中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第七章 「吹き荒れる感情の時代」のはじまり

一.モリスの『地上の楽園』の執筆

モリスの最初の伝記作家であるジョン・マッケイルは、『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)のなかで、『グウェナヴィアの抗弁』以降のモリスの詩作について、こう述べています。

 平穏のなかに再び集められた感情をもってして、詩歌についての有用な定義とみなすならば、人は、[〈レッド・ハウス〉での]この五年間において、詩作の量は最大のものになったのではないかと期待するかもしれない。この時代は、吹き荒れる感情の時代ののちに訪れた、忙しくも極めて平穏な時代だったからである。しかし、事実は、全く逆である。『グウェナヴィアの抗弁』のなかに刻まれた最新の詩歌が示しているのは、創作力の全き成長期のなかに著者はあり、作風を変えながら、(人がおそらく思うように)最も光り輝く驚きの効果を可能ならしめる、情熱と躍動とが混成された手法をすでに獲得し、まさにその高みに到達していたということである。

マッケイルのこの記述は、すでにモリスは、一八五八年に『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』を公刊した時点で、「吹き荒れる感情の時代」の「情熱と躍動とが混成された手法」は完成の域に達し、このことが理由となって、それ以降モリスは、詩作からしばらくのあいだ遠ざかっていたことを示唆しています。しかし、「吹き荒れる感情の時代」は決して終わっていなかったのです。モリスの詩作の再開は、〈レッド・ハウス〉生活がもう終わりに近づこうとしていたころのことでした。以下は、ジョージーの回想です。

 最後に私たちがアプトンを訪れたのは、一八六五年の九月でした。よく晴れた午後、モリスとジェイニー、それにエドワードと私は、お別れのために馬車に乗り、周囲にいまだ残る、人里離れた美しくて小さな場所を幾つか見て回りました。家のなかでは男たちが、「地上の楽園」のことで熱心に話し合っていました。その詩には、二、三百の木版による挿し絵がつけられるように計画されていて、そのうちの多くはすでにデザインがなされ、なかには版木に描かれているものもありました。

「地上の楽園」の執筆が本格化するのは、〈レッド・ハウス〉の生活を引き払って、クウィーン・スクウェア二六番地へ移転したのちのことでした。続けてマッケイルは、こう述べています。

ロンドンでの生活を再開したのちに、再び詩を書き始めたとき、モリスは、躍動的な手法を諦めた。かくして、情熱的な中世の騎士物語の書き手としてではなく、長編の物語詩のつくり手として、再び世にその姿を現わすのである。そのような物語詩の様式が整えられ、構造が確定されるのが、単独で最初に出版された『イアソンの生と死』によってであった。

一八六五年の秋に、モリスは会社と自宅をクウィーン・スクウェア二六番地へ移します。住職が一体化した生活は、これまでの長距離勤務を解消させ、モリスに時間の余裕を与えました。つまりそれは、この間しばらく止まっていたモリスの手を刺激し、壮大な物語詩の執筆へと向かわせたのでした。しかしそれは、穏やかな感情表現を反映した産物として終わることはありませんでした。マッケイル独自の表現を借用すれば、このとき、まさしく「吹き荒れる感情の時代」が、再びはじまろうとしていたのでした。

セント・ジェイムズ宮殿の内装とサウス・ケンジントン博物館の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉の装飾がはじまろうとしていた一八六六年の八月一日のウィリアム・エリングムの日記に、こうしたことが記されています。

ウィリアム・モリスと夕食。楽しい人で、ワインと蒸留について勉強している。「大きな物語の本」、ネッド・ジョウンズによるオリンポス山の成果物。モリスと友人たちがみずから木版を彫るつもりだ。――そしてモリスが自費でその本を出す。

この時点での「大きな物語の本」は、モリスが物語を執筆し、一方ネッドが、挿し絵のデザインをし、それを自分たち自らの手で版木に掘る――そうした計画のもとに進められていたようです。これが、当初考えられていた「地上の楽園」の構想でした。しかし、結果的には、すべてがそのように進んだわけではありません。チョーサーの時代と同じように、いまだ、たくさんの世界の物語が残されていました。最初は、ギリシャの神話と英雄伝説からとられた詩でもって書き出され、順次、東洋、西洋、北方の原典を参照しながら執筆が進められることになっていました。しかし、書き進めてゆくと、通常の叙事詩の分量に到達し、「地上の楽園」の全体構想からは切り離されて、この部分は、一八六七年の、マッケイルによれば六月に、『イアソンの生と死』という書題で出版されることになります。

