一九三八(昭和一三)年四月、女性史研究の第一巻に相当する『大日本女性史 母系制の研究』を脱稿するや、高群逸枝は手を休めることなく、引き続き「森の家」に蟄居し、面会を断って一日一〇時間、次の第二巻となる「招婿婚研究」の完成に向けて、筆を執りました。しかし日本の前途は、自由な研究を許すほどに、明るいものではありませんでした。前年(一九三七年)七月の盧溝橋事件に端を発し日支事変(日中戦争)が起こると、その拡大とともに、言論や思想が一段と制約される一方で、物資や食料もさらに統制され、戦時国家に向けた体制再編がいよいよ急速に進み、ついに日本は、一九四一(昭和一六)年一二月に、アジア・太平洋戦争へと突入してゆくのでした。この時期を振り返って高群は、「『招婿婚の研究』着手後の約三年半、つまりは、昭和一三年四月から一六年末までの時期は、私の長い研究生活の上でも一種特別の意味をもつものだった」1と、書き記しています。戦争へと向かう、そうした時世に身を置きながら、他方で高群は、研究上の「自信と不安」を抱えて執筆に明け暮れていました。
私はたえず研究の上に自信と不安とを交互にくりかえさねばならなかった。それは朝は希望をもって起き上がるが、夜は絶望におちいって眠りにつくというようなきびしい試練の毎日だった2。
それでは、その「自信と不安」を構成する内実とは、どのようなものだったのでしょうか。そのひとつに、著名な民俗学者の柳田国男が主張していた「聟入」という婚姻形態との対峙がありました。その学説によれば、男ははじめ女の家に婿入りするも、その後、数年のうちに、必ずや妻子を連れて男の家に帰るとされており、高群の研究は、それに真っ向から異を唱えようとするものでした。高群が想定している「招婿婚」が史料に基づき揺るぎないものとして実証されることになれば、女性が自由で自立していた女系時代(母系共同体)がかつて日本に存在していたことが白日のもとに晒されることになります。そうなれば、男性を主役に置き、男性の研究者たちによって叙述されてきた、これまでの日本の婚姻の歴史、あるいは恋愛の歴史は、大きく塗り替えられることが予想されるのです。しかし、その実証作業には幾多の困難が伴ったようで、本人の言葉を借りるならば、「自信と不安とを交互にくりかえさねばならなかった」のでした。
その一方で、幸運がもたらされました。高群は、こう書きます。
この悲惨な時期に、ただ一つの幸運といえることは、服部報公会ならびに啓明会の二つの学術研究助成財団からの研究助成金が与えられたことだった。このことは学界の孤児である私にとって二つの意義をもつものだった。一はこれによって資料獲得に成功したことであり、二はこれによっていわばはじめて学者としての地位が保証されたことだった3。
服部報公会への紹介者は東京大学教授の穂積重遠で、助成金は、昭和一四年度と昭和一五年度、加えて昭和二三年度の三度にわたって交付されました。啓明会を紹介したのは、のちに東洋大学の学長に就任する高島米峰でした。助成金が採択されたのは、昭和一六年度でした。当時こうした研究助成金は、大学や研究機関に所属する学者で占められ、民間の独立研究者への配分は極めて稀で、さらに女性がこの恩恵にあずかることは、ほとんどなかったようです。高群は、こう回顧します。
たとえば服部報公会では十四年度決定百三十七件中、女性は私一人といったぐあいだった。また啓明会でも十六年度決定七件中の女性は私一人だったのである。いかにその頃女性のこの方面における機会不均等がはなはだしいものであったかがわかろう4。
こうして研究上の財政基盤が整いました。「両助成金および著作後援会寄金(このなかには相馬黒光さんの三千円を含む)等を合しての一万数千円の金額は当時としては大金であり、私はこれによって『招婿婚の研究』に要する大部分の資料を蒐集することができたのだった」5。しかし、四千冊にも及ぶ資料がそろい、文献の読破が進むと、「ある理解に到達したために、これまでししとしてメモしてきた約一万のカード類がそのままでは役に立たなくなり、再びとり直さねばならないという重大な事態に直面したのだった」6。「ある理解」とは、一九四〇(昭和一五)年三月二六日の高群の日記によると、こうなります。「今夜茫然自失。……コノ二年ノ勉強ニヨッテ、招婿婚ノ性質、種類、経過等ガ、タドタドシク理解サレタガ、トクニソレガ、今夜ニナッテ完全ニ全面的、体系的ニ把握サレタノデアル」7。高群は、このときの様子を、さらに次のように描写します。
招婿婚にたいして本質的な理解と体系的な見通しとを得たことは、私にはひじょうなよろこびだったが、同時にこれまで読んだ文献をここでまた読みなおさねばならないということが、それがあまり多量なのでなんとしても心気が沈んだ。だが私に与えられた道は不退転の道だ8。
その「不退転の道」に光明が差す日が来ました。
