中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第一三章 社会主義運動への参画

一.民主連盟への加入

モリスが、仕事場をクウィーン・スクウェアからマートン・アビーに移したのが一八八一年のことで、同じ年にモリスは、講演「芸術と大地の美」のなかで、「そうした反抗が成功すれば、その暁には、人類の必要な慰めとして、芸術のある種の形式が再び創出されるよう迫られるにちがいありません。……いや、反抗はきっとやって来ます。そして、勝利します。そのことを疑ってはならないのです」と、聴衆に語りかけました。そして、その翌年の一八八二年になると、モリスは、フランス語版のマルクスの『資本論』を読みはじめるのです。

それでは、この八〇年代とは、イギリスにとって、どのような時代だったのでしょうか。以下に、短くまとめてみたいと思います。

一九世紀のイギリスの歴史は、産業革命後の工業化の進展という文脈において語られることが一般的で、それは、ブルジョワ階級(産業資本家や工場経営者など)と労働者階級(工場労働者や熟練工など)の形成と発展の歴史に置き換えることもできます。また、こうした社会階級に加えて、議会を支配する地主階級の存在も大きく、この階級は貴族とジェントリーに大別され、前者が上院を構成し、後者が、選挙で選出される下院を主に構成していました。一方、政治的には、一九世紀の半ばまでには、進歩勢力であるホイッグが自由党へ、また保守勢力であるトーリーが保守党へと姿を変え、この二大政党の政権交代の上に立って、議会政治が運営されていました。

一般的に、一八三〇年ころまでに、イギリスの産業革命は完成したといわれており、それに続く一八五一年までが、産業革命による負の側面を補う「改革の時代」であり、その象徴となるものが、一八五一年に開催された大博覧会(正式名称は、万国産業製品大博覧会)でした。それはまた、「繁栄の時代」の先駆けとなるものでもありました。それからのおよそ四半世紀は、「世界の工場」としてのイギリスが、経済的繁栄を謳歌する時期に相当します。そして、その後に残る一九世紀最後の四半世紀は、議会制民主主義の発展と帝国主義の時代ということになります。

他方、この最後の四半世紀は、いわゆる「大不況」の時代でもありました。工業部門においては、アメリカとドイツにその生産的主導権が移り、農業部門においても、安価な農作物がアメリカから流入してきたことにより、イギリスの農業に衰退の兆しが現われようとしていました。それ以外にも、土地所有に関する攻撃もこの時期に開始され、地主階級の支配が揺らぐとともに、下院においては、ジェントリーを凌ぐ勢いでブルジョア階級の出身者が登場してきたのです。

このころ労働者階級を取り巻く政治状況にも、大きな変化が見えはじめていました。一八六七年の第二次選挙法改正により、都市部の労働者に選挙権が保証されると、労働組合は自らの代表を積極的に下院に送り込もうとし、彼らの多くは、自由党の一員として議席を占めるに至りました。しかし、八〇年代に入ると、土地の国有化論を背景に、労働界にひとつの大きな新たな動きが顕在化します。それは、マルクス主義に根拠を置く、政治団体の設立でした。イギリスにおけるその最初の組織が、一八八一年にヘンリー・メイアズ・ハインドマンによって設立された民主連盟だったのです。

ハインドマンは、ケンブリッジ大学のトリニティー・カレッジにおいて法律家になるための学問を学び、その後ジャーナリストとして活躍します。一八七〇年代に、当時自由党の党員であったハインドマンは、カール・マルクスに出会います。彼がはじめてフランス語版の『資本論』を読んだのは一八八〇年のことで、そのとき以来、マルクスを敬愛する社会主義者となるのです。ハインドマンは、一八八一年の一月、月間雑誌『一九世紀』に「革命の時代の夜明け」を寄稿し、その年の六月の民主連盟の発会式のときに、『万人にとってのイングランド』と題された彼の本が、代表者全員に配布されました。これは、『資本論』に基づく、ハインドマンのマルクス主義的見解を表明したもので、当時のイギリスの社会主義の形成にとって極めて重要なテクストとなりました。もっともこの時期、社会主義は、いまだ小さな、ほとんど知る人が少ない思想上の存在でしかなく、大衆運動からもほど遠いところにありました。モリスが、この民主連盟に加わるのが、一八八三年一月一七日だったのです。

H・H・チャンピオンによって署名された自分の会員証に、モリスは、「ウィリアム・モリス デザイナー」と記入しました。すでに述べていますように、東方問題に関して『デイリー・ニューズ』に自分の見解を寄稿したときには、「『地上の楽園』の著者 ウィリアム・モリス」と署名しています。この変化には、何か特別な意味があったのでしょうか。あるとすれば、自らが属する中産階級ないしは教養階級を意識的に離れ、デザイナーという一介の労働者であることへの自覚が、そうさせたといえるかもしれません。振り返ってみると、モリスは、典型的な中産階級の裕福な家庭に生まれ、父親が亡くなると、若き日の学生時代に莫大な遺産を相続し、自由に詩を書き、会社を興しては、デザイナーとしてその芸術的天分を発揮するとともに、その事業主の地位に就いていたのでした。そうした経歴をもつ人間が、これから実質的に社会主義運動へと参入してゆくのです。そろそろ、もう二箇月で四九歳になろうとする冬の日の出来事でした。

