第四章 ふたりの出会いと結婚
一.トプシーとジェイニーの出会い
ジェインとベッシーが劇場を出るとき、ロセッティが近づいてきて、自分とバーン=ジョウンズを紹介し、モデルになってもらえないかと尋ねました。翌日行くことで約束ができたのですが、翌日に来ることはありませんでした。親の許しが出なかった可能性があります。当時、画家のモデルをするということは、それだけではすまされず、性的なこともすると、信じられていたことが要因になっていたかもしれません。数日後、たまたま通りでバーン=ジョウンズがジェインと出会いました。そこで、来なかった理由を聞いたうえで、正式な依頼をするために、ロセッティとバーン=ジョウンズの双方かどちらかが、ジェインの家に行って親に話をしたものと思われます。その翌日から、ジェインはモデルを務めるようになりました。
ロセッティとバーン=ジョウンズとモリスの三人は、秋学期がはじまる一〇月一六日に先立ってハイ・ストリートからジョージ・ストリート一七番地(マッケイルは「一七番地」、マーシュは「一三番地」と表記)へ、下宿先を変えたものと思われます。彼らは、中庭に面した片方を食堂に、もう片方を居間と寝室に使っていました。ジェインは二階の客間で、主としてロセッティのモデルをしました。ジェインが芸術の世界に足を踏み入れたのは、まさしくこのときのことでした。それは、洗濯や掃除をする召使の肉体労働に比べれば、楽な仕事だったかもしれません。一八二八生まれのロセッティと一八三九年生まれのジェインとは、一一歳の年齢差がありました。ロセッティは礼儀正しく、思いやりがあり、会った人を何か特別の感情にさせてしまうような、ある種とても不思議な魅力をもっていました。ジェインにとってみれば、モデルをするのもはじめてであれば、おそらく、こうして身近に男性と接するのもはじめてのことであったと思われます。そして、世間的には一般的ではなかったとしても、ロセッティは、ジェインの容姿を心からほめたたえたにちがいありません。ジェインは背が高く、指が細くて長く、加えて、目は大きく、首は長く、さらには、大きく喉仏が張り出し、黒い頭髪は波状に湾曲し、そして、どちらかといえば生気が感じられない青白い顔色をしていました。おおかた、こうした容姿が、ラファエロ前派の主題にしばしば登場する典型的で理想的な女性像で、彼らのあいだでは、そうした女性が「スタナー(絶世の美女)」という隠語で呼ばれていました。おそらくロセッティは、自分が描こうとしている『アーサー王の死』をジェインに読み聞かせたでしょう。たとえば、次のような一節です。
そしてそれから、フランスの書にいうがごとく、王妃とラーンスロットは一緒になった。
彼らが寝床に入ったのか、それとも、何か他の楽しみに打ち興じたのか、私はこれ以上立ち入った話はしたくない。当時といまでは愛のかたちが異なるからである。
しかし、ともかく彼らふたりが一緒になったとき、サー・エグラヴェインとサー・モードレッドが円卓の騎士一二名とともにやってきた。そして彼らは叫んでいった。「裏切り者の騎士、レイクのサー・ラーンスロット。汝、いまこそ捕らわれよ」。
かくも大きな声で彼らが叫んだものであるから、宮廷のどの者にも聞こえたやもしれぬ。彼ら総勢一四名は、戦場で戦うがごとく、頭から足先まで鎧に身を固めていた。
「ああ、ふたりとも、もうお仕舞だわ」と、王妃グウェナヴィアはいった。
ロセッティは、ジェインをモデルに素描も描き、彼女にプレゼントしています。それには、「JB 一七歳/DGR オクスフォードにて最初に描く、一八五七年一〇月」と書かれてあります。これは、ジェインがロセッティのお気に入りのモデルとなっていたことのあかしとして理解することができそうですし、その一方で、このプレゼントのうちに、この時期同じようにジェインも、ロセッティの個性に何か特別の魔力を感じ始めていたという推量を働かせてもいいかもしれません。
一方モリスも、この間にジェインをモデルにして、彼女の頭部をペンと黒インクで描いています。はがき大ほどの小さい作品です。おそらくこのときすでに、密かにモリスはジェインに恋心を抱いていたものと思われます。九月の末に「芸術の秘宝」展を見るために、マンチェスターにいるR・W・ディクスンを訪ねますが、そのときモリスは、その作品を折りたたみ、本に挟むか財布に入れるかして、携帯していたにちがいありません。そのときの滞在中に、その作品を前に置いて、モリスは、「我が貴婦人の礼賛」と題する詩を書くのです。これは、言葉によるジェインの肖像画ともいえるもので、翌年に刊行される『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』に所収されます。その一部を、ここに引用します。
遠く離れて位置する、彼女のふたつの大きな瞳は、
心の記憶を探り出し、
いと悲しげに見つめる。
――美しき我が貴婦人よ!――
瞳の何と美しく、優しきことよ
だが、ほとんどいつも、遠く外を見つめる、
何かを待っている、しかし私ではない。
美しき我が貴婦人よ!
