一八五三年一月の終わりに、ウィリアム・モリスとエドワード・バーン=ジョウンズのオクスフォードでの生活がはじまります。バーン=ジョウンズは、モリスよりも一年早い一八三三年の生まれで、青白い顔立ちの細身の青年でした。ふたりは、春学期(前半と後半のふたつの学期で構成)の最初の学期の最初の数日のうちに親しくなりました。
オクスフォードの町は、大きな変貌の過程にありました。一八四四年に、オクスフォードとディッドコットのあいだに鉄道が開通すると、それによって、旧いオクスフォードと新しいオクスフォードが生まれました。一方には、いまだに中世主義が息づき、別の一方には、よくも悪くも、近代化へと向かう世界が開けていました。
鉄道敷設がもたらした影響は見受けられたものの、それでもオクスフォードの町には、まだあらゆる面において中世の面影が残っていました。バーン=ジョウンズは、この町について、こう回顧しています。
あたかも周囲に、城壁が張り巡らされているかのように、その町は、鉄道に接した所を除けば、どちらの方面に通じる所も、突然にも途切れていました。そして、いきなり牧草地に出るのです。この町で煉瓦を見かけることはほとんどなく、したがってこの町は、石材が使われているために灰色に見えました。あるいは、もっと貧しい路地では、小石を埋め込んで塗装されているために黄色く見えました。こうした路地のあっちこっちに、木彫りや小彫刻を備えた小さな家々が、いまだにたくさん残っていました。
市中だけではなく、大学内部においても、創設当時からの旧い流儀や考えが少なからず支配していました。もっとも、ふたりが入学する一〇年ほど前に、この大学で、英国国教にかかわる改革の火の手が上がったことがありました。いわゆるオクスフォード運動と呼ばれるものです。しかし、一八四〇年に頂点に達しますが、一八四五年の一一月に、J・H・ニューマンが離脱すると、この運動は下火へと転じてゆきます。そして、モリスとバーン=ジョウンズが入学したときには、もうすでに、アングロ・カソリック復興へ向けての熱意は、ほとんど冷めてしまっていました。次もバーン=ジョウンズの回想です。
オクスフォードでの最初の学期を通じて、私は、陰鬱な不満と幻滅感とを経験しました。ここは、活気がなく、平凡な所でした。この大学は、ニューマンの離脱で終わりを迎えたあの当時の熱狂をかいくぐってきていたわけですが、しかし、そのことを示すようなものは、ほとんど何ひとつ残っていませんでした。そこで私たちは、こうしたことについてそれぞれの考えを比べ合い、午後は一緒に怒りの散歩に出かけ、夜は一緒に座して読書をしました。最初に会ったときから、私は彼が、これまでに知り得たどの人間とも違っていることに気づかされました。
さらにバーン=ジョウンズは、知り合ったころのモリスについて、次のように述べています。
彼は感情のこもった口調で話し、ときには乱暴さが伴うこともありました。力なく疲れ切っている彼の姿を、私は一度も見たことがありません。あの当時の彼は、体型的にはやせ型でした。髪は濃い褐色で密に生え、鼻筋はまっすぐに通り、目の色は薄い茶色で、そして、極めて上品で美しい口をしていました。
当時のエクセター・カレッジには一二〇人くらいの学生がいましたが、彼らは、大きくふたつのグループに分けることができました。ひとつは、古典学やスコラ神学の奥深くに没頭する読書家のグループで、もうひとつのグループは、主として、ボート漕ぎ、狩猟、そして飲食に興じる学生の集団でした。
モリスとバーン=ジョウンズのふたりにとって、最初の学期の何週間かのあいだは、エクセター・カレッジ全体でも、訪ねたり話をしたりできる学友の数には限りがあり、そこでふたりは、バーミンガム出身者でつくられた小さな集団があるペムブルック・カレッジへ出かけて、そこで交流を深めました。そのなかには、数学と自然科学を学んでいたチャールズ・フォークナーや、バーン=ジョウンズの高校時代の友人で、その学校の唯一の詩人であったR・W・ディクスンや、さらに加えて、二歳ほど年上で、活力と熱気にあふれるウィリアム・フルフォードがいました。彼らが集まるのは、いつも決まってフォークナーの部屋でした。フォークナーは、のちにモリス・マーシャル・フォークナー商会が発足する際に、経理担当として参加する人物です。また、少し遅れてこのグループに加わったひとりに、バーン=ジョウンズと同じキング・エドワーズ・グラマー・スクール出身のコーメル・プライスがいました。モリスもすぐさま仲よくなり、この時期にプライスに宛てて出されたモリスの手紙が何通か残されていますが、そこから、ふたりの友情の深さを知ることができます。このグループのなかには、ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジに所属するウィルフリッド・ヒーリーもいました。ヒーリーもキング・エドワーズ・グラマー・スクールの出身者で、光り輝く才能と感じのよい性格を兼ね備えていました。
