前の章で書きましたように、平塚らいてうが、富本一枝を大和の安堵村に訪ね、再会したのは、一九一九(大正八)年の一一月のことでした。それを機に、しばらく途絶えていた交流が再開されます。しかし、地理的に離れていたこともあり、必ずしも日常的なものではありませんでした。らいてうは、翌年(一九二〇年)に新婦人協会を創設すると、ここを舞台に、婦人による婦人のための社会運動を新たに展開してゆきます。一方の一枝は、安堵村にあって、自分のセクシュアリティーについての苦悩について書き、そしてまた、それをいやすかのように自然の美しさや子どもの純真さをたたえる文を書き、加えて小説「貧しき隣人」や「鮒」を執筆していました。ところが偶然にも、双方の家族は、成城の地に移り住むことになるのです。らいてうの転居の主たる理由は、子どもの教育と関係していましたが、一枝にとってのそれは、十数年前に東京から安堵村に移転したときの理由と同じく、背後にあって、自身のセクシュアリティーにかかわる問題が存在していました。
一九二七(昭和二)年一月刊行の『婦人之友』(第二一巻第一号)を開くと、平塚らいてうの「砧村に建てた私たちの家」と富本一枝が書いた「東京に住む」が、あたかも示し合わせたかのように、一緒に掲載されています。
らいてうは、長女の曙生を一九二三(大正一二)年の春に、長男の敦史を翌年の春に、牛込原町の成城中学校の敷地内にあった成城小学校に入学させていました。校長が沢柳政太郎で、主事が小原国芳でした。その小学校が、一九二五(大正一四)年に牛込から砧( きぬた ) 村に移ることになり、それにあわせて、らいてう一家は、この地に家を建てたのでした。らいてうはこう回想します。「当時の砧村は、高台一帯が赤松林と草っ原で、萩や芒や葛などが生い茂る、文字どおりの草分けの地でした。番地こそあっても、あたりは野原のなかの一軒家で、小田急の成城学園駅は……家の窓からプラット・ホームと改札口が一目で見渡せます」1。
一方、一枝の娘の陽と陶も、成城学園へ転入しました。陽と同学年だった井上美子は、後年『私たちの成城物語』のなかで、このように振り返っています。「富本家は、昭和二年に小田急線が開通する一年近く前、郷里の大和安堵村から家族とともに上京、窯を祖師谷の丘に築く準備をされた。住居と窯ができ上るまでのしばらく、高田馬場の線路の近くに仮住居があった。長女陽、次女の陶の姉妹が成城学園に入学、目白に家があった私とは、毎日電車の時間を決めて一緒に通学していた」2。いよいよ新居が完成し、富本一家は、高田馬場の借家から千歳村へと引っ越しました。建築地は、「東京市外北多摩郡千歳村下祖師谷八三五」でした。井上美子の回想はさらに続きます。「小田急線開通の晩夏、昭和二年にわが家が建ったのと同じころ、富本家の新居と窯も完全に完成して北側の奥、成城田んぼの突き当たりの丘に移られた。その年生まれた壮吉君と、一家は五人に増えていた。陽ちゃんと私もこの年の三月小学校を卒業して女学校一年となった」3。
このように、この時期の成城地区は、雑木林と田畑に囲まれた武蔵野の面影がいまなお残る自然環境を背景として、成城学園の移転や小田急線の開設に伴いながら、新しい文化人村としてその姿を現わそうとしていたのです。
両家族の新生活がはじまって一年が過ぎようとしていたころ、長谷川時雨は、自身が主宰する『女人藝術』の創刊に向けて、その準備をしていました。長谷川自身、かつて『青鞜』の賛助員であったことから、当時の青鞜社の社員にも協力を要請しました。そのひとりである神近市子は、こう振り返ります。
世田谷のボロ家に、ある日、長谷川時雨女史が生田花世女史を伴って来訪され、婦人が作品を発表するための文芸雑誌をつくりたいが協力してくれないか、といわれた。私には『青鞜』や『番紅花』の思い出や経験があり、一も二もなく賛成した4。
さらに続けて、神近は、次のように回想します。
『女人芸術』は、昭和三年七月に創刊された。編集会議は長谷川女史のお宅で開かれ、資金面は夫君の三上於菟吉氏がカバーしてくれた。当時の婦人文筆家で、この雑誌に執筆しない人はないだろう。表紙も絵も女流画家に依頼し、創刊号の巻頭写真にはソ連に旅行中の中条(宮本)百合子の近影が選ばれた。私は山川菊栄女史といっしょに、主として評論を書いた。林芙美子が『放浪記』を連載して一躍流行作家の列に入り、上田(円地)文子が戯曲『晩春騒夜』を発表して小山内薫に認められたのもこの『女人芸術』である。この雑誌では、上記の人々のほかに生田花世、岡田禎子、板垣直子、大田洋子、中本たか子、矢田津世子、真杉静枝らが活躍した5。
こうして準備が整い、一九二八(昭和三)年七月、『女人藝術』の創刊号が世に出ました。
高群逸枝は、『青鞜』に連なる人間ではありませんでしたが、自身にとっての第六詩歌集となる『東京は熱病にかゝつてゐる』を、三年前の一九二五(大正一四)年一一月に萬生閣から上梓し、すでに詩人としての高い評価を得ていました。たとえば、下中彌三郎は、この詩集の「讀んで下さい――序にかへて」の一節のなかで、こう評していました。
