中山修一著作集

著作集14 外輪山春雷秋月

火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛

第四章 富本憲吉・一枝夫妻に蔵原惟人がかくまわれる

一.マルクス主義文化運動家の蔵原惟人

一九二九(昭和四)年の七月の『女人藝術』(創刊一周年記念七月号)に、富本一枝は、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」を寄稿しました。その内容の概略は、すでに、前章の「『女人藝術』からアナーキズム派が身を引く」のなかで言及しています。この夢物語の一文は、富本一枝というひとりの文筆家が、この時期マルクス主義とどう向き合っているのかを独白しているように読むことができますが、しかし他方で、『女人藝術』に集う主だった一人ひとりの当時の受け止め方を描写した、マルクス主義受容にかかわる女性文芸家の全体的な絵巻物として読むことも可能なように思われます。登場人物は、K、M、H、N、I、Oのイニシャルをもつ人で、神近市子、窪川いね子(佐多稲子)、松田解子、村山籌子、望月百合子、長谷川時雨、平塚らいてう、平林たい子、中本たか子、野上弥生子、生田花世、今井邦子、大田洋子、岡田八千代などの名前がすぐさま頭に浮かびますが、どのイニシャルが誰かは明確にすることはできません。しかし、ズボンをはいていることに着目すれば、「K」は男性であり、私が推断するところによれば、おそらくプロレタリア文学の理論的指導者の蔵原惟人 これひと であるにちがいありません。といいますのも、その二年後の一九三一(昭和六)年の四月、官憲の手から逃れるために、一時期、蔵原は富本家に潜伏しているからです。すでにこのとき蔵原は、一枝と面識があったものと思われます。時期と場所はいまのところ特定できませんが、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」の執筆の直前ではないかと推量されます。といいますのも、『女人藝術』に一枝が投稿するのは、この文が二作目で、第一作の「七月抄」(一九二八年九月号)は、夏の日の田舎で体験した三日間の様子が日記形式で綴られた文だからです。「七月抄」と「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」では、形式、内容ともに、大きく異なり、この間にあって一枝は蔵原に会い、彼が主張するプロレタリア文学へ関心を示すようになったものと思われます。文芸雑誌『番紅花』の刊行に際しては森鴎外を、小説「鮒」を発表するときには島崎藤村を訪ねたように、マルクス主義的芸術論を学習するにあたっては、蔵原惟人に直接面会を求めた可能性があります。もっとも、同じ「K」のイニシャルをもつ、青鞜社時代に突然自宅に上がり込んだ大杉栄に同伴していた荒畑寒村や、安堵村時代に石垣綾子を紹介したことのある旧知の賀川豊彦のような社会主義者についてもその可能性を排除することはできませんが、目的がマルクス主義文学にかかわる理論学習であったいう点に重きを置けば、蔵原以外、当時の一枝の周辺には、それにふさわしい人間は見当たらないような気がします。以上のことを完璧に実証する資料はこれまで見出せないながらも、「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」に登場する人物「K」を蔵原惟人とみなしたうえで、以下に、彼の生い立ちと当時の彼の文学理論について、短く紹介することにしたいと思います。

蔵原惟人は、一九〇二(明治三五)年一月二六日に東京にて生を受けます。父はその名を惟郭 これひろ といい、肥後国阿蘇郡黒川村(現在の熊本県阿蘇郡阿蘇市)において、阿蘇神社の直系として生まれ、同志社英学校を卒業後、米国、次に英国に留学し、哲学と社会学を学び帰国すると、一八九二(明治二五)年から約三年間、熊本女学校の校長を務めます。この学校は、のちに高群逸枝が、一時期在籍することになる学校です。その後惟郭は、一九〇八(明治四一)年から二期八年間、衆議院議員の職にあり、労働運動と普選運動に力を注ぎます。妻は、同じ阿蘇郡の小国郷(現在の阿蘇郡小国町)の出身で、近代医学の発展に大きな功績を遺す北里柴三郎の妹のしう(終子)でした。

このように、惟郭としう(終子)の次男として生まれた惟人は、紛れもなく火の国正統派の男子でした。東京府立一中(現在の東京都立日比谷高等学校)を卒業すると東京外国語学校(現在の東京外国語大学)でロシア語を学び、一九二五(大正一四)年にロシア留学。翌一九二六(大正一五)年に帰国。それから二年後、蔵原は、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の結成と機関誌『戦旗』の発刊へ向けて主導的役割を担うことになります。そして、一九二九(昭和四)年、この雑誌をとおして、小林多喜二の「蟹工船」と徳永直の「太陽のない街」が発表されると、プロレタリア文学の代表的作品として世の脚光を浴びることになるのでした。「蟹工船」は、蟹工船内の過酷で非人道的な労働の実態を描いたもので、「太陽のない街」は、自身が体験した共同印刷の労働争議を題材にしたものです。小林は秋田県に生まれ、北海道の小樽で育ち、一方の徳永は、熊本県飽託郡花園村(現在の熊本市西区)の生まれで、彼もまた蔵原惟人と同じく、まさに一徹不動の火の国男の気質を体現していたのでした。

その一方で、蔵原自身は、「マルクス主義文藝批評の基準」(一九二七年八月五日)、「生活組織としての藝術と無産階級」(一九二八年三月)、さらに加えて「プロレタリア・レアリズムへの道」(一九二八年四月八日)などのプロレタリア芸術運動の指針となるような論評を次々と発表してゆくのでした。おそらくこうした文が、『女人藝術』などの文芸雑誌に集う婦人文筆家たちの関心を引き、自己の理論構築のための秘かなるテクストとなったものと思われます。富本一枝が「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」の筆を起こすのも、ちょうどこのときのことでした。

それでは、蔵原が書くプロレタリア文学の目的と内容とは、どのようなものだったのでしょうか。かいつまんで、以下に引用によって示します。

蔵原は、「マルクス主義文藝批評の基準」と題された評論文を、結論として次のような言葉で結んでいます。

 我々の全行動はすべて、無産階級の政治的解放という唯一の目的によって規定される。したがつて我々の文藝批評もまた單なる文藝批評として、文藝作品の批評として、それだけで完結したものであつてはならない。それは文藝作品の批評であると同時に、それ自身、つねに、プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダであり、また階級闘争への大衆のアジテーションでなければならない。マルクス主義者批評家は文藝作品の批評に際して、つねにこのことを頭においておくことが必要である

