一八九六年一〇月三日に、ウィリアム・モリスは黄泉の客となりました。そのとき長女のジェニーは三五歳、次女のメイは三四歳、未亡人となったジェインは、その一六日後の一〇月一九日に五七歳の誕生日を迎えました。
それからしばらくして、ジェインとメイは、ウィルフリッド・スコーイン・ブラント夫妻からの招待を受け入れて彼のエジプトの住まいを訪問し、そこでこの年の冬を過ごします。しかし、この滞在は、幾分気まずいものになりました。といいますのも、この地での生活は馬なしでは成り立たず、馬好きでないジェインとメイにとっては、多くの時間を家のなかにいて過ごすしか方法がなかったからです。ブラントは、こう述べています。「それにここでは馬なしの生活は不可能なのである。大量の砂のために人は歩けず、そのために彼女たちは、一日中家のなかにいる」。さらにブラントの一八九六年一一月二九日の手記には、このような言葉も残されています。
一日に二回彼女たちに会いに行くのだが、メイとはどんな会話も長続きせず、どうしたら彼女たちを楽しませることができるのか、途方に暮れている。というのも、彼女たちのどちらも私は口説くわけにはいかず、他にできるようなことが何かあるのだろうか。
メイの反発は、ブラントに備わるうぬぼれや自己中心的な言動に対してであったにちがいありません。それでも、ときどき家から出て、その暑さにもかかわらず、戸外の空気を吸っていたようです。彼女は、モリス家とは家族ぐるみの交際をしていたエマリー・ウォーカーに宛てた一二月一七日の手紙のなかで、次のようなことを書いています。
散歩したくなったら、私たちは馬を頼み、それに乗って、歩く速さで砂漠に出かけます。というのも、母は馬の手綱を人に引いてもらっているからなのです。ご存じのように、私たちは、馬好きの人間ではないのです。……
それでも、母が馬の背に乗っているところや、上手に馬を操っているところを想像してみてください。おそらくあなたは笑い出すことでしょう。母にラクダをそれとなく勧めているのですが、この提案に彼女はまだ飛びついてはいません。
それでも、夫を亡くしたばかりのジェインにとっては、心の落ち着きを取り戻す、よい機会になったものと思われます。翌年の五月八日、英国への帰路の途中で、ブラントに宛ててジェインは、「これ以外の手段では、私の体は概していまの半分も回復しなかったことでしょう」と、手紙に書き記したのでした。
ジェインとメイがエジプトに滞在した一八九六年から九七年にかけての冬、ロンドンのニュー・ギャラリーで「ジョージ・フレデリック・ワッツの作品」に関する展覧会が開催されました。ここに、一八七〇年にワッツが描き、その後彼の手もとに残され、一八八〇年にロンドンのグロウヴナ・ギャラリーでの展覧会に出品されると、その年にポートレイト・ギャラリーに寄贈されていたモリスの肖像画が展示されました。ポートレイト・ギャラリーには、描かれている人物が死亡するまで公開しないという原則があったため、この作品の展示は、この間控えられていました。したがって、一八九六―九七年の冬に開催されたニュー・ギャラリーでの「ワッツ展」への貸し出しが、事実上最初の一般公開となりました。この展覧会の会期を正確に特定することはできませんが、おそらく、この時期ジェインとメイはエジプトに滞在していたものと思われますので、ふたりは、この作品を見ることはなかったにちがいありません。この肖像画は、すでに述べていますように、ジェインがロセッティとスキャランズに滞在していたときに描かれています。まさしくジェインとモリスの夫婦間の微妙な感情が複雑に投影された時期の作品だったのです。
モリスが亡くなると、さっそく遺産や遺品の整理がなされました。そのための管財人に、F・S・エリス、シドニー・コカラル、エマリー・ウォーカーの三名が任命されました。エリスは、長年にわたるモリスの本の出版人でした。コカラルは、モリスが亡くなる二年前にケルムスコット・プレスの秘書に任命されていました。ウォーカーは、社会主義同盟のハマスミス支部における同志であり、古建築物保護協会のメンバーでもありました。管財人のもと、モリスが所有していた高額な写本のコレクションや商会の株が売却され、借家であった〈ケルムスコット・ハウス〉も、今後の出費を抑えるためにただちに解約されました。こうして、評価額五五、〇〇〇ポンドの遺産が、モリスの遺言に従って、信託のかたちで妻と娘たちに残されました。ジェインは年間一、〇〇〇ポンドを、そしてメイは、母親が死去するまで、年間二五〇ポンドを受け取り、ジェインの死後は、母親に支給されていた分をジェニーとメイで相続する取り決めがなされたようです。
