橋本静子の一周忌が巡ってきました。そして、その二箇月後の二〇〇九(平成二一)年の六月、堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』が世に出ます。その「あとがき」に堀場は、こう記しました。
橋本静子氏の死は、単にひとりの女性の死には止まらない。九歳のとき、兄の妻になった高群逸枝に会った最初の日から、逸枝を愛し、生涯変わることがなかった。逸枝・憲三夫妻の貧しい研究生活を、物心両面で支え、夫婦の没後もひたすら顕彰に努めて来られた。その深い愛と、豊かな記憶と、つねに支持を表明してやまない強靭な意思が、活動を終熄したのである。なんと大きな喪失であったことか1。
そして堀場の記憶は、静子が亡くなる三年前の水俣訪問へと向かいます。
二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子氏を訪ねたときの、彼女の言葉が蘇ってくる。 「憲三はね、いうなれば、普通ですよ。しかし、逸枝は天才です」。 高群逸枝に関する仕事では、いつも有りうる限りのご助力をいただいてきた。本稿の完成を、終焉に近い日まで気にかけていられたという。静子氏が亡くなるなど、思ってもみなかった私の愚かさ。しかも仕事が遅く、その「旅立ち」に間に合わなかったことは、痛恨の極みというほかない2。
水俣に帰郷した橋本憲三のもとをしばしば訪れ、高群逸枝についての資料の収集に当たってきた堀場清子の手によって、静子没後一年目に、この『高群逸枝の生涯 年譜と著作』は上梓されました。高群と憲三に関する詳細かつ精緻な年譜と関連著作の一覧から構成されています。また、本書が対象とするのは、静子が亡くなる二〇〇八(平成二〇)年四月までで、そのなかには、憲三が書き残したそれまでの「共用日記」も随所に配置されていました。そうした意味において本書は、両人の生涯と業績を知るうえでの欠かせない貴重な文献が整理された有益な資料集成となっているのです。このとき堀場は七八歳になっていました。それではなぜ、自身の晩年にあって、堀場はこうした性格をもつ書物を公にしたのでしょうか。この本は、従来一部にみられた、独断的な多弁と能弁によって成り立つ逸枝や憲三についての評論や評伝とは大きく異なり、書き手の言葉は最小限度に抑制されています。そこから判断しますと、踏まえなければならない必須の一次資料(エヴィデンス)の全貌を開陳することによって逆に生まれてくる、事実から乖離した一部の独善的な既往研究への暗黙裡の抗議の表明だったのではないか――もしかしたら、そうした思いが込められていたかもしれません。
一方このころ、堀場より三歳年上の石牟礼道子も、自身の晩年と向き合っていました。憲三を亡くし、藤野と静子を見送ったいま、自分が蘇生した「森の家」を知る人は誰ひとりいなくなりました。道子は、何を頼りに生きていけばいいのか、自問したにちがいありません。道子は、主治医の山本淑子に、こう語ったことがありました。山本は、次のように、それを紹介しています。
四年前私は長女を亡くしたが、その時、幼少期からの長女をご存じだった石牟礼さんから「これからはふっこさんを山本家の柱となさいませ。」と言われた。死者を柱にとはどういう事だろうとその時は解せない気持ちが強かったが、思い返すと石牟礼さんは、早逝した弟さんを始め水俣病患者さん達、屍累々のなかを、その魂を柱として生きてこられた3。
この証言から連想しますと、「早逝した弟さんを始め水俣病患者さん達、屍累々」のみならず、憲三を喪ってこのかた、道子は憲三を柱として生きてきたものと思われます。そしていよいよ、その思いをかたちにするときが巡ってきたのです。
『最後の人 詩人高群逸枝』が藤原書店から上梓されたのは、堀場の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』から遅れて三年のちの、二〇一二(平成二四)年一〇月でした。本書は、『高群逸枝雑誌』に連載した「最後の人」に加えて、補遺として、「森の家日記」「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死」「朱をつける人――森の家と橋本憲三」を含む旧稿の数編と、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」とによって構成されていました。そのなかの「森の家日記」については、編集部によって、次のような注釈が記されています。
本稿は、「最後の人」執筆のもとになった、石牟礼道子が森の家に滞在した時の覚え書(取材メモ)である。「東京ノート」と題されたこのノートは近年渡辺京二氏によって発見された。重要かつ興味深い記述があるため、ここにそのまま収録する4。
ここに述べられている「重要かつ興味深い記述」とは、いかなる記述なのでしょうか。次に挙げる箇所が、おそらくそれに該当する記述であることに疑いを入れる余地はないでしょう。「彼女」とは、高群逸枝を指します。
わたしは 彼女を なんと たたえてよいか ことばを選りすぐっているが 気に入った言葉が見つからないのに 罪悪感さえ感じる …… わたしは彼女をみごもり 彼女はわたしをみごもり つまりわたしは 母系の森の中の 産室にいるようなものだ5。
次に、七月三日のノートには、こう書かれてあります。
今晩更に高群夫妻とそして自分とに、後半生について誓った。それは橋本静子氏に対する手紙の形で(つまり、静子氏を立会人として)あらわした。午前三時これを書き上げる6。
そして、神秘に包まれた聖夜が明け、帰郷する七月一一日の朝が来ました。以下も、道子の「森の家日記」からの引用です。
六時目覚め。 木立の中の深い霧。 私の感情も霧の中に包まれてしまう。しかしそれは激烈で沈潜の極にあるものだ。 沐浴。 今朝の私は非常に美しい、貴女は聖女だ、鏡を見よと先生おっしゃる。悲母観音の顔になったと見とれる7。
「九時半、逸枝先生にお別れつげる。彼女は私の内部に帰る。切ない。玄関を出る」8。こうして道子は「産室」を出たのでした。
この一連の「森の家」での出来事とその意味については、第一二章「夫による『高群逸枝全集』の編集と石牟礼道子の高群継承の決意」のなかにおいて詳しく論述していますので、ここでは繰り返しません。しかし、書かれている内容は、極めて衝撃的なものでした。さらに加えて、衝撃的なことが、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかにも現われます。このインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれました。聞き手は、藤原書店の藤原良雄です。
――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、[憲三さんのことを]そう思われたわけですね。 石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。 ――「最後の人」というのはどういう思いで。 石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。 ――憲三さんのことを。 石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした9。
ここではっきりと道子は、「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告白するのでした。それには、多くの人が驚愕したものと思われます。といいますのも、石牟礼研究者たちは、これまでに「最後の人」を、こう解釈していたからです。たとえば、西川祐子は、次のように書いています。
石牟礼道子は『高群逸枝雑誌』に「最後の人」の序章、第一章「残像」、第二章「潮」、第三章「風」を連載した。連載は編集責任者であった橋本憲三の死、雑誌の終刊によって中断されたままである。「最後の人」という題名は、文明の最後をみとどける人ととれる。高群逸枝は、人類はしだいに子どもを生まなくなり、やがて寂滅すると、終末を予言したのであった。「最後の人」とはまた、チッソの工場がはきだす産業社会の毒に汚染される水俣の海とさまざまな生命の死を見届ける石牟礼道子その人でもある10。
また河野信子は、「最後の人」を、このように推断していました。
高群逸枝の史料処理をめぐっては、いくつかの錯誤が指摘され、『母系制の研究』からは、十五年戦争中のヒメの力への期待が導き出され、女たちの原記憶の潜在性を浮上させた。これらの事実をめぐって、石牟礼道子は「鬼の首をとったように」(一九九五年十月福岡市アミカスで開かれた「高群逸枝をめぐるシンポジュウム」のレジメ)はしゃぐものではなく、その最も内質である場にこそ、視線を集中させることを提言している。やはり、石牟礼道子にとって「最後の人」は高群逸枝であった11。
上の事例からもわかるように、道子にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを指摘した研究者はこれまでに存在せず、それだけに、この公言は、石牟礼研究の全面的刷新をも招来しかねない、激震を伴って受け入れられたものと思われます。
