中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第一〇章 仕事の再構築と公的活動への参入

一.商会の改組と関心の移動

ベルギーから帰国すると、モリスは、バーン=ジョウンズと一緒に、カンバーランド州のナワースにジョージ・ハウワドとロウザリンド・ハウワドの夫妻を訪ねました。この夫婦にとってのロンドンでの住まいであるパレス・グリーン一番地の邸宅を設計したのがウェブで、内装を手掛けたのが、モリス・マーシャル・フォークナー商会でした。夫のジョージは水彩画を得意とし、のちに東カーバーランド選出の自由党の国会議員になります。妻のロウザリンドは、さらに際立った存在で、その後、女性参政権運動や禁酒運動の分野で活躍します。

この訪問の目的のひとつは、ネッドの神経症と不眠症を少しでも和らげるためのものでした。ちょうどそのときカーナウン・デイクスンもそこに滞在しており、三人は、オクスフォード時代にもどって、楽しい時間を過ごしました。ロンドンにもどったモリスは、八月二〇日、ロウザリンドへお礼の手紙を書きました。このなかの一節に、モリスの何か、現代社会にかかわる現状認識のようなものを読み取ることができます。

世界(つまりは、私たちの住む小さなその一角)が、いま一度美しいものに、そしてさらに劇的なものになるように、おそらく神々は、世界に対していま困苦と恐怖をご用意なさっているのです。と申しますのも、神々が、いつまでも世界を退屈で醜悪な状態のままに放置なさるとは、私には信じられないからです。他方、神々にとって十分に善きものは、私たちを満足させるにちがいありません。もっとも、ときどき私は、この地上の物語がなにゆえに無価値になっているのか、それを知りたく思うことがあります。

モリスがハウアド夫妻を訪問したちょうど一八七四年の前後に、それまで「世界の工場」を標榜していた英国は、世界の工業生産品のシェアにかかわって新興国であるアメリカ合衆国にその首位の座を譲ります。すでにこの時期、英国経済の凋落傾向は明らかで、輝かしい繁栄の時代に代わって慢性的な不況の時代へと入ってゆき、それに伴って、英国社会のさまざまな面で大きな構造転換が胎動しようとしていたのでした。モリスが亡くなるのが一八九六年です。この間の四半世紀は、英国にとって、大不況の時代であり、議会制民主主義の発展の時代であり、あわせて、帝国主義の時代に相当します。

上のロウザリンドへ宛てた手紙に認められる、「この地上の物語がなにゆえに無価値になっているのか」という語句から、中世的なるものから現代的なるものへと、モリスの視線が明らかに移動しているのではないかと思わせる響きが伝わってきます。そして同時にそこから、いままさに起きようとしている、モリス・マーシャル・フォークナー商会の改組劇を予告するかのような響きもまた読み取ることができるのです。

「商会」の七人の経営者のうち、ロセッティとブラウンとバーン=ジョウンズは画家で、ウェブは建築家で、マーシャルは衛生技師で、フォークナーは学術の世界にすでに復帰しており、事実上の業務は、おおかたモリスの肩にかかっていました。そしてまた、財務の面においても、いまや「商会」は、モリスの収入にほとんど依存していたのでした。しかし一方で、相続していた資産は、目減りする傾向にありました。そうした現状を受けて、モリスが考えた改組計画は、七人による共同経営の形態を一端解体し、モリス単独の経営形態へと再構築することでした。それに対してブラウン、ロセッティ、マーシャルの三人から異議が申し立てられました。この交渉は難航して、翌年へと持ち越され、結局のところ、この三人対しては権利喪失の補償金としてひとりにつき千ポンドが支払われ、残りのバーン=ジョウンズとウェブは引き続きステインド・グラスや家具のデザインを提供するということで決着しました。こうして一八七五年の三月三一日に、モリスの単独経営による「モリス商会」が発足したのでした。

「商会」のこれまでの成功は、主としてモリスの指導と仕事によるものであり、各自が行なったデザインや会議への出席については、この間そのつど報酬が支払われており、そうしたことを踏まえるならば、この決着は、モリスにとって不満の残るものであったにちがいありません。このときゲイブリエルはブラウンの考えを支持しましたが、そのときまでにゲイブリエルの弟のウィリアムとブラウンの娘のルーシーが結婚していたことが背景にあったことも見過ごすことはできません。そのようなわけで、ゲイブリエルは補償金を受け取るのに、おそらくためらいがあったものと推測されます。これについて、ジャン・マーシュは、自著の『ラファエル前派の姉妹団』(一九八五年刊、訳書題は『ラファエロ前派の女たち』)のなかで、こう指摘しています。

実際ゲイブリエルは、モリスが残りの共同経営者たちに支払った補償金のうちの自分の受け取り分を、ジェインのために投資することにした。金額はおよそ千ポンドであったと考えられ、明らかにこれには、ジェインが夫にお金の無心ができないときに引き出すことができる資金としての意味合いがあった。これは、トプシーに対する最後の当てこすりとみなしていいかもしれない。あるいは、これまでに彼女に提供することができなかった生活保障にかかわる、ゲイブリエルにとっての最終的な試みとして解釈することも可能かもしれない。いずれにせよ、このことは、既婚婦人の依存性を例証するものである。

