ウィリアム・モリスが一八九六(明治二九)年一〇月三日に死去すると、さっそくその訃報が日本へも届きます。同年の一二月号の『帝國文學』は、モリスへの追悼文を掲載し、次のようにその死を悼みました。
老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃、思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲報に接せんとは。長く病床にありしウ井リヤム、モリス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開きし程もなく、俄然病革りて去る十月三日彼は六十三歳を一期として此世を辭し、同六日遂にクルムスコット墓地に永眠の客となりぬという。彩筆を揮て文壇に闊歩すると四十年、ロセッテ、ス井ンバルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず、まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ、其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し、併せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶるところあるべし。
ここからこの追悼文は、『地上の楽園』を中心としたモリスの詩の解説が讃美の基調でもってはじめられてゆきます。執筆者名は「BS」のイニシャルのみです。のちに新村出は、この追悼文の執筆者である「BS」が島文次郎であったことを回想します。
自分がモリスの名聲と業績の一面とを初めて知つたのは、其の死が傳へられた明治二十九年すなはち西暦一八九六年の秋のことでありました。丁度私が東京帝國大學の文科に進んだ歳のことでありました。「帝國文学」といふ赤門の雜誌の上に今の島文次郎博士が新文學士でS.B.の名を以てモリスの死を紹介されたのでありました。
この追悼文をきっかけとして、日本へのモリス紹介は加速してゆきました。一九〇〇(明治三三)年には、『太陽』において上田敏が、ラファエル前派の詩人としてのモリスに言及し、「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の徒なる歌人と自ら稱し、『地上樂園』(一八六八―七〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」と、短く紹介します。「前ラファエル社」とは、今日における呼称である「ラファエル前派(兄弟団)」を指しています。
先に引用した島文次郎のモリス追悼文にあって、別の観点から注目されてよいのは、「文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せし」と、述べている箇所です。ここに、モリスが装飾美術家であり、社会主義者であったことへのわずかながらの言及を認めることができるからです。しかし、とりわけ社会主義者としてのまとまりをもったモリス紹介は、一八九九(明治三二)年に出版された『社會主義』においてが、おそらくはじめてでした。著者の村井知至は、「第六章 社會主義と美術」のなかで、社会主義者へと向かったウィリアム・モリスの経緯を、ジョン・ラスキンと関連づけながら次のように描写しました。
ジヨン、ラスキンとウ井リアム、モリスとは當代美術家の秦斗にして、殊にモリスは美術家にして詩人なり、……モリスも亦ラスキンの感化を受けたる一人にして、彼と同じき高貴なる精神を持し、己れの位置名譽をも顧みず、常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり、……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至つては二者全く其揆を一にせり、彼等は等しく現今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に於ては到底美術の隆興を見る可はず、……今日の社会制度を改革せざる可らずと主張せり、如此にして彼等は遂に社会主義の制度を以て、其理想となすに至れり、……モリスは社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき、
世紀転換期の日本の知識人たちは、主としてこうした出版物を通じて、詩人としてのモリス、そして社会主義者としてのモリスへの関心を高めていったものと推量されます。
他方、それに先立ってラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の存在も大きかったにちがいありません。一八九〇(明治二三)年に来日したハーンは、島根での生活のあと、翌年の一八九一(明治二四)年に第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として職を得ます。続く一八九六(明治二九)年から一九〇二(明治三五)年にかけては東京帝国大学に籍を置き、その間の講義において、ヴィクトリア時代の詩人を取り上げます。そのなかには、ロセッティ、スウィンバーン、モリスが含まれていました。『ラフカディオ・ハーン著作集』第八巻(恒文社、一九八三年刊)に従えば、モリスに関するハーンの講義は、こうした語りでもってはじめられました。
ウィリアム・モリスは、彼よりもさらに絶妙な同時代の仲間の詩人たちと比較すれば、見劣りがする。それにもかかわらず、彼は特別な講義を必要とするほど偉大な人物である。諸君に、彼に対する大きな興味を抱かせることができるかどうか、私にはよくわからない。しかし、英詩においても、どこか全く異色で、非常に風変わりなところがある彼の位置について、はっきりとした見解を話すつもりである。
こう口火を切ったハーンは、このあとモリスの履歴を紹介し、それに続けて、モリスのなかに存在するひとつの精神、つまりは中世に向けられた彼のまなざしについて、次のように語るのでした。
したがって諸君にも、彼がとても忙しい人間であったにちがいないことがわかるだろう。同時に、詩やロマンス(彼は大量の散文によるロマンスを書いた)、また、芸術的印刷、家具、ステンド・グラスの窓のための図案、美しいタイルのための図案――さらに装飾芸術家としても、非常に大量の仕事――に携わっていたのである。誰であれ人間ひとりの仕事としては、これではあまりに多すぎるように思われるだろう。けれども、モリスがそれを容易に成し遂げることができたのは、さまざまな事業のすべてが、たまたま、まったく同一の精神と動機、つまり中世の芸術感情や十八世紀とともに終わりを告げる時代の芸術感情から影響を受けていたという、単純な事実のおかげである。
こうして前置きが終わると、おもむろに、それに続いて、モリス作品の分析がはじめられてゆきます。主に取り上げられていたのは、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』(一八五八年刊)、『愛さえあれば』(一八七三年刊)、そして『折ふしの詩』(一八九一年刊)のなかの詩歌でした。ハーンは、これらの詩の解釈に基づきながら、モリスの見ている女性像や恋愛観を学生たちに説く一方で、『折ふしの詩』のなかの何編かの詩に、彼の社会主義的な考えが表出されていることも、指摘するのでした。