今の日本には、勿論すぐれた女性がたくさんある。平塚明子さん、山川菊榮さん、奥むめおさん、みなすぐれた人達である。たゞ詩人、哲學者、文明批評家をかねた種類の女性の中には今のところ私は逸枝さんをその最もすぐれた一人としてあげるに躊躇しない6。
高群の長編詩「戀愛行進曲――月漸く昇れり」が『女人藝術』に掲載されるのは、年が明けた一九二九(昭和四)年の初春号においてでした。高群は、冒頭、このように宣します。
この「戀愛行進曲――月漸く昇れり」は、二頁から二一頁までを占める、初春号の巻頭を飾るにふさわしい長編詩でした。最後は、次の詩句で結ばれます。
夜の女王、満月が 正座して昇り行く おゝ月とわが戀 漸く昇る このとき妾はいふ かの月とわが戀とは 高く昇るにしたがひ 輝きと冷たさを増すのであると8
他方で、まだ一歳半にしかならない小さな壮吉を抱えながらも、富本一枝もまた、この雑誌の刊行に協力しました。しかしながら、書く内容は、安堵村におけるそれとは大きく異なり、その時代の文学的潮流に沿おうとするものでした。
それでは、『女人藝術』が創刊された一九二八(昭和三)年ころは、文芸にとってどのような時代だったのでしょうか。この時期の日本を概観していえることは、社会運動のみならず政治や経済の分野においても、大きな変動期を迎え、同時に文芸もまた、そのことと無関係な存在としては成り立たなくなっていました。関連する重要な項目を幾つか拾ってみると、一九二〇年代において農民運動や労働運動が高揚し、一九二五(大正一四)年には普通選挙法が成立します。しかし同時に、その一方で治安維持法もまた成立し、一九二八(昭和三)年には最初の総選挙が実施されるも、このとき非合法の共産党の活動に衝撃を受けた政府は、治安維持法を適用して、共産党員やその同調者を一斉に検挙します。いわゆる「三・一五事件」です。他方経済に目を向けると、その前年(一九二七年)には、多くの中小銀行の休業や倒産が相次ぎ、金融恐慌がはじまるなか、独占資本と金融資本が支配的な地位を占めるようになってゆきます。こうして社会主義と共産主義の思想がこの時期急速に広まり、文壇においてもその影響が表われ、プロレタリア文学の隆盛を見ることになるのです。
そうした動きのなかにあって、富本一枝の「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」が、『女人藝術』創刊一周年記念七月号に登場します。この夢物語の舞台設定は、こうです。
K、M、H、N、I、O、これらの諸氏はいづれも當代の人々で、みな私の親しく感じる友人である。唯、夢である。一九二九年六月、千歳村の夜明けのことであつた。……友人の幾人かが中央に置かれた卓の周圍に集まつてなにかしきりに話してゐる。……私が小説をかくと言ふことだが小説を書けるような人間だろうか。もし小説を書くといふことで相談をうけたら、それに賛成してよいかどうか、それをしきりと相談している9。
この夢のなかで繰り広げられる「小説をかくと言ふ」私(一枝と考えていいでしょう)を巡っての論議に参加している「K、M、H、N、I、O」は、一体誰なのでしょうか。イニシャルから連想して、神近、望月、松田、長谷川、平塚、平林、中本、今井、生田、大田などの名前を挙げることは可能かもしれませんが、実際はどうだったのか、正確にはわかりません。ズボンをはいていることに着目すれば、Kは男性であり、プロレタリア文学の理論的指導者の蔵原惟人であった可能性も排除できません。しかし、それはそれとして、これだけ多くの発言者が登場することを考えれば、内容は別にしても、直近に行なわれた座談会「女人藝術一年間批判會」の形式を、一枝はうまく借用したといえなくもありません。因みに、「女人藝術一年間批判會」の出席者は、平塚らいてう、富本一枝、今井邦子、新妻伊都子、生田花世、伊福部敬子、望月百合子、上田文子、中本たか子、平林たい子、林芙美子、八木秋子、熱田優子、素川絹子、小池みどりの面々でした。
「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」は、比較的に分量も多く、話題が多岐にわたり、展開にスピード感があります。そこで、代表的な発言内容や人物描写を少しずつ拾い上げながら、できる限り簡潔に、そのストーリーを跡づけてみたいと思います。それはおおよそ、次のようになります。
「小説を書く?それには先ず態度を決める必要がある。あなたがプロ派に屬すか、必然的に崩壊の道程に現に置かれてゐるブル派に屬して仕事を始めるか、この問題が肝心な點だと私は思いますが――本人はいつたいそのどちらを撰ぶつもりです!?」(M氏)。「百姓の生活描寫、工場に働くものゝ描寫、プロレタリヤ藝術は有産階級文學の如く堕落してはゐない。プロレタリヤ藝術は社會本位の思想にあつて價値を生じる。軽蔑すべき個人主義は我等にとつて明らかに過去の産物にすぎない」(K氏)。「流行兒マルクスのことでは食傷しきつてゐる。マルクスだつてエンゲルスだつて恐れるものですか!マルクスに藝術のことがわかると思ふのは馬鹿者である」(N夫人)。もしかすると、I氏は共産黨員で××[革命]政府の間者かもしれない――。I氏は和服に靴ばきである。