その後、ある日私は、採集した婚姻語のカードをみて、ツマドヒ、ムコトリ、という婚姻語が日本古代の婚姻語の代表語であることを知り、この婚姻語の推移が、すなわち大まかには婚姻形態の推移をものがたっている――つまり、この二語がそのまま古代婚姻史の時代区分を反映している、ということを知った。そこで必然的にヨメトリ、という婚姻語の追求がこれにつづくことになる。 このことは、かつて『母系制の研究』で、「多祖」現象を発見したときとおなじ一つの天啓的なひらめきというべきものだった。このとき私は、 「わがこと成れり!」 と招婿婚研究への勝利感を覚えたのだった9。
しかし、机に向かい服の片袖だけが日に焼けて変色するほどの日々の長時間労働は、極度の疲労をもたらし、そのうえに栄養失調が重なり、目に異常をきたすと、天眼鏡で文字を拾うようになりました。また、本人が書くところによれば、「鼻から経血が逆出したり」10する生理的異変に見舞われることもありました。他方で、戦時体制へ向けての組織づくりが進み、「隣組」もこのとき発足します。生活物資の配給も「隣組」単位で行なわれ、運営は、各世帯の交代による輪番制でした。こうした常会へは、本人の記憶によれば、「この頃私は脚気ぎみで、歩行が自由を欠き、Kに杖をつくってもらって出勤した」のでした11。
こうしたなか、一九四一(昭和一六)年一二月、日本は開戦を迎えます。翌年(一九四二年)の二月には、既存の愛国婦人会と大日本連合婦人会と大日本国防婦人会の三団体が統合され、大日本婦人会が発足します。これにより、国家総力戦へ向けてすべての女性を動員する体制がつくられ、機関誌『日本婦人』も発刊されるに至ります。高群も、これに寄稿し、この団体の活動に協力します。『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」(逸枝自叙伝)は、戦中戦後の記述から夫の橋本憲三に引き継がれますが、それには、逸枝が行なったこの機関誌への寄稿について、こう記されています。
この『日本婦人』の寄稿(一五枚)は二十年終戦直前の廃刊までつづき、私たちの家計はその間この毎月の稿料百五〇円でほぼまかなわれ、他の雑文も書かないですみ、研究に停滞をもたらさなかったことは思いがけない幸運だったとしなければならないだろう12。
一九四五(昭和二〇)年八月、日本は終戦を迎えました。以下は、八月一六日の日記に書かれている一文です。
昨日正午戦争終結の天皇放送! ふかい痛苦をひしひしと胸に感じて 泣き哭くのみ ただ泣き哭くのみ 夜はねむりてさめて 泣き哭くのみ 朝も泣くのみ しばらくも涙やまず 苦しき涙なり 涙なき涙なり 色なき涙なり これは何を意味する痛苦か われらいまだこれを知らず ただ苦しむ 四六時苦しむ13
この時期の日記は、逸枝と夫の憲三とによる夫婦の「共用日記」です。八月二一日の日記には、「逸枝立ち直り新仕事場にはいって勉強をはじめた」14、続く二七日の日記には、「階上の書齊を整理、模様がえした」15の文字が並びます。こうして、戦後の研究生活がはじまったのでした。
終戦から二年が過ぎた一九四七(昭和二二)年一〇月、眞日本社から『日本女性社會史』が世に出ました。この「序」のなかに、高群のこれまでの研究の総括と、戦後の再出発にあたっての決意のようなものを読み取ることができます。少し長くなりますが、以下に引用します。
著者は、昭和五年一月一日に志をたて、女性史研究に半生をささげる決心をした。爾來十七年、下界と斷つてくる日もくる日もただ机を友としているが、十三年に女性史第一巻として「母系制の研究」を世に送つたのみで、業は遅々として進まない。第二巻「招婿婚の研究」は、昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない。このときこの小著が求められた。この種の執筆を求められたことは、これまでいくたびかあつたが、著者は自己の研究が中途にあるため、辭するを常とした。しかるに終戦後、女性の上にも畫期的變革がもたらされることとなり、新しき日のために、ふるき生活の反省が絶對の要請になった。われわれは、現在の自己の歴史的位置をたしかめることによって、賢明な明日をもたなければならない。ここに同時代人としての義務心から、あえて求めに應じてこれを書いたのであるが、當然不完全はまぬがれないであろう。ねがわくば、読者の高敎と助言によつて、今後補正するところありたい16。
終戦後、「女性の上にも畫期的變革がもたらされること」になった大きな要因のひとつは、新憲法の第二十四条が謳う婚姻に関する規定だったにちがいありません。といいますのも、その一項には、「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と述べられており、旧来の封建的で家父長的な制度のもとでの婚姻とは、大きく異なる「畫期的變革」の思想が示されていたのでした。しかしながら、いまだアカデミズムの歴史学は、「女性史」自体を問題意識の外に置いていました。高群がどうしても終戦直後のこの時期に、目下着手中の「招婿婚の研究」を横に置いてまで、『日本女性社會史』を上梓しなければならなかったのは、まさしく本人が書くように、「同時代人としての義務心」によるものだったに相違ありません。