「何かを待っている、しかし私ではない」――とても暗示的な表現です。「我が貴婦人」(ジェイン)は、「私」(モリス)ではなく、誰を待っているというのでしょうか。ロセッティでしょうか。
またモリスは、このマンチェスターに滞在していたおりに、「我が貴婦人の礼賛」の詩作だけではなく、「ガラスの宮殿のなかのソルダンの娘」を描いています。これがモリスにとっての水彩画の第一作だった可能性もあります。この絵では、レッド・ライオン・スクウェアに置いてあるような重厚なひじ掛け椅子に腰かけているソルダンの娘と、全体的に青いガラスの濃淡で表現された宮殿とが、描かれていたようです。おそらく、姿は見えませんが、この宮殿のなかにモリス本人がいるのでしょう。これもまた暗示的な作品といえますが、しかし、油絵の第一作と同様に、この水彩画も散逸しています。このときまた、モリスはひとつの指輪を購入しました。この時期のロセッティの描画に、「バーデン嬢に指輪を贈るモリス」を描いたものがありますが、モリスがマンチェスターで購入して持ち帰った指輪をジェインの指に差し入れようとしている瞬間を描写した作品と考えて差し支えないでしょう。しかしながら、ジェインの指が右手の指であることからして、婚約指輪を意味するものではなく、単なるお土産の指輪と考えた方がよさそうです。
一一月はじめに、思わぬ事態が発生しました。このとき、長いあいだ非公式の婚約者として愛情関係にあった、リジーの愛称で呼ばれていたエリザベス・シダルの呼び出しを受けて、ロセッティがオクスフォードを出て、リジーのいるダービーシャーへとその姿を消したのでした。リジーは、もともとは、ロセッティの友人で画家のデヴァラルによって見出されたモデルでした。その後、ロセッティの指導のもとに絵を描くようになっていましたが、もともと病弱で、そのときはダービーシャーの湯治場で療養にあたっているところでした。一八六〇年にロセッティはリジーと結婚しますが、その二年後アヘンチンキ(鎮痛剤)の飲み過ぎにより死亡します。故意によるものであった可能性も残されています。
ロセッティは、すぐにもオクスフォードにもどってくることはなく、途中一度クリスマスにロンドンにもどっていますが、およそ半年間、ダービーシャーに留まることになります。リジーのこともあったのでしょうが、壁画の完成に自信を失い、その批判から身をかわす目的もあったのかもしれません。こうして壁画計画は、指導者であり監督者であるロセッティがいなくなったこともあり、他方、フレスコ画に対する知識と技術の不足のために製作後の作品の状態が好ましくなかったこともあり、完成しないまま、余儀なく中断へと追い込まれてゆきました。
モリスは、ロセッティの逃走をどう受け止めたのでしょうか。これが最大の問題ではないかと思われますが、それは、想像するしかありません。かつてバーン=ジョウンズは、こうした経験をしていました。ロセッティ風につくった自分のデザインの方が、ロセッティのオリジナル作品よりもよく見える、と不満を漏らしたときのことです。そのときモリスは、幾分語気を強めて、こう返事をしたのでした。「自分はそんなことを越えたところにいる。自分はできる限りゲイブリエルのまねをしたい」。この逸話から、モリスがいかにロセッティに心酔し、王様に仕える従者のごとくに彼を敬っていたかを理解することができます。しかしマッケイルは、このオクスフォード滞在中のモリスの心境について、こうした指摘をしています。
プライスやフォークナーといったオクスフォード時代の旧友たちとの交流のなかにあって、モリスは、ロンドンでの生活とロセッティの傲慢な支配とによって損なわれはじめていた、自分の本来の快活な側面の幾らかかを取り戻した。
もしそうであったとするならば、この間モリスは、ロセッティを熱烈な崇拝の対象としながらも、一方で、対象がもたらす抑圧を強く感じ取っていたことになります。この構造は、建築家を諦め、画家になることを母親に告げたとき以来モリスが感じ、苦しんでいた二律背反の葛藤と重なります。そうした心理的状況を考えますと、「スタナー(絶世の美女)」の突然の出現と、その女を最初に発見した男の突然の逃亡は、モリスの心をいやがうえにも複雑に混乱させたものと思われます。加えてモリスは、壁画の製作を通じて自分のデッサン力のなさを思い知らされ、苦悩の渦中にあったかもしれません。
モリスは、壁画を完成させると、天井に花の模様を描く仕事に着手し、一一月のはじめに、それを描き終えました。友人の画家たちは、自分の仕事に区切りをつけると、それぞれにオクスフォードを去ってゆきました。しかし、ただひとりモリスはこの地に留まりました。そして、しばらくのあいだ、ジェインをモデルに新しい画題に取りかかるのです。テーマは、寝乱れたベッドに横たわる小さな猟犬と一緒に寝室にいるイゾルデでした。ジェインはジョージ・ストリートの家へ通い、二階の客間でモリスのモデルを続けました。もしそのようなことが起こらなかったならば、再びジェインは馬丁の娘にもどるだけであって、これから起こる壮大なドラマの一方の主人公になることはなかったでしょう。
