すでに述べてきていますように、モリスが、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立したのは、一八六一年のことでした。設立に際しての通知状には、「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」という文字が冒頭に並び、そのあとに八名の共同事業者である「純粋美術労働者たち」の名前がアルファベット順に記載され、続けて、設立の趣旨が書かれていました。発足当初の主力製品は、教会用のステインド・グラスや装飾家具、それにガラス器や絵タイルでした。そのあとすぐにも、刺繍や壁紙が加えられてゆきます。工房とショールームは、レッド・ライオン・スクウェア八番地にありました。こうして、詩人モリスとは別の、デザイナー=企業経営者としてのウィリアム・モリスが誕生するのです。
一八六五年、モリス・マーシャル・フォークナー商会は、レッド・ライオン・スクウェア八番地からクウィーン・スクウェア二六番地に引っ越します。ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の食堂の内装工事や、セント・ジェイムズ宮殿の武具の間とタピストリーの間にかかわる室内装飾が行なわれたのは、この時期のことでした。一方モリスは、一八七〇年に、『詩の本』と題された自作詩集の彩飾手稿本をつくり、カリグラファーとしての才能も発揮します。
モリス・マーシャル・フォークナー商会が、モリスを単独経営者とするモリス商会に改組されたのは、一八七五年でした。この時期からモリスの関心は、染色へと向かい、そしてその後、織物を含むテクスタイル全般へと発展してゆきます。一八七八年にモリスは、ハマスミスにある〈ケルムスコット・ハウス〉に自宅を移します。するとモリスは、そこに織機を設置し、ここから独自のカーペットやラグを生み出してゆくのでした。
商会の発展はそれ以降も続き、一八七七年にオクスフォード・ストリート四四九番地にモリス商会のショールームが開設されると、一八八一年には、マートン・アビーの工場へ製造設備のすべてが移され、この新天地において、絵ガラス、刺繍、タイル、家具、壁紙から、織物、染色、捺染へと至る、生活に必要とされるほぼ全領域の品目の生産が展開されるようになるのでした。メイがモリス商会に加わるのが一八八三年ころで、二年後の一八八五年には、刺繍部門の責任者に就いています。
それに先立ち、一八七七年からモリスの芸術に関する講演活動がはじまります。最初の講演題目は「装飾芸術」でした。そしてそのあとに、「民衆の芸術」(一八七九年)、「生活の美」(一八八〇年)、「芸術と大地の美」(一八八一年)、そして「生活の小芸術」(一八八二年)が続きます。こうして、一八八〇年代に入るころまでには、モリスのデザイン実践と芸術思想は、多くの工芸家たちの知るところとなり、それに倣った製作の道を歩もうとする次の若い世代が台頭してきたのでした。その多くは、ゴシック・リヴァイヴァル(中世復興)を信念にもつ建築家のもとで修業をした建築家=工芸家たちでした。
建築家=工芸家たちに影響を与えたのはモリスだけではなく、それに先立つジョン・ラスキンの思想でした。彼の夢は、当時の醜悪な社会を中世の状態へと再組織化するというもので、その思いを実践に移すために、彼は一八七八年に、セント・ジョージ・ギルドを設立します。しかし、実践技術の不足から彼のギルドは決して成功したわけではありませんでしたが、この団体につけられた、もともと中世の商人や手工業者の同業組合を意味する「ギルド」という名称は、この時期の実践形態を形容するうえでの示唆に富んだ用例であり、その後広く使用され、一般化されることになるのです。
一八八二年には、アーサー・ヘイゲイト・マクマードウがセンチュリー・ギルドを設立します。一八五一年生まれのマクマードウは、このとき三一歳でした。一八七三年にゴシック・リヴァイヴァルの建築家であったジェイムズ・ブルックスの事務所に入り、翌年には、助手としてラスキンに同伴してイタリアを旅します。そして、一八七七年に古建築物保護協会が設立される際に、彼はモリスとの面識をもつようになるのです。デザイン史家のジリアン・ネイラーは、自著の『アーツ・アンド・クラフツ運動』(一九七一年刊)のなかで、こう述べています。
こうしてマクマードウは、一八七〇年代の世代と一八九〇年代の世代の橋渡し役となる。献身的なリヴァイヴァリストであったブルックス、そしてラスキンとモリスが、影響を与えた主要な人物たちであり、「……すべての芸術領域を、もはや商売人の活動範囲ではなく、芸術家の活動範囲とするために」、そして「建築、装飾、絵ガラス、陶芸、木彫、そして金工を、絵画や彫刻と並ぶ適切な地位に復帰させる」ために設立されたセンチュリー・ギルドは、そうした彼らの思い描くイメージのなかから形成されたのであった。
さらにマクマードウ自身も、センチュリー・ギルドを創設したときの経緯をこう語っています。
……私は、機械類を無制限に使用することは「芸術と美」を救済するためのあらゆる試みを葬り去るであろうという点でモリスの意見と一致していました。しかしその反面、いまだ私は、モリスの衣服のへりにしがみついているにすぎず、自分にできる建築の仕事と工芸の仕事を行ないました。……壁紙、クレトン、室内用織物、真鍮や鉄の細工物、あらゆる種類の家具。私は、住居を装飾したり、家具や必需品を住居に備え付けたりするうえで必要とされるすべてのものを提供できる大勢の美術家と工芸家を自分の周りに集めました。このグループを私はセンチュリー・ギルドと呼んだのでした。