マッケイルが使用する資料によれば、オーストリアの家具デザイナーで、イギリスへ亡命していた無政府主義者のアンドリアス・ショイが、はじめて民主連盟の会合の席でモリスの姿を見たときの様子は、次のようなものでした。

一八八三年の早い冬の数箇月に、民主連盟は、ウェストミンスター・パレス・チェンバーズで何回か会合を開いていた。私が参加したのは(正確な日付は忘れたが)、最初のそうした会合のときだった。議長席にハインドマン氏が座っていた。その日の議題は、教育問題、標準的な労働日、および労働者階級の住宅問題に関しての幾つかの解決案を通過させることだった。まだほとんど会が進行していないとき、私の後ろに座っていたバナーが、「あなたの右手三番目の人がウィリアム・モリスです」と書いた一枚の紙を私に渡した。私は、すでに読み知ってはいたが、会ったことはなかった。ただちに私は、指示された方向に目を向けた。モリスの整った顔立ち、真剣さ、半ば食い入り、半ば夢を見ているような目つき、そして、飾りのない清楚な服に、私は心を打たれた。

ウェストミンスター・パレス・チェンバーズ九番地に位置する建物の薄暗くて換気の悪い地下室が、その当時の民主連盟の本部となっていました。その建物は、道を挟んで国会議事堂と対面していました。ハインドマンもまた、民主連盟に加わったころのモリスを、描写しています。

広報という決して楽しくない仕事を、実に熱心すぎるほどまでに、全面的に受け持ち、すぐさま、私たちの組織の縦と横の序列にあって公平に、しかも断固とした熱意をもって働こうとしている姿を示した。……堂々とした額と澄んだ灰色の瞳、加えて、力強い鼻とわずかに赤らんだ頬は、彼がいわんとするところの真実性と重要性を印象づけた。

さっそくモリスは、三月六日に、講演を行ないました。民主連盟に入会する以前のそれまでの講演内容は、主として芸術と生活にかかわるものでしたが、この講演から、それらに加えて、社会や政治が中心的な論点となってゆきます。この日のマンチェスター・ロイヤル・インスティテューションで開催された講演の題目は、「芸術、富裕、そして福利」というものでした。そのなかでモリスは、社会的に存するふたつの異なる階級に着目し、こう語るのでした。

 ちょっと、ひとつの事実の意味につきまして考えてください。……イギリスには、ふたつの言語があるのです。それは、紳士が話す英語と労働者が使う英語です。私は、その見解に対して誰が反駁しようと気にしません。しかし私は、このことは野蛮であり、危険であるといいたいのです。さらに、そのことは、芸術の枯渇という、同じくこれらの階級に強いられている現象を着実に伴いながら進行しています。憎しみを込めて一言でいえば、それは、俗悪の象徴なのです。そんなものは、近代以前にあっては、そして、競争的商業が開花する以前にあっては存在しなかったのです。

そして、モリスは、自分にとっての「ユートピア」を、こう語ります。

 私には基盤となる「ユートピア」があります。町にあっては、富裕と貧困は、福利によって克服されてしまうことでしょう。しかしながら、みなさんは、こうした私の熱望を狂気と思われるかもしれません。少なくとも私がひとつ確信していることは、これから先は、こうした「ユートピア」の世界をおいてほかには、民間芸術を探し求めるのは、役に立たなくなるだろうということです。つまり、少なくとも、そこへと至る道筋においては、私が信じるところによれば、その道は、平和と文明に至り、それとは別の道であれば、不満、腐敗、暴政、そして混乱につながるであろうということです。

ところが、モリスの真意が伝わらず、この講演は、単に芸術の問題を越えて、別の問題を惹起しているのではないかという、読者からの批判文が、三月一二日の『マンチェスター・イグザミナー』に掲載されました。すると、すかさずモリスは、二日後の一四日に、『マンチェスター・イグザミナー』の編集長に宛てて反論文を送ります。以下は、その一部です。

とりわけ私は、民間芸術の問題は、共同体における大多数者の幸福か不幸かにかかわっている以上、ひとつの社会問題であるということを指摘したいと思ったのです。近代以降の民間芸術の不在は、ますます人を不安にさせ、悲しませています。というのも、ほかの理由というよりも、まさしくこの不在という理由によって、民間芸術は、人間を、教養のある階級と下位の階級とのふたつの階級へと、取り返しのつかない分断へと導く象徴にいまやなってしまっているからです。……もし、すべてのビジネスが芸術を共有することができないようであれば、私たちは一体、芸術と連動するどんなビジネスをもつことになるのでありましょうか。そこに何が横たわっていようとも、芸術は死から再生するだろうということを、私は確信しているのです。