ハーンに続く、ヴィクトリア時代の詩や物語に関心を抱いた英語教師の系譜に夏目漱石も位置づけることができるものと思われます。漱石は、一八九三(明治二六)年に帝国大学文科大学英文学科を卒業すると、その後、モリスが死去する一八九六(明治二九)年に第五高等学校の講師として赴任します。漱石が、『帝國文學』に掲載された島文次郎のモリス追悼文(一八九六年)、『社會主義』における村井知至のモリスの社会主義者論(一八九九年)、そして、『太陽』に掲載された上田敏の詩人としてのモリス紹介記事(一九〇〇年)、これらを目にしていたとすれば、この熊本時代のことでした。ハーンの東京帝大でのモリス講義も側聞していたかもしれません。明らかに漱石の五高在任期間は、モリスが知識人のあいだで話題になる時期と重なります。おそらく、勉強家であり、英国留学も視野に入れていたであろう英語教師の漱石が、中央でのこうしたモリス関連の動きに全く気づかなかったはずはなく、場合によっては焦りにも似た気持ちのなかで、必死に独自の観点からモリス研究を行なっていた可能性さえあります。いずれにせよ、ハーン同様に漱石も、正規の授業ではなかったにせよ、何らかのかたちでモリスの詩に言及していたにちがいありません。しかし、五高における漱石の講義録は、残っていないようです。
五高在職中の一九〇〇(明治三三)年、漱石は、文部省から英語研究のための英国留学が命じられます。九月八日にプロイセン号で横浜を出航すると、ジェノヴァで下船、アール・ヌーヴォー様式を生み出したパリ万国博覧会を観覧したのち、一〇月二八日にロンドンに上陸しました。ここから、漱石の約二年にわたる英国滞在がはじまるのです。果たしてこの留学中、漱石は、モリスの詩歌やラファエル前派の絵画作品と、どう向き合ったのでしょうか。わずかではありますが、これに関する断片的な記述が日記に記されています。以下に、それらの箇所を拾い出してみます。
[一九〇〇(明治三三)年] 十一月五日(月) National Gall[e]ry ヲ見ル 十一月十一日(日) Kenshington[Kensington] Museum ヲ見ル Victoria and Albert Museum ヲ見ル 十一月十九日(月) 書物ヲ買ニ Holborn ニ行ク [一九〇一(明治三四)年] 一月二十九日(火) Portrait Gallery ヲ見ル 三月六日(水) 此処ハ Ruskin ノ父ノ住家ナリシト云フ何処ノ辺ニヤ 四月七日(日) South L. Art Gallery ニ至ル Ruskin、Rossetti ノ遺墨ヲ見ル面白カリシ 七月一日(月) 鈴木へ Studio ノ special number ト絵葉書ヲ出ス 七月九日(火) Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ 八月三日(土) Cheyne Walk ニ至リ Eliot ノ家ト D. G. Rossetti ノ家ヲ見ル 十月十三日(日) 土井氏ト Kensington Museum ニ至ル
英国滞在中の日記のなかから拾い上げた漱石のモリスとラファエル前派への関心を示す上記の事項は、大きく分けると、美術館や博物館での作品鑑賞、関連する書物や雑誌の購入、そして、関連人物の住まい見物、この三つの領域になります。以下に、正確にそのときの様子を再現することは困難ですが、少しその周辺部分を、ジョン・ラスキンとダンテ・ゲイブリエル・ロセッティはここでは横に置いて、主にモリスのみに絞って描写してみたいと思います。
日記によれば、英国到着の八日後の一一月五日に、漱石は、さっそくナショナル・ギャラリーを訪問しています。しかしながら、ここに書かれているナショナル・ギャラリーが、トラファルガー・スクウェアのナショナル・ギャラリーなのか、当時ナショナル・ギャラリーの管理下に置かれていたミルバンクの新しいギャラリー(現在のテイト・ブリテン)なのか、この表記だけでは判然としません。また、このときどのような作品を見たのかについても、何も書かれてありません。
現在私たちがテイト・ブリテンで見ることができる、多くのラファエル前派の作品は、漱石がロンドンに滞在していた当時は、ナショナル・ギャラリーが所轄していました。それに至る経緯は、おおよそ次のとおりです。
製糖業で富をなし、ラファエル前派の後援者でもあったヘンリー・テイトは、一八八九年に、自分が所蔵する作品六五点をトラファルガー・スクウェアのナショナル・ギャラリーへ寄贈します。そのなかには、ジョン・ミレイの《オフィーリア》(一八五一―五二年)とジョン・ウィリアム・ウォターハウスの《シャロットの貴婦人》(一八八八年)が含まれていました。しかし、ナショナル・ギャラリーには、それを展示するだけの空間的余裕がなく、寄付が募られ、それを原資として、それまで刑務所として使用されていた建物を壊して、その跡地に新しい建物がつくられました。これが、現在私たちがミルバンクに見るテイト・ブリテンの祖型になるものです。テイトが寄贈した作品はナショナル・ギャラリーからこの建物へ移され、一八九七年にはじめて一般に公開されました。しかし、テイトの呼称は使われることなく、それ以降もしばらくのあいだナショナル・ギャラリーの管理下にありました。このミルバンクのギャラリーが、正式にテイト・ギャラリーを名乗るようになるのは一九三二年のことで、一九五五年に、完全にナショナル・ギャラリーから独立することになります。その後、テイト・モダンが開館すると、テイト・ギャラリーはテイト・ブリテンに改称されます。現在は、「テイト」の名のもとに、テイト・ブリテンとテイト・モダンを含む四つの美術館が連携して運営されるに至っています。
もし漱石が、ミルバンクの新築されたギャラリーで、ジョン・ミレイの《オフィーリア》を見ていたとすれば、この作品がシェイクスピアの『ハムレット』の第四幕第七場に霊感を得て描かれていることに気づかされたでしょうし、J・W・ウォターハウスの《シャロットの貴婦人》を見ていたとすれば、この作品がテニスンの「シャロットの貴婦人」に想を得ていることを知ったものと思われます。また、このギャラリーには、テイトとは別の人物によって一八八九年に寄贈されていたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの《ベアータ・ベアトリクス》(一八六四―七〇年ころ)が所蔵されていました。この作品は、ロセッティが愛したエリザベス・シダルがモデルで、彼女の死を悼むために描かれたものですが、そこには、イタリアの詩人ダンテが、愛するベアトリクスの死を嘆き悲しむ情感が下地となっており、ふたりの男性の絶望感が重なり合う描写構造となっています。
もし、こうしたラファエル前派の実作を漱石が見ていたとするならば、その主題や表現から、漱石は、文学作品と絵画作品とがコインの両面となって機能する関係性を、そしてまた、ヴィクトリア時代の詩人や画家にとっては愛と性と死の三者が分かちがたくひとつに結び付くものであることを、具体的かつ鮮明に学ぶ機会になったものと推量されます。