モリスにとっての最大の関心は、残された妻と娘たちの生活を、法律に基づき財政面で確実に保証することであったと思われます。とりわけモリスは、病に侵されていたジェニーの残された生活に心を砕いていたにちがいありません。そうしたこともあって、遺族自身が遺された財産の管理を行なうのではなく、管財人の手によって遺産が管理される道をモリスは選んだものと思われます。また、娘のメイは、父親が経営するモリス商会を継承することはありませんでした。女であるがゆえに相続放棄の選択がなされなければならなかったのかどうかは判然としませんが、メイ自身、自らの個人生活を優先した結果のようにも考えられます。
モリスが死去した二年後の一八九八年に、ニュー・ギャラリーにおいて開催された展覧会のおり、そのときはじめて、モリスのおそらく唯一のイーゼル画であると思われる作品が公開されました。この絵は、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』が出版される一八五八年の前後にあってモリスがジェインをモデルに描き進めていた作品です。しかし、完成には至らず、その後多くの人の手に渡っていました。そして、その過程において、新たに手が加えられてゆきました。フィリップ・ウェブが、こう明かします。
何箇月ものあいだその絵と格闘したしたあと、モリスは、その理性を欠いた人物を嫌悪し、描くのを放棄した。ロセッティが受け取って、それを完成させ、それからマドックス・ブラウンに渡された。
おそらくこの展覧会に展示された作品には、すでにロセッティなり、ブラウンなりの手が入っていたものと思われます。ひょっとしたら、ベッドの上の小型の猟犬が、そうだったのかもしれません。そのことが主な理由となって、現在に至るなかで、この作品は、《王妃グウェナヴィア》ではなく、《麗しのイゾルデ》と呼ばれるようになってゆくのです。果たして、モリスは、「麗しのイゾルデ」を描こうとしていたのでしょうか。果たしてモデルを務めたジェインは、自分の役割を「麗しのイゾルデ」と認識していたのでしょうか。翌年の一八九九年に発刊されたマッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』のなかにこの作品が図版として使用されて登場しますが、その図版のキャプションには、《王妃グウェナヴィア》と明記されています。このことは、マッケイルだけではなく、ジェインを含む周りの誰しもが、この作品の主題は「王妃グウェナヴィア」であると、疑うことなく信じていたことを意味します。そうであれば、モリスの手を離れ、ロセッティからブラウンへと引き継がれてゆく途中で、「王妃グウェナヴィア」から「麗しのイゾルデ」へと改変された可能性が残ります。つまり、主たる改変の内容は、ベッドに子犬を描き加えることだったのではないでしょうか。それでは、なぜそのような改変がなされたのでしょうか。正確にはわかりませんが、何か異変が生じると、それにつられてすぐにも激昂するモリスの性格につけ込んだ、いつもの一種のからかいだったのかもしれません。あるいは、一八七五年の商会の改組に際して、ロセッティとブラウンはモリスに対して悪感情をもつことになりますが、それが要因となって、こうした結果が生まれたのかもしれません。この展覧会以降、この絵は遺族の手にもどり、〈ケルムスコット・マナー〉の壁を飾ることになります。
この間メイは、父親の遺産の整理だけではなく、自分自身の結婚生活についても整理しなければならない状況にありました。
夫のハリー・スパーリングは、モリスが死去する前後、パリからロンドンへもどり、葬儀の手伝いをしています。そのことは、離別が、スパーリングとメイのあいだに深い恨みのようなものをもたらしていなかったことを示します。しかしメイには、おそらく双方にとってすでに愛情が消え去ってしまっていたいま、もはや結婚を続ける意思はなかったようです。もっとも、「罪を犯した」という認識がメイにあったかどうかも、判然としません。ジャン・マーシュは、モリスの妻と娘を扱った伝記のなかで、その事情について、このように記述しています。
エジプトからもどると、メイは離婚の手続きをはじめた。当時は進歩的な仲間内でさえも離婚訴訟で「罪を犯した」側に立たされた女性は社会的に葬られていたので、メイのほうが「見捨てられた」妻の役割で出廷するようスパーリングも承知のうえで手はずが整えられた。夫を「裏切り」、しかも新しい男性の庇護も受けられないような離婚女性は、村八分にされたり、辱められたりする危険性があったが、一方、そのような罪人扱いは、離婚した男性のほうには伴わなかった。メイとスパーリングのあいだのこのような取り決めは、珍しいことではなかった。しかし、法廷でこのような共謀が露見すると、判断が下りないこともあったので、危険ではあった。そうなれば、ふたりとも訴追される可能性があり、最悪の場合には、結婚生活を継続しなければならないことを意味していた。離婚手続きにあたっては、『デイリー・メイル』の記事にみられるように、「社会主義者の詩人であった故ウィリアム・モリス氏の娘のメアリー・スパーリング夫人」が原告となり、夫婦同居権の回復を求めて申し立てるという方法がとられた。
