アジア・太平洋戦争は、一九四一(昭和一六)年一二月八日、マレー半島への上陸とともに、ハワイの真珠湾攻撃にはじまり、その後日本軍の戦線は拡大し続けます。しかし、一九四二(昭和一七)年六月のミッドウェー海戦で大敗を喫すると、戦局は大きく傾き、南太平洋の日本軍は次々と壊滅の道をたどっていきました。神近市子は、米軍による本土空襲が近づく気配を感じていました。「昭和十八年にはいると、英軍がベルリンを夜間攻撃しはじめた。もはやドイツの敗色は濃厚であった。日本では学徒兵が動員され、国民兵の兵役が四十五歳まで延長されて、‶決戦はこれからだ″と叫ばれていたが、私は早晩東京もベルリンのように絨毯爆撃の猛威にさらされると考えた」1。疎開の開始です。神近の回想は続きます。
そんなとき、私の頭に浮かんだのが、旧知の中溝家のある府下(都制が敷かれたのが昭和十八年)の鶴川だった。そこには、富本憲吉氏が、「ひとりで静かに絵を描きたい」ということで一軒の茅葺き小屋を借りておられたが、氏は、その家をまだ見ていず、家賃の交渉もしていない段階だった。そこで私は富本氏にたのんで、その家を譲ってもらうことになった2。
こうして本郷の下宿間を出て、鶴川での神近の疎開生活がはじまったのでした。
詩人の深尾須磨子が祖師谷へ疎開するのも、富本一枝との縁によるものでした。その経緯から疎開生活中の一枝との交流までが、『わが青春・深尾須磨子』の第三章「祖師ケ谷時代[前期]」のかなに描かれています。著者は高野芳子。高野は深尾との出会いを、こう回想します。「私がはじめて深尾須磨子に会ったのは、昭和十八年二月七日、太平洋戦争がはじまって間もない頃のことであった。誰からの紹介もなしに、おさげ髪の先にリボンを結んだ十七歳の少女は、期待と畏れに胸をはずませて、その扉をたたいた。九州の片田舎の女学校から、女子大に入ってまだ一年もたたない女の子にしては、いささか生意気に過ぎたであろうか」3。深尾は、詩人としてすでに社会に認められた存在でした。若くして深尾の詩に強い感動を経験していた高野は、この日をきっかけに、しばしば休日になると、高田馬場駅に近い「寂光莊」と呼ばれる深尾の家を訪れるようになりました。しかし、「いよいよ、東京空襲がはじまりそうだというので、誰もが疎開をしだした。……『神近市子が鶴川にしたらよいというんだけどねえ』など、考えあぐんでいるうちに、耳よりな情報が入ってきた。富本一枝さん……が知らせてくれた。富本家のすぐ近くに手頃な小屋があいているというのである」4。この小屋には、入り口の引き戸を開けると土間があり、その土間を挟んだ右手に五畳半の和室、左手に八畳の和室がついていました。裏手には、錆びついた手押しポンプとほこりだらけのゴエモン風呂がありました。深尾は、一九四四(昭和一九)年の春もまだ浅いある日、この小屋に引っ越し、こうして疎開生活がはじまります。女子大の寮に住んでいた高野も、ほとんど週末にはここへ来て、深尾と一緒に過ごしました。
ここへ移ってきて最初のころの話です。ゴエモン風呂がまだ使えない。そこで深尾は、高野を連れて富本家に行き、お風呂を使わせてもらうことになりました。以下は、そのときの富本家の人びとの様子についての、高野の観察です。
「ちょうどよい時にきて下さったわ、まあコーヒーでも」と一枝さんに案内されて通された広い洋風の居間には、古びたソファーにもたれた憲吉さん、誰かが床にすわりこんでいたり、椅子にかけていたり、何とも形容しがたいサロン風景に、私は一瞬とまどった。コーヒーの匂い(その頃は珍らしかった)とたばこの匂いがいりまじり、家族でありながら、ひとりひとりが全く別のことを考えているふうな、何かけだるいような、ぜいたくなような、きらびやかだが、重く沈んだ暗さの漂った雰囲気であった。ここには、買出しだ疎開だと戦争にふりまわされている一般庶民のくらしとはかけはなれた別世界の優雅(?)さがあった5。
憲吉は、湯上りのふたりを待っていました。「『どうぞ、これを』憲吉さんが手にとって差し出した白地の湯呑は藍で薊のもようがえがかれ、その中に踊るように、須磨子の文字が染付けられていた。……『これは、あなたに』憲吉さんはうすい藍色の美しい玉をひとつ、私の手にのせてくれた」6。
次の挿話も、疎開中の出来事についての高野の回想です。このときまでに高野は、深尾のことを「マダム」と呼ぶようになっていました。
