中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第六章 商会での「純粋美術労働者たち」の活動

一.〈レッド・ハウス〉からの通勤とその終焉

一八六一年四月一九日に、「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」は、発足しました。それ以降モリスは、ケント州のアプトンにある自宅の〈レッド・ハウス〉から、ロンドンのレッド・ライオン・スクウェア八番地の仕事場へと毎日通勤することになりました。

それではここで、この時期に至るまでの英国における美術とデザインにかかわる主な公教育の歴史について通覧しておきたいと思います。おそらくこの商会を創業するにあたって、モリスもまた、十分に心に留めていた事柄であったものと思われます。

一八世紀の半ばからはじまる英国の産業革命は、一八三〇年代に一応の完結をみます。そして、モリスが生まれるのが一八三四年です。この時期、英国政府は、海外市場での産業製品の競争力の低下に苦しんでいました。とりわけテクスタイル産業にとって、フランスのデザインの優位性は、そのまま放置することができないまでの脅威となっていました。そうした貿易上の劣勢という背景のなかにあって、一八三五年に「芸術と製造」に関する特別委員会が下院に設置されます。二回にわたる聴聞会ののちに作成された報告書に盛り込まれた施策は、イギリスの主要な都市に、国家が助成するデザインの学校をつくることでした。こうして、最初のロンドンのデザイン学校が、一八三七年に発足するのです。その学校は、サマセット・ハウスのなかに設置され、わずかながらの図書のコレクションがあり、のちにそれが博物館付属の図書館へと発展してゆきます。そしてまた、石膏像の小さなコレクションもあり、これが、博物館収蔵品の基礎となるものでした。このロンドンのデザイン学校は、正式名称をデザイン師範学校(本校)といい、現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と王立美術大学は、それを祖形として今日まで発展してきた、英国の頂点に立つ美術とデザインの教育機関なのです。

デザイン師範学校の設立以降の次なる発展段階は、文化行政官のヘンリー・コウルによってもたらされます。公務員である彼は、一八四六年に芸術協会(一九〇八年以降「王立」を冠する)によって主催された「デザイン競技」に「サマリー」という匿名でティーセットを出品し銀賞を獲得すると同時に、この出品の経験をとおして、工業製品の美的水準の低下を痛感することになります。こうしてコウルは、一八四七年に設立したフェリックス・サマリー美術製品では実製作をとおして、一八四九年に創刊した雑誌『デザインと製造』では理論的な面から、イギリス産業におけるデザインの改革を推し進めてゆくことになるのです。フェリックス・サマリー美術製品の設立理念は、「至上の芸術を、親しんでいる日用品と結び付ける古きよき実践を復興させること」であり、雑誌の創刊目的は、「装飾の原理を広めることと、装飾はそのものの使用性と密接に関係しており、自然から引き出された適切なモティーフから成立すべきであることを主張すること」でした。理念においては必ずしも重なりませんが、こうした動きを、「モリス・マーシャル・フォークナー商会」の先例とみなすことも可能です。

コウルの積極的で献身的なデザイン改革に着目したのが、ヴィクトリア女王の夫君のアルバート公でした。彼は、コウルとともに、「芸術と産業の結合」の理念を共有し、一八五一年の大博覧会の開催へと突き進んでゆきます。正式名称を万国産業製品大博覧会といい、一回目の万国博覧会(万博)に相当するものです。このとき、ジョセフ・パクストンによって設計された〈クリスタル・パレス〉のなかに、創造性と多様性に満ちた英国(および英国植民地)の産業製品が展示され、その偉業が国の内外に向けて誇示されたのでした。一七歳のモリスは、家族とともに会場までは来たものの、そのなかに入るのを嫌ったとも伝えられています。

大博覧会が終わり、翌年の一八五二年に実用美術局の主任審議官に任命されると、ただちにコウルは、王室の住まいであったモールバラ・ハウスの使用許可をうまくヴィクトリア女王から引き出すことに成功します。こうして、製造品博物館(翌一八五三年に装飾美術博物館へ名称変更)とデザイン学校(このとき中央美術訓練学校へ名称変更)を含む実用美術局(翌一八五三年から科学・芸術局へ改組)が、この建物を使用するようになるのです。このとき開館した製造品博物館のコレクションは、デザイン学校の収蔵品と大博覧会の展示品でもって主として構成され、コレクションの選定には、コウルのほかに、オウイン・ジョウンズ、リチャード・レッドグレイヴ、そしてA・W・N・ピュージンが従事しました。このなかには「恐怖の館」と呼ばれる部屋があり、悪いデザインの事例が展示されました。つまりこの博物館は、産業製品のデザインや趣味のよし悪しを、国民とりわけ製造業にかかわる人びとに明示する教育の場として想定されていたのでした。これが、その後の発展のなかにあって、この博物館の変わらぬひとつの基本指針となってゆきます。

