すでに見てきましたように、モリスは、一八七四年の七月、妻と子どもたちを連れてベルギーへ行き、そこで夏の休暇を楽しみました。そして、ベルギーから帰国すると、モリスは「商会」の改組に取りかかります。単独経営による新会社「モリス商会」が発足するのは翌年(一八七五年)の三月のことでした。それ以降、モリスの関心は染色へと向けられてゆき、多忙を極めます。しかし、モリスの関心は染色だけに止まりませんでした。さらに翌年(一八七六年)になると、東方問題に、そして翌一八七七年には、古建築物の保全問題へと関心を広げてゆくのです。まさしくこの時期は、モリスにとって、公的な仕事上の大きな節目となる時期だったのです。しかし、大きな節目は、公的な仕事にだけ関連するものではありませんでした。実は、この一八七四年から一八七八年にかけては、モリスの家族にとっても、つまりは、彼の私的な領域においてもまた、大きな転換期だったのでした。
モリス家の長女であるジェニー(ジェイン・アリス・モリス)は、一八六一年一月一七日に、そして次女のメイ(洗礼名はメアリー)は一八六二年三月二五日に、ともに〈レッド・ハウス〉で生まれました。そのようなわけで、一八七四年の誕生日をもって、ジェニーは満一三歳、メイは一二歳になり、さながら小さな淑女に成長していたのでした。
この時期のジェニーとメイの様子が描写されたモリスの手紙が残されています。以下は、一八七四年三月九日にチャールズ・フェアフェクス・マリに宛てて出された手紙の一節です。
さて、子どもたちに関してですが――ジェニーは確かに体も大きく、いまや長めのコートを身に着け、もはや成熟した淑女のように見える。しかし、少なくとも先週の土曜日にフィルやマーガリットと一緒になって我が家で起こしたすさまじいけんかから判断すると、単なるお転婆にすぎない。メイはいま、ケルムスコットに行っていて、絵を描いてもらっている。思うに、ふたりのなかではメイの方がもっと成長していて、全く若い淑女のような文を書き、むしろジェニーはペンをもつのを怖がっているように見える。しかしメイも、機会さえあれば、いくらでもけんかをすると考えた方がいいだろう。忘れずにあなたからのメッセージをジェニーに伝えました。そして明日、メイに手紙を書いて、あなたのメッセージを知らせます。
この手紙が出された一八七四年の三月は、ゲイブリエルのパラノイアが極度に悪化する数箇月前にあたります。手紙のなかでは、〈ケルムスコット・マナー〉に滞在して絵のモデルを務めているのはメイのように書かれてありますが、実はそうではなく、ジェイニーだったものと思われます。といいますのも、このときゲイブリエルが製作を進めていたのは、すでに紹介していますように、ギリシャ神話を題材に描かれた大作の《プロセルピナ》だったからです。おそらくモリスは、妻が夫から離れてゲイブリエルのモデルをしていることを、周りの人間に、直接あからさまに自分の口からいいたくなかったのかもしれません。
上のモリスの手紙にありますように、ジェニーとメイのふたりの少女たちは、バーン=ジョウンズ家の子どもたち(フィルとマーガリット)と一緒になって、いつも快活に遊んでいました。ジェニーとフィル(フィリップ)は九箇月違いの同じ年で、マーガリットは、そのふたりより五歳年下でした。その後マーガリットが結婚する相手がJ・W・マッケイルで、モリスの公式伝記『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)を著すことになります。
この手紙が出されたころ、モリス家とバーン=ジョウンズ家の子どもたちは、どのような遊びに興じていたのでしょうか。この時期の彼らにとってのお気に入りの遊びは、どうやら秘密結社ごっこだったようです。会合は、一八七四年の四月から八月までのあいだに七回開かれ、場所はバーン=ジョウンズ家の〈グレインジ〉だったようです。以下は、ジェニーが書き残していた、そのときの秘密結社の「第一回会合」の記録です。
「第一回会合」
儀式は次のように執り行なわれた。会員は一人ずつ後ろ向きになって指導者の玉座に入り、規則一、二、三を守ることを誓った。そのあと会員は指導者によって顔を黒く塗られた。指導者自身は両頬を少し黒く塗っているだけである。会員一人ひとりに敬意を表わし、そしてとくに指導者に一層の敬意を表わすために、火の泉が燃え上がった。それからわれわれ一人ひとりに地位が割り当てられた。メアリー・モリスには名誉書記官が、ジェイン・アリス・モリスには隊長が、マーガリット・バーン=ジョウンズには旗手が授けられた。指導者はフィリップ・バーン=ジョウンズであった。
われわれははしごを使って屋根裏に進入しようとした。しかしわれわれの力ではかなわず、失敗に終わった。夕方遅くなって、指導者が「会合を解散するつもりだ」といった。それを聞いた私は、会合が終わったものと思い、決して悪意からではなく、「皆、もっとやったら」といった。即座に私は捕らえられ、牢に入れられてしまい、その場で裁判と判決を待つ身となった。裁判と判決は、次の会合で与えられることになろう。
この会合の記録から、こうした小さな子どもたちの集団においても、男女の役割格差が存在していたのではないかと洞察することも可能かもしれません。それについて、ジャン・マーシュは、このように指摘します。
三人の少女があまりにも「淑女らしからぬ」行動をしていたことがわかる以外に、秘密結社の活動自体には取り立てて変わったところはなかった。しかしながら、その秘密結社の階層序列を見ると、進歩的でおおむね平等主義的であったグループ内においてさえも、その時代の男性の絶対的優位性がはっきりと示されているのがわかる。ジェニーは会員のなかで、一番年上で最も背が高く、たぶん一番強かった。したがって、もし指導者の役割が唯一の男子であったフィルに回されなかったならば、当然彼女が指導者になっていたであろう。
