長年モリスは、親しい人たちに書き送った手紙において、〈ケルムスコット・マナー〉の四季折々のさまざま様子を描写しており、マッケイルは、自著のモリス伝記のなかで、それらの断片を月ごとに寄せ集めて、記述しています。以下は、そこから借用されたもので、さらに小さく断片化されていますが、それでも、愛の隠れ家の舞台となったこの田舎家の情景の一端が伝わってくるかと思います。
二月「雪が溶けるために、水はどうにか使える。風が強いというよりも寒い。しかし、いやではない」。四月「庭は小鳥であふれ、太ったかわいいやつらが、ちょっと短い歌を実に甘く歌う」。五月「野は一面のキンポウゲ。エルムはほとんど先端まで新緑」。八月「かつてと同じように、とても釣りがすばらしい。川の流れが速く、雑草は伸びたまま」。一〇月「春が再び来るまで、庭はほとんど見ごろを終える。しかし、立派なバラがたくさん咲いている」。
同じくマッケイルは、このマナー・ハウスでゲイブリエルが過ごした理由や時期について、このように述べています。
最初ケルムスコットは、ロセッティを共同借家人として、モリスによって入手された。すでに二、三年前からはじまっていたロセッティの健康面での衰弱が、いまや顕著なものとなり、遠く離れた田舎家で静かに暮らすことが、彼の身体上の健康を回復させ、病的な想像力を和らげるうえで大いに役に立つかもしれないと、考えられた。しばらくのあいだ、モリスよりもロセッティの方が多くそこを利用した。モリスは、簡単にロンドンを離れることは難しかったし、そのため、長いあいだ、一緒の仕事から遠ざかった。ロセッティが滞在したのは、一八七一年の夏と秋で、……一八七二年に重篤な病気を患い、スコットランドを長期訪問すると、九月に再びケルムスコットにもどり、一八七二年から七三年にかけての冬と、その後に続く一二箇月のほとんどをここで過ごし、最終的に、一八七四年の夏に、彼はここを去っていった。これは、さまざまな理由で、少なからずモリスに安堵感をもたらすものであった。
マッケイルは、〈ケルムスコット・マナー〉を愛の巣として、ジェイニーとゲイブルエルのふたりが一緒に暮らしていたとは、いっさい書いてはいませんが、これまでの研究によってそのことは疑いのない事象とされており、そうした既往研究の成果に従いながら、一八七一年の夏から一八七四年の夏までの、およそ三年間の〈ケルムスコット・マナー〉の恋人たちの動向につきまして、以下に記述してゆきたいと思います。
ジャン・マーシュは、自著の『ジェイン・モリスとメイ・モリス』のなかで、ジェイニーにとっての〈ケルムスコット・マナー〉を、こう位置づけています。
彼女はその田舎が気に入った。というのも、たとえケルムスコットそのものはよく知らなかったとしても、母親の生まれたエルヴィンスコットの村と、たぶん父親の生まれたスターンタン・ハーカットの村も知っていたにちがいないからである。エルヴィンスコットの村は田畑を横切ればわずか数マイルの距離にあったし、エルヴィンスコットをもう少し南東に行けばスターンタン・ハーカットの村にたどり着いた。……[ケルムスコットで]彼女が誰か血縁者を実際に探し出したという証拠はないが、しかしある意味でケルムスコットがジェインにとって故郷への帰還を象徴していた可能性はある。
一八七一年の夏から秋にかけてのケルムスコットでの生活は、当時九歳になる娘のメイの記憶に鮮明に残っていました。後年メイは、「はるかなかなたの夢のなかへと歩いていき、その夢の一部になったような気がした」と、述懐しています。メイと姉のジェニーは、ロンドンから同行していた家庭教師に勉学を見てもらっていました。
あの燃え立つような八月の午前中、私たちは涼しくて気持ちのいい「パネルド・ルーム(羽目板の部屋)」に座ってローマの皇帝についていろいろと勉強しようと努めた。縦仕切りをもつ広い窓の外では、クロウタドリが鳴き、スグリの木のあいだで御馳走を食べていた。……ローマの皇帝に長いあいだ耐えることはできなかった。母は私がずる休みをしても文句をいわなくなった。
メイはまた、このとき、「屋根登り」に特別の関心を示しました。「特別登りにくい屋根を探検しようと思い、屋根の一番高い所まで登っていったものの、そこで両足をかけたまま動けなくなった。それを見つけた母がどんなに驚いたか容易に想像がつく。かわいそうな母は勇敢にも自分の感情を抑え、そのままでいるように私を励まし、大急ぎで庭師のフィリップじいさん[フィリップ・カムリ]に村で一番長いはしごを取りにいかせた」。
一方ゲイブリエルは、「タピストリーの部屋」を画室に使い、そこで、ジェイニーをモデルに《水柳》と題された作品を描きました。この絵には、ケルムスコットの幾つかの場面に取り囲まれたジェイニーの肖像が描かれており、それを見た幼いメイは、現実とは異なる世界に不思議な感覚を覚えたのでしょう、「家と教会と船小屋は、本当は別々の所にあるのに、一緒に描かれているのでめんくらってしまった」と、述べています。しかし、それだけではなく、彼女は、ジェイニーがケルムスコットを不在にしたときのロセッティの様子に、孤独感のようなものを察知していました。メイは、こう語っています。「実際、歳の行かない私たちの方が、歳の行った人たち以上に、自分たちの家族生活に潜むこの孤独の要素に気がつていた」。
そのようなとき、ゲイブリエルの思いは、ジェイニーと出会ったころの若き日に舞い戻るのでした。次は、この時期に彼が書いたと思われる、「一杯のコップ」と題された物語詩の筋書きの一部です。