このグループのなかには、セルウィン・イミジやウィリアム・ダ・モーガンがいましたし、C・F・A・ヴォイジーもまた、マクマードウに強い影響を受けたデザイナーのひとりでした。マクマードウの業績にあって最も異彩を放ったのが、一八八三年にG・エラン社から出版された『レンの市教会』という書物のタイトル・ページでした。書題にあるクリスタファー・レンは、一七―一八世紀の英国において主に教会建築の修復の分野で活躍した建築家です。画面の左右の端に対称的に鳥を置き、画面中央に三本の花とその茎を非対称的に配したこの扉絵は、うねるような曲線が多用されることによって生命力の息吹のような力強さを全面に押し出しており、ヨーロッパ大陸におけるアール・ヌーヴォーの開花の先駆けをなしたという意味において、極めて重要な役割を担う作品となりました。
マクマードウの業績のうち、もうひとつ注目されてよいのが、このギルドの機関誌的役目を果たすことになる『ホビー・ホース』を発刊したことでした。一八八四年に創刊されたこの季刊雑誌のタイトル・ページは、セルウィン・イミジのデザインによるもので、イミジとハーバート・ホーンの木版画で構成され、手すきの紙に印刷されました。寄稿者には、ジョン・ラスキン、フォード・マドックス・ブラウン、エドワード・バーン=ジョウンズ、ウィルフリッド・スコーイン・ブラントなどの著名人が含まれています。明らかに、この雑誌の刊行は、その後の英国において展開されることになる私家版印刷工房運動の誘因となりました。のちに述べますように、それから七年後の一八九一年にモリスは、自分の印刷工房である「ケルムスコット・プレス」を開設します。モリスにその道を開かせたひとつの要因が、このときのこの雑誌の挿し絵と活字と印刷術だったのです。
センチュリー・ギルドに続いて一八八四年には、主としてふたつのグループが結集して芸術労働者ギルドと呼ばれる職能団体が誕生しました。源流となったグループのひとつは、ルイス・F・デイの指導のもとに一八八二年に結成されていた「一五人組」という名称の団体でした。そして、もうひとつのグループが、ウィリアム・リチャード・レサビーを含む、建築家のリチャード・ノーマン・ショーの弟子たちが一八八三年に設立していたセント・ジョージ芸術協会でした。彼らは、ラスキンとモリスを精神的父親とみなす建築家=工芸家たちで、王立アカデミーの排他主義的な方針と英国建築家協会の専門主義的な実態に対峙し、人間が日常に使用する生活用品に目を向け、当時危機的状況にあった諸芸術の統合を唱えていたのでした。
芸術労働者ギルドの創設者のひとりであるデイは、一八四五年の生まれです。一八七〇年まではステインド・グラスを専門とするデザイナーでしたが、さらにその後、自らの商会をとおして、壁紙、タイル、陶器、時計、家具といった日用品のデザインに挑戦し、一八八一年には、織物製造会社のターンブル・アンド・ストックデイルのアート・ディレクターに任命されていました。彼はまた、装飾やパターンについての多作の著述家でもありました。一八八二年に彼は、『日常の芸術――純粋にあらぬ芸術に関しての短篇評論集』を刊行し、そのなかで、装飾については次のように論述しています。
装飾を愛することは、救世主御降世以来のこの年に固有の特徴ではない。装飾は人類の最初の段階にまでさかのぼる。もし装飾をその起源に至るまで跡づけようとするならば、私たちは自らの姿をエデンの園のなかに――あるいは猿の領地のなかに見出すことであろう。今日においても、装飾は、私たちのなかにあって無限の力を有している。したがって私たちは、装飾をもたない「来るべき人類」を心に描くことはほとんどできないのである。
芸術労働者ギルドの設立に際して、初代マスターに彫刻家のジョージ・ブラックオール・サイモンズが、そして財務担当にデイが就き、その後デイもマスターとなります。
一八八六年と一八八七年にこのギルドのマスターに就任したのが、「一五人組」のひとりであったJ・D・セディングでした。セディング自身建築家であり、ゴシック・リヴァイヴァルの建築家のA・W・N・ピュージンの大いなる賞讃者でもありました。彼は、自著の『芸術と手工芸』のなかで、当時の芸術と産業に関して、次のような見解を示しています。
……いわれているように、機械類が、デザインと製造にかかわる古くからの伝統を崩壊させた。機械類が、熟練職人( アルティザン ) と製品との関係性に邪魔立てをした。……
この点についての私の理解によれば、われわれの産業が抱える問題はふたつの側面に及んでいる。ひとつは、芸術にかかわる側面であり、いまひとつは、社会にかかわる側面である。
芸術労働者ギルドが発足してしばらくすると、ラスキンやモリスの影響のもとにこの道に入った若手の装飾美術家たちのあいだで、自分たちの作品を発表する場についての論議がはじまりました。結果的にその論議は、絵画や彫刻の純粋美術を扱う王立アカデミーに対置されるところの、装飾美術の新しい展覧会開催へ向けての組織づくりへと進んでゆきました。一八八六年に、そのための暫定的な委員会が、主として芸術労働者ギルドの一部有志の尽力により発足します。その中心的役割を担ったのが、ウォルター・クレインとA・S・ベンスンでした。
