一八七七年という年は、モリスの人生にとって大きな節目となる年でした。すでに、第一〇章「仕事の再構築と公的活動への参入」において詳述していますように、一八七七年の四月二四日にロシアがトルコに対して宣戦布告を行なうと、前年に発足していた東方問題協会は、英国を紛争に巻き込ませるかもしれない政府の行動に抗議し、次々と集会を開いてゆきます。そして五月一一日には、モリス自身、「イギリスの労働者たちへ」と題した宣言文を発表するのでした。
それに先立つ約二箇月前の三月五日、モリスは、『エシニーアム』の編集長に手紙を書き、破壊されようとしているチュークスバリーの教会堂の救済にかかわる団体設立の必要性を強く要望していました。それをきっかけに発足したのが古建築物保護協会で、この組織は、「アンチ・スクレイプ(こすり落とし反対)」という別名をもち、「修復」に名を借りた人為的な破壊行為から、過去の歴史的建造物を保護することを目的とした、ひとつの政治的圧力団体でした。
こうして、モリスはこの時期、公的活動への参入を新たに開始するのですが、しかしそれは、東方問題協会と古建築物保護協会を舞台にした政治的行動だけに止まるものではありませんでした。軌を一にしてモリスは、机の前に座って文字で書き表わす詩歌から離れて、聴衆の前に立って言葉で訴えかける講演という形式に身を置くことになるのです。これ以降、最晩年に至るまでの約二〇年間、芸術、建築、生活、労働、政治、そして社会主義を主題にしたモリスの講演や講話は、途切れることなく続いてゆきます。
前章の「家庭のなかの妻と子どもたち」におきまして、すでに少し触れていますが、一八七七年の一二月四日に、モリスは、オクスフォード・ストリートの外れのカーステル・ストリートにある共同ホールにおいて、学習職業組合に向けて講演を行なっています。演題は「装飾芸術」で、これが、モリスにとっての公的な場での最初の講演となるものでした。講演後、原稿はただちにエリス・アンド・ホワイト社によって冊子体として印刷されます。そしてそのとき、タイトルは「装飾芸術」から「小芸術」へと置き換えられました。この「小芸術」(原題は「装飾芸術」、ロンドン、一八七七年一二月四日)を含む、それに続く「民衆の芸術」(バーミンガム、一八七九年二月一九日)、「生活の美」(原題は「労働と喜び対労働と悲しみ」、バーミンガム、一八八〇年二月一九日)、「芸術と大地の美」(バーズラム、一八八一年一〇月一三日)、そして「生活の小芸術」(原題は「生活の幾つかの少数芸術」バーミンガム、一八八二年一月二三日)が、モリスによる初期の、つまりは政治的講演を開始する以前にあっての、主要講演となります。このなかでモリスは、本来あるべきものとして過去において存在していた芸術と生活と労働の真の形式を念頭に置きながら、同時代の醜悪なその現実の姿を描いて見せ、それを厳しく批判したのでした。ここでは、上に挙げました講演のなかから「小芸術」と「民衆の芸術」を取り上げ、その核心部分を断片的に拾い上げながら、以下にモリスの芸術論を構成してみたいと思います。
モリスの考えでは、本来的に、大芸術たる絵画や彫刻と、小芸術(いわゆる装飾芸術)たる家具やテクスタイル、さらに金属細工やガラス器などのすべての生活用品とは、ひとつの空間(たとえば教会の内部)のなかにあって上下の隔たりなく共存し、互いに助け合う関係として存在していました。ところが、ルネサンス以降、壁画や天井画は次第に自立化して額縁に収まり、小宇宙を形成するようになり、同じく彫刻も、壁龕やものの表面から離れて、独自の存在を主張する傾向にありました。一方で、取り残された装飾芸術は、その行く手を失っていました。モリスが生きたヴィクトリア時代は、そうした傾向が決定的なまでに拡大した時代でした。モリスは、そこに芸術の危機を感じ取り、強い不安を覚えるのでした。その認識が示されているのが、以下に引用する「小芸術」(一八七七年)のなかの一節です。
ふたつの芸術の関係が崩壊し、別々のものになったのは、いまだ比較的新しい時代になってからのことであり、大変厄介な生活状況下での出来事でした。思いますに、そうした分離が起こることによって、それに付随して、芸術にとっての病がもたらされました。つまり、小芸術は、取るに足りない、機械的な、知力に欠けたものになり、流行や不誠実さによって余儀なくされる変化に抗しきれなくなっているのです。一方の大芸術も、このしばらくのあいだは、偉大な精神と見事な手わざをもった人間によって製作されてきているとはいえ、小芸術の助けを受けず、両者は互いに助け合わなかったために、必然的に民間芸術としての権威を失うことになり、一部の有閑階級の人びとにとっての無意味な虚栄を満たす退屈な添え物、すなわち巧妙な玩具にすぎないものになっているのです。
この講演のなかでのモリスの関心は、一部のお金持ちの所有欲を満たす形式へと堕落した絵画や彫刻といった大芸術ではなく、分割された一方の小芸術の方にありました。このときモリスは、小芸術を、「すべての時代にあって人間が、日常生活上の見慣れた事柄を多少とも美しくしようと努力してきたことに依拠する一大芸術であり、つまりはそれは、広範な主題であり、大規模な産業である」とみなし、この芸術を論じることは、「世界の歴史の大部分を論じることになるだけではなく、同時に、世界史研究にとっての極めて有益な手段となりうる」という認識を示します。モリスの考えるところによれば、世界の歴史は装飾の歴史と同義でした。そして、小芸術を別の具体的な言葉に置き換えて、モリスはこういいます。「実際、この大規模産業は、住宅建設、塗装、建具と木工、鍛冶、製陶とガラス製造、織物のみならず、さらにそれ以外の多くの職種から構成された、大きなひとまとまりの芸術であり、一般大衆にとって極めて重要であるだけでなく、私たち手工芸家にとっては、さらになお重要なものになっています」。モリスにとって、こうした職種がなぜ重要なのかといえば、それらはすべて、人びとが日常的に体験する物質的で視覚的な世界を創り上げる要素となっているからです。ものには「効用と意味」がある、とモリスはいいます。そこには、生活用品として求められる機能と、意味の伝達装置としての装飾とが、深くかかわっているのです。モリスはいいます。「人間によって手でつくられたものは、どれもが形を有しており、それは、美しいか醜いかのどちからであるにちがいない。『自然』と調和していれば、それは美しく、『自然』を助けることになるが、調和していなければ、醜く、『自然』を壊すことになる」。