さらにマーシュは、上述に続けて、その『デイリー・メイル』の記事と、他の資料とを参考にしながら、次のように述べます。
三年の結婚生活ののち、被告であるヘンリー・H・スパーリング氏は、「もっとよい地位にありつくためにパリに行った。……彼は一八九六年に彼女の父親の葬儀に出てきたが、それ以来彼女との同居を拒んでいる。……彼女は夫と一度もけんかしたことなどなく、彼が妻との同居を拒んでいる理由を唯一説明するとすれば、彼女に対する彼の愛情がなくなってしまったということである」。
こうしてメイの離婚は、「夫に見捨てられた妻」として、成立しました。ジョージ・バーナード・ショーへの未練がメイにあったかのかどうか、そして、彼との結婚をいまだに望んでいたのか、それは、誰にもわかりません。ショーは、法律上メイが再婚できるようになる数箇月前の一八九八年の六月に、シャーラット・ペイン・タウンゼンドと結婚しました。ジョージ・バーナード・ショーの妹のルーシー・ショーは、一九〇一年七月二四日のジェイニー・クライツンに宛てた手紙のなかで、メイに最後に会ったときの様子を、こう描写しています。
完全にまっすぐに下に垂らした黒い衣装でぴったりと身を包み、黒髪は真ん中で分けられ、耳を覆うつましい解かし方でした。そして、少しひしゃげた帽子はまるで、表面だけを絹で覆った三角形のバックラム製の帽子であるかのように見えました……そして顔には、途方もない陰鬱と悲哀が漂い……そして彼女の馬車も、大儀そうにうなだれていました。これらすべてが、最も哀れむべき悲痛を体現していたのです。
この描写を別にしても、メイの離婚は、父親の死の悲しみがいまだにいやされない時期のことであり、そのことを考えれば、メイがこの時期、いかに嘆き苦しんでいたのか、そしてそれは、母親であるジェインも同じことだったのではないかと想像されます。
しかしメイは、離婚という問題を乗り越え、新たな職に就くのです。それは、中央美術・工芸学校の刺繍の教師職でした。
この中央美術・工芸学校は、ウィリアム・モリスが亡くなった一八九六年に、工芸産業の従事者のために専門的な美術教育を提供する目的で、ロンドン市議会によってリージェント・ストリートのモーリー・ホールに設立された学校で、モリスとラスキンの教えに影響を受けたアーツ・アンド・クラフツ運動の直接的な産物でもありました。いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動の第二世代に属する建築家のウィリアム・リチャード・レサビーが、彫刻家のジョージ・フレムトンとともに共同の管理者としてこの学校の運営にかかわり、一九〇二年には、校長に任命されます。そして翌一九〇三年に、サウサンプトン・ロウにこの学校のための新たな敷地が購入されると、建物の建設がはじまり、一九〇八年にこの学校はこの地に移転します。
メイがこの学校の教師陣に加わったのは、母親とともに滞在していたエジプトから帰国した一八九七年か、あるいは翌年の一八九八年のことでした。そして、一八九九年から一九〇四年にかけて、刺繍科の主任を務め、一九〇五年から一九一〇年まで外来講師に任じられるのです。富本憲吉が、この学校でステインド・グラスを学ぶのは、一九〇九年のことです。しかしながら、メイと富本がこの学校で顔をあわせた証拠になるものは、いまだ見出せていません。しかし、富本の書き残したもののなかに、次のような一文があります。
二十歳時代英國で過した時のことだが田舎家で頭より大きい一塊の石炭を、石造りの大きなファイアプレートで燃しながら、電燈もなく蝋燭もつけずに、その燃える石炭の火あかりで編物をしてゐた老婦人を思ひ出す。
この「田舎家」とはどこなのでしょうか、そして、この「老婦人」は誰なのでしょうか――。「田舎家」が〈ケルムスコット・マナー〉であり、「老婦人」がメイ・モリスであったかどうかは、これだけからは判然としませんが、そうでなかったとしても、当時メイは、おおかた冬場はロンドンで、夏場は〈ケルムスコット・マナー〉で過ごしており、富本の記述にみられるように、暖炉の明かりのなかで刺繍に励んでいたものと思われます。
この間メイは、バーミンガム、マンチェスター、レスターをはじめてとして、国中を回って講演をしていますし、一九〇七年には、女性芸術ギルドを設立します。また、一九〇九年から翌年にかけては、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の運営委員会に加わり、アメリカ合衆国への講演旅行にも出かけています。しかし、このころから、メイの主たる関心は、父親の顕彰事業のひとつである『ウィリアム・モリス著作集』の編集へと移行するのでした。この時期以降のメイの才能は、刺繍家に加えて編集者としても、顕在化してゆくことになります。