『イアソンの生と死』は、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』と違って、世の好評を博しました。こうして、意を強くしたモリスの執筆は加速してゆきました。マッケイルは、翌年の一八六八年の春までには、「地上の楽園」を構成する予定の二四編の物語のうち、少なくとも半分以上の一七編が書き終えられていたと伝えています。最初の考えでは、一巻による二つ折りの本とし、そのなかに、バーン=ジョウンズのデザインによる、少なくとも五〇〇枚以上の木版画が収められることになっていました。しかし、価格の面からその計画は諦められ、第一巻(第一部と第二部)と第二巻(第三部と第四部)のふたつの巻に分けて出版されることになり、F・S・エリスとのあいだで一八六八年の二月に出版契約が結ばれました。こうして、『地上の楽園』の第一巻は、契約後、印刷の遅延もなく、一八六八年の四月の終わりに上梓されました。

しかし、モリスの執筆はさらに長大なものになりました。このときの契約には、両巻あわせて、およそ三万四千行の分量になることが明記されていたのですが、実際には、それを大きく上回り、四万二千を超える行数になってしまうのです。予定されていた第二巻は、最終的に第二巻(第三部)と第三巻(第四部)のさらにふたつの巻に分割されて世に出ます。第二巻と第三巻がともにすべて完結するのは、第一巻に遅れて二年後の一八七〇年のことでした。『地上の楽園』の版元となったF・S・エリスは、手稿本や稀覯本を扱う業者でもあり、モリスとエリスは最近知り合った仲でしたが、すでに心の通い合う間柄にあり、一八八五年にエリスがビジネスから身を引くまで、著述家と出版人のよき関係が続きます。

一八六八年に公刊された『地上の楽園』第一巻の唯一の装飾は、表題頁の扉絵に使用された木版画でした。ネッドがデザインし、それをトプシーが版木に彫りました。中世風の三人の女性音楽師が描かれています。以下は、冒頭に述べられた、この作品についての概要です。

かつて「地上の楽園」について聞いたすべてのことを吟味するや、ノルウェーのしかるべき紳士たちと船乗りたちは、その発見のために帆をあげる。多くの困難を味わい、そして多くの歳月を経て、年老いた男たちは、とある西方の地にたどり着いた。彼らにとってここは、これまでに一度も話に聞いたことのない土地であった。彼らはここで死ぬ。そのときまで彼らは、しかるべき年月をこの地で暮らし、大いに異境の民の敬愛を受けたのであった。

この『地上の楽園』は、三月から翌年の二月までの一二箇月、各月ふたつの物語が語られる構成になっています。こうした叙事詩の形式は、チョーサーの『カンタベリー物語』に範をとったものとされています。最初の月は、次の言葉でもって、導入されます。

煤煙が立ち込める六大陸を忘れろ
噴き出す蒸気とピストンの脈動を忘れろ
おぞましい町の広がりを忘れろ
むしろ、逆境にある荷馬車を思え
そして、夢見るがよい。小さく、白く、清らかなロンドンを
緑の庭園に囲まれた澄み切ったテムズ川を

ここで述べられている詩歌は、明らかに、ジョン・ラスキンの次の言葉を想起させます。ラスキンは、一八七一年に、英国の職工と労働者に宛てた書簡という形式を使って、月刊の『フォルス・クラヴィゲラ』を創刊しますが、その第五集のなかで、次のように述べているのです。

イギリスの大地のしかるべきささやかなる部分を美しく安寧で豊穣なものにするように私たちは努めたい。そこには蒸気機関車も鉄道の軌道も欲しくない。……私たちは、庭にはたくさんの花と野菜を、野にはたくさんの穀物と牧草を手にしたい……。

一八六八年刊行のモリスの『地上の楽園』のなかの一説と、一八七一年刊行のラスキンの『フォルス・クラヴィゲラ』のなかの記述内容とは、明らかに一致します。共通しているのは、産業主義を越えた田園回帰あるいは自然回帰の思想です。それはまた、中世回帰や中世主義を暗に含みます。その思想は、現実逃避といえば、そうであるし、現実批判といえば、そのとおりであると思われます。物語と詩歌のなかで夢見られることは、あくまでも、その世界のなかにあってのことであり、現実世界のどこにも「地上の楽園」は存在しないのです。地上に楽園を建設するには、どうしたらよいのでしょうか。それは、社会の変革を自分たち自身の手で成し遂げる以外に方法はありません。モリスが、「地上の楽園」を生み出すための闘いに現実的に乗り出すのは、もう少し先のことです。いまこの段階では、かつて存在したであろう世界の「地上の楽園」について、長大な語りに乗せて、夢想的に探索していたのでした。