モリスはこの講演で、ものの表面を覆う装飾は、それを見る者に対してだけではなく、それをつくる者に対しても喜びを与える、と主張します。以下は、その主要部分です。
当然ながら 使用 ( ・・ ) なくしてはすまされないものにおいて人びとに喜びを与えるのが、装飾のひとつの大きな役割であり、他方、当然ながら 製作 ( ・・ ) なくしてはすまされないものにおいて人びとに喜びを与えるのが、装飾のもつもう片方の効用なのです。
いまや、私たちが抱える問題がいかにとても重要であるのかが、視野に入ってきたのではないでしょうか。これらの諸芸術がなければ、私たちの休息は、空虚でおもしろみのないものになりますし、一方、私たちの労働は、単なる忍耐であり、単なる心身の消耗にすぎないものになるにちがいないと、私はここでいっておきます。
モリスの考えるところによれば、世界の歴史は装飾の歴史と同義でした。広義には、「装飾芸術」は、分離する前にあっては、つまり中世の時代までにあっては、大芸術と小芸術のすべてを包摂するものとして存在していました。それはちょうど、助け合うべき一組の兄弟のようなものでした。しかし、いまや、兄弟の関係に亀裂が入り、大芸術と小芸術(狭義の装飾芸術)へと分かれ、朽ち果てようとしているのです。そこでモリスは、以下のように、変革の必要性を説くのです。
私は、「装飾芸術」について、つまりはすべての芸術について、平易な言葉で申し上げなければなりません。私たちに先立って過去に活躍したすべての人たちと比較して、いまの私たちが、こうした芸術の分野において劣っているわけではないということです。しかしながら、現在の芸術は、以前に比してむしろ、無秩序と混乱の状態のなかにあるといわざるを得ません。この状況は、全面的な変革を必要とし、確かな変革へと導きます。
それでは、新しい芸術の誕生にとって望まれるものとは、一体何なのでしょうか。モリスの見解によれば、以下のように、それは、「簡素さ」ということになります。
趣味の簡素さ、つまりそれは、甘美にして高尚なるものへの愛なのですが、それを生み出す生活の簡素さが、私たちが待ち望む、新しくてよりよい芸術の誕生にとって必要とされるすべての事柄なのです。簡素さは、田舎家だけではなく宮殿においても、至る所で必要とされます。
モリスのいう「簡素さ」とは、贅沢や過剰の対極にあるものです。そして、「新しくてよりよい芸術」の内実をこう語ります。
その芸術は、私たちの街路を森のように美しく、山肌のように気高くすることでしょう。……あらゆる民家は、汚れのないまともなものとなり、住む人の心を和らげ、その人の労働の助けとなるでありましょう。……すべての人間の労働は、自然と調和したものに、つまりは、道理にかなった美しいものになるでしょう。いつかはすべてが、子どもじみたものでも意気消沈させるものでもなく、簡素にして、気持ちを奮い立たせるものになることでしょう。
しかし、そうした芸術の到来は、現時点においてはあくまでもモリスにとっての夢であり、希望でしかないのです。モリスは、この「装飾芸術」を題した講演を、こう締めくくるのでした。
いずれにいたしましても、それは夢のようなものですが、その夢をみなさまの前に提示したことをお許しいただきたいと思います。といいますのも、それこそが、「装飾芸術」に関するすべての私の仕事の根底に存在するものであり、これからも私の思考から離れることは決してないであろうと思われるからです。そして私は、今夜この場で、この夢を、すなわち、この 希望 ( ・・ ) を実現するために、私に協力していただきますよう、みなさまに請い願いたいと思います。
次のモリスの講演は「民衆の芸術」と題されたもので、一八七九年二月にバーミンガムで行なわれました。この講演の主題になっているのは、芸術と労働と民衆との関連でした。このときまでに、すでに英国は諸国に先駆けて産業革命を達成し、その結果、これまでにみられた労働環境は大きく変容していました。また、多くの植民地からは異国風の物資が宗主国に流入し、一方、手工芸に取って代わって機械製品が登場し、それまでの牧歌的な生活は、よくも悪くも、新たに台頭した経済的価値のなかに巻き込まれようとしていたのです。モリスが取り上げる講演の主題の背後には、そうしたヴィクトリア時代特有の功利的で資本主義的で競争的な生産構造と視覚・物質文化へ向けた急速な変化が存在していました。第一講演である「装飾芸術」においてモリスは、ひとつの芸術の集合体が崩れ、大芸術と小芸術の異なる二種類の芸術に分裂したことに芸術に対する不安を感じ取り、いかなる変革のうちに希望を抱き得るのかを論じていましたが、第二講演の「民衆の芸術」においては、労働と芸術を表裏一体のものと考えるモリスは、労働の劣化に芸術の衰退を見出し、その担い手である民衆に、失われようとしている労働と芸術に再び目を向けるように促すのです。この講演の冒頭でモリスは、こう問題の提起を行ないます。
「芸術」は、熟考の対象として存在し、いかなる場合も、人間の思考を占拠する重大問題から切り離されるようなことはありません。……文明の誕生とともに生まれ、その死とともに消滅するしかない芸術の未来に、どのような希望と不安があるのでしょうか――闘争と疑念と変革の現代は、この問題に関して、よりよき時代のために一体何を準備しようとしているのでしょうか。……これが、私がいおうとする、ひとつの実際上の重大問題なのです。
