中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第一五章 社会主義同盟の創設と社会人メイの誕生

一.社会主義同盟の創設

一八八四年一二月二七日の土曜日の午後六時からはじまった社会民主連盟の執行委員会において、モリスとその仲間たちは連盟を脱会しました。モリスは、翌日の二八日にショイに宛ててさっそく手紙を書き、その会議の結果について報告をしています。そして、その手紙の後段において、エドワード・エイヴリングの誘いを受けて、その会議に先立って、エンゲルスを訪ねていたことに触れています。因みに、ここにみられる描写が、手紙のなかでモリスがエンゲルスに言及する最初の記述です。

エイヴリングは、土曜日の重要な仕事にかかわって、エンゲルスの所に一緒に行くように、私を誘いました。私は、何のためにそうするのかという疑問よりもむしろ、不愉快な気持ちでした。エイヴリングは私に、『コモンウィール』についてだよ、といいました。……エンゲルスは、私たちは政治的な知識にもジャーナリズムの技術にも弱く、ごみのようなもので紙面を埋め合わせる結果となりかねず、実際のところ週刊紙としてうまく発行し続けるのはとても困難であることに気づくのではないかといった内容のことをいったと思います。私は、エンゲルスに譲歩するつもりはないのですが、彼の助言は価値があるものと認めなければなりません。

こうして、新しく設立する社会主義同盟の情報宣伝紙として考えられていた『コモンウィール』は、一八八五年二月から一八八六年五月一日までのあいだ月刊紙として生み出されることになるのでした。この間、編集長をモリスが、副編集長をエイヴリングが担当します。これ以降、この機関紙は週刊紙となり、このとき、副編集長もエイヴリングから、のちにメイの夫となるヘンリー・ヘリディ・スパーリングへ引き継がれました。費用は、ほとんどがモリスの私財によってまかなわれました。一八八五年の二月のはじめに初号が刊行されます。マッケイルは、次のように書いています。

 コモンウィールの創刊号に全文印刷された社会主義同盟の宣言文には、断固たる用語を用いて、社会基盤の完全なる変革が明言されている。……同盟は一八八四年一二月三〇日に発足し、仮事務所をフェリンダン・ストリート二七番地に置いていることが示されている。

マッカーシーの書くところによると、番地の表示は「三七番地」となっています。そしてまた、この仮事務所は、「一八八五年の夏に、フェリンダン・ストリートの北にあるフェリンダン・ロード一一三番地へ移転した」とも書き記しています。新しい本部事務所には、印刷室と大きな集会室が備えられており、それ以降、機関紙のみならず、各種パンフレットも、ここで印刷されました。

社会主義同盟が発足すると、機関紙の刊行だけではなく、集会活動や支部活動も積極的に展開されてゆきました。エジンバラではショイが、また、オクスフォードではチャーリー・フォークナーが中心となって活動していました。創刊号が世に出た二月、モリスは、エイヴリング夫妻と一緒にオクスフォードへ行きます。モリスには、一年数箇月前の一八八三年一一月にこの地で行なった講演「芸術と民主主義」のことがまだ記憶に残っていたものと思われますが、今回は、それ以上の大荒れとなりました。前回にもまして、社会主義に敵意を示す人が多く存在していたからです。以下は、二月二八日のジョージーに宛てて出されたモリスの手紙の一節です。

もちろん、彼らは、しかるべき宣伝ビラに怒鳴り声を上げ、踏みつぶしました。われわれの側の人間は、歓喜の声を上げました。そのようなわけで、その集会は、とてもおもしろいものになりました。

続く三月発刊の第二号には、エンゲルスの評論文「一八四五年と一八八五年のイギリス」に加えて、詩的な語りでもって叙述されたモリスの「三月の風のメッセージ」が掲載されました。これを最初の場面として、全一三の場面で構成されることになる物語詩『希望の巡礼者たち』が、それ以降、断続的に、翌年(一八八六年)の七月まで『コモンウィール』に連載されてゆくのです。この詩の山場は、三人の主人公(夫、妻、夫の親友)がフランスへ赴き、コミューンに参加する場面です。その過程でふたりは死亡し、その後、夫のリチャードは英国へ帰り、そこで息子を育て、闘争を続けます。これは、ひとりの政治活動家の話でありますが、妻と友人の恋物語として読むことも可能です。モリスの政治的な苦悩と家庭生活上の孤独とが重なり合って、またしても、こうした筋書きのなかに、一種の自虐的三角関係が表出されていると考えても差し支えないのではないでしょうか。のちに娘のメイは、こうした「三角関係」が念頭に置かれていたかどうかは別にして、父親のこの物語詩について、「この作品は、悲しみと怒り、そして、いま見ているものと見抜かれているものへの反抗のなかにあって書かれました」と、述べています。

第一場面の「三月の風のメッセージ」と題された詩が『コモンウィール』に掲載される少し前の二月二日に、妻のジェインは、メイを伴って、再びハウアド家の招待客となってイタリアのボーディジーエラへ向けてロンドンを出立しました。モリスは、二月一〇日に、ジェインに宛てて手紙を書き、「五千部が売れました。いま、第二版です。私は、次の号のために一編の詩を書きました。悪くないと思っています」と伝えます。一方のジェインは、二月一二日に、到着したボーディジーエラから、二年前に知り合い、ロセッティ亡きあとの新しい恋人となっていたウィルフリット・スコーン・ブラントに宛てて、次の内容の手紙を出します。「私はあなたのことを何度も思い浮かべ、あなたに会ってお話をしたり、一緒にこの渓谷を歩き回ったりできればいいと思っています」。ほぼ同時期に出されたこの二通の手紙の内容から、夫以外の男性に向けられたジェインの喜びの気持ちと、機関紙の販売と編集に苦闘するモリスの気持ちのあいだに、大きな断絶が横たわっていることが、はっきりと見て取れます。『希望の巡礼者たち』には、そうした意識下の断絶の深部が投影されているのかもしれません。