クレインは、デイと同じ一八四五年の生まれで、一八七一年ころに、ダ・モーガンやウェブ、そしてバーン=ジョウンズやモリスと知り合うようになり、モリス商会の製作に関与するようになっていました。「血の日曜日」において死亡した同志を追悼するモリスの「死の歌」に対して木版画を提供したのもクレインでした。
一方のベンスンは、クレインよりもさらに若く、一八五四年にロンドンで生まれ、モリスと同じくオクスフォードを卒業します。一八八〇年にバーン=ジョウンズを介して、崇敬するモリスの知遇を得、金工の道へと進んでゆき、一八八四年ころには芸術労働者ギルドの中心的な会員になっていました。
組織する会の名称の選定の経緯について、マッケイルは、以下のように書いています。
新しく組織された会は、当初、「連合芸術( コムバインド・アート ) 」の名前で知らされていた。「アーツ・アンド・クラフツ」という名称は、少しのちの段階での、ゴブダン=サーンダスン氏によって創案されたものである。彼はまた、第一回のアーツ・アンド・クラフツ展覧会が開催される新たな旅立ちに際して、もうひとつの点に関して、おおかたの責任を負っていた。それは、展示される作品に、共作者としてデザイナーと製作者の双方の名前を明記することであった。
この会が目指していたのは、モリスがその分離を指摘していた大芸術(純粋美術)と小芸術(装飾美術)の修復、すなわち、「連合芸術」に向けての努力でした。しかしながら、「連合芸術」という名称では、おそらく、あまりにも親しみがなく収まりも悪く、そこで、それに代わって、日用語である「アート(美術)」と「クラフト(工芸)」を結び付けることによって、「アーツ・アンド・クラフツ」という新造語が誕生したのでした。
マッケイルの上記の引用文の重要性は、名称決定の経緯にかかわる情報の提供だけではなく、この展覧会においては、展示作品の作者名に、必要に応じて、デザイナーと製作者の双方を明記するようになったという指摘です。このことは、工芸実践におけるデザインと製作の分離、つまり分業がすでにはじまっていることを表わしているのです。したがいまして、マッケイルのこの言説は、近代の「デザイン」や「デザイナー」の誕生を探るうえでの重要な証言となります。しかしマッケイルは、作者名の公開については、この観点とは別の視点から、次のような指摘をします。
労働者の地位を向上させることができるのは、カタログに作者名のリストを掲載することによってではなかった。つまり、そのような方法では、資本主義の商業体制は、ほぼ微動だにしなかったのである。実際問題として、これが、デザイナーの運動の本質部分であったし、モリスがこの問題について考えていたことも、まさしくその点にあったのである。
そのことは、次の事例からも、よくわかります。一八八七年一二月のある日、すでに面識があったC・R・アシュビーがモリスを訪ねてきました。一八六三年生まれのアシュビーは、ケンブリッジで歴史学を学び、一八八三年から建築家のG・F・ボドリーの事務所で働きはじめ、一八八五年にはじめて彼は、エドワード・カーペンターに会います。それは、カーペンターがウォルト・ホイットマン流儀の散文詩『デモクラシーに向けて』を出版した翌年のことでした。その本のなかでカーペンターは、産業革命以前に存在していた簡素な田園生活への回帰を唱道していたのです。建築家=工芸家のアシュビーがモリスを訪ねたのは、「ギルドあるいは美術学校」の設置を巡って支援を求めるためでした。しかし、モリスは、それについて難色を示します。すでにモリスは、もはや芸術の救済は、芸術それ自体の内部にあるのではなく、社会の変革のなかに存在することを確信するようになっていたのです。そこで、そのときモリスは、アシュビーに対して、真の芸術を復興させるためには、まずはそれに先立って、現行の芸術基盤をつくり出している政治・経済体制を革命によって変革する必要がある、と力説したにちがいありません。といいますのも、さもなければ、いくら芸術の復興に向けて努力をしても、やすやすとそれは、商業主義と機械的生産によって強固にかたちづくられている現行の体制に飲み込まれてしまう危険性が、モリスには十分に予想されていたであろうと思われるからです。モリスとの面会の様子を、アシュビーは次のように書き記しています。
ウィリアム・モリスと大量の冷たい水。昨晩モリスと過ごした。面会の約束のもとに。美術学校の提案について。
彼は、それは役に立たないし、いま私が執り行なおうとしていることは、そのためのいかなる基盤にも基づいていない、という。
確かにこのときの面会には失望させられたものの、それでもアシュビーは、自らの理想主義を貫き、同志愛によって結ばれる工芸家の協同的営みを信じ、翌年の一八八八年、二五歳という若さで、ロンドンのイースト・エンドにあるトインビー・ホールに手工芸ギルド・学校を開設し、木工、皮工芸、金工、宝飾細工を主とする集団的製作の道へと入ってゆくのでした。
次のもうひとつの事例も、当時のモリスの立場をよく表わしています。モリスがアシュビーと会って何日かが立った、一八八七年一二月の大晦日に書かれた手紙が残されています。おそらくベンスンに宛てて出されたものと思われます。そこには、次のようなことが書かれてありました。