それからおよそ二箇月後の五月一九日、モリスの筆は再び、気になるジェニーに宛ててしたためられました。その手紙のなかでモリスは、マートン・アビーへの通勤について、このように触れています。

 火曜日と木曜日、ロウハンプトン・レインを経由して、マートンまでの道のりをすべて歩きました。実に楽しい歩きでした。私にとって、地下鉄は全く気が滅入るのです。これからも、マートンへの行き帰りに歩こうと思います。優に二時間かかります。しかし、あなたもおわかりのように、汗だくの列車通勤のような単なる無駄とは全然違います。

モリスの書簡集を編集したヘンダースンは、この手紙の注として、こう書いています。「ケルムスコット・ハウスからマートンまで、モリスは、地下鉄を使って行かなければならなかった。行程は、ハマスミスからフェリンダン・ストリートへ、シティーを経由して、それからラドギット・ヒルからマートンへ。約二時間を要した」。

そして、この五月一九日の手紙の中盤で、モリスは、このようなこともジェニーに知らせています。

 月曜日に私は、民主連盟の会合へ行きました。そこで私は、気づいてみると執行委員にさせられていました。そんなことで、そこでさらなる仕事をしています。もっとも、私は、彼らが何をしているのかを知ることもなしに、つまりは、確かに何か意味のありそうなことを彼らがしていると、大きな希望をもって感じることがなければ、組織につながれるのを好むことはありません。例によって、まずもってお金が不足しているのです。

かつて東方問題協会が発足したときもそのようなことがありましたが、このときもモリスが選出されたのは、財務担当の執行委員でした。そして、さらに続く九月四日の手紙で、モリスは、民主連盟の会員証をデザインしたことをジェニーに伝えます。これも、モリスに課せられた、さらなる仕事の一部だったのかもしれません。この会員証には、「教育せよ」「組織せよ」「扇動せよ」の三つの文字が配置されていました。

頻繁に出されるジェニーへの手紙は、この時期を通してずっと続きます。ジェニーの容態がよくないようです。モリスの苦悩を真に理解するのは、妻のジェイニーではなく、バーン=ジョウンズの妻のジョージーでした。このころモリスは、ジョージーへもしばしば手紙を書いています。次は、八月二一日のジョージーへの手紙の冒頭部分です。

 私の詩についてのあなたの親切なご心配に接しました。しかし、親愛なるあなたもご存じのように、告白しなければならないあらゆる不安のなかで、一等最初のものが、私を悲しい臆病者にしているのです。

この一文は、ジェニーの健康についての不安と悲嘆を表わしています。父親たるモリスにとって最もつらい時期だったようです。そして、自分の詩作については、こう述べます。

詩は、思うに、手の芸術とともにあると思います。手の芸術のように詩も、いまや非現実的なものになってしまいました。どの芸術も死んでしまっているようです。いまそのうちのなにがしかが残っており、このあと、再度生まれ変わることになるのです。これについては、あなたも私の見解を承知されています。私は、それを、他人に対してのみならず、自分にもあてはめたいと思います。その見地に立つことによって、私は、パタン・デザインの仕事についてはいうまでもなく、それ以上に、詩をつくることについても諦めるようなことはないものと認識しています。といいますのも、単なる個人的な楽しみとして、人はその仕事に駆り立てられてゆくものだからです。とはいえ、それを神聖な義務としてみなすようなことはないものと思われます。

この年(一八八三年)、モリスは、卒業校であるオクスフォード大学と新たなかかわりをもつことになります。民主連盟に加わる四日前の一月一三日に、満場一致でモリスは、エクセター・カレッジの名誉フェローに選出されたのでした。バーン=ジョウンズも一緒でした。七月二日には、ふたりは、エクセターのフェローとして迎え入れられ、ホールでの正式の晩餐会に臨みます。次にオクスフォードへ行く機会が訪れたのは、一一月一四日のことでした。このときモリスは、「芸術と民主主義」(のちに「金権政治下の芸術」に改題)と題して、講演を行なったのです。議長席には、スレイド校(ロンドンのユニヴァーシティー・カレッジのスレイド純粋美術学校)の教授を務めていた、六四歳になるジョン・ラスキンが着きました。ここでモリスは、これまでの幾つかの講演でしばしば言及していた芸術の現状を繰り返し指摘します。

そうするとそのとき、事態はこうなるのです。大芸術家たちの精神は偏狭なものになり、孤立することによって共感は凍りつき、一方の協同的芸術も、行き先を失います。いやそれだけではありません。それに加えて、大芸術と小芸術がともに生存するうえでのまさしく飼料そのものが破壊されつつあるのです。芸術という泉は、その源で汚染されているのです。

