中山修一著作集

著作集14 外輪山春雷秋月

火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛

第一章 高群逸枝と平塚らいてうの邂逅と『婦人戦線』の創刊

一.高群逸枝の生い立ち

高群逸枝は、一八九四(明治二七)年一月一八日、熊本県下益城郡豊川村南豊崎(現在の宇城市松橋町)の地で、父高群勝太郎、母登代子の長女として生まれました。当時勝太郎は、幾田尋常小学校の校長を務めており、その後転任するたびに一家は、新しい赴任地に引っ越しを繰り返していました。

逸枝は、詩をつくるのが好きな少女だったらしく、守富村所在の北部高等小学校に在籍しているときに、『十三才集』と題された小冊子を手づくりしています。下の和歌は、その詩集に収められている一首で、一三歳(満年齢の一二歳)の秋に詠んだものです。

母様にしかられて泣く夕には
虫もかなしやころころと鳴く

一九〇九(明治四二)年四月に熊本県師範学校女子部に入学するも、脚気の病に伏し、翌年退学。一九一二(明治四五)年四月、私立熊本女学校四年に編入すると、翌年、四年を修業したところで自主退学し、熊本市内の鐘紡紡績工場に入社して女工員になります。その後逸枝は、一九一四(大正三)年四月に西砥用尋常高等小学校の代用教員の職につき、その仕事を辞したのは、それから三年後の一九一七(大正六)年一〇月のことでした。その二箇月前に、将来夫となる、同県球磨郡大村(現在の人吉市)の生まれで三歳年下の橋本憲三(本名は憲蔵)と出会っています。このとき逸枝は二三歳になっていました。

二.「火の国の女詩人」誕生

一九一八(大正七)年六月から一一月まで、阿蘇を通って豊予海峡を渡り、四国巡礼の旅に出ます。次は、そのときに詠んだ一首です。

火の國の
火の山にきて見渡せば
わが古里は花模樣かな

このころから逸枝の執筆は本格化し、「娘巡礼記」を『九州日日新聞』に連載し、翌年には『九州新聞』に「愛の黎明」を書きます。そしてこの年、逸枝は憲三と婚約し、同居生活に入るのでした。一九二〇(大正九)年、東京へ向けて出発。その後、都落ちと出京、そして東京での転居を試みながら、その一方で、詩集の刊行が続いてゆきます。

この時期の最初の作品が、『日月の上に』(叢文閣、一九二一年)です。これは、生い立ちからそれまでの身の上に起生した出来事を自伝的物語詩として綴ったものでした。『日月の上に』が単行本として世に出る前段の話として、逸枝は、このように書き記しています。

「民衆哲学」という論文を書いて生田長江さんに送った。生田先生は、わざわざこの遠い家まで、春陽堂の『新小説』の編集者といっしょにこられ、押し入れに投げ込んでいた『日月の上に』も、おもいがけなく日の目をみることになった。……生田先生は、この詩の載った『新小説』大正十年四月号に、「日月の上にの著者について」と題して、つぎのような推薦文を書いてくださった

生田長江の「『日月の上に』の著者に就て」は、逸枝を「天才者」として高く評価するものでした。

 高群逸枝さんは、まだ二十 ママ 歳にも満たない婦人です。最初にその『民衆哲學』と伝ふ論文原稿を拝見した私は、単にそれを拝見しただけでも少からず驚かされました。現代の日本に於て、これだけしつかりした推理と、これだけ鋭い直觀とをもつた婦人が、果して幾人あらうかと思ひました。けれどもその後、彼女の長篇詩『日月の上に』を拝見するに及んで、私は彼女が単に婦人として稀有の人であるのみならず、あまねく文壇思想界に於ける殆んど如何なる人々に比べても些の遜色を見ないほどの天才者であることを知りました

さらに生田は、こうも付け加えます。「しかも、常に噴出の機會をねらつてゐる地の底に火熱に近いものを感じさせないではゐません」。まさしくここに、「火の国の女詩人」高群逸枝が、誕生したのでした。

雑誌発表後、同年六月に叢文閣から『日月の上に』が公刊されました。この詩集は、長編詩の「日月の上に」のほかに、「五月の雨」「虐待される歌」「妻歌う日没時に」「夕べの哀歌」、そして「月漸く昇れり」の計六編から構成されていました。最後の「月漸く昇れり」のなかから主たる詩語を断片的に拾い上げ、順に並べてみますと、次のようになります。「妾」の読みは、おそらく「わらわ(わたし)」でしょう。あるいは「しょう」と読ませる意図があったかもしれません。

