中山修一著作集

著作集14 外輪山春雷秋月

火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛

第一一章 夫の姉妹からの援助、「望郷子守唄」の建碑、そして最期

一.水俣の橋本憲三姉妹による生活支援

一九二〇(大正九)年に離郷して以来、長く東京で生活する高群逸枝は、それでも自叙伝のタイトルを「火の国の女の日記」としたように、故郷「火の国」を心から愛する女でした。一方その間、夫の橋本憲三の姉妹である藤野と静子が、一途な「火の国の女」にふさわしく、生国を出て東京の「森の家」で清貧にして学問に生きる逸枝と憲三のふたりを物心両面からしっかりと支えました。

堀場清子の『高群逸枝の生涯 年譜と著作』(ドメス出版、二〇〇九年)によりますと、橋本辰次・ミキ夫妻の長女藤野(本名フジノ)は、一八九四(明治二七)年一月一七日に肥後国八代郡日置村に生まれています。高群勝太郎・登代子の長女として逸枝(本名イツエ)が生まれるのは、次の日の一月一八日です。したがって、藤野と逸枝は全くの同世代人になります。このふたりの誕生からちょうど三年後の一八九七(明治三〇)年一月一〇日、肥後国球磨郡大村において藤野の弟憲三(本名は憲蔵)が生を受けます。憲三の妹静子(本名シズコ)は、肥後国球磨郡一勝地村を生地にもつ一九一一(明治四四)年七月二五日の生まれで、兄の憲三とは一四歳、年が離れていました。

藤野と静子が「橋本商店」を開いたのは、一九三三(昭和八)年の秋のことでした。そのことについて堀場清子は、『高群逸枝の生涯 年譜と著作』のなかで、次のように書いています。堀場は、逸枝亡きあと水俣に帰還した憲三のもとを、夫である日本近代史を専攻する早稲田大学教授の鹿野政直とともにしばしば訪ね、精力的に聞き取り調査をした詩人にして女性史を専門とする研究者です。

九月二七日、藤野協議離婚して復籍。自立をめざし、橋本一家の一丸となった応援によって、早くも一〇月一日には水俣町古賀町に「橋本商店」の看板を揚げた。店主橋本藤野、事務員は静子だった。米・炭・雑貨・ミカンや梨などの果実類・酒・食品などしだいに商品をふやし、買い手や取引相手の信用を得て繁昌した(その後橋本商店は、栄町、浜町と転々しながら発展し、現在は水俣市幸町にある)

また、堀場は、こうも書いています。その翌年(一九三四年)のことです。

五月一四日、橋本藤野は分家して、妹静子を養女とする。六月一九日、西村英雄を婿養子とし、静子との婚姻を届け出た。静子は結婚後も、軍人だった夫の任地熊本と、水俣の間を往来して、店の事務と経理を仕切った。大八車を引いて働き、店を大きくしたと、聞いたこともある

この年(一九三四年)の一月に藤野は四〇歳に、静子は七月に二三歳になりました。一方、このころの逸枝は、一九三一(昭和六)年七月に「森の家」に隠棲して以来、客の来訪をいっさい固辞し、一日に一〇時間近く仕事部屋にこもり、夫の献身を受けて「母系制の研究」に没入していました。

開戦が近づいてきました。次は、一九四〇(昭和一五)年の四月二九日に、逸枝が静子宛てに書いた手紙の一節です。

 おたよりありがたく拝見、お写真なつかしくなつかしく。先日は英雄さまこまごまお手紙まことにうれしく存じました。……
 私が年とって動けなくなったらあなたが養ってくださるってありがとう。感謝します。
 あと十五年――私たちもそうすればよぼよぼになることでしょう。喜んで静子さんのところへ帰りたいと思っています

この手紙から二年後の一九四二(昭和一七)年一月二二日の日記には、こう記されています。「鉄道便で小荷物到着。二七キロ」。小荷物のなかには、みかん大粒(三〇)、ネーブル(八)、レモン(四)、自然薯(二)、里芋、馬鈴薯、小豆、大豆、椎茸、砂糖ザラメ、同黒、小麦粉、干しえび・いわし、ちりめんじゃこ、石けん(二)、味の素(二)、歯ブラシ(二)、スモカ、へアネット(二)、丸餅(四〇)、梅干し(一缶)が入っていました。また、その年の一〇月一五日の日記には、「水俣から小包。――栗、ざこ、その他」の文字が並びます。

終戦を経て、一九五一(昭和二六)年一二月に、ついに逸枝は「招婿婚の研究」を脱稿しました。そこで、「この機会に、化け物屋敷と呼ばれている森の家は、水俣の義姉が出てきて修理してくれることになった」のでした。修理工事は、翌年(一九五二年)の夏に行なわれました。このときの「森の家」の修繕について、堀場は、こう付言します。

七月三日藤野が上京し、二三日まで滞在して応援した。家の修理費として姉妹から一〇万円、姉から夫妻の歯の治療代として一万五千円、逸枝のオーバー代として一万円を贈られる

水俣の橋本家の近くで内科医院を営む医師に、佐藤千里がいました。のちに、憲三と藤野の主治医となる人物です。偶然にも、佐藤の実家の母親の坂崎かおる(本名カオル)が逸枝の幼少期の友だちでした。のちに逸枝は、かおるについてこう書いています。「久具時代の一級下の友坂崎かおるが師範に入学したので、これと友だちになったのである。のちに彼女はよい夫と子供にめぐまれ、いまもたっしゃで故郷の天草に幸福な日を送っている。私はずっと仲よくしており、いまもたよりをかわしあっている」

「森の家」の改修工事のさなか、その家に滞在していた藤野は、そのとき目にした様子を佐藤千里にこう語っています。

ほんに、あん人達ときたら、一勝地の母が昔使ったこまか(小さい)鍋釜で、ままごとのごたる暮しばしとらした。鶏達も、逸枝さんには甘えてなあ。研究の邪魔になると憲さんが逸枝さんの書斎から追い出すと、鶏達はふてくされて外で砂浴びなどしよった

逸枝は、飼っていた鶏のトン子について、こう描写しています。

 トン子は扉がしまっていると、大いそぎで玄関に出かけていく。そこもしまっていると、また大いそぎで勝手口にまわって侵入し書斎へくる。
 私の書斎は、終戦の放送日をさかいにして、階下に移っていた。トン子は、雛の時からおもしろい子で、いちはやく家のぐるりを探検して、私のところをかぎあてた10

一九五四(昭和二九)年の一月一八日に、逸枝は還暦(六〇歳)を迎えました。そのとき、小さな宴が、友だち二人が加わって自宅で行なわれました。その祝い膳には、「森の家」でかわいがられていた三羽の鶏も参加しました。「もちろんトンコ、タロコ、ジロコもお相伴し、ご馳走をたべ、あまざけをすすり、逸枝が与える葡萄酒まで飲んで、上きげんだった」11

そのころの家の経済事情を憲三は、こう振り返ります。

 私たちのくらし――生活費――は、彼女の資料費には事欠くことが少なくなかったとはいえ、明日の米塩にこまるということはほとんどなかった。一、二度窮境に落ちたこともないではなかったが、非常手段をとれば打開できる程度のもので、質屋利用を知らず、使用済みとなった資料の売却なども考えになく、最低の生活はつねに保障されていた12

憲三がいう「非常手段」とは、たとえば「森の家」の修理費用を姉の藤野に出してもらったように、水俣の姉妹からの援助のことが念頭にあったのかもしれません。石牟礼道子は、憲三の姉の藤野について、こう書いています。