こうして話が進行し、ついにモリスは、自身が社会主義者であることを公言するに至るのです。

 といいますのも、私は「社会主義者と呼ばれる人たちのひとり」だからなのです。そのため私は、経済的な生活状態にかかわって革命が起きるだろうと確信しているのです。……封建制度下の個人的な関係と、ギルドに所属する工芸家の団結的な企てにつなぎ止められた、未発達状態の中世から、自由放任主義の競争が全面的に吹き荒れる一九世紀へと至る変化は、私が思いますに、それはそれ自身で、無秩序を招来しようとしているのです……。

そして、モリスはいいます。「芸術とは、人間の労働の喜びの表現なのであります」。

会場は多くの人で埋まり、講演はスムーズに進行しました。しかし、この講演の最後に問題が起こりました。マッケイルは、こう書いています。

モリスは、講演の終わりに、論理的な範囲から明白に逸脱し、社会主義団体の代理人として自分が話していることを告げると、これに加わるように聴衆に訴えた。壇上は唖然となった。すると、すかさず大学のマスターが立ち上がり、ホールを貸したとき、カレッジは、モリス氏が社会主義者の情報宣伝を担う代理人であることは知らなかったし、カレッジが思っていたのは、民主主義下の芸術に関しての意見表明の場をひとりの著名人に与えることだった、と弁明した。

この講演原稿は、その翌年(一八八四年)の二月と三月に『ツゥデイ(今日)』に掲載され、題目も「芸術と民主主義」から「金銭政治下の芸術」に変更されました。一方、この講演の議長を務めたラスキンは、これについて、こう言及しました。

モリス氏は、最近行なった講演の題目を「芸術と『民主主義』」から「芸術と『金権政治』」へ変更したが、この変更は意義深く、この言葉を使った本人の思惑を超えて、広範に吹き巻く風の流れとなって、この問題のすべてにとっての根っこの部分に襲いかかっている。

一連のこれまでの講演にみられる、モリスの歴史的見解に従えば、同時代の一九世紀の労働者の仕事も芸術家の製作も、ともに、もとをただせば、中世の手工芸家のひとつの労働形式へとさかのぼり、それは、喜びの表現としての広範囲な民間芸術の一団を形成し、社会的芸術的生産物として、生活のなかにしっかりと息づいていました。しかし、ルネサンスの輝きが一瞬にして消え去ると、それ以降一九世紀までのあいだに商業主義が一段と進み、それ以前の五世紀にわたって培われていた民間芸術は、大芸術(知的芸術)と小芸術(装飾芸術)に分離し、大芸術は大衆から遊離した存在と化し、他方で小芸術は、その製作手段が手から機械へと取って代わり、これまでの小芸術の担い手であった手工芸家は、勢い工場労働者に取って変えられ、喜びを伴わない労働が強いられるようになったのでした。モリスはまさしく、同時代の死に絶えた芸術を見ているのです。モリスの芸術に対する不安はここにあり、それを克服する希望の道が、社会主義という考え方であり、革命という手段だったのです。そして、さらに加えれば、この時期のモリスの脳裏には、三月にマンチェスターで行なった講演「芸術、富裕、そして福利」のなかにおいてすでに言及されているように、革命後のヴィジョンとしての「ユートピア」が少しずつ醸成されようとしていたのでした。

このように、モリスは、必ずしも労働の問題を、資本家によって搾取される労働として、経済学的視点や階級的視点からとらえているわけではありません。そうではなくてモリスは、それとは異なる別の次元である芸術の歴史的視点に立って、その今日的衰弱に、言い換えれば、労働と生活の劣化に強い不安を覚え、その再生に希望を見出そうとして、社会的な変革の必要性を訴えているといえます。そうしたなかモリスは、時期を同じくして、マルクスやそれを継承するハインドマンの考えに接し、自らの認識とのあいだに通底する社会主義という存在をいまや知り、そこにわが身をゆだねようとしていたのでした。

このころ、定期的に月曜日の夜に、ハインドマンの自宅で、政治的諸問題を討議する会合が開かれていました。民主連盟の執行部には、ハインドマン、H・H・チャンピオン、ジェイムズ・リー・ジョインズ、アーニスト・ベルファット・べクス、ジェイムズ・マクドナルド、そしてモリスなどに加えて、アンドリアス・ショイも選出されており、彼もこの会合に出席していたものと思われます。そしてショイは、モリスの自宅であるハマスミスの〈ケルムスコット・ハウス〉へも足を運んでいました。この地に政治亡命する以前にあって、オーストリアで家具のデザイナーをしていたことも、ふたりを親密にさせる要因となっていたのかもしれません。