問題提起のあと、まずモリスは、多くの人びとが、熟考の対象として芸術をみなしていないことを、次のような表現を使って指摘します。
私たちは、どうしてもこう思いがちになります。精神と習慣が卑しく粗野で、芸術といった問題には機会も好みももたない人びと(哀れな人たち!)が多数存在する一方で、それ以外にも、高尚な心をもち、思考力があり、教養も備えた人で、芸術とは文明の下等な偶発物でしかないと、心のなかで考えている人もたくさんいるのです。 ……現代思想の指導者たちは……ひたすら芸術を憎み、軽蔑しています。みなさまは、指導者がそうであるように、民衆もまた、そうであるにちがいないと、お考えのことでしょう。そのことは、広範な教育によって「芸術」を促進しようとしてここに集う私たちは、自分自身を欺いているか、さもなければ、時間を浪費しているかのどちらかであることを意味します。といいますのも、いつの日か私たちも、あの偉い人たちに交じって同じ考えをもつことになるかもしれないからです。あるいは、そうでなければ、しばしば少数者が正しい場合がありますが、私たちは、そうした少数者を代表していることになるのです。
モリスの観察するところによれば、もはや芸術に思いを巡らす人は、「正しい」少数者ということになります。そして、その観点に立って、「芸術のための芸術」を主張する人たちを、こう批判するのです。
このような芸術の一派の将来性に多言を費やすのは、残念で仕方がありません。この一派は、ある意味で、少なくとも論理的には今日存在していますし、その合い言葉として「芸術のための芸術」という一種の俗言を使用します。これは、一見無害のように見えますが、意味するところはそうではないのです。
モリスは、「芸術のための芸術」を否定します。芸術は、それ自体の自己目的のために存在したのではなく、民衆によって製作され使用された、まさしく「民衆のための芸術」として存在していたという、芸術の歴史的原点を、モリスは見据えているのです。その意味の上に立って、モリスは、「民衆のための芸術」を収集しているサウス・ケンジントン博物館を称賛します。
疑いもなく、みなさまの多くは、……たとえば、サウス・ケンジントンにあるあのすばらしい博物館の回廊を歩き、人間の頭脳から生み出された美を見て、私と同じように、驚きと感謝の気持ちで満たされたことでしょう。そこで、どうかみなさまには、こうしたすばらしい作品が何であり、そして、どのようにしてそれらがつくられたのかを考えていただきたいと思います。
それでは、どのようにして、この博物館に所蔵されている作品は、製作されたのでしょうか。モリスの答えは、こうです。
ひとりの偉大な芸術家が――高い報酬を受け取り、飽食をむさぼり、行き届いた邸宅をあてがわれ、要するに仕事をしないときには、生綿の服を身にまとっている、そのような教養のある人間が――それらの作品のデザインを描いたのでしょうか。決してそうではありません。これらの作品はすばらしいのですが、それらは、日々の労働の普通の過程のなかで、言葉のとおり「普通の人びと」によって製作されたのでした。
それでは、「普通の人びと」とは、具体的にはどのような人たちなのでしょうか。モリスの念頭にあるのは、このような人でした。
ときとして、おそらくそれは、修道僧であり農夫の仲間であり、そして、しばしばそれは、農夫以外の仲間であり、村の大工であったり鍛冶屋であったり石工などであったり――つまりは「普通の人」だったのです。
さらにモリスの視点は、彼らの労働の内実へと移ります。果たして、こうした「普通の人びと」にとっての労働は、単なる苦役なものだったのでしょうか。これに対してモリスは、「いや、そんなことはありません」といって、こう説明します。
さて、みなさまもご存知のように、その当時にあって、生活を耐えられるものにすべく多くのことがなされていました。……毎日、ハンマーが金床の上で音を立て、のみが樫の梁の周りを動き回り、そこから、なにがしかの美と創案が生まれ、その結果として、なにがしかの人間の幸福が生み出されたのです。
ここへ至って、モリスの見解は、明確になります。つまり、真の芸術とは、一言でいえば、「労働に喜びを感じる人間による表現」、あるいは「労働における人間の幸福の表現」ということになります。そしてモリスは、この「民衆の芸術」と題された講演を、次の言葉で結ぶのでした。
将来、すなわち、もはや強欲的でも闘争的でも破壊的でもない、文明化された状態になったとき、世界は、製作者と使用者にとってのひとつの至福としての、人びとによって人びとのためにつくられた、新しい芸術、輝かしい芸術をもつことになるでしょう。
以上、「小芸術」と「民衆の芸術」から引用しながら、モリスの芸術論を構成してきました。そこには、かつての芸術が破壊され、変容した現代の姿への不安と、それをいまいちど人間の手に取り戻すことへの希望とが、織り交ぜながら語られていました。『芸術への希望と不安』を書題にもつ講演録が出版されたのは、最初の講演から五年後の一八八二年のことでした。このなかには、「小芸術」(原題は「装飾芸術」、ロンドン、一八七七年一二月四日)、「民衆の芸術」(バーミンガム、一八七九年二月一九日)、「生活の美」(原題は「労働と喜び対労働と悲しみ」、バーミンガム、一八八〇年二月一九日)に加えて、「最善を尽くす」(バーミンガム、一八七九年)と「建築の可能性」(ロンドン、一八八一年三月一〇日)の計五編が収録されていました。
この『芸術への希望と不安』が出版される一八八二年ころまでには、芸術に向けられた不安を解消し、いかにして希望を手にするのか、モリスは、その政治的戦略について思いを巡らせていたものと思われます。翌年の一八八三年にモリスは民主連盟(翌一八八四年に社会民主連盟に改称)に加入し、本格的に社会主義運動へ参画してゆくのです。しかし、そこへ至る少し前に、モリスは、自身の本業にかかわって大きな仕事に取りかかっていました。それは、モリス商会のマートン・アビーへの移転という一大事業でした。