「最後の人」が所収された『石牟礼道子全集・不知火』の第一七巻の刊行が、二〇一二(平成二四)年の三月です。それから七箇月後に『最後の人 詩人高群逸枝』は世に出ます。道子は、こう書きます。「この度、『最後の人』を『全集』のなかから取り出して、わざわざ単行本にして下さるという。藤原良雄氏のご厚意にはお礼の申しあげようもない」12。それでは、あえて『全集』から取り出し、どうしても「最後の人」を単行本として世に送り出さなければならなかった、その目的とは一体何だったのでしょうか。「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」のなかの藤原良雄と道子のやり取りのなかに、その一端を見出すことができます。「最後の人」の連載は、憲三が亡くなる直前に刊行された『高群逸枝雑誌』第三一号における掲載を最後として、あえなく終了します。それから三六年が経過していました。藤原の「どうしてずっと単行本にされなかったんですか」という質問に、道子は、こう答えます。
高群逸枝のファンはたくさんいますよね。ですから、慎んでいたという気持ちです。森の家に滞在する特典を与えられて、そこで『苦海浄土』まで書かせていただいて、『西南役伝説』の一部も書いているのです。それも全部、憲三先生の目を通って、とても大切な時間をいただきました13。
それに続けて、道子の意味深長な語句が並びます。「奇跡のような時間をいただきました。それをひけらかしたくない、と思っておりました。……そのうち、だれかが見つけて読んでくださるだろうと、そんな気持ちでした」14。評伝「最後の人」は、「森の家」で憲三と道子が交わした、静子を仲立ちとする「後半生の誓い」と、男女としての「聖なる夜」を含みます。掲載された『高群逸枝雑誌』は、はじめ五百部、のちに千部へ増刷されたとはいえ、少部数の、したがって必ずしも大きな影響力をもっているわけではない、地方発の雑誌でした。このことは、結果として道子にとっては、自身の「最後の人」をいたずらに人目に晒すことなく、実質的に封印することを意味していました。また、逸枝ファンのなかには、逸枝を玉座に祀り上げるも、その一方で憲三を、つまりは、自分が添い遂げようとしている「最後の人」を、足蹴にしては牢獄につなぎ止めようとする人も多くいました。道子にとってこれは、いわれのない耐えがたい仕打ちでした。それでも、寡黙を守り通しました。しかし、三六年の時が流れ、そろそろ死が迫ろうとするこの時期、道子の心情に大きな変化が生じたようです。思うに、「だれかが見つけて読んでくださるだろう」という、これまでの控えめな姿勢から、単行本にすることによって、自身と憲三の関係を、より多くの人にわかってもらいたいという解き放された思いへと、道子の心情は方向を変えたのではないかと判断されます。このとき道子は、すでに八五歳になっていました。これが、秘して死するよりも、生きて、真の愛の姿を広く世に告げることを、道子は望んだのではないかと考えるゆえんです。
しかし、別の考えも成り立つかもしれません。それは、執筆の当初から道子は、いつか来る最後の日まで待って、自身の「最後の人」を世間に紹介しようと、密かにこころに決めていたのではないかという解釈です。そうであるならば、「『最後の人』とはいい題だ。こちらも早く読みたい」という憲三の気持ちに、この最後の時期に至り、ついに満を持して、望みどおりに、添い遂げることができたことになります。
いずれにしましても、「病気になって、怪我をして、視力も落ちました」15と語る身体的状況にあって、もはや道子には、そう多くの時間が残されているわけではなかったのでした。
憲三は、ある日のことを忘れることなくよく覚えていて、死の前日、混濁する意識のあいまの一瞬に、道子に、こう語りかけました。
「秋晴れのよい日でしたねぇ。あなたの古典的なあの家にお伺いしたのは。かつてないことでしたが。ちょうど一〇年です。彼女[逸枝]が出発した頃に、うりふたつでしたよ、本棚もなんにもない、しかし、本が二、三冊あって。うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……。僕にはほんとうによくわかった。『椿の海』はまだですか。『最後の人』とはいい題だ。こちらも早く読みたいという願望は、止みがたいなあ」と割れた笛のような声でおっしゃった。氏がおっしゃった「あなたの古典的な家」とは、実家のとなりにあった、にわとり小屋を、かろうじて人間が住めるように父がしてくれた掘っ立て小屋のことである16。
一九六六(昭和四一)年の「秋晴れのよい日」、「掘っ立て小屋」に住む道子を訪ねて、「森の家」への同行を促したのは、憲三と静子の両人でした。この「森の家」で、亡き逸枝の精霊を介して、道子の吐血していた魂が蘇ります。それから一〇年が立ち、道子は、静子とともに、主治医の佐藤千里を交えて憲三の臨終に立ち会うのでした。死に際において憲三は、「『最後の人』とはいい題だ。こちらも早く読みたいという願望は、止みがたいなあ」と、「割れた笛のような声で」発します。これが、「最後の人」である橋本憲三から石牟礼道子への、ひとつの遺言としての「最後の言葉」でした。この逸話が登場するのは、『最後の人 詩人高群逸枝』の「あとがき」においてです。道子が亡くなる、およそ五年数箇月前に書かれたことを考えると、死期を前にしてまとめられたこの作品は、道子から「最後の人」憲三への「最後の返礼品」だったのかもしれません。
こうしたなか、いよいよ道子の情感は高まっていました。『最後の人 詩人高群逸枝』が刊行される前年(二〇一一年)ころから、道子の筆は、新作能「沖宮」へと向かいます。ちょうどその時期、染織家の志村ふくみから、一通の手紙が道子のもとに届きました。志村は、第九章「志村ふくみの染織家への道を支える富本憲吉・一枝夫妻」において詳しく述べていますように、富本憲吉と一枝の夫婦に背中を押されるようにしてこの道に入り、その後大成した工芸家です。道子は、平塚らいてうとは面識がありました。一枝もまた、青鞜の女です。その点で、道子にとって、志村との出会いは、間接的ではありますが、青鞜の女との最後の邂逅ということになります。志村ふくみと石牟礼道子の交流の様子は、その後、『遺言――対談と往復書簡』(筑摩書房、二〇一四年)となって公開されるに至ります。それでは、そこから数箇所を引用することによって、『遺言――対談と往復書簡』の出版企画の発端や「沖宮」の執筆過程について、加えて、そこで使われる能衣装の製作依頼にかかわって、再現してみたいと思います。
二〇一一(平成二三)年八月八日に志村から道子に出された手紙に、『遺言――対談と往復書簡』の出版企画の発端が、記されています。
先日、筑摩書房のNさん(長いつきあいです)とお話しておりますとき、思わず、今一ばんお話ししたい方は石牟礼さんです、と申しまして、思いがけずこのような企画を立てられました。石牟礼さんのご体調のこととか、いろいろおいそがしいことを充分存じ上げないまま、ご迷惑もかえりみずおたより申し上げました。ご無理のようでございました[ら]どうぞおことわりくださいませ17。
九月八日に志村に宛てて、道子は次のような手紙を書きました。
わたくしは今、最後の作品と思う新作能「天草四郎」を構想中でございまして、シテの四郎の装束をこの「みはなだ色」で表現したいと思うに至りました。…… 不躾に急な話を持ち出しまして恐縮でございますが、あいなるべくはお引き受け願いたいと思います。能の台本は三分の二くらいまできております18。
しかし、ちょうどこの日に、筑摩書房のNさんから手紙が届いたため投函を見合わせ、九月一一日に追伸として一筆を書き加えたうえで、志村に送りました。以下は、追伸に書かれてある一節です。
能装束についてご相談の手紙を書いた日に、筑摩書房のNさんから往復書簡のお話をいただきました。…… 往復書簡のお申し入れ、望んでもめったに得られないご縁でございます。ただちにお引き受けすべきでございますけれども、このところ私、長年のパーキンソン病が進行しまして歩くのもままならず、箸とペンがうまく握れないのが一番苦痛でございます。この度の新作能を最後の作品と思うのは、そのせいでございます。何としてもこれを仕上げてから往復書簡にとりかかれればと思いますが、それでよろしゅうございますでしょうか19。
道子は、この「新作能を最後の作品」と思っています。他方、能衣装の製作依頼を受けた志村は、一週間後の九月一五日、このような返信を道子へ書き送りました。
思いがけない新作能の能装束のおはなし、胸がとどろく思いで拝見いたしました。石牟礼さんが渾身の力をこめて「天草四郎」という新作能をおかきになっていらっしゃいますことは何という素晴らしいことでしょう。……能装束を織りたいのは私の終生の念願です。まして天草四郎という霊性の高い美しい男性の衣裳とは、私に果たして織れますかどうか不安な思いもいたしますが、何かあたえられた仕事のように思われ、心からよろこんで織らせていただきます20。
一一月一三日の道子から志村への手紙の一部に、次のような文言があります。「これまで出来上がりかけの作品を人さまにお見せしたことはないのですが、予告してしまったのは生き急いでいるからだと思います」21。この一言から、近づいてくる死を道子が意識していることが見て取れます。年が変わると、二〇一二(平成二四)年一月二〇日に、再び道子は志村に宛てて、次のような内容の手紙をしたためました。