年が明けた、一八八四年の元日に、「新年おめでとう」を伝えるために、モリスはジェニーに手紙を書きました。以下は、そのなかの一文です。

 日曜日にショイさんが来ました。どちらかといえば、彼は物静かでした。しかし、メイの伴奏で歌を歌いました。

ショイは、母国オーストリアの民謡やドイツの革命歌を披露してみんなを喜ばせ、メイが、マンドリンを使って、それにあわせたものと思われます。

モリスは、この手紙の最後に、「それでは、最愛のジェニー、至高の愛とともにさようなら。ベイリー嬢によろしくお伝えください。あなたのおばあちゃんへの短い文を同封しますので、それを渡してあげてください」と、付け加えています。この末尾の数行から、当時ジェニーに付き添っていた介護人もしくは看護婦が、ベイリー嬢であったこと、そして、この年の正月を、ジェニーはモリスの母のエマと過ごしていたことがわかります。

また、次の一月一六日に書かれた同じくジェニー宛ての手紙から、さらに多くのことを知ることができます。ヘンリエッタは、モリスの二番目の姉ではないかと思われます。それでは以下に、断片的に引用してみます。

 愛するあなたへの一〇万もの祝福とともに、あなたのお誕生日を祝う言葉を書きます……私たちの新しい新聞『ジャスティス(正義)』が土曜日に出ます……今夜は、ハムステッドで講演をする予定です……金曜日に、ジョインズ氏が、マートン・アビー支部で講演することになっています……水曜日にレスターで講演をします。このように、目下とても忙しくしています。おばあちゃんとヘンリエッタによろしく。そして、ベイリー嬢にも。

このように、今年もまた、モリスはジェニーの誕生日にあわせて手紙を書いています。この年の誕生日でジェニーは二三歳になりました。ジェニーと同年齢の大半の女性は、すでに結婚していました。といいますのも、少し古い資料ですが、一八五一年の人口調査によりますと、二〇歳以上の女性で結婚していない人はわずか二九パーセントにすぎなかったからです。モリスは、愛する娘から学業の道も、結婚による幸せも奪い取った、完治する希望のない病に心を痛め、娘の将来に強い不安を抱いていたものと思われます。そして、その病気が、自分の落ち着きのない性格に由来しているのではないかと考えていたモリスにとっては、ことごとく自己を責め立てる要因となっていたにちがいありません。そうした思いから、この時期のジェニーへの手紙の頻度が増しているのかもしれません。

一方、モリスの不安は、芸術の置かれている現状とその変革に向けられており、多忙な日々が続いていました。民主連盟の週刊機関紙である『ジャスティス』が、この一月(おそらく一九日の土曜日)に創刊されました。一月一六日から一〇日が過ぎた一月二六日の日付をもつジェニーに宛てた手紙において、再びモリスは、『ジャスティス』に言及します。

 『ジャスティス』の第二号が出ました。創刊号よりいい。しかし、赤字を出さずにやってゆくのは、困難なことになりはしないかと心配しています。

ハインドマンの『万人にとってのイングランド』を読んで、熱心な社会主義者に転向していた詩人のエドワード・カーペンターが、『ジャスティス』創刊のために三〇〇ポンドを寄付しました。しかし、資金繰りは困難を極め、結果的に、繰り返される損失をモリスが補うようになります。こうして、英国における社会主義の言論紙誌の伝統の礎が置かれたのでした。『ジャスティス』の発刊から間を置くことなく、今度は、社会主義の月刊雑誌『ツゥデイ』が、ジョインズとベルファット・べクスとの共同編集により創刊されます。のちにメイと恋愛関係になるバーナード・ショーの小説『非社会的社会主義者』がはじめて連載されるのが、この『ツゥデイ』においてでした。編集者のひとりのジョインズは、イートン校の副校長でしたが、社会主義活動が理由で一八八二年に辞職させられていました。もうひとりの編集者のベルファット・べクスは、のちにモリスとの共著で『社会主義――その成長と成果』を出版することになる人物です。

この時期、さらにモリスの講演が続きます。一月一六日のジェニーへの手紙のなかで言及されているように、一月一六日にはハムステッドにおいて、「有益な仕事対無益な苦役」と題した講演を、続けて一月二三日にはレスターで、「芸術と社会主義」を表題とする講演を行ないました。前者においてモリスは、積極的に階級の問題に言及し、「現代社会はふたつの階級によって分断され、一方の階級は、他方の階級の労働によって養われるように 特権 ・・ 化されている」ことを指摘しました。そして、後者の講演においては、「正しく秩序だてられた社会においては、働きたいと思う人は誰しもが、次のものを手にするべきです。第一に、尊敬に値する適切な仕事、第二に、健康的で美しい住まい、第三に、心と体の休息のために必要な十分な余暇」を主張しました。