続けて「生活組織としての藝術と無産階級」において蔵原は、芸術の機能について、このように説きます。

 藝術はなんらかの意味において生活の組織 ・・・・・ である。このことはブルジョア藝術についても、プロレタリア芸術についてもひとしくいいうる。ブルジョア藝術は、藝術家がそれを欲するといなとにかかわらず、その影響下にある読者、観客、聴衆等々を、ブルジョア的イデオロギーの方向へ組織してきたし、いまもまた組織しつつある。プロレタリア藝術は現在における被圧迫大衆の「感情と思想と意思とを結合し、それを高める」ことをその意識的目的としている

そして蔵原は、この評論文の最後を、「しからばこの我々のプロレタリア・レアリズムなるものと、過去の藝術におけるレアリズムないしは自然主義なるものとはいかなる関係にあるのであるか?ここに我々の当面する最も重要な問題――藝術における ・・・・・・ 階級性 ・・・ の問題にゆきあたる」という文言で締めくくります。

それでは、蔵原が指摘する「プロレタリア・レアリズムなるもの」とは、どのようなものなのでしょうか。「プロレタリア・レアリズムへの道」という表題がつけられた、三つ目の評論において、蔵原は、それについて言及します。蔵原の考えを短く要約すれば、おおかたこのようになります。

近代文学におけるブルジョア・レアリズムは、抽象的なる「人間の本性」から出発し、人間の個人的本能的生活を描くに止まっている。一方、小ブルジョア・レアリズムは、あらゆる生活の問題の解決を抽象的な正義や人道に求め、階級調和的な立場をとる。それに対して第三のレアリズム、つまりプロレタリア・レアリズムは、社会発展の推進力は階級と階級の調和にあるのではなく、公然たるその闘争にあるとの観点に立ち、プロレタリア前衛の「眼をもつて」この世界を見ようとする。そこでプロレタリア作家に求められなければならないのは、あくまでも、現在における唯一の客観的観点であるところの「階級的観点」であり、他方、描かれる「題材」については、「戦闘的プロレタリアート」のみに限定される必要はなく、労働者、農民、小市民、兵士、資本家等々、およそプロレタリアートの解放に何らかの関係を有するあらゆるものが描写の対象となりうる。

以上のような論点について蔵原は詳述したあと、この評論を終わるにあたって、次のように結論づけるのです。「すなわち、第一に、プロレタリア前衛の『眼をもつて』世界を見ること、第二に、嚴正なるリアリストの態度をもつてそれを描くこと――これがプロレタリア・レアリズムへの唯一の道である」

一枝が書いた「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」は、こうした蔵原の論点をリトマス試験紙に使い、自身と、『女人藝術』に身を寄せる執筆陣との現状にかかわって、夢という形式に乗せて、その全体像を描写してみせた作品だったとみなすことができそうです。明らかにこの作品から、「ブル派」と「プロ派」の色分けが、さらには、「ボル派」と「アナ派」の対立が、避けがたく文芸には内在するものとして、この時点で作者に意識されはじめようとしていたことが読み手に伝わってきます。

一枝が、社会主義に触れるのは、このときがはじめてではありませんでした。また、夫の富本憲吉は、さらにそれよりも早く社会主義に関心をもっていました。そのふたりの家に、逃走中の蔵原惟人がかくまわれるのが、その二年後の一九三一(昭和六)年の春のことでした。それではここで、そこへ至るまでのこの夫婦の社会主義傾倒の道筋を、少しさかのぼって見てみたいと思います。

二.富本憲吉と富本一枝の社会主義への傾倒

亡くなる二年前の一九六一(昭和三六)年に、富本憲吉の「作陶五十年展」を記念して日本橋の「ざくろ」で座談会が開かれました。そのなかで、「……[英国へ]行く前からモリスを研究するつもりで」という、英国留学とモリス研究についての質問に答えて、富本はこう述べています。

そうです。私は友達に、中央公論の嶋中雄三がおり、嶋中がしよつちゆうそういうことを研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへもつてきていちばん親しかつた南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った

この引用文中、富本は、「中央公論の嶋中雄三」といっていますが、中央公論社に一九一二(大正元)年に入社し、その後社長を務めることになるのは雄三の弟の嶋中雄作です。一八八七(明治二〇)年二月の生まれである雄作は、したがって一八八六(明治一九)年六月生まれの富本と同学年だった可能性があるものの、富本は郡山中学校、雄作は畝傍中学校に当時在籍しており、ふたりのあいだで、どのような交流があり、とりわけモリスがどのようなかたちで話題になっていたのかは、資料に乏しく、正確には再現することはできません。兄の雄三は、大正、昭和期の社会運動家で、のちに東京市会議員などを務める人物です。雄作と富本が中学校時代を過ごした奈良県での週刊『平民新聞』の購読数は、おおよそ二四部でした。当時富本家で購読されていたことを示す資料は見当たりません。したがいまして、富本が「中学時代に読んでいた」という『平民新聞』は、嶋中兄弟によって貸し与えられた可能性が残されます。

それでは、『平民新聞』を通じて富本が知るきっかけとなったウィリアム・モリスとは、どのような人物だったのでしょうか。

モリスは、一八三四年三月二四日にロンドン北東郊外のウォルサムストウにある〈エルム・ハウス〉において、父ウィリアム、母エマの三番目の子として生まれました。一八五三年にオクスフォード大学エクセター校に入学。当初は聖職者になることを考えていましたたが、画家を志す学友のエドワード・バーン=ジョウンズと親しくなったことにより、関心は建築とデザインへと移ってゆきました。一八五六年に、当時ゴシック様式の復興主義者のひとりであったG・E・ストリートの建築事務所に入所。しかし、ラファエル前派の中心的画家として活躍していたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティからの強い影響を受けて、絵を描きはじめるようになります。翌年、ロセッティの呼びかけで、オクスフォード大学の学生会館の壁画製作に参加した際、モリスは、ロセッティのモデルをしていたジェイン・バーデンと顔見知りとなり、二年後の一八五九年に結婚。新居となる〈レッド・ハウス〉の設計が、ストリートの事務所で知り合ったフィリップ・ウェブに依頼され、他方で、家具、調度品の製作が、バーン=ジョウンズやロセッティをはじめとする芸術家の友人たちの協力によって進められてゆきました。

こうした共同作業は、中世の職人組織であるギルドに倣うものであり、すぐさま新会社の設立を促し、一八六一年にロンドンのレッド・ライオン・スクウェアの地にモリス・マーシャル・フォークナー商会が誕生。それ以降その会社から、ステインド・グラスや家具、壁紙などのデザインと製作が生み出されます。一八七五年には、モリスを単独の経営者とするモリス商会へと改組され、一八八一年には、マートン・アビーに見つけた古い染織工場跡を賃貸により借り受け、それよりのち、染織、織物、刺繍などを製作する工房として利用されます。亡くなる五年前の一八九一年には、私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを設立。ここから、いわゆる「理想の書物」が五十数点生み出されてゆくのでした。