こうして論議は白熱し、延々と続く。私はH氏の家へ向かう。「もうすこし待てないものだらうか、私は今社會主義の誕生と發展の方向を調べてゐる最中でいそがしいし、その上Oが熱を出してゐるので一寸隙がないが――」(H氏)。O氏は純白の着物に着替えて、光った一本のメスを隠し持っている。「濡れてしまつたマッチが、とぼせると思ふのですか、君は?!」(O氏)。「Oさん!芝居ですか、本當に殺すつもりですか!?」。「血が出るのはいやだ!私は血がふき出すのがいやなんです!止して下さいたら!」。
場面は一三階建ての建物の最上階の部屋。外では、新しい生活の歴史の第一頁を歩み出した大群による夜明けの行進が続き、世界××[革命]とプロレタリアートの最終勝利を祝う歌が聞こえる。「あなたの右手に運命的なトランプをもち、左の手にはヤースナヤ、ポリヤーナの老爺さんの思想の生煮へをもつてゐる。……今、あなたは二つの毒素をこの窓から吹き散らしておしまひなさい。勇ましく!勇ましく!」(K氏)。そしてK氏は眼下の行進に対して敬礼するように私に求める。「何故、敬禮が出來ないのです!人間のために、人間の歴史のために、今日程敬意を表してよい特筆されるべき日に」(K氏)。
舞台は衣裳部屋へと移る。さらに多くの友人たちが加わり、誰しもみなが、今着ている服を脱ぎ去ることもなく、その上に、真新しい服を重ね着しようとしている。
そして場面は会議室へ。私はKを呼ぶ。「會議は未だ續くのですか」。「まだ五六時間、そう、夜明まで續くでせうね!」(K氏)。「夜明?夜明?私の赤ん坊はどうなります。私は家に歸へりたい」。「それではかうなさい。私は友人としてあなたをこゝから無事に出してあげやう。だけどあなたは着物をきかへてからでなければ危険だ――」(K氏)。「きもの?私はこんな風に私の着物ちやんと持つてゐる。私はこのまゝで十分です」。「しかし、あなたが今着てゐる着物は個人のきものですよ。私の貸そうと云ふのはマルキシズムの着物なのだ。あなたは法則としてこの着物をきる義務がありますよ」(K氏)。私はKのズボンにほころびがあるのに気づき、「あなたこそ着物をおきかへなさいね」といってみた。すると、「なに、私にはまだまだ着換へが澤山ある」と言い返し、Kは、風呂敷のなかから新しい色の着物を取り出した。「これはマルキストの衣服でせう。私はマルキストではない。マルクスの資本論だって讀みかけなんです。赤面しますよ、これをきることは全く衒学の徒だ。私はいやだ!」。断わったにもかかわらず、Kは、私の背後に回って、この服に手を通させようとする。私は夢中でKの手を払いのけた。
それから私は、左の戸口に駆け寄り、把手を回した。そのとき、背後から一発の銃弾が放たれた。死に絶えた私は、こう口走った。「私が×[赤]色の服を着るでもなく着ないでもなく、實に曖昧にひつかけたことがいけなかつた。けれど、私はひつかけて置くより外、どうすることも知らなかつたのです。まあ、死んだことはよい経験でありました」。そこへひとりの影の男が現われて、「こいつの着物を見ろ!まだ着物に手を通してゐない!意思のない、バランスのとれない思想の借用に抵抗したことだけは確かだね――」といった。しかし多くの人びとは、「なんだ!成程この人間は着物に手を通してゐなかつた!着換へることが命のやりとりになるのを知つてゐたら、ピストルなんか飛んではこなかつたらうに!案外才智のない人間だつたとみえるね!」と言い放って、憐憫と冷笑とを私に浴びせた。この声を聞いたところで、私は夢から覚めた。以上が「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」の概略です。
ここからわかるように、この時期一枝は、ある種思想的混沌のなかに身を置いていました。この「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」は、マルクス主義へ足を踏み入れてみたいという誘惑に駆られながらも、躊躇して思いとどまる、そうした一枝の心的葛藤が、夢という舞台の上を率直に自由に駆け回っている作品といえそうです。時代が一枝に突き付けたものは、「小説を書く?それには先ず態度を決める必要がある。あなたがプロ派に屬すか、必然的に崩壊の道程に現に置かれてゐるブル派に屬して仕事を始めるか、この問題が肝心な點だと私は思いますが――本人はいつたいそのどちらを撰ぶつもりです!?」という、厳しい二者択一の問いでした。「マルキストの衣服」を本当に着ることができるのかどうか、その判断が求められたともいえます。しかしこの時点では、「着るでもなく着ないでもなく、[袖に手を通さずに]實に曖昧に[肩に]ひつかけた」程度の感触を味わったにすぎなかったということでしょうか。マルクス主義はいまだ一枝にとって、着心地の悪い借り着の域を出るものではありませんでした。