すべて述べていますように、精神異常が極度に進行したことを受けて、ジェイニーは、一八七六年の春、ゲイブリエルとの愛情関係に終止符を打ち、夫のもとへ帰りました。しかし、手紙のやり取りはその後も続いていました。一八八〇年一二月にゲイブリエルに宛てた、以下のジェイニーの手紙が残されています。
この旅行に私は、とても興奮しています。私は一月四日に出立します。私たちは、リヴィエラのボーディジーエラへ行くのです。ここは、オネリアよりも人目につかない場所です。オネリアで過ごした昔を思い出しています。
ジェイニーは、長女のジェニーにはじめててんかんの発作が襲った翌年(一八七七年)の冬から約半年間、ジョージ・ハウアドとロウザリンド・ハウアド夫妻の招待により、ジェニーとメイを伴って、サン・レモに近いオネリアに滞在したことがありました。今度の旅も、ハウアド夫妻の呼びかけによるものでした。しかし、ふたりの娘たちはロンドンに残り、父親と一緒にハマスミスの〈ケルムスコット・ハウス〉で暮らしていました。その間モリスは、手狭になったクウィーン・スクウェアの仕事場に代わる新しい工場を見つけるのに奔走していたのでした。
この間の事情について、ジョン・マッケイルは、『ウィリアム・モリスの生涯』のなかで、次のように説明しています。
織物、染色、そして木綿の捺染が、商会の新たな三つの主要業務となっていたが、どの製造においても、広い工房を必要としていた。染色と、それに付随する漂白の工程には、空気と水が必要であったが、単なる実験的作業以上のものを行なおうとすると、ロンドン以外に求めるほかなかった。
当時、クウィーン・スクウェアの仕事場以外にも、〈ケルムスコット・ハウス〉の自宅の一角に織物の工房が設けられており、そこでモリスは、分散した製造の現場を一箇所に集め、すべての工程を自分の管理下に置きたいと思ったことも、新しい仕事場を探す要因となっていました。
かつてモリスは、「クロム・プライスの塔」に滞在したおり、プライスと一緒にコッツウォウルズ地方のチピング・キャㇺデンの近くにあるブロックリーという村を訪問したことがありました。ここは、以前は羊毛の集積地として活況を呈していましたが、いまや鉄道網の外に置かれ、文明から孤立した地帯となっていました。モリスの関心は、この地に向けられましたが、交通の便が悪く、商品の流通市場であるロンドンからあまりにも離れていたために断念せざるを得ない経緯がありました。そこで、比較的ロンドンに近く、しかも、近代文明の悪影響をいまだ受けていない素朴で閑寂な地が求められました。残されたモリス書簡で、そのことに最初に言及する手紙が、ボーディジーエラに滞在するジェイニー宛てて出された一八八一年二月二三日付の書簡です。そのなかに、次のような一節を読むことができます。エドガーという人物は、モリスの弟で、当時モリスの仕事を手伝っていたようです。
私たちは、そう遠くないうちに、自分たち自らチンツになじまなければならないことになるでしょう。いま実際にそのための物件を探し回っているところです。エドガーが月曜日にクレイファッドに捺染工場を見に行きました。
これ以降もジェイニーに宛てた手紙が続きます。三月一〇日の手紙のなかで、モリスは、クレイファッドの物件について、こう書いています。この地は、かつて住んだ〈レッド・ハウス〉のあるアプトンからそう遠く離れていませんでした。
ダ・モーガンと一緒に月曜日にクレイファッドに行ってきました。周り一帯は、私たちが住んでいたころから以降、かなり無残な姿にされてしまったようです。クレイファッド自体は、おおかたの土地と比べればそうではなく、その建物は大きく丈夫で、とても安いのですが、そうはいっても、ここは無理でしょう。
ちょうどこのころ、ヘンリー・ジェイムズが、ボーディジーエラのハウアド夫妻を訪ねてきました。ジェイムズは、およそ一二年前に、クウィーン・スクウェアに住むモリス家を訪問したことがあり、ジェインとは顔見知りの間柄でした。ファニー・ケンブルに宛てて出された三月二四日の手紙のなかで、ジェイムズは、そのときのジェインの様子を、このように描写しています。
私は、ウィリアム・モリス夫人と恋に落ちることはありませんでした。彼女は、一風変わったところがあり、顔色も決してよくなく青ざめており、体もげっそりとやせ細り、物静かです。いまでも、ある意味で優美で、絵画的なところがあります。詩人にして壁紙製作者を夫にもつこの妻は、いまハウアド夫妻と一緒にこの冬を過ごしているのです。もっとも彼女にも、疑いもなく多くの美質があるのです。
ジェインのそうした様相は、ジェニーの病状と日々向き合っていたことに起因する心労や不安の表われだったのかもしれません。一方、そのころロンドンでは、物件探しが、クレイファッドからマートン・アビーへと移っていました。次は、三月一七日のジェイニーに宛てた手紙の一節です。「ダ・モーガンと私は、サリー州のマートンへ物件を見に行きました」。そして、ダ・モーガン宛ての、おそらく四月一六日の手紙のなかで、モリスは、こう書きました。
明日いらしていただくことを希望します。 虚構の ( フィクショナリー ) [工場]が、[本当の] 工場 ( ファクトリー ) になりそうに思われます。
モリスとダ・モーガンは、ふたりして探していた物件のことを「虚構の工場」とも「 架空の ( イマジナリー ) 工場」とも呼んでいました。それが、ついに「現実の工場」となったのです。こうして、マートン・アビーの物件が、新しい工場に決定されました。モリスは六月七日の日記に、「マートン・アビーの賃貸契約に署名する」と書き記しました。