一方、大博覧会は大きな収益を残し、それを原資としてサウス・ケンジントンに広大な土地が購入されました。建物群が完成すると、モールバラ・ハウスの機能はここへ移され、美術とデザインにかわわる、新たな教育の複合施設が完成することになります。一八五七年のことです。これよりこの博物館はサウス・ケンジントン博物館と呼ばれるようになり、コウルが、科学・芸術局の局長とこの博物館の初代館長に就任するのです。

ちょうどこの年(一八五七年)、ラファエル前派の中心的画家であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの誘いを受けてモリスは、新築なったオクスフォード大学の学生会館の壁画製作に参加します。『アーサー王の死』を主題とした壁画自体は、ロセッティのフレスコ画に対する知識が不十分だったこともあって中断することになりますが、そのときロセッティのモデルを務めていたジェイン・バーデンとモリスは知り合います。そして一八五九年にふたりは結婚し、フィリップ・ウェブに設計を依頼して完成した新居〈レッド・ハウス〉の内装を、芸術家の仲間たちの協力を得て、モリス自らが手掛けることになるのです。この経験を基盤として一八六一年に発足したのが、モリス・マーシャル・フォークナー商会でした。

これ以降、モリス・マーシャル・フォークナー商会もモリス自身も、明らかにその活動の一部は、こうした美術とデザインの公教育の発展の流れに、組み込まれてゆくことになるのです。

モリス・マーシャル・フォークナー商会が発足した翌年の一八六二年、大博覧会に続く第二回のロンドン万国博覧会が開催されます。日本の美術工芸品がはじめてイギリスに紹介されるのが、このときの博覧会においてでした。他方、モリスの会社は、出品したふたつの作品がメダルを受賞し、順調にその評判を勝ち得てゆきます。そうした背景のなかにあって、一八六四年に、コウルが館長を務めるサウス・ケンジントン博物館によって、モリス・マーシャル・フォークナー商会が作製した《ペネロペ》《眠れるチョーサー》を含む四点のステインド・グラス・パネルが買い上げられます。さらにコウルは、博物館の西側食堂の装飾をこの商会に依頼します。モリスとウェブが室内装飾のデザインにあたり、バーン=ジョウンズが、ステインド・グラスの窓に描く人物のデザインを担当しました。この食堂の装飾が完成したのは、一八六六年のことでした。その後も、この博物館とモリスは深いかかわりをもつことになります。たとえば、しばしばモリスはこの博物館を訪れ、ここで、とくにインド、ペルシャ、トルコのタピストリー、カーペット、陶磁器などについて、さらには、中世の木材染料について詳しく研究をしています。さらにその一方で、コウルが一八七三年にこの博物館を退いたのち、この博物館が美術品を購入するに際しての是非の判断を行なう「美術審査員」の制度が設けられたおりには、マシュー・ディグビー・ワイアットらとともに、モリスもその一員に加わることになるのです。

モリス没後も、サウス・ケンジントン博物館の発展はさらに続きます。アストン・ウェブの設計による新しい建物の建設が同敷地内ではじまります。一八九九年にヴィクトリア女王によって礎石が置かれると、それ以降この博物館は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになり、建物が完成したのは一九〇八年で、翌年の一九〇九年の六月に開館の儀式が執り行なわれました。モリス・マーシャル・フォークナー商会が一八六六年にその室内装飾を施工した食堂は、その後〈グリーン・ダイニング・ルーム〉として知られるようになり、現在にあっては、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるモリス作品を紹介する一室として公開されるに至っています。

それでは話をもどして、「モリス・マーシャル・フォークナー商会 絵画・彫刻・家具・金属細工の純粋美術労働者たち」の実際の活動がどうであったのかを、これより記述してゆきたいと思います。

一八六一年に発足したモリス・マーシャル・フォークナー商会にとって、自社製品を発表する大きな機会が、幸運にも翌年に訪れました。それは、一八六二年にロンドンで開催された万国博覧会への出展でした。このとき、この会社が利用した展示空間はふたつあり、ひとつの仕切りにステインド・グラスが、もうひとつの仕切りに、装飾家具、刺繍、絵タイルが並べられました。

装飾家具として展示された作品のひとつは、通常、セント・ジョージ・キャビネットと呼ばれる、セント・ジョージの伝説を描いた台座に乗るキャビネットでした。一八六二年の一月に、ロセッティはこのキャビネットについて、こう記述しています。

