、長いあいだの胸閊( づか ) えは、ずっと前にとれていたかもしれない。 瀬戸内晴美の『田村俊子』(文藝春秋新社、1961年)は、その一二年前に上梓されていました。それでも、丸岡は、田村(佐藤)俊子について書かざるを得ない思いにあったようです。丸岡を田村に紹介したのは富本一枝でした。一枝にとって田村は青鞜社時代以来の友人で、一方丸岡は、奈良女子高等師範学校の生徒であったときからよく知る若き知り合いでした。田村が海外生活を終えて帰国した一九三六(昭和一一)年の富本憲吉の窯開きのある日、ふたりは招待されて、面識を得ることになります。田村にとって、それからの三年というものは、思うように作品が書けず、金銭の管理が甘いがゆえに友だちを失い、窪川いね子(のちの佐多稲子)の夫である窪川鶴次郎との道ならぬ恋にも陥り、満たされぬ苦悶の歳月でした。田村は、何かにつけて丸岡を頼ります。丸岡も悪い気はしません。いつも寄り添うように、田村を支えます。こうして田村が中国に発つまでのおよそ三年間、田村と丸岡は誰よりも親しい間柄にありました。丸岡にとって、瀬戸内が書いた『田村俊子』には、自分の知る田村俊子が十全に反映されていなかったのでしょう。あるいは、丸岡の目からすれば誤謬が含まれていたのかもしれません。田村と丸岡のふたりがこの時期に交わし合った書簡という一次資料を全面的に援用して、何とかその移ろえる像を修正し、より正確で真実に肉薄した田村像を、どうしてもここで書かなければならないという切迫した状況に、丸岡は立たされていたものと思量します。 以上見てきましたように、私の研究の極めて狭い範囲においても、瀬戸内晴美(寂聴)が書いた「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」(『文芸展望』に五回連載)、『談談談』、『美は乱調にあり』、そして『田村俊子』には、記述の対象となっている人物の、まさしくその人本人、あるいは、その親族や関係者にとっては、承服しがたい、事実無根ないしはそれに近いと思われる内容が随所に含まれていたのでした。 そこで以下に、そのことに関連して、少しばかりの愚見を述べることにします。 『瀬戸内寂聴全集 第二巻』(新潮社、2001年、836頁)の巻末に収められている「解題」は、次の文ではじまります。「本巻は、著者の伝記小説の分野の口火を切った『田村俊子』と、つづく大作『かの子繚乱』とを収録した」。私は文学史も文学論についても、知識がありませんが、ここで使用されている「伝記小説」という用語に遭遇したとき、強い違和感に襲われました。といいますのも、「伝記」はあくまでも「事実」に沿って記述されるものであり、ところが「小説」はそれとは異なり、書き手の自由な構想力ないしは想像力にゆだねられるものであると承知していたからです。つまり、私の理解では、「伝記」と「小説」では向かう方向が正反対であるはずなのです。ところが、それにもかかわらず、そのふたつが合体し、あろうことか一語になっていることに、私は違和感を覚えたのでした。 私の専門分野は、歴史学の一分野であるデザイン史学です。デザインの通史にも興味がありますが、個別デザイナーにも関心を寄せ、英国のデザイナーで、詩人にして社会主義者でもあったウィリアム・モリスと、その思想と作品に影響を受けて英国に渡り、のちに陶工として世に出た富本憲吉について研究してきました。その成果が、著作集3と4の『富本憲吉と一枝の近代の家族』であり、著作集6の『ウィリアム・モリスの家族史』です。それを著わすにあたっては、二度の英国での長期滞在を通じて、伝記執筆にかかわる多くの知見を現地の同僚研究者から得ていたことが、大いに役立ちました。彼らが考える「伝記」とは、おおよそ以下のようなものでした。それをここに箇条書きにします。 (1)歴史上の人物の生涯を第三者である研究者ないしは伝記作家が書く場合は、本人や遺族のプライヴァシーや人権を絶対的に尊重して、少なくとも没後五〇年の歳月が経過しない限り、着手してはいけない。 (2)一般に英国の場合、著名人が死去すると、その人の書簡類や日記は、しかるべき図書館かまたは博物館に寄贈され、少なくともおよそ五〇年は非公開となるため、いずれにしても、定められた時を経て実際に一般公開された暁に、研究者や伝記作家は筆を執ることになる。 (3)執筆に当たっては、根拠となりえない、単なる思いつきや思い込みは排除し、すべて一次資料をもって論述の証拠(エヴィデンス)として実証に努め、あらゆる読者がのちに検証することが可能となるように、それを注および出典という書式でもって、巻末に加える。 (4)このように、伝記というものは、記述内容の検証が将来的になされることを前提に、完全なる一次資料に基づいて執筆されることになる以上、決して書いてはいけないというタブーの領域はいっさい存在せず、歴史の真実を知りたいという、人類に共通する普遍的な知的欲求の観点に立ち、たとえ夫婦の性生活であろうと、夫婦外の恋愛事件であろうと、すべての事象が論述の対象となる。 (5)つまり伝記は、かつて実在した個人の生涯についての、換言すれば、その人の家族、生活、教育、仕事、恋愛、結婚、性、育児、友人、イデオロギーなどにかかわる、厳密なる歴史書なのである。そこには、苦悩や喜びに満ちた、その人の生きたあかしが叙述されることになり、当然ながら、真実に肉薄しなければならないし、決して虚偽であってはならない。ただ、同じ個人について、ほぼ同じ一次資料を使って叙述しようとも、書かれるときの社会的文化的状況に違いがあり、そして、書く人の人間に対する興味や観点に違いがあり、さらにその一方で、新しい資料の発掘が進行し、また、学問全体の求める主題や文脈が推移するため、そうした要因によって伝記それ自体も日々進化する。その意味において書かれた伝記は、すぐれて独創性の産物であり、人類全体にとっての希求されるべき共通知となる。 私が、これまでに英国で学んだ伝記書法の原理は、だいたい以上のようなものでした。そこで次に、その具体例として、私の研究の対象であるウィリアム・モリスと、加えて、モリスの親友で、モリスの妻の愛人でもあった、画家で詩人のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティについての、直近のフル・スケールの伝記を紹介します。発行年は少し古いのですが、フル・スケールの伝記というのは、研究に多くの時間を要し、一〇年から二〇年くらいのピッチで刊行されるのが通例です。しかしそれだけに、十全に論証と実証がなされた信頼に足るだけの重厚さがあります。その二冊のデータは、以下のとおりです。 Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, 780pp. Jan Marsh, Dante Gabriel Rossetti: Painter and Poet, Weidenfeld & Nicolson, London, 1999, 592pp. この注釈において取り上げた、瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」、『美は乱調にあり』、そして『田村俊子』の「伝記小説」は、こうした英国における伝記にかかわる執筆の原則や書法とは大きく異なる相に位置します。なぜ瀬戸内は、いまだ存命中の、あるいは死去して日が浅い人物について、いっさいの証拠を示すことなく、したがって、プライヴァシーや人権への配慮もなく、そのために、その人の名誉と人格を傷つけかねない状況のなかにあって、あえて「伝記小説」という独自の領域を設定して描くに及んだのでしょうか。本人はもとより遺族や関係者からの反発を招いたのは、そのことに起因していたものと思料します。 それでは最後に、「伝記」と「小説」の分離を促した、ある書き手の一例を紹介して、この稿を終わります。 以下の文は、吉永春子の『紅子の夢』(講談社、1991年、274-275頁)の「あとがき」から一部を引用したものです。吉永は、富本一枝との学生時代の一瞬の出会いが忘れられず、その強い衝撃が動機となって筆を執ることになりました。「紅子」が、尾竹紅吉こと富本一枝であることはいうまでもありません。 ふとした機会から私は、彼女について書くことになり、改めて調査に入ったが、すぐに戸惑ってしまった。 事実と、私の脳ミソに焼きついた存在とが、時には重なり、時には遠く離れ、複雑な線となって、縦横に走りまくり始めた。これはいけない、どっちかにしなければ。 選択の結果が〈小説・紅子の夢〉ということになった。 歴史上の人々の名前は実名にしたが、あくまでもそれは時代背景を生かすためで、人物表現はフィクションをベースにした。 これを読むと、執筆に際しての吉永に、明らかに、「事実と、私の脳ミソに焼きついた存在と」の激しいせめぎ合いが発生していることがわかります。つまりこれが、「事実」を基礎とする「伝記」と、「脳ミソに焼きついた存在」を描く「小説」の違いとなります。瀬戸内の「伝記小説」は、真実と虚構とがない交ぜになった、つまり「伝記」であるようで「小説」でもあるような、あるいは「伝記」でもなければ「小説」でもない、いまだ未分化の状態で存在していたものと思われます。その結果それは、何をもたらすことになるのでしょうか。 