この作品に続き、同じくモリスは、自分が編集する『コモンウィール』を発表の場に使って、一八八六年から翌年にかけて『ジョン・ボールの夢』を、そして、一八九〇年に『ユートピア便り』を書くことになります。『希望の巡礼者たち』が革命に生きようとする現代の人間を扱っているとすれば、『ジョン・ボールの夢』に登場する主人公は、中世における農民一揆の指導者です。そして、最後の『ユートピア便り』においてモリスは、革命後の未来の人びとの生きる様子に思いを馳せることになります。このように、この三つの作品にあって、現在、過去、未来の異なる時制のなかでの共通した革命にかかわる主題が選び取られているのです。その意味で、この社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に掲載されたこれらの代表作品は、詩人にしてデザイナーであるモリスが、一九世紀という同時代に生きる、いかなる種類の社会主義者であったのかを、そしてまた、人類の過去と未来へ縦横に視線を注ぐ、いかなる変革のヴィジョンを有する人間であったのかを読み解くうえでの、キー・テクストとなる役割を担うものでした。一八八五年から一八九〇年までのおよそ六年間のモリスの世界は、家庭生活を別にすれば、マートン・アビーでの経営者かつデザイナーとしての仕事はいうに及ばず、こうした物語詩や散文物語の執筆に加えて、社会主義同盟の組織運営、機関紙の編集、イギリス全土へ向けての講演旅行、そして、集会やデモといった政治行動への参加によって構成されていました。まさに超多次元的な領域がひとつの時空となって、モリスは、自己の全エネルギーをその世界へと注ぎ込んでゆくのです。それでは、その様子を、時間軸に沿いながら、さらに以下に見てゆきたいと思います。

『コモンウィール』の三月号に「三月の風のメッセージ」を寄稿したモリスは、翌四月には、スコットランドへ講演旅行に出かけます。エジンバラとグラスゴウでの社会主義に関する講演を終えたモリスは、ミルソープのエドワード・カーペンターの家に立ち寄り、ここから、四月二八日にジョージーに手紙を書きました。

私は、列車のなかで、『ロンドンのその後』を読みました。かなりの好感をもちました。読んでいるとき、ばかげた希望が、心のなかで渦巻きました。

モリスが読んだ『ロンドンのその後、つまりは、野蛮なイギリス』は、この年、リチャード・ジェフリーズによって出版されていたもので、名状しがたい大惨事が文明を破壊したのち、イギリスが野蛮と未開の状態へ再びもどる様子を描いた作品です。マッケイルは、「それ以降、モリスが飽きることなく賞賛した」本として、記述しています。この本が影響を及ぼして、モリスはその逆の世界を夢想し、その結果が、『ユートピア便り』に結実した可能性も、これまでにしばしば指摘されているところです。

すでにこの時期、社会主義の集会を取り締まる警察の力は増大していました。五月九日、官憲によるはじめての襲撃が発生しました。対象となったのは、トッテナム・コート・ロードのスティーヴンズ・ミューズにある国際社会主義労働者クラブでした。建物を壊して侵入し、家具を破壊し、本を没収し、四五十人の会員の身柄を拘束しました。このとき、ロンドンで活動する社会主義の各団体は、それまでの意見の違いを超えて団結し、相互に助け合いました。モリスを財務委員とする弁護団が結成されました。社会主義同盟は、嫌がらせを受けていた社会民主連盟に救いの手を差し伸べました。こうして、九月二〇日、自由な言論の権利を支持する一万人の群衆がドッド・ストリートに結集しました。この場所は、これまでしばしば政治的集会に使われた通りでした。警官が監視するなか、社会主義同盟も、社会民主連盟も、それぞれにその通りの一角に陣取って、演説を繰り広げました。集会も終わり、解散しようとしていたそのときです、警官が急襲し、旗をもったふたりを捕まえると、隊列から排除しました。結局、八名が逮捕され、その多くは、言論の自由を訴える運動の指導者たちでした。

翌日、心配したモリスは、テムズ警察裁判所の傍聴席にいました。治安判事のトマス・ウィリアム・ソーンダズは、警官を蹴とばしたという罪により、ユダヤ人の仕立職人のルイス・ライアンズに二箇月の重労働を言い渡しました。すると、ただちに「恥さらし」の怒号が飛び交い、法廷内が騒然となりました。そのとき、激怒したモリスは、騒ぎを鎮めにかかったひとりの警察官に暴行を加え、ヘルメットを破損させたかのように、受け止められてしまいました。そのためモリスは、混乱を発生させたという理由で逮捕され、それから二時間後、モリスは、ソーンダズの前に立つことになるのでした。モリスは、警官への暴力をきっぱりと否定しました。以下は、治安判事のソーンダズと、被告人モリスの、『デイリー・ニューズ』に掲載された質疑の様子です。