このときのゲイブリエルの心の奥底にある感情は、《断崖絶壁のトプシー》と題された戯画によく現われています。画面の右上の隅にジェイニー、その左斜め下にマルクスとエンゲルスと思われるふたりの男性、画面の左上の隅に、「餓死する我ら」と書かれた横断幕をもつ、商会を解雇された六人の共同経営者たちが描かれ、彼らが見つめるなか、画面の中央でトプシーが、まさに真っ逆さまに頭から地獄へ落ちようとする瞬間が描写されています。トプシーに対するゲイブリエルの憎しみが、当時の社会思想的文脈から表出された作品ということができます。

また、同じようにゲイブリエルの心情は、「トプシーの死」という滑稽譚の殴り書きにも現われています。この話は、モリス商会のマネージャーの妻によって毒入りのコーヒーを飲まされ、トプシーが殺害される惨劇を描いたものです。おそらくゲイブリエルは、トプシーの死を、心のどこかで望んでいたにちがいありません。というのも、トプシーとゲイブリエルのきずながこうして切れた以上、安定した「三角関係」の永続はもはや望むべくもなく、ゲイブリエルが合法的にジェイニーを手に入れるには、トプシーの死を待つしか残されていなかったと思われるからです。しかし、それが実現したからといって、ゲイブリエルとの生活をジェイニーが望んだかどうかはわかりません。なぜならば、ゲイブリエルのパラノイアは完治するどころか、ますます幻覚も妄想も進んでいたからです。《断崖絶壁のトプシー》と題された戯画も、「トプシーの死」という滑稽譚も、そうしたゲイブリエルの精神状況の文脈から読み解く必要があります。つまりこれらの作品は、必ずしも、モリス・マーシャル・フォークナー商会の改組の実態を正確に言い表わしたものではないということです。マッケイルはこう書いています。「この時期以降、もはやモリスが、チェイニ・ウォークのロセッティの家に姿を見せることはなかった。そして、ふたつの強力で自己本位的な個性のあいだにあった不和は、決定的なものになったのである」。

モリス・マーシャル・フォークナー商会からモリス商会へ正式に改組されたこの時期に、モリスは、ルイーザ・ボールドウィンに手紙を書きました。日付は、一八七五年三月二五日となっています。前日の四一歳の誕生日を祝うルイーザからのメッセージに対しての返礼の手紙でした。しかしそれは、自分の人生の後半へ向けての決意表明という側面も有していました。以下は、その手紙の前半の書き出しの部分です。

 ご親切、ありがとうございます。私のことと私の誕生日のこととを覚えてくださっていて、心からお礼申し上げます。友人に恵まれ、私は幸せな人間でした。私の不断の愛と幸についていえば、幸運な偶然のなせる業であって、何か違った別の方法でなされ得たものであるという思いはありません。いまや私は、人生の後半に入り、自分のことで忙しくなりそうです。人生の最後までそうであってほしいと思います。内容的にも、充実した時間であることを願っています。私は自分のことを、概して幸福な男と呼ばなければならないでしょう。そして私は、心のなかで起こった可能性のある、あらゆる不幸をこれまで乗り越えてきたと、つくづく実感しており、これからも不幸が訪れようとも、それに耐えることができるという結論に達しております。

そして、この手紙の後半部分において、いま進行中の仕事についてモリスは、こう書き記しました。「いま私は、小さな一連のアイスランドの物語を近々に出版しようとしています。そしてまた、この夏には『アエネイス』の翻訳を出すつもりです。この仕事は、この数箇月、私にとっての大きな楽しみとなっています」。

この手紙でモリスが言及している「小さな一連のアイスランドの物語」は、『北方の三つの愛の物語およびその他の説話』と題されて、この年にエリス・アンド・ホワイト社から出版されました。これは、『グレッティルのサーガ(強者グレッティルの物語)』(エリス社、一八六九年)、『ヴォルスンガのサーガ(ヴォルスングとニューベルングの物語)』(エリス社、一八七〇年)に続く、マーグヌースソンとの共訳による五年ぶりのモリスにとっての三冊目となる翻訳書でした。そして、翌年(一八七六年)に、『ヴェルギリウスの英訳詩アエネイス』(エリス・アンド・ホワイト社)が上梓されることになります。しかし一方で、一八七四年から七五年にかけて製作されたと思われる『ヴェルギリウスのアエネイス』の彩飾手稿本は、そうした作品の多くがそうであったように、未完のままで終わりました。主として、デザインをバーン=ジョウンズが、そして彩飾をチャールズ・フェアフェクス・マリが担当し、その後他者の手が加えられるものの、モリスの代表的カリグラフィー作品のひとつに数えられるようになります。

