中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第一四章 ジェインの愛の再暴走

一.ジェインとウィルフリッド・スコーイン・ブラントとの出会い

ジェインの回想するところによると、あるとき、チェイニ・ウォークのゲイブリエルの自宅で午後を過ごし、食事のあと、彼は、ハマスミスの〈ケルムスコット・ハウス〉まで辻馬車で送り届けました。「その日の彼は上機嫌だった。だが、二度と再び私は彼に会うことはなかった」。それからおよそ半年が過ぎた一八八二年四月に、ゲイブリエルは黄泉の客となりました。

ジェインが、次の恋人となるウィルフリッド・スコーイン・ブラントとはじめて知り合うのは、それから一年と四箇月後の、一八八三年の八月のことでした。出会いの場所は、ジョージ・ハウアドとロウザリンド・ハウアド夫妻が住む、ナワースのカーライル伯爵家代々の邸宅でした。このナワース城(ハウアド城)を、かつてモリスは、イギリス全土で最もロマンティクな館と呼んだことがありました。そしてまた、このハウアド夫妻のロンドンでの住まいであるパレス・グリーン一番地の内装の施工をしたのが、モリスとその仲間たちだったのです。

モリスが亡くなるのは一八九六年一〇月ですが、その年の冬から翌年の春にかけて、ジェインは、メイとともに、ブラント夫妻が所有するエジプトの別邸に招待されます。したがいまして、ブラントとジェインの交友は、このときのナワースでの出会い以降、モリスの死後に至るまで、長きにわたって続くことになるのです。

ウィルフリッド・スコーイン・ブラントは一八四〇年の生まれですので、ジェインと会ったときは四三歳で、ジェインは彼よりひとつ年上でした。ブラントは、インドへの旅行や外交官としての経験などから反帝国主義者となり、一八六九年にバイロンの孫娘であるアンと結婚する際に外交官を辞め、それ以降、詩作と政治に身をゆだねていました。彼の政治的立場は、英国政府がとるエジプト政策、そしてその後のアイルランド政策に対して異を唱えるものでした。その意味で、モリスとブラントとは、政治的関心において共通するところがありました。また、詩人としても同じ思いを共有していたにちがいありません。事実モリスは一八九一年に、自分が立ち上げたケルムスコット・プレスの三番目の本として、ブラントの『プロテウスの愛の叙情詩と歌』を出版するのです。しかしながら、そうした男同士の友情とは別世界において、妻のジェインとブラントは、人の道ならぬ道へと歩みはじめてゆくのでした。

のちに、ジェインが死去して五年後の一九一九年に、ブラントは、ロンドンのマーティン・セカ社から『私の日記』を出版します。そして、ケンブリッジにあるフィッツウィリアム博物館に保管されていた、さらに淫らな彼の回想が、封印を解かれて一般公開されるのが、彼の没後五〇年にあたる一九七二年のことでした。そのようなわけで、この新たな恋人たちの関係を記述するうえで使用できる主な資料は、ブラントの書き残したものに限られることになります。もっとも、ブラントが書き残した記述を、そのまま受け入れることに幾分難色を示す研究者もいます。それは、好色で、自慢話を得意とする彼の性格に起因していました。ジャン・マーシュは、このように指摘します。

 ブラントが「口説き落とした女」のリストは長大なもので、彼の持論は、自分の性的才能のすごさであった。確かに彼の情事の大半は非常にうまく処理されたので、性的な関係のすべてが終わり、ブラントが別の新たな行動の場に移ってしまったのちも、女性たちは彼の友人や忠実な支持者であり続けた。……今日では多くの点で彼の行動は利己的で偽善的に思えるし、彼の性格も自己陶酔的で非常に不愉快なものに映る。彼の政治観は、単に反逆者としての評判を広めるためにもくろまれたものにすぎない、気取り屋的なものであり、女性の取り扱い方も思いやりのないものであった。それでも女性たちは満足していたのである。彼にとっての英雄像は、もちろんバイロンその人だったが、のちにはそれがロセッティとなった。そしてそのことが、彼がジェインにつきまとった主たる理由だったのである。