我々はいまセント・ジョージの歴史を描いたキャビネットやそのほかの実に美しい家具を製作しているが、早く見てみたい。我々は大博覧会の展示空間を予約した。

「そのほかの実に美しい家具」には、J・P・セドンのデザインによるラネイ王の新婚旅行のキャビネット、ロセッティのデザインによるソファー、そしてウェブのデザインによる彩色チェストと黒と金の椅子などが含まれていました。こうした装飾家具だけではなく、絵タイルも展示されました。ロセッティ、バーン=ジョウンズ、ウェブ、そしてモリス本人がデザインし、なかには、モリスの詩を描いたものもありました。

この会社が展示した製品の評価はまちまちでしたが、およそ一五〇ポンドもの売り上げがあり、万国博覧会への出展は、間違いなく、設立したばかりのこの会社にとって、その名が大衆に知れ渡る絶好の機会となったのでした。

草創期のモリス・マーシャル・フォークナー商会が手掛けた主力産品のひとつは、ステインド・グラスでした。モリスはこれまでに、国内のみならず、しばしば北フランスやネーデルランド地方の大聖堂や教会を訪れては、ステインド・グラスを研究していました。またこの時期、イギリス国教会内でアングロ・カソリック運動が再燃したり、教会の新築が加速したりしたこともあり、祭壇布やステインド・グラスをはじめとするさまざまな教会装飾の需要が高まっていました。最初の重要な依頼は、スカーバラのセント・マーティン教会、ブライトンのセント・マイケル教会、セルシリーのオール・セインツ教会の装飾にかかわるものでした。これらの新しく建造された三つの教会は、建築家のジョージ・フレデリック・ボドリーの設計によるもので、モリスとボドリーは、G・E・ストリートを通じての知り合いの関係にありました。モリスとバーン=ジョウンズを含む、ほぼすべての商会の構成員が、ひとつかふたつのデザインを担当しました。ガラスとタイルを焼成するための小さな窯が、地下室に備え付けられていました。そして、ガラス絵師のジョージ・キャンプフィールドと雷文職人のチャールズ・ホラウェイのふたりの熟練した工芸家が雇用されていました。職工長であるジョージ・キャンプフィールドは、グレイト・オーマンド・ストリートの労働者学校の生徒をしていたときにモリスに見出された人で、一八九八年までの長きにわたってこの商会を支えることになる人物です。そしてその下に、十数名の少年たちと男たちが手伝いの仕事をしていました。少年たちは、ユーストン・ロードにある「ボーイズ・ホーム(少年の家)」から来ていましたし、男たちは、主にケムデン・タウンからの人たちでした。

社内の工房以外にも、協力者としての芸術家がいました。アルバート・ムーア、シミアン・ソラモン、ウィリアム・ダ・モーガンといった人たちで、彼らは、ガラスとタイルのデザインをときどき提供しました。ヘンリー・ホリディによってダ・モーガンがはじめてモリスとバーン=ジョウンズに紹介されたのは、一八六三年のことでした。これ以降ダ・モーガンは、画家を諦め、ステインド・グラスの作家へと転身し、その後一〇年近くにわたって、折に触れて、モリスの会社が製作するステインド・グラスやタイル、そして絵家具のためのデザインを行なうようになるのです。

発足当時、刺繍(あるいは刺繍壁掛け)は、必ずしもモリス・マーシャル・フォークナー商会の主力産品ではありませんでした。初期にあっては、おおかた芸術家である男たちがデザインを担い、女たちが、家庭にあってその製作に従事していました。針仕事をしたのは、ジェイニーと彼女の妹のベッシー、そして友人たちでした。しかしながら、初年度の商会の支払い明細には、賃金の掲載はありませんし、刺繍の受注に関しても、会議で取り上げられた形跡がほとんど残されていません。そのことは、このときの刺繍は、個人使用のものだった可能性を意味します。しかし、一八六二年の万国博覧会において展示された刺繍への高い評価を受けて、翌年の一月の会議で、商会の営業品目に加えられてゆきました。モリス自身が染色や織物に取り組むようになるのは、そののちの一八七〇年代になってからのことです。

一八六一年の案内状(設立趣意書)に記載された営業品目には、確かに刺繍はありますが、壁紙はありませんでした。しかし、壁紙産業は、この時期上り坂にありました。国内の生産量は、一八三四年から一八七四までの四〇年間にあって、三〇倍近くにまで跳ね上がるのです。モリスの会社は、こうした高い需要を背景に参入し、上流の消費者に向けてそのデザインを提供しようとしたのでした。最初の壁紙は、次の二作品です。《トレリス(格子棚)》(一八六四年)について、マッケイルは、こう述べています。「よく知られている格子棚の壁紙が最初にデザインされたもので、バラの格子棚がモリスによって、そのなかの鳥がウェブによってデザインされた」。おそらく、描かれている格子棚は、〈レッド・ハウス〉の庭に実際にあったものがモティーフになっていると思われます。もう一方の《デイジー(雛菊)》(一八六四年)については、「いまも最も広く使用されているひとつであるデイジーの壁紙は、最初にデザインされたものではないが、最初に印刷され、市場に出回った」と、マッケイルは記述しています。これらの壁紙の印刷を請け負ったのは、ジェフリー商会でした。一八六二年の万国博覧会においては、およそ一五社のイギリスの壁紙製造業者が出展していましたが、ジェフリー商会はそのなかの一社で、すでにオウエン・ジョウンズのパタン作品を印刷する経験を有していました。