一枝にとってのこの時期の夢物語である「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」において使われている「プロ派」と「ブル派」とは、いうまでもなく、前者は、プロレタリアート(資本主義社会における賃金労働者階級、つまりは無産階級)に属する人を、後者は、ブルジョワジー(労働者を雇用する側の資本家階級、つまりは有産階級)の立場にある人を指します。この時期、文学を志す人間には、「小説を書く?それには先ず態度を決める必要がある。あなたがプロ派に屬すか、必然的に崩壊の道程に現に置かれてゐるブル派に屬して仕事を始めるか、この問題が肝心な點」として、明確な立場の表明が求められていたのでした。
他方、『女人藝術』内にあってこの時期、いわゆる「アナ・ボル論争」が展開されます。「アナ」とは、アナルコ・サンディカリスム派(アナ派、無政府主義、組合主義)を、「ボル」とは、ボルシェヴィズム派(ボル派、マルクス主義、レーニン主義)を指します。この両者間の論争は、社会運動や社会主義運動を巡る思想的、実践的対立として、一九二〇年代のはじめから展開されてきていました。たとえば、労働組合運動の組織論に関しては、アナ派は自由連合論を唱え、政党の指導を排除すべきであると主張しました。それに対してボル派は、中央集権的な組織論を展開していました。
これに関して注目されてよいのは、富本一枝の「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」が掲載された『女人藝術』(一九二九年七月号)において、「公開状」と題して、八木秋子が「藤森成吉氏へ」、松田解子が「小林多喜二氏へ」、熱田優子が「中川紀元氏へ」、そして伊福部敬子が「平塚明子氏へ」、最近の行動や仕事について、疑問を呈したり、質問を投げかけたりしていることです。こうして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」が開始されてゆきました。
八木秋子の自由連合の社会観は、こうです。
眞の幸福な社會生活は人間の自發的創造的意思によつてのみ生れる――。マルキシズムの社會は國家の獨裁支配に第一歩を始めるに反して、自由聯合の社會は不完全な個人の自由に發生し、爛漫と花咲く自由へと限りなく伸長して行く聯合社會で、國家では最初からあり得ない10。
熱田優子は、自己の芸術観を、こう述べます。
私は空想する。かゝる理想的社會が到來し得るならば――そこにはブルジョアもなくプロ[レ]タリアもない。恐ろしい闘争もなければ利己的な野心もないのどかな社會である――その無政府的な美しい社會に於てのみ眞の藝術の王國は榮え得るのではなからうか11。
伊福部敬子が主張する婦人運動論は、このとおりです。
即ち、昨日の婦人運動は思想の自由を婦人に與へんためでありました。今日の婦人運動は、思想に従うて行動するの自由を得んためのそれであります。(中略) 而してこの家庭的因習、家庭的緊縛より脱せしめて中産知識階級の男性と同等同列にまで並び、男性と同じ自由さ、同じ困難さにまで到達せしむるのが今日私のいふ新しき婦人運動であり、こゝに來て婦人運動はその使命を完全に果したと見るべきでありませう。かくして中産知識階級婦人は、無産運動に合流することが出來るのであると思ひます12。
この「公開状」を発端として、『女人藝術』の誌上における「アナ・ボル論争」は、翌年(一九三〇年)の一月号掲載の、中島幸子の「アナーキズムの顚落」と隅田龍子の「再びアナーキズムを駁す」まで続きます。そうした一連の思想的、政治的論争の流れにあって、その最終的な結果として、『女人藝術』のなかのアナ派がそこから身を引き、一九三〇(昭和五)年の正月、高村逸枝を中心に、それに平塚らいてう、伊福部敬子、八木秋子、望月百合子らが加わり、アナーキズム派の文筆家による無産婦人芸術連盟が結成され、機関誌『婦人戦線』の発刊へと進んでゆくのでした。
それでは、一九二九(昭和四)年七月号の『女人藝術』掲載の「公開状」に端を達した「アナ・ボル論争」は、その後、どのような論戦へと発展し、その結果、アナーキズム派の文筆家たちが『女人藝術』を離脱し、そこからどう、無産婦人芸術連盟が結成されるまでに至ったのか、その経緯につきまして、以下に短くまとめてみたいと思います。
『女人藝術』誌上における「アナ・ボル論争」には、その前史のようなものがありました。論争の中心人物は、山川菊榮と高群逸枝です。菊栄は社会運動家の山川均の妻で、いわゆる「科学的社会主義」の立場にあるボル派であるのに対して、逸枝はアナ派の立場にあり、その考えは、どちらかといえば「空想的社会主義」です。すでに、『東京は熱病にかゝつてゐる』(一九二五年)の第二十一節「アナとボルとの話」に、次のような詩片が現われます。