『地上の楽園』の第一巻が出版されたこの年(一八六八年)の一一月、バーン=ジョウンズの家族は、ケンジントン・スクウェア四一番地から、フラムのノース・エンド・レインへ引っ越しました。その屋敷は〈グレインジ〉と呼ばれ、この家族にとっての終の棲家となる場所です。当時は、通りには何本もの大きなエルムの木があり、あたりは畑と野菜農園に囲まれ、とても快適な所でした。毎週日曜日には、モリスとウェブが訪ねてきました。商会の仕事の話だけではなく、バーン=ジョウンズが暮らし始めた、新しい「地上の楽園」についても、大いに花が咲いたものと思われます。表面的には、そうであったかもしれませんが、しかし心のなかは、決して平穏で、和やかなものではありませんでした。本人たちが直接口に出していたかどうかはわかりませんが、モリスは(一方それとは別に、バーン=ジョウンズの妻のジョージーも)このとき、「地上の楽園」とは対極にある世界にあって、失意の苦しみを味わっていたのでした。

この時期のモリスの心情、あるいは、彼の妻のジェインと彼の友人のロセッティとの愛情関係について、これまでの伝記作家は、どう描写してきたのでしょうか。幾つかを以下に紹介します。ジャック・リンジーは、自著の『ウィリアム・モリス――その人生と仕事』(一九七五年刊)のなかで、次のように述べています。

ジェイニーが神経症の病人となってモリスの人生のいかなる活動的な部分からも自らの存在が薄くなればなるにつれて、それだけ彼女は、ロセッティの心を揺さぶり、彼の美術作品のなかに姿を現わすようになった。……ジェイニーは、このような人物を相手にして、その人を理解し、その人の人生にあわせる能力に全く欠けていた。

この言説には、男性の凹凸に女性があわせることが、あたかも男女間の、あるいは夫婦間の適切な形式であるかのような考えが含まれています。また、『ウィリアム・モリスと彼の世界』(一九七八年刊)の著者のイアン・ブレッドリーの見解は、こうです。

 モリスは、九年間の結婚におけるジェインとの関係は、ロマン主義的恋愛の理想化された幻想から、現実の愛情と理解の水準へと一歩も進まなかったことに、徐々に気づくようになっていた。ジェインは、モリスから心が離れるようになると、さらにロセッティに傾いていった。一八六〇年代の終わりころ、彼らふたりは、モリスが出席していない、アトリエでのパーティーにおいて、しばしば、人の目につくようになった。

この言説は、ジェインの妻としての貞操を守らない行動をことさら強調しているようにも読めます。そして、女性の伝記作家であるジャン・マーシュは、『ジェイン・モリスとメイ・モリス』(一九八六年刊、訳書題は『ウィリアム・モリスの妻と娘』)のなかで、上記のふたつの論述内容に言及したうえで、このように主張します。

 このような判断を下す根拠がどこにあろうとも、それは明らかではないし……彼らの関係は単なる否定的言説に矮小化されうるものではない。一方、結婚が失敗する経緯や理由についてや、男と女が別れる事情については説明しにくい場合が多いことも真実である。それはそうだとしても、ジェインと夫との関係はどうであったのか、ある程度分析してみる必要がある。そのことがこれまで多大な好奇心を喚起してきた問題であり、それを満足させたいという、ただそれだけの理由からだとしても。

