中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第三章 職業選択の模索

一.同人雑誌の刊行と建築家修業

一八五六年一月一日に、文芸同人雑誌である『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン――両大学の会員による運営』の初号が、ベル・アンド・デルディ社を版元として出版されました。経費はすべてモリスによる負担でした。月刊雑誌として定期刊行され、その年の一二月まで続き、各号、二段組で、六〇頁から七二頁で構成され、一部一シリングで販売されました。内容は、随筆、物語、詩歌、書評で占められていました。モリスがこの雑誌に寄稿した作品は、以下のとおりです。

一月号 「知られざる教会の物語」(物語)、「冬の日和」(詩)

二月号 「北フランスの教会 その一 アミアンの影」(随筆)

三月号 「夢」(物語)、ロバート・ブラウニング『男と女』の書評

四月号 「フランクの封書」(物語)

五月号 「大聖堂の夜」(物語)、「一緒に馬に乗って」(詩)

六月号 「ラスキンと季刊誌」(随筆)

七月号 「ガーサの恋人たち 第一章から第三章」(物語)、「手」(詩)

八月号 『復讐者の死』と『友の死』の書評、「スヴェンと彼の仲間たち」(物語)、「ガーサの恋人たち 第四章と第五章」(物語)

九月号 「リンデンボーグの沼」(物語)、「窪地 第一章と第二章」(物語)、「ライオネスの礼拝堂」(詩)

一〇月号「窪地 第三章」(物語)、「どうか私のためにひとつの祈りを」(詩)

一二月号「黄金の翼」(物語)


これらが、初期のモリスの文芸作品を構成するものであり、このなかの四編の詩が、二年後に出版される第一詩集『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』に所収されることになります。それらは、「一緒に馬に乗って」「ライオネスの礼拝堂」「どうか私のためにひとつの祈りを」、そして「手」の四点です。もっとも、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』においては、最初の三つの詩は「夏の夜明け」に改題され、また最後の詩は、「ラープンゼル」のなかの王子の歌に転用されることになります。

初号の発行部数は七五〇部で、二五〇部が追加増刷されるほどの売れ行きでした。しかし、次第に在庫を抱えるようになります。それに加えて、寄稿者の関心も分散してゆき、出資者であるモリス自身も、雑誌刊行以外のことに夢中になるようになります。こうしてついに、一二月号を最後に、この雑誌は休刊へと追い込まれていったのでした。

一八五六年一月二一日にモリスはストリートと契約を交わすと、バウモント通りにある彼の事務所で働きはじめ、同時に下宿生活に入ります。ストリートがオクスフォードに事務所を開設したのは一八五二年のことで、オクスフォードの司教区建築家に任命されたことによるものでした。彼は、この地で教会の建設や修復の事業に携わっていました。そして何よりも、ラスキンの信奉者でありました。モリスはここで働くにあたり、刊行されたばかりの『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の創刊号をストリートに贈与した可能性もあります。そのなかのモリスの散文ロマンスである「知られざる教会の物語」には、このような一節が書かれてありました。

秋の日、ほとんどその教会は完成した。私たちは修道士たちのためにこの教会を建てている。その近くに住む人たちが、私たちの石を彫る様子を見ようと、しばしば私たちの周りに集まってくる。

当時ストリートの片腕となってアシスタントを務めていたのが、フィリップ・ウエブという建築家でした。この出会いをきっかけに、ウェブはモリスの終生の友となり、モリスの結婚に際しては新居の〈レッド・ハウス〉を設計し、モリスがモリス・マーシャル・フォークナー商会を立ち上げると、その一員としてさまざまな図案を提供し、モリス没後には、墓石のデザインをすることになるのです。ウェブの出生地はオクスフォードのバウモント通り一番地で、ここで一八三一年一月一二日に生まれます。したがって、モリスより三歳年上ということになります。のちにウェブは、自分の伝記作家となるウィリアム・リチャード・レサビーに、最初に会ったときのモリスについて、「卵からまさに外へ出ようとする美しい鳥のような、スリムな少年」だったと、語っています。またレサビーは、次のようなことも、その伝記のなかで記述しています。