天草四郎の能装束を早々とお願いいたしましたけれども、その後体調を悪化させ、一度書いた台本を破棄して初めから書き直しております。…… その中で頭に閃いて止まらないのは、この世ならぬ恋の相手、四、五歳くらいの「あや」の装束の緋の色(紅の色)でございます。…… 書き上がりましたら第一番にお目にかけます。 筑摩からお申し出の対談もこのことが終わってからにさせてくださいませ22。
ここで注目されるのは、おそらく十代半ばの四郎の「この世ならぬ恋の相手」が「あや」という名の童女であるということです。つまりここから、この物語は、四郎とあやとの道行きを主題にしていることが連想されます。それから一箇月後の二月二四日の書簡の末尾に、道子は、いよいよこう記しました。「まだまだ不出来でございますが、『沖宮』をお送りいたします。御笑覧くださいませ」23。
こうして、生前にあって道子は、絶筆を意識した新作能「天草四郎」改め「沖宮」を書き進めるなか、主人公の天草四郎がまとう「みはなだ色(天青の色)」の装束と、五歳の童女・あやが身に着ける「緋の色(紅花の色)」の衣装とを志村に依頼したのでした。
「沖宮」の台本が一応完成したことにより、足踏み状態になっていた志村と道子の対談が、四月二二日に、実現しました。
志村 :お体調、いかがですか? 石牟礼:あまり良くはないですね。ですけど、もうちょっと書き残していることがございますので。もうでも、それも、もういいかという気もするんでございますけど。 志村 :例の、いま取り組まれておられる、新作能ですか? 石牟礼:はい。その新作能と高群逸枝論ですけれども。新作能は、書くことは書きましたけど、まあ、人さまが、どんなふうにお読みになるか。それで、その新作能について、志村さんに、衣装をお願いしているんでございます。登場人物の童女「あや」の着る衣装を、紅色の衣装を……24。
ここで道子が言及している「高群逸枝論」とは、もうすぐ出版される予定の『最後の人 詩人高群逸枝』が念頭にあったものと思われます。そしてまたこの手紙から、『最後の人 詩人高群逸枝』のみならず、「生き急いでいる」との自覚のなか「もういいかという」あきらめの気持ちももちながら、「沖宮」と向き合っている様子をうかがい知ることができます。明らかに道子にとって、この二作は切り離すことのできない一対のものであり、この世に遺す最後の作品であるとの強い思いをもって、このとき、是が非でも完成させようとしていたのでした。ふたりの対談は続きます。
志村 :はい、それで、今日、ちょっとお持ちしました。紅の色をお見せしようと思って、そめ糸を……あんまり、まだ染めていないんですけど、新作能を脱稿されて、いよいよとなったら、本格的に染めようと思っているんです。 石牟礼:まだ書き上げていないのに、早々と志村さんに発想を漏らしてしまって、ご迷惑じゃなかったかしらと思って。 志村 :とんでもないです。私は本当に喜んで、やらせていただきたいです。 (染めた糸を卓上にひろげる) 石牟礼:まあ……きれいだこと……まあ……。 志村 :なんか、今度の新作能、執筆の途中のお原稿を、何度か送っていただいて、読ませていただいて、こんな感じかしらと。 石牟礼:まあ……はあ……。 志村 :いろいろ想像して。 石牟礼:まあ……まあ……。 志村 :染めてみましたけど。 石牟礼:まあ……。 志村 :これが、紅と、これが水縹( みはなだ ) の色25。
こうして、四郎とあやの能装束を織る染め糸の見本が、志村から道子にもたらされました。しかしこれには、道子は不満だったようです。山本淑子が、こう明かします。
文学に限らず芸術全般に鋭い感覚の人だったから色に関しても非常なこだわりを示されていて、もう何年も前、志村ふくみさんから送られてきた糸束を素人の私にみせながら「この糸はきれいですが私のイメージとは少し違うんですよ。どうしたらいいでしょうか」と相談された。相談するというより又糸を手に思案するという風だった。自分の作品に対しては納得のいくまで推敲に推敲を重ねられる方だったから、色や形に対しても厳しかったのだと思う26。
道子自身は、原作「沖宮」のなかで、「緋の色」を、次のように表現しています。
村の女房ら、寄り集まり、古き家の蔵から緋の色の旗さしものを見つけ出し、その古き布水流少なき川にて洗いあげたれば、古き煤、埃落ちて緋き色、花のごとくに現れ、かかる朱の色見しことなし27。
原作の記述が示すように、村の古家の蔵に長くしまい込まれていた古い布切れを水で洗って縫い直してできたものであれば、この道行きに使われる衣装は、歓喜に満ちた婚礼などにみられる光り輝く新調の晴れ着のようなものではなく、生と死の、まさしく生まれ変わりのための巡礼の旅路にふさわしい、おそらくは歴史のなかで積み重なった血と涙の無念と悲痛とが無言のまま染み込んだ土着色の青紫と紅彩の衣であるにちがいなく、おそらくそのことと、志村が持参した糸とのあいだに、道子の違和感があったのではないかと推量されます。
この対談から半年後の二〇一二(令和二四)年の一〇月、『最後の人 詩人高群逸枝』が藤原書店から上梓され、翌月に、「沖宮」が『現代詩手帳』(第五五巻第一一号)に掲載されます。その後「沖宮」は、『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻(藤原書店、二〇一三年)と、志村ふくみ・石牟礼道子『遺言――対談と往復書簡』(筑摩書房、二〇一四年)に所収されることになるのでした。
それでは、「沖宮」の概要をまとめてみます。
原作に従うと、あらすじはだいたい次のようになります。場面は、過ぎし昔の彼岸花の咲くころの島原・原の廃城跡。先の島原・天草の乱で散った天草四郎が登場し、次に四郎の乳母のおもかさまとその夫の佐吉が現われ、さらに、その夫婦の娘のあやが続きます。あや以外はすべて霊界の人で、あやは、亡き四郎を慕う、わずか五歳に過ぎない童女です。あやは四郎のことを「兄( あん ) しゃま」と呼ぶ。久しぶりの再会をみなで喜び、昔の思い出に浸る。こうして登場人物たちによる導入の会話が終わると、場面が切り替わり、いよいよ物語が進行します。天草下島の村人たちは、死に絶えんばかりに干ばつに苦しんでいました。そこで、雨を司る竜神への人身御供( ひとみごくう ) として選ばれたのが、乱で両親を失くし、もともと竜神の姫でもあった孤独の身の幼子・あやでした。村の女房たちが涙ながらに縫った緋の衣装に身を包み、彼岸花で飾られた小舟に乗せられたあやは、独り、夕陽が沈む茜色の沖へと波の合い間を進んでゆきます。浜辺では、「神代の姫となって、沖宮の美( よ ) かところ」へ赴く「あやしゃま」を愛おしみ、雨乞いの村の衆が手をあわせる。やがて天空から恵みの雨粒が降り注ぐも、雷鳴がとどろき、稲妻が炸裂するや、ついにそこで舟影とともに緋の色が視界から消えてしまいます。するとそのとき、あやがひたすら心を寄せる、霊界の天草四郎が、みはなだ(水縹)色の衣をまとって、その姿を現わすのです。四郎の乳母の娘があやであることからして、ふたりは乳兄妹( ちきょうだい ) の関係にあります。こうして、雨水をこいねがう村の民を救うための人柱( ひとばしら ) となってゆく悲運のあやと、受苦の身にあるあやを決然と迎え入れ、手をとって導いてゆく守護精霊者としての四郎との、切なくも美しいふたつの魂の道行きがはじまるのです。向かう先は、竜神と、いのちたちの大妣君( おおははぎみ ) とが住むという海底( うなぞこ ) の〈沖宮〉。ふたりの道行きの舞いを慰めるように、あるいは祝うかのように、何か読経や讃美歌にも似た音響が高らかに鳴り渡るなか、この物語は終わりを迎えます。
以上が、あらすじです。「沖宮」を書きながら、道子の脳裏には、どのような像(イメージ)が映し出されていたのでしょうか。以下に、思いつくままにそれらを、コラージュ風に合成してみます。したがってこれが、私の思う「沖宮」の、その象徴世界の分析ということになります。
場面として設定されている天草は、道子の実際の出生の地であり、対岸の島原にある原城は、道子が一九九八(平成一〇)年四月から『熊本日日新聞』に連載した「春の城」の舞台でもあります。天草と島原のあいだには海原が横たわります。そしてそれは、道子が日々日常的に目にしていた不知火海の外海でもあるのです。それではそこで、道子にとっての海、あるいは海底( うなぞこ ) のイメージを探ってみます。道子は、「陽のかなしみ」と題されたエッセイのなかで、このように書いています。
天草島あたりの、磯に露出している古生代の地層に出逢っても胸がとどろいた。地層の年齢にいっきょに立ちあうはめになって、わたしはくらくらする感じだった。ああ最初はわたしたちは、海底の岩だったのでは、岩から生まれてきたのだとおもう。海がながい間、養ってくれたにちがいない、そう思われて泪ぐんだりした。…… 不知火海はわたしの心の内部だった28。
「海底の岩」こそが、道子が生まれ落ちた原郷であり、そして、最後に帰るべき場所と、道子はいつしか思い定めていたのかもしれません。〈沖宮〉が、天草灘沖の「海底の岩」であることは、間違いないでしょう。
島原・天草の乱では、総大将の天草四郎をはじめ、蜂起した数万の下層民たちが倒れ、加えて、親や兄弟を失い孤児となった子どもたちが大勢いました。さらに、日照りや干ばつが人びとを苦しめます。この乱の背後には、行き場を失くした多くのいのちたちが漂っています。そうした苦しみと悲しみのイメージを喚起してやまない体験が道子にありました。それは、水俣病患者たちとの出会いであり、チッソ本社前の路上での座り込みであったろうと思われます。道子が編集した『水俣病闘争 わが死民』の自身の巻頭言に、次のような一節を読むことができます。
