アーツ・アンド・クラフツ運動の信条を的確に表現する言葉として、次のふたつの文言がこれまでしばしばデザイン史家によって引用され、使用されてきました。
……つくり手と( ・・・・・ ) 使い手に( ・・・・ ) とっての( ・・・・ ) 喜びとして( ・・・・・ ) 民衆によって( ・・・・・・ ) 民衆のために( ・・・・・・ ) 製作された( ・・・・・ ) 芸術がかつては存在していたことを、文明化した全世界が忘れ去ってしまった。
役に立つかわからないものや、美しいと思わないものは、あなたの家にいっさい置いてはならない。
これらの言葉は、ともに一八八〇年二月にウィリアム・モリスがバーミンガムで「生活の美