中山修一著作集

著作集14 外輪山春雷秋月

火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛

第一四章 橋本憲三の死と遺された橋本静子と石牟礼道子

一.橋本憲三の臨終に寄り添う橋本静子と石牟礼道子

橋本憲三の主治医は、近所で内科医院を営む女医の佐藤千里でした。佐藤の母の坂崎カオルは、幼き日、高群逸枝と机を並べた仲でした。佐藤は、熊本市内に住む八〇歳になる母親に聞いた話として、次のようなことを書き留めています。

 逸枝さんと私は、久具尋常小學校で机を並べた仲ですたい。正確には私が逸枝さんより一年下級生でしたが、その頃の久具尋常小學校は寄田校とよばれ、一年と二年が一教室、三年と四年が一教室という小さな學校でしたけん。やっぱり机を並べとったわけですなぁ。……
 この小學校の校長が、高群勝太郎氏で、逸枝さんのお父さんに当たる小柄な人でした。……
 それから別れ別れに何年か経ちまして。そして、その頃秀才の男女が進学するといわれた師範學校に逸枝さんも私も入學しました。
……そして一昨年機会があった水俣にある逸枝さんの墓参りをする事ができました。小高い山の山腹にある逸枝さんの墓は、夫君の書斎の窓から朝夕眺められ、ほんとうに逸枝さんらしいよい墓でした。……逸枝さんも生きとられたらもう数え八十一歳にならるっとです

今度は佐藤自身も、逸枝の墓参りをしました。一九七五(昭和五〇)年一〇月刊行の『高群逸枝雑誌』第二九号に、そのときの様子が記されています。墓前に立つ佐藤は、改めて逸枝と憲三の二人の出会いについて考えこんでしまったのでした。

 男と女がひかれ合うということ、これは究極的には最も単純で原始的ともいえる反応ではなかろうかと思うのですが……高群逸枝の観音様のように可愛いい口許や鼻に見とれていますと、あれだけの研究を科學的に積み上げていった天才のもう一つの面、つまり相手に何も要求しないのにしかも身の心もぴったりと夫憲三に寄り添ってしか生きられなかった一人の女性の匂やかさが伝わってくるのでした。……
 森の小動物に還った逸枝は今後も夫憲三の着物の懐で小さな寝息をたてているのではないでしょうか

逸枝が放つ香気に包まれながら、一方で佐藤は、再び二匹の森の小動物となって生きられる日が、そう遠くない時期に訪れるかもしれないことを報告したかもしれません。佐藤が、憲三の死期が迫っていることを最初に告げたのは、憲三の実の妹の橋本静子ではなく、石牟礼道子でした。すでに第一二章「夫による『高群逸枝全集』の編集と石牟礼道子の高群継承の決意」において詳述していますように、佐藤は、この間の付き合いのなかにあって、道子が憲三の実質的ないわゆる「後妻」であることをよく知っていたからにほかなりません。道子は、このように書いています。

 最後の逸枝雑誌、三十一号の編集が終ってしばらくした頃、主治医の佐藤千里氏から、私は、もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた。つらいことだったが実妹の静子さんにその状態を理解してもらわねばならなかった。静子さんは東欧旅行を計画されていたが、それを中止された

編集作業が終わると、『高群逸枝雑誌』の第三一号が、予定どおり、一九七六(昭和五一)年四月一日に発刊されました。憲三にとってのおそらく最後になるであろう文が、この号の「編集室メモ」に残されました。以下はその文の一部です。

・私は大晦日に寝込んでしまい、一年の最後の食卓にもつけず、元日にも、10日の誕生日(79歳)にも起き上がれず、そのまま今日にいたっている。……雑誌31はこうしたなかで、かろうじて編集のみはできた。発送のことは運を天にまかせるしかない。
・主治医は佐藤千里先生。いつか‶愛鶏日記″に取材した小説を書いて下さると。お医者さまには恵まれている

佐藤から「もうあまりお互いの持ち時間がないことを具体的に知らされていた」道子でした。憲三の方は、遺言書という公的形式により、通夜や告別式のあり方について、そして自身の遺産の処分の仕方について、さらには逸枝の著作権の継承の方策について、実妹である静子に伝える一方で、同じくその具体的内容について、自分たちの後半生を約していた道子にも口頭で明かし、自分の意思を遺そうとしました。このころ憲三は、道子にこう告げています。

 遺言を静子にしたのですよ、元気なうちにしておいた方がよいのでね。もしや重態になっても誰にも知らせてはならない。旧友たちにも、身内にも。ましてジャーナリズムなどには。葬式などはいっさいしないこと、あなたも香典などもって来てはいけません。これは守って下さい。遺物などどこかに寄贈することも考えられるが、押しつけになるから一切を土に返すこと。それらいっさいを静子に託しました。あれは実行力がありますからね。……

最後の「……」に、道子に対する重要な遺志内容が、隠されている可能性がありますが、もはやそれは、想像するしかありません。憲三の体に痛みが走ります。「神経痛に似た痛みが襲ってくるのです。こいつがねえ、ゲリラみたいな奴で、どこを襲ってくるやら予想がつかないんです。もう追撃できないんですよ自分では。佐藤さんは本当に助かる。痛みについて、あの人は探求心があるから」。その佐藤は、「一日に二度くらい招ばれるようになっていた。彼女は逸枝雑誌の会員であり、往診ついでに雑誌の発送を手伝ってくださったりする。痛み止めが使用されているらしかった」

「もしや重態になっても誰にも知らせてはならない」というのが憲三の意向でした。しかし道子は、悩みながらも、「静子さんには内密で、朝日評伝選に高群逸枝を執筆予定の、鹿野政直、堀場道子夫妻に緊急事態がせまっていることを連絡した」のでした。道子は、こう記します。「五月十八日、昨夜鹿野夫人二十時二十三分『有明』でおみえ。間にあってよかった。今朝の御面会よい結果であればよいがと思い、時間をずらしてゆく。十一時お見舞い。……五月二二日……朝十時半ごろ、鹿野政直先生もおみえ、間に合われた。ご夫婦で橋本邸へ。おともする。静子さん枕元にいらして先生おめざめ。ちょうど痛みが去っていて、ご夫妻にごあいさつがおできになる」

そのとき憲三は、ベッドのなかから、こう語りかけました。それは、妻逸枝への最後のメッセージとなるものでした。

「放蕩無類のぼくを(そこでちょっと苦笑して)いや、放蕩はしませんでしたが、よくここまでにして下さいました」
 かたわらから静子さんが、「それはあの、鹿野先生におっしゃったのですか」とたしかめられた。
「いいえ、彼女にいったのです」10

こうした会話もありました。その部分を、鹿野と堀場は、のちに「朝日評伝選一五」として上梓した『高群逸枝』の「あとがき」のなかで、公開しています。

 橋本憲三氏の死にようは、はればれとして、うつくしかった。亡くなる前日の午ごすこし前、私達は氏と長い握手をしてお別れした。死に臨んだ人とはとても思えない、力強い握力が心に残った。その時、こんなやりとりがあった。
「なにもかもおみせしました。『路地裏日記』も、『共用日記』もおみせした。三分の二がたは、ぶちまけた」。
「まあ!まだ三分の一も、とっていらっしゃるんですの?」
 一座の笑い声がひびく中で、氏はいわれた。
「人には誰しも、他人にみせられない恥部があります。……必死の防衛だ」11

他方、そのころ、憲三は道子に対して、こう語りかけています。

 秋晴れのよい日でしたね。あなたの古典的なあのお家にお伺いしたのは。かつてないことでしたが。ちょうど一〇年です。あれから。彼女が出発した頃にうりふたつでしたよ、本棚もなんにもない、しかし、本が二、三冊あって。うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……12

明らかにこのときの憲三の脳裏には、一〇年前の一九六六(昭和四一)年の美しい秋晴れの日の出来事が映し出されています。第一二章「夫による『高群逸枝全集』の編集と石牟礼道子の高群継承の決意」において言及していますように、これが、静子を同伴させての二度目の石牟礼邸訪問でした。この日憲三は、東京の「森の家」をこれから解体するので、その様子を見ておいてほしい旨のことを申し出たのでした。しかしこれは、居場所を失っていた道子を救い出すための方便でもありました。九月、それぞれにふたりは水俣を出て、「森の家」へと向かいます。

二度にわたる憲三と道子の「森の家」での共同生活は、静子の深い配慮のもとに実現しました。まさしく静子は、洞察力にあふれる縁結びの神女の役を担っているのです。逸枝没後の憲三、道子、静子の三人が共有する秘め事は、おそらくは女医の佐藤を除けば、誰も知ることはなかったものと思われます。臨終に際して憲三は、「うっかりすると世間にいれられない孤独な姿で……」といった言葉で道子を形容していますが、続く「……」に相当する部分の文言を知るのは、道子しかいません。このときふたりは、この間の自分たちにとっての愛と孤独の実相について、問わず語らず、まさしく恥じらいながら、手を重ねるかのようにして、触れて確かめあったにちがいありません。

それでは憲三が鹿野政直と堀場清子に最後に語った「人には誰しも、他人にみせられない恥部があります」の意味は、一体何だったのでしょうか。想像するにそれは、恥ずかしくて人には簡単に話せない、あるいは、話しても容易に理解してもらえそうにない、自分と道子とのあいだに生成した、傷を負った生身の人間の深淵なる再生にかかわる、あまりにも美しいがゆえに秘すべき男女の物語だったのではないかと思料します。他方、憲三が使った「必死の防衛」という言葉は、誰からの詮索も受けず、いわれなき罵声も耳に入れることもなく、ひたすら、悲しくも人が秘めるにふさわしい美しいままの物語の姿で、次の世で待つ逸枝のところへもってゆきたいという願いが表出された響きであるかのように、私には伝わってきます。この推論が正しければ、憲三がそれまでに鹿野と堀場に語っていた三分の二の部分とは、おそらくそのとおり、逸枝についての話であり、残る三分の一は、言わずもがな、道子との人間愛が生み出した内密物語の部分であったということになるのではないでしょうか。鹿野夫妻と憲三との会話を横で聞いていた静子と道子のふたりは、そのことを十分に理解していたものと推量されます。

こうして、最期の兄の姿に接しながら、静子は道子に、かくのごとくに心情を吐露します。

 涙も出ないんですよ。この心の底の方にある悲しみは、病気ではないでしょうか。正常なんでしょうか、涙も出ないんですよ。なんという人でしょうねえ、この兄は。こんなにうつくしくなっている人は13

鹿野と堀場が、部屋を出て、帰路につくと、いよいよその時が迫りました。

「寒椿が」
「はい……」
 それは最後のおことばだった。静子さん上がっていらっしゃる。
 佐藤先生がおみえ。朝日出版局(評伝選の係)の宇佐美さんご到着、五時頃。白菊を持って濡れておいでになる。それで雨が降っているんだなと思う。もう、お話がおできにならない。
 七時頃うすぐらくなり、先生の呼吸、ハーッ、ハーッと深く長くなる。
 静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。……
 佐藤さん、午後からほとんどつきっきり、いよいよフェルバビタール打たねばならぬようになったようですとおっしゃる。お悩みのご様子。
 先生のお姉さんの藤野さんが、若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、
 「憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ」
 とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、
 「おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな」
 静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜14

道子の述懐は、続きます。

 五月二十三日、先生こん睡さめやらず。深い呼吸続く。十二時頃ちょっと帰宅、ある予感持ちながら。追っかけるように佐藤さんから電話で、五十分でした。ダメでしたと15

こうして女三人による懸命なる手厚い看取りのもと、憲三は帰らぬ人となりました。次は、佐藤の回想です。「やっと逸枝のもとに旅立った憲三の両手を組み合わせてやりながら、手の甲に私が無残につけた注射のあとが目にとまったとき、それまで張りつめていた肩の力が、一時にどっと抜けていくのをどうしようもなかった」16。憲三、享年七九歳。遺された静子は、六四歳、道子は、四九歳でした。その後のみんなの行動について、後年静子が、次のように語っています。

兄憲三の末期は、妹の私が看取りましたが、私は遺族を代表して服装をととのえて、五社の新聞社のインタビューを受けました。インタビューには、最後を看取ってくださいました佐藤千里様(主治医、「詩と真実」同人)、逸枝のことを調べてくださっていた石牟礼道子様、朝日新聞東京本社宇佐美承様のお介添えをいただきました。
……兄の遺言書の第一條に「葬式ごとは一切しないこと」とあり、前記の御三方と親族が集まりまして、おくりのまつりごとをしました。兄の居室に柩を据え、兄夫婦の写真と献花を飾り、以前に「西日本新聞」でとられている兄夫婦のテープの声を聞きました。……ビールを開けての会食となりました17

一九七六(昭和五一)年五月二四日、『熊本日日新聞』の一五面は、以下のとおり、憲三の死を一報しました。

 橋本憲三氏(高群逸枝雑誌編集責任者)二十三日午後零時五十分高血圧性心不全のため水俣市幸町六-一の自宅で死去。七十九歳。球磨郡球磨村一勝地出身。
 大正八年、「女性史学」の高群逸枝と結婚。彼女の死後(昭和三十九年)に高群逸枝全集(全十巻)を編さんし、昭和四十三年から「高群逸枝雑誌」(季刊)を発行し続けてきた。同雑誌は31号(四月一日発行)で廃刊される。
 葬儀、告別式は本人の遺言で行われない。

続く『熊日』の第二報は、「『高群逸枝雑誌』が終刊 31号 夫・橋本憲三さん死去で」の見出しで、五月二五日四面に現われました。

 同誌は橋本さんが高群女史の死後、四十三年十月から発行している小冊子。……高群女史に一生をささげた橋本さんにとって、雑誌の編集は死後の妻に対する思慕でもあった。そのため発行形式も「有料広告不載、カンパ辞退、不足分は高群著作印税で補う」という純粋さだった。
 わずか三十ページ前後の小冊子だが高群逸枝伝「最後の人」(石牟礼道子)のほか柳田国男と高群女史の比較研究などが掲載され高群研究者にとっては欠かせない雑誌となっていた。発行部数は当初五百部、その後一千部に増やされた。限定版のため、東京などでは同誌の‶海賊版″も出ていた。……
 橋本さんの実妹、橋本静子さん(六四)は「兄の死で終刊になるのはやむを得ません。雑誌は夫婦の愛から生まれたもので、兄の死で終わるのが自然だと思います」と話している。また作家石牟礼道子さんも「ほかの人がやっても意味がありません。終刊するのが遺志に沿ったものだと思います」と言っている。

さらなる続報として、「故高群逸枝さん夫妻の遺稿 水俣市立図書館『淇水文庫』に寄贈」という記事が六月一日の四面を飾ります。

 贈られたのは高群さんのデビュー作「日月の上に」(大正九年、新小説発表)の元原稿をはじめ「女性の歴史」(一-四巻)、『招婿婚の研究』(一-六巻)などの原稿。それに「たっぷりとあまいいのちに身をやつし花と一枝 酒を一壺なり」という高群さんの直筆の書三点やアルバム五冊の計二十六点。……
 橋本さんがさる五月二十 ママ 日死亡して以来、遺族は残された遺品の処置を検討していた。橋本さん自身の遺言もあって大部分の蔵書は高群さんを研究している早大文学部の鹿野直政教授などの研究者に渡される。

一九六四(昭和三九)年六月七日に亡くなった高群逸枝の一三回忌を前にして、六月五日の『熊日』は、「‶高群時代″にひとつの帰結 逸枝・憲三夫妻を追悼、足跡をたどる」(一〇面)と題して特集を組みました。そのなかに、佐藤千里が寄稿した「激痛のなかでの雄々しく闘病 橋本憲三氏の最期」を見ることができます。

 「……貧しさや世間の悪意の前にはくじけずがんばったつもりですが人生の終わりになって肉体の痛みという思わぬ伏兵に襲われてしまって……。僕にもどうか人間の威厳というものを保たせて下さい」
 こう語りかける憲三氏の優しいながらも射るような視線の前で、あの時の私はまったく無能でぶざまな姿をさらしていたように思われるのです。……
 「あなたは僕たち夫婦のことを森の小動物の一目惚(ぼ)れとからかったが、まったく今になってみると、僕は単に運がよかっただけかもしれない」
 この憎らしいほど幸福な男の科白(せりふ)が、結局、憲三氏と私の最後のやりとりになってしまいました。

かくして、「貧しさや世間の悪意の前にはくじけず」、「威厳」を保ちながら、「森の小動物」の残されていた一匹も、先の一体のもとへと隠れたのでした。

亡くなる二日前、憲三は、道子に、こういいました。

コップがふたつありましてね、ひとつの方には生命がはいっているんですけれどね。もうひとつの方に真理をいれようとするんですけど、そいつがね(微笑して)なかなか、うまくはいらないんですよ18

ひとつのコップに「生命がはいっている」とは、自分の死を受け入れたことを意味し、もうひとつのコップに真理が「うまくはいらない」とは、「世間の悪意の前には」どうしても自分の真実が伝わらない、その苦しみを言い表わしているのかもしれません。

二.追悼文と追悼出版物の数々、そして石牟礼道子の追憶慕情

憲三が死去すると、新聞や雑誌に、その死を悼む文が多数寄せられました。ここでは、鹿野政直と石牟礼道子の事例を紹介します。

鹿野の追悼文は「女性史学を支えた人 橋本憲三氏の生涯」と題するもので、六月七日の『朝日新聞』夕刊五面に掲載されました。そのなかで鹿野は、憲三をこのように評しました。