他方、さらに加えて、マーシュは、このようにもいっています。

全般的に見て残念なことは、ブラントとジェインの情事については、ブラント自身の記述しか利用できないことである。というのも、どのようにして彼女を征服したのかを彼が虚栄心から誇張して描いていたとしても当然だからである。しかし、自分とジェインは充実した肉体関係を享受したという彼の主張を疑う理由も、一見したところ何もないのである。

少し前口上が長くなってしまいました。それでは、再び、ブラントとジェインの出会いの場面へもどりたいと思います。フィオナ・マッカーシーは、ロウザリンドが、ブラントにジェイニーを引き合せた背景につきまして、こう述べています。

 ロウザリンド・ハウアドは、ブラントが口説き落とすのに失敗した数少ない女性のひとりだった。このことが、奇妙にも興味深いことではあるが、ロウザリンドをして、ジェイニーへの売春斡旋の役割を担わせることになるのである。……いまやロセッティは世を去り、モリスは政治にのめり込んでいた。ジェイニーは、感情的に不毛な時期がこれから長く続く事態に直面していた。それは、彼女を破壊へと導くものであったかもしれない。ロウザリンドは、おせっかいを焼きたがる人であり、婦人参政権論者でもあった。彼女がふたりを紹介したのは、ジェイニーには希望を与え、ブラントには楽しみを与えるためだった。

ブラントの方には、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの絵と詩に霊感を与えた女性にぜひとも会ってみたいという高鳴る気持ちがあったものと思われます。一方のジェインには、ロセッティを失った悲しみだけでなく、娘のジェニーの介護の疲れと将来への不安が、この時期、強く襲いかかっていたにちがいありません。こうしてふたりは、ナワース城でのロウザリンドの賓客となるのでした。

ジェインがはじめてブラントとあった翌年(一八八四年)の七月は、民主連盟の第四回年次大会の開催を目前に控えて、ふたつの陣営の対立が激化していた、モリスにとって、精神的に不安定な時期でした。加えて、ジェニーの容態が必ずしも良好ではなく、そのことについても、頭を痛めていました。そうしたなか、ジェインは、ひとつの作法として、夫のモリスにブラントを紹介したものと思われます。そしてそのあと、おそらくモリスは、ジェインに社会主義の雑誌『ツゥデイ』の編集者を紹介したのでしょう。ジェインは、編集者に代わって、ブラントにエジプトの独立問題にかかわる文を書くように依頼するのです。このジェインからブラントに宛てて出された一八八四年七月六日の手紙の最後の言葉が、「今度はいつ、会いに来られますか」というものでした。これが、ふたりが親密になる最初のころの階梯だったのかもしれません。

この年の冬は、ジェニーのてんかんによる発作が激しさを増していました。ジェインと交わした会話の内容をブラントは記録していましたが、それによると、「発狂寸前のところ」まで達していたようです。彼自身も、〈ケルムスコット・ハウス〉の客間でジェニーが突然仰向けに倒れるところを目撃しました。この時期、大きな重圧が妻のジェインに、のしかかっていたものと推量されます。マーシュは、同性としてジェインの苦しさやつらさを擁護する立場から、こう述べています。

 ブラントの見解に従うことによって、ジェニーに対するモリスの愛情のこもった気遣いだけがこれまで強調され、その一方で、記録に残っているジェインの対応の数々は母性的な感情の欠如を示すものであると解釈されてきた。しかしジェニーの容体が最も悪化していた一八八〇年代にあって、彼女の世話をする日々の責務の大部分を背負っていたのはジェインだったことは明白である。ジェインは家にいて、起こるかもしれない発作を絶えず心配しながら、いつかは回復することに希望を抱き、さもなくば少なくとも鎮静化することに希望をつなぎ、新しい治療法を常に探し求めていた。それに対してモリスは、日々「商会」の仕事に専念し、夜や週末の大部分は忙しく政治集会に出席していた。したがって、娘に対して彼が大いに気遣いを示したとしても、また、ほんのひととき休息がとれたとき娘をケルムスコットに連れていったとしても、ジェインに比べれば、娘の世話をするために彼が割いた時間は多くはなかった。ジェイン――そして――メイにかかる重圧は相当なものだったにちがいない。