ある日のこと、ある国の若い王が、友の若い騎士と一緒に狩りをしている。のどの渇きを覚えた王は、一軒の森の住民の小屋に立ち寄る。すると、そこの娘が一杯の飲み水を王にもってくる。ふたりはともに、類まれな娘の美しさに魅了されてしまう。しかしながら王には、幼少の時代から婚約をしていたある王女がいた。その王女は、あらゆる愛に値し、王は常に彼女を愛していると信じていた。しかしここに至って、新しく心奪われた熱狂がその蒙昧さを解き放す。一方の騎士は、自分の愛を成就するために、考慮すべきほかのすべての事柄を犠牲にする決断をすると、再びその小屋を訪れ、娘に結婚の承諾を求めた。騎士は、この少女が、王の身分にある人とは知らないままに、王に思いを寄せていることに気がつく。そのことを聞かされた少女は、これが自分の運命であるならば死ななければなりません、かといって、ほかの誰も愛することはできません、と慎ましくもその求婚者に告げる。騎士は王のもとへ行くと、すべてを語り、助けを請い求める。このときふたりの友は、事の真相へと分け入る。最終的に、王が少女のところへ行き、自分自身の情愛は隠さずも、騎士の思いのたけを弁明する。そして、このようにいう。彼が名誉のために自分自身を捧げているように、あなたも、その男から求愛を受けた者として、そのように受け入れるべきであって、私は、誰にもましてその高貴な人間をよりよく愛しているし、あなたもまた、その男を愛するようになるだろう。ついに彼女は求愛を受け入れ、王はその友を伯爵にし、結婚の祝いとしてその森と周りの国を与える……。
見事に三人の関係を言い当てているような物語詩の流れです。しかし、若き日の事態はその後大きく進展し、いまや、王はその婚約者と結婚するも、多量の服薬により妃はすでに亡くなり、〈ケルムスコット・マナー〉という田舎家に一緒に住んでいるのは、結婚したはずの騎士と娘でなく、その関係が完全に入れ替わって、何と騎士の妻と王が、ひとつの屋根の下に暮らしているのです。妃を失った王が、騎士に命じて、妻の譲渡を迫ったのでしょうか、それとも、自分が愛されていないことを知った騎士が、これまでの王の思いのたけを弁明して、彼を愛するように説得したのでしょうか、かつての王と騎士の関係が、ここに至って全く逆転しているようにも受け止めることができます。
〈ケルムスコット・マナー〉においてゲイブリエルは、絵の製作に加えて、このようにして詩作も再開しました。それらの詩の多くは、ジェイニーとの生活の場面を描写したもので、次にみられる詩も、それに属します。
ホルムズコウトからハーストコウトまで 風が川面を走る そよ風を受けた木々の音 冷たく優しいさざなみ 両岸のあいだで愛が小声でささやかれ 陽気な笑いがさざめき渡る ろを漕ぐむき出しの白い腕 去年の五月の最初の日
一〇月二日にゲイブリエルは、ケルムスコットからベル・スコットに宛てて手紙を書きました。そのなかに、次のような一文があります。
モリスは、帰国してからそれ以降、二度ここへ来ました。最初は数日間、次に、ちょうどいましがたまでの一週間。いま彼はロンドンにもどっていったところです。この地は、今週の終わりまでには、すべての同居人がいなくなると思います。彼は、「愛さえあれば」と呼ばれる一種の仮面劇に意を用いて仕事をはじめたところで、ネッド・ジョウンズの木版と自作の縁飾りを使って、手ごろな四つ折り版の本として印刷するつもりでいます。縁飾りの一部はすでに彼の手でつくられており、実にとても美しい出来栄えです。
この手紙が出された数日ののち、一行は、寒い冬の訪れを前にして、ひと夏の休暇を打ち切り、この「地上の楽園」から喧騒のロンドンへともどってゆきました。しかし、それを待ち受けていたのは、『コンテンポラリー・リヴィュー』の一〇月号に掲載された、ゲイブリエルの詩と、詩人としての倫理観とを批判する一文でした。当初ゲイブリエルは、『詩集』の出版からすでにおよそ一年半の時間が流れ、評判もよく、売れ行きもよかったため、あまり気にする様子はありませんでした。執筆者は、「トマス・メイトランド」という、文学界にあって全くなじみのない名前の人物でした。しかし、『コンテンポラリー・リヴィュー』の社主が、詩人で評論家のロバート・ブキャナンの出版人であることから、「トマス・メイトランド」はブキャナンではないかとの推測が流れるようになりました。次第にゲイブリエルの怒りは増幅し始め、反撃に出ます。一二月一六日発刊の『エシニーアム』に彼は、「批評の頭巾派――(トマス・メイトランドこと)ロバート・ブキャナン様への手紙」と題された、当意即妙の反論文を寄稿するのでした。
年が明けると、春の到来を待ちかねるかのように、トプシーはケルムスコットへ行きます。ゲイブリエルへの批判文に端を発した一連の騒ぎから逃れたいという気持ちも一方であったのかもしれません。〈ケルムスコット・マナー〉滞在中の一八七二年二月一三日に、ジョージーの妹のルイーザ・マクドナルド・ボールドウィンに宛てて手紙を書きました。この手紙のなかでモリスは、お気に入りのこのマナー・ハウスをこのように描写しています。
何年も見ることがなかった春のはじまりの景色を見るために、二週間ここに来ています。灰色の切妻の外壁と、ミヤマガラスが幽霊のように住み着く木々とに囲まれて、いま私は執筆しているところです。住むには、ほとんど美しすぎるくらいの場所といった感じです。
ルイーザに宛てたこの書簡は、「前にいただいたあなたの物語について何も申し上げていないことをおわびしなければなりません」という書き出しではじまります。このときまでにルイーザは、書き上げた小説をトプシーに贈っていたものと思われます。一方、自分の仕事については、「自分が進めている仕事に問題が生じ、長らく前へ進めることができませんでした。しかしいまや、書き直しと落胆の迷路から抜け出したと思います。もっとも、正確にはまだ完成しているわけではありませんが」と、綴っています。ここで言及されている仕事とは、昨年の夏以来書き進めていた「愛さえあれば」であるにちがいありません。
この詩的劇は、まさしく表題が象徴するように、モリス個人における苦悩からの逃避と性的渇望とを表出している可能性がないわけではありません。フィオナ・マッカーシーは、この作品について、こう説明します。
とある夢の国の皇帝とその皇后の結婚の祝宴において、[国王の]へラマンドとその愛人のアゼイルエイズの物語が上演されます。もう一組の恋人たちが、小作農のジョウンとジャイルズで、ロイヤル・カップルを見ようと集まった群衆のなかに立ちます。モリスはここに、二重どころか、三重の幻想を提供します。劇中劇のなかの劇中劇。個人的に反響し合っているのは明らかです。相互に関係するカップルと、時代の音楽にあわせて踊る彼らのダンス。最初は、ネッドとジョージー、リジーとゲイブリエル、ウィリアムとジェイニー。いまや、ゲイブリエルとジェイニー? ウィリアムとジョージー?