ソーンダズ氏――証人はいますか。……

モリス氏――現場を見ていた人がここにいるかどうかはわかりません。……すべてを告白いたしますと、被告人たちに判決が下されるのを聞いたとき、感情が昂ってしまって、私は、「恥さらし」と実際に叫びました。……そのとき、その警察官がやってきて、私をはっきりと押さえ込みました。押されれば、当然ながら押し返します。しかしながら、これは、警察に対する反抗ではありません。私は振り向いて、その警察官に抗議はしましたが、手を上げることはなかったと、はっきりと言明します。……

ソーンダズ氏――あなたの職業は何ですか。

被告人――私は、芸術家で、文学者です。ヨーロッパ中に、その名はかなり知れ渡っていると思います。

ソーンダズ氏――想像するに、あなたには、そのようなことをする意図はなかったのかもしれませんね。

被告人――決して私は、彼を殴ったりなんかしていません。

ソーンダズ氏――それでは、出て行ってもらいましょう。

被告人――しかし私は、何もしていないのですよ。

ソーンダズ氏――そうですか、お望みであれば、ここにいてもらっても、いいのですが。

被告人――いたくなどありません。
そこで彼は解放され、通りに出てゆくと、その場に集まっていた群衆から大いなる拍手喝采を浴びた。


それから三日後の九月二四日に、モリスは母親に宛てて手紙を書きました。

ジェイニーとジェニーは、まだケルムスコットにいます。メイは私と一緒です。ジェニーはとても元気だったのですが、つい最近、発作が襲い、彼女は衰弱しています。……警察裁判所の件につきましては、ほかの何ものにもまして、私には、むしろひとつの楽しみ事のようなものでした。

一〇月二六日、モリスはジェニーに手紙を書きます。

 ごめんなさい、明日あなたの所に行くことができません――痛風はひどくないのですが、それが原因で、両足ともがそうなので、全く足の自由が利かないのです。……昨晩は、ここで実に楽しい集会が開かれましたが、もちろん私は、参加できませんでした。本当に、地に片足をつけることさえできないのです。食事の部屋とこのソファとのあいだを車いすで行き来しています。

一〇月三一日、今度はジョージーに、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉から手紙を書きました。「ここでまだ仰向けになって寝ています。段々とよくなっていて、とくにひどい痛みはないのですが」。まだ十分に回復していないようです。その原因について、こう説明します。「集会やそんな所をうろつき回ったからだとは思いません。食事についての無頓着さにあり、しっかり管理をしなければなりません」。さらに続けて、こうもいっています。「ご存じのとおり、私は運動に加わっており、もちこたえられるあいだは、できることはしなければなりません。これは、義務の問題です。それに加えて、半ば無政府主義者である私たちには自己否定の規律があるのですが、それにもかかわらず、悲しいことですが、私は、何らかのリーダーシップのようなものが必要であるといわなければならないのです。私たちの組織では、不幸にも私が、その不足部分を補っているのです」。明らかにモリスが、この組織のリーダーでした。そして、自分たちのことを「半ば無政府主義者」(アナーキスト)と呼んでいます。ここから、モリスが議会制に対して不信を抱いていたことがわかります。この手紙の後段で、モリスは、「革命」について、はっきりと口にするのでした。

人は、希望へと方向を変えなければなりません。ひとつの方向においてのみ、私はそのことを見出しています。――つまりそれは、「革命」へ向けられた道です。それ以外のどの道も、いまや潰え去りました。そしていま、ついに社会は完全に腐敗したように見えます。ここに至って、ある程度公式化された要求のもと、新しい明確な秩序概念が生まれ出ようとしているのです。

その後、外出ができるようになったのでしょうか、ブライトンの近くのロティングディーンにあるバーン=ジョウンズ夫妻の別邸に、モリスとジェインは滞在します。次は、その地から一二月五日に母親に出した手紙です。「およそ二週間、ジェイニーとともに私はここに滞在しています。回復に向かっており、実際、ほぼ全快の状態にあります」。

こうしてロティングディーンでの静養のおかげもあって、持病であるとはいえ、おそらくモリスの痛風は、何とか改善されたものと思われます。しかし、何と二箇月近くも歩くことができず、公的活動から遠ざかり、自宅に閉じこもらなければならなかったことは、このとき五一歳になっていたモリスに多くのことを考えさせる機会となったものと想像されます。おそらくそのひとつは、デザイナーとして、政治活動家として、さらには詩人として、今後どのように活動の場を切り開くのかという問題であり、また別のひとつは、家庭人として、どうジェニーの病気に向き合うのかという問題だったと推量されます。とくに後者の問題につきましては、自分の健康問題とも深く関係していました。モリスの父親は短命で、早くも学生時代に亡くなっていました。そしてさらに、前の年には、弟のトマス・レンダル・モリスが四五歳で早逝し、不幸にも八人の子どもたちが遺児となっていました。もし、自分がいま病死すれば家庭はどうなるのか、モリスがそう考えたとしても不思議ではありません。そうなれば、収入の道は途絶え、とりわけ、難病を抱えたジェニーの将来にさらなる暗雲が立ち込めることになります。そうならないために、モリスは自分の健康を強く願ったでしょうし、それに加えて、いつかは遺されることになる家族のために、それなりの資産を形成しておく必要性を考えていたにちがいありません。

この時期のモリス家は、大変倹約に励んでいたことが、モリスのジョージーに宛てた手紙からわかります。次は、前年の一八八四年六月一日に出された長文の手紙のなかからの抜粋です。

