私はいま、本稿において、ウィリアム・モリス(一八三四―一八九六年)とジェイン・モリス(旧姓バーデン)(一八三九―一九一四年)の家族の歴史を書こうとしています。書くにあたって、家族史の専門家でもない自分が、なぜこのテーマで書こうとしているのか、少し自問してみました。なかなかそれは、奥に隠れていて、すぐには見えてきませんでしたが、どうやら家族史と、自分が専門とするデザイン史とは、ある視点に立てば、表裏の関係、あるいは近似の関係にあるのではないかと、無意識のうちに思い込んでいる自分に気づかされました。
その「思い込み」の内実とは――。たとえば、モダニズムあるいは近代精神という文脈に乗せて、デザインと家族のふたつの事象を並べて、見比べてみましょう。二〇世紀のモダン・デザインの特徴は、いうまでもなく、過去の精神が生み出した伝統的な様式や装飾の否定のうえに立って、万人が受け入れ可能な視覚言語となるように、日用生活品の形態を合理的で機能的な姿へと改変し、旧弊な特権的上流階級のためにではなく、新興の大衆的市民社会に向けて機械的に量産されることを意味しました。一方、近代の家族の特徴は、伝統的に夫婦間や親子間に継承されてきた支配/被支配あるいは抑圧/被抑圧といった、制度化された家にまつわる関係性の打破を意味し、それに代わって、対等や平等、加えて多様性の相互認識といった、解放された個にかかわる価値が重視されつつ、新たな家族の仕組みが造形されてゆきました。このように見比べてみますと、デザインと家族は、全く異なる事象ではなく、「近代」という時代精神が先鋭的に投影されるにふさわしい、変革のための共通の場となっていたことがわかります。つまり、デザインという視覚制度の刷新と、家族という組織原理の刷新は、ともにこの時期、ひとつの理念のもとに、同時進行的に進められていたのではないかと思われるわけです。これが、本稿を書くに際しての、どうやら私の内なる「思い込み」の実相であったようです。したがいまして、この「思い込み」が、本稿「ウィリアム・モリスの家族史」をつくり上げるうえでの、ひとつの仮説的前提ということになります。私にとりましてのふたつ目の「思い込み」につきましては、またのちほど触れることにします。
周知のように、英国におけるデザインの近代運動は、第一次世界大戦の勃発とほぼ時期を同じくして、その幕を開けることになります。一九二六年版の英国の美術雑誌『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』を見てみますと、「今日の家具と銀製品」と題された評論文があり、そのなかに、デザインの近代運動にかかわる、次のような一文を読むことができます。
確かにうまくつくられてはいるが、古い家具の模倣では、ほとんど本質的な価値を備えているとはいえない。……
すでに変化の兆しがある。国中が、偽造された家具や骨抜きにされた過去の作品の模倣であふれかえっている。しかし、そうしたやり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり、何か動きが始動するのに、そう時間はかからないかもしれない。もし変化が起きるとするならば、そのときの新しい流儀は、ヴィクトリア時代の家具を模すようなかたちをとることはないであろう、といったことが期待されているのである1。
デザインに関していえば、英国の近代運動は一九二〇年代ころから本格化します。そして、この記事が示すように、それは、前世紀のデザインを模倣し踏襲することの否定から生み出され、二〇年代のこの時期、その兆しが、少しずつ現前化してゆきました。先に述べました、私の仮説に基づくならば、同じくこの時期、デザインの領域に限らず、家族という集団的組織にあっても、「そうした[過去を模倣する]やり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり」、変化の予兆が見受けられるようになっていたのではないでしょうか。上の引用文のなかの「家具」や「作品」の文字を「家族」に置き換えて読み直せば、その実感が確かに迫ってきます。「家具」のデザインも、「家族」のデザインも、端的にいえば、ともに共通する一文字である、人間が生きる場としての「家」にかかわるものであり、その意味で、少々乱暴な認識かもしれませんが、「家具」の近代史と「家族」の近代史は、したがって、同一の地平に置いて考えられるのではないかと、いま私は、そう思っているのです。
モリスが活躍したのは、近代運動が本格的に展開される、およそ半世紀前の、アーツ・アンド・クラフト運動として知られる新世界においてでありました。この時代を「英国ルネサンス」と呼ぶ人もいるくらいです。当然ながら、モリスを純粋なモダニストのデザイナーであると同定することはできません。それでも、一九世紀後半のモリスの思想と実践のなかに、二〇世紀のモダニズムを萌芽させるにふさわしい、社会主義という決して小さくない種子が宿されていたことは事実です。すでにこの時点で、産業革命の負の遺産に対するデザイン改革の道は用意されていました。この文脈において、明らかにモリスは、デザインの近代運動における先駆者のひとりだったといえますし、他方、彼とその妻によって生み出された家族は、近代の夫婦の原像をなしえていたものと想像されるのです。モリスは、社会の変革にかかわって、このように書きました。
さて、社会主義という言葉でもって私がいおうとしているのは、あるひとつの社会状況についてです。その社会にあっては、要するに、富める人と貧しい人が存在すべきではありませんし、また主人とその下僕も、怠け者と過度の働き者も、さらには、脳が病んでいる頭脳労働者と心が病んでいる手工従事者も、存在すべきではありません。その社会では、すべての人間が、平等なる状況のもとに生きていると思われますし、物事は浪費されるようなことなく取り扱われていると思います。ひとりの人にとっての苦痛はすべての人にとっての苦痛を意味するであろうことを十分に意識しながら。つまりは、〈 公共の幸福 ( コモンウェルス ) 〉という言葉の意味の最終的な達成なのです2。
そうしたモリスの思想は、デザインの世界をどう変えたのでしょうか、そして同時に、家族という集団の形態をどう再編したのでしょうか。ここにおいてはじめて、論点としての「デザイン」と「家族」との類縁性に加えて、モリスの妻であるジェインの存在に、適切にも目を向けることになります。つまり私は、「家族」をもって論点の俎上に載せるにあたっては、夫と妻の双方を、同等の重みをもった性なる存在として語りの場に登場させ、両性間にあって相互に働くさまざまな力の存在を見定めたうえで、その諸力にかかわる変移や実質について、思想的に、社会的に、そして文化的に実証分析することができないかと思っているのです。もちろんこの視点は、あくまでも今日的な私個人の研究上のモティーフ以上のものではありません。
これまで、ジェインについては、必ずしも、そうした両性を基本に置いた「家族」という視点から照明があてられることはありませんでした。振り返ると、一九八六年に、ヴィクトリア時代の美術と文化を研究する英国の作家であるジャン・マーシュさんが、妻のジェイン・モリスと娘のメイ・モリスを主人公に、その伝記を公にしました。それは、偉大な男性の影となって隠れていた女性の存在を発掘し、歴史のなかに再配置しようとする、フェミニスト・アプローチに基づく優れた作品でした。以下は、その本の「序文」の書き出しです。少し長くなりますが、フェミニスト・アプローチの本質部分を描いた箇所でもありますので、ここに引用しておきたいと思います。
この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである。本屋や図書館の書棚に行けば、この物語に登場する三人の主要な男性であるウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーの著作や彼らについての研究書を多数見ることができる。彼らは極端に注目されすぎていると考える人もいるかもしれないが、彼らが注目されるのはそれなりにわかる。彼らが生きた時代の文化史を考えれば、これらの男性は重要で著名な人物であるし、彼らはそれぞれ研究に値する莫大な芸術上の仕事をしているのである。彼らの絵画、デザイン、演劇はいまでも展示され、複製され、上演されているし、学術的な批評や論文、著作やテレビ番組の主題ともなっている。また彼らの伝記はいまなお執筆され、出版されている3。
続けてマーシュさんは、モリス、ロセッティ、ショーの周辺に存在する女性たちは、単なる彼ら男性たちの「端役」であり、決して重きが置かれてこなかった経緯を、こう指摘します。