この会合が終盤にさしかかる七月、ロセッティの病状が悪化します。極度の幻聴や幻視に悩まされるようになったロセッティは、そのことが原因で村人ともめ事を生じさせます。その結果ロセッティは、家人や友人たちに連れられてロンドンのチェイニ・ウォークの自宅へと連れて行かれ、そこで隔離され、監督されることになるのです。これを最後に、ロセッティは、二度と〈ケルムスコット・マナー〉を訪れることはありませんでした。明らかにこのことは、最終的ではなかったとしても、ジェイニーとゲイブリエルの実際上の愛の終局を意味するものでありました。
一方モリスは、この七月、妻と子どもたちを連れてベルギーへ行き、そこで夏の休暇を楽しみます。この旅行の目的について、ヘンダースンは、こう推測しています。「彼は、この危機的時期に際してジェインをロセッティから引き離すために、実際にはベルギーへの旅を計画したのかもしれない」。しかし、別の目的もあったのかもしれません。つまり、ジエニーとメイは、この秋から学校へ通うことになっており、それを控えての、家族水入らずの外国見物だった可能性もあるためです。
この家族旅行は、メイにとって、一生の記憶に残る楽しい旅でした。メイは、このように記述しています。
私たちはベルギーの町を少し回ることで、フランドル芸術に対する父の若いころの熱狂と向き合った。実際に絵を見たということだけでなく、それによって幼い私たちが心地よい刺激でいっぱいの「よその国の側面」をはじめて味わったということもあって、それは忘れられない時間となった。
しかし、父親にとっては、必ずしも楽しい旅ではなかったようです。すでに第九章の「〈ケルムスコット・マナー〉の恋人たち」のなかで紹介していますように、滞在先のブルージュからアグレイアに宛てた手紙になかに、次のような一節が残されているからです。
私はといえば、あらゆる変化と美しさが目に映っているにもかかわらず、想像力がかなり鈍麻し、低下しているのを感じます。思うにそれは、周りに子どもがいるためであり、私たちの年齢に差があるためであり、彼女たちが何を考えているかわからないためでもあるのです。
こうして、ジェニーとメイは、中産階級の子女にふさわしく、青年期に入る通過儀礼としての海外旅行を楽しむと、家庭内教育から離れ、学校教育という新たな環境へと送り込まれていったのでした。
学校教育を受けさせるにあたっては、エドワード・バーン=ジョウンズの妻のジョージーの意向が大きかったようです。このとき、年の離れたマーガリットも、ジェニーとメイと一緒にこの学校に入学しているからです。ジョージーは、女というだけで教育の機会が与えられなかった、自らが体験した境遇を悔やんでいたのでした。娘のマーガリットを自分と同じように無学のままで大人になる道を歩ませたくないという思いから、ジョージーはモリス家に働きかけ、ジェニーとメイのふたりの娘たちの同時期の入学を誘ったものと思われます。ノッティング・ヒル高等女学校はロンドンの西部に位置し、両家にとって都合のいい場所にあったことも、通学の決め手となったにちがいありません。マーシュは、この学校について、こう記述しています。
ノッティング・ヒル高等[女]学校は新設校で、部屋が不足していた。一学級二〇人から四〇人の六つの学級が、カーテンで仕切っただけのひとつの大きな部屋で授業を受けていた。午前の中休みは、舗装した小さな中庭を散歩したり、天気の悪い日には、外套と帽子が掛けてある蒸し暑い地下の保管室を散歩したりして費やされた。それでも学生たちは、本格的な学問に接し、自分たち以上に特権が与えられていた兄弟たちと対等であることを証明する機会を得たことで、教育上の雰囲気は活気にあふれていた。
ジェニーの学業は、極めて優秀でした。ノッティング・ヒル高等女学校に関する一八七五年度の視学官報告書に依拠しながら、マーシュは、次のように、ジェニーの能力に言及しています。
ジェニーはラテン語と英文学に関して知識があるとして名指しで推賞されているし、ノッティング・ヒルで勉強をはじめて二年と立たずに、ケンブリッジ大学地方試験(一般教育証明書の「普通レヴェル」とほぼ同等であった)に合格し、多くの級友と同じく、大学への進学を目指していた。オクスフォード大学とケンブリッジ大学では、最初の女子カレッジが設立されようとしていたし、女性が専門職に就くことを認める努力もなされていた。女性の高等教育という点で、当時は全く刺激的な時代だったのである。
バーン=ジョウンズ家の娘のマーガリットとともに、モリス家のふたりの娘のジェニーとメイがノッティング・ヒル高等女学校に入学した一八七四年の秋、すでに述べていますように、モリスは、商会の改組に取りかかっていました。翌年の三月に単独経営による新会社「モリス商会」が発足すると、それ以降、モリスの関心は染色へと向けられてゆき、リークへ出かけては、ウォードルからその技術を学ぶことになります。この年(一八七五年)の一〇月二一日、モリスは、アグレイア・アイオニデス・コロニオに宛てて手紙を書きました。
お知らせと「ご親切なお問い合わせ」、ありがとうございます。極めて体調もよく、気分も良好です。こちらにおもどりになったときにお目にかかれることをとても楽しみにいたしております。捺染された布地数枚を受け取りました。大きい部屋に掛けています。見るからに(本当に)美しく、一日中、座って眺めていたい気持ちになります。しかし、仕事が忙しいために、そうするわけにはいかないのですが……こうしたことがすべて、私を忙しくさせ、とても私を楽しませてくれています。楽しくさせてくれるものを見つけるのに苦労しているように見える人たちが多くいるなかで、私は、自分が幸せな人間であると思ってもいいのかもしれません。