マルクスが亡くなったのが、前年の三月一四日で、そして、それに先立って、パリ・コミューンがはじまったのが、一八七一年の三月一八日でした。そこで、この年(一八八四年)の三月、それを記念して、マルクスの墓のあるハイゲイトまでの行進が企画されました。モリスもそれに参加すると、妻のジェインに宛てた三月一八日の手紙のなかで、そのときの様子を、このように書きました。

 日曜日に、私は、宗教的な儀式を演じました。行きたくなかったのですが、行ってみると、嫌なものではありませんでした。簡単にいえば、カール・マルクスを追悼し、コミューンへの敬意を表するために、さまざまな旗と全くうまくない音楽隊との後尾について、トッテナム・コート通りからハイゲイト墓地までを(ボタン穴に赤いリボンをつけて)のろのろと歩いたのです。馬鹿げたことのように聞こえるかもしれませんが、実際はそうではありませんでした。私たちの人数はかなりの数に上っていたので、隊列は、はるかに千人は超えていたと思いますし、見物人も、私たちが目的地に着いたときには、およそ二、三千人を超える数に達していたものと思われます。当然ながら、当局は、私たちを墓地に入れたくなく、警官隊の厳重な警備を使って私たちに敬意を表わしたのです。それで私たちは、居心地の悪い近くの荒れ地に移動し、そこで歌を合唱し、演説を行ないました。

モリスにとって、これがはじめての街頭行進への参加でした。そして、そこで合唱されたのが、「インターナショナル」だったにちがいありません。この手紙を受け取って、ジェインがどのような返事を書いたのかはわかりませんが、彼女自身、あまり政治的な人間ではなかったようです。

すでに紹介しましたように、一月一六日のジェニー宛てのモリスの手紙のなかに、「金曜日に、ジョインズ氏が、マートン・アビー支部で講演することになっています」という一文があり、そこから、すでにこのときまでに、マートン・アビーに民主連盟の支部ができていたことがわかります。マッカーシーの記述に従うと、その支部は「盛況だった。小さな事務所の建物の上階の部屋で会合がもたれた。そしてそこには、従業員のための貸し出し図書館が設けられていた」。おそらくモリスは、自分のことを、資本家としての経営者としてではなく、会員証の肩書に書いていたように、労働者のひとりにすぎないデザイナーとしてみなしていたものと思われます。そしてモリスは、敷地探しのときからそうであったように、この時期マートン・アビーを、彼にとっての真の「理想の工場」にしようとしていたにちがいありません。

続いて六月に入ると、〈ケルムスコット・ハウス〉のモリスの自宅において、ハマスミス支部が結成されました。このとき、モリスの長女のジェニーと次女のメイも会員になっています。宣言文は、モリスが書きました。そのパンフレットには、このような文字が躍っていました。

資本家、つまりは、自ら働くことのない仕事から利益を得る裕福な人間と、労働者、つまりは、あらゆるものを生産する一方で、自分たちが生産するものにかかわって、何とか生きるために必要とされるもの以外は、全く自分たちの分け前とすることができない貧しい人間とのあいだで、いまや絶えることのない戦争が存在している。

そして、『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』の著者のE・P・トムスンによると、発足時の会員は一一名で、週に一、二回、会合がもたれ、一週間か二週間に一度、講演会が開催されました。

二.民主連盟から社会民主連盟へ

それでは、この時期の民主連盟の内部の様子は、どうだったのでしょうか。同じくトムスンは、同書のなかで、エンゲルスが、六月二二日にカール・カウツキーに宛てて出した手紙を紹介していますが、それを読むと、ハインドマンの運営手法が極めて独善的であったことがわかります。エンゲルスは、こう書いています。

思うにこの地では、ハインドマンが、その小さな運動体のすべてを 買い占め ・・・・ ようとしています。……彼自身金持ちで、加えて、自分の思いのままにできる財源ももっています。それは、非常に裕福な芸術家=情熱家ですが、政治家としての才能に欠けるモリスから提供を受けているものです。……ハインドマンは、ただひとりの支配者になりたがっています。……彼は、腕の立つ有能な実務家ですが、心が狭く、面の皮の厚いイギリス人で、自身の才能や天分を超えて、かなりの虚栄心に包まれているのです……。

そうしたなか、第三次改正選挙法が下院に上程されようとしていました。この改正案には、戸主選挙権が州部にまで拡張される内容が含まれていましたので、急進派や自由党の労働者が積極的に支持するところであり、そのころ毎週日曜日にはハイド・パークで集会が開かれ、ジョン・バーンズやジャック・ウィリアムズなどが聴衆を前にして演説をしていました。七月九日にモリスは、アンドリアス・ショイに宛てて、次の内容の手紙を書いています。そのころまでにショイは、すでにエディンバラに居を移していました。

私たちは、次の月曜日の週の選挙権集会で、ビラを配布し、『ジャスティス』を販売するよう、段取りを整えているところです。ビラは、今週の『ジャスティス』に記事として掲載されます。私は、それはいいことではないかと思いました。