妾が女詩人として/九州から出て來た時に/お前が妾に呉れたものは/不自由と不幸とであつた
云つて呉れるな/貴女の御本領は詩作ですなどと/なぜ我々は/詩作の爲めに苦しまねばならないのか……
乙女をして歌はしめよ/太古の山に住ましめよ/女郎花をして咲かしめよ/しら雲をして飛ばしめよ
俗悪な世の/俗悪な群衆が/斯くも妾を不快にし/斯くも妾を飛び去らしめる……
ああ解放されたる展望よ!/よろこばしくも寂みしく妾は思ふ!/(月漸く昇れり!)/野邊なる月が/妾の心を照る時に

ここに挙げた詩片が、詩人として立つ「火の国の女詩人」たる逸枝の、おそらく初心にして同時に宣言文であり、そしてまた、ここにおいて、この人の生涯にあって通底するも止むことのない主旋律が生み出されていたように思われます。

確かにこのとき、生田長江は、逸枝の詩才の発掘という実に大きな役割を果たしたのでした。他方で、生田を驚かせた「民衆哲学」は、次の年(一九二二年)に京文社から公刊される『私の生活と藝術』に所収されることになります。

さかのぼって『青鞜』が世に出るときにも、生田は背後にあって貴重な役を演じていました。以下は、『青鞜』の創刊者である平塚らいてうの回想です。らいてうは、新しい雑誌の誌名にかかわって生田に相談します。

 生田先生も熱心にあれこれと考えて下さって、思いつく名を挙げているうちに、はたと膝を打って、「いっそブルー・ストッキングはどうでしょう。こちらから先にそう名乗って出るのもいいかもしれませんね」ということになったのでした

「ブルー・ストッキング」とは、一八世紀半ばの英国のモンタギュー夫人のサロンに集まっては男と一緒になって芸術や科学について論談していた婦人がはいていた青色の靴下のことで、黒色でないがために、普通と違ったことをする女をからかう場合に使われる言葉でした。こうして、この「ブルー・ストッキング」を訳して「青鞜」の造語が生まれました。女性によってこれからなされようとする文芸雑誌をとおしての活動が、世間の揶揄の的になるのを先取りしたというわけです。

このように、らいてうの雑誌『青鞜』と逸枝の詩集『日月の上に』が、人の目に留まるようになるにあたっては、共通する陰の立役者として生田長江がいました。当時生田は、文芸評論家としてのみならず、ニーチェの翻訳家としてもすでに社会に認められる存在にありました。さらに一九一九(大正八)年には綠葉社から『資本論第一分冊』を翻訳出版し、当時、社会主義に対して関心を抱くとともに、女性の社会進出にも理解を示す文学者だったのでした。

『日月の上に』と同じ年(一九二一年)に、『放浪者の詩』(新潮社)が生まれ、翌年(一九二二年)になると、評論集『私の生活と藝術』(京文社)に加えて、『美想曲』(金星堂)と『妾薄命』(金尾文淵堂)のふたつの詩集と、『胸を痛めて』(京文社)と題された恋歌集が刊行されます。そして、一九二三(大正一二)年に憲三が平凡社編集部に入社するころから、逸枝は、本人にとって六番目の詩歌集となる『東京は熱病にかゝつてゐる』の筆を進め、一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から上梓されるのでした。

逸枝によりますと、「あいかわらず詩壇人からは、黙殺された」ようです。しかしながら、逸枝の詩を正当に評価する人もいました。そのひとりが、平凡社の創業者であり、日本教員組合啓明会の結成にも尽力していた下中彌三郎でした。次に挙げるのは、その詩集につけられた、下中の「讀んで下さい――序にかへて」の一節です。

 詩は精神だ。そして感情だ。そして本能だ。そうだ、生命だ。
 藝術の眞のすがたは詩だ。詩こそ眞の哲學だ。詩こそ眞の文明批評だ。
 この意味で逸枝さんの詩は、哲學であり、文明批評である。さうだ、逸枝さんは正しく詩人であり、哲學者であり、文明批評家だ。そして女であり、日本女であり、人であり、日本人であり、人間である。
(中略)
逸枝さんは近代人の悩みのすべてを悩んでをる。逸枝さんの胸には近代人のあらゆる悩みが悉くこびりついてをる。その意味において逸枝さんは、日本歴史が生んだ日本女性の最後の――今日までの歴史においての――一人だ。
 詩人であり、哲學者であり、文明評論家である女性を日本史の上に求めるなら、神話のなかに須世理媛があり、奈良朝に額田王があり、平安朝に清少納言があり、徳川末期に野村望東尼があり、明治末期に与謝野晶子があり、大正の初期に高群逸枝がある。
(中略)
 今の日本には、勿論すぐれた女性がたくさんある。平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん、みなすぐれた人達である。たゞ詩人、哲學者、文明批評家をかねた種類の女性の中には今のところ私は逸枝さんをその最もすぐれた一人としてあげるに躊躇しない