思い起こせば、最初にジェインをモデルとして見出したのはロセッティで、オクスフォードの学生会館の壁画に取り組んでいた一八五七年の秋のことでした。そのときロセッティは、療養中の婚約者のリジーからの呼び出しを受けて、その仕事を途中で放棄します。残されたモリスは、騎士道的な精神からでしょうか、ジェインに求婚し婚約します。婚約期間中の一八五八年の夏、モリスはウェブとフォークナーとともにフランスを旅行するのですが、そのことを承知のうえで、モリスの不在中に、不穏当にもロセッティは、オクスフォードにジェインを訪ね、絵のモデルになることを申し出ると、ジェインはそれを、婚約中の身でありながらも、受け入れるのです。一八五九年にモリスとジェインは結婚し、一方翌年には、ロセッティもリジーと結婚し、モリスとジェインの新居である〈レッド・ハウス〉に、ふたりは滞在することもありました。しかしリジーの精神状態は一向に回復せず、一八六二年、おそらく自死ではないかと思われますが、他界します。ジェインとロセッティが、最初の一歩を踏み出すのは、〈レッド・ハウス〉を引き払い、ロンドンのクウィーン・スクウェア二六番地への引っ越しを間近に控えていた一八六五年の夏のことでした。このときジェインは、写真撮影会のためにロセッティの住むチェイニ・ウォーク一六番地へ行きます。このときの写真は、いまに残され、ジェインの長い首、印象的な横顔、そして、謎めいた表情を伝え、この肖像をもって、今日まで多くの人がジェインの容姿を知るところとなってきました。一八六五年のこのころから、ロセッティは、自身のアトリエでジェインをモデルにして、素描や絵画を描く機会が多くなってゆきます。こうして、ふたりが最初に出会ったときの画家とモデルという関係が、八年の時を経過したいま、再び蘇ることになるのです。このとき、過ぎ去ったかつての思いが、双方において再生され、どちらからとはなく、共通する思いが自然と重なり合ったとしても、何ら不思議ではありません。

モリスは、大酒に溺れたり、妻に暴力を振るったりするようなタイプの男性ではなく、控えめで、思慮深く、時代に先駆けてフェミニストとしての考えをもっていました。しかし、言動には粗暴な面があり、怒りのあまりにドアを蹴飛ばしたり、おいしくなければ食事を窓から投げ捨てたりする人でした。そうした性格だったために、モリスが豊かに感情をジェインに注ぐようなことは、あまりなかったものと思われます。

一方、当時のロセッティは、リジーの死に対する罪悪感も幾分薄れつつあり、そしてまた、かつて娼婦だったファニー・コーンフォースとの抜き差しならぬ関係も、徐々に解消されようとしていました。そうしたなか、いつものようにロセッティは、モリスと違って、思いやりのある優しい態度で、モデルを務める女性へ最大限の賛辞を浴びせかけたにちがいありません。おそらくジェインは、自分の美質をたたえるその言葉に喜びを感じ、既婚者という自身の立場を次第に消失させていったものと想像されます。

ロセッティとジェインが、いつ深刻な関係になったのか、また、モリスがいつの時点でそのことを知るようになったのかは、必ずしも特定することはできませんが、『地上の楽園』の執筆中のことであったことは疑いを入れません。といいますのも、『地上の楽園』を構成する各月は、それぞれが独自の詩によって導入されるという形式をとっており、それらの詩のなかに、あるいは、それらの草稿などの詩片のなかに、その時期の悲痛の痕跡が認められるからです。

次の詩は、『地上の楽園』の「九月」にかかわるものです。

ずっと見つめなさい、あこがれに満ちたまなざしよ、むだであっても見つめなさい!
徒労であっても力を尽くしなさい、恋しがる心よ、いまだ賢明でありなさい
そして、いままであなたが気にもしないで見ていたものが、いま一度もどってくるなどと、ゆめゆめ期待してはいけません
あなたは新たに目覚めた人間と同じであり、そうした人間は、愛しき人を腕に抱きしめ、自分を喜びの境地に導いたあのときの夢を、再び夢見るように努めるのです

初期にみられた若々しい軽快な響きは失われ、さらに月が進むにつれて、悲壮感が増してゆきます。「一二月」に用意された次の詩は、絶望感に近いものがあります。

疲れ切った一年の上に、ベルの音が響き渡る
変わり果て、優しさが失われ、ただただ成就せぬ愛だけが残る
こうした失望の香しさがあなたに沈思を抱かせる以前にあって
かつてあなたは愛されていた、たとい、夢のなかだったとしても

一方、一八六八年から一八七〇年にかけて、モリスは『地上の楽園』のために伝説や物語を何度も書き直し、それにともなって、おびただしい量の詩を書いています。そのなかに、こうした詩片があります。モリスの思いを拒絶するジェインの立場に立って、書かれています。したがいまして、ジェインその人の直接の思いではありませんが、ジェインのまなざしを当時モリスがどう受け止めていたのかは、これによってある程度判断することができます。

その子どもっぽい心がかつて私を愛した。そしてどうだろう、
彼の愛を受け入れた私は、それからそれを捨て去った。

子どもっぽい貧欲な心よ!彼はいまだに私にしがみつく。
しがみつくほどに私の自尊心は満たされ、
そして、満たされぬ彼の愛をみることで、我が身に迫る悲しみは和らぐ。

(中略)