一方で、物語詩『地上の楽園』の刊行が一八六八年からはじまると、モリスは、デザイナーとしてだけではなく、詩人としての名声もまた勝ちえてゆきます。その後の代表的な物語詩の刊行だけでも、一九七二年の『愛さえあれば』、そして一八七六年の『ヴォルスング族のシガード』を挙げることができます。

さらにこの時期のモリスは、芸術や労働、そして社会主義に関する講演や演説を英国の各地で頻繁に行なっています。代表的な講演として、一八七九年二月のバーミンガムでの「民衆の芸術」、一八八二年一月の同じくバーミンガムでの「生活の小芸術」、同年二月のロンドンでの「パタン・デザイニングの歴史」などを列挙することができます。そして一八八二年には、第一講演集として『芸術への希望と不安』を、一八八八年には、第二講演集として『変革の兆し』を刊行するのです。

初期のモリスの政治的関与は、東方問題協会や古建築物保護協会を舞台に進められましたが、一八八三年にはH・M・ハインドマンの率いる民主連盟(翌年に社会民主連盟に改称)に加わるも、意見の対立から翌年社会民主連盟を脱会。次の一八八五年にモリスは社会主義同盟を結成し、機関紙『ザ・コモンウィール』の創刊にも献身的に携わります。モリスは、この『ザ・コモンウィール』に、一八八六年から翌年にかけて、中世のワット・タイラーの乱を主題とした「ジョン・ボールの夢」を、一八九〇年には、革命後の理想社会を描いた「ユートピア便り」を連載します。そしてこの間、しばしば不況や失業にあえぐ労働者たちのデモの隊列に加わり、積極的に政治活動家としての役割を担います。モリスの政治信条は、自ら述べているように、「半ばアナーキスト」としてのそれでした。詩人にしてデザイナーであり、社会主義の政治活動家であったモリスが死去するのは、一八九六年の一〇月三日、ハマスミスの自宅〈ケルムスコット・ハウス〉においてでした。

周知のように、週刊『平民新聞』とは、幸徳秋水や堺利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日に創刊号が刊行され、創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八年)一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれた、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞です。発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面にはエミール・ゾラ、右壁にはカール・マルクス、本棚の上にはウィリアム・モ ママ リスの肖像が飾られていた」。この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてです。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものでした。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われます。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載をとおして、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載されたモリスの News From Nowhere が、はじめて日本に紹介されることになるのです。それは、枯川生(堺利彦)による抄訳で「理想郷」という題がつけられていました。今日では、「ユートピア便り」という訳題が一般的になっています。内容は、社会革命後の新世界を扱ったものでした。

この物語の語り手(主人公)は、モリスその人と考えて差し支えないでしょう。語り手は、革命後に生まれるであろう新しい社会像について社会主義同盟のなかで論議が戦わされた夜、疲れ果てて眠りにつき、翌朝目が覚めてみると、すでに遠い昔に革命は成功裏に終わり、理想的な共産主義の社会にいる自分を見出します。語り手が知っている一九世紀イギリスの搾取される労働、汚染される自然、苦痛にあえぐ生活からは想像もつかない、全く新しい世界がそこには広がり、労働と生の喜びを真に享受する老若男女が素朴にも生活を営んでいました。

おそらくこの「理想郷」を読んだであろう富本の目には、そのとき、モリスが描き出していた革命後の理想社会はどのようなものとして映じていたでしょうか。富本は何も語っていません。しかし、社会が変化することの可能性、そして、それを成し遂げるにあたっての時代に抗う力の生成、さらにはその一方で、そうした行動や言論を弾圧しようとする国家権力の存在、これらについては、少なくとも理解できたものと思われます。こうして富本は、この時期、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのです。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が郡山中学校を卒業し、東京美術学校(現在の東京芸術大学)へ入学しようとする、まさにそのときのことでした。

こうして富本憲吉は、一九〇四(明治三七)年、東京美術学校の図案科(今日の用語法に従えば「デザイン科」)に入学し、卒業を待たずして、英国に渡ります。最晩年に富本は、自分の留学の経緯について、こう述べています。

 留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、……在学中に、読んだ本から英国の画家フィ ママ スラーや図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある

ここで富本のいう「在学中に、読んだ本」とは、何だったのでしょうか。エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』だった可能性があります。といいますのも、留学から帰国したのち、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載された富本の「ウイリアム・モリスの話」は、明らかにヴァランスのその本が底本となって書かれてあるからです10

もし富本が、この書物を渡航前の美術学校時代に実際に読んだとするならば、中学生のときにすでにモリスの「理想郷」を知っていた富本にとって、「図案家で社会主義者であるウイリアム・モリスの思想」は極めて鮮烈な衝撃となったものと推量されます。といいますのも、ヴァランスはその本の「第一二章 社会主義」のなかで、次のようなことを述べていたからです。

モリスの考えによれば、自分の芸術と自分の社会主義は、一方が一方にとって不可欠なものとして結び付くものであった。いやむしろ、単にひとつの事柄のふたつの側面にしかすぎなかった11

モリスの考えるところによれば、芸術とは労働の喜びであり、したがって、社会主義を欠いた芸術もなければ、芸術を欠いた社会主義もなく、両者はまさしく、コインの裏表のような一体化された関係のうちに認められうる存在だったのでした。

またヴァランスは、同じくその本のなかで、『ジャスティス』の編集者の求めに応じて、モリスがこう書いていることを紹介していました。

さて、社会主義という言葉でもって私がいおうとしているのは、あるひとつの社会状況についてです。その社会にあっては、要するに、富める人と貧しい人が存在すべきではありませんし、また主人とその下僕も、怠け者と過度の働き者も、さらには、脳が病んでいる頭脳労働者と心が病んでいる手工従事者も、存在すべきではありません。その社会では、すべての人間が、平等なる状況のもとに生きていると思われますし、物事は浪費されるようなことなく取り扱われていると思います。ひとりの人にとっての苦痛はすべての人にとっての苦痛を意味するであろうことを十分に意識しながら。つまりは、〈公共の幸福 コモンウェルス 〉という言葉の意味の最終的な達成なのです12