文面にある、「楽しくさせてくれるものを見つけるのに苦労しているように見える人たち」のひとりに、ジェイニーも含まれていたのでしょうか。それはよくわかりませんが、ジェイニーにとって不幸なことに、ゲイブリエルとの愛の終わりが近づいていたのは確かでした。といいますのも、この時期、ゲイブリエルのパラノイアの症状は改善することなく、世捨て人同様の生活が続いていたからです。彼は、クロラール睡眠薬をウィスキーで流し込むあり様で、人目を避け、暗くならないとめったに外出をすることはなく、社交界へ足を向けることもありませんでした。しかし、絵画の製作は持続していました。
一八七五年の冬、ゲイブリエルは、サセックスの海岸地帯のボグナーの外れにあるオルドウィック・ロッジで事実上の隔離状態にありました。ジェイニーは、娘のメイを連れて、その地に向かいます。そして、《アスタルテ・シリアカ》のモデルを務めるのです。この作品は、縦約一八二センチ、横約一〇六センチの、等身大を超える大作で、古代シリアの神を表象するものでした。ゆったりとした鮮明な緑色のローブを身につけた女神が正面から描かれており、胸元を取り巻く装飾紐に右手が添えられ、左手は、腰に巻き付けられた同種の飾り紐を握っています。その作者は、この作品に対して一編のソネットを用意しました。以下は、その最後の部分です。
すべてを見抜く愛の魔法 魔除け、護符、信託―― 太陽と月とのあいだの神秘。
この詩片にみられるように、おそらくゲイブリエルは、自分にとっての永遠の女性像をジェイニーに重ね合わせて、この作品を完成させたものと思われます。一方ジェイニーは、この作品のモデルをしながら、彼の病状を和らげるための最後の試みを行なっていたものと推測されます。クリスマスに一度ロンドンにもどると、ふたりの子どもを連れて、再びボグナーへ引き返し、ゲイブリエルと一緒に過ごします。ジェイニーは、ふたりが楽しく暮らせる道を、あらゆる手立てを講じて懸命に模索していたにちがいありません。
モリスは、独りロンドンに残るも、気持ちが落ち着かなかったのでしょうか、〈ケルムスコット・マナー〉へ向かいます。そしてそこから、一八七六年一月二六日、ボグナーにいるジェイニーに宛てて手紙を書きました。
私はこちらで問題なく過ごしています。本当に冠水は事実あるのです。しかし、水は、日曜日以降、大部分引いていきました。……とても美しい午後です。外ではスミレが咲き……マツユキソウもすべて、姿を見せています。子どもたちによろしく。
しかし、三月になっても、ジェイニーは、ロンドンへもどる気配はありません。すでにジェニーだけはロンドンに帰っていました。三月一八日、モリスは、こうした手紙を送りました。
それでは、こちらに帰ることを強いるようなことはしたくありません。しかし、ただ、いつもどるつもりなのかについては知らせてください。要点は、来週の水曜日にリークに行くことを実にうまい具合に決められたことでして、そちらへ行けば、二週間くらい家をあけることになります。……あまり長くジェニーを親のいない状態にさせておきたくないので。
この文面から、モリスのいらだちが見えてきます。他方、いつもながら、母親がゲイブリエルと生活をともにするときの付添役となっていたメイは、そのときボグナーでどのような心的状態にあったのでしょうか。明らかにメイは学校を休んでいます。ジェイニーは、ゲイブリエルが描く《アスタルテ・シリアカ》のモデルをしています。メイの視線は、パラノイアの重い症状を示すゲイブリエルの言動、そして、その症状を和らげる努力をしながら、絵のモデルをする母親の姿、さらには、ロンドンに残り、学校に通うジェニーと一緒に暮らす父親の境遇を、どのようにとらえていたのでしょうか。それを明らかにする資料は残されていないようです。しかし、思春期を迎えようとするメイの眼前に広がっていたのは、決して簡単には理解できない、「大人」の不可思議な光景だったにちがいありません。
このボグナー滞在中にメイは、父親に宛てて手紙を書いています。しかし、それは現存しておらず、その内容は想像するしかありませんが、一八七六年三月二一日に書かれたと思われる父親の返信が残されており、その手紙は、次のような文言で書き出されています。
親愛なるメイ。お手紙、どうもありがとう。私はとても嵐を見たいと思っていました。今朝はすごく霜が降りました。今年は私が覚えているなかで一番寒い、いわゆる「リンボクの咲く冬」でした。明日、私はリークに行き、染色桶に向かいます。
そのあとも、染色の話や購入したペルシャ絨毯の話、さらには、クウィーン・スクウェアの住み込みの管理人であるジャッド夫人の話といった、極めて日常的な話題が続き、母親の様子も、ゲイブリエルの病気や仕事についても、とくに何も聞いてはいません。深刻な話題を避けることで、メイの心を気遣っているのでしょうか。しかし、これはいつものことで、モリスは、わずかの例外を除き、誰に対しても、自分の心をさらけ出すようなことはしない人でした。ただ、この手紙において気になるのは、「私はとても嵐を見たいと思っていました」という冒頭の言葉です。深読みになるかもしれませんが、この語句には、次に起こることを何か暗示するような響きがあるからです。ジェイニーがゲイブリエルと最終的に別れ、ロンドンにもどるのが、その年(一八七六年)の春のことでした。これは、ジェイニーにとっての「嵐」を意味します。そして、ジェニーにてんかん性の発作がはじめて現われるのが、その年の夏のことです。これは、明らかに家族にとっての「嵐」を意味するものでした。
メイへの手紙を書き送ると、モリスは、昨年に続いて再びリークへ行き、その地で、ウォードルの指導のもと、染色の技術を学びました。このときの滞在中のことです。モリスは、ある人物に宛てて手紙を書きました。すでに紹介している一文ですが、再びここに引用してみます。