この『東京は熱病にかゝつてゐる』に心を奪われたのは、下中彌三郎だけではありませんでした。下中が当代の優れた女性として名を挙げていた「平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん」のなかのひとりであり、かつて『青鞜』を創刊していた平塚らいてう、その人もそうでした。逸枝より八歳年長でした。らいてうは、逸枝の詩集との出会いについて、このように記述しています。

 わたくしが高群さんの存在を知ったのは遅く、大正十五年ごろかとおもいます。ふとした機会に、高群さんの詩集「東京は熱病にかかってゐる」ほか、二、三の彼女の文章を読んだときから、わたくしの魂は、すっかりこのひとにつかまえられてしまいました。
 初めて高群さんの著作にふれたとき、四、五日というものは、まるで恋人の姿や声やその言葉一つ一つが、たえず頭のなかを胸のなかを駆けまわるように、高群さんの詩句の断片で、わたくしの心は占められたかのようでした10

『東京は熱病にかゝつてゐる』は、全二五節から構成される長編詩です。第十二節が「文士有島武郎」です。そのなかに、こうした詩句があります。

有島武郎
 誰がよいのでも悪いのでもない。
 善につれ、悪につれ、
 それは運命。
 わたし達は運命に率直であつたばかりです11

小説家の有島武郎と『中央公論』の記者で人妻の波多野秋子が、軽井沢の別荘で縊死するのは、一九二三(大正一二)年の六月でした。らいてうは、かつて自分が起こした心中未遂事件と重ね合わせるようにして、この一片を読んだかもしれません。一方で、逸枝が述べるところによれば、旧自然主義の芸術が小説を主とするものであったのに対して、新自然主義の芸術は詩を中心に置かれなければならず、いままさにその復興期に直面しているのです。らいてうは、芸術に対する、次のような逸枝の熱意に心を動かされたのかもしれません。

 新自然主義の藝術は、普遍我の表現である。普遍我の、熱情の、無政府的爆發である。詩である12

らいてうは、『東京は熱病にかゝつてゐる』を読むと、おそらく誰かに、逸枝に宛てた伝言を託したものと思われます。一九二六(大正一五)年の四月、それを受け取って感動した逸枝は、近刊の『戀愛創生』と一緒に、らいてうに一通の書簡を送りました。以下は、その一部です。

 長い間今日を期待しておりました。あなたからのご伝言を承ることは私にとりまして当然なことでございます。私はあなたを母胎として生まれてきたものでございますし、私ほどあなたのために、激昂したり、泣いたりしたものがございましょうか13

一九一一(明治四四)年に『青鞜』が創刊されたとき、逸枝はまだ一七歳の子どもでした。しかし、「新しい女」や「新しがる女」といった蔑称でもって世間から愚弄され、厳しく批判されることに触れた逸枝の魂は、怒りの炎に包まれていたのでした。逸枝の書簡は、次のように続きます。

 「人はみな悪人です。私が子供であって、かたきをうつことの出来ないのをお許し下さい」と、私は早い頃、あなたに対していのっていました。それはもう早い昔、あなたが世間から憎まれていらっしゃる頃でした。
 それから、事ごとに、あなたのために泣きました。それはもちろん私のためにでございます。私には、ひとの無知が、くるしかったのです14

この文から想像できることは、どのようなことでしょうか。らいてうの苦しみを自分の苦しみとして引き受け、「かたきをうつ」ために、そしてまた「ひとの無知」を瓦解させるために、その後の逸枝の、女性史研究という険しい学問への道は用意されたのではないか、そのようなことが想像できるのではないでしょうか。つまり、この文が暗示しているのは、らいてうが『青鞜』の創刊の辞として発した「元始、女性は實に太陽であつた」という仮説を、学問としてはっきりと実証してみたいという、逸枝の胸に深く刻まれた思いではなかったのか、そのような気がします。そうであれば、このときすでに逸枝には、詩人から学者へと向かう己の必然的な道筋が明確に見えていたにちがいありません。逸枝は、こういいます。

 私は学問が偏見を破る大きな武器であることを知った。……固定観念や既成観念への、火の国女性的なたたかいも、このへんからはじまった15

ここに、火の国の女がもつ正義感と義侠心が情動し、詩人としての熱い感性を携えて、学者固有の、冷徹なる知の産出へと向かう、逸枝の、その瞬間的契機を見るような思いがします。しかし、逸枝が描く「新コースに大きな番狂わせ」が、このとき生じたのでした。どのような「番狂わせ」だったのでしょうか。次に、そのことについて叙述することにします。