「何か、たきつけにつかう紙くずないかしら」「いいものが、ある、ある」マダムは行李いっぱいにつめこまれた手紙類を持ちだしてきた。おどろいたことに、その殆んどが富本一枝さんからのものであった。私は、焚き口に手紙をポンポン投入れて火をつけた。読んでみたい誘惑にかられた。胸をドキドキさせながら、文面に目をはしらせると、「どうじゃ、ようもえとるか」マダムがのぞきにきた。「そんなものを読んではいけない。いいか、封筒に入れたままもすんだ」私はワルサをみつけられた子供みたいに小さくなって、その上に枯枝をくべ、古い柱のきれっぱしをのせた。実によく燃えた。メラメラと燃えあがるほのおをみつめながら、私は、一枝さんの情熱がゴエモン風呂をわかしていることにあわれさを感じた7。
また、疎開生活のなかでは、こんなこともありました。深尾は高野芳子のことを「ヨシコ」と呼んでいました。
「深尾さん、まだ起きていらっしゃいます?一枝です、ちょっとここ あけて頂けないかしら」……白い着物をゾロリと着流して、一枝さんは素手に大きな魚を一匹、高々とかかげるようにぶらさげて立っていた。一枝さんの目は少しつりあがり、うるんでみえた。月の光に、青ぐろくヌメヌメと魚のうろこが光り、尾っぽをつかんだ手がこきざみにふるえている。……マダムは殊さらにとりすましたうけこたえをしているが、いっこうに手をだそうとはしない。素手で受けとるには、何やら気味がわるすぎるのだ。私はあかりをつけて急いで大皿を探した。皿にのせてもらった魚は、ずっしりと意外な重さで、なまぐさい匂いが立ちこめた。……「あの方、どうかなさったのかしら」「さっきから 魚をさげて じっとその辺に立っていたのかもしれないよ」「まさか」「ヨシコのことが気になって 気になってしようがないのかもしれない」「どうして?どうしてなの?」「そんなことは分らなくたっていいんだよ。さあおやすみ」と言われても、おいそれと眠れるものではなかった8。
若いヨシコさえも、マダムと荻野綾子の関係を知っていました。このふたりの関係は、すでに多くの人が知るところとなっていました。といいますのも、第七章の「『青鞜』創刊以降の婦人運動家たちの『恋愛創生』」においてすでに紹介していますように、一九三〇(昭和五)年五月号の『婦人公論』に「同棲愛の家庭訪問」と題した記事が掲載されており、深尾須磨子と荻野綾子、吉屋信子と門馬千代子、金子しげりと市川房枝の三組のカップルの「同棲愛」家庭が紹介されていたからです。この雑誌が発売されたときは、ヨシコはまだ五歳前後の幼子だったことを勘案すれば、ヨシコがこのことに気づくきっかけは、長じてその後に誰かに聞かされたことによるものだったのでしょう。
その出来事から一夜が明けました。ヨシコは、マダムから同性愛についての話を聞かされました。ヨシコの回想は、こう続きます。
翌日 女と女が愛しあう、いわゆる同性愛について、ギリシヤの女詩人サッフオあたりまでさかのぼって解説してもらえたのは、もうけものだったが、「ほら、以前同居していらした荻野綾子さん、あの方とはどうだったの?」「何が?」「何がって、その…今のおはなしみたいな…」と、ためらいがちに投げてみた質問も、「アホーやなあ、そんな噂を真にうけとったのか」と、軽くいなされた。そうであったのかもしれず、なかったのかもしれず、確証はない。だが、「何もびっくりするには及ばない。そんなこともあるというだけの話だよ。ゆうべのことだって…」といわれても、前夜のできごとが、それとどう結びつくのか、私には判じ難かった9。
マダムとヨシコの会話はさらに続きます。マダムは、憲吉の心情を察して、「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」と、ヨシコに問いかけてみました。
「憲吉さん、お気のどくだと思うだろう」と同意を求められても、何がどうお気のどくなのか見当もつかず、私には返事のしようがなかった。その大きな魚は、‶もったいながりや″のマダムも、さすがに食べてみようとは言いださず、庭の隅のいちぢくの木の下に穴を掘って埋めてしまった10。
富本家につながる坂を上っていく女たちの姿が、この時期しばしば見受けられました。陽の息子の岱助も、一九四四(昭和一九)年の六月の誕生日で、満七歳にまで成長していました。ヨシコと岱助は、なかなかの仲よしでした。「女子大生といっても、一人娘でのんびり育った子供気分のぬけきらない私と、年にしてはオシャマなこの男の子はヘンに気があった」11。あるときのことです。
岱ちゃんと畦道でもち草をつんでいると、富本邸へ上がっていく坂道に、小ぶとりの男の姿が見えた。「あの人ね、男みたいだけど、本当は女なんだよ。名前は、オモべ・ワルコ」もどってから大真面目でマダムにその話をすると、彼女ははじけたように笑いだした。「バカだねえ、岱助にかつがれたりして、あれは、軽部清子なんだよ」と、この風変りな女性の話を一くさりきかされた。作家の大谷藤子さんも、しばしば富本邸への道を上っていった12。