この物語詩は、多岐にわたるロマンス群を源泉にもち、大変複雑な構造で成り立っており、まとまりに欠ける点も見受けられます。しかしマッケイルは、「彼は、劇詩を中世後期のタピストリーの処理法に近づけようとする。彼の装飾法の理想となっていたのが、最良のタピストリーの作品だったのである」と擁護し、さらに、自著の『ウィリアム・モリスの生涯』(全二巻、一八九九年刊)の背表紙に、『愛さえあれば』のために作製された装飾を借用することになるのです。これについて、第一巻の目次のあとに、マッケイルは次のような注釈をつけています。「背表紙に使われたものは、そのときに計画されていた『愛さえあれば』の装飾版のために、一八七二年に彼によってデザインされ、版木に彫られた縁飾りのひとつである(第一巻の二八五頁および二八六頁を参照)」。この縁飾りもまた、モリスにとって、繊細で複雑な「タピストリー」の一部を表現したものだったのかもしれません。「愛さえあれば」は、『愛さえあれば、つまりはへラマンドの思い――ひとつの道徳劇』(全一三四頁)と題して翌年の一八七三年のはじめにエリス・アンド・ホワイト社から出版されます。
モリスがルイーザに宛てて上の手紙を出した三箇月後の五月、今度はブキャナンが、「批評の頭巾派――(トマス・メイトランドこと)ロバート・ブキャナン様への手紙」への反論として、文学論争の伝統に根差したパンフレットという形式をとって、『詩歌における肉感派とその他の時代現象』と題した一〇〇頁にも及ぶ拡大版を発表し、再びゲイブリエルへの攻撃を繰り返します。『ラファエル前派姉妹団』(一九八五年刊、訳題は『ラファエル前派の女たち』)と『ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ――画家と詩人』(一九九九年刊)の両書なかで、著者のジャン・マーシュが詳述していますように、ブキャナンのパンフレットは、一部に妥当な主張がみられたものの、全体としては極めて悪意に満ちた内容になっていました。たとえば、性的放縦の符号となる女性の「足」への時代の熱狂を受けて、「足さえあれば」といった表現を使って、モリスが次に出版を予定していた『愛さえあれば』を予知するかのような皮肉も出てきますし、さらには、ソネットの連作であるロセッティの「生命の家」を売春宿になぞらえるような表現も見受けられました。ブキャナンの攻撃のなかで、おそらく最もロセッティに痛打を浴びせたのは、次のような一文だったかもしれません。「自身の最悪の詩歌についてロセッティ氏は、自分は『妻』に話しかけるその『夫』の性格を劇のように話していると釈明する。肉欲主義は肉欲主義であり、にもかかわらず、放縦であろうとなかろうと、実際のところ、おそらく人は、情欲の言語に耐えているにちがいない……」。
「生命の家」が、性的欲望ではなく、あくまでの詩的衝動による詩歌によって成立していたとはいえ、既婚婦人であるジェイニーがその霊感の源泉であったことは疑いを入れず、ゲイブリエルにとって、こうした攻撃は、あらかじめ、不安のなかにも予想されたことだったかもしれません。しかし、実際に過激な批判に全身を晒してみると、耐える限界を大きく超え、ゲイブリエルの精神に異常が認められるようになったのでした。マーシュは、その様子をこう描写しています。
ゲイブリエルは、自分をあざけり笑う声を聞き、それ以外にも、世界中が自分を脅迫しようとしていると思い込む妄想を抱いた。彼は敵が共謀して自分に悪意を抱いていると確信し、以前からの知人のほとんどをその陰謀に加担しているとして非難し、そうすることで彼らを遠ざけ、数人の旧友を除いて、あらゆる人に背を向けた。……彼は事実狂躁的な精神異常の古典的兆候をことごとく示したのである。
おそらく六月のはじめのことだった思われます、大量のアヘンチンキを飲んでゲイブリエルが自殺を図りました。そのとき彼は、友人で医師のジョージ・ヘイクの手によって、チェイニ・ウォークの自宅から、ロウハンプトンにあるㇸイクの屋敷へと運び込まれました。これには、ゲイブリエルの弟のウィリアム・ロセッティとフォード・マドックス・ブラウンが同伴しました。幸いにも一命は取り留めました。ベル・スコットがクウィーン・スクウェアにジェイニーを訪ね、この事態を伝えます。そのときの彼女の反応がどうであったのかは、資料に残されていませんので、詳細はわかりません。しかし、状況から判断しますと、愛する人が発狂したということは、愛情関係の存続が危ぶまれることを意味し、ジェイジーはこのとき、絶望に近いものを感じ取ったのではないかと推量されます。しかも周囲は、その原因をジェイニーに帰し、ジェイニーからゲイブリエルを離すことを企てます。それに対するジェイニーの言動はわかりませんが、結果として、一時期、スコットランドで過ごすことが決定されました。この対応は、精神病院に入れることがもくろまれていたかどうかは不明ながらも、何らかの加療を受け、静養するための転地だったものと思われます。
この間モリスは、新作の小説を書いていました。この小説は、無題で、未完成で、出版されることはありませんでした。しかし、一九八二年にピネラピー・フィッツジェラルドの編集によって『青い紙の小説』と題されて公刊されました。題名はこの編者によって与えられたもので、この小説が青い罫線入りのフールスキャップ版の用紙に書かれていたことが理由となっていました。内容は、ふたりの男性がひとりの女性を愛するもので、いわゆる愛の「三角関係」をテーマにしたものです。これまでの詩歌や物語のなかにみられたテーマの繰り返しともいえます。トプシーは、この小説をジョージーの妹のルイーザに送りました。次は、彼女に宛てた一八七二年六月二二日のトプシーの手紙です。
この手紙を添えて、失敗に帰した私の小説を書籍小包で送ります。まさしくこれは、こう書いてはいけないという見本です。そのようにいうしか、これ以上何もありません。書かれてあるのは、風景と感傷だけです。それであってはいけません。あなたが読みたいとおっしゃるので送りますが、こんなひどいもので、申しわけありません。
この手紙によると、トプシーはこの草稿を、ジョージーにもすでに送っていたようです。このように書かれた箇所があります。「何か希望を私に与えてくれるのではないかと思い、一部ジョージーに送りました。彼女は何も与えてくれませんでした。それ以来、私はそれを一度も見ていません」。