こうしたなか、彼らの人生にかかわってきた女性たちは完全に忘れ去られてしまっているというわけではないにしても、感情面でのあるいは家庭のうえでの「端役」として、副次的で隷属的な役割を与えられるに止まっている。しかしそれももっともなことであると論じることもできるだろう。というのも、後世の人間がこの男性たちの人生を興味深く思うのも、また、当然にも私たちが絶え間ない注目を注ぐのも、それは彼らの芸術上の業績に対してであり、決して彼らの個人的な人間関係に対してではないからである。それに比べると、女性たちの役割は副次的なもので あった ( ・・・ ) 。つまり、ときには男性たちを照らす光明ではあったとしても、基本的にはあまり重要な存在ではなかったのである。モリス、ロセッティ、ショーがいなかったならば、誰もジェイン・モリスやメイ・モリスの名前など耳にもしなかったであろう4。
こうした経緯に対して、マーシュさんは、フェミニストたちの考えを代弁して、次のように、言葉をつなぐことになります。
そうはいってもしかし……。フェミニストたちは歴史書のすべてが男性についての歴史であることを飽きることなく指摘している。人間族の残りの半分がほとんど無視されてきた。そしてまさに、いま挙げた論拠こそ、無視の本質的な部分をなしているのである5。
かつて私は、友人とともにこの本を翻訳して出版しました。しかし、訳書題にかかわって、そのとき少し考え込んでしまったことを、いま再び思い出しています。原著題は、このようなものでした。
Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938
この書題からもわかるように、マーシュさんが、ジェイン・モリスとメイ・モリスというふたりの女性の歴史を描きたかったことはいうまでもありません。しかし、この本を日本で出版するに際して、そのまま訳して書題にすることはできません。なぜなら、ジェイン・モリスもメイ・モリスも、この国ではほとんど無名に近い存在だったからです。したがって、当然であるかのように訳書題は、『ウィリアム・モリスの妻と娘』となりました。こうして、ここにおいても、ジェインとメイは、夫であり、父親であるウィリアム・モリスの影に隠れてしまい、副次的で隷属的な扱いになってしまったのでした。この訳書題では、著者のマーシュさんだけではなく、多くのフェミニスト・アプローチを試みる文筆家にとっても、意を満たすものになっていないことは、容易に想像されます。しかし、これもまた、女性を取り巻く現状の一端だったのです。
この後多くの時間が流れるなかで、私自身は、「男性史」であれ「女性史」であれ、一方の性に限定された歴史記述には、自ずと限界があるように思えるようになりました。といいますのも、「男性史」にあっては、ある種特別の調味料として「女性」を登場させ、「女性史」にあっては、多くの場合いまだに攻撃の材料として「男性」を登場させることが、ステレオタイプ化しているように感じられたからです。そこから脱却するためには、どうしたらよいでしょうか。それはつまるところ、ふたつの性に同等の敬意を表し、男と女をひとつの組みとして対象化し、その歴史を記述する道以外にはないのではないでしょうか――。実はこの部分が、私にとってのふたつ目の「思い込み」ということになります。したがってこれも、本稿執筆の仮説的前提に加えさせてください。
そうした思いに導かれて、私は、英国留学後に陶工の道を歩む富本憲吉と、若き日に『青鞜』の同人であった富本一枝(旧姓尾竹)の家族の歴史を書く機会をもちました。そのときの私の考えは少し進化し、時代の諸次元的制約を受けた過去の行動空間の構造と、そのなかで男女が織りなす力学とが、歴史のなかから順次再発見されてゆくことによって、それを手掛かりにしながら、仕事や家庭における真の両性の平等を今後再構築するうえで必要とされる新たな視点や原理のようなものが萌芽するのではないかと、確信するようになっていました。
今度はその事例を、ウィリアム・モリスとジェイン・モリスに求めたいと思います。これが、本稿執筆の目的ということになります。しかしそこには、陰に隠れたもうひとつの目的があるのです。あくまでも余談になりますが、思想的にも実践的にも富本憲吉が最も敬愛したデザイナーが、ウィリアム・モリスであったことも、忘れてはなりません。果たしてウィリアム・モリスは、どのような思想のもとに、一方で家具や壁紙をデザインし、そのまた一方で、妻のジェインと一緒に家族という形態をつくり出したのでしょうか。飛躍を承知で空想の翼を広げれば、一九世紀イギリスのトプシー(ウィリアム・モリスはそのように仲間内では呼ばれていました)とジェイニー(これがジェインの愛称です)の家族像が、時間と地域を越えて、二〇世紀日本の憲吉と一枝の家族の肖像になにがしかつながるようなことは、なかったのでしょうか。つまり、「近代の家族」というプロジェクトが、国際的主題として地球規模で芽生え、一九世紀から二〇世紀にかけて共時進行していた可能性もあながち否定することはできないのではないかと推量しているわけです。そう思うと、執筆に隠された副次的な夢は果てしなく広がることになります。
それでは、トプシーとジェイニーの家族像は、どのような方法を用いれば、鮮明な画像として描写することができるのでしょうか。私は、憲吉と一枝の家族の肖像を描写するに際しては、筆者である私の思い入れや価値判断を極力抑え、可能な限り、本人たちが書き残したものや、同時代の友人たちが観察したものを渉猟し、そうした一次資料を直接引用することによって、できるだけ本人に自分たちの歴史を語らせるという方法をとりました。つまり、他者が描く本人像ではなく、本人が語る自画像になることを求めたのです。理由は、客観性と真実性を可能な限り担保したかったからです。こうして完成したものが、著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』と著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』でした。トプシーとジェイニーの家族像につきましても、一次資料に基づく実証性の重要性に鑑み、前作と同じ手法を用いて書きたいと思いました。そのためには、一次資料の収集と解読にかかわって英国の地での数年の滞在が必要となります。しかしそれは、定年後の隠遁生活者の研究環境では、かなわぬ夢でしかありません。それでも、トプシーとジェイニーの家族像を自分のこの目で確かめて納得したいという知的欲求をどうしても捨て去ることができない私は、残念ではありますが、そのことは諦めて、現状が許す範囲でチャレンジしようと考えました。
そこで、個人の蔵書であったり、大学の附属図書館からの借り出し本であったり、決して何かひとつの目的をもって組織的に集められたものではありませんが、いま私の書斎の書棚を占める、モリスの著作集や書簡集、さらには研究書や展覧会カタログ、そしてそれに加えて、とりわけ、幾つものこれまでに書かれた両人についての伝記などにおいて描かれている信頼性の高い内容にかかわって相互に参照しながら、素描してみることにしました。その意味で、これから執筆する「ウィリアム・モリスの家族史」は、極めて限られた断片的な資料(その多くは二次資料)に基づく歴史記述であり、当然ながら、学術的な価値はほとんどありません。換言すれば本稿は、自分が知りたいと強く求める主題にかかわって、手もとに残る限定的な資料の範囲のなかにあって叙述される、私自身のための自己満足的なラフ・ドラフトないしはスタディー・モデルとして産出される運命にあるのです。そうした性格をもっているがゆえに、本稿は、語りの調子を重視して、話し言葉で記述することになりますし、また、そのことに付随して、注釈や出典などの表示も省略させていただきます。以上のことを読者のみなさまにはどうかご理解いただき、前もってお許しを願いたいと思います。
ウィリアム・モリスの死去した翌年の一八九七年に、おそらく最初のモリス書誌と思われるものが刊行されています。それは、私は未見なのですが、次の出版物になります。
H. Buxton Forman, The Books of William Morris Described with some accounts of his Doings in Literature and in the Allied Arts, London, Frank Hollings, 1897.
これ以降、モリスに関する幾多の書誌(Bibliography)や文献目録(Catalogue)が、新たな資料の発掘を踏まえて、そしてまた、書誌学の発展に呼応して、公にされてゆきました。このようにしてモリスの死後、モリスの書誌史が形成されてゆくことになるのですが、とりわけ一九九六年はモリス没後一〇〇年にあたり、あたかもそれに向けての祝砲であるかのような役割を担って、次に示す『注釈ウィリアム・モリス書誌』が、一九九一年に刊行されました。
David Latham and Sheila Latham, An Annotated Critical Bibliography of William Morris, Harvester Wheatsheaf, London and St. Martin’s Press, New York, 1991.