死民とは生きていようと死んでようと、わが愛怨のまわりにたちあらわれる水俣病結縁のものたちである。ゆえにこのものたちとのえにしは、一蓮托生にして断ちがたい。…… 「一生かかっても、二生かかっても、この病は病み切れんばい」 わたくしの口を借りてそのものたちは呟く。 そのようなものたちの影絵の墜ちてくるところにかがまり座っていて、わたくしの生きている世界は極限的にせまい29。
このなかの「わたくしの口を借りてそのものたちは呟く」という文言が、石牟礼文学の神髄であると思料されます。といいますのも、幻想のなかにあって、他者の、あるいは自分自身の、あえぐような嘆きが道子の耳に聞こえ、それを受け止めて文に書き留めたものが石牟礼文学ではないかと、考えるからです。たとえば、『西南役伝説』が他者の、『椿の海の記』が自分自身の、といった具合です。道子のなかでは、現実の「水俣病闘争」と、歴史上の「島原・天草の乱」は、ともに「死民」による闘いであるという点で重なり合い、両者を見る道子のイメージは避けがたく通底していたにちがいありません。
彼岸花についても、そして、四郎とあやの装束の色についても、それらの源泉となるイメージを、道子がすでに書き記している文に見出すことができます。道子は、川の源流を求めて、しばしば熊本県境の山々を訪ねました。つまり、道子にとっては、山から川が流れ、海に達する過程が、生から死を経て最後に再生される、いのちの歩みゆく道程を表わしているのです。以下のように道子は、ある日遭遇した山野の情景を描写しています。
道々、今年も彼岸花がうつくしかった。段々田んぼもみのりかけていて、暮れてゆく夕映えを谷の間にやどし、この世ならぬ色調で照り映えていた。…… 能衣裳の沈金のような色や、藍の色の、藍から川の水にさらしうつすときの、古代緑とでもいおうか、息をのむような一瞬の緑が、さらに青に変るときの神秘な艶をみるときに、日本人の色彩感覚にすりこまれていた色調がおもわれる。それはたぶん、稲の色を主とする田園の美からなっていたのではあるまいか。 色の調べをあらわすことばがむかしあった。かろうじて、まだその調べの残されている山野をゆく。自分の蘇生のため30。
彼岸花の美しさも、四郎とあやの衣装に使われる「みはなだ色」と「緋の色」のイメージも、どれもこれもおそらくは、こうした道子の山歩きのなかから感得されたものだったのではないでしょうか。
それでは、「雨乞い」のイメージは、どこに由来するのでしょうか。体調を崩し、山梨の病院に入院していたとき、その土地の名刹を巡るなかで、道子は「雨乞いの観音さま」に出会っており、そのときの様子を、道子は次のように書き留めています。
さてその観音像は二体で、日でりの池や川床に縄をつけてそびき廻されて何百年経ったのだろう。目も鼻も口も潰れはて、手も足ももげ落ち、雨乞い祈祷の火にあぶられて酸鼻な姿である。不思議なことに黒焦げの、損なう所はもうどこもないその姿が、えもいわれぬ豊饒と気品を、胸元や腰のあたりに漂わせているのであった。一樹作りで平安以前のものらしいという。 たちどころにその姿は、見えない縄にそびかれ町中の晒し者となり続け、死狂した自分の祖母や、幼いころ私を膝の上に抱いてくれた女郎たちや、水俣病死者たちの姿と重なった31。
雨乞いのための人身御供( ひとみごくう ) となって、独り沖へ流されるのが五歳の幼子のあやです。道子は、この女童に自分自身を投影していると考えてよいのではないでしょうか。つまり、「雨乞いの観音さま」こそが道子であり、道子こそが、あやなのです。いよいよ岸辺を離れ、あやを乗せた小舟は沖へと向かいます。すると雷鳴がとどろき、閃光が走り、恵みの雨が天空からこぼれ落ちてくる、まさにそのときです、帆影が消えるのでした。それを見ていた、あやのために緋色の衣を縫った村の女房たちの頭が、雨に打たれながらしゃくり上げて泣き、こうつぶやくのでした。
あやしゃまは沖宮の美( よ ) かところにゆかれしや。 むごきこの世に生きるより、いのちたちの大妣君( おおははぎみ ) のおらいます沖宮に行くがよい。あな かなしや。 四郎どのは、あやしゃまを迎えに参られたまいしや。 (能管の低い音にて道行き始まる)32
かつて道子は、「森の家」から静子に宛てて出した手紙のなかで、このようなことを書いています。
うつし世に私を産み落とした母はおりましても、天来の孤児を自覚しております私には実体であり認識である母、母たち、妣たちに遭うことが絶対に必要でした。…… つまり私は自分の精神の系譜の族母、その天性至高さの故に永遠の無垢へと完成されて進化の原理をみごもって復活する女性を逸枝先生の中に見きわめ……そのなつかしさ、親しさ、慕わしさに明け暮れているのです。そして私は静子様のおもかげに本能的に継承され、雄々しいあらわれ方をしている逸枝先生のおもかげを見ます33。
この言説から判断するとすれば、〈沖宮〉に住むいのちたちの大妣君は、まさしく逸枝その人であり、周りでそれを支えるいのちたちが、藤野であり静子であるということになります。つまり、〈沖宮〉は、道子にとっての「精神の系譜の族母」の住み家なのです。その家へ手をとって案内する四郎が、道子にとっての「最後の人」である憲三であることは、もはや言を俟たないでしょう34。
加えれば、差し詰め竜神は、しばしばこの間原作者の道子を死に追い詰めようとした、現実世界の不条理を体現する死神の化身ということになるのではないでしょうか。恋い慕う四郎に導かれ、晴れて道行きを成し遂げ、面影に宿す妣たちが待つ海底の美しき〈沖宮〉――。しかし、一方そこには、雨を支配する竜神が住み着いています。もともとは、あやは竜神の姫でもありました。道子は自分の実の父親について、かつてこう記述しています。
父は酒乱な上、泣き上戸でしたが、栗飯と茶碗が飛び散って、母が裸足で外に飛び出たあと、こわれた火鉢に「ちょく」という焼酎瓶を据え、「ミッチン、汝( われや ) 、このお父っちゃんにつきあうか」といって、冷たい盃をぶるぶるこぼしながらつきつける。私は……好かん、と思いながら、フーンと鼻で返事して、その盃を何べんも受けました。夜市で見たこわい「地獄、極楽」の中のやせた「餓鬼」たちが青い舌をたらんと出している、それを思い出し、父に似ていると思ったのです35。
これが、道子が宿す実父のイメージです。したがって、この道行きは、「精神の系譜の族母」のもとへ帰るという意味だけではなく、「餓鬼」のもとに帰ることをも同時に示唆します。つまり、この道行きには、あやにとっては「雨乞いの観音さま」となって再生するしかほかにない厳然たる宿命としての不条理が、一方で横たわっていたのでした。
かくして道子は、憲三に手を引かれ、逸枝と、藤野と静子が住む、そして「餓鬼」の幻影が居着く〈沖宮〉へと向かうことになります。道子が書いたもののなかに「道行」と題された一文があり、これが、道子にとっての道行きに寄せるイメージではないかと思われますので、ここで以下に引用します。
生死( しょうじ ) のあわいにあればなつかしく候 みなみなまぼろしのえにしなり おん身の勤行に殉ずるにあらず ひとえにわたくしのかなしみに殉ずるにあれば道行のえにしはまぼろしふかくして一期の闇のなかなり36
そして道子は、こう加えます。
〈ゆき女瓔珞( じょようらく ) 〉という章を、苦海浄土第二部でいま想定しています。 わたくしの死者たちは遺言を書けませんから、死者たちにかわって、わたくしはそれを書くはめになるのです。 してみると、すでにわたくしは死者たちの側にいることになる。 いついつ、そのようなことになったのか。 どうもわたくしは心中をとげたらしい37。
「沖宮」にあっては、あや以外はすべて霊界の人、つまり死者たちです。こうして、生死( しょうじ ) のあわいにあって、あやと四郎の道行きがはじまりました。次が、道子が書く「沖宮」のラストシーンです。
われらが縫いし緋の衣 海底( うなぞこ ) にゆれる 林の中を 一輪の華となりて 四郎どのに手をひかれ 大妣君( おおははぎみ ) と 竜神さまのおらいます 沖宮へ 道行きはじまりしかな。 海底( うなぞこ ) 色の幕がたれてくる。 その前を、二人が手を取り合ってゆっくりと舞いながら幕。 (余音 嫋嫋( じょうじょう ) たる高音域の能管の音)38
雑駁な記述になりましたが、以上が、私が解釈する新作能「沖宮」をかたちづくっているイメージの総体です。著作集12『研究追記――記憶・回想・補遺』の第二部「わが肥後偉人点描」のなかの第四話「石牟礼道子の死去から一年――ハナシノブ考あるいは『沖宮』考」においても、これとは別の手法で、「沖宮」の構造と意味を分析しています。こちらもあわせてご参照ください。
さてその一方で、二〇〇八(平成二〇)年一一月から『熊本日日新聞』に連載されていた道子の自伝「葭の渚」が、二〇一三(平成二五)年五月の掲載を最後に中断に至ります。自伝は、道子が「森の家」を辞して水俣に帰り、『高群逸枝雑誌』の創刊号から「最後の人」を連載するも、水俣病闘争に全面的に関わろうとするところで途切れます。次は、自伝のラストシーンです。いつかは姿を消すことになるであろう、守護聖人たる憲三から巣立って、いよいよひとりになることを自覚せねばならなくなった道子の姿が、そこにありました。