モリス・マーシャル・フォークナー商会の生産体制を見てみますと、その特徴として分業を挙げることができます。つまり、ひとりの工芸家が、自らデザインしたものを自らの手で製作するような個人完結形の製作手法とは、明らかに異なっていたのでした。たとえば、ステインド・グラスの製造においては、芸術家によるデザインと職工による製作がはっきりと区分されていましたし、タイルやガラスについては、社外の芸術家へそのデザインの一部が委託されていました。また、刺繍についていえば、社内で芸術家の男たちがデザインをし、技術をもつ女たちが家庭にあって作業するという仕組みがつくられていましたし、壁紙は、社内でデザインしたものを、社外の印刷会社に生産を委託する体制で進められていました。こうした分業体制は、協同性という観点に立てば、確かに中世的でありますが、効率性という観点に立てば、極めて現代的なものでありました。加えて、この商会のさらなる特徴は、全面的にモリス本人が、製造品の美術的側面に関与する一方で、商会経営についてもあわせて責任を担っていたことでした。つまり、この商会におけるモリスは、明らかに、デザイナー=ビジネスマンとしての役割と才能が期待されていたのです。

一八六二年のはじめに、リッチモンド・リッチィ夫人が、ヴェラ・プリンセプと一緒にレッド・ライオン・スクウェアにあるこの商会を訪れています。以下は、そのときの彼女の記憶です。

私たちは、空室の一階に入ると、ヴェラ・プリンセプが「トプシー」と、大声で呼びました。すると、髪を逆立てた人が上から降りてきて、ぶっきらぼうな仕草で、その人の宝物をひとつ、ふたつ見せ始めました。一風変わったもので、いまだ手ほどきを受けていない私の心からすれば、当惑させられるものでした。そのときモリスは、テーブルの上に置けば、しっかり立ちます、といったと思います。私は、ヴェラ・プリンセプがその形状を誉めたふたつのタンブラーを買いました。彼とヴェラ・プリンセプが、紙に包んでくれました。思いやりのある内気さと陰り、そして、ガラスのうっすらとした緑色、そうした全体的な印象があって、私は、とても楽しく、興味をそそる気持ちになりました。

発足から一年と立たないうちに、この会社は、財政基盤の強化を図ります。マッケイルは、こう語っています。

一八六二年の一月に、一株につき一九ポンドのさらなる払い込みが構成員たちになされ、一八七四年にこの会社が解散するまで、これ以上増えることはなかったが、これにより払い込み済みの資本が一四〇ポンドまで上がった。さらに数百ポンドの資本金が借金によって補填された。それは、モリス本人と彼の母親から借りたもので、五パーセントの利子がついた。というか、つくものとされた。会社のためになされた仕事から生まれた利益は、仕事の割合に応じて、それぞれの構成員の口座に振り込まれ、その他の負債も、同様に支払われた。モリスは、ジェネラル・マネージャーとして一五〇ポンドの給料を受け取るものとされ、五月にフォークナーが、モリスと同額の給料で、正式に簿記担当のビジネス・マネージャーに就任した。

この時期、モリスの私的な財政も、徐々に緊迫度を増していました。といいますのも、成人になったときに贈与されていた銅山の株が年々下落を続け、配当金が減少しはじめていたからです。そういうわけで、アプトンの〈レッド・ハウス〉の壮大な内装計画も、友人たちへの心からの歓待も、いままでどおりに維持することが、少しずつ困難になりつつありました。その一方で、会社は増大する仕事量で手狭になるとともに、モリス自身の経営に費やす時間も次第に増えてゆき、アプトンからロンドンまでの遠距離通勤が、日増しに重荷となろうとしていました。そこで、一八六四年のはじめ、仕事場をロンドンからアプトンに移す議論がはじまりました。当初の計画では、〈レッド・ハウス〉にひとつの翼を増築し、ネッドの家族がそこに住むことになっていました。しかしながら、この年の九月に、トプシーの家族、ネッドの家族、フォークナー夫妻、そしてケイトとルーシーの彼の姉妹たちの一行が、休暇を利用してリトルハンプトンへ出かけたときを境に、事態が大きく変化します。ネッド家の幼い息子が、その地で発生していた猩紅熱に感染し、今度はそれが、母親であるジョージーの罹患へとつながり、おそらくそのことが原因で出産が誘発されると、一〇月に赤ん坊は生まれますが、しかし、その子のいのちは三週間ともちませんでした。悲しみのなか、ネッド夫妻はヘイスティングズに療養に出かけることになるのです。

