中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第八章 「地上の楽園」はいずこに

一.ジェイニーとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの愛の深化

モリスとジェインが湯治のためにバート・エムスに滞在していたこの時期、モリス夫妻のみならず、モリス・マーシャル・フォークナー商会もまた、危機的状況にありました。ビジネス・マネージャーのウォリントン・テーラーからフィリップ・ウェブに宛てた、以下の手紙が残されています。一八六九年七月に出されたのではないかと推定されています。

我々はこのことに決着をつけなければならない。誰しもが、彼のようにすることが許されるものか。ネッド、W・M、ゲイブリエルは、お互いにけしかけ合って、あらゆる浪費を煽っている。どれだけ子どもであればすむのだ。もうとっくに、どいつの頭にも、白いものが混じっているというのに。我らの貸借表は、W・Mを喜ばせる最後の一文が残るまでに、痛めつけられている……そんなことは恥ずべきことであり、子どもじみた行為だ……会社に、そしてW・Mとゲイブリエルに、手紙を書いたところだ。みなが、破滅への道を全力で走っている。礼儀正しさなどは、とっくの昔に消えてしまっている。

それからおよそ七箇月後の一八七〇年の二月に、テイラーは病死し、ジョージ・ウォードルが後任に就きます。しかし、経営がすぐさま改善することはありませんでした。テイラーが指摘する、一見すると浪費と思われる私生活が、存続するのです。

バート・エムスから帰国すると、モリスは、『地上の楽園』の第三部の出版に取りかかりました。それが公刊されると、モリスは、友人で詩人のスウィンバーンにも贈呈したものと思われます。スウィンバーンからの感想を受けて、一八六九年一二月二一日の手紙で、モリスは、お礼の言葉をこう返しています。「親切なお手紙とそのなかのご批評に感謝します。グッドルーンを気に入ってもらえて、うれしく思います」。「グッドルーンの恋人たち」は、「一一月」の二番目の物語で、『地上の楽園』の第三部を締めくくるものでした。そして重要だったことは、この物語の主題が、アイスランドの「レクスディーラのサーガ」にあったことです。今日にあっては、これをもって、この段階でモリスの関心が、西洋の古典から北方の文学へ向かった根拠とされています。

モリスは、スウィンバーンに宛てた一二月二一日の手紙のなかで、アイスランドのサーガ(中世の散文物語群)の翻訳についても触れ、このように伝えています。

  いま私は、アイスランド語の翻訳に従事していますが、これを前にすると、他のすべての物語は、すっかり影が薄くなってしまいます。……それはヴォルスンガ・サーガで、実のところニューベルンゲンの物語なのです。……ぜひともあなたにこの翻訳をお見せしたく存じます。いまやおおかた完成しています。間違いなくあなたは、心を動かされるものと思います。

アイスランド語とその地に残るサーガへのモリスの関心は、その前年の一八六八年の秋ころからはじまります。モリスにそれを教授したのが、エイリーカ・マーグヌースソンという人物でした。のちにモリスの娘のメイに宛てた手紙のなかで、マーグヌースソンは、最初のモリスとの出会いについて、以下のように語っています。

私は、約束の時間にクウィーン・スクウェア二六番地を訪ねました。お父さまとは玄関ホールでお目にかかりました。男らしい握手をしながら、お父さまは、「お目にかかれてうれしい。さあ、上へどうぞ」と、おっしゃいました。弾むような足取りで上階に上がっていかれ、私はそのあとについていき、書斎のある三階に着きました。……お父さまは、週に三回、私と一緒にアイスランド語を読むことを提案されました。一緒に読むのに、どのサーガからはじめたらいいのかをお尋ねになったので、私は、『ガーンラーイガ・オアムスツーンガーのサーガ』を推薦しました。

こうしてマーグヌースソンとの共訳で、一八六九年に、『グレッティルのサーガ(強者グレッティルの物語)』(エリス社)が上梓され、翌一八七〇年には、『ヴォルスンガのサーガ(ヴォルスングとニューベルングの物語)』(エリス社)が生み出されてゆきました。この二冊が、モリスにとっての最初の翻訳書で、その後も、翻訳の仕事は続きます。

中期ヴィクトリア時代の英国では、自由放任主義による産業化が進み、それによって、美しい田園は食い荒らされ、伝統的な街並みも醜悪の極みに達していました。すでに見てきましたように、モリスは、『地上の楽園』(第一巻)の最初の「三月」の導入詩のなかで、「煤煙が立ち込める六大陸を忘れろ/噴き出す蒸気とピストンの脈動を忘れろ/おぞましい町の広がりを忘れろ」と、怒りの声を上げています。病んでいたのは田園や街並みだけではありませんでした。モリス自身の心も病んでいました。「一一月」の導入の詩では、「なにゆえに心は病んでいるのか、疑いと思いやりとによってもはやこれ以上もがき苦しむことができないまでに」という表現でもって、心の闇を開陳しました。モリスにとってアイスランドの文学と文化は、そうした暗黒の状況に対しての一条の光となって、この時期のモリスに安らぎを与えたものと思われます。その後モリスは、一八七一年と一八七三年の二回、この地を実際に訪問することになります。

一九七〇年の三月の末までには、話し合いの結果として、そうでなければ暗黙の了解のうちに、醜聞を回避することを前提に何かが取り決められ、モリス夫妻は、ジェインとロセッティの愛情問題をそのまま認める合意に至ったのではないかと推量されます。これは、モリスとジェインの実質的な夫婦関係の停止を意味します。といいますのも、四月のはじめに、ジェインは家を出て、スキャランズでの滞在をはじめているからです。スキャランズは、サセックス州のロバーツブリッジの近くにある田舎町です。そこに、ロセッティの友人で、女性の権利の卓越した擁護者であったバーバラ・ボウディーショーン夫人が所有する、森に囲まれた小さな屋敷があり、ロセッティはその家を借りていたのでした。この地でのふたりの滞在は、少なくとも一箇月に及びました。四月一五日に続く、おそらく四月二六日の手紙ではないかと推定されている手紙のなかで、モリスは、スキャランズにいるジェインに、このように書いています。「再び、お知らせ、ありがとう。元気にしていて、とてもうれしい。それほどよくなるとは、ほとんど思ってもいなかった……」。驚くほどの、よき夫ぶりです。おそらく、「病弱」のジェインにとって、ロセッティと一緒にいることが、健康回復の最良の薬となっていたのでしょう。ロンドンへ帰る五月、ロセッティは、スキャランズに別の一軒の家を借りました。次の機会にふたりで暮らすための家でした。しかしジェインには、駆け落ちをするまでの勇気はなかったようです。あるいは、離婚が社会的に極めて困難であったこの時代にあって、「悪徳の妻」にさせないために、モリスが反対したのかもしれません。結局、家賃を払ったままで、ふたりの「地上の楽園」になることはありませんでした。モリスによって、ふたりの愛の巣が用意されるのは、それから一年後のことです。一方、スキャランズへ行くときも、そこから帰るときも、モリスはジェインに同伴しました。しかしこれは、あくまでの体裁と体面を繕うための夫としての振る舞いであり、モリスの内なる心が決して穏やかでなかったことは、想像に難くありません。