こうした主としてバーミンガム出身の若者で構成された集団は、最初のころは「セット(仲間)」と呼ばれていましたが、その後「ブラザーフッド(兄弟団)」という名称に置き換わります。こうした絆を背景として、三年後の一八五六年に、月間の文芸同人雑誌である『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』が、モリスを中心に創刊されることになるのです。
ディクスンは、そのころのモリスについて、次のように書いています。
最初のころのモリスは、ペムブルックの学生たちの目には、単に「とても楽しい少年」と映っていました。というのも、彼は話が好きで、甲高い大声でしゃべり、ボート漕ぎの名手であったフォークナーとの川下りを好んでいたからです。……しかし、間を置かずして、彼の本当の際立つ性格が、私たちに強い印象を与えるようになりました。彼に備わっていた熱狂性と性急さ、身体能力の高さ、そして癇癪玉が、すぐにも明らかになったのです。それには、ときどき驚かされることもありました。
モリスとバーン=ジョウンズが入学した春学期のあいだは、いまだにエクセター・カレッジ(学寮)は満杯の状態でしたので、大学以外の宿泊施設に居住しなければなりませんでした。大学の部屋にもどれたのは、この年の秋学期のことでした。モリスの部屋は、エクセターの人間のあいだでは、親しみを込めて「地獄の中庭」と呼ばれていた小さな中庭を囲む建物にありました。窓からは、小さいながらも美しい庭が、そして、ボドリアン図書館のねずみ色の建物群が見渡されました。将来聖職者になることを志していたモリスとバーン=ジョウンズは、こうした部屋で一緒になって、主に神学、教会史、そして聖書考古学に関連する書物を読みました。バーン=ジョウンズへ大声で読み聞かせるモリスの一生涯の習癖がはじまるのは、このときのことです。当時愛読された本のなかには、ニールの『東方教会史』やミルマンの『古代ローマのキリスト教信仰』などが含まれていました。それとは別に、ケネルム・ディグビーの『カソリックの慣行』も読まれていましたが、モリスの最初の伝記作家であるジョン・マッケイルが述べるところによれば、アングロ・カソリックへのある程度の共感はあったものの、それでもふたりにとって、この本を称賛するには、いささか気がとがめたようです。
オクスフォードへ来る前から、すでにモリスは、アルフレッド・テニスンの詩とジョン・ラスキンの『近代の画家たち』(第一巻は一八四三年に刊行)に親しんでいました。入学後の最初の学期に、独自の奇妙な言い回しで大声を出して、モリスがテニスンの「シャロットの貴婦人」を朗読していたことを、バーン=ジョウンズは記憶していました。また、ふたりにとってラスキンは、英雄であり預言者となっていました。そうしたなか、ちょうどこの時期に、ラスキンの『ヴェニスの石』(全三巻、一八五一-五三年)が世に出ます。それ以来、とりわけそのなかの「ゴシックの本質」の章が、モリスの新たな福音であり不変の教義となってゆきます。ラスキンは、その章で、こう述べていました。
私の信じるところによれば、ゴシックの特徴的で倫理的な要素は、次のように、重要性の順に並べられる。1.野蛮性 2.変容性 3.自然主義 4.奇異性 5.厳正性 6.冗長性。
かくしてこれらの特性は、建築物の属性として、そしてまた、建築業者の属性として、現われる。