 森の家の夫婦は学者と編集者であるから、実収入はたいそう低額でぎりぎりの生活であった。それを知ってお姉さまの方は、
 「憲三夫婦はお国のために勉強しているのだから、わたしたちが養うてやらんばならん」とおっしゃって、水俣の店の収入を存分に森の家に送金しておられた由である。13

もっとも憲三は、こうもいいます。「ただ、世間にはジャーナリズムにあやまられて、彼女ないし私たちの貧乏という点については伝説的にさえ信じられているものがあるのではないかと思われたが、彼女もKもあえてこれを訂正しようという努力はしなかった」14

二.熊本大水害から「望郷子守唄」の歌碑建立まで

当時、逸枝の思いは、家で飼う身近な愛鶏のみならず、遠く離れた、生まれ故郷にも向けられていました。「森の家」の修理からおよそ一年が立った一九五三(昭和二八)年の六月二六日、降り続く大雨で阿蘇から有明海に流れる白川が氾濫し、熊本市内は洪水に見舞われました。そのときの思いを逸枝は、熊本で『日本談義』を主宰する荒木精之に宛てた手紙で、以下のように、綴っています。

 最初にラジオで、熊本の全市民に花岡山に避難命令が出たときいたときは、自分の耳をうたがったほどびっくりしました。朝日の東京版で、在京熊本県人連合会で、こちらにいる県民をはじめ一般都民に義捐をよびかけているとの異例の記事をみていよいよ驚きをふかくしました。私もさっそく郵便にたくして貧者の一灯をささげました15

そして、この手紙は次のように続きます。

 来る一月十八日は、私の還暦にあたります。そんな話を夫として寝に就いた一夜、夢の中でしきりに望郷のおもいを五木の子守唄に擬して作っていました16

その一夜とは、熊本の大水害からほぼ四箇月が過ぎた、一九五三(昭和二八)年一一月四日の夜のことで、夢のなかで、次の一首が浮かんできました。参考までに、それに対応する「五木の子守唄」の原詩を角括弧のなかに入れておきます。

おどま帰ろ帰ろ熊本に帰ろ
恥も外聞も 忘れて17
[おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと 盆が早よ来りゃ 早よ戻る]

そして、目が覚めた翌朝、続けて一〇首をつくりました。そのうちの最初の二連を紹介します。

おどんが帰ったちゅうて誰がきてくりゅか
益城木原山風ばかり
[おどんが打っ死んだちゅうて 誰が泣いてくりょか 裏の松山 蝉が鳴く]

風じゃござらぬ汽笛でござる
汽笛なるなよ思い出す
[蝉じゃごじゃんせん 妹でござる 妹泣くなよ 気にかかる]

「五木の子守唄」のゆっくりとした三拍子の旋律に乗せた替え歌になります。こうして、一一首からなる「望郷子守唄」が、一気に完成したのでした。のちに逸枝は、幼年時代を思い出して、こう書いています。

 私は熊本の生まれなので、母親のうたう五木の子守歌をきいてそだった。自分も子守の群にまじって、肥後の大平野をあかあかと染めている夕焼けのなかで、よくこの歌をうたったものであった。
 この歌の曲には、一定の型はあるが、時や所や歌い手の気分によって、調子は自在にかえられる。歌詞も自由に改作されたり、新作されたりする18

一方、「望郷子守唄」が生まれたころ、逸枝は、『女性の歴史』の構想と執筆に明け暮れていました。その中巻が刊行されるのが一九五五(昭和三〇)年五月ですが、そのなかの第三章「女性の屈辱時代」の第五節「いわゆる庶民文化」に、肥後国の民間説話についての記述がみられます。

 民間説話の種類は多い。これも私の故郷のことになるが、私の故郷は南国であたたかく、家ごとにザボンがなる。北東の山岳地帯に阿蘇のけむり、南西の有明-八代の海に不知火がもえ、古来ひとよんで火の国といった。……
「あとはどうなときゃあなろたい。」
 という南国型の女性も私の故郷の百姓女である。
 このように、この火の国は、民間説話の宝庫ともいえる国であるが、それは荒木精之氏の名著「肥後民話集」をみてもうかがわれよう19

このように、熊本が大洪水に見舞われたこの時期、逸枝の望郷の念は、一段と高まりをみせたのでした。

しかしその一方で、この時期、逸枝の心も同じように、あたかも大水に襲われるがごとくに、苦しんでいました。以下は、一九五三(昭和二八)年一二月八日の「共用日記」に逸枝が書き記した落書き風の短文の冒頭の部分です。

 私は破綻している。心に矛盾が多い。これが私の情熱やエネルギーの隠れた源泉となっている。私には自己反省の材料がかぎりなくある。私は人格の完成をもとめてさまよっている20

次は、翌年(一九五四年)一月一四日に書かれた短文の一部です。

 けさは夫をこまらせた。彼がいうには、私には、意識しないでひとをばかにしているところがあると。これに私は承服しなかった。なぜなら、それどころか私にはもっといけない奴隷根性があることをひそかに考えたからだ。けれども、奴隷根性の半面こそ夫のいうとおりのものではなかろうか、ともいまはおもう21

そうした内面の葛藤を抱えながらも、楽しい出来事もありました。一九五五(昭和三〇)年四月一一日の日記には、こう記されています。「球磨、水俣、福岡から憲三兄弟一行到着。トンコ、タロコ、ジロコ、人みしりして妙におとなしくしている。午後、兄弟会、水俣の姉に感謝状」22。このとき作成された感謝状を、姉の藤野は亡くなるまでとても大事に飾っていました。主治医の佐藤千里が、このように書いています。

 ふじのの病室の壁には、逸枝の筆になる一枚の感謝状が額に入れてかけられていた。

    感謝状
  橋本ふじの様
あなたは、終始父母のために計
りその老後を楽しませること
につとめられました。
また私ども兄弟にも絶えず
愛情を頒たれました
ここに兄弟会東京開催
にあたり記念品を贈り感謝します。
  昭和三十年四月十一日 兄弟会
    球磨村 橋本秀吉
    東京都 橋本憲三
    福岡市 橋本武雄
    人吉市 橋本袈義
    水俣市 橋本静子

 この、毛筆で丁寧に書かれた感謝状を見る度に、私は優しさとこっけいさの交じり合った奇妙な思いに浸されるのであるが、真面目であればある程童女めいてくる逸枝を好ましく思う23

東京での兄弟会の熱気がまだ冷めやらぬ翌一九五六(昭和三一)年の八月一一日、水俣では静子が筆を執り、憲三宛てに手紙を書きました。内容を部分的に引用します。

店の近くに広い土地つきの頑丈で古風な大きな二階作り……の家があるのを求めました。……兄さん達が年をとられて寄り添って暮らしたいと思われるとき、いつでも来ていただいてよいために。いつでも行って暮らしてもよい処があると思われるだけで今安心してお仕事なさっていいわけです。
 兄さん達も含めて、老後の暮らしがたつように設計をたてています。(静かな、樹木のあるよい処です)……
 いつでもお出になってください。それまでは、ただおしごとだけを、と思っています。
 借金をしましたが、それはちゃんとした目あてがあるのですから心配はいりません。しばらくは苦労しますが、兄さん達のためと、私達のために頑張ります24