高群は、『日本女性社會史』と題されたこの本において、女性の婚姻や家族生活のあり様を主題に、「群時代(女性の自由時代)」「氏族時代(自由時代)」「氏族崩壊時代(半自由時代)」「家族時代(被厭迫時代)」「家族崩壊時代(半解放時代)」の五つの時代に区分して、通史的に記述しました。そして、「ねがわくば、読者の高敎と助言」とを要請しました。これに応じたのが、当時の東京高等師範学校(二年後の一九四九年に東京教育大学として改組され、現在はすでに筑波大学へと再編)の日本史の教授の家永三郎でした。高群は、続けて同年翌月(一九四七年一一月)に鹿水館より『女性史学に立つ』を上梓しており、したがいまして、「わざわいするモルガン的色眼鏡」と題された家永の書評は、この二著を念頭に書かれたものでした。「モルガン」とは、一九世紀アメリカの古代史研究者であるルイス・ヘンリー・モーガンのことです。家永は、こう前置きします。「高群女史が『大日本女性史第一巻』『大日本女性人名辞書』等の著者として有名な女性史の専門研究家であることは私が紹介するまでもない」。そして、自分が女性史を専門とする研究者でないことを断わったうえで、一歴史家としての見解を開陳します。その最も重要な指摘は、次にみられる箇所でした。
……大化改新以前を「氏族制」の時代と考えることは到底不可能であり、況んやその時代を母系制とするに至つては、モルガンの古代社会論の色眼鏡を通して見た附会の説としか受け取れないのである17。
さらに続けて家永は、「モルガン的色眼鏡から出た誤解の最も典型的一例」として、高群がその本のなかで示していた「大化元年の男女の法」についての所見を取り上げて、批判したのでした。
これに対して、さっそく高群は、「家永三郎氏の書評に答う」と題して反論します。高群は、「小著について家永教授の書評を頂いたことは感謝に絶えない。……十分反省の資としたいが、読者の誤解をまねく点が考えられるので、その点を明らかにさせて頂きたい」18と、前置きしたうえで、次のように、本論に入ってゆくのでした。
氏は「日本女性社会史」の時代区分に関し、大化以前を氏族時代としたことの無理、またそれを母系とすることの一層無理なことを指摘、大化元年の男女の法に著者が重大な意味をもたせているのを例にとられて、総じてこれらをモルガン的色眼鏡とされている。私はモルガン的方法を女性史の立場から肯定するものであるが、史実をわい曲するものではない。 男女の法は、私はこれを当時の氏姓の大紛乱に帰結を與えたものと考えており、このことは別著「母系制の研究」に詳述している19。
そして、この反論は、さらにこう続きます。
わが國には招婿婚という婿入形式の婚姻が太古から室町初期ごろまでも存続しているが、この事実は國文学や公卿日記等で人の知つていることであるにかかわらず、これに深い驚きを示した人がなく、史家のメスからほとんど除外されている。この存続の根底に何があるかに私は長く関心し、そこに家族制と相容れない族制やその遺存があることの確信に到達した。 前記「母系制の研究」は系譜面からのその考察であり、目下着手中の「招婿婚の研究」は婚姻面からのものである。氏の指摘は私のこれらの研究の根本に関係あるものであるから、私としては私の研究を全的に理解して頂きたいことが希われてならない20。
「私の研究を全的に理解して頂きたい」と、ここに書いた以上は、「昨今ようやく準備がおわつて整理の段階に入つたが、まだいつ筆が起こせるか豫想ができない」状況にあった「招婿婚の研究」でしたが、その脱稿が、一刻も早く急がれる事態となったのでした。
脱稿を間近に控えた一九五二(昭和二七)年一月、『母系制の研究』のときと同じように、友人たちが集まり、出版へ向けて、どのような便宜を講じることができるのか、相談の会がもたれました。憲三は、このように記します。
……平塚らいてう、竹内茂代、市川房枝、山高しげり、志垣寛、鑓田研一さんらが婦選会館に集まって、出版社の選定および刊行後援会の組織が決定されて、実行に移された。その結果、本は講談社から出版されることになり、刊行後援会(高群逸枝著作刊行後援会)は発起人二百名の賛同のもとに発足した。21。
その一年後の一九五三(昭和二八)年の一月に、無事予定どおりに、大日本雄弁會講談社から『招婿婚の研究』が公にされました。家永から批判を受けた『日本女性社會史』の出版から五年三箇月の歳月が流れていました。高群は、巻頭の「例言」において、こう書きます。「この研究は、昭和一三年四月に着手、同二六年一二月に完了した。一三年九ヵ月、平均して一日一〇時間をくだらない勞働であつた」22。そして、その研究内容の意義に触れて、次のように書きます。少し長くなりますが、高群が寄って立つ学的地平が明確に現われていますので、引用します。