モリスは、およそ一年間、ストリートの事務所に留まった。ウェブからの聞き取りによれば、モリスは、その間の多くを使って、カンタベリーにあるセント・オーガスティンの教会の玄関口を「専門的に」描写することに専念した。彼は、たくさんのアーチの刳り形を描くことに困難を覚えた。そして「ついには、コンパスの芯で、製図版に穴が開かんばかりとなった」。ストリートは、仕様書をつくる仕事の方が、モリスに向いているのではないかと考えた。

前年の夏、ル・アーヴルの埠頭で、モリスは建築家の道を、バーン=ジョウンズは画家の道を歩むことが、最終的に決断されたときのことを、バーン=ジョウンズは、こう語っています。「私たちは、これまでのまる一年というもの、そうした進路に関して熱く燃えていました。――それは、私の人生のなかで最も記念すべき年となりました」。しかしながら、こうした強い決意はあったものの、モリスの方は、初心を貫くことなく、建築家になることを断念する運命へと次第に導かれてゆきます。一方のバーン=ジョウンズは、そうではありませんでした。この時期、初心どおりに、画家になるための道へと積極的に身をゆだねようとしていたのでした。バーン=ジョウンズは、このように語っています。

[『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』が刊行される数日前の一八五五年の]クリスマスのすぐあとに、私は、叔母を訪ねて、ロンドンへ行きました。私は二二歳で、これまでの人生で、一度たりとも画家と呼ばれる人に会ったことも、まして見たことさえもありませんでした。……私が会いたかったひとりが、ロセッティでした。彼と知り合いになるという夢など持ち合わせていなかったのですが、それでも一目だけでも見てみたいと思い、彼がグレート・オーマンド通りにある労働者学校で教えていることを聞いていたので、ある日、そこへ行ってみました……ロセッティは、翌日自分のアトリエに来るように命じました……行ってみると、あるイラストレイションのなかの臆病者を引き写してひとりの修道士を水彩で描いていました……彼は私をとても礼儀正しく受け入れ、また、モリスの一、二編の詩をすでに知っており、モリスについて多くのことを尋ねました……。

モリスが、バーン=ジョウンズとともに、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティを訪ねたのは、モリスがストリートの事務所で働きはじめてすぐのことだったと思われます。ウィリアム・ベル・スコットに宛てて出されたロセッティの二月の手紙に、こう記されています。

『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の立案者であるふたりの若者が最近オクスフォードからやってきて、いま親密につきあっている。ふたりの名前は、モリスとバーン=ジョウンズ。

この年の春の復活祭のとき、バーン=ジョウンズは、学位を取ることなく大学を離れ、ロンドンへ向かいます。そしてそこで、ロセッティの親切な指導のもとに、絵を描きはじめるのです。モリスもほとんど週末になるとロンドンへ行き、土曜日は王立アカデミーなどで絵を見たり、夜にはバーン=ジョウンズやロセッティと一緒になって劇を見たりして楽しい時間を過ごします。観劇のあと三人は、ブラックフラィアズ橋を望むエンバンクメントのロセッティの家へ行き、そこで朝の三時か四時まで語り合ったようです。日曜日は、チェルシーにあるバーン=ジョウンズの下宿先で『アーサー王の死』などを読んで過ごすことが慣例となっていて、午後にロセッティが立ち寄ったりすることもしばしばありました。そしてモリスは、翌朝の一番列車でオクスフォードへもどり、ストリートの事務所での勤務についていました。

その年(一八五六年)の王立アカデミーの展覧会を見たとき、そこに展示されていたアーサー・ヒューズの《四月の恋》にモリスは強い感銘を受けました。五月一七日の日付をもつバーン=ジョウンズへ宛てた手紙には、こう書き記されています。