しかしながら、まだまだ、逸枝の仕事に終わりは見えませんでした。その手紙から三年後の一九五九(昭和三四)年一月四日から四月一三日まで、一〇〇回にわたって地元紙である『熊本日日新聞(熊日)』に随筆を連載します。そして七月に、講談社より単行本となって発売されます。この『今昔の歌』は、前年(一八五八年)に刊行された『孤独と愛と 学びの細道』(理論社)に続く、逸枝にとってこの時期の二冊目の自伝的エッセイ集となるものでした。

『熊日』紙上の「今昔の歌」の連載が終わった翌日(四月一四日)は、逸枝と憲三にとっての結婚四〇周年の記念の日でした。「私たちは、高群・橋本両家の人びとへのささやかなおくりものを三越(百貨店)に注文し、当日はくつろいで自祝のテーブルにつき、タロコにも不二家の菓子をふるまったが、そこへ奥村博史さんがみえて貧しいわれわれの催しに加わってもらったのは思いがけない仕合わせだった。奥村さんは自作の青い美しい指輪を夫妻の名でおくってくださった」25

『孤独と愛と 学びの細道』と『今昔の歌』に先立ち、一九五八(昭和三三)年七月に発刊された『女性の歴史』の続巻をもって、四巻からなる逸枝の「女性の歴史」は完結しました。前代未聞の偉業として世に讃えられました。そうした燦然と輝く評価を受けて、「望郷子守唄」の詩作から八年と二箇月が立った、逸枝の六八歳の誕生日でもある、一九六二(昭和三七)年一月一八日に、逸枝ゆかりの地において歌碑の除幕式が執り行なわれました。以下は、翌日の『熊日』朝刊(七面)の記事からの抜粋です。

熊本が生んだ日本女性史研究家高群逸枝女史=東京在住=が故郷をしのんでうたった「望郷子守唄」の歌碑除幕式は、女史の六十八回目の誕生日にあたる十八日午前十時すぎから、女史が幼年時代を過ごしたゆかりの地、下益城郡松橋町久具の寄田神社境内(寄田校跡)の碑前で盛大に行なわれた。式場には沢田副知事、小崎熊日社長、福田令寿県社会福祉協議会長、黒田ハマ県婦連会長ら来賓と地元側から中山寧人松橋町長ら関係者、それに東京から女史の代理として奥村博史氏(平塚らいてう女史夫君、洋画家)浜田糸衛氏(童話作家)高良真木氏(洋画家)アメリカから帰国中の駒井哲氏(元映画俳優)らなど約三百人が参列した。
式は荒木精之氏(日本談義主宰)の司会で進められ、松橋町西部中ブラスバンドの奏楽のうちに同町曲野、坂本洋子ちゃん(七つ)=当尾小一年・女史の弟高群元男氏(故人)の孫=の手で除幕、同時に数十羽のハトが放たれ、小崎熊日社長が碑に刻まれた「望郷子守唄」を朗読した。

松橋町久具寄田の地で、逸枝は四歳から九歳までの幼少期を過ごしています。式典では、数百の参列者が見守るなか、松橋町長の中山寧人が式辞を述べました。参列者のなかには、高群逸枝の弟の清人、静子の夫の橋本英雄の姿もありました。逸枝はこの日、参加することはかないませんでしたが、その代わりに、挨拶文を送りました。以下はそれからの抜粋です。

 今日こゝに、望郷子守唄の碑の式典をお挙げいたゞきまして、無上の光栄でございます。……
 私は明治二十七年一月十八日、当松橋町に生まれ、大正九年心ならずも故郷火の国を遠く離れて、たゞいま東京に住んでいます。
 他郷に出ている者にとつて、故郷は母のふところであります。思い出のゆりかごの地であります。……
 私の望郷子守唄は、直接的には昭和二十八年の熊本大水害に触発されてなつたものでありますが、同時に私自身が内外の苦難に当面していたところから生れたものであります。……
 故郷のみなさまが、おろかな私をとがめずかつ私の望郷子守唄を愛してくださって、この美しい碑をゆかりの地寄田にお建てくださつたことを深く感謝し、この碑の精神が作者を超えて永遠ならんことを願つてやみません26

この式典には、平塚らいてうも、体調かなわず、参列できませんでした。そこで、教育長の白木満義が、らいてうからの長文の挨拶文を代読しました。それは、このような言葉ではじまります。

 高群逸枝さんを生んだ、この松橋町――ことに、四歳から九歳までのもつとも大切な性格形成期を過ごしたと思われる、この寄田神社の境内に、地元青年方の純真な願いから出た御企画で、地元有力者の方々のご協力により高群さんの歌碑が建ちましたことは、ふるさとの自然と人とを限りなく愛していられる高群さん御自身はもとより、高群さんを敬愛しております友人達も、よろこびと感謝にたえない次第でございます27

らいてうは、逸枝の『母系制の研究』と『招婿婚の研究』の業績に触れます。

女性史学と云うのは、高群さんの言に従えば、「女性の立場による歴史研究の学問」でありますが、日本に於ける母系制の存在と、それの父系制への推移の過程を資料によつて観察し研究したこの二大著述は、婦人を圧迫しその人格を無視してきた家父長制度が、決して太古から日本に存在した絶対的なものでないことを、実証したものであります28

それから、かつて自身が発刊した『青鞜』へと話題をつなげます。

 これによつて、わたくしが五十年前婦人雑誌「青鞜」の創刊に際し、「元始女性は太陽であつた、今女性は月である」と訴えたあの詩的表現に、はじめて科学的な裏付けが与えられたわけでございます29

さらに続けて、高群史学の金字塔となる『女性の歴史』全四巻がすでに完成し、いま、その追加の仕事として「続招婿婚の研究」に従事していることを紹介します。そしてらいてうは、次の言葉で、この挨拶文を締めくくるのでした。

 ある評論家は、この建碑の話をきいて「火の女、火の国へ帰る」といゝました。永遠の生命――火の女である高群さんが、残されたお仕事を完成され、愛するふるさとに――火の国の土をしつかりと踏みしめて、この碑の前に立たれます日を、わたくしは今心に描いています30

この日らいてうが祝辞のなかで言及した、「火の女である高群さんが、残されたお仕事」は無事完成し、『日本婚姻史』という書題となって、その翌年(一九六三年)の五月に至文堂から公刊されました。しかしながら、逸枝が母と仰ぐらいてうがこのとき祈念した、「火の国の土をしつかりと踏みしめて、この碑の前に立たれます日」は、とうとう来ることはありませんでした。もっとも、奥村博史がカメラに収めて持ち帰った幾多のカラー写真が、妻のらいてうを喜ばせ、他方で、写真を見た当事者である高群逸枝と夫の橋本憲三の胸に、生国への熱い思いが燃え盛って蘇ったものと想像されます。「おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ[おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと]」の詩句を口ずさみながら。

その一方で、水俣に住む憲三の姉の藤野の思いは、また別のところにありました。『熊日』の「望郷子守唄」除幕式の記事には三葉の写真が掲載されたのですが、そのなかの逸枝と憲三が熊本の方角に向かって正座して謝意を表わす写真の、あまりにもみすぼらしい普段着の姿に驚いたのでした。藤野は、間を置かず妹の静子に筆を執らせます。次は、一月二三日に静子が書いた文面です。

 除幕式には英雄さんが出席させていただきました。盛会でたいへんきれいな会であったと申しています。……
 熊日に出された写真が老いられていて、近い期限で私たちといっしょに暮される方がよいと思います。きびしい生活を続けられたのですから、もうホッとされてよい日が必要です。いつでもお迎えに参ります。
 田舎は静かで不安ありません。研究のお金がいればうちの姉さんが送るからと申しています。いってやって下さい。少しでも早く片づくとよいと申しています31

