尾竹一枝(のちの富本一枝)は、高群逸枝より一年早く、一八九三(明治二六)年の四月に、富山市において生を受けました。父親の熊太郎(雅号は越堂)は日本画家で、弟の竹坡と國観とともに、尾竹三兄弟としてその後の画壇において活躍してゆく人物です。士族の家系に育った母のウタは、一枝を頭に四人の娘に対して厳しい態度でしつけに臨みました。
学童期を東京と大阪で過ごし、夕陽丘高等女学校(現在の大阪府立夕陽丘高等学校)を卒業した一枝は、東京に住んでいた叔父の竹坡の勧めもあって、上京して女子美術学校(現在の女子美術大学)に入学します。しかし、寄宿舎の舎監と衝突し、退学する事態となりました。
こうして叔父(竹坡)宅の食客となった一枝ですが、あるとき、このようなことがありました。以下は、叔母(きく)の証言です。
一枝さんと一緒に上野の山へ行った時よ、その人マントをすらっと着ているものだから男と間違えられちゃってね、笑ったことがあるわよ……1。
さらに、一九一一(明治四四)年の秋のある日、一枝にとって「天地振動」の出来事が起こります。
或る日の朝、表庭の掃除をしてゐたら伯( ママ ) 母宛の手紙が一通配達夫から渡された。……私はその一本の手紙がひどく氣にかかり、不思議に思はれて裏返してみたら、靑鞜社と書かれて居た。……私の渡した手紙を伯母も不審らしく眺めていたが……封を切つてとり出したのが靑鞜發刊の辞と靑鞜社の規約であつた。伯母にとつては勿論それは一枚の印刷物に過ぎなかつたが、私にとつては天地振動そのものであつた。2
一九一一(明治四四)年九月一日に発行された『青鞜』第一巻第一号所収の「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」は、次の言葉ではじまっていました。らいてうによる文です。
元始、女性は實に太陽であつた。真正の人であつた。 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。 偖てこゝに「青鞜」は初聲を上げた。 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出來た「青鞜」は初聲を上げた。 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。 私はよく知つている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを3。
「現代の日本の女性の頭脳と手によつて」編集される、日本ではじめての文芸雑誌『青鞜』を創刊に導いた中心人物が、らいてうでした。らいてうは、本名を平塚明( はる ) といい、一八八六(明治一九)年二月、三人姉妹の末娘として東京に生まれました。父親は明治政府の高級官吏で、平塚家は、裕福で教育熱心な家庭でした。東京女子高等師範学校の附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属高等学校)に続いて、日本女子大学校(現在の日本女子大学)を卒業。語学の勉強のためにその後通っていた成美女子英語学校で森田草平と知り合い、恋に落ちたふたりは、一九〇八(明治四一)年三月に、塩原近くの雪の山中で心中未遂事件を起こし、世間の注目を浴びることになります。いわゆる「塩原事件」、あるいは「煤煙事件」とも呼ばれるものです。『青鞜』の創刊号が世に出たのは、それから三年半後のことで、らいてう、二五歳のときでした。
帰阪するや一枝は、同年(一九一一年)の一一月三〇日の夕方、さっそくらいてうに宛てて手紙を書きました。
『青鞜』の発行されたのは、東京にいた時分から知っていました。…… 然し……私は入社せずに大阪の町に帰りました。私は只口惜しく思います。そしてその反動の様に心斎橋の難波の本屋迄毎日のように行って『青鞜』をさがしました。けれど……一冊も『青鞜』はありません。私は泣きたくなりました。 けれど来月号からは、私は本屋のおかみさんにかたく談じて、一番に私の家にまでとどける事を約束しました。……私は来月からいよいよ『青鞜』の読まれる、一人の女の子の仲間になりました。私はこれで入社ができたのですか?4
この手紙を受け取ったらいてうは、のちにこう回想します。当時紅吉は、文学を志す本人の意思とは別に、親の後を継ぐことを期待された閨秀画家でもありました。