主題の招婿婚(婿取式)は、最古の典籍「記紀」「風土記」等から見えているものであるが、特に「萬葉」「伊勢」「大和」「落窪」「宇津保」「枕」「源氏」「榮花」「大鏡」「今昔」「源平盛衰記」「增鏡」等一聯の文學の上にあざやかにそのすがたをとどめていることは周知のとおりであり、さらにこれを確實に立證するものとして平安「小右記」から室町「言繼卿記」におよぶ六〇〇年間一貫した數十部にのぼる尨大な諸家日乘の存するがあり、また現に全國各地になお遺制を見ることもできるのである。すなわち招婿婚は、太古から室町期にあつて娶嫁婚(嫁取式)にその席をゆずるまでの時間においての支配的婚姻形態である。このように、この婚制は極めて長期間に亘る経過をもつ大きな歴史的事實として、單り女性史の問題にとどまらないことはいうまでもなく、その研究は、ひろく學界――歴史學・國文學・民俗學・社會學・人類學等――でも要望されているが、まだ、その本質、形態、變遷(發生・推移・終焉)等本格的探究において缺けている憾みがある。私の研究は、これらの點を明らかにしようとしたものである23。
『招婿婚の研究』が公刊されると、さっそく家永三郎が筆を執りました。戦後の新しい大学制度に従い、東京高等師範学校は東京教育大学へ移管されたため、このときの家永の肩書は、東京教育大学文学部教授となっていました。他方で家永は、さかのぼる三年前の一九五〇(昭和二五)年に、学位論文「主として文献に拠る上代倭絵の文化史的研究」で、東京大学より文学博士を取得し、のちには、自身が執筆した高校用の日本史の教科書が検定により不合格になったことを受けて、高群死去の一年後の一九六五(昭和四〇)年に、国を相手に提訴します。いわゆる「家永教科書裁判」と呼ばれるものです。
さて、今回の書評は、『日本女性社會史』のときとは違い、大いなる称讃の言葉で彩られました。しかも、長文となっています。以下は、その書評の冒頭の一節です。高群学説の衝撃に触れた箇所でもありますので、これも引用文としてはやや長くなりますが、そのまま紹介することにします。
五十二字詰十八行組千二百頁の書下し論文が公刊されるといふことは、学界に於いても、ざらに見られることではない。高群女史の大著の公刊は、さういふ点からも稀有な大事業として刮目に値する。しかも著者はこの大著「招婿婚の研究」のほか、その所論の基礎づけとして「平安鎌倉室町家族の研究」「日本古代婚姻例集」二千八百枚の稿本をすでに完成されてゐるのであつて、これだけの大きな仕事を完成されるに至るまでの著者のたゆみなき精進を思ふとき、片々たる短文を書くより能のない評者など、たゞたゞ頭の下る思ひあるのみである。さきに昭和二十二年、著者が「日本女性社会史」を発表されたとき、著者の所謂「群時代」「氏族時代」といふ様なモルガン直訳の史的範疇によつて叙述せられてゐる部分については多大の危惧を感ぜざるを得なかつた評者であつたが、「夫婦別居から同居制へ」「招婿婚」等の各部に示された招婿婚に関する著者の見解には深く心を惹きつけられ、それらの見解が具体的に立証されるのをひそかに期待してゐたのである。五年後の今日その期待を裏切られず、この尨大な力作となつて我々の前に出現したことは、学界の慶事たるは云はずもがな、何よりもまづ評者個人の大きなよろこびであつた。必ずしも本書を批評する資格ありとも考へられぬ評者が敢てこの書評を買つて出たのは、近年家族道徳史の諸問題に興味を覚えてゐる処にも由るが、「日本女性社会史」を閲読して以来鶴首してゐた本書の出現に対する限り無い歓喜が進んで書評の筆をとらせる動機となつた次第である24。
これが、高群学説の家永三郎に与えた学問的衝撃の実際でした。この書き出しのあと家永は、詳細な研究内容の紹介と分析を開始してゆきます。
この家永の評論を目にした高群は、前回の『日本女性社會史』のときと同様に、素早く応答しました。それは「家永博士の批評を読んで」と題された一文で、その内容は、家永が指摘していた、婚姻制度と生産関係の問題や農民の婚姻生活の実態に関する記述の不備に応えての、弁明であり補足となるものでした。しかし、その指摘は、高群にとってありがたいものであったにちがいなく、次の文言がそれを表わします。「家永博士が、私の『招婿婚の研究』について、貴重な御批評をなさつてくださつたことを、私は著者として心から感謝する。御批評は、教えられることの多いもので、今後の糧とさせていただきたいと思う」25。これは単なる社交辞令ではなく、着実に次の研究に反映されてゆくのでした。
一方この間、戦前に刊行した前著の『大日本女性史 母系制の研究』の改訂が進行していました。その推移を、戦後すぐの一九四八(昭和二三)年一一月に恒星社厚生閣から刊行された改訂三版『母系制の研究 大日本女性史第一巻』の「例言」に求めることができます。そこにはこう記されていました。
一、本書は昭和一三年六月四日初版第一刷、一六年七月二〇日再刷、今回は第三刷である。第三刷は、初版第三篇の第三章を除きたるほか全體にわたつて若干の改訂を施したが、それは主として、たとへば「母系」といふ文字すらややもすれば伏字しなけらばならなかつた初版發行當時の社會状勢を顧慮するあまりなされた學術書にはふさわしからぬ贅語的表現を整理したのであつて、内容的變化はない26。