三.アナーキズムの道へ向かう

憲三と結婚した逸枝は、一九二二(大正一一)年に息子(憲平)の死産を経験し、一方で、夫婦のあり方に絶望することもしばしばあり、一九二五(大正一四)年には、憲三の友人で寄宿人でもあった男性と一緒に家出もしています。以下は、この年の六月二日の日記に記された文の一部です。

 私の行くところはどこやら分かりません。別れたくないが別れるのがいい、心がそうささやきます。どうぞ私のいない後には、よい家庭を作ってください。私のような不具なもののみが、あなたのご機嫌をそこねます。私はまたの世には不具ではないものに生まれてきて、あなたのほんとうの妻になりとうございます16

六月二七日の日記には、こうした文字も並びます。

 きょうも夫が出て行けという。いくど夫はこの言葉を使うだろう。これはブルジョアがプロレタリアにたいして、その弱身につけこんでいう悪辣な言葉とおなじに悪辣である。こうした言葉は使って欲しくない17

実際に逸枝が家を出たのは、九月一九日。置き手紙がありました。「旦那さま つらい逸枝」で書き出されます。「さよなら。さよなら。……金を少しください。××さんに返します。そこまでいっしょに行き、わかれ、それからひとりになります。それから山の中のお寺を見つけ、恋愛論を書きますから……西国に行きます。死んだ坊やや母を弔いながら少し巡ります」18。おそらく無理心中の危険性があったのでしょう、捜索願が出されると、和歌山の新宮で無事保護され、東京にもどるのは、およそ半月ぶりのことでした。奥むめおは、このときのことを、こう回想します。

長女が生まれた翌年の九月、姑が亡くなり葬儀に帰った時のこと。新宮の警察から連絡が入り、ひとりの婦人を保護しているから引きとりにきてほしいという。婦人の名は高群逸枝、わたしを身元引受人として指定したのだそうな。わたしは詳しい事情ものみこめぬまま、すぐに警察に駆けつけたのである。……
 久しぶりに見る高群さんはやつれ果てているように見えた。わたしたちは一緒に一晩を過ごし……翌日、橋本さんが高群さんを迎えにこられた19

この家出中にも引き続き書いていたと思われます「恋愛論」は、次の年(一九二六年)に『戀愛創生』として萬生閣から出版されます。この本は、いっさい章や節に分節化されておらず、全体が流れゆく雲か川のように文字が書きつながれています。まさしくそれは、その後の逸枝の女性史研究にとっての礎石となる、意味ある構想ノートであったにちがいありません。そして、翌一九二七(昭和二)年に憲三は平凡社を退くことになりますが、他方で、そのころから逸枝は、婦人問題や恋愛論にかかわって、アナーキスト(無政府主義者)の立場から論陣を張るようになります。逸枝は、それへと至る経緯を、こう書き記します。

 私がアナキズムにひかれたのは書物からではなく、大逆事件に私の故郷から無実と思われる犠牲者たちを出したことが火の国の娘の胸を打ったのが遠い動因の一つであり、またKが下中さんの教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して自然に私にアナ系の思想を持ち込んだことが近い契機の一つとなったともいえよう20

大逆事件とは、捏造された「天皇暗殺計画」を理由に、社会主義者や無政府主義者の二六人が逮捕され、翌年の一九一一(明治四四)年一月、大審院は、逮捕者全員に有罪の判決を言い渡し、『平民新聞』を創刊した幸徳秋水を含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された一連の出来事を指します。このとき逸枝は一七歳、そしてまた、『青鞜』が創刊された年でもありました。死刑の犠牲者のなかに、逸枝と同郷の新美卯一郎と松尾卯一太がいました。ふたりとも、熊本県尋常中学校(現在の熊本県立濟々黌高等学校)の卒業生で、一九〇七(明治四〇)年に『熊本評論』を創刊していました。この肥後人の非業の死が、まさしく「火の国の娘の胸を打った」のでした。また、「教員組合啓明会の雑誌や出版物に加勢して」いた「K」とは、夫の橋本憲三にちがいありません。

逸枝の短編小説集『黒い女』が解放社から出版されたのが、一九三〇(昭和五)年の一月一〇日でした。前年の一九二九(昭和四)年一〇月にアメリカ合衆国で発生した世界恐慌が日本にも影響を及ぼしはじめた時期です。これより翌年にかけて、日本経済が危機的状況に陥ってゆきます。『黒い女』は、いわゆる「昭和恐慌」と呼ばれるこの時代に対する戦陣となって世に出るのです。次のような文言が、『黒い女』の広告文に並べられていました。