注目されてよいのは、この時期、モリスの関心に大きな変動が生じていることです。順に述べてゆきます。まず、カリグラフィーについて――。このときのこの作品(一八七五年ころの『ヴェルギリウスのアエネイス』の未完の彩飾手稿本)をもって、一八七〇年にはじまるモリスのカリグラファーとしての活動が事実上休止します。モリスが精神的に最もつらい思いをしていた時期と、極度の集中力と忍耐力とを要するカリグラフィーの製作時期とが、実に不思議なことに重なります。モリスは、自分の精神的動揺をいくらかでも解消し、安定させる装置として、カリグラフィーをみなしていたのかもしれません。もしそうであったとするならば、この時期モリスの心的内面は、安定期に入ったものと思われます。文字や造本に対するモリスの関心が復活するのは、私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを設立する最晩年の一八九一年まで待たなければなりません。

次に、アイスランド・サーガの翻訳について――。これについても、同じことがいえます。モリスは、一八七五年の『北方の三つの愛の物語およびその他の説話』の出版を最後に、サーガの訳業からしばらく離れます。マーグヌースソンとの共訳による「サーガ叢書」(全六巻、クウォリッチ社)が公刊されるのは一八九〇年代に入ってからのことです。第一巻(全二二七頁)は「団結する男たちの物語」を含む三編の物語で構成されて一八九一年に、第二巻(全四一〇頁)の『エレの住民たちの物語』は、翌年の一八九二年に出版されます。さらに、『球形の世界と呼称されるノルウェーの王たちの物語』が第三巻から第六巻の四巻を占めるかたちで続き、第三巻(全四一〇頁)が一八九三年に、第四巻(全四八四頁)が一八九四年に、第五巻(全五〇五頁)が一八九五年に、そして最終巻となる第六巻(全五一八頁)が、モリス没後の一九〇五年に遅れて世に出ることになります。

最後に、詩歌や物語について――。すでにモリスは、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』(一八五八年)、『イアソンの生と死』(一八六七年)、『地上の楽園』(全三巻、一九六八―七〇年)、加えて『愛さえあれば』(一八七三年)を発表していました。そしてこのころ、『ヴォルスング族のシガード』の執筆が進んでいました。この物語詩がエリス・アンド・ホワイト社から出版されるのが一八七六年の一一月の終わりで、これをもってモリスの詩歌や物語に関する出版は事実上終了します。マッケイルはこの作品を「ホメロス以降に書かれたもののなかで最もホメロス的な詩」と評しています。

『ヴォルスング族のシガード』が出版されたちょうどそのころのことだったと思われます。ケルヴィンはマシュー・アーノルドではなく、F・H・C・ドイルと注釈していますが、マッケイルが伝えるところによれば、オクスフォードにおけるマシュー・アーノルドの詩学教授の在任期間が終了し、後任の候補としてモリスの名前が挙がりました。しかし、長時間の熟考の末、最終的にモリスは、それに対して応じない意向を示します。一八七七年二月一六日の手紙で、ジーザス・カレッジのフェローのジェイムズ・リチャード・サースフィールドに宛ててモリスは、こう書いています。「あなたからのお手紙にお答えするのに長い時間を要してしまい、あなたもそう思っていらっしゃるにちがいないと、心苦しい気がしています。……そのようなわけで、どうしても私は、『ノー』といわなければならないと考えます。理由は簡単で、私はこのポストにつく人間ではないと思うからです」。教授就任への誘いに対する拒絶の意味するところは、この時期、詩人以上の何かをモリスが目指していた現われだったのかもしれませんし、あるいは、詩歌に対して、もはや幾分興味を失っていたことを暗に示すものだったのかもしれません。一八九一年のケルムスコット・プレス版による『折ふしの詩』が、モリスの最後の詩集となります。

このように、一八七五年の「商会」改組の前後の時期とほぼ軌を一にして、モリスのこれまでのおおかたの関心が、明らかに途絶えることになります。上で紹介していますように、モリスは、四一歳の誕生日の翌日の一八七五年三月二五日に、ルイーザに宛てて出した手紙のなかで、「いまや私は、人生の後半に入り、自分のことで忙しくなりそうです。人生の最後までそうであってほしいと思います。内容的にも、充実した時間であることを願っています」と書きました。まさしくこの時期、関心の変動を伴いながら、モリスは、自己の人生の後半部分の扉を開こうとしていたのでした。

モリス・マーシャル・フォークナー商会の発足以来、その業務内容にかかわって、モリスはとりわけ壁紙のデザインに傾注してきました。《トレリス(格子棚)》(一八六四年)、《デイジー(雛菊)》(一八六四年)、および《ザクロ(柘榴)》(一八六六年ころ)が初期の三作品で、自然を簡便化することによって生み出されたデザインを特徴とし、一種のくだけた中世主義の表出としてみなされています。その後も、《ジャスミン》(一八七二年)、《ブドウ(葡萄)》(一八七四年)、《アカンサス》(一八七五年)といった幾つかの代表的なデザインが続きます。どれも、陰影と彫りの深さがその特徴となっており、自然のもつ力強さや生命力が、直接的に表出されたデザインとなっています。さらにこの時期以降も、壁紙のデザインは、モリスの重要な業務の一部となってゆきます。