 さて、ご存じのとおり、私は自ら自営業を営み、もし私がいなければ、あるいは、私のような人間がいなければ、業務は進行しません。そのため、なされた業務に対して私には一、八〇〇ポンドが支払われます。そして、その業務を管理した費用として、私は、週四ポンド、つまりは年間二〇〇ポンドを要求してもいいでしょう。そうすれば、一、六〇〇ポンドが残り、利益の配分に上乗せして、私が雇用している一〇〇人のあいだで……したがって、ひとり一六ポンドが分配されることになります。……もし私が死んだり、体が不自由になったりすれば、年間二〇〇ポンドで私に代わって業務を引き継ぐ人材を見出すのは不可能です。……

 書き落としていましたが、私の立場は複雑で、次のふたつの実収入があります。一番目は、およそ一二〇ポンドの執筆による収入があることです。二番目は、家族と呼ばれる協同経営者たちがいることです。いまや私にわかっていることは、週四ポンドで生活を成り立たせ、執筆料は革命運動に充当されなければならないということです。……もしジェイニーとジェニーが全く健康で、有能でありさえすれば、いまいいました四ポンドで生活をすることに不平をいうべきではありませんし、そんな不平をいう人たちではないと思います。

家族の共同経営者の数と年間の配当額が正確にわかりませんので、モリス家全体の年収は、推し量るしかありません。もし仮に、共同経営者が妻とふたりの子どもだったとして、その三人に対して総額で六〇〇ポンドが支払われていたとすれば、家庭年収は、およそ九二〇ポンドということになります。この額は、いまの通貨に換算して、いくらくらいだったのでしょうか。一八八五年二月に刊行された月刊機関紙『コモンウィール』の創刊号(第二版)の題字右下には、「一ペニー」の文字が印刷されています。どの判型で、何頁で構成されていたのか、その正確な規格はわかりませんが、こうした月刊紙が、いま日本で発刊されるとしたら、どれくらいの販売価格がつけられるだろうかと考えた場合、仮にそれを、二〇〇円としてみます。そして、便宜上一〇〇ペニーをもって一ポンドと仮定します。すると、一ペニーが二〇〇円、一ポンドが二万円になります。それをもとに換算しますと、モリス家の年収九二〇ポンドは、現在の日本円にして、一、八四〇万円になり、モリスが生活費に考えていた週四ポンドの生活費は、週八万円、月に換算しておよそ三五万円に相当する金額になるのでした。しかし、ジェイニーは病弱で、夏と冬の多くの時間を国内外の保養地で過ごし、一方のジェニーは、その病気の性格からして、必要に応じて養護施設に預けられなければならなかったでしょうし、おそらく、モリスが考えていたような週四ポンドの生活費では、実際の生活は成り立っていなかったものと想像されます。それでも、上記のジョージーに宛てた手紙にみられますように、倹約しようとしていたことは確かであり、おそらくその背景には、自分が死んだあとの家族のことが、とりわけ、障害をもつジェニーのその後の生活のことが念頭にあったものと推察されます。

これに関連して注目されてよいのは、マートン・アビーのモリス商会のみならず、ハマスミスのわが家においても、その家計や使用人の管理がモリスの手によって行なわれていた形跡があることです。たとえば一八八三年四月二日の娘のジェニーに宛てた手紙のなかに、次の一文を見出すことができます。「エニ・エランがここに来ています。とても元気です。彼女は上機嫌で、このお庭は何とすてきなことでしょうと、いっていました」。おそらくここから想像できるのは、新しい使用人の採用にモリスが関与していることであり、ジェニーも旧知で、今後ジェニーの介護をする人だったのかもしれません。また続いてその手紙のなかで、ふたりの使用人について、こう書いています。「イライザさんは、土曜日にターナム・グリーンで結婚式を挙げて、出てゆきました。彼女は結婚用の服すべてを準備していたのですが、絹のドレスを感謝の気持ちでもって受け取ってくれました。……気の毒にも、同僚を失ったエニ・クックは、とても落ち込んでいます。ふたりは、九年間一緒でした」。ここから、結婚で退職してゆく女中に、雇用主としてのモリスが、絹の服を贈っていることがわかります。

ヴィクトリア時代の中産階級の家庭においては、夫が妻を扶養するにあたって、得られた収入の使い道とその決定権はすべて夫にゆだねられ、その延長として、使用人の管理も夫が行なっていた可能性があります。他方、それとは違い、家庭内の出来事に関しては、課せられたひとつの義務としてすべて女主人が取り仕切っていたと考えることもできます。モリス家の場合は、一見前者の例に属しているように見受けられますが、事情は少し複雑で、病弱を理由に女主人であるジェインが、そうした家事や家政を意識的に放棄していたのではないかと類推できる余地が残されています。といいますのも、モリスが亡くなると、その遺産は、未亡人になったジェイン本人ではなく、遺言によってあらかじめ選出された管財人によって管理されることになるからです。そのことは明らかに、モリスの存命中からジェインは、家のことを管理する意欲や能力に欠けていたことを意味します。

さて、一八八五年もクリスマスの季節が近づいてきました。メイは、全国執行委員会の委員であったエリナ・マルクスやモリス商会のマネージャーをしていたジョージ・ウォードルの夫人のメドライン・ウィードルとともに、社会主義同盟が開催するクリスマス・パーティーやピクニックの責任者としての役割を担っていました。次に引用するのは、この年の一二月号の『コモンウィール』に掲載された案内文です。