高群は、ここにおいて、「初版第三篇の第三章を除きたる」事実については言及していますが、その理由については直接の明言を避け、「初版發行當時の社會状勢」をほのめかすに止めました。こうして、戦前の初版および再版に所収されていた「第三篇 結論」のなかの「第三章 吾等の収穫」は、「初版發行當時の社會状勢」に起因する文であり、したがって抹消されようとも大きな「内容的變化はない」ことを示唆しながら、完全に闇に葬られてゆきました。
続いて一九五四(昭和二九)年に大日本雄辯會講談社から新版が登場します。順番からいえば、第四版に相当します。この版においては、もはや「第三篇 結論」の「第三章 吾等の収穫」の削除についてはいっさい触れられることはありませんでした。しかも、第三版にはかすかに小さい文字で残っていた「大日本女性史第一巻」の副題も完全に消え去り、書題は、単純で明快な『母系制の研究』という表現に一新されました。内容と書題にかかわるこの一連の改変をとおして高群の戦前思想は清算され、一九五二(昭和二七)年の『招婿婚の研究』(初版、大日本雄辯會講談社)と、遅れて二年後の一九五四(昭和二九)年の『母系制の研究』(新版/改訂四版、大日本雄辯會講談社)の、このふたつの大作によって、この時期、高群女性史学の土台となる基礎部分が、鮮明に造形されていったのでした。
高群は、一九三八(昭和一三)年六月に厚生閣より刊行した『大日本女性史 母系制の研究』の巻頭の「例言」のなかで、以下のように、自分の女性史研究を全五巻で構成したいとの抱負を述べていました。
一、私が書かんとする女性史は、若しすべての事情が之を許すならば、次の五巻としたい考へである。 1 母系制の研究 2 招婿婚の研究 3 通史古代 国初より大化迄 4 同 近代 改新より幕末迄 5 同 現代 維新より現在迄27
ついにここに、前半の特殊研究である「母系制の研究」と「招婿婚の研究」が完成し、いよいよ後半の通史研究へと高群は入ってゆくことになります。その成果は、次のような年月を費やし、世に出てゆきました。
最後の『女性の歴史』の続巻が刊行されるのが、逸枝六四歳と六箇月の一九五八(昭和三三)年七月ですので、一九三一(昭和六)年七月の「森の家」での執筆開始から悠々二七年の歳月をかけての全巻完成でした。構想力の明晰さと実行力の厳格さに、人はみな、一様に驚くのではないでしょうか。
それでは少し、全巻をとおしての『女性の歴史』の特徴を見てみたいと思います。この『女性の歴史』シリーズは、巻ごとではなく通巻において章と節が設定されていることが、大きな特徴となっています。そこで以下に、各巻から章と節を抜き出し、その全体像をここに示します。
第一章 女性が中心となっていた時代(上巻) 一.日本列島のもつ原始性 二.家庭を知らなかった社会 三.無痛分娩の母たち 四.族母卑彌呼 五.女性中心の文化 第二章 女性の地歩はどんなぐあいに後退したか(上巻) 一.文明の開幕 二.私有財産がうまれた 三.氏族がこわれた 四.国家ができた 五.女性文化がくずれた 第三章 女性の屈辱時代(中巻) 世界史の基本法則からみた日本女性史 二.市民社会が出現した 三.「家」が形づくられた 四.封建権力が天下をとった 五.いわゆる庶民文化 第四章 女性はいま立ち上がりつつある(一)(下巻) 一.開国とゲイシャガール 二.明治政権と女性 三.家父長制の再編 四.近代恋愛の発生と挫折 第五章 女性はいま立ち上がりつつある(二)(下巻) 一.婦人問題の展開 二.女性の自覚と運動 第六章 女性はいま立ち上がりつつある(三)(続巻) 一.労働婦人のあゆみ 二.婦人労働の諸問題 第七章 女性はいま立ち上がりつつある(四)(続巻) 一.第二次大戦の前後 二.危機の文化と女性 第八章 平和と愛の世紀へ(続巻) 一.平和運動 二.愛の世紀
このように連続させて章と節をつなげますと、高群女性史学の全体像が鮮明に現像されます。それでは、本稿「火の国の女たち――高群逸枝、中村汀女、石牟礼道子が織りなす青鞜の女たちとの友愛」をここまで書き進めるなかにあって、私が取り上げてきた幾つかの話題に関連して、以下に検討を加えます。
まず、家永三郎の指摘との関連においてです。家永は、『日本女性社會史』の書評において、高群が用いていた「群時代」「氏族時代」「氏族崩壊時代」「家族時代」「家族崩壊時代」といった時代区分について難色を示していました。その指摘を、おそらく取り入れたものと思われますが、時代区分の名称、つまり各章題名を柔らかい表現に置き換えています。もっとも、書き手が女性であること、そして読者の多くが女性であることを踏まえると、必然的にこうした表現へとたどり着いたのかもしれません。表現の男性化から女性化がここに認められるのです。