それでは、なぜトプシーは、この小説を未完のままで放棄したのでしょうか。この小説が書かれた時期は、ゲイブリエルにパラノイアの症状が出はじめた時期と重なります。現実の「三角関係」の異変が、小説のなかの「三角関係」を凍結させてしまった可能性も、全く排除できないものと思われます。あるいはそうではなく、信頼を寄せるジョージーから何か希望を感じられるような温かい返事がもらえなかったことが、執筆放棄の一因になっていたとも考えられます。ジャン・マーシュは、この小説の主人公のジョンとアーサーの兄弟がトプシーとネッドで、ふたりが愛するクララがジョージーを表わしていると解釈しています。おそらくジョージーも、そのようにこの小説を読んだにちがいありません。彼女からの返答がなかった理由は、ここに求めることができるかもしれません。
ゲイブリエルがスコットランドにいるあいだ、おそらくジェイニーの心は、彼を気遣う心配の気持ちでいっぱいだったものと思われます。このときのジェイニーにとって、心を開いて話ができる唯一の友人が、フィリップ・ウェブでした。彼女が差し出した手紙は残っていませんが、九月一二日に書かれたウェブからの返信の手紙が残されており、そこには、このようなことが書かれてありました。
私はいつもあなたに大きな関心を抱いてきました。それにもかかわらず、あのときの私たちはみながひどく動転していて、思い描いていたこととは別の役割を演じてしまいました。さまざまな変化のうちにあって、あなたがご自身の役割を十分に、しかも真剣に遂行されていらっしゃることを私は存じ上げていますし、その点で深い共感を覚えます。
容態が少し和らいだのでしょうか、ジョージ・ヘイク博士と一緒に、九月二五日にゲイブリエルがケルムスコットにもどってきました。三日後、トプシーに連れられてジェイニーが姿を現わします。かくして、ふたりの愛の生活が〈ケルムスコット・マナー〉を舞台に再開されるのです。のちにジェイニーは、こう語っています。「ゲイブリエルが『狂っていた』というのは、実に本当のことでした。私以上にそのことを知っている者は誰もいません」。一方、トプシーは、落ち着かない様子でした。一〇日八日、ロンドンのクウィーン・スクウェアの自宅からアグレイア・コロニオに宛てて、このような手紙を書いています。
この夏から秋にかけて、ケルムスコットへ行ったり来たりを繰り返しています。しかし、そう頻繁にはそこへは行かないでしょう。いまや、ゲイブリエルがそこにもどってきているからです。彼はそこに永住するといっています。もちろんそんなことはしないでしょうが、しばらくは滞在するのではないかと思います。彼は全く元気で、とても幸福そうにしています。
それから八日後の一〇月一六日に、トプシーは、エドワード・フィッツジェラルドの「オウマー・カイヤームのルーバイヤート」を彩飾手稿本として完成させました。ヴェラム皮紙にインクと水彩と金箔を使って、書も装飾も、ともにトプシーの手によってなされ、ジョージーに贈られました。『詩の本』に続く、二作目のプレゼントでした。一九九六年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「ウィリアム・モリス」展の展覧会カタログに「カリグラフィー」と題して一文を寄稿したジョン・ナッシュは、そのなかで、カリグラファーとしてのモリスについて、こう述べています。
一八七〇年から一八七五年のあいだに、モリスが計画し、文字を書き上げ、(全部ないしは一部において)模様を彩飾した作品として、およそ二一点の手稿の本がある。これらのうちのわずか二点が、完成作品となっているといわれている。残りは、未完成の断片や試作の頁として現存する。しかしながら、通常すこぶる繊細で骨の折れるこれらの仕事が実行された時期を見ると、順調にビジネスを成り立たせ、居を移動し、アイスランドへ旅をし、アイスランド語を学んでは北欧伝説を訳し、そして、(とりわけ)妻のジェインと画家のロセッティの関係がもたらした大きな精神的苦痛と折り合いをつけていた時期と重なる。そのことは、モリスの驚くべき活動力が何であったのかを物語る。
一方でこの時期、ジョージーだけではなく、もうひとりの心を許した既婚婦人であるアグレイアへの手紙が続きます。以下は、一〇月二四日に書かれたものです。
先週の土曜日にケルムスコットに行き、火曜日までいました。ほとんどの時間を川で過ごしました。……ところが晩は、ウィリアム・ロセッティがいて、何と退屈だったことか!彼もまた手伝いに来ていたのです。ジェイニーの顔色もよくなり、かなり気持ちも落ち着いてきています。……花のない秋の庭には幾分かのわびしさが漂いますが、それでもここは、これまでどおりに、とても美しいです。しかしいまは、そうしばしばそこに行くつもりはないと、思っています。いまも引き続き、ロンドンの西部地区で家を探しています。私の希望にあったそれなりの物件を見つけるのは、どうも難しいようです。来週は、一晩か二晩、ネッドのところに泊まりに行こうかと考えています。自宅では、ずっとただベッシーと一緒で、いやな時間を過ごしています。必要なこと以外は、ほとんど言葉を交わしません……。
ケルムスコットではロセッティの弟のウィリアム・ロセッティを疎ましく思い、自宅においては同居しているジェニーの妹のベッシーとそりがあわず、そうしたことが、遠因にあったのかもしれませんが、この時期トプシーは、せっせと家探しに時間を費やしていました。他方、〈ケルムスコット・マナー〉では、どのような時間が流れていたのでしょうか。以下は、メイの記憶です。
ちょうど薄暗くなってくるころ、彼は仕事をすますと下に降りてきて、雨であろうと晴れであろうと、ひとりで散歩に出かけた。母の体も決して丈夫ではなかったので、そうしょっちゅうというわけではなかったが、彼女が一緒についていくこともあった。しかし、そうした夕暮れの散歩の孤独さが印象としていまでも私の心に残っている。肩幅のかなり広い人影が運動と外気浴のために緑なす平坦な牧草地を根気強く重い足取りで歩き回り[それから]暗くなると疲れきった表情を浮かべて帰宅するその様子がいまも目に映る。
ゲイブリエルの精神はいまだ痛み、家人であろうと避けるようにして暮らしていました。そして、田畑や道路の冠水の季節が訪れる前の一一月の下旬、ジェイニーは、ふたりの子どもを連れて、ロンドンへもどっていきました。ゲイブリエルをケルムスコットに残したのは、隔離療養のためだったものと思われます。
一方のトプシーの精神も、大変不安定な状況にありました。一一月二五日のアグレイアへ宛てた手紙に、それが反映されています。実に長文の手紙になっており、以下に、部分的にかいつまんで紹介します。