ひとつのことが明らかにされなければなりません。つまり、誰が資金を調達するつもりなのでしょうか。……一般の人にとっては、アーツ・アンド・クラフツなんか、構いはしないし、私どもの顧客であれば、店へ来れば、その種の商品を見ることができるのです。それに、ほかに展示物となるのは、ウォルター・クレインの数作品と、バーン=ジョウンズの一、二点くらいが見るにふさわしいもので、あとは、素人作品の類となるにちがいありません。心配なことです。
実に辛辣な内容です。この手紙を書いているとき、これまで『ジャスティス』や『コモンウィール』の刊行に際して湯水のようにつぎ込んだ自身の資産のことが、モリスの念頭にあったにちがいありません。それに加えて、次のような疑問も、モリスの脳裏に存在していたものと思われます。つまり、そもそも「アーツ・アンド・クラフツ」とは、果たして「展示のための芸術作品」なのか、それとも、「商売のための商品」なのか――。
もし装飾美術を、「展示のための芸術作品」であるとみなすようであれば、それは、絵画や彫刻と同列の、ひとつの芸術形式へとひたすら後退(あるいは、逆説的な見方によっては、向上)してゆくことを意味し、展覧会の開催の意義もあるかもしれません。しかしそれは、小芸術を、疑似的に大芸術の領域に引き上げようとする努力にすぎず、真の意味での小芸術と大芸術の分離を修復する行為からは縁遠いものになりかねません。「アーツ・アンド・クラフツ」は、デザイナー個人の作品なのでしょうか、もしそうであるならば、個人主義と結び付き、すべての問題は、一個人の「芸術的問題」に帰されることになるのです。
しかし他方で、装飾美術を、生活に密着した「商売のための商品」であるとみなす立場に立つならば、どうでしょうか。その場合、装飾美術は、避けがたく、それに関与するすべてのつくり手の労働と使い手の喜びを念頭に、その本来あるべき理想的な関係性を求めての社会的な運動を招来することが想定されます。そして同時に、「商品」である以上は、装飾美術の本来の居場所は、展覧会の会場ではなく、製造会社のショールームや使用者の居室ということになります。さらに進んで、社会革命が達成された暁には、そのときにはもはや、「商品」という形式さえも消滅しているのかもしれません。「アーツ・アンド・クラフツ」は、社会的生産の果実なのでしょうか、もしそうであるならば、社会主義と結び付き、すべての問題は、個人の「芸術的問題」を越えて「社会的問題」へと架橋されてゆくことになるのです。
展覧会開催にかかわるこのときのモリスの不安と危機感は、こうした諸点の実践上の複雑さと困難さに起因していたものと思われます。
この手紙が書かれた一八八七年一二月三一日は、「血の日曜日」からやっと一箇月が過ぎようとしていた、いまだその余韻が色濃く残る時期にあたります。したがいまして、この時期のモリスのアシュビーへの対応、そして「アーツ・アンド・クラフツ」への対応は、おそらく、この社会的動乱になにがしかの影響を受けていたにちがいありません。いまモリスが携えているのは、革命は起こるという絶対的な確信でしょうか、それとも、遠ざかっているという焦燥的な認識だったのでしょうか。すでに、前章の「メイの愛情問題とモリスの散文ロマンス」において記述していますように、一八八七年一一月の「血の日曜日」以降、一八九〇年の一一月に社会主義同盟を脱退するまでのモリスには、明らかに、社会主義運動に対するある種の自信喪失(ないしは徒労感)のようなものがつきまとっていました。おそらく、そうした感覚が、展覧会開催へ向けての消極性(ないしは懐疑心)を引き起こしていたのではないかとも想像されます。
しかし、たとえこのときモリス自身、周りの人間からすれば、明らかに頑固で冷淡すぎると受け止められかねない、沈むような懐疑的な感覚をもっていたとしても、モリスを取り巻く多くの若い人たちにとっては、ラスキンとモリスの思想と実践が、自分たちが装飾美術家という職に就くにあたっての手本となっていたことは間違いありませんでした。それでも、王立アカデミーにも、英国建築家協会にも、自分たちの居場所を見つけることができない彼らにしてみれば、装飾美術家としての自分たちの社会的存在を確保し、その作品の質の高さを世に示す必要があったのでした。こうした経緯を背景として、ウォルター・クレインを初代会長としてアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会は発足しました。『美術教育の歴史と哲学』の著者のステュアート・マクドナルドは、その本のなかで、クレインが起草した最初の回状を引用しています。それは、以下のようなものでした。
アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会は、下記に述べる信念と目的にしたがって創設された。(1)装飾美術の展覧会を組織するために策を講じること。(2)そのような展覧会の開催によって、デザイナーや製作者がもっている独創性と実行力が、可能な限り多種多様な作品のなかに示されることになるであろう。展示作品としては、たとえば、テクスタイル、タピストリー、ニードルワーク、彫り物、金工が考えられ、金細工、製本、彩色ガラス、彩色家具などもそのなかに含まれる。そしてその展示は、異なった材料や用途と、そのために用いられた技法との関係性を例証するものでなければならない。直接的には装飾性に欠ける絵画や彫刻については、適切な関係性のなかでそれらを展示する空間があれば、除外することはしない。(3)当協会は、作品の販売を意図するものではなく、購入希望者は直接出品者に問い合わせることになっている。