しかし、何気なく取り掛かった水俣病問題は、容易ならぬ前途を含んでいた。これは世界史的な事件になるのではないか、社会史的な文明の大転換期に我から進んで飛び込んだのではなかろうか。そのことを橋本憲三氏に断片的にお話しした。憲三氏はこのころ、お体の異変が進みつつあった。私の話を聞かれて憲三氏は静かに頷かれ、「単なる地方の一事件ではないですね。僕にもわかりますが、逸っぺが生きていたら、もっとよりよく深くお話をうかがえるのにな」と静かにおっしゃってくださっていた。 憲三氏にお言葉をいただきながら、心の底で私は「一人であることを自覚せよ、これは容易ならざることをおっぱじめたぞ。一人であることを再々自覚せよ」と、自分に言い聞かせていた39。
『熊日』に連載された「葭の渚」が単行本になり、さらに『石牟礼道子全集・不知火』の別巻に所収されるのが、二〇一四(平成二六)年の五月です。そのなかで道子は、「自伝『葭の渚』は『熊本日日新聞』に連載したのだけれど、水俣病第一次訴訟の頃まで書いて息切れしてしまった。病状もよろしくなかったし、訴訟提起後の錯綜した時期を整理して叙べるには、体力・気力ともに尽き果てていた」40と書きました。
連載を中断する半年前の二〇一二(平成二四)年の一〇月に上梓した『最後の人 詩人高群逸枝』において、「最後の人」が橋本憲三であることを口外し、翌一一月に雑誌に発表した「沖宮」において、憲三との道行きを成就しました。さらに加えて、自伝「葭の渚」の最終場面にあっても、自分が尊師と仰ぐ憲三について触れることができました。未完ながらも新聞連載に幕を閉じようとするこのとき、何も、引き裂かれた自己のすべてが言葉への置き換えによって完全に救われることはなかったにしても、世に書き残すべきことは全部書き尽くしたという安堵感と充足感が、道子のこころを包み込んでいたものと思量されます。しかしその一方で、道子の身体は、もはや回復の見込みのない、厳しい状態に置かれていたのでした。
道子の最期につきましては、渡辺京二が、道子の死後『アルテリ』に寄稿した「石牟礼道子闘病記」に詳しく、そこから断片的に引用するかたちで、以下に構成します。
二〇〇三年六月には、ヘルペスが起って坂本病院に四〇日ほど入院。しかし、退院時には血糖値は正常になっていた。問題は歩行を始め、日常の動作がかなり緩慢になっていることで、状態が進めばひとりで入浴するのもむずかしくなるのではと心配された。山本淑子さん(哲郎夫人、内科医)はずっとパーキンソン病と診断していたらしいが、私がそれを初めて彼女の口から聞いたのはこの年一一月一五日だった41。
このころ渡辺は、道子の食事づくりに励んでいました。
彼女の食事を全面的に私が作るようになったのは湖東時代から、以降「ユートピア」に入居するまで続いた。毎食四、五品は作り、栄養バランスも十分考えたつもりだ。「おいしい」とよろこんでもらったのも際々だが、手をつけようとしない時はどうにもならなかった42。
渡辺は、このようにも書いています。「私は二〇〇五年の初頭をもって河合塾福岡校の講師を辞め、その後は彼女の仕事場に日参していたのである」43。
一六年間仕事場に使っていた、真宗時に隣接する健軍四丁目の借家を離れ、湖東二丁目に道子が転居したのは、一九九四(平成六)年四月でした。その後、二〇〇二(平成一四)年七月に、上水前寺二丁目に新築された知人宅を借り受けて住み、続いて二〇〇八(平成二〇)年五月に、京塚にある山本ビル四階に居を移すのでした。
この山本ビルは山本哲郎氏の父君の経営する病院で、四階は患者の入院室であったのだが、父君引退ののちの何年か経て、哲郎夫人淑子さんが心療内科を開院されたが、四階は使用しないで道子夫人に提供されたのである。ワンルームのひろびろとした使い易い空間であるのみならず、主治医がすぐそばに居てくれるのだから、願ってもないことだった44。
翌年(二〇〇九年)、渡辺は、主治医からこう告げられました。
八月六日には山本淑子医師の話あり。右脚の骨も非常に細くなっているので、いつ骨折してもおかしくない。咀嚼と嚥下も困難になって来ており、二十四時間の介護が必要で、作家活動も終わりだろうとのことで暗然となった45。
二〇一三(平成二五)年の「一二月には幻聴が始まっていた」46。翌年(二〇一四年)の五月、道子は、秋津一丁目にある高齢者施設の「ユートピア熊本」に入居しました。「ここは看護師も四人おり、しっかりした介護をしてくれる上、雰囲気がとてもよろしかった。この施設については、真宗寺の佐藤薫人住職が教えてくれたのである。結局ここが終焉に至るまで、彼女の終の棲家となった」47。
このころ水俣では、道子の夫の弘の体にも、異変が生じていました。息子の石牟礼道生は、こう書き記しています。
父の命がその時を迎えようとしていると主治医からの連絡を受けて母が熊本から水俣の病室に駆け付けた。 「作家としてこれたのは全てあなたのお蔭でした」 と、母が父の耳元で言った。僅かに父が苦笑いしてうなづいたような表情を見せた瞬間に父の生涯は報われたと思った48。
二〇一五(平成二七)年八月に、弘が亡くなると、翌年四月、熊本地震が発生し、道子の施設も大きな被害を受けました。それから二年後の二〇一八(平成三〇)年の二月一〇日、道子は帰らぬ人となりました。享年九〇歳でした。渡辺は、そのときの様子を、このように書き表わしています。
逝かれたのは一〇日未明三時すぎ、道生さん、妙子さん、ひとみさん(姪)、大津円さんの四人が看とられた。ずっと昏睡状態だったのが、最後に眼をぱちりと開き、涙が一滴こぼれて、それが臨終だった由。私は最期を看とれずとも後悔はなかった。もう心中何度も別れを告げていた49。
一方道生は、このように書いています。
三月二十四日、水俣で「おくりびとの集い」を催して頂いた後、水俣の実家の仏壇に母の遺骨と位牌を父のその横に並べて置いて手を合わせた50。
道生はまた、渡辺京二と山本哲郎が創設した人間学研究会の機関誌である『道標』が企画した特集「追悼 石牟礼道子さん」にも寄稿しました。その「多くの皆様に助太刀されて母は生きて参りました」と題された一文のなかで、道子が「森の家」へ出て行ったときの様子についても触れていますので、以下に引用します。
普段は優しい母が突然、「東京へ行く」と言い出した。私としても進学のことやそれなりに青春の頃の悩みもあった。「大人になれば解かる時が来る」と言いながら「ほんとうの悲しみと言うことが解かるかおまえに」と何もこんな時に言わなくても良いではないかと思ったがそれ以上、何も問えなかった。母のただならぬ気配を私なりにその時感じた。「今、私はしんからおまえに伝えておきたいと思っていることがあるのよ」とも言い出した。父母から劣性の能力と感性しか遺伝しなかった私でもこのような「もの言い」の境地に立ち至った時の母の凄味だけは感じることが出来ていた。高群逸枝様のご主人、橋本憲三様に導かれての「森の家」訪問は母にとって重要な契機となったと自ら記しているが父にも私にとっても大きな衝撃であったし今後のありようの契機となった51。
その後道生は、名古屋で学生生活を送り、その地で職を得て、所帯をもちました。道子が家を出たあとの自身と父親の生活を顧みて、道生はこのように記します。
父は見事に夫の役目を果たしました。父には睦子、母には妙子と言うそれぞれ妹がいます。私の叔母であるこの二人に父と私は「妻」と「母」の役割を何十年ものあいだ務めてもらいました。この二人の叔母に私は一生頭が上がりません52。
そして、以下に引用するのが、道生に宿る父親像です。
ものを思うと取り憑かれたように書き始める母。何を言おうが通じない。囲碁や釣りや庭いじりを好み知人や親戚の面倒や相談にのり人柄の良い学校の先生だった普通で穏やかな父だった。そんな母に距離は置きながらも資金的援助を怠ってはいなかった53。
石牟礼道子が死去したのは、二〇一八(平成三〇)年二月一〇日のことでした。この日、愛知県にある名都美術館では特別展「志村ふくみ――いのちの色に導かれて――」(平成三〇年一月一二日から三月一八日までの会期)が開催されていました。志村ふくみはこのとき、どのような思いで石牟礼の死亡の知らせを受け止めたのでしょうか。その喪失感は、筆舌に尽くしがたいものがあったものと思われます。
石牟礼の死去から四日が過ぎた二月一四日の『熊本日日新聞』(二八面)は、「沖宮」の公演について、こう報道しました。「一〇日に九〇歳で亡くなった作家の石牟礼道子さん原作の新作能『沖宮( おきのみや ) 』が、初めて舞台化されることが一三日までに決まった。一〇月六日の水前寺成趣園能楽殿(熊本市中央区)を皮切りに京都、東京で上演。衣装は石牟礼さんの長年の友人である、染織家の志村ふくみさん(九三)=京都市=が手掛ける」。そして、続く七月一日の同紙五面は、「友人で人間国宝の染織家志村ふくみさんが二九日、京都市右京区の都機( つき ) 工房で監修した衣装を報道陣に披露した」ことを伝えました。
それから三箇月後の一〇月六日、新作能「沖宮」が熊本市の水前寺成趣園能楽殿で上演されました。燃え盛る薪の明かりに照らし出された野外から、観客の目は舞台へと注がれます。第一部は朗読で、常味裕司さんのウード演奏を背景に、アナウンサーの山根基世さんが「沖宮」を朗読しました。そして、金剛龍謹さんが天草四郎の霊を演じるシテとして、また、豊嶋芳野さんがあやを演じる子方として登場する第二部の新作能「沖宮」へと続き、物語が進んでゆきます。するとどうでしょう、くしくも途中で、小さな雨粒が一瞬降ってくるではありませんか。偶然ではありますが、まさしくこの物語のハイライトである「雨乞い」を強調するにふさわしい、天の配剤によるところの、見事なまでの演出でした。