モリスの死後、遺された家族がどうしても引き受けなければならない問題がありました。それは、いかにして、この偉大な夫であり父親であるモリスの生前の業績を顕彰するかということでした。そのなかには、どのようなかたちで故人の伝記を世に出すのか、あるいは、故人を偲ぶ記念館のようなものの建設は考えられないのか、さらには、故人が残した膨大な著述物をどのような形式に編集して世に残すのか――そうした問題が含まれていたものと考えられます。
モリスが死亡すると、すぐさま遺族や親しい友人たちのあいだで、モリスの伝記について話し合われました。彼らにとっての関心は、今後心ない書き手によってモリスの人生や作品、さらには家族や交友関係が興味本位に解釈され、暴露されることを避けることにありました。そこで彼らは、バーン=ジョウンズ家の娘のマーガリットの夫であるJ・W・マッケイルにその任を負わせることにしました。モリスとバーン=ジョウンズは終生の友人であり、仕事上のパートナーであり、かつまた双方の家族は相互に信頼を寄せ合う間柄でした。マッケイルはオクスフォード大学の詩学の教授であり、その能力という点においてはいうまでもなく、同時に、モリスを取り巻く人びとの思いを反映させることができる立場にあったという点においても、最もふさわしいモリスの公式伝記作家としての役割を担うことになるのです。
しかし、モリスが亡くなるに先立ち、すでにモリス伝記の執筆に意欲をもつ人物がいました。その人物は、エイマ・ヴァランスといい、一八六二年生まれの彼は、学者であると同時に牧師でした。また唯美主義者でもあり、資産家でもあったらしく、しばらくすると芸術に傾倒し、教会の仕事を諦めて、美術雑誌の『ステューディオ』に寄稿するようになります。こうしてモリスの知遇を得たヴァランスは、モリスが亡くなる二年前に、伝記を書きたい旨の申し出をします。しかし、そのときのモリスの返事は、以下のようなものであったと、ヴァランスは回想しています。
……彼[モリス]は率直に次のように私にいった。あなたであろうと、ほかの誰であろうと、自分が生きている限り、そのようなことはしてほしくありません。もし死ぬまで待ってもらえれば、そうしていただいてもかまいません。
かくしてヴァランスは、モリスの死後、伝記を書き進めることになるのですが、すでに公式伝記の執筆をマッケイルに依頼しようとしていたバーン=ジョウンズ夫妻は、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかについて、心を痛めたにちがいありません。そこでバーン=ジョウンズ夫妻は、記述内容に制限を加えたものと想像されます。つまり、デザイナー、製造業者、詩人、政治活動家といった公的側面に限ると。そこでヴァランスがとった記述手法は、極めて機械的なもので、モリスが書いたものをおおかた引用でつなぎ合わせるという方法でした。当然ながらそのことは、この伝記の表題にも表われることになります。ヴァランス自身、その事情をこう説明しています。
慣例にしたがって序文を書くことは、私の意のあるところではないけれども、事情があって、そのようにしなければならない必要が生じた。まず、この本にこのような書名をわざわざ選んだ事実に注意を促したい。このことは、この本がモリス氏の個人的な問題や家族の問題についての評伝ないしは記録として成り立っているものではないということを示している。
こうしてヴァランスは、わずかな例外を除いてはモリスの私的側面にいっさい触れることなく、したがって十全な個人の伝記としてではなく、公的側面の一記録として、この本を書き上げることになるのです。そうしたことが反映されて、このなかで記述されているジェインは、ただ次の一箇所のみです。
一八五七年の秋にオクスフォードに一時滞在していたおりに、ウィリアム・モリスは、二年後に妻となる婦人と出会った。
何と、「ジェイン」という実名さえも、使われていません。そして続けて、ヴァランスはこう書きます。
モリス夫人についてはいかなる描写も企てる必要はない。というのも、その人の特徴は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの手になる多数の素描と絵画において、すでに不朽の名声が与えられているからである。
ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』は、こうした背景から、公人してのモリスにかかわるひとつの記録として、モリスが死亡した翌年の一八九七年に公刊されたのでした。
マッケイルが伝記を書き始めた矢先のことだったと思われますが、モリスのあとを追うかのように、モリス死去の約一年半後の一八九八年六月一七日に、バーン=ジョウンズも、帰らぬ人となりました。その三日後、『タイムズ』は追悼文を掲載し、テニスン、ブラウニング、マシュー・アーノルド、モリスに続いて、バーン=ジョウンズもが、英国詩の世界から、そして英国画壇から姿を消したことを悼み、悲しみました。