極左中の極左、女流中の女流――世を擧げてマルキシズム政治主義の流行を見るとき、獨りアナーキズムの陣營にあつて、プロレタリア・ネオ・ロマンチシズムのために萬丈の氣を吐く著者の第一小説集である。
階級受難、女性受難、この二重の重厭下に、更らに醜怪なる強權主義者の間にあつて彼女はいかに闘つたか!!21

他方、著者の逸枝は、自著をどう位置づけていたのでしょうか。熊本市立図書館に『黒い女』の初版本が所蔵されており、表紙裏の見返しに、逸枝が橋本静子に宛てた献呈の辞が自筆されています。日付は、亡くなる二年前の「一九六二年五月」、橋本静子は、夫憲三の妹です。「わかりがよい」という語句は、「わかりが早い」と読めなくもありません。

風がわりな小説です。散文詩的または寓話的小説とでもいえば、わかりがよいかもしれません。心理的には自叙伝ともいえましょう。私の愛の哲学が語られていると思います。ほんの芽生えにすぎませんが22

逸枝は、『黒い女』の刊行を控えた、一九二九(昭和四)年の年の瀬の動きについて、こう書きます。

 私はここで雑文書きのかたわら、婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手するはずだった。……年末に、私ははじめて印刷した年賀ハガキをつくり、前に述べた研究著述の計画を発表し、知人の援助をもとめた。……それを投函した直後の一二月三十日に前から話のあった解放社からの『婦人戦線』発行のことが決定したという通知があり、私の新コースに大きな番狂わせがもたらされることになってしまったのだった……はじめ私はこんな雑誌を出すことにも、私が主宰者になることにもひどく尻込みした。……だがKのすすめもあり、四囲の状勢からも要請されるはめになって……火の国的熱烈さをもって不退転の献身を誓うことになる23

すでにこの時点で「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史」の構想ができていたようです。しかしここに来て、「大きな番狂わせ」が生じ、『婦人戦線』の創刊へと、逸枝の精力は注がれてゆくことになるのです。これは、詩人から学者へ向かう道筋にあって、単なる通りすがりの寄り道だったかもしれません。しかし、自分の思想的立ち位置をより明確にするいい機会であると捉えるならば、この寄り道も、逸枝にとって意味のあるものであったにちがいありません。

逸枝が述べる「火の国的熱烈さ」とは、大地を焦がす、あの大阿蘇の、炎のごとき熱情を指し示すのでしょう。こうして「番狂わせ」に火がついたのでした。

『黒い女』の発刊と時を同じくして、一九三〇(昭和五)年一月二六日、無産婦人芸術連盟が結成され、同年三月に機関誌『婦人戦線』が創刊されました。第一巻第一号の奥付を見ますと、発行兼編集印刷人として、高群逸枝の名が明記され、発行所は「婦人戦線社」、その所在地は、逸枝の自宅住所である「上荻窪二六九」となっています。解放社が発売元です。

その号の「お知らせ」において、結成の経緯と構成員の名前が、次のように、明かされています。

 新年早々から着々計畫を進められてゐた無産婦人藝術聯盟は、一月二十六日、いよいよ目出たく結盟を了しました。往年、新女性の先驅者としていはゆる「青鞜」運動を率ゐられた平塚らいてう氏もお加はり下さつて、當日の出席者左記十四名、病床の人竹内てるよさん、その他地方在住者を合せ、正しく「青鞜」によつて個人的自覺の第一歩をふんだわれわれ女性は、更にこゝに社会的自覺に立つて、人類解放の究極の運動へと出発することになりました。

伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子

 そして我々は、こゝに外部闘争の機關として「婦人戦線」をもち、内部相互敎育の機關として研究會をもつことになり、前者の經營はこれを當分解放社に委託し、後者は當分毎月第四日曜に聯盟事務所において開催することになりました24

無産婦人芸術連盟の会合や『婦人戦線』の編集作業は、逸枝の住まいの上荻窪の家で行なわれました。実に簡素な室内でした。らいてうの記憶によると、こうです。

 長い年月にすっかり薄れてしまった記憶のなかで、どことなく殺風景な家の中の印象が消えずに残っています。いわゆる家財道具といったもの、箪笥 ママ や茶箪笥のようなものは見当たらず、人が住んでいるともおもえないほど、がらんとした家の中で、メリンスの赤い派手な柄の鏡台掛けにおおわれた鏡台唯一つが、異様に目立っていたことを覚えています25