壁紙とは別に、この時期モリスの新たな関心が大きく動き出します。それは、染めと織りにかかわるテクスタイルの分野への着眼でした。これは、「詩人としてのモリス」を後景にしまい込み、「デザイナーとしてのモリス」を前景に押し出そうとする、モリスの新たな決断として受け止めることができます。壁紙とテクスタイル、これが、「デザイナーとしてのモリス」の両輪となって、これ以降、走り出すのです。

最初の染めの実験は、クウィーン・スクウェアの仕事場において、主としてモリス自身の手で行なわれました。しかし、日常的に進めるには、あまりにも仕事場は手狭で、モリス自身の技術も未熟でした。そこでモリスは、スタッフォードシャーのリークに住むトマス・ウォードルを訪ねることにしました。トマスは、モリス商会のビジネス・マネージャーをしていたジョージ・ウォードルの義理の兄弟で、主として絹と綿を染める技術に精通していました。モリスがはじめてリークへ行ったのは、商会が正式に改組された約四箇月後の一八七五年の七月のことでした。

すでにこの一九世紀のはじめ以降、インディゴ染色は、いわゆるブルシャン・ブルーに取って代わられていましたし、アニリン染料の技術開発も推し進められていました。しかし、モリスがリークで試みたのは、こうした現代的な染色技術ではなく、すでに失われていたインディゴ染色の技法を習得することでした。一八八九年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の第二回展覧会のカタログに、モリスは「芸術としての染色について」と題した一文を寄稿し、そのなかで、こう述べています。「染色術は、難しい技であり、多くの経験をもった腕利きの工芸家でなければ、その実践はできません。そうした技を駆使しての色合わせには、ゲームを行なうときに感じる、心地よくも少々不安な思いがつきまといます」。この言説は、インディゴ染色の技法がいかに取り扱いにおいて不便で、安定性に欠けるものであるのかを示すものとして読むことができます。マッケイルは、こう書いています。「この極めて不安定で繊細なところが、茜色や黄色の桶に入った染料を越えて、モリスにさらなる魅惑感を与えた。このころのモリスの手は、洗い落とせないまま、日常的に青く染まっており、全くきめ細かい仕事に従事する状態にはなかった」。この七月のリーク滞在中にモリスは、妻や母親だけでなく、友人たちに宛てても手紙を書いています。たとえば、アグレイアに対しては、「いい色とあせない色を出すために、苦労をしています。あなたが容易に想像できる以上の苦労です。しかし、まもなくそこに到達できるものと願っています」と書き、ロウザリンドへは、「あの透き通った色がいかに忌まわしいことかをあなたにお話しましたが、いまそれを知って、少しも驚くことではないのですが、とてもいらだちを感じています」と、告白します。おそらく、トマスの指導のもと実験的に染めた布切れを、モリスはロンドンへ持ち帰ったものと思われます。八月三日にクウィーン・スクウェアの事務所からモリスは、トマスに宛てて、こうした書き出しをもつ手紙を書きました。

 私の染めた一束の布切れを、私の芸術家仲間に見せたら、大絶賛でした。こちらで私たちの所持品の一部に加工されると、そのほとんどすべてが、いい色のように見えています。唯一私の満足へ至らなかったのは、ブルシャン・ブルーです。それは、恐ろしいばかりの失望でした。

そして続いてモリスは八月に、こうした手紙も、トマスに出しています。

私はあなたのために、ジェラードの本を探し回っています。しかし、まだいいものに出会っていません。しかし、まもなくそうできるものと思います。ところで私は、フィリーモン・ホランドのピリニを一冊送りました。それ自体とても好奇心をそそる本で、英語版の翻訳書です。全くもって、私の心を最大限に楽しませてくれる世界の本のなかの一冊です。

モリスが言及している「ジェラード」とは、ジョン・ジェラードの『草本誌つまり植物の概略史』を指しているものと思われます。この『草本誌つまり植物の概略史』という本は、長いあいだ読み継がれてきた最も有名なイギリスの草本誌で、一五九七年にジョン・ジェラードによって出版され、一六三三年には、トマス・ジョンスンによってオリジナル・テクストに手が加えられ、さらに内容が充実した改定版が出版されます。この改定版には、おおよそ二、八五〇の植物が取り上げられ、約二、七〇〇のイラストレイションが掲載されており、まさにこの本は、ルネサンス植物学の恒久の記念碑となるものでした。マッケイルはこの本について、モリスにとっての「その昔の少年時代のお気に入り」と記述しています。一方、「フィリーモン・ホランドのピリニ」というのは、一六〇一年にフィリーモン・ホランドによって『世界の自然史』と題されて翻訳された、ピリニの『自然史』を意味しているもの思われます。モリスは、こうした古い草本誌を参照しながら、植物を主題にした木版を彫り、そして、染色についての情報を得ていたのでした。