橋本憲三からの誤謬を指摘する手紙を受け取った瀬戸内晴美は、後年、自著の『人なつかしき』(筑摩書房、1983年、69頁)のなかで、こうも書いています。 それまで私に示されていたのとは全くちがう憲三氏があらわれた。私は憲三氏のショックが意外でもあり、意外でもないような気がして、複雑な想いにとらわれた。 「ショックが意外でもあり、意外でもない」と書く以上は、ほぼ間違いなく、執筆に当たって当初瀬戸内は、自身の「伝記小説」は「真実」を描いたものであり、そのため、そのなかで描写された人物は、すべてその記述内容に同意するはずであり、いわんや、それにより傷つくようなことなどありえない、と思い込んでいたのでしょう。しかし、存命中の人間が、いきなり「伝記小説」という舞台に引っ張り出され、まさに著者の「脳ミソに焼きついた存在」として脚色されて踊らされていたとしたらどうでしょうか。そのとき、その登場人物が、実際の自分との違いに気づき、ショックと憤りを感じたとしても、それは、何ら不自然なことではないように思われます。他方で、観客である読者はどうでしょうか。おそらく演じられている物語を、虚構世界のそれとして楽しむのではなく、実名で語られている以上は、真実世界のそれとして誤認することでしょう。さらに加えて、その書き手が、これは事実ではなく、読み物という作り話ですからという弁明を残して、その場を立ち去ったとしたらどうなるでしょうか。描かれた人間は、行き場を失い、そこに倒れ込むしかありません。そして一方の読者は、与えられた虚飾の物語を真実として信じ込んでこれから生きてゆくことになるのです。いま一度、前述の、尾竹親が指摘した「フィクションとしてのある種の無責任さ」と「小説の安易さ」を、ここで想起しなければなりません。「伝記小説」のもつ限界と罪悪は、まさしくこの点にあったものと理解します。
(71)前掲『人なつかしき』、69-70頁。
(72)前掲「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、56頁。
(73)前掲『人なつかしき』、69-70頁。
(74)前掲「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、56頁。
(75)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、188頁。
(76)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(77)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(78)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、189頁。
(79)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(80)前掲「瀬戸内晴美様への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、58-59頁。
(81)前掲『人なつかしき』、70頁。
(82)同『人なつかしき』、69頁。
(83)同『人なつかしき』、68頁。
(84)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』朝日新聞社、1981年、183頁。
(85)戸田房子「献身」『文学界』文藝春秋、1974年7月号、80-81頁。
(86)同「献身」『文学界』、114-115頁。
(87)同「献身」『文学界』、115-116頁。
(88)村上信彦「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年10月1日、21頁。
(89)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、25頁。
(90)前掲「献身」『文学界』、116-117頁。