写真に写っていた老いの様相は、紛れもなくこのときの逸枝の実際の姿でした。疲労が蓄積し、運動不足もあり、目がかすむようになるとともに、まさしく心身が衰弱していたのです。

三.高群逸枝の最期

歌碑が建立された一九六二(昭和三七)年ころから、逸枝は、自分の最期が近づいていることを察知したのでしょうか、これから書こうとする自叙伝「火の国の女の日記」のための準備に取りかかります。『日本婚姻史』と同時並行しての仕事でした。『日本婚姻史』の方は、翌年(一九六三年)の五月に見事に刊行にこぎつけることができましたが、体調は好ましくなく、結果的に『日本婚姻史』が、逸枝にとっての最後の研究書となりました。その出版から一箇月後の六月一一日の「共用日記」には、「逸枝、左脇腹の痛みを訴える。固疾化(二月一三日夜廊下に倒れたときさらに痛めたらしく)していたところ。医師の来診をもとめようといえば、しばらくようすをみてからという」32と、書き記されています。このころ逸枝は、夫に次のようなことを伝えます。頑として医者を拒む逸枝の言葉です。

もし私に、ほんとうに医者が必要なときはかならず自分からそういいますから、それまであなたは安心していてください。あまりやかましくいわれるとそれだけでかえって病気になるのよ33

それでは以下に、この日から、自叙伝「火の国の女の日記」の執筆に取り組みながらも、高群逸枝の最後のいのちの灯が消える翌一九六四(昭和三九)年六月七日までの約一年間を、「共用日記」のなかの記述内容、およびそれについての憲三の付記から重要と思われる箇所を部分的に拾い集め、短くまとめてみたいと思います。注記がない限り、以下に用いる引用文はすべて、『高群逸枝全集』第一〇巻の第六部「翼うばわれし天使・一九六三年(六九歳)-一九六四年(七〇歳)」からの抜粋です。

八月九日「この朝も静養のこと、夜も具体案など話して病院静養をすすめたが、いまのままのほうがよく、かならず克服できるという。騒ぐのがいちばん自分には悪いという」。

九月五日「『火の国の女の日記』(自叙伝)起筆。しかしすぐ疲れて一行でとどめる」。

九月一八日「自叙伝書きつぐ。二、三枚で大事をとって筆をおく」。

「その後逸枝の自叙伝は、自記や口述でかなり順調にすすみ、一一月二八日には、『第一部しらたま乙女』三四〇枚を脱稿した」。

一二月一日「逸枝、貧血めまい症状、発熱」。

一二月二日「市川[房枝]さん、何かでご病気とのことをみたと見舞いにみえ憲三応接。当人に知らせず竹内博士にれんらく」。

「同五日に[竹内博士]来診、その処方箋とともに次の手紙を八日にもらった」。「想像したほどの御病気ではなく安心しました。しかし長就床のため運動不足の衰弱は認められます。すこし運動なさったがよいでしょう」。

このとき病気見舞いに「森の家」を訪れた市川房枝と、その三日後に往診に訪れた竹内茂代は、これまで逸枝の執筆活動を親身となって全面的に支えてきた後援者でした。市川は、戦後の公職追放の身から解き放されると、一九五三(昭和二八)年の第三回参議院議員選挙に東京地方区から立候補し、当選を果たしていました。一方の竹内は、新宿に開業する医師であり、それと同時に、市川と同じ志をもつ社会運動家でもありました。このふたりが、いかに逸枝を支えたのかは、一九五三(昭和二八)年に刊行された『招婿婚の研究』の跋文によく表われています。そこには、次のような竹内と市川に対する逸枝の感謝の言葉が記されていました。

竹内茂代博士は、この種のしごとには、多くの資料と、生活の安定と、健康との三者が必要であるが、著者がそのいずれをも缺いているというのであわれまれ、親身のお力添えをたまわつた。市川房枝氏は著者が基礎調査をおわつて、いよいよ執筆に入るときに、執筆二年間の生計の保障を、竹内氏とともにとりはからってくださった34

また、このようなこともありました。「共用日記」に目を移しますと、『熊日』紙上での「今昔の歌」の連載が終わって一箇月と少々が過ぎた一九五九(昭和三四)年五月二四日の午後、「市川みさをさんみえる。市川さん当落(参院選)線上にあると。鈴蘭をもらう」と記されています。房枝にとって二期目の選挙戦の時期でした。市川ミサオは、未婚である房枝の養女で、房枝が大きな信頼を寄せていた女性です。さらに、九月一二日の箇所には、次の記載があります。「竹内、市川(参議当選)、みさをさんみえる。診断――どこもわるいところはないと」。これ以外にも「共用日記」には、市川本人、あるいは使いの者が、長期にわたり、しばしば「森の家」を訪れ、金品の差し入れをしたことが記述されています。

それでは再び、「共用日記」の一九六三(昭和三八)年の部分にもどります。

一二月三〇日「逸枝病みて憲三さびし年のくれ」。

一二月三一日「逸枝病気、憲三ひとり内外のそうじその他。かたのごとくふるめし。除夜のかね」。

年が改まり、一九六四(昭和三九)年の元旦を迎えました。天気は晴れ。「早起き――逸枝も元気で起きる。とそとぞうにいつものごとく。年賀一四八」。次は、この日の日記に唯一自筆された逸枝の即興歌です。「火の国の 女の日記 五百枚 書いて新年を 迎えけるかも」。

一月二日「逸枝終日起きている。水俣の姉から見舞い金」。

一月五日「軽部なみ夫人年始に。故郷から――もち、鰹節、田舎きなこ、白魚、にぼし、したけなどいろいろ。午後逸枝吐瀉」。

「彼女の吐瀉は若いときからの習慣であるが、ひとりでに出るのではなく、自分から吐くのである。そうすると気分がよくなり、一、二回の絶食で体の調子をとりもどした。一月十日のKの誕生いわいも欠かさずすまし、十八日には彼女の満七十歳を迎えて古希の祝いをした」。

一月一八日「逸枝古希七十歳。朝起床、祝膳につく。あと就床。『火の国の女の日記』口述。この日、『第二部恋愛と結婚の苦悩』を終えて、『第三部与えられた道』にすすむ」。

一月二九日「松橋町長さんから年賀。(三越、毛布)」

二月一九日「朝刊で奥村博史さんの逝去を知る。一八日朝五時、関東中央病院で、享年七十二歳。再生不能性貧血症と。弔電」。

二月二一日「朝から小雪舞う。午後一-二時、奥村さん成城で告別式。一時十分、両人口述筆記をとめて遥拝」。

二月二三日「午前〇時すぎ、逸枝ベッドをはなれ、原稿を焼くといって重い綴じ込みをもって階段を下り、庭に持ち出そうとする。焼くのはしばらくやめて、再検討または改稿の資料にしたがよくはないかととめて、ベッドにみちびく」。

「彼女は原稿が気に染まなくなると惜し気もなく反古にするのがつねだった。こんどの場合、彼女の最大の懸念は、原稿のなかの多くの登場者のいちいちについて、尊敬を欠いたりまたはその立場を誤って傷つけるものがないか、自己修飾あるいは弁護におちいるものがないかという点で、自叙伝のもつその限界ないし可能性について悩んだのである。この原稿は危いところで焼却をまぬかれて、彼女によって丹念に推敲された」。