ネッド自身も、とても微妙な健康の状態にありました。妻の体を思う心労が、その一因だったかもしれません。それに加えて、ネッドは、トプシーと違って、特別の資産があるわけではなく、日々の仕事による収入で生活が成り立っていました。そうした背景があって、ネッドは、自分たちはロンドンを離れてアプトンに移ることはできない旨をトプシーに知らせたものと思います。マッケイルによると、「バーン=ジョウンズへ宛てた手紙は、『レッド・ハウスのベッドのなかで』と日付が打たれた、一一月の終わりに向かうなか、とても震える手で書かれていた」のでした。以下は、トプシーがネッドへ宛てて出したその手紙の一部です。

 私たちの芸術の殿堂について、あなたからの手紙は、決して予想外のものではありませんでしたが、告白すると、最初私を打ちのめしました。まさしく泣いてしまったのです。……しかし、いまや私は、もう三〇歳になりました。いつまでもリュウマチに苦しめられるわけにはいかないし、私たちも、これからもずうっと、創造的な仕事と輝く賞杯を一緒に得て、多くの喜びを分かち合いたいと思っています。……別にもうひとつ考えていることがあります。ヘイスティングからの帰りにこちらに来て、一、二箇月、滞在してはどうかということです。どの人にも、どんなことにも、使ってもらえる部屋がたくさんあります。静かに、誰にも邪魔されることなく、あなたは自分の仕事をすることができます。そのときまでに、私は、一頭のいい馬を買っておきます。そうすれば、ジョージーとジェイニーは馬を操り、子どもたちと連れ立って、楽しく出かけることができます。その間あなたは、急いで貧弱な新しい家を手に入れる必要はなくなります。ジェイニーは、あなたたちが来ることを心から願っていて、それこそが、あなたたちのなすべき最善のことであると考えています。よき男であるあなたに会うために、五ポンドを差し上げます。ロンドンへ帰る前の日に、こちらに来ることは、安全ではないのでしょうか。

こうして、増築して両家が一緒に住む計画は頓挫しました。そしてネッドの家族は、その年の終わりにケンジントン・スクウェア四一番地に住まいを見つけ、引っ越しました。彼らはこの地に、三年間住むことになります。他方トプシーも、雨降りの寒い日の通勤で体を冷やし、それが原因でリューマチの熱に苦しむようになっており、加えて〈レッド・ハウス〉の居室がすべて寒い北向きであったことも、決して彼の健康にとってよくありませんでした。鉱山株からの配当金が減少し、長距離通勤が苦痛になっていたモリスにとって、残された解決の方法は、〈レッド・ハウス〉を手放す以外になかったのでした。

一八六五年の六月二四日の「ミッドサマー・デイ」(「洗礼者ヨハネの祭日」で、四季支払日のひとつ)の日から、ブルームズバリーのクウィーン・スクウェアにある一軒の古い家が、自宅兼工房として賃貸されました。会社は秋にこちらに移転し、モリス一家は、一一月にここへ転居しました。転居に先立って、ネッドの家族が〈レッド・ハウス〉を訪れました。ジョージーは、こう書いています。

 最後に私たちがアプトンを訪れたのは、一八六五年の九月でした。よく晴れた午後、モリスとジェイニー、それにエドワードと私は、お別れのために馬車に乗り、周囲にいまだ残る、人里離れた美しくて小さな場所を幾つか見て回りました。家のなかでは男たちが、「地上の楽園」のことで熱心に話し合っていました。その詩には、二、三百の木版による挿し絵がつけられるように計画されていて、そのうちの多くはすでにデザインがなされ、なかには版木に描かれているものもありました。

家のなかの家具類や装飾品の一部は、移動が不可能であったり、重すぎたりしたために、それも一緒につけて、最終的に〈レッド・ハウス〉は売却されました。そして、二度とモリスは、ここを訪れることはありませんでした。五年にわたり、夢と希望に満ちた新婚のモリス家の暮らしを支え、「この世で最も美しい場所」になるはずであったこの家を見ることは、モリスにとってあまりにも耐えがたいことだったからでしょう。その後〈レッド・ハウス〉は人の手に渡り継がれてゆき、現在は、ナショナル・トラストの管理下に置かれ、一般に公開されるに至っています。

二.クウィーン・スクウェアでの住職一体の新生活

一八六五年の秋に、モリス・マーシャル・フォークナー商会はレッド・ライオン・スクウェア八番地から、そしてモリスの家族は住み慣れた〈レッド・ハウス〉から、クウィーン・スクウェア二六番地に賃貸されたこの家に移転しました。この土地柄について、それから三十数年後に執筆されたモリスの伝記のなかで、著者のマッケイルは、このように記述しています。