この時期、モリスに安らぎを与えていたのは、アイスランドの文学と文化だけではありませんでした。当時モリスには、心を開くことができたふたりの既婚女性がいました。ひとりは、ネッドの妻のジョージーで、もうひとりは、名をアグレイア・アイオニデス・コロニオといい、モリスと同年の一八三四年に、メアリー・ザンバコと同じような、ギリシャ系イギリス人の裕福な家庭に生まれました。このときすでに彼女は結婚し、ふたりの子どもをもっていました。アグレイアが生まれ育ったアイオニデス家の一族は、ラファエル前派の擁護者であり、また当時にあっては、モリス・マーシャル・フォークナー商会の支援者でもありました。

この年(一八七〇年)の四月二五日に書かれたのではないかと推定されている、モリスからアグレイア・コロニオに宛てた手紙が残されています。このときジェインとロセッティは、スキャランズに滞在していました。この時期のロセッティの作品に、コロニオを描いた肖像画がありますので、ジェインもロセッティも、コロニオとは旧知の間柄だったと思われます。その手紙の内容の一部は、次のとおりです。

  もしご在宅であれば、火曜日に伺います。そのときあなたに、梳毛の織物を持って行きます。

 ネッドがいうには、あなたは、チョーサーをどう読んだらいいかを知りたがっているとのこと、一巻ポケットに入れて持参します。失礼ながら、あなたを神秘へとお誘いいたします。……ちょうどいま、書評を書き終えたところです。――すわーつ――。

「書評」とは、何の書評なのでしょうか。そしてモリスは、「すわーつ」と奇声を上げていますが、その意味は、一体何だったのでしょうか。

ロセッティは、一八六二年に妻のリジーが亡くなると、哀悼の意を表して、そのひつぎに自分の詩のノートを入れました。多くはリジーの美質を歌ったものです。しかしその後、後進のモリスもスウィンバーンも詩人としての名声を勝ち得、画家のみならず詩人をも自負するロセッティとしては、独り取り残された状況にありました。そこで思い立ったのが、ひつぎに納められているノートを取り出すことでした。ロセッティは、直接手を下さなかったようですが、あろうことか妻のリジーの墓を荒らし、実際にノートを手に入れます。こうして、そこに書かれてあった昔の詩を書き写し、最近つくった新しい詩を加えて一著の原稿にまとめると、ロセッティの『詩集』は、一八七〇年の春に出版されたのでした。

しかしながら、実のところ、この『詩集』の刊行は、単に友人の詩人たちに対する競争心が主たる理由になっていたわけではありませんでした。もし、この数年の最近に書かれた詩だけで構成された詩集を刊行するとすれば、どのようなことになるでしょうか。その場合、読者や批評家たちによって、そのなかで描写されている女性、すなわちロセッティの愛の対象者が誰であるのか、そのことが詮索される事態へと発展する危険性が予想されたのでした。ロセッティは、ジェインとの相談のうえで、古い詩をカムフラージュに使い、『詩集』のなかの女性が誰とは特定できないようにして、密かに、そして巧妙にジェインへの愛を公表したのでした。事実、ロセッティは、この本の前書きに、次のような短い注釈をつけています。

この本に収められている詩の多くは、一八四七年から五三年にかけて書かれたものである。残りは最近の詩であり、その間に書かれたものも二、三ある。著者自身の未熟と考える詩は一編も含まれていないので、初期の作品を特定する必要はないものと思われた。

すでに引用しました、モリスからコロニオに宛てて出された手紙のなかに、「ちょうどいま、書評を書き終えたところです」という文言がありましたが、そこに言及されている「書評」とは、明らかに、ロセッティの『詩集』に対する書評のことなのです。この文言のあとに続く、モリスの「すわーつ」という奇声は、妻の恋人が出した本の、しかも妻への愛が告白されている本の、その書評を書かなければならない、夫たるモリスの悲鳴のごときうなり声として理解することができます。モリスにしてみれば、気の重い仕事であろうとも、書評を書くことは、妻とその恋人との愛情関係が周囲に悟られないようにするためのひとつの有効な便法となり得たのでしょう。おそらくコロニオは、そのことを十分に承知し、モリスが上げる叫び声を、温かく、そして愛情深く受け入れたものと思われます。

この書評は、創刊したばかりの、五月一四日号の『アカデミー』に掲載されました。そのころのモリスについて、マッケイルは、次のように伝えています。

その前月、彼はワッツの前に座り、こうして、よく知られることになる肖像画が生まれた。この絵は、生命と活力の最盛期にある彼を表現している。もっとも、そのときの以前にあって、すでに『地上の楽園』は、事実上彼の手を離れていたし、なすべきことを変えて、彼は気晴らしの方向へと進んでいたのであった。彼は、再び絵を描くことに時間を使うようになり、C・F・マリ氏のアトリエでしばらくのあいだ、モデルを置いて絵筆をとった。まもなくすると、彼の関心は、絵画から本の彩飾へと移った。二月には、自作の詩の本を美しく彩飾する仕事に取り組みはじめており、それは、バーン=ジョウンズ夫人に贈呈された。この作品は、一連の彩飾手稿本の最初のもので、彼は数年間、大いにこの仕事に没頭した。

マッケイルは、上の引用文のなかで、モリスにとってのこの時期を「生命と活力の最盛期」とみなし、そのときの一連の行動を「気晴らし」と表現しています。しかし、この時期のモリスが、「吹き荒れる感情の時代」を生きていたのは、紛れもない事実です。マッケイルも、その全容を承知していたものと思われます。しかし、その部分に関しては、周囲の人間の立場と思いに深い配慮を施し、虚偽とならない程度に、控えめで間接的で漠然とした表現を用いざるを得なかったものと推量されます。マッケイルの伝記作家としてのつらさは、同情するに値するものがあります。もし、マッケイルが、知り得た情報と入手できた資料のすべてを駆使して、モリスの全生涯を叙述していたならば、どのような伝記になっていたでしょうか。しかし、その一方で、本人にとっては不本意であったとしても、結果的に不完全な状態で留め置かれたことが一因となって、この一世紀以上にわたって新たなモリス伝記が持続的に出現してきたことも、また確かな事実なのです。もっとも、いうまでもないことですが、これまでに出版されたどの伝記も、その基盤となっているのが、マッケイルが一八九九年に上梓した『ウィリアム・モリスの生涯』(全二巻)であることに疑いを挟む余地はありません。

モリスからバーン=ジョウンズ夫人に贈呈された自作詩集の彩飾手稿本は、『詩の本』と題されたもので、現在、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に所蔵されています。そこで、この作品については、この博物館の関係者に語ってもらうのが一番であろうと思われます。一九八〇年当時、この博物館の館長を務めていたロイ・ストロングは、このような視点を提供しています。