モリスは、仕事の合間に、ディケンズの『バーナビー・ラッジ』をジェインに読んで聞かせました。この本は、一七八〇年にロンドンで起こった反カソリックの暴動事件を背景に描かれた歴史小説です。人に本を読んでもらうことは楽しいことであり、ジェインは、滑稽な物語や通俗物を好みました。その意味で、『アーサー王の死』よりも、ずっとジェインの趣味に合致していたといえます。すでにこのころまでに、ジェインはモリスのことを「トプシー」の名で呼び、モリスはジェインことを「ジェイニー」という愛称で呼び始めていたにちがいありません。「ジェイニー」という表記は、現存するジェインから出された手紙類の署名に認めることができます。一方、周りのみんなと同じようにジェインは、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティのことを「ゲイブリエル」、エドワード・バーン=ジョウンズのことを「ネッド」と、親しみを込めて呼ぶようになっていたと思われます。
呼称においてはそうであったとしても、しかし、どのようなかたちで、トプシーとジェイニーの親密度が増していったのかは、それはよくわかりません。といいますのも、おそらくジェイニーは、当時の召使に求められていた、主人に対する寡黙を、自身の本性としていたでしょうし、一方のトプシーは、「レッド・ライオンのメアリー」の証言にあるように「女性に接するときクマのようになる」ことはなかったにしても、明らかに女性に対する接し方においては成熟が遅く、いまだに幾分粗野で、洗練さを欠いた男性だったからです。しかしながら、自分の芸術の中心を占めていたアーサー王の主題に沿って、つまりはロマン主義的で騎士道的な精神でもって、トプシーがジェイニーのことを思い始めていたことは疑いを入れないでしょう。そしてその一部には、ゲイブリエル不在後のジェイニーの心を埋めるのは自分の役目であり、二度とジェイニーを、過酷労働の女中の世界へ、そして、貧困生活の馬丁の家庭へ、もどしたくないという侠気的な思いが含まれていたかもしれません。伝えられてきているところによると、このときの描画に、「あなたを描くことはできないが、それでもあなたを愛している」と、トプシーは書き付けました。そしてこれが、トプシーからジェイニーへの求婚の言葉であったとも、真偽は別にして、言い伝えられています。
オクスフォードには、壁画を担当する画家たちとは別に、チャーリー・フォークナーやコーメル・プライスのような旧友たちがいました。フォークナーは大学の仕事が終わる午後になると、壁画製作の手伝いに来ていました。プライスは、医者になるための教育をここで受けていました。トプシーは、彼らとの交流のなかで、しばしばジェイニーのことを情熱的に語ったものと思われます。この年の一二月にオクスフォードから父親に宛てて出されたプライスの手紙に、このようなことが書き記されているからです。
出会った自分の「スタナー」についてトプシーは、オクスフォードの遊覧船の船長と同じように、いやそれ以上に熱心に、話題にし、口にしている。
このように、トプシーからジェイニーに向けられた真剣なまなざしは、友人たちも認めるところとなっていたようです。しかしその一方で、ふたりの婚約の話を耳にしたときの、ゲイブリエルとトプシーを崇敬するアルジャノン・スウィンバーンの反応は、こうでした。翌年一八五八年二月の彼の書簡になかに見られる一節です。
[トプシーは]その申し分のないスタナーとは、眺めたり話しかけたりするだけで満足すべきだ。彼女と結婚したいと考えるとは狂気の沙汰である。せいぜい男が夢を見ることができるのは、彼女の足に接吻するくらいだ。
少し大げさな表現ではありますが、これが周囲の友人たちの共通した思いだったのかもしれません。
この時期モリスは、イゾルデをテーマにした絵画の製作と同時に、詩集の刊行にも取り組んでいました。一〇月、最初アリグザーンダ・マクミラン社に話が持ち込まれました。しかし、それは不首尾に終わり、結局、年が明けた一八五八年の三月に、ベル・アンド・デルディ社から出版されました。これが、モリスにとってはじめての詩集となる『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』です。三〇編の詩で構成され、頁数二四八頁、発行部数約二〇〇部で印刷され、販売や献本に付されました。モリスの自費による出版でした。モリスは献辞として、「これらの詩を、友人で画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティに捧ぐ」と書きました。一方で、モリスの性格を表わしているのでしょうか、あちらこちらにスペルミスや印刷ミスが散見されました。マッケイルは、「出版されると、絶賛を浴びることはなかった。毒舌の栄誉さえも手にすることはなかった」と書いています。モリスの失望は大きかったにちがいありません。しかし、マッケイルから遅れること九十数年、一九九四年にモリスの伝記『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』を刊行したフィオナ・マッカーシーはそのなかで、エリザベス・ガスケルやR・W・ディクスンの称賛の言葉を例に挙げて、「モリスの『グウェナヴィア』の詩は、非世俗的で識別能力をもつ人が、その讃美者となった」ことを指摘しています。