この間、頻繁にトマスとの手紙のやり取りが続きます。次は、一一月二六日に書かれたモリスからトマス宛てた手紙の一節です。

 ご存じのように、私はまた、自分たちが使用するすべての染料を、可能な限り、最も良質で安定したものにすることがいかに重要であるかということを、深く心に刻んでおります。そして、もし、そうすることに失敗しようものならば、私の事業のうちテクスタイルに依存する部分はすべて放棄する覚悟でいます。もっとも、結局のところ起こりそうにないような失敗について私が云々することに、何か意味があるとは思いません。あなたご自身が失敗するなどとは、私は露ほども疑っていないのです。

この一文から、染色に向けられたモリスの強い決意を感じ取ることができます。年が明けると、再びモリスは、リークにトマスを訪ね、指導を仰ぎます。以下は、一八七六年三月二六日のジョージーに宛てた手紙の一部です。

私たちは、木綿糸を青に染める大桶を設置しました。明朝、それが全く問題なく使えることが判明するといいのですが。その大桶は、深さが九フィート、容積が、千ガロンあります。このインディゴ染色のことに関連して私の不安と可能性のすべてをあなたにお話しするとしたら、一週間を要することでしょう……。

それから二日後の三月二八日に、今度はアグレイアに宛てて手紙を書いています。

 今朝私は、青色用の大桶に入った二〇ポンドの絹糸(わが社のダマスク織に使用するもの)を染める手伝をしました。とても興奮しました。といいますのも、いまだ完全に未使用の桶であり、絹糸を台無しにしてしまう大きな危険性をはらんでいたからです。作業をしたのは四人の染物師とウォードル氏で、私自身は染物師たちの相棒を務めました。男たちは、ビールで気持ちを奮い立たせて、その仕事に向かいました。緑色に染まった絹糸が大桶から出てきて、それから徐々に青に変わってゆく様子は、見ていて、とてもすばらしいものです。いまいえる限りにおいては、私たちは、実によくやったと思います。

こうしてモリスは、ウォードルの指導のもとに染色の技術をうまく身につけてゆきました。そうしたなか、モリスは、このときのリーク滞在中に、ある人物に手紙を書きました。受取人不明のこの手紙は実は伝説的な一通で、実際には誰に宛てて書かれたものなのか、これまでモリスの伝記作家の関心を引き付けてきました。その手紙のなかで、受取人のその人物の心に寄り添おうする、モリスの高潔な心情が、実に格調高く綴られているのです。

どういったことであなたが元気を失くしていらっしゃろうとも、私は、あなたに手を差し伸べたり、そうした事態を改善させたりすることができたらと、心から願っています。
(中略)
私はいたって健康であり、おもしろい仕事に囲まれ、それに対する意欲もあり、全く仕事に興味がなくなるほど欲望に苦しんでいるわけでもありません。つまり、私のいいたいことは、単にそうした理由だけで、重い心を引きずっている人たちと離れたくない、ということなのです。あなたを愛しており、あなたの助けになりたい、といったようなあなたが十分承知されているおられる事柄をさらに超えて、私はあなたのお役に立つことが何なのかを自分でいえればよいのにと思います。そこで私は、(使い古された言葉かもしれませんが)人生は空虚でも無意味でもないということを、人生のさまざまな部分は何らかのかたちで他の部分と調和しているということを、そして、世界はいつまでも美しく不可思議で畏れ多く、崇拝に値するということを、あなたにお考えいただきますよう、せつに希望します。

この手紙が最初に公開されたのは、マッケイルの伝記(一八九九年刊)においてでした。彼は、受取人について具体的な名前を挙げることなく、「人生の全体的な実質が、ときとして両手の下敷きになってぺちゃんこなっているように見える、そのような闇のひとつを通り抜けようとしているひとりの友人」とだけ、婉曲に表現しています。その後、ヘンダースンは、自著の伝記(一九六七年)において、ネッドかジョージーのどちらかではないかと推断し、『ウィリアム・モリス書簡集成』(第一巻、一九八四年刊)の編者であるケルヴィンは、それに加えて、病気の回復の見込みのないゲイブリエルとの最終的な愛の結末がこの時期であったことを理由にジェイニーの可能性を示唆し、さらに、ジェイニーとメイの母娘の伝記(一九八六年刊)を執筆したマーシュは、その三人の可能性と妥当性に言及したうえで、さらに、この時期病気と不幸に苦しんでいたルイーザ・ボールドウィンを新たに加えました。それに対しまして、マッカーシーの伝記(一九九四年刊)には、こうした記述がみられます。「これまで受取人として、ジョージー、あるいはジェイニーさえも、示唆されてきた。いまだ落ち着きのないネッドに宛てた兄弟愛のほとばしりとして、ひとつの気まぐれのなかにあってモリスはこの手紙を書いたものと、私は信じる」。