ペンの正しい楷書で、上手なようでもあり、下手なようでもある一種独特な書風の、天衣無縫とも、子どもらしいともいいようのない手紙を受けとったわたくしは、この手紙に惹かれるものを覚えながらも、出さずにいました。……それからも矢つぎばやによこしますが、自分の名前が手紙のたびごとにいろいろ変わり、これがいつの間にか『紅吉( こうきち ) 』『紅吉』と自分を呼び出しました。わたしはこの変わり者に入社承諾の返事を出し「あなたは絵を勉強していられるそうですが、一つ『青鞜』の素晴らしい表紙を描いてみる気はありませんか。いいものが出来れば、今のをいつでも取替えます」と書き添えました5。
年が明けた一九一二(明治四五)年の一月、念願かなって一枝は、青鞜社の一員に加わります。将来結婚することになる富本憲吉を奈良の安堵村の自宅にはじめて訪ねたのは、翌二月のことでした。洋行帰りの憲吉に会って話をすることが目的でした。
富本憲吉は、一八八六(明治一九)年六月に大和安堵村の旧家に生まれ、東京美術学校で図案(現在の用語法に従えばデザイン)を学び、一九世紀英国の詩人にしてデザイナーで、社会主義者でもあったウィリアム・モリスの思想と実践に魅了され、卒業を待たずして英国に渡ります。一九一〇(明治四三)年に帰国すると憲吉は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を参照しながら「ウイリアム・モリスの話」を執筆。擱筆後それは、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載されます。これが、憲吉にとっての帰朝報告であり、同時に、装飾芸術家モリスを日本に紹介する最初の評伝となるものでした。一枝が憲吉を訪問するのは、「ウイリアム・モリスの話」が発表される、ちょうどこの時期のことでした。
富本宅訪問から二箇月後の四月のはじめ、父の越堂は、娘の一枝を連れ立って東京に上り、下根岸に居を構えました。この間紅吉(一枝)は、『青鞜』三月号に「最終の霊の梵鐘に」を書き、続いて、四月号『青鞜』の表紙絵が、紅吉の《太陽と壺》に差し替えられていました。上京すると、さっそく四月二〇日の『多都美』(第六巻第八号)において、第一二囘巽画会絵画展覧会の「審査報告」が発表されます。一枝の二曲一双の屏風《陶器》が三等賞銅牌に輝き、越堂の作品は、その下の褒状一等に止まりました。
一方で紅吉は、青鞜社の事務所へ、そしてらいてうの自宅へと、足しげく現われるようになります。らいてうは、そのころの様子を、このように書いています。
久留米絣に袴、または、角帯に雪駄ばきという粋な男装で、風を切りながら歩き、いいたいことをいい、大きな声で歌ったり笑ったり、じつに自由な無軌道ぶりを発揮する紅吉。それが生まれながらに解放された人間といった感じで、眺めていて快いほどのものでした。他の社員たちからも……可愛がられるので、人にもてることの好きな紅吉は、幸福のやり場のないようなうれしそうな顔をして、得意然としてあちらこちらに出没していました6。
そうしたなか、巽画会の審査結果の公表から一箇月と立たない五月一三日の夜、ひとつの大きな出来事が起こります。それをきっかけとして、らいてうと紅吉との「同性の恋」の幕が開くのでした。
五月一三日、紅吉の自宅において青鞜社同人による会合が開かれました。以下は、そのとき紅吉が出した案内状の文面の一部です。
桃色のお酒の陰に、やるせない春の追憶を浮べて春の軟い酔を淡い悲しみで、それからそれに、覚めて行く樣に、私達は新しい酒藏から第二の壺を搬び出した。そして私達の仕事に異( ママ ) 大な祝福の祈を捧げ乍ら靑いお酒を汲み合ひたいと思ふ。来る十三日午後一時から紅吉の家で同人のミーチングを催します。紅吉は、黄色い日本のお酒とそして麥酒と洋酒の一[、]二種とすばしこやのサイダを抜いて待つて居る。……紅吉は、その日、その夜の來るのを、子供の樣に數へて待つて居る。さよなら7。
この日の会合は泊まりがけになりました。そしてその日の夜、らいてうと紅吉とのあいだに烈しい愛の衝動が走るのです。そのことを紅吉は、「或る夜と、或る朝」のなかで、誰にはばかることもなく、こう告白します。
私は、どうしたらいゝのだろう。抱擁接吻それら歡樂の小唄は、どんなになる事だろう!?。……私の心は、全く亂れてしまつた、不意に飛出した年上の女の為めに、私は、こんなに苦しい想を知り出した。少年の樣に全く私は囚はれてしまつた。……けれども……あゝ私は毒の有る花を慕つて、赤い花の咲く國を慕つて、暗い途を、どこ迄歩ませられよう。……DOREIになつても、いけにへとなつても、只 抱擁と接吻のみ消ゆることなく與えられたなら、満足して、満足して私は行かう8。
この「或る夜と、或る朝」に続いて、さらに波紋を呼ぶ一文が、次の七月号の「編輯室より」に掲載されます。