トプシーとジェイニーの婚約が発表されたのは、この詩集が出版されてまもなくのことでした。このときトプシーは、刊行されたばかりのこの詩集に「ジェイン・バーデン嬢」という言葉を添えて、ジェイニーに一部贈りました。そうしたなか、リジーの呼び出しを受けてダービーシャーに滞在していたゲイブリエルが、事実上彼女との婚約を破棄して、半年ぶりにロンドンへもどってきます。トプシーとジェイニーが婚約を発表した、ほぼ同じ時期の一八五八年の四月か五月のことでした。
二.婚約から結婚へ
婚約から結婚までのおよそ一年間、ジェイニーはどのように過ごしたのでしょうか。マッカーシーは、こう述べています。
エセックスのモリスの家族に引き合わせるためにジェイニーが連れていかれたという記録はない。また、彼女が淑女になるために、どのようにして仕込まれたのか、あるいは、そういうことがあったのかどうかについても、いかなる証拠も残されていない。しかし彼女も、アニー・ミラーと同じように、少なくとも基本的な訓練の過程に身を置いたであろうことは、ありそうなことである。
このマッカーシーの言説に先立つ一九八六年に、ジャン・マーシュは、モリスの妻と娘に関する伝記のなかで、このことについてこう言及していました。まず、モリス家が、どうジェインを受け入れたかについてです。
[婚約がなされた]このころまでには、結婚に対するモリス家側の反対は完全に克服されていたか、さもなければ黙殺されていたにちがいない。モリスの父親は死んでおり、(もともとモリスが主教になることを望んでいた)母親や姉たちが馬丁の娘を嫁にもらうことに大喜びしたとは思えないが、いったん事が決まってからは、彼女たちは礼儀正しく愛情をもって振る舞った。大モリス夫人はモリスが聖職を放棄する決心をしたときは、彼の新しい芸術家友達を非難したかもしれないが、この件に関しては一言もいわなかった。というのも、息子はすでにコーンウォール地方の錫[マッケイルは「銅」、マーシュは「錫」と表記]の採掘鉱業の所有株をもとに、一八五〇年代半ばでおよそ九〇〇ポンド相当の父親の財産を相続していたからである。
それでは、淑女養成、あるいは花嫁修業という点では、ジェインは、どうした環境に置かれていたのでしょうか。マーシュは、このように推測しています。
婚約から結婚までの一年間、ジェインは中流階級の礼儀作法と家事について特訓を受けたと考えなければならない。彼女を変身させるには、ちょうどそれくらいの期間が必要だったであろう。そのために、一八五九年の春に予定されていた結婚に至るまでの数箇月、彼女はおそらくもう一度学校に行かされたか、あるいはむしろ、教養や正しい社交方法を教える婦人学級か花嫁学校のような場所に通わされたであろう。英国ではアクセントが階級を示す鍵だったので、彼女は「正しい」話し方を学び、礼儀正しい言葉遣いや言い回しを教わったであろう。彼女はまた、いままさに自分が入ろうとしている階級の婦人にふさわしい衣服や行儀に関する当時の考えに加えて、清潔にするという個人的習慣もならったことであろう。衛生状態が状態だったので、労働者階級の人びとはその習慣に従うことができなかったのである。読み書きも磨き上げられ、また彼女の教育内容には、おそらく家事や召使の管理の仕方を教える授業も含まれていただろう。
ジェインの場合の花嫁修業は、労働者階級から中流階級への階級上昇にかかわって必要とされる諸点に、その主眼が置かれていたにちがいありません。階級上昇という観念は、当時の貧しい家庭に生まれた女子にとっては、重要な意味をもっていました。それは、自分自身が裕福な暮らしができるようになるだけではなく、自分の家族もまた、経済的恩恵に与かることを意味していたからです。九〇〇ポンドもの大金をモリスが年間に使えたのに対して、ジェインの父親の年間の稼ぎは三〇ポンドにも満たない程度でした。ジェインは、こうした家庭内の経済状態については、全く知らされていなかったのではないかと思われます。マーシュは、このように語ります。
[その理由は]家族の財産を管理するのは夫の権利であり、妻を養うのは夫の義務だったからである。それに加えて、モリスのような地位の紳士は、妻の家族を含め、金銭的に困っている親戚は誰であろうと、援助するように期待されていた。こうしてロバート・バーデンとアン・バーデンは貧困から救われ、老齢や病気のために救貧院に入れられる恐怖からも救い出されたのである。