晩年、ケルムスコット・プレスを設立すると、一八九二年にモリスは、四番目の書物としてこの章を復刻します。そのとき序文のなかでモリスは、「今世紀の極めて数少ない、必要にして必然的な発言のひとつ」と書きました。ラスキンによれば、すべての高貴な装飾品は、神の御業における人間の喜びの表現でした。モリスのその後のデザイン活動も、装飾芸術論の展開も、すべてが、こうしたラスキンの言説に出発点があったと主張しても、決して過言とはならないでしょう。さらには、『ヴェニスの石』に先立ってラスキンは、一八四九年に『建築の七灯』を出版しているのですが、その序章のなかで、「人間の政治形態で真理となるところは、建築に認められる際立つ政治術におけるそれと、そう変わるものではないように、私には思われる」と、述べていました。こうした言説もまた、モリスをして、聖職者を断念して建築家の道へ歩ませ、そして最終的に、政治活動家の道へと歩ませていった要因となっているにちがいありません。
熱心なアングロ・カソリックの教徒の立場からすれば、大変奇妙なことでしたが、当時、ニューマンよりもむしろキングズリーの方がよく読まれていましたし、『近代の画家たち』と並んで、カーライルの『過去と現在』が、感銘的で絶対的な真実の書物となっていました。おそらくモリスも、熱心に読んだものと思われます。一方、ペムブルック・カレッジに属する人たちは、アングロ・カソリック復興を目指すオクスフォード運動から離れ、旧い福音主義に固執していました。彼らは、非宗教的な現代の文学に浸り、韻文としては、シェリー、キーツ、テニスンを、そして散文としては、カーライル、ディ・クウィンシー、サッカレー、ディケンズを、よく読んでいました。
バーン=ジョウンズは、オクスフォードに来る前に、すでにシェイクスピアとキーツに没頭し、そしてまた、ケルトやスカンジナビアに伝わる神話に魅了されていました。ソープの『北方神話』をモリスに紹介したのが、バーン=ジョウンズでした。この作品は、新しい世界をモリスに開かせました。まさしくこれを起点に、その後に続く、北欧叙事詩を愛するモリスの心情が形成されてゆくのです。生涯のふたりの思考と行動を見てみますと、「中世」と「神話」の世界が主としてふたりを先導していったことは、明白です。
オクスフォード入学以前から見受けられた傾向ではあったのですが、明らかにこの時期、さらなる大量の読書を通じてモリスの興味の範囲が、拡大しようとしていました。こうしたなか、次に起こったのが、絵画への目覚めでした。それは、一八五四年のラスキンの『エディンバラ講演集』によってもたらされました。このときのことを、バーン=ジョウンズは、以下のように書いています。
ある朝のことです、自室で本を読んでいると、新しく出版されたばかりの本を携えてモリスが駆け込んできました。そこで、すべてのものがわきに追いやられ、彼は私にその本のすべてを読み聞かせました。そして、はじめて私たちはその本でラファエル前派について知り、はじめて私はロセッティの名を知りました。こうして、そんなことがあって以降は一日に何度も、私たちは、ただただ、いまだ見ていない作品について語り合ったのでした。
このときモリスとバーン=ジョウンズは、はじめてロセッティの名前を知り、ラファエル前派の存在に気づかされました。その後に起こったことを思うにつけ、この本との出会いには、ふたりにとって計り知れないほどの劇的な意味が潜んでいたことがわかります。モリスの妻となるジェインは、その三年後の一八五七年に、オクスフォードの演劇小屋で、絵のモデルとしてロセッティによって見出されることになりますし、それに先立ち、聖職者になるのを諦め、画家の道に進むことを決意したバーン=ジョウンズは、労働者学校でのロセッティの講演で面識を得ると、翌一八五六年にロセッティの弟子になり、同時に、彼にモリスを紹介することになるのです。バーン=ジョウンズにとっては、美術は、比較的身近なものでした。といいますのも、彼の父親は彫刻師であり箔置き師でしたし、彼自身、一八四八年から地元のバーミンガム・デザイン学校の夜間部に通っていたからです。
ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの父親は、イタリアから亡命してきた愛国の士でした。そしてまた、ダンテ研究の学者でもありました。その息子であるロセッティは一八二八年にロンドンに生まれ、一八四五年から四七年まで王立アカデミーで、それから一八四八年にフォード・マドックス・ブラウンのもとで、絵の勉強をします。ロセッティは、ホウルマン・ハントや、ジョン・エヴァリット・ミレイとも仕事場を共有しており、この三人の若い画家たちを主要メンバーとして、一八四八年にひとつのグループが結成され、ラファエル前派という名称が当てられました。彼らが共有していたのは、瀕死にあえぐ英国絵画からの脱却であり、目指していたのは、初期イタリア美術の誠実さと簡潔さを再び取り戻すことでした。つまりそれは、グループの名称が示すように、アカデミズムの源流であると彼らがみなしていたラファエッロの時代を越えて、さらに以前の時代へと立ち返ることを意味していました。