「沖宮」を観劇した、道子の主治医だった山本淑子は、次のような感想を書きました。
衣が美しすぎると人の心は惑わされる。死や暗闇が見えなくなる。ケチをつけるつもりはもうとうないが、今回の能は美しすぎる衣装が主役になってしまって石牟礼さんの影が薄くなっていた気もする54。
果たして、あやに着せたいと道子が思い描いた「緋の色」とは、どのような色だったのでしょうか。それを知るためには、『潮の日録』の「あとがき」のなかで、若い道子が、この時期「魂が吐血した状態だったにちがいない」55と告白していることを想起する必要があろうかと思われます。私は、この「魂が吐血した状態」こそが、道子の生涯を支配した主旋律の色調だったのでないかと思量します。加えて私は、衣装に使われた華美な色彩だけでなく、最後の場面で、道行きのあやと四郎のふたりを迎えに出てきたのが竜神だったことにも、驚きを禁じえませんでした。原作は、〈沖宮〉へ向かうふたりの道行きの場面で幕が降りることになっているのですが、そこに、原作には描かれていない、何と竜神が登場してきたのです。
当夜私が観覧した「沖宮」の物語は、一九六六(昭四一)年六月二九日の一五時一一分、六九歳の憲三と三九歳の道子が国鉄水俣駅のホームに立ち、入線してきた西鹿児島発東京行きの急行「霧島」の一等車に乗り込み、逸枝の霊魂が宿る「森の家」へ向けての、一昼夜にわたる、生まれ変わりのための厳粛なる道行きと重なります。
道子は、逸枝が亡くなったときに『熊日』に寄稿した追悼文において、すでにこのようなことを書いていました。
高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない56。
このときの、「魂が吐血した状態」にあった道子が、憲三に導かれて「森の家」へ向かう道行きは、「古代母系社会からよみがえりつづけている妣」である逸枝を求めての旅立ちでした。私は、この道行きが、道子にとっての新作能「沖宮」の原像であると確信しています。もしこの理解が正しければ、〈沖宮〉が「森の家」であり、天草四郎が憲三であり、そして、もしふたりを迎えるのであれば、家父長制の化身でもあるような竜神などでは決してなく、「大妣君」たる逸枝その人ということになります。
種々の解釈はともあれ、いずれにいたしましても、道子の死去から八箇月を経た、二〇一八(平成三〇)年一〇月六日の夜、水前寺成趣園能楽殿におきまして、あやと四郎の道行きは、多くの観客が見守るなか、無事に成し遂げられたのでした。そのとき降ってきた雨粒は、ひょっとすると、満願成就を果たした道子の喜びの涙だったかもしれません。
(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、249頁。 引用で示しましたように、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の著者の堀場は、「あとがき」において、「なんと大きな喪失であったことか」という言葉で、こころから橋本静子の死を悼みました。他方、『伴侶 高群逸枝を愛した男』の著者の栗原葉子は、その「あとがき」のなかで、「橋本静子さんには、私にはどうしても確認できない点を教示いただき、感謝にたえません」(二五二頁)と、一言書いているのみで、いつ水俣を訪れたのか、あるいは、単に手紙などによる問い合わせだったのか、そして、何を確認したのかも、全く不明です。同じ「あとがき」にあって書かれてある、堀場清子と栗原葉子の、静子に対する思いの差は、歴然としています。ひょっとすると静子は、栗原葉子の問い合わせに冷たかったかもしれません。というのも、静子の胸のなかには、兄の橋本憲三が「ゴミ類」とみなしていた、逸枝の「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」が、栗原弘と葉子の夫婦の校訂によって上梓されたことに、著作権継承者としての不信感が残余していた可能性が残るからです。 また、『伴侶 高群逸枝を愛した男』のなかで、著者の栗原葉子は、橋本憲三に宛てた堀場清子の「おたずね通信」に触れたあとで、こうしたことも書いています。「しかし、そのような堀場や、その夫君である近代思想史家・鹿野政直による研究であっても、憲三にはこれ以上の他人の介入を許すまいとする不可侵の壁があり、氏に対する遠慮や敬意が研究者にあればあるほど、不分明さを突き崩すことを断念させている」(一九頁)。こう断言するに当たって、著者は、いっさいの根拠も証拠も示していません。果たして本当に、憲三は、鹿野政直の調査に対して、「不可侵の壁」をつくっては、「不分明さを突き崩すことを断念させて」しまったのでしょうか。一方、堀場清子は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』の「あとがき」のなかで、「二〇〇五年一月、鹿野政直と私が水俣へ静子氏を訪ねた」と述べています。このときのこの夫婦の水俣訪問は、静子が亡くなる三年前のことでした。ここから、憲三死去ののちも、この夫婦は、妹の静子と親密な交流を重ねていたことがわかります。その視点に立って判断しますと、鹿野政直に対して、「憲三にはこれ以上の他人の介入を許すまいとする不可侵の壁があり、氏に対する遠慮や敬意が研究者にあればあるほど、不分明さを突き崩すことを断念させている」という、栗原葉子の言説は、あまりにも独断的にすぎ、懐疑的にならざるを得ません。 さらに付け加えるならば、栗原葉子は、その本の「あとがき」の最後に、「小著を橋本憲三と高群逸枝の墓前に一冊……捧げます」(二五三頁)と、書きます。実際にふたりが眠る水俣の墓廟へ足を運んだのかどうか、それは知る由もありませんが、いずれにせよ、そうした内容をもつ『伴侶 高群逸枝を愛した男』を捧げられた橋本憲三と高群逸枝は、地底の泉にあって、怒り狂ったのではないかと、私は想像します。
(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。
(3)山本淑子「『沖宮』を観劇して 死者を柱となさいませ」『道標』第63号、発行所・人間学研究会、2018年、22頁。
(4)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、244頁。
(5)同『最後の人 詩人高群逸枝』、244-245頁。
(6)同『最後の人 詩人高群逸枝』、247頁。
(7)同『最後の人 詩人高群逸枝』、265頁。
(8)同『最後の人 詩人高群逸枝』、266頁。
(9)同『最後の人 詩人高群逸枝』、453-454頁。
(10)西川祐子「一つの系譜――平塚らいてう、高群逸枝、石牟礼道子」、脇田晴子編『母性を問う(下)――歴性的変遷』人文書店、1985年、188頁。
(11)河野信子「『火の国』から『近代』を問い直す――高群逸枝と石牟礼道子」、加納実紀代編『リブという〈革命〉――近代の闇をひらく 文学史を読みかえる⑦』インパクト出版会、2003年、246頁。
(12)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、464頁。
(13)同『最後の人 詩人高群逸枝』、452頁。
(14)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(15)同『最後の人 詩人高群逸枝』、同頁。
(16)同『最後の人 詩人高群逸枝』、464頁。
(17)志村ふくみ・石牟礼道子『遺言――対談と往復書簡』筑摩書房。2014年、12頁。
(18)同『遺言――対談と往復書簡』、14頁。
(19)同『遺言――対談と往復書簡』、15頁。
(20)同『遺言――対談と往復書簡』、17-18頁。
(21)同『遺言――対談と往復書簡』、23頁。
(22)同『遺言――対談と往復書簡』、26-27頁。
(23)同『遺言――対談と往復書簡』、31頁。
(24)同『遺言――対談と往復書簡』、32頁。
(25)同『遺言――対談と往復書簡』、33-34頁。
(26)前掲「『沖宮』を観劇して 死者を柱となさいませ」『道標』第63号、22頁。
(27)『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、藤原書店、2013年、155-156頁。
(28)石牟礼道子『陽のかなしみ』朝日新聞社、1986年、377-378頁。
(29)石牟礼道子編『水俣病闘争 わが死民』現代評論社、1972年、9頁。
(30)前掲『陽のかなしみ』、430頁。
(31)石牟礼道子「悶え神とイザイホウの神」『西日本新聞』1979年2月20日、11面。
(32)前掲『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、158頁。
(33)前掲『最後の人 詩人高群逸枝』、248-249頁。