これが、当時の結婚のひとつの側面であったとすれば、親を養うことが子どもの責務と考えられていた現実の規範に則って、あるいは、犯罪者や精神病者でない限り、たとえいくら野暮な男性からの申し出であろうとも、正当な理由なく女性はそれを断わることができないという拘束的規範に従って、ジェインは、モリスの求婚を受け入れた可能性があります。その一方で、困苦の環境から救いを求める美しき乙女が目の前にいれば、躊躇なく手を差し出さねばならないといった、中世の英雄伝説風な騎士道精神が背後にあって、あるいは、王妃グウェナヴィアやイゾルデ姫の幻影を虚実のうちにジェインに投影しようとする、まさしく中世宮廷風のロマン主義が根底にあって、モリスはジェインに求婚した可能性も否定できません。もっともこれまで、それ以外の見立ても多く出されてきました。たとえば、王様であるゲイブリエルが従者であるトプシーに、代わりに一時期ジェイニーの世話をするように命じたのではないかとか、あるいはその逆で、王様が迎えにくるまでのしばらくのあいだ、ジェイニーは意図的に従者の懐に入ったのではないかとか、さらにはまた、ジェイニーの内なる決意として、こうした芸術的世界に身を置くことを強く願い、それが達成できるのであれば、相手はトプシーでなくても誰でもよかったのではないかとかいった諸説です。しかし、いずれにいたしましても、いまに残る記録からは、なぜふたりの婚約が成立したのかを明確に立証することは困難なように思います。確かなことは、双方が自由な意思で個性を認め合い、そして、将来の家庭生活について忌憚なく語り合い、かくして、相互の信頼のもとに結婚へと導かれてゆく、そのような現代的なプロセスとは、大きく異なっていたということです。
モリスの『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』が出版された時期と前後して、ネッド・ジョウンズが、深刻な病魔に襲われます。幸いヴェラ・プリンセプの母親の計らいで、ケンジントンにあるリトル・ホランド・ハウスへ運び込まれますが、健康回復のための手当てを受けながら、おおかたこの一年をここで過ごすことになります。病名ははっきりとはわかりません。この時期ネッドは、精神的に衰弱していた可能性もあります。一方、トプシーは、昨年の冬以来、ロンドンのレッド・ライオン・スクウェアの家とオクスフォードのジョージ・ストリートの下宿屋とのあいだを行ったり来たりしていたものと思われます。それは、オクスフォードにいる、婚約者としてのジェイニーと同じ時間を過ごすためだけではなく、乱れたベッドの前に立つイゾルデを主題にした、製作中の絵のモデルとしてのジェイニーに会うためでもありました。こうしてこのころから、レッド・ライオン・スクウェアの家は、トプシーもネッドも不在がちになり、管理体制が次第に不安定なものになってゆくのです。
トプシーの《麗しのイゾルデ》が、いつ、そしてロンドンとオクスフォードのどちらの仕事場で完成したのかは、判然としません。マッケイルは、ある一枚の絵について、次のような記述をしています。
彼[モリス]は懸命に絵を描き続けた。しかしながら、不満がつきまとった。いみじくも彼は、リーズのプリント氏に七〇ポンドという適切な価格で一枚の絵を売った。交渉は、自分のためだけではなく友人のためにも、好んで絵の取引をしたがるロセッティによって行なわれた。
マッケイルは、この絵がジェインをモデルにしたイゾルデ姫の絵であるとは、いっさい言及していませんが、その絵であることに間違いありません。この絵は、ロセッティを含む何人かの画家たちによって筆が加えられた可能性もあります。モリスにとって、人物描写の力不足を再実感させられる、不満の残る作品であったにちがいありませんし、自ら売ることを望んでいたかどうかもわかりません。また、これも推測になりますが、当時お金に困っていたゲイブリエルが、売却代金のすべてをトプシーに渡したとも思われません。この絵は、マッケイルの伝記の図版に使われ、そのキャプションには《王妃グウェナヴィア》と書かれてあります。しかし、そのなかに猟犬が描かれていることからして、いまでは《麗しのイゾルデ》と表記されることが一般的です。この作品は、売却後、転々と所有者を渡り歩いたあと家族の手もとにもどり、モリスが没したのちの一八九八年にロンドンのニュー・ギャラリーで公開されました。現存するモリスの唯一の油絵として、現在、ロンドンのテイト・ブリテンで見ることができます。
この年(一八五八年)の八月、トプシーは、ウェブとフォークナーとともに、フランスを再訪しました。事前にオクスフォードからボートを送り届けておいて、パリからセーヌを下るという、一風変わった冒険を楽しもうとしたのですが、届いてみると、底に大きな穴が開いており、その修理に追われました。こうして壮大な船旅がはじまりました。しかし、またしても、アミアンの大聖堂の塔の上で、こんなことが起こります。それは、ウェブの記憶するところによれば、肩に掛けていたカバンからトプシーが金貨を落としてしまい、雨水用の排水口から外に転げ出ないようにと、ウェブが、それらの金貨を足で押さえたという、笑うに笑えない出来事でした。さらに続いて、今度はトプシーが聖歌隊の席に座って絵を描いていたときのことでした。上の中二階にいたウェブとフォークナーの目に、トプシーがじたばたして、立ち去ろうとしている様子が飛び込んできました。絵の上にインクのボトルを落としてしまっていたのです。
こうした重なる不運や失態をフランスで経験したころ、一方イングランドでは、それよりもさらに重大な出来事が起きていました。マーシュは、この出来事をこう描写しています。