一九三五(昭和一〇)年の『中央公論』一二月号の「新人傑作集」に所収されている「血縁」が、大谷藤子の作家としてデビュー作のひとつにちがいありません。一九六三(昭和三八)年に憲吉が亡くなると、ただちに筆を執り、「失われた風景」と題するエッセイに仕上げ、富本家を訪問していた当時を懐かしみました。「私は戦争中から戦後にかけて、しげしげと富本家を訪ねた。陶芸家として第一人者である先生を訪ねたのではなく、夫人と親しくしていたからだった。ときどき泊まり込んだりした」13。大谷は、泊まり込んだ翌日のある朝のことを鮮明に記憶していました。
私はいまでも思い出すが、富本家に泊った翌朝早く、近くの雑木林を歩きまわったことがある。朝霧が丘にたなびいて、すがすがしい初夏の季節だった。私の着物は朝露にしっとりと濡れ、みづみづしく照り映えた若葉の香りがあたりにたちこめていた。私はその香りをなつかしみ、ほっとひと息つくような思いだった。なんという静かな自然のたたずまいだろう。私は心のやすまるのをおぼえた。そのとき先生[憲吉]の仕事場になっている建物のあたりに人影が見えた。遠くから眼を凝らすと、それはたしか先生だった。こんなに朝早く、中止しているはずの仕事場に先生は入っていくのだろうか。邸から道を距てたところにある小づくりな建物が先生の仕事場になっていた。私が近づくと、先生はうつむいて、ろくろをまわしておられた14。
大谷の記憶はまた、当時の憲吉と一枝の研ぎ澄まされた神経のありようにも向かいます。
先生[憲吉]も夫人[一枝]も神経が鋭く、ハラハラするようなことがあった。二人は同質の神経をもっていて、不意に鋭く研ぎすまされてカチあうときがあると私には思われた。美を理解する高度の神経をもっている二人は、その点では類いなく似合いの夫婦だった。夫人は直観力の鋭さで、先生よりも或いは純粋な美の理解者であったかも知れない。夫人は心の芸術家だった。しかし先生は現実に仕事をしていて、美を表現するための苦しみをしているということで夫人とはちがっていた。……しかし二人の神経が研ぎすまされてカチあうのは、多くは愛情の問題だった。二人は少しも妥協しなかった。……二人はもとめすぎ、少しでも疑惑のある愛は許すことが出来なかった。それが疑心暗鬼でも神経が研ぎすまされた。美を追求する同じ神経の純粋さで、たち向かうのだった15。
大谷の観察するところによれば、憲吉と一枝が「カチあう」のは、憲吉の作品を巡る評価についてというよりは、むしろ「多くは愛情の問題」であり、ふたりとも「少しでも疑惑のある愛は許すことが出来なかった」。それでは、その「少しでも疑惑のある愛」とは、一体、何を指しているのでしょうか。それについて大谷は、具体的には何も語っていません。
B29型長距離爆撃機による本土空襲が、一九四四(昭和一九)年六月の北九州爆撃からはじまり、一一月には、東京がはじめての爆撃に見舞われました。以下は、神近市子の回想です。
私の思ったとおり、翌一九年六月、サイパン島の守備隊が玉砕し、そこを基地としたB29が十一月から本土の爆撃を開始した。都市での食料事情も極度に悪化した。私は家の裏に七羽の鶏を飼ったが、そのわずかな卵さえ、買出しにやってきた富本一枝を狂喜させるような時代になってしまった。 「まあ、きょうは九つもある。二つは茹でて私が食べる。あとの七つは病気の息子に持っていってやるわ」 彼女は入口の戸をガラリとあけるより早く、物置小屋の中をのぞいて甲高い声をあげるのだった16。
こうした一枝の買い出しに、しばしば大谷藤子も同伴しました。一枝の戦時スタイルがおしゃれだったことが、大谷の記憶に残っていましたし、何よりも一枝は、大谷にとって不思議な魅力をもつ存在でした。
私は夫人に誘われて食糧の買い出しに出かける日が多かった。電車で三十分ばかり乗り、それから一里の道を歩くのである。低い山々の間にある村の街道を、長身の夫人は網袋をしょって軽快な足どりで歩いて行った。私は夫人がそのころ人々の日用品になっていたリュックサックをしょっているのを見たことがない。麻のしゃれた網袋の中には食糧を包むための風呂敷や袋がいれてあるのだった。……夫人は不思議な魅了があって、そばにいると私を仕合せな気持ちにさせた。「神近さんのところへ寄りますよ」17。