いまとなっては少し古くなってしまった感がありますが、この書誌のなかに、モリスによって書かれたものと、モリスについて書かれたものの、おそらくその時点でのすべての資料が網羅されていると思われ、その有効性と信頼性は、いまなお色あせてはいないのではないかと考えます。
この『注釈ウィリアム・モリス書誌』の構成上の特徴は、モリス書誌にかかわる資料が、次の八つの項目に分類されて、リスト化されていることです。
「モリスによる書籍と小冊子(Books and pamphlets by Morris)」(資料番号一から八七)
「書誌と目録(Bibliographies and catalogues)」(資料番号八八から一三四)
「概説書と伝記(Surveys and biographies)」(資料番号一三五から三四五)
「美学(Aesthetic philosophy)」(資料番号三四六から四一八)
「文学(Literature)」(資料番号四一九から九六八)
「装飾美術(Decorative arts)」(資料番号九六九から一一四四)
「書籍デザイン(Book design)」(資料番号一一四五から一二五八)
「政治(Politics)」(資料番号一二五九から一四〇八)
そして、次なる特徴を挙げるとすれば、そのすべての資料に通し番号が付されていることです。最後の資料番号が「一四〇八」です。したがってこれが、この書物において、この時点において特定されたモリス文献の総数を表わします。また、この書物のさらなる特徴として、すべての資料に、文献解説としての短い注釈が付けられている点も、あわせて列挙することができると思います。
ところで、私がこの『注釈ウィリアム・モリス書誌』で一番関心をもったのは、三番目の「概説書と伝記(Surveys and biographies)」の項目の構成についてでした。実はこの項目は、「総記(General)」「ジェイン・モリス(Jane Morris)」「住居(Houses)」という三つの小項目によって構成されているのです。そのうちの「総記」のなかに集められた資料が、美学、文学、装飾美術、書籍デザイン、政治といったモリスの多岐にわたる活動領域における特定の一側面に限定することなく、活動内容を全体的に包摂して通覧した概説書と、モリスの誕生から最期までのその生涯を詳細に記述した伝記とによって成り立っていることは当然であるとしましても、この「概説書と伝記」の項目に、「ジェイン・モリス」と「住居」のふたつの小項目が加えられていることに、私は大きな驚きを感じました。著者は、この書物の序文に相当する「読者への助言」のなかで、三番目の項目である「概説書と伝記」は、「彼の人生の伝記と彼の仕事の概説書にかかわる総論の受け皿となっている。最高のモリス研究の何点かがここにリスト化されている」6と、短く書いています。しかし、なぜ「概説書と伝記(Surveys and biographies)」が、「総記(General)」「ジェイン・モリス(Jane Morris)」「住居(Houses)」の三つの小項目によって構成されているのかについては、何も触れていません。ということは、見方によっては、このふたりの著者は、モリスの概説書や伝記を書くにあたっては、単にモリスについて書くだけではなく、彼の妻の「ジェイン・モリス」、さらには、自宅の〈レッド・ハウス〉や〈ケルムスコット・ハウス〉、そして別荘の〈ケルムスコット・マナー〉といった彼らの「住居」についても、等しく言及すべきであるということを暗に主張しているかのようにも、受け止めることができるのです。これから、モリスとジェインという一組の男女に同等の光をあてて、その家族史を書こうとしている私にとりましては、この分類法は、少なからぬ刺激と勇気を与えるものでした。
しかしながら、よく見ると、「総記」に所収されている資料の数量と、残りのふたつの小項目に所収されている資料の数量には、大きな隔たりがありました。具体的にいえば、「総記」は、資料番号一三五から三〇一までの一六七点で構成されているのに比べて、「ジェイン・モリス」は、資料番号三〇二から三二〇までの一九点、そして、「住居」は、資料番号三二一から三四五までの二五点と、極めて少ないのです。明らかにこれは、いかにこれまで、ウィリアム・モリスの研究者や伝記作家が、その妻と住まいについて、換言すれば、家族というものについて関心を寄せてこなかったのかを示す、ひとつの証拠となるにちがいありません。モリスに限らず、美術家やデザイナーなどの表現者を扱う研究者たちの価値観のなかに、表現者の才能や個性は絶対的で固有なものであり、妻や住む環境といった外的要因に影響を受けるものではないといった先験的な思いが、おそらく、どこかに存在していたのではないでしょうか。しかしその偏向が、この一〇〇年のなかにあって、少しずつ是正されてきたことも、またひとつの事実なのです。妻の存在へ向けられた視線の変化の経緯は、この間に刊行された多くのモリス伝記のうちから、代表的な数冊を取り出して、そこに妻のジェインがどう記述されているかを年代順に見るだけでも、おおかた理解することができます。それでは次節において、幾つかのモリス伝記における妻ジェインの存在について、公刊時の執筆を取り巻く時代状況を踏まえながら、その歴史的変移を少し述べてみたいと思います。
一八九六年にウィリアム・モリスが亡くなると、数年のうちに、次のふたつの伝記が刊行されました。
Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
J. W. Mackail, The Life of William Morris, two volumes, Longmans, Green and Co., London, 1899.
この二冊の伝記の刊行にあたっては、少し複雑な事情がありましたので、少し言及しておきます。モリス死去ののち、すぐさま遺族や親しい友人たちのあいだで、モリスの伝記について話し合われました。彼らにとっての関心は、今後心ない書き手によってモリスの人生や作品、さらには家族や交友関係が興味本位に解釈され、暴露されることを避けることにありました。そこで彼らは、バーン=ジョウンズ家の娘婿のJ・W・マッケイルにその任を負わせることにしました。モリスとバーン=ジョウンズは終生の友人であり、仕事上のパートナーであり、かつまた双方の家族は相互に信頼を寄せ合う間柄だったのです。マッケイルはオクスフォード大学の詩学の教授であり、その能力という点においてはいうまでもなく、同時に、モリスを取り巻く人びとの思いを反映させることができる立場にあったという点においても、最もふさわしいモリスの公式伝記作家としての役割を担うことになるのです。当然ながら、その執筆にあたっては、エドワード・バーン=ジョウンズとその妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズが協力し、積極的に資料の提供も行ないました。しかし、その伝記には、幾つかの重要な注文がつけられることになりました。当時のヴィクトリア時代の社会や道徳における規範に照らし合わせて考えてみますと、これもまた当然のことだったのかもしれません。その注文とは、モリスについては、彼が積極的な政治活動家であったという側面、また彼の妻のジェインについては、その貧しい出自(馬屋番の娘)、ラファエル前派の画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情関係、その後の、旅行家で著述家であったウィルフリッド・スコーイン・ブラントとの恋愛事件、そして長女ジェニーについては、わずらっていた深刻な病気(てんかん)、次女のメイについては、バーナード・ショーとの恋愛感情、その後の別の同志との結婚の失敗などに関することでした。つまりバーン=ジョウンズ夫妻と遺族は、そうした世間に知られたくない問題にかかわっては極力記述を和らげるように、マッケイルに配慮を求めたのでした。マッケイルは「序文」のなかで、この伝記の成り立ちについて、こう述べています。
この伝記は、サー・エドワード・バーン=ジョウンズから私への特別の依頼に基づいて、着手されたものである。したがってこの伝記が、彼の導きや勇気づけにいかに多くを負っているかはいうまでもなく、また同時に、この伝記が、そうした援助がなかったために、いかに不完全なものとなっているかについても、言を待たないであろう7。
この本のなかでのジェインについての言及は、わずかに四箇所のみです。どれも一、二行の短い記述に終わっています。そのひとつに結婚に関する記述がありますが、マッケイルは、実にそっけなく、次の一語に止めています。「一八五九年四月二六日の木曜日、ウィリアム・モリスとジェイン・バーデンは、オクスフォードのセント・マイケル教区の古くからある小さな教会で結婚した。そのとき彼は、ちょうど二五歳であった」8。マッケイルは、自分に課せられた問題を実にうまく処理すると、機敏にも三年後の一八九九年にこの『ウィリアム・モリスの生涯』と題された伝記(二巻本)を上梓したのでした。
しかし、モリスが亡くなる以前にあって、モリス伝記の執筆を熱望していた人物がいました。それが、エイマ・ヴァランスです。一八六二年生まれの彼は、学者であると同時に牧師でした。また唯美主義者でもあり、資産家でもあったらしく、しばらくすると芸術に傾倒し、教会の仕事を諦めて、美術雑誌の『ステューディオ』に寄稿するようになりました。そうしてモリスの知遇を得たヴァランスは、モリスが亡くなる二年前に、伝記を書きたい旨の申し出をします。しかし、そのときのモリスの返事は、以下のようなものであったと、ヴァランスは回想しています。