(34)私は本文のなかで、あやと四郎の道行きを、道子と憲三のそれと同定して、語りを進めました。しかし、四郎を渡辺京二とみなす意見もありますので、ここでそれを紹介し、検討したいと思います。 私がそもそも石牟礼道子の「沖宮」に興味をもったのは、その能装束の製作に携わったのが、染織家の志村ふくみであったという点にありました。これまで私は陶工の富本憲吉を主な研究の対象にしていました。その一連の研究から、私は、志村ふくみがある文のなかで、自分は富本憲吉の弟子であると語っていたことを知っていました。また、憲吉の妻の一枝(旧姓尾竹)の妹が福美といい、志村ふくみの母の小野豊と尾竹福美は、大阪の夕陽丘女学校で同級でした。一枝を含むこの三人は仲のよい友だち同士で、志村ふくみの「ふくみ」の名が一枝の妹の尾竹福美の「福美」から取られていることも、よく知られていました。その後一枝は、青鞜の社員に加わる一方、日本画家としても活躍しました。そこで、この能衣装に憲吉なり一枝なりの面影を見出すことができるかできないか、それを確かめてみたかったのです。 そうしたなか、「新作能『沖宮』を語る~石牟礼道子と志村ふくみの世界~」というシンポジウムがあることを知り、さっそく申し込み、聴衆のひとりに加わりました。そのシンポジウムは、道子の死去から五箇月が立った、二〇一八(平成三〇)年七月一四日、熊本日日新聞社本館二階ホールで開催されました。それまで私は、石牟礼の文はひとつも読んでおらず、何とかその日までに、『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻に収められている「沖宮」と、志村ふくみと石牟礼道子の共著である『遺言――対談と往復書簡』に目を通すのが精一杯のあり様でした。広告のチラシによると、出演者は、司会として伊藤比呂美(詩人)、パネラーとして渡辺京二(思想史家)、跡上史郎(熊本大学准教授)、坂口恭平(作家)の計四氏でしたが、長いあいだ熊本を離れていたこともあって、どの方もはじめてお聞きするお名前でした。坂口恭平氏は、当日欠席でした。 開演すると、いきなり跡上氏から、「四郎は渡辺さんのことではないですか」という質問が飛び出しました。それを受けて渡辺氏は、「それを俺にいわせるのかい」と応じました。肯定でも否定でもありませんでしたが、それを聞いた、私を含む多くの人は、「おそらくそうなんだろう」という印象をもったにちがいありません。この日のシンポジウムは、「沖宮」の構造なり意味なりをそれぞれがそれぞれの専門的な立場から語り、それを踏まえて相互に論議するという、シンポジウムに求められる本来の形式から程遠いものでした。たとえば、渡辺氏が「俺は、能はウーウーうなるだけでようわからん」と言い出すと、隣りに座っていた伊藤氏が、「それをいってはおしまいですよ」といって、いさめる一幕もあったくらいです。結局、石牟礼道子の人柄や作品にまつわる思い出話に終始し、本題である「沖宮」についても、染織家としての志村ふくみの芸術的世界についても、論議を欠く結果となりました。ただ、シンポジウムの最後に、前列に待機していた志村ふくみの娘の志村洋子氏が紹介され、持参していた能装束に使用する染め糸が紹介されたときには、私もつい身を乗り出して見入りました。同じくシンポジウムの最後に、『評伝 石牟礼道子 渚に立つひと』(新潮社、2017年)の著者として、米本浩二氏が紹介されました。のちに私は、この本を図書館で借りて読んでみました。それから、その続編である『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』(新潮社、2020年)も。そこには、このような一節がありました。 生類との道行きがからだに染め込んでいる石牟礼道子が、『曽根崎心中』的な道行きをするとしたら、その相手は、魂の邂逅を果たした渡辺京二以外にありえない。…… 道子と京二の関係は、いろいろな言葉で言い表されてきた。一番ポピュラーな言い方が「作家と編集者」であろう。「思想・文学的同志」もなかなか座りがいい。しかし、「心中の道行き」以上にふたりの関係を適切に言い表す言葉があるだろうか(『魂の邂逅 石牟礼道子と渡辺京二』、199頁)。 この本を読んだ、おそらくそのほとんどの人が、「沖宮」は石牟礼道子と渡辺京二の「心中の道行き」であると受け止めたにちがいありません。ところが私は、本稿を書き進めるなかにあって、その論証の結果として、「沖宮」におけるあやと四郎の道行きを、道子と憲三のそれであるとみなして叙述しました。たぶんそうした解釈に立つのは、現時点では私ひとりではないかと思われます。そこで、この問題について、以下に私見を書き記します。すでに本文において、道子と憲三の関係につきましては詳述していますので、ここでは、石牟礼道子と渡辺京二の関係について触れてみたいと思います。 まず、道子本人は、渡辺京二をどう思っていたのでしょうか。 本文で述べていますように、石牟礼道子の『最後の人 詩人高群逸枝』(藤原書店、2012年)が上梓されるに当たり、道子へのインタヴィューがなされました。そのインタヴィューは、二〇一二(平成二四)年八月三日に道子の自宅において行なわれ、聞き手役を、藤原書店の藤原良雄が務めました。このとき道子は、八五歳でした。そしてその内容は、「〈インタビュー〉高群逸枝と石牟礼道子をつなぐもの」と題して、『最後の人 詩人高群逸枝』に所収されます。以下は、そのなかで道子が語っている、高群逸枝と橋本憲三です。 ――[「『最後の人』覚え書――橋本憲三先生の死」の執筆から]この三十年のあいだ、そして現在、高群さんをどういうふうに感じておられますか。 石牟礼 いよいよますます尊敬しています。あの時代に、よくまあ、こういう鋭い、純粋さで押し切っていくようなことができたものだと。そして、彼女の感じているこの世への感受性の熱いこと。純度も高いけれども、世間にたいする、人間にたいする思いの深さは、私のお手本で、大切にしたいと思っています。そして男女のあり方が、羨ましいですね。羨ましいけれども、羨望というのと違う。男と女は斯くあらねばならないと思っています。最敬礼です、お二人にたいしては。日本の古代にあったような、純粋な。 今はみんな、世間の垢にまみれずには生きていけない、どこかでまみれてしまいます。だけど、汚れない存在と生き方。存在の原郷をつくっている二人だと思う。これは何かの形で書いておかねばと、いつも意識していました。何を書くにも原郷というのがあります。こういうところにいたい、と夢見ています。言葉にすると、ちょっと気恥ずかしい。 ――憲三さんから逸枝さんのことをお聞きになって、憲三さんの姿もそばで見ておられて、そう思われたわけですね。 石牟礼 はい。憲三さんのような人、見たことないです。純粋で、清潔で、情熱的で、一瞬一瞬が鮮明でした。おっしゃることも、しぐさも。何かをうやむやにしてごまかすというところが感じられない。言いたいことははっきりおっしゃる。 ――「最後の人」というのはどういう思いで。 石牟礼 こういう男の人は出てこないだろうと。 ――憲三さんのことを。 石牟礼 はい。高群逸枝さんの夫が、「最後の人」でした。 インタヴィューの最後に、こうしてはっきりと、八五歳になる道子は、自分にとっての「最後の人」が橋本憲三であることを、世に告知するのでした。それに先立って道子は、藤原良雄の質問に対して、渡辺京二については、こう反応しています。 ――石牟礼さんからすると渡辺京二の存在はすごく大きいですね。 石牟礼 とてもすごく大きいです。 実に短くそっけない返事です。そこでいま一度、質問がなされます。 ――高群逸枝にたいする橋本憲三のように、石牟礼道子にたいする渡辺京二というすぐれた編集者がいて、今日の石牟礼道子があるという感じがしますね。二人三脚でね。渡辺さんが石牟礼さんを支えようという、これは橋本憲三と相通じるものがあるんじゃないかと思います。 石牟礼 そうですね。私はあんまり年月が頭の中にないものですから、何を尋ねられても、はてなと思って。そうすると渡辺さんはピタッと憶えておられる。どういう頭だろうかと思います。私はそういう方面は、まるで憶えていない。 おそらくこの発話も、藤原良雄が事前に期待していた思いを満たすものではなかったのではないかと推量されます。しかしこれが、紛れもない石牟礼が示した返答でした。明らかにこのやり取りから、道子の目からすれば渡辺京二は、「ありがたいよき編集者」以上でも以下でもないことがわかります。 それでは、渡辺京二は、石牟礼道子をどう見ていたのでしょうか。石牟礼亡きあと、渡辺は、道子に関する幾つかのエッセイを書いていますので、そこから抜き書きしてみます。まず、『現代思想』(5月臨時創刊号、第46巻第7号、2018年4月)に寄稿した「誤解を解く」の最後の一節からの引用です。 以上をかんがみるに、私は一編集者ないしヘルパーとして彼女と関わったにすぎぬのであって、彼女の遺した表現のすべては完全に彼女自身のものであり、私の助力など必要としなかったのである。私はただこの偉大な才能が発揮されるのに必要な環境作りにいささか役立ったかとは思うが、それは私生涯のしあわせであって、得るものは私の方がはるかに大きかった。渡辺がいなければ今日の彼女はなかった、などと言う人がいるとすれば、その人は真相を知らずに完全に間違っているのだ。彼女は私など存在しなくても、必ずやあれだけの仕事を残したに違いない。それだけのすさまじい創造力の持ち主だったのだ。このことは暮々誤解されてはならぬ。だからこの一文を草した。 次に、『藍生』(第333号、第29巻第6号、2018年6月)に寄稿した「カワイソウニ」の一節から引用します。 じゃ何でおまえは五十年間も原稿清書やら雑務処理やら、掃除片づけから食事の面倒までみたのかとお尋ねですか。