  ウィリアム・モリスとエドワード・バーン=ジョウンズは、オクスフォードの学生のときに出会って以来、親密な友人同士でした。彼らは結婚し、双方の家族とも、何年間かは仲睦ましい夫婦関係が続いていました。しかし、一八六〇年代の末までには、それぞれの結婚生活が混乱のなかにありました。ジェイン・モリスは、ますますダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに熱中するようになっていましたし、一方、バーン=ジョウンズも、メアリー・ザンバコにうつつを抜かしていました。心が傷ついてしまったモリスは、ジョージアーナ・バーン=ジョウンズ(「ジョージー」)が耐えていた同じ傷に思いを寄せることができました。『詩の本』は、この時期のモリスの一番心の奥にある感情を十全に開示するものです。

また、同博物館の国立美術図書館の副館長を務めていたジョイス・アイアリーン・ホウエイリーの言葉の一部は、次のとおりです。

ウィリアム・モリスの『詩の本』は、一九五二年一二月二二日、ロンドンのサザビーにおいて「第九九番」の競売品として、競りにかけられました。この競りの案内文において、これには「貴重な印刷された本、自筆の手紙、歴史的文書等」が含まれ、内容物の一部は、J・W・マッケイル夫人の書斎から選別されたものであり、故サー・バーン=ジョウンズ准男爵と故レイディー・バーン=ジョウンズの両親から相続を受けた遺品が含まれることが明示されていた。この手稿本は、こうして、国立図書館の支援者の助けを受けて、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館によって競り落とされることになったが、それまでのあいだ、その家族の手に残されていたのであった。J・W・マッケイル夫人の結婚前の姓名はマーガリット・バーン=ジョウンズ、彼女の夫が、ウィリアム・モリスの伝記作家であった。……この手稿本は、一八七〇年八月のレイディー・バーン=ジョウンズ(当時にあってはバーン=ジョウンズ夫人)の誕生日にあわせて製作された。この作品は、紙に描かれており、彩色されたデザインで装飾され、表と裏の表紙は金の花模様のデザインが施され、ヴェラム皮紙によって装丁されている。

この彩飾手稿本の最後の頁を見ますと、自筆により、この本の成り立ちが示されていて、製作に際してバーン=ジョウンズ、チャールズ・フェアフェクス・マリ、ジョージ・ウォードルの三人が彩色や絵付けに協力していたことがわかります。また、所収されている二五編のうちの「クリステーンのバラード」と「息子たちの悲しみ」の二編の詩は、アイスランド語からの翻訳であることが述べられています。そして最後の三行には、「ウィリアム・モリス/クウィーン・スクウェア二六番地、ブルームズバリー、ロンドン/一八七〇年八月二六日」と自署されていました。さらにモリスは、二年後の一八七二年に、エドワード・フィッツジェラルドの『オウマー・カイヤームのルーバイヤート』を彩飾手稿本として書き表わし、ジョージーにプレゼントすることになります。

こうしたモリスからの思いに対して、ジョージーがどう応じたのかを明らかにする証拠となるものは残されていません。しかし、娘婿のマッケイルがモリス伝記を執筆するに際して、必要とされる多くの資料を提供したのがジョージーでしたし、一九〇四年に彼女が刊行した『エドワード・バーン=ジョウンズの思い出』において、「思い出」のもうひとりの主人公がモリスとなっていることも明らかです。ジョージーのモリスへの思いは、それらのことから推察するしかありません。他方、モリスとコロニオの関係については、マッケイルは、「愛情に満ちたもので、生涯続いた」とだけしか述べておらず、「愛情に満ちた関係」が具体的にどうであったのかは、現在のところ、その間にモリスが彼女に宛てて出した手紙の文面から推し量る以外に方法は残されていません。

『詩の本』に先立ち、すでにモリスは、一八六九年から七〇年にかけて『エアの住人たちの物語』に取りかかっていました。この本は、モリス自身によって翻訳されており、今日にあっては、モリスの最初の彩飾手稿本として認められています。それ以降一八七五年ころまで、モリスの翻訳による手稿と装飾の試みは続き、カリグラファーとしての才能が新たに発揮されるとともに、こうした一連の書体造りと本造りの経験をもってして、最晩年のケルムスコット・プレスの設立へとつながってゆくのです。

この年(一八七〇年)の暮れ、ジェインは、避寒地で有名なトーキーで、モリスの実の母と姉妹と一緒に過ごしています。この行動が何を意味しているのかはわかりません。このときジェインには、不貞を働いている罪深い妻といった自己認識など全くなかった可能性もあります。それでも、モリスの実家に、自分たち夫婦の不和が伝わるのを事前に遮断しておく必要があったのかもしれません。トーキーに滞在中のジェインに宛てた、一二月三日のものと推定されているモリスの手紙には、このように書かれています。

――生きることに関していえば、あなたがいっているような人びとは、鈍感さと無知の外皮を何かが突き破り、一時期まるで自分が感受性豊かな人間になったかのように行動する、そうした一度か二度彼らの人生に訪れる至高の瞬間を除けば、生の意味も死の意味もわかっていないのです――

 私には、心の痛みで人が本当に死ぬとは思えません……。

この箇所は、ジェインからの指摘に答えている部分ですが、ジェインからモリスに宛てた手紙が残されていませんので、指摘の内容も、モリスのこの返事の内容も、その意味は明らかではありません。最後は、こう結ばれています。「さようなら、愛しき君。身内の女性たちのみんなによろしく。あなたの最愛の夫ウィリアム・モリス」。そして、二日後の一二月五日に、続けてモリスは、ジェインに手紙を書き送りました。その書き出しは、こうです。「とくにここロンドンは天気が悪いので、あなたがそこにいるのは賢明だと思います」。

おそらく、スキャランズでの滞在を前にしたころ、ふたりのあいだで何らかの取り決めが交わされ、それ以降、モリスもジェインも、礼儀正しく、思いやりのある態度で、お互いに接していたにちがいありません。ロセッティの『詩集』にモリスが好意的な書評を書いたことも、トーキーにいるジェインに宛てて出された、優しさに満ちたモリスの手紙にしても、そのことが反映された結果によるものであると推量されます。しかしながら、それで問題の本質が解決されたわけではありません。この間、常にジェインには、「不実な既婚婦人」の烙印が押される危険性がつきまとっていたのでした。当時の「不実な既婚婦人」の末路について、マーシュはこう説明します。

もし既婚婦人がこのように公然と夫を捨てれば、社会から強い圧力がかかることになるだろう。そうなれば社交界に受け入れてもらえず、招待されることも、訪問を受けることもなくなるだろう。夫は離婚訴訟を起こすように勧められ、「不当な仕打ちを受けた」配偶者として、当然娘たちを不道徳な母親の影響から遠ざけるように求められるだろう。これが姦通に対する当時の罰則だったのである。