暗黒の死と光明の新生を祝ういにしえの美しい異教徒の祭りは、小さき社会主義者たちが執り行なうのにまさしくふさわしい祭りであるとの決定を社会主義同盟の執行員会はいたしました。われわれは、「小さい子どもたちがわれわれのもとにやって来る」ことも望んでいます。したがってわれわれは、フェリンダン・ロード一三番地の私たちのホールにおいて……二六日の土曜日に「ツリー」やお遊戯会やお茶とケーキを子どもたちに提供する予定です。同志のみなさん、ツリーのための簡単なプレゼントとツリーや食べ物を入手するための資金の面でご援助ください。

社会主義同盟だけではなく、モリス家でも、クリスマスを祝いました。マッカーシーは、このときの様子を、以下のように描写しています。いまだモリスの体は完調ではなかったかもしれませんし、政治運動や商会の仕事からしばらく遠のいていた悔しさもあったでしょう。そして、ジェニーの容体も悪かったようで、施設へ預けていたこの間、モリスの心配と不安は増大していたにちがいありません。その一方で、ジェインの関心は、おそらくこの時期、新しい恋人のブラントにおおかた向けられていたものと思われます。

 一八八五年のクリスマスは、とりわけ失意とともにあった。ハマスミスで両親とメイと一緒に過ごすために帰宅していたが、いまやジェニーは養護施設に入れられていた。ほとんど訪問客もなかった。天候は薄暗く、霧がかかっていた。音楽も散漫なものであった。メイが、母親と一緒にマンドリンで二重奏を演じた。

明らかに、このマッカーシーの記述は、一八八五年一二月二七日にモリスが母親に宛てて出した手紙の内容に基づいています。確かにモリス家の「一八八五年のクリスマスは、とりわけ失意とともにあった」にちがいありません。しかし、明るいニュースも、その手紙には書かれてありました。

メイは、オクスフォード・ストリートで販売される刺繍のデザインと監督にかかわって多くのことを担当しています。これはとてもいいことです。必要とされるだろうと思われる作品のデザインをいつも喜んで行ない、立派に成し遂げます。そうすると、人は、もっとほしくなり、買い求めにやってくるようになります。すると彼女は、ただちに求めに応じて製作するのです。

オクスフォード・ストリートにモリス商会のショールームがありました。メイがデザインする刺繍作品は、顧客のあいだで人気だったようです。それでは、そこに至るまでのメイの職業選択の過程と、あわせて、政治への関心形成の過程とを、少し以下において振り返ってみたいと思います。

二.メイの職業と政治への意識形成

メイは、一八八二年三月にちょうど満二〇歳になります。この時期の女性と高等教育を巡る環境は、どのようなものだったのでしょうか。一八四七年にクウィーンズ女子カレッジが、そして、一八四九年にベッドファッド・カレッジが開校され、ヴィクトリア時代における女子の高等教育が開始されます。それに少し遅れて、伝統校であるケンブリッジ大学が、一八七一年にニューナム・カレッジを、翌年の一八七二年にガートン・カレッジを創設して、女子の教養教育に関心を示すことになります。

一方、英国における専門教育としての美術教育は、産業革命の終了と同時に、開始されます。一八三五年、英国政府は、下院に「美術と製造」に関する特別委員会を設置すると、その勧告を受けて、一八三七年に、ロンドンのサマセット・ハウスにデザイン師範学校を設立します。教育内容は、ウィリアム・ダイスが持ち帰ったドイツで当時行なわれていた指針に倣うものでした。つまり、一種の実業学校としての性格を有するものでした。

一八四二年の二月、このサマセット・ハウスに女子の教室が設けられます。そして、独立してストランド街に移転し、女子デザイン学校となるのが、一八四八年の一〇月のことでした。女子学校の生徒は、サマセット・ハウスの男子より、しばしば優れた作品を生み出し、サマセット・ハウスで開催される展覧会では、常に彼女たちの作品が受賞していました。もっとも、女子デザイン学校に在籍する生徒のほとんどは、しかるべき階級の出身者で占められており、職業教育を求めてこの学校の門戸をたたく者はほとんどいませんでした。

本校である国立の(つまり政府の)デザイン師範学校がロンドンのサマセット・ハウスに開設されるや、それ以降、英国とアイルランドの主要都市にその分校としてのデザイン学校が順次設置されてゆきます。一部の事例を挙げますと、一八三八年のマンチェスター・デザイン学校の設置を皮切りに、それに続いて、ヨーク(一八四二年)、シェフィールドとバーミンガム(一八四三年)、グラスゴウ(一八四四年)、リーズ(一八四六年)、ベルファーストとダブリン(一八四九年)といった都市に、デザイン学校が開設されるのです。そして、一八五一年にハイド・パークで大博覧会が開催され、成功を収めると、その剰余金でもって、サウス・ケンジントンに広大な土地が購入され、一八五七年に、同一敷地内に中央美術訓練学校とサウス・ケンジントン博物館のための建物が完成します。中央美術訓練学校は、デザイン師範学校を母体として成り立つ学校教育機関で、男子科と女子科から構成されていました。一方のサウス・ケンジントン博物館もまた、デザイン師範学校の所蔵品を集めて一八五二年に開設されていた装飾製品博物館を母体にして成り立つ社会教育の組織でした。これらが祖型となって、その後、現在の王立美術大学とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へと発展してゆくのです。同じくこの一八五七年に、ヘンリー・コウルが科学・芸術局の局長に就任します。行政官としてのコウルの尽力によって開催された大博覧会以降、彼自身の指導のもとに進展が企てられてきていた美術教育の国家的制度が、ついにここに完成します。かくして、英国における美術教育のまさしく一大複合体が、このサウス・ケンジントンの地に集められ、その全貌を現わしたのでした。