確かに彼を愛していない。しかしそれでも、いつまでも愛されるのは心地よく、
甘美であるがゆえに、私は仮面をつけた。
どうやら私はしばしば愛していたらしい。

しばしば彼をどうにか愛し、必要なものを彼に授けようとした。
求めに応じてそのなかから、私は多少の優しさを差し出した。
そして、かすかに聞こえる旋律にも似て、ほのかに彼の愛が
私のいのちにまといつくように望んだ。

一八七〇年の終わりまでに、『地上の楽園』の最後の原稿がモリスの手から離れ、出版にふされました。マッケイルは、いみじくも、こう書いています。

『地上の楽園』の物語を組み立ている詩歌は、極めて微妙で直截的な自叙伝であり、したがってそれは、それ自体に語らせたままにしておく必要がある。

当然ながらマッケイルは、その背後にあるモリスの具体的な悲痛について言及することはありませんでした。

二.ジェイニーの恋愛とトプシーの苦悩

マッケイルが触れることのなかった、この時期のモリスの「極めて微妙で直截的な自叙伝」の実際的な内容とは、どのようなものだったのでしょうか。それは、モリス、そしてジェインとロセッティとによって展開される「三角関係」という、虚構の「地上の楽園」をはるかに超絶した現実物語を構成するものでありました。

一八六六年の六月にモリスとジェインは、ウェブとテイラーと一緒にフランスを旅し、教会を見て回りました。また、翌年の六月に『イアソンの生と死』が公刊されると、モリス夫妻は、この年の長期休暇をオクスフォードで過ごしました。マッケイルは、そのときの様子をこう伝えています。

彼のペンから流れ出るように詩歌が生まれた。一日に七〇〇行が綴られることもあった。長期休暇のひととき、バーン=ジョウンズ夫妻は、子どもを連れてオクスフォードで生活していた……モリス夫妻も、オクスフォードのバウマント・ストリートにある宿泊所に滞在しており……毎晩モリスは、その日に書いたものを大声で読んで聞かせていたにちがいない。最高の夏日和に、川遊びに何度か出かけた。これは、何物にもまして活力に満ちた至福のときとして、長らく記憶に留められ、そのうちのふたつの経験が、『地上の楽園』の「六月」と「八月」の軽快な導入詩となって織り込まれている。

このときのオクスフォード滞在は、ジェインの里帰りだったかもしれません。しかし、それを示す資料も証言も残されていません。こうしたところにも、越えがたい階級の問題が潜んでいるのかもしれませんが、もし家族そろっての里帰りであったとするならば、いまだこの時点では、夫婦のあいだに、普段の不和はあったとしても、決定的な裂け目は生じていないことになります。次は、一八六八年三月六日にロセッティからジェインに宛てて出された手紙です。

愛しいジェイニー様。予定変更のお知らせをいただかない限り、金曜日にさっそくモデルに来てくださることをお待ちいたします。夕食のときにはモリスも参加してください。ベッシーもあなたと一緒に来たがっているのではないかと拝察いたします。さもなければ、彼女は家にひとり残されて、とても退屈な思いをするでしょう。

このときすでに、モリスの出費によるジェインの肖像画作製にかかわる依頼が、ロセッティになされていました。そして、四月の終わりに『地上に楽園』の第一巻が出版されると、その祝賀のパーティーが開かれました。その夜のことをウィリアム・エリンガムは、五月二七日の日記にこう書いています。

クウィーン・スクウェアに行き、モリスと晩餐をともにする。ちょうど馬車から降りたばかりのネッド夫人は、豪華な黄色の夜会服を身にまとっていた。正装のパーティーだった!私はヴェルヴェットの上着を着ていた。……祝宴――「地上の楽園」と呼ぼうと私が提案すると、ネッドがメニューの一番上にその文句を書いた。会話の嵐。私はダンテ・ゲイブリエルと一緒に一時ころ引き上げた。

このとき集まった招待客は、バーン=ジョウンズ夫妻、フォード・マドックス・ブラウン夫妻、F・S・エリス夫妻、ヒーリー夫妻、ハウエル夫妻、ウェブ、ロセッティ、エリンガムなどの総勢一八人でした。彼らが、ジェインとロセッティの関係にどの程度まで気づいていたかはわかりません。気づいていたとしても、礼節を保ち、おそらく誰も口に出さなかったものと思われます。