そこで、モリスとロセッティは、合法的にこの恋人たちが安心して一緒に暮らせる方法を考えたものと思われます。そこで得られた結論は、次のようなものでした。モリスとロセッティのふたりは、モリス・マーシャル・フォークナー商会の共同経営者です。そこで、共同して一軒の家を賃借し、その家に、共同経営者の妻と、もうひとりの共同経営者が、形式上それぞれに別の同伴者を伴って生活するというアイデアでした。そうすれば、世間からの不要な詮索もうまく回避することができ、好奇の目や糾弾の罵声に晒されることもありません。さっそく実行に移されました。一八七一年、オクスフォードシャーのテムズ川上流に沿ったケルムスコットの地に、一軒のマナー・ハウスが賃貸借の物件として出されていることを不動産会社の広告カタログで知ったモリスは、二度ほどその地を調べに行くと、ロセッティを共同賃借者として、その賃貸借契約書に署名することになるのです。こうして、事実上、妻のジェインと友人のロセッティの愛の隠れ家となる〈ケルムスコット・マナー〉が、モリスによって発見されたのでした。

二.「地上の天国」の発見とアイスランドへの旅

テムズ川の上流に位置するこの家は、オクスフォードから水路にして三〇マイル離れており、レッチレイドの小さな町からこの家までは、三マイルの田舎道が通じていました。現在の最寄りの鉄道駅はレッチレイドですが、その当時はまだここまで鉄道が延伸していませんでしたので、陸路でケルムスコットへ行くには、フェリンダン駅を降りて、馬車でバークシャーの丘を越えなければならず、長時間を要しました。

このマナー・ハウスは、南北に延びる建物の東側中央に玄関入口があり、その建物の北の端を真ん中にして、東西に延びる建物が連なっており、平面図的には、ちょうどHの文字の右半分に相当する形状で成り立っていました。造りは石造りで、一五七〇年ころに、ケルムスコットに住む、おそらくリチャード・ターナーによって建造されたものでした。

差出日が一八七一年五月一七日と推定されている、モリスからフォークナーに宛てた手紙に、〈ケルムスコット・マナー〉を発見したときの様子が書き記されています。

  妻と子どもたちが住むための家を見て回っているところです。いま私が、どこに目を移したか想像できますか。レッドコット・ブリッジから約二マイル離れた小さな村のケルムスコット――地上の天国だよ。ウォター・イートンのようなエリザベス時代の石造りの家で、すばらしい庭があり、川へも近く、船小屋があり、何もかもが手軽に使えるよ。土曜日に、ロセッティと妻を連れて、もう一度行こうと思っています。よさそうであればロセッティも、私たちと一緒にこの家を使うつもりでいるはずなので。

モリスは、「地上の楽園」ならぬ、「地上の天国」を、ケルムスコットのマナー・ハウスに見出しました。この田舎家がモリスにとっての真の「地上の天国」となるのは、数年先のことになりますが、当面は、ジェインとロセッティの愛の隠れ家たる「地上の天国」として機能します。準備が整うと、七月のはじめ、モリスはジェインとふたりの子どもと一緒に、ロセッティは、チェイニ・ウォークの自宅で雇っていたふたりの召使を引き連れて、〈ケルムスコット・マナー〉にやってきました。しかし、モリス自身はその地に留まることなく、さっそく、アイスランド・サーガの聖地を回る巡礼の旅へと出立してゆきます。数年前からエイリーカ・マーグヌースソンを個人教師としてその地の文学と文化を学ぶとともに、当地のサーガを一緒に翻訳出版し、加えて、サーガを原典として、自著の『地上の楽園』のなかにあっては「グッドルーンの恋人たち」について、その物語を叙述していたモリスにとっては、アイスランドはまさしく、この間に夢に見ていた「地上の楽園」でした。

モリスとフォークナーのほかに、マーグヌースソンとW・H・エヴァンズが加わり、この航海旅行は四人で構成されました。この旅の組織者で主たる案内役を務めたのが、マーグヌースソンです。そしてまた、彼にとってこのアイスランド旅行は、自分の故郷と親類宅を訪問する機会となるものでした。ドーセットのフォード修道院のW・H・エヴァンズは、最近知り合ったモリスの友人でした。彼は、それまでに自費でもってアイスランド航海を計画していたこともあり、今回の旅の趣旨や行程に賛意を示していました。マッケイルは、出発前の様子をこう書いています。

モリスは、少年のような喜びぶりで旅の準備に入った。一行が乗る馬や荷物を運ぶ馬を買うために、レイキャヴィックに送金されなければならなかったし、テント、毛布、食料、そして、あらゆる種類の用具類も購入されることになっていた。荒地での旅が詳細に想定され、事前にリハーサルがなされた。

人生ではじめて、この旅行でモリスは日記をつけました。このことに関して、同じくマッケイルは、こう伝えています。「日ごとその場所で書きつけられたこの日記は、本人の手によって帰宅後に丁寧に清書され、その後、それを出版にふすために再び書き改められて改訂された。しかしながらこの考えは、一度ならず熟考され延期され、最終的には、彼の人生の終末に向かうなかで自分の意思によって無に葬られた。ここに提供される記述は、一八七三年に彼からバーン=ジョウンズ夫人に贈られた改訂版の手稿から抜き書きしたものである」。かくして、マッケイルの伝記におけるモリスのアイスランド航海については、ジョージョーの手もとに残されていたモリスの旅行日誌をもとに記述されることになるのです。以下は、おおかたその概略的反復になります。

ひと足先に海路によりグラーントンの近くのリースまで行っていたエヴァンズを除く三人は、二週間ごとにグラーントンを出るデンマークの郵便船に乗るために、一八七一年七月六日、ロンドンを発ちました。その日記の記述者は、こう書いています。「その朝、私の心はくじけてしまっていた。家に留まらざるを得ないような出来事が起きればいいのにと思うほどであった」。エディンバラへ向かう夜行列車では、モリスは興奮してよく眠れませんでした。グラーントンの港へダイアナ号が入ってきました。二四〇トンほどの木造のククリュー船でした。そして翌朝、日が昇るとともに、いよいよアイスランドへ向けて出航しました。二日後の朝、フェロー諸島が見えてきました。朝食のあと下船すると、マーグヌースソンが知り合いの店に案内し、それからその店主の家に行き、奥さんがとても親切に歓迎してくれました。実にかわいらしい木造の家でした。清潔感にあふれ、白のペンキで塗られており、居間の壁は一面、大きな植木鉢から伸びるバラとツタで覆われていました。それから町に行くと、魚の匂いが立ち込めていて、モリスをとても喜ばせました。会う人はとても礼儀正しく、気性は穏やかで、満たされた顔つきをしていました。夕食を食べ終わると、ダイアナ号は錨を揚げ、目的地のレイキャヴィックへ針路を向けました。七月一四日の午後にレイキャヴィックに到着したモリスは、七月一六日の日付で、さっそく何人かに宛てて手紙を書きました。現在、妻のジェイン、ジェニーとメイの子どもたち、母親のエマ・モリス、そして、ジョージーの妹で、アルフリッド・ボールドウィンと結婚していたルイーザ・マクドナルド・ボールドウィンに宛てて出された四通の手紙が残されています。ちなみに、ルイーザの息子がのちに英国首相になるスタンリー・ボールドウィンです。