ジェインとモリスの関係に立ちふさがった早い時期の重圧は、一八五八年夏のゲイブリエルのオクスフォード訪問であった。モリスは友人のフィリップ・ウェブとチャーリー・フォークナーとともにフランスで休暇を楽しみ、花嫁を迎えるための新居の計画にあたっていた。……ゲイブリエルがオクスフォードへ行った表向きの目的は――この旅は明らかにモリスがいないのを承知で行なわれた――、学生会館の壁画の仕事を完成させることであった。もっともそれはかなり見え透いた口実だったにちがいない。というのも、ロセッティはその数箇月前に事実上フレスコ画を放棄しており、その仕事を再開する意図が真剣なものでなかったことはまず間違いないからである。そうではなくて彼は、ジェインに会いにいき、彼女の美しい素描を仕上げたのである。この素描は、構想中のある絵画のなかの「グウェナヴィアのための習作」と評されているが、実のところ、極めて印象深いジェインの肖像画なのである。そこには、彼女が着ていた、襟を緩く蝶結びに結んだ襞のある衣装が軽やかな筆致でスケッチされている。
それでは改めて、なぜゲイブリエルはジェイニーに会いにいったのでしょうか。壁画の完成のために行ったというのは口実であったとしても、ただ単にジェイニーをモデルに、絵を描くためだけにオクスフォードまで出かけたのでしょうか。それもまた口実で、ジェイニーに対する何らかの強い感情が、ロセッティをしてオクスフォードまで行かせた可能性はないのでしょうか。そうした、おそらく誰しもが考えそうな疑問を念頭に置いて、マーシュは、このような言葉を繰り出しています。
[オクスフォード訪問は]モリスも相談を受け、知らされていたことは間違いない。というのも、自分の友人の妻となる女性と隠れて会う約束などゲイブリエルがするはずもなく、何といってもこの時期、ゲイブリエル自身は彼女を愛していなかった。なるほど彼はリジーとの関係を断ったように見え、したがって、自由の身になっていたのではあるが、だからといって、彼がジェインを代わりの相手と考えていた兆候はとくに何も見当たらない。というのもひとつには、友人の恋人に「手を出す」ことは男の誇りが許さなかったし、またひとつには、ゲイブリエルは再び独身にもどって楽しんでいたからである。
画家からほめ言葉を浴びせられ、自分の美点を描いてもらえることは、ひとりの女性としてこのうえなくうれしいことであり、半年以上も会わずに忘れかけていたジェインのほのかな感情に、このとき再び火が灯された可能性もあります。続けてマーシュは、次のような見解を示します。「いずれにせよ人をほめるとそれが誘惑につながることがしばしばあり、とくにジェインの場合、もし彼女がほめられるのに慣れていなかったとすれば、誘惑につながったかもしれない。たぶんゲイブリエルはオクスフォードにもどるべきではなかったのである。いったんもどったからには、ジェインの感情の反応を燃え立たせる危険を冒していることを自覚すべきであった」。
マッカーシーの見解も、ほぼマーシュの見解と同じで、ゲイブリエルのオクスフォード訪問についての一連の記述に続けて、こう述べています。
結婚前の数箇月で、どうやらモリスの「スタナー」は、ロセッティにひどく傾いたように見える。
のちにジェイニーは、決して夫を愛していなかったことを認めた。その言葉で彼女が暗にいおうとしていることは、純粋な感情を背景として求婚者を受け入れたり、拒否したりすることが許されない社会的環境を考えるならば、彼女にはこの結婚についてのいかなる選択の余地も残されていなかったということである。モリスの求婚は、彼女の期待をはるかに超える、善きものであった。およそ四〇年後、彼女は、そうした状況に立たされれば、再び自分は同じことをするだろうと、語った。
ジェイニーはまた、結婚前にロセッティが自分を「求愛する」ことはなかった、と断言した。このことは、抜き差しならぬなまめかしい色事へと進展するのは、九年か一〇年後になってはじめて開始されたことを暗に意味していた。
つまり、マーシュもマッカーシーも、このときのオクスフォード訪問の時点では、ジェイニーの心には大きな変化がみられたものの、ゲイブリエルとジェイニーのあいだには、いまだ深い愛情関係は存在していなかったことを示唆しているのです。
しかしながら、ゲイブリエルの素行には、場末の劇場での日常的な「スタナー」狩り、学生会館の壁画計画の中断、婚約者リジーとの愛の放棄、友人の不在中のなかでのその婚約者との再会などにみられるように、おおよそ倫理感や責任感といった規律から遠く離れた、放縦的な側面が多々認められます。また、ジェイニーにしても、ゲイブリエルからのモデルの申し込みを、婚約中の身であることを理由に、なぜきっぱりと断わらなかったのでしょうか。画家とモデルの関係は、暗に性的関係をも含むと考えられていた当時の一般的な認識を、ジェイニーが知らなかったはずはなく、断わらなかったということは、ロセッティの気持ちを受け入れたとみなされても仕方がない、極めて軽率な行動だったといわざるを得ません。さらに、「結婚前にロセッティが自分を『求愛する』ことはなかった」という、後年のジェイニーの言説にしましても、本音と建前が複雑に入り乱れるヴィクトリア時代特有の一種の俗物根性よろしく、夫であるトプシーの立場と自尊心を最大限確保し、あわせて、自分たちの純潔なる結婚の絶対的正当性を守るうえから、たとえ事実がそうであったとしても、「結婚前にロセッティが自分を『求愛する』ことがあった」などとは、口が裂けてもいえなかった可能性も、完全に否定されえないのではないかとも推量されます。