その一方で漱石は、モリスが婚約者のジェインを描いた《王妃グウェナヴィア》(一八五八年)(今日にあって使用されている作品名は《麗しのイゾルデ》)も、また、モリスの妻のジェインがモデルになっているロセッティの《プロセルピナ》(一八七四年)も、英国滞在中に見ることはありませんでした。前者は、娘のメイが死去した翌年の一九三九年に遺贈され、後者は、その作品を所有する別の個人によって一九四〇年に寄贈されているからです。当時贈与を受けたのはテイト・ギャラリーでしたが、現在は、それを引き継いだテイト・ブリテンにおいて、両作品とも見ることができます。ただ、《王妃グウェナヴィア》は、漱石がロンドンに到着する前年に出版されていたジョン・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(一八九九年刊)の図版に使用されていましたので、もしこの本を漱石が読んでいたならば、図版を通してこの作品を見ていたことになります。もしそうであったとするならば、モリスの『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』(一八五八年刊)のなかの詩歌と、同時期のモリスの絵画作品である《王妃グウェナヴィア》が、漱石のなかにあって、重なり合った可能性が残されます。
他方で、年が明けた一九〇一年一月二九日に漱石が訪問したポートレイト・ギャラリーには、当時、ジョージ・フレデリック・ワッツが描いたモリスの肖像画が所蔵されていました。モリスは、一八七〇年四月一五日の妻のジェインに宛てた手紙のなかで、「今日の午後、ワッツに肖像画を書いてもらうつもりです」と書いています。このときジェインは、愛人のロセッティとともにスキャランズに滞在していました。加えてモリスは、妻の愛人が出した『詩集』の書評を書くという、通常では考えられない精神的重圧と混乱のなかに身を置いていました。しかしながら、もし漱石にこの肖像画を見る機会があったとしても、そこから、そうしたモリスの当時の心情を読み取ることは、事実上、困難だったものと思われます。といいますのも、もしかしたら漱石は、マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』を読んでいたかもしれませんが、しかし、そこには、そうした実情に触れることなく、以下のように、そっけなく書かれていたからです。書評が五月一四日号の『アカデミー』に掲載される「その前月、彼[モリス]はワッツの前に座り、こうして、よく知られることになる肖像画が生まれた。この絵は、生命と活力の最盛期にある彼を表現している。もっとも、そのときの以前にあって、すでに『地上の楽園』は、事実上彼の手を離れていたし、なすべきことを変えて、彼は気晴らしの方向へと進んでいたのであった」。しかしながら、実際のところこの作品は、「生命と活力の最盛期にある彼を表現している」のではなく、悲嘆と苦悩のどん底にあるモリスを表現していたのでした。
そのようなわけで、当時漱石は、モリスとジェインとロセッティとのあいだにあった、世にいう愛の「三角関係」について気づくことはなかったと思われます。しかし、『アーサー王の死』のなかに描かれている、アーサー王と王妃グウェナヴィア、そして騎士のラーンスロットの不義の関係が、初期の漱石作品の『薤露行』の主題として登場してくるのです。『アーサー王の死』はモリスの学生時代からの愛読書でしたし、彼の第一詩集が『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』でした。そして、彼の実際の人生そのものが、アーサー王伝説を地で行くようなものだったのです。その後の漱石は、男女の「三角関係」を主題にした小説を書き続けます。漱石は、『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』に続くモリスの、たとえば『イアソンの生と死』『地上の楽園』『愛さえあれば』を、どう読んでいたのでしょうか。とても興味がもたれるところです。おそらく、小説家漱石にとっての「三角関係」は、近代の自我や主体や道義を考える際の、最も凝縮した主題になり得たのでしょう。
一方で漱石は、帰国から三年後の一九〇六(明治三九)年の手紙のなかで、「現下の如き愚なる間違つた世の中には正しき人でありさえすれば必ず神経衰弱になる事と存候」(六月六日の鈴木三重吉宛て書簡)とも、「世界総体を相手にしてハリツケにでもなつてハリツケの上から下を見て此馬鹿野郎と心のうちで軽蔑して死んで見たい」(七月二日の高浜虚子宛て書簡)とも、さらには、「小生もある点に於て社会主義故[ゆえ]堺枯川[利彦]氏と同列に加はりと新聞に出ても毫も驚ろく事無之候ことに近来は何事をも予期し居候」(八月一二日の深田康算宛て書簡)とも書いており、彼が社会主義者、ないしは社会主義の適切な理解者であった可能性も十分にありえます。そうした漱石の、時代への反抗的精神は、文学から社会主義へと至ったモリスの生き方を多少なりともなぞっているのかもしれません。ただ、それを公言するには、時代が許さなかったのでしょう。事実、その二年前の一九〇四(明治三七)年、モリスの「ユートピア便り」の一部を『平民新聞』に訳載し終えた枯川生(堺利彦)は、二箇月のあいだ獄窓の人になっていたのでした。
漱石は、一九〇〇年一一月一一日と翌一九〇一年の一〇月一三日に、本人の表記に従えば、ケンジントン博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ出かけています。漱石が訪問するまでのこの博物館の歴史をかいつまんで述べれば、およそ次のようになります。
一八五一年の大博覧会は大きな収益を残し、それを原資としてサウス・ケンジントンに広大な土地が購入されました。建物群が完成すると、モールバラ・ハウスの機能(装飾美術博物館と中央美術訓練学校を含む科学・芸術局)はここへ移され、美術教育の新たな複合施設が、ここに姿を見せることになるのです。一八五七年のことでした。これよりこの博物館はサウス・ケンジントン博物館と呼ばれるようになり、ヘンリー・コウルが、科学・芸術局の局長とこの博物館の初代館長に就任します。コウルがモリス・マーシャル・フォークナー商会(のちにモリス商会へと改組)へ、サウス・ケンジントン博物館の西側食堂の装飾を依頼すると、モリスとフィリップ・ウェブが室内装飾のデザインにあたり、エドワード・バーン=ジョウンズが、ステインド・グラスの窓に描く人物のデザインを担当し、一八六六年に完成します。それ以降この空間は、〈グリーン・ダイニング・ルーム〉として知られるようになります。そしてその後も、この博物館とモリスは深いかかわりをもつことになります。たとえばモリスは、しばしばこの博物館を訪れ、とくにインド、ペルシャ、トルコのタピストリーやカーペット、陶磁器などについて、さらには、中世の木材染料についても詳しく研究をしていますし、その一方で、コウルが一八七三年にこの博物館を退いたのち、この博物館が美術品を購入するに際しての是非の判断をする「美術審査員」の制度が設けられたおりには、マシュー・ディグビー・ワイアットらとともに、モリスもその一員に加わるのです。
この博物館の発展はさらに続き、アストン・ウェブの設計による新しい建物の建設が同敷地内ではじまります。一八九九年にヴィクトリア女王によって礎石が置かれると、それ以降この博物館は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになり、建物が完成したのは一九〇八年のことで、翌年の一九〇九年の六月に開館の儀式が執り行なわれました。こうした経緯を経て、私たちが現在見るヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が姿を現わすことになるのです。