「ジェイニーは、先週の土曜日にケルムスコットから帰ってきたところです。見た目は大変元気そうで、確かにいい精神状態にあります」。「ウォードルが事業のために全部使いたいというので、この家を空にしなければならないようです。……しかしながら、親しんだ書斎と小さな寝室は使い続けようと思っています」。「ひとつ欠けているものがあるからといって、あまりにもそれを多くの事柄に向けるべきではありませんし、実際、その欠けたものが、いつもいつも私の人生の楽しみを毀損するとは限らないのです」。「ジェイニーが再びもどってきてくれて、とてもうれしく思っています。……加えていえば、私とGとの関係はずっと途切れたままです……そのようなわけで、あなたは遠くに行ってしまうし、私の悩みごとを話せる人が誰もいませんでした」。「もうひとつ、まったく身勝手な厄介ごとがあります。それは、ロセッティがケルムスコットに居座ってしまい、そこから離れる様子が全くみられないことです。……加えて彼は、素朴で心地よいその田舎家に、何から何までほとんど共感することがないのです。……彼がそこにいること自体が、その家に対する一種の冒涜のように感じられます。……こうしたことがすべて、私を怒らせ、失望させたのでした――愛しいアグレイア、ここにこうして、私の狭量なところを見せてしまいました」。「来年私は、アイスランドに行ってみようと思っています。イングランドの二、三人から離れることは、とてもつらいことですが、そこに一種の安らぎがあることを承知しています。……私にとって昨年の旅が、いかにありがたく、助けとなったか、つまり、いかなる戦慄から私を救ってくれたか、あのとき以上にいまここに至って、はっきりと理解できます」。
普段は、私信であろうと、いっさい心の内側を見せないトプシーでしたが、この一一月二五日のアグレイアへ宛てた手紙は、そうではありませんでした。彼の抑えきれない思いが、図らずも吐露された内容となっていました。彼が言及している「ひとつ欠けているもの(one thing wanting)」とは、明らかに、本来妻が夫に示すであろうはずの情愛のことでしょう。また、「私とGとの関係」という表現も、Gとはジョージーのことでしょうが、とても微妙です。といいますのも、「関係(intercourse)」という単語には、単に「交際」という意味だけではなく、「肉体関係」という意味も含まれるからです。アグレイアはこれをどう読んだでしょうか。さらに、アイスランド旅行中に感じていた「戦慄(horrors)」とは、間違いなく、ケルムスコットに残してきたジェイニーとゲイブリエルの愛の暮らしを指しているものと思われます。この言葉から、アイスランド旅行中のトプシーの深い苦悩を読み取ることができます。加えて重要なのは、この手紙のなかで、「私を怒らせ、失望させた」ゲイブリエルの言動の具体例が明示されていることです。これは、〈ケルムスコット・マナー〉を共同で賃貸したおりの友情に満ちた当初の思いが崩れ、トプシーの内面にゲイブリエルに対する不信感が芽生えていることを物語ります。このように、まさしくこの書簡は、この時期のモリスのあらゆるものに対するすべての心情を集約するものとなっていました。この手紙のなかに、次のような、見事に輝く結論的名句を見出すことができます。「何としてでも、世界を自分の身の丈に縮めたくありません。事物を大きくしかも優しく見つめたい!」。
当時、モリス・マーシャル・フォークナー商会のビジネス・マネージャーを務めていたジョージ・ウォードルからの「事業のために全部使いたい」という要請を受けて、一八七二年の暮れ、モリス一家は、クウィーン・スクウェアからターナム・グリーン・ロードの〈ホリントン・ハウス〉へ引っ越しました。このことは、クウィーン・スクウェアでの住職一体の生活の終わりを告げるものでありましたが、しかしその一方で、アグレイアに宛てた手紙にありますように、「親しんだ書斎と小さな寝室」は残されましたので、事実上、ジェイニーと子どもたちがこの家を出ることを意味しました。したがって、この移転は、トプシーとジェイニーの実質的別居のはじまりを告げるものでもありました。
このときベッシーも家を出て、別の家を借りることになりました。このときまでに「商会」の刺繡の仕事で得る収入で自立した生活が可能となっていたのか、それとも、トプシーが金銭的に支援することで妻の未婚の妹を扶養しようとしたのか、それはわかりません。しかしどちらにしても、トプシーにとっては、不愉快な思いをして一緒に暮らすベッシーとの生活が、これで解消されることになったのでした。
のちにジェイニーは、この新しい家について、「ひとりで住むには、とても手ごろな家ね。でも、おそらくふたりまでかしら」と、評しています。トプシーは主としてクウィーン・スクウェアで従来どおりの生活をし、他方、気候のいい季節は〈ケルムスコット・マナー〉で暮らすとして、寒い冬のあいだだけジェイニーと子どもたちが過ごす家として、この〈ホリントン・ハウス〉は考えられていたようです。そのために、少し狭い家でしたが、しかし、大きな庭がついていました。ハマスミスとターナム・グリーンとを結ぶ大通りに面していて、チジック・レインを下るとテムズ川に簡単に出ることができました。幾分隔離された郊外といった感じで、静寂な土地柄でした。そしてまた、ハマスミス駅から徒歩で約二〇分、バーン=ジョウンズ一家が住む〈グレインジ〉からも、歩いて三〇分ほどの距離にありました。
年が明けた一八七三年の一月二三日に、トプシーは、アグレイアに宛てて手紙を出しました。このときもまだ、アグレイアはアテネに滞在していたものと思われます。前段でトプシーは、「すでにあなたは、どなたからか送ってもらっていると、お母さまからお聞きしたものですから、いまだ私は、自分の本を送っていません」と、書いています。この「自分の本」というのは、『愛さえあれば』を指し示しているものと思われます。そして後段には、次のようなことが綴られていました。
家庭生活のことでいえば、私たちはクウィーン・スクウェアを引き払いました。書斎と小さな寝室は残してあります。……とても「小さな」家ですが、かわいらしい庭がついていて、ジェイニーと子どもたちにはいいだろうと思っています。……一方私は、会いたい人とは誰とでも、邪魔を気にすることなく全く安心して、いつでもクウィーン・スクウェアで会うことができます。……それに加えて、これまで私はこの家に一度たりとも愛着を感じたことはありませんでした。ここに住んでいるあいだ、私の身に多くのことが起こったのですが、いつも私はこの家の下宿人であると思ってきました。……今年、私にはアイスランドへの航海が必要になるだろうとの思いがしています。