準備が整い、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会が主催する第一回アーツ・アンド・クラフツ展覧会が、一八八八年の一〇月四日、リージェント・ストリートにあるニュー・ギャラリーで開催されました。モリスの事前の懸念は、どうだったのでしょうか。マッカーシーは、このように述べています。そのとき「モリスは、自分が予想していた惨事とは大きく異なり、展覧会は全く成功していることに気づかされた」のでした。
この第一回展のカタログの表紙は、クレインによってデザインされ、そこには、展示内容を示す「デザイン」と「手工芸」の文字も盛り込まれていました。カタログの販売価格は一シリングでした。この展覧会カタログによると、モリス商会は、家具、織物、カーペット、刺繍の作品を展示しました。そのなかには、一八八五年にモリスがデザインし、高式縦糸織機によって製作されたタピストリー《果樹園》も含まれていました。今日では、この作品は《キツツキ》という名称で呼ばれることもあります。それ以外にも、モリスがデザインし、ジェイニーとジェニーが製作した仕切りカーテン、『愛さえあれば』のためにメイがデザインし、シルクで刺繍した表紙、この間モリスがジョージーに贈っていた『詩の本』を含む彩飾手稿本などが並べられました。マッカーシーの言葉を借りるならば、「第一回アーツ・アンド・クラフツ展覧会には、家族作品にかかわるモリスの最初の自叙伝が詰め込まれていた」のでした。
このように会場にあっては、モリス家の全員の作品が確かに仲睦ましく展示されていたのですが、しかし、出品者一人ひとりは、この時期、実に複雑な心的状態に置かれていたのでした。
この展覧会へ向けて作品の製作がはじまっていたと思われる一八八八年の三月、モリスは、ジョージーに宛てて手紙を出しました。まだ、昨年末の「血の日曜日」のことが、モリスに重くのしかかっていました。「自分がかかわったこうした最近の問題について、これ以上にもっとやれたのではないかという気持ちがあり、その思いを払拭することができません。……私の気持ちは打ちのめされ、惨めなものになっています。でも、事態にしょげ返っていても、仕方ありません」。
それから数箇月が過ぎ、この展覧会が開催されるおよそ二箇月前に、ジェニーは、モールヴァーンの養護施設に預けられます。次は、八月七日のモリスのジェニーに宛てた手紙の最初の一節です。
私には、あなたに手紙を書く責任があるのですが、しかし、よれよれの状態です。知ってのとおり、私は大した手紙の書き手ではありません。私のジェニーよ、あなたがその場所を気に入ってくれたら、私はうれしい。そこにいれば、いま以上に元気になるものと思います。
この時期から、モリスは頻繁にジェニーに手紙を書きます。残されている限りでも、この手紙を含めて八月に五通、九月も同じく五通の手紙が出されています。展覧会の準備で忙しくしていたにちがいないこの時期の、こうした量の手紙は、いかにモリスがジェニーを気遣い、愛していたかということを例証します。
一方ジェインは、すでに第一四章の「ジェインの愛の再暴走」のなかで記述していますように、この時期、愛人のブラントと〈ケルムスコット・マナー〉での逢瀬を楽しんでいます。この年の一〇月二〇日のブラントのノートには、夜ジェインのベッドに行くとき、絨毯が敷かれていないモリスの部屋の前の床がきしんでしまい、「このような深夜の冒険は非常に魅力的なものであった」ことが記されているのです。
この時期のメイは、バーナード・ショーとの恋愛が挫折し、社会主義同盟の機関紙である『コモンウィール』の編集にかかわってモリスの手伝いをしていたヘンリー・スパークリングとの新しい恋愛がはじまっていました。しかし、その後に起きる出来事から類推しますと、必ずしもショーへの思いが断ち切られていたわけではありませんでした。
こうした家庭内の複雑さのなかで、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の第一回展は、開催されたのでした。すでに書いていますように、この第一回展は、モリスの心配に反して、予想以上の盛会となりました。展覧会にあわせて、実践家たちによる講演会も開かれました。モリスは、タピストリーについての講演をしました。その内容は、その後一八九三年にモリスの編集によってロングマンズ・グリーン社から出版される『アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の会員たちによるアーツ・アンド・クラフツ論集』に収録されることになります。