家だけではなく、逸枝の化粧も、初対面のらいてうには異様に映ったようです。

 異様といえば、初めてお会いした高群さんの印象のなかで、そのお化粧が、わたくしには理解にあまるものでした。高群さんのお顔は、生地のままでこそ輝く顔であって、白粉や紅の粉飾の似合うお顔ではないとおもわれる上に、それもあまり上手なお化粧ではありませんから、せっかくの生地をそこなっているとしかおもわれません。わたくしの目には、紅、白粉など洗い流したらどんなに美しいことかと映るのですが、しかし高群さんには、おそらくご自身独自の美的観念があってのことだったのでしょう。身ごなし全体がのろいという感じで、靴をはくのもテキパキはけないような人でした26

しかし高群には、思想の内容は別にしても、らいてうを夢中にさせるだけの魅力が十分に備わっていました。らいてうは、このように語ります。

思想だけなら、他にいくらも求められるばかりでなく、必ずしもわたくしと、すべてが一致するものではないのでした。高群さんがわたくしを夢中にさせたのは、あの情熱、あの感情の動きと表現の自由さ、ユニークさ――それらを無限に内蔵している、高群さんという人間そのものの魅力でした27

創刊号(三月号)に高群は、「婦人戦線に立つ」を書きました。それは、婦人の「個人的自覚」から「社会的自覚」へと踏み出すことを強く訴える内容になっています。冒頭、高群は、こう書きます。

 わが國における、婦人自覺史は、かの「青鞜」運動に、最初の頁を起した。それは、誰も知るやうに、婦人の「個人的自覺」によつたもので、その後、いく星霜かを経て、いま茲に、我々によつて、婦人の「社會的自覺」にもとづく、劃時代的の運動が、起こされようとするのだ28

高群によれば、労働者は労働者であることを「自覚」することにより、農民は農民であることを「自覚」することにより、そして、婦人は婦人であることを「自覚」することによって、それぞれに、自らの手になる「自治」を求める。いずれもそれらは、政治社会(強権社会あるいは専制社会)を完全に否定するし、同時に、「自治」への介入も拒む――。以下は、高群自身の言葉です。

……民衆は最早や、古い「政權運動」を捨て、新しく起つた「自治運動」、即ち労働者組合運動(職業者組合運動)及び、消費者組合運動、農民組合運動等によつて起つ。
 これらの新しい組合運動は、ごく自然にそれぞれの役割(破壊的、または建設的)をもつが、歸するところは、自治コンミュンの聯合社會であり、ここを目がける種々の分野戦である。
 實に、これらの諸組合運動こそは、近世特有の眞に新しき一大民衆運動の種々の相であるが、この運動を進める上に、古い「政權運動」が、いかに妨げとなるかは實例の示す通りである29

高群の主張は、創刊号に掲載されている「創刊宣言」または「綱領」と呼ぶにふさわしい以下の文言に端的に凝縮されています。これが、無産婦人芸術連盟の旗印となるものでした。

一 われらは強權主義を排し、自治社會の實現を期す。
 標語 強權主義否定!

二 われらは男性専制の日常的事實の曝露清算を以て、一般婦人を社會的自覺にまで機縁するための現實的戦術とする。
 標語 男性清算!

三 われらは新文化建設および新社會発展のために、女性の立場より新思想新問題を提出する義務を感ずる。
 標語 女性新生!30

あえて以上の「創刊宣言」を図式化すれば、「強権主義=資本主義=家父長主義の否定」、対するは「自治主義=組合主義=母性中心主義の新生」となるでしょうか。 翌月の第二号(四月号)に、逸枝は「家庭否定論」を書きました。一枝は、文字の成り立ちからすると「家」という字は豚小屋を表わし、古来中国において常食としていた豚とともに生きる人のいる場所を意味し、「家財」は自分の所有物、すなわち妻子財産を指すことを明らかにし、その「自分」こそが「男」その人であるとの論理を展開します。つまり、「家」を支配し「財」を所有しているのが男性であり、女性はその「財」の一部でしかないというのが、逸枝の見解であり、それは、次のような主張へとつながります。

 そこで目ざめた婦人は、「家庭をケトバス」ことが唯一の最上の手段であることを知つた。
 家庭とは何か。元來それは豚小屋と刑務所を意味してゐるではないか31

同じく第二号(四月号)に、らいてうは「婦人戦線に参加して」を寄稿しました。このなかでらいてうは、まず、婦人運動の近年の状況をこう描写します。

 又是等の無産政黨所屬の無産婦人團體によつて、在來のブルジョア個人主義的婦人政治運動とは全然その立場を異にする無産階級的婦人政治運動もはじめて起こって來ました。かうして無産者解放運動の全戦線があたかも政治戦線と化したかの觀を呈するようになりました。同時にこの運動理論としての社會主義研究、わけてもマルクス主義研究は殆ど流行的全盛の極に達し、マルクス思想やソウエートロシアに關する著書の洪水となり、マルクス主義の公式を暗誦したマルクスボイやマルクスガルの横行となり、知識階級のマルクス主義男女は前衛をもつて自負し、ブルジョワ作家の左翼への轉換が流行しました32