あなたを愛しており、あなたの助けになりたい、といったようなあなたが十分承知されているおられる事柄をさらに超えて、私はあなたのお役に立つことが何なのかを自分でいえればよいのにと思います。そこで私は、(使い古された言葉かもしれませんが)人生は空虚でも無意味でもないということを、人生のさまざまな部分は何らかのかたちで他の部分と調和しているということを、そして、世界はいつまでも美しく不可思議で畏れ多く、崇拝に値するということを、あなたにお考えいただきますよう、せつに希望します。
この手紙の受取人については、諸説がありますが、マーシュは、このように述べています。
一八七六年三月、染色の研究でリークに行ったとき、モリスが書いた手紙が断片的なかたちで残っており、それは好奇心をそそるものである。その手紙は、ジョージーか、あるいはたぶん、失意のうちにあったネッドに宛てたものと思われるが、ジェイニーに宛てたものだった可能性もないとはいえない。その手紙は確かに、ゲイブリエルと別れてからの彼女の心情はこうだったのではないかと推察される内容と合致しているし、また、自分の苦しみにもかかわらず、モリスが妻にささげた忠実な愛情と支援として知られる内容と合致している。
すでに論じていますように、この手紙の受取人はネッドだったものと思われます。しかし、受取人がたとえジェイニーではなかったとしても、モリスは、このときの妻の悲しみに対して、この手紙のなかにみられるような、高潔で凛々しい態度でもって接したのではないかと想像されます。
この手紙が差し出された前後する時期、ゲイブリエルとの愛の生活を取り戻すために、ジェイニーはゲイブリエルの体調を何とか回復させようと必死に努力していたものと推量されます。しかし、その努力は徒労に帰し、彼女は自分の無力さに打ちのめされたにちがいありません。最初にゲイブリエルの精神的異常が表面化したのが一八七二年のことでしたので、それから四年が経過していました。一八七六年の春、こうしてジェイニーは、ゲイブリエルとの愛情関係に最終的に終止符を打つことを決意すると、ロンドンの夫のもとへと帰っていったのでした。
のちにジェイニーの新たな恋人となるウィルフリッド・スコーイン・ブラントの一八九二年五月五日の手記によれば、ゲイブリエルを熟愛していたのかという問いに対して、ジェイニーは次のような返答をしたようです。
最初はそうでした。しかし、長くは続きませんでした。彼がクロラールで自ら身を滅ぼしつつあるのに、それを止めるために何もしてあげられないことがわかったとき、私は彼の所に行くのをやめました――それに子どもたちのためにも。
やはり、思春期に向けて成長しつつあったふたりの娘の手前、断続的であれ、妻が夫以外の男性と生活をともにすることは、はばかられたのかもしれません。しかし、別の箇所のブラントの手記にあるように、ジェイニーにとってゲイブリエルは、「他の男性とは比べようもない人」であったことに変わりはなく、この愛の終焉は、ジェイニーに大きな喪失感をもたらしたものと思われます。しかし、その喪失感がいやされるための時間的猶予が与えられることもなく、すぐさま次の新たな苦しみが、母親であるジェインに、そして父親のモリスに襲いかかろうとしていたのでした。
この家庭内の重大な出来事について、マッケイルは短く、こう書き記しています。
いまや一五歳の少女となり、並外れて快活で聡明で勤勉であった上の娘は、すでに、彼の父親の選ばれしよき友となっていた。そして同時に、輝かしい未来が約束されていた。一八七六年の夏、彼女の健康が、完全に損なわれてしまった。これよりのち、彼の心がこの悲嘆から解放されることはなかった。緻密な知識を特別に授かっている人であれば、誰しもが、彼が示す思いやり、そして、彼女に対する絶え間ない配慮と世話を眺めては、それを、実に涙を誘わんばかりの、彼の性格にあっての美しい要素であった、とみなしたことであろう。しかし、彼女に向けられた彼の心配は、文字どおり、彼の人生の残りの最後の最後まで続いた。
マッケイルがいう「上の娘」が、ジェニーのことであることは明らかです。マッケイルは、病名についても明示していません。しかし、「彼女の健康が、完全に損なわれてしまった」原因となったものは、てんかん性の発作でした。当時にあっては、まだ、抗てんかん薬はなく、治療方法も確立していませんでした。マーシュは、ジェニーの発病について、次のように述べています。
一八七六年の夏、本当に不幸な出来事が起こった。ジェニーがてんかんの発作を起こし始めたのである。これは患者にとっても家族にとっても、過酷な打撃であり、終身刑の宣告であった。というのも、てんかんには治療の方法がなく、病状を効果的に処置したり、抑制したりする方法もまだなかったからである。発作を防ぐことも、予測することもできなかったので、昏睡したときにけがをするといけないので、患者をひとりにしておくことはできなかった。その一方で、大きな発作が繰り返し起こるたびに脳は徐々に損傷を受けてゆくのであった。その経験は、学問的成功の希望も、結婚の可能性もすべてを奪うものであったので、ジェニーにとって恐怖であり、悲劇であったにちがいない。彼女の両親にとっては、毎日が悲しみの連続であった。
のちに、社会主義運動を通じてモリスと知り合うことになるジョージ・バーナード・ショーは、戦後の一九四九年に「さらなるモリスのことについて」と題した一文を『オブザーバー』に寄稿し、そのなかで彼は、ジェニーとモリスの関係について、このように書きました。
モリスは、ジェニーが大好きだった。モリスは、同じ部屋でジェニーと一緒に座るときには、決まって彼女の腰に腕を回した。モリスは、ほかの人と話をするときは変わることがなかったが、ジェニーと話をするときには、声の調子が変わった。
さらにショーは、ジェニーの病気が自分からの遺伝ではないかとモリスは考え、悲嘆にくれていたことを示唆しています。すでに折に触れて述べてきていますように、癇癪玉を爆発させては、静まり返るといったモリスの性質は、周りの多くの人が知るところでした。おそらくモリスは、そうした激しやすい自分の感情表現がジェニーに譲り渡され、てんかんという難病を発症させたものと、自分を責め立てていたにちがいありません。マッケイルがいうように、「彼女に向けられた彼の心配は、文字どおり、彼の人生の残りの最後の最後まで、続いた」のでした。