好きでやっただけで、オレの勝手だよ。と答えればよいのですが、もちろん私は故人の仕事が単に大変な才能というにとどまらず、近代的な書くという行為を超える根源性を持つと信じたからこそ、いろいろお手伝いしました。 その手伝いなんて誰でもやる気があればやれること。特筆に値しません。 私はその間ちゃんと家族も養い、自分の本も書きました。故人に捧げし一生という訳ではなかったのです。 しかし、そういう大変な使命感を担った詩人だからこそ、お手伝いに意義を感じたのだと言えば、もうひとつ本当ではありません。 私は故人のうちに、この世に生まれてイヤだ、さびしいとグズり泣きしている女の子、あまりに強烈な自我に恵まれたゆえに、常にまわりと葛藤せざるをえない女の子を認め、カワイソウニとずっと思っておりました。カワイソウニと思えばこそ、庇ってあげたかったのでした。 この言説からすると、道子に対して「カワイソウニ」という感情が渡辺にあったことは事実のようです。しかしながら、それが特別な愛のかたちへと発展し、それを道子と生涯共有していたかというと、それを立証するにふさわしい資料(エヴィデンス)は残されていません。もし何か存在していたとすれば、それはあくまでも、単に渡辺から石牟礼への、一方的で内に秘められた憐憫の情感だったのではないかと思われます。したがいまして、「沖宮」において道子は、道行きの相手として渡辺を選んだのではないかと、踏み込んで推断するには、あまりにも証拠が不足していて、どうしてもその実証に困難性が伴うのです。他方、そもそも論になりますが、「沖宮」にあっては、あや以外はすべて霊界の人であり、渡辺はそれに該当しません。さらにまた、もし道行きの相手が渡辺であったとするならば、〈沖宮〉でふたりを迎える「大妣君」は誰なのか、具体的に想定できる人物が見当たらず、ここでも、自ずと物語としての「沖宮」の構造は崩れ落ちてしまうのです。そうしたことに思いを巡らしますと、本文での論証のとおり、あやが原作者の石牟礼道子、天草四郎が橋本憲三、そして大妣君が高群逸枝であると想定することの方が、より合理的で妥当性があるのではないかと思量されます。本文で私がそのような観点に立って記述しているのは、以上に述べてきた、一連の論拠によるものであることを、少し長くなりましたが、ここに陳述させていただきました。 いわずもがなの蛇足になるかもしれませんが、最後に一言――。 先に『現代思想』(5月臨時創刊号、第46巻第7号、2018年4月)に渡辺京二が寄稿した「誤解を解く」の最後の一節を引用しましたが、以下に、その文の最初の一節を引用します。 『現代思想』誌が石牟礼道子特集をなさるという。ありがたいことである。私も一文を求められたが、いまは彼女について書くような気もちにはとてもなれない。ところが、一応辞退したあとで、愕然とするようなことに出会った。ある方が『苦海浄土』は渡辺との共作だと信じると、悔み状に書いて来られたのである。 共作とまではいかなくとも、『苦海浄土』の成立には渡辺の深い関与があったかのような風説は以前からあり、その度に私は打ち消して来た。私もあと長くは生きていないのだから、この際、このような推測を完全に一掃しておかなければ、とんでもない悔いを残すことになる。 周知のとおり、道子の出発作が『苦海浄土』です。上の言辞を、最終作の「沖宮」に置き換えてみますと、およそ次のようになります。「『沖宮』の道行きの相手は渡辺ではないかとの風説があるが、この際、このような推測を完全に一掃しておかなければ、とんでもない悔いを残すことになる」。思うにこれが、「一編集者ないしヘルパー」としての渡辺の矜持であり美学ではなかったでしょうか。他方主人は、補助者の恭順に感謝はすれども、死へと向かう愛慕の道行きに決して従者を選ぶことなどありえないでしょう。かくあればこそ、道子を献身的に支えた渡辺の無償の行為は歴史に足跡を残すものと、私は信じるのです。渡辺京二が九二歳で世を去ったのは、道子の死からそろそろ五年が近づこうとする二〇二二(令和四)年の一二月のことでした。家族も仕事もあり、必ずしも道子に「捧げし一生という訳ではなかった」にしても、「カワイソウニと思えばこそ」庇護の志が芽生え、躊躇することなくそれを、誠実に全うした人生だったのではないかと推察いたします。 それでは、さらについでに、もう一言――。 この注の冒頭におきまして、私は、「新作能『沖宮』を語る~石牟礼道子と志村ふくみの世界~」というシンポジウムについて触れました。このシンポジウムでの発言内容をテープ起こしたもの思われる、渡辺京二の一文があります。「沖宮の謎」と題して『預言の悲しみ――石牟礼道子の宇宙Ⅱ』(弦書房、2018年)に所収されています。以下に引用するのは、その文の最後の箇所です。 もう少し正確にいうと、原城で死んだ人びと、その象徴としての四郎は、「沖宮」へ赴くあやの同行者、つまりあやを救済する案内者なんだね。お兄さんたちはもう美しい世界へ行ってるんだよ、そこへ連れて行ってあげようね、もともとあやはその世界の人だったんだものねというわけなの。「沖宮」は大妣君や竜神のいるところだけれど、そこにはもうちゃんと原城の死者二万数千人が先に行って待っているの。だから、あやを舟が送り出して、ありがたやありがたやとおがんでいる浜辺の村人は、原城の死者、つまり自分の仲間を弔っていることになるの。『沖宮』はそういう含意をもつ作品なんです。石牟礼さんは全文業をもって、この国の古きよき民と心中なさろうとした作家です。自分は今はもう亡きこの古い民たちと、妣神の待つ美しい世界へ道行きなさるつもりだった。だから『沖宮』という作品は、彼女の深いところにあるコンプレックスとか衝動とか、オブセッションとか、深いところにある思いが出ている作品なんですよ。自分なりにかなり強引にこじつけたところもありますが、そんなふうにちょっと読み解いてみたんですが、ほかにいろいろ読み解き方はあると思います。そういう意味で面白い、読みがいのある、解釈のしがいがある作品だと思います。 道子の文のすべてを読んでいたであろうと思われる渡辺は、あやとの道行きを果たす四郎のモデルが誰であるのか、おそらくは感知していたにちがいないというのが、私の推量するところですが、上の解釈からは、それは伝わってきません。この評論文の題名にありますように、たといみぢかで見守っていた「一編集者ないしヘルパー」であろうとも、渡辺にとって「沖宮の謎」は、解き明かすことのできない、永遠のものであったのかもしれません。しかし私は、道子にとっての最後の作品の裏に隠された「沖宮の謎」が解明できない限り、石牟礼道子というひとりの人間の生涯は正しく理解できないのではないかと確信しているのです。
(35)石牟礼道子『潮の日録 石牟礼道子初期散文』葦書房、1974年、71頁。
(36)『石牟礼道子全集・不知火』第四巻/椿の海の記ほか、藤原書店、2004年、523頁。
(37)同『石牟礼道子全集・不知火』第四巻/椿の海の記ほか、524頁。
(38)前掲『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、158-159頁。
(39)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、299-300頁。
(40)同『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、410頁。
(41)渡辺京二「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、編集責任・田尻久子、発行・アルテリ編集室、2018年、16-17頁。
(42)同「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、17-18頁。
(43)同「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、19頁。
(44)同「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、同頁。
(45)同「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、20頁。
(46)同「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、22頁。
(47)同「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、24頁。
(48)石牟礼道生「母のことそして父のこと」『魂うつれ』第73号、2018年5月、36頁。
(49)前掲「石牟礼道子闘病記」『アルテリ』六月号、33頁。
(50)前掲「母のことそして父のこと」『魂うつれ』第73号、36頁。
(51)石牟礼道生「多くの皆様に助太刀されて母は生きて参りました」『道標』第61号、発行所・人間学研究会、2018年6月、7頁。
(52)同「多くの皆様に助太刀されて母は生きて参りました」『道標』第61号、8頁。
(53)前掲「母のことそして父のこと」『魂うつれ』第73号、36頁。
(54)前掲「『沖宮』を観劇して 死者を柱となさいませ」『道標』第63号、22頁。
(55)前掲『潮の日録 石牟礼道子初期散文』、255頁。
(56)石牟礼道子「高群逸枝さんを追慕する」『熊本日日新聞』1964年7月3日、6面。