ヴァランスは何も注釈をつけていませんが、詳しくいえば、実はこれは、モリスが亡くなる二年前の一八九四年に社会民主連盟の機関紙『ジャスティス』に寄稿した「いかにして私は社会主義者になったか」の冒頭の一節でした。もちろん富本は、そうした背景を日本にいて知る由もなかったものと思われます。しかし、そうしたことが強い動機の一部となってイギリスの地に渡り、直接現地にあって、こうしたヴァランスが伝えるところの、デザイナーで社会主義者であったモリスの思想に対面することになったにちがいありません。晩年富本は、このときの滞在を振り返って、ロンドンでは「彼[モリス]の組合運動などを調べてきました」13と、はっきりと述べています。富本は「組合運動」という曖昧な言葉を使っていますが、これがモリスらによって展開された社会主義運動を指し示していることは、ほぼ間違いないものと思われます。しかし、帰朝後すぐにも、それを文にすることはためらわれました。

[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ ママ んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども14

富本がここで述べている「ちょっと来い」というのは、官憲による連行や検束、さらには検挙や投獄を意味します。渡航前には、『平民新聞』にモリスの「理想郷」を訳載した堺利彦がその直後に一時期獄窓の人になっていましたし、帰国後にあっては、大逆事件が起こり、『平民新聞』の主宰者である幸徳秋水とその内縁者の管野スガを含む社会主義者と無政府主義者の計一二名が、極刑台の露となっていたのでした。富本は、こうも書いています。

[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村 とおる 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません15

このとき富本は「獄死」を意識します。裏を返せば、それほどまでに、社会主義理解が深く進んでいたのでしょう。かくして富本は、社会主義者としてのモリスの側面は伏せ、もっぱらデザイナーとしてのモリスに焦点をあてて「ウイリアム・モリスの話」を書き、モリスのデザイン世界を扱った日本における最初の評伝というかたちをとって、世に送り出したのでした。

他方、富本憲吉と結婚する前の独身時代の尾竹紅吉(一枝)には、どのような社会主義受容の物語が潜んでいたのでしょうか。その物語は、日本において婦人問題への関心が萌芽する時期と明確に重なります。

一九一三(大正二)年の『中央公論』新年号を開いてみますと、「閨秀十五名家一人一題」という特集が組まれ、そのなかには、田村とし子の「同性の戀」や平塚らいてうの「新らしい女」に加えて、尾竹紅吉の「藝娼妓の群に對して」が含まれていました。その論説文は、次のような言葉で最後を結びます。明らかに、「男尊女卑」から「男女同権」へと向かう展望が織り込まれています。

 暗黒面の女性は要するに藝娼妓をさすべきものである。曾て吾人は暗黒面の女性と表面の女性を單に女性として彼の奇矯に瀕する男尊女卑論から打破し相互の人格を尊重し尊卑を排し優劣を以つて女性の標準を定めたいと思う、即ち赤裸な原始に歸り作られたる性格の本質にとつて尊重仕合いたいと考へる16

『中央公論』新年号の特集とあたかも手を組むかのように、『青鞜』一月号は、「新らしい女、婦人問題に就て」を「附録」として巻末に組み入れました。まさしく一九一三(大正二)年の正月は、日本における「婦人問題」への関心がスタートラインについた時期といえます。それはさらに加速し、その年の七月、再び『中央公論』は、「婦人問題号」と銘打って夏季臨時増刊を発行するに至るのでした。ここには、尾竹紅吉の「自叙傳を讀んで平塚さんに至る」が所収されています。こうした『中央公論』の婦人問題への関心が、『婦人公論』の発刊へとつながってゆきます。思いがけないことに、実にその立役者が、富本憲吉が『平民新聞』を読み、ウィリアム・モリスの思想に触れるきっかけをつくった、中学時代の友人の嶋中雄作だったのでした。『中央公論社七〇年史』は、こう書きます。

 嶋中[雄作]は奈良縣三輪町の醫家に生れた。畝傍中學を經て早稻田大學哲學科に學び、この年[大正元年]の九月卒業したばかりである。學生時代には、島村抱月にもつとも傾倒し、したがって自然主義文學運動には深い興味を有つていたごとくであつた。當時聲名高かつた中央公論社であつたから、大きな期待をもつて入社したのであるが、入つてみるとその組織は家内企業を出ない程度のものであつたのでいささか驚いた。……明治末年一世を風靡した自然主義文學運動は、いくつかの對立的思想を生んで衰退して行つたが、大正期に入ると、澎湃として個人主義思想が擡頭してきた。特に婦人問題が重視せられて、婦人の自覺と解放が叫ばれた。これに刺戟されて起こつたのが平塚雷鳥などの『靑鞜社』の運動であった。嶋中はこの動きに注視し、[主幹に就任したばかりの瀧田]樗陰に獻言して『中央公論』夏季臨時増刊を發行せしめて、これを『婦人問題號』と名付けた(大正二年七月一五日發行)。これが反響を呼んだことも一の理由であろうが、新しい婦人雑誌の當然生るべき時代の趨勢たることを麻田社長に説いて、ついに容れられるところとなり、ここに『婦人公論』が創刊されることとなつた。大正五年一月のことである17

大正期に入り、台頭してきたのは、ただ個人主義思想だけではありませんでした。大杉栄と荒畑寒村の手によって、『近代思想』が創刊されるのも、この時期のことでした。

 天皇の死とともに明治時代は終り、改元して大正となった。……大正元年[一九一二年]の十月一日にやっと初号を出した。誌名は『近代思想』……三十二ページ定価金十銭という薄っぺらなものであったが、とにかく大逆事件以降、沈黙雌伏を強いられていた社会主義者が運動史上の暗黒時代に、 かす かながら初めて公然とあげた声である18

寒村の回想は、さらに続きます。

当時の文壇には、人生の無解決なんていう従来の自然主義説に代って、自我の解放とか個人の自由とかいう観念が、個人主義の哲学的な体系を ととの えないまでも、一つの新しい傾向として現われていた。たとえば、雑誌『青鞜 せいとう 』のいわゆる「新しい女」のグループは個性の完成を唱えていたし、『早稲田文学』の相馬御風君は自我の生命の燃焼 ねんしょう を説いていた。「白樺」派の主張や作品にも、こういう傾向が明らかにうかがえたのである。大杉[栄]の主張には、こういう文壇の新しい思潮と共通するところが多く、私たちはこれらの傾向にもとより同情を惜しまなかった。しかしその反面、これらの文壇人が社会と個人との関係に深い認識を欠き、社会改革を度外視して個性の完成や自我の拡充を可能と考えるような、二元論的な個人主義の旧套 きゅうとう を脱しない観念に、私たちは失望を禁じ得なかった19