ジェニーにてんかんの症状が認められるようになった一八七六年の夏という時期は、ジェイニーがゲイブリエルとの愛を終わらせ、夫であるトプシーのもとに帰ってきたときのことであり、そのため、ジェニーの発病は、これまで実質的に疎遠となっていた夫婦のあいだのきずなを強めさせる力となったのではないかと指摘する伝記作家もいます。他方で、モリスが、東方問題にかかわる運動や古建築物の保全活動といった政治色の強い課題に対して積極的に関与するのが、この時期のすぐのちのことになりますので、そうした時期の連続性に着目して、ジェニーの発病とモリスの政治的活動とのあいだの因果関係を示唆する伝記作家もいます。もちろん、決定的な証拠があるわけではありません。したがって、たとえ可能性はあったとしても、そのように断定することはできないのですが、しかし、モリスとジェインの家族が、一八七六年の夏を境に、まさしく突然暗闇に放り出されたかのように、心配と苦痛と不安のなかで過ごしてゆくことになる、そのことの真実性については、誰にとっても疑う余地は残されていませんでした。
ジェニーがてんかんと診断されると、ジェニーとメイは、その二年前から通っていたノッティング・ヒル高等女学校を退学します。ふたりは、絶望に近い苦しみを感じ取ったにちがいありません。といいますのも、退学によって、級友たちとの遊びも、勉学の楽しみも、すべてが奪われてしまったからです。しかし、周りの人たちは、強く心は痛めたものの、明るく優しく、ジェニーに接しました。マーシュが記述するところによれば、その様子は、以下のごとくでありました。
ジェイニーは自分自身の健康の方を優先的に考え、娘の病気に対しては、どちらかといえば、母親らしからぬ反応を示したと、ときどきいわれている。この中傷は彼女の行動を見れば、うそであることがわかる。というのも、ジェニーを収容施設に入れずに自宅で看病するのは緊張が多すぎるという忠告を医者から何度も聞かされたが、それでも彼女はジェニーの要求を第一に考えたことは明らかであるからである。発病後ただちに彼女がとった対応は、ふたりの少女に学校をやめさせ、海辺での休養に連れていくことであった。ジョージーとマーガリットがそれに合流した。
この夏ジェイニーは、ジェニーとメイを連れて、ケント州の海辺の町であるディールの地で休養をとりました。そしてそこから出されたジェイニーの手紙に対して、七月一八日にモリスは、以下のように返事を書きました。
お手紙、ありがとう。事態がとても順調に進んでいると聞いて、とてもうれしく思います。もっとも、当然ではありますが、どうしても心配してしまうのですが。…… あなたがジェニーのことをとてもよく考えてくれていることを知り、言葉に表わせないくらいにうれしい。メイについてはあまり多くは割かれていなかったようですが。その方法なら、間違いなく、あの子のためになると思います。そちらの土地が子どもたちに本当にあっているようであれば、そして、そちらでの生活にあなたが耐えられるのであれば、彼女たちを急いで立ち去らせるのは、何かとてもかわいそうなことのように思います。仕事が許す限り、私はあなたたちと一緒にいたい。ちょうど一週間後、あるいは、その翌日に私はそちらに行き、いずれにしても、三日かそれくらいは滞在しようと思います。その日をとても楽しみにしています。
この手紙からもわかるように、ロンドンに残ったモリスも、しきりとジェニーの容態を気遣っているのです。この時期、父親も母親も、不安のなか、必死になってジェニーに寄り添ったものと思われます。
九月になると、モリスの一家は、全員そろってケルムスコットへ行きました。それには、ネッドとふたりの子どものフィルとマーガリットも同行しました。そして、このケルムスコット滞在中に、一行は、コッツウォウルズのブロードウェイの近くにある「クロム・プライスの塔」への遠出を楽しみました。この塔は、モリスとネッドの大学時代の友人であったクロム・プライスが借りていた一風変わった建物で、三つの小塔をもっており、「ブロードウェイの塔」とも呼ばれていました。ケルムススコットからの一団は、九月四日に到着すると、来客者名簿に署名しました。ジェニーの署名も残されており、マーシュは、こう書いています。
「J・A・モリス」の署名がにじんでふらついているのが目立ち、まるでジェニーは書くことにある程度困難を覚えていたかのようである。
そしてモリスは、「クロム・プライスの塔」に着いたその日に、アグレイアに宛てて手紙を書きました。
今日、「クロム・プライスの塔」に来ています。風と雲のなかです。ネッドと彼の子どもたちもここにいます。全員、大いに愉快です。
こうして、ジェニーの病気が影を落としていたものの、彼らはここで、楽しいひとときを過ごしました。この「ブロードウェイの塔」は、モリス家のお気に入りの屋敷になったようです。翌年の一八七七年の夏にも、訪問しています。とりわけメイの興奮ぶりが、以下の文章から伝わってきます。
いままでに見たなかで一番不便で、一番楽しい所だった。私たちのように楽しくさえあれば、それだけでほとんど何もなくても構わない単純な家庭にとっては。もっとも、いま思い返してみれば、このとき母はかなり英雄的だったように思う。繊細な淑女が快適に過ごすのに必要ないろいろ細々としたものをほとんどなしですませたのだから。「塔」は確かにばかげた代物だった。男の人たちは、水が十分あって、風で石鹼が吹き飛ばされないうちに、屋根の上でお風呂に入らなければならなかった。必需品が届けられた方法ときたら、私にはさっぱりわからない。でも、香りのいいきれいな空気で私たちの疲れた体の痛みが吹き飛ばされたのがどんなに気持ちよかったことか!何もがどんなにすばらしかったことか!