あれはアナとボルだ。 飛( とば ) つ沫( ちる ) 。 悲憤。もがく芽生え。風は吹く。吹く。 暗夜。星。木の根。彼方は明るい。 アナ行け。ボル退け。 時代も歴史も。 自由。悪夢。行け。行け。利己心。正義13。
『東京は熱病にかゝつてゐる』に続けて高群は、次の年(一九二六年)に『戀愛創生』を世に送ります。この本には、いっさい章も節もなく、全文書き流しです。本文に先立つ「巻頭に」において、本書執筆にかかわる要点を箇条書きにしています。それは、「婦人問題の経路」にかかわって八点、「戀愛の経路」にかかわって一〇点、そして「エレン・ケイの戀愛論」にかかわって一点、合計一九箇条で構成されています。以下に、「婦人問題の経路」から三点、そして「戀愛の経路」のなかから同じく三点を選んで、紹介します。
一、婦人問題の経路は、女権主義、女性主義、新女権主義、新女性主義。 一、新女権主義は、科學社會主義を信奉してゐる。新女性主義は、科學社會主義の彼方に、新たに個性を語る。 一、新女性主義こそ、西洋に對して日本婦人のする、最初の提唱であらう。私は豫想する。日本婦人の活動を。知的聡明を。新女性主義を、いま本書で説く。 * 一、戀愛の経路は、精神主義、肉慾主義、霊肉一致主義、一體主義。 一、一體主義は、戀愛の究極を、一體と見る。一體と感じた戀愛において、生殖し、人類における男女両性の一體化、男女両性の消滅期へまで、子孫を一體的過程の上において維持する本能。 一、一體主義は、科學上の、地球の冷却説に順應して、人類の自然消滅を豫想するものである。一體主義を、いま本書で説く14。
新女性主義と一体主義、これが高群にとっての婦人論および恋愛論を支える基礎となる原理部分です。その上に立って高群は、マルクス主義を次のように見ます。
マルクス主義は、婦人問題に無関心である。婦人問題の根柢に理解を缺いでゐる。 彼等は、婦人が彼等の社會に所有されてゐるゆゑ、婦人に對して無関心である。 社會上のすべての問題は、婦人を踏臺にした上でのものであるといふ眞理に對して無関心である。 彼等は、婦人が踏臺にされてゐるといふことを忘れて、単なる経済的争奪戦の現象を、全體としての現象であると見てゐる。 彼等は、甚だしい近視眼者で、社會の表面だけを見る皮相論者にすぎない15。
他方、サンディカリスムについては、以下のように書きます。
サンヂカリズムは、議會主義を一笑に附し去り、無産階級の直接行動によつて、社會改造の目的を達成しようとする點で、修正派社會主義に正反對の地位に、その社會制度の内容を、生産階級の組合自治に委ねようとする點で、集産主義即ち國家社會主義と正反對の地位にある。 國家的権力を軽視する點では、無政府主義に類するけれども、組織の必要と、積極的闘争とを主張する點では、無政府主義と同じでない16。
加えて高群は、無政府共産主義者たちの理想について、こう述べます。
無政府共産主義者として數へらるゝものに、プルードン、バクニン、クロポトキンがある。 プルードンは、平等を強く主張した。境遇の平等、機会の平等等を。 プルードンは、國家的支配を否定し、人間としての自由を熱望し、バクニンは、革命的無政府主義者として、革命の化身といはれ、人間平等の精神に立脚して、一切の特権制度に反對した。 彼の理想社會は、政府といふ組織を持たないばかりでなく、いかなる種類の制度をも持たなかつた。 (中略) クロポトキンの思想は、「パンの略取」「相互扶助」等で有名である17。
以上が、高群が『戀愛創生』のなかで言及していたマルクス主義とサンディカリスム、および無政府主義にかかわる描写箇所からの部分的抜粋になります。高群は、いかなる強権的制度からも自由であることを望みます。現行の結婚制度(一夫一婦制)は私有財産制度の一環であり、学校制度も、同じく特権支配制度のなかにあって機能している以上、母性の本能的見地に立って、強く廃止を求めるのでした。
舞台は、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』の誌上です。まず、その五月号に逸枝は、「山川菊榮氏の恋愛観を難ず」を寄稿します。それに対して、次の六月号において菊榮は、「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新發見の『マルクス主義社會』について――」を著わし反論します。
それでも、私は高群氏に對して直接にお答へする興味も義務も感じないのですが、しかし世間は廣いものですから、數多くの讀者の中には、天馬空をゆくにも似た高群氏の奔放な空想から生まれた『マルクス主義経済組織』――何といふ奇抜な新發見でせう!――なるものを、マルクスの社會學説( ・・・・ ) と思ひ誤られる方もないには限られないと考へて、眞實のマルクス主義の一端を御紹介しておきたく思ふのです18。