ロセッティは、ジェインの肖像を油絵で描くに先立って、多くの素描や絵づくりのための習作を描きました。こうして完成した作品が、《青い絹の衣装をまとったウィリアム・モリス夫人》と題された作品です。この作品が完成すると、ロセッティは、その絵に「紀元一八六八年D・G・ロセッティによって描かりしジェイン・モリス。詩人の夫をもつことによりて高名にして、その美しさによりて抜きん出て高名なるも、いざ我が絵画によりて不朽の名声を得させん」という、実におおげさな言葉でもってジェインの美質をほめたたえる銘をラテン語で記したのでした。当時この作品は、クウィーン・スクウェアの自宅に掛けられていました。しかし、部屋の色調と調和しないという理由で、ロセッティに一度返却されたようですが、結局、満足のゆくものにはなりませんでした。

《青い絹の衣装》は、両肘をテーブルに乗せ、首の前で右手の上に左手を重ねる女の右側面が描かれ、テーブルには一冊の本と、花と小枝が活けられたガラスの花瓶が置かれています。この女性が身につけている「青い絹の衣装」は、《マリアーナ》のモデルが着用しているドレスと同じです。この年以降、《青い絹の衣装》のほかに、《マリアーナ》(一八六八―七〇年)や《トロメイのラ・ピア》(一八六八―八〇年)といった作品が、ロセッティの手によって生み出されてゆきます。ロセッティは、シェイクスピアの『尺には尺を』のなかのマリアーナや、ダンテの『煉獄編』のなかのラ・ピアに触発され、目の前のジェインの容姿を隅々まで観察し、絵画としての全体的な構図を整えながら、自らのすべての神経を画布に投影したものと思われます。一方ジェインは、画題のもつ不幸で不満をもつ女性像に、自分のいまの姿を重ね合わせながら、与えられた役割を懸命かつ夢中になって遂行していったと考えられます。こうしてふたりは、画家とモデルという単純な関係を越えて、愛情が行き交う複雑な男と女の関係へと次第に発展してゆくのです。一八六八年の九月、例年どおりにモリスの一家は、休暇でロンドンを離れますが、このときジェインとゲイブリエルは、密かに手紙のやり取りをしていたのでした。バーン=ジョウンズ一家の代わりにモリス家の旅行に同伴したのは、ハウエル夫妻でした。そして、「郵便箱」の役を務めたのが、夫のチャールズ・ハウエルだったのです。

バーン=ジョウンズ一家がモリス家の旅行に同行しなかったのには、わけがありました。昨年以来バーン=ジョウンズは、妻以外の女性との複雑な関係のなかにあり、この家庭も面倒な問題を抱えていたのです。バーン=ジョウンズが親密にしていたのは、ギリシャ人の血筋を引くメアリー・キャサヴェッティ・ザンバコという女性で、パリのギリシャ人社交界にあって医師をしていた夫をその地に残し、ふたりの幼い子どもを連れてロンドンにもどっていたところでした。双方は恋に落ち、身動きがとれない状況にあったものと思われます。妻のジョージーが深く傷ついたのも無理からぬことでした。家族はこの問題を、その後数年間引きずったようです。一方、モリスとジョージーが、互いの苦境に心を寄せ合い、親密度を加速させてゆくのも、この時期からのことでした。

一八六八年から六九年の冬にかけて、ロセッティは、ジェインをモデルにして、小箱を抱く《パンドラ》の製作に取りかかりました。そして、この絵に、次のような詩を書き添えたのでした。

パンドラ、終わりが何だというのか。
この燃える翼を解き放ったのはおまえの仕業なのか。
(中略)
さあ、小箱を抱きしめよ。翼がどこへ赴くのか、
おまえは何も考えまい。いまもそこに閉じ込められている「希望」が
生きているのか死んでいるのか、おまえにはわかるまい。

ふたりの関係は、道徳的に許されないことはいうまでもなく、それを公言すれば、社会的に葬られかねないことを意味していました。「パンドラの箱」を開けると、何が起こるのか。ジェインも、ロセッティも、知らないはずはなかったでしょう。この詩は、まさしく事態は、抜き差しならぬ所に至っていることを暗示していました。モリスは、この時点で、ふたりの関係の深刻さに気づいたものと思われます。しかし、そのことを夫婦で論議したり、口論の種としたりした形跡は残されていません。互いに距離をとり、慎み深い態度をとったものと推量されます。しかしこのとき、モリスは、ジェインが自分を愛していないことを本当に悟ったにちがいありません。そこで、もはや自分への愛を求めるようなことはしませんでしたし、ロセッティのモデルを止めるよう要求することもありませんでした。モリスの悲痛は、そのとき向き合っていた詩の空間へと入り込んでいったのでした。

