中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第五章 〈レッド・ハウス〉の建設と新婚生活

一.室内装飾の実践から新規事業の展開へ

結婚式を終えたふたりは、六週間に及ぶ新婚旅行へと向かいます。行き先は、パリ、ベルギー、ライン地方、加えてスイスのバーゼルでした。このときまでに、いまだジェイニーはオクスフォードから外に出たことはなく、ロンドンも、もちろん海峡を越えたヨーロッパ大陸も、未経験の地でした。そしてまた、フランス語もドイツ語も、未知の言語でした。一九歳の新妻にとっては、言葉、食事、買い物、どれをとっても不慣れな事柄であり、常に緊張と困惑がついて回ったものと想像されます。おそらくは夫のトプシーが、自らの経験と知識を生かして、それを補ったことでしょう。いずれにせよ、この大陸旅行は、これから入る中流階級の夫人が備えておくべき経験なり教養なりをジェイニーにもたらしたにちがいありません。

新婚旅行からロンドンにもどったふたりは、グレイト・オーマンド・ストリート四一番地に借り住まいをすることになります。この通りの七番地にフィリップ・ウェブの新しい事務所があり、新居建設の打ち合わせにとって都合のいい場所だったものと思われます。バーン=ジョウンズも、シャーラット・ストリートに居を移し、これをもって、レッド・ライオン・スクウェアでのモリスとバーン=ジョウンズの共同生活は終焉します。この時期ネッドは、メソディスト派教会の牧師の娘のジョージアーナ・マクドナルド(愛称はジョージー)と交際していました。ジェイニーとジョージーが知り合うのは、このときのことです。ロンドンに誰ひとりとして友人のいないジェイニーにとっては、ジョージーは心強い存在だったものと思われます。

当時、英国の中流階級の社交界にあっては、共通の知人から正式に紹介されることなくして知り合いになることは、事実上不可能でした。そのため、ジェインのような新妻にとっては、いわば保証人役となる年配の女性が必要でした。エセックスのモリスの実家の女性たちがその役を買って出たかどうかはわかりませんが、幸いにも身近な場所に、ふたりの女性がいました。ひとりは、モリスがかつて建築家になるために弟子入りをしたことのあるG・E・ストリートの夫人でした。そして、もうひとりが、ヴェラ・プリンセプの母親でした。彼女は、すでに述べていますように、ネッドが病に倒れたとき、自宅のリトル・ホランド・ハウスで手厚い看護をした人です。ジェインに対しても同じように親切に、社交界に入るための道案内をしたものと思われます。

年が明けた一八六〇年の春、こうした仲間たちのところに、ひとつの知らせが届きました。それは、リジーの看病のためにヘイスティングズにいたゲイブリエルからのもので、病状が回復すれば、彼女と結婚するという内容でした。一八五八年の夏にゲイブリエルがジェイニーをオクスフォードに訪ねて以来の約二年間、ゲイブリエルとリジーが、どこでどう過ごしていたのかも、また、どういう経緯でふたりが結婚することになったのかも、その詳細はおそらく誰にもわからなかったにちがいありません。突然のこの知らせに、とりわけモリス夫妻は驚き、それぞれに複雑な思いを抱えたものと思われます。こうして、奇跡的にリジーの容体が回復すると、ゲイブリエルとリジーは式を挙げ、パリでの短い新婚旅行をすませたのちに、ロンドンへともどってきました。一方ネッドも、約一年間の婚約期間を経て、偶然にもこの時期、ジョージーと結婚します。

こうしたなか、モリスの新居の建設が進んでいました。建設地は、ロンドンからの道のりにしてだいたい一〇マイル、最寄りのノース・ケント線のアビー・ウッドの駅からはおよそ三マイルほど離れていました。アプトンの小さな村に隣接し、べクスリー・ヒースの名で知られていたこの高台にある果樹園と牧草地を、すでにモリスは購入しており、そうした立地環境のなかに自分の家を建てようとしていたのでした。そのようなわけで、最初からこの家は、リンゴやチェリーの木々に囲まれていたのです。またモリスにとって、ケント州はお気に入りの土地柄でもありました。というのも、カンタベリーへの巡礼者の通り道でもあったからです。しかし、その敷地の近くには、労働者の住居が数軒あり、地元の人は「豚の巣窟」と呼んでいました。この名前は、ゲイブリエルを大いに喜ばせました。モリスの住居は、それとは対照的に、実に壮大な規模をもち、名称も、外壁に赤い煉瓦が用いられたことから、〈レッド・ハウス(赤い家)〉と呼ばれるようになります。ゲイブリエルは、この家に「トプシーの塔」というあだ名をつけました。〈レッド・ハウス〉、すなわち「トプシーの塔」が堂々完成したのは、この年(一八六〇年)の夏のことで、モリス夫妻は、グレイト・オーマンド・ストリート四一番地の仮の住まいを出て、ここへ引っ越してきました。