お願いがあります。《四月の恋》というあの絵を、できるだけ早く行って、買ってきてもらえないでしょうか。ほかの誰かに購入されると困るので。

こうしてモリスはこの絵を手に入れました。このときの展覧会には、ハントの《贖罪のヤギ》やミレイの《過行く秋》、そしてウォリスの《チャタトンの死》も展示されていました。

モリスは、絵画に強い関心をもちはじめました。そして同時に、ロセッティの人柄に引き込まれてゆきました。次の手紙は、オクスフォードから七月に、おそらくプライスに宛てて出された手紙の一部です。

 最後にあなたと会って以来、二度ロセッティに会いました。二度目は、先週の月曜日でしたが、ほとんど一日中彼と過ごしました。そこへハントがやってきました。彼は、長身の痩せ形で、美しい赤毛のあごひげを蓄え、鼻は幾分上向きで、目は深く窪み、濃い色をしていました。見事な顔立ちの男性です。……ロセッティは私に、絵を描くべきだといいます。彼は、いずれ私はそうなるだろうといいます。彼は実に偉大な人間です。文士とは違って、威厳をもって話します。それでいまや私は、きっとそうするにちがいありません。……それで、建築は諦めないで、やってみようと思っています。事務所の仕事に加えて、絵を描くために一日に六時間使えるようであれば、やってみるつもりです。……ネッドと私は、共同生活をはじめるつもりでいます。八月のはじめにロンドンへ行きます。

夏の終わり、ストリートが事務所をロンドンに移すにあたり、モリスもウェブも、彼に同行して居を移し、ロンドンに住まうようになります。こうして、モリスとバーン=ジョウンズのアッパー・ゴードン通り一番地での共同生活がはじまります。しばらくのあいだ、モリスは、昼間はストリートの事務所で働き、夜は、バーン=ジョウンズと一緒にニューマン通りの写生教室へ通いました。しかし、当然のことながら、この昼と夜との二重生活には過酷さが伴い、長続きはしなかったようです。モリスはこの秋、ストリートとともに、ネーデルランド地方への旅に出ました。そのとき、モリスの絵画への熱がさらに燃えたぎります。この旅行以降、モリスはヤン・ヴァン・エイクの言葉である「私にできますならば」のフランス語訳をもって、自身のモットーにするのでした。こうして一八五六年のこの年が終わる前に、モリスは最終的にストリートの事務所を辞め、これよりのち、画家になるためのモリスの新たな模索がはじまるのでした。

二.建築家から画家への進路の変更

モリスとバーン=ジョウンズが共同生活に使っていたブルームズバリーのアッパー・ゴードン通り一番地の住まいは家賃が高く、バーン=ジョウンズは貧しかったし、モリスは絵を買うことや『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』の発行にお金を要していました。そこでモリスは、一八五六年秋のネーデルランドへの旅行から帰国すると、引っ越しの準備に取りかかったようです。ちょうどそのとき、レッド・ライオン・スクウェア一七番地の部屋が空きました。ロセッティの紹介により、ふたりはここに転居します。もともとこの部屋は、ラファエル前派が結成された初期のころ、ロセッティとその友人のウォルター・ハウエル・デヴァラルが住んでいた場所でした。デヴァラルも画家でした。一八四九年に彼はエリザベス・シダルを「発見」します。シダルは、ラファエル前派の典型的なモデルとなり、その後ロセッティと結婚する女性です。デヴァラルは、創設メンバーのひとりであったジェイムズ・コリンスンが一八五〇年にラファエル前派を離れたとき、その代わりに会員になるように要請されました。しかし、実際には選出されることはありませんでした。彼とシダルはおそらく恋仲にあったものと思われますが、一八五四年、二六歳という若さでデヴァラルはブライト病(腎炎)により死亡するのでした。