一八六九年のおそらく一月に、モリスは、バーン=ジョウンズと連れ立ってローマへと向かいました。目的は、メアリー・ザンバコからバーン=ジョウンズを引き離すためであったと思われますが、モリスの置かれている状況を考えるならば、自らも現状を離れ、外国の空気を吸って、いやされたかったのかもしれません。しかし、バーン=ジョウンズの体調がひどく悪化し、ドウヴァまでは行ったものの、結局、ここからロンドンへ引き返したという説も残されています。

同じくこの時期、アメリカの小説家のヘンリー・ジェイムズがクウィーン・スクウェアにモリスを訪ねてきました。そのときのジェインの印象を、彼はこう描写しています。

 こんな女性を想像していただきたい。張り骨を外したくすんだ紫色のラシャの衣装(あるいは、そういったもの)を身にまとい、背が高くてやせていて、縮れた豊かな黒髪が、大きく波打ったように両側のこめかみのところで盛り上がり、顔は細面で青白く、目は、奇異で悲しげで深く暗いスウィンバーン風の目をしている。つり上がった黒く太い眉はみけんでつながり、髪の毛の内側に隠れている。口は図解されたテニスンのオリアーナのようであり、服には襟がなく、その代わりに異国風のビーズのネックレスが幾重にも巻かれている……。

 彼女が、これまでに描かれたラファエル前派のすべての絵を統合する存在なのか、それとも彼女を「鋭く分析」することでそれらの絵のすべてが生まれたのか、彼女がオリジナルなのか、それともコピーなのか、それに答えるのは難しい。どちらにせよ、彼女は驚異だ。

このときモリスは、執筆していた新作の詩をジェイムズに読み聞かせ、そのあいだ、妻のジェイニーはソファーに横になり、歯痛に耐えていました。ジェイムズの目には、ジェインは「中世的な歯痛をもった無口で暗い中世的な女性」に映りました。そして、モリス自身については、こう描写しています。「とても快活で、夫人とは全く異なる。彼の印象は、実に気持ちのいいものだった。背が低く、がっちりしていて、太っていて、とても軽率なところがあり、着ている服はよれよれ」。

しかし、ジェインの病状は、歯痛に止まりませんでした。そこでモリスは、湯治のためにドイツのバート・エムスへジェインを連れていくことにしました。病名ははっきりしませんが、彼女を取り巻く環境から推測しますと、一種の神経症だったのかもしれません。次は、一八六九年七月三一日に書かれた、モリスからウェブに宛てた手紙の一部です。

ジェインはこれまでに二度医者に診てもらい、四回水浴をし、相当量の温泉水を朝飯前に飲んでいる。私は五マイルほど離れた所まで彼女を馬車で遠出に連れていってやり、木曜日に帰ってきた。そのおかげで次の日は気分がよかったようだ。ほかに二日、川に行って、オールの代わりに、ナイフとフォークのついたバター入れのようなボートを漕いでやった。こちらではこれを、ゴンドラと呼んでいる。

バート・エムスで温泉療法に励んでいたジェインは、この間、ロセッティと手紙のやり取りをしています。ジェインからの手紙をもとに、想像して描いたと思われます戯画が残されています。七月二一日の日付をもつロセッティからの手紙に同封された《エムスのモリス夫妻》には、バスタブに横になって温泉水を飲み、傍らで、モリスが『地上の楽園』を読み聞かせている場面が描かれています。八月四日の日付をもつ手紙に同封された《ドイツの教訓》には、部屋係の気取った女性とズボンのことでモリスは口論し、その傍らで、長椅子にジェインが横たわっている様子が描かれています。こうしたほほえましい戯画をロセッティはジェインに描き送っているのですが、七月三〇日の手紙は、明らかに自分の感情を直接ジェインに伝える内容となっていました。