この屋敷は、東西に延びる正面の建物の、中央よりやや右手に玄関口があり、西端から南方向へとさらに建物は延びており、全体としてL字型の外観によって成り立っていました。一階、二階ともに、居室はほぼすべてが北向きか西向きで、廊下や階段が、井戸のある中庭に面した南向きの配置となっていました。玄関を入ると、そこはホールで、その右手に食堂があり、廊下がL字に交差する所に階段がありました。階段を上がると、左手の広い部屋が、北に面して三つの窓と西側に小さな出窓をもつ居間(ちょうど食堂上の二階部分)で、それ以外の部屋は、ほとんどどれもが寝室(あるいは一部が製作室)として使用されていました。

モリスが亡くなった翌年の一八九七年に、エイマ・ヴァランスが、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を上梓します。この本は、モリスの書き残したものや、周りの友人たちの証言をつなぎ合わせるような形式で叙述された、機械的ですが客観性に富む、最初のモリスについての(伝記というよりは)活動の記録となっていました。そのなかの第四章が〈レッド・ハウス〉に関する記述部分です。ヴァランスは、こう書いています。「以下の記述は、当時のこの家をよく知る立場の人に提供を受けたメモ書きに基づいている」。〈レッド・ハウス〉が完成した翌年(一八六一年)にモリスは、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立します。おそらくメモ書きを提供した人物は、一八九八年までこの商会の職工長を務めていたジョージ・キャンプフィールドではないかと思われます。以下は、その人物の書きつけによる、当時の〈レッド・ハウス〉の様子の一部です。

一八六三年にはじめて〈レッド・ハウス〉を見たとき、私は、驚くほどの心地よさを感じました。深い赤の色彩、大きな勾配、タイルでしつらえられた屋根、小さなガラス窓、低くて幅広い玄関前のポーチ、そして重厚な扉。建物の周りの庭は、幾つもの区画に分けられ、さまざまな種類の野バラの生け垣で囲まれ、どの垣根も、それぞれに独自の花の眺めを呈していました。すべてが、生き生きとした景観であり、唯一無二の独創性が見受けられ、こうしたことが私の心を強く打ったのです。……ポーチから家に入ると、ホールが現われ、当時の中流階級の普通の住居に見られる狭苦しさに慣れていた者にとっては、広々としていて、簡素そのものでした。赤いタイルの床の中央に、架台に似た脚をもつ、がっしりしたオーク材のテーブルが置かれていました。一方で暖炉が、ホールの空間に、おもてなしの彩りを添えていました。

モリスはこの家を、単に住むためだけのものにするつもりはなく、自身の芸術活動の拠点であるとともに、その背景をなすものとして、考えていました。そうした思いを達成するかのように、本人たちのみならず、友人たちによって、部屋の内装が整えられてゆきます。

ホール、階段周り、そして居間の壁面は、数年をかけて断続的に絵が描かれるように計画されていました。大きなホールの空間には、ギリシャの英雄たちを運ぶ大きな船の絵が、そして階段周りは、ネッドのデザインとテンペラによる製作で「トロイ戦争」の場面が予定され、一方、居間は、一四世紀の英国のロマンス作品から想を得た場面が、連続する帯状の絵で装飾されることになっており、ネッドは、一八六〇年の年末へ向けてテンペラで一連の中世風絵画を描き始めました。

ウェブは、〈レッド・ハウス〉で日常的に使用される軽四輪馬車のデザインを担当しただけではなく、中庭に通じる一階の廊下に使う窓ガラスをデザインし、そこに動物や鳥の絵をあしらいました。モリスもまた、そうした絵ガラスに「私にできますならば」という自身のモットーを描きました。他方ゲイブリエルは、二階の居間に置く大きな長椅子の羽目板にダンテから想を得た絵を描き、そして、新妻のリジーは、ゴシック様式の木製の宝石箱に手描きで宮廷場面の装飾を施して、ジェイニーに贈りました。

この家には、壁紙は使われていません。そこで、絵が描かれない壁面には、刺繍された壁掛けが用いられました。主にその製作を担当したのがジェイニーで、その指導にあたったのがトプシーでした。トプシーの刺繍への関心は、ストリート夫妻の知遇を得たことにはじまり、「レッド・ライオンのメアリー」を指導して、製作させた経験もありました。ジェイニーは、こう回想しています。

刺繍をするために購入した最初の材料はたまたまロンドンの店で見つけた藍染めのサージだった。……私がそれを家にもって帰ると、彼[トプシー]は喜んですぐに花の図案を描き始めた。私たちはその花の図案を、手をかけずに簡単なやり方で明るい色に仕上げた。仕事はすぐに終わり、完成すると〈レッド・ハウス〉の寝室の壁にかけてみた。私たちは大喜びだった……。

これがオリジナルの「デイジー」の壁掛けで、そののちの壁紙の「デイジー」パタンは、ここにその源があると伝えられています。さらにこのふたりは、天井に花の模様も描きました。刺繍が施された大判のサージの壁掛けをもつ主寝室には、ワードロウブ(衣装だんす)が置かれていました。これは、ネッドからのお祝いの品でした。表面全体に、金と色彩でもってチョーサーの「女修道院長の物語」の場面が描かれています。扉の内部の装飾は、トプシー自身が手掛けました。