こうしてモリスの世界は、文学のみならず、建築と絵画へと広がってゆきました。『ビルダー(建築業者)』を定期的に手にしていたモリスは、この新聞の内容と、ボドリアン図書館で展示されていた彩飾手稿本のなかの中世のデザインや彩色とを、代わる代わる見比べながら研究していました。なかでも、壮麗なる一三世紀の「黙示録」が、彼にとっての理想の書物となるものでした。おそらく、それを手本にせっせと模写していたものと思われます。当時の彼の書簡類のなかには、ペンが止まり、半ば無意識のうちに書き込まれたような花飾りの装飾をもつ手紙もあります。
入学一年目の一八五三年の夏休みは、モリスはイングランドにいて、主として教会巡りを楽しみました。しかし、二年目の夏休みは、はじめての海外旅行に出かけます。訪問地は、ベルギーと北フランスでした。この旅行でモリスは、ヴァン・エイクやメムリングの絵を鑑賞し、アミアン、ボーヴェ、シャルトルなどの教会へ足を運びました。
一八八六年にモリスが行なった講演「芸術の目的」のなかに、そのとき訪問したルーアンの町のことが出てきます。
四〇年は立っていないと思いますが、だいたい三〇年くらい前のことです。私ははじめてルーアンの町を見ました。その町は、いまだに外見上は、一片の中世の時代に身を置いていました。美と歴史とロマンスが入り混じるその町が、どれほど私の心をとらえたか、それはとても言葉では表現することはできません。ただひとついえるとすれば、これまでの自分の人生を振り返ってみるにつけ、これこそが、いままでに経験した最高の喜びだったと思えるということです。しかしいまや、二度と誰も経験できない喜びとなってしまいました。この喜びは永遠にこの世から消え去ってしまったのです。それは、私がオクスフォードの学生のときのことでした。
旅行から帰国すると、その年(一八五四年)の秋学期のはじめに、モリスとバーン=ジョウンズは、隣り同士の部屋に移ります。その部屋は、エクセター・カレッジの「旧館」のなかにあり、木々が植えられた小さな空き地の向こう側にブロード通りを見渡すことができました。バーン=ジョウンズは、こう述べています。
「旧館」は、いまにも倒れそうな古い建物でした。切妻の屋根をもち、壁には小石が打ちつけられていました。階段口から暗くて小さな通路が居室へと通じていました。二歩下って、次に、一、二歩、そして三歩上がります。すると顔がドアにぶつかります。そして部屋の内部は、二歩上がって窓際の腰掛けに、二歩下って寝室にたどり着くようになっていました。ある日の朝、朝食が終わると、はじめてつくった詩をもって、彼[モリス]が私の部屋へ入ってきました。そのあとは、何週間も詩の話題で持ち切りになりました。
バーン=ジョウンズの回想の続きは、どうなったのでしようか。おそらくR・W・ディクスンが描写している内容が、そのあとの様子ではないかと思われます。
ある夜、私とコーメル・プライスはエクセター[のモリスの部屋]へ行きました。そこに、バーン=ジョウンズもいました。部屋に入るなり、バーン=ジョウンズが、「こいつは大詩人だぜ」と、わめき散らしました。私たちが、「誰のこと」と聞くと、「トップシーに決まっているじゃないか」。「トップシー」とは、そのころモリスにつけられていたニックネームでした。
当時モリスは、仲間内では「トプシー」の名で呼ばれていました。それは、大量のカールした濃い頭髪や、いつものまとまりのつかない身だしなみに由来しており、短くして「トップ」と呼ばれることもありました。これが親しいあいだでの通り名となって、生涯にわたって使われることになるのです。一方バーン=ジョウンズは、親しい仲間からは「ネッド」あるいは「テッド」という愛称で呼ばれていました。
ディクスンは、さらに続けて、こう書いています。
私たちは、椅子に座ると、モリスが読む詩を聞きました、その詩は、モリスのこれまでの人生ではじめて書いた、実に最初の詩でした。それは、「柳と赤い断崖」というものでした。彼が読んでいるとき、私はその詩が、いままでに一度たりとも聞いたことのないような何かであることを感じました。……その後何が起こったかは思い出すことができませんが、私たちのみんながそうしたように、私も、何かの方法で称賛の気持ちを伝えたと思います。私は、そのとき彼がいった言葉を覚えています。「そうなの、もしこれが詩というのであれば、書くのなんか朝飯前だよ」。そのとき以降、ひとつかふたつの学期のあいだ、彼は新しい詩をつくると、ほとんど毎日のように、私の部屋にもってきました。