(91)概略、私は本文におきまして、戸田房子の「献身」を例にとり、同時代にあっては、女性を擁護し男性を断罪することが先験的に定型化されており、そうした枠組みのなかで、女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものの記述手法は、固定化されていたのではないかと、述べました。 一方で私は、本稿「火の国の女たち」の第二章「平塚らいてうと尾竹紅吉の『同性の恋』の顛末」、および第四章「富本憲吉・一枝夫妻に蔵原惟人がかくまわれる」におきまして、富本一枝(旧姓は尾竹で、青鞜社時代のペンネームは紅吉)と、夫で陶工の富本憲吉に言及しました。 一枝についての評伝は、すでに二冊世に出ています。ひとつは、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』(ドメス出版、1985年)で、もうひとつが、渡邊澄子の『青鞜の女・尾竹紅吉伝』(不二出版、2001年)です。このふたつの評伝におきましても、いかなる実証も論証もなく、一枝を擁護し、憲吉を断罪する記述の手法がとられています。とくに、大正末年、奈良の安堵村を離れ、東京の千歳村に移転する際の記述に、このことはよく表われています。双方の本とも、転居は、憲吉の「女性問題」に原因があったと、断定されています。しかし、事実は違います。のちの私の研究によれば、原因は一枝の「女性問題」にありました。一枝は、性的少数者(本人は明確にカミング・アウトしていませんので、断定はできませんが、数々の傍証からほぼ間違いなくトランスジェンダー男性)だったのです。 そこで、この二冊における該当箇所をつまびらかにすることによって、参考までに、私が気づいた、いわれなき「女性擁護/男性断罪」にかかわる事例の一端をここに紹介したいと思います。 それでは、それぞれの評伝にあって、富本一家の安堵村生活の終焉と東京移転に関して、どのように書かれてあるのかを、ここで見ておきたいと思います。まず、高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』においては、このように記述されています。共著者の高井陽は、富本憲吉・一枝夫妻の長女で、この本が上梓されるときはすでに世を去っていました。 「この頃になると長女の陽も成長し、中等教育をどうするか考えねばならなくなっていた。理想をもって始めた小さな学校は、十全とはいえなかったし、子どもたちに一層よい教育環境をと考えた時、それは安堵村では無理だった。子どもたちのために東京へ、そんな話が夫婦の間で何度か出たが、容易に解決できないでいた。そんな時、憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する。憲吉にとってはほんの一瞬の気の迷いであったろうし、当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない。しかし一枝は深く傷ついた。一カ月に及ぶ、二人の夜ごとの話し合いの末、大正一五年三月、東京への移転が決められた。……しかしほかの仕事とちがって、陶芸家の場合は、簡単に転居ができなかった。土や松薪を求める便宜と、窯がどうしても必要であった。四月から移転の準備を始めたが、一枝は身重の身体でありながら、土地の選定や金策などにも奔走した。……こうして、柿も色づきはじめた秋半ばの一〇月一五日、住みなれた安堵の村をあとに一家は東京へと出立した」(149-150頁)。 このような記述をするに際して、著者の折井は、いっさい注釈を施していませんし、また、最も肝心な証拠となる資料も明示していません。したがいまして、ここに述べられていることが真実なのかどうかを再検証する方途が完全に奪われているのです。 共著者である陽が、生前に、このような内容を折井に漏らしていた可能性がないことはありません。しかし、たとえば、別の箇所では、「……と陽さんは語っている」(126頁)とか、「陽さんの回想に詳しく書かれているが……」(137頁)とか、「……という陽さんの記憶で」(147頁)といった表現形式でもって、情報の提供者が明らかにされているにもかかわらず、ここの箇所に関しては、陽によって情報が提供されたことをうかがわせる注釈は残されていないのです。そのことから判断しますと、この記述内容は、折井の独断的な想像と判断によって練り上げられたストーリーであるといわざるを得ません。 記述の内容にも疑問が残ります。「憲吉の起こした女性問題によって、一枝は東京への移転を決意する」と、著者の折井は書いていますが、その相手は誰だったのであるのか、いつのことであったのか、これらについては、何も語っていません。さらに、「当時の男性にとっては、ありがちのことだったかも知れない」「女性問題」がなぜ、「東京への移転」という、一般的にはあまりありがちとは思えない特殊な「決意」を一枝にさせてしまったのか、その理由についての言及もありません。 仮に、憲吉の身に「女性問題」が存在したとして、なぜそのことが、家族そろっての東京移住につながるのか、裏を返せば、なぜ一枝は離婚を考えなかったのか、あるいは、なぜ娘たちを連れての一枝単身の移住とはならなかったのか――こうした一般的に考えられそうな対応についても、何ひとつ説明がなく、ひたすら疑問だけが残ります。