[クウィーン・スクウェアは]いまでは、発展から取り残された古いブルームズバリー地区にあるが、その当時にあっては、アン女王時代のロンドン郊外地としてのもともとの気品をいくらかなりとも留めていた。

その家の一階が、事務所とショールームに変えられました。そしてさらに、裏庭の外れには、すでに建てられていた大きな舞踏用の部屋があり、それと居住用の建物は木製の回廊でつながっていましたので、この大部屋が主要な工房に変えられました。会社の移転とともに、構成員にも、少なからぬ動きがありました。ロセッティは、三年前に妻のリジーが死亡して以来、ほとんど世捨て人のような状態にあり、あまり会社の仕事にかかわることはなく、このとき、ロンドンの外れのチェルシーに住み、絵画製作に専心していました。フォークナーは、もともと製作に関する力はなく、彼の能力はあくまでも数学に関するもので、会社の簿記を担当することで、幾分その力が放棄されたかたちになっていました。そうしたなか、すでにその年の前から、フォークナーはオクスフォードでの仕事にもどっていました。しかし、彼の母親と姉妹たちが、移転したクウィーン・スクウェア二六番地のすぐ近くに住んでおり、休みになるとこの実家へ帰省することがあり、モリスとの関係は従来どおりに続いていました。マーシャルは、すでにもともとの仕事に復帰していました。そのようなわけで、この時期のこの会社は、バーン=ジョウンズとマドックス・ブラウンがステインド・グラスのデザインを、そしてウェブが家具のデザインを提供するという、幾分弱体化した状況に置かれていました。

そうした状態を救ったのが、フォークナーの後任としてビジネス・マネージャーの職に就いたウォリントン・テイラーでした。彼は、モリスに一年遅れて一八三五年に高徳なカソリック信者の家庭に生まれ、イートン校で教育を受け、軍務に服したあと、自身の不幸な事情があって、このとき一文もない状態でした。彼は、とりわけ音楽に造詣が深く、イングランドではまだほとんどその名が知られていなかったワーグナーの熱烈な愛好家であり、そしてまた、ロセッティとラファエル前派の支持者でもありました。最初に〈レッド・ハウス〉でモリスにテイラーを紹介したのも、ロセッティでした。会社が移転するこのとき、彼は、「オペラ・ハウス」で切符切りをして何とか生活費を稼いでいました。そこで彼は、この仕事の申し出を、喜んで受け入れたのでした。テイラーは、若くして一八七〇年のはじめに病死します。五年間という短い期間ではありましたが、それでも、モリス・マーシャル・フォークナー商会が困難に直面していたこの時期にあって、適切にも、この会社の経営の安定化に貢献したのが、紛れもなく、このテイラーでした。ウェブの伝記作家であるウィリアム・リチャード・レサビーは、『フィリップ・ウェブと彼の仕事』(一九三五年刊)のなかで、こう述べています。

 最初の商会はとても衰退のなかにあったが、一八六五年から七〇年までのこの商会の運営内容については、テイラーからウェブに出された一連の書簡類が、もっともよく物語っている。

こうしてレサビーは、その伝記において、テイラーのウェブ宛ての書簡類を開陳します。それはとくに、サウス・ケンジントン博物館とセント・ジェイムズ宮殿の内装工事についての貴重な情報を提供するものでした。

クウィーン・スクウェア二六番地に会社を移すと、次の一八六六年に、モリスは、《ザクロ(柘榴)》のデザインに取りかかったものと思われます。これまでこの作品は、版木の通し番号から《デイジー》と《トレリス》のあいだに作製されたものと考えられていました。しかしいまでは、マッケイルやテイラーの記述内容に重きを置くことによって、この作品のデザインは、この時期(一八六六年ころ)になされたものと特定されています。したがいまして、この《ザクロ(柘榴)》が、モリスにとっての壁紙の三作目となるものであり、今日では《フルーツ(果物)》という別名でも親しまれています。デザイン上の特徴は、四つの方形のエレメント(要素)が繰り返されているところにあり、そのため《デイジー》よりも複雑な構成となっています。

一八六六年にモリス夫妻は、ウェブとテイラーを伴ってフランスを訪問します。ウェブは、このとき訪れた幾つかの教会のステインド・グラスをスケッチに残しており、そのうちのひとつの日付が、六月一八日となっています。このとき、一行の関心は、教会の装飾に向けられていたものと思われます。