一八六二年の二月に、ネッドは、こう書いています。

右往左往しながらも順調に、トップ[トプシー]は、ゆっくりと〈レッド・ハウス〉をこの世で最も美しい場所にしようとしている。

こうした協同作業がきっかけとなって、室内装飾を業務とする新会社の設立が構想されてゆきます。マッケイルは、その事情について、こう説明しています。

その間に、建築術と絵画術に対するモリスの徒弟見習いは、その副次的な努力によって、持って生まれた手工芸の才能に完全に火をつけていた。しばらくのあいだ陥っていた怠惰な気分は払拭され、活力みなぎる気分へと転じてモリスは進み出し、彼の脳と指は、ちくちくと刺激を受けて、働き始めた。すでに感じ取っていた製作者の熱情、工芸家であることの喜び、これらがここに至ってモリスに定着した。現代生活の諸条件に半ば無意識に適合するかたちをとって、いまや、モリスのオクスフォード時代の夢であった男子修道院が、工房という存在へと昇華し、そして「兄弟団」は、企業法のもとにひとつの会社として登録されるに至ったのである。

モリス以外の新会社のメンバーは、フォード・マドックス・ブラウン、エドワード・バーン=ジョウンズ、チャールズ・フォークナー、アーサー・ヒューズ、ピーター・ポール・マーシャル、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、そして、フィリップ・ウェブの面々でした。しかし、アーサー・ヒューズは、最初の設立趣意書には名前が挙げられていましたが、正式に会社が登記される前に削除されていますので、実際は、彼を除く、七名でこの会社は発足したことになります。また、マーシャルは、フォード・マドックス・ブラウンの友人で、トッテナムで測量技師と衛生技師をしていました。彼は、このとき発足した会社のために、ガラス器のスケッチを幾つか描いたり、家具や教会装飾に関する数点をデザインしたりしていますが、それ以外は、ほとんど大きな仕事をすることはありませんでした。こうして一八六一年の四月に、かつてのオクスフォードの「兄弟団」による新事業が立ち上がったのでした。

通知状には、「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」の文字が冒頭に並び、そのあとアーサー・ヒューズを含む八名の名前がアルファベット順に記載され、続けて設立の趣旨が、以下のように述べられていました。

 イギリス人建築家の努力のおかげによる、この国における装飾美術の発達は、いまや、高名な「芸術家たち」がこの分野に時間を費やすべきであると思われる地点に立ち至っています。疑いのない特定の成功例を幾つか挙げることができるかもしれませんが、それでも全体としては、この種の試みは、これまでのところ粗野で不完全なものであったという感を抱かざるを得ません。芸術的な監督があってこそ、さまざまな部分間に調和がもたらされ、上首尾の作品へとつながるわけですが、今日に至るまで、そうした芸術的な監督の欠如が増大の一途をたどってきました。それは、絵画製作という本来の仕事からひとりの芸術家を切り離すことによって発生する、必要ながらも膨大な費用が原因となっていました。

 上記に名前がみられる「芸術家たち」は、協同することによって、この問題に終止符を打つことを望んでいます。さまざまな資格をもった多数の人間を仲間に有し、彼らは、厳密に呼ばれるところの絵画から、芸術の美にかかわって配慮が必要とされる最小の作品に至るまで、いかなる種類の装飾、壁画、あるいはそれ以外の製作をも引き受けることができましょう。協同することによって、一定の芸術的な監督に加えて、本質のうえで芸術家の仕事と呼べるものの最大量が、可能な最小の費用で取得できることが、予想されます。他方、なされる仕事は、そのときそのときひとりの芸術家が雇用されるのが通常の方法であるとするならば、それよりも、必ずやはるかに完成度の高いものとなるにちがいありません。   

 多年にわたって、あらゆる時代の、そしてあらゆる国々の装飾美術の研究に深くかかわってきた、こうした「芸術家たち」は、多くの人びと以上に、本物の美しい作品を入手したり、製作を依頼したりすることのできる場所がひとつとしてないことを実感しています。そこで彼らは、以下に挙げる品々を、自分たちの監督のもとに自分たちの手によって生産する、ひとつの会社を設立するに至りました。

一.絵画かパタン作品による壁面装飾。あるいは、住宅や教会や公共建築に用いられるような、もっぱら配色による壁面装飾。

二.建築に用いられる彫刻一般。

三.ステインド・グラス。とりわけ壁面装飾との調和を考慮したもの。

四.宝石細工も含む、すべての種類の金属細工。

五.家具――デザインそのものが美しいもの、これまで見過ごされてきた素材が適用されたもの、あるいは、人物画なりパタン画なりが結び付けられているもの。この項目には、家庭生活に必要とされるすべての品々に加えて、あらゆる種類の刺繍、押し型皮細工、これに類する他の素材を用いた装飾品が含まれる。