もしふさわしい資料が手もとにあるのであれば、もっと積極的にそれらの資料に真実を語らせるべきだったのではないかと考えます。 しかし、私がこれまでに調査した範囲でいえば、憲吉の「女性問題」を示す資料は、いっさい存在しません。したがいまして、東京移転の理由としての憲吉の「女性問題」は、いまだ折井個人の仮説の域に止まっていると判断するのが妥当でしょう。このことを実証するためには、たとえば、憲吉と一枝の当事者たちを含め、周りの関係者たちの手紙や日記などに記述されているかもしれない、動かすことのできない何か新しい資料の発掘が必須の要件となるにちがいありません。もしそのことができなければ、憲吉にかけられた「女性問題」の嫌疑は、誰ひとりとして事実かどうかの再検証ができないまま独り歩きし、今後永遠に語り継がれていくことになります。これでは「冤罪」を構成しかねません。すでに鬼籍に入っているとはいえ、実在した人物である以上、その人権と名誉は、当然ながら、尊重されなければなりません。 この記述問題につきまして、私は、次のように推量しています。 この情報は、おそらくは母親から娘に伝えられた内容でしょう。こうしたストーリーを持ち出すことによって、一枝は子どもたちに東京移転の理由を説明したものと思います。それが折井に伝わり、折井はその真偽を検証することもなく、そのまま、情報の提供者名を伏せたたうえで、文にしたのではないでしょうか。 それでは、なぜ一枝は虚偽のストーリーをつくらなければならなかったのでしょうか。すでに、著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』において詳しく論述していますように、性的少数者であることをカミング・アウトできないことに起因して、やむを得ず、真実とは異なるストーリーを捏造しなければならなかったものと考えます。そうした事例は、ほかの場面にも幾つか見受けられ、一枝の言説のひとつの特徴を形成しているのです。 それでは次に、『青鞜の女・尾竹紅吉伝』における記述内容を検討します。この本のなかで、著者の渡邊澄子は、安堵村から東京への移転の理由について、折井がすでに示した憲吉の「女性問題」をそのまま踏襲したうえで、こう述べます。 「一家は一九二六年一〇月、東京へ移住することになるが、それには、晩年にまで水面下で尾を曳き、結局、二人の間を離隔させることになったが、その根に憲吉の女性問題をみることができる。私が紅吉に魅せられ、紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる。私はこの間、生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業を仕事の合間の折々に続けてきたが、憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった、と複数の方の証言を得た。子どもも生まれていてこの子は里子に出されたはずと明言した人もいた。しかし一方で、そんな事実はない、田舎は狭いのでもしそのようなことがあったら、誰知らぬ者なく広まってしまうはずだ、という人もいた。しかし、夫である男性が妻とは別の女性と特別の関係を持つ例は、ほとんど日常茶飯事としていわば公認されていた時代状況下では、事実があってもそれは大問題にならないということもあるのではないだろうか。夫を愛している妻である女性がそのことでどれほど傷つくか、その痛みの深さを感じ取れない男性社会だったのだ」(210-211頁)。 残念ながら、本書にも注などは存在せず、そのように断言するうえでの根拠となる証拠も何ひとつ示されていません。「生前の二人を知る人を訪ねては聞き書きをとる作業」をしているのであれば、いつ、どこで、誰に、何を聞き、その聞き取った内容を相手に確認してもらったうえで公表の了解を得て、そのすべてを開示すべきであったと愚考されるものの、そのような学問的配慮に欠けるため、このままでは、憲吉の「女性問題」は単なる風聞か噂話の域を出ない状態に置かれているといわざるを得ません。 井出秀子とは、丸岡秀子のことを指しているのであれば、紹介者としての当事者である丸岡に、事の真相を直接問い合わせるべきだったのではないでしょうか。「紅吉の生涯を書きたいと願って準備に入ってからすでに二〇年になる」と著者は書いていますが、この本が出版されたのが二〇〇一(平成一三)年、そこから逆算すれば、一九八一(昭和五六)年ころから聞き取り調査をはじめていたことになります。丸岡が亡くなるのが一九九〇(平成二)年であることを勘案すれば、著者の渡邊は、その意思さえあれば、丸岡本人へ直接インタヴィューを試みることも、あるいはまた、書簡による問い合わせも十分可能だったのではないでしょうか。 