漱石は、ケンジントン博物館ともヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とも、この博物館を呼んでいますが、それはひとつの博物館のことで、漱石が訪問したときは、ちょうど新しい建物の建設に着手されたばかりのところであったものと思われます。このモリスとの関係が深い博物館を漱石がしばしば訪れていることから判断すると、訪英以前の五高時代にいかに漱石がモリスに関心をもっていたのかがわかります。
それでは、一九〇〇年当時、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館はどのようなモリス作品を所蔵していたのでしょうか。漱石が訪問したとき実際に展示されていたかどうかはわかりませんが、モリス関連の収蔵品は、主として次のような作品で構成されていました。
[ステインド・グラス] 《眠るチョーサー》《ディードーとクレオパトラ》《愛の神とアルケースティス》、そして《ペネロペ》の四点。どれもエドワード・バーン=ジョウンズのデザインで、一八六四年ころにモリス・マーシャル・フォークナー商会で製作。 [デザイン] 刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)。デザインはウィリアム・モリス。一八七七年。 [壁紙] 《キク》(サンプル)。デザインはウィリアム・モリス。一八七七年。モリス商会のためにジェフリー商会によって印刷。 [タピストリー] 《果樹園あるいは四季》。デザインはウィリアム・モリスとジョン・ヘンリー・ダール。一八九〇年。マートン・アビーの工房で製作。 《主を讃える天使たち》。デザインはジョン・ヘンリー・ダール。人物についてはエドワード・バーン=ジョウンズが担当。一八九四年。マートン・アビーの工房で製作。
この博物館には、これらの美術作品以外に、ケルムスコット・プレス刊行の印刷物(五三点の書籍と九点の冊子)のうち、モリス自身の詩集である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』や革命後の世界を描いたモリスの『ユートピア便り』、さらには『ウィリアム・シェイクスピア詩集』や『ジェフリー・チョーサー作品集』を含む二九冊が所蔵されていました。漱石は、どのモリス作品や書籍を目にしたでしょうか。特定は困難ですが、少なくとも上記の何点かについては、その可能性がありそうです。そして、それとはまた別に、個々の作品の鑑賞だけではなく、モリス・マーシャル・フォークナー商会が造営した館内の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉で、疲れをいやすためにティーなりビールなりを口に含んでいたかもしれません。
以上が、英国留学中に漱石が経験したであろうと思われる美術館や博物館での作品鑑賞にかかわる素描です。それでは次に、関連する書物や雑誌の購入にかかわって、少し描写してみたいと思います。
漱石は、一九〇〇年一一月一九日の日記に「書物ヲ買ニ Holborn ニ行ク」、そして、年が明けた一九〇一年の七月一日の日記に「鈴木へ Studio ノ special number ト絵葉書ヲ出ス」、その八日後の七月九日の日記に「Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ」と書いています。ここでも、モリスに限って見てみたいと思います。
モリスがその生涯のなかで世に送った著作は、ケルムスコット・プレス版の自著を含めて四五タイトル、翻訳書については一二タイトル、あるいは、若干それ以上にのぼるもかもしれません。漱石が実際にそのなかのどの本を購入したのかは、特定できません。しかし、購入する以上はモリスの代表作品であったろうと考えられますので、それに該当しそうな作品をとりあえず以下に一〇点列挙してみます。最初の五冊がモリスの代表的な詩集と物語詩で、次の二冊が芸術論と社会論、その次の二冊が散文ロマンス、そして最後の一冊がべクスとの共著の社会主義論となります。
The Defence of Guenevere, and Other Poems, London: Bell and Daldy, 1858. The Life and Death of Jason: A poem, London: Bell and Daldy, 1867. The Earthly Paradise: A Poem, London: Ellis, 1868-70, 3 vols. Love is Enough; or the Freeing of Pharamond: A Morality, London: Ellis & White, 1873. The Story of Sigurd the Volsung and the Fall of the Niblungs, London: Ellis & White, 1876. Hopes and Fears for Art: Five Lectures Delivered in Birmingham, London, and Nottingham 1878-81, London: Ellis & White, 1882. Signs of Change: Seven Lectures Delivered on Various Occasions, London: Reeves & Turner, 1888. A Dream of John Ball and A King’s Lesson, London: Reeves & Turner, 1888. News from Nowhere; or, An Epoch of Rest: Being Some Chapters from a Utopian Romance, London: Reeves & Turner, 1891. Socialism: Its Growth & Outcome, By William Morris and E. B. Bax, London: Sonnenschein, 1893.
以上は、すべて初版のデータです。それ以降の版も多く存在していたものと思われますし、ホウルバン街の書店や古本屋にあってモリスの書籍がどのように扱われていたのかを再現することもまた実際上困難ですが、おそらく漱石が、「Holborn ニテ Swinburne 及 Morris ヲ買フ」と書き記した書物には、上に挙げたもののなかのどれかが含まれていたのではないかと考えられます。他方、「Morris ヲ買フ」という文言が、「モリスによって書かれた本」だけではなく、「モリスについて書かれた本」を指し示している可能性もあります。そうであれば、すでにその当時、以下のエイマ・ヴァランスとジョン・マッケイルのモリスに関するふたつの伝記が出版されていましたので、こうした本にも、漱石は触手を伸ばしたかもしれません。
Aymer Vallance, William Morris: His Art, His Writings, and His Public Life, London: George Bell, 1897. J. W. Mackail, The Life of William Morris, London: Longmans, 1899, 2 vols.