 さらにどうしても申し上げておかなければならない唯一のことは、上記のいずれに分類されたどの仕事も、見積もりおよび製作においては、ビジネスという観点から執り行なわれるということです。つまり、信念としているところは、廉価という贅沢よりもむしろ趣味の贅沢にかかわる良質な装飾は、一般に考えられているよりもはるかに出費が抑えられるということがわかってもらえるだろうということです。

長い引用文になりましたが、読み終わると、この通知状は、たとえば、幾つかの文の主語に、「私たちは」ではなく、「芸術家たちは」とか「彼らは」という語句が使用されていたり、文章の内容が幾分仰々しかったりしている点に着目すれば、誰か高みに立ったひとりの人間が、尊大にもこの会社の設立の趣旨を紹介している文ではないかということに気づかされます。それについてマッケイルは、「この興味深い文書に、ロセッティの、見下すような筆運びと傲慢な口調とを読み取ることは困難ではない」と、述べています。同じように、この文書のなかの営業品目に、壁紙、テクスタイル、印刷や造本が入っていないことにも、注目していいかもしれません。

それではここで、おそらくロセッティの手によって書かれたであろう、この通知状(設立趣意書)の意味内容について、あわせて、モリスがこの時期に「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」を立ち上げた理由や背景について、少し検討してみたいと思います。

ラファエロ前派兄弟団(Pre-Raphaelite Brotherhood)は、ミレイ、ハント、ロセッティとその他の四人の同志によって、一八四八年に結成されました。アカデミズムの源泉として彼らがみなしていたラファエッロの時代以前の美術へもどることがその理念にすえられていました。ラファエロ前派兄弟団の頭文字であるPRBが最初に使用されたのは、一八四九年に展示されたロセッティの《聖母マリアの少女時代》においてでした。この作品は評判がよく、すぐにも買い手がつきました。しかし、その後に続くラファエロ前派兄弟団への批判や悪口は、同志たちのきずなを緩めさせ、一八五三年までには、それぞれがそれぞれの道を歩む結果を招いてしまいました。社会的不評はロセッティを傷つけ、彼は、ほとんど公衆の前で作品を展示することを避けるようになります。こうして一八五〇年代になると、事実上油彩を諦め、手っ取り早く買い手が見つけられる、中世を主題にした水彩画に集中します。彼は画家であると同時に、自他の作品に関係なく、その売却に関する腕利きで熱心なビジネスマンでもありました。その一方で、ラファエロ前派兄弟団の理念と名称に最後までこだわったのが、ロセッティその人でした。「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」が発足したのは、こうした環境にロセッティが身を置いていた一八六一年のことでした。

他方モリスはこの間、聖職者を諦めて建築家になるためにG・E・ストリートのもとに弟子入りするも、一年と続かず、その後ロセッティの影響を受けて画家としての製作をはじめるも、これまた、人物の描写にいかんともしがたい困難を覚えていました。そうしたなか、モリスは、新居の〈レッド・ハウス〉の天井に花の模様を描きます。モリスにとって壁画の製作は、かつてオクスフォードの学生会館の壁面と天井に描いたことがありましたので、これが二度目の経験でした。さて、一連のこれらの建築や絵画にかかわる体験は、モリスに何をもたらしたのでしょうか。おそらくそれは、中世美術の内容と形式に、真の意味で立ち返ることだったのではないかと思われます。具体的にいえば、それは、ルネサンス以降に発達するイーゼル画の類を否定して、天井や壁面、あるいはガラスやタイル、さらには家具や調度品に直接、中世由来の物語の場面を絵画的に描く表現形式へと、本格的に立ち戻ることだったにちがいありません。そして、そうした中世の美術を支えていたのが、その労働に喜びと誇りをもつ工人たちであり、彼らの職能団体であるギルドだったのです。その意味で、「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」の構想は、まさしく中世のギルドに、その発想の源があったものと推量されます。

ラファエロ前派兄弟団が描く作品は、思想的には中世主義的であったとしましても、製作上の形式は、近年のこの数百年において発達してきた、あくまでもタブローの絵画でした。その矛盾を乗り越えるためには、どうしたらよいのでしょうか。単純に考えれば、表現における内容と形式を、中世に行なわれていたとおりに、再現することだったにちがいありません。そうすることによって、絵画や彫刻といった自立した固有の美術の領域が出現する以前にあって、そのすべての複合形式として存在していた、「工芸」という、建築空間の中実的領域が再発見されることになるのです。その実践のよき事例が〈レッド・ハウス〉の内装でした。すでに述べていますように、この新居の建築空間の中実的領域は、中世の工人たちに倣って、施主のモリス夫妻を含む、多くの友人たちの協同作業によって実施されました。したがいまして、この大聖堂たる〈レッド・ハウス〉の建設と内装に集った工人たち(建築家や画家たち)が、その後、自分たちの独自の「兄弟団」としてのギルト(装飾会社)をつくることへ意を結集したとしても、それは、誠に理にかなった、当然の成り行きだったものと考えられます。