この一八七七年の春、モリス商会は、オクスフォード・ストリート二六四番地(のちに四四九番地)にショールームを開設します。近くのリージェント・ストリートには「リバティ商会」が、ボンド・ストリートには「マレント商会」が店を構えていました。そうした相手との競合のなかにあって、モリス商会は、さらなる発展へ向かって進んでいくことになるのです。そして、同じくこの年の冬、モリスは、オクスフォード・ストリートの外れのカーステル・ストリートにある共同ホールにおいて、学習職業組合に向けて講演を行ないます。演題は「装飾芸術」で、これが、その後の生涯にわたるおよそ一〇〇回近くに及ぶモリスの講演活動の最初の講演となるものでした。
その少し前の一八七七年の秋、ジェイニーは、ジョージ・ハウアドとロウザリンド・ハウアドの夫妻から、この冬をイタリアで過ごす誘いを受けました。当時のロンドンは多湿のうえに、空気も汚染されており、決して健康によくありませんでした。そこで、ハウアド夫妻のような貴族階級に属する人びとにとっては、冬を風光明媚で温暖なリヴィエラで過ごすことが、ひとつのファッションであり、医学上の勧めともなっていたのです。ハウアド家には七人の子どもがいましたが、全員参加したかどうかわかりません。モリス家は、モリスを除く、ジェイニーとふたりの娘が加わりました。一行は、一一月一九日にロンドンを立ち、リグリア海沿岸のサン・レモに近いオネリアに宿をとりました。クウィーン・スクウェアに独り残っていたモリスはジェニーからの手紙に対して、一二月七日に返事を書いています。
手紙を書いてくれた親切に感謝します。あなたたちがイタリア語にせっせと取りかかっていると聞いて、うれしく思います。そう、私は、火曜日に講演をしました。……なぜメイは手紙を書いてよこさないのだろうか。絵を描くことに忙しいのだろうか。
この手紙で、「火曜日に講演をしました」とモリスは書いていますが、これは、一二月四日に行なわれた「装飾芸術」の講演を指しています。また、「イタリア語にせっせと取りかかっている」という語句から、到着するとすぐにも、ジェイニーとふたりの娘が、イタリア語の勉強をはじめていたことがわかります。メイは、おそらく絵を描くことにも、時間を費やしていたものと思われます。メイの筆になる水彩画の小品が二点あり、それらは、現在、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に収蔵されています。
この間モリスは、ロンドンにいて、新しい家を探していました。すでに述べていますように、一八七二年の暮れ、モリス一家は、クウィーン・スクウェアからターナム・グリーン・ロードの〈ホリントン・ハウス〉へ引っ越しました。このことは、クウィーン・スクウェアでの住職一体の生活の終わりを告げるものでした。しかし、モリスがそれまで使っていた「親しんだ書斎と小さな寝室」は残されましたので、この引っ越しは、ジェイニーと子どもたちがこの家を出て、モリスは残るという、モリスとジェイニーの実質的別居のはじまりを意味するものでした。しかし、この〈ホリントン・ハウス〉は、モリスが激務から解放されて家庭内で休息をとるには、あまりにも手狭でした。その一方で、ジェニーの発病が、夫婦が常時一緒に暮らすことを要請したのかもしれません。こうした幾つかの理由から、モリス家の新しい家探しがはじまっていたのです。
年が明けた一八七八年の三月一二日にモリスは、オネリアに滞在中のジェイニーに宛てて手紙を書きました。家探しの様子がこう書かれています。
マクドナルドの家についてお話ししたいと思います。これまでに二度、行ってきました。もしあなたが、ここ以上にもっとロンドンに近い所に住みたいというのでなければ、ここで私たちは十分にやっていけるだろうという気になっています。馬車を使うと一五分で家に着きます。前に川が流れていて、裏に庭があることは、とても好都合です。家自体は、私たちにとってちょうどいいくらいの広さで、どの部屋もおおかたきれいです。
マクドナルドというのは、モリスより一〇歳年上の詩人で作家のジョージ・マクドナルドのことです。この家は、ハマスミス地区のテムズ川岸辺の小道に沿ったアッパー・モールにありました。
ジェイニーとふたりの子どもが帰国する日が近づいてきました。モリスは、家族を迎えにオネリアに行く提案をジェイニーにしています。三月二六日の手紙です。
私がそちらに出かけていくのはどうだろうか。ちょうどハウアド一家が発つころにそっちに行き、あなたたちがどんな生活をしていたのかを知るために、一日か二日滞在し、それからまっすぐにヴェニスに行くというのは、どうだろう。
ジェイニーはオネリアにいて、この家探しについて、ゲイブルエルに相談したようです。ゲイブリエルの手紙が残されています。ヴェニスとハマスミスに共通した多湿性にかかわって、ジェイニーの心身の状態を心配する内容となっています。これから向かう「その滞在地の湿気の多さは、ハマスミスの家に関して、おそらくあなたに何かを考えさせるかもしれません。もしあなたが、この問題について完全に考慮されなければならないような体をもつ人間であるのであれば、私は、その家に住むことを賢明な選択であるとは決して考えません」。こうした文面から推量できるように、手紙にあっては、それなりに理性的な反応を保つことができていました。しかし、実際のゲイブルエルのパラノイアの症状は、かなり進行していたらしく、マーシュの記述によれば、「晩年の一〇年間は精神病による孤立状態で過ごしたというのはほとんど疑いのないところ」だったようです。ゲイブリエルが死亡するのは、それからの四年後の一八八二年のことでした。