購入したかどうかは別にしまして、モリスの私家版印刷工房でありますケルムスコット・プレスで印刷・造本された豪華本の何冊かも、おそらくこのロンドンの地で漱石は目にしたものと推測されます。この印刷工房にとっての不朽の名作のひとつが『ジェフリー・チョーサー作品集』ですが、この本のボーダー(縁飾り)やイニシャル(パラグラフの最初の単語の最初のアルファベット)、そしてイラストレイション(挿し絵)の大部分をエドワード・バーン=ジョウンズが提供しています。帰国後、大学を辞めて小説家として身を起こした漱石は、自分の本の装丁や挿し絵の製作にあたって画家の橋口五葉や中村不折を起用します。そのことが、ケルムスコット・プレス版の書籍に漱石が何らかの影響を受けていたことを例証するのかもしれません。
他方、漱石は、一九〇一年七月一日の日記に「鈴木へ Studio ノ special number ト絵葉書ヲ出ス」と書き付けています。また、帰国から一〇年が立った一九一三(大正二)年の七月、漱石は、当時絵の指導を受けていた画家の津田青楓に宛てた手紙のなかで、「私は今日古いスチユーヂオを出して十冊ばかり見ました」と書いています。このことから、晩年に至るまで、英国の美術雑誌である『ステューディオ』を漱石が愛読していたことがわかります。
さらに、漱石のノートには、文字に乱れがあるものの、おおかた以下のようなメモ書きが記されていることも明らかになっています。
Gothic Architecture ―― Ruskin Socialism ―― Morris, Ruskin Decorative Art ―― Morris Pre-Raphaelite ―― Rossetti Northern Mythology ―― Morris
この図式から、漱石にとってのラスキン(ゴシック建築、社会主義)、ロセッティ(ラファエル前派)、モリス(社会主義、装飾美術、北欧神話)に対する位置づけが明確に見えてきます。日本郵船の博多丸に乗船した漱石は、一九〇三(明治三六)年の一月に祖国の土を踏みます。そして、五高を依頼免官となると、ラフカディオ・ハーンの後任として、上田敏とともに、東京帝国大学の英文学科の講師に着任するのでした。
英国留学を終えて漱石が帰国した、ちょうどその年の一一月一五日に、幸徳秋水や堺利彦らによる週刊『平民新聞』の創刊号が世に出ます。創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれることになる、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞です。発行所である平民社の編集室の後ろの壁の正面にはエミール・ゾラが、右壁にはカール・マルクスが、そして本棚の上にはウィリアム・モリスの肖像が飾られていました。『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事においてでした。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものです。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われます。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載を通して、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載されたモリスの News from Nowhere が、はじめて日本に紹介されることになるのです。それは、「理想郷」(今日では「ユートピア便り」の訳題が一般的です)と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳でした。そこには、革命後の社会や人びとの暮らしがどのようなものになっているのかが描かれていました。
その『平民新聞』を奈良の安堵村で読んでいたひとりの若者がいました。大日本帝国憲法の公布を数年後に控えた、一八八六(明治一九)年の六月五日に生まれた彼は、その名を富本憲吉といいました。富本は郡山中学に通っていましたが、友人に畝傍中学に通う中嶋雄作がいました。のちに中央公論の社長を務める人物です。富本は、後年、当時をこう回顧しています。
私は友達に、中央公論の嶋中雄三[雄作]がおり、嶋中がしよつちゆうそういうこと[モリスのこと]を研究していたし、私も中学時代に平民新聞なんか読んでいた。それにモリスのものは美術学校時代に知っていたし、そこへもつてきていちばん親しかつた南薫造がイギリスにいたものですからフランスに行くとごまかしてイギリスに行った。
こうして富本は、一九〇四(明治三七)年のこの時期に、確かにモリスの社会主義の一端に触れることになるのです。それはちょうど、主戦論の前には週刊『平民新聞』の社会主義に基づく反戦論など、なすすべもなく、御前会議でロシアとの交渉が打ち切られ、対露軍事行動の開始が決定された時期であり、一七歳の青年富本が中学校の卒業を控え、美術学校への入学を模索しようとしていた、まさにそのときのことでした。
一九〇四(明治三七)年の四月、富本は東京美術学校に入学します。ここで富本は、住宅や日用生活品の図案(今日の用語に従えば「デザイン」)を学びます。そして一九〇七(明治四〇)年には、上野公園で開催された勧業博覧会に処女作となる《ステーヘンドグラツス圖案》を出品しました。しかしこれは、当時の美術学校の教育を反映してか、独創性という点からかけ離れた、英国の美術雑誌『ステューディオ』に掲載されていた図版をおおかた転写したものでした。卒業製作は、九枚の用紙に図面や透視図やステインド・グラス案などが描かれた《音楽家住宅設計図案》(《DESIGN FOR A COTTAGE》)でした。これは、音楽家が住むことを想定した英国の田園住宅がテーマとなっていました。
郡山中学校に在籍していたときに読んだ週刊『平民新聞』は、富本が美術学校へ入学した翌年の一九〇五(明治三八)年一月二九日付の第六四号をもって、官憲の弾圧により廃刊へと追い込まれました。この新聞を通じてモリスの社会主義に触れていた富本は、その廃刊に接し、どのような思いを抱いたでしょうか。直接そのことを立証するのは難しいのですが、一九〇五(明治三八)年一一月一四日に富本が中学時代の恩師である水木要太郎に宛てて出した自製の絵はがきが残されており、そこから、当時の富本の政治的信条を読み取ることができます。この絵はがきの中央には「亡国の会」という文字が並び、その下の三つの帽子に矢が貫通しています。描かれている三つの帽子は、陸軍、海軍、官僚を象徴するもので、明らかに、当時の国家体制への批判となっています。この年、八月に日露講和会議が開始されると、合意内容に国民の不満は高まるも、陸海軍の凱旋がはじまると、一転して市中は異様な昂揚感に沸き返ります。富本のこの自製絵はがきは、ちょうどこの時期に出されているのです。
そのころ美術学校では、学生のあいだから短歌や俳句などの文芸に対する熱が高まり、五年前に発足していたものの、休眠状態にあった校友会文学部が再興され、その第一回の講演会が一九〇七(明治四〇)年四月二〇日に、上田敏と夏目漱石を招いて開催されます。上田敏は、『帝國文學』創刊の発起人であり、すでに『太陽』においてラファエル前派の詩人としてモリスに言及していましたし、漱石は、ラスキン(社会改良家)、ロセッティ(画家で詩人)、モリス(詩人でデザイナーで政治活動家)、スウィンバーン(詩人)に代表されるようなヴィクトリア時代の文化人にかわってロンドンで研鑽を積んでいました。この講演のなかで、ふたりがモリスに言及したかどうかはわかりませんが、富本がこの講演会に出席していれば、そのとき、文学と美術の関連性に思いを巡らした可能性が残されます。
のちに富本は、英国留学の動機にかかわって、「留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、……在学中に、読んだ本から英国の画家のフイスラーや図案家で社会主義者のウイリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある」と、述べています。留学中に関心をもった形跡は認められるものの、富本が在学中に「画家のフイスラー」について学習した形跡は認められませんので、英国留学の目的が、デザイナーで社会主義者のウィリアム・モリスの思想と実践に触れることにあったと限定しても、差し支えないと思います。それでは、モリスへいざなった富本が「在学中に、読んだ本」とは、一体何だったのでしようか。富本が在籍していた当時、美術学校の文庫(今日の図書館)は、『ステューディオ』を購入していましたし、それ以外に、モリスに関しては、以下の二冊(所収論文数としては三編)を所蔵していました。
William Morris, ‘The History of Pattern Designing’, Lectures on Art, Delivered in Support of the Society for the Protection of Ancient Buildings, Macmillan, London, 1882, pp. 127-173.