この物件は、使われなくなった捺染のための仕事場で、ロンドンからエプサムへ延びる大通りに面しており、チェリング・クロスからちょうど七マイルの距離にありました。引っ越しは、その年の冬のはじめに行なわれ、クリスマスまでには、クウィーン・スクウェアの仕事場からすべての荷物が運び出されました。マッケイルは、美しい自然がいまだに残る牧歌的なマートンの地を、このように描写しています。
……塵にまみれた大通りから離れ、マネージャーの小さな家を通り過ぎると、その一瞬、後ろに現世を置き去りにしてきたかのような気にさせられる。そこには古式の庭が広がり、春はアイリスとラッパズイセンで、秋はスイカズラとヒマワリで華やぎ、夏は夏で香しい花を咲かせる灌木類で満たされ、こうして、ロンドンの郊外がつかのまの六月の楽園へと姿を変える。この庭は水車用の池へと続き、池は、背の高いポプラの木で囲まれている。キンポウゲが咲き誇る草の上では木綿が晒されている。勢いよく流れる清らかな小川を挟むように、両側には低層の長い建物が立っていて、これらの建物には、上階に上がる木製の階段が外部に取り付けられており、近代的な工場を感じさせるものは、何もない。地中に埋められた大きな染め桶の上にまで、木々の葉のあいだを通り抜けた太陽の光がゆらめき、カーペット用の織機が備え付けられた、細長の歓喜に満ちた部屋の窓からは、飛び跳ねるマスの姿が見える。
マートンの仕事場が動き出すと、そこでデザインされ製作されるすべての品目を記載した商品カタログがつくられました。その品目は、以下のとおりです。
一.彩色ガラス窓。 二.高式縦糸織機によるつづれ織りのタピストリー。 三.カーペット。 四.刺繍。 五.タイル。 六.家具。 七.室内装飾全般。 八.捺染木綿製品。 九.壁紙。 一〇.模様織物製品。 一一.家具用の織物と生地。 一二.室内装飾用の布地。
新しいマートンの工場にあって、こうした品目のデザインが、モリスによってどれくらい生み出されたのでしょうか。マッケイルは、そのことについて、次のように指摘しています。
七〇点から八〇点にのぼる壁紙のデザインと四〇点近いチンツのデザインは、モリスによって生み出され、彼の事業経営の人生のなかにあって、その人自身の眼識のもとに実行された。これらの点数には、同じパタンに異なった色彩が適応される、そうした別形のデザインは計算に入れられていない。もし、別々なものとして計算されるならば、彼自身の手から生み出されたデザインの総数は四〇〇点に達する。それらの作品すべてにおいて、描かれた絵と選択された色は、彼自身による独自の仕事といってよい。版木の裁断は、職工によって行われたが、しかし、裁断師によって描かれた線は、いつもモリスに判断が仰がれ、木の表面から消え去る前に、手が加えられた。後年に至るまでモリスは、染め桶だけでなく、同じく、壁紙製作者が使う絵の具の入った容器にも、絶えず神経を用いていた。そうすることによって、ある程度モリスは、デザイナーとしての莫大な量の仕事を可能にしていたのかもしれない。実際に生み出されたものとして、壁紙、チンツ、織物製品、絹のダマスク織、型押しの生地、カーペット、そしてタピストリー(これには、手製のカーペットとつづれ織りのタピストリーは含まれておらず、それらはいずれも、特別にデザインされたもので、原則として複製されることはなかった)があり、それらのデザインの総計は、ほぼ六〇〇点に近い。それ以外にも、数えきれない、刺繍のデザインがある。
驚くべき量のデザインが、モリスの手を介して生み出されていたことがわかります。それでは、生産の現場は、どのようなものだったのでしょうか。それについては、以下のメイの記憶が残されています。家族でマートンの工場を訪問したときの様子です。
家族全員による遠出であった。ふだん私たちは、何か新しい彩色ガラス窓が用意できたときとか、カーペットが織り上がったときとか、新作の製作がつづれ織りの部屋で順調に進んでいるときを選んで訪問の手はずを整えた。そうした作品を見終わると、次に染料の入った低温の大桶と高温の大桶の所に行き、一束の羊毛をくぐらせ、空気中で急速に色が変わってゆくのを見て楽しんだ。そして、がたがたの細長い捺染用の小屋があり、そこでは、版木をチンツの上に押し付け、少しずつ優しく正確に木づちでたたくところを見学した。
一八八〇年に、メイは、サウス・ケンジントンにある国立美術訓練学校に入学します。ここで、学んでいたのは描画と刺繍でした。そうしたメイにとって、マートン・アビーへの訪問は、生きた実地研修になったものと思われます。それでは、なぜメイは、刺繍家を目指したのでしょうか。ジェインとメイの母娘の伝記作家であるジャン・マーシュは、こう推論します。
刺繍の専門家になるというメイの決心は、彼女の家庭環境や才能を考えれば当然のことと思えるかもしれないが、何がそうさせたのかを問うのは妥当な問いであろう。ある意味でそれは、両親への無意識の忠誠を暗に示している。つまり彼女の刺繍家になる決心は、母親の技巧と父親のデザイン能力とをひとつに結び付け、そうやって両親の仕事を継承してゆくためのひとつの手段だったのである。
そして、さらにマーシュは、次のような言葉も、忘れることなく、付け加えています。
ここではメイと父親の関係が重要である。彼女は幼児期に両親のあいだにある感情的な不和に半ば気づき、父親の振る舞いは表に出さないぶっきらぼうなものではあったが、それでも父親にとって自分と姉がいかに重要であるかを知っていたのかもしれない。父親は、娘たちが一〇代になってまでも彼女たちを「赤ん坊たち」と呼んでいた。それからメイが自らの芸術的才能に目覚め、その才能を切り開きつつあったころは、モリスはジェニーのてんかんに心を痛め、自らを責めている。父親の志を継ぎ、家業に就くことを選んだことで、おそらくメイは、自分が愛と信頼を寄せていることを再び父親に確信させたいという願いを伝えようとしたのであろう。