二月二九日「入浴のしたくをしたが逸枝気分わるく取りやめる。眼がかすみ新聞がよめない。……三時すぎ胸のどうき強く、発熱、四時かいふく」。

三月一八日「逸枝、日中離床。『火の国』、母系制の研究のところまで進む。七〇八枚」。

三月二四日「このまま目がみえなくなったら病院に行って手術なども考えましょうという」。

三月二五日「はじめて活字が読めるという」。

四月五日「中ソ論争表面化。ゆくとこまでゆくだろう。……有色人の文明 自給生産共同体 白人の文明 商品生産個人主義」。

四月八日「逸枝ちょっと起きてまた就床。床上で『火の国』昭和一五年帰省の章を書く。らいてうさんからたより」。

「五日の日記は二人の共用日記の、八日の『帰省』は『火の国の女の日記』の、ともに絶筆となったものである」。

こうして逸枝の筆が、口述筆記も含めて完全に止まりました。このときの主な病状は、神経痛による激しい痛みと顔面の発疹でした。ついに逸枝も近所の開業医のKさんによる往診を承諾し、四月一三日の夜の受診を最初として、診療がはじまりました。K医師の見立てによると、顔面の発疹はヘルペスにちがいなく、精神的肉体的疲労が主因と考えられ、その症状に神経痛が伴うのは一般的であるとのことでした。しかし、およそ一箇月が立とうとしていましたが、病状は膠着状態で、いっこうに回復の兆しが見えませんでした。次は、「共用日記」のなかの憲三の付記です。

「K、五月十日の夜明けとともに五時三十分K医師の来診をもとめて友人たちにも電話。十時三十五分竹内博士。その結果、病院入りを納得させられる」。

五月一一日「二時市川[房枝]さんらみえる。竹内[茂代]さんの選択、市川さんの厚生省を通じての配慮で、国立東京第二病院に決定。K、市川さんらと病院に出かけ、帰家四時三〇分、逸枝は[市川]みさをさんにつきそわれて今朝よりぐっとよくなっている。奇跡とよろこぶ」。しかし、「逸枝は、共同室ときくといやがり、ぜひ個室にしてほしいという」。

五月一二日「九時十分救急車で出発。特別室ながら二人室に入る」。

憲三は、個室でないことが気になっていました。加えて、この病院が「完全看護制」で、自分が付添人として逸枝のそばにいることができないことを知ったときは、「彼女の不運の姿が目に浮かび椅子にかかったまま失神した」のでした。これまで、「森の家」では他人の訪問を断わり、長いあいだ、夫婦ふたりだけの水入らずの暮らしをしてきた憲三にとっては、予想だにしない、不測の事態に遭遇したのでした。一方、何年も家から一歩も出ることなく書斎の机に向かっていた逸枝にとっては、救急車はいうまでもなく、病院も病室も、全くなじみのない異質の空間だったにちがいありません。それでも、付添婦だけは、何とか病院側から提供されることになりました。入院初日のこの日は、時間が来ると握手を交わし、夜のことを付添婦によく頼んで、やむなく病院をあとにしました。

五月一三日「逸枝は眠れなかったろう。さびしかったろう。いまごろ熱心に待っていることだろう。しばらく待っていてください。まだふらつく頭をかかえて口上書をまとめる。八時四十五分できる。これから飛んでいく。……口上書(個室あっせん依頼)を面会室で友人たちに手渡してたのむ」。

「個室については入院前日の病院あいさつの帰途、Kが病人の要求をきくまでもなく逸早く市川さんにそのあっせんを依頼した。病院費用については自宅ですでに用意がある旨を通じてあった。そして、あらためて入院翌日文書でもって依頼するとともに、K自身も庶務課長、婦長、主治医に頼んだ。……幸い可及的早く南側の明るい静かなもっともよい場所の一人室に移ることができてうれしかった」。

「主治医は病名ないし病状についてKがたずねても、はっきりしたことは何もあかしてくれなかったが、Kは百科事典の『腹水』の項目からあれこれとたどっていって、重大な覚悟を要することを察知し、できうるかぎり現在の患者をまず安静させ、体力を維持して、療養を長期にみちびくことを考え、あまり友人たちの面会が多くて、しかも病人が自分を殺してげんきよく応対につとめて疲れるので、主治医に話して『面会謝絶――主治医』の標札を病室の入口に掲示してもらった。むろん主治医の方でもそれを必要としたのだろう」。

「重大な覚悟を要することを察知」した憲三と、市川房枝の関係者たちは、そのことを、憲三の妹で、水俣に住む橋本静子に連絡しました。以下は、静子の文からの引用です。

 前に、姉と私ども夫婦の水俣の居宅にお越しいただいている浜田糸衛様、高良真木様のお知らせと、兄憲三の知らせも届き、姉逸枝の急病を知りました。夫と私は羽田に着き、旧知の高良様のご運転のお車のご供与をいただきました。
 同乗のかたから、「普通の人ではすぐに入院することができないのを、市川先生の国会議員の肩書きで入院することが出来た」とうけたまわりました35

しかし、その車が向かったのは、逸枝が入院している国立東京第二病院ではなく、市川の執務室のある婦選会館でした。当然ながら、静子は、落ち着きませんでした。「世事に才覚のない兄憲三に、入院ごとのお手助けを感謝申し上げましたが、早く病体をみきわめて、なんとしてでも早急に全快させねばと気負っていて、兄夫婦に早く会いたいと念願してばかりいました」36。病院に連れていってもらえたのは、やっとその後のことでした。面会を終え、その足で、「森の家」にたどり着きます。

 兄と夫と私とで食事もしないで善後策を話し合い、早急に態勢をととのえました。姉フジノが当座用にと持たせて寄越した百萬円を兄に渡し、「いつでも、いくらでも、要るだけ送るから言ってよこせ」との伝言も伝えました」37

六月七日「病院の廊下で[日曜日のため昼間自宅に帰ろうとしていた]付添いさんにあい、午前八時入室。逸枝の寝顔のあまり美しさに、さめるまで立ったままみとれていた。また呼吸のやすらかさ。彼女は神だ」。

「十時、主治医みえる。そんなに食べられないなら、注射するかも知れないと告知される。昼食には病院の流動食はたべたくないといい、牛乳とアイスクリームを、二人でわけあってたべた。……私は立ったり、椅子にかけたりして、一日彼女と接近して看護した。胸から頸部にかけて鈍痛。ときどき後頭部と額の鈍痛」。

この日の夕刻、逸枝と憲三が交わした最後の会話の場面を、以下に再現します。

私「私はあなたによって救われてここまできました。無にひとしい私をよく愛してくれました。感謝します」。
彼女「われわれはほんとうにしあわせでしたね」。
私「われわれはほんとうにしあわせでした」。力を入れてこたえ、さらに顔を近づけて私が「……」というと、彼女ははっきりうなずいて、「そうです」といった。
 彼女は心からそれをゆるし、そしてよろこんでいるのだった。いまこそわれわれは一心になったのだ。
 七時十分に付添いさんが帰室したのちも九時までいたが、いよいよかえりのあいさつのとき、逸枝はかたく私の手をにぎり、「あしたはきっときてください」とつよいことばでいった。
 これまでにない異様なショックを受けた。しかし、とどまることがゆるされない。……私は、祈り祈り帰家。
――病院からのれんらくで十一時にかけつけた。そのとき、もう彼女の偉大な魂は一生の尊い使命を終え、永遠のねむりにはいっていた。

最後に憲三が逸枝に伝えた「……」という伏せ字になっている箇所は、「すぐに自分もそっちに行くからね」という言葉に近い何かではなかったかと推量されます。死亡時刻は、一九六四(昭和三九)年六月七日の午後一〇時四五分、病名は、ガン性腹膜炎でした。かくして「彼女のなきがらは翌日らいてうさん、主治医の見送りのなかに病院を出て、軽部夫人らの待つ森の家に帰った」のでした。