レッド・ライオン・スクウェア一七番地の二階には三つの部屋がありました。手前に、北向きの大きな部屋があり、アトリエとして使うことを考えて、その部屋の窓は天井まで延びていました。そして、その部屋の後ろにあるふたつの小さな部屋が寝室で、その一方のなかに洗面所もありました。この部屋が、一八五九年の春にジェインと結婚するまでの、モリスの住まい兼仕事場となる場所です。

この間、モリスの性格や奇行にかかわって多くの伝説が生まれ、仲間内の語り草となっていました。その多くは、モリスの癇癪玉にかかわる神話であり、そこによく登場するのが、「レッド・ライオンのメアリー」という名で呼ばれていたひとりの召使でした。彼女(メアリー・ニコルスン)は器量よしではありませんでしたが、性格がとてもよく、尽きることのないユーモアの持ち主でした。メアリーは、ふたりのために食事をつくり、繕い物をし、本や手紙を読み、モデルを頼まれることを待ち望み、そして、ほかの自分の仕事をすべて後回しにして、ふたりの後ろに立っては、彼らが描く絵を見守りました。バーン=ジョウンズは、メアリーと、次のような会話をしたことを伝えています。

「私には、モリス氏が女性について多くのことを知っているとは思えませんね」。
「どうしてだい、メアリー」。
「よくわかりませんが、あの方は、女性に接するときクマのようになると思うのですよね」。

この部屋は、家具が備え付けられていませんでした。モリスにとって、自分の目にかなった椅子やテーブルを見つけることもできませんでしたし、よりよいデザインをもとに製作してくれるような家具屋を見出すこともできませんでした。こうした状況のなかから、モリスは、装飾家にして製作者として乗り出してゆくことになるのです。マッケイルは、こう書いています。

モリスとウェブは、自分事のために日常生活用品のデザインと製作に着手した。そこへと駆り立てたのには、こうした日用品にかかわる環境があった。そしてそのことが、それから数年後のモリス商会[正確には、モリス・マーシャル・フォークナー商会]という会社の設立へとつながってゆくのである。

しかしこのときは、モリスが大まかな図を描いて、近くに住む大工につくらせることができました。こうして部屋は次第に調度品が整ってゆきます。ロセッティが一八五六年一二月一八日にウィリアム・アリンガムに宛てて出した手紙には、次のようなことが書かれてありました。

あそこでいま、モリスは何ともすごいことをやっている。何やら強烈な中世風の家具をつくらせているのだ。――悪魔や夢魔のようなテーブルと椅子。彼と私は、椅子の背もたれに赤と緑と青で人物像と文字を描いた。そして、われわれ三人は、全員でこれから、キャビネットの表面に絵を描くつもりでいる。

最初に、頑丈で、重く、岩のような、大きな円形のテーブルが届きました。次に、何脚かの椅子が届けられました。これもまた、堅牢で、簡単に動かすことができない代物でした。そのあとに、セトル(長椅子)がデザインされました。この長椅子には、下部に長い座面がしつらえられ、上部に、開閉式の扉をもつ三つのカップボードが取り付けられていました。以下は、この家具が搬入されたときのバーン=ジョウンズの回想です。

大工とのあいだで幾つもの大騒ぎがありました。とくに私は、長椅子が家に運ばれた夜のことを覚えています。私たちの外出中にその長椅子は届いていました。しかし、家のなかに入ってみると、通路も階段も、すべて巨大な木材の塊で塞がれていました。そこでひと騒ぎが起こりました。私が思うに、寸法が少し間違って伝えられていたようですし、そしてまた、彼[モリス]が意図していたものよりも完全に大きすぎたようです。しかし何とか最後は設置されましたが、私たちの仕事場は三分の一狭くなりました。ロセッティがやってきました。彼の来訪は、最晩年に至るまで、いつも恐怖を感じる瞬間でした。彼は笑って、ほめてくれました。