こう述べたうえで菊榮は、自身のマルクス主義に関する知見を本文において詳細に開陳し、恋愛観については、末尾において、短く、こう述べるのでした。
高群氏がその超論理的な文章の中に、取りとめもなく口走つて居られる美とか孌愛とかについての漫言も、一々本氣にとりあげて辨駁する必要はなささうに思ひます。たゞ私有財産の下においても、純粋な孌愛が絶對に存在しなかつたわけではない。しかし、それは私有制度と、それにもとづく不自然、不平等な両性関係のために虐げられ、歪曲せられて、一般的な原則としては存在しえなかつた。資本主義時代に至つて、それに對する反抗が起つたが、なほ一般的には、男女は自由な、純粋な孌愛を楽しむことはできない。それができるのは、未來の貧困もなく階級もない社會のみであるといふことを重ねて申しておけば足りると思ひます19。
これに対して逸枝は、「踏まれた犬が吠える――山川菊榮氏に――」と題した文をしたため、七月号の『婦人公論』に投稿します。「あなたの『ドク( ママ ) マから出た幽霊』を拝見すると、中心點には一切ふれないで、僅かな言葉尻をとらへて、したり顔にそれが即ち幽霊の正體でもあるやうに云はれる。甚だ不本意なことではあるけれど、それなら先づ其の問題から片づけて行きませう」20と前置きし、「強権に對する自治の火は烈々と擧がつてゐる」21ことを詳述したあと、恋愛論にかかわって十分な返答をもらえなかった逸枝は、最後に菊榮に、こう告げるのでした。
山川菊榮樣 以上であなたの「ドクマから出た幽霊」の例證としてお擧げになつた諸點につき、全部お答へしたと思ひます。…… 最後に申添へておきたいことは、あなたは唯、逆上なさるだけで、婦人の立場からの私の質問(母性の自由及び孌愛の純粋性)について何一つ御返答なさり得ないといふことである。……今からでも晩くはない。眞正面からお答へ下さい22。
その二箇月後、平林たい子が筆を執り、「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」を『婦人公論』九月号に寄せました。結論として、平林は、こう締めくくります。
山川氏は、十年前と今日とでは婦人の個人主義的な自覺の程度には、著しい相異があるにしても……経済的打算をはなれた純粋な孌愛によつて女性が結婚するまでにはまだ十分な、否、質的な相異があることを云はれた。高群氏も山川氏と同樣に現在の婦人の自覺の程度には不満を持たれてゐる。しかしながら、山川氏が今日の婦人の自覺の程度を一應認めて、その個人主義的自覺から、もう一歩前進することを要求せられてゐるに反し、高群氏は婦人が封建的な孌愛関係に、も一度逆戻りすることを要求される。そこには到底融和することの出來ない、あらゆる階級、層、集團の異なつた心理がかち合つてゐる23。
解放された女性の姿と、その人がかかわる恋愛、結婚、家族のあり様とを、過去の一時期の、女性が中心であったにちがいない社会に目を向けてそこから引用するのか、それとも、社会進化の必然的結果として出現するであろう近未来の世界に託すのか、平林は、逸枝と菊榮の論争を「ロマンチシズムとリアリズム」の対立としてみなしたのでした。
以上が、一九二八(昭和三)年の『婦人公論』誌上における逸枝と菊榮のあいだで戦わされた「アナ・ボル論争」でした。その翌年(一九二九年)、この論争は舞台を変え、『婦人公論』から『女人藝術』へと持ち込まれてゆきます。
富本一枝の「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」が『女人藝術』(一九二九年七月号)に掲載されたころにはすでに、マルクス主義に信頼を寄せることができないでいた平塚らいてうが『女人藝術』から離れようとしていることに、富本一枝は気づかされていたにちがいありません。といいますのも、翌月の『女人藝術』八月号に、唐突にも一枝は、「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて――」と題した文を寄稿するからです。擱筆日は「一九二九年六月」となっています。その文は、らいてう讃美の言葉ですべてが塗り尽くされていました。以下は、その一例です。
「元始女性は太陽であつた!」 かくわれらに呼びかけて日本の女性のために、いな世界一面の女性のために目映ゆる黄金の大圓宮殿をこの國の東の水晶の山の上に營なもうとした一人の若き女性の昔日の面影を想ふとき、私は涙なくしては耐えきれないほど胸せまつてしまつた24。
おそらく一枝は、らいてうを引きとめたかったのでしょう。しかし、その一方で、この『女人藝術』八月号には、先月号の「公開状」に答えるかたちで、藤森成吉の「公開状について一言、八木秋子氏へ」が掲載され、「アナ・ボル論争」に火をつけることになるのでした。「公開状について一言、八木秋子氏へ」は、「應接室」の題をもつ短いコラム記事で、そのなかで藤森は、「……『アナ』のあなたと論争する氣はありません。ただ、あなたがもつと勉強され、小ブル的意識を抛棄される事を望みます。……」25と書きました。それに対して八木は、次の九月号ですぐに反論しました。以下は、「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」のなかの一節です。