往復二里の買い出しの帰りに、ふたりして神近市子の家に立ち寄り、一休みすることもありました。「『お茶だけでなく、何かお出しなさいよ』夫人は神近氏にこう言ったりして、のびのびとした。……『これいつあげましたか』夫人はそんなことを言いながら、お菓子皿をとりあげてつくづく眺めたりした。……その[神近の住む]農家も、後になって空襲で焼けた。……『ほんとうに丸焼けですよ』夫人は気の毒そうに言って、とりあえず衣類などを行李につめて届けるのだった」18。
空襲が激しくなってくると、村々を訪ねて食料を調達するこうした買い出しの生活も限界に達し、米軍が投下する焼夷弾からいのちを守るために、富本家も、祖師谷の家を離れ、疎開を余儀なくされました。大谷は回想します。「富本さん、家中で秩父の私の実家に疎開してみえたりしました」19。
一九四五(昭和二〇)年に入ると、戦局はさらに悪化の一途をたどりました。三月一〇日、焼夷弾一九万個の投下により約十万人が焼死しました。東京大空襲です。続く四月、米軍、沖縄本土に上陸。八月、広島と長崎に原爆投下。そしてポツダム宣言を受諾し、日本は敗戦しました。八月一五日、終戦のこの日を東京美術学校の教授を務めていた憲吉は、作品の疎開先である岐阜県の飛騨高山で迎えました。一枝たちは、大谷の実家のある埼玉県の秩父で――。すべてが終わりました。神近市子五七歳、深尾須磨子五六歳、一枝五二歳、大谷藤子四三歳の暑い夏でした。
中村汀女もまた、戦時中の買い出し仲間でした。汀女は、当時をこう回顧して書いています。「作家の大谷藤子氏とは近所だから知り合い、そして紹介してもらったのが富本一枝氏である。さっそく買い出しに連れられた。小田急線の鶴川に住まっておられる神近市子氏を『たよる』というのであった。初対面、わが家にあったビールを二本おみやげにした」20。
汀女(本名は破魔子)は、一九〇〇(明治三三)年四月一一日に、斎藤平四郎と亭のひとり娘として熊本県飽託郡画図村(現在の熊本市東区)の地に生まれ、熊本県立高等女学校(現在の熊本県立第一高等学校)を卒業。一九二〇(大正九)年、二〇歳のとき、『ホトトギス』に初投句し、同じくこの年、同郷出身で税務官吏であった中村重喜と結婚。その後順調に句作を続け、一九四〇(昭和一五)年に『春雪』を発表。続けて、戦局厳しいなかにあって、一九四四(昭和一九)年に、『汀女句集』を刊行します。汀女が富本一枝と知り合うのは、戦争末期の耐乏生活を強いられていた、ちょうどこの時期になります。
終戦の翌年(一九四六年)、『風花』創刊の話が持ち上がりました。汀女はこの年、盲腸炎を起こして、北沢の鵜沢病院に入院しました。「院長、生生子、ゆみ女の夫妻は俳句を作っておられ、やがて句会、私は二階の病室からその座敷に加わった。そこで『風花』発刊の話が出たのであった。発行は二十二年の四月、富本憲吉氏が表紙を描いて下さった」21。
汀女の直前の発病により、刊行が一箇月遅れ、『風花』創刊号が実際に発行されたのは、奥付によると、一九四七(昭和二二)年の五月一日のことでした。さらにこの創刊号の奥付には、編輯者に富本一枝、發行者に中村汀女の名前が記載され、發行所は風花書房で、所在地の住所は、汀女の自宅の「東京都世田谷區代田二ノ九六三」となっています。また、「本號特價十八圓」の文字も並びます。目次に目を移しますと、最初の行に「表紙・扉・カット」として富本憲吉の名前が明記されていました。
一枝は創刊号の「後記」にこう書きました。「中村さんも私も、出版事情が日に日に悪い時期に、雜誌を出すといふことがどんなに困難な仕事であるかと云ふことは充分計算にいれてゐましたが、さて仕事にかかつてみると、豫期しない障害が次々にやつてきて、幾度か引き返したくなりました。それでもとにかく此處まで辿りつきました。それだけに嬉しさ格別です」22。そして、次のように結びました。「『風花』を立派なものにするためには編輯者の責任重大であることは申すまでもありませんが、良き投句者と好意ある読者の御支援がなければ成しとげられないことです。……現代俳句として、自他共にゆるせる作品を送つてほしいものです」23。それを受けて、次に汀女による「後記」の文が続きます。「私の部屋の外に女竹數本、朝、窓を開けると笹の先の一つ一つに露が光り、次々にばらばらとこぼれます。これは去年の夏にも綺麗だと見てゐましたが、今年はまた今年はじめて見つけたやうなうれしさです。その竹の間に、もう湧き立つ白い雲がかかり、雲をみると、ここの狭い空が無限にひろがつて、私をたのしくさせてくれます。『風花』の後記を書く日となり、あらたまつた思ひとなつて竹の空を眺めて居ります」24。