ちょうどそのころのことでしょうか、「ある時、私[荒畑寒村]と上野から根岸の方を散策した際、青鞜社同人の尾竹紅吉の家を見つけると、彼[大杉栄]はいつもの流儀で臆面 おくめん もなくこの未知の女性を訪問した。そして画室に迎えられた彼は、空腹を訴えて飯のご馳走 ちそう になった上、『あなたは知らぬ男にでも、空腹だといえば飯を出してくれるが、もし性欲に えていると言ったらどうしますか』と質問した。彼女が返答に困っていると、食欲も性欲も生理的には同じじゃないかと追及して、 まじめな紅吉女史をからかって面白がった」20。こうしたことがきっかけとなって、それ以降、大杉は紅吉(一枝)の家をときどき訪ねてくるようになりました。のちに一枝は、大杉栄のことをこう書き記しています。

その頃大杉さんとおつきあいしていましたから大杉さんが尋ねてみえるたびに、無政府主義やクロポトキンのことをうかがつたりしていました。大杉さんは私のぼんやりさをなんとかしてやりたいとされたようです。幸徳秋水の大逆事件のことも、大杉さんからきいて……。そのとき、私たちの自由も、進歩も、それをはばんでいるものをとりのぞかない限りどうすることも出來ないのだときかされたことは、なんといつても、それからあとの自分の考えの基底となつてきているような氣がします21

一枝がこのように回顧しているところをみると、一枝の社会主義への初期の関心は、この時期に大杉によって植え付けられたことになります。

富本憲吉と尾竹一枝は、一九一四(大正三)年の秋に東京で結婚すると、すぐにも翌年の春に、憲吉の生まれ故郷である大和の安堵村に帰り、その地で住まいと窯とを築き、新しい生活に入ります。それでは、ふたりの安堵村生活にあって、社会主義思想は、どのようなかたちで根を下ろしていたのでしょうか。

家庭運営は、革新的な原理によって成り立っていました。そこには、一九一七(大正六)年六月に開催された「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」の名称にもみられるように、生み出される陶器は夫婦共有の協同作品であるという認識が支配していました。そしてまた、家事の役割分担も固定されたものではありませんでした。以下は、一枝が『女性日本人』に寄稿した「私達の生活」のなかの一節です。題が「私の生活」ではなく「私達の生活」となっている点に、ふたりの思想が反映されているようにも思われます。

二三日雨が降りつゞいて洗濯物がたまる時がある。そんな時、私と女中が一生懸命で洗つても中々手が廻りかねる[。]それを富本がよく手傳つて、すすぎの水をポンプで上げてくれたり、干すものをクリツプで止めてくれたりしてゐるのを見て百姓達はいつも冷笑した。「いゝとこの主人があんな女の子のやる事をする」といって可笑しがる。……可笑しいと云ふより、本當は危険視してゐたかも知れない。同じ村に住む自分達の親類になる人さへ、私達の生活は「過激派の生活だ」と言つて、自分の若い息子をこゝに遊びに寄すことをかたく禁じているのだ。私達が一緒に、一つの食卓をかこみ、同じ食物で食事をすまし、一緒に遊び、一緒に働くことが危険でたまらないのだ。私達は、その人達の考へこそ可成り危険だと思ふのに22

読んでのとおり、一枝は憲吉のことを、「旦那さま」とも「主人」とも呼ばず、「富本」と呼んでいます。他方憲吉は、家事のすべてを一枝に押し付けるのではなく、積極的に自らも参加します。こうした生活の実態こそが、ふたりにとっての、封建的な旧い習俗から解き放された、正直で、真実で、純粋な生き方であったにちがいありませんし、一枝が『婦人公論』に書いた「結婚する前と結婚してから」のなかの、「夫は非常な熱心で常に私を指導してゐる。そして私達は、私達の全力を注いで幼兒の敎養と私達の仕事につき進んでゐる」23という言葉の意味する、具体的な実践例だったのかもしれません。しかし、村人や親類はそうした生活や考えを危険視しました。それだけではなく、官憲の目にもまた、それは「過激派の生活」に映っていました。『近代の陶工・富本憲吉』の著者の辻本勇は、すでに英国に帰っていた親友で陶工のバーナード・リーチに宛てて出された憲吉の手紙のなかに、「日本や国家のことについては書かないで下さい。警察がぼくへの君の手紙を調べているようだ」とか、「手紙は陶器のことだけを書いて下さい、君の手紙は竜田郵便局からまず警察署へ送られ開封され読まれているようだ、君には考えられもしないことだろうが……これが近代日本なのだ」24とかいった文言が散見されると書いています。

かつて憲吉が「ウイリアム・モリスの話」を書いたことも、また、かつて一枝が青鞜社の社員であったことも、官憲の目からすれば、体制に抗う行為のひとつとして、受け止められていたのでしょうか。あるいは、当時の人的交流に疑いの目が向けられた可能性もあります。数例を挙げるならば、一九一七(大正六)年に憲吉と一枝は、幼子の陽を伴い、和歌山の新宮にある西村伊作邸を訪ね、そこに約一箇月間滞在しました。西村の叔父の大石誠之介は大逆事件に連座して死刑に処されていましたし、西村の友人には、美術家や文学者のみならず、社会主義者の賀川豊彦や堺利彦なども含まれていました。彼自身も、のちに、自由主義的な校風をもつ文化学院を創設します25

一九二三(大正一二)年には、自由学園の創設者の羽仁もと子が、卒業旅行として第一期生を率いて富本家の本宅に宿泊します。そのなかには、のちに社会運動家として活躍することになる石垣綾子や、童話作家で児童文学者となる村山籌子 かずこ が含まれていました。それからしばらくして、一枝は、川崎・三菱両造船所での労働争議の際に陣頭に立って指揮した賀川豊彦へ宛てて綾子を紹介する文を書いていますし26、一方籌子は、富本一家が東京に移転したのちの一九三一(昭和六)年に、ロシアから帰国したプロレタリア文化運動の指導者である蔵原惟人を密かに連れてゆき、富本家にかくまわれるように手配を整えました。「蔵原惟人の富本家における潜伏生活」につきましては、このあとすぐに次節において、詳しく述べることにします。

さらに加えますと、当時しばしば安堵村の富本家に顔を出していた、奈良女子高等師範学校の学生だった丸岡秀子が記憶するところによれば、マルクス主義者の片山潜の娘が、日本を去る前に富本家に立ち寄っています27。こうした人的な交流の影響もあってのことでしょうが、警察の監視下にあるような状態は、安堵村時代以降も、アジア・太平洋戦争が終結するまで連綿と続いてゆくのでした28