ネッドが永眠したいま、モリスの伝記の執筆に際してマッケイルを励まし、多くの資料を提供し、助言を与えたのは、主として、その妻のジョージアーナ(ジョージー)でした。すでに述べてきていますように、ジョージーは、愛情のうえでも、政治的立場においても、ジェイニー以上に、モリスの心をよく知る立場にありました。執筆が開始されると、ジョージーは〈レッド・ハウス〉を訪問したにちがいありません。そこは、彼女にとって、多くの思い出が宿る追憶の場所でした。彼女を迎えたのは、その家の所有者であり、『ステューディオ』のオーナーのチャールズ・ホウムだったものと思われます。
〈レッド・ハウス〉の建設からモリスの死去まで、三六年の歳月が流れていました。そのときジョージーが見た〈レッド・ハウス〉は、どのような状態にあったのでしょうか。おそらくタイルやステインド・グラスは、当時のままの状態だったにちがいありません。しかし、ジョージーを驚かせたのは、壁紙が使われていたことだったと思われます。ジョージーが知る当時の〈レッド・ハウス〉には、いっさい壁紙は使われていませんでした。ほとんどの壁面は、多くの場合中世の物語に想を得た絵が描かれているか、今後少しずつ描かれる予定でしたし、絵が描かれていない壁面には、刺繍された壁掛けが掛けられていたからです。ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』には、この〈レッド・ハウス〉に関しては七枚の図版が用いられていました。これらの図版は、その後の第二版(一八九八年刊)の謝辞に示されているように(一八九七年刊の初版には、チャールズ・ホウムへの謝辞がありません)、発刊に際してホウムから提供を受けたものでした。いま私たちがこの本に掲載されている〈レッド・ハウス〉の室内の図版を見ると、明らかに壁紙が使用されているのがわかります。おそらくジョージーの目に留まったのは、この図版に使用されているものと同じ壁紙だったものと思われます。
おそらくもうひとつジョージーを驚かせたものがありました。これもまた、ジョージーの記憶に残るかつての〈レッド・ハウス〉には存在しなかったものです。それは、玄関ホールの一番先の左手にあるガラス扉(スクリーンともパーティッションとも呼ばれることがあります)でした。このガラス扉は、玄関ホールと庭へ通じる廊下とを仕切るために造作された、碁盤格子の木枠に何枚もの透明のガラス板がはめ込まれた、天井に達する一種の間仕切り壁の役目を果たすもので、その大部分は開閉可能な両開きの扉となっていました。採光を妨げることなく、寒風の進入を防ぐ目的でその後の居住者によって、おそらく、ホウムが入居する一八九〇年ころに、付け加えられたものであると考えられます。
そのガラス扉は、〈レッド・ハウス〉訪問者の一種の芳名録としての役割も担っていました。ジョージーも、訪問のあかしとして、慣例に従い、そのときその扉をひっかいて署名しました。すでに、アーサー・レイズンビー・リバティーとエイマ・ヴァランスの名前が、書き込まれていたものと思われます。リバティー商会の経営者であったリバティーは、ホウムと親しい間柄にありました。ホウムは日本の伝統工芸の愛好家であり、リバティー夫妻と画家のアルフレッド・イーストとともに日本を訪問しています。そのような関係からリバティーはホウムの住むこの家を訪問していたものと思われますし、ヴァランスについては、ホウムがオーナーを務める『ステューディオ』への寄稿やモリス伝記の執筆にかかわって、ホウムを訪ねていたにちがいありません。いまこのガラス扉には、このふたりの男性とジョージアーナ・バーン=ジョウンズのほかに、メイ・モリスのサインも確認することができます。ジョージーがこの家を訪問したときに、メイが同伴していた可能性もありますし、あるいは、別の機会に訪れた可能性も残されています。いずれにしましても、メイにとっての〈レッド・ハウス〉は、自分の出生地でありながらも、これまで人の話に聞くだけの幻想の場所となっていたはずですので、その訪問は、感動を呼び起こすものであったにちがいありません。
こうしてジョージーは、〈レッド・ハウス〉再訪で得られた情報を、伝記執筆中のマッケイルに伝えたものと思います。しかしその一方で、その伝記には、幾つかの重要な注文がつけられていたのです。その注文とは、モリスについては、彼が積極的な政治活動家であったという側面、また、彼の妻のジェインについては、その貧しい出自(馬屋番の娘)、ラファエル前派の画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情関係、その後の、旅行家で著述家であったウィルフリッド・スコーイン・ブラントとの恋愛事件、そして、長女ジェニーについては、わずらっていた深刻な病気(てんかん)、加えて、次女のメイについては、バーナード・ショーとの恋愛感情、その後の別の同志との結婚の失敗などに関することでした。つまりバーン=ジョウンズ夫妻と遺族は、そうした世間に知られたくない問題にかかわっては極力記述を和らげるように、マッケイルに配慮を求めていたのでした。マッケイルは「序文」のなかで、この伝記の成り立ちについて、こう述べています。