William Morris, ‘The Lesser Arts of Life’, Ibid., pp. 174-232.
Lewis F. Day, ‘William Morris and his Art’, Great Masters of Decorative Art, The Art Journal Office, London, 1900, pp. 1-31.
前者の『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』と題された書籍は、六つの講演録で構成されています。モリスに関しては、一八八二年の二月にロンドンで行なった「パタン・デザイニングの歴史」(講演五)と、同年の一月にバーミンガムで行なった「生活の小芸術」(講演六)のふたつの講演が所収されていました。講演録であるために、図版は存在しません。後者の『装飾芸術の巨匠たち』という書題をもつ本には、ルイス・F・デイの「ウィリアム・モリスと彼の芸術」と題された論文が所収されており、そのなかで、モリスの社会主義の輪郭も含め、モリスの主要作品が、図版とともに詳しく紹介されていました。いずれにしましても、留学にあたって富本が具体的にどの本なり、どの論文なりを実際に読んだのかを明確に示す資料は残されていません。しかしながら、少なくとも上記の二冊か、片方の一冊が、「在学中に、読んだ本」だったことは、間違いないと思われます。また、英国留学からの帰国後、富本が『美術新報』に発表する「ウイリアム・モリスの話」の底本がヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことを勘案しますと、この本は当時文庫には所蔵されていませんでしたが、留学を前にして個人の書としてすでにこのとき読んでいた可能性もあります。こうして富本は、在学中にモリスの思想と実践について独習し、英国留学へ向けての夢を育んでいったのでした。しかし富本にとっては、この時期に海外へ行くことには別の意味が隠されていました。それは、短い言葉で本人も語っていますが、徴兵から逃れることでした。すでに漱石も、一八九二(明治二五)年に、徴兵を避けるために「分家届」を出し、「北海道後志国岩内郡吹上町一七 浅岡方」に籍を移し、北海道平民になる経験をしていました。
『平民新聞』を通してモリスの「ユートピア便り」を読み、美術学校に在籍中にモリスの作品と社会主義の一端を知り、そして、自製の絵はがきのなかにおいて政治状況への批判を滲ませ、さらに、卒業を待たずして海外へ渡航することにより徴兵忌避の道を選ぶ――これが、富本をして、デザイナーで社会主義者であるウィリアム・モリスの思想と実践に触れるために英国へ向かわせた一連の経緯でした。英国には、美術学校に入学以来親交を深めていた、画家の南薫造が待っていました。富本の南との関係は、オクスフォード時代に知り合うモリスとエドワード・バーン=ジョウンズとの関係に重なります。また学生時代に、富本もモリスも、建築や室内装飾に関心を抱いています。この点も、ふたりに共通しているところです。
一九〇九年二月一〇日、富本を乗せた平野丸は、ロンドンに入港します。桟橋には、一足先に渡英していた南薫造の姿がありました。英国の地での南の水彩画の評価は高く、すでに前年の五月号の『ステューディオ』(第一八二号)誌上において、次のように紹介されていました。
ヨーロッパ画家の流派に敬服の念を抱き、現在[サウス・ウェスタン・ポリテクニックの]ボロー・ジョンスン氏の指導のもとに人体画の教室で研鑚している、若き日本人芸術家である南薫造氏によって水彩で描かれた風景画は、その扱いにおいて全くヨーロッパ的であり、日本の影響の痕跡をいっさい示していなかった。
こうして、富本のロンドン生活がはじまります。すでにモリスは亡くなっていましたが、日々通うヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で富本は、モリスの実作にはじめて接し、強く心を打たれます。
初めて見た時から勿論大變面白いものであると考へて居りましたが、追々と見なれるに連れて、たまらなく面白いと考へました、眞面目な、ゼントルマンらしい、英吉利風な作家の、けだかい趣味が強く私の胸を打ちました。
その作品は、「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」だったものと思われます。また富本は、英国滞在中に、モリスにその源を発する、その後のアーツ・アンド・クラフツ運動の動きを目にしていますし、一方、決して具体的に述べているわけではありませんが、モリスの社会主義についても、このとき調べたことを後年語っています。主として昼間は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で作品のスケッチをし、夜間は、中央美術・工芸学校でステインド・グラスの実技を学び、その間、新家孝正に随行してエジプトとインドを旅し、その地の建築様式について調査も行ないました。英国を出帆し、神戸の地を踏んだのは、一九一〇(明治四三)年六月のことで、ちょうど二四歳になったところでした。
富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に出会わなかったならば、自分は工芸家になることはなかったであろう、と述べています。一方モリスも、大学時代にバーン=ジョウンズと一緒にフランスに行ったとき、アミアン大聖堂をはじめ幾つもの建造物に感銘を受け、このとき、バーン=ジョウンズは画家に、モリスは建築家になることを決意しています。こうして、工芸家になることを強く心に秘めて帰国すると、モリスの思想と実践に倣うべく、富本の本格的な模索がはじまります。帰朝二年後の一九一二(明治四五)年、富本は、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本に使い、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのモリス作品についての見聞を織り込みながら、「ウイリアム・モリスの話」という評伝にまとめ、『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に寄稿します。この富本の「ウイリアム・モリスの話」が、日本において最初に工芸家モリスを本格的に紹介した評伝となりました。この評伝の最後の結論部分は、以下のとおりです。