……彼[モリス]は率直に次のように私にいった。あなたであろうと、ほかの誰であろうと、自分が生きている限り、そのようなことはしてほしくありません。もし死ぬまで待ってもらえれば、そうしていただいてもかまいません9。
こうしてヴァランスは、モリスの死後、伝記を書き進めることになるのですが、すでに公式伝記の執筆をマッケイルに依頼していたバーン=ジョウンズ夫妻は、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかについて、心を痛めていたにちがいありません。そこでバーン=ジョウンズ夫妻は、記述内容に制限を加えたものと想像されます。つまり、デザイナー、製造業者、詩人、政治活動家といった公的側面に限ると。当然ながらそのことは、この伝記の表題にも表われることになります。ヴァランス自身、その事情をこう説明しています。
慣例にしたがって序文を書くことは、私の意のあるところではないけれども、事情があって、そのようにしなければならない必要が生じた。まず、この本にこのような書名をわざわざ選んだ事実に注意を促したい。このことは、この本がモリス氏の個人的な問題や家族の問題についての評伝ないしは記録として成り立っているものではないということを示している10。
こうしてヴァランスは、わずかな例外を除いてはモリスの私的側面にいっさい触れることなく、したがって十全な個人の伝記としてではなく、公的側面の一記録として、この本を書き上げることになるのです。そうしたことが反映されて、このなかで記述されているジェインは、ただ次の一箇所のみとなっています。「一八五七年の秋にオクスフォードに一時滞在していたおりに、ウィリアム・モリスは、二年後に妻となる婦人と出会った」11。何と、「ジェイン」という実名さえも、使われていないのです。そして続けて、ヴァランスはこう書いています。「モリス夫人についてはいかなる描写も企てる必要はない。というのも、その人の特徴は、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの手になる多数の素描と絵画において、すでに不朽の名声が与えられているからである」12。このような理由から、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』と題されたこの伝記のなかにあって、ヴァランスは、ジェインの存在については完全に無視することになったのでした。
このふたつの評伝の出版に先立ち、モリスが死亡すると、新聞各紙は、モリスについての短い評伝や論評を掲載しました。そこには、ヴィクトリア時代の価値基準、すなわち、しばしばいわれるところの「俗物根性」が、色濃く投影されていました。たとえば、手を使う職人よりも、心を表現する詩人の方が偉大であるとする、当時の職業差別感のうえに立って、多岐にわたるモリスの活動領域のなかにあって、とりわけ詩人としてのモリスに高い評価が与えられることになりました。それに比べて、デザイナーとしては、趣味の改善に貢献したとしながらも、絶賛の言葉が付与されることはありませんでした。中産階級の出身で、オクスフォードで学んだ紳士が、織機の前に座って機を織る行為など、どうしても理解できなかったのでしょう。まして、モリスが確信する社会主義や政治活動については、詩人によくありがちな空想的でセンチメンタルな、実害のないひとつの慈善行為であると歪曲し、まともに関心を示すことさえもありませんでした。
かくして、各新聞の死亡記事(一八九六年)をはじめとして、その後に世に出る最初期の二冊の伝記であるヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(一八九七年)とマッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年)とによって、政治や恋愛といった世事から遠く離れた「夢見る詩人」としてのモリス像が、死後ただちに鋳造されてしまったのです。それは同時に、妻や娘たちの真実の生涯も、家族という実世界も、歴史のかなたに葬られてしまうことを意味していました。
世紀が変わると、モリスの娘のメイ・モリスの編集によって、一九一〇―一五年に『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)13がロングマンズ社から刊行されました。詩作活動が、晩年のデザインや政治の分野での精力的な活動に対する影の部分となっていたことに意を用い、詩人としてのモリスの名声をいま一度確保することが、この『著作集』を刊行するにあたっての主たる目的となっていました。そのため、社会民主連盟や社会主義同盟などでモリスが行なった政治演説の原稿も、『コモンウィール』などに掲載されたモリスの記事や論評も、ともに収録されることなく、削除されました。このことは、詩人としてのモリスの地位をさらに際立たせるうえで確かに役に立ったかもしれませんが、その一方で、モリスの非政治的な人間像を結果的に強化させる役割も、十分果たすことになりました。しかし、この『著作集』を『地上の楽園』や『ヴォルスング族のシガード』といったモリスの詩で構成する意向は、編者のメイからではなく、出版社側から提示されたものでした。しかし三〇年代にあっては、モダニズムが重視されるに従い、ヴィクトリア時代の詩人としても、ユートピア社会主義者としても、モリスはすでに人びとのあいだから忘れ去られようとしていました。一九三四年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で、ウィリアム・モリスの生誕一〇〇年を祝う展覧会が開催されたときも、モリスの社会主義は全く取り上げられることはなかったのです。
しかし、同じこの年に、社会主義者モリスという文脈から、短文ではありますが、以下のような貴重な論考が発表されました。
R. Page Arnot, William Morris: A Vindication, Martin Lawrence, London, 1934.
このなかでペイジ・アーノットは、モリスはマルクス主義者ではなかったという通説を覆して、いかにマルクスやエンゲルスから影響を受けていたのかを論証します。続く一九三六年には、同じくメイの手によって編集された『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(二巻本)14がブラックウェル社から上梓されます。とりわけ第二巻は、『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)に欠落していたモリスの政治的な発言によって構成されており、それについてのメイによる優れた分析は、モリスが革命的社会主義者であったとするアーノットの視点とあわせて、戦後のE・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』(一九五五年刊)へと引き継がれてゆくのです。
他方、英国にとっての一九二〇年代は、建築同様、工芸の沈滞期でありました。この時期は、一九世紀からのアーツ・アンド・クラフツの伝統が徐々に衰退し、しかもいまだモダニズムが明確に出現していない、そのような過渡期の重苦しい時期にあたり、オランダのデ・ステイルやドイツのバウハウス、フランスの純粋主義といったような、大陸における近代運動の高まりからすれば、明らかに英国は大きな遅れを余儀なくさせられていたのでした。そうした遅延を解消し、英国の近代運動に明快な指針を提供するうえで、極めて重要な役割を演じたのが、一九三四年に刊行されたハーバート・リードの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』でした。そのなかでリードは、モリスとその追従者たちについて、こうも決然と断罪したのです。
今日われわれがモリスの名前と業績を思い浮べるとき、そこに非現実感がまつわりつく。こうした非現実感は、彼が設定したそのような目標が間違っていたことに起因しているのである。……
私は、……今日にあってはモリスも、機械の不可避性を甘受するであろうと信じているのであるが、ところが、失われた主義主張を取りもどすための戦いを起こそうとしている昔からの彼の弟子たちが、いまだに見受けられるのである15。
そうしたなか、ジェインは一九一四年に、長女のジェニーは一九三五年に、そして次女のメイは一九三八年に黄泉の客となり、これをもってウィリアム・モリスの直系は、完全に途絶えることになります。
このように両大戦間期の様相を見てみますと、確かにモリスは、一見すると、もはや過去の人になってしまったかのように映ります。しかし、モリスの社会主義の意義については、戦後復興期の五〇年代に、また、モリスの装飾美術の価値については、モダニズム終焉以降の七〇年代に、そして、妻や娘たちの生涯を含むモリス家の私生活については、フェミニズム運動の第二波以降の八〇年代に、その再評価が開始され、没後以来永らく見受けられた暗雲の様相は一変し、逆に、活況を呈するようになってゆくのです。こうして、モリスの思想と実践の再評価の機運は、おりからの生産と消費の形態を見直す環境運動(グリーン・デザイン運動)と連動しながら、九〇年代を迎えます。そのハイライトが、モリス没後一〇〇年にあたる一九九六年だったのでした。
少し先走りましたので、ここで話をもとにもどします。第二次世界大戦が終結すると、英国政府は戦後の復興政策を推し進めます。モリスの政治性を隠蔽しようとするこれまでの鋳造のプロセスに歯止めがかかり、解体のプロセスが動きはじめたのは、ちょうどこの時期に相当します。このプロセスのなかにあって、最も大きなハンマーとなったのが、一九五五年に刊行された、こののち「新左翼」の担い手のひとりとなるE・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』でした。彼はこの八〇〇頁(一九五五年の初版は九〇八頁で、一九七六年の再版は八二九頁)を超える重厚な本をとおして、「中産階級の俗物精神」によってそれまで無視されてきたモリスの実像を緻密にえぐり出す実証的作業に取りかかったのです。トムスンは、モリスの実像を次のように再解釈しました。