これまでの研究のなかにあって、上流中産階級の女主人としてのジェインの生活の様子は、あまり詳しく関心をもって記述されてきませんでした。〈ケルムスコット・ハウス〉では、料理人や女中、そして馬丁などの使用人は何人雇用されていたのでしょうか。それに加えて、ジェニーの介護人もいたものと思われます。一方、ジェインは、夏の暑さや冬の寒さを避け、別荘の〈ケルムスコット・マナー〉のみならず、国内外の保養地へ出かけては、ほぼ一年の半分近くを自宅以外の場所で過ごしています。そうしたことから連想して、しばしばジェインには病弱の女というレッテルが貼られてきましたし、逆にジェインは、それをうまく自分の行動の口実に使うこともありました。そうした一連の生活の様態は、上流中産階級の家庭婦人にとっては、決して例外的なことではなく、ごく普通にみられたことであり、一種のファッションでもありました。したがいまして、そうしたなかでの、ジェインの母親として娘たちに示した、あるいは、妻として夫に示した、真の姿が浮き彫りにされなければならないのです。しかしながら、それを記述するうえでの資料が不足しているようで、そのこともあってか、ついつい、ジェインについては、これまでネガティヴな描写が散見されてきたのでした。

そのことは、ジェインとブラントの出会いとその後の関係についても、いえるかもしれません。このヴィクトリア時代にあって巷には、労働者階級の男を相手にする売春婦が多く存在していました。しかしながら、その一方で、富裕階級や貴族階級の男女にとっても、異性との交際の機会を提供する場や、さらに進んで性的な欲求を満たすことが暗に想定された仕掛けが存在しており、たとえば、そのひとつの装置が、いみじくもマッカーシーが指摘しているような、まさにロウザリンド夫人に認められるところの「売春斡旋の役割」だったのです。マッカーシーは、こうも指摘しています。

彼女[ロウザリンド夫人]は、ジェイニーの多くを見てきていた。最初はオネリヤで、次にボーディジーエラで。彼女は、ジェニーの病気がジェイニーのなかに入り込んだことによる心労を理解していた。そしてまた、モリスに対する無意識の忠誠心をもつジョージーのような人をもたないジェイニーの、長々と続く夫婦間の性格の不一致の過程をはっきりと認識していたにちがいなかった。

こうした、人の内側の苦しみに対しての特有の把握とその見通しに立って、おそらくロウザリンド夫人は、人知れることなく、さりげない振る舞いのなかにあって、ブラントとジェインの逢瀬の機会を演出したのでしょう。その意味で、彼女のとった態度は、決しておせっかいではなく、ジェインにとっては、一種の救いの手だったのかもしれません。

他方、「長々と続く夫婦間の性格の不一致の過程」で、モリスが、友人の妻であるとはいえ、ジョージーを見出したのは、幸運だったにちがいありません。一八七〇年にモリスは、三〇歳の誕生日の祝いに、二五編の自作詩で構成される『詩の本』と題された彩飾手稿本をジョージーに贈りました。その第一編の詩題が「川の両岸」でした。その詩は、こうした言葉ではじまります。

おお冬よ、おお白い冬よ、汝は過ぎ去った
我は、もはや荒野に独り佇むことなく
円弧を描くように、木や石の上を飛び跳ねて、越えてゆく

ふたりのあいだに性的な関係があったのかどうかは、証拠となるものがなく全く不明です。しかしながら、興味本位にそのことを詮索したり、それとはなくそのことを示唆したりする人もいます。たとえば、ヘンダースンの伝記には、それに関連する話題が短く取り上げられているのです。