 わたくしは橋本氏に会って、氏がじつに編集者的な感覚に富んでいるのを発見したが、有能であったにちがいないその仕事をすてて、妻の仕事のささえ手にまわった。家事を一切ひきうけたばかりでなく、資料さがしにでかけ、生活設計をし、研究の方向に助言をあたえ、妻のかいたものの最初の読者となり批判者となった。さらに、おしよせる世間のまえに、一人でたちはだかった。彼女の作品には、今日ふつうに思われているよりはるかにふかく、その夫がかかわりあっている。橋本氏の編集者的な才能はその妻に向かって集中し、彼女のプロデューサーになった、というのがわたくしの観測である。

そして末尾を、以下の文で締めくくるのでした。

 こういう生涯があったということに、やはりわたくしは、大正期のデモクラシーの機運の一端をみとめずにはいられない。そうして氏は、日本女性史に少なからず貢献をなしとげたのだった。と同時に、もし日本男性史 ・・・ というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として(否定のかたちは、必ずしもそれが唯一ではないにせよ)、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうかと、わたくしは、氏をいたむ念とともに夢想する。

この文が『朝日新聞』に載ったのは、奇しくも逸枝の一三回忌に当たる、その日のことでした。二週間前に逸枝のもとに逝った憲三、そして逸枝は、これをどう読んだでしょうか、「氏をいたむ念とともに夢想する」ほかありません。

石牟礼の追悼文は、この年の『婦人公論』一〇月号に現われました。「橋本憲三先生の死」と題されたこの文は、表題のとおり、憲三の臨終の様子を再現する描写によって成り立っています。

じっさいこの先生を見ていれば、ご臨終までの経過には上代的ロマンとでもいうべきものが漂っていた。実妹の静子さんは、
「たのしかったですね、兄の死につきあったことは」
 と美しいまなざしをされる。わたしときたら、ご生前から『最後の人』と題をつけてノートを書きはじめ、見てもらっていた。死に近づいてゆく先生の心理描写がそこにはいっていて、読んでもらったあと、「どんなご感想をお持ちですか」とおききすると、先生は父性的なお顔になられて、
「たいへんにおもしろいなあ」とおっしゃるのであった19

この間道子は、「最後の人」を『高群逸枝雑誌』に、「椿の海の記」を『文芸展望』に、並行して連載していました。憲三が亡くなったことにより、『高群逸枝雑誌』は第三一号をもって終刊となりました。『高群逸枝雑誌』第三一号と「椿の海の記」の最終回が掲載された『文芸展望』第一三号とは、ちょうど同じ、一九七六(昭和五一)年四月一日に発行されます。それは、憲三が死去するおよそ一箇月前のことでした。そのようなわけで憲三は、『高群逸枝雑誌』の第三一号に掲載された「最後の人 第十八回 第四章 川霧1」も、『文芸展望』第一三号に掲載された「椿の海の記(最終回)」も、襲ってくる激痛のなかにあって、何とかともに、目を通すことができたものと思われます。

しかし道子は、「最後の人」をすぐにも単行本にして、世に送り出すことはありませんでした。最後まで大事な「最後の人」を秘して自身の胸にしまい込もうとしたのかもしれません。つまり、一八回にわたり連載されたこの文は、思うに、道子から「最後の人」への恋文だったのです。

他方、連載が終了し、書き直しが進むと、「椿の海の記」は、朝日新聞社によって書籍化されます。このときこの本は、次のようなコピーでもって紹介されました。「時は流れ、自然はくるい、人は死んだ。『苦海浄土・水俣』の、椿咲く海辺にその昔どんな世界があったのか……〈不知火の語り部〉と呼ばれる女流がはじめてそのラディカリズムの原点を幽玄の文体で詩情豊かにつづる自伝の詩」20。述べていますように、臨終の際に憲三は、道子に「寒椿が」といい、それに対して道子は、「はい……」と答えました。これが最後の言葉となりました。しかしながら、実際に出版されたのは、この年(一九七六年)の一一月のことで、残念ながら、憲三の存命中には、間に合いませんでした。道子は、『椿の海の記』の「あとがき」で、こう綴ります。

 さらに脱稿間近には、高群逸枝さんの夫君橋本憲三先生のご死去をお見送りせねばなりませんでした。出発作の「苦海浄土」のある部分は、この御夫婦の「森の家」で書かせていただいたものでした。御臨終前の幾週間、毎日、「椿の海」は、どれくらい進みましたか、見せて下さい」と朱書だらけのものを仰臥されたままご覧になり、微笑されていました。いま少し生きていて下さったらよかったのにと思います。いろいろな方々に助けられて生きている不思議を思います21

この「あとがき」には、この文の前に、こうした一行が、唐突にも挿入されています。

 連載中、瀬戸内晴美氏の出家のことがあり、私の生涯にとって、意味の深い出来事となりました22

読者は、これをどう読んだでしょうか。字義どおりに読み、おそらくそれ以外の読みには、つながらなかったものと思われます。しかし、一九七三(昭和四八)年四月の『文芸展望』の創刊号に道子の「椿の海の記」が掲載されると、次の第二号から瀬戸内晴美の「日月ふたり――高群逸枝・橋本憲三――」の連載がはじまるも、わずか五回の連載で終了します。その間、瀬戸内は出家し仏門へ入り、他方で憲三は、「日月ふたり」の記載内容に苦しみます。いまや、その憲三は黄泉の客となり、連載を終えた「椿の海の記」が、こうして三年の歳月を経て世に出ようとしているのです。そうした背景に思いを巡らせながら、いま一度この一行に目を向けるならば、どうでしょう、道子の複雑な心情が浮かび上がってきます。瀬戸内の出家の情報は、道子にとって、自身の「森の家」への駆け込みと重なり、生き直しの苦しみへのただならぬ共感として、重くその胸にのしかかってきたものと推量されます。しかしその一方でこのとき、「日月ふたり」の文が、自らが尊師として仰ぐ憲三をいかに悲しませたかをまぢかで見ていた道子は、自分の書く文は決してそうであってはならぬという強い思いを胸に深く刻んだものと思量します。生涯、道子は、自分のことや歴史上の人物を主題として書くも、決して存命中の実在人物をモデルにして書くことはありませんでした。しかも、自分が他者を語るのではなく、他者に語らせるところに道子の文の特徴はありました。最晩年に道子は、自伝『葭の渚』を書きますが、それさえも、「森の家」の生活を終えて水俣に帰ってきたところで途切れます。なぜでしょうか。もちろん、執筆を続けるうえでの体力や気力の問題もあったでしょうが、それだけではなく、それ以降のことを書こうとすれば、どうしても生きた他者のことに触れざるを得ず、その過程で、思いもよらぬかたちをとって傷つけ苦しませる事態へと避けがたく発展しかねないことを身に染みて知っていたからではないでしょうか。つまりまとめれば、家を出ることにかかわっては瀬戸内の行為を共有しつつも、書く文については瀬戸内を「反面教師」とすることを内に秘め、道子は、「連載中、瀬戸内晴美氏の出家のことがあり、私の生涯にとって、意味の深い出来事となりました」の一行を、前後の脈略を断って、あえてここに突如吐露したのではないか、これが、私の愚考するところです。

この「あとがき」の最後の語句が、さらに意味深長です。「ことばにうつし替えられないものは心にたまるばかり、わが胸に湧いて動かぬ黒い湖の底から、この一冊を送り出してしまうことになりました」23。これをどう読めばよいのでしょうか。本文にある自身の生まれ育ちにかかわる黒い内容そのものについて語っているのかもしれません。その場合、この語句は、まだまだ書き足りないといった意味になるでしょう。しかし他方で、瀬戸内に対する背後に隠された自身の黒い思いを念頭に、語っているようにも読めます。それというのも、生前憲三が無念の思いで書いた、瀬戸内宛ての手紙を、道子は、発表する機会をいまかと待ちながら、このとき手もとに保持していたからです。これが公開されるのは、もう少し先になります。

年が改まり一九七七(昭和五二)年を迎えました。一月、新評論から河野信子の『火の国の女 高群逸枝』が、続く四月、大和書房から村上信彦の『高群逸枝と柳田国男――婚制の問題を中心に――』が、公刊されました。ふたりはともに、『高群逸枝雑誌』の常連執筆者で、両書とも、この雑誌への寄稿論文をもとにして、おおかた成り立っています。『高群逸枝雑誌』における河野の連載は、最初が「現代の喪失 『女性の歴史』覚書」、続いて「始原の時 『恋愛論』『恋愛創生』覚書」、最後が「女性史の方法覚書」といった連続する三つの主題に分けて、構成されていました。一方の村上は、前半の「高群逸枝と柳田国男」と後半の「私のなかの高群逸枝」というふたつの主題のもとに連載していました。

さらに七月になると、今度は、鹿野政直と堀場清子の共著になる『高群逸枝』が朝日新聞社から上梓されます。これは、「朝日評伝」シリーズのなかの一冊を占めるもので、逸枝に関する最初の評伝となりました。内容的には、「一.出発哲学」と「二.女性史学に立つ」の二部構成をとり、第一部を堀場が、第二部を鹿野が担当しました。「一九七七年六月七日 逸枝の命日に」この本の「あとがき」は書かれています。以下の引用は、そこからの一部抜粋です。

 この仕事の完成は、それを誰よりも楽しんで待っていて下さった橋本氏の終焉に、間にあわなかった。一周忌の御命日に、二日がかりのツメの仕事を終えたのは、何かの因縁でもあろうか。それにしても、氏から恵まれた信頼と御好意に、はたして私達は応ええたか。できあがってくる本の最初の一冊を、氏の墓前に捧げる瞬間を思う時、心のうちに、たじろぐ24

おそらく「最初の一冊を、氏の墓前に捧げる瞬間」があったものと思われます。逸枝や憲三に代わって、静子も道子も、深い謝意を表明したにちがいありません。しかしこのとき、静子は、憲三から受け取った遺言書に沿って書籍の整理をはじめていたものと推察されます。熊本県立図書館に所蔵されているこの『高群逸枝』には、寄贈印が押され、そこには、「寄贈 昭和五二年八月一九日 水俣市幸町六-四一 橋本静子殿」とあり、欄外に「憲三氏実妹」と記されています。出版されて、早くも一箇月後に寄贈されたことを意味します。蔵書印には「53.3.10」の算用数字が印字されています。この間館内の審議を経て、この日正式に蔵書されたものと思われます。一方、熊本市立図書館の逸枝関係の蔵書を調べてみますと、『東京は熱病にかゝつてゐる』(一九二五年、萬生閣)の蔵書印が「53.1.14」となっていることがわかりました。寄贈印はありませんが、蔵書印の日付がほぼ同じですので、『高群逸枝』が寄贈されたほぼ同じ日に、おそらく静子の手によって寄贈されたのではないかと考えられます。熊本市立図書館には、ほかに『黒い女』(一九三〇年、解放社)が所蔵されています。この本は、逸枝から静子に宛てた献呈本です。表紙裏の見返しに、次のような献呈の辞が自筆されています。

風がわりな小説です。散文詩的または寓話的小説とでもいえば、わかりがよいかもしれません。心理的には自叙伝ともいえましょう。私の愛の哲学が語られていると思います。ほんの芽生えにすぎませんが。

日付は、亡くなる二年前の「一九六二年五月」で、文中の「わかりがよい」という語句は、「わかりが早い」と読めなくもありません。

以上のことを勘案しますと、おそらく一九七七(昭和五二)年の八月一九日に静子は水俣から熊本市内に行き、県立図書館に、鹿野直政と堀場清子の共著の『高群逸枝』を、市立図書館に、逸枝の『東京は熱病にかゝつてゐる』と『黒い女』を寄贈したものと思われます。ただ、両図書館とも、このときの寄贈リストが残されていませんので、この日ほかにどのような本が寄贈されたのか、あるいは、実際に図書館を訪れ手続きをとったのが、正確に静子本人だったのか、道子か誰かが代行したのか、そこまでは、現在のところ特定することはできません。

すでに上で示しましたように、憲三が亡くなると道子は、『婦人公論』(一九七六年一〇月)に「橋本憲三先生の死」を書いて追悼し、一方、上梓した『椿の海の記』(一九七六年一一月)の「あとがき」のなかで、心からの謝意を表わしました。しかし、ただそれだけに止まらず、憲三に寄せる道子の追慕の情は、さらにその後も続くのでした。

一九七七(昭和五二)年一月に刊行された季刊雑誌『暗河』第一四号は、「小特集・高群逸枝」を組みました。そのなかに、道子の「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」が現われます。これは、『高群逸枝雑誌』の廃刊で余儀なく中断に追い込まれた「最後の人」の続編、ないしは補遺といった性格のもので、副題のとおり、「橋本憲三氏の死」に臨み、胸に去来する数々の思いが綴られていました。なかでも、憲三が道子に語った言葉として興味を引くのは、次の一節です。といいますのも、逸枝と自身の関係を、ある視点から見事に告白しているからです。

 彼女にしてみれば、知的レベルにおいて、資質そのものにおいて、あらゆる意味において、僕はよほど幼稚にうつって見えるでしょうからね。ただ僕の云うことすることが、どんなことがあっても彼女を裏切ることがない。いうなれば僕への信用ひとつで、彼女はうごいたようなものです。
 それをあえてしたのは、それがどうしても必要だったからです。必要だったからです。そうするとやはり、そこに一個の生き物が出来た形になって、彼女はその生きものを自分流に、なんと云ったって自分流に仕上げてゆくんです25

明らかに憲三は、「森の家」での逸枝と自分の関係が、「一個の生き物が出来た形になって」いることを自覚しています。想像するにこれは、二匹の蛇が互いに相手の尾を口にくわえた円形状の双頭の蛇(ウロボロス)のような状態に自分たちがあったことを告白するものではないかと思われます。その話を聞いたとき道子は、その後、逸枝の死によってできた抜け殻に、脱皮した自身が入り込み、三つの巴となって、三者の生命が蘇生し復活していったこの間の過程を、改めて認識したにちがいありません。一方、憲三について道子は、こうも描写します。

……その夫憲三もまた、馴れない人であったように思われる。この異質性については、同じ男性の側の理解者を待ってはじめて解明されるだろうけれど、橋本憲三の生き方は近代進歩主義が生み出したきわめて先駆的で特異な一ケースであったと思われる26

このように書いた道子には、すでに紹介しています、鹿野政直が憲三を追悼するために『朝日新聞』に寄稿した文のなかにある次の一節が、念頭にあったのかもしれません。「もし日本男性史 ・・・ というものが書かれるとしたら、橋本氏は、既成の男性像を身をもって否定した人間として……、いわば「新しい女」にたいする「新しい男」として、位置づけられるのが至当ではなかろうか」。

続く道子の「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」が掲載されたのは、同年(一九七七年)の六月に発刊された『暗河』の第一五号においてでした。そのなかで道子は、憲三をこう讃えます。

 一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄はせっしたものの心を打たずにはいなかった27

この号が世に出るとき、すでに道子の身は、山梨県塩山市の病院にありました。渡辺京二は、このように書いています。憲三の一周忌を迎える一九七七(昭和五二)年の五月のことです。

 この頃、道子は体調不良に悩んでいたが、五月上京し、山の上ホテルで雑誌「潮」のための原稿を執筆中ついに病臥、二十六日に山梨県塩山市の中村病院へ入院した28

他方、道子は、こう書いています。

 なぜ山梨に出かけたかと言えば、いよいよ癒し難くなって来た心の病いを哀れんで、橋川文三先生が大菩薩峠の近くの病院に入るようすすめて下さったのである。精神科の病院かと思い込んで往ったところ、産婦人科の先生だったので驚いたが、じつはこの中村克郎先生こそが、『きけわだつみの声』の編集者であった。とどこおっている書き物を仕上げるよう、先生自ら机を抱えて来て辞書を引いて下さったり、奥さまも看護婦さんたちもお仕事の進み具合は如何ですかとおっしゃる。合間にかの地の名刹を片端から案内して下さり、その間雨乞いの観音さまに出逢うことになった。この世には深い導きの糸というものがあると思うことである29

道子は、運命の糸に導かれて雨乞いの観音様に出会います。そして、それをきっかけに、道子の関心は、沖縄の久高島に残るイザイホーの秘儀へ向かいます。

 沖縄・久高島のイザイホウをなんとか垣間見たいと思い始めた直接のきっかけは、山梨県塩山市の放光寺にある雨乞いの観音さまに出逢い、その無残な姿に激しくとらわれてしまったからだった30

道子がイザイホーの祭儀を見学するのは、翌年(一九七八年)の暮れのことでした。

ところで道子は、入院に至る症状を「いよいよ癒し難くなって来た心の病い」と書いています。憲三の死と直接関係があったのかどうかは、資料がなく、明らかにすることはできません。しかしながら、静子を立会人として憲三と後半生を誓っていた道子ですので、その喪失感は大きく、少なからぬ精神的な痛手を被っていたのではないかと想像されます。とはいえ、このとき大きな収穫が待ち受けていました。入院中道子は、「かの地の名刹を片端から案内して下さり」、新たに知る幻想世界へと導かれていたのです。このときの収穫は、のちに開花します。そういえるのは、その後道子は、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に、イザイホーを題材にした「朱をつける人」を書きますが、この文のなかにあって道子は、「朱をつける人」を憲三に憑依させて、憲三を神格化しようとしているようにも読むことができるからです。さらにはまた、最晩年に書く新作能「沖宮」にあっては、主人公として登場する、おそらく道子であろうと思われる童女が、雨乞いのための犠牲となって彼方の沖に流されてゆく場面がありますが、これは、このときに出会った雨乞いの観音様の故事に倣ったものではなかろうかと思量されるからです。道子は、「この世には深い導きの糸というものがあると思う」という文言で言い表わしています。憲三の一周忌を迎える道子のこのときの心情を察すれば、この文言は「憲三による深い導きの糸」を含意するものであった可能性さえ残ります。