この伝記は、サー・エドワード・バーン=ジョウンズから私への特別の依頼に基づいて、着手されたものである。したがってこの伝記が、彼の導きや勇気づけにいかに多くを負っているかはいうまでもなく、また同時に、この伝記が、そうした援助がなかったために、いかに不完全なものとなっているかについても、言を待たないであろう。
たとえば、この本のなかでのジェインについての言及は、わずかに四箇所のみです。どれも一、二行の短い記述に終わっています。そのひとつに結婚に関する記述がありますが、マッケイルは、ヴァランスの伝記と同じように、実にそっけなく、次の一語に止めています。おそらくジェインは、自分が生まれた家庭環境について羞恥心を抱いており、それに触れられることを嫌がったものと思われます。
一八五九年四月二六日の木曜日、ウィリアム・モリスとジェイン・バーデンは、オクスフォードのセント・マイケル教区の古くからある小さな教会で結婚した。そのとき彼は、ちょうど二五歳であった。
マッケイルは、自分に課せられた問題を実にうまく処理すると、機敏にも、モリスが亡くなって三年後の一八九九年にこの『ウィリアム・モリスの生涯』と題された伝記(二巻本)を上梓したのでした。
この伝記が出版されると、さっそくジェインは、それに目を通したにちがいありません。しかし、ジェインの読後感は意外なものでした。ここに描かれている夫の生涯に共感することはなかったようです。以下は、一八九九年五月六日にウィルフリッド・スコーイン・ブラントに宛てて出された手紙の一節です。
ご存じのように、マッケイルは、人間の気持ちに関して芸術家ではありません。したがって、あれほどの人間の生涯を書きながらも、その人に同情するということを知らないのです。
この伝記が、いかにモリスに対して同情的なものになっているのかは、誰の目にも明らかでした。むしろ、生涯にわたってモリスに対して同情的でなかったのが、妻のジェインだったのではないでしょうか。もちろん、この伝記の完成には、ジェインはほとんど情報を供与していませんし、むしろ非協力的でさえあったのでした。それは、自分が貧困の家庭に生まれたことや、夫以外の男性に愛情を向けたことなどに起因していたものと思われます。
確かに、伝記に関してはそうでしたが、別の一面では、そうではありませんでした。モリスが亡くなると、ただちにジェインは、かつて夫が愛したこのケルムスコットの村に、なにがしかの貢献をしようと考えたのです。それは、夫の遺産の一部を使って、村にある既存の建物を再利用し、村民のための読書室なり集会室なりへと改装することでした。ジェインが生まれた村もそうだったと思われますが、この村にも、教会とパブを除けば、日常的に楽しむことができる娯楽施設がなかったのです。その計画は、〈ケルムスコット・マナー〉を含むこの村の大半の建物を所有していたホブズ家に持ち込まれました。しかし、同意が得られず、しばらく中断しました。
数年後、行動が再開されます。ジェインは、夫を記念するための小さな家(コティッジ)の建設をフィリップ・ウェブに依頼したのです。一九〇〇年二月二一日のウェブからの返信には、「私が建てたまさしくほぼ最初の建物が、あなたのためのものでした」と、かつての〈レッド・ハウス〉建設のことを念頭に置きながら、「そしてまさに最後の建物も、お引き受けするとすれば、あなたのための建物ということになります」と、書かれてありました。一九〇二年七月、〈ケルムスコット・マナー〉に隣接する敷地に、ジェインは、基礎工事のためのくわ入れをしました。そして、このコティッジの壁面に、モリスを記念する浅浮き彫りの作品をはめ込むことがジェイニーによって発案され、その下図をウェブが描き、そしてジョージ・ジャックが石に刻みました。絵柄は、中折れ帽とステッキ、そしてカバンを傍らに置き、自宅の牧草地の木陰に座ってたたずむモリスをさりげなく表わしたもので、偉大な人物を顕彰する飾り板としては、とても地味なデザインでした。碑文もなく、気に留めずに通りすがる人も多かったかもしれません。しかしウェブは、ジェイニーの意図を理解していたものと思われます。一九〇二年一二月七日のジェイニーに宛てた彼の手紙に、こうした一文を読むことができます。