その後、中央美術訓練学校は名称を改め、一八六三年に国立美術訓練学校となり、一八七三年にコウルは、科学・芸術局の局長とサウス・ケンジントン博物館の館長を辞任し、そして一八七五年、リチャード・レッドグレイブのあとを継いで、エドワード・ジョン・ポインターが科学・芸術局の芸術部長になります。このことは、美術教育における純粋美術のへの揺り戻しとしての意味をもっていました。一八三七年のデザイン師範学校創設以来、英国の美術教育の原理は、産業主義に基づいた美術労働者の養成か、それとも、人文主義に基づいた純粋美術家の養成かで、揺れ動いていたのでした。当然、そのことによって、教える内容の力点にも変更が生じます。『美術教育の歴史と哲学』の著者のスチュアート・マクドナルドは、そのことにつきまして、こう述べています。

大衆美術教育の開始以来、その中央機関の校長が新たに任命されるたびに、方針もまた最大限に揺れ動いたのである。すなわち、まずダイス(ドイツ的で功利主義的)、それからウィルスン(イタリア的でアカデミー的)、次にコウルとレッドグレイブ(ドイツ的で功利主義的)、そしていまやポインター(フランス的でアカデミー的)という具合である。

メイが入学するのは、この国立美術訓練学校で、おそらく一八八〇年から一八八三年ころまで在籍していたのではないかと考えられています。ここでメイは、描画と刺繍を主に学びました。それでは、メイが在籍していた当時のこの学校の様子はどうだったのでしょうか。正確な学科編成や教育課程などにつきましてはわかりませんが、マクドナルドは、一八八四年の『美術ジャーナル』から引用して、このように紹介しています。

 ある卒業生はポインター時代のサウス・ケンジントンを描いて次のように記している。「二〇〇名の一般学生」がいたが、「この人たちの大部分は美術家になるために勉強しており、一方で古代作品を、また一方で人体モデルを対象として描き、陰影をつけていた。そして静物を色彩で描いていた……彼らは、装飾美術のどの分野にこれから携わるつもりかなどは考えることもなく、ただ両親によって送り込まれてきた若者たちにすぎなかった。したがって、彼らは漠然と製作をするだけで、マスターたちも彼らにそれほど注意を払わなかった」。

メイは、ロセッティが母親をモデルにして描くときの様子をよく知っていたし、自分の肖像もロセッティに描いてもらったことがありましたので、学校の雰囲気は、そうした経験をもつメイにとって、ほとんど違和感はなかったものと思われます。もちろん、自分自身もそれまでに水彩画を描くことになじんでおり、さらにはまた、父親によって壁紙やテクスタイルのためのデザインが描かれ、それらが専門の職人たちによって製作され、それから市場に出てゆき、最終的に顧客の手に渡る過程を身近に見ることができる家庭環境のなかで生育していたのですから、この学校で専門教育を受け、その後、父親が経営するモリス商会の一員になることは、メイにとって、一見すると自然の流れに類するものだったように受け止めることができます。しかしながら、もう少し、メイの置かれている複雑な境遇を踏まえながら、このときの教育とその後の職業にかかわる本人の選択につきまして多様な視点から吟味をする必要がありそうです。

フェミニストの伝記作家であるジャン・マーシュは、次のような見解を述べています。少し長くなりますが、大事な視点であると思われますので、引用します。マーシュの見解は、二点に分かれますが、まず一点目の父親との関係という点からの、メイの職業選択の分析です。

 ここではメイと父親の関係が重要である。彼女は幼児期に両親のあいだにある感情的な不和に半ば気づき、父親の振る舞いは表に出ないぶっきらぼうなものではあったが、それでも父親にとって自分と姉がいかに重要であるかを知っていたかもしれない。……父親の志を継ぎ、家業に就くことを選んだことで、おそらくメイは、自分が愛と信頼を寄せていることを再び父親に確信させたいという願いを伝えようとしたのであろう。

この視点をさらに突き詰めるならば、たびたび起こる両親の不和と姉の施設療養を前にして、このままではモリス家の家族は分裂の危機にあると、メイが感じ取ったとしても不思議ではありません。そしてまた、それを何とかひとつにまとめるにはどうしたらいいか、家族における末娘としての自分の役割について思いを巡らした可能性も否定できません。メイの学校選択や職業選択には、そうしたメイの心の奥底にある家族に対する気遣いが隠されていたのではないかとも推量されます。

続いてマーシュは、二点目として、純粋美術というおおかた男性のみに許されていた道への挑戦ではなく、刺繍という一段低く位置づけられていた女性固有の道に甘んじた点に着目して、このように分析します。