ジェインへの手紙は、次のような言葉で書き出されます。「さて、私の親愛なる人。こちらで私は、無事にしており、全く元気です。楽しみにしているのではないかと思ったので、子どもたちにも手紙を書きました。すべてが順調に進んでおり、明日、二〇頭の馬と一緒に活動を開始します」。フェロー諸島を離れるときの様子については、「最後の狭い入り江を出て大西洋に出る。影なき深夜の薄明りのなかに巨大な岸壁を船尾に見る。そのときの不思議な光景は、夢にさえ見たことがないものでした。これまでに見た何ものにもまして、それは私に、とても強い印象を与えました」と述べ、レイキャヴィックへ上陸すると、「マーグヌースソンの案内で、一軒の彼の親戚の家へ行き、とても清潔な部屋で実に快適な一晩を過ごし、潤沢な食事が提供された」ことも報告しています。そして、この手紙は、次の言葉で結ばれていました。

 愛しのジェイニー、どうかお健やかに。そして、私への手紙の約束を忘れないでください。イングランドへの帰りの船は、九月一日に出ます。八日ころに家に着きたいと思います(意味しているのはロンドンの家のことです)。そのときまだケルムスコットにいるようでしたら、すぐにも会いにそちらに行きます。

 御機嫌よろしゅう。すべての愛とともに、あなたの最も親愛なるウィリアム・モリス。

一方、ジェニーとメイの娘たちに宛てた手紙には、ここに到着するまでの経緯や、明日からの旅行に向けての準備の様子などについて触れたあと、最後に、以下のようなことが書き記されていました。このとき長女のジェニーは一〇歳に、次女のメイは九歳になっていました。

 ふたりとも元気で、お母さんの手伝いをし、そして、ケルムスコットで楽しく暮らしていることと思います。そちらは、私の話に出てくるアイスランドとは大違いですよね。この近くの草地で今朝摘んだ数枚のタイムの葉を同封します。周りには、たくさんのかわいい花々はありますが、全く木というものがありません。この近くには、灌木さえもないのです。しかし、山々はとてもきれいですよ。

 キッスと愛を送ります。小さいちゃんたち、さようなら。いまお母さんにも手紙を書いているところです。あなたたちの最も親愛なる父親ウィリアム・モリス。

妻と娘たちに宛てて手紙が出された次の日の七月一七日から、いよいよ一行のアイスランド冒険旅行がはじまりました。それは、四十数日間にわたる、極北の自然と直接向き合う過酷な旅でした。旅程についてマッケイルは、このように紹介しています。

採用された旅程は、偉大なるサーガの背景となった場所を訪ねることが主たる目的となって計画されていた。まず、南海岸のリゼンドとバーグトースノウルへ向かい、それから荒野を横断して北の海のフィヨルドへ出て、次に、山道を越えてレクスディーラへ。エレ民の土地であるスナイフェルスネス半島を回って、そして最後に、スィーングヴァートラーを経由してレイキャヴィックへもどる。

スナイフェルスネス半島を周回する途中で、湾に停泊中の帆船が一行の目に留まりました。船名をホールガー号というこのデンマークの船は、アイスファースからリヴァプールへ行くところでした。船長が、手紙を預かることができるというので、モリスは、急いでジェインに宛てて一筆したためました。八月一一日に出されたこの手紙のなかで、健康状態と訪問先については、おおかた次のように書かれています。

私はすごく健康ですし、精神的にもとてもよい状態にあり、馬での移動も大変楽しんでいます……天候がひどく悪いときでも、テントでの睡眠は実に快適です……この地でたくさんの驚嘆に値するものと幾つかの恐怖を感じるものを見ました。ニャール一族の屋敷の自家農園、ガーンナーの家、そしてハードホウルトで寝ました。ビジャージ、バスステッド、ボリが殺された場所を見ました。いま私は、グッドルーンが死んだホリーフェルから馬で三〇分のところにいます。そこへは昨日行きました……。

ここに記述されている訪問先は、『ニャールのサーガ』と『レクスディーラのサーガ』にまつわるものです。『ニャールのサーガ』の主人公が、ガーンナーです。一方、『レクスディーラのサーガ』の物語の主人公がボリで、女主人公が、バスステッドで生まれ育ったグッドルーンです。ボリは、グッドルーンが愛するキジャータンが彼女を見捨てたと、うまくだまして信じ込ませ、グッドルーンと結婚します。そのとき彼女は、前の恋人を殺すように夫をそそのかすのです。ふたりの男は親しい友人同士で、この物語はグッドルーンとその恋人たちによる「三角関係」が主題となっています。ふたりの男の死後、彼女はアイスランドで最初の修道女となり、亡くなった場所がホリーフェル(ホリーウェル)でした。

モリスからジェインに宛てた手紙には、さらにこのような話題も出てきます。「ここから眺める入り江には、小さな島が点在し、たくさんのワケタガモが繁殖していますし、昨日渡った入り江は、ハクチョウでいっぱいでした。小さい子たちによろしく。そして彼らに、私がかわいがっている灰色の毛をしたポニーを連れて帰ろうとしていることを伝えてください」。そしてこの手紙は、次の言葉で締めくくられています。

 さようなら、私の愛しい人。この間ずっと私が思いを巡らせていたのは、香り立つ鮮やかなケルムスコットの庭と、そこにいるあなたと小さな子たちのことでした。満たされていることを願います――。どうか、母親に、手紙でよろしく伝えてください。書きたいのですが、時間が切迫しているので――お元気で、愛を込めて。あなたの愛するウィリアム・モリス。

こうして一行は、アイスランド・サーガの舞台の地を訪問する巡礼の旅を終え、出発地点のレイキャヴィックにもどってきました。ここで、馬を売却し、博物館を見学し、そして、知事との夕食をともにしました。一行が乗船したダイアナ号は、予定どおりに、九月六日の夜、グラーントンの桟橋に接岸されました。

モリスがアイスランドに滞在していたこの期間、妻とふたりの子どもは、ロセッティとともに、出発前に賃借した〈ケルムスコット・マナー〉で生活していました。ロンドンに帰宅したモリスは、さっそくケルムスコットへ足を運びます。そして、二度目の訪問となる九月二三日には、モリスは、途中オクスフォードに立ち寄り、新居のために一艘のボートを購入し、そこから馬車で、美しい秋のテムズ渓谷を越えて、ケルムスコットへ向かいました。すでにポニーも、アイスランドから届いていて、子どもたちのお気に入りとなっていました。しかし、冬の寒さが忍び寄る前に、一団はロンドンへと帰っていきました。モリスはアイスランドで、一方ジェインとロセッティはケルムスコットで、それぞれが別々に「地上の楽園」に身を置いて楽しい時間を過ごした一八七一年の夏は、かくして暮れていったのでした。