たとえあなたはそうはおっしゃらないにしても、自らおつくりになったこのコティッジこそ、長年ケネルムズ=コウトとともにあったわれらが「主人」の愛とも相通じる、真の( ・・ ) 記念碑であるとあなたがお考えになっていることを私は承知しております。
中世期において「ケルムスコット」を表わす綴りが、「ケネルムズ=コウト」という表記でした。こうして、モリスがこよなく愛した「ケネルムズ=コウト」の村に、彼を顕彰する二棟一式の建物である「記念コティッジ」が、ジェイニーの手によって完成したのです。
伝記刊行の問題、「記念コティッジ」建設の問題に加えて、著作集の出版が、遺族にとってのもうひとつの課題になっていました。その編集作業を担当したのがメイで、出版を引き受けたのがロンドンのロングマンズ・グリーン社でした。ロングマンズ側の意向は、この著作集を『地上の楽園』や『ヴォルスング族のシガード』といった詩や物語で構成することでした。つまりそれは、モリスの後半生のデザイン活動や政治活動の影になってしまった感のあった、前半生の詩人としてのモリスの業績と名声を再び確保することを意味しました。その結果、社会民主連盟や社会主義同盟での彼の演説や『コモンウィール』に掲載された彼の記事や評論の多くが収録範囲から除外されました。おそらく、そのことは、メイにとってはにわかに了承しがたいものであったものと思われます。といいますのも、その部分が補遺の二巻本としてメイの編集によって公刊されるのは、そののちの一九三六年になってのことだったからです。
一九〇九年に契約書が交わされました。父親が残した大量の既刊の書物に加えて、幾つもの異なる草稿や手稿を寄せ集め、整理し、校合するという、気の遠くなるような作業がメイの手によって進められました。そして、全二四巻のすべてに「序文」がつけられ、そのなかでメイは、所収内容物に関して解題を行ない、父親の人生について紹介することになるのです。その困難さをメイは、こう述べています。
著者が認めなかったものは、公衆の面前に出すべきではないと考える人もいれば、著者が残したものはすべていま出版されるか、さもなければ焼却されるかのどちらかでなければならない、と考える人もいます。この件で私が満足するためには、何らかの思い切りが必要でした。しかしそれでも、私の心からの感謝は、忠告してくれた友人たちに向けられるべきでしょう。もっとも、いつもその忠告に従ったというわけではないのですが。逆説的に聞こえるかもしれませんが、人にとって、聞き入れない忠告こそ、最も役に立つことが多いのです。
編集作業に伴う煩雑さだけではなく、「序文」を書くこと自体の困難さにも、メイは直面したものと思われます。公然と父親の行為を批判すれば、父親を裏切る娘としての烙印を押されるでしょうし、逆に、父親の行為のすべてを讃美すれば、父親への無条件の迎合として受け止められかねません。それだけではありません。メイにとっての最大の難関は、母親とダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情関係をどう描き、そのあいだに立つ父親の心情をどう察して言葉にするのかということだったにちがいありません。母親の不貞ともとらえられかねない行為に、メイはどれほど気づいていたのでしょうか。気づいていたとすれば、娘として、どう解釈して、どう表現して、そのことを後世に残すのか、この部分にメイの心血はおおかた注がれたものと推測されます。一方、ウィルフリッド・スコーイン・ブラントと母親との関係は、双方があからさまにメイに語ったとは考えられませんので、メイを含めて誰ひとりとして、彼の日記が公開されるまでは、その性的関係を知ることはなかったと思われます。いよいよ、一九一〇年から『ウィリアム・モリス著作集』の刊行がはじまりました。
モリスが亡くなると〈ケルムスコット・ハウス〉の賃貸契約は解消され、それ以降ジェインは、夏のあいだはほとんど〈ケルムスコット・マナー〉で過ごしました。友人のなかには、社交の場を広げるために、あるいはジェニーの治療のために、ロンドンに住むことを勧める人もありました。しかし、ジェニーがこの家を気に入っていたこともあって、冬場はロンドンのメイの家や温暖な保養地で過ごすことがあったとしても、この地をすっかり引き払うことはありませんでした。当然ながら、母親としてのジェインにとって一番気がかりなことは、ジェニーの病状でした。管財人のひとりであるシドニー・コカラルに宛てた一九〇一年八月一三日の手紙のなかで、ジョージーは、「ジェニーは、一年前よりかなりゆっくり話すようになり、考えるのもかなり手間取るようになっています」と報告し、それに続けて、「彼女は、人から話しかけられなければ、自分で話すことはなく、まずほとんど笑うことはありません」とも、書いています。常にジェニーには看護人が付き添っていました。おそらく、夫を亡くした以降のジェインの肩には、いままで以上に、ジェニーの将来のことが大きな重圧となってのしかかっていたものと想像されます。また、結婚に失敗したメイのことも、その行く末を深く心配していたにちがいありません。将来的に安心して娘たちがこの家で暮らすことができるようにと、ジェインが考えたとしても、不思議ではありません。一方ジェインにとっても、この家は、大いなる感傷の場であり、思い出と歴史が詰まった空間でした。もともとこの館は、ゲイブリエルとの秘密の隠れ家として使用するために、夫とゲイブリエルとが共同して借り上げた愛の住処です。ここから、ジェインを題材にしたゲイブリエルの絵が生まれ、詩が誕生しました。いずれもが、いまや歴史を刻む名作となっているのです。