 同時に明らかなことは、刺繍という彼女の選択肢は、芸術の分野では女性に限られたものであり、近年でこそ刺繍の地位は上がっているものの、当時はまだ一段劣った分野とみなされていたことである。いかなる理由でメイは、イタリアで訓練していた絵画芸術ではなくこの刺繍を選ぶようになったのか。彼女に本来備わっていた才能が絵を描くことよりもむしろデザインあったというのが、この問いに対する通例の答えなのであるが、これは解答のほんの一部にしかすぎない。……画家として成功した数少ない女性たちは例外的なものとみなされて、彼女たちの業績は、もっと有名な男性芸術家たちの業績と同じように、普通の女の子が目標にするにははるかに隔たったものであると一般に考えられていた。霊感を受けた天才が芸術家であるとするロマン主義的な考え方は、それより控えめな野心をもつ人たち――主に女の子たち――に不利に働いたのである。

確かにこの時代までにあっては、女性芸術家として名を成した人の数は極めて少なく限定されており、一般的にいって、その主たる原因は、男性に比べて女性は、芸術的な能力に劣るためであると理解されていました。メイも、そうした時代がつくり上げた一種の偏見をやむなく受け入れ、マーシュが暗に示すように、本人が心のなかにあって望んでいた画家になるための道を諦めたのではないかとも考えられます。しかしその一方で、父親が主張する、大芸術(純粋美術)と小芸術(装飾芸術)の分離現象への卓越した指摘を積極的に支持し、小芸術のひとつである刺繍の復興に自らの能力を捧げようとしたとも考えることがでるのではないでしょうか。といいますのも、刺繍家になったことを後悔するような発言は残されていないようですし、何よりも、モリス商会で働きはじめるのとほぼ軌を一にして、メイは社会運動へ関心を示すようになるからです。そのことは、個人的製作である純粋美術とは異なり、刺繍をする行為は明らかに社会的な製作行為であるとの認識に、メイが到達していたことを意味します。デザインや工芸といった生活消費財をつくる行為は、社会的な生産の行為であり、デザインや工芸の真の意味やその美しさを考えることは、社会のあるべき姿を考えることと直結しており、メイもまた、父親に倣って、装飾芸術、労働、生産、生活、社会といった文脈に自分の身を投じようとしていたとしても、何ら不思議はありません。もしメイが、純粋美術家を志していたのであれば、ロセッティやバーン=ジョウンズと同じように、自分の絵画製作を社会のあり方と結び付けるような発想はおそらく生じ得ず、生涯、社会運動に参画するようなことはなかったにちがいありません。しかしながら、刺繍家として、メイは、社会運動のなかにはっきりと自分の立ち位置を見出そうとしたのでした。

メイが、モリス商会の刺繍の仕事を本格的にはじめるようになるのは、国立美術訓練学校での勉学を終えるころの一八八三年前後のことだったのではないかと推定されています。それまで商会の刺繍は、芸術家の男性がデザインをし、それを家庭のなかにあって技術をもった女性たちが製作していました。そのなかには、ときおり母親のジェインや母親の妹のベッシーも含まれていました。おそらくメイは、そうした仕事を引き継ぎ、自分で実際に製作するだけではなく、顧客の応対にあたったり、お針子さんたちを束ねたりしながら、仕事を円滑に進めるうえでの管理業務も担当していたものと思われます。

一方、メイの政治活動も、ほぼこの時期から開始されました。一八八三年の暮れに民主連盟の同志で無政府主義者のアンドリアス・ショイが〈ケルムスコット・ハウス〉を訪れた際に、メイの伴奏でショイは歌を歌っています。年が明けた一八八四年のはじめには、かつてイートン校の副校長をした経歴をもつジェイムズ・リー・ジョインズがマートン・アビーの支部で講演を行なっています。さらに六月、民主連盟のハマスミス支部が設立されたとき、メイとジェニーはその会員になるのでした。

メイやジェニーが政治運動に参加する動機に、婦人参政権が念頭にあったかどうか明確ではありませんが、国政選挙の場で女性に投票権が与えられるのは一九一八年のことですので、とりわけメイは、自らの政治活動を通じて、この間の歴史を体現するひとりの女性となるのでした。一方のジェインは、どうだったのでしょうか。マーシュは、こう指摘しています。

 利用可能な乏しい証拠から彼女の政治観を再構成するのは明らかに難しいが……いずれにせよ彼女は、政治的に関与してゆくことは選挙権のない既婚女性として容易なことではないと思っていたのである。たとえばロウザリンド・ハウアドやジョージー・バーン=ジョウンズの異常なまでの熱烈な政治参加の方が、ジェインの政治的無関心に比べるとむしろ例外的なものであった。もちろんジョージーはこの時期のモリスにとって政治的に信頼できる主たる女友達であり支持者となっていた。夫に対するジェインの感情はいまや友好的ではあったものの、決して熱烈といえるものではなく、彼女は夫の社会主義者としての熱狂的な政治活動を自分にはとても共有できないものと考えていたようである。

しかし、ふたりの娘たちは、父親の生き方に強く共鳴していたようです。モリスは、一八八三年九月五日(あるいは一五日)にショイに宛てて出された手紙のなかで、一八三四年のウォルサムストウにおける出生から一八八三年の民主連盟への参加に至るまでの、これまでに歩んできた自分の人生を描いていますが、以下はその最後の一節です。

 もっと早く上で書くべきでしたが、私は一八五九年に結婚し、その結婚をとおしてふたりの娘を設けています。彼女たちは、私の人生の目的に関して、とても私に共感してくれています。