丸岡秀子自身は、生涯、憲吉の生き方に強い共感を示し、敬愛の念を持ち続けました。晩年に至ってまでも、丸岡はこういっています。「いま、若い人たちにとって、二人[憲吉と一枝]は名前さえ知られてはいないであろう。だが、京都、奈良めぐりの旅行の中に、‶世紀の陶工″富本憲吉美術館を入れてもらいたいと、私は願う。法隆寺からすぐなのだから」(丸岡秀子『いのちと命のあいだに』筑摩書房、1984年、28頁)。 もし、「憲吉の女性問題の相手は井出秀子が世話したお手伝いさんだった」のであれば、紹介者自身も深い傷を負い、憲吉に強い怒りと不信を向けたにちがいなく、晩年にあって、こうした憲吉に寄せる信頼と讃美の言葉を丸岡が書き記すことは、おそらくなかっただろうと思われます。その意味で、渡邊の言説をそのまま受け入れるには、大きな違和感が生じます。もし仮に、それが真実であると主張するのであれば、どうしても、それを裏づけるにふさわしい証拠となる資料を明示すべきではないでしょうか。とりわけ、「井出秀子が世話したお手伝いさん」が、いつどのような経緯で富本家へ入り、いつ妊娠し、いつどこで出産し、いつどのような経緯でその子が里子に出されたのかを明確な根拠に基づき実証すべきであると思われます。 他方で、その情報を提供した複数の人物とは誰と誰なのか、これについても、歴史的証人として本人たちの了解を得たうえで、明らかにするべきだったのではないでしょうか。「生前の二人を知る人」と渡邊はいいますが、「女性問題」が持ち上がった一九二六(大正一五)年前後のあいだの安堵の富本家の生活の様子を日常的に知ることができ、渡邊が「聞き書きをとる作業」をする時期まで存命していた人物は、そう多くはないはずです。この時期一枝も妊娠していました。一方、丸岡秀子の奈良女高師の先輩で友人と思われる若い女性教師が円通院で教鞭をとっていました。そうしたこととの混同や取り違えはないのか、あるいは、どこかの段階で誰かが、一枝の「女性問題」を憲吉の「女性問題」と聞き違えたり、伝え違えたりしているようなことはないのか、慎重な対応と吟味が必要とされなければなりません。 もし、以上に述べてきたような学問上の基本的手続きに立ち返ることができなければ、すでに高井陽・折井美那子の『薊の花――富本一枝小伝』にかかわって上で述べた指摘同様に、反論することも、弁明することも、真実を語ることも、何もいっさいできないまま、憲吉の「女性問題」は永久に歴史のなかに刻印されることになります。これによって、いまや事態は、憲吉の身に「虚偽の歴史」ないしは「歴史上の冤罪」が構成されかねない状況に立ち至っているのです。 以上、先行する既往評伝の二冊を取り上げ、そこで述べられている、富本一家の安堵村生活の崩壊と、それに伴う東京移住の理由について批判的に検討してきました。結論としていえることは、総じてどちらの評伝においても、渉猟された適切な一次資料を十全に駆使して論証ないしは実証するという、真実に近づくための学術上必要とされる手続きがほとんど、あるいは全く見受けられず、そのことに起因して、ともに、述べられている内容に絶対的信頼を置くことができない状態を露呈しているということでした。 私は本文におきまして、戸田房子の「献身」を例にとり、同時代にあっては、女性を擁護し男性を断罪することが先験的に定型化されており、そうした枠組みのなかで、女性史やモデル小説(あるいは伝記小説)と呼ばれるものの記述手法は、固定化されていたのではないかと、述べました。以上において論述したのは、富本一枝の伝記に見受けられる、その事例となる二点でした。ここに参考に供したいと思います。
(92)前掲「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、18頁。
(93)同「私のなかの高群逸枝8」『高群逸枝雑誌』第25号、18-19頁。
(94)前掲「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、22頁。
(95)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。
(96)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、21頁。
(97)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、38-39頁。
(98)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、22頁。