〈レッド・ハウス〉をひとつの実験の場とした、建築空間の内部における美術領域の再発見へ向けての具体的な実践は、当事者たちにとって、どれほど意識的であったのか、無意識的であったのかはわかりませんが、これまで展開されてきたラファエロ前派運動の実質的な終焉を意味し、一方で、これから展開されることになるアーツ・アンド・クラフツ運動の本格的な始動を意味していたと考えられます。こうした文脈に照らし合わせるならば、まさしく、「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」の設立は、ラファエロ前派運動の遺産を相続したうえで、それに取って代わる、アーツ・アンド・クラフツ運動の新たな誕生を指し示していたといえるでしょう。そのように考えますと、この通知状(設立趣意書)は、ラファエロ前派兄弟団のひとりのリーダーであったロセッティからの遺言状であり、そのために、その表現において、追従者たちに対するいささか傲慢な姿勢が見受けられたとしても、それはそれとして、それなりに理解できます。しかし、それよりもさらに重要なことは、この通知状(設立趣意書)が、ロセッティからモリスへと主役が代わることを意味するものであったということではないでしょうか。モリスの運動にとってのひとつの到達点が、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の結成であり、この団体によって一八八八年に開催された第一回の展覧会でした。こうして、中世美術の復興運動が事実上完結してゆくのです。

一八六一年四月一一日に、この商会は始動しました。設立メンバーの一人ひとりが一ポンドを出資し、加えて、レイトンに住むモリスの母親が無担保の貸付金として一〇〇ポンドを提供しました。こうした少額の財政のもとに、最初の一年の商売はなされてゆきます。会社は、かつてモリスとバーン=ジョウンズが借りていた家から数軒離れたレッド・ライオン・スクウェア八番地に設けられ、この年の「レイディ・デイ」(三月二五日の春季支払日)から使用されました。この家の一階は、ひとりの宝石細工職人が使っていました。そこで会社は、二階を事務室とショールームとして、また、四階と地下室を工房として賃借りすることにしました。

商会発足後の四月一九日に、「レッド・ライオン・スクウェア八番地」の新会社の住所を表記して、モリスは、通知状を同封のうえ一通の手紙を書いています。宛て先は、オクスフォードに入学するまでのあいだ個人教授をしてもらっていたガイ師でした。当時ガイ師は、ブラッドフィールド・カレッジの校長をしており、四年前の一八五七年にバーン=ジョウンズが、その学校のチャペルの三つの窓にかかわってデザインをしていました。文面は、以下のとおりです。

同封のものをお読みいただくことによって、私が装飾家として身を立てたことがおわかりになると思います。名声ある人びとが私のもとに集まってくれたとき以来、長らく私は、そうする考えを持ち続けてきました。その主たる最終的な結果が、自身のすばらしい家の建設だったのです。お気づきのように、私たちの会社は、この分野にあっては真に唯一の芸術的なものでありまして、あるいは、そのように自認しているところでありまして、他の会社は、(クレイトン・アンド・ベル社のように)実際はガラスの絵師だけであったり、それ以外は、ストランドのサウサンプトン通りで繁盛している、聖職者のための仕立てと装飾を混ぜ合わせたような、特徴のない奇妙な会社であったりしています。それとは違って、私たちが行なおうとしているのは、最大限の品目です。しかし、いま私たちが最も受注したいものは、壁面の装飾なのです。(迷惑が発生することなく)聖職者やその他の方々の名簿を親切にもお送りいただけないか、お尋ねいたしたいと思います。それがあれば、通知状をお送りするのに、おそらく何か役に立つかもしれません。だいたい一箇月をめどに、絵入りのキャビネットや刺繍などなどの何点かを店内に並べるつもりでいます。おそらくそのとき、お目にかかれるものと存じます。学校が休みになるまでは、〈レッド・ハウス〉へお越しいただくことは無理かと想像いたしております。以前、私の外出中にお訪ねいただきましたこと、とても残念に思っております。

この会社の定例会議は、毎週水曜日の夜に開かれていましたが、しかし、実質的にこの会社の運営を取り仕切ったのは、モリスとフォークナーのふたりでした。フォークナーは、この会議について、一八六二年四月にコーメル・プライスに宛てた手紙のなかで、次のように描写しています。

……ビジネスを論じ合う会議というよりは、むしろ「陽気な石工たち」の会議、あるいは、それ以外の陽気な何かの会議といった性格をもっている。午後八時か九時にはじまると、前回の会議以降メンバーたちが集めてきた関連する話題が披露され、これが種切れになると、おそらくトプシーとブラウンが一三世紀と一四世紀の芸術の相対的利点について論じ、それが済むと、おそらくさらに幾つかの話題が登場し、それが終わると、一〇時か一一時くらいにビジネスの議題が出てきて、一二時、一時、あるいは二時まで、猛烈に論議が交わされることになる。