それではここで、モリスのアイスランド旅行の意味につきまして、少し検討しておきたいと思います。従来からこの旅行は、現実の苦しみから逃れるための逃避行であり、この旅行によってモリスは、北方人にみられる忍耐力を獲得し、その結果、現実に展開されている自分の妻と自分の友人との愛情問題に耐え忍ぶことができたという解釈が一般的になされてきました。伝記作家のジャン・マーシュは、それに触れ、こう指摘します。

その地でモリスは、北方人の不屈の精神を見出し、そのおかげで結婚の失敗に耐えることができた、としばしばいわれている。

 それも間違いとはいえないが、明らかに彼とジェイニーはある種の調停に達していたにちがいない。そのうえ、モリス自身、自分を支えて慰めてくれる人たち――ふたりともたまたま既婚婦人であった――を見つけていたのである。

ここからマーシュは、この時期のモリスが、アグレイアとジョージーに親密な態度を示していた幾つかの事例を挙げ、それに続けて、次のように述べるのです。

 こうした事情を考えれば、アイスランドへの旅立ちは、ジェインを失い絶望に打ちひしがれ、そこから逃げ出すためにというよりも、ゲイブリエルと夏を過ごすことを妻に許すという凛々しい決断をしたのちまでもロンドンに留まっていたならば、社交界での彼の立場は困難なものとなっていたにちがいなく、したがってむしろ、そこから逃げ出すためだったかもしれない。

マーシュがここで指摘しているように、現状からの逃避願望もさることながら、例年家族とともに夏の休暇を過ごしていたこの時期に、別荘の〈ケルムスコット・マナー〉に妻子を残したまま、独りロンドンで仕事をするのも、周囲の目からすれば実に奇異なことであり、したがって、そうした社交界からの詮索に身を晒したくないという思いがあったとしても、これもまた、想像に難くありません。

一方、従来からの解釈にみられますように、まさしく中世の騎士道精神に則った清新な態度のうちに、ジェイニーとゲイブリエルの愛の隠れ家として〈ケルムスコット・マナー〉を用意したトプシーにとっては、もはやここに自分の居場所はなく、彼の心のなかに、この現状から逃れ出たいという気持ちが芽生えていたとしても、それもまた当然のことであったと思われます。実際、過去にもそれに似た事例が、婚約期間中にありました。フランスに滞在して留守をしていたときにゲイブリエルがオクスフォードにジェイニーを訪ねたことを知ったトプシーは、そのときは、食事と酒を過剰に摂取し、精神的に不安定な状況に陥り、再びフランスに姿を消したのでした。

しかし、いずれが理由であったにせよ、そうした状況に身を置いていたのであれば、たとい心を寄せるふたりの既婚女性がいたとはいえ、トプシーの心情は、決して穏やかなるものではなく、〈ケルムスコット・マナー〉でジェイニーとゲイブリエルがどのような暮らしをしているのか、そして、それを見聞きした人たちは、それについて陰でどう伝え合っているのか、心配は多岐にわたり、旅行中もそうした心労や心痛から逃れることはできなかったものと推量されます。しかしながら、マッケイルの伝記を読みますと、そこには、トプシーがジョージーに渡した旅行中の日記からの引用が多くみられるのですが、そのなかにも、さらに、アイスランドからトプシーが書き送った二通のジェイニー宛ての手紙にも、想像されるような嫉妬心や猜疑心のようなものは、その一片たりとも見出すことができないのです。実に清らかで、安らかな内容となっています。なぜなのでしょうか。

一方、『ウィリアム・モリスの――われわれの時代のための生涯』(一九九四年刊)の著者のフィオナ・マッカーシーは、モリスが、ゲイブリエルとジェイニーとふたりの子どもをケルムスコットに残して、アイスランドへ旅立ったことを、このような言葉で説明しています。

それは、この時代において――そして私たちの時代にあっても――社会的に普通とはいえない解決法であり、荘厳さの隣り合わせにあるモリスの高潔さであった。

しかし、マッカーシーは、「社会的に普通とはいえない解決法」へと行き着いた過程や背景についても、そしてまた、「荘厳さの隣り合わせにあるモリスの高潔さ」の由来や意味についても、いっさい分析することはありませんでした。むしろ、マッカーシーは、英国図書館に所蔵されている書きかけの断片的な詩の内容を根拠にして、こう推論します。「人間性に対するその人の情感ではなかったとしても、アイスランドにおいてモリスは、性的な意味における情欲を放棄したように見える」。そして、アイスランドからジェイニーに宛てた手紙については、次のように説明します。

これは、言語によって書かれた手紙であり、それ以降、ジェイニーとのすべてのコミュニケーションに使用される手段となるが、妻思いで、愛情に満ちている。そして、ジョージーや、この時期のアグレイアへ出された手紙において明らかなような、深い同情心を買うことなど期待できないにもかかわらず、ただただ信頼して心を開いた地点へと到達している。

他方、モリスの旅行日誌については、フィリップ・ヘンダースンは、自著の『ウィリアム・モリス――彼の人生、仕事、友人たち』(一九六七年刊、訳書題は『ウィリアム・モリス伝』)のなかで、こう語っています。

サーガの翻訳書にみられる仮装服のごとき散文体を読んだあとに、平易な現代英語をモリスが書いているのに遭遇すると、実に安堵の気持ちが込み上げてくる!こうした日誌類において、はじめて現実が漏れ現われ、モリスの書くもののかたちをなしているのである。

ここでのヘンダースンの指摘は重要であると思われます。ヘンダースンをほっとさせたのは、詩歌の世界にあってこそ中世人であろうとも、実際にはモリスは、いまを観察し表現しうる全き現代人であることへの気づきによるものでした。少々乱暴かもしれませんが、このヘンダースンの理解内容を少し単純化して、具体的な表現に置き換えてみます。すると、このような思いがよぎります。日誌と手紙のなかに認められる、あの穏やかで優しい記述内容が、このときの偽らざるモリスの心情であり、したがって、決して鉄仮面をかぶって心の内側を隠しているわけではなく、他方、これまでにモリスが詩歌のなかで歌い上げてきた「苦痛」や「悲痛」は、虚構世界のみにおいて上演されるところの、実は、壮大な一種の「創作劇」に近いものであり、したがってそのすべてが、現実世界に生きる、いまのモリスの心情のすべてを構成するものではないのではないか――。換言すれば、この段階に至ってモリスは、これまでの創作表現のなかに見受けられる、身を切り裂くような心的状態が幾分溶解し、実相のなかにあっては、あるとすれば、身を包み込むような別種の心的状況が出現していたのではないでしょうか。