創刊号には、武者小路實篤が「畫をかく事で」、室生犀星が「(俳句)蕗の薹」、本多顕彰が「一般文學論の適用」、河盛好蔵が「何を讀むべきか」を寄稿しました。汀女は、振り返ります。「いま思えば盲蛇に怖じずと言いたいお願いをして原稿をいただいているし……こうしたお願いなども編集をやって下さった富本一枝氏の配慮であった。諸先生にはほとんど稿料というものもさしあげ得なかった」25。
一九四七(昭和二二)年一二月一日発行の『風花』(四・五合併号)の「後記」には、吟行についての汀女の短文が添えられています。「十一月風花句會は思ひ立つて、郊外吟行となり、祖師谷の富本邸に集りました。折からの小春日に、丘の孔楽紅葉美しく、稲架の並ぶあたゝかい畦道を歩いて、いゝ作品が集りました」26。そしてこの合併号には、俳人の水原秋櫻子が「俳壇月評」を、民俗学者の柳田国男が「病める俳人への手紙」を寄稿していました。秋櫻子は、富本憲吉邸をよく訪れる客人で、「祖師谷の客間」と題したエッセイのなかで、その客間(居間)の様子について、「畳ならば四、五十疊も敷けやうといふ板の間に絨毯が敷かれ、二三脚の卓とそれをかこむ椅子とが適当に配置されてゐる」27と、描写しています。同じく成城の加藤武雄邸では、毎月連句の会が催されており、そこには柳田国男も参加していました。汀女は「連句の会」と題したエッセイを『定本 柳田國男集』の「月報2」に寄稿し、一九四九(昭和二四)年三月の「五吟歌仙 峡深くの巻」を紹介したあと、文末に、「先生から『芭蕉の恋の句』や『病める俳人への手紙』などの貴重な長い原稿をいただいて居り、読み返すたびに勿体ない気がする」28と、謝辞を述べています。
ちょうどその二〇年前、この成城地区は、雑木林と田畑に囲まれた武蔵野の面影がいまなお残る自然環境を背景として、成城学園の移転や小田急線の開設に伴いながら、新しい文化人村としてその姿を現わそうとしていました。中江百合子、平塚らいてう、富本一枝のそれぞれの家族が、新興住宅地であるこの地区への第一弾の新築移住民となっていました。同じくそのころ、民俗学者の柳田国男の家族も成城へ引っ越してきました。柳田国男を祖父にもち、のちに南薫造の孫の南建と結婚することになる八枝子は、自著の『洋画家南薫造 交友関係の研究』のなかで、興味深い話を披露しています。八枝子の父親は柳田為正といい、一九二七(昭和二)年に為正は、「牛込から転校のために、父親柳田国男と書生二人と共に、新築した家に急ぎ移り住んだ」29。
富本憲吉は、東京美術学校の先輩の南薫造を頼って英国へ留学しています。また、「中江百合子は、南とは一番町教会、後には富士見町教会での直接の縁もあってか、既に明治四四年の富士見町教会での南の個展で絵を買っている」30間柄でした。おそらくこうした経緯から南は、関西の実業家の中江家に嫁いだ百合子を、安堵村に住む憲吉と一枝に紹介していたものと思われます。成城への転居以前の話です。
それぞれの家族が成城に移り住んだ一九二七(昭和二)年のころ、中江百合子の三男の昭男、柳田国男の長男の為正、平塚らいてうの長女の曙生、富本一枝の長女の陽が、小学校の同級生となりました。一方で、らいてうの長男の敦史と一枝の次女の陶が、同じ一九一七(大正六)年の生まれで、彼らより二歳年下でした。
そうした地域住民としての新たな人間関係が生まれて以来、いまや、およそ二〇年の歳月が流れました。平塚らいてうの自伝のなかに、成城地区の婦人仲間の句会について、次のような回想を読むことができます。
知人の料理研究家中江百合子さんのさそいかけで、成城に住む婦人仲間の句会が、一九四六年十一月から、中村汀女さんをむかえてひらかれていました。わたくしがそれに加わったのは、四八年のはじめごろかと思います。……中江さんとごく親しいあいだがらの富本一枝さんも、ときには顔を見せますが、句作にはまったく加わろうとしません。……彼女の句というものは、ついぞ目にしたことがありません。……句会の日は……まだ物の不足していたころですから中江さんが手ずからつくってくれる、蒸し寿司やお雑煮をいただくことが、また楽しみの一つでした。……『風花』は、四七年に創刊されましたが、わたくしはその三号から出句しています31。
らいてうは、『青鞜』創刊以前の日本女子大学校の学生のころから俳句をたしなんでいましたし、中江百合子は、憲吉の陶器に季節の料理を盛り付けることをことのほか喜びとしていました。以下の二句は、一九四八(昭和二三)年一二月一日発行の『風花』(第一〇号)のなかの中村汀女選「風花集」からの抜粋で、前者が平塚明子(らいてう)、後者が中江百合(百合子)の作です。
大利根の堤はてなき月の人 十五夜の次郎丸まだ靑うして