らいてう氏の左手でしてゐる戀の對象に就いては大分色々な面白い疑問を蒔いたらしい。或る秘密探偵の話によると、素晴らしい美少年ださうだ。其美少年は鴻の巣で五色のお酒を飲んで今夜も又氏の圓窓を訪れたとか9。
紅吉は、『青鞜』の広告をとるために、「メイゾン鴻の巣」というレストラン兼バーへ行き、そこで、「五色の酒」(色の異なる五種類の酒を順次比重の重いものから注ぎ足してできる、虹のような色彩豊かな一種のカクテル)を飲んだようです。そして、らいてうに愛されているという高揚した気持ちも手伝い、紅吉自らがこの文を書いたものと思われます。しかし、この文によって、美少年(紅吉)とらいてうの恋が、世間の注目を浴びることになるのでした。
注目されてよいのは、紅吉は自身のことを「美少年」として認識している点です。前号(六月号)の『青鞜』にも、次のような文を読むことができます。紅吉が「編輯室」に送ったはがきの一節です。引用文中の「勝ちやん」というのは、同じ社員で、とくに親しくしていた小林哥津のことではないかと思われます。
私は悪い身體を無理に無理して、勝ちやんと出た、何處に、何處に、私は苦しい苦しい心の病氣を、少しでも慰めるために、十二階下にゐつた。銘酒やの女を見に行つた。…私は立派な男で有るかの樣に、懐手したまゝぶらりぶらり、素足を歩まして、廻つて來た、その気持のいゝ事。あの女の一人でも私の自由に全くなつて來れたらなら…とあてのない楽しみで歸つて來た。私は元気だつた10。
このように、紅吉は「苦しい苦しい心の病氣」と表現しています。「紅吉」という男性名とおぼしい雅号、そして、らいてうが描写する「久留米絣に袴、または、角帯に雪駄ばきという粋な男装」、こうした性的表現と重ね合わせますと、紅吉は、生涯自分自身から明確に「カミング・アウト」することはありませんでしたが、性自認は「男」で、性的指向は「女」である、今日的用語を使うならば「トランスジェンダー男性」だったのではないかと思われます。
続いて、七月一三日の『國民新聞』が、こう書き立てました。
七月の『青鞜』には雷鳥が左手で戀してるとか美少年を何うしたとか云ふ妙な事がある[。]其美少年と云ふのは夕暮に廔々白山邊を引張つて歩いて居るほんに可愛らしい學生帽を冠つた十二三の子供だ[。]それは兎も角此間の夜雷鳥の明子( はるこ ) と尾竹紅吉( こうきち ) (數枝子)中野初子の三人が中根岸の尾竹竹坡氏の家に集まつた時奇抜も奇抜一つ吉原へ繰り込まうぢやないかと女だてらに三臺の車を連ねて勇しい車夫の掛聲と共に仲の町の引手茶屋松本に横著けにし箱提灯で送らせて大文字樓へと押上り大に色里の氣分を味つた11。
この「吉原登楼」について、のちに紅吉(富本一枝)は、このように弁明しています。吉原見学を勧めたのは、紅吉の叔父の尾竹竹坡でした。
おまえたち偉そうに婦人の解放とか何とかいつているが、吉原というところには非常に氣の毒な――解放しなければならない女がたくさんいる、そこを知りもしないで偉そうなことをいつているのはおかしい。平塚さんにぜひとも――今で申す見學をなさいませんか、ということで、平塚さんも見たことがないし、ぜひ行きたいということになつて、五、六( ママ ) 人で参りました。このおじは……遊ぶことでも相黨だつたようです。そのおじの行きつけのお茶屋におじが話しておいてくれましたから、吉原でも一番格式の高いうちに案内されて、たいへん丁重に扱われました12。
案内されたのは「大文字楼」という家で、相手をしたのは、栄山という花魁でした。単なる見学だったのかもしれません。しかし、こうした一連の出来事に、社の内外から批判が起こります。らいてうは、こう書きます。
「新しい女、五色の酒を飲む」「新しい女、吉原に遊ぶ」といった思いがけぬ噂が、新聞に出て、しかもその張本人が紅吉だという、社内からの批判が起こったのです。 すでにわたくしたち「青鞜」に集う女の上には、「新しい女」という称号が与えられて、時のジャーナリズムはことあるごとに、わたくしたちの行動に目を光らせていたときでした13。
こうして紅吉は、窮地に立たされたのでした。
『國民新聞』が「吉原登楼」を記事にする三日前の一九一二(明治四五)年七月一〇日の夜、らいてうは、寂しがりやで不意の訪問を喜ぶ紅吉の顔が見たくなり、下根岸の紅吉の家を訪ねました。多くを語ったあと、上野広小路まで送ってきた紅吉は、別れる際に、「あした朝、行つてもいゝでせう。其時見せます」14といって、左腕の包帯を押えます。そして翌朝――。