一八八五年の二月二日にジェインとメイは、ハウアド家の招待を受けて、イタリアへ向けて旅立ちます。四月一日、モリスは、このような手紙をメイに書いています。

 直近のお手紙、本当にどうもありがとう。お母さんへの五〇ポンドの小切手を同封します。……

 愛するあなたのお誕生日が再び巡ってきました。決して私は忘れることはありませんでした。心からおめでとうございます。

 こちらのニュースは、コモンウィールの三月号を入手していると思いますが、それを読むと、わかるはずです。最近の日曜日の週に行なわれたコミューンの祭典について話してなかったと思います。どちらかといえば私は、それにかかわって神経が鋭敏になっていました。相互に相いれない社会主義者の党派である、ドイツ流儀の議会派と無政府主義者とのあいだにある古くからの口論が再燃する場となりかねなかったからです。私たちは、思い切って社会民主連盟を招待していたのですが、彼らは(私が思うには幸いにも)来ませんでした。それで、すべてがうまく運びました。

この時期の社会主義同盟は、さまざまな立場の社会主義者から構成されていました。それは、メイが回想するところによると、次のような様相を呈するものでした。

驚くべきことは、時間が立つにつれて見解の相違が一度ならずも明らかになったということではなく、そもそもそれまでわれわれが団結していたということである。急進派の労働者組合のメンバーもいれば、初期のインターナショナルのメンバー、つまりは、われわれ社会主義者の歴史的「資料」になっている一八四七年の共産党宣言が書かれた時代を覚えている老人たちもいた。オーエン主義やチャーティスト運動や協同組合運動といった初期の社会主義組織からの流れも存在していたし、なかには専門職に就いている人や文学者もいた。

そうした人たちに交じってクロポトキンやベルファット・べクスがいました。メイの観察に従えば、クロポトキンは「人間のなかで最も愛すべき人物」で、べクスについては、「人を見る目のある女性であれば誰もが無情でわがままな気質を見抜くであろう」と、書き記しています。というのも、べクスには、女性の諸権利を認めたがらない、時代に逆行する見識が備わっていたからでした。

それでも、自由と平等を教義とする社会主義は、女性のメイにとっても極めて新鮮であったにちがいなく、心を奮い立たせるに十分なものでした。メイは、ビラを配り、演説者を囲む「人垣」となって、奮闘します。以下のようなことが当時の記憶として、後年のメイに残っていました。

私たちは、旗と数帖分の『コモンウィール』と一束のビラをもって〈ケルムスコット・ハウス〉の集会場を出ると、要請された場所まで重い足取りで歩いていったものである。通りかかった市街電車や酒場ののらくら者から浴びせられる、ときには粗野な、そしてときには気さくなからかいの言葉に慣れっこになっていた。やったことのない人には、小脇に機関紙の束を抱え、人の往来があまりない閑散とした郊外の荒れ果てた街角に立ち、赤旗の支柱をしっかりと支え、人の注意を最愛の演説者の方に向けるために、ひとりかふたりの他の仲間とともにその演説者の周囲に「人垣」をつくろうとすることが、いかに惨めなことかわからないだろう。

一八八五年一二月二六日の土曜日、フェリンダン・ロードの社会主義同盟のホールでは、子どもたちのためのクリスマス会が催されました。メイ、エリナ・マルクス、メドライン・ウォードルの三人の女性たちが企画と世話をし、そのときの剰余金は、翌年(一八八六年)の聖霊降臨祭の翌日(六月七日)に開催された子どもたちのピクニック費用に充当されました。こうしてメイは、昼間は刺繍家としてモリス商会のために働き、夜にはハマスミス支部の集会に出席し、屋外に立っては機関紙を売り、そしてまた、クリスマス会やピクニックといった催しでは、子どもたちの遊び相手の役割を積極的に担うのでした。

いうまでもなく、ヴィクトリア時代は、召使という仕事以外に、女性が新しい職業に就きはじめる時代でした。一八三七年に電信技術が考案されると、それ以降、電信操作や電話交換の業務が、手先が器用で礼儀正しい若い女性に回ってきました。しかしながら、おおかたの雇い主は、結婚までの短期の雇用を要求していました。次に、タイプライターが考案されると、一八八〇年代ころから中産階級の女性たちの新たな職場として注目されはじめました。タイピストとしての主たる職場は、地方公共団体や商業施設でしたが、通常彼女たちは、男性の職員とは異なる、差別された待遇に甘んじていました。

一方、一八六九年から地方選挙において女性納税者の投票が認められるようになりましたが、しかしそれは、名目だけの形式的なものでした。多くの働く女性たちにとっての関心は、選挙での投票ではなく、賃金と労働環境の改善にありました。もっとも、男性の同伴なくしては外出できなかったしかるべき階級の女性たちにとっては、公然と政治活動を行なうことなど、考えられないことであり、わけても、街頭で演説をしたり、ビラを配布したり、デモの隊列に加わったりすることは、侮辱や暴言を受けても仕方がない行為としてみなされていたのでした。

このように、社会のなかにあって女性が職業をもち、自立した人間として政治運動に参加することは、このヴィクトリア時代においてはいまだ例外的なことでした。それゆえに、成人に達したメイが展開した一連の行動は、明らかに女性として革新的なことであり、同時に先駆的なものだったということができます。他方でそのメイも、その年齢にふさわしく、ひとりの男性に恋心を抱くようになります。その推移につきましては、次の第一六章「メイの愛情問題とモリスの散文ロマンス」におきまして、引き続き述べることにします。