このふたりの若者にとってロセッティの存在は、単にその「弟子」というよりは、その「下僕」に近いものがありました。ロセッティは、この長椅子の出来具合をほめると、ただちに、油彩で描くためのデザインを起こし、カップボードの扉板と長椅子の側面の板に実行しました。両サイドの扉絵は、この冬のあいだに完成しました。そののちになって、このふたつのカップボードは取り外され、「フローレンスのダンテとビアトリーチェの対面」、そして、彼らの「楽園での対面」として知られるようになります。遅れて真ん中の扉絵も完成しました。デザインは「太陽と月のあいだの愛」を主題としたものでした。ロセッティはまた、大きくて重い二脚の椅子の背もたれの上にも描きました。主題は、モリスの詩からとったものでした。

次に注文されたのが、ワードロウブ(衣装だんす)でした。これは、一五八七年の春にバーン=ジョウンズによって描かれました。絵の主題に用いられたのは、チョーサーの「女修道院長の物語」でした。

こうした一連の仲間による家具のデザインと絵画表現の実践的経験は、モリスがジェインと結婚したときに新築する〈レッド・ハウス〉の室内を装飾する際の手法を先取りするものでした。そして同時に、すでにマッケイルからの引用で示しているように、その後の、室内装飾を業務とするモリス・マーシャル・フォークナー商会の設立へとモリスを向かわせる、ひとつの源泉となるものでもありました。

バーン=ジョウンズがワードロウブにチョーサーの「女修道院長の物語」を描いていた一八五七年の春、モリスもまた、絵画製作に夢中になっていました。ロセッティは、ウィリアム・ベル・スコットへ宛てた六月の手紙のなかで、モリスがせっせと第一作を描いていることに触れています。これは、油彩による作品でした。

[モリスは]いま、最初の作品を描くのに忙しくしている。主題は『アーサー王の死』からとられたもので、「病のあとサー・トリストラムがマーク王の宮殿の庭において、かつて彼がイーズールトに与えていた犬によって見つけられる場面」。この絵は、すべて実際の写生からなされていて、極めて重要な作品になるだろうと、私は確信している。

休日は、だいたいいつも動物園で過ごしました。モリスは、とくに鳥に愛着をもっていました。彼はよく、技とユーモアに富むワシのまねをしては椅子に登り、不機嫌そうなポーズを取ったあと、まぬけで不器用な姿で倒れ落ちていました。ある時期、レッド・ライオン・スクウェアに住む動物にフクロウがいました。しかし、ロセッティとは相性が悪かったようです。夜には、しばしばオリンピック劇場やプリンセス劇場へ出かけ、演劇を楽しみました。モリスのお気に入りは「リチャード二世」でした。その日の仕事が終わったり、劇場が引けたりしたあとは、連れ立って、チェタム・プレイスのロセッティの家に行き、夜遅くまで、場合によっては、次の日の朝まで過ごすことがよくありました。

このように楽しそうな日々を過ごしながらも、モリスの心は、どこか曇っていました。マッケイルは、こう描写しています。

絵画製作に懸命に励んでいた二年間かそこいらのあいだ、彼は、不機嫌でいらいらしていた。彼は、多くのことを考えこんでいたし、それまでもっていた優しさと愛情に満ちた態度の大部分は、しばらくのあいだ失われていた。

それは、何に起因していたのでしょうか。息子が建築家になることを何とか甘受していた母親にとって、一年も立たずして今度は画家になろうとしていることを知ったとき、それは大きなショックだったものと思われます。そのことは、モリスとバーン=ジョウンズがウォルサムストウに行ったおりに突然にも告げられました。当然ながら母親は、息子がそうなったのは、主としてバーン=ジョウンズの仕業にちがいないと思いました。母親のそうした受け止め方は、モリスに激しい動揺を与え、その後のしばらくのあいだ、悲惨な精神的余韻がもたらされることになったのでした。