観音様との出会いに力を得て、次第に道子の心身は、回復に向かったものと思われます。それから一年が過ぎた翌年(一九七八年)の六月五日、道子の「忘れられない本」に関する文が『朝日新聞』(一〇面)に掲載されます。「忘れられない本」として道子が取り上げたのは、逸枝の『日月の上に』でした。その本にたどりつくまでの経緯が、前段において詳細に語られていますので、流れに沿って部分的に拾い上げ、つなぎ合わせてみたいと思います。

 書物などというものと無縁なままに人生の半ばを過ぎて、気がついたら水俣病の渦中にいた。ほとんど同時にわたしは、高群逸枝の著書と、その生き方に出遭った。
 それまでのわたしは新聞を読むことはおろか、読書というものを生活の中に持たない、あるいはそれを許されない南国の海浜の一主婦だった。……
 庶民、といわれているその他大ぜい組 ・・・・・・・ の暮らし。一地域のそれを知るには、まず郷土史資料を勉強せねばと思い始めて、雨 ママ 降りなどの、村もおおやけに休む日に、図書館通いを始めた。……徳富蘇峰の寄贈になるその「淇水文庫」には、中野普という館長がおられた。篤実なこの館長に導かれて、入れてもらった資料室の一隅(いちぐう)に、高群逸枝著『女性の歴史』上巻の、ふるびた一冊が置いてあった。
 背表紙を見ただけで、全身を痺(しび)れるようなものがつき抜けたのは、異常なことだったが、あまりの無学さと深い飢えのために、幻覚がおきたのだったろう。その時、三十六歳だった。……学問の書として書かれてあるのに、わたしにはむしろ、旧約聖書のように読めたのである。そして彼女の著作には、もっと予言の部分、つまり詩篇(しへん)のようなものがあるのではないかと思った。

こうして道子は、偶然にも、三六歳になる一九六三(昭和三八)年の夏に「淇水文庫」の片隅において逸枝の書物に遭遇しました。しかし翌年に逸枝は亡くなり、実際に会うことはありませんでした。それから月日が流れ、一九六六(昭和四一)年、ついに道子は、逸枝と憲三が長年住んでいた「森の家」に、自身の生き返りを図るために駆け込むのでした。道子の文は、後段へと続きます。

思いもかけず、惨憺(さんたん)たる家に御夫橋本憲三氏とお妹静子さんの訪問を受け、東京世田谷の〈森の家〉に行くことになった。
 「心静かにここでお書きなさい。これがあなたのおっしゃる詩篇ですよ」と、憲三氏はおっしゃり、差し出されたのが、理論社から後に『高群逸枝全集』の第八巻として出されることになる、全詩集『日月の上に』の詩稿だった。それはまことに圧巻だった。文字の要る世界も、要らない世界も、いっしょくたの奔流となって、生命界の源をなしている。詩句の技巧などは、彼女の唄(うた)う力に破られて、可憐(かれん)な現代への予言者がそこにいた。

このとき道子が『朝日新聞』に書いたのは、「逸枝とのめぐりあい」についてでした。次の年(一九七九年)、今度は道子は、夢のなかでの「憲三とのめぐりあい」について『毎日新聞』に書きます。書き出しは、こうです。「今年の五月二十三日の朝方に夢を見た。その日は高群逸枝さんの夫君橋本憲三先生のご命日の前日に当たっていた」31。夢に出現した憲三は、古い表紙の大学ノートを道子に差し出しました。

 「あなたにお渡ししようと思いましてね、持って来たのですよ」。ご生前私は、彼女に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである。そのノートの一冊をあげようといわれて、夢の中ではあり、私は嬉しくもあり、かの困惑にも包まれて、手を出しかねていた。
 「彼女を読み解けますよ」と、先生はほほえまれ、インクの消えかかったノートを開いて手渡された。
 そこで私は目がさめた。ご命日のことを気にかけていたから、先生が夢の中でノートをくださったのだろう。早く『最後の人』(評伝高群逸枝)を完成するようにとの、ご催促かもしれない32

憲三が死して、このとき、もう丸三年が経過していました。「ご命日のことを気にかけていた」道子の胸中は、このように、夢に出るまでの追慕の情でもっていまだ満たされていたのでした。

三.橋本静子の受難と『高群逸枝雑誌』終刊号の発行

それでは、一方の静子の胸中は、どうであったでしょうか。そのことを見てゆきたいと思います。

静子は、一九七〇年二月二三日に夫の橋本英雄を亡くしていました。そのときの様子を、生前憲三は、こう書き残しています。

 朝食後市立病院に出かけた。妹の静子もあとからやってきた。静子は二月二十三日に夫英雄63歳を失った。英雄はゴルフが唯一の娯楽で一月一日も出水のゴルフ場に出かけてそれをたのしんだのだが翌日発病、たちまち骨髄腫に変じて急逝した。静子はちょうど私が妻を癌性腹膜炎で失った直後とほとんどひとしい状態となり、精密検査しても異常なく、ただ著しく心身の違和感を訴えての病院通いだ。私にも覚えがあることであわれだ33

憲三の静子をいたわる心情が、逸枝のことと絡み合いながら、次の文へと続きます。

 東京第二病院にあなたを見舞いに航空機で飛んできてくれた夫妻、とりわけあなたが愛した静子。あなたの没後、医者通いをしながら自伝「火の国の女の日記」を整理したり、書き継いだしているひとりぼっちの私をみかねて、二た月のうちの二週間ずつ十回ぐらいやってきて何彼と援助してくれた静子。むろんまだ老齢というのでもないのだからそのうちたちなおるだろう34

それから六年が立ち、今度は兄の憲三の死を看取ることになりました。すでに引用により紹介していますように、そのときの静子の様子は、道子が記述するところによれば、こうでした。「静子さんこの十日間ほとんどお睡りにならない。……静子さんも佐藤さんも髪ふりみだしている、たぶん私も。徹夜」。いよいよ、病床の身にあった姉の藤野が、母屋を出て憲三の部屋に姿を現わします。「若主人におんぶされておいでになる。そしておんぶされたまま肩越しに、よく透る声で、『憲さぁん、憲さぁん!姉さんが面会に来たばぁい。もう、もの言わんとなあ』とおっしゃる。そのお声の愛情、哀切かぎりなく、先生の寝息と交互に、『おお、思うたより、やせちゃおらんなあ。憲さぁん、うつくしゅうしとるな』」。

道子は、この藤野について、こう書き記しています。

 「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である。……
 姉君は逸枝さんの本は読まれなかったそうだが、「憲三夫婦はお国のために勉強している」というお言葉には、はっとするものがある。人間は何のために勉強するのか、という問題に対して、文字をほとんど読まれなかった方が、「お国のために勉強する」と考えられたとは、深い問いかけをわたしたちに与えずにはいられない。私自身はお国のために勉強するという言葉は思い浮かばなかったけれども、そういう考え方があったのか、と反省させられる。解釈はいろいろあるだろうけれども、深い説得力がある35

藤野が生まれたのは、一八九四(明治二七)年でした。一九二七(昭和二)年生まれの道子とは、三三歳の開きがあります。そうした世代の生活者たちについて、道子は、こう語ります。

当然ながら、わたしの属している世界の生活者の意識は、活字でものを考える人々のそれとは、ちがう。ここには、生きることを文字で考える作業を、一生しないですます種類の、言語世界が成り立っている。……
 自分の育った世界を今おもえば、『遠野物語』や『今昔物語』に象徴されるような世界だった。それが、文字を通して思考せねば生きられぬ人たちと、別世界をなしているのはなぜだろう。そのことへの不思議が、わたしにとりついていた。無文字世界でもある水俣の意識は、ひょっとして、近代化したといわれているこの列島の意識の、大勢を占めているのではあるまいか36

「文字をほとんど読まれなかった」藤野が発する、「憲三夫婦はお国のために勉強している」という言葉に、道子は覚醒させられます。「生きることを文字で考える作業を、一生しないですます種類の、言語世界」がここにあるのです。つまり、読まなくても、そこに何が書いてあり、それが何を意味するのかがわかる、藤野が属する言語世界に、道子は驚いているのです。これが「無文字世界でもある水俣の意識」であるとするならば、「近代」という文字世界の大波によって、次第にそれは、消し去られる運命を避けがたく宿すことになります。作家としての石牟礼道子が生涯にわたって書いた文の原理は、本人の意思とは無関係に時代によって消し去られてゆく「無文字世界でもある水俣の意識」の蘇生、広く換言すれば、自分自身も含め、時の凶器によって苦しみと悲しみのなかに身を沈める民たちの存在の再生、まさしくその点にあるように思料されますが、その観点に立てば、藤野は、実に石牟礼文学の楚であり、妣としての役割を担ったのでした。藤野同様に、道子自身もまた、逸枝の著作が読めていませんでした。こう、道子は書いています。

 彼女へのわたしの関心は、その業績にふれるには、あまりに無学、晩学で、これから勉強しなければならないけれど、水俣病にかかわっているうちに、最初の予定にはなかった左眼の失明や、残りの視力もおぼつかないので、それには触れられそうもない37

つまり道子は、藤野に遺る「無文字世界でもある水俣の意識」をいまに継承することにあずかって、実質的な「文盲」の立場から、弱き者たちの消えゆく生の実相を文字の内に代弁し続けた人だったように思われます。

藤野は、文字を読まなかっただけでなく、書くことにも困難を覚えていたものと推察されます。以下は、逸枝が死期迫るなか入院するときの見舞いの手紙の一部です。片仮名で書かれています。しかし、その心根は美しく、人を感動へと導きます。

マイニチカミホトケニ、ネンジテイマス。/ヒヨウノシンパイワ、イリマセン。イクライツテモ、ミナマタカラオクリマス。/ビヨウキニ、マケズ、シツカリキバリナサイ、クンゾ[憲三]モアナタモ、ミナマタデオセワシマスカラ、アンシンシテ、ヨウジヨウヲシテクダサイ/イツエサマ/フジノ/テガフルエテカゝレマセン38

憲三の死から二年後、藤野も世を去ります。憲三のときと同じく、立ち会ったのは、女医の佐藤千里でした。

 「憲さーん、逸枝さーん、もうすぐあたしも往くばーい」
 「先生、もう何にも見えまっせんと。そろそろ帰ろうごとある」
 こう言いながら昏睡状態に入った橋本ふじのは、昭和五十三年六月十一日、八十四歳でその生涯を閉じた。……裸一貫から大八車を引いて、水俣市の食料品問屋橋本商店の基礎を築いた人でもある。ここ十年余り、腎性高血圧で床に臥っていたが、床の中から家族や従業員の一人一人にまで気を配る様は、憲三がよく口にしていた「家刀自」の呼称がぴったりだった。
 ふじのは、殊の他この弟を愛していたらしく、危篤の憲三を、家人の背に負われて見舞った時、「憲さーん、憲さーん、がん張らんばなあ」としぼるような声で呼びかけていた様が、私には昨日のように思い出される39

二三年前のことでした。一九五五(昭和三〇)年の四月、「森の家」に憲三の兄弟が集まり、兄弟会が開かれました。橋本家には、男四人、女ふたりの六人の兄弟姉妹がいました。そのとき、出席がかなわなかった水俣に住む藤野に感謝状を書くことになり、逸枝が毛筆しました。

    感謝状
  橋本ふじの様
あなたは、終始父母のために計
りその老後を楽しませること
につとめられました。
また私ども兄弟にも絶えず
愛情を頒たれました
ここに兄弟会東京開催
にあたり記念品を贈り感謝します。
  昭和三十年四月十一日 兄弟会
    球磨村 橋本秀吉
    東京都 橋本憲三
    福岡市 橋本武雄
    人吉市 橋本袈義
    水俣市 橋本静子40

このとき作成された感謝状を、藤野は、亡くなるまでとても大事に部屋に飾っていました。続けて佐藤は、このように書きます。

 眠っているようなふじのの胸に、妹の静子は壁の感謝状を下ろしてそっと抱かせてやった。野辺の送りをすませた後もその感謝状は、勳何等とやらの勲章よりもっとさん然たる光を放って私の目に灼きついている41

こうして藤野は、深い姉妹愛に抱かれて、逸枝と憲三の待つ世界へと旅立ったのでした。

藤野が亡くなる前後のことではないかと思われますが、瀬戸内晴美が、橋本家を訪れてきました。その後に書かれた瀬戸内の文を見ると、このように書かれてあります。

憲三氏があんなに早く亡くなるとは思っていなかったので、その訃報に接した時はショックであった。何より、あれほど気に病んでいた憲三氏の疑いを、きっぱりと晴らす努力をしないまま憲三氏に逝かれたことが辛かったし、悔やんでもたりない後悔に臍を嚙まされる思いであった。
 私はやはり「日月ふたり」を最後まで書きあげるべきだと思った。そうすることで、憲三氏のこの世で最も気にしていられた事柄の答えが出るだろうと考えた42

瀬戸内がここで、「あれほど気に病んでいた憲三氏の疑い」といっているのは、逸枝と延島とのあいだにあったとされる、瀬戸内が書くところの「情事」のことでしょう。瀬戸内は、連載五回目の「日月ふたり(最終回)――高群逸枝・橋本憲三」の末尾にすでに「(了)」の文字を付していたのですが、どうやらここへ来て、それを再開する気持ちになったようです。瀬戸内の文は続きます。

 私はおくればせながら水俣へ出かけ、憲三氏のお悔やみを静子さんに申しあげた。静子さんはとても喜んでくれて、全くおもいがけないことを私に申しつけられた。憲三氏の戒名をつけてくれといわれるのであった43

瀬戸内は何を目的に、水俣まで足を運んだのでしょうか。「『日月ふたり』を最後まで書きあげる」意思があることを、わざわざ伝えるためだったのでしょうか。静子は、「日月ふたり」の連載に、憲三がいかに苦しんでいたのかをみぢかにいて知っていたにちがいありません。したがって、もし、そうした意向を示すために来水したのであれば、静子は決して「喜んで」瀬戸内を迎え入れることはなかったろうと思われます。あるいは、そのとき本当に静子が「とても喜んで」応対したのであれば、瀬戸内は、自分が書いた「日月ふたり」が憲三を苦しめたことに対しての弁明ないしは謝罪のために来たのかもしれません。瀬戸内は、静子が「憲三氏の戒名をつけてくれ」と要請したように書いていますが、しかし、もし自分の罪滅ぼしのために弔問に訪れたのであれば、瀬戸内自らが戒名を申し出た可能性が残ります。静子の書く文のなかにも、戒名のことに触れた箇所があります。「兄の遺言書の第一條に、『葬式ごとは一切しないこと』とあり……そういうことでしたので、兄には法名がなく、のちにおまいりをいただいた瀬戸内寂聴様にお願いして、贈っていただいております」44。しかしながら、兄の遺言を忠実に守ろうとしていた静子本人が、瀬戸内に戒名を願い出るとは、とても考えられません。そこで推測するのは、戒名がないことを静子から聞かされた瀬戸内の方から、憲三に与えた不快感を償うために、戒名を申し出たのではないかということです。そのとき静子は、遺言を理由に、おそらく固辞したにちがいありません。それでも、遠路わざわざ弔問に来た客の申し出をむげに断わることもできず、つい受け入れてしまったというのが真相で、「瀬戸内寂聴様にお願いして」の「お願いして」というのは、瀬戸内の厚意に配慮して、あえて自分が「お願いして」いるようにみせかけた、一種の擬態的な謙譲表現ではないかというのが私の考えるところです。

瀬戸内の文は、さらにこう続きます。

 私は母屋の仏間に通されて、心から読経し、世にも不思議な稀有な愛に結ばれた夫妻のために回向した。
 私は静子さんに「日月ふたり」を必ず完成すると誓った45

しかしながら、「日月ふたり」の執筆が再開され、完成した形跡はありません。これも、極めて不可解なことです。「必ず完成すると誓った」意思の弱さ、あるいは言葉の軽さだけが残ります。水俣訪問の様子は、次のような語句で終わります。

最も感動したのは、憲三氏の生家で憲三氏の御祖先の仏壇の前に坐った時であった。橋本家の人々の大らかさとあたたかさは、静子さんでほぼ想像できたが、橋本家の方々にお逢いして、いっそうそれが橋本家の家風から生まれるものだということを納得したことであった。この家族だから、逸枝のような人物が受け入れられたのだとうなずけた。
 神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた46

やはり瀬戸内にとって憲三は、理解を超えた異質な人間だったのでしょう。あるいは、そうした憲三像を意図的につくり上げることによって、「日月ふたり」を「(了)」とした原因に仕立て上げようとしたのかもしれません。といえるのは、憲三と藤野の主治医として橋本家の人たちと日常的に接していた佐藤千里の、上でしばしば紹介したどの文のどこにも、「神経質な憲三氏だけが、ひとり際立っているように感じられた」といった瀬戸内の観察を立証するにふさわしい記述は、残されていないからです。「ひとり際立っている」神経質な男として憲三を見る瀬戸内のその異質なまなざしは、「橋本家の人々の大らかさとあたたかさ」が醸し出す接遇のなかにあって、橋本家の人びとに、とりわけ静子には伝わった可能性があります。いやそれどころか、「日月ふたり」のなかでの記述内容はいうに及ばず、瀬戸内の『談談談』における憲三についての描写それ自体についても、おそらくこの間、静子は、兄の怒りを自分のものとして受け止め、大いなる不満を抱き続けていたものと想像します。

それでは、静子の胸の内に隠されていた心情の一端を知るために、ここで少し、それまでの出来事を振り返ってみたいと思います。

一九七四(昭和四九)年の三月二六日に、橋本憲三は、瀬戸内晴美の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」が掲載された、四月に発売予定の『文芸展望』第五号の見本誌が、筑摩書房の村上彩子から事前に送られてくると、二日後の二八日に、瀬戸内に宛ててはじめての手紙を書きます。その手紙のなかで憲三は、瀬戸内が書いた内容について、「……というのはちがいます」「……混同ではないでしょうか」「……といったおぼえはありません」「……のことは私はしりません」「……全く考えられないことです」などといった表現を使って、幾つもの誤謬を指摘するのでした。このとき憲三は、自分と自分の妻が、事実と異なる姿でもって世間に公表されたことに、耐えがたい無念と憤慨を感じたのではないかと推量されます。