四月二日のジェイニーに宛てた手紙において、モリスは、「その家を借りる手配をした」と書いていますので、おそらくこの前後に、モリスは賃貸契約書に署名をしたものと思われます。この家が、それ以降の残りの人生を過ごすモリスの居宅になります。マクドナルドはこの家を〈隠遁所〉と呼んでいましたが、モリスは、その名称を嫌い、〈ケルムスコット・ハウス〉へと改称しました。それは、テムズ川のさらに一三〇マイル上流に位置する、お気に入りの別荘の〈ケルムスコット・マナー〉に因むものでした。
この間にモリスは、体調があまり優れないとか、あるいは、旅行をすることにはあまり気乗りがしないとか、そういった内容の手紙をジェイニーから受け取ったようです。四月一一日、モリスはこんな返事を書いています。「どういったらいいのだろうか。あなた自身、一番したいことは何なのでしょうか。ヴェニスを見なければ、子どもたちがひどくがっかりすることになりはしないだろうか」。
そうした状況のなか、モリスは、四月二〇日、みんながいるオネリアへ向けてロンドンンを発ちました。オネリアにあってのジェイニーの体調についてマーシュは、本人は「オネリアの熱病と表現しているが、その病気にかかった結果、彼女の体重はかなり減り、抜け毛まで増えた」あり様でした。一方モリスも、到着するや痛風で体が意のままにならず、ほとんど歩けないような状態にあったようです。それでも、一行は、オネリアからヴェニスへ向かいました。
五月二日、この地からモリスは、アグレイア・コロニオへ手紙を出しました。「私たちはみな、この地に来ています。ヴェニス四日目です。とりわけ、メイ以外子どもたちが、この滞在に気分をよくしています。ジェイニーはといえば、ここへ来るまでは彼女も同じだったのですが、ここへ来て体調を崩してしまったようです。これが私にとっての大きな落胆するところとなっています。……ここに全部で一〇日間くらい滞在し、その後帰国の途中で、最低でもペジュアとベロウナーには立ち寄りたいと思っています」。
二日後の五月四日、今度はチャールズ・フェアフェクス・マリに宛てて手紙を出していますが、自分の体調について、モリスはこう書きました。「ここで私は五日間無駄にしました。そして、いまだに十分に足が動きません」。
おそらくハウアド家とモリス家は、このヴェニスで別れたものと思われます。ベロウナーに着くと、さっそく五月一八日に、先に帰国したジョージ・ハウアドにモリスは手紙を送りました。その書き出しは、こうです。「昨日全員ここに到着し、いま、ここにいます。いまだに私は本来の自分にまで復調しておりません。そして、残念ながら、妻の気分も全く優れません」。このようなことも書いています。「建築を建築として見れば、たぶん私は少々失望しています。批判的にいえば、どれもが、荘厳であったり、詩的であったりする以上に、むしろ優雅であるのです。……それでもベロウナーは、すてきな町で、全体としては、最高に美しい」。
モリス一家が帰国すると、ジョージ・ハウアドの妻のロウザリンド・ハウアドからジェイニーに宛てた手紙が届きました。その内容は正確にわかりません。マーシュの推測するところによると、「どういうわけかジェイニーはロウザリンドにそれ相応の礼を述べなかったので誤解が生じた」ようです。六月五日にジェイニーは、ロウザリンドに向けて、次のような返信をしています。
あなたの手紙を昨夜遅く受け取りましたが、そのときはお返事を書くことができず、自分が幾つもの姿をもった怪物になった夢を見て、目覚めるたびに自己嫌悪に陥りました。……どうぞ私をお許しください。そして私があなたを愛する者であることだけはお忘れにならないでください。……ジェニーの健康が回復したのは、イタリアへ行ったおかげであると本当に実感しております。私たちは、いまやジェニーが完全に元気になったものと思っています。
イタリアから帰ったモリス家は、さっそく〈ケルムスコット・ハウス〉への転居の準備に取りかかったものと思われます。この家は、一八世紀後半につくられた三階建てのつくりで、屋根裏部屋と地下室を備え、裏手には、長い曲がりくねった庭が続いていました。しかし、道を隔てた前の川が氾濫すると、地下室にまで水が流れ込み、決していい立地条件ではありませんでした。加えて、建物自体も必ずしも歴史性を感じさせるようなものではなく、マッケイルはこの家について、このように表現しています。「それは、ひと昔前のロンドン郊外になじみの、みすぼらしくはないが醜い、一種の大きなジョージ王朝様式の家だった」。現在、この建物の一部が、ウィリアム・モリス協会の本部として使用されています。