この「柳と赤い断崖」は、数年後の一八五八年に刊行されるモリスにとっての最初の詩集となる『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』には所収されませんでした。そしてこの詩集が世に出たあと、多くの作品とともにこの詩も、モリスの手によって処分され、破棄されてしまったのでした。『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』が不評だったことが、その一因となっていたのかもしれません。しかし、この詩の写しをモリスは姉のエマに送っていたらしく、モリスの死後、娘のメイ・モリスによって編集された『ウィリアム・モリス著作集』の第二一巻において復活するのです。
復活祭前の聖週間の火曜日に、モリスはウォルサムストウの自宅からコーメル・プライスに宛てて、途中「くちづけ」という一編の詩をあいだに挟んだ手紙を書きました。その手紙のなかで、モリスはこう告白しています。「私は、執筆にかかわって、心のなかはひどい状態にあります。それというのも、書き進めてゆけばゆくほど、自分がますます愚か者になっていく感じがするからです」。このようなモリスの重苦しい心情に出会いますと、ディクスンが書いている、「そうなの、もしこれが詩というのであれば、書くのなんか朝飯前だよ」という言葉が、もうすでに薄れてしまっていることがわかります。またディクスンは、「その詩は、モリスのこれまでの人生ではじめて書いた、実に最初の詩でした」と述べていますが、『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』においてメイが言及するところによれば、実際は、すでにモリスは、オクスフォードでの最初の学期の期間中に、「寺院の奉納建立」に関する詩を書いていたのでした。
プライス宛てのこの手紙が書かれた「復活祭前の聖週間の火曜日」とは、おそらく一八五五年の四月三日のことだったと思われます。そのほぼ一週間前の三月二四日に、モリスは二一歳になり、そのとき、自分の権限で自由に使える、年間九〇〇ポンド相当額の資産を相続しました。純朴な生活を営む一学生にとっては、それは、身の丈を大きく超える富がもたらされたことを意味しました。
しかしこの時期、社会の様相は、決して楽観を許すものではありませんでした。マッケイルは、当時をこう描写しています。
[モリスが入学する一八五三年の秋にはじまる]クリミヤ戦争がいまだ進行中にあり、この国の公的生活に影響を与えていた。そのことは、[一八五五年刊の]テニスンの『モード』や[一八五七年刊の]キングズリーの『二年前』によって、雄弁にも証明されることとなった。その後、英国の詩歌と小説の主たる流れが生み出され、若い世代にとっては、新しい時代の開幕を感じさせた。社会主義もまた、禁欲主義や産業主義、あるいは貴族主義といった実に多様な形式をとりながら、社会に広がっていった。また、一八五四年の秋のコレラの流行は、身体と道徳における沈滞の極致のように思われ、そこから何か新しい覚醒された世界がはじまろうとしていた。
当時モリスは、自分の財産を投げ出し、「ブラザーフッド(兄弟団)」の団結を得て男子修道院を建設する考えをもっていました。しかし、こうした社会情勢のなかにあって、この構想は頓挫しようとしていました。一八五五年五月、プライスは友人に宛てた手紙のなかで、こう書いています。
私たちの男子修道院の話は、なかったことになるのではないかと思います。……モリスは教義の点で異議を唱えるようになってきていますし、テッド[バーン=ジョウンズ]は聖職に就くにはあまりにもカソリック的なのです。彼とモリスのあいだには、見解において、ますます隔たりができています。もっとも、ふたりの友情には、そのようなことはないのですが。
おそらくふたりの関心は、この時点ですでに、男子修道院の設立から雑誌の出版へと移っていたものと思われます。といいますのも、書かれたのは同年の七月六日ではないかと推量されますが、プライスに宛ててウォルサムストウから出された手紙のなかで、モリス自身、こう述べているからです。