「見せて、見せて、ね、見たい、見たい。」私の心は震へた。紅吉は戀の為めに、只一人を守らうとする戀の為めに……我が柔かな肉を裂き、細い血管を破つたのだ。……長い繃帯が一巻一巻と解けて行く。……膓( はらわた ) の動くのを努めて抑へた。そしてじつと傷口を見詰めながら、眞直に燃える蝋燭の焔と、その薄暗い光を冷たく反對する鋭利な刃身と熱い血の色とを目に浮かべた15。
その日の午後、ふたりは万年山勝林寺にある青鞜社の事務所へ行きました。疲労を滲ませる紅吉は、大きな体を縁側に横たえていましたが、しばらくすると、ふと立ち上がって、黒板にこう書きました。
離別の詩 あたいの人形に火がついた 赤いおべべに火がついた いとしや人形は火になつた いとしや人形が火になつた 人形を買つて五十八日目の夕 紅吉 らいてう様16
「五十八日目の夕」とは――。するとらいてうは、五月一三日のミーティングのあの夜から数えて五八日目であることに気づきます。
私の心はまたもあのミイチイングの夜の思ひ出に満たされた。紅吉を自分の世界の中なるものにしやうとした私の抱擁と接吻がいかに烈しかつたか、私は知らぬ、知らぬ。けれどもあゝ迄忽に紅吉の心のすべてか燃え上らうとは、火にならうとは17。
しばらく沈黙が続いたあと、紅吉はふたつの心配事をらいてうに打ち明けるのです。ひとつは、「五色の酒」と「吉原登楼」の出来事のあとに、「新しい女」や青鞜社へ烈火のごとく浴びせられた非難や揶揄についてであり、もうひとつは、自分自身の健康状態についてでありました。
『國民[新聞]』に「所謂新[ら]しい( ママ ) [き]女」が掲載されだし事はこの日からのことだつた。紅吉は其記事に就いて眞面目に心配してゐるらしい。……私はあらゆるものを眞面目に考へることの出來る紅吉を、新聞の記事の虚偽を以て満されてゐるのを今更のやうに驚く紅吉を心に羨んだ。そして三[、]四年前の[塩原事件(煤煙事件)のときの]自分を目の前に見るやうな氣がした。……私は紅吉を咎めやうとはゆめさら思わない。…… 「退社してお詫びします。」 「馬鹿」 私の少年よ。らいてうの少年をもつて自ら任ずるならば自分の思つたこと、考へたことを眞直に發表するのに何の顧慮を要しやう。みづからの心の欲するところはどこまでもやり通さねばならぬ。それがあなたを成長させる為めでもあり、同時にあなたがつながる靑鞜社をも發展させる道なのだ18。
紅吉は、一箇月くらい前から消え入りそうな咳をし、よく頭痛で倒れもしました。また、ますます神経が過敏になるのを恐れてもいました。らいてうは、そのことを薄々感じ取っていたようです。肺の病かもしれない――。らいてうは、高田病院での診察を勧めます。「明日診察を受けるでせう……すると、どつちかに極るでせう、ね、どつちかに」19と、紅吉は怯えます。せめて医者の宣告だけは直接紅吉に聞かせたくないと思ったらいてうは、「私も明日病院へ行く。院長に一度逢ひたいことがあるから」20といいます。しかし紅吉は、入院となれば、今後らいてうに会えなくなることを恐れるのです。
「淋しい?どうした。」と言ひざま私は兩手を紅吉の首にかけて、胸と胸とを犇と押し付けて仕舞つた。「いけない。いけない。」口の中で呟いて顔を背けたが、さりとて逃げやうとはしない21。
そして、らいてうは、「ね、いゝでせう。あなたが病氣になれば私( わたし ) もなる。そしてふたりで[療養のために]茅ケ崎へ行く」22と、紅吉の心情を温かく包み込みます。こうして万年山の事務所を出たふたりは、別れ際に、明日病院へ行く約束を交わしました。帰宅するとらいてうは、これまで紅吉から受け取った、あわせて六七通の手紙とはがきを読み返しながら、眠れぬまま、「同性の戀といふやうなことを頻りに考へて見た」23のでした。
肺結核と診断された紅吉は、茅ケ崎の南湖院へ転地療養のため入院することになりました。しかしこの地でまた、さらに過酷な出来事に紅吉は遭遇することになるのです。出来事とは、紅吉とらいてうの「同性の恋」の破局であり、それは、らいてうと奥村博(のちに博史と改名)との偶然の「めぐりあい」によるものでした。らいてうは、自伝のなかで詳細にこのことについて書き残しています。これは、のちに夫となる男性との運命的な出会いの描写でもありました。概略は、以下のとおりです。