しかし実際は、アイスランドへの航海に先立って、一八七三年の春、トプシーは、ネッドとともにイタリアへ向けて旅立ちました。正確な理由や目的はよくわかりません。ネッドとメアリー・ザンバコとの愛人関係は、一八六八年からはじまり、おそらくこのころまでには終わろうとしていたものと思われます。一方のトプシーも、精神的に苦しい状況にありました。ふたりの置かれていた状況が、イタリア旅行を決断させたのでしょうか。すでに書いてきていますように、過去においても、そうしたことがありました。それは、一八六九年の一月のころのことでした。ふたりしてローマを目指しました。しかしそのときは、ネッドの体調が悪化して、ドウヴァまでは行ったものの、海峡を渡ることなく、そこからロンドンへ引き返しています。したがいましてトプシーにとって、今回がはじめてのイタリア訪問になりました。マッケイルは、トプシーのこのイタリア旅行を、こう評しています。
彼の心は、いまだ最初のアイスランド旅行で満たされており、次の見通しにも胸躍っていた。したがって、この春に行なわれたイタリア訪問が幾分最高の出来事でなかったことは、驚くにあたらない。
上に見てきたアグレイアへ出されたトプシーの手紙から、彼のアイスランド旅行が精神的に満ち足りたものでなかったことは確かです。明らかにマッケイルは、事実とは異なる表現をしています。しかし、それに続けて、「この旅は大変短いものであり、彼にほとんど満足を与えなかった。初期ルネサンスの高貴なイタリア美術については、ほとんど彼は共感を示さなかったし、後期ルネサンスの美術とアカデミックな伝統に対しては、混じり気なしの嫌悪以外の何ものも感じることはなかった」と書いていますが、その表現内容は確かなようです。といいますのも、四月一〇日にフィレンツェからウェブに書き送った手紙のなかで、トプシーは、「私にとって、とにかくフィレンツェは、確かに退屈ではないが、憂鬱にさせるに十分なような気がする」と述べているからです。
最初のアイスランド航海から帰国すると、トプシーは旅行中に書き記したもともとの日誌に、何度も繰り返して加筆したものと思われます。しかし、この改訂された日誌が公刊されることはありませんでした。マッカーシーは、モリスの旅行日誌が、生前に出版されなかった理由について、以下のような指摘を披歴しています。「彼の理由はいつも同じで、出版に向くように多くの箇所で手を入れる必要があったというものである。これは決して真実ではない。おそらく真の理由は、伝わってくるものが、あまりにも私事にすぎ、あまりにも痛々しいものであったということであろう」。さらに彼女の注釈によりますと、追加の注と説明がつけられ、「一八七三年七月八日 WMからジョージー」という銘が記されたこの日誌は、現在、ケムブリッジのフィッツウィリアム博物館の図書館に所蔵されており、一方のオリジナルの草稿は、英国図書館にあるとのことです。
加えてマッカーシーは、「J・W・マッケイルは、長期にわたるモリスのサーガにかかわる取り組みについて、共感していないし、モリスのアイスランド旅行の取り扱いについても、単に、なすべき義務を守っているにすぎない」とも、述べています。いわんとするところは、このときトプシーがジョージーに贈った日誌は、「あまりにも私事にすぎ、あまりにも痛々しいもの」であったがために、マッケイルは自著の伝記のなかで、それを避けて記述していた、ということでしょう。おそらく、その胸中を書けば、その背後にあるジェイニーとゲイブリエルの愛情関係へと筆が及ばざるを得なくなり、この伝記の目的から大きく逸脱することが予想されたからにちがいありません。
それでは、なぜこの時期に、トプシーはジョージーに、この清書された旅行日誌をプレゼントしたのでしょうか。証拠となる資料がないので推断になりますが、自分が北方の厳しい風土から多くの勇気と忍耐力を得たように、夫の裏切り行為に苦しむジョージーにも、この日誌を読んで、少しでも立ち直ってほしいとの考えが、トプシーにあったのかもしれません。あるいは、二度目のアイスランドへの旅を控えたこの時期に贈呈されていることに着目しますと、いかにいま自分が苦しみのなかにあって再びこの地を訪問しようとしているのか、その気持ちをジョージーに伝え、双方の苦しみを共有したかったのかもしれません。
トプシーとジェイニーとゲイブリエルの三者のあいだには、ある種の「調停」が存在していたものと考えられます。しかし、最初の旅行が、サーガの舞台を巡る希望に満ちた巡礼の旅であったとしても、一方で、現状からの逃避行であったことも疑いを入れず、常に複雑で両義的な葛藤状態にトプシーが置かれていたことは、十分に想像ができ、帰国からのこの二年、日誌に修正を重ねては、ジョージーへの思いをさらに加速させていたものと推量されます。
「注と説明」が加えられた前回のアイスランド旅行日誌をジョージーに贈ると、さっそくモリスは、チャーリー・フォークナーとともに、二度目のアイスランドの旅に出かけました。前回と同じくダイアナ号に乗船します。そこで一行は、ケンブリッジのスレイド校の教授をしていたジョン・ヘンリー・ミドルトンに出会いました。すでにフォークナーとは面識があり、東洋美術を専門とする学者でした。それ以降、モリスとミドルトンの交流は終生続き、とくに彼は、モリスに染織に関する知識を提供することになります。レイキャヴィックに到着するや、七月一八日、モリスはさっそくジェインに手紙を書きました。
私にとってこの旅は、すべて何か夢のようなものです。この旅が終わるまで、私の現実世界は、横に置かれているような気がします。私に代わってかわいい子どもたちにキッスをして、手紙を書く時間が実際にないことを伝えてください。……どんなに帰りたいと思っていることか、そして、いかにこの地のすべてが、荒涼であり奇怪であることか。あなたについても、とても心配しています。先日の別れは、私たちにとりまして、とても悲しいものでした。
自分を愛していないことを知りながら、どうしてこのように、優しい言葉を妻にかけることができるのでしょうか。そして、こうした愛情に満ちた手紙を、愛していない夫から受け取った妻は、その人に対してどのような感情を抱くのでしょうか。マッカーシーは、彼はこの手紙を「恍惚の状態で」書いた、と表現しています。他方ヘンダースンは、こう書いています。「実際には、彼は彼女のことを心配する必要はなかった。というのも、彼がこの手紙を書いたちょうどその日に、再びジェインは、『とても元気そうに』、ケルムスコットでロセッティと合流していたからである」。