そうしたなか、一八五七年夏の長期休暇のはじめに、ひとつの大きな出来事が起こります。ロセッティは友人のベンジャミン・ウッドワッドに会うために、モリスを伴ってオクスフォードへ行きました。その地で、建築家のウッドワッドがデザインした大学博物館が建設されていました。そしてまた一方で、彼は、学生会館の討論室の建築にも従事しており、ちょうど屋根がかかったところでした。ただちにロセッティは、与えられた空間に絵を描く構想にかきたてられます。こうして、ロセッティの監督のもとに、学生がもどってくるまでの休暇期間中に、上部の壁と天井の全体がフレスコ画で描かれることが取り決められました。また、足場や材料に要する費用に加えて、旅費や宿泊費の支払いについても合意されました。しかしこれは、実費のみによる、画料なしの製作であることを意味するものでした。

ロンドンへもどると、さっそくロセッティは、請け負ったこの仕事について、仲間に知らせます。モリスやバーン=ジョウンズは当然のこととして、そのなかには、アーサー・ヒューズ、スペンサー・スタナップ、ヴェラ・プリンセプ、ハンガファド・ポリンが含まれていました。フォード・マドックス・ブラウンにも声がかけられましたが、彼は辞退します。壁の張り間は一〇箇所あり、そこに描く一〇点の絵は、『アーサー王の死』から取られた一連の場面で構成され、天井には、花のデザインが用いられることになりました。ロセッティは二点、もし可能であれば三点を担当し、モリスとバーン=ジョウンズは、ロセッティの指導と判断のもとにあって、それぞれ一点を製作することになりました。

壁面を装飾する仕事は、イングランドではとくに目新しく、事前の注意深い準備としっかりした配慮を必要としました。しかしこの計画は、突き進んでゆきました。参加した画家の誰しもが壁画の技術についての実践的知識を持ち合わせていませんでした。そしてまた、フレスコ絵画に関する技術的伝統も、ほとんど失われており、裸の壁の上に泥絵の具で描かれたものが、一般にフレスコ画として呼ばれていました。しかし、この建物の壁は新しくつくられたもので、漆喰はまだ湿気を含んでいましたし、表面には、ただ白い石灰塗料が塗られているだけの状態でした。この上に色がのせられてゆくわけですから、ちょうどそれは、紙の上に水彩を施すようなものでした。

最初にオクスフォードに到着したのがモリスで、さっそく製作に入りました。まもなくしてロセッティとバーン=ジョウンズがそれに加わりました。三人は、ハイ・ストリートに宿をとり、残りの夏季休暇の期間中、一緒の生活をしました。ほかの画家たちは、さらに遅れてやってきました。モリスが一番早く仕事を開始し、一番早く完成させました。彼が描いた絵の主題は、「どれほど計り知れないほどの極めて大きな愛でもって、麗しのイーズールト(イゾルデ)をサー・パロミディーズ(パロミーズ)が愛したか、そして彼女は、いかに二度と彼を愛することなく、むしろサー・トリストラム(トリスタン)を愛したか」でした。これは、前年に刊行された『オクスフォード・アンド・ケンブリッジ・マガジン』(四月号)のなかのモリスの物語「フランクの封書」に登場していたモティーフと基本的に同じものでした。つまりは、「愛に破れた男と、その男をさげすむ恋人」ということになるのでしょうか。「フランクの封書」に、このような一節がありますので、引用しておきます。

私は、知識を蓄え、すべての詩と芸術に触れ、創造をなし、この世に生を受けたあらゆる男女に共感できる、そのような人間である。――人を愛する心は持ち合わせていないが、小心男を恋に引き込ませてしまうかもしれないような、ふさふさとして流れるような髪と、情熱的で夢見るような高貴な目とを持ち合わせた、あの冷たくも誇りに満ちた女性にさえも、私は共感できる。

モリスの描いた壁画は、決して成功した作品とはいえませんでした。非情にもこの絵についてのヴェラ・プリンセプの評価は、「トリストラムが抱擁し接吻しているのは人食い女なのに、それでもサー・パロミディーズは嫉妬をするのかい」というものでした。描かれるべき絵は、「麗しのイーズールト」でなければならなかったのですが――。この酷評は、モリスには人物を描く力に欠けていることを意味しました。