アーツ・アンド・クラフツ展覧会は、最初の三回は毎年、それ以降は、三年ごとの開催となります。モリスは、見てきましたように、この協会の初代会長を務めたわけではありません。モリスがその職を務めるのは、最初の展覧会から三年が立った一八九一年です。他方、芸術労働者ギルドの会長を務めるのも、創設八年後の一八九二年のことであり、そもそもモリスは、このギルドの創設会員でもありませんでした。これらのことからもわかりますように、アーツ・アンド・クラフツがその初期の実際的な動きを見せるようになる一八八〇年代においては、モリスの姿は明らかに「不在」だったのです。確かにアーツ・アンド・クラフツ運動は、モリスの影響下から生まれました。しかしながら、一八八〇年代、モリス本人が、若い世代を積極的に率いて、その運動の先頭に立って奮闘するということはありませんでした。世紀転換期の前後あわせての約三〇年間、あくまでも、この運動のなかにあって実質的に活躍したのは、モリスに続く若い世代の装飾美術家たち(あるいはデザイナー=社会主義者たち)だったのです。こうしてアーツ・アンド・クラフツ運動は、モリスが亡くなるころから、国内はいうに及ばず、海外での評価をも勝ち得るようになり、英国におけるデザインの近代運動が胎動する一九一〇年代の終わりころまで、その隆盛が続くのでした。
そうしたアーツ・アンド・クラフツの全般的な文脈のなか、そろそろ晩期を迎えようとしていたモリスを、デザイナーとしての新たな仕事が待ち受けていました。それは、その人にとって残されていた印刷と造本という最後の未知の領域へ向けての大いなる冒険を意味していました。
モリスは、第一回のアーツ・アンド・クラフト展覧会が開催された三年後の一八九一年の一月に、自身の私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを設立します。それは、社会主義同盟を脱退した二箇月後のことであり、死去する五年前のことでした。それでは、ケルムスコット・プレス開設の前史ともいえる、この間モリスがいかに印刷と製本に関心を抱いていたのかを示すその幾つかの断片から書きはじめたいと思います。
本という形式をもつ、モリスの最初の作品は、一八七〇年の『詩の本』でした。これは、自作の詩を自筆した五一頁からなる彩飾手稿本で、エドワード・バーン=ジョウンズ、チャールズ・フェアフェクス・マリ、そしてジョージ・ウォードルの三人が、彩色に加わっています。
それから十数年が立った一八八二年にセンチュリー・ギルドを設立したマクマードウは、その二年後に、このギルドの機関誌となる『ホビー・ホース』を創刊しました。マクマードウの手記によりますと、彼は、この雑誌のある号をモリスに見せ、見て楽しめるように文字を印刷することの難しさについて語ります。すると即座にモリスは、「ここに、克服すべき新たな工芸がある。新しい英語の活字が生み出される必要がある」と、いったそうです。
最初のアーツ・アンド・クラフツ展覧会の開催に連動して、一八八八年一一月一五日にニュー・ギャラリーにおいて、印刷についてのエマリー・ウォーカーによる講演会が催されました。ウォーカーは、有能なタイポグラファーで、当時、社会主義同盟のハマスミス支部の書記を務めていました。モリスはこの支部の財務を担当し、ふたりの思想的立場は一致していました。この講演会にモリスも出席しました。娘のメイは、この講演が、父親にケルムスコット・プレスを創設するうえでの霊感を与えた、と述べています。この講演の最後の箇所で、ウォーカーはこう語りました。
活字の次に重要になるのが、装飾、頭文字、そして、それとともに印刷されることになる、それ以外の飾りです。明らかなことではありますが、常にこれらは、一体のものとしてみなされる印刷面の調和を考えて、デザインされ、彫版されるべきなのです。
この講話を聞いたとき、すでにモリスは、『ウォルフィングの家族の物語』を脱稿しようとしていました。マッケイルは、こう書いています。「ほかの理由は横に置いて、この本は、タイポグラフィーの芸術にモリスが実際に向き合いはじめていることを示すものとして、特別の興味を引く」。かつてモリスが染色に興味を覚えたとき、そのとき教えを受けたのがトマス・ウォードルでした。今回その役目を果たすのが、エマリー・ウォーカーです。ふたりは一緒になって、『ウォルフィングの家族の物語』に使用する活字について話し合ったのでした。これに関してマッカーシーは、次のように語っています。
『ウォルフィングの家族』が一八八八年一二月に出版されたとき、モリスは全くそれに満足したわけではなかった。活字自体に、特徴が欠けていると感じた。しかしすでに、そのときの経験によってモリスは、版組みについて多くのことを学んでいたし、同時に彼は、現代の印刷工に比べて一五世紀と一六世紀の印刷工の方が、タイポグラフィーの実践にかかわって、はるかに神経を使っているという見解に達していた。
マッケイルの記述するところによれば、この『ウォルフィングの家族』は「その秋に書き終え、一二月のはじめを通して印刷にふされた」ようです。一方、マッカーシーは、上の引用文にありますように、『ウォルフィングの家族』が出版されたのは、はっきりと「一八八八年一二月」としていますし、『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』(一九六七年刊)の著者のレイ・ワトキンスンも、そのなかで、この散文ロマンスが世に出たのは「ウォーカーの講演の一週間かそれくらいのち」のことであったと書き、暗に「一一月」であったことを示唆しています。しかし、『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』の図版に使用されている『ウォルフィングの家族の物語』のタイトル・ページを見ますと、その最下段に「ロンドン 一八八九年 リーヴズ・アンド・ターナー ストランド一九六番地」という文字が並んでいます。そのことを考慮に入れるならば、この本の実際の刊行年は、一八八九年だった可能性があります。それはさておき、一九九頁からなるこの本は、バール体で組まれています。この活字は、ワトキンスンによれば、一六世紀に創案されたオリジナルを一九世紀のはじめに再刻したものでした。さらに彼は、この『ウォルフィングの家族の物語』について、次のように言及しています。