次に、こうした現状のなかにあって、自らのこれまでの歩みを見つめます。

 新婦人協會創立時のわたくしは、婦人の立場からしきりに女性による社會改造を叫びながらも、それは結局男性と資本主義の横暴と貧欲に只いくぶんの制限を置くことによつて、婦人、母性、兒童を保護しようとする程度のもので、言はゞ社會政策的及至は社會改良主義的立場以上のものではなかつたことは明白です33

そして、以下のような認識を示します。

 しかしそのわたくしももうそうした局部的社會改善をもつて滿足することは出來ないのでした。……しかしそれにも拘はらずマルクス主義社會運動は、第一その運動方法に於て、それの戦術に於て、第二にさうした實現されるマルクス主義の社会組織形態に於て、わたくし自身の本性(わたくしの個性とわたくしがもつ女心或は母心)との間に到底相容れない或ものを感知させ……わたくしの心はマルクス主義社會主義運動よりも同じく現代の資本主義組織に反抗する無産階級運動として……今や全世界にひろがり、次第に發展しつつある協同組合運動により多くひきつけられて行きました34

かくしてらいてうは、「婦人戦線に参加して」の一文を、こう結ぶのでした。

……母性主義の立場から、協同組織の経済的自治社會の建設を理想とするわたくしは、また當然無政府主義社會思想に、その理想社会の組織形態に興味と共感を見出さずにはゐられないわたくしです。……わたくしの精神的娘のやうにも感じられてゐた高群逸枝さんの主唱によつて無政府主義系の婦人を中心とする新な聯盟が結ばれ、第二青鞜ともいふべき「婦人戦線」が生れ出たことは、わたくしには何としても大きなよろこびであります35

らいてうが、逸枝のことを「精神的娘」と語るのも、『婦人戦線』のことを「第二青鞜」と語るのも、とても印象的です。

『婦人戦線』の第三号(五月号)が発行された五月のその二八日に、無産婦人芸術連盟と全国農民芸術連盟との合同講演会が読売新聞社の講堂で開催され、逸枝が演壇に立ちました。「実際的、活動的といったいわゆる運動家的な肌合いはみじんもなく、あくまでも創造的、天才的な詩人といった印象」36を逸枝に抱いていたらいてうに、このとき、かすかな不安がよぎりました。

わたくしはこんな高群さんが演壇に立つことを、幾分あやぶむ気持で見守ったものですが、大勢の人前での演説などまったく不向きとおもわれるこのひとが、精一杯しゃべるのには、関心もし、安堵もしました。しかし、このときの「婦人戦線の事業」と題する高群さんの話は、臨監の警官の中止命令のため、おわりまで続けられませんでした37

らいてうの不安は杞憂に終わりましたが、別の不安が、会場全体を包み込みました。官憲による「弁士中止」という言論の封殺です。一九二五(大正一四)年に治安維持法が制定されると、表現の自由や結社の自由が一段と制限さる時代が出現していたのです。『婦人戦線』も、そうした時節の空気のなかで、翌年(一九三一年)の六月号(通計一六号)をもって休刊となりました。事実上の廃刊です。しかし、これによって、らいてうの逸枝に寄せる思いが、途切れることはありませんでした。らいてうはいいます。

 そのころ――いいえ、その後も終始、高群逸枝さんほど、わたくしを惹きつけたひとはありません。ただ、もう無性に好きなひとでした38

一方の逸枝にとっては、どうだったのでしょうか。「婦人論=女性史、恋愛論=婚姻史の研究に着手する」という自身の「新コースに大きな番狂わせ」が生じたにもかかわらず、無産婦人芸術連盟を発足させたことにより、らいてうと強いきずなを結ぶ現実的な場面が生み出され、その後の友愛にとっての土台がここに形成されたのでした。こうして、『婦人戦線』廃刊後も、ふたりが織りなす信頼は、のちの章において語るように、折に触れ、生涯にわたって確たるものとして続いてゆくのでした。

四.らいてうに去来する青鞜時代の「同性の恋」

実は、らいてうには、逸枝に先立ち、もうひとりの「無性に好きなひと」がいました。当時はすでに富本憲吉と結婚し、富本一枝(旧姓は尾竹)となっていましたが、青鞜社時代、らいてうが「私の少年」と呼び、一時期夢中になった女性です。そのころはまだ独身であった尾竹一枝は、「紅吉 こうきち 」を名乗っていました。らいてうは、こう告白します。