世界的には、一九一七(大正六)年のロシア革命、一九一八(大正七)年の第一次世界大戦の終結、国内では、一九一八(大正七)年の米騒動、一九二〇(大正九)年の第一回メーデーの開催、一九二一(大正一〇)年の川崎・三菱両造船所での労働争議、一九二二(大正一一)年の水平社の結成、同じく一九二二(大正一一)年の日本共産党の創設、他方、教育に目を向ければ、一九二一(大正一〇)年の文化学院や自由学園の創立にみられるような自由教育への関心の高まり――。憲吉と一枝が、旧い生活秩序を否定し、それに代わる新しい夫婦関係の構築に向けて、この安堵の地において奮闘していたこの時期は、変革を求める政治、社会、教育上の新しい動きの顕在化と明らかに重なります。

三.蔵原惟人の富本家における潜伏生活

一九六三(昭和三八)年六月の富本憲吉の死去の報を受けるとすぐにも蔵原惟人は筆をとり、『文化評論』に「富本憲吉さんのこと」と題した、一種の追悼文(あるいは思い出の記)を寄稿しました。これがいまのところ、富本家に蔵原がかくまわれた実態を知るうえでの唯一の一次資料となります。そこで、主としてこの資料から引用するかたちをとりながら、以下に、彼の潜伏生活の一端を再現したいと思います。

一九三〇(昭和五)年の七月に、共産党中央委員会の命令のもと非公然とソ連に渡り、モスクワで開かれたプロフィンテルン(労働組合国際組織)の第五回大会に出席したのち、蔵原惟人は、党の事情でそっと翌年(一九三一年)二月に日本に帰ってきました。蔵原の回想によると、「しかし官憲のはげしい追及のなかで非合法の状態におかれて、地下深くもぐっていたその頃の党中央部と連絡することは、七カ月も日本をはなれていた私にとって、そう容易なことではなかった」29

帰国から二箇月が立った四月はじめのある夜のことでした。村山籌子 かずこ の案内で、蔵原は、畑のなかの暗い道を通って密かに富本家を訪れます。蔵原を富本宅へ案内した籌子は、舞台芸術の演出家の村山知義の妻であり、当時童話作家で詩人として活躍していました。一九二九(昭和四)年の『女人藝術』(三月号)に「私を罵つた夫に与ふる詩」を籌子は寄稿していますので、おそらくこの雑誌を通じて、一枝と籌子のふたりは親しくなっていたものと思われますし、そのような関係から、思うにすでに、一枝は蔵原と面識をもっていた可能性も推量されます。もっとも、籌子の最初の富本夫妻との出会いは、羽仁もと子が園長を務める自由学園高等科の一期生として一九二三(大正一二)年に関西へ卒業旅行に出かけたおりに、安堵村の富本家を訪問したときのことでした。以下は、村山籌子研究者のやまさきさとしが記述するところです。

大正十二年三月末から四月のはじめにかけて、卒業旅行と称して彼女たち一期生一行はミセス羽仁とともに(総勢二五名)横浜港発の欧州航路伏見丸の一等船客となり、「西洋」を勉強しつつ、神戸に上陸して奈良近辺の「東洋」を学んだが、奈良では全員、富本の屋敷に泊り、かれの案内で仏像をみて廻った。しかし籌子に衝撃を与えたのは憲吉のカマドであり、その夫人、一枝との対面であって、青鞜の流れを汲む富本一枝はその後籌子の受難時代にその胸を貸して終生の友人となったし、憲吉はのちに籌子の遺言によって墓碑銘を揮毫するのである30

籌子に連れ添われて富本家の闇の食客となった蔵原は、約一箇月間、その家にかくまわれました。蔵原は、「富本憲吉さんのこと」のなかで、こう回顧します。「富本さん夫婦は心よく私を迎えいれ、とくに私のためにお嬢さんの使っていた一室をあけて下さった。……私にあてがわれた小部屋はドアーで明るい食堂につづいていて、食堂には主人の陶画や版画が飾られ、一隅にはこれも主人の手になるすばらしい白磁の瓶に薄紫のライラックがこぼれるようにいけてあった」31。さらに蔵原を驚かせたのは、富本家の近代的な生活様式でした。

[夫婦と、陽、陶、壮吉の三人の子どもの]そのほかに女中さんが一人、この女中さんは毎朝私の部屋をノックして、「今朝はお紅茶にいたしましょうか、おコーヒーにいたしましょうか」と聞いた。古い薄暗くだだっ広いお寺のような家で七人兄弟の雑然としたなかで育った私には、こんな明るい合理的な生活もあるものかと感心したことであった32

一枝は、「何ももっていない私のために私の下着類までも買ってきて下さった……しかし、富本憲吉さんには私はただ『大事な人』ということになっていたようだ。しかし富本さんは私が党のものだということは察していた」33。ほとんど来客もなく、「私は腰をおちつけて、『プロレタリア芸術運動の組織問題――工場・農村の基礎としてのその再組織の必要――』という論文をそこで書きあげた」34

そうしたなか、帯刀貞代が「数日間この家に泊まっていた。……私は警戒する必要はなかった。しかし貞代さんは『あまり長居をすると御迷惑をかけるから』といって帰っていかれた」35。滞在の目的は、闘争敗北の報告だったのでしょうか、あるいは、闘争後の心身の疲れを回復させるための滞在だったのかもしれません。帯刀は、一枝との出会いを次のように振り返ります。

 私が富本さんにはじめておめにかかったのは、昭和のはじめだった。そのころ私は江東の亀戸で、女子労働者のためのささやかな塾をひらいていて、富本さんは神近市子さんを誘って、そこをみにこられたのだった。
 そのつぎのあざやかな記憶は、昭和大恐慌のさなかで、塾にきていた女子労働者たちの六十日にわたる合理化・工場閉鎖とのたたかいが惨敗したあと、こんどは、こちらから富本さんをお訪ねしたときのことである。……まだそのころ丘の上にただ一軒しかなかった富本さんの家は、空気も樹木も、花の色もキラキラ輝いてみえた。それいご四十年ちかく、病弱な私は言葉につくせないお世話になった36