この句会は長く続きました。陽と同級生だった井上美子はこのように回想します。「中江邸の句会は進駐軍の将校宿舎に接収され、その後南側の私の家に移り、つづけられた。以後昭和五十四年、先生八十歳の春まで三十三年間毎月一回句会指導に来ていただいた」32。
他方で汀女は、郷土をとても大事にし、愛します。『風花』創刊からちょうど一年を経た一九四八(昭和二三)年の五月五日、汀女は、熊本駅に降り立ちました。以下は、そのときの汀女の、生まれ故郷に寄せる思いです。
九州線混む、深夜の汽車に虫聞( きこ ) ゆ。二時熊本駅着、人々に交じって東京に手紙を書く、夜風が少し寒い。ようやく明け放れた町の彼方から始発の市電が来た。まだ覚めない町の軒並に青い菖蒲が葺いてある。水前寺駅は広い道路のまん中で、しっとりとまだ朝靄が漂う。何かしら誰にも知られないで母の家に着きたいと思う。いよいよ江津の堤、靄晴つつ、真っ青な岸草に包まれて流れゆく水。私が思い描いて来たのはこの水のこんなに流れゆく姿であった。右に展( ひら ) くる野の麦やや黄ばみ遥かに父上の墓地33。
一九六一(昭和三六)年元旦の『熊本日日新聞』(新年号三部四面)を見ると、熊本を離れて久しい、中村汀女、江上トミ、高群逸枝の肥後の著名女性による新春鼎談が企画されていました。江上トミは、当時NHKテレビの「きょうの料理」で人気を博していた料理研究家です。高群逸枝は、対面出席はせず、紙上参加をしています。話題は、家のこと、学校のこと、郷土料理のこと、風土のこと、方言のことなど、多岐にわたりました。各人の発言からそれぞれふたつほど選び出して、以下にまとめます。
中村汀女は、「いまは家が並んでいますが、水前寺から味噌天神まで家はございませんでした。阿蘇のスロープがみえてとても感じがよかった」と回想し、郷土料理の思い出を尋ねられると、「私も『イキナリダゴ』‶ダンゴ″ではダメ‶ダゴ″。それに‶ダゴ汁″ね」と、答えます。この鼎談は、「しかし何といっても暖かい日の光の中の故郷を持っているということは幸福ですね」という汀女の言葉でもって締めくくられます。
江上トミは、母の厳しさについて問われると、「そりゃとても。しかられるときは『武士のこどもというものは』とか『おちぶれたりとはいえどもあんたは江上安太の孫でございますよ』」といわれて育ったことを披露し、熊本の風土としては、「私は阿蘇の観光ホテルからながめたあの辺一体の景色が好きですの」と、振り返ります。
高群逸枝は、思い出に残る郷土料理を聞かれると、「私はお客があると酒のさかなに『ヒトモジのぐるぐる』をよく作りました」と応じ、熊本弁については、「『行かす』とか『言わす』とか『さるかす』とかいうように、さ行の敬語を語尾にした熊本言葉は、純粋な古語ですよ。簡明でもあるし、このまま長く保存したいものですね」と、希望を伝えます。
この鼎談で中村汀女と高群逸枝は直接対面することはありませんでしたが、『母系制の研究 大日本女性史第一巻』(改訂三版、一九四八年、恒星社厚生閣刊)の末尾の跋文のなかにある高群逸枝の著作出版の支援者リストに中村汀女の名は挙げられていました。
それではここで、代表的な身近な句碑を、自伝『汀女自画像』(日本図書センター、一九七四年)の巻末にある「年譜」から抜粋して、紹介しておきたいと思います。
夏雲の湧きてさだまる心あり (一九八二年五月に、母校である熊本県立第一高等学校の校庭に建立) とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな (一九八五年一〇月に、生地である熊本市の水前寺公園に建立)
『風花』創刊の半年前の一九四六(昭和二一)年の一一月、桑原武夫の「第二藝術――現代俳句について――」が『世界』に掲載されました。論旨を損なわないようにするために、少し長くなりますがそのまま、以下に、その結論部分を引用します。
近代藝術は全人格をかけての、つまり一つの作品をつくることが、その作者を成長させるか、堕落させるか、いづれかとなるごとき、厳しい仕事であるといふ観念のないところに、藝術的な何ものも生まれない。また俳句を若干つくることによつて創作體験ありと考へるやうな藝術に對する安易な態度の存するかぎり、ヨーロッパの偉大な近代藝術のごときは何時になつても正しく理解されぬであらう。 そこで、私の希望するところは、成年者が俳句をたしなむのはもとより自由として、國民學校、中等學校の教育からは、江戸音曲と同じやうに、俳諧的なものをしめ出してもらひたい、といふことである。俳句の自然観察を何か自然科學への手引きのごとく考へてゐる人もあるが、それは近代科學の性格を全く知らないからである。自然または人間社會にひそむ法則性のごときものを忘れ、それをただスナップ・ショット的にとらへんとする俳諧精神と今日の科學精神ほど背反するものはないのである34。