非常に完全に小ブル的である危険があるから勉強せよ、とあなたは親切にもいはれる、しかも私は勉強することによつて残念ながら愈々マルキシズムに對する疑念と誤謬を拾い出して行かなければならないのです、私の知り得たことはすべてのマルキストがあまりにも本統( ママ ) のアナキズムを「知らなさすぎる」という一事でした。…… あなたがたの考へ方は非常に単純です。ブルジヨアとプロレタリアの區別を単に生産機関を所有するものと、所有せずして自己の労働力を賣る事によつて生活の手段とする者、とに片づけてゐる。同じプロレタリアートの間にさへも相克しあふ関係のある複雜な社會の諸相をそれほど簡単に理解して、人間の自由とプロレタリアートの自由の相違を将來社會に結びつけやうとする26。
同じくこの九月号には、逸枝の「小ブル藤村成吉に與ふ」も掲載され、論戦に加わります。一四頁に及ぶ長編です。「一.小ブルといふ言葉」「二.勉強せよとの仰せ」「三.『アナ』への言ひ分」「四.アナキズムの絶對性」「五.方法論的な睨み合ひ」「六.過程といふこと」「七.過程の経済的基礎」の七節から構成されていました27。
するとここで、隅田龍子が割って入って、一一月号に、「八木、高群両氏のアナーキズムに對する駁論」を書きました。この論文もまた、「前がき」「一 氏等の云ふ自由と、我々の自由との根本的相異」「二 政治的行動を否定するアナーキズムは反動的ユートピアである」「三 何故にプロレタリア獨裁は必要か」「四 プロレタリアートは如何に議會を利用するか」「五 過程とは何んであるか」「六 小ブルヂヨアは何人であるか」「七 機械の發達はプロレタリアをなくするか」「八 女人藝術十月號『凡人の抗議への若干の抗議』」からなる長編でした。内容は、タイトルのとおり、マルクス主義の立場からの、八木と高群へ向けられた数々の厳しい批判となっていました。その極みが、次の言葉でしょうか。
高群氏の一六頁から一七頁へかけてのあの冗漫なおしゃべりを見よ。我々はこんな馬鹿氣た論文を(いかに女人藝術がおとなしく取り入れたにせよ)堂々雜誌上に發表される氏の勇敢さには敬服してゐる28。
これには逸枝も無言を通すことはできなかったのでしょう。次の一二月号で、「お出になさつた」を発表します。この論文の副題は「一アナーキストの宣言」です。このとき、逸枝は、はっきりと「アナ―キスト宣言」をしたうえで、きっぱりと『女人藝術』から離脱することを決意したものと思われます。この文の最後は「さよなら」29で結ばれています。そして同号(一二月号)に、八木秋子も「隅田の妄論を駁す」を寄稿しました。この論文のなかで八木は、このようなことを主張しました。「マルクス主義者が、ブルジヨア教育によつて與へられた國家偶像観の観念を清算することが出來ず、ブルジヨアジーと一緒になつてアナキズムを攻撃するのは、そして、その方便としてユートピア主義の烙印を捺さうとするのは、その根本的缼陥の暴露に他ならない」30。
こうして、「アナ・ボル論争」は過熱し、頂点に達しました。編集人にとっては、これ以上の論戦は、単なる不毛の相互批判に陥るように思われたのでしょう。この号(一二月号)に、「社告」が掲載されました。それには、次の文字が並べられてありました。「アナアキズムとコンミニズムのこの度の論争は次號にて打切る」31。
年が明け、一九三〇(昭和五)年の正月を迎えました。中島幸子の「アナーキズムの顚落」と隅田龍子の「再びアナーキズムを駁す」の二編の論文が、『女人藝術』の一月号を飾りました。『女人藝術』における「アナ・ボル論争」は、これで終幕です。常連執筆者や読者にとってアナーキズムとマルキシズムの違いが明瞭になった、この半年間の論議でした。しかしながら、一方の当事者であった逸枝の筆力は、これをもって一段落したわけではありません。そのとき彼女は、無産婦人芸術連盟の創設という新しい動きのなかにありました。風雲急を告げる彼女の日記の一月の一部には、以下のようなことが記されています。「K」のイニシャルは、「憲三」のことでしょう。この結社の設立と機関誌の刊行には、夫である橋本憲三が深くかかわっていたのでした。
一月二日 はれ 『婦人戦線』準備会。(K) 一月十日 はれ 『黒い女』解放社から届ける。 一月二十六日 はれ 無産婦人芸術連盟成立。機関誌『婦人戦線』。出席者平塚らいてうさんら十四名。(K)32