この間蔵原は、親しく憲吉と語らうことがありました。「富本憲吉さんのこと」のなかには、こうした蔵原の思い出も記述されています。

 「実は私はほんとうに多くの人が平常使えるような実用的なものを作って安く売りたいのですが、まわりのものがそれをさせないのです。美術商などは、‶先生、そんなに安く売られては困ります″というのですよ」ともいっていた。若い時ウイリアム・モリスの生活と芸術の結合の思想に傾倒していた富本さんは生涯その理想をすてなかったようだ37

この一文から推量すると、蔵原と憲吉の会話には、モリスが登場していた可能性があります。次のようなことも、話題になったかもしれません。

四年前の一九二七(昭和二)年のことになりますが、大熊信行の『社會思想家としてのラスキンとモリス』が新潮社から刊行されていました。おそらく両人ともこの本を読んでいたことでしょう。憲吉は、自分の英国留学の目的が、モリスの思想を知り、その作品を見るためであったことを語ると、一方の蔵原は、著者の大熊信行は、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)で教鞭を執っていたとき、小林多喜二を教えており、その小林の代表作が『戦旗』に掲載されている「蟹工船」であることを話したにちがいありません。そうした会話を楽しみながら、憲吉は、小林多喜二が社会思想家としてのモリスのことを大熊から聞かされていた可能性を知るとともに、「蟹工船」の執筆が、蔵原の文学理論に負っていることにも気づかされたものと思われます。

「党中央との連絡がなかなかとれず、はじめ一、二週間ぐらいのつもりだった私の滞在も一月になった。そのあいだ富本さんは私を家族の一員のように扱ってくれた。メーデーが過ぎてやっと連絡がつき、非公然の党活動につくために、私は富本夫妻の親切なもてなしを感謝してこの家に別れを告げた。当時は非合法の共産党員をかくまったというだけで、治安維持法違反の罪にとわれる時代だった」38

その後も憲吉の共産党支持は、終生続きます。蔵原はこう明かします。「富本さんは戦後、日本芸術院会員、東京美術学校教授を辞任して、郷里である奈良県安堵村の旧宅に帰り、京都で陶業に従っていたが、そのあいだ京都府委員会の同志を通じて、わが共産党の活動にも協力して下さっていた」39

四.蔵原惟人の投獄と富本一枝の検挙

かくして一九三一(昭和六)年の五月、蔵原惟人は祖師谷の富本家をあとにしました。時代は暗雲に包まれていました。その一箇月後に刊行された六月号をもって、それ以降の継続がかなわず、高群逸枝が主宰する『婦人戦線』が廃刊になります。その一方で、一枝は、『女人藝術』七月号に「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」を発表します。内容は、『女人藝術』という文芸雑誌の存在意義を論じるものでした。そのなかで一枝は、「マルクス主義の文藝批評の基準」において蔵原が書いている「プロレタリア・イデオロギーのプロパガンダであり、また階級闘争への大衆のアジテーション」という観点に立って、この雑誌の役割を強調するとともに、主宰者である長谷川時雨に注文をつけます。以下は、最後の締めくくりの一節です。

 大衆を××的階級闘争の精神から文化的に政治的に教育するための手段と方法が、この言論機關に於て最も効果的に精力的にはたされることを思ふとき、賢明なる長谷川時雨氏は必ずやプロレタリア運動が當面する客観的情勢の變化に従つて氏がそれを一つ一つ採りあげ、それに正しい論理的解決を與へながら、女人藝術を通じて婦人大衆を、眞に××的階級闘争の精神に於て、文化的に政治的に指導し發展させてゆかれようと思ふし、またそこまでゆかなければならないと強く思ふからだ。
 女人藝術よ、後れたる前衛になんか決してなるな!40

伏せ字となっている「××」には、「革命」の二文字が想定されていると思われます。潜伏していた蔵原の影響を受けて書かれた文だったのかもしれません。

この年(一九三一年)の一二月、今度は、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌『戦旗』が廃刊に追い込まれ、とうとう、年が変わった一九三二(昭和七)年の四月に蔵原が検挙される事態へと至ります。蔵原は、こう語ります。

それから一年たって私が検挙された時、私はその間にとまって歩いた住居についてきびしく追及された。……すでに「調書」の一部を勝手につくりあげて、私にその承認を強要した。そのなかには富本憲吉宅の名もあがっていた。党の中央部にいて党を裏切った男がそのことを売ったのである。私は頑強に抵抗し、そこから富本さんの名前を消さなければ、今後ともいっさい取調べに応じないと頑張った。警察ででっちあげられ、検察庁におくられた私についての簡単な「調書」からは富本さんの名は除かれていた41

蔵原を富本家に誘導した村山籌子の夫である村山知義の二度目の収監が、一九三二(昭和七)年の二月で、その年の六月に『女人藝術』が休刊となり、蔵原惟人が獄窓の人になるのが、翌七月のことでした。そしてさらに、次の年(一九三三年)の二月二〇日に、今度は小林多喜二が逮捕され、同日、拷問により死亡するのです。プロレタリア文化運動にとって、最大の受難の時代でした。

官憲の目は、一枝にも向けられていました。小林多喜二の拷問死から半年が経過した一九三三(昭和八)年八月一三日の『週刊婦女新聞』は、「富本一枝女史檢擧――警視廰に留置、転向を誓ふ」という見出しをつけて、次のように報じました。

青鞜社時代の新婦人として尾竹紅吉の名で賈つた現在女流評論家であり美術陶器製作家富本憲吉氏夫人富本一枝女史は過日來夫君と軽井澤に避暑中の處、去る五日單身歸京した所を警視廰特高課野中警部に連行され留置取調べを受けてゐるが、女史は先週本欄報道の女流作家湯浅芳子氏と交流關係ある所から、湯浅女史を中心とする女流作家の左翼グループの一員として約百圓の資金を提供した事が暴露したもので、富本女史は野中警部の取調べに對して去る七日過去を清算轉向する事を誓つたと42

「過去を清算轉向する事を誓つた」一枝は、八月一八日、二週間ぶりに釈放されました。釈放から一週間が立った八月二五日、日比谷の東洋軒において、九月に上海で開催される世界反戦会議を支持するために、「極東平和の友の會」の発会式が執り行なわれました。「發企人は秋田雨雀、江口渙、長谷川如是閑他科學者文士等の百餘名であるが、婦人の側では野上彌生、市川房枝、長谷川時雨、林芙美子、望月百合子、平塚らいてう、坂本眞琴、窪川いね子、生田花世、神近市子、大田洋子、川崎ナツ、關鑑子の諸氏」43でありました。昨年来、村山知義や蔵原惟人が投獄に処され、今年に入って小林多喜二が拷問死し、さらには、廃刊になっていたものの、『女人藝術』のかつての仲間である湯浅芳子が起訴により刑務所に送られ、同じ仲間の矢田津世子と富本一枝が検挙、取り調べの末、釈放されたばかりでした。こうした最近の一連の出来事について、「極東平和の友の會」の発会式に参集した女性たちは、それをどう受け止め、どのように話題にしたでしょうか。この年(一九三三年)のはじめのドイツにおけるアドルフ・ヒトラーの首相就任と共産党への弾圧について、誰かが、詳しい情報を提供したにちがいありません。しかし、日本におけるプロレタリア文化運動の余儀ない終焉については、あえて口にする者はいなかったかもしれません。