この文脈に関連して、もうひとつ重要であろうと思われる言説が、上のマーシュの引用文のなかにみられる、「明らかに彼とジェイニーはある種の調停に達していたにちがいない」という指摘です。モリスが旅のなかで、あれだけ平穏な心情でいることができた背景には、ほぼ間違いなく、この夫婦のあいだに「ある種の調停」が、つまりは、共通の現状認識と対応策とが成立していた可能性があります。さもなければ、ゲイブリエルを加えた三者のあいだで「調停」へ向けて事前に話し合いの機会がもたれたか、あるいは、話し合うまでもなく、当然のごとくに無言のうちに、「調停」の階梯を上りきっていた可能性さえ、あるかもしれません。しかし、マーシュは、具体的にその内容については全く何も言及していません。

これまで、モリスの伝記作家が腐心したのは、なぜモリスは結婚の相手としてジェインを選んだのか、なぜロセッティは、モリスの不在中に婚約者のジェインのところへ行ったのか、そしてそこで性的な関係はあったのかなかったのか――そうした微妙な問題をどう解釈し、どのように記述するかという点にありました。そしていまや、このふたつの疑問に続いて、なぜモリスは、ジェインとロセッティの愛の生活を容認したうえで、アイスランドへ向かったのかという事象を読み解かなければならないのです。トプシー、ジェイニー、ゲイブルエルのそれぞれの人間性や生き方をどう見るか、とても難しい山場にさしかかったといえます。ここからは、ひとりの伝記作家としての独自の私的な推論になります。いうまでもなく、決定的な確たる証拠というものがあるわけではありません。したがって、幾つかの傍証から導き出された、あくまでもひとつの仮説ということになります。それではまず、「調停」が存在していたとして、その内実は何だったのか、そこから検討をはじめたいと思います。

この時代にあっても、現代にあっても、男女間の「三角関係」は、表に出しにくい負のイメージでとらえられがちですが、この三人の内なる思いのなかでは、いたずらに外に漏れ出ることは避けなければならなかったとしても、それなりに安定した、ある種居心地のいい関係が形成されていたのではないかと推量されます。といいますのも、画家であるゲイブリエルは、美の化身としてのジェイニーにぜひともモデルを務めてほしいと願い、一方の詩人としてのトプシーは、苦しみを言葉に吐き出すうえでの霊感をジェイニーの振る舞いのなかに見出していたからです。ジェイニーを必要とする両者の置かれている思いや立場は同等であり、それを互いに対等に認め合う地平に立つことによって、かくしてふたりは、いがみ合って、どちらかの一方がジェイニーを得るという、「競合」の道を避け、仲よく理解し合って、双方ともがジェイニーを得るという、「共有」の道に達したものと思われます。なぜ、いがみ合うことなく、仲よく理解し合うことができたのでしょうか。キーワードは、「ブラーザーフッド(兄弟団)」という観念です。

ゲイブルエルが自らのグループに与えた名称が、「ラファエル前派兄弟団」でしたし、モリスは学生時代の交友関係を「兄弟団」と呼び、一時期、男子修道院の建設を夢見たこともありました。六歳違いのそれぞれの男が、「兄弟団」の内容をどのようなものとして考えていたのかは、正確にはわかりませんが、ここへ至って、ひとりの女性を巡る男同士の振る舞いと決断が、それをうまく表わしているように思われます。ゲイブリエルとトプシーの関係は、このとき、「兄弟」という双方の意識下において成立していた可能性があります。他方、ジェイニーはどうだったのでしょうか。ふたりの男性から求められることは心地のいいことであり、ふたりが情熱的に語る中世幻想の女主人公になることもまた魅惑的なことであり、それぞれの男の求めに応じて、自分の及ぶ思いの範囲にあって、それぞれに分け与えたのではないでしょうか。したがってここには、「不貞」も「姦通」もありません。ひとつの共同体が、緩やかな和みのなかに生み出されているのです。もっとも、そうはいっても、明らかに夫たるモリスの心のなかには、言葉に出しえない苦しみが残存していたではないかという洞察も、当然のこととして、排除はできないものと推察されます。

以上のような仮説をつくることで、旅行日誌については再検討の余地が残されているかもしれませんが、少なくともモリスがアイスランドから出したジェニー宛ての手紙が、いかに安寧のうちに書き記されたものとなっているのかが説明可能となります。そしてそのことは、モリスがアイスランドへ旅立つときまでには、「吹き荒れる感情の時代」は一応の収束へと向かい、新たな次の感情の時代へと、モリスは足を踏み入れていたことを明示します。

それでは、三人の思いが一致したのは、実際にはいつころのことだったのでしょうか。おらくそれは、モリスが『地上の楽園』をほぼ脱稿したころであり、具体的には、ジェイニーとゲイブリエルがスキャランズで一緒に過ごし始める一八七〇年四月の少し前のことだったと推量されます。このときの話し合いによって、トプシーとジェイニーは、実質的な夫婦関係を解消し、この時点で両者の関係は、いままで以上に形式的で遠慮がちなものになったのではないかと思われます。そのあとしばらくして、『地上の楽園』の最終巻が刊行された一八七〇年の暮れか翌年のはじめころから、再び話し合いがもたれ、一時的な宿ではなく、長期的にジェイニーとゲイブルエルが一緒に暮らすための家のことが話題になったものと考えられます。それ以降、実際にモリスは、ジェイニーとゲイブリエルの生活の場となる屋敷を探し始め、同時に、自身が憧れを抱いていたアイスランド・サーガの舞台を巡る計画に着手したのではないでしょうか。すでに紹介していますように、一八七一年五月一七日と推定されている、モリスからフォークナーに宛てた手紙に、次のことが書き記されています。「妻と子どもたちが住むための家を見て回っているところです。……レッドコット・ブリッジから約二マイル離れた小さな村のケルムスコット――地上の天国だよ。……土曜日に、ロセッティと妻を連れて、もう一度行こうと思っています。よさそうであればロセッティも、私たちと一緒にこの家を使うつもりでいるはずなので」。これが、トプシーとジェイニーとロセッティの三者が、話し合いのなかで家探しに合意していた根拠となる部分です。ここから判断しますと、三人の胸の内には、次のようなことが描かれていたのではないでしょうか。つまりそれは、〈ケルムスコット・マナー〉がトプシーとゲイブルエルのふたりの「兄弟」によって賃借され、「兄」はここに残り、「弟」は妻と子を「兄」に預け、そして、夢かなって、「弟」は巡礼の旅に出るという構図です。この構図に妥当性はあるのでしょうか。このストーリーは、あくまでも当事者の三人が共同して、その当時、中世風の幻想世界のなかに生きていたことが前提となって組み立てられています。