 高群さんを発見したよろこびのあまり、そのころわたくしが手紙形式で描いた文章――それは名前は出していませんが、宛名に富本一枝さんを想定したものでした――のなかで、こんなふうに言っています。
 「わたしはまあなんと高群さんを知ることが遅すぎたのでせう。この国に、しかも同性の中にかういふ人がゐられたとは。わたしの心はまるで久しく求めて、求めて求め得なかった姉妹を今こそ見出したやうな大きな悦びに波打ってゐます。そしてそれはどうやら十数年前、あなたをはじめて知った時のわたしのあの悦びと好奇心とにどこか似通うもののあるのを感じます。……」39

逸枝のもつ人間としての情熱の豊かさ、感情表現の自由さに魅了されたらいてうは、青鞜社時代の紅吉(尾竹一枝)がもっていたあの魅力、つまりは、いかなるものにも囚われることのない自由闊達な精神が繰り広げる奔放な言動を、このとき、鮮明にも脳裏に思い起こしたのでした。それでは、らいてうが書く、「あなたをはじめて知った時のわたしのあの悦びと好奇心」とは、どのようなものだったのでしょうか。

一九歳の紅吉が青鞜社に身を置いた一九一二(明治四五/大正元)年の一年を彩ることになった、らいてうと紅吉の「同性の恋」の顛末について、およそ二〇年の歳月をさかのぼって、次の章で跡づけてみたいと思います。

(1)『高群逸枝』「高群逸枝を顕彰する会」発行、2014年、7頁。熊本県立図書館所蔵。
 この冊子のなかでの記述によると、『十三才集』は「洋紙を二つ折りにして、散文、和歌、詩などを墨書し、イラストを入れ、黄色のレース糸で綴じてある」とのことです。

(2)高群逸枝『妾薄命』金尾文淵堂、1922年、107頁。

(3)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、187-188頁。

(4)生田長江「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』1921年4月号、別1⃣ 1頁。

(5)同「『日月の上に』の著者に就て」『新小説』、同頁。

(6)高群逸枝『日月の上に』叢文閣、1921年、248-252頁。
 最後の詩編のタイトルは、目次においては「日漸く昇れり」となっており、これは「月」とするべきところの誤植ではないかと思われます。

(7)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった①』大月書店、1992年、326頁。

(8)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、197頁。

(9)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、3-5頁。

(10)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、305頁。

(11)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、137-138頁。

(12)同『東京は熱病にかゝつてゐる』、28頁。

(13)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、233頁。

(14)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。

(15)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、62頁。

(16)前掲『高群逸枝全集』第九巻、223頁。

(17)同『高群逸枝全集』第九巻、226頁。

(18)同『高群逸枝全集』第九巻、228-229頁。

(19)奥むめお『奥むめお 野火あかあかと』日本図書センター、1997年、77-78頁。

(20)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、236頁。

(21)『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、1頁。

(22)高群逸枝『黒い女』解放社、1930年。
 私が参照したこの本は、熊本市立図書館所蔵の高群逸枝から橋本静子へ宛てた献呈本です。この本の見返しに書かれてある献辞は、『高群逸枝全集』第九巻に所収の「黒い女」の冒頭(10頁)に転用されています。ただし、ここでは「橋本静子様」の文字は、削除されています。

(23)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、232-234頁。

(24)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、16頁。

(25)前掲『元始、女性は太陽であった③』、306-307頁。

(26)同『元始、女性は太陽であった③』、307頁。

(27)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。

(28)高群逸枝「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』第1巻第1号、1930年、婦人戦線社、8頁。

(29)同「婦人戦線に立つ」『婦人戦線』、14頁。

(30)前掲『婦人戦線』第1巻第1号、4頁。
 橋本憲三・堀場清子『わが高群逸枝 下』(朝日新聞社、1981年)のなかの「高群逸枝著作年譜」には、「創刊宣言」という表記のもと、「橋本憲三起草、高群逸枝加筆」(386頁)であることが明示されています。しかし、高群逸枝本人は、「創刊宣言」ではなく「綱領」という語を使っています。これにつきましては、『高群逸枝全集』第一〇巻、234頁を参照してください。

(31)高群逸枝「家庭否定論」『婦人戦線』第1巻第2号、1930年、婦人戦線社、22頁。

(32)らいてう「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』第1巻第2号、1930年、婦人戦線社、37頁。

(33)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、同頁。

(34)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、37-38頁。

(35)同「婦人戦線に参加して」『婦人戦線』、39頁。

(36)前掲『元始、女性は太陽であった③』、307頁。

(37)同『元始、女性は太陽であった③』、同頁。

(38)同『元始、女性は太陽であった③』、305頁。

(39)同『元始、女性は太陽であった③』、305-306頁。