さらにそれから四箇月が過ぎた、八月七日と翌八日の憲三の「共用日記」には、次のような文字が書き込まれています。

八月七日「石牟礼氏に電話。夕方みえる。みやげものもらう。お茶も。10時に辞去。辺境五と瀬戸内氏の談談談をもらう。睡眠薬服しすぐ就寝」。
八月八日「けさ、談談談を散見したら、一項目、さんたんたる事実無根の記事あり。……」47

瀬戸内晴美の『談談談』が大和書房から出たのは、そのおよそ半年前のことでした。こうして、憲三は、「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」のなかだけでなく、『談談談』においても、事実無根の記述を見出すのでした。その箇所は、小沢遼子と中山千夏を相手に語る、おそらく次に引用する部分であったのではないかと思われます。

瀬戸内 ……だから私は男性で、内助の夫の系列というのを書こうと思って、岡本かな子と一平、高群逸枝と橋本憲三がいいと思って水俣へ行ってみたの。ところがだんだんいろんなことがことがわかってきてね。仲がいいかと思っていたら、その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって。
中山 普通との反対みたいね48

憲三は、こうした部分を読んで、「さんたんたる事実無根の記事」と「共用日記」に書き付けたものと思われます。瀬戸内が水俣の憲三宅を訪ねたとき、本当に憲三は、このようなことを瀬戸内に話したのでしょうか。憲三が瀬戸内に会ったのは、一九七三(昭和四八)年の二月一日のことで、このときがはじめてです。しかも、面談したのは、「共用日記」によれば、午後の八時三〇分から一〇時五〇分までの二時間と二〇分です。「その逸枝さんが婦人戦線をやっている若い頃、しょっちゅう男を作って飛び出していくので、憲三さんはすたこら追いかけて、つれてくるんですって」といった内容のことを、憲三が初対面の瀬戸内に二時間余の短い会話のなかにあって語ったとは、とても信じがたいことです。瀬戸内のこの一文に接した憲三は、おそらく仰天したにちがいありません。

仰天したのは憲三だけではなく、静子も同じだったものと思われます。その瀬戸内が、憲三が亡くなったあとに、弔問に訪れるのです。静子の瀬戸内を見る目が厳しかったであろうことは、容易に想像されます。たとえ、「兄には法名がなく、のちにおまいりをいただいた瀬戸内寂聴様にお願いして、贈っていただいております」と静子が書いているにせよ、そのこと自体憲三の遺志に背くものであり、法名が授けられたからといって、瀬戸内に向ける静子の懐疑と不信の念が氷解したとは到底考えられません。生前憲三が道子に託していた瀬戸内宛ての手紙が、そののち、静子と道子の編集になる『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載されることからしても、それは明らかです。何といってもこの手紙は、「日月ふたり」の内容に関わる憲三の苦悩が凝縮したもので、瀬戸内へ向けた反駁であり、抗議でもあったのでした。

瀬戸内の弔問の目的が真に何であったのか、それに対して静子がどう対応したのか、瀬戸内の文以外に資料がなく、不明な点が多く残されているように感じられます。いずれにしてもこの時期、静子にとっては、夫の英雄、兄の憲三、そして姉の藤野の三人の肉親を立て続けに亡くし、傷心の日々が続いていたものと思われます。そうしたなか、一九八〇(昭和五五)年の秋のある日、一冊の本が集英社から送られてきました。見るとそれは、集英社刊の円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)でした。これは、女性史に関する論集で、そのなかにもろさわようこが執筆した「高群逸枝」がありました。読み通した静子に、体の震えが止まらない、大きな憤りが吹き出してきたにちがいありません。何ゆえに、こうまで兄が罵倒されなければならないのか――。さっそく静子はペンを取り、もろさわに宛てて手紙をしたためました。これが、すでに廃刊となっていたはずの『高群逸枝雑誌』が息を吹き返し、「終刊号(第三二号)」として発刊されなければならなかった動機となる部分でした。この誌面に、その手紙は掲載されます。

それでは、一九八〇(昭和五五)年一二月二五日に刊行された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)の「編集室メモ」に目を向けてみましょう。ここに、橋本静子と石牟礼道子のそれぞれの名で、ふたつの文が所収されています。静子の文の前半部分に、この号を出すに至った背景が書かれてあります。長くなりますが、これこそが静子のこころではないかと思われますので、そのまま引用します。

 『高群逸枝雑誌』は兄がひとりの手作りをたのしんだもので、私は終始を門外に居ました。家の孫三人に続いて同居の従業員夫婦の三人の子守りをしなければならず、姉が倒れて寝たままとなったりの事情などもありました。兄の没後も四箇年を過ぎました今、集英社の本に触発されました形で不本意にも終刊号を借ります仕儀となりましたことをなにとぞお許しくださいませ。また、兄生前をお支えいただきましたことを遅ればせながら深く御礼申し上げます。まことにありがとうございました。
 『高群逸枝雑誌』を身近かにお支えくださいました石牟礼道子様お一人だけに事情を申し上げて終刊号を諒承していただきました。志垣寛様の御遺族の志垣美多子様、村上信彦様、鹿野政直様には、それぞれの玉稿の転載を御許可いただきましたことを厚く御礼申し上げます。編集は、水俣在住中の数少ない兄の知友であられた渡辺京二様にお願いしました。渡辺様は雑誌『暗河』の高群逸枝小特集の件で私宅をお訪ね下さったこともあり、その御縁を頼らせていただいた訳でございます。兄の主治医であられた佐藤千里様には、精神安定剤や栄養剤をおねだりしましたばかりでなく、おはげましや有益なご助言をいただきました。ただありがたく、御礼を申し上げる言葉もございません。失礼をいたしましたことはなにとぞ、御あわれみで御寛怨くださいますよう、臥してお願い申し上げます。
 あたたかい陽ざしの此の頃を、兄夫婦の墓家と下段の私どもの墓家を毎日訪ねています。レリーフによりかかりますと、途端に私は八歳の少女になり「イツエねえちゃん。どうしよう?」とたずねます。「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」と声が返って来たように思いました。人は皆、死ぬことに決まっているのに。「お手紙」を書いたことにこころがいたみます49

一方、道子の文には、こうした文字が並びます。後半部分の一節です。

 思えば逸枝が古事記伝一冊を机上に置いて、研究生活への第一歩とした三十七歳と同じ歳に、そこへゆくことを許された私は、小学校国語読本によって初めて文字と出逢ったものの、女学校にもゆけなかった。逸枝にくらべれば文盲に等しく、帰郷した後も勉強し表現することがはばかられる身であった。そのようであったゆえに、誰にも気兼ねせず、あまつさえ夫に助けられて学問をした女性がいた、そのことを知っただけで、わたしの内部に核融合反応のような事が起きた。
 役に立たない同人を先生はお叱りにならず、水俣病のことで書くビラにお目を通され、失明寸前を発見して頂き、医者につれて行って下さった。
 お言葉の数々をテープに採らせて頂けばよかったが、不器用で思いもつかなかった。後世の為に如何ばかり意味を持ったかと悔まれるが、堀場清子氏による「おたずね通信」が残されたことは私どもの喜びである。
 折にふれて洩らされる御言葉を私は、卓越した思想家、批評家の言として拝聴した。真の意味のラジカルさを身をもって行った人の言葉はじつに透明であった。御臨終には主治医の佐藤千里氏が立ち合われた。その間のことは『草のことづて』(筑摩書房刊)に記したのでここでは割愛した50

この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、次の論考で構成されていました。

もろさわよう子様へ 橋本静子
高群逸枝の入院臨終前後の一記録 橋本憲三
  終焉記 橋本憲三
  高群さんと橋本君 志垣寛
瀬戸内晴美氏への手紙 橋本憲三
橋本憲三氏の生涯 鹿野政直
高群逸枝の女性史学 村上信彦
朱をつける人 石牟礼道子

最初の「もろさわよう子様へ」と最後の「朱をつける人」に挟まれた論考は、いずれも旧稿からの転載であり、本稿においてもすでに引用も含めて言及していますので、ここでは、静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人」に限定して、触れることにします。

静子の文は、次の言葉ではじまります。

 集英社から『近代日本の女性史』第二巻が贈られました。この本のもろさわ様の御担当になる『高群逸枝』を拝見しましたので、初めてお手紙を差上げます。
 兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います。憲三には、いずれも「普選会館」のかかわりで二度の面識と言われながら、二回の瞥見で他人の七十九歳の生を斬られたことは無謀だと思いました。
 昭和三十九年(一九六四)六月十日、逸枝の代々幡葬祭場における葬儀で、「憲三の妹静子」(二〇七頁)としてお見知りいただいているようでございますが、逸枝国立東京第二病院入院前後の時にも私はもろさわ様を存じあげていません。……
 文章とは無縁で一行の活字もありません。性格は父母からの血が流れており、理不尽に対しては正直に腹を立てますから、おとなしい方だとは申されないかも知れません。生来、お茶目だと言われています。地位、名声、職業、風采などでは人を見ず、品性や志、それと人柄のあたたかさ、詩情などの情感にひかれます……
 姉逸枝の国立東京第二病院前後にかかわりました遺族のうち、ひとりの生き残りでもありますので、兄憲三のことと合わせて、私の見たこと、感得したことをお伝えしたいと思います51

こうした前書きのあと本論に入り、もろさわの文のもつ誤謬や偏見の数々を、その頁を明記しながら、指摘してゆくのでした。

それでは、もろさわとは、どのような人だったのでしょうか。もろさわ自身、この「高群逸枝」のなかで、自分のことをこう記しています。「橋本憲三を私が見知ったのは、『招婿婚の研究』を頒布するため、高群逸枝著作刊行後援会の事務局が、普選会館に設けられた昭和二十七年(一九五二)だった。そのころ私は、やはり普選会館に事務局を持つ日本婦人有権者同盟の事務局に勤務、機関紙の編集をしていた」52。では、もろさわが書いた「高群逸枝」とは、どのような文だったのでしょうか。この文は、節の番号は付されてありませんが、「その死をめぐって」「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」の四節で構成され、後ろの三つの節が、逸枝に関する評伝になっています。もろさわ本人が書いていますように、使われている参考文献が、『高群逸枝全集』全十巻(理論社)、『高群逸枝』(鹿野政直、堀場清子著・朝日新聞社)、『娘巡礼記』(高群逸枝著・堀場清子校訂・朝日新聞社)、『火の国の女 高群逸枝』(河野信子著・新評論)といった、多くは既知の二次資料の類であるため、その記述内容に目新しさはほとんどありません。それだけではなく、第一節に相当する「その死をめぐって」が、なぜその後に続く評伝の導入に使われているのかも、その必然性と整合性に鑑みて疑問が生じます。ここに、もろさわ独自のある意図が隠されているように感じられます。静子の目を引いたのは、まさに、この「その死をめぐって」という一節でした。内容は、逸枝の入院と葬儀に際しての、市川房枝をはじめとして、もろさわ自身を含むその取り巻きが感じ取った憲三への不満であり、そのことが、憲三への恨みとなって現われているのです。両者間の確執については、すでに第一一章「夫の姉妹からの援助、『望郷子守歌』の建碑、そして最期」の「四.葬儀後の残照」と第一三章「高群逸枝を顕彰する力とそれに水を差す力のはざまで」の「四.高群逸枝巡礼者たちの水俣訪問と橋本憲三の最晩年の失意」において詳述していますので、もはやここで繰り返すことはしませんが、静子の目には、「兄憲三をいわれもなく侮辱されていますし、二人の四十五年の共生が憲三の卑しい志のゆえんであったと、意図してお書きになっているように思います」と、映ったのでした。

そして静子は、「もろさわよう子様へ」を次の言葉で結びました。

 何ヶ月か前に、郷土紙上の市川房枝様のお名前が出ている記事で、憲三のことがあしざまに書かれていてはらが立ったと、近親者からも聞いています。今回のことといい、何度もむしかえし活字になさらねばならないお心が理解できません。
 私は文筆とは無縁で、一行も活字にした経験はございませんが、亡兄の縁にせがみ、『高群逸枝雑誌』終刊号の誌面を借りて、当面した一人だけの生存者として、真意をお届けいたしました。
  昭和五十五年十月二十五日記53

それでは次に、道子の「朱をつける人」を見てみたいと思います。一九七八(昭和五三)年の暮れ、道子は、沖縄の久高島に行き、その地に残るイザイホーの名で知られる祭儀を見学しました。道子はこう書きます。「一二月一四日(昭和五十三年)初日の『夕神 アシ び』から始まった神事の第三日目、『花さし遊び』の日が、とりわけわたしには感銘深く思われた」54。「『夕神 アシ び』から始まった祭儀は三日目に入り、『花さし アシ び』の中の『朱つき』『朱つき アシ び』へと展開してゆく」55

イザイホーは、三〇歳を超えた島の既婚女性が神女となるために行なわれる、一二年に一度開催される一種の通過儀礼で、そのなかのひとつの儀式が、根人と呼ばれる男性主人が、ナンチュと呼ばれる巫女の額と両頬に朱印をつける神事です。道子の論考の題に用いられた「朱をつける人」は、そこに由来します。

静子が、もろさわの「高群逸枝」について、その誤謬を正そうとして正面から論じたのに対して、道子は、背後に回り、そのなかで侮蔑的に描写されていた逸枝と憲三を救い出そうとして、論理的にというよりは、むしろ詩的に、ふたりに備わる幾多の美質を説こうとします。道子は、まず、こういいます。

……本稿は、『高群逸枝雑誌』の発刊と終刊に立ち会いながら、ただただ無力でしかなかったひとりの同人として、森の家と橋本憲三氏の晩年について、いまだ続いている服喪の中から報告し、読者の方々への義務を果たしたい56

憲三の死から四年が過ぎてなおも服喪に身を置く姿を見ると、単なる「ひとりの同人」の域を超えた道子の、「森の家」で静子を立会人として「高群夫妻とそして自分とに、後半生を誓った」57決意が蘇ります。道子は何としてでも、敬愛する逸枝と憲三を、落とされた闇のなかから救済し、その名誉を回復せねばならないのです。それが、道子が自覚する、まさしく「義務」だったのでした。道子は、こう書きます。

 死の数日前水俣から上京して、病院を見舞った義妹の静子さんに、「森の家に行ったら、ぜひ『留守日記』を読んで下さい」とわざわざ彼女がいったのは……森の家に帰りたいのを訴えていたのではあるまいかと思えてならない。
 私どもが夫婦の生き方に心をゆすぶられてやまないのはなぜなのか、愛の形はいろいろあろうけれども、この二人においては徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられないからであろう58

そして憲三については、こう書きます。道子は「森の家」で、自身の出発作となる『苦海浄土』の初稿となる「海と空のあいだに」を書いていました。

 その後の著書はすべて『椿の海の記』に至るまで、師が最初の読者、批評者であった。いかに透徹し卓越した批評家であられたことか。水俣のせんすべない事情はえんえんにひき続き、今に至るも恩師から託された御志を果たせないでいる。御死去に逢い、はなはだしい気落ちからいまだに立ち直れないのである59

道子が「久高島で十二年に一回、午年 うまどし に行なわれるイザイホーの神事をまのあたりにした時、胸に去来してやまないことがあった」60。それは道子にとって、「今は亡き森の家のふたりに、生命の奥の妙音を聴くような、あるいは生命の内なる宇宙の、光源の島にたどりついたような秘祭」61だったのでした。道子は、「朱をつける人」を、次の言葉で結びます。

深い感動の中にいて、「花さし アシ び」の中の朱つけの儀式、素朴な木の臼に腰かけているナンチュと、その額にいましも朱をつけるようとしている根人の姿に、著者には高群逸枝とその夫憲三の姿は重なって視え、涙ぐまれてならなかった。
 逸枝がいう憲三のエゴイズムは、男性本来の理知のもとの姿をそのように云ってみたまでのことであったろう。その理知とは究極なんであろうか。久高島の祭儀に見るように、上古の男たちは、懐胎し、産むものにむきあったとき、自己とはことなる性の神秘さ奥深さに畏怖をもち、神だと把握した。そのような把握力のつよさに対して女たちもまた、男を神にして崇めずにはおれなかった。そのような互いの直感と認識力が現代でいう理知あるいは叡智ではあるまいか。
 憲三はその妻を、神と呼んではばからなかった62

こうして、もろさわから憲三に浴びせられた罵声への反論として書かれた、道子の「朱をつける人」は終わります。

それでは、もろさわの文から引用して、少し検討を加えてみたいと思います。もろさわは、最初の節である「その死をめぐって」のなかで、普選会館ではじめて見知ったころの憲三の風采を、このように描写します。

憲三は少年のおり傷つけた左眼が失明しているため、首をいささか左にかたむけ、肩をいからせ勝ちにしていた。物資のない戦中に使われた粗末ななわ編みの古びた買い物袋をいつも下げて持ち、膝のつきでた古ズボンをはき、ちびた下駄をせかせか飛び石に鳴らして、普選会館へ入ってくる彼は、その気配に都会人のダンディズムはみじんもなく、野の少年のひねこびたなれの果てといったおもむきの人でもあった。それから絶えて会うことがなく、十年余の歳月があったのだが、彼は当時と同じく、大人の男の気配を相変わらずその身に宿してはいなかった63