また、家永は、『招婿婚の研究』の書評において、婚姻制度と生産関係の問題や農民の婚姻生活の実態に関する記述の不備を指摘していました。おそらくその指摘への対応でしょうが、第一章第二節の「家庭を知らなかった社会」において、「いわゆる上部にあらわれる一部の文化物と、内部や下部にわだかまる生産関係や構造」28について言及し、第三章第五節の「いわゆる庶民文化」において、「女のなかでも、もっとも下積みの女であるとされた江戸封建期の子守娘たち」29を取り上げ、高群の原郷である肥後国に伝わる「五木の子守歌」へ言及します。
一方、平塚らいてう、山川菊栄、市川房枝については、どのように言及しているのでしょうか。それを、第五章第二節の「女性の自覚と運動」に読み取ることができます。この節は、「黎明期の女性たち」「先駆者平塚らいてう」「共産主義と山川菊栄」「普選運動と市川房枝」の四項で構成されています。以下にそのなかから、三者それぞれを要約した人物評を拾い出してみます。「『青鞜』の出現は、わが国女性の自覚史上、はじめておおきな時代を画したものであった。……創刊号にのせられたらいてうによる『元始女性は太陽であった』という宣言こそは、まさに日本における『女権の宣言』の第一声であった」30。「山川菊栄がもつ女性史的意義は、らいてうに代表されたいわゆる中産階級的婦人解放運動を克服崩壊させ、その廃墟のうえに無産階級的婦人運動のヘゲモニーを打ち立てた一点にあった」31。「平塚らいてうを信念の人、山川菊栄を言論の人とするならば、市川房枝においては実践が先行し、そのうえに言論がめばえ、信念が固められるといってよい行動過程がみられる」32。「房枝は、自己の能力と、運動の究極的必然性(社会主義)と、現段階での可能面とをふまえて『実践』する実践者であった。そして、その実践には、つねにつよく『貫徹』が期された」33。
実は、第五章第二節の「女性の自覚と運動」において「先駆者平塚らいてう」を取り上げたことには、高群にとって大きな意味が込められていました。一九二六(大正一五)年の四月、高群は、らいてうからもらった伝言に応えて、返信を書きました。これがらいてうに宛てて出された最初の高群の手紙です。以下は、その一節です。
あなたの伝記を書くことのできる、たった一人の存在が、私であることさえも、私はかたく信じています。私はもしかしたなら、あなたご自身よりも、もっとあなたをいい現わすことができるかも知れません。なぜなら、私はあなたの娘ですもの。あなたの血の純粋な塊が私ですもの34。
それから三一年の歳月が流れます。一九五七(昭和三二)年一二月、逸枝は、らいてうに宛てた手紙で、こう書くのでした。『女性の歴史』(下巻)のなかの「先駆者平塚らいてう」の項(四百字詰め原稿用紙で八八枚)を書き終えたときのことです。
らいてう伝を書くことは、私の年来の願いでしたが、いまこれを著書のなかで果たすことができました。思い切ってページを割き、心に祈って公平と的確を帰し、全力をあげて歴史的意義づけを試み、あなたに献ずる私の彰徳表を書きました。私はいまひどく愉しい気持ちです35。
さっそく、らいてうから応答文が届きました。らいてうもまた、逸枝と同じく、このとき「ひどく愉しい気持ち」に浸っていたにちがいありません。
「先駆者平塚らいてう」が所収された下巻に続けて、さらに高群は、『女性の歴史』の最終巻となる続巻を書きます。そして、その「はしがき」をこうした言葉で締めくくりました。
「女性の歴史」はこれでおわる。 「女性の歴史」四巻は、探求の書であって、もとより政治的イデオロギーの宣伝の書でも、希望的観測の書でもない。 これは、「母系制の研究」と「招婿婚の研究」に、根拠と出発点をもつ、私のあたらしい学説をつらぬいた日本女性全史であるが、独自の学説ゆえに、日本史批判とも、世界史・人類史への提言ともなっている。 これは、三〇年ちかく「われらはいかに生くべきか」をひとすじに探求してきた一女性学究の、同時代の友人やのちにくる人々にささげる、ただ一つの貧しい花束である。 私の齢はすでに傾ており、したがって私はこの書をはじめから遺書のつもりで、いうべきこと、いいたいことを書いた。そして、いまいくらか満足して筆をおくことをできたことをよろこぶ。
脱稿の日世田谷の草屋で 著者36
こうして、『女性の歴史』の上巻、中巻、下巻、続巻の計四巻が、一九五八(昭和三三)年の七月に完結しました。他方で、家永三郎の「歴史家のみた日本文化」の連載が、一九六一(昭和三六)年新年号を第一回として、『群像』誌上ではじまりました。その第四回が「古代人の結婚生活と性道徳」の題名をもつ論文でした。そのなかでまず家永は、「私たちの常識となっている結婚形態が正統の結婚形式となったのは、長い日本の歴史の上ではひじょうに新しいことなのであり……決して古代以來の傳統的な観念ではなく、ごく新しい時代に固定された歴史的産物にすぎない」37ことを強調し、「私たちが現行の結婚形態や性道徳とはまつたく違つた結婚形態や性道徳の存在したことを忘れ去つてしまつた原因」38を、太古以来のものであるという「思いこんだ錯覺が、明治以來の天皇制國家主義敎育の徹底によつてもたらされた結果」39に求めます。しかし原因はそれだけではありませんでした。家永は、こうも指摘します。先に引用しました高群の「はしがき」のなかに「日本史批判」という文字を見ることができますが、その「批判」の内実にかかわる、男性歴史学者の家永三郎自身の反省を込めた認識箇所です。少し長くなりますが、そのまま引用します。