「極東平和の友の會」の女性側の顔ぶれを見ますと、かつての『婦人戦線』のアナ派と『女人藝術』のボル派が混在しています。それぞれの立場や思想を越えて、このとき女性たちは、「平和」運動に身を向けたようです。そうした女性たちの連帯は、さらに、高群逸枝の女性史研究への支援へと及んでゆきます。「高群逸枝著作後援会」が発足するのは、それから三年後の一九三六(昭和一一)年のことでした。これにつきましては、次の「高群逸枝の『婦人戦線』の廃刊と『森の家』での研究開始」に続く、第六章「『大日本女性史 母系制の研究』の完成」に譲ることにします。

(1)蔵原惟人『藝術論』潮流社、1950年、13-14頁。

(2)同『藝術論』、15頁。

(3)同『藝術論』、29頁。

(4)同『藝術論』、45頁。

(5)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(6)『平民新聞』第35号(明治37年7月10日)1面の「平民新聞直接讀者統計表」には、読者数が府県別に掲載されており、それによると、富本憲吉が暮らしていた奈良県は「八」と記されています。そしてこの統計表には、「右は直接の讀者のみです、この直接讀者に約二倍せる、各賣捌所よりの讀者は如何様に配布されて居るか本社でも取調が付きませぬ」との注意書きがつけられています。これから判断すると、奈良県は、直接の読者が8名、売捌所を通じての読者が約16名、合計約24名ということになります(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、283頁)。

(7)日本近代史研究会編『画報 日本の近代の歴史 6』三省堂、1979年、136-137頁。

(8)この記事は、二重かぎ括弧で括られており、記事のあとに、次のような注釈が加えられています。
 「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主義』中に記せし所を摘載せしもの也、以てウヰリアム、モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁)。

(9)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、198頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
 富本は、美術学校在学中に関心をもった美術家としてフィスラー(現在における一般的表記は「ホイッスラー」)とウィリアム・モリスを挙げていますが、イギリスから帰国する前日にサウス・ケンジントンの本屋でホイッスラーに関する書物を買い求めているものの、学生時代にとくに強い関心をもった形跡を示す資料は現時点で見出されえず、したがって、実際上の富本の留学目的を、「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったから」という一点に絞り込んだとしても、それほど大きな間違いはないものと考えられます。

(10)富本憲吉が、1912(明治45)年の『美術新報』第11巻第4号および第5号に2回に分けて発表した「ウイリアム・モリスの話」の底本が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことについては、以下の拙論のなかで詳しく論じています。
 中山修一「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。

(11)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897, p. 305.

(12)Ibid., p. 310.

(13)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(14)前掲座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』、同頁。

(15)前掲『色絵磁器〈富本憲吉〉』、同頁。

(16)尾竹紅吉「藝娼妓の群に對して」『中央公論』1月号、中央公論社、1913年、186-189頁。

(17)『中央公論社七〇年史』中央公論社、1955年、13-15頁。

(18)荒畑寒村『寒村自伝』上巻、岩波書店、1975年、347頁。

(19)同『寒村自伝』、349-350頁。

(20)同『寒村自伝』、377頁。

(21)「『靑鞜社』のころ(二)」『世界』第123号、岩波書店、1956年3月、138-139頁。

(22)富本一枝「私達の生活」『女性日本人』第1巻第2号、1920年、56-57頁。

(23)富本一枝「結婚する前と結婚してから」『婦人公論』第2巻、1917年1月号、76頁。

(24)辻本勇『近代の陶工・富本憲吉』双葉社、1999年、121頁。

(25)『我に益あり・西村伊作自伝』紀元社、1960年、271-274頁を参照のこと。

(26)石垣綾子『我が愛 流れと足跡』新潮社、1982年、44頁を参照のこと。

(27)丸岡秀子『ひとすじの道 第三部』偕成社、1983年、128頁を参照のこと。
 同じく丸岡は、富本家の本棚に並べられた蔵書について、こう述べています。「その書架には、女高師という名の学校の図書館では見られない‶禁じられた本″が並んでいた。トルストイ、ドストエフスキーからはじまって、ツルゲーネフ、ゴーリキーなどのロシアの作家のもの。そしてまた、バルザック、ユーゴー、デュマ、ゾラ、モーパッサン、ロマン・ローランなどのフランス文学者の名が背文字に並び、数え上げられないほどだった」(同『ひとすじの道 第三部』、111頁)。

(28)詩人で作家の辻井喬は、このような言葉を残しています。「尾竹紅吉は私の同級生富本壮吉の母親であった。彼とは中学・高校・大学を通じて一緒だったが家に遊びに行くようになったのは敗戦後である。それまで富本の家は警察の監視下にあるような状態だったから、壮吉も私を家に誘いにくかったのである」(辻井喬「アウラを発する才女」『彷書月刊』2月号(通巻185号)弘隆社、2001年、2頁)。

(29)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、57頁。

(30)やまさき・さとし「村山籌子解説」『日本児童文学大系 第二六巻』ほるぷ出版、1978年、565頁。

(31)前掲「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、同頁。

(32)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、57-58頁。

(33)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、58頁。

(34)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、同頁。

(35)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、同頁。

(36)帯刀貞代「富本一枝さんのこと」『新婦人しんぶん』、1966年10月6日、3頁。
 また、帯刀の『ある遍歴の自叙伝』(草土文化、一九八〇年)にも、働く女性の解放運動を支援する一枝の姿の一端が描かれています。

(37)前掲「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、同頁。

(38)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、59頁。

(39)同「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、57頁。

(40)富本一枝「女人藝術よ、後れたる前衛になるな」『女人藝術』第4巻第7号、1931年7月号、68頁。

(41)前掲「富本憲吉さんのこと」『文化評論』、59-60頁。

(42)『週刊婦女新聞』、1933年8月13日、2頁。

(43)『週刊婦女新聞』、1933年8月27日、2頁。