それぞれの伝記作家の推論には耳を傾けるにふさわしいものがありますが、決定的な証拠があるわけではありません。ネッドとジョージーの義理の息子という、資料利用上の特権的な立場にあったマッケイルが最初にこの手紙を公開したことや、すでに紹介しているように、〈レッド・ハウス〉に一緒に住めないことが判明したときにモリスがネッドに宛てて出した手紙のなかの言い回しや語調との類縁性などから判断しますと、受取人は、やはりネッドだった可能性が一番高いように感じられます。しかし、受取人が誰かという特定の問題よりも、伝記作家として、個人的にさらに着目されてよいように思われる一節が、むしろこの手紙のなかには含まれており、そこで、その箇所についてここで少し論じてみたいと思います。それは、上の引用文のなかで「中略」とされている部分に該当する、以下の文言です。

といいますのも、そうした事態が私を悲しませているのは実に本当のことであるからです。しかしながらまた、そうであるにもかかわらず、あるいは、世界に何か悲しむべきことが起こるかもしれないにもかかわらず、自分がいま私自身の人生を生きているのも、実に本当のことなのです。ときどき私は、こうした事実のすべてに驚愕してしまい、いま一度何か苦境のなかに自分を立たせてみたいとさえ望んでみたり、さらには、本当に自分は無感覚な人間に成り下がってしまったと思ってみたりすることもあります。しかし、たとえ多くの希望と喜びをもっていようとも、つまり、たとえそれらが強さにおいて最小のものであろうとも、あるいはまた、たとえ、なすべきことが多くあるように思える自分の人生が私にとって大切なものであろうとも、もし必要であれば、あなたのために、私の友情のために、私の名誉のために、そして世界のために、希望と喜びをひとつずつ、あるいは全部まとめて、さらに最終的には自分の人生さえも、私は投げ出すことができるでしょう。偉そうにいっているように思われそうですが、そんなつもりはないのです。

この一節を読むと、人生の悲嘆にくれるひとりの友人を慰める言葉のレヴェルをはるかに超えて、何か、世界のなかで苦痛にあえぐ人たちのすべてを慰めるべく、モリスの強い献身と愛情のようなものが伝わってきます。もしその読みが正しければ、おそらくこの時期、この手紙のなかの文言から浮かび上がってくる、なにがしかの社会への義憤、ないしは時代への反抗心のようなものが、モリスの心情のなかにあって醸成されつつあったと判断しても、あながち間違いではないでしょう。いよいよここを起点として、モリス商会のデザイナーで経営者という私的領域における活動とは別次元において、モリスの公的な社会活動が開始されてゆくことになるのです。

二.東方問題協会と古建築物保護協会での活動

受取人が不明のまま現在に伝えられている一通の手紙をモリスが出したのは、リークに滞在していた、一八七六年の三月二二日から四月六日のあいだではないかと、推定されています。それからおよそ半年が立った、一〇月二四日に、モリスは『デイリー・ニューズ』の編集長に宛てて手紙を書きました。その手紙は実に長文で、次の文言で書き出されています。「イギリスは戦争に向かっているという噂が巷に広まっていることについて、見て見ぬふりをすることはできず、深い驚きのなかから、私は問います。誰の利益のために? 誰に反対して? そして、どんな目的のために?」。この寄稿文が、モリスの政治的発言としては最初のものでした。ここで論じられているのは、「東方問題」かかわる政策についてです。そこで、この問題に関連して、その背景を少し紹介しておきます。

イギリスにおける二大政党政治による大衆デモクラシーの時代が開幕するのは、第二次選挙法改正に基づいて実施された一八六八年一一月の総選挙においてであったとみなされています。このとき、自由党が圧勝し、それを受けてグラッドストンを首相とする自由党内閣が成立します。日本においては、ちょうど明治維新の年にあたります。続く一八七四年の総選挙では、今度は自由党に代わって保守党が勝利すると、ディズレイリが首相に返り咲き、彼による第二次内閣が組織されます。一八七五年、ディズレイリは、エジプトの財政難に乗じてスエズ運河の株式を買収し、翌一八七六年には、国王称号法の制定により、ヴィクトリア女王に「インド女帝」の称号が追加され、イギリス領インド帝国の国際的地位の強化が図られてゆきます。その一方で、オスマン帝国へのロシアの南下政策によってインド帝国とイギリス本国との通路網が遮断されることを懸念したディズレイリは、トルコをどう支援するのかという国際的な政治問題に直面することになるのです。そうした政治状況のなかにあって、モリスがリークに滞在していたときかそのすぐのちの一八七六年の春、トルコの統治に対して抗議する大規模な反乱がブルガリアで起きました。トルコはその鎮圧のために不正規の傭兵を含む軍隊を送り込み、蜂起に加わったおよそ一万五千人もの地域住民を無残にも虐殺し、八〇もの町や村を破壊しました。ディズレイリは、スエズ運河の権益を確保すると同時に、バルカン半島に勢力を拡大させつつあったロシアの脅威に対抗するために、トルコを支持しました。こうした経緯が、六月、自由党系の新聞である『デイリー・ニューズ』に掲載されると、半ば引退していたグラッドストンは九月、『ブルガリアの恐怖と東方問題』と題したパンフレットを作成し、そのなかで彼は、トルコの野蛮で残忍な鎮圧行動を容認するディズレイリの政治姿勢を批判したのでした。このパンフレットは、およそ二五万もの部数が売られ、大きな反響を呼び起こすと、ディズレイリの現実論に対抗するグラッドストンの道義論として政治論争へと発展します。モリスの『デイリー・ニューズ』の編集長に宛てた手紙は、そうした世相を受けるかたちで執筆されたのでした。