メイが国立美術訓練学校をいつ卒業したのかは、特定できませんが、一八八三年ころには、父親が経営するモリス商会に入社したものと思われます。そして、一八八五年に、その会社の刺繍部門の責任者に任命されるのでした。
モリス・マーシャル・フォークナー商会が設立されたのが一八六一年で、モリスの単独経営によるモリス商会に再編されたのが一八七五年でした。したがいまして、最初の会社設立からマートン・アビーへの移転まで、ちょうど二〇年が経過していました。モリスが亡くなるのが一八九六年ですので、さらにこれから一五年のあいだ、モリス商会を舞台にしたデザイナーとしてのモリスの活躍は続くことになります。著作集7『日本のウィリアム・モリス』の第三部「画像のなかのウィリアム・モリス」におきまして、モリスと彼の仲間たちの主要作品につきまして、テーマごとに分類してその画像を編集しています。ご参照ください。
マートン・アビーへの引っ越しが進行していた一八八一年一〇月一三日に、モリスは、バーズラムのタウン・ホールにおいて「芸術と大地の美」と題した講演を行ないました。その講演のなかでモリスは、いかに絵画が、民衆の共感からほど遠い存在になっているのかを指摘します。その一節の一部を以下に引用します。
[労働が分割された結果生まれた]そのような労働は、別の何かを生み出すことはできても、芸術を生み出すことはできません。現行の仕組みが続く限りにあっては、芸術は、ひとりの人間が最初から最後まで携わる仕事としての作品に限定せざるを得ないのです。たとえば、絵画や独立した彫刻作品やそれに類したものです。その一方で、こうした芸術についていえば、この種の芸術は、民間芸術の喪失によって生まれた裂け目を埋めることもできませんし、さらにそのなかのとりわけ創作性に富んだ芸術でさえも、それらが受け取るにふさわしい共感を感得することができないのです。はっきり申し上げれば、高等の教育を受けていない人には、絵画のごとき高級な作品を理解するのは困難であるといわざるを得ません。それどころか私は、ほとんどの人びとが、実際のところいかなる絵画からもほとんど感銘を受けることはないと思っているのです。……私は、こうしたごく普通の人びとからの全般的な共感というものが失われてしまったことが、不幸にも芸術家に非常に重くのしかかり、その人の作品を、熱狂的で夢想的なものであるか、あるいは、難解で常軌を逸したものであるか、そのいずれかに仕立て上げていると感じているのです。
モリスの用語法と概念に従えば、かつて存在していた民間芸術(つまり装飾芸術)は、ある時代から大芸術(絵画や彫刻)と小芸術(狭義の装飾芸術)とに分離し、いまや両者はそれぞれの助けを受けることなく別個のものとして存在するようになり、大芸術は普通の人びとである民衆の共感を受けることなく、一部の裕福で教養のある人のあいだでもてあそばれる玩具と化していました。そのため、その視点に立つモリスにとっては、当時の絵画は、「熱狂的で夢想的なものであるか、あるいは、難解で常軌を逸したものであるか、そのいずれか」に見えていたのでした。ジョン・マッケイルもまた、その講演のなかのこの一節を指摘して、「ラファエル前派の絵画作品を見るときのモリスの、称賛と堪え難き失望との入り混じった気持ちを、実に明快かつ同情的に表明している」と、述べています。
一方、小芸術の置かれている状況は、どうだったでしょうか。それは、機械との関係でとらえられなければなりませんでした。この講演のなかでモリスは、そのことについて、このように述べています。
そのとき、何が姿を現わすのでしょうか。そのとき来るのは機械です。……私は、機械の能力を無限に信頼しています。私は、機械はあらゆることをなすことができると信じています――しかし、芸術作品をつくることはできないのです。
それでは、モリスが望む芸術とは、どのようなものなのでしょうか。モリスは、こう主張します。
適切な労働と適切な休息。人びとにこの二点を提供することがでる唯一のものがあります。つまり、それが芸術なのです。
果たしてそうした芸術は、どのようにすれば手にすることができるのでしょうか。
さて、解決策として全面的な反抗を提案すること以上に、想像力を羽ばたかせることはできないと、いわざるを得ません。そうした反抗が成功すれば、その暁には、人類の必要な慰めとして、芸術のある種の形式が再び創出されるよう迫られるにちがいありません。……いや、反抗はきっとやって来ます。そして、勝利します。そのことを疑ってはならないのです。
以上が、一八八一年一〇月一三日にバーズラムのタウン・ホールにおいてモリスが行なった講演「芸術と大地の美」の骨子です。商会のマートンへの移転と全く時期を同じくして、モリスの芸術論は、時代への「反抗」という社会主義的な運動と、緊密に結び付こうとしていたのでした。
この講演からしばらくすると、マートン・アビーへの引っ越しが完了します。そして、一八八二年の年が明けると、さっそくモリスは、上の娘のジェニーを連れて、バーン=ジョウンズ夫妻が前年にロティングディーンに購入した家へ行き、そこに滞在しました。この家は、サセックスの海岸近くにあり、ジェニーが体を休めるには、とてもいい場所だったにちがいありません。バーン=ジョウンズ夫妻は不在でした。モリスは、滞在中の一月一〇日に、こうジョージーに手紙を書きました。「着きました。ブライトンへの探索からいま帰って来たところです。……家はとても心地よく……バーミンガムでの講演のことで精を出して仕事をしています」。
ロンドンにもどると、おそらく一月一九日に書かれたのではないかと思われますが、再びジョージーに宛てて、モリスは手紙を出します。
メイは今朝無事に落手しました。親切に送っていただき、ありがとう。ジェニーの方は、この週ずっととても健康で気分もよく、私も喜んでいます。疑いもなく、そちらでの滞在が彼女を元気にさせたものと思っています。火曜日が彼女の誕生日でした。私の愛するジェニーが二一歳になりました。