しかし、國民の錯覺を助長したのは、敎育政策ばかりの罪とはいえなかつた。日本人の生活の變遷を客観的に復原するのを任務とするはずの歴史學者もまた、その點で眞實を明らかにする義務を果たそうとしなかつた。アカデミズムの歴史學者は、天皇や貴族や武将などの權力者としての活動にばかり興味をもち、人民大衆の日常の生活を明らかにしようなどという興味をほとんどもつていなかつた。たとえ人民大衆の日常生活に興味をもたずとも、天皇や貴族や武将の生活をくまなく追求していけば、當然現行結婚形態とまつたく違つた結婚形態につき當らなければならなかつたはずであるにもかかわらず、かれらの狭隘な史眼にはそれさえ映じなかったのである。しかし、その點では、いわゆる「進歩的な」歴史家も、五十歩百歩であつた。國家主義に無批判的であつたアカデミズムの歴史家が、「家族制度」に對し肯定的であつたのに對し、「進歩的な」歴史家が否定的であつたという違いはあつたけれども、「家族制度」以前の、「家族制度」とまるで違つた別の家族制度を具體的に紹介する點では、かれらもそれほど大きな功績があつたといえないのではあるまいか40。
「天皇や貴族や武将などの權力者としての活動にばかり興味をもち、人民大衆の日常の生活を明らかにしようなどという興味をほとんどもつていなかつた」アカデミズムの歴史学者の対極に位置したのが、民間の独立研究者で女性の高群逸枝であり、「人民大衆の日常の生活」、とりわけ日本女性の恋愛と結婚と暮らしの全体像を史的に明らかにしたものが、『女性の歴史』全四巻でした。一方、「『家族制度』以前の、『家族制度』とまるで違つた別の家族制度を具體的に紹介」したものが、『母系制の研究』と『招婿婚の研究』でした。そうした事実を踏まえて、家永は、こう高群の業績に言及します。
モルガンの「古代社會」やエンゲルスの「家族、私有財産及び國家の起源」を必読書としているはずの進歩的歴史家さえが、現行結婚形態の普遍化が豫想外に新しい近年の現象であることを看破できなかったのは、「進歩的な」歴史家もやはり男性であるかぎり、男性中心の先入見から脱却できなかつた、という理由によるものだつたのかもしれない。日本の婚姻生活について、常識を打破する劃期的な研究が、女性である高群逸枝女史の手により大成されたのは、その意味で特筆に値しよう41。
この家永三郎の「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)」が掲載された一九六一(昭和三六)年四月号の『群像』が、講談社の『群像』編集者の中島和夫から高群のもとに送られてきました。中島は、かつて同社の学芸部にいて『招婿婚の研究』の編集を担当した人物でした。便りには、「先生のことに触れられてあり、私としても大変うれしくなつかしく思いました」42と、書かれてありました。うれしく思ったのは、高群も同じでした。『女性の歴史』全四巻の追加巻に相当する『日本婚姻史』が、一九六三(昭和三八)年五月に至文堂から上梓されたおり、「序説 日本婚姻史の体系」のなかで高群は、上で私が『群像』掲載の家永論文から引いた一連の箇所とほぼ同じ箇所を引用し、そのうえで、次のように述べるのでした。
私は全く同感であるとともに、私のささいな仕事に言及されたことをふかく感謝し、自己の学者としての責任をさらに一段と痛感するものである43。
その一方で、この一節に続けて、再び柳田国男の学説である「聟入」という考えを取り上げ、こう切り捨てるのでした。
……今日までこのようなみごとな方法論をもった業績はみあたらないが、ただそれらの民俗の側面に原始婚からの遺習をみるとする解釈を拒否し、家父長制下の嫁取婚の原理での解釈で一貫しているのみか、鎌倉、平安、奈良、おそらくそれ以前にも遡及し、日本の全婚姻史にその意味での体系を与え得たとしたらしいその自負には、大きな誤謬があったのである44。
以上のように、『日本婚姻史』の「序説」の第一節「婚姻史研究と著者」において、改めて柳田国男の学説のもつ誤謬を指摘する一方で、「自己の学者としての責任をさらに一段と痛感する」と書いた高群でした。しかし、高群の女性史学者としての研究成果は、『日本婚姻史』をもって最後となりました。『日本婚姻史』が刊行されるころには、さらに体力が弱っており、最期が迫っているのを自覚したのかもしれません。これ以降、結局は途中絶筆の無念に帰されることになりますが、高群の筆は、自叙伝「火の国の女の日記」へ向かうのでした。