こうした「陽気な石工たち」による会議は、「兄弟団」の友好が持続していたあかしのようにも受け取ることができます。すでに引用によって示していますように、マッケイルは、「モリスのオクスフォード時代の夢であった男子修道院が、工房という存在へと昇華し、そして『兄弟団』は、企業法のもとにひとつの会社として登録されるに至ったのである」と、述べています。しかし実際には、かつての「兄弟団」は、離れ離れになっていました。フルフォードとディクスンは聖職に就き、マクドナルドはアメリカに渡り、そして、ロシアでの任務に就いたプライスは、一八六〇年の終わりから三年間、イングランドから離れていたのでした。それをあたかも補うように、この会社には、「姉妹団」が存在していました。こうした名称が実際に使われていたかどうかはわかりませんが、事実この会社に貢献する幾人もの女性たちがいたのです。マッケイルは、こう書いています。「フォークナーのふたりの姉妹が彼に協力して、絵タイルと陶器の製作に加わった。モリス夫人と彼女の妹のバーデン嬢は、下働きをしてくれる数人の女性たちと一緒に、布やシルクのうえに刺繍をした。バーン=ジョウンズ夫人は、刺繍以外にも、タイルに模様を描く仕事をした。職工長の妻であるキャンプフィールド夫人は、祭壇布の製作を手伝った」。ここに登場している「フォークナーのふたりの姉妹」とは、ケイト・フォークナーとルーシー・フォークナーを指します。

ジャン・マーシュは、自著の『ラファエル前派の女たち』のなかで、この商会における「姉妹団」の役割について、以下のように評しています。

そして、こうして、ヨーロッパのデザイン史上において大いなる意義をもつものとしてひとつの地位が授けられてきているこの事業に、女性たちは参加することができた、というよりも、参加するように求められたのである。しかしそれは、補助的で従属的なものであり、当時広く見受けられた社会および個人における性別役割を覆すものではなく、むしろその強化につながった。

商会設立の当初、主として関係者の妻や姉妹たちが、忍耐を要する手仕事や補助的仕事の分野で貢献します。女性と手仕事(とりわけ、針仕事)は、当時の家庭生活にあっては、不離の関係にありました。女性の手わざは欠かせないものであり、その実態が、この会社の社会的生産活動に反映されたのでした。

その後、ケイト・フォークナーは、モリス商会にとって重要なデザイナーのひとりとして多くの壁紙のデザインに従事しますし、一八八八年の最初のアーツ・アンド・クラフツ展覧会においては、ジョン・ブロードウッドによって製作されたグランド・ピアノの全面に金と銀のゲッソー仕上げで装飾し、称賛を浴びます。一方、モリス夫妻の次女であるメイも、成人すると、とくに刺繍の分野で、この会社に積極的に参加します。さらに後年には、中央美術・工芸学校で刺繍の教師を務め、その教育にも携わり、専門的な刺繍家としての自立した道を歩むことになるのです。疑いもなく、こうしたケイトやメイの事例は、いかにして当時の女性たちが、家業の手伝い、ないしは内職としての手仕事から一歩前へ出て、社会的職業としての芸術的労働を勝ち得てゆくのか、その過程の一端を示すものであり、このふたりのなかに、一八六〇年代の英国に出現する「時の女」、そして、それに続いて九〇年代に登場する「新しい女」のひとつの原型のようなものが潜んでいたものと思われます。

そのメイ、そして、それに先立つ長女のジェニー、このふたりのモリス家の娘たちが誕生するのが、ちょうどこの時期の〈レッド・ハウス〉においてのことだったのです。

二.ふたりの娘の誕生と友人たちとの交流

トプシーとジェイニーの新婚生活がはじまりました。ふたりの夜の生活はどうだったのでしょうか。記録が残されていませんので、想像するほかありません。そこで、ふたりの伝記作家のこれにかかわる記述を紹介するに止めたいと思います。

 結婚生活におけるジェインの性的な経験については、ヴィクトリア時代の上品さによってその話題は包み隠され、そのうえ夫も妻も、当然そんな話題は公言しなかったため、このことはいくら考えても憶測の域をでない。結婚したときはふたりとも純潔だったと当然推測される。モリスの属していた集団は放蕩におぼれることなく、概して結婚まで待つことで満足していた理想主義的な若者の集団であった。ジェインは純潔を気遣うことが実際にも習慣的にも重視されない社会階級の出身であったが、画家たちと出会うまで彼女には求婚者も恋人もいなかったようなので、おそらく彼女も純潔だったであろう。彼女は控えめで、夫は内気であり、ふたりとも経験がなかった点を考えれば、モリス夫妻の性生活は情熱的というよりも、むしろ不器用なものであったかもしれない。しかし、実際どうであったか判断することは不可能である。

これが、ジャン・マーシュによる解釈です。他方、フィオナ・マッカーシーは、こう述べています。

 ウィリアム・モリスの性の歴史を知る方法は何もない。彼は、性に関する事柄について多くを語っていない。実に際立ったことであり、不自然な感さえある。彼の結婚が本当はどんな状態であったのかは、友人たちによって守られ、言い繕われてきた。彼のジェイニーとの性的関係が、ラスキンの失敗を映し出していないのは明らかである。何しろふたりは、ちょうど二年のうちに、ふたりの子どもを設けているのである。それでもやはり、のちの歴史に照らしてみると、彼らの関係は、お互いの経験不足によってだけではなく、ジェイニーの生まれつきの冷淡さとモリスの極度な内気さとによって、どうやら妨げられていたように思われる。