……彼[モリス]は、こうした詩人たち[シェリーやキーツ]が歌い上げていた人間精神、つまり「ロマン主義的反抗」を邪魔立てようとする最後の大きな渦のなかに引き入れられた。ロマン主義は彼の骨身に浸透し、初期の意識を形成した。こうした情熱的反抗の最後の音調は、若きウィリアム・モリスが『グウェナヴィアの抗弁』を出版した一八五八年に、明らかに響き渡った。……
それ以降、英国詩における反抗の衝動はほとんど使い果たされてしまった。……耐えがたい現実社会への情熱的な抗議としてかつて存在していたものは、切なる郷愁か甘美なる泣き言以上のものではなくなる運命にあった。しかし、失意にあった一八五八年から七八年までのすべての歳月のなかにあって、モリスの最初の反抗の炎は、彼の内部でいまだ燃焼していた。ヴィクトリア時代のイギリスの生活は耐えがたいものであったし、……産業資本主義の価値は危険に満ち……人類の過去の歴史をあざ笑っていた。一八八二年にイギリスにおける社会主義の最初の先駆者たちとの接触を彼にもたらしたのが、彼の内部でいまだ燃焼していた、この若き日の抗議精神であった。そしてこうした先駆者たちが、単に近代文明に対する自分と同じ憎悪感を共有していただけではなく、その成長を説明するうえでの歴史理論とその成長を新たな社会へと変革するための意志をも持ち合わせていたことが、彼自身の理解につながったとき、古い炎が再びめらめらと燃え上がった。反抗のロマン主義者、ウィリアム・モリスは、現実主義者であると同時に革命主義者になったのである16。
やや長いこの引用文が指し示していることを短くまとめると、伝統的にロマン派の詩人たちが共有していた「ロマン主義的反抗」の精神を最後に受け継いだウィリアム・モリスは、その精神を絶やすことなく苦悩の期間中も温存し、社会主義運動の最初の高揚期を迎える八〇年代に、彼のそれまでのロマン主義は必然性と連続性のうちに革命的社会主義へと進展していったことになります。こうしてトムスンは、非政治的で超俗的な「夢見る詩人」としての旧来のモリス像を一気に解体し、それに代わる、「ロマン主義的反抗」という実に強固な伝統的抗議精神に裏打ちされた実践的革命主義者像を新たにモリスに用意したのでした。
こうした文脈において、トムスンは、ジェインをどう描写したのでしょうか。ヴァランスやマッケイルの伝記に比べると、大幅に記述量は増えています。この伝記において最初にジェインが登場するのは、次のような場面においてでした。トムスンは、のちにモリスと結婚することになる独身のジェイン・バーデンを最初に見出したのは、画家のダンテ・ゲイブリエル・ロセッティであり、ロセッティとバーン=ジョウンズとモリスの、女性に対する態度の形成は異なるものの、ロセッティの初期の絵、モリスの初期の詩、バーン=ジョウンズの絵画には、「愛」の理想化という点でなにがしか共通していることを指摘したうえで、「将来の妻であるジェイン・バーデンへ向けられた『我が貴婦人の礼讃』というモリスの詩のなかに、そうした態度の最も顕著な表現の一例を見出すことができる」17と述べ、そのあとに、モリスのその詩を引用するのです。『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』においてトムスンが最初にジェインを登場させたのは、こうしたモリスの初期の詩の分析過程でのことでした。
それ以降、「ロマン主義の詩人から社会主義の政治運動家へ」という、新たに発掘されたモリス像を衝撃のうちにも積極的に受容しようとする動きが、人びとのあいだに広がってゆきました。そのひとりに、それからおおよそ四〇年後にモリスの伝記『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』を書くことになるフィオナ・マッカーシーがいました。そのときの驚きの様子を、彼女は次のように率直に告白しています。
私がE・P・トムスンを最初に読んだのは、オクスフォード時代だった。すでに私はモリスに感嘆していたが、しかし彼の多様性は一種のパズルのように思えていた。壁紙と政治が結び付かなかった。この本は、……暴露された事実の力をもって私を痛打した。それというのもトムスンは、モリスにおける政治と芸術の主要なる関係性を、実に正確に把握し、実に辛抱強く請い求めていたからである18。
あえて本書の難点をいえば、モリスのデザイン活動への言及が少ないことでした。それを補うものが、レイ・ワトキンスンが公刊した『デザイナーとしてのウィリアム・モリス』(初版は一九六七年刊)でした。
E・P・トムスンに続くフル・スケールのモリス伝記は、以下のとおり、一二年後の一九六七年に、フィリップ・ヘンダースンによってもたらされました。
Philip Henderson, William Morris: His Life, Work and Friends, Thames and Hudson, London, 1967.
[ヘンダースン『ウィリアム・モリス伝』川端康雄・志田均・永江敦訳、晶文社、1990年]
著者のヘンダースン自身が書いているように、この伝記のひとつの特徴は、メイ・モリスが編集した『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)(一九一〇―一五年)と、その補遺に相当する『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(全二巻)(一九三六年)から多くが引用されていることであり、もうひとつの特徴は、多くの手紙や手稿(マニュスクリプト)が参照されていることです。すでにヘンダースンは、本書刊行以前にあって、次の書簡集『家族や友人に宛てたウィリアム・モリスの手紙』を編纂していましたので、準備よく、これを活用することになります。
Philip Henderson ed., The Letters of William Morris to His Family and Friends, Longmans, London, 1950.
またヘンダースンは、ロセッティからジェイニー(モリス夫人のジェイン)に宛てて書かれた一連の書簡を参照したとも述べています。ジェイニーが死去してちょうど半世紀が立った一九六四年に、非公開期間の終了を受けて大英博物館は、この書簡集を一般に公開しました。そのなかで、ロセッティは、絵や詩についてだけではなく、病弱なジェイニーの身体についても、妄想に取りつかれたかのように書いており、そこからその時期におけるロセッティの心的状況を読み取ることができます。これらの手紙については、次の記事のなかでも取り上げられました。
R. C. H. Briggs, ‘Letters to Janey’, in The Journal of the William Morris Society, no. 1, Summer 1964, pp. 3-22.
おそらくヘンダースンは、大英博物館が公開した原資料だけではなく、こうした特定の個別研究(モノグラフ)にも目を通していたものと思われます。さらにヘンダースンは、フィリップ・ウェブ、ジョージ・バーナード・ショー、そしてシドニー・コカラルといったモリス家と深くかかわっていた友人たちの書簡類を参照したことも、同じように述べています。訳書題は『ウィリアム・モリス伝』ですが、原著題が『ウィリアム・モリス――彼の人生、仕事、友人たち』となっているのは、そうしたところに由来していると思われ、ロセッティを含む「友人たち」との交流を扱った点で、既存の伝記にはない新鮮さがこの伝記には感じられます。しかし、主題と文脈に乏しく、散漫な記述も目立ちます。
いずれにしましても、著者であるヘンダースンは、公開された手紙や手稿(マニュスクリプト)を手掛かりに、政治や恋愛といった世事には興味を示さない超俗的な人物として扱われてきた従来のモリス像を修正し、モリスの複雑で感じやすい生身の性格や、神経質的で落ち着きのない感情の動きを再提示する一方で、妻のジェインと、夫婦共通の友人であるロセッティとのいわゆる「三角関係」についても、従来からの噂話や憶測を超え、新資料を駆使して描写することができたのでした。こうして、公式伝記である『ウィリアム・モリスの生涯』において著者のマッケイルが口をつぐんでしまっていた箇所の一部が、この伝記のなかで、新しく現像されることになりました。さらに加えれば、視覚資料である図版が豊かであることも、ヘンダースンの伝記に認められる、過去に類例がない新たな特徴ということになるでしょう。
一九六四年の大英博物館によるロセッティ書簡の解禁に続いて、今度は一九七二年に、ケンブリッジにあるフィッツウィリアム博物館が、これまで封印されていたウィルフリッド・スコーイン・ブラントの文書類をはじめて公開しました。これにより、このふたりの男性が、モリスの妻であるジェイニーの恋人であったことが公然と判明しました。次に挙げる書物も、ジェイニーとブラントの関係を示す資料となっています。
Peter Faulkner ed., Jane Morris to Wilfrid Scawen Blunt: The Letters of Jane Morris to Wilfrid Scawen Blunt Together with Extracts from Blunt’s Diaries, University of Exeter Press, Exter, 1986.