私は、後半の学期に書きはじめた物語をいま擱筆したところですが、そのなかで私は明らかに失敗しました。『ブラザーフッド』には使えないのではないかと心配しています。ディクスンとテッドに送って、見てもらい、全く見込みのないものなのかどうかを判断してもらうつもりです。君も、見ますか。……君は『北と南』の書評を書くことになっていましたが、考えは進んでいますか。
このときモリスが擱筆した物語とは、『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の創刊号(一八五六年一月創刊の月間雑誌)に掲載された「知られざる教会の物語」ではないかと思われます。またこの手紙から、この同人雑誌の名前として当初考えられた名称が『ブラザーフッド』だったことがわかります。
モリスはこの手紙のなかで、王立アカデミーの展覧会についても触れています。「私は先日その展覧会を見ました……ミレイの絵は実に偉大でした。夜明けが何と見事に描かれていることか!」。モリスがミレーの作品に見入っていたとき、そのそばに、のちにバーン=ジョウンズの妻となる、ジョージアーナ・マクドナルドというひとりの女性がいました。そこで、ケンブリッジ大学の学生で「ブラザーフッド(兄弟団)」のメンバーでもあるウィルフリッド・ヒーリーが、モリスにジョージアーナを紹介するのです。そのときの様子を彼女は、後々まで、こう記憶していました。
彼がそこを立ち去ろうとしたとき、「あれがモリスです」と、ヒーリーがいって、私たちを引き合わせてくれました。しかし、彼は私のことをほとんど見ていないような素振りをしていました。あまり見かけないタイプの人で、とても端正な容姿をしていました――中世の王様の彫像を見ると、よく彼を思い出します――そしてそのときは、口ひげを生やしていませんでしたので、彼の顔立ちのなかで最も表情に富む口元の線をはっきりと見て取ることができました。彼の目は、外に向かっているというよりも、内に取り込もうとしているように、いつも私には感じられました。彼の髪は、勝ち誇るような様子で、うねり、そしてカールしていました。
モリスとジョージアーナ(その後バーン=ジョウンズと結婚し、ジョージアーナ・バーン=ジョウンズに改姓、愛称はジョージー)の最初の出会いは、こうして生まれました。おそらくこの段階では、ジョージーが生涯にわたるトプシーの最大の理解者になろうとは、両人とも思いもつかなかったことでしょう。
モリスとバーン=ジョウンズのふたりは、この年(一八五五年)のあいだずっと、チョーサーの読書に明け暮れていました。マッケイルは、この時期のモリスに与えたチョーサーの影響について、こう書いています。
後年自分にとっての特別の巨匠とみなすことになるこの詩人のなかに、彼[モリス]は、ただ単に、自身の中世主義のなかに潜んでいた残酷性や神秘性といった要素を修正するために必要とされた、広大で甘美な生活の視点だけではなく、それに加えて、範囲に境界がなく、柔軟性において完璧な、そうした媒体としてのイギリス詩歌の勝利を見出した。
一八五五年の夏休みが来ました。オクスフォードに入って三回目の長期の休暇です。七月一九日、モリスは、バーン=ジョウンズとフルフォードと一緒に、フランスに向けて旅立ちました。バーン=ジョウンズはこう書いています。
私たちは実際にはその旅行を、徒歩による旅にしようと考えていました。安く上げるためです。……アミアンで彼[モリス]は足を引きずるようになり……派手な室内履きを買って……こうしてクレルモンからボーヴェまでのおよそ一八マイルの距離を歩きました。しかし、彼は足を痛めているし、我々も歩く気がしなくなっていたため、それ以降の旅は、どこへ行くにも、鉄道か乗合馬車を使いました。
八月一〇日、モリスはノルマンディーのアヴランシュから長文の手紙を「クロム」に宛てて出しました。内容は、実に詳細なこの旅の見聞録となっています。以下は、その一部です。「クロム」とはコーメル・プライスのことで、仲間のあいだでは、この愛称で呼ばれていました。末尾の差出人の署名は「トプシー」です。