モリスが敬愛するジョン・ラスキンの個人生活は、とても不幸なものでした。彼の結婚は、不具という理由により一八五四年に婚姻の法的効力を失い、翌年、前妻のエフィ・グレイはミレイと結婚します。その後ラスキンは、多くの若い少女を不健康な愛の対象とし、一八六六年に、そのなかのひとりであった一八歳のロウズ・ラー・チューシュに求婚するものの、断わられ、彼女は一八七五年に発狂して死亡するのでした。そして、一八八九年以降、ラスキンは湖水地方に引きこもり、孤独のうちに晩年を過ごすことになります。理由は異なるにせよ、決して幸福とはいえない個人生活を生涯続けることになるという点に限定すれば、確かにモリスの人生は、ラスキンのそれと共通する部分があります。ラスキンは一八一九年の生まれで、モリスより一五歳年長でした。このふたりが出会ったのは一八五七年でした。しかし、実際に友人関係になるのは、モリスが設立した古建築物保護協会にラスキンが加わった一八七七年からのことでした。

「絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」によって構成される「モリス・マーシャル・フォークナー商会」が発足する約三箇月前の一八六一年一月一七日に、モリス夫婦に長女が誕生しました。そのとき、フォード・マドックス・ブラウンの妻のエマ・ブラウンが、お産の手伝いに〈レッド・ハウス〉に来ていました。出産の翌日、モリスは、フォード・マドックス・ブラウンへ宛てて、こうした手紙を書きました。

 子どもが生まれました。夫人は親切にも月曜日まで滞在してくださるとおっしゃっています。そのときご夫人をお迎えにいらっしゃるようでしたら、お願いいたします。乗合馬車に接続するアビー・ウッドへと向かう、ロンドン・ブリッジを出発する午後の列車の時刻をお伝えします。つまり、二時二〇分、四時二〇分、六時、七時一五分です。ジェイニーと子ども(女の子)はどちらも大変元気です。

子どもの誕生は、モリスにとって大きな喜びであったものと思われます。しかし、この手紙でモリスは、喜びの感情を大きく表わしていません。その後のモリスの人生においてもまた、私生活上の感情、とりわけ苦悩の感情について、無関心を装い、覆い隠す場面がしばしば見受けられることになるのです。

洗礼式において、母親の名から「ジェイン」が、そして父親の一番若い妹の名から「アリス」がとられて、「ジェイン・アリス・モリス」の名がこの女の子に与えられました。もっとも、母親の名と区別するために、この子は、通常、「ジェニー」と呼ばれることになります。マッケイルは、この日の出席者のひとりが、次のように書いていることを紹介しています。この書き手が、ネッド・ジョウンズの妻のジョージーであることは明白です。

洗礼式の日は雨が降り、風もありました。馬車の覆いがばたばたと揺れ、ベクスリー教会へ行く短い道のりを、その天候のためにてんやわんやしたことを覚えています。夕食は、T字形のテーブルで行なわれました。記憶するところでは、そのときの様子は、こうだったにちがいありません。ゲイブリエルが堂々とした態度で席につき、デザードの時間を待たずに、目の前の皿に盛られたレーズンをむしゃむしゃ食べていました。マーシャル夫妻、ブラウン夫妻、スウィンバーンも、そこにいました。ジェイニーと私は一緒に、男のために居間のあちこちに用意されたベッドを見るために、ろうそくをもって行ってみました。スウィンバーンはソファーにいました。P・P・マーシャルは床に寝転がっていたように思います。

このように多くの人からの祝福を受けての誕生でしたが、残念なことに、ジェニーが活発に活動できたのは、一〇代までの短い期間で、その後は「てんかん」という、当時にあっては不治の病に見舞われ、不幸な生涯を送ることになります。

〈レッド・ハウス〉は、いつも大勢の友人たちの社交の場として機能していました。定期的な来訪者として、ブラウン夫妻、ゲイブリエル夫妻、ネッド夫妻、ウェブ、フォークナー、その姉妹であるケイト・フォークナーとルーシー・フォークナー、スウィンバーン、そしてアーサー・ヒューズなどを挙げることができます。ジョージーは、こう回想します。

まずは、アビー・ウッド駅に着きます。当時は田園地帯でした。プラットフォームから歩いて下りていくと、甘い香りに満ちた新鮮で薄い空気が私たちを迎えます。外には、〈レッド・ハウス〉からよこされた軽四輪馬車が待っていました。それから、苦労して丘を上り、さらに高い台地の曲がりくねった三マイルの道のりを、揺れながら馬車は進み、左手に見える「豚の巣窟」を過ぎると、私たちは、友人の家の門に到着しました。

ジェイニーは、女主人として、料理人や女中、乳母や馬丁をうまく管理し、お客の歓待に努めたものと思われます。そして、こうした場を通じて、ブラウン夫人、リジー、ジョージー、ケイト、ルーシーといった女性たちによる友情の輪が花開いていったものと想像されます。以下も、ジョージーの回想です。