前回は、主としてサーガの舞台となった史跡を巡る旅でしたが、今回はコースを変え、もう少し冒険に満ちた旅が計画されていました。ふたりは、二名のガイドと一八頭のポニーと一緒に、最初の一〇日間は、多少なりとも親しんでいた、島の南西部を予備的に進み、それが終わると、いよいよ八月の一日に、北東方向に位置する壮大な中央の荒野を横断する旅へと入ってゆきました。デティフォースを出ると、一行は北の連山を越え、アーキューレイリという小さな海港へたどり着き、そこから、さらに南寄りのルートを通って荒れ地を越えてもどり、レイキャヴィックに帰着したのは、九月のはじめのことでした。この旅は、身体的に忍耐を要するもので、ある日などは、一五時間、馬の上で過ごすこともありました。厳しい寒さと多くの雨に見舞われたにもかかわらず、変調をきたす者は、誰ひとりいませんでした。
帰国するとモリスは、おそらく九月一四日の日曜日に、ターナム・グリーンの〈ホリントン・ハウス〉の自宅からアグレイアに宛てて手紙を書きました。
ご存じのように、無事に帰っています。とても元気で幸せな気分です。金曜日の朝にグラーントンに上陸し、その日の夜の一〇時半ころに帰宅しました。土曜日の午後にあなたの家を訪ねたのですが、大変残念なことに、あなたは町に出ておられ、お留守でした。……旅は、とても首尾よくいき、アイスランドに対してもっていた印象がさらに強まり、愛着もいっそう深まることになりました。……恐怖と悲劇の国であるも、しかしながら美の国である、その地の栄光なる純朴さが、私のなかに存するすべての愚痴っぽい心根を叩き壊してくれ、妻と子どもたち、そして愛する人、そして友人たちの愛おしいすべての面影が蘇り、前にもましてさらに愛おしくなりました。
おやおや、このなかで触れている「愛する人(love)」とは、一体誰のことでしょうか。ヘンダースンは、それをジョージーであると解釈していますが、マッカーシーは、アグレイア自身のことではないかと、判断しています。果たしてどちらでしょうか。その一文に続けてモリスは、こういっています。「あなたの面影も、これからもずっと、それらの人たちのなかにあってそこから見失わないようにしたいと思います。私があなたにお会いできるとき、お手紙を書いて、そう伝えていただけるよう、希望いたします」。確かにこの一節からは、モリスのアグレイアに対する強い恋心が伝わってくるのですが……。しかし、重要なことは、「愛する人」が誰かということよりも、この手紙を受け取ったアグレイア本人がこの箇所をどう読み、どう反応したか、ということではないでしょうか。しかし、残念ながら、それを実証する資料は残されていないようです。それでも、「愛する人」という一語には、極めて重要な意味が隠されているように思われます。というのも、その言葉は、このときモリスに「愛する人」が存在していたことを明示するからです。裏を返せば、もはや妻のジェインは、モリスにとって「愛する人」ではないということを意味します。
〈ホリントン・ハウス〉に妻子を住まわせ、いままで使っていた自分の書斎と寝室をそのままクウィーン・スクウェアに残し、多くの時間を独り身で過ごすようになった時期の前後から、モリスは頻繁にアグレイアに手紙を出していますし、一方、ジョージーには、『オウマー・カイヤームのルーバイヤート』の彩飾手稿本や一回目のアイスランド旅行の日誌を贈呈しています。これらのことを考え合わせれば、ジェインの〈ホリントン・ハウス〉への転居を境に、その前後の時期に、モリスは「愛する人」の存在を自覚するようになったのではないかと推量されます。それではなぜモリスは、レイキャヴィックからジェインに宛てて出した手紙のなかにあって、「あなたについても、とても心配しています。先日の別れは、私たちにとりまして、とても悲しいものでした」という、まるで絵空事のような文言を使ったのでしょうか。とても不可解に思われます。もしも想像の翼を羽ばたかせることが許されるならば、いまだにモリスには中世の騎士道的な恋愛精神が憑依し、一種の歴史的呪縛のもとに置かれていたのではないかという推断へとたどり着きます。もしそうであれば、いまやこの時期、モリスにとって、それを溶解させ現実世界の恋愛感情へと導いてくれる、実際上の水先案内人となる相手が必要とされ、ここに登場してくるふたりの既婚女性が、たとい当事者たちは無意識的であったかもしれないにしても、結果的にその役割を担っていたとは考えられないでしょうか。覚醒の過程においてモリスは、ジェインを手放すことになりますが、逆の意味でモリスは、このふたりに、現実的にしがみつかなければならなかったにちがいありません。アグレイアに宛てた手紙のなかの「愛する人」とは、具体的にどちらかの一方の女性が念頭に置かれているのではなく、すでに自分の現実をともに一緒に歩いてくれている、放したくない「愛すべき人」という意味において、漠然と無自覚のうちに使用されたひとつの観念だった可能性も否定できないように思われます。
昨年(一八七二年)の秋の終わり、ジェイニーはゲイブリエルを残して、ロンドンにもどりました。そしてその暮れに、〈ホリントン・ハウス〉に引っ越すと、明けた一八七三年の正月、モリス夫妻はさっそく〈ケルムスコット・マナー〉を訪れ、そこで二週間ゲイブリエルと過ごしました。ゲイブリエルの体調は、芳しくなかったものと想像されます。そのことについて、マーシュは、こう書いています。
一八七三年の一年間、ゲイブリエルはずっと〈ケルムスコット・マナー〉に留まった。彼の妄想は治まっていたものの、パラノイアのためほとんど数人の親しい友人を除いてすべての人に疑い深くなり、事実上世捨て人の生活を送っていた。症状は重くなったり軽くなったりで、ときには比較的良好に思えることもあったが、神経衰弱に見舞われたその日から死亡する一八八二年まで、彼が完全に正気を取り戻すことは二度となかった。