モリスは、文字がまだ記載されていないスクロールをもつ天使のデザイン画を書いていますが、この絵は、ケンブリッジのジーザス・カレッジ・チャペルの身廊天井に用いるために描かれた作品で、このフランス旅行前後のものではないかと思われます。以下は、一八六六年六月末ころに出されたとされているモリスからフレデリック・R・リーチに宛てた手紙の一部です。

 これまであなたはボドリー氏のために幾つかの仕事をなされてきていますが、そのボドリー氏から、いま私たちがシーザス[・カレッジ]の礼拝堂ではじめようとしている既定の装飾について、たぶんあなたがその製作を引き受けてくださるだろうとの知らせを受けました。その仕事は、泥絵の具の画法でなされるべきであり、最良かつ最高の職人技を用いて、色彩と施工の双方の面において満足のゆくように仕上げられなければならないのです。

フレデリック・R・リーチは、ケンブリッジで活躍する装飾家でした。一八六六年から一八七〇年にかけて、彼はこの商会のために、二、三の仕事をすることになります。一方、この時期体調を崩していたテイラーは、療養のためにヘイスティグズにいました。一一月一三日にその地からウェブに宛てて出された手紙に、こうした一文があります。

ケンブリッジの天井の例の天使について、もうモリスが取りかかっているか、ぜひとも確認してくれたまえ。しかし、予定どおりには完了しないだろう。最終段階で、ほかの誰かにその仕事を委ねようとするだろうよ。どんな様子だい。元気で、うまい酒に酔って血色もいいと思うけど。彼女はどうだい。

テイラーは、「彼女はどうだい」という語句でもって、モリスの妻のジェインの様子について言及しています。いままさにモリス夫妻に起きようとしている苦難の出来事を暗示する一語として受け止めることができる、非常に意味深長な表現であるように思われます。

この時期、「ケンブリッジの天井の例の天使」の仕事に加えて、商会は、さらに大きな仕事を抱えていました。それは、サウス・ケンジントン博物館の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉の内装工事でした。すでにこのときまでに、商会とサウス・ケンジントン博物館のあいだには、ひとつの商売上の取り引きの事例がありました。二年前の一八六四年にステインド・グラスやモザイクなどに関する博覧会が開催されたおり、商会が出品したもののなかに、ステインド・グラス・パネルの《ペネロペ》と、チョーサーの『善女伝』から画想が取られた《眠れるチョーサー》を含む三点のステインド・グラス・パネルが含まれていました。そのとき、サウス・ケンジントン博物が直接購入したのが、これらの四点の作品だったのです。どれもすべて、バーン=ジョウンズが描いたものです。当時このモティーフは、家庭内のステインド・グラスとして評判を博し、商会の人気商品となって、たくさんの異形がつくられていました。サウス・ケンジントン博物館がこのとき入手した四つの作品は、そのまま引き継がれ、現在、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の所蔵品となっています。

おそらくこうした前例となる取り引きの実績が背景にあって、サウス・ケンジントン博物館は、〈グリーン・ダイニング・ルーム〉の内装をこの商会に依頼したものと思われます。一一月に出されたテイラーからウェブへの手紙に、こうした記述がみられます。

ただちにあなたは、サウス・ケンジントン[博物館の食堂]の羽目板のデザインをする必要がある。彼らはそんなことを望んでいないなどと、無意味なことはいわないでくれ。エドワード・バーン=ジョウンズは、クリスマスまでには、サウス・ケンジントンのすべての窓のデザインをやり終えることになっている。

しかし、完成してみると、モリスはその出来栄えに不満だったようです。『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』(一八九七年刊)のなかで、著者のエイマ・ヴァランスは、以下のように語っています。

モリスの完璧を求める実直な性格の反映であったが、すべての羽目板が完成したときにモリスが得た結論は、異なる画家によって実行されたこの仕事は、様式において必ずしも一定ではなく、連続した、つまり調和のとれた装飾計画になっていないというものであった。そこで彼が主張したことは、すべての羽目板を、フェアフェクス・マリ氏の手によって、ほぼ新たに手直しすることであった。

現在残されている羽目板が、ウェブとバーン=ジョウンズによって描かれたものなのか、それとも、ヴァランスが伝えるように、フェアフェクス・マリの手によって修復されたものなのか、それは定かではありませんが、描かれた羽目板と壁紙《ザクロ(柘榴)》とのあいだに、デザイン上の強い類縁性がみられるのは、確かです。そのことは、おそらくデザインそれ自体はモリスに帰されるべきであることを示しているものと思われます。