おお、私たち、ジェイニーと私は、何と幸福であったことでしょう。午前中は、針仕事か木彫りで忙しくしていました。午後は、ケント州の地図を頼りに馬車でこの地方を探索しました。ある日はクレイズに、別の日にはチズルハースト・コモンへ行きました。どこに出かけるにしても、なにがしかの新しい楽しみが得られ、家に帰ると、残って仕事をしていた男たちを喜ばせるために、私たちは彼らに、経験した冒険談を話して聞かせました。

おそらく彼女たちは、男たちの手伝いとしての手仕事にかかわる話題だけでなく、出産や育児のような女性固有の話題についても積極的に論じ合ったにちがいありません。ジェニーの洗礼式の日、ゲイブリエルの妻のリジーは欠席しました。自分の妊娠の月数が進み、大事をとったものと思われます。しかし、そうした配慮にもかかわらず、多量の出血と胎盤剥離に見舞われ、ジェニーの誕生から四箇月後、リジーの出産は死産という悲しい結果になりました。千人に五人の割合で、合併症やその他の理由で出産時に妊婦が亡くなっていた英国のヴィクトリア時代にあっては、女性にとって出産は、まさしくいのちがけの行為でした。リジーの場合は、自分自身のいのちには別状ありませんでしたが、精神的状態はその後さらに悪化し、それから約九箇月後の一八六二年二月に世を去ります。結婚以前から常用していたアヘンチンキの過剰服用という「事故」が原因だったようです。しかしそれは、暗に「自殺」を意味するものでもありました。

ジョージーは、ジェニーの洗礼式に出席していますが、彼女もまた、リジーと同じように、そのとき妊娠していたかもしれません。この年(一八六一年)の一〇月に、第一子のフィリップが無事に誕生しました。ジェニーとフィリップは、九箇月違いの友人同士の子どもとして、仲よく育てられてゆくことになります。

翌一八六二年の三月二五日の「レイディ・デイ」に、モリス家に次女が生まれます。この日は「受胎告知の祭り」として知られ、それに因んで、「メアリー」と命名されました。しかし、すぐにも「メイ」という呼び名に変えられています。理由は正確にはわかっていませんが、「メアリー」では、あまりにもありふれていたからではないかとか、一歳を過ぎた長女のジェニーが妹を呼ぶときに、「メイ」と発したのではないかという説もあります。後年、メイは、〈レッド・ハウス〉での生活を、こう記述しています。もちろん、これを実際に体験した人からの伝聞ではありますが――。

若い人たちが「円卓の騎士」の物語の場面を壁に描いていた、備え付けのまだ終わっていない部屋から笑い声が聞こえてきた。また、花の香漂う庭からも笑い声が聞こえてきた。この家の主人が何かうまい悪戯に引っ掛かり、苦しさのあまり激しくも絵になる振る舞いをして、お客たちの期待にこたえたのである。リンゴを摘んでいるときにも笑い声が聞こえてきた。新しい試みをするたびに、そして若い主婦たちがおもしろい失敗をするたびに笑い声が聞こえてきた。

この挿話は、モリス家の人びとと友人の訪問者たちが、いかに楽しい至福の時間を〈レッド・ハウス〉で享受していたのかを物語ります。至福の時間は、あるときは、戸外へと延長されました。一八六四年の九月のことです。モリスの一家とネッドの一家、フォークナー夫妻、そしてケイト・フォークナーとルーシー・フォークナーの一行は、リトルハンプトンの浜辺で休日を過ごしています。ジョージーの回想に、次のような場面が出てきます。

私たちの分までいっさいの家事の役目を親切なフォークナー夫人が引き受けてくれたので、ジェイニーと私は気楽に過ごすことができた。そして毎晩、〈レッド・ハウス〉での冗談を再現したり、もっと派手に演じたりして楽しく過ごした。

ネッドとチャーリーがトランプ遊びで八百長をしてトプシーをからかおうとした晩など、ジェイニーとジョージーは、早い時間から上の階へ上がり、笑いや爆発がいつ起こるか、耳を澄ませて楽しみにしたものでした。一方子どもたち(モリス家のジェニーとメイ、そしてバーン=ジョウンズ家のフィリップ)は、ケイトとルーシーが遊び相手になって、砂浜でお城をつくったりして楽しいひとときを満喫しました。

しかし、幼いフィリップが、その地で発生していた猩紅熱に感染し、今度はそれが、母親であるジョージーの罹患へとつながってゆくのです。おそらくそのことが原因だったのでしょう、出産が誘発されると、一〇月に赤ん坊は生まれますが、しかし三週間と、その子のいのちはもちませんでした。悲しみのなか、ネッド夫妻はヘイスティングズに療養に出かけることになります。

以上に述べてきましたように、さまざまな快楽と惨劇を伴う友人たちとの交流のなかにあって、そして、ジェニーとメイという幼くかわいい娘たちに囲まれながら、この間、日々モリスは、アプトンの〈レッド・ハウス〉からロンドンの「モリス・マーシャル・フォークナー商会」までの長距離を通勤し、新会社を軌道に乗せるべく、奮闘していたのでした。