(1)『高群逸枝全集』第一〇巻/火の国の女の日記、理論社、1976年(第8刷)、286頁。
(2)同『高群逸枝全集』第一〇巻、286-287頁。
(3)同『高群逸枝全集』第一〇巻、287頁。
(4)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(5)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(6)同『高群逸枝全集』第一〇巻、288頁。
(7)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(8)同『高群逸枝全集』第一〇巻、289頁。
(9)同『高群逸枝全集』第一〇巻、290頁。
(10)同『高群逸枝全集』第一〇巻、同頁。
(11)同『高群逸枝全集』第一〇巻、292頁。
(12)同『高群逸枝全集』第一〇巻、306頁。 『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」は、第三部の戦前までが、高群逸枝本人の自筆による「自叙伝」ですが、一九六四(昭和三九)年の死去に伴い、これをもって絶筆となり、戦中戦後を扱った第四部以降は夫の橋本憲三が、自叙伝メモや書簡類、それらに加えてふたりの「共用日記」を参考にして、継続執筆したものです。したがいまして、これよりのち、『高群逸枝全集』第一〇巻の「火の国の女の日記」から引用する文は、憲三によって書き記されたものとなります。
(13)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、259頁。 この巻の巻末に付けられた、編者で夫の橋本憲三による「解題/編者」には、「昭和二〇年以降は完全に夫との共同日記になっている」と、記されています。したがいまして、この注(13)をはじめとして、これより以降に引用する日記は、逸枝の単独の日記ではもはやなく、逸枝と憲三との共同日記となるものです。
(14)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。
(15)同『高群逸枝全集』第九巻、同頁。
(16)高群逸枝『日本女性社會史』眞日本社、1947(昭和22)年10月20日。
(17)家永三郎「わざわいするモルガン的色眼鏡」『日本読書新聞』第425号、1948年1月21日(縮刷版の361頁)。
(18)高群逸枝「家永三郎氏の書評に答う」『日本読書新聞』第427号、1948年2月4日(縮刷版の365頁)。
(19)同「家永三郎氏の書評に答う」。
(20)同「家永三郎氏の書評に答う」。
(21)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、369頁。
(22)高群逸枝『招婿婚の研究』大日本雄弁會講談社、1953(昭和28)年1月、4頁。
(23)同『招婿婚の研究』、1-2頁。
(24)家永三郎「高群逸枝著『招婿婚の研究』」、史学会編『史学雜誌』第62編第7号、1953年7月、76-77頁。
(25)高群逸枝「家永博士の批評を読んで」、史学会編『史学雜誌』第62編第10号、1953年10月、75頁。
(26)高群逸枝『母系制の研究 大日本女性史第一巻』恒星社厚生閣、1948年11月、3-4頁。
(27)高群逸枝『大日本女性史 母系制の研究』厚生閣、1938年、1-2頁。
(28)高群逸枝『女性の歴史』上巻、大日本雄弁会講談社、1954年、32頁。
(29)高群逸枝『女性の歴史』中巻、大日本雄弁会講談社、1955年、319頁。
(30)高群逸枝『女性の歴史』下巻、大日本雄辯會講談社、1958年、257頁
(31)同『女性の歴史』下巻、294頁。
(32)同『女性の歴史』下巻、314頁。
(33)同『女性の歴史』下巻、316頁。
(34)前掲『高群逸枝全集』第九巻、234頁。
(35)同『高群逸枝全集』第九巻、442頁。
(36)高群逸枝『女性の歴史』続巻、大日本雄辯會講談社、1958年、ノンブルなし。
(37)家永三郎「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)」『群像』第16巻第4号、1961年、226頁。
(38)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、同頁。
(39)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、同頁。
(40)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、227頁。
(41)同「古代人の結婚生活と性道徳――歴史家のみた日本文化(四)――」『群像』、228頁。
(42)前掲『高群逸枝全集』第一〇巻、431頁。
(43)高群逸枝『日本婚姻史』至文堂、1963年、4頁。
(44)同『日本婚姻史』、同頁。