ここで取り上げるのは、高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子の三人の熊本ゆかりの女たちです。そして、それを相結ぶ仲介役として、平塚らいてうと富本一枝のふたりの青鞜の女を登場させます。まずは参考までに、下にそれら五人の生没年を書き記します。
平塚らいてう 1886(明治19)年2月10日生-1971(昭和46)年5月24日没。 富本一枝 1893(明治26)年4月20日生-1966(昭和41)年9月22日没。 高群逸枝 1894(明治27)年1月18日生-1964(昭和39)年6月 7 日没。 中村汀女 1900(明治33)年4月11日生-1988(昭和63)年9月20日没。 石牟礼道子 1927(昭和 2 )年3月11日生-2018(平成30)年2月10日没。
この五人には、共通点が見受けられます。それは、それぞれがそれぞれの立場から、時代に苦しみ、批判に晒され、社会と闘ったという点です。しかし、「個」あるいは「孤」という存在のあり方から少し焦点を引いて、青鞜の女である平塚らいてうと富本一枝を縦糸に、肥後の女である高群逸枝と中村汀女、それに加えて石牟礼道子を横糸として編み込んでゆきますと、そこにはひとつの絵柄が浮き出してきます。この五人が織りなす世界には、明らかに女同士の強い友愛が存在し、それが美しい生き姿となって、ひとつの時空が構成されていたのでした。
平塚らいてうが生まれたのが一八八六(明治一九)年、一番若い石牟礼道子が没するのが二〇一八(平成三〇)年です。このふたつの事象のあいだに、実に一三二年もの長い時間が流れました。私は、この間のこの五人の友愛に満ちた連珠の実態を、彼女たちがそれぞれに向き合った当時の社会情勢を後景に配置しながら、ここで描いてみたいと思います。そのなかには、らいてうのパートナーで美術家の奥村博(のちに「博史」名を使用)、一枝の夫で陶工の富本憲吉、さらには、熊本県出身の両親のもとに生まれた、プロレタリア文学の理論的指導者であった蔵原惟人、加えて、高村逸枝の夫で専属編集者の橋本憲三も、男性役として登場します。こうした男女の群像から、どのような錦織が出現するのでしょうか。そして、その絵図にあって、肥後の女、つまりは火の国の女に共通する何かがくっきりと現像されることになるのでしょうか。それを私は、見定めてみたいと思います。そして、それとは別に、この歴史記述の副産物として、近現代の日本女性の史的様相の一端が明らかになれば、女性史を専門としない人間である私にあって、さらに望外の喜びが付加されることになるでしょう。それでは、高群逸枝の生い立ちから筆を起こしてゆきたいと思います。