この年(一八七八年)の一〇月の終わりに、モリス一家はこの家に引っ越しました。二階が居間として使用されました。道に面した横に長い部屋で、五つの窓からテムズ川を眺めることができました。主な家具のうち、長椅子とキャビネットは、結婚に際しての新居として建築された〈レッド・ハウス〉において使用されていたものがそのまま使われ、それ以外の家具や装飾品も、同じ趣向のもので揃えられました。それらは、「控えめでありながらも鮮やかな幾つもの色彩をその部屋に与え、目は、一種の能動的なやすらぎの感覚を伴い、それらのなかへと吸い込まれていった」と、マッケイルは記述しています。
一階に設けられたモリスの書斎は、実に簡素なもので、カーペットもカーテンもありませんでした。ほとんど壁面は、飾りのない本棚で埋め尽くされ、本棚も方形のテーブルも、つやなしのオーク材でできていました。モリスは、自分の寝室に織機を置き、朝起きると、さっそくそれに向かい、自ら手を動かします。しかし、それはあくまでも個人使用の織機であり、この家に隣接する馬車小屋と馬小屋が、大きな織物部屋へと改装されました。複数台のカーペット用織機がそこに設置され、まもなくすると、そこから定期的に織物が生産されていくことになります。「ハマスミス・カーペット」や「ハマスミス・ラグ」といった名称で呼ばれる織物は、それらが生み出されたこの所在地名に由来しているのです。
マッケイルは、こう書いています。「一八七八年から七九年の冬のあいだ、事実上モリスの関心は、染色から織物へ置き換わった。それは、模様のあるシルクを織るためのジャカード織機、やわらかい毛の敷物を織るカーペット織機、そして、つづれ織りのためのタピストリー織機を使った多様な形式によって成り立っていた」。
こうしてモリス一家は、一八七八年から七九年の冬のあいだ、この新しい屋敷で過ごしました。この時期、ジェニーの容態も落ち着いていたようです。父親の関心が織物に向けられていくのとちょうど軌を一にして、事実上学問の世界での成功を諦めざるを得なくなったジェニーの関心は、『スクリブラー』と呼ばれる家庭雑誌の編集に向かいました。この雑誌は一年半のあいだに一七号ほど出されたようですが、メイが、配布のための複写をおおかた担当しました。モリス家の娘たちのイタリア訪問の経験が、この雑誌の記事と物語の双方に多く反映されています。ジェニーが連載したのは、『アドリア海の女王』と題された小説でした。家庭内雑誌の発行だけではなく、家庭内での劇の上演も、子どもたちは楽しんでいたようです。マーシュは、こう付け加えています。
また一方では、『スクリブラー』の紙面から、この姉妹が演劇や素人芝居にだんだんと熱中していく様子が見て取れる。彼女たちは、友人宅で行なわれる劇や舞台の上演に参加したり、『シンベリン』を自分たちの演出で上演したりした。それは最初「フラムのグレインジ劇場」で、次に「ハマスミスのモリス夫人の客間」で上演された。
一八八〇年の夏には、モリス一家は、クロム・プライスやウィリアム・ダ・モーガンを含む数人の友人たちを加えて、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉から別荘のある〈ケルムスコット・マナー〉までの一三〇マイルを、船でテムズ川を上るという冒険の旅を楽しんでいます。この「箱舟」の旅に関してマーシュの記述のなかから、短く以下に拾い出してみます。
この奇妙な舟には半ば狂乱めいた幸福な雰囲気が漂っていたという強い印象を受ける。天候はすごくよくて、大量のソーダ水とジンジャー・ビールが飲み尽くされた。一夜の宿泊にさまざまなホテルや簡易宿泊所が利用されたが、モリスとクロムは通常「箱舟」そのものの上で寝る方を選んだ。昼食は戸外で行ない、モリスが調理を担当した。数多くの小さな災難や冒険があった。彼らの舟が浅瀬に乗り上げたときなどは、「一行の男性全員が甲高い声で相反する命令を下した」が、ついにはダ・モーガンがどろのなかに飛び込み、舟を押して水面に浮かばせた。
ジェイニーもこの「箱舟」の旅に加わり、彼女は、舟のなかに「刺繍用のかけわくをも持ち込み、いまにも崩れそうな舟に足を踏み入れたり出たりし、見たところ前もって予約もせずに嬉々として小さな河畔の宿で眠り、そしてついには、残りの一行の到着準備を家でするためにオクスフォードからケルムスコットまで独りで旅をしたほどでした」。こうした旅行の実態を指摘することによってマーシュは、ジェイニーの「家庭内での役割が気まぐれで不機嫌な病人であるという一般的に引き継がれている考えを一掃するはずである」と、述べています。
〈ケルムスコット・ハウス〉へ引っ越し、父親の活動を身近に見ていたメイは、父親に倣い、芸術家になる志を立てたのでしょう。転居から二年後の一八八〇年に、メイは、サウス・ケンジントンにある国立美術訓練学校(一八三七年に設立されたデザイン師範学校は、一八五二年に中央美術訓練学校へと名称を変え、さらに一八六三年に国立美術訓練学校に改称します。一八九六年以降は王立美術大学の名称を使用し、現在に至っています。)へ入学し、描画と刺繍を学ぶことになり、そこでの勉学ののち、おそらく一八八三年に、父親の会社であるモリス商会の刺繍部門の一員に加わるのでした。