商会は、サウス・ケンジントン博物館の食堂の室内装飾と並行して、あるいは、やや少し遅れて、もうひとつの大きな仕事を進めていました。それは、セント・ジェイムズ宮殿の武具の間とタピストリーの間にかかわる内装工事でした。主としてその仕事を担当したのは、ウェブでした。以下は、テイラーからウェブに宛てて出された一連の書簡からの、セント・ジェイムズ宮殿の装飾にかかわる部分の抜粋です。「あなたがデザイン料として受け取ることになるおよそ三分の一がすでに支払われています。デザインにつきましては十分にお話しさせていただいているところです」。そして、一一月一三日の手紙でテイラーは、「できるだけ早くこちらに来て、実際に目に見えるように宮殿の進捗状況を報告してください。私にとって、それが、いくらかうれしい知らせとなるといいのですが。それはそれとして、早くいらしてください。モリスも連れてきてください」と書き記し、さらに年が明けた一八六七年の一月には、ウェブに宛ててテイラーは、「宮殿の装飾のために作製されたあなたのデザインを回収するようにキャンプフィールドかドッズに指示して、あなたの手もとにもどるようにしてください」と書いています。この記述から推測しますと、セント・ジェイムズ宮殿の内装工事が完了したのは、おそらくこの時期だったのではないかと思われます。

一八六七年の三月の段階で、ケンブリッジのジーザス・カレッジ・チャペルの装飾は、まだ完成していなかったようです。三月二二日にモリスは、ジョージ・キャンプフィールドに宛てた手紙で、こう書いています。「ここに五ポンドの金を送ります。月曜日に[ジーザス・カレッジに]行こうと思っています。……二枚の最後の下絵と一緒に、交差アーチの下の三角形の空間に使う、笛を吹く天使の下絵一枚も、送ります。何が描かれているのか私には全くわかりませんので、あなたご自身で、翼(金色)を描く必要があります……」。おそらくこの仕事は無事に終わったものと思われます。モリスは、この年の一一月一四日に、フレデリック・R・リーチに再び仕事を依頼する手紙を書いています。「ロンドンにある教会から装飾の依頼がありました。天井と壁の装飾です。ケンブリッジのときと同じように、私たちに代わって仕事を引き受けていただけないでしょうか……」。『ウィリアム・モリス書簡集成』の編者であるノーマン・ケルヴィンは、この教会は、セント・ダンスタンズ教会であることを示唆しています。翌年の一八六八年には、サリー州のセント・マリーズ教会の仕事についても、リーチに相談しています。一二月一四日の日付をもつモリスからリーチに宛てた手紙の書き出しです。「ふたつの[オルガン]仕切りの絵と仕様書を送ります。絵は、最初のデザインから写し取られたもので、全く正確というわけではありません。一度ラティーズ商会へ行って、仕切りを見た方がいいかもしれません……」。

このように、クウィーン・スクウェア二六番地に会社を移したのちも、その主要となる業務は、教会装飾にかかわるものであり、モリスにとってリーチが、腕のいいお気に入りの装飾家だったようです。一方、この会社のビジネス・マネージャーであるウォリントン・テイラーは、経営の散漫さやモリスたちの金銭感覚の欠如にかかわって、この間ずっと、強い不満やいらだちが続いていました。この会社の有能な帳簿担当の事務職員だったマクシャーンが死亡すると、テイラーは、療養先のヘイスティングズからウェブへ、こうした内容の手紙を書き送っています。「……もう少し取り決めておく必要がある。そうでないと、六箇月以内に君たちは、糞尿のなかだ。かいつまんでいえば、会議を招集し、何をなすことにするのかをただちに決めることが、君の仕事だ。自覚すべきは、たわごとをいうのではなく、しっかりと決めることだ……」。さらに、一八六九年七月に出されたのではないかと推定されている手紙には、こう記されていました。

我々はこのことに決着をつけなければならない。誰しもが、彼のようにすることが許されるものか。ネッド、W・M、ゲイブリエルは、お互いにけしかけ合って、あらゆる浪費を煽っている。どれだけ子どもであればすむのだ。もうとっくに、どいつの頭にも、白いものが混じっているというのに。我らの貸借表は、W・Mを喜ばせる最後の一文が残るまでに、痛めつけられている……そんなことは恥ずべきことであり、子どもじみた行為だ……会社に、そしてW・Mとゲイブリエルに、手紙を書いたところだ。みなが、破滅への道を全力で走っている。礼儀正しさなどは、とっくの昔に消えてしまっている。

それからおよそ七箇月後の一八七〇年の二月に、テイラーは帰らぬ人となりました。結核だったものと思われます。葬式と関連の費用は、会社によってのみならず、ウェブ個人の立場でもってまかなわれました。またウェブは、彼の墓石のデザインにも意を注ぎました。そして後任として、ジョージ・ウォードルが選任されました。

クウィーン・スクウェア二六番地への移転以降の五年間、テイラーのおかげで、モリス・マーシャル・フォークナー商会は、何とか倒産することなく、存続しました。しかしその一方で、モリスとジェインの夫婦もまた、この間、まさしく「倒産」の危機に直面していたのでした。