この手紙から、父親の娘たちに対する深い愛情が伝わってきます。まさしくモリスは、「第二の母親」を、あるいは「シングル・ファーザー」を演じているのです。しかしその一方で、この数年来モリスは、芸術の置かれている現状に強い不安を覚え、このときも深い苦悩のなかに沈み込んでいたのでした。その手紙は、このように続きます。
私は、なすべき仕事を、十分に、いやむしろおそらくそれ以上に、もっています……それにもかかわらず、ときどき自分には、私の運命が奇怪なもののように思えることがあります。ご存知のように、私は、かなり懸命に、そして、概してとても楽しく、働いています。単なる飯の種を得たいがために働いているわけでは決してなく、ましてや賞賛を得んがために働くなど、さらさらそのようなこともありません。働いているあいだ、いつも私は、心に大義を抱いているのです。それでも承知していることは、何にもましてその大義のために自分は働いているのですが、その大義が、少なくとも見た限りでは、成就しない運命にあるということです。つまり、私がいおうとしているのは、どこかで、何らかの方法で、再生するかもしれませんが、芸術は死滅するにちがいないということなのです。
モリスのいう「大義」とは、いうまでもなく、瀕死の状態にある装飾芸術、つまりは日常生活を構成する小芸術を救い出し、再生することにほかなりません。この手紙を書いたとき、モリスは、「生活の小芸術」と「パタン・デザイニングの歴史」に関する講演原稿を用意しようとしていました。前者の講演は一月にバーミンガムにおいて、後者の講演は二月にロンドンにおいて、ともに古建築物保護協会の主催によって開催されました。モリスの「大義」は、そのなかにも投影されることになります。さらに、この年の二月、モリスは、自己の芸術論のひとつの区切りとして、「小芸術」「民衆の芸術」「生活の美」「最善を尽くす」、そして「建築の可能性」の五つの講演録が所収された『芸術への希望と不安――一八七八―八一年にバーミンガム、ロンドン、およびノッティンガムにおいて行なわれた五つの講演』を、ロンドンの出版社エリス・アンド・ホワイト社から上梓するのです。その書題に使われた「不安」と「希望」の二文字こそが、まさしく、このときのモリスの心情を適切にも代弁するものでした。
一方、ジェイニーは、この間どう過ごしていたのでしょうか。すでに述べていますように、モリス商会が引っ越し先を探していた一年前、ジェイニーは、ハウアド夫妻の招待を受けて、リヴィエラのボーディジーエラに滞在していました。そしてそのとき、ジェイニーはゲイブリエルとの文通を楽しんでいます。以下は、一八八一年二月二日に書かれたゲイブリエルに宛てて出されたジェイニーの手紙の一部です。
やっと落ち着きました。イタリアに滞在中、私はハウアドさんの家にいると思います。……あなたは、ジェニーとメイについてお尋ねですが、どちらも一緒ではありません。招待を受けたのは、私だけです。ふたりはそちらに留まって、父親のために家事をしています。ふたりとも、いまころ上手な主婦になっているでしょう。私は、ふたりにとって、ときどき責任ある立場になることは、いいことではないかと思っています。
同じ日付の手紙のなかで、ジェイニーは当地の様子については、こう表現していました。
極めて美しく、至る所にオリーヴやレモンやオレンジがあり、海は青く、夕焼けもこんなに美しい。
残されている資料によると、おそらく帰国後も、手紙のやり取りは続けられ、モデルをするためにゲイブリエルのチェイニ・ウォークの自宅を訪問する機会もあったようです。しかし、それも、ゲイブリエルの深刻な病状から判断すると、決して頻繁なものではなかったにちがいありません。そしてついに、一八八二年の四月九日にロセッティは帰らぬ人となったのでした。五四年という短い生涯でした。ジェイニーはゲイブリエルの葬式に参列しなかったようですが、彼女は、形見の品として、モデルを務めるにあたってかつて身につけた装飾品を受け取りました。ジェイニーがゲイブリエルを知ったのは、一八五七年の秋のオクスフォードでのことでした。すでに二十数年の歳月が流れていました。形見の装身具類を手にしながら、そして、描かれた作品を前にして、その間につくり上げたふたりの真実の愛情物語を思い出すにつれ、深い感傷のなかにジェインがいたことは間違いないと思われます。
娘のメイは、ゲイブリエルの死をどう受け止めたでしょうか。まだメイが幼かったころ、ゲイブリエルが、メイを養女にしたいという申し出をジェイニーにしたことがありました。しかし、そのとき母親は娘に告げず、その話を娘にしたのは、それからのちのことでした。メイの回想するところによると、それを聞いたときの自分の反応は、次のようなものだったといいます。
母の胸に飛び込んで、「お母さん、私をどこにもやらないで!」とか、そんな意味の言葉を叫ぶどころか、私は天使のような目で母を見て、「そうだったのお母さん。どうしてそうしてくれなかったの。お母さんにはジェニーがいるじゃない」と問い返した。
このように反応したメイの心理を分析するのは、とても難しいのですが、父親とは別の男性を愛する母親の存在が、なにがしか影を落としていたのではないかと推量されます。つまり、父親に関心を示さない母親からさっさと自分は逃れたいという願望が、心の奥に巣くっていたのかもしれません。
それでは、メイにとっての父親たるモリスは、どのような思いでいたのでしょうか。四月二七日のベル・スコットに宛てた手紙のなかで、モリスは、ゲイブリエルの死について、次のように言及しています。
ゲイブリエルの死について、友人のみんなが、あるいは、ほぼみんなが感じているにちがいないこと以外に、私にいえることが何かあるでしょうか。彼の死は、世界にひとつの穴を開いています。もっとも私は、最近彼にほとんど会っていませんでしたし、二度と会うようなこともおそらくなかったでしょう。私がまだ若かった時分、彼は私にとても親切でした。彼は、天才に備わるまさしく偉大なる資質の幾つかを、いや実際に、そのほとんどをもっていました。