六月八日および九日にかけて、主要な新聞紙上において、高群逸枝の死亡記事が掲載されました。地元紙の『熊日』も九日の朝刊九面で報じました。記事に加えられた逸枝の写真は、黒の罫線で囲まれていました。次の引用は、その記事からの抜き書きです。「高群逸枝さん(本名橋本イツエ、女性史研究家、評論家)は東京・目黒の国立第二病院入院中、七日午後十時四五分ガン性腹膜炎のため死去、七十歳。……十日午前十時から自宅で密葬。本葬は熊本で行なう予定。日時その他は未定」。しかしながら、本葬を熊本で行なうことについては、何かの事情により変更せざるを得なかったようです。二日後に出される死亡広告がそのことを物語ります。『熊日』においては、死亡広告は一一日朝刊四面に掲載されました。「夫 橋本憲三 親戚代表 橋本英雄 高群晃 友人代表 家永三郎 志垣寛」の連名によるもので、「告別式」を自宅で行なうことが、以下のように告知されたのでした。

高群逸枝(橋本イツエ)こと六月七日午後十時四十五分永眠いたしました 茲に生前の ご厚誼を深謝しご通知いたします 追て来る六月一五日午後三時より五時まで自宅にて仏式により告別式を相営みます

友人代表を務めたのは、東京教育大学文学部の日本史の教授の家永三郎と、同郷熊本県の出身で教育評論家の志垣寛のふたりでした。平塚らいてうの名も、市川房枝の名も、ここにはありません。この死亡広告を見て、なぜ、予定どおりに熊本で本葬を行なわないのか、そして、「望郷子守唄」の除幕式に際しての挨拶文にみられたように、これまで一心に逸枝を支えてきていたと思われるらいてうが友人代表になっていないのはなぜなのか、不自然さを感じた『熊日』購読者も多かったのではないかと考えられます。

他方で、こうした死亡広告は、かつて逸枝の母親の登代子が亡くなったときも、夫の勝太郎によって出されており、憲三はそれをしっかりと踏襲したといえます。逸枝は、そのことについて、こう書いています。「母が死んだとき父は九州日日と九州の両新聞に家族連名の死亡広告を出して、有縁の人たちに知らせることを忘れなかったが、またこれは母への最後の父の敬意でもあったろう」38。戦後、『九州日日新聞』と『九州新聞』が合併して『熊本日日新聞(熊日)』が生まれます。この引用文の一節は、五年前に『熊日』に連載された「今昔の歌」のなかにおいて逸枝が披露したものです。したがって、この死亡広告を見て、親子二代にわたる死亡時対応の継承にかかわって何か深い思いに駆られた『熊日』購読者も、少なからずいたにちがいありません。

病院から帰宅したひつぎは、書斎につくられた祭壇に安置されました。それから一五日の告別式までの様子を、憲三は、『高群逸枝全集』第一〇巻のなかで、次のように記しています。

Kと静子とで美しく化粧し、『招婿婚の研究』一本、『恋愛論』原稿に、詩集を添え、長年の愛用――彼女の指にペンだこをつくった――万年筆にインキ壺、研究カード・原稿用紙・ノート・便箋、眼鏡等を棺内の枕元におさめ、憲平ちゃんのかたみ、愛鶏を抱いた彼女とKの写真、それにKの言葉を胸に置き、庭の花ばなをいっぱい加えて、八日九日の通夜の後、十日夫と橋本高群両家の近親、竹内茂代さんら少数のものがみまもってだびに付し(代々幡葬祭場)、十五日森の家で葬儀(導師豪徳寺)と告別式を営んだ。

告別式の様子は、六月一六日の『熊日』でも「弔歌に故人しのんで 高群逸枝さんの告別式」(七面、写真入り)という見出し記事で取り上げられました。「式には故人の郷里下益城郡松橋町から上京した中山町長をはじめ平塚雷鳥さん(評論家)人吉円吉氏(昭和女大教授)住井すえさん(作家)志垣寛氏、島田磬也氏、伊豆熊日社長代理井内同東京支社長ら多数が参列した。中山松橋町長の弔辞のあと、荒木精之氏からおくられた弔歌の朗読(島田磬也氏)寺本知事、伊豆熊日社長らの弔電披露があり、女性史研究に一生をささげた故人をしのぶにふさわしい盛儀だった」。

四.葬儀後の残照

告別式から四日後の六月一九日、『サンケイ新聞』は、和歌森太郎執筆の追悼文「高群逸枝さんの業績 女性の目で、日本女性史をくみたてる」(七面)を掲載しました。

 それにしても「招婿婚の研究」など、たいしたものである。妻問い婚、つまり男が女のもとにかよいながら夫婦関係を結んだ段階から、妻方にあって夫婦が共同生活をする段階へ、そして夫方のほうに妻を迎えいれる嫁取り婚の段階へと変わってきた過程は、従来民俗学もよく説いてきたところであるが、これを、原始・古代・中世・近世にわたる膨大な史料を基礎に、みごとに筋みちつけられた。民族資料も、よく批判的に摂取され、その論旨を具体的にたすけている。

和歌森太郎は、『招婿婚の研究』が出版されるときに結成された「高群逸枝著作刊行後援会」にも、その名を連ねていました。逸枝の死亡広告において友人代表のひとりとなっていた家永三郎と同じく、和歌森も東京教育大学文学部の教授で、日本史(史学方法論/民俗学)が専門でした。

続く六月二二日に、婦選会館で高群逸枝を追悼する会が催されました。『婦人展望』は、その様子を、短くこのように伝えています。

去る六月七日死去した女性史研究家高群逸枝の追悼会が六月二十二日午後二時~五時婦選会館においてひらかれ、次の諸氏が出席、故人をしのんだ。市川房枝、鑓田貞子、浜田糸衛、稲津もと、高良真木、中島和子、近藤真柄、児玉勝子、武石まさ子、市川ミサオ、両沢葉子39

このなかの浜田糸衛と高良真木は、逸枝の「望郷子守唄」の建碑に際して、らいてうの提案により、東京での募金活動に奔走する一方、除幕式参列のあと、憲三の姉妹の住む水俣に足を運んだおりには、湯の児温泉の三笠屋旅館での一泊の接遇も受けていました。しかし、この追悼会は、逸枝をしのぶ場というよりは、憲三への悪口を並び立てる場と化したのではないかと想像されます。といいますのも、この追悼会に出席した人たちは、一週間前の一五日に「森の家」で挙行された告別式に参加していなかった可能性があるからです。なぜ、彼女たちは告別式への参列を見送ったのでしょうか。どうやら、逸枝が入院した際、憲三が病院側に要求した「個室と面会謝絶」が原因となって、市川房枝とその周囲の人たちに不快感を生じさせたようです。憲三は、『高群逸枝全集』第一〇巻のなかで、このように書きます。

 個室と面会謝絶の件は、思いがけなく、一部にまさつをおこした。Kは、生命の尊厳と、ひたすら彼女の心にしたがった。それを知った逸枝は「私たちは自分たちのこれまでの流儀を押し通しましょう」といった。
「でもそれは感謝とか友情とかの問題とはべつですね」
「そうですとも」