そうしたことをすべて考え合せるならば、後世に生きる人間にとっては、このときのジェインの行動を、「不義」であるとか、「密通」であるとか、そうした言葉を使って騒ぎ立てるのではなく、運悪く「長々と続く夫婦間の性格の不一致の過程」のなかにあって、道徳や倫理の観念から解放され、無意識のうちに必死にいのちの再生を試みようとする人間のひとつの「自然」として受け入れた方がいいのかもしれませんし、実際、夫であるモリス本人も、そういう思いに到達していたと考えてもいいような場面が、その後の行動のなかに見出すことができるのです。それでは、少し、それ以降のジェインとブラントの行動を追ってみたいと思います。

二.ふたりの親密な逢瀬

一八八五年一月三日のブラントのノートには、このような一文が書かれています。ちょうどモリスが、社会民主連盟を脱会し、新たに社会主義同盟を発足させた時期に相当します。

哀れなる女、生と死の苦しみが彼女に迫ってきている。そしていま彼女は、ロセッティの手になる若き日の自分の肖像画と一二年前のふたりの子どもたちの肖像画の下に座っている。その姿はただの墓石にしかすぎない。彼女にもまだ美しい女性である瞬間がある。昔の彼女を知っていたらよかったのにと思う。

実に大げさな表現ですが、ブラントの目にそのように映るほどに、ジェインの衰弱は激しかったのでしょう。このとき〈ケルムスコット・ハウス〉の壁に掛かっていたのは、《青い絹の衣装をまとったウィリアム・モリス夫人》だったにちがいありません。ジェインにとっては思い出深いお気に入りの作品でした。

この年、ジェインは、おそらくメイも一緒に、再びハウアド家の招待客としてボーディジーエラへ行きました。その地から二月一二日に、彼女は、ブラントに宛てて、次の内容の手紙を書きました。

私はあなたのことを何度も思い浮かべ、あなたに会ってお話をしたり、一緒にこの渓谷を歩き回ったりできればいいと思っています。

かつてジェインは、モリスと離れていたとき、このようにロマンティクな手紙を彼に書いたことがあったでしょうか。やはりジェインには、ロセッティ以降も、恋をする相手が必要だったようです。

ブラントは、ロセッティをまねるかのように、愛の詩をジェインへ送ります。それに応える六月一四日の返信のなかで、ジェインは、「私の心のなかで死に絶えて久しいと思っていたそのような事柄についての興味」が再び自分に呼び覚まされたことを告白しています。あえて問うならば、モリスの書く詩歌に、ジェインが、このような表現でもって共感しことがあったでしょうか。そのでき具合は別にして、ブラントの恋愛詩は、ジェインの乾ききった心に降り注ぐ慈雨のようなものであったと想像されます。

この年のクリスマスのあとの一二月二七日に、モリスは母親に宛てて手紙を書きました。その文面から、いまや養護施設に入れられていたと思われるジェニーが、クリスマスを両親と妹と過ごすためにハマスミスの自宅に帰ってきていたことがわかります。

ジェニーはいま、私たちと一緒にいます。かなり容体はよく、実際、この気の毒な子に発作が襲いかからないときは、とても元気にしています。

ジェニーが、いつから、どこの養護施設に入れられていたのかは判然としませんが、どうやらこの時期、ジェニーは、施設と自宅のあいだを行ったり来たりしていたようです。

一八八七年、アイルランドの自治問題に関する演説が原因となって、ブラントと妻のアンが逮捕されるという事件が起きました。そのとき一〇月二五日にジェインは、彼に手紙を書いています。それは、このようなものでした。

人民はこの問題でひどく熱狂的になっています。昨晩、私はバーン=ジョウンズ宅で食事をしましたが、全員が声を大にしてあなたのことをほめそやしていました。それは、あなたとレイディ・アンの立場からすれば最大の勇気の誇示でもある、と誰しもがいっています。あなた方おふたりのどちらにも、重大な危害が加わっていないことを衷心より私たち全員が祈っております。