ここで言及されている選挙権集会とは、この法案が下院を通過するときにあわせて、ハイド・パークでの開催が予定されていた、大きな政治集会のことであったと思われます。ただ、マッケイルとマッカーシーは、この日のことを七月二一日として記述していますが、トムスンとヘンダースンの伝記では、法案が否決されたあとの七月二三日の出来事となっています。このときの様子について、マッカーシーは、以下のように述べています。

 ハイド・パークにおいて民主連盟は、集会のなかの集会を演じようとしていた。ジョウジフ・アーチや、モリスの旧い盟友のヘンリー・ブロードハーストのような、自由党労働組合の指導者たちの演説を聞くために、五、〇〇〇人の労働者が動員されていた。民主連盟は、対抗の場を設け、そこで、ハインドマン、H・H・チャンピオン、ジャック・ウィリアムズ、そしてジョン・バーンズが群衆に向けて演説を行なった。……ハイド・パークでの集会で民主連盟の演説者たちは、自由党の指導者たちの弱腰の姿勢に攻撃を加えはじめた。そして、労働者階級の自由主義などは効果がないと批判したのである。避けがたく、けんか騒ぎへと発展した。

そのとき、激怒した群衆のなかの何人かが、演者たちの方を振り向くや、やじり声を上げ、社会主義の旗を破壊し、小高い丘の上に立って演説をしていた彼らを、そこから引きずり下ろしました。モリスは、演者ではありませんでしたが、マッカーシーは、その騒ぎから教訓を得たとして、こう指摘しています。「モリスは、性分として、暴力に賛成ではなかった。多くの場合、彼は、断固として暴力に反対する声を上げた」。

八月四日、ウェストミンスター・パレス・チェンバーズで民主連盟の第四回年次大会が開催されました。ここで重要な内容が、幾つか決議されました。ひとつは、組織名が「民主連盟」から「社会民主連盟」に変更されたことです。このことについてトムスンは、「この組織を、急進運動の極端な『左翼』のうちにあって部分的に維持しようとする試みが、最終的に放棄された」と、みなしています。そして、宣言された社会民主連盟の目的は、次のようなものであったとも、述べています。

共同体全体の利益ために、民主国家によって統制されることになる生産、流通、為替相場。そして、両性間の社会的経済的平等の確立を伴った、労働の、資本主義と地主主義の支配からの完全解放。

別のもうひとつの重要な決議は、社会民主連盟の会長職からハインドマンを引き下ろしたことでした。「真に民主的な団体」は決して個人としての会長は置かず、執行委員会が会合ごとにそのつど異なる議長を選出すればいいというのが、ショイやレインなどの考えでした。そして最後に、ジョウジフ・レイン、マルクスの末娘のエリナ・マルクス、そして、科学者で自由思想家のエドワード・エイヴリングが執行委員に選出され、このことによって、ハインドマンに対する反対勢力が強化されることになったのでした。因みに、エイヴリングとエリナが、「自由結婚」のもと公然と一緒に暮らすことになるのは、ちょうどこのときのことでした。

モリスは、この年の春、ハインドマンとの共著で『民主連盟のために書かれた社会主義の諸原則の要約』をロンドンのモダン・プレス社から出版していました。しかし、この年次大会が開かれるころまでには、状況は、モリスがハインドマンと反ハインドマンのあいだでの自分の立ち位置に苦慮する立場をもはや超えて、最終的に両者は対立する関係になっていました。マッケイルは、八月にモリスが書いたとする次の一文を公開しています。

私が最初から予期していた時がついにやってきたように思われます。民主連盟をふたつかそれ以上に引き裂くように見える内部の対立において、どのようにすれば責任をとらずにすますことができるのか、私には見当がつきません。ふたり、三人、あるいはそれ以上の者が、完全にハインドマンを信用していないのです。私はハインドマンを信用しようと全力を尽くしましたが、もはやそれも不可能となりました。そのことにより、事実上、彼と私の対抗関係が生まれてしまっているのです。

この文の出典につきまして、マッケイルはとくに何も書いていませんが、おそらくこの時期のモリスの心情は、このようなものだったにちがいありません。

基本的な主たる対立点は、議会主義を巡る考えの違いでした。民主連盟内の一方のグループは、ある程度議会活動を信じ、短気でご都合主義的な性格をもった、議会主義者のハインドマンを、ジョン・バーンズ、ジャック・ウィリアムズ、H・H・チヤンピオンらが支持していました。別の一方のグループは、それよりも純粋で、長期にわたる社会的な運動と教育とを通じて社会主義を達成することを考えていました。マッカーシーは、そのなかにあってのモリスを、こう描写しています。