アカデミズムの絵画に反抗し一八四八年にラファエル前派が結成されたとき、その中心となった人物が、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァリット・ミレイ(一八九六年に死去)、そして、ウィリアム・ホウルマン・ハント(一九一〇年に死去)の三人の若い画家たちでした。一八七七年の「装飾芸術」と題した最初の講演ですでに大芸術と小芸術の分離を嘆き、そしていまやマートン・アビーへの移転により、さらに小芸術の分野で事業を拡大しようとしていたモリスは、ロセッティの死に遭遇したこの時期、大芸術たる絵画芸術を、あるいは、大芸術の領域に立つラファエル前派の存在を、どう感じ取っていたのでしょうか。それを知るためには、すでに言及しています、前年の「芸術と大地の美」と題した講演の一節に立ち返る必要があります。おそらくこのときモリスの目には、ラファエル前派の絵画は「熱狂的で夢想的なものであるか、あるいは、難解で常軌を逸したもの」として映っていたにちがいありません。
こうして、ゲイブリエルが亡くなったことにより、モリスは、これまで向き合ってきたラファエル前派の絵画にひとつの区切りつけたものと思われます。そして、同じくこのとき、モリスの心情が、大きく前へ進むのです。それは、ゲイブリエルが全く関心を示すことのなかった政治にかかわるものでした。
マルクスの『資本論』の英訳書は、まだ出版されておらず、モリスが手にしたのは、フランス語版でした。マッケイルの伝記によりますと、日付が「[一八八三年]二月二二日」となっていますが、近年の伝記作家のフィオナ・マッカーシーの書くところによると、一八八二年四月二二日の日付のクロム・プライスの日記にみられる内容を、こう紹介しています。「ネッド」はバーン=ジョウンズの、そして「トップ」はモリスの、学生時代以来の仲間内で使われていた愛称です。彼らは、日曜日にはネッドの家に集まり、一緒に朝ご飯を楽しんでいたようです。
ネッドの所へ朝食をとるためにやって来たトップは――ジェニーのことで幾分生気を失くしていたが、気を取り戻すと、特別の輝きを見せ……すでにフランス語で読みはじめていたカール・マルクスで頭がいっぱいになっていた――大いにロバート・オウエンをほめたたえた。
しかし、この時期のモリスは、マルクスを十分に読みこなすことはできなかったようです。マッカーシーは、以下のように指摘しています。
彼にとって、カール・マルクスを知るのは、容易ではなかった。のちに彼は、歴史が記述された箇所は十分に楽しめたが、純粋に経済学にかかわる章になると、「頭の混乱による苦痛」を覚えた、と告白している。彼の格闘を目にしていたメイは、鋭く、このように論評した。人民と国土に対して父親のような情緒的な態度を示す人であれば、誰しもが、厳格で専門的な論述と経済学の慣用的な言い回しでもって成り立つマルクスの「科学的社会主義」の難解さを「持続する情熱」でもって探求することは、困難であった。
数年後の一八八六年九月に、フリードリヒ・エンゲルスは、ある人に宛てた手紙のなかで、モリスのことを「根強いセンチメンタルな社会主義者」と書き記していますが、メイが上で指摘しているようなことを、エンゲルスもまた、そのとき感じ取っていたのかもしれません。
この年(一八八二年)の秋と冬、モリスは、マッケイルの表現を借りるならば「孤独と自己没入」のなかにありました。それには、おおよそふたつの理由がありました。ひとつは、ジェニーの健康への気遣いに由来していました。残されている書簡類を見ますと、この時期モリスは、頻繁にジェニーに手紙を書いています。その何通かから、彼女には、身の回りの世話をする介護者が付き添っていたことがわかります。ジェニーの手紙が残されていないのが残念ですが、この時期、障害をもつ娘とその父親とのあいだには、信頼に基づく確たる愛ときずなが存在していたものと推量されます。
もうひとつは、モリスが社会主義者になることにかかわって、旧い友人たちが示した憂慮や心配に起因していました。マッカーシーは、これについて、このように記述しています。
ネッドは、ふたつの公式な理由をもって、モリスの社会主義に反対した。最初の理由は、それはモリスの人柄にあわず、「とりわけ詩人で美術家である」人間においては、常軌を逸した行動であるというものであった。これは、公的な抗議はエネルギーの浪費であり、個人としての美術家には、そのような余裕はないはずであるとする、スウィンバーの論点でもあった。ネッドのもうひとつの怒りは、社会主義者たちによってモリスは不当に利用されるというものであった。
この冬から翌年の春にかけて、モリスを除くモリス家の人びとは、ライム・リージスで過ごします。モリスは家族に会うためにそこを訪れ、ロンドンに帰ったあと、ジェニーに宛てて手紙を書きました。おそらく書かれたのは、一八八三年の一月一七日だったにちがいありません。
無事に帰宅したという私からの知らせの手紙を、みんなとともに待ち受けていると思いますので、私はこうして愛するあなたに書いています。今日はあなたの誕生日です。もう一度、あなたのすべての幸せを祈りたいと思います。
創設者のハインドマンからの誘いを受けて、発足して二年目の、イギリスにおける最初のマルクス主義の政治団体である民主連盟にモリスが加わったのは、この手紙が書かれたその日のことでした。奇しくもこの日は、愛してやまないジェニーの二二歳を祝う誕生日でした。このことをセンチメンタルに読み解くならば、社会主義者モリスが誕生した背景には、講演をとおして大衆に語りかけてきていた、デザイナーという立場からの「芸術への希望と不安」が明らかに存在する一方で、口に出すことがほとんどなかった、父親という立場からの「ジェニーへの希望と不安」が、密かに隠れていたようにも感じられます。