おお、我々のこれまで見た教会の何とすばらしかったこと。最後の教会も、ついに見終わったところだ。昨日のモン・サン・ミッシェルでおしまい。土曜日の夜か日曜日の朝までここで待機し(ここもなかなか美しい所だよ)、それからグランヴィルへもどり、ジャージーとサウサンプトンへ向かう汽船に乗る。クロムよ、我々は九つの大聖堂を見たよ。大聖堂以外の教会は、どれだけたくさん見たことか。指を折って数えてみるよ。幾つかは数え損なったかもしれないけど、ほら、全部で二四もの見事な教会を挙げることができたよ。そのうちの幾つかは、イングランドの第一級の大聖堂を越えるものだよ。
おそらくこの手紙が出されたときにはすでに、モリスの初期の人生における最大の決意がなされていたものと思われます。この旅行中の八月の夜遅く、モリスはバーン=ジョウンズと一緒にル・アーヴルの埠頭を歩いていました。そのときのことです。モリスは建築家の道を、バーン=ジョウンズは画家の道を歩むことが、最終的に決断されたのでした。それまでに温めてきていた思いとはいえ、それは、聖職者の道を諦めることを意味しましたし、さらには、できるだけ早くオクスフォードを切り上げることも意味していました。マッケイルは、この決断が下された箇所の叙述に続けて、モリスの建築観にかかかわって、ひとつの明確な洞察を展開しています。以下に、その部分を引用します。
モリスは、建築家としての専門的な訓練を受けて大学を出たわけでもないし、生涯のなかで一度たりとも家をつくったこともない。しかし、そのときも、またいつ何時にあっても、彼にとって建築という語は、実に広大な意味をもっていた。それは、人によってはほとんど超越的とでも表現しそうな意味の広がりを有するものだった。彼にとっての建築は、無数の源泉から生まれてそれに奉仕する、他のすべての固有の芸術と無数の点で結び合っていた。こうして表現された建築は、秩序、優美さ、甘美さだけでなく、それどころか、神秘性や法則性さえをも、それ自身にあって実体化する。これらの要素すべてが、人間の世界を支え、そして人間の生活をいまあるかたちに保っているのである。
フランスから帰国して数日後、モリスは、バーミンガムでバーン=ジョウンズと再会します。バーミンガムには、フルフォード、プライス、ヒーリーもいました。ディクスンは、リヴァプールの自宅に帰省していました。三週間の滞在中、主として読書と散歩を楽しみ、同人誌『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の創刊についても話し合われました。ある日のこと、バーン=ジョウンズは、ニュー・ストリートにある行きつけの本屋にモリスを案内しました。バーン=ジョウンズがいつもここで立ち読みする本に、サウジー版のマロリーの『アーサー王の死』がありました。しかし、彼には買うだけの余裕がありませんでした。モリスは一目見るなり、それを購入します。こうして、すぐさまこの本は、ふたりにとっての最大の宝となったのでした。世界で最も偉大な書物はこの本と聖書であることを、ふたりがロセッティから聞かされるのは、それから一年後のことです。
この時期、『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の立ち上げに向けての準備は着々と進められていたようですが、その一方で、モリスは卒業を待たずしてオクスフォードを辞めるのではないかとの観測も、仲間のあいだで流れていました。一〇月六日にウォルサムストウの自宅からプライスに宛てたモリスの手紙は、概略、このような内容のものでした。
私のことで大変ご心配をいただき、ありがとう。次の学期にもどることについては、安心してくれたまえ。間違いなくもどります。もっとも、母親のためにそうするのであって、そうでなかったならば、辞めていたと思います。最終試験に合格したとしても、文学士の学位を取ろうとは思いません。なぜなら……私は英国国教会の信徒ではなく、信徒になるつもりもなく、「三九箇条」に署名しようとは思わないからです。……できたら建築家になりたいと思っていて……とにかく急ぐ必要に迫られています……すでに多くの時間を無駄に使いすぎました。決してオクスフォードに入ったことを後悔しているわけではありません。そんなことをするはずはないではありませんか。テッドと君がいなかったならば、自分で自分をどうすることもできない、とても哀れな人間になっていたと思うからです。オクスフォードのストリートの事務所で雇ってもらえないかどうか、尋ねてみようと思っているのですが、このことは君に話していなかったでしょうか。……そうなれば、すばらしいことです。そのときは、オクスフォードを離れる必要がなくなるからです。ううん、そうなるかもしれないね!