紅吉は茅ケ崎の南湖院でしばらく療養生活を送ることになり、やがてわたくしも「青鞜」八月号の編集をすませて、紅吉を見舞いかたがた、茅ケ崎へでかけました。……八月の半ばを過ぎたある日、わたくしたちは南湖院の応接間で、二人の未知の男客を迎えました。その一人は、[今後の『青鞜』の発行と発売を委託する件で相談にやってきた]当時文芸図書の出版社として有名な東雲堂の若主人で、詩人でもあった西村陽吉さんです。……[もうひとりは、たまたま藤沢駅で知り合い、西村さんに連れられてやってきた]骨太で、図抜けた長身に、真黒な長髪をまん中からわけた面長の青白い顔が、異様なまでに印象的な青年で、奥村博と名乗りました。……なんの装飾もないがらんとした休日の病院の応接間で、[青鞜社の社員で、いまだ南湖院との縁が切れず、東京と茅ケ崎のあいだを行き来していた]保持[研子]、紅吉、わたくしの三人が居並ぶテーブルをへだてて、最初に私を見、眼と眼があった瞬間、心臓を一突きに射ぬかれたようなせんりつが走り、青年になってはじめて、かつて覚えぬ想いで、ひとりの女性を見た――と、奥村はのちに述懐しました。わたくしもまたこの異様な、大きな赤ん坊のような、よごれのない青年に対して、かつてどんな異性にも覚えたことのない、つよい関心がその瞬間生まれたのでした24。
そのとき紅吉は、らいてうの特別な感情の動きを敏感にも察知すると、すぐさま奥村へ手紙を書き送っていたことが、のちに奥村が上梓する自伝小説『めぐりあい』のなかに記されています。広岡昭子( てるこ ) がらいてうで、佐々しげりが紅吉であることは容易に想像がつきます。どのような経緯で初対面の浩(奥村博)の住所をしげり(紅吉)が聞き出していたのかなどの不明な点も残されてはいますが、前後の記述内容からして、この手紙の存在はほぼ間違いないもののように思われますので、ここに、そのまま浩に宛てたしげりの手紙の内容を引用しておきたいと思います。
不吉な予感が私を襲って、私は悲しい、恐ろしい、気遣わしいことに今ぶつかっているのです。それがはっきり安心のつくまであまり面白くもない生活を送らねばなりますまい。そして幾日かののちに私は生まれて来るのです。だがそれまでは私は淋しい、私は苦しい。 広岡[らいてう]がぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています、いらっしゃいまし。 八月十九日 しげり[紅吉]25
この手紙について、らいてうはこのように回想しています。「一度会ったばかりの奥村にこんな手紙を出したとはわたくしも保持さんもまったく知らないことでした。(知ったのは三十数年も後に奥村が『めぐりあい』という自伝小説を書いたときです。)手紙の最後には、あたかもわたくしからの伝言であるかのような一節があり、紅吉の病的な神経の動きの鋭さ、速さ、とくに嫉妬の場合の複雑さにわたくしは驚くよりほかありませんでした」26。もし、らいてうからの伝言ではなかったとするならば、どのような意図があって紅吉は、「[らいてうが]ぜひあなたに来るようにと、そして泊まりがけでです。待っています」と、偽ってまで書かなければならなかったのでしょうか。いま一度両者を再会させることで、このふたりの愛が真実なものか、自分の目で確かめてみたかったのでしょうか。それは紅吉にとって、危険を伴う大きな賭けを意味していました。影に隠れたこのような伏線のなかで、実際に奥村は二度目の訪問をし、さらにその数日後、紅吉が恐れていたとおりに、このふたりは雷鳴のなか一夜をともに過ごすことになるのです。らいてうの回想するところによれば、こうです。
二、三日して写生の帰りだといって、スケッチ箱をもった奥村が、突然わたくしの宿を訪ねてきました。いま、[馬入川が海に流れ込む河口一帯の]「南郷」で描いたというスケッチ板の松林の絵を見せてもらいながら、わたくしはふと、『青鞜』一周年記念号の表紙をあらたに、この人にかいてもらいたい気になり、さっそく頼んだのでした。それから、二、三日した日の夕方近く、その表紙図案をもって見えました。わたくしは奥村を連れて、南湖院に行き紅吉と保持さんを誘って海岸に立ち並ぶ海気室に行き、蒼い海と美しい夕映え雲を眺めながら四人でしばらく話しました。紅吉が柳島に小舟を出そう……といいだしたのがもとで、保持さんは親しい友だちの小野さんという入院患者の……元気な青年を誘って、五人いっしょに舟に乗り込みました。……月夜の馬入川の舟遊びはみんなに時を忘れさせるほどでした。そして奥村は藤沢へ帰る汽車にのりおくれてしまいました。歩いて帰るという奥村を保持さんはしきりと引きとめ、自分がいつも寝起きしている病院の松林の奥にぽつんと建った一軒家……に奥村を泊めることにし、保持さん自身は病院のだれかの部屋へ、紅吉は自分の部屋へ、そしてわたくしは自分の宿である猟師の家へ、それぞれ別れて引き上げて行きました。こうしてみんなが寝床についたころ……またたく間に烈しい雷鳴となって……とても眠れそうにありません。……すさまじい稲妻と雷鳴に怯えているであろう気の弱そうな若者を想うと……いよいよ寝るどころではありません。