「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します、
かくして、絵画や彫刻の下位に工芸が位置づけられることを否定し、同等なる別個の世界として工芸をみなし、その独自の美と個性を追求した人間としてモリスを紹介することにより、富本は、工芸家として自分がこれから歩もうとする姿勢を世に宣言するのでした。
「ウイリアム・モリスの話」に強い影響を受けたと思われる人物がいました。ひとりは、当時、東京美術学校で美術史の教授をしていた岩村透で、もうひとりは、東京帝国大学でハーン、漱石、上田敏のもとで学び、漱石の転任後に第五高等学校に赴任し、そののち、一九〇七(明治四〇)年から第三高等学校の教授として教鞭を執っていた厨川白村です。
まず、岩村透についてですが、著作集2『ウィリアム・モリス研究』において詳述していますように、一九一四(大正三)年、一年の休職を勤務する美術学校に願い出て、私費により外遊を企てます。そして、翌年の一九一五(大正四)年に、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が所収された『美術と社會』が出版されるのです。このモリス評伝の底本には、一九一三年に刊行されたばかりのコムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』が使われていました。また、それまでに岩村が、モリスの思想と作品に強い関心を抱いていた明確な形跡は、講義録にも、その間に執筆されたもののなかにも見出すことはできません。当時岩村は、美術史家としての批評の基軸をどこに求めるのか、苦悩のなかにありました。そうしたなか、岩村は、新たな展望の根拠を、教え子である富本が『美術新報』に発表した「ウイリアム・モリスの話」に求め、そうすることによって、美術的作品の審美的研究から美術の社会的研究のなかへ、己の活路を何とか見出そうとし、その結果的産物として、「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」は生み出されるに至ったのではないかと推論されます。
一方、厨川白村へ与えた「ウイリアム・モリスの話」の衝撃は明白です。「ウイリアム・モリスの話」が発表されて三箇月後の一九一二(明治四五)年の六月号の『東亜の光』に「詩人としてのヰリアム・モリス」を寄稿し、そのなかで、厨川は、こう述べているからです。
この頃美術新報の紙上に、『ヰリアム・モリスの話』といふ甚だ興味ある有益な一篇の紹介を讀むだ。英國近世の藝苑にかくれなき一大巨匠として、またひろく應用美術の方にまで手を擴げて、欧洲一般の藝術趣味に至大の影響を與へたといふ點に於いては、同じ英吉利のラスキンやロゼッチィやホヰスラアをすらも凌駕するこのヰリアム・モリスの名は、その死むだ頃即ち今から十五年ほど前から既に我國にも傳へられてゐた。しかし此モリスの事を日本でモノグラフィックに書いたものと云へば私の知ってゐる限りでは美術新報所載の此一篇が最初である。
これを枕詞として、白村は、モリスの詩歌作品である『グウェナヴィアの抗弁とその他の詩』『イアソンの生と死』『地上の楽園』『ヴォルスング族のシガード』について、讃美の言葉を織り交ぜながら熱く語るのでした。
日本の英文学研究におけるモリスへの関心の人的鎖、わけても五高に連なる人脈は、ハーン、漱石、厨川から、さらに長く伸びてゆきます。厨川が五高で教鞭を執っていたときに生まれた長男が、のちに慶應義塾大学で英文学を教授する厨川文夫で、その教え子に江藤淳がいました。『倫敦塔 幻影の楯 他五篇』(岩波文庫、一九九五年版)の巻末の「解説」のなかで、江藤は、『吾輩は猫である』に続く漱石の二番目の著書となる一九〇六(明治三九)年刊行の『漾虚集』の装丁について、次のように指摘します。
扉と目次、カット(ヴィネット)と奥付を描いたのは橋口五葉、挿絵を描いたのは中村不折で、漱石はその出来栄えに大層満足であった。いうまでもなく、『漾虚集』をこういう凝った本にしようとしたのは漱石自身の意図で、彼はこの本をその頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに試みられていたような、文学と視覚芸術との交流の場にしたいと思っていたのである。
『漾虚集』が出版された一九〇六(明治三九)年は、実際には、モリスが亡くなってすでに一〇年が立った時期であり、したがって、「その頃英国でウィリアム・モリスらによってさかんに[文学と視覚芸術との交流が]試みられていた」とする江藤の指摘は、明らかに誤認です。しかし、漱石の関心が、この時期「文学と視覚芸術との交流」、つまりは、モリスが唱えていた「理想の書物」に向けられていたことは確かです。たとえば漱石は、英国に上陸する二年前に世に出た一八九八年版のモリス本人のデザインによる布装丁の『地上の楽園』を手にして、このような書籍装丁をもって、その好例とみなしていたかもしれません。以下は、一九一二(大正元年)年一〇月四日の木下杢太郎に宛てた手紙の一部です。
拝啓先日は高著和泉屋染物店恵送にあづかり有難存候あの装釘は近頃小生の見たる出版物中にて最も趣きあるものとして深く感服仕候拙著彼岸過迄御覧の如く意匠万端粗悪に出来上り甚だ御恥かしくは候へども……