タイトル・ページは、大文字で組版され、数行の詩を含んでいる。効果という点からすれば、この本は、商業的に印刷された当時のほかの書物と比べて大いに異なっていただけではなく、それに続くケルムスコット版の書籍とも違っている。その後すぐにもケルムスコット版の書籍が続いたわけではなかった。一年後にモリスは、『山々の根っ子』を出版しており、その本において、『ウォルフィングの家族』で試みた実験を、さらに推し進めることになるのである。モリスはこの本をいたく気に入り、コカラルの言説にしたがえば、モリスはそれを、一七世紀以来の最も見るべき書物であると呼んだのだった。そこまでいう必要はない。しかしこれが、モリスの仕事にとってのひとつの里程標となった。それ以降、モリスがなさなければならなかったことは、自ら印刷することであった。
『ウォルフィングの家族の物語』に続く、もうひとつの散文ロマンスである『山々の根っ子』がリーヴズ・アンド・ターナー社から出たのは一八九〇年でした。事実上、ここまでが、モリスが印刷と造本に向かううえでの前史の概略となります。
『山々の根っ子』が出版された翌年(一八九一年)の一月一二日に、モリスは、自分の印刷工房に使う場所として、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉から数軒東に寄った、アッパー・モール一六番地の家を賃借します。その後、六月に賃貸契約が終わると、すでに借り受けていたアッパー・モール一四番地の家に移り、ここを本拠地として、モリスが亡くなって二年が過ぎた一八九八年まで、この印刷工房の活動は続くことになります。建物自体は〈サセックス・コテッジ〉と呼ばれ、工房には、〈ケルムスコット・マナー〉に因んで「ケルムスコット・プレス」という名称が与えられました。モリスにとってのよきパートナーは、近くに住むエマリー・ウォーカーでした。こうして、ゴールデン体、トロイ体、チョーサー体の三つの独自の活字がモリスによってデザインされ、五三点の書籍と九点のリーフレットがこの私家版印刷工房から生み出されてゆくのです。
ケルムスコット・プレスで発行された最後の五三番目の書籍が、『ケルムスコット・プレスの設立目的に関するウィリアム・モリスの覚え書き――S・C・コカラルによるこのプレスについての短い記述と、そこで印刷された書物の解題付き一覧を併載』と題された七〇頁程度の小さな本でした。一八九八年三月四日に完成し、いまは亡きモリスの誕生日にあわせて三月二四日に発行されました。黒と赤の二色で刷られており、本文はゴールデン体が使われています。加えて最後の数頁において、文字見本として、トロイ体とチョーサー体による印刷文が例示されています。本文は、「ケルムスコット・プレスの設立目的に関するウィリアム・モリスの覚え書き」「ケルムスコット・プレスについての短い歴史と記述」「発行順によるケルムスコット版全書籍の解題付き一覧」の三部から構成されています。こうした内容と形式をもつこの本が、実際のところ、ケルムスコット・プレスに関しての簡潔にまとめられた総集編の役目を担っているのです。
「ケルムスコット・プレスの設立目的に関するウィリアム・モリスの覚え書き」は、モリス本人が、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉において、死去する前年(一八九五年)の一一月一一日に書いたものです。それは、このような一文から、書き出されています。
私は、明らかに美を要求する何かを生み出す希望をもって、本の印刷をはじめました。その一方で、同時に本は、読みやすくあるべきであり、人の目をくらませるようなものであっても、あるいは、珍奇な形の文字によって読み手の知性を邪魔するようなものであってもならないのです。これまで私は常に、中世のカリグラフィーと、それに取って代わった初期の印刷術とを大いに称讃してきました。一五世紀の書物に関しまして、この間私が注視してきたのは、それらは永遠に美しさを失っていないということでした。それは、ひたすらタイポグラフィー自身の力によるものでありました。多くの本にあっては潤沢な装飾で満たされていますが、そうしたものは必ずしも付け加えられる必要はないのです。そしてこれが、本を生み出すうえで私が理解していた本質部分でしたし、それによって本は、印刷の作品となり活字の配列となって見る楽しみを与えるものになるのです。この視点に立って私の冒険に目を向けてみたとき、私は、主として以下の諸点に配慮しなければならないことに気づきました。それらは、紙、活字の形、文字間の相関的な空き、単語と行、そして最後が、頁上の印刷要素の位置関係だったのでした。