加えて、ここで使われている「求愛する」(‘make love’)という語句が、「言い寄る」とか「口説く」とかいう意味を越えて、実際には、「性行為をする」と同義であることも見逃すことができません。ジェインであろうと誰であろうと、婚約者以外の男性の名前を具体的に挙げて、その男性と結婚前の婚約中に「性行為をする」ことがあったなどと公言する女性がいるでしょうか。ジェインの「結婚前にロセッティが自分を『求愛する』ことはなかった」という言葉は、マーシュやマッカーシーの解釈のように、確かに文字どおりに、「なかった」と理解することもできます。そしてまた、この時点で「なかった」ということはその後に「あった」ことを意味する、というマッカーシーの受け止め方も、当然ながら妥当でしょう。しかし、さらに一歩進めて、「なかった」という言葉の表面的作用の陰に隠された実態的意味としての、「あった」という反作用が呼び起こされてもいいのではないかとも思われます。こうした、言葉のもつ作用と反作用を前提にした理解の方法に一定の合理性があるとするならば、それによって、かすかな可能性かもしれませんが、ゲイブリエルとジェイニーは、ともにこの時期から愛に落ち、「求愛」つまりは「性行為」があったのではないかという推論の扉が開かれることになるのです。
この夏、ゲイブリエルはオクスフォードに、いつからいつまで、滞在したのでしょうか。数日でしょうか、それとも、数週間でしょうか。宿泊した場所は、独自にゲイブリエルが借り上げた家でしょうか、それとも、許可を得ていたかどうかは別にして、トプシーが使っていたジョージ・ストリートの家を借用したのでしょうか。ジェイニーは、モデルをするために、日々通ったのでしょうか、それとも、ゲイブリエルの滞在する家に泊まることもあったのでしょうか。さらには、ジェイニーのモデルとしての行為は、無償だったのでしょうか、それとも、しかるべき代金が支払われたのでしょうか。このように疑問や謎は尽きません。一方、それらを明らかにするための証拠や資料も残されていないようです。
ゲイブリエルとジェイニーの愛が深まると、最終的に一八七一年に、トプシーとゲイブリエルはテムズ川上流のケルムスコットにある一軒の古いマナー・ハウスを共同名義で借り、ここからゲイブリエルとジェイニーの愛の暮らしがはじまります。ロセッティのこの一八五八年夏のオクスフォード滞在は、〈ケルムスコット・マナー〉でのふたりの生活を先取りしていた可能性はないのでしょうか。立証は不可能ですが、まったく排除することもできないように思われます。もしそうであれば、「抜き差しならぬなまめかしい色事へと進展するのは、九年か一〇年後になってはじめて開始された」のではなくて、ロセッティのこのオクスフォード訪問を起点として、つまりは、トプシーとジェイニーの結婚以前にあってすでに「開始された」ことになりますし、あわせて、「結婚前にロセッティが自分を『求愛する』ことはなかった」というジェイニーの言葉そのものも、虚偽の可能性を含みもつことになります。
おそらくジェイニーは、ゲイブリエルのモデルをしながら、トプシーと見比べていたものと思われます。画家として、どちらが才能に恵まれているのだろうか。男として、どちらが優しいのであろうか。そして資産や収入は、どちらが上なのであろうか。おそらく軍配はゲイブリエルに上がったのでしょう。しかしながら、マッカーシーが述べるように、このとき「モリスの『スタナー』は、ロセッティにひどく傾いた」のか、それとも、ゲイブリエルとジェイニーはともにこの時期から愛に落ちたのかは横に置くとしましても、結果から判断すれば、ジェイニーには、トプシーとの婚約を破棄し、ロセッティの手を握り、どこか遠くの町へ逃亡するほどまでの勇気はなかったようです。そしてその一方で、のちに本人が告白しているように、「決して夫を愛していなかった」こともまた、真実だったのでしょう。そうしたことを全体的に勘案しますと、つまるところ、この夏の出来事は、モリスの「スタナー」であり婚約者であるジェイニーが、どれほど意識的であったのか、そうではなくて、どれほど無意識的であったのかは別にして、真に心を寄せる男を身近に置き、愛のない別の男との結婚へと、危険にも突き進んでゆくことを意味する、ひとつの結節点だったということになるのではないでしょうか。
他方、モリスの気持ちはどうだったのでしょうか。当然のことかもしれませんが、この夏以降、ロセッティの存命期間中、ふたりの愛の交流を前にして、彼の感情と行動は、揺れ動き、さまようことになります。かくして、三人それぞれに、避けがたい冷酷な運命が、ひと夏のロセッティとジェイニーとの再会によって、宿されたのでした。