その手紙は、二日後の一〇月二六日の紙面に掲載されました。先に紹介しました、この手紙の書き出しに続いて、モリスは、こう述べています。三週間前であれば、こうした疑問に対して、自分は、このように答えたであろうというのです。「この戦争の目的と狙いは、(率直に真実を語るならば、強盗と殺人の集団である)トルコ政府に対して、全くのところ規律正しく勤勉でもある、かくたる支配に苦しむ人びとに何らかの生存の機会を与えるように迫ることなのである」。しかし、いまの状況は――、

ところがいまや、粗末な詰め物と化したわれわれの議会は、開かれてさえもいない。議会の開催を求める声に耳を傾けようとしなかったのである。議員たちは、とても忙しそうに狩猟にいそしみ、国民は口を閉ざしている。

こうした政治的無関心が蔓延する状況のなか、モリスは、前段で述べた見解を越えて、以下のように自由党と労働者に向けて訴えます。

トルコのために戦争をしてはならない。盗人や人殺しのために戦争をしてはいけない!私は、すべての団体に属する分別と思いやりをもったすべての人に訴え、戦争とは一体何であるかということを考えてほしいと、その人たちにいいたいし、さらには、この戦争は、単におそらく正当性を欠いた戦争ではないのかということについても考えてほしいと、いいたい。負けても勝っても、残るのは恥辱であり、それ以外に戦争がもたらすものに何かあるだろうか。

この手紙の末尾には「『地上の楽園』の著者 ウィリアム・モリス」と署名されています。まさしくこの寄稿文は、詩人たるモリスの政治への介入を世の人びとに知らしめるにふさわしい紙礫となりました。そうしたなか、ディズレイリのトルコとの同盟政策に抵抗するために、自由党寄りのひとつの圧力団体として東方問題協会が発足しました。モリスもその設立に関与し、チャーリー・フォークーとともに資金の提供を行ない、『デイリー・ニューズ』への投稿から一箇月後の一一月に、モリスはその協会の会計担当者に就任したのでした。

一二月八日、東方問題協会の最初の全国大会がロンドンのセント・ジェイムズ・ホールで開催され、チャールズ・ダーウィン、ロバート・ブラウニング、ジョン・ラスキンといった呼びかけ人たちがオーケストラ席に陣取り、モリスはその最前列にいました。しかしネッドは、万一の心労に備えて、離れた席にいました。女性たちは、別の後方の席に座りました。ジョージーの姿もありました。参加者はほぼ七〇〇名に達し、グラッドストンの演説を含め、集会は熱気に包まれ長時間続きました。年が明けると、一八七七年の四月二四日、ロシアがトルコに対して宣戦布告を行ないました。東方問題協会は、英国を紛争に巻き込ませるかもしれない政府の行動に抗議して次々と集会を開いてゆきます。そして五月一一日、モリスは、「イギリスの労働者たちへ」と題した宣言文を発表します。そこには、「正義を愛する者」との署名がみられ、主張するところは、おおかた以下のような文言のなかに現われていました。

イギリスの労働者たちへ、もうひとこと警告しておきたい。この国の裕福階級の一定部分の心のなかに横たわる、自由と進歩への激しい憎しみを君たちは知っているだろうか。……そうした人間たちが、君たちの階級について、そして、その階級の目標と指導者たちについて語るときはいつも、嘲笑と侮蔑が伴う。そうした人間たちが、もし権力を握ったならば(そうなったらイギリスはむしろ消滅した方がよいかもしれない)、君たちの正当な大望は阻止され、沈黙が強いられ、そして、君たちの手足は永遠に無責任な資本に縛られてしまうことだろう。……仲間たる市民たちよ、このことに目を向けたまえ。もし君たちが、いかなる不正をも正そうとするのであれば、もし君たちが、自分たちの階級を全体として平和かつ団結のうちに高めたいという、実に価値ある希望を心に抱いているのであれば……そのときこそ、怠惰を捨て去り、「不当な戦争」に反対の声を上げ、「中流階級」のわれわれにも、同じようにそうするようにと駆り立てるがよい……。