モリスの母親は、息子が将来聖職者になることを期待していました。したがって、突然の息子の決断を聞いて、嘆き悲しんだものと思われます。プライス宛ての手紙から約一箇月後の一一月一一日に、モリスは母親のエマに宛てて手紙を書きました。この手紙は、母親の気持ちに寄り添う言葉で書き出されます。
一、二箇月前に、聖職位に就くつもりがないことを話したとき、お母さんは、真剣な気持ちから発せられた言葉ではないと、お受け止めになったことと思います。さらにこのような手紙を書いてお母さんを怒らせるかもしれないとも危惧します。しかし、もしお母さんが、心の整理をして、息子が真剣であるということを本当にお思いになっているとすれば、私の決意を喜んでいらっしゃるのではないかとも期待しているのです。……お母さんは、いってみれば、聖職者になるための一種の私の年季奉公のためにお金を浪費したとお考えになっていると、最初私はそう思いました。しかし、その点に関しては、どうかご安心ください。そもそも大学教育においては、聖職者になるために必要な知識と同じように、船長になるために必要な知識についてもまた、多くのことが用意されているのです。それに、お母さんのお金は決して無駄になっていませんよ……。
そして、この手紙の最終段落において、モリスは、ジョージ・エドマンド・ストリートについて言及します。「この問題の詳細を詰めるために、私は、弟子にしてもらえないか、オクスフォードのストリート氏に相談するつもりです。彼は立派な建築家です」。当時ストリートは、ゴシック・リヴァイヴァルを唱導する中心的な建築家で、オクスフォードに事務所を構えていました。
確かにこの手紙は、母親を安心させようとしているようにも読めますが、しかしその一方で、頑として譲らない、モリスの決意の強さの表明としても読むこともできそうです。一八八六年か一八八七年の手紙ではないかと推定されていますが、日付のない手紙が残されています。ウィリアム・シャーマン師に宛てて出されたモリスの手紙です。そのなかに、こうしたことが書かれてあります。
……まともな人のすべてがそうするように、私の両親もまた、可能となる最も早い時期に、私の教育に対する責任を放棄しました。最初は乳母たちに、次に馬丁たちと庭師たちに、そして次に、少年農場とでもいうべき学校に、私の面倒をみさせました。私は、あれやこれやの方法を使って、こうしたすべてのことからひとつのこと、つまり、反抗するということを主として学びました。
この手紙の内容から推量すると、モリスが建築家になることを決意したのは、聖職位に就かせるために大枚をつぎ込んでオクスフォードに入れたという思いの母親への「反抗」の表われだった可能性もあります。そうした「反抗」は、母親に対してだけではなく、当時、モリス家が信仰していた低教会派の福音主義にも向けられていたにちがいありません。そしてさらにいえば、推定されているとおりに、上のシャーマン師に宛てた手紙が事実一八八六年か一八八七年に書かれていたとすれば、その年代は、まさしくモリスが、果敢にも政治活動家として時代に「反抗」していた時期にあたります。オクスフォードからの離反、それ自体のうちに、生涯にわたってモリスの精神を貫くことになる「反抗」の源流を見るような気がします。
もっとも、おそらくは母親の気持ちを察してのことでしょう、この秋にモリスは、学位試験を受けます。結果は、問題なく合格でした。そして、翌一八五六年に「三九箇条」に署名をし、文学士の学位が授与されることになるのです。
一八五六年の年が明けると、さっそく、『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の創刊号が世に出ます。そしてその一方で、ストリートの事務所でのモリスの徒弟奉公がはじまります。こうしてモリスは、事実上大学を離れ、実社会へと足を踏み入れたのでした。