さらにもろさわは、憲三の人となりを、こう描きます。なかに出てくる「逸枝の業績と人柄を敬愛する人びと」とは、「逸枝の著作生活について、物心両面の支援を長くつづけてきた市川房枝や、逸枝が主宰した『婦人戦線』時代の同志鑓田貞子、晩年の逸枝のもとに繁く出入りしていた浜田糸衛と高良真木ら」64を指します。

 おもいを妻に密着させ、他者への配慮を欠く憲三の自己中心的な態度は、ことあるごとにあらわれたらしい。逸枝の業績と人柄を敬愛する人びとは、それを妻を愛するが故と、なかば苦笑しながら許していたらしいが、逸枝の亡くなった夜、それらの人びとと憲三との間におきた確執は、妻の死をコマーシャルベースにおいて広告しようとする憲三に対する反発からはじまった65

妻の死亡広告を新聞に出すことは、逸枝の両親の例に倣ったもので、妻の死に対する夫の最大の儀礼を示すものでした。その記述に続けてもろさわは、霊安室での市川房枝と憲三の言葉のやりとりと決裂に至る瞬間を詳述します。他方、最終節の「所有被所有をこえて」にあって、もろさわは、その末尾に、次の語句を当てます。

 逸枝はらいてうの「忠実な娘」と自称しているが、その史的業績は、らいてうにまさるとも劣っていない66

すでに指摘していますように、「その死をめぐって」と、その後に続く「詩と真実」「愛と自由」「所有被所有をこえて」とのあいだには、大きな断絶があります。前者において、夫憲三の野暮で自己中心的な態度が強調され、後者において、妻逸枝の史的業績が称讃されます。こうした叙述の構図に、夫と妻、つまりは男と女のあいだにくさびを打ち込もうとする、際立つもろさわの意図が感じ取れなくもありません。上で道子が述べていますように、逸枝と憲三は、「徹底的に相手に対して真摯にむきあい、慢性的な弛緩やなれあいが、みじんも感ぜられない」夫婦であったにちがいありません。ふたりは、理想とする「一体化」を目指し、完遂したのです。もろさわには、それへの理解が乏しかったように思われます。それが、「女性を善、男性を悪」とみなす、単純な図式が支配する、埋め込まれた固定概念、あるいは、刷り込まれた偏見に由来するものであったのかどうかはわかりませんが、少なくとももろさわは、逸枝と憲三の夫婦が見せたひとつの真実の愛のかたちを見誤っていたことだけは、確かでしょう。他方、このとき以来、市川房枝と、もろさわのような、彼女に忠誠を尽くすそのグループの女性たちは、憲三と絶交します。しかしながら、逸枝にとっての最大の支援者のひとりであった平塚らいてうは、自身の死が訪れるまで、憲三に寄り添います。その違いは一体何だったのでしょうか。学者への援助のあり方、夫婦としての存在の仕方、人の死を洞察する力等にかかわって、一考に値するテーマかもしれません。

静子の「もろさわよう子様へ」と道子の「朱をつける人」を掲載した『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)は、千六百部印刷され、定期購読者のほかに「全国国公私立大学の文学部法学部図書館、全国国公立図書館、全国主要新聞社本支社、主要雑誌社・図書出版社、女性史関係機関」67等に寄贈されました。

年が明け、一九八一(昭和五六)年を迎えました。終刊号発行に関する『朝日新聞』の取材に、道子は、次のように応じました。

同人は憲三先生と弟子の私のふたり。実際にはお手伝いもできぬままであった。終刊号をいつにするかと思っているうちに、妹さんがもろさわさんに長い手紙を書かれた。また憲三先生が書き残されたものもあった。この雑誌は逸枝ファンのための雑誌。それらを読者にお渡しするのが、遺族と、同人の義務と考え、ここに集録し、終刊号としました68

このインタヴィューは、一月一四日の「点描」欄において、「32号を発行して終刊 『高群逸枝雑誌』」という見出し記事のなかで紹介されました。それに対抗するかのように、今度はもろさわようこが、『毎日新聞』に寄稿します。以下は、二月二六日の「視点」欄に掲載された、もろさわの「市川房枝さん」の一部です。

 市川さんとはまったく無関係に、私が執筆した文章が原因になり、昨年末、市川さんに対する誤解をもとに編集された小雑誌が出た。このことについて市川さんは、誤解にもとづく悪口は言われ馴れている、事実はかならずあきらかになることを信じているので、気にしていませんと、濶達に笑っていた69

続く三月、今度は『朝日ジャーナル』が、この『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)を取り上げました。まず、このような導入の文からはじまります。

 キラと光りつつ、はじらう風情で南九州の片すみから出されていた『高群逸枝雑誌』の終刊号が昨年末に出た。この雑誌は、女性史学の創始者・高群逸枝(一八九四-一九六四)と一体の存在であった夫の橋本憲三が、亡妻の魂を抱きつつ編集していたものであり、七六年五月、憲三の死後、妹の橋本静子がいちはやく終刊を宣言していたから、あらためての終刊号に、おや? と思った人も多かろう。
 静子による「編集室メモ」によると、この刊行は「集英社の本に触発され」てのことだという。「集英社の本」とは『近代日本の女性史2 文芸復興の才女たち』で、静子を‶触発″したのは終章の「高群逸枝」(もろさわようこ)の憲三認識のありようなのだが、いまはそれに触れる暇はない70

この記事の執筆者は、もろさわの「高群逸枝」に触れることはありませんでした。しかし、この間のこの雑誌を、以下のように、高く評価します。

 雑誌は消えたが、そのなかからいくつかのすぐれた研究書が生まれた。『高群逸枝と柳田國男』(村上信彦、大和書房)、『火の国の女・高群逸枝』(河野信子、新評論)、『両の乳房を目にして』(石川純子、青磁社)は雑誌連載をもとにしてできたものであり、初の本格的評伝『高群逸枝』(鹿野政直・堀場清子、朝日新聞社)も、この雑誌なくしては生まれなかった71

最後に執筆者は、この記事をこう締めくくります。

そしてこの五月、橋本憲三・堀場清子による三千枚に及ぶ『わが高群逸枝』が朝日新聞社から出版される。石牟礼道子のライフワーク『最後の人』が一日も早く完成されることを祈る72

『朝日ジャーナル』に『高群逸枝雑誌』終刊号についてのこの書評が出たとき、静子は、七〇歳になっていました。あえて終刊号として『高群逸枝雑誌』を発行し、憲三が書き残していた「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」「終焉記」「瀬戸内晴美氏への手紙」の三つの文と、それに加えて自身の「もろさわよう子様へ」の手紙とを、広く世に公開したいま、静子には、これまでに受けた度重なる兄への攻撃に対して、少しは撥ね返すことができ、なすべきことはすべて成し得たという安堵の気持ちがあったにちがいありません。またその一方でこのとき、「編集室メモ」に書かれてあるように、「イツエねえちゃん。どうしよう?」「静子さん、もういいのよ。あなたもここにいらっしゃい」というふたりが交わした会話を、深く胸にしまい込んだかもしれません。これ以降、逸枝や憲三にとって不名誉となる、他者が浴びせる言動に、もはや静子は口を開くことはありませんでした。

他方で道子は、このとき五四歳になっていました。『朝日ジャーナル』のこの記事は、道子のことを、「憲三が亡妻の幻影をそこにみてたよりにした同人・石牟礼道子」73と形容しました。「朱をつける人」を書いた道子の方は、憲三のことを、逸枝に対してだけでなく、自分にも朱をつけてくれた人として受け止めていたにちがいありません。道子にとって憲三は、「最後の人」であると同時に、「朱をつける人」だったものと思量します。

四.高群史学に対する批判と橋本静子の死

橋本憲三と堀場清子の共著『わが高群逸枝』(上下二巻)が、朝日新聞社から上梓されるのは、『朝日ジャーナル』にあるようにこの年(一九八一年)の五月ではなく、実際には、九月まで待たなければなりませんでした。この『わが高群逸枝』は、神奈川県の逗子に住む堀場が尋ね、熊本県の水俣に住む憲三が答えるという、距離を隔てた郵送による一問一答の形式で、憲三が死去する直前までの約一年半続けられた「おたずね通信」と呼ばれるものを集成したものでした。

すでに書いていますように、堀場清子と夫の鹿野政直が、はじめて水俣の憲三宅を訪問したのは、一九七四(昭和四九)年の九月のことでした。目的は、朝日評伝の一冊として『高群逸枝』を執筆するに当たっての基礎調査にありました。しかしそのとき、すでに憲三の体調は優れず、加えて、瀬戸内が『文芸展望』に連載していた「日月ふたり」の内容に苦しめられ、精神的に傷を負った状態にありました。そのため、十全に質問ができなかった堀場は、その後、質問状を書いていいかを憲三に問い合わせました。以下は、それへの返信内容です。

 こんごいろいろご質問いただけますこと、大よろこびです。/ご質問は、ききづらいこと、常識的?には意地悪いと考えられそうなことがらでも、いっさいごしんしゃくなくお願いいたします。ありのままを(私自身が知っていることなら)正直にお答えできると思っています。真実に近づくためには74

このとき、病床に臥す憲三には、死期が近まっているという意識があったでしょうし、一方で、瀬戸内の文にみられるような事実と異なる内容が今後次々と書き継がれてゆくことを恐れる気持ちもあったでしょう、そこで憲三は、堀場を信じ、自分の知る真実のすべてを伝え、いつの日か公開されることを望んだものと思われます。そうした憲三の思いは、瀬戸内へ宛てた手紙を道子に預けたことに、すでに現われていました。『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載された「瀬戸内晴美氏への手紙」の冒頭の注に、それを見ることができます。

*本稿は橋本憲三の瀬戸内晴美氏への私信の写しである。故人は石牟礼道子に「この写しはあなたに参考にしていただこうと、気息えんえんながら起きて書いたものです。雑誌にいつかのせる気になるかも知れないとの潜在意識もあったらしくて」と書き添えて本稿を託した75

今度は、憲三は、「おたずね通信」を堀場に託すことを決意しました。こうして憲三と堀場の「おたずね通信」ははじまったのです。その間の事情を堀場は、『わが高群逸枝』(上)の「解説」のなかで、このように記しています。

 昭和四十九年十二月のはじめ、四十一問の「おたずね第一信」を発送した。……こうしてはじまった一問一答を『おたずね通信』と名づけて、通し番号をふり、第一次目標を千問、第三次目標の三千問までは達したいとしたが、昭和五十一年五月二十三日の橋本氏の逝去によって、七百五問で中断した。亡くなる前日、別れの言葉とともに、氏は『おたずね通信』の束を私に托された76

一方、『わが高群逸枝』(下)の「あとがき」において堀場は、まずその冒頭で、あるひとりの女性に対して謝辞を書きます。

『おたずね通信』が交わされていたころ、橋本憲三氏のお手紙の中に、毎回のように記されてくるお名前があった。「嫌な顔もせずにコピーしてくださるので、ほんとうに助かります。」「これからコピーをお願いに行くところです。」といったように。水俣市役所にお勤めの、新田とし子氏がその人である。当時水俣の町には、鮮明に写るコピー機が少なく、昼休みの一時間だけ、市役所のそれが市民の使用に開放されていた。新田さんは高群逸枝への共鳴者で、以前から橋本氏の編集事務のために、昼休み返上でコピー奉仕をしていられ、『おたずね通信』に関するいっさいのコピーもまた、新田さんのご好意に依存することとなった77

「あとがき」の最初に無名の女性の献身に謝意を示すところに、著者の人柄の一端を知るような気がします。続いて、堀場の謝辞は、静子へと向かいます。

 橋本憲三氏の令妹、橋本静子氏からいただいたご協力に対しては、どんな言葉をもってきても、私の謝意をあらわすに足りない。高群・橋本夫妻への、氏の愛と傾倒のおお ママ さを想い、黙して、ただふかく敬礼する78

その静子は、この、兄の遺作でもある『わが高群逸枝』をどのように読んだのでしょうか。最も知りたかったことは、兄が「瀬戸内晴美氏への手紙」のなかで、かくも苦しみを訴えていた、逸枝と延島の関係の真実だったのではないかと思われます。堀場は、こう書いていました。

 この「事件」について、断定的な発言をするだけの材料を、私はもたない。だから、私なりの疑問点と、高群逸枝という人間に対する私なりの解釈とを記すに止めたい79

このように前置きして、堀場は、疑問点を指摘します。それを短くまとめると、次のようになります。

(1)農民自治会婦人部に加入する過程を見ても、『婦人戦線』に書いた主要論文が夫の延島英一による代作であったことからしても、松本正枝が語る、夫と逸枝の「恋愛事件」だけが、無作為のものであるとは、考えにくい。
(2)「事件」が破局を迎える昭和六年の春までの半年間、連日延島は逸枝のもとに足を運び、性的関係があったように松本正枝は語っているが、住井すゑの証言によると、延島が毎日通っていたのは住井家であり、ましてや、憲三が在宅している家を、延島が頻繁に訪問することは、事実上不可能だったのではないかと思われる。
(3)一部のあいだで「憲三不能説」が根強く流布しており、これが原因で逸枝が延島に走ったという発想が導き出されている向きもあるが、夫との「一体化」を誓った妻が、それほどの欲求不満を抱いていたとは考えにくい。
(4)「恋愛事件」があったとされる半年間、同人の誰ひとりとしてそのことに気づかなかったのは、不思議に思える。他方、瀬戸内の「日月ふたり」でその「恋愛事件」が明るみに出ると、同人みなが、一様に、それを事実として受け入れたらしい点が、印象深い。
(5)昭和五年の年賀状に、逸枝は、これから研究生活に入ることを明言しており、この後の『婦人戦線』の刊行は、逸枝にとってはあくまでも「寄り道」であり、「恋愛事件」の破局が廃刊の原因であるとする意見には疑問が残る。

そして堀場は、「私の逸枝解釈としては、どうしても『事件』の否定へと傾かざるをえない」80という言葉をもって、この問題の結論とします。

これを読んだとき、静子と道子は、胸のつかえが降りたような、晴れ晴れしい思いに駆られたにちがいありません。静子は、さっそくこの本を瀬戸内に送りました。「瀬戸内晴美氏への手紙」が所収された『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)も同梱したかもしれません。

道子も、満を持して一文を草しました。道子が着目したのは、瀬戸内の「日月ふたり(第三回)――高群逸枝と橋本憲三――」のなかの、逸枝を描写した次の箇所でした。松本正枝の視線から描かれています。

 駅からわが家の方への一本道を歩いていくと、向うから逸枝が歩いてくる。今日もきれいに化粧して、袂の長い派手な着物を着た逸枝は、少女がするように、長い袂を両手で持ってひらひら蝶々のように両脇で躍らせながら、浮きたつような足どりでステップをふんでくるのだった。人の目も全く眼中にないように、その姿は何か抑えきれぬ喜びをそういうそぶりであらわしているとしか見えなかった。
 よほど嬉しいことがあるにちがいない、まるで子供のような人だ。ずっとそんな逸枝の姿を見つめながら正枝が近づいて声をかけると、逸枝は雷に遭ったように硬直して路上に突っ立ってしまった。大きな目をうつろに見開き、息もとまったように正枝をみつめてあえいでいる。
「どうなさったの、うちへいらっしゃったんじゃなかったの、延島はいませんでしたかしら」
 その道はわが家への一本道なので、正枝はこう問いかえした。逸枝はようやく夢からさめたように、
「あなた、まだ会社じゃなかったの、どうなすったの」
 と訊いた。詰問するような調子に、正枝はふたたび驚かされた。逸枝はそんな正枝の横をすりぬけると、挨拶もせずに駅の方へ走り去っていった。
 家に帰ると英一が同じように愕いた表情で迎えた81

道子が筆を執ったのは、『思想の科学』へ寄稿する「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」でした。それは、年が改まった一九八二(昭和五七)年の一月号に姿を現わしました。道子は、上の文を引用すると、それに続けてこう書きました。

 逸枝亡きあとに書かれたこの作品を読まれて憲三氏の苦悩は深刻だった。長い袖を両手に抱え、蝶のようにひらひらゆくような逸枝をかつて見た覚えがないといわれるのである。……正枝氏はそのような逸枝を、ご自分の夫君と愛を交わした姿と受け取られ、瀬戸内氏も、憲三との一体的夫婦の伝説がやぶれ逸枝に恋人がいたとされているのだが、わたしはそこに立ち入る気はない。逸枝は憲三氏の眼に触れるように延島氏からの求愛の手紙を常にそれとなく机辺に置いており、その間の事情と処理については、憲三氏自身の手記が残されている。(『高群逸枝雑誌』終刊号)82

そして道子は、逸枝のその姿に、表題のとおり「本能としての詩・そのエロス」を見ているのであって、最後にこの文をこのように結ぶのでした。

蝶のように浮き立つ足どりの逸枝はじつは詩の刻の人なので、健全な日常にいきなり出逢ってたちすくむ姿の背後には、彼女の詩篇のすべてが放電するように広がってゆくのをわたしは見る83

つまり、あえて換言すれば、この道子の結語は、詩人の情感は、文字や文のうえだけでなく、舞や踊りにみられるように、身体のもつたおやかさにも現われるものであり、そうした非日常な身体表現を見誤って、「愛を交わした姿」であるとか「恋人がいた」といった世俗用語に置き換えてしまうことに内在する虚しさのようなものを暗に示しているのではなかろうかと、思料します。

『高群逸枝雑誌』のなかの憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」と『思想の科学』のなかの道子の「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」を目にしたかどうかは特定できませんが、静子から送られてきた『わが高群逸枝』を読んだ瀬戸内は、どうしても一稿を起こさなければならない窮地に立たされたものと推量されます。翌一九八三(昭和五八)年に瀬戸内は『人なつかしき』を刊行しますが、そのなかにあって、「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」の一文を収録することになるのです。以下は、その最初の一節です。