ここに、のちにモリスをして社会主義者へと導くことになる、社会と政治に関する初期の率直な認識が開陳されているとみなしても、差支えないと思われます。しかし、正当性を欠いた社会的政治的醜悪さへ向けて放たれたモリスの激情は、東方問題に止まるものではありませんでした。同じくこの時期、過去の名誉ある建造物を破壊しようとする野蛮な行為に対しても、モリスに内在する美的で社会的な価値観が投影されようとしていたのでした。それは、「イギリスの労働者たちへ」と題された宣言文が発表されるおよそ二箇月前の一八七七年の三月にはじまります。三月五日、モリスは『エシニーアム』の編集長に宛てて、次のような手紙を書きました。

 いま、朝の新聞のなかで、「修復」という文字が目に留まりました。目を近づけて読んでみると、今回はそれが、何とサー・ギルバート・スコットによって破壊されようとしているチュークスバリーの教会堂のことであることがわかりました。この建物を救済するために何かをしようとすることは、もう全くの手遅れでしょうか……できる限り遅滞することなく、こうした遺産を監視し、保護することを目的とする協会のようなものを設立することは、ここに至って何か役に立つのではないでしょうか。

それから、ほぼ三週間後の三月二五日に、モリスはリークのトマス・ウォードルに手紙を書きました。「私たちは、古建築物保護協会の最初の会合を、先週の木曜日にクウィーン・スクウェアでもち、そのとき私は、名誉幹事に指名されました。ウェブとジョージ[・ウォードル]と一緒になって、自分たちの見解と目的を前に進めるうえでの綱領を作成し、次の火曜日の会合に提出する予定です」。

この団体は「アンチ・スクレイプ(こすり落とし反対)」という別名でいまも親しまれていますが、これを命名したのはモリスでした。「こすり落とし」とは、過去の建造物の風雨に耐えてきた表面を「こすり落とし」ては新たに磨き込もうとする行為を意味し、広くは、古建築物の歴史的な、そして本来的な意味や特徴を「こすり落とし」てしまうような行為全般を指し示す用語として使用されます。

発足するとただちに、四月四日、モリスは、計画されていたチュークスバリー大寺院の修復に反対する立場から、『エシニーアム』へ次なる一文を寄稿します。それには、このようなことが書かれてありました。「……建築は現在、全くの実験的な状況にあり……そうした事態は、わが国の建築家たちが無謀で無分別であることに由来し、この三〇年間で彼らは、中世の芸術と歴史にかかわる非常に貴重な遺産を、己の実験のために単なる石の塊に変えてしまったのである」。

『エシニーアム』への投稿に続いて、六月二二日にモリスは、今度はカンタベリー大聖堂の聖歌隊席の修復問題にかかわって、主席司祭と参事会に宛てて手紙を書きました。次のような文言ではじまります。

 遺憾にも、古建築物保護協会は、カンタベリー大聖堂の主任司祭ならびに参事会が、この建物の興味深い特徴となっている古い仕切りを聖歌隊席から取り除く意向をもっているとお聞きしました。当協会は、この国の歴史および芸術にとって有害であると認め、こうした行動の推移に抗議することは、われわれの責務であると感じる次第です。

この石の仕切りは、もともとは一三世紀に設置されたもので、モリスの立場からすれば、それを模倣したり、修復したり、偽造したりする行為は許されず、まさにこの計画は、カンタベリーの悪夢のはじまりと映ったのでした。モリスにとって教会や公共建築物の「修復」あるいは「改築」とは、不要な部分や傷んだ部分を新しいものと入れ替えることではなく、この間に付与されてきた不純な箇所を取り除き、建設当初の本来の様式でもって、もともとの状態へと再構築することでした。

カンタベリー大聖堂の主任司祭と参事会に宛てた手紙から一箇月も立たない七月一〇日に、今度はジョン・ラスキンへ手紙を出しました。「『建築の七灯』のなかの修復に関するあなたのお言葉をリーフレットに再印刷して配布することは、いいことではないかと、私どもみなが思っています。そうすることをお許しいただけますでしょうか」。『建築の七燈』は、一八四九年に出版されていたラスキンの著作で、「犠牲」「真実」「力」「美」「生」「記憶」「服従」という七つの灯りの視点から建築が語られていました。ラスキンにとって建築とは、それを生み出す社会それ自体を体現したものであり、まさに社会の生きた歴史が刻み込まれた物質空間としての意味をもっていました。モリスは、ラスキンのこの本を活動の指針としました。モリスの見解に従えば、安易な修復は歴史の改変につながりかねない大きな問題を含み、歴史のあるがままの真実の姿を保存することの意義を、この時期モリスは、強く社会に訴えたのでした。古建築物保護協会の活動は、今日へと引き継がれ、環境保護運動のひとつの拠点として現在においてもその役割を果たしているのです。

一八七六年と翌年の七七年は、見てきましたように、モリスがはじめて社会問題へ参入する年となりました。しかしこの間、モリスの私的な環境においても、大きな問題が発生していたのです。次の章では、ジェインとロセッティの最終的な結末がどうであったのか、そして、長女のジェニーの身に何が起こっていたのか、そうしたこの時期の家庭の問題に焦点を移して、その様相の一端を語ってゆきたいと思います。