漱石が「意匠万端粗悪に出来上り甚だ御恥かしく」思っていた『彼岸過迄』の装丁を担当したのは、橋口五葉でした。一方、漱石が、「近頃小生の見たる出版物中にて最も趣きあるもの」と絶賛した、この木下杢太郎の『和泉屋染物店』の表紙デザインを担当したのが富本憲吉でした。その図版は、翌年の『美術新報』(第一二巻第五号)の中絵としても発表されます。これが、富本が試みた最初の書物装丁でした。そして、この木版によるデザインは、モリスの最初期の壁紙である《デイジー》を、あるいは、『善女伝』シリーズのプュリスを主題にしたステインド・グラス・パネルである《ペネロペ》を彷彿させるに十分なものでした。富本が英国留学中に日参したときのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館には、前者の作品はまだ所蔵されていませんでしたが、後者の作品は一八六四年に購入され、展示されていました。この《ペネロペ》は、富本のお気に入りの作品のひとつでした。エドワード・バーン=ジョウンズがデザインし、モリス・マーシャル・フォークナー商会によって製作されたものです。
慶応三(一八六七)年生まれの漱石と富本との年齢差は、一九歳ありました。正確に年月を特定することはできませんが、『和泉屋染物店』が世に出て少しのちのことかと思われます、富本は実際に漱石に会っています。ともに英国留学を経験した、文豪と称される小説家と新進気鋭の美術家との出会いでした。自分が京都市立美術大学の学生だったころ、師の富本本人から直接聞かされた漱石との出会いの場面について、柳原睦夫が、次のように回想しています。
富本先生は夏目漱石の知遇を得ています。イギリス留学の共通体験が二人を近づけたのかもしれません。漱石の思い出話は、リアリティーがあり秀逸のものです。先生は煎茶好きで、仕事の手を休めては、「おい茶にしよう」と声がかかります。この日のお茶うけは、当時貴重な羊羹でした。漱石の話はここから始まるわけです。「夏目先生が胃病で亡くなるのは当たり前や。僕に一切れ羊羹をくれて、残りは全部自分で食べよった。あんなことをしたら胃病になるわなあ」。まるで昨日の出来ごとのようです。
以上は、『週刊 人間国宝』(二〇〇六年刊)に所収されている柳原睦夫の「わが作品を墓と思われたし」から引用しました。しかし、柳原は、誰が富本を漱石に引き合わせたのかは述べていません。
誰が富本を漱石に紹介したのかは、証拠となるものがなく、正確にはわかりませんが、木下杢太郎のほかにも、漱石と富本を結び付ける可能性をもつ人物として、西川一草亭、その弟の津田青楓、そして、水落露石がいます。三人とも漱石と面識があり、一方で富本は、一九一二(明治四五)年四月に京都市岡崎町の図書館上階において開催された「津田青楓氏作品展覧會」において賛助出品するとともに、続く六月の、京都の西川一草亭が営む生花洋草店二階のグリーンハウスでの「小藝術品展覧會」にも、作品を並べています。また、大阪に住む水落露石は、一九一五(大正四)年の大和の安堵村での富本の初窯のときに招待され、そのとき、「土を玉に安堵の友が窯はじめ」の句をつくっています。この時期の漱石との手紙のやり取りの頻繁さや、漱石に絵の指導をしていたことなどから判断すると、富本を漱石に引き合わせたのは、津田青楓だったのではないかと思われます。おそらくそのとき、漱石と富本は、ふたりの共通の関心事であったと思われる、モリスのこと、本の装丁のこと、『ステューディオ』のこと、そして、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のことなどを話題にしたにちがいありません。そしてこのとき、小宮豊隆も同席し、その話題に加わったものと思われます。そのあと津田は筆を執り、「職人主義の圖案家を排す(小宮豊隆君に讀んで貰ふ爲に)」と題した一文を、一九一四(大正三)年九月の『藝美』(第四号)に寄稿するのです。そこには、小説家としての漱石と図案家(今日にいうデザイナー)としての富本について、次のような指摘がなされていました。
自分は今日我々の日常生活に觸目する、一切の工藝品や、或はいろいろの工藝品に付いてゐる模樣に不快を感じない事がない。何を見ても氣に喰はないものが多い。殆んど氣に喰はないもの許りと云つていゝ位のものである……自分は斯云ふ點からも職人主義を絶對に隠滅させ度い。何日か小宮君も斯云ふ意見を話された事があるが。職人主義を排した結果を一口に云へば、圖案界を今日の文藝界の樣にしたいと思う……漱石氏の小説は漱石氏の自己を語るもので、漱石氏の愛讀者があり……富本憲吉の圖案の好きなものは、富本憲吉の圖案に依つて出來たもので日常生活の一切のもの――茶碗、皿、或は椅子机、それから女や子供の着物の模樣に至るまで一切を富本模樣によつてそろへる事が出來……る樣に成ればいゝと思う……「職人主義の圖案家を排す」と云ふ事を逆に考へて見ると「藝術的圖案家の排出を望む」と云う事に成りそうである。
「藝術的圖案家の排出を望む」ことを高らかに宣言した、この『藝美』掲載の津田の一文が、まさしく祝砲となってとどろきわたるなか、同年の同月、東京竹川町にある美術店田中屋において「富本憲吉氏圖案事務所」が開設されます。『卓上』(第三号)に掲載された広告には、この事務所の営業品目として、「印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案」が挙げられていました。ここに、一九世紀英国に設立されたモリス商会、さらにそれを源泉として興ったアーツ・アンド・クラフツ、その一連の流れに範をとった、日本における「藝術的圖案家」によるデザイン事務所が誕生するのです。
近代日本のデザインの扉を開けたのが富本憲吉であるとするならば、近代文学の扉は、夏目漱石によって開かれたといっても過言ではありません。そして、概観してきましたように、扉を開けるに際して両者の背中を押す大きな力となっていたであろうと推察されるものが、詩人であり、デザイナーであり、社会主義者であるウィリアム・モリスの思想と実践だったのでした。
以上、一八九六年一〇月のモリスの死から一九一四年九月の富本の「富本憲吉氏圖案事務所」の開設に至るまでの、モリスの思想と実践にかかわる日本への影響につきまして概略述べてきました。一方、モリスの妻のジェインが亡くなったのが、一九一四年一月でした。それではこの間、未亡人となったジェイン、そしてふたりの娘のジェニーとメイは、どのような生活を送っていたのでしょうか。次の第二〇章「遺族たちのその後」におきまして、そのことに触れてみたいと思います。