 最近、水俣の橋本静子さんから『わが高群逸枝』という本の上下を贈っていただいた。著者は橋本憲三と堀場清子共著の体裁である。……
 この本は、堀場さんが昭和四十九年九月から、水俣に隠棲されていた橋本憲三氏と接触を持ち、氏の全面的な協力を得て、研究途上の数々の質問を発し、それに憲三氏が答えるというユニークな方法を採り、その往復書簡や、口答らしいものを中心に据え、未発表の原稿、日記、書簡等々の貴重な資料を投入した文字通りの労作である。高群逸枝研究としては、空前絶後といってはばからない、貴重で完璧に近い研究の見事な成果である84

このように前言を書き記したあと、本論として、最初の憲三宅訪問の様子、「日月ふたり」の連載を中断するに至った理由、加えて、憲三没後の静子宅再訪問の内容にかかわって、瀬戸内は筆を進めてゆきますが、それについては、本稿においてすでに詳細に検討したうえで、すでに私は、その記述内容の信頼性に疑問を投げかけています。したがいまして、再度ここで取り上げることはいたしませんが、瀬戸内は、その本論を叙したあと、結論として、こう書いていますので、以下に引用します。

 堀場さんと憲三氏の問と答えを読了して、感じたことは、私が訊きたいすべてを堀場さんが克明に訊いてくれているにかかわらず、私の最も知りたかった答えは、憲三氏からはすべてはぐらかされているか、隠されているという感じがあった。そのもどかしさは、堀場さんの質疑の間にはさまった名解説にもよく滲んでいた85

そして、最後に加えて、瀬戸内はこう書きます。

 鹿野、堀場両氏共著の『高群逸枝』のあとがきに、憲三氏が逝去の前日、お二人に向って三分の二は話したといったことばが伝えられている。三分の一も隠しているのかという堀場さんたちの笑い声の中で、
「人には誰しも、他人にみせられない恥部があります。……必死の防衛だ」
 と憲三氏が答えたという。氏が死ぬまで必死に隠されたものこそ恥部ではなく、聖なる秘密であったのに。「日月ふたり」を書きつぐとしたら、そこにだけ意味があるのかもしれない86

しかし瀬戸内は、「『日月ふたり』を書きつぐ」ことはありませんでした。そこから判断しますと、この箇所は、一種の「捨てぜりふ」の感がないわけではありません。『わが高群逸枝』で堀場は、憲三から聞き取ったものを正確に質問と回答に分けて収録し、その内容に対して、さらに別の資料を援用しながら自身の解釈を述べるという、実に研究者らしい手堅い手続きにあって、「高群逸枝」を再現しようとしました。一方、「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」を書いた瀬戸内は、松本正枝から聞き取りをするや、情報提供者の品性や情報内容の真偽にかかわっての再検証という基本的手続きに立ち返ることもなく、逸枝の「恋愛事件」を興味深い主題としたうえで、ただ自分の筆力に任せて「高群逸枝と橋本憲三」を再現しようとしました。同じ人物を記述の対象としていますが、明らかに両者には、違いがあります。前者の作品からは、実在した人間にかかわって信頼に足る真実に近い知見を得ることができますが、後者の作品からは、実在人物のプライヴァシーにかかわるのぞき見的な欲求は満たされても、生涯にわたる全体的な真実の人物像を手に入れることはできません。それどころか、後者のような記述手法にあっては、記述されている本人はいうまでもなく、遺族や関係者までをも傷つけることがあるのです。その一例を、あえてここに紹介しておきます。

富本一枝(旧姓尾竹一枝)のいとこの尾竹親は、自著の『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』のなかで、次のようなことを書いています。

人間の言動というものは、決して一つの情景のみに定着して語られるべきものではなくして、その人間が生きた全存在の一環に組み込まれてこそ、はじめて、よりよくその映像を伝え得るものだと私は信じている。
 瀬戸内氏にしても、それが史実をもとにした小説で ・・・ あって ・・・ みれば ・・・ 、フィクションとしてのある種の無責任さに救われているのだろうが、時間の経過というものは、得てして、伝説という神話をつくり上げたがるもので、いつかはそれが事実とまではならぬとしても、史実に欠けた情緒の補足としてのさばり返ることがよくあるものだ。私が、実名、或いは史実にもとづいた小説の安易さを恐れる理由が、ここにもあるわけである87

以上の引用は、瀬戸内晴美の『美は乱調にあり』(文藝春秋、一九六六年)という本のなかで描写されている、青鞜社時代に紅吉(一枝の筆名)が引き起こした、いわゆる「吉原登楼」事件における竹坡(親の父親)の役割を巡っての論点が念頭に置かれて書かれている箇所であろうかと思われます。はっきりと「フィクションとしてのある種の無責任さ」、そして「小説の安易さ」が指摘されているところに、注目する必要があります。

すでに引用していますように、道子は、「日月ふたり」を読んだ「憲三氏の苦悩は深刻だった」と書き記しています。憲三もまた、尾竹親と同じ苦しみを味わい、そして死んでいったのでした。瀬戸内の『人なつかしき』のなかの「『日月ふたり』のひとり 橋本憲三」を読んだであろう静子も道子も、それについては、もはや何も語っていません。『わが高群逸枝』の共著者の堀場からの言及もありません。こうして、「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」を巡っての著者と遺族のあいだにあった確執は、自然消滅したのでした。しかし、これで静子と道子の苦悩が解消したわけではありませんでした。すでに新しい波が、ふたりに襲いかかろうとしていたのでした。

瀬戸内の『人なつかしき』が上梓される三箇月前の一九八三(昭和五八)年の七月、岐阜経済大学教授の鷲見 すみ 等曜による『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』が世に出ました。鷲見は、その「はじめに」において、「日本家族史の研究における高群逸枝氏の業績は巨大である。私もはじめ氏の説に依拠して、勤務校で社会学の講義を行なっていたが、氏の所論に多くの矛盾があることに気づきはじめた」88と述べます。こうしてこの時期、これが最初ではなかったかもしれませんが、高群史学の再検証の道が開くのでした。鷲見のこの本は、日本の平安時代の婚制が、東南アジア社会にみられる双系制に酷似している点を根拠に挙げ、高群が述べる母系原理に基づくものでないことを立証しようします。鷲見の視点は、次のようなところにありました。

柳田[国男]氏の、いわゆる「女性史」的観点のぬけた理論に対抗するためには、高群[逸枝]氏は、女性が太陽であったような母系時代の存在をかつて日本に証明せねばならなかったのであるが、上のようなあいまいな私造概念は、それを史料の豊富な奈良、平安、鎌倉にまで引下げて「実証」する可能性をつくり出したのである。そして高群氏は、あの厖大な著作のなかで思う存分に女性の黄金時代をうたいあげることができたわけである。高群氏のいう「母系原理」を問題としてとり上げる理由はここにある89

こうして鷲見は、平安時代の初期および中期の婚制が母系原理にもとづくものではないことへの証明に向かうのでした。

これまでに書かれた、瀬戸内晴美による「日月ふたり」、戸田房子の「献身」、もろさわようこの「高群逸枝」は、いずれも憲三の品行にかかわって話題化していました。しかし、ここへきて、歴史家としての逸枝の研究内容そのものが疑問視されるようになったのでした。鷲見等曜の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』を静子と道子が読んだことを示す資料はありませんが、読んでいたとしたら、あるいは、風聞などで耳にすることがあったとすれば、書かれてある内容については自ら専門的な判断を下すことはできなかったにしても、副題にある「高群逸枝批判」という文字を見ただけでも、息の詰まる思いをしたであろうことは、想像に難くありません。そのことと直接関係があったかどうかはわかりませんが、このころ道子は、死と向き合う日々を送っていました。といいますのも、一九八四(昭和五九)年の七月、道子は「いのちの切なさ 美しさ」と題して、北海道で講演をしていますが、そこで、このようなことを述べているからです。「自分一人で頑張ってみたり、絶望してみたりで、やっとやっと生きているんですけども、どうかした時に、ああ、今夜はもう死んでしまおうかしら、と思うこともあるんですよ」90。そう述べたあと、道子は、このようなことを話題に取り上げるのでした。

 今晩は死んでしまおうかしら、と思ったりする時に、私はちょっと山へ出かけるんです。ここへ来るまでに見たような、景色の所へ車をたのんで連れていってもらうんです。
 九州の屋根のようなところがありまして、その屋根の所に行きますとね、いろんな雑草がはえているのです。
 そこで、葉っぱが美しいので机の上にでも置こうかしらと思って、なんでもない、そこらへんのその葉っぱを持って帰りました。
 最近、あーんなに嬉しかったことがないんですが、見たことのない草だったものですから、山の上から持って帰って来て鉢に植えておきました91

すると驚いたことに、一週間が過ぎたころ、つぼみが現われ、小さな青紫色の花が咲き出したではありませんか。植物図鑑で調べてみると、その植物はどうやらハナシノブというらしい。続けて道子は、そのときの気持ちをこう語ります。「蕾がだんだんになっていて、どんどん花が咲いていくんですよ。はじめて見たものですから、もう嬉しくて嬉しくて。私が非常に落ち込んでいた時でしたから、今度は『はなしのぶ』という山の花に助けられました。私の場合は、おちこんでいる時に誰か助けてくれる神様『助け神様』が来て下さる――。それは、ある時には、誰か人が見えたり、ある時は草であったりしまして」92

「助け神様」を求めての山野歩きは、このころの道子の日常でした。次は、一九八六(昭和六一)年一二月刊行の『陽のかなしみ』の「あとがき」のなかの一節です。

 そういう友人たちにここ数年機会を作ってもらっては、あちこちの山あいに連れて行ってもらっている。各自の時間や予算のこともあって、今のところは、鹿児島県や宮崎県近くや、多少の越境をして大分県九重高原に入りこんだりしているが、主に熊本県境を巡っているのである。
 そのような山々は、たいてい川の源流でもある。川の源流へゆきたくて、山にゆくというのが本当かもしれない。……
 色の調べをあらわすことばがむかしあった。かろうじて、まだその調べの残されている山野をゆく。自分の蘇生のため93

『陽のかなしみ』という書題から連想しますと、作家としては太陽の日差しのなかにあれども、心はいつも闇で閉ざされている、そのような道子の姿が浮かび上がってきます。『陽のかなしみ』が年末に刊行されると、翌年(一九八七年)の三月、道子は六〇歳の還暦を迎えました。

一方、静子の思いは、どのようなところにあったでしょうか。この時期の静子は、逸枝と憲三の遺品を巡って、苦悩のなかにあったのではないかと想像されます。道子は、こう書いています。

[橋本憲三先生]ご生前私は、彼女[高群逸枝]に関する資料をいただきたいとお願いしたことは一度もなかった。橋本先生ご死去の直前からそのあとにかけて、彼女の女性史研究の資料をめざして、多くの人たちが意思表示をはばからないないのを知って、私はある困惑に包まれた。憲三先生が死の直前まで「彼女のゴミ類」を焼却しようとされ、妹の静子さんに実行させられたのは周知のことである94

その後も静子は、憲三が書き残した遺言の内容に従って極めて忠実に行動していたものと思われます。といいますのも、逸枝が『女人藝術』に寄稿した文のすべてが、一九八六(昭和六一)年に龍溪書舎から刊行された復刻版からは、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、削除されているからです。静子自らが、自分のことを「遺言による高群逸枝著作権継承者」95と書いていますので、『女人藝術』の復刻版が世に出るに当たって逸枝の文の掲載を見送る判断をしたのは、静子本人だったものと考えられます。憲三の遺言書は現存していないようですが、おそらくそのなかに、『高群逸枝全集』以外の著作物は、今後いっさい人の目に晒してはならぬといったような指示がなされていたのではないかと想像されます。

逸枝の手稿である「平安鎌倉室町家族の研究」が、栗原弘の手によって校訂され、国書刊行会から上梓されたのは、『女人藝術』の復刻版が出た前年(一九八五年)のことでした。この「平安鎌倉室町家族の研究」は、『高群逸枝全集』に未収録の原稿です。それへと至った経緯について、憲三は、最終回の配本となった第七巻「評論集・恋愛創生」の「解題/編者」のなかで、次のように書いています。

 全集には、はじめ、もう一巻、「平安鎌倉室町家族の研究」を予定していたが、編纂の最終段階で検討の結果、この原稿には書き込みが非常に多くて接合不明の箇所なども少なくなく、ことに表類にいっそうその難があり、その他にも書き入れ指定が果たされていない等、そのまま活字製版に付することは可能でないため、やむをえず、これは除外されるにいたった。別に、「日本古代婚姻例集」の採録も一応考えられたのであったが、その成果の精髄は「平安鎌倉室町家族の研究」とともに「招婿婚の研究」に吸収されていることではあり、強いて採録するにもおよぶまいとして、同じく除外されることになった96

こうした背景に照らして考えますと、校訂本『平安鎌倉室町家族の研究』が刊行され、世に流布したことに、静子は、遺族として、また著作権継承者として、驚きを禁じえなかったものと推量されます。

校訂者である栗原弘は、生前の橋本憲三とどのような関係をもっていたのでしょうか、それを見てみたいと思います。憲三の一九七三(昭和四八)年七月一〇日の「共用日記」に、栗原弘・葉子夫妻の来水の様子について、こう記されています。

栗原弘・葉子さん、河野さんの紹介名刺をもってみえる。同志[社]大院生(3年)、高群研究(婚姻)をしているとのこと。6時ごろ水天荘へ。葉子さんは同大学美術科出身。また院生になって勉強したいとのこと97

続く七月二三日の「共用日記」には、「同志社大学院生(3年)栗原弘さんみえる。1月ぐらい下宿して、高群婚姻史についていろいろ質問したいとのこと。下宿について西条美代子さんを紹介する」98、さらに七月三一日の「共用日記」には、「栗原さん、『平安鎌倉室町家族の研究』コピーはじめ、市役所で(ゼロックス)」99との記載があります。

一方、『日本古代婚姻例集』の「あとがき」で栗原葉子は、憲三との出会いについて、このように書いています。

 私達は水俣の図書館で道を尋ねて高群のお墓を詣でたあと、憲三氏を訪ねたのだった。そのとき何を語ったのかほとんど記憶がない。ただ氏は、「革命はおきませんかネ」とつぶやかれた。倉庫の二階のその部屋にはベッドのうえに高群の大きな写真が飾られていて、氏の部屋の窓から逸枝の眠る山の中腹を望みながら「自殺しようとは思いませんが生き永らえようとも思いません」とおっしゃるような生活を送っておられた。憲三氏はその三年後の昭和五十一年死去された。……
 氏の葬儀の後、憲三氏の令妹橋本静子さんから高群の未完の遺稿「平安鎌倉室町家族の研究」と「日本古代婚姻例集」、高群の使っていた書物十冊ほど遺品分けのように譲り受けた100

栗原弘の校訂による『平安鎌倉室町家族の研究』が、一九八五(昭和六〇)年二月に国書刊行会から上梓されると、続いて、栗原葉子と栗原弘のふたりの校訂になる『日本古代婚姻例集』が、一九九一(平成三)年五月に高科書店から刊行されるに至ります。「平安鎌倉室町家族の研究」も「日本古代婚姻例集」も、「強いて採録するにもおよぶまいとして」、『高群逸枝全集』から除外されていた逸枝の草稿です。憲三にとっては、いわば「彼女のゴミ類」にすぎなかったものです。その遺志を継ぐ静子の目には、この二著の刊行は、どう映ったでしょうか。静子は、何も語っていません。

それから三年が経過しました。一九九四(平成六)年の九月、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が、高科書店から世に出ました。著者の栗原弘は、その「はしがき」において、こう述べています。

 高群逸枝は『母系制の研究』『招婿婚の研究』という大著を発表し、日本の原始古代社会に母系制が存在し、女性の地位が高かったことを主張した。今日、この高群学説には批判と賛同が複雑に交錯し、どちらかといえば、批判の方が多いといえるであろう。しかし、婚姻史・女性史の分野では今なおその影響力は少なくないといえる。筆者は大学院生の頃、村上信彦の論文に影響を受け、高群学説に傾倒した。その当時は、同学説が正しいと信じて二、三の論文を執筆した。その後、高群の遺稿『平安鎌倉室町家族の研究』と『日本古代婚姻例集』の出版にたずさわり二著を世に送り出した。二著は、高群学説の実証部であった。筆者は二著の校訂作業の過程で、高群学説の実証には根本的な誤りがあることに気付いた。
 高群学説の誤謬には洞富雄から鷲見等曜まで、実にさまざまな批判が行われてきた。筆者はそれらの多くが正しいことが理解できるようになった。しかしながら、従来の批判は、彼女がひたすら真実を追求した結果が不幸にも誤っていたとする見解に立っていたと思われる。ところが、筆者の追調査によれば、高群学説の誤謬は彼女の極めて意図的な操作改竄の産物であったことを確信するに至った101

鷲見の『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』は専門書であったこともあり、一般の人の目には留まらなかった可能性がありますが、栗原弘のこの本は、同じく学術書ではありますが、地元紙である『熊日』の書評で取り上げられたということもあり、いやただそれだけではなく、評者が、逸枝の書は「極めて意図的な操作改竄の産物」であるとする著者の知見に言及していたこともあり、これまで逸枝の業績に全幅の信頼を寄せていたであろうと思われる多くの県民読者に、大きな驚きを与えたにちがいありません。おそらく、静子も道子も、この書評を読んだものと思われます。