このときブラントは、自分のために抗議運動をしてくれそうな文学者や芸術家を組織するように、ジェインに依頼し、ジェインは、喜んで引き受けることを彼に伝えています。このときのジェインの心は、ブラントとともにあることがわかります。

果たして、モリスの政治活動に対して、ジェインがこれほどまでに積極的な行動を示したことが、いままでにあったでしょうか。ジェインがデモに参加した記録が残されています。それについて言及したマッカーシーの一文を、以下に引用します。ブラントが逮捕される二年前の一八八五年の夏の出来事ではないかと思われます。

八月二二日、ハマスミス支部は、ハイド・パークで開催された大規模な「少女保護デモ」に会員を動員した。ゴブダン=サーンダスン夫妻が、そこにモリスだけでなくジェイニーがいるのに気づいた。これが、私たちにとって残されている唯一のジェイニーのデモ参加の記録である。彼女は、婦人国民協会の隊列に加わって行進していた。一方モリスは、社会主義同盟の茂みのなかに腰を下ろしていた。

ゴブダン=サーンダスンは、ジェインの勧めもあって弁護士から製本工へと職業を変え、ロウザリンド・ハウアドの後援もあって、いまや世に出ようとしていました。ところでジェインは、デモ行進をしながら、何を考えていたのでしょうか。おそらく、娘のジェニーのいまの容体と将来のことだったにちがいありません。しかし、それだけではなく、夫の弟の小さな子どもたちのことも頭に浮かんでいたかもしれません。マッカーシーの伝記のなかに、モリスの弟のレンダルについて記述した、このような一文があります。

モリスの弟のレンダルは、その前の年に、四五歳で亡くなっていた。……自分の父親の年よりも若くして死んだレンダルは、八人の子どもを残すことになった。しかし、ほとんどすぐにも母親は、彼らを見捨てた。子どもたちは、モリスの妹のイザベラによって育てられた。

いまや上流中産階級のれっきとした女主人となっているジェイン自身も、もともとは、極めて貧しい家庭の生まれでした。そのことが、病気や貧困や養育放棄などにより社会の底辺で生きるほかない子どもたちへの共感を呼び覚まし、かくして、「少女保護デモ」に参加し、婦人国民協会の隊列に加わった可能性も、十分に想像されるところです。正確には、ジェインのデモ参加の誘因はわかりませんが、記録上は、これが、ジェインが示した唯一の示威運動への参加行動でした。

アイルランド問題でブラントが逮捕された翌年、一八八八年七月一一日には、ジェインは、ブラントに宛てて次のような手紙を書きました。

私のお医者様は、ジェニーがいまのような容体であれば、もう決して彼女と一緒に暮らしてはいけないとおっしゃるのです。この言葉に私は頭を痛めています。

このとき、ジェニーは家を出て、モールヴァーンへ送られました。モールヴァーンはイングランド西部にある保養地で、ここに、養護施設があったものと思われます。次は、八月九日のジェインからブラントへ宛てて出された手紙のなかの言葉です。

お医者様がおっしゃるのには、彼女は全快する望みが十分にあるそうです。だから私は、望みを持ち続けなければなりません。それは私たちすべてにとって、恐れに満ちた悲しみでした。絶えず私と彼女は一緒にいたわけですから、他の誰にもましてそのことは、私にとって最悪でありました。気にしないで平気でいるという意味では、決して私はそれになじむことができませんでした。事が起こるたびに、私はまるであいくちで突き刺されるような思いでした。

ジェニーを養護施設に入れるのは、これが最初ではなかったとしても、このときの娘と別れなければならない母親としてのジェインの深い悲しみが、この文面から伝わってきます。しかし、そうすることによって、一条の回復の望みが得られるとともに、自身も日々の苦しみから解放されるという一側面が得られたのかもしれません。

ジェニーがモールヴァーンへ送られたこの年の秋、ブラントは、はじめて〈ケルムスコット・マナー〉を訪問しました。ジャン・マーシュは、このときのふたりの逢瀬を、次のように表現しています。