これは俳壇に大きな波紋を投げかけました。一九四七(昭和二二)年五月一日刊行の『風花』創刊号の「後記」におきまして、編集者の富本一枝も、そのことに言及します。
桑原武夫氏が昨年十一月の「世界」で「第二藝術」を愛表された後、俳壇に對し俳句に就いて各方面から色々と意見が出て、ことに俳句誌はそのために色めいたやうに見受けられました。ところで、先達、桑原氏を訪ねてきたといふ人からこんな話をきゝました。 桑原氏は、あの第二藝術論のために、俳壇人があゝまで大騒ぎしやうとは意外であつた。俳壇といふところは、あんなことぐらいで騒ぎ出すやうなものを内にも外にももつてゐたのだつたのかと、かへつて自分の方が驚いたほどだといはれたといふことです。なかなか面白い話だと私は思ひました。とかく問題といふものは、持ち廻つてゐると、論議のための論議になる危険性があります。要は、作者の自覺と見識にかかわつてゐることで、ここに俳人の反省の餘地があると思はれます。動じない態度といふものは、立派な仕事をするために、精魂をかたむけきつてゐる人だけに見られるもののやうです35。
「台所俳句」という蔑称については、汀女自身が、こう晩年に回顧しています。
ひところ、立子さんや私の作るものは台所俳句といわれ、凡俗な道を歩むものだということになった。「台所俳句」とは女流の句をけなすのに、大変重宝らしく、あらゆる人が使った気がするし、現在に至るまで尾をひいている。私はちっとも気にしなかった。私たち普通の女性の職場ともいえるのは、家庭であるし、仕事の中心は台所である。そこからの取材がどうしていけないのか。ひとりの女の明け暮れに、感じ浮かぶ想いを、ひとりだけの言葉にのせ文字にする、それだけでよろしいのではあるまいか。俳句第二芸術論もやかましかったが、そんなむずかしいことは考えないで、自分の浮かび来るものを作るしかなかった36。
俳句は「第二藝術」とさげすまれ、女のつくる句は「台所俳句」とやゆされる。汀女自身、二重の差別に、一時期身を潜めていたのかもしれません。
井上美子は、『私たちの成城物語』のなかの「中村汀女と成城」の章を結ぶに当たって、次の言葉でもって恩師の偉業を偲びます。「日本の四季をこよなく愛し、春、秋はもとより寒中の厳しさ、炎昼の煌めき、人間とともに生きるすべての動植物を佳しとし諾( うべな ) った汀女師の心を心とし、今は残された月日、平成の世を平和の裡に生きつづけたいと希うのである」37。
一九八七(昭和六二)年四月、『風花』創刊四〇周年と米寿を祝う会が、ホテルオークラにて華やかに開催されました。そして、その翌年の九月二〇日に、呼吸不全のため、作句と選句に捧げた八八年の中村汀女の生涯が幕を閉じました。
述べてきましたように、句誌『風花』の誕生には、成城という文化人や資産家が集う新しい住宅地が舞台として存在していました。そして、その舞台に、戦時下において買い出しや疎開を通じて交流を深めていた女性たちが、新たな主役となって躍り出ようとしていました。そうした状況下において『風花』は、一九四七(昭和二二)年五月一日、戦後すぐのいまだ物資が乏しい困苦の時代に産声を上げたのでした。
周知のように、女性が主宰する文芸雑誌には、輝かしい歴史があります。一九一一(明治四四)年創刊の平塚らいてうの『青鞜』、一九一四(大正三)年創刊の尾竹一枝(のちの富本一枝)の『番紅花』、一九二八(昭和三)年創刊の長谷川時雨の『女人藝術』、一九三〇(昭和五)年創刊の高群逸枝の『婦人戦線』、そして一九三五(昭和一〇)年創刊の神近市子の『婦人文芸』がその好例となります。そのような意味で『風花』の発刊は、女性による主宰誌の燦然たる歴史を、戦後の新時代へ向けて架橋する、生命力に満ちた画期的な出来事であったといえるでしょう。加えて『風花』を特徴づけるのは、戦前の諸雑誌がどれも短命であったことに比べて、いまなお長命を堅持していることです。
主宰者は、中村汀女から娘の小川濤美子へ、そしてその娘の小川晴子へと引き継がれてゆきます。創刊からしばらくのあいだ一枝が編集を担当した汀女の句誌『風花』は、その後長く愛読され続けるも、惜しまれて二〇一七(平成二九)年の一〇月号(七七四号)をもって終刊します。最終号に「終刊のごあいさつ」を寄稿した汀女の孫の小川晴子は、そのなかで、創刊号の「後記」に一枝が書いていた言葉を引用して、こう記しました。