書評の執筆者は、かつての『高群逸枝雑誌』への常連寄稿者であった、女性史研究家の河野信子でした。そのなかで河野は、この『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』を、次のように紹介しました。「高群逸枝の著作たちには魔力がある。読み始めたら、やめられなくなるのである。大著『招婿婚の研究』もまた例外ではない。本書はこの『招婿婚の研究』を〈だまし絵つき一大叙事詩〉とみなして、このだまし絵の図(だまし絵には地=ぢ=と図があって、そのいずれをとるかによって、人はそれぞれに異なった見解をもつ)を綿密に累積する手法で解析したものである」102。続けて河野は、本書の特徴と、それが歴史学に及ぼしている影響について、以下のような見解を示します。

 『日本霊異記』『今昔物語』『蜻蛉日記』をはじめとする数多くの文献史料の検討を経て、高群型抽出法には、ただの〈うっかりミス〉でない「意図された」抽出加工法が使われているといった結論を、栗原氏は提示した。……
 本書は、母系反証の書というよりは、史料の密林のなかの抽出法検証としてのまとまりを持ったものである。だが、本書の図もまた反証法のスタイルをとっているために、既に女たちのなかから、栗原氏の反証に対する反証といった、反例探しがはじまっている103

それでは、『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』には、どのようなことが具体的に書かれてあったのでしょうか。その内容の中心となる部分を、幾つか以下に引用します。著者は、次のように、高群史学が「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」によって成り立っていることを説きます。

このように、高群が、事実に反して、妻方提供型を主流として描いたことによる誤謬・説明不足には、実に明快な法則性がみられる。
  婚姻の前半期(詳述)  婚姻の後半期(略述)
  外祖父と外孫(詳述)  祖父と内孫 (略述)
  母子関係  (詳述)  父子関係  (略述)
  両親と娘  (詳述)  両親と息子 (略述)
  夫と妻方  (詳述)  妻と夫方  (略述)
  家の女系伝領(詳述)  家の父系伝領(略述)
右のように、極めて意図的に、一方に偏った叙述構成となっている。このような「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」こそ、高群自身が、自身の誤謬を認めていた、動かぬ証拠というべきである。意図の内容を一語でいえば、族制上の非父系的(高群によれば母系制)側面を前面に押し出して、父系的側面を無視したわけである104

それでは、こうした「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」は、いかなることが原因となって生じたのでしょうか。高群史学にあっては、「男性史から女性史を自立させ、女性解放の歴史的根拠を打ち立てることが目標とされていた」105とみなす著者は、「整然とした誤謬 ・・・・・・・ 」の発生要因を、自身が抱く「理想」を優先させ、見出した「史実」を隠蔽したことに求めようとします。

 以上のような前提に立脚する高群の歴史研究は、避けて通ることができない難問を内包していた。一方で極めて実証的な作業を行いつつ、他方では、立証不可能な理想像を追い求めていたからである。ここでは、理想像への憧憬の強さが、客観的事実における整合性の範囲を逸脱し、過去の史実を改変させる危険性が内在していた。すなわち、高群史学とは、女性に関する歴史を、冷静にみようとする存在史ではなく、女性に生きる希望を与えることを使命とした当為史であったと言えよう。ここに、高群史学の特質(生命)があり、また問題点もあったのである。高群が、歴史研究の全生活中で、最大のエネルギーを投入したのが、五〇〇家族の調査であった。ところが、高群は、五〇〇家族の数量的分析結果をどこにも発表していない。五〇〇家族という膨大な事例を婚姻形態に分類し、それを各時代別に数量的に示せば、読者には、各時代の婚姻居住形態が一目瞭然で理解されるはずである。しかし、高群は、それらの正確な調査結果の報告を、明らかに拒否している。理由は、はっきりしている。高群が発見した史実 ・・ と彼女の理想 ・・ とが、齟齬していたからである106

さらに著者は、こうした「意図的な操作改竄」あるいは「創作原理」は、単に『母系制の研究』や『招婿婚の研究』といった学術の範囲を超えて、日記等を含む逸枝の全著述に共通する特徴であるとして、その敷衍化を試みます。

 高群の誤謬問題について、参考になるのは、『火の国の女の日記』である。その中で、高群は、酒乱の父に苦悩した家族であったにもかかわらず、「一体的同志的」結合を遂げた理想的夫婦であるかの如く描写している。これは、明らかに、自己の理想的夫婦像を、父母に投影した、事実に反する虚構である。彼女の場合は、通常一般の人間が、親族の恥を隠すために、事実を改竄する性質のものと一線を画さなければならない。というのは、自己の理想のために、事実が曲げられるのは、彼女の著作に共通しているからである。高群は、自分の父母の過去の事実を正確に把握しており、また叙述のための方法論上の錯誤があったとは思われない。その上で、高群は、極端な事実の変容をおかしているのである。……ただし、『母系制の研究』『招婿婚の研究』は研究書であり、日記と同等に扱うことはできない。もちろん、それは通常の人ならばそうなのである。高群はそうではない。彼女には、詩も研究書も日記も同等の作品なのである。それ故に、すべてに共通した創作原理が存在している107

一九九四(平成六)年の九月に『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』が刊行されると、学問の世界へとその影響は広がってゆきました。その一例を、翌年(一九九五年)一〇月に福岡市女性センター「アミカス」を会場に比較家族史学会との共催によって開かれたシンポジウム「『国家』と『母性』を超えて――高群女性史をどう受け継ぐか」に求めることができます。発表者は、石牟礼道子、栗原弘(『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』の著者)、西川祐子(『森の家の巫女 高群逸枝』の著者)の三人で、司会を上野千鶴子が務めました。各自の当日の発言内容をまとめた、このシンポジウムの報告書は、一九九七(平成九)年三月に、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)として、早稲田大学出版部から公刊されました。そのなかに、道子の「表現の呪術――文学の立場から――」を見ることができます。そのなかには、「当日のレジュメ」も再掲載されており、道子は、その冒頭に、こう書いています。

 かの有名な、
 われ日月の上に座す
 詩人 逸枝
というのを、まだわたしは読めていないと近頃思う。栗原弘氏の提出された、高群逸枝の歴史改竄説以来、結構このあたりでも、藪の賑わいが聞こえてくるからである。逸枝の業績を一瞥もしないで「やっぱりそうか」と鬼の首でもとったような揶揄が聞こえてくるけれども、もとよりそれは栗原氏の望まれることではあるまい。私は、壮大な仮説の古典として高群史学を読みたい108

当日の道子の実際の発言がどうであったのかは再現できませんが、その後に起稿した「表現の呪術――文学の立場から――」のなかから幾つか以下に引用して、「高群女性史をどう受け継ぐか」という主題に対しての道子の考えを探ってみることにします。道子は、どのような観点に立って、栗原弘の説く「意図的な操作改竄」から逸枝を救難したのでしょうか。まず道子は、「詩人としての逸枝」について言及します。

 栗原さんから投げかけられました高群さんの歴史歪曲説は大変ショックでございます。……
栗原説の事件で、わたくし、はっといたしましたのは、かの有名な、
 汝洪水の上に座す神エホバ
 われ日月の上に座す詩人逸枝
という詩を若年の折に、発表致しまして、大方の顰蹙を買いました。……
 詩人、芸術家というものは、その現身は世俗の中にあるほどに、巷を歩けば千の矢が飛ん来るという事も作品に書き付けております。そういう風にしか生きられないのが詩人ではないでしょうか。……
同時代の詩人たちにくらべて、熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、「森の家」も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました109

次に道子は、「詩から学問へ」という文脈で、逸枝の業績を語ります。

詩というものは、その世に対して即効的で有効性のあることをいえるわけではない。表現と言うのはそういう宿命を持っています。ですから、その詩は、一種、呪術的に成らざるを得ない。古代呪術の力をもった詩人が希にいます。学術論文でそれをやろうとして、人跡未踏の女性史というものに取り組んだ時、彼女の内なる詩は点火されて……鳥瞰的な表現を幻視したのではないか。そういう欲求がせめぎ合ったのではないか。……
高群さんは、こうあって欲しいという女たちの国を最高に良い形で作り上げてみせる、という詩と学問との刺激的調和を、誰も書いた事のない、一種の飛躍的新世界。神話劇みたいな大叙事詩を書こうとする衝撃が、噴火状態になって出てきたのだと思います。そのとき、彼女にはやはり歴史上の女たちが乗り移って、心象世界の核に成ったのだと思います。
 そうすると、今まで調べてきた平安・鎌倉・室町の五百家族、藤原氏の日記の全部を読破するということで蓄積してきた資料の中から、彼女の詩的な欲求に応じて、資料の方が波頭を立てて彼女と呼応したのだと思います110

このように道子は、まず最初に詩人の幻視があり、次に史料から聞こえてくる歴史上の女たちの声に耳を傾け、最終的にそれを歴史的時間軸に並べ直し全体が俯瞰できるようにしたものが高群史学ではないかと、いうのです。栗原学説が、「意図的な操作改竄」という用語を使って高群史学を否定的にみなしたのに対して、明らかに道子は、それを肯定的にとらえ、詩人のもつ創造的エネルギーの産物として理解したのでした。果たして逸枝は、日本史学上の「ペテン師」ないしは「犯罪者」だったのでしょうか。それとも、女性史という新しい学問の「創造主」ないしは「預言者」だったのでしょうか。道子は、憲三の言葉を紹介して、このようにまとめます。

 橋本憲三先生は、常々、「あなたは、高群逸枝を信じなさい」とおっしゃっていました。私が聞こうとすると、早くも察知されて、「信じなさい、マルクスが、初期の頃に、人類の精神の富ということをいいましたが、高群が定説化した女性の為の精神の富は、みんなで、実らせて行く価値があるとぼくはおもいます。だから信じなさい」、といわれたことが、今思い当たります。その後、私は、水俣の事情とか、視力の事情とかがあって物理的に時間がとれなくて、勉強ができていませんが、今までやれずに来たのも幸運と思います。皆さんの実りのある研究成果を頂戴する事ができて、有難いと思っています111

それでは最後に、再び「当日のレジュメ」から一節を、少し長くなりますが、引用します。これが、このシンポジウムにおいて、道子が最もいいたかったことではないかと、推量するからです。

 人跡未踏であった女性史の原野にわけ入るのに、地母神たちの力に押されて、伏在する女たちの意識の総体に言葉を与えてきた逸枝を読みたいと思う。誰がこのことをなしえたろうか。壮絶である。お手本はなかった。創りあげてゆく仕事だった。創作というより創造であった。国づくりでさえあった。その体系は自ずから鉱脈の露頭がつながるようにあらわれたのではないだろうか。彼女自身「ボダ」をかぶりながらの仕事である。「一坑夫」の仕事だと謙遜している。
 学問的業跡というものは、いつかは乗り越えられる運命にある。そして学問というものは、乗り越えられてこそ意味があるのではないだろうか。しかしながら、あとからあとから出現する学説が流砂のように去ったあと、その流砂に洗われて、古典となって発光しながら横たわる作品もある。
 書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである112

道子の「表現の呪術――文学の立場から――」が所収された『ジェンダーと女性』が発刊されたのは、一九九七(平成九)年の三月一〇日でした。逸枝が亡くなって三三年の歳月が、そして憲三が亡くなって二一年の月日が、そろそろ流れようとしていました。発刊の翌日、道子は七〇歳の誕生日を迎え、それからおよそ四箇月が立った七月二五日に、静子は八六歳になりました。この間道子は、決して変わることなく、憲三については「先生」の敬称をつけて「橋本憲三先生」と書き、他方で、道子と憲三の契りの「立会人」となった静子をしっかりと支えました。おそらく道子は、こころの慰めに、一部この本を静子に献呈したにちがいありません。そのなかに見出した、「書かれる前から高群逸枝は古典として出現したのだった。それゆえ、稀なる介助者があらわれた。夫妻の業跡の意味を私はそうとらえたい。二人を洗う歳月の砂は、むしろ必要なのである」という道子の予言に、静子は、何かこころが洗われる思いをもったのではないかと推量します。

予言どおりに、さらに新しい「二人を洗う歳月の砂」が、それから二年後の一九九九(平成一一)年二月に、沖合からの流砂となって静子と道子の立つ渚にたどり着きます。それは、平凡社から刊行された『伴侶 高群逸枝を愛した男』という本でした。著者は、栗原弘の妻の栗原葉子で、静子にとって過去に面識のある女性でした。この本の「あとがき」で著者は、このように書いています。

 橋本憲三については、夫との会話の中で度々話題にのぼっていたことだった。だが、私は自分で執筆するつもりはなく、堀場清子氏か石牟礼道子氏がいずれ書かれるであろう決定版憲三論の、ただ、読者でありたいと思っていた。で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した113

道子は先のシンポジウムで、こう語りました。「熊本時代も処女詩集の時代も『婦人戦線』のときも、異性との家出事件も、『森の家』も、終始一貫、彼女は、一般社会からみれば、異様で、エキセントリックで、トラブルメーカーでさえありました」。その高群逸枝を支え、生涯をともに過ごしたのが、夫の橋本憲三でした。道子も静子も、はじめて目にする憲三に関する評伝ですので、その内容に強い関心を向けたものと思われます。とりわけ、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、そして、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、さらには、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執について、著者の栗原葉子が、それをどう書くのかが、ふたりにとっての最大の関心事となったにちがいありません。そこで、ここではその三点について、紹介するに止めることにします。

それではまず、著者の夫の栗原弘が指摘した、逸枝作品の「意図的な操作改竄」説について、著者は、どう書いているでしょうか。以下に引用します。

 厖大な文献から練り出された高群史学の心臓部は、日本では平安中期になって夫婦の同居が開始され、その婚姻形態は夫が妻の家に住む妻方居住婚が一般的で、婿取式後の夫婦は絶対に夫の家に帰らないという点にあった。それを根拠にして、日本の婚姻制度は古代より一貫して家父長制であったのではなく、古代母系家族から家父長的家族へ移行したとするのが高群学説の骨格であった。だが、彼女とほぼ同じ一〇年をかけて原資料に当たって逐一検証した栗原弘によれば、高群が自説の根拠とした平安中期の妻方住居婚の事例は、高群が調査した五百家族中、藤原道長家族のたった一例のみ。道長家族は主流どころか例外的一例に過ぎなかった。が、問題点はこの次である。《女性の地位が高かった母系古代から、父系に移行して女性の地位は低下したのだ》という予めの構想のために、逸枝は調査結果そのままを提示するのではなく、史料操作や改竄まで行って婚姻史を体系化してしまったのである114

それでは、そうした逸枝の行為を、憲三はどう見ていたのでしょうか。筆者は、このように推断します。

 ところで、こうした逸枝の「意思的誤謬」を、夫の憲三が知らなかったということがありうるだろうか。逸枝の書く一行一句一字を余さず読み、書き過ぎた指の痛みや背の凝りまで体験を共有していた憲三が、これを知らなかったという方が不自然である。否、それどころか、憲三は隅から隅まで知り尽くしていたのであった。……あるがままの客観的史実の上に構築するのが、実証史学の学問的誠意と真理であるとするならば、憲三は、いわば歴史学の自殺行為にも等しい改竄の共犯者だったのである115

次に、記述内容に関わる憲三からの執拗な追及によって「日月ふたり――高群逸枝と橋本憲三――」の連載が中止に至ったと語る著者の瀬戸内晴美の言説について、見てみたいと思います。著者の記述の主要部分は、以下のとおりです。

 瀬戸内が発表した内容は、水俣で人生の最晩年にあった憲三にとって、古傷をえぐり出されるような痛恨事であった。当事者の胸奥深くに封印されたと思っていた事件が、白昼に引き出されたのであるから。憲三は瀬戸内宛に長い手紙をしたためた。この時の憲三との経緯を、後に『人なつかしき』に記した瀬戸内によれば、憲三の追及は執拗を極めたようである。松本に直接取材した瀬戸内に、松本が逸枝の手紙を秘蔵しているのではないかと疑心暗鬼となって問い、異常なほどしつこく言ってきて、瀬戸内が「見せられていない」と言っても信じなかったこと。怨念をこめて延島夫妻を悪く言う意固地さに凝り固まった気配のヒステリックな憲三の追及に、とうとう瀬戸内は憲三夫妻の評伝を書きつづける意欲を失ったという116

最後に、逸枝の入院と臨終に際しての市川房枝のグループと憲三とのあいだに生じた確執については、著者は、どう書いているのでしょうか。それを見てみたいと思います。

 逸枝の入院と死をめぐる経緯は、逸枝の死後一〇年目に出た戸田房子のモデル小説「献身」(『文学界』)によって、さらに憲三の逝去後には、もろさわようこが「高群逸枝」(『近代日本の女性史』)を書いて広く世間の目に触れた。私はここでこれらの作品の出来を云々するつもりは全くないし、また、市川房枝ら高群逸枝著作刊行後援会のメンバーであった人々と憲三のどちらが正当であるかを論議するつもりはない。ただ、双方の齟齬のあまりの大きさに、憲三の生き方がいかに世間からは理解され難いものであったかを知るのみである。この点については後に触れる117

そして著者は、この点について、再びこのように触れています。

 精神も肉体も、まさにその最後の光芒を放つ瞬間に、逸枝が会いたいと望んだのは憲三ただひとりであったろう。森の家ではほぼ三〇年間、夫以外のほとんど誰にも会わずにきた逸枝にとって、何の身構えの必要なく向かい合えるのは憲三だけであった。逸枝自身が面会謝絶の隠棲生活を望み、憲三は世間通常の価値判断からいえば、自己中心的な男の、妻の占有物化と誤解されなくもない、その風変わりな望みを引き受けた。だが、実際に妻の肉体の死が目前に迫ってみれば、憲三とて狼狽する。嫌がる逸枝をなだめて医者に診せ、ためらう彼女を諭すようにして入院させる。失策だったと憲三は後悔するが、あとの祭りであった。入院してみて初めて失策に気がついた憲三は、病院で必死に抵抗したのだった。面会謝絶に、個室に、と。逸枝の柩を前にして霊安室は修羅場となった118