ロセッティは、《サー・ラーンスロットの聖杯の幻影》に加えて、《グウェナヴィアの寝室で見つかったラーンスロット》と《聖杯の三人の騎士》を、バーン=ジョウンズは、《モーリンの死》を描くことが予定されていました。それらを描くためには、モデルを必要としました。バーン=ジョウンズは、このように語っています

モデルが必要なときは、互いにモデルを務めました。モリスは、ラーンスロットやトリストラムの頭部を描くのに、いつもちょうどよかった。私たちは、絵の小道具として、しばしば鎧を必要としました。……そこでモリスは、マシネットと呼ばれる昔の一種のヘルメットと、頭巾とスカートのついた鎖かたびらの立派な外衣とをデザインすることに取りかかりました。

幼少のころのモリスは、鎧と兜を身につけてポニーに乗って遊んでいましたし、この方面においては多くの知識をもっていました。製作は、近くの鍛冶職人に依頼されました。しかし、兜を着けてみるも、何らかの理由で面頬が開閉せず、そのときバーン=ジョウンズは、「モリスが鉄のなかに埋め込まれ、激怒してのたうち回り、そのなかで、わめき声を上げていた」様子を目撃したとも、語っています。

もっとも、彼らにとって実際に必要としたのは、小道具よりも、むしろ女性のモデルでした。ロンドンにいるとき、ロセッティとバーン=ジョウンズは、しばしば劇場に行って、モデルになりそうな女性を見かけては、声をかけていました。ちょうどこのとき、オクスフォードの町では、八月以来、ドルアリー・レイン巡業劇団が興行を行なっていました。おそらく九月のある日のことでした。ロセッティとバーン=ジョウンズは、モデル探しのためにこの仮設の劇場に足を踏み入れました。ふたりは、おそらく一階の椅子席に座り、舞台ではなく、観客席を見渡します。すると、一番値段の安い二階の桟敷席に座るふたりの少女に目が留まりました。バーデン家のジェインとベッシーの姉妹でした。

このときの様子をマッケイルは、短くこう描写しています。「姉」という記述だけで、「ジェイン」という名前も伏せられています。

一八五七年の長期休暇の終わりへと向かうなか、ロセッティとバーン=ジョウンズは、学生会館での仕事が引けたある日、小さなオクスフォードの劇場へ行った。そこでふたりは、ちょうど後ろに座るふたりの少女に気づいた。ホリウェル通りのロバート・バーデン氏の娘たちであった。すぐにもロセッティとバーン=ジョウンズは、姉の際立つ美しさに注目した。彼女は、イングランドにおける一般的な容姿とは異なり、それをロセッティは特別に称賛した。彼らは、彼女と知り合いになった。少し交渉事がやり取りされると、彼女は、彼や彼の友人たちのモデルになるように説き伏せられた。彼女は、学生会館の仕事が進行しているあいだ、モデルを続けた。彼女の魅力は、さらに深くモリスを惹きつけた。モリスの詩集が刊行されたあと、まもなくしてふたりは婚約した。

結婚相手となるジェインとの出会いについて、モリスの最初の伝記である『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)においては、これだけのことしか書かれてありません。ジェインがいつ、どこで生まれ、どのような教育を受けて、そのときどんな職に就いていたのかが完全に伏せられたのでした。この本が出版されたとき、まだジェインは存命中でした。マッケイルの真の希望は別にして、結果的に彼は、この本のなかの至る所で、最大限のこうした配慮を施し、口をつぐんでしまったのでした。この隠された部分の多くが明らかにされるのは、ジャン・マーシュによって一九八六年に公刊されたジェイン・モリスとメイ・モリスの母娘に関する伝記(訳書題は『ウィリアム・モリスの妻と娘』)においてでした。実に九〇年近くの歳月が流れていました。そこでこれ以降は、マッケイルの記述から離れ、マーシュの記述内容を信頼し、それに沿って書き進めることにします。