かくして、『女人藝術』内での「アナ・ボル論争」は、アナーキズム派が離脱して、新しい団体を組織することにより、ひとまずの決着に至ります。一月二六日に結集した創設会員は、伊福部敬子、神谷静子、城しづか、住井すゑ子、高群逸枝、野副ますぐり、野村考子、平塚らいてう、二神英子、碧静江、松本正枝、望月百合子、八木秋子、鑓田貞子の一四人でした。続いて、機関誌『婦人戦線』が産声を上げるのが、この年(一九三〇年)の三月一日。「アナ・ボル論争」を経て、「アナーキスト高群逸枝」の独自の舞台が、ここにこうして誕生したのでした。
(1)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった③』大月書店、1992年、261頁。
(2)中江泰子・井上美子『私たちの成城物語』河出書房新社、1996年、61頁。
(3)同『私たちの成城物語』、62頁。
(4)神近市子『神近市子自伝――わが愛わが闘い』講談社、1972年、213頁。
(5)同『神近市子自伝――わが愛わが闘い』、214頁。
(6)高群逸枝『東京は熱病にかゝつてゐる』萬生閣、1925年、5頁。
(7)高群逸枝「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』第2巻第1号、1929年1月、2頁。 高群逸枝が『女人藝術』に寄稿した文はすべて、一九八六(昭和六一)年に龍溪書舎から刊行された復刻版からは、「著作権継承者の了解が得られませんでした」という理由により、削除されています。夫の橋本憲三は一九七六(昭和五一)年に死去しており、その後著作権は、遺言により憲三の妹の橋本静子に移っていました。どのような理由から復刻版における掲載が見送られたのかは、いまのところ特定できませんが、これも遺言により、『高群逸枝全集』以外の著述物は、いっさい世に出さないことが指示されていたのかもしれません。
(8)同「戀愛行進曲――月漸く昇れり――」『女人藝術』、21頁。
(9)富本一枝「夜明けに吸はれた煙草――一九二九年の夢」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、4頁。
(10)八木秋子「曇り日の獨白」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、95-96頁。
(11)熱田優子「中川紀元氏に問う」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、99頁。
(12)伊福部敬子「平塚明子樣に」『女人藝術』第2巻第7号、1929年7月、100-101頁。
(13)前掲『東京は熱病にかゝつてゐる』、273頁。
(14)高群逸枝『戀愛創生』萬生閣、1926年、1-5頁。
(15)同『戀愛創生』、316-317頁。
(16)同『戀愛創生』、332-333頁。
(17)同『戀愛創生』、335-336頁。
(18)山川菊榮「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新発見の『マルクス主義社会』について」『婦人公論』第13巻第6号、1928年6月、49頁。
(19)同「ドグマから出た幽霊――高群逸枝氏新発見の『マルクス主義社会』について」『婦人公論』、59頁。
(20)高群逸枝「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』第13巻第7号、1928年7月、41頁。
(21)同「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』、43頁。
(22)同「踏まれた犬が吠える――ふたたび山川菊榮氏に――」『婦人公論』、47頁。
(23)平林たい子「ロマンチシズムとリアリズム――山川菊榮・高群逸枝両氏の論争の批評――」『婦人公論』第13巻第9号、1928年9月、35頁。
(24)富本一枝「平塚雷鳥氏の肖像――らいてう論の序に代へて」『女人藝術』第2巻第8号、1929年8月、55頁。
(25)藤森成吉「公開状について一言、八木秋子氏へ」『女人藝術』第2巻第8号、1929年8月、48頁。
(26)八木秋子「簡単な質問(藤森成吉氏へ)」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、18頁。
(27)高群逸枝「小ブル藤村成吉の與ふ」『女人藝術』第2巻第9号、1929年9月、4-17頁。
(28)隅田龍子「八木、高群両氏へのアナーキズムに対する駁論」『女人藝術』第2巻第11号、1929年11月、12頁。
(29)高群逸枝「お出になさつた――一アナーキストの宣言――」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(30)八木秋子「隅田氏の妄論を駁す」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、52頁。
(31)「社告」『女人藝術』第2巻第12号、1929年12月、39頁。
(32)『高群逸枝全集』第九巻/小説/随筆/日記、理論社、1966年(第1刷)、238-239頁。