そうしたジェインの思いに、ひとつの温かい配慮が示されました。管財人たちが、この家を所有者から買い取る交渉に入ったのです。一九一三年一一月一二日、コカラルはジェインに、こうした内容の手紙を書いています。
すでに新たな愛情をその家に感じられていることでしょう……灰色の壁とそこに咲くバラの花を楽しめるように長生きされることをお祈り申し上げます。
こうして所有権の移転が完了すると、ジェインが、名実ともに〈ケルムスコット・マナー〉の所有者になりました。しかしながら、コカラルの手紙にある「灰色の壁とそこに咲くバラの花」を実際にジェインが楽しむことはありませんでした。その冬をバースで過ごしていた一九一四年の一月二六日、突然にも、その地で彼女は息を引き取ったのです。享年七四歳でした。亡骸は、かつてウェブが製作にあたったケルムスコットの教会墓地の、夫の眠る墓石の下に埋葬されました。
亡くなって二日後の一月二八日、『タイムズ』は、さっそくジェインの死亡記事を掲載しました。そのなかの一節は、次のとおりです。
色彩とデザインに対する彼女の眼識は、生来のものにせよ、訓練によるものにせよ、どちらにしてもモリスその人と同じで、ほぼ的確なものであった。彼女は、おおかた自らの意思からではなく、自らのまれにみる際立つ美貌によって有名になった。……全世界の誰もが、その量感あふれる黒髪、象牙色の顔と絶妙なる容貌、そして、美しい手と大きな灰色の目を知っている。この目こそ、そうした美しさのなかでもとりわけ比類なきものであり、人を圧倒するものであった。唯一彼女の親しい友人たちだけが、彼女の親切さ、良識、少女のような遊び心を知っていた。そして、これらのことは、終生変わることがなかったのである。
この追悼文は、文末において、一九一〇年から刊行がはじまっていた『ウィリアム・モリス著作集』の編者としての次女のメイについては短く触れていますが、長女のジェニーについて言及することはありませんでした。
母親が亡くなったあとのジェニーについては、ジャン・マーシュが、次のように書いています。
ジェインの死後、ジェニーは、残りの人生を特殊な収容施設で送った。南部イングランドにある賄い付きの私立施設を次々と移り住み、絶え間ない看護に対する代金をそれらの施設に払った。彼女は、一九三五年七月一一日にサマセット州のオウヴァ・ストウイで亡くなった。享年七四歳で、それは母親の亡くなった年と同じであり、また、父親と同じ糖尿病を患っていた。たとえ彼女の子ども時代が、幸福で、才能豊かで、希望に満ちたものであったとしても、それは悲しい生涯の物語だったのである。
母親が亡くなると翌年の一九一五年にメイは、母親の思い出に、父親を顕彰する「記念コティッジ」に隣接する敷地にコティッジ(ふたつの貸し部屋)をつくりました。アーニスト・ジムスンのデザインによる建物で、簡素ながらも立派な建具が使用されていました。一方この年、『ウィリアム・モリス著作集』の最後の二巻が出版され、全二四巻が完結しました。
ジェインの死はまた、メイにとっては、姉であるジェニーとの事実上の別れを意味しました。母親の死去と姉との別れ、メイは、このとき、言葉に表わせない深い悲しみのなかにあったにちがいありません。それだけではありません。両親を取り巻く人たちも、次々とこの時期、世を去ろうとしていたのです。早くも一八八二年にロセッティは他界し、父親の死後間を置くこともなく一八九八年にバーン=ジョウンズが逝き、そして、その二年後の一九〇〇年にラスキンも亡くなっていました。いやま母親がケルムスコットの教会墓地の永眠の客になると、翌一九一五年にウェブが、そして、その五年後の一九二〇年にジョージーが、黄泉の客人となるのでした。おそらくこの時期のメイは、誰に頼ることもなく、独り残されてゆく身を自らが引き受けなければなりませんでした。一九二〇年代に入ると、つまり、六〇歳代になると、メイは、人目を避けるかのように、〈ケルムスコット・マナー〉に引きこもりがちになり、晩年の隠遁生活をはじめます。メイの孤独感は、想像するに余りありますが、そこでの実際の生活は、どのようなものだったのでしょうか、続く第二一章の「〈ケルムスコット・マナー〉でのメイの晩年」におきまして、そのことについて少し述べたいと思います。