少し振り返ってみたいと思います。ゲイブリエルが計画した一八五七年秋のオクスフォードでの壁画製作の主題が、「アーサー王の死」でした。そしてそのあとに、トプシーが油彩で描いた作品が《麗しのイゾルデ》でした。前者は、アーサー王の妃のグウェナヴィアと、騎士のラーンスロットの不義の愛を、後者は、マルク王の妃のイゾルデと、騎士のトリスタンの不義の愛を描くもので、いずれの物語も、いわゆる「三角関係」をなす悲恋が物語の構造をつくり上げています。さらに一八六八年になると、ロセッティはジェインをモデルにして、シェイクスピアの『尺には尺を』から主題を得て《マリアーナ》の製作を、そして、ダンテの『煉獄編』から主題を得て《トロメイのラ・ピア》の製作を開始します。一方モリスは、同じその年からアイスランドのサーガに関心を抱き、数編の翻訳書を出版するとともに、あわせて、『地上の楽園』の第三部において、『レクスディーラのサーガ』を原典とする「グッドルーンの恋人たち」の物語を発表するのです。ふたりの、こうした一連の恋愛に関する興味の流れは、何を意味するのでしょうか。ある意味でこれは、ふたりにとって、過去において主題となった典型的な恋愛の形式を歴史から学び取る作業であって、ここから得られた霊感と幻視を、ゲイブリエルは絵画の世界に、トプシーは詩の世界に持ち込んでゆき、しかも、ふたりはそれを、虚構の空間に閉じ込めることなく、境界を越えて、実際の男女が織りなす現実空間へまで招き入れたとは考えられないでしょうか。もしそうであれば、つまり、ふたりがそのように認識していたとすれば、憧れる中世的な恋愛の幻影を自分のもとへと必死にたぐり寄せ、その結果、次第にそれが自身の現実の愛の形式となったことについて、何ら疑問に思うこともなく、まして後悔するようなこともなかったものと思われます。むしろ、このときのふたりには、世間の常識や規範はどうであれ、「三角関係」という愛情構造の歴史的反復性ないしは歴史的模写性の現在化に対する、一面ではある種の何か喜びに近いものがあったのではないかとも想像できるのです。

以上において述べてきましたことは、なぜモリスは、ジェインとロセッティの愛の生活を容認したうえで、アイスランドへ向かったのかという事象に対しての、あくまでもひとりの伝記作家としての仮説です。その一方でこの推論には、マーシュが指摘した「明らかに彼とジェイニーはある種の調停に達していたにちがいない」という見解についての、他方、マッカーシーが指摘した「社会的に普通とはいえない解決法であり、荘厳さの隣り合わせにあるモリスの高潔さであった」という見解についての、考えられうる個人的な蛇足としての機能ももたせています。

さて、すでに紹介していますように、いみじくもヘンダースンは、「こうした日誌類において、はじめて現実が漏れ現われ、モリスの書くもののかたちをなしているのである」と述べました。日誌には、過酷な自然体験と、そこから見出された自己認識の文言が散見されます。以下に二例、ヘンダースンが著した伝記に引用されている箇所から短く部分的に借用します。

『ニャールのサーガ』の舞台となった南海岸のリゼンドの近くのマークフリートの谷を登っていたときのことでした。

私にとっては、まさしく、「それを見たいがためにやって来た」ようなものだった。それにもかかわらず、その瞬間私は震え上がり、二度と帰れないのではないかといった感じを覚えた。それでも、そうした感覚の一方で、喜びの感情もまた、沸き起こってきた。そして私は、あらゆる困苦のもとに生きていた人びとが、いかにして、この光景のなかにあって自分たちの想像力を燃え立たせようとしたのかが理解できたような気がした。

次は、南海岸から北の海岸を目指して内陸部の荒地を踏破していたときのことです。一行は、『グレッティルのサーガ』の舞台となったソーリズデイルの方角に向けて登り始めました。

私たちの右手には、地肌をむき出しにしたのこぎりの歯のように連なる山々がそびえ立っていた。四方はすべて雲に覆われ、ときおり雲が押し流されると、恐ろしくて近づきがたい切り立つ峡谷と閉ざされた渓谷とがその姿を現わしてきた。いっさいその周りには草地の痕跡がなく、そうした谷間をぎざぎざの尾根と切れ目をもつ絶壁とが取り囲んでいた。これが、長い旅の全工程にあって、私が見た最も恐ろしい山の光景であったと思う。

こうした文章に接すると、トプシーのアイスランド訪問は、逃避行としての一側面は残しながらも、結果としては、夢幻から現実へ向けての最初の覚醒の旅だったのではないかという気持ちにさせられます。夢であれば、遅かれ早かれいつかは覚めます。三人にとって最終的な目覚めが訪れるのは、いつでしょうか。それは、何らかの理由で、これまで安定していた「兄弟団」のきずなにひびが入るときにちがいありません。あるいは、トプシーが詩人を、ゲイブリエルが画家を諦め、ジェイニーが両者のインスピレイションの対象とならなくなったときかもしれません。これらのことは彼らにとって、歴史主義的な愛の「三角関係」の瓦解であると同時に、恋愛形式の「中世復興」の崩壊を意味します。いずれにせよ、まさしくそのときに、もうひとつの新たな「現実」が登場するのです。この真なる現実世界に立たされたとき、三人はどのような振る舞いに、人生の進路をとることになるのでしょうか。「死」あるいは「反復」なのでしょうか、それとも「再生」、つまりは「革命」なのでしょうか。

このアイスランドへの旅から一二年後の一八八三年のはじめ、モリスは民主連盟に加わり、ロンドンに亡命していた家具デザイナーで社会主義者のアンドリアス・ショイに出会います。その年の九月五日(あるいは一五日)にショイに宛てて出されたモリスの手紙には、自分の生い立ちから民主連盟に参加するまでの経緯が簡潔に述べられており、そのなかで、アイスランド旅行の意義をこう記しています。

 一八七一年に私は、マーグヌースソン氏とともにアイスランドへ行きました。そして、その地の非現実的な荒野を見る喜びとは別にして、そこで私は、ひとつの教訓を学び、徹底的に自分のものにしたいと思いました。その教訓とは、階級間の不平等に比べるならば、大多数の過酷な貧困など、わずかな害悪でしかない、ということでした。

これからトプシーとジェイニーの物語の後半部分がはじまります。そこには、ゲイブリエルを含む三人三様の覚醒のプロセスが含まれます。後半の記述のなかで、ここでつくり出された独自の私的な仮説が、どの程度の実際性があるのかが、少しずつ判明してゆくものと考えます。

それではとりあえず、舞台を〈ケルムスコット・マナー〉に移し、トプシーがアイスランドに滞在していた約二箇月のあいだ、ジェイニーとゲイブリエルは、その田舎家でどう暮らしていたのかを起点とし、その後、中世的な「三角関係」の愛の形式がどのようにして終局へ向かうのか、「グッドルーンの恋人たち」ならぬ「〈ケルムスコット・マナー〉の恋人たち」と題して、次章においてその物語を叙述してみたいと思います。