柔軟で、現実主義的ではないモリスは、後者のグループにいた。いまやモリスは、それ以降も持続して、彼は熱烈な反議会派の立場をとった。彼は、自分の経験から完全に腐敗していると感じ取っていた制度のなかからは、いかなる改革の見通しも確信することができなかったのである。ハインドマンと対抗するモリスの列には、アンドリアス・ショイ、労働解放同盟のジョウジフ・レイン、それにE・ベルファット・べクスがいた。

八月四日のウェストミンスター・パレス・チェンバーズでの民主連盟の第四回年次大会の重要な決議の背景には、以上のような空気が漂っていたのでした。しかし、異なる二つの空気は、決してひとつに融合することはなく、その後も、だらだらと引き継がれてゆきます。そして、最終的に、決裂の時を迎えるのです。

この年(一八八四年)の一二月の中旬、モリスはスコットランドにおいて四日間、社会主義にかかわって講演をしました。そのときそこで体験した苦い思いを、モリスは、一二月一八日、ロンドンの自宅からジェインに宛てて出された手紙のなかで告白しています。ジェインは、メイを連れて、避寒のためにロンドンを離れていました。以下は、その手紙からの部分引用です。

 もっと早く書かなくて申しわけありませんでした。住所を持って行くのを忘れてしまい、(火曜日の夜に)帰り着きました。多くのことをしてきました。北へ行ってみて、いかにこれまでハインドマンがひどいことをしてきていたのかがわかりましたので、これ以上私は、我慢を重ねるのはよすことに、心を決めました。……

 いまや唯一の問題は、私たちが社会民主連盟を出て行くのか、それとも、ハインドマンがそうするのか、そのどちらかなのです。……来週の火曜日の会合において、私たちは、ショイの信任の動議と、ハインドマンを除外した共同編集が可能になるように、執行部に機関紙『ジャスティス』を返還させる動議とを、提出します。こうしたことが成し遂げられるならば、私にはわかりませんが、どうやって、こいつは連盟に居残ることができるのでしょう。

講演のために滞在したスコットランドで、モリスは、連盟のためにバーミンガムの地で懸命に働いていたショイに対するハインドマンの中傷行為を知ったのでした。そこで、ジェインに宛てて手紙を書いたその日(一二月一八日)のうちに、ショイにも、手紙を出しました。「来週の火曜日に歯に衣着せぬ発言をする私を、あなたは信じてくださるものと思います。……二度とハインドマンと握手をする必要がなくなるとは、何とうれしいことでしょうか。取り急ぎ」。

この会合が行なわれた翌日の一二月二四日、そのときの様子を知らせるために、モリスは、ジョージーへ手紙を書きました。

昨晩は、思ったとおり、めったに見ることのない、実にいまいましい結末と相成りました。最悪だったことのひとつは、休会となって土曜日まで論議が持ち越されたことです。……唯一輝いていた論議は、自分の性格についてのショイの、ハインドマンへ向けての実に高潔で巧みな抗弁でした。あとはすべて、単なる悪口の羅列でした……しかしながら、土曜日には、私はそこから実際抜けるつもりでいます。……さらに口論を続けて一箇月も二箇月も犠牲にして、社会民主連盟という組織名と『ジャスティス』という気の毒な遺品を奪い合うための戦いをしても、そんなことには何の価値もありません。ハインドマンが、社会民主連盟を自分の私物であるとみなしているのであれば、彼にくれてやり、彼のしたいようにすればいいのです。……私たちは、全く再び自由の身になって、もっと平凡なやり方で地味に宣伝活動を行なうようになり、独自の自分たちの機関紙も発刊することになるでしょう。

持ち越された土曜日の会合は、午後の六時にはじまり、一〇時半に終了しました。予定していたとおりに、モリスとその仲間たちは、社会民主連盟を退会しました。別れを惜しむ声が聞こえました。ジャック・ウィリアムズの目には、涙がありました。そして、その翌日の一二月二八日、モリスはマートン・アビーの自室から、再びジョージーに手紙を送りました。そこには、新しく結成する社会主義同盟について触れられていました。

今朝私は、社会主義同盟のためにとても粗末な部屋を借りました。そして、しかるべき数のウィンザー・チェアと台所用テーブルを購入するように指示しました。こうして、ここで再び、本当に若いクマとなって私は、目の前にあるあらゆる問題に取り組んでゆきます。明日の晩、私たちは、同盟の発会式をもちますが、いまはそのことについて申し上げるだけの余力は残っていないように思います。私は、ここの自分の部屋にいて、冬の庭を眺めています。職人たちが、何点かのチンツを地面に広げて日光に晒しています。いくらか心が慰められます。

そして、大みそかの一二月三一日、モリスは母親に宛てて、「新年おめでとうのあいさつと私からの愛を贈るために一筆啓上します」との書き出しでもって、手紙を書きました。その手紙の結びが、「少しかぜ気味です」という言葉でした。かくして、一八八三年と翌一八八四年の二年にわたるモリスにとっての民主連盟と社会民主連盟の時代は、幕を閉じたのでした。