トプシーが不在のあいだにジェイニーに会いに行くことについて、事前にゲイブリエルから知らされていたのか、それとも全く秘密裏に行われたのかは、直接それを示す資料はないようです。もし仮に事前に相談がなされていたとすれば、フランス滞在中のトプシーは、多くの不安を抱えていたものと想像されますし、もし仮に帰国後に、自分の不在中にゲイブリエルと婚約者であるジェイニーが会っていたことが知らされたとしたら、トプシーの心は、大きくかき乱されたにちがいありません。しかし彼は、うまく心の奥にしまい込み、別の事象に関心を向けた可能性があります。それは、その後に続く、ロセッティとジェインの愛情問題に対するモリスの一貫した対処の仕方でもありました。
マッケイルは、帰国後のモリスの様子について、このように、間接的な表現を使って、描写しています。
旅行中、自身で家を建てる計画が、彼[モリス]とウェブのあいだで論議され、帰国すると、それにふさわしい敷地をあっちこっちと探し求めて検討した。晩秋の時期、病気についての言及がみられるが、それは、食べ過ぎや飲み過ぎが原因であるとか、さもなければむしろ、食べたり飲んだりするものに全く気を遣わないこと(彼にとってはいつものことである)に原因があるとか、にぎやかしくも友達たちは語っている。一一月にモリスは、再びフランスへ行き、そこで古い手書きの写本や甲冑、鉄製品や琺瑯製品を購入した。自分自身の性格のなかに彼が見出していた不安定さ、あるいは、同じく見出していた思いやりが、一時期、鋭敏なものになった。
当然ながらマッケイルは、モリスのフランス旅行中にロセッティとジェインが会っていたなど、一言も触れていません。したがいまして、この伝記を読んだ多くの人たちにとっては、何ゆえに、この時期モリスが病的な状態に陥っていたのかを理解することは困難だったものと思われます。バーン=ジョウンズの娘婿であったマッケイルは、現象や事象は書けても、当事者たちの名誉にかかわる、こうした微妙な問題については、その原因も理由も、あるがままに直接的に書くことはできず、いっさいの記述から筆を引いたのでした。しかし、この時期のモリスの病気の原因が何であったのかは、いうまでもなく明白です。このとき、苦悩のなかにあったモリスが関心を向けたのは、新居の建設であり、大量の飲食であり、そして海外での買い物でした。とりわけ新居を建設することは、妻を扶養するうえでの夫の務めであり、また同時に、レッド・ライオン・スクウェアでの家具づくりに続く、自分の家族のための室内づくりという新たな夢を実現するうえでの格好の機会となるものでした。
トプシーとジェイニーのデートのシーンが記述された資料がひとつ残っています。マーシュは、以下のように、紹介しています。
彼女[ジェイニー]が人前に姿を見せた記録は一八五九年三月の記録だけであり、それはネッド、チャーリー[・フォークナー]、クロム[コーメル]・プライスといったモリスの学友一同がある日曜日に画家のジョージ・ボイスに付き添ってオクスフォードを訪れたときのものである。ボイスの日記によれば、四人は「ゴッドストウまでボートで行き、そこで『スタナー』(未来のウィリアム・モリス夫人)を見た」、そして、帰りには「トプシーの所」でスウィンバートも一緒に食事をした。ジェインとモリスは穏やかな日曜日には遠足に出かけていた可能性があり、ボイスや他の人たちが彼女を遠目にしか見ていなかったというのは意味深い。
それから約一箇月後の一八五九年四月二六日の火曜日に、二五歳のウィリアム・モリスと一九歳のジェイン・バーデンの結婚式が、オクスフォードにある古くて小さいセント・マイクルズ教区教会で催されました。ここは、モリスがかつてその徒弟となったG・E・ストリートの手によって修復されていた教会でした。結婚は公告されることなく、許可証によるもので、式は、モリスの友人で、そのときまでに聖職に就いていたR・W・ディクスンによって執り行なわれました。しかし、緊張のあまり、あろうことか台詞を間違え、ふたりを「ウィリアムとメアリー」と呼んだのでした。記録簿には、ジェインは「未婚女性」で「未成年者」、住所は「ホリウェル六五番地」、モリスは「学士」で「紳士」、住所は「ジョージ・ストリートの下宿屋」と記載され、ジェインの父親と妹のベッシーが署名しました。モリス家の関係者はみな欠席しました。ゲイブリエルも出席していません。モリスの友人としてネッドとフォークナーが出席し、フォークナーが花婿の介添え人を務め、おそらくベッシーが花嫁の付添い人を務めたものと思われます。極めて控えめな結婚式でした。両家の階級格差が原因だった可能性もあります。
確かに式自体は、地味そのものでしたが、しかし、そのときまでにウェブの手によって壮大な新居の図面が完成していました。そして、この新しい家の設計を機に、ウェブはストリートの事務所を離れ、建築家として独立し、グレイト・オーマンド・ストリート七番地に事務所を構えます。一方、トプシーとジェインは、これまた壮大な新婚旅行を計画していて、オクスフォードからヨーロッパ大陸へ向けて旅立っていったのでした。