ふたりの性的な面での関係がはじまった時期としては、このころが最も可能性が高いように思われる。ブラントにとってはセックスが最も優先される事柄だったし、のちに、彼女のことを、とてもおとなしい恋人であると彼は書き留めているが、何の抵抗も彼女から受けなかったようである。双方とも四〇代後半に達していたので、おそらくジェインは、そのころまでには閉経期を過ぎており、したがって、避妊法を用いた可能性はないように思われ、たとえそうした方法を用いなくても、性行為がもたらすひとつの危険要素は取り除かれていたことだろう。

ふたりが知り合ってすでに五年という長い歳月が経過しており、そして、さらにその事実に加えて、「肉体的な意味をとおして以外は、私たちは、決して親しくなることはなかった」という、のちに紹介しますブラントの言説を信用するならば、マーシュが記述するように、このときがふたりにとってのはじめての性交渉であったかどうかは、必ずしも断定することはできないようにも思われますが、いずれにいたしましても、この年の一〇月二〇日のブラントのノートには、夜ジェインのベッドに行くとき、絨毯が敷かれていないモリスの部屋の前の床がきしんでしまい、「このような深夜の冒険は非常に魅力的なものであった」ことが記されています。

翌年(一八八九年)の夏も、ブラントは、〈ケルムスコット・マナー〉を訪問しました。八月二一日の手紙のなかで、ジェインは、このように赤裸々に自分の心の内側を、ブラントに伝えています。

私は一種夢のなかを動き回っています。まるで私と屋敷全体が魔法にかけられたかのように。エジプトから何か魔法を持ち帰り、ひとりの哀れで無防備な女に、あなたはそんな魔術など使ったりはしていませんよね。

おそらく、このときの〈ケルムスコット・マナー〉滞在中のことだったと思われますが、このようなことも起きました。ブラントのノートには、その出来事が次のように描写されています。

一度ならずも、私たちをふたりだけにして立ち去ったあとで、何か口実をつくって私たちがいる部屋に突然彼が舞い戻ってきたことに気づいた。大きな足音を立てながら、ついうっかりやってきたという様子で、自制することができなかった疑念を恥じているかのようだった。何もないことがわかると、彼はとても寛大になり、私たちふたりのどちらに対する思いも吹っ飛んでいた。

一八九〇年一〇年一八日の日記には、「私は昨日、その日をモリス夫人と過ごした。全く親密なやり方での最後となる気がする。――彼女はそう感じて、そう口にしたが、私も反論しなかった」と書かれています。おそらくこのとき、ジェインは、ふたりの関係を清算しようとしたのでしょう。しかし、それはできなかったようです。依然として愛人関係は続きます。一八九二年の夏に、ブラントは〈ケルムスコット・マナー〉へ行きました。このとき交わされた寝物語について、八月一一日の彼のノートには、こう書かれています。

私たち、M夫人と私は、一緒に寝た。彼女は、過去の出来事を話した。それには、ロセッティにかかわる多くの説明が含まれていた。彼女は打ち明けた。「いまこうしているように、すっかり私の身を捧げたことは一度もなかった」。

これが、ふたりにとってのおそらく最後の情交で、それ以降は、落ち着いた理性的な関係に復帰したものと思われます。一八九二年一〇月一四日のノートのなかでブラントは、もし自分が「ロセッティ亡きあとの九年か一〇年のあいだ彼女を慰めるためにそこへ行く」ことがなかったとしたら、「彼女はそれ以前に精神病院に担ぎ込まれていたことであろう」と書き、一方ジェインは、この年の一一月、再び静養のためにイタリアのボーディジーエラに向けて出立するに先立って、「私の死後五〇年間は公表してはならない」という指示を付して、ロセッティからの手紙が入った包みをブラントに送っています。こうした行為から、このときジェインの心身はおそらく極度に衰弱し、もはやこれ以上生きることに強い不安を抱えていたものと推量されます。二年前に続けて、このときなぜブラントとの関係を清算しようとしたのか、その理由は正確にはわかりませんが、想像するに、たとえそれが快楽のひとときであったとしても、それによって何かが解決されるはずもなく、最終的にジェインは、娘ジェニーにかかわる問題から離れるとこができなかったのではないでしょうか。