こうした内容をもつ栗原葉子の『伴侶 高群逸枝を愛した男』を読んで静子と道子は、どのような感想をもったでしょうか。明らかにこの三箇所は、栗原弘の『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、瀬戸内晴美の『人なつかしき』、戸田房子の「献身」ともろさわようこの「高群逸枝」をなぞるようにして描写されており、ふたりはなぜ、『高群逸枝雑誌』終刊号(第三二号)に掲載していた憲三の「瀬戸内晴美氏への手紙」も、憲三の「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」も、そして静子の「もろさわよう子様へ」も、同じように十全に検討の俎上に取り上げてもらえなかったのか、同様に、『ジェンダーと女性』のなかの道子の「表現の呪術――文学の立場から――」も、なぜ適切に拾い上げて検討してもらえなかったのかを思うにつけ、その一方的観点に立った、著者にとって都合のいい憲三批判の単なる羅列に、言葉を失ってしまったのではないかと愚考します。ふたりは、この本について、何も語っていません。これもまた、必要不可欠な、逸枝と憲三の「二人を洗う歳月の砂」であってみれば、多弁を労せず無言のうちにそれを甘受し、いつかは、逸枝の作品同様に、ふたりの「一体化した近代の夫婦」像も、神話世界の「双頭の蛇」のごとくに、あらゆる歴史の流砂に耐え忍んだ古典像となって発光するにちがいないことを静かに夢想していたのかもしれません。

以下は、再び「あとがき」からの引用です。

で、待った。待って、待って、待ちくたびれて、とうとう大胆にも自分で筆を執ることを決意した。だから、こうして書き上げた今も、大先輩の前に頭を垂れて審判が下されるのを待っている気分である119

一見挑発とも受け止められかねないこの言葉を、堀場清子と石牟礼道子がどう受け止めたのかは明確にするだけの資料が残されていないようです。また、本人たちが「審判」を下す目的で上梓したのかどうかもわかりませんが、遅れること二〇〇九(平成二一)年に、堀場清子は『高群逸枝の生涯 年譜と著作』を世に問い、一方の石牟礼道子は、二〇一二(平成二四)年に『最後の人 詩人高群逸枝』を世に出すのでした。前者の作品は、これよりのちのさらなる実証研究になくてはならない、精緻を極めた、逸枝の「年譜と著作」が綴られ、後者の作品において、自身にとっての「最後の人」が橋本憲三その人であることを告白するのでした。

道子は、逸枝の死後、東京から水俣へ居を移した憲三の晩年の様子を、こう描写しています。

 水俣に移られてから、全集の売行と比例して訪問者たちがこの部屋に「防ぎようもなく侵入し」はじめていた。森の家の原則はくずれかけていた。卒論を控えた学生たちとか、新聞の人たちとか、いわゆる逸枝ファンの人たちだったが、なぜ氏が逸枝の蔭の人として終始されたか、その秘密を知りたい、隠されている ・・・・・・ それを直接氏の口からききたい、というのはその人たちのやみがたい希求のようであった。氏はたいてい寡黙に微笑して、例のように額の汗を拭きながら悪戦苦闘して答えられる120

「防ぎようもなく侵入し」てきた訪問者には、秋山清、瀬戸内晴美、鹿野政直、堀場清子、栗原弘、栗原葉子も含まれます。彼らはみな、憲三の「秘密を知りたい、 隠され ・・・ ている ・・・ それを直接氏の口からききたい」と思って、憲三の住む水俣の「森の家」に侵入してくるのです。憲三にとっては、ありがたくもあり、反面、迷惑なことでもあったでしょう。そののち彼らが書いたもののなかには、憲三本人が自覚していた逸枝と自身の真実の姿とは大きく異なる内容でもって、世に発表されたものもありました。憲三は、いわれなきその苦しみのなかで、自身の死に向かうのでした。

憲三の死後、それでも、逸枝と憲三に関心をもつ人は絶えませんでした。もろさわようこは、風体貧しく、品行卑しき男として憲三を罵りました。瀬戸内晴美は、自身の小説の連載断念に至った原因を憲三の意固地でヒステリックな性格のせいにしました。栗原弘は、逸枝が書いたすべての著作が事実を隠蔽した偽造品であると推断しました。栗原葉子は、人前に仁王立ちし、ふたりの恥部を隠す熱演者として憲三を描写しました。こうした幾度となく押し寄せてくる受難のなかで、憲三同様に静子も、自身の晩年を過ごすのでした。静子にとっては、なぜここまで、兄夫婦が誹謗中傷の渦に巻き込まれなければならないのか、自分自身、理解ができなかったかもしれません。それは、道子も同じであったでしょう。といいますのも、道子が描く憲三像は、次のようなものだったからです。

 一人の妻に「有頂天になって暮らした」橋本憲三は、死の直前まで、はためにも匂うように若々しく典雅で、その謙虚さと深い人柄は接したものの心を打たずにはいなかった121

誰しも人は最期を迎えます。静子も例外ではありません。憲三と藤野を看取ったのは、近所で開業する女医の佐藤千里でした。しかし、静子の死期が迫ったときは、すでに佐藤は水俣を離れて、熊本市内に居住していました。佐藤のもとに、静子の孫から電話がありました。「おばあちゃんが、三日前から何も食べんようになって……」122。翌朝、さっそく佐藤は静子を訪ねます。以下は、佐藤が書く、そのときの静子の様子です。

 半年前と何等変った様子もなく、にこやかに私を迎えたシズコに、一瞬私は狐にだまされたような気がして室内を見回した。古い肘掛椅子もベッドも元の位置で、壁にはシズコの両親や兄夫婦の写真が同じ位置に掛けてあり、机の端に重ねてある文庫本の数冊も変りなかった123

室内の様子に、何も変わりはありませんでした。そして同時に、食べ物を口に含まないという静子の強い意思にも変わりがなかったようです。

「手足の不自由な患者さんには、こうして食べてもらうのよ」と強引に粥の匙を運んだ私をシズコは苦笑しながら拒んだ。しかし遂には口を開いて飲み下し、ついでに押込んだ持参のチョコレートも食べて「ありがとう、おいしかった」と頭を下げた。しかし、二日目からはもう口を開いてくれなかった。そしてその後は飢えたように話を続けた。兄夫婦の質素だが愛に満ちた日常のこと、私が立会うことになった兄憲三の最後のこと、九十二歳まで楽しんだ外国旅行の思い出等である124

静子の絶食は続いていました。それを聞いた佐藤は、二度目の訪問をします。そのとき、ひとりの女性を誘いました。「『高群逸枝の作品を読む会』を主宰してた女性の来訪がよほど嬉しかったのだろう。百歳近い老女とは思えない位若やいでいた」125。佐藤は、おそらく配慮のうえでのことでしょうが、実名を挙げていません。しかし、この女性が、石牟礼道子であることは、まず間違いないでしょう。そのときまでに道子はすでに水俣を出て、熊本市内に仕事場を設けていました。その女性に静子は、こう言葉をかけました。

枯木が倒れるように自然に朽ち果てたいと思うんだけど、周りの人達になるべく世話をかけたくないの。お金を出し合って飛行機をチャーターし、ゴビ砂漠の真中辺りに置いてきて欲しいなんて、貴女達と話したこともあったわね126

それに対して女性は、不満そうに、こう答えます。「厄介な病気で、何とかして一日でも長く生き延びたいと必死で療養している人も多いのに、ぜいたくだと思うわ」127。佐藤とその女性が辞するとき、静子はふたりの手を握って、「私が死んだら抹香くさい事は止めにして、上等の酒でも飲んでお祝いしてね」128と、告げました。

佐藤が三度目に水俣に行ったのは、静子の絶食が五十日以上も続いていた三月の中旬のことでした。暖かい陽ざしが新緑に降り注ぎ、ウグイスが鳴いていました。その日静子が、「あとどの位したら母や兄達の所に行けるかしらね。せいぜい二・三週間と計算していたのは、私の大きな誤算だった」129といって苦笑すると、佐藤には返す言葉がすぐに見つかりませんでした。その後佐藤は、持病のリウマチが悪化し、続くお見舞いは断念することになります。

そうしたなか、例の女性から連絡がありました。「ポータブルトイレに自力で移ることが困難になったと悲しそうでした。でも私が行くと嬉しそうに話され、不思議としか言いようがありません」130。それから六日目の、二〇〇八(平成二〇)年四月一五日、静子は息を引き取りました。食を断って七五日が立っていました。享年九六歳でした。亡骸は、熊本大学医学部に献体することが事前に取り決められていました。見送った女性は、このように佐藤に報告しました。

大学から迎えに来たシンプルなワゴン車で、名残の桜がひらひら散りかかる中を、シズコさんは自分で望んだように、家族と友人二人に見送られてゆっくり水俣川の土手を上って行かれました131

静子が遺していた紙片には、「生き抜いて、そして死んでいくことはこわくない。むしろ勇気リンリン」132と、書き記されていました。

静子の遺体を乗せた車が、サクラの散るなか水俣川の堤を過ぎ去るとき、それを見送る道子の胸には何が去来したでしょうか。かつて演題に使った「いのちの切なさ 美しさ」だったかもしれません。逸枝亡きあと、「森の家」の憲三の胸に飛び込んだのは、一九六六(昭和四一)年六月のことでした。ここで憲三と契りを結びます。立会人は、水俣に住む憲三の妹の静子でした。その静子が、いま亡くなり、帰らぬ人になりました。これで、「森の家」を知る、憲三、藤野、静子のみなが黄泉の客となって、道子から旅立っていったのでした。ひとり道子は遺されました。哀愁が忍び寄ります。そのとき道子は八一歳。その後に続く道子の最晩年の物語は、次の最終章「志村ふくみ監修の能衣装による石牟礼道子の『沖宮』初演」で描くことにします。

(1)佐藤千里「寄田校の頃〈坂崎カオル聞き書き〉」『高群逸枝雑誌』第24号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1974年7月1日、11-12頁。

(2)佐藤千里「墓参り」『高群逸枝雑誌』第29号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1975年10月1日、15頁。

(3)石牟礼道子「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第15号、1977年春季号、56頁。

(4)橋本憲三「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』第31号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1976年4月1日、26頁。

(5)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、56-57頁。

(6)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、59頁。

(7)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、同頁。

(8)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、57頁。

(9)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、61-62頁。

(10)石牟礼道子「橋本憲三先生の死」『婦人公論』第61巻第10号(第725号)、1976年10月、67頁。

(11)鹿野政直・堀場清子『高群逸枝』(朝日評伝選一五)朝日新聞社、1977年、327頁。

(12)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、62頁。

(13)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、64頁。

(14)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、63-64頁。

(15)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、64頁。

(16)佐藤千里「優しきめぐり会い 逸枝と憲三と私」『西日本新聞』1976年8月5日、11面。

(17)橋本静子「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、8頁。

(18)前掲「橋本憲三先生の死」『婦人公論』第61巻第10号(第725号)、67頁。

(19)同「橋本憲三先生の死」『婦人公論』第61巻第10号(第725号)、同頁。

(20)『暗河』第一五号に掲載されている『椿の海の記』の広告文の一部。

(21)石牟礼道子『椿の海の記』(朝日新聞社、1976年)の「あとがき」、ノンブルなし。

(22)同『椿の海の記』の「あとがき」、ノンブルなし。

(23)同『椿の海の記』の「あとがき」、ノンブルなし。

(24)前掲『高群逸枝』(朝日評伝選一五)、328頁。

(25)石牟礼道子「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』暗河の会(編集兼発行人/石牟礼道子・松浦豊敏・渡辺京二)、第14号、1977年冬季号、21頁。

(26)同「『最後の人』覚え書――橋本憲三氏の死――」『暗河』第14号、1977年冬季号、10頁。

(27)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、53頁。

(28)渡辺京二「Ⅱ詳伝年譜(1969-2013)」『石牟礼道子全集・不知火』別巻、藤原書店、2014年、329頁。

(29)石牟礼道子「悶え神とイザイホウの神」『西日本新聞』1979年2月20日、11面。

(30)同「悶え神とイザイホウの神」『西日本新聞』、11面。

(31)石牟礼道子「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)1979年10月17日、3面。

(32)同「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)、3面。

(33)橋本憲三「第未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1970年7月1日、24-25頁。

(34)同「第未定――わが終末記 第一回」『高群逸枝雑誌』第8号、25頁。

(35)『石牟礼道子全集・不知火』別巻/自伝、藤原書店、2014年、275頁。

(36)石牟礼道子「忘れられない本 高群逸枝全集『日月の上に』 奔流をなす現代の予言」『朝日新聞』1978年6月5日、10面。

(37)『石牟礼道子全集・不知火』第六巻/常世の樹・あやはべるの島へほか、藤原書店、2006年、498頁。

(38)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(下)朝日新聞社、1981年、350頁。

(39)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、46頁。

(40)同「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、47頁。

(41)同「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、48頁。

(42)瀬戸内晴美『人なつかしき』筑摩書房、1983年、70-71頁。

(43)同『人なつかしき』、71頁。

(44)前掲「もろさわようこ様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、8頁。

(45)前掲『人なつかしき』、同頁。

(46)同『人なつかしき』、同頁。

(47)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、186頁。

(48)瀬戸内晴美『談談談』大和書房、1974年、⑳⑥頁。

(49)橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、100頁。

(50)石牟礼道子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、101頁。

(51)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、3-4頁。

(52)もろさわようこ「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』(近代日本の女性史 第二巻)集英社、1980年、204頁。

(53)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、19頁。

(54)石牟礼道子「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、97頁。

(55)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、98頁。

(56)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、78頁。

(57)石牟礼道子『最後の人 詩人高群逸枝』藤原書店、2012年、247頁。

(58)前掲「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、92-93頁。

(59)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、94頁。

(60)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、96頁。

(61)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(62)同「朱をつける人」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、99頁。

(63)前掲「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、204-205頁。

(64)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、202頁。

(65)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、205頁。

(66)同「高群逸枝」、円地文子監修『文芸復興の才女たち』、244頁。

(67)前掲、橋本静子「編集室メモ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、100頁。

(68)点描「32号を発行して終刊 『高群逸枝雑誌』」『朝日新聞』(夕刊)1981年1月14日、5面。

(69)視点「市川房枝さん」『毎日新聞』(夕刊)1981年2月26日、5面。

(70)談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、1981年3月6日、78頁。

(71)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、79頁。

(72)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、同頁。

(73)同、談話室「『高群逸枝雑誌』の終刊」『朝日ジャーナル』第23巻第9号、通巻1150号、同頁。

(74)橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝』(上)朝日新聞社、1981年、vii頁。

(75)橋本憲三「瀬戸内晴美氏への手紙」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、52頁。

(76)前掲『わが高群逸枝』(上)、viii頁。

(77)前掲『わが高群逸枝』(下)、363頁。

(78)同『わが高群逸枝』(下)、364頁。

(79)同『わが高群逸枝』(下)、183頁。

(80)同『わが高群逸枝』(下)、186頁。

(81)瀬戸内晴美「日月ふたり(第三回)――高群逸枝・橋本憲三――」『文芸展望』第5号、1974年4月号、427頁。

(82)石牟礼道子「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』思想の科学社発行、1982年1月号(通巻349号)、44頁。

(83)同「本能としての詩・そのエロス 高群逸枝の場合」『思想の科学』、同頁。

(84)前掲『人なつかしき』、66頁。

(85)同『人なつかしき』、71-72頁。

(86)同『人なつかしき』、同頁。

(87)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、217頁。

(88)鷲見等曜『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』弘文堂、1983年、i頁。

(89)同『前近代日本家族の構造――高群逸枝批判――』、108頁。

(90)『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、藤原書店、2013年、433頁。

(91)同『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、433-434頁。

(92)同『石牟礼道子全集・不知火』第一六巻/新作能・狂言・歌謡ほか、434頁。

(93)石牟礼道子『陽のかなしみ』朝日新聞社、1986年、429-430頁。

(94)前掲「夢の中のノート」『毎日新聞』(夕刊)、3面。

(95)前掲「もろさわよう子様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、3頁。

(96)『高群逸枝全集』第七巻/評論集・恋愛創生、理論社、1967年、372頁。

(97)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、180頁。

(98)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、181頁。

(99)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、同頁。

(100)高群逸枝編、栗原葉子・栗原弘校訂『日本古代婚姻例集』高科書店、1991年、i頁。

(101)栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』高科書店、1994年、i頁。

(102)河野信子「著作を綿密に解析」『熊本日日新聞』、1994年11月13日、11面。

(103)同「著作を綿密に解析」『熊本日日新聞』、同面。

(104)前掲『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、359頁。

(105)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、368頁。

(106)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、同頁。

(107)同『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、364頁。

(108)石牟礼道子「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、早稲田大学出版部、1997年、213頁。

(109)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、206-209頁。

(110)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、209-211頁。

(111)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、211頁。

(112)同「表現の呪術――文学の立場から――」、田端泰子・上野千鶴子・服藤早苗編『ジェンダーと女性』(シリーズ比較家族8)、214頁。

(113)栗原葉子『伴侶 高群逸枝を愛した男』平凡社、1999年、250頁。

(114)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、189頁。

(115)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、190-191頁。

(116)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、156頁。

(117)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、211-212頁。

(118)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、219頁。

(119)同『伴侶 高群逸枝を愛した男』、250頁。

(120)前掲「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、58頁。

(121)同「『最後の人』覚え書(二)――橋本憲三氏の死――」『暗河』第15号、1977年春季号、53頁。

(122)佐藤千里「或る旅立ち」『全作家』第72号、全作家協会、2008年、11頁。

(123)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(124)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(125)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(126)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、12頁。

(127)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(128)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(129)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(130)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(131)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。

(132)同「或る旅立ち」『全作家』第72号、同頁。