「ケルムスコット・プレスについての短い歴史と記述」を執筆したのが、シドニー・コカラルでした。執筆されたのは一八九八年の一月四日で、冒頭、「この文章は、ケルムスコット・プレスに関する論文を発表しようとしているあるアメリカ人顧客からの要望を受けた、あるイギリスの書籍商の依頼によって書かれました」と述べられています。具体的な名前は挙げられていませんが、「イギリスの書籍商」とは、これまでにモリスの書籍出版に関与し、また、ケルムスコット・プレス版の何冊かの本についての編者を務めたF・S・エリスだった可能性も残されます。
メイとスパーリングの結婚生活が挫折したことに伴って、ケルムスコット・プレスでのモリスの秘書は、一八九四年にスパーリングからコカラルに代わりました。それ以降コカラルは、モリス亡きあとも、ウォーカーとエリスとともに管財人のひとりとして、モリス家に忠誠を尽くすことになります。彼が執筆した「ケルムスコット・プレスについての短い歴史と記述」は、モリスの印刷術への関心の流れを振り返っており、今日に至るまで、モリス研究者や伝記作家にとっての貴重な情報源となっています。少し長くなりますが、当時の臨場感に触れるという意味で、ここに改めて引用しておきます。
一八六六年という早い時期に、『地上の楽園』のある版が計画されたとき、それは、サー・エドワード・バーン=ジョウンズによる豊富な挿し絵が用いられた二段組みの二折版として、タイポグラフィーとしては当時の書籍を大きく凌ぐことが考えられていました。……しかし、さまざまな理由から、その計画は先送りとなりました。その四、五年後、『愛さえあれば』の装飾版の計画が持ち上がり、そのとき、ふたつの頭文字のLと、七種類の横側面の装飾が、ウィリアム・モリスによって描かれ、彫刻されました。……再び彼がタイポグラフィーに大きな関心を示すようになるのは、一八八八年のことでした。そのとき以来彼は……友人で隣人のエマリー・ウォーカーと日常的に接するようになります。……多くの会話の結果として、このとき『ウォルフィングの家族』が、……昔のバール体にのっとった特別の活字が使われて、チジック・プレスで印刷されました。翌年、『山々の根っ子』が印刷されたときは、(小文字のe以外)活字は同じでしたが、組み版は異なる比率をもち、柱に代わって肩注が用いられました。この本は一八八九年の一一月に出版され、その著者は、一七世紀以降に発行された最も見るべき書物であると言明しました。……
その間ウィリアム・モリスは、自分自身の活字をデザインすることを決意していました。『山々の根っ子』が世に出ると、ただちに彼は、その仕事に取りかかり、一八八九年の一二月に彼は、印刷工として自分の共同経営者になってほしい旨、ウォーカー氏に要請しました。しかし、この申し出は、本人によって断わられました。しかしながら、この会社の財政面にかかわることはありませんでしたが、最初から最後まで、ウォーカー氏がケルムスコット・プレスの事実上のパートナーであり、彼の助言と賛同がなければ、いかなる重要な歩みもなされることはありませんでした。
モリスがデザインした三種類の活字についても、この文のなかでコカラルは、詳しく説明しています。一八九一年の五月に、ケルムスコット・プレスの最初の書籍である『輝く平原の物語』が世に出ます。このとき使用された活字が、モリスが最初にデザインした活字になりますが、一八九二年に出版された七番目の書籍となる『黄金伝説』(全三巻、デ・ウォラギネ著、ケクストン訳 エリス編)の書名に因んで、ゴールデン(黄金)体と命名されました。この活字のデザインのためにモリスが参照したのは、コカラルが示唆するところによれば、一四七六年出版のニコラ・ジャンソンによって印刷されたプリニウスの『博物学』において使用されていたローマン体でした。その後も、このゴールデン体は、モリス自身の著作である『ユートピア便り』(一八九三年発行)や『地上の楽園』(一八九六―九七年発刊)などにおいても、使用されてゆきます。
トロイ体がはじめて現われるのは、一八九二年発行の八番目の書物である『トロイ物語集成』(全二巻、ルフェーブル著、ケクストン訳、スパーリング編)からになります。これは、ドイツの活字の影響を受けてつくられたコシック体で、それ自体、力強い特質を備えていますが、コカラルは「いかなる中世のフォントの特質とも違う」、と指摘しています。このトロイ体は、モリスの『イアソンの生と死』などに用いられます。
ケルムスコット・プレスで使用された三番目の活字が、チョーサー体です。これは、トロイ体を縮小しただけの小さ目のサイズの活字としてデザインされました。最初に使われたのは、トロイ体と同じく『トロイ物語集成』においてでした。この後も、トロイ体との併用というかたちをとりながら、コカラル本人は発行年を間違って一八九三年としていますが、たとえば一八九六年発行の四〇番目の書物である『ジェフリー・チョーサー作品集』(エリス編)などにも適用されてゆきます。この書物には、バーン=ジョウンズの八七点の挿し絵がつけられていました。
『ジェフリー・チョーサー作品集』が発行された一八九六年六月二六日ころまでには、すでにモリスの体調は好ましくない状態にあり、残るいのちも、もはや三箇月余りとなっていました。そこで、次の第一八章「メイの結婚生活の破綻とモリスの最期」では、モリスの最後の冒険となったケルムスコット・プレスでの活動期間に起こっていたモリス家のさまざまな出来事に焦点をあてて、述べてみることにします。