かつてあるときブラントは、こう書きました。

私たちの間は、非常に奇妙な友人関係だった。というのも、私たちは、外側の事物に関しては全くほとんど共通するものをもっていなかったからである。彼女は、あまりにも無口な女性で、肉体的な意味をとおして以外は、私たちは、決して親しくなることはなかった。

おそらくこれが、長い交際期間中に見受けられた、基本となるふたりの間柄だったにちがいありません。つまり、ふたりが求めたのは、決して純愛なるものではなく、肉体そのものにかかわる関係だったのではないでしょうか。

それではモリスは、そうしたふたりの関係に気づいていたのでしょうか。気づかなかったことはないと思われます。モリスは、ジェインの感情の動きにとても敏感でしたし、ブラント自身も、自分が置かれている状況をよく理解していたものと考えられます。以下は、それに関するブラントが書き残している言葉です。

彼女は、愛らしく、見事な女性なのである。しかし彼は、自分が彼女の心に触れていないことを知っていた。彼女とロセッティとのあいだに起こったことを、彼は知っていた。そして、許していた。しかし、彼は、決して忘れてはいなかった。彼はときどき、嫉妬の域に達するほどまでに私を疑っていると、私もまた感じたものである。(というのも、私との彼女の情交は、ほとんど説明がつくものではなかったからである。)

ブラントが日記やノートに書き残している、ジェインやモリスに関する記述内容のすべてを信じる必要はありませんが、もしここに書かれているブラントの見解が適切なものであるとするならば、日々モリスは、ジェインに対してどのような態度で接していたのでしょうか。残念ながら、ジェインとブラントが愛人関係にあったこの期間の、裏を返せば、モリスが政治活動に心血を注いでいたこの期間の、モリスからジェインに宛てた手紙は、ほとんど残されていないのです。『ウィリアム・モリス書簡集成』を編集したノーマン・ケルヴィンは、その理由について、こう述べています。

彼女が、破棄したか、あるいは、単純にこの時期の書簡類を保存することを怠ったか、さもなければ、彼女が愛人に熱中しているとき、モリスは彼女に手紙を出すことを控えていたか、つまり、割り込むことを控えていたか、あるいは、単純に普段の状態で何かを彼女と話す気持ちになれなかったか、そのいずれかだったにちがいない。

もし、ジェインが、モリスからのこの時期の手紙を意識的に捨て去っていたとすれば、それは、モリスからの愛をもはや必要としないジェインの態度の現われであったと思われます。そうではなくて、もしモリスが、この時期ジェインにほとんど手紙を書いていないとすれば、それはそれで、モリスの方がすっかりジェインへの愛を失っていたことを意味します。実際はそれほど単純ではなく、もっと複雑で繊細な気持ちの動きがあったものと想像されますが、いずれにしてもこの時期、モリスとジェインのあいだには、表には現われないにしても、もはや越えて渡ることができないほどに決定的に濁った川が流れていたものと推察されます。

他方、母親が愛人をもったことに傷ついていた娘のメイは、後年、こう書き記しています。「私は、ブラント氏のことを、持ち合わせている彼のすべての性質のなかにあって、エゴイストで、うぬぼれの強い人だといつも思っていたと思います」。

ジェインとブラントが知り合った一八八三年から、ふたりの親密な関係に終止符が打たれる一八九二年までのおよそ一〇年間、モリスのエネルギーは、色恋事とは縁遠い、さらなる政治活動へと向かってゆきます。そして、メイもまた、この時期、自身の職業を選択し、政治への関心を高めてゆくのでした。次章の「社会主義同盟の創設と社会人メイの誕生」におきまして、そのことについて触れてみたいと思います。