とうとう起き出したわたくしは、宿のおかみさんに提灯をもって付き添ってもらい……奥村を迎えにいきました。……その夜、大きな緑色の蚊帳のなかに寝床を並べて朝を迎えたときから、奥村に対するわたくしの関心は、しだいに関心以上のものへと、急速に高まってゆくのでした。蒸し暑い夏の夜のしばしのまどろみのあと、東の空の明るみはじめた海岸に出て、指をからませながら二人で寄りそって……浜辺を歩くとき……満ちあふれた生命の幸福感でいっぱいになっていました。こうして、奥村がわたくしの宿で一夜を過ごしたことは、夜明けを待ちかねてわたくしの宿の様子を窺いにきた紅吉のいちはやく知るところとなり、わたくしの愛の独占をのぞんでいた紅吉に、大きな衝撃を与えないではいませんでした27。
九月になり、東京にもどっていたらいてうの手もとに、一通の手紙が届きました。奥村からのものでした。その手紙には、「池の中で二羽の水鳥たちが仲よく遊んでいたところへ、一羽の若い燕が飛んで来て池の水を濁し、騒ぎが起こった。この思いがけない結果に驚いた若い燕は、池の平和のために飛び去って行く」28といった内容が書かれてありました。それに対してらいてうは、「燕ならばきっとまた、季節がくれば飛んでくることでしょう」29との短い返事を書き送りました。そして、らいてうの予言どおりに、「若い燕」は一方の水鳥のもとへと帰ってゆくのでした。
こうして、らいてうと紅吉の「同性の恋」は終わりました。紅吉が退社を決意するのは、療養していた茅ヶ崎の南湖院を退院して、東京にもどったその年(一九一二年)の秋のことでした。紅吉の退社の弁を、『青鞜』一一月号に掲載された「群衆のなかに交つてから」のなかに見ることができます。
私は今、あらためて私を紹介します。私は偽と知らずに偽を知つてゐた人間でした、正直だと思つて不正直なことをしてゐた人間でした。まるつきり責任と云ふものを考へて見ない、人と云ふものを見もしない、僭越な、我儘な奴だつたので御座います。……それで今度拾一月號の編輯が終ると同時に私は靑鞜社を退社致すことになりました。……この靑鞜は私にとつて最終の編輯にあたつたので御座います。……私は涙と光りでこの原稿をかき終へます。ぢや左樣なら、私は今もう歸へつて行きます30。
しかし、すぐにも青鞜社から身を引いたわけではありません。紅吉は、安堵村の富本憲吉を訪ね、《アダムとイヴ》の下絵を依頼し、それを紅吉が木版に彫り、一九一三(大正二)年新年号の『青鞜』の表紙を飾ることになるのです。そして、七月の『中央公論』の臨時増刊婦人問題号のなかで、このように、らいてうについて告白するのでした。
私はかつての私と平塚さんの間の感情や行為を思ひ出しますと、とてもこの原稿がかけません。平塚さんは、私達よりも、どれだけ涙もろかつたでせう。私はあらゆる我儘をしてゐたゞけ平塚さんを困らせたものです。今考えると全くお氣毒です。……なんだかばらばらになりましたが、私はこれより以上かくことを好みません。……この記事はかへつて平塚さんの今の位置なり、名譽なりを傷つけたかも知れませんが、しかしその邊のことはどうぞしかるべく御許し下さい。私がこの原稿をかくに對して、充分の好意をもつてゐることは、全く實際だと云ふことを信じてゐますから31。
この紅吉の「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」が『中央公論』に発表された翌月の『青鞜』八月号は、「編輯室より」に次のような文を掲載しました。
尾竹紅吉氏がまだ本社の社員であるかのやうに思つてゐる方もあるやうですが、同氏が自分から退社を公言されたのは昨年の秋の末だつたかと思ひます。……同氏の特殊な性格を知つて居ますから社は大抵は黙許して参りました。けれども今日はもう社とも、社員とも全然何の關係もありません。従って同氏の言動に就ては……社にとつてもらいてうにとつても誠に迷惑なものであります32。
これをもって、紅吉の青鞜社時代は完全に終幕したのでした。