一九六〇年代の後半には学生運動がピークに達しますが、ちょうどこのころから、デザインの世界では、モダニズムの妥当性を巡る論議が活発化します。とくに批判を浴びたのが、モダニズムの機能優先の思想でした。こうして、ニコラウス・ぺヴスナーの歴史書やハーバート・リードの理論書などによって主導され、一九三〇年代以降英国を支配してきたデザインの近代運動は、次第にその勢いを失うことになります。それによってデザインの原理も見直され、「機能」から「装飾」へと、移り変わります。それは、モダニズム以前に展開されたアーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーヴォーの再評価を招来しました。かくしてこの時期、ウィリアム・モリスの思想と実践が、再び歴史のなかから呼び出されることになるのです。
直接このことと関連していたかどうかはわかりませんが、一九七五年という、まさしく近代運動崩壊前後のこの時期に、ジャック・リンジーの手によって、ヘンダースンに続く、新しいフル・スケールの伝記が発刊されました。「序文」において彼は、これまでに刊行された伝記を顧みて、次のように述べています。
ウィリアム・モリスに関する書物やそれぞれの彼の仕事についての出版物は大変多く、この十数年以上にわたり確実に増加している。その一方で、伝記として十全に論じられた大著は三冊にすぎない。それらは、マッケイル(一八九九年)、エドワード・トムスン(一九五五年)、そしてフィリップ・ヘンダースン(一九六七年)によるものである。いずれにもそれぞれの長所が見受けられる。最初の伝記は貴重な作品で、家族の評伝としてのすばらしい一例である。最後のものは、マッケイルが築いた土台の上にさらに生き生きと描き出された労作となっている。二番目に挙げたものは、モリスの政治的活動の重要性をついに打ち立てることに成功し、ペイジ・アーノットの先駆的な指摘があったにもかかわらず、この伝記の登場以前に支配していた、さまざまな誤謬を覆すものであった19。
それでは、列挙されている既刊の三つの伝記にはみられない、この『ウィリアム・モリス――その人生と仕事』独自の特質とは、一体何なのでしょうか。それは、幼年時代の体験と後年の行動のあいだに認められる因果性と再現性という論理的な構造のなかでモリスの人生と仕事を語ろうとしている点ではないかと思われます。たとえばリンジーは、後年のモリスが遭遇することになるジェインとロセッティとの「三角関係」を、姉のエマが結婚することで愛を喪失した幼年時代の体験と関連づけようとします。しかし、ウィルフリッド・スコーイン・ブラントとジェインの関係については、とくに何も触れていません。一方、リンジー的な分析に従えば、こうした精神的苦痛のいやしが、モリスをして芸術という仕事に一意専心させたということになり、ここでも、原因と結果の連続性を暗に提示しています。『ウィリアム・モリス――その人生と仕事』を公刊するに際しての伝記作家としてのリンジーの関心は、ジョン・マッケイル(一八九九年の『ウィリアム・モリスの生涯』)、エドワード・トムスン(一九五五年の『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』)、そしてフィリップ・ヘンダースン(一九六七年の『ウィリアム・モリス――彼の人生、仕事、友人たち』)の既存の大著に伍して、モリスが展開した複雑で苦悩に満ちた人生の実際と、多領域にわたる精力的な仕事の全貌とを、独自のロジックでもって解釈し、再整理することだったといえるかもしれません。
一九八〇年代には、モリス研究にとっての大きな動きがありました。それは、次のような、ノーマン・ケルヴィンの編集になるモリスの書簡集が、プリンストン大学出版局から発刊されたことでした。
Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984.
すでに言及していますように、フィリップ・ヘンダースンの編集による『家族や友人に宛てたウィリアム・モリスの手紙』が一九五〇年に刊行されていましたので、それに続く、書簡集の刊行ということになります。編者のケルヴィンは、「この編纂書の範囲」と題した巻頭文の冒頭で、「『ウィリアム・モリス書簡集成』は、およそ二、四〇〇の文書から構成されており、そのうちの一、五〇〇は、以前にあって公刊されていないものであり、それ以外のものは、現在までにあって、必ずしも完全なかたちをとって公刊されているわけではない」20と、述べています。そして、「この編纂書の範囲」のあとに「序文」が続き、そのなかでケルヴィンは、まとまった紙幅を割いて、所収されているモリス書簡についての概観と分析を行なっています。妻のジェインに宛てた手紙、そして長女のジェニーに宛てた手紙については、「モリスの結婚やジェニーの病気の家族への影響に関しての新たな情報に照らして読まれなければならない。ある意味で、それらの手紙は、……最も明示的なものとしてみなされることができる。別の意味で、それらの手紙は何も明示していない。それらが『明示』するのは、自分の心を覆う多くのことを、そして、自分が感じる多くのことを、ともに隠そうとするモリスの能力なのである」21と、ケルヴィンは書いています。
この第一巻には、一八四八年から一八八〇年までの総計六五九の文書が所収されていました。その後、一九九六年のモリス没後一〇〇年の記念の年まで、以下のように続巻が刊行されてゆきました。どの巻にも関係図版が豊富に添えられ、視覚資料としても価値をもっています。また、「モリス年表」が付けられることによって、さらなる読者への便宜が図られていました。
Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part A] 1881-1884, Princeton University Press, Princeton, 1987.
Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME II [Part B] 1885-1888, Princeton University Press, Princeton, 1987.
Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME III 1889-1892, Princeton University Press, Princeton, 1996.
Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME IV 1893-1896, Princeton University Press, Princeton, 1996.
本稿のこの「序章」の最初のところで、すでに私は言及していますが、ケルヴィンのこの『ウィリアム・モリス書簡集成』の第一巻が公刊された二年後の一九八六年に、ジェイン・モリスとメイ・モリスの母と娘の二代を扱った、次に示す伝記が世に出ました。
Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986.
[マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年]
著者は、すでにラファエル前派についての著述などでよく知られていた、女性の伝記作家のジャン・マーシュでした。マーシュは、「この本は不公平に対する義憤の念から執筆されたものである」という衝撃的な言葉でもって、「序文」を書き出します。その一語のうちに、ウィリアム・モリス、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョージ・バーナード・ショーといった著名人を取り巻く女性たちの存在が、あたかも男性の添え物であるかのように、顧みられることもなく、歴史のなかで忘却されてきていることへの強い憤懣が込められていました。
学術研究の分野でのフェミニズム運動は、女性を軽視する体制や論調に対して直接的に抵抗と異議申し立てを行なった第一波を経て、すでに八〇年代には、女性の存在と業績を闇から救い出して考察の対象に据え、歴史のなかに再び適切に配置しようとする第二波の時代に入っていました。マーシュの『ウィリアム・モリスの妻と娘』も、そうした背景から生み出された作品でした。このなかでマーシュは、ジェインの、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情関係だけではなく、その後のウィルフリッド・スコーイン・ブラントとの恋愛事件についても言及し、それと同時に、長女ジェニーが不幸にもわずらった病気のことや、次女のメイのジョージ・バーナード・ショーとの恋愛と挫折についても、積極的に明らかにしました。そのうえに立って、ジェインについては、優秀な刺繡家であり、誇りをもったロセッティの絵のモデルであったことを、一方メイについては、時代に先立つ社会主義の女性運動家であり、膨大な父の遺作を『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)と『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』(全二巻)にまとめ上げた、学識豊かな編者であり解説者あったことを、歴史のなかから新たに発掘し、再評価への道を開きました。このようにフェミニスト・アプローチによるモリスの妻と娘を対象にした伝記が誕生したことは、これまでのモリス伝記の歴史に、大きな一石を投じるものでありました。