 あなたに関することはどんなことでも私の唯一の関心事です。こうした心配時に、私の気持ちをあなたにお伝えしても、親愛なるトップはご放念くださることでしょう。彼があなたを愛せば愛すほど、ますます彼は、あまりにもあなたが愛らしく気高いので、人はあなたを愛さずにはいられないことを知るでしょう。親愛なるジェイニー。時が流れてゆくにつれて、伝えるに値すると思われる事柄がもはやほとんどなくなってしまった以上、心のなかに一番大切にしまっているものを友人が卑しくも告白したからといって、それを聞かされた友人は、決してその告白を拒絶することはできないのです。……あなたのまなざしから遠ざかっていることが長いあいだ私の習慣になってしまいました。しかし、たとえあなたがいらっしゃらなくとも、あなたがこちらにいらした何年間と比べ、それ以上にあなたから遠のくようなことは決してありますまい。この思いもよらぬ長い転地に、私がどれほど感謝の念を抱いているか。いまやおわかりのことと思います。

この手紙に、ジェインがどのような返事が書いたのかはわかりません。しかし、その後の発展の経緯を見ますと、間違いなくジェインは、ロセッティの気持ちを受け入れたものと推量されます。

モリスはこの間、相変わらず『地上の楽園』の続編(第三部)の物語の執筆に精を出していました。『地上の楽園』の第一巻(第一部と第二部)の出版人であるF・S・エリスに宛てて、八月一一日にモリスは、次のような手紙を書いています。

  ご親切なお手紙、痛み入ります。とてもありがたく思いました。もしご冗談でなければ、エムスへいらっしゃることを、心から希望いたします。……かなり懸命に仕事に励んでいるところです。ひとつの物語を脱稿し、そちらを離れて以来、もうひとつの物語に着手しています。これで、本になるでしょう。

ロセッティからジェインへ宛てた手紙を読むにつけ、この時期、大いなる濁流が、モリスの私的な世界を席捲していたのではないかと想像されます。しかし他方で、モリスからF・S・エリスへ宛てた手紙から判断すると、詩人としてのモリスの公的な世界には、光り輝く清流が、心地よい音を響かせ、湧き出ているのです。この落差を、どう考えたらいいのでしょうか。これが、モリスその人の、天から授かった性格であり資質であるとしか、いいようがありません。その天分のひとつは、明らかに詩作という行為にあり、苦悩と悲痛の叫びは、現実世界へ向けてではなく、虚構世界へ向けて放たれてゆきます。そのことが端的に現われているのが、『地上の楽園』の「一一月」の導入詩ではないでしょうか。おそらく、バート・エムス滞在中か、その前後に書かれたものではないかと考えられます。以下は、そのひとつの詩行です。

汝の目は疲れているのか。なにゆえに心は病んでいるのか、疑いと思いやりとによってもはやこれ以上もがき苦しむことができないまでに。

モリスの胸中は、詩の世界のこの一語に尽きるように思われます。そして、「もがき苦しむこと」を諦め、それなりの心の整理ができたのでしょうか、これ以降のジェインに対するモリスの態度を見てみますと、明らかに現実世界では、従来と同じように、優しく思いやりがあり、相手の健康を気遣い、ジェインの気持ちに寄り添う言動が主導してゆくのです。

九月三日のウェブに宛てた手紙に、帰国の予定が告げられています。ジェインの病状が完全に回復したのかどうかはわかりません。しかし、さらに長期にわたる湯治の必要性がなくなったのでしょう。こうして、これよりのち、ジェインには病弱というイメージがついて回ることになります。そしてその一方で、彼女自身、それをうまく利用することになるのです。このことについて、マーシュは、こう指摘しています。

病気の大半の女性が、本当に痛みを感じ、ときには激しい苦痛を受けていたことは間違いない。しかし、その見返りも存在していた。ある場合には、ヴィクトリア時代の女性のなかには、働くこともできない、役立たずの病弱者という烙印を受け入れることで、他の問題や無能さから解放されていた人もいたようである。病気によって地位は安定したし、心地よいまでの世話も受けた。しばしば家庭の雑事が免除され、非難も受けずにすんだ。聖人のように不満も恐怖も口に出さず、そのことで話が美化される場合には、とくにそうであった。したがって、この文脈のなかでこそ、ジェイニー・モリスが慢性的病弱者であったという世評は考察されなければならない。

バート・エムスからロンドンへの帰路の旅、トプシーとジェイニーはどのような会話をしたのでしょうか。少なくとも、共通した将来の夢を楽しく語り合うようなことはなかったものと思われます。それぞれが、これからのロンドン生活に立ち込めるであろう暗雲を敏感にも察知し、そのため口数も、いままで以上にさらに少なくなっていた可能性もあります。こうして、一八六九年のモリス夫妻にとっての夏の長期休暇は終わりました。このとき、トプシーはすでに三五歳を過ぎ、ジェイニーは翌月の誕生日で三〇歳になろうとしていました。