すでに書いていますように、市川房枝は、戦前の『母系制の研究』発刊のころから今日まで、親身になって逸枝を支えてきた後援者のひとりでした。おそらく市川は、逸枝に最良の医療を施すために、善意をもって参議院議員という立場から厚生省に働きかけ、国立東京第二病院への入院の斡旋をしたのでしょう。そして、時間の許す限り病室を訪れ、手を握りしめながら、思い出を語り、感謝の言葉をお互い交わし合って、最後の日を迎えたかったものと想像されます。市川を取り巻くほかの女性たちも、おそらくこれと同じ心情だったにちがいありません。しかし、個室にかくまい、他者の面会を拒絶しようとする憲三の行為は、そうした人たちの願いを踏みにじるものであり、それが「まさつ」となって、両者に修復しがたい溝が形成され、告別式から一週間を置いての追悼集会の開催という分派行動となって現われたものと推量されます。

しかし一方で、夫である憲三には、妻に対する固有の別の感情がありました。つまりそれは、残り少ない時間にあって多くの後援者たちが見舞いに押しかけ、それに無理をして応対する状況が続けば、妻の心身の衰弱は一気に進行するにちがいないという懸念でした。他方で、そもそも三十余年ものあいだ「森の家」に引きこもり、来客を断ち、机を友に生活してきた逸枝でしたので、個室と面会謝絶を強く望んだのは、むしろ逸枝の方だったのかもしれません。

さらにそれらに加えて、完全看護という医療制度も、常にこの間、憲三を脅かしていたものと考えられます。のちに憲三は、石牟礼道子にこう語ることになるのです。

 完全看護制などということがわかっていれば、入院などさせなかったのです。ここで、彼女が求め続けていた森の家でのいとなみを終わることができたのに、僕がうかつにも気付かなかったから、彼女のいとなみを断ってしまった……40

完全看護制を敷くこの病院は、憲三にとって、決められた短い時間以外はもはや自分が入り込むことができない、いままでに経験のなかった、ふたりを分かつ異界でしかありませんでした。あくまでも憲三は、ふたりして長く暮らしてきた自宅で、逸枝をしっかりと胸に抱き、最後の別れの言葉を交わしたかったのではないかと思われます。実際にそれができなかったことは、まさしく「慙愧の極み」として、その後終生憲三を苦しめ、そうした後悔の弁が、上記引用のごとく、身近な石牟礼へ向けられたのではないかと推察されます。

しかし、市川房枝たちと憲三のあいだに生じた不信感は、個室と面会謝絶の問題だけに止まりませんでした。それは、金銭に関する問題でした。以下に、それにかかわる、憲三の妹の静子が兄の口述を筆記した市川房枝に宛てた手紙の写しが公開されていますので、長くなりますが、ここに全文紹介します。

拝啓
 故高群逸枝こと、国立東京第二病院入院につきましてはご高配をたまわりましてまことにありがとうございました。そのせつ、金参万円也と記入されたご封筒を手わたされ、お見舞い金と思いちがいをいたしました。
 そのとき療養費についておたずねになり、当座用にはとりあえず五〇万、その他充分の用意があることをお答えいたしました。
 死亡いたしまして霊安室での通夜の席において、みなさまの前であの金は返して欲しい旨を申し入れられ恐縮いたしました。
 葬儀を完了いたしまして、せいりにとりかかりましたので本日書留郵便をもってご返金申し上げます。お受け取り下さい。故人は参万円のことについてはなにも知りませんでした。旧来からの御厚情、深くお礼申し上げます。
  昭和三十九年六月十七日 橋本憲三
  市川房枝様41

この手紙が公開されているのは、「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」と題された文においてですが、さらにそのなかで、筆者である憲三は、市川からの金は「入院前日の五月一一日に自宅で受け取った……貳万円返金すべきところをあやまって参万円にしてしまった」42と、書き加えています。

それでは、市川が憲三に渡した金が「お見舞金」でなかったすれば、市川は何の目的で、貳万円を差し出したのでしょうか。自分の知る無一文に近い憲三を哀れみ、今後支払いに窮するにちがいない入院費用の一部に充ててもらうことが念頭に置かれていたものと考えられます。しかし憲三が、それなりの資金を用意していることを知るや、それまでしばしば折に触れては金品を援助してきていたことも含め、自分の厚意が無にされたと思い込み、返金を求める行為に走ったのでしょう。憲三や、その話を聞いた静子の目には、その行為はどう映ったのでしょうか。おそらく大人気無い、失笑を誘う行為として映ったにちがいありません。また同時に、言い出す場所がそれにふさわしい場であったのかどうか、それを思うと何か虚しい怒りに近い感情が湧き出してきたかもしれません。しかしながら、その一方で、後援者としての市川の自尊心なり自負心なりは大きく傷つき、そのとき市川は、一時的に適切な判断ができない、冷静さを喪失した状況に陥ってしまったのではないかとも、あるいはまた、生涯許すことができないとの強い決断にまで到達してしまったのではないかとも思われます。それについての市川本人の言葉は残されていないようですので、推断するしかありません。ただらいてうは、逸枝の死を心から悼む「高群逸枝さんの訃報」と題された文のなかで、憲三と市川たちとの亀裂についてはいっさい何も触れていませんが、わずかながら、こう付け加えています。「高群さんが最後の病床をおくった国立東京第二病院への入院については、つねづね高群さんの研究生活を励ましてこられた、古くからの友人市川房枝さんや竹内茂代さんらの配慮、尽力があったのです」43。逸枝の死後も、憲三とらいてうの友情は、これまでどおり終生続きます。しかし、市川との交流は、これをもって、残念ながら途切れることになるのでした。葬儀の際に、年来の盟友であるらいてうが友人代表に名を連ねなかったのは、こうした背景が遠因となっていたのかもしれません。

それにしても、臨終に立ち会うことができず、最後の言葉も交わすことなく、手さえ握りしめてあげることもかなわず、ひとり逸枝を旅立たせてしまった憲三の無念は、いかほどであったでしょうか。さらにそれに加えて、あれほど強い望郷の念を抱く逸枝のなきがらを、思いどおりに火の国に持ち帰り、そこで本葬ができなかったことの無念は、これもまた、いかほどであったでしょうか。この時期、喪主たる憲三は、打ちひしがれ、その敗北感に必死に耐えようとしていたにちがいありません。しかしながら、葬送の儀というものは、あくまでも遺族を主体とする見送りの営みである以上、逸枝の亡き姿を、市川を含む一部の女性グループの思いのままにさせずにすんだことは、せめてもの慰めになったものと推量されます。

東京の婦選会館で高群逸枝の追悼会が開かれて一箇月と数日が立ちました。今度は熊本で、荒木精之が主宰する『日本談義』の八月号で「高群逸枝女史追悼」の特集が組まれました。特集は、橋本憲三、福田令寿、島田磬也を含む九人の執筆陣で構成されました。そのなかに、志垣寛の「高群さんと橋本君」という一文があります。志垣の妻が、熊本県師範学校女子部で逸枝と同級であり、志垣自身は、かつて憲三を平凡社に入社の斡旋をしたことがあり、今回の告別式に当たっては葬儀委員長を務めており、逸枝とも憲三とも昔からの親しい間柄でした。その志垣が、追悼文「高群さんと橋本君」のなかで、逸枝が亡くなった日の病院の霊安室での通夜の一幕に触れています。これも少し長くなりますが、正確を期すために、断片化することなく、その該当箇所すべてを、ここに書き記しておきたいと思います。