一八七三年のはじめに再会して以降、ジェイニーはロンドンにいて、ケルムスコットに残るゲイブリエルを思い続けていたものと思います。冬が過ぎて夏になり、トプシーがアイスランドに向けて出発すると、子どもを連れて、〈ケルムスコット・マナー〉に向かいました。その間、ゲイブリエルの絵画製作は衰えることはなく、このときは、彼女をモデルに書き溜めていたスケッチをもとに、《プロセルピナ》を描いていたものと思われます。ギリシャ神話から画題が得られたこの作品は、ザクロを食べたがゆえに冥界の住人となり、泣く泣く一年の半分の冬のあいだを、愛することのない冥界の王の夫プルトンと暮らす女性プロセルピナ(ペルセポネ)の化身像となっています。冬を夫のトプシーとロンドンで過ごす、苦痛に満ちたジェイニーの姿を暗に示していることは疑う余地はありません。しかしながら、極度の精神的悲痛にあえいでいたのは、モデルのジェイニーというよりも、むしろ描き手のゲイブルエルだったにちがいありません。そのことを勘案すれば、この作品は、どちらかといえば、ゲイブリエルのジェイニーへの強い慕情を表現したものであり、彼の愛と死の究極の観念が投影されたものとして理解することが可能ではないかと考えられます。完成したのは、翌年の一八七四年のことでした。現在、ロンドンのテイト・ブリテンで見ることができます。
すでに見てきましたように、アイスランドからの帰国直後にアグレイア・コロニアに宛てた手紙のなかで、モリスは、その地の栄光なる純朴さが、自分のなかに存するすべての愚痴っぽい心根を叩き壊してくれたことを告げていました。この決意と決断が、ついに、実行に移されました。以下は、一八七四年四月一六日に、モリスからロセッティに宛てて出された一通の書簡の内容です。
キンチの死後、ほかにどこに送ればよいかがわからないので、ここに一七ポンド一〇シリングを同封します。今後のことですが、借家の共有から降りたものとみなしていただきたいと思いますし、そうだからといって私を卑劣な人間などとはみなさないでいただきたいとも思います。私たちがこの家の共同所有をはじめたとき、私は、どちらも、その一方がそんなことをするだろうとは思ってもいなかったと、想像するのですが、しかし実際はそれ以来、あなたはケルムスコットにすっかり住み着いてしまいました。それ以外にも、私はとても困窮しており、そして、貧困ゆえにやむなく忙しくしています。そのため、いずれにせよ、その家を足しげく使うことはもうありません。あなたにとって、この家が役に立ち、快適であるというのであれば、私はとてもうれしく思います。
それから数箇月後の七月、ロセッティのパラノイアの病状が極度に悪化し、幻聴や幻視に悩まされるようになり、そして、それが原因で村人とのもめ事も発生しました。その結果ロセッティは、家人や友人たちに連れられてロンドンのチェイニ・ウォークの自宅へと連れて行かれ、そこで隔離され、監督されることになりました。これを最後に、ロセッティは、二度と〈ケルムスコット・マナー〉を訪れることはありませんでした。明らかにこのことは、最終的ではなかったとしても、ジェイニーとゲイブリエルの実際上の愛の終局を意味するものでありました。
この間モリスは、ロセッティとの共同による借家契約を解消すると、自著の『地上の楽園』の出版人であったF・S・エリスを共同借家人して、再びこの家を賃借します。このことは、ジェインとロセッティにしてみれば、これまでふたりで過ごした「地上の楽園」の喪失を意味しました。しかし、一方のモリスにとっては、これには、これよりのち単独で楽しめる「地上の楽園」の出現が含意されていたのでした。
この年(一八七四年)の夏休みは、モリス家にとって、久々の水入らずの海外旅行となりました。「とても困窮しており、そして、貧困ゆえにやむなく忙しくしています」といいながらも、モリスは、妻子を連れて、ベルギーへと旅立ったのでした。この旅行の正確な目的はわかりません。「家族」というものに対する、いま一度の自己認識の旅だったのかもしれません。七月二四日、滞在先のブルージュからアグレイアに宛てて、モリスは、このような手紙を書いています。
ご親切なお手紙と、ご自宅の窓辺のジャスミンの花をお送りいただき、心から感謝いたします。お返事が遅れて失望させてしまったこと、誠に申しわけありません。ずっと子どもたちと一緒で、ひとりになって考える余裕も全くなく、手紙を書く時間を見つけるのが本当に大変なのです。いまも、書いているあいだここにいて、一緒に出かけるのを待っているのです。
このとき長女のジェニーは一三歳に、次女のメイは一二歳になっていました。しかし、父親としてのモリスは、子どもたちの成長に戸惑を感じている様子でもあります。「私はといえば、あらゆる変化と美しさが目に映っているにもかかわらず、想像力がかなり鈍麻し、低下しているのを感じます。思うにそれは、周りに子どもがいるためであり、私たちの年齢に差があるためであり、彼女たちが何を考えているかわからないためでもあるのです」。このときすでにモリスは四〇歳になり、ジェインはまもなく三五歳になろうとしていました。そして、ふたりの結婚生活は、ちょうど一五年を経過していました。「いま私は、ジェイニーと私が新婚旅行でブルージュに来たときに宿泊した同じ部屋にいます」。この一文でモリスは、アグレイアに何を伝えようとしたのでしょうか、そしてアグレイアは、それをどう受け止めたのでしょうか。ロンドンではすでに実質的な別居状態になっていたわけですので、驚くには値しないのですが、どうやらモリスは、一五年前の新婚旅行の際にふたりで使った部屋を、今回の旅ではひとりで使用しているようです。モリスの脳裏には、この間の夫婦生活がどのようなものであったのかが、走馬灯のように蘇っていたにちがいありません。しかし、同時にその一方で、ゲイブリエルとのあいだでの〈ケルムスコット・マナー〉に関する共同賃借契約が解消されたように、同じく現実の活動状況に照らして、モリス・マーシャル・フォークナー商会もまた解体されるべく、組織改革にかかわる問題がモリスの脳裏を駆け巡っていたにちがいありません。アグレイアのこの手紙のなかに、こうした一文があります。「私は家に帰りたくてたまりません……考える時間も場所もない旅は、私にとって退屈な仕事なのです」。これは、アイスランド旅行から帰宅した翌日に会いに行った昨年のように、早く帰ってアグレイアに会いたいという意思表示なのでしょうか。おそらくそれだけではないように思われます。このときモリスの胸中においては、共同経営というこれまでの「商会」の運営形態にかかわって、現実に即してくさびを入れる企てが進行していたものと推測されます。これもまた、中世的な「兄弟団」の解散を意味するものであり、モリスの夢からの覚醒の一環をなすものであったといえましょう。こうしたことを胸に秘め、モリスは家族とともに、ロンドンへと帰っていったのでした。