『風花』創刊号の後記に富本一枝氏が記された「風花を立派なものにするためには編集者の責任が重大であることは申すまでもありませんが、良き投句者と好意ある読者のご支援がなければ成し遂げられないことです。」との文章があります。「風花」の七十年の歴史は、まさにこれを築き上げてくださった会員の皆様の、俳句を詠む喜びと、結社を愛する深い情熱と、弛まない精進の結晶であります。『風花』は私共の心の支えであり、大きな誇りでもあります38。
こうして『風花』自体は、第七七四号を最後に七〇年という永久の歴史に幕を閉じ、翌月号(通算七七五号)からは誌名を一新し、『今日の花』へと生まれ変わりました。「今日の花」は、汀女が自戒の言葉としていた「今日の風、今日の花」に因むといいます。「今日には今日の風が吹き、今日には今日の花が咲く、自然に抗わず、それに身を任せよ」といった汀女の自然観がこちらへと伝わってくるようです。ここに「母系制」の原理の一端を見る思いがします。
翌月号(二〇一七年一一月号)から、句誌名が『風花』から『今日の花』へと変更され、主宰者も、汀女の娘の小川濤美子から、その娘の小川晴子に引き継がれ、その創刊第一号(通巻七七五号)が、新たに世に出てゆきました。『今日の花』の表紙を飾るイラストには、『風花』創刊号の表紙のために一枝の夫で陶工の憲吉が描いたイラストがアレンジされて、再利用されました。こうして、創刊号の「後記」において一枝が記した精神と、創刊号の表紙のために憲吉が創案したイラストが、悠々七〇年もの時空を超えて、いまなお生き続けようとしているのです。
(1)神近市子『神近市子自伝』講談社、1972年、224頁。
(2)同『神近市子自伝』、同頁。
(3)高野芳子『わが青春・深尾須磨子』無限、1976年、15頁。
(4)同『わが青春・深尾須磨子』、36頁。
(5)同『わが青春・深尾須磨子』、47頁。
(6)同『わが青春・深尾須磨子』、48頁。
(7)同『わが青春・深尾須磨子』、49頁。
(8)同『わが青春・深尾須磨子』、50-51頁。
(9)同『わが青春・深尾須磨子』、51頁。
(10)同『わが青春・深尾須磨子』、52頁。
(11)同『わが青春・深尾須磨子』、46頁。
(12)同『わが青春・深尾須磨子』、52頁。
(13)大谷藤子「失われた風景」『學鐙』第60巻第12号、1963年12月号、42頁。
(14)同「失われた風景」『學鐙』、44頁。
(15)同「失われた風景」『學鐙』、同頁。
(16)前掲『神近市子自伝』、225頁。
(17)前掲「失われた風景」『學鐙』、42-43頁。
(18)同「失われた風景」『學鐙』、43-44頁。
(19)尾形明子『『女人芸術』の世界――長谷川時雨とその周辺』ドメス出版、1980年、134頁。
(20)中村汀女『汀女自画像』日本図書センター、1974年、92頁。
(21)同『汀女自画像』、97頁。
(22)富本一枝「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、44頁。
(23)同「後記」『風花』創刊号、45頁。
(24)中村汀女「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、45頁。
(25)前掲『汀女自画像』、101-102頁。
(26)中村汀女「後記」『風花』四・五合併號、風花書房、1947年、48頁。
(27)水原秋櫻子「祖師谷の客間」『陶説』36号、1956年、77頁。
(28)中村汀女「連句の会」『月報合本資料第一』(定本柳田國男集付録)筑摩書房、1981年、16頁。
(29)南八枝子『洋画家南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版、2011年、56頁。
(30)同『洋画家南薫造 交友関係の研究』、同頁。
(31)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、79-80頁。
(32)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、157頁。
(33)前掲『汀女自画像』、109頁。
(34)桑原武夫「第二藝術――現代俳句について――」『世界』岩波書店、1946年、63頁。
(35)富本一枝「後記」『風花』創刊号、風花書房、1947年、44頁。
(36)前掲『汀女自画像』、72頁。
(37)前掲『私たちの成城物語』、同頁。
(38)小川晴子「終刊のごあいさつ」『風花』終刊号(第774号)、2017年、3頁。