一九八〇年代の後半から九〇年代へ至るこの時期、英国の人びとの関心は、フェミニズム運動のみならず、環境問題にも向けられていました。過剰な大量生産と大量消費に支えられた現行の社会的、技術的、文化的構造に対する危機意識と批判が、一面でさらに増幅してゆきました。一方デザインの世界にあっては、それは、「市場誘導型デザイン」ないしは「消費誘導型デザイン」に取って代わる「グリーン・デザイン」という観念でもって言い表わされました。この「グリーン・デザイン」には、総じて、環境や資源の限界を逸脱した生産=消費構造からの脱却、高度に細分化した労働から全体的に把握可能な労働への転換、生活用品の量的所有の豊かさから質的使用の喜びへの脱皮、自ら制御可能な生活形式の創出といった幾つかの重要な視点が含まれていました。一九九三年に発刊された『社会のためのデザイン』のなかで、著者のナイジェル・ホワイトリーは、とくにグリーン主義者の労働観について次のような分析をしています。
マルクス主義者や社会改革者たちは、給料袋の「麻酔」では、断片化され、疎外された非人間的な労働を穴埋めすることはできないという論議を長いあいだ行なってきた。幾つかの企業では、職務にある程度の幅の広さを導入することによって、単調さを減少させる試みがなされた。……しかし、多くのグリーン主義者たちは、根本的に不完全なシステムの表面上の取り繕いとして、これを退ける。……
別の人たちのなかには、ロボット化が、精神性を欠いた型どおりの仕事への回答になると仮定する者もいるが、自動化の増大が失業を招くことへの影響はよく知られている。こうした考えに立つ一部のグリーン主義者たちは、……最も基幹をなす自動化された大量生産のプロセス以外はすべて拒絶し、……本質的には工芸に基盤を置く生産手段へもどることを求めようとする。他のグリーン主義者たちは、「二層の経済」という考え方を好む。こうした経済にあっては、一方では、広範囲に自動化された、芸術の状態にある大量生産の手法が、それと並行してまた一方では、つくり手に満足を与えるような、高度な技術に到達した、しばしば労働集約型の工芸か手による生産のプロセスが、社会のありふれた日常品目を生産するために用いられることになる22。
こうした労働と生産への展望は、当然ながら、過去へさかのぼれば、一世紀前のモリスへと行き着きます。事実ホワイトリーも、「双方のグループとも、自分たちの指導者としてウィリアム・モリスを要求している」23と、述べています。グリーン・デザイン運動は、明らかにモリスの手本に倣った「産業主義」への拒絶であり、基本的には工芸的手段をとおしての「人間的に自然な」労働と生活の再編へ向けての実践として、当時進行していったのでした。
そうした時代を背景に、翌年の一九九四年、フィオナ・マッカーシーの『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』と題され浩瀚の一著が世に出たのでした。重要なのは、この本の副題に「われわれの時代のための生涯」の一語が選ばれたことです。モリス伝記にとって副題は、その伝記の眼目(目的、方法、時代背景等)を表わす極めて重要な意味をもちます。さかのぼれば、E・P・トムスンは自著の副題を「ロマン主義者から革命主義者へ」(一九五五年)としました。ヘンダースンの伝記の副題は、「彼の人生、仕事、友人たち」(一九六七年)です。そして、二年後にモリス没後一〇〇年を迎える一九九四年のこの年、著者のマッカーシーは、まさしく副題に「われわれの時代のための生涯」という金冠を設け、モリスは単にモリスの時代のためだけに生きたのではなく、モリスの生涯こそが、すべての時代が必要とする普遍的な生き方であったことを含意させたのでした。
マッカーシーの伝記の特徴は、副題の選定だけには止まりません。その最大の特徴は、これまでの伝記で考察された研究成果のみならず、フェミニスト・アプローチがもたらした妻や娘についての新しい知見も余すことなく取り入れられ、さらに加えて、これまでに公にされた書簡や手稿類が実証の手段として十全に駆使されていることでした。こうして、この一〇〇年にわたるモリス研究を集大成した大著が、ここに誕生したのです。「序文」のなかで、このように語る著者の一節がありますので、引用しておきます。
モリスに関する最近の書物は、専門家としての立場からモリスについて見解を述べる傾向にありました。私たちはすでに、マルクス主義からのモリス像、ユング心理学からのモリス像、フロイト派精神分析からのモリス像をもっています。そしていまや、モリスはグリーン主義者から賞讃されています。理論が積み重ねられてゆくことによって、モリスの「全体的な」パーソナリティーは見えにくくなっています。私は、このプロセスを逆転させて、彼を解き放し、そのうえで彼を記述したいと思いますし、もし可能であれば、モリスの最初の伝記作家であるJ・W・マッケイルが一八九九年に見事な二巻本として出版した『ウィリアム・モリスの生涯』以来、誰も試みていない方法でもってモリス神秘の一端を見定めてみたいと希望しています24。
さらにもうひとつ、この伝記の特徴を挙げることができます。それは、この書は全二〇章で構成されているのですが、その章題のすべてに、一時的な旅行先や滞在地を含め、地名や住居名が採用されていることです。たとえば、第一章「ウォルサムストウ」(出生地)、第三章「オクスフォード」(大学生活の地)、第六章「レッド・ハウス」(結婚後の新居)、第一〇章「ケルムスコット・マナー」(別荘)、第一二章「ケルムスコット・ハウス」(後年の住居)といった具合です。ここで、すでに私が言及しています『注釈ウィリアム・モリス書誌』という書籍のことを思い出していただきたいと思います。述べていますとおり、この本では八の項目に分類されて、モリスに関する資料がリスト化されていますが、その三番目の項目であります「概説書と伝記」の項目は、さらに三つの小項目に分かれ、「総記」「ジェイン・モリス」「住居」から成り立っています。この『注釈ウィリアム・モリス書誌』は一九九一年の刊行ですので、著者のマッカーシーは、執筆する伝記の分節化を考えるに際して、「概説書と伝記」が「総記」「ジェイン・モリス」「住居」の三つの小項目によって構成されていたことに想を得た可能性があります。たとえそうでないにしても、マッカーシーの伝記は、『注釈ウィリアム・モリス書誌』の分類法と同様に、妻だけではなく、住居もまた、伝記書法上、重要かつ不可欠の要素となることを物語っているのです。
フィオナ・マッカーシーがウィリアム・モリス協会の会長職を辞したのは、この伝記が刊行された翌年の一九九五年のことでした。そして、次の一九九六年、モリス没後一〇〇年を祝う記念の年を迎えました。この年、モリスに関する展覧会や講演会、モリス史跡への見学会や旅行会が多数企画されました。とりわけ展覧会として注目されたのは、五月九日から九月一日の期間にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「ウィリアム・モリス」展でした。企画は、モリス研究者でもある、この博物館の学芸員のリンダ・パリーが担当し、展覧会の開催にあわせて刊行されたカタログ25の編集の任も担いました。このカタログは、モリスの人間として取り組んだ活動の側面と、製作者として取り組んだ活動の領域とに大別したうえで、側面や領域を構成する一つひとつの事象について、専門家がテクストを執筆するという形式によって成り立っていました。モリスの「人物」については、デザイナー、著述家、企業経営者、政治活動家、環境保護運動家の五つの側面に分けて、それぞれの側面に照明があてられる一方で、モリスの「芸術」については、絵画、教会装飾とステインド・グラス、室内装飾、家具、タイルとテイブルウェア、壁紙、テクスタイル、カリグラフィー、ケルムスコット・プレスでの印刷と造本の九つの領域に分けて分析されていました。さらに続けて、モリスが後世に残した「遺産」についても、所収された三編の論文のなかで、詳細に論じられましたし、巻末には、資料の一部として「ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館収蔵のモリス作品一覧」がまとめられました。まさしくこの展覧会は、モリス作品の全容を展示するとともに、この絶好の機会にあって、多数の専門家の協力を得て、それまでのモリス研究の全貌を見事に総括するものであったといえます。
これまでヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は、モリスを扱った展覧会として、一九三四年に「ウィリアム・モリス生誕一〇〇年記念展」、一九五二年に「ヴィクトリア時代とエドワード時代の装飾美術」展、そして一九六一年に「モリス商会創設一〇〇年記念展」を開催してきました。没後一〇〇年にあわせて開催された、一九九六年のこの「ウィリアム・モリス」展は、モリスの思想と実践を積極的に再評価しようとする時代背景と重なったこともあって、入館者数は何と二一万人を超え、この博物館にとって過去に例を見ない記録的な成功となりました。こうしてモリス研究は、これよりのち、次に訪れる二〇三四年の生誕二〇〇年へ向けて、新たな一歩を踏み出すことになったのでした。
私のモリス行脚にとりましても、没後一〇〇年の一九九六年は、特別なものになりました。すでに一九九三年に、私は、ジャン・マーシュの『ウィリアム・モリスの妻と娘』を共訳し、晶文社から刊行していました。一九九五―九六年に文部省の長期在外研究員として英国に滞在していたおりには、ウィリアム・モリス協会からの依頼を受け、本部のある〈ケルムスコット・ハウス〉において、「日本におけるウィリアム・モリスの影響」について講演を行ないました。翌年、その講演内容は、次の雑誌に掲載されることになります。
‘The Impact of William Morris in Japan: 1904 to the Present’, Journal of Design History, vol. 9, no. 4, Oxford, Oxford University Press, 1996, pp. 273-283.