奥村博と出会って二年後の一九一四(大正三)年の一月、らいてうは、家を出て、巣鴨にある植木屋の離れを借りて、博との協同生活に入ります。翌月の『青鞜』二月号(第四巻第二号)に、「獨立するに就いて両親に」と題した一文をらいてうは寄稿し、ふたりの関係を公表するのでした。このころから『青鞜』の発行部数が減少し、新生活による多忙さも加わり、翌年(一九一五年)の一月号(第五巻第一号)から、『青鞜』の編集権は、社員の伊藤野枝の手に渡されます。しかし、伊藤が、無政府主義者で妻のある大杉栄と関係をもつようになると、『青鞜』の編集にも影響を及ぼすようになり、最終的には、一九一六(大正五)年の第六巻第二号をもって休刊へと追い込まれてゆきました。そして、その年の一一月に、大杉を愛するもうひとりの女性で、かつて青鞜社の社員でもあった神近市子が、葉山の旅館で、大杉を刺傷するという殺人未遂事件を起こしたのでした。いわゆる「日蔭茶屋事件」と呼ばれるものです。自由恋愛による「多角関係」がもたらした悲劇でした。その結果、神近は刑に服し、二年間、獄窓の人となります。一方の大杉栄と伊藤野枝は、その後、一九二三(大正一二)年九月の関東大震災からまもなくして憲兵隊に連行され、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦によって殺害されるという、痛ましい事件に巻き込まれ、ともにその生涯を閉じるのでした。
らいてうは、「日蔭茶屋事件」について、こう書いています。
ここで、わたくしたちの「青鞜」は終わりました。そして「日蔭茶屋事件」が、好むと好まざるとにかかわらず、わたくしたちの「青鞜」の挽歌であったことも、いなみ得ないことです。 同時に、わたくし自身の青春も、このへんで終わったのではないかと思います33。
『青鞜』の編集を伊藤に譲った一九一五(大正四)年の九月、らいてうのパートナーの博が、肺結核を患い、茅ケ崎の南湖院に入院します。ここは、らいてうと博がはじめて出会った場所でもありました。そしてその年の暮れに、長女の曙生( あけみ ) を出産します。博が改名して「博史」を名乗るようになるのも、このころからのことでした。長男の敦史( あつぶみ ) が生まれるのは、一九一七(大正六)年九月ことで、らいてう、三一歳のときでした。
この時期以降、らいてうの関心は、婦人による社会運動のための団体結成に向けられてゆきます。一九一九(大正八)年の一一月、新聞社主催による第一回の関西婦人大会が、大阪の中之島公会堂で開催され、招かれてらいてうは、「婦人の団結を望む」と題して、講演を行ないました。ちょうどそのとき、らいてうには「新婦人協会」結成の構想があり、起草された創立趣意書を発表する絶好の機会となりました。実際に新婦人協会が結成されたのは翌年のことで、市川房枝や奥むめおたちの協力のもと、『青鞜』の休刊後にあって、らいてうは、女性の諸権利を求めての新しい社会的、政治的運動へと身を投じてゆくのでした。
大阪で開かれた第一回関西婦人大会での講演の帰り道、らいてうは、かつて青鞜社時代に「同性の恋」を展開した相手方である紅吉を大和安堵村に訪ねました。
青鞜社を離れた紅吉は、長野、新潟、秋田を回る傷心の旅から帰ると、一九一四(大正三)年三月に文芸雑誌『番紅花( さふらん ) 』を創刊します。『青鞜』に対抗する意図もあったものと思われます。六名の同人には、神近市子も加わっていました。そして、これを境にして、「紅吉」の雅号は姿を消し、本名の「尾竹一枝」が筆名に使用されるようになります。『番紅花』の挿し絵は、主に富本憲吉に依頼されました。こうして、一枝と憲吉は、愛する仲となり、一九一四(大正三)年一〇月、ふたりの華燭の典が日比谷大神宮で執り行なわれました。
しかしこのとき、両人の婚礼姿と両家の集合写真とともに、一枝のセクシュアリティーに関する暴露記事が一二月一日発刊の『淑女畫報』に掲載されるのです。記事の題は、「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」というもので、紅吉の結婚の陰で泣く、ふたりの女性の存在が詳述されていました。また、この記事のなかには、「紅吉女史は女か男か」と題された一文も挿入され、紅吉の、男性と見まがう性的行動の一端が話題にされていたのでした。以下は、その一部です。
男のやうに女性を愛するところ、その女性の前に立つて男のやうに振舞ふところ、それは彼女が愛する女と樂しい食卓に就いた時のあらゆる態度で分ると云つた女がありました。甘い夜の眠りに入る前に男のやうに脱ぎ捨てた彼女の着物を、彼女の愛する女が、さながらいとしい女房のやうにいそいそと畳んだと云ふことを聞いたこともありました34。
おそらく、こうした特異な一枝のセクシュアリティーが要因となったのでしょう、結婚の一箇月前に「富本憲吉氏圖案事務所」を開設したばかりであったにもかかわらず、ふたりは突如東京をあとにし、翌年(一九一五年)の春、若くて美しい女性があまりいそうにない、奈良県安堵村の憲吉の実家に帰還し、この地に新居と窯を築くのでした。ここに、憲吉の陶工としての本格的な活動が開始されます。そしてまた、一九一五(大正四)年八月に長女の陽が、一九一七(大正六)年一一月に次女の陶が誕生します。