 六月七日、国立第二病院の死亡者室に横たえられた亡き人の枕頭には、従来長い間彼女のためにあらゆる協力と奉仕をいとわなかつた数々の名流婦人があつた。彼女たちに囲まれたたゞ一人の故人の骨肉者は夫憲三君一人であつた。橋本夫妻がいかに貧乏であつたかは、彼女たちがよく知つていた。だからこそ彼女たちは年々逸枝さんの研究費を扶け、治療費を扶け、そして今は死後の葬式まで心配していた。
 しかし橋本君にしてみれば、せめて葬儀位は亭主たる自分の手で、自分の心ゆくまゝにとり行いたいと念願した。そのかげには憲三君をこの上なくいたわしく感じていた憲三君の妹さん(水俣在)があつた。妹さんは逸枝さんの臨終には居合せなかつたが、亡くなる数日前に訪ねて、治療費として百万円をおいて行つた。橋本君は今こそその金で逸枝を自分の思う通りに葬りたいと思つていた。
 名流婦人たちは、橋本君の意中を察せず葬式万端、自分たちの手でとり行うべくすでに枕頭には葬儀やが呼ばれていた。初め橋本君は彼女たちからのがれたくて、葬儀は熊本でとり行うといつて彼女たちをおどろかせた。しかしせめて「告別式」だけはとのたつての要望から、橋本君も折れて、葬儀やが招かれたわけだ。その席上、橋本君は最高葬儀を注文し、彼女たちの眼の前で即金を渡した。これには流石名流婦人たちがびつくりしてしまつた。貧乏をうりものにする似而非ものであると怒つた。橋本さんがあんなお金持ちとは夢さえ思わなかつた。そんなにお金があるなら、先刻さしあげた「見舞金」は返してほしいといつた名流婦人もあつた。もちろんその金は返した。わたくしが現われたのはそれらの事件のあとであつた。
 名流婦人たちは死亡広告に名を連ねる事を拒み、葬式にも列せず、僅かに平塚雷鳥、守屋東、伊福部敬子、住井すえ等々の数女史にすぎなかつた。
 故人は原始女性は太陽であつたという平塚女史の言葉を実証すべく一生の研究を続けた。しかし女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかつた。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか44

志垣寛は憲三の友人ですので、その観点から偏って書いているかもしれません。では、一方の「名流婦人たち」は、この一件をどう見ていたのでしょうか。しかし、少なくとも市川房枝の随想集『だいこんの花』(一九七九年、新宿書房)と、市川ミサオの回想記『市川房枝おもいで話』(一九九二年、NHK出版)とを見る限りにおいては、そのことについてはいっさい触れられていません。くしくも志垣は、「女性解放は男性を奴隷化することとはいわなかった。男も認め、女も認むることが故人の心ではなかつたろうか」という文言で、「高群さんと橋本君」を結びました。ところが、驚くべきことに、第一三章「高群逸枝を顕彰する力とそれに水を差す力のはざまで」において詳述しますが、それから一〇年もの歳月が流れたのち、この逸枝の入院および臨終時に発生した反目が、ひとつは、小説という、事実を超えた創作形式をとりながら、いまひとつは、評論という、一方的な視点に立った論述形式をとりながら、一度ならずも蒸し返され、憲三があたかも金の亡者で女を抑圧する風采の上がらない男であるかのように、心ない女性の書き手たちによって描かれることになるのです。

しかし、その一方で、「高群逸枝女史追悼特集」を所収した『日本談義』が刊行されるおよそ一箇月前の七月三日の『熊日』(六面)に目を移動しますと、そこに石牟礼道子の「高群逸枝さんを追慕する」という追悼文に出くわします。これは、石牟礼が『苦海浄土』の作者として名を成す少し前の文です。それでは以下に、「高群逸枝さんを追慕する」のなかの一節を引用します。

 高群逸枝氏が、その女性史の中で、まれな密度とリリシズムをこめて、ほかに使いようもないことばで「日本の村」と書き、「火の国」と書き、「百姓女」と書き、「女が動くときは山が動く」と書いたとき、彼女みずからが、古代母系社会からよみがえりつづけている妣(ひ)であるにちがいない。(注=妣は母)

末尾の括弧書き「注=妣は母」の文字は、石牟礼のもともとの原稿にあったのか、編集作業中に付け加えられたものなのかはわかりませんが、これをきっかけに、石牟礼の内面にあって、高群逸枝をもって自分の妣/母とみなす慕情の念が徐々に醸成されてゆきます。こうしてこの時期、石牟礼は、憲三に寄り添いながら逸枝の志を継ぎたいとする願望を固く胸に秘めるのでした。逸枝亡きあとの、新たな物語が、ここに開幕します。その物語が、これよりのち、どう展開してゆくのかは、次の第一二章「夫による『高群逸枝全集』の編集と石牟礼道子の高群継承の決意」を含む、以降の章で詳しく述べてみたいと思います。

(1)堀場清子『高群逸枝の生涯 年譜と著作』ドメス出版、2009年、68頁。

(2)同『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、69頁。

(3)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年、251頁。

(4)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、307頁。

(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻、370頁。

(7)前掲『高群逸枝の生涯 年譜と著作』、111頁。

(8)高群逸枝『今昔の歌』講談社、1959年、127-128頁。

(9)佐藤千里「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と真實』通巻第350号 8月号、1978年7月、47頁。

(10)高群逸枝『愛と孤独と 学びの細道』理論社、1958年、175頁。

(11)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、386頁。

(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻、418頁。

(13)『石牟礼道子全集』別巻、藤原書店、2014年、275頁。

(14)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(15)同『高群逸枝全集』第一〇巻、381-382頁。

(16)同『高群逸枝全集』第一〇巻、382頁。

(17)同『高群逸枝全集』第一〇巻、381頁。

(18)前掲『愛と孤独と 学びの細道』、211頁。

(19)高群逸枝『女性の歴史』(中巻)大日本雄弁会講談社、1955年、315頁。

(20)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、384頁。

(21)同『高群逸枝全集』第一〇巻、385頁。

(22)前掲『高群逸枝全集』第九巻、372頁。

(23)前掲「高群逸枝・橋本憲三を支えた人 その(一) 橋本ふじの(藤野)」『詩と眞實』、同頁。

(24)前掲『高群逸枝全集』第九巻、434頁。

(25)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、418頁。

(26)『高群逸枝』「高群逸枝を顕彰する会」発行、2014年、10頁。熊本県立図書館所蔵。

(27)同『高群逸枝』、11頁。

(28)同『高群逸枝』、同頁。

(29)同『高群逸枝』、同頁。

(30)同『高群逸枝』、同頁。

(31)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、442頁。

(32)同『高群逸枝全集』第一〇巻、461頁。

(33)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。

(34)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄弁會講談社、1953(昭和28)年1月、「跋」の2頁。

(35)橋本静子「もろさわようこ様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、4頁。

(36)同「もろさわようこ様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、5頁。

(37)同「もろさわようこ様へ」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、同頁。

(38)前掲『今昔の歌』、236頁。

(39)月刊『婦人展望』、1964年7月号、3頁。

(40)石牟礼道子「最後の人 第九回 序章 森の家日記9」『高群逸枝雑誌』第18号、責任者・橋本憲三、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1973年1月1日、27頁。

(41)橋本憲三「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」『高群逸枝雑誌』終刊号(第32号)、責任者・橋本静子、発行所・高群逸枝雑誌編集室、1980年12月25日、36-37頁。

(42)同「高群逸枝の入院臨終前後の一記録」、36頁。

(43)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった④』大月書店、1992年、306-307頁。

(44)志垣寛「高群さんと橋本君」『日本談義』日本談義社、1964年8月、57-58頁。