一九九七年に入ると、一九九六年にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「ウィリアム・モリス」展の日本での巡回展がはじまりました。私はその名古屋展にあわせて、当時ミユージアムのディレクターをしていた名古屋の国際デザインセンターを会場に、「現代に生きるウィリアム・モリス」と題する講演を行ないました。この講演会の主催は、NHK名古屋放送局事業部でした。
最初に私が、トプシーとジェイニー(ウィリアム・モリスとジェイン・モリス)を扱った物語を書いてみたいと思ったのはこの時期だったと記憶しています。しかしその一方で、さらに英国の事象(モリスや英国デザイン史)に目を向け続けるのか、それとも、母国の事象に関心を見出すのか、迷っていた時期でもありました。そうしたとき、ジャン・マーシュさんからのメールが入り、モリスの新居の〈レッド・ハウス〉を訪問した日本人を特定してほしい旨の依頼がありました。そのとき私は、一九一二年に富本憲吉が『美術新報』に寄稿した「ウイリアム・モリスの話」を再び読み返す機会をもちました。それまで日本にあっては、富本の〈レッド・ハウス〉訪問は、既知のものとなっていました。しかし、〈レッド・ハウス〉に触れた箇所を何度読み直しても、その文から私は、富本が〈レッド・ハウス〉を訪問したとはどうしても感じられませんでした。そこで、その部分を全文英訳して、該当する当時の出版物はないか、マーシュさんへ逆の依頼をしました。こうして、マーシュさんの協力を得て、この富本が書いた評伝「ウイリアム・モリスの話」が、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(一八九七年)を底本としていることに気づかされることになりました。そのことを考察したのが、以下の論文です。
「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。
その論文を脱稿して私の脳裏に浮かんだのは、次のような疑問でした。これまでの通説では、富本がモリスの存在を知るのは、東京美術学校時代の美術史の教授であった岩村透の講義をとおしてであったとするものでした。しかし、富本がすでにヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を読んでいたことを知った私は、その通説を疑うようになりました。こうして、そのことを実証するために書いたものが、次の論文でした。
「岩村透の『ウイリアム、モリスと趣味的社會主義』を再読する」『デザイン史学』第4号、デザイン史学研究会、2006年、63-97頁。
これを書き終えると、続けて私の関心は、富本憲吉の学生時代とロンドン時代へと向かいました。富本は、美術学校の学生であったとき、どのようにしてモリスの思想と実践を知るに至ったのだろうか、そして、一九〇九―一〇年の滞在中にあって、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でモリスのどのような作品を見たのだろうか、その一方で、モリスの社会主義については、どう学習したのであろうか――その謎を解き明かすのが、そのときの私の最大の関心事となりました。そうした関心を背景に執筆したものが、次の連続する三編の論考でした。
「富本憲吉の英国留学以前――ウィリアム・モリスへの関心形成の過程」『表現文化研究』第6巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2006年、35-68頁。
「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるウィリアム・モリス研究」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、27-58頁。
「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅱ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と中央美術・工芸学校での学習、下宿生活、そしてエジプトとインドへの調査旅行」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、59-88頁。
その後、ウェブサイト「中山修一著作集」を作成するに際して、以上において言及した論文はすべて、著作集2『ウィリアム・モリス研究』に一括して所収することにしました。
富本憲吉の学生時代と留学時代を考察した三部作を書き終えるころには、さらなる私の関心は、英国留学から帰朝した富本の、その後の人生へと向かっていました。富本は、英国でのモリス研究の成果をその後の人生のなかで、どのように活かしたのか、私はその実相を知りたいと強く思いました。そのことは、密かな思いのなかで、これまでの私のモリス巡礼の一環としての英国留学(一九八七―八八年のブリティッシュ・カウンシルのフェローとしての、そしてまた、一九九五―九六年の文部省の長期在外研究員としての、英国でのモリス研究および英国デザイン史研究)と幾分重なるところがありました。他方このとき、同じく私の思いのなかで、当初抱いていたモリスの家族史執筆への関心が、少し遠のいたことも事実です。しかしそれでも、私にとって固有で重要な伝記執筆上の「家族」という文脈については、決して忘れ去ることはありませんでした。こうして完成したものが、ウェブサイト「中山修一著作集」における著作集3『富本憲吉と一枝の近代の家族(上)』と著作集4『富本憲吉と一枝の近代の家族(下)』でした。そしてその後、「富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す」(著作集5『富本憲吉研究』に所収)と「富本一枝という生き方――性的少数者としての悲痛を宿す」(著作集11『研究余録――富本一枝の人間像』に所収)の両人単独の伝記も脱稿することができました。こうして、一九九六年ころに芽生えた執筆意向の情熱からおよそ四半世紀の時を経たいま、やっと、「ウィリアム・モリスの家族史」執筆の環境が整いました。一九九六年ころ当時の興奮や熱狂はやや薄れていますが、その分少し冷静に、そして幾分肩の力を抜いて、トプシーとジェイニーの夫婦の生涯に目を向けてみたいと思います。そして、巻をまたぎますが、次の著作集7『日本のウィリアム・モリス』の第二部「富本憲吉とウィリアム・モリス」におきまして、ウィリアム・モリスと富本憲吉の双方の家族に言及して、比較考察してみたいと考えています。これが、執筆の遅延がもたらした、予期せぬひとつの成果となるようにと、執筆に先立ち、いま自分自身、少し胸躍らせているところです。
以上に述べてきましたことをもちまして、本稿執筆に当たっての「序章」とさせていただきます。ひとつの論稿の「序章」としては、異例にも、長々しい駄文となってしまいました。それではこれより、「ウィリアム・モリスの家族史――モリスとジェインに近代の夫婦像を探る」の本題に入りたいと思います。記述を進めるに際して、常に手もとに置いて参照するのは、主として、この「序章」のなかで言及した書物と論文です。果たして、どのようなモリスの家族像が浮かび上がってくるのでしょうか。執筆をとおして、新たな感動との出会いがあることを期待しながら、全二一章の完結に向けて、これからゆっくりと挑戦してゆきたいと思います。
(1)DECORATIVE ART, 1926 “THE STUDIO” YEAR-BOOK, The Studio, London, p. 87.
(2)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897, p. 310.
(3)Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986, p. xi. [マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』中山修一・小野康男・吉村健一訳、晶文社、1993年、16頁を参照]
(4)Ibid., p. xi.[同書、16-17頁を参照]
(5)Ibid., p. xi.[同書、17頁を参照]
(6)David Latham and Sheila Latham, An Annotated Critical Bibliography of William Morris, Harvester Wheatsheaf, London and St. Martin’s Press, New York, 1991, p. 3.
(7)J. W. Mackail, ‘PREFACE’, The Life of William Morris, volume I, Longmans, Green and Co., London, 1899. なお、この ‘PREFACE’ には、ノンブルは付けられていません。
(8)Ibid., p. 138.
(9)Aymer Vallance, ‘PREFACE’, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897. なお、この ‘PREFACE’ には、ノンブルは付けられていません。
(10)Ibid., ‘PREFACE’.
(11)Ibid., p. 42.
(12)Ibid., p. 42.
(13)May Morris ed., The Collected Works of William Morris, 24 vols. Longmans, London, 1910-15.
(14)May Morris ed., William Morris: Artist, Writer, Socialist, 2 vols. Blackwell, Oxford, 1936.
(15)Herbert Read, Art & Industry: The Principles of Industrial Design (1934), Faber & Faber, London, edition of 1956, pp. 47-50 and 51.[リード『インダストリアル・デザイン』勝見勝・前田泰次訳、みすず書房、1957年、50および54頁を参照]
(16)E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary (1955), Pantheon Books, New York, 1976, pp. 1-2. 私が利用したのはこの再版本で、以下の初版は未見です。 E. P. Thompson, William Morris: Romantic to Revolutionary, Lawrence and Wishart, London, 1955.
(17)Ibid., p. 65-66.
(18)Fiona MacCarthy, 'E. P. Thompson: 1925-1993', The Journal of the William Morris Society, vol. X, no. 4, Spring 1994, p. 4.
(19)Jack Lindsay, ‘Foreword’, William Morris: His Life and Work, Taplinger Publishing Company, New York, 1979. なお、この ‘Foreword’ には、ノンブルは付けられていません。また、初版は一九七五年にロンドンのカンスタブル社から発行されているようですが、私は未見です。
(20)Norman Kelvin ed., The Collected Letters of William Morris, VOLUME I 1848-1880, Princeton University Press, Princeton, 1984, p. xi.
(21)Ibid., p. xxx.
(22)Nigel Whiteley, Design for Society, Reaktion Books, London, 1993, pp. 66-67.
(23)Ibid., p. 67. (24)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, p. viii.
(25)Linda Parry ed., William Morris, Philip Wilson Publishers, London, 1996. なお、リンダ・パリーはテクスタイルの専門家で、彼女の著書のひとつに次のものがあります。 Linda Parry, William Morris: and The Arts and Crafts Movement, Studio Editions, London, 1989. また、一九九六年の「ウィリアム・モリス」展を含め、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が開催した過去の展覧会の書誌として、次のものがあります。 The Victoria and Albert Museum: A Bibliography and Exhibition Chronology, 1852-1996, Compiled by Elizabeth Lames, Fitzroy Dearborn Publishers, London・Chicago, 1998.