らいてうの安堵村訪問は、曙生と陽が四歳に、敦史と陶が二歳になる年のことであり、若き母親同士の再会となりました。文通はあったものの、直接顔をあわせるのは、六年ぶりのことでした。らいてうは、こう書きます。
紅吉はむろんのことでしょうが、わたくし自身もかつては自分が女性であるということなど、まるで考えず、母となる日があろうとは、おもっても見ませんでした。あの大きな「だだっ児」の紅吉が、富本一枝という、ひとりの妻、主婦、母に変わっていった、同じ歳月のもとでわたくしの辿る道も、同じように変わっていったのでした35。
そして、らいてうは、こうも付け加えます。
青鞜社から身を引いたあと、一時、紅吉は、わたくしのことを、さんざんあることないこと悪口を言ったものですが、どんなに悪口を言われようと、わたくしには彼女の気持ちが分かり過ぎるほど分かっていましたから、悪口を言うだけ辛いのだろうとおもって、そんなことはなんとも考えませんでした。 わたくしが奥村と結婚したあと、紅吉の同性愛的な振る舞いがなくなったのはむろんのことです36。
かくして、らいてうと紅吉の青鞜社時代の関係は一新され、ふたりの間柄は、次の段階へと入ってゆくのでした。
(1)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、247頁。
(2)富本一枝「痛恨の民」『婦人公論』第20巻、1935年2月、85頁。
(3)らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜發刊に際して――」『青鞜』第1巻第1号、1911年9月、37頁。
(4)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった②』大月書店、1992年、24-25頁。
(5)同『元始、女性は太陽であった②』、26-27頁。
(6)同『元始、女性は太陽であった②』、29頁。
(7)「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、121-122頁。
(8)尾竹紅吉「或る夜と、或る朝」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、115-116頁。
(9)「編輯室より」『青鞜』第2巻第7号、1912年7月、110頁。
(10)「編輯室より」『青鞜』第2巻第6号、1912年6月、124頁。
(11)「所謂新らしき女(二) 明子と美少年、紅吉と西洋酒」『國民新聞』、1912年7月13日、土曜日。
(12)「『靑鞜社』のころ」『世界』第122号、岩波書店、1956年2月、129頁。
(13)前掲『元始、女性は太陽であった②』、32頁。
(14)らいてう「圓窓より」『青踏』第2巻第8号、1912年8月、79頁。
(15)同「圓窓より」『青踏』、80頁。
(16)同「圓窓より」『青踏』、81-82頁。
(17)同「圓窓より」『青踏』、82-83頁。
(18)同「圓窓より」『青踏』、83-85頁。
(19)同「圓窓より」『青踏』、87頁。
(20)同「圓窓より」『青踏』、同頁。
(21)同「圓窓より」『青踏』、88頁。
(22)同「圓窓より」『青踏』、同頁。
(23)同「圓窓より」『青踏』、89頁。
(24)前掲『元始、女性は太陽であった②』、43-48頁。
(25)奥村博史『めぐりあい 運命序曲』現代社、1956年、35頁。
(26)前掲『元始、女性は太陽であった②』、49頁。
(27)同『元始、女性は太陽であった②』、49-52頁。
(28)同『元始、女性は太陽であった②』、56頁。
(29)同『元始、女性は太陽であった②』、57頁。
(30)紅吉「群集のなかに交( まざ ) つてから」『青鞜』第2巻第11号、1912年11月、97-99頁。
(31)尾竹紅吉「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」『中央公論』臨時増刊婦人問題号、1913年7月、180-181頁。
(32)「編輯室より」『青鞜』第3巻第8号、1913年8月、195頁。
(33)前掲『元始、女性は太陽であった②』、288頁。
(34)深草の人「謎は解けたり紅吉女史の正體――新婚旅行の夢は如何に 若く美しき戀の犠牲者」『淑女畫報』第3巻第13号、1914年12月、35頁。
(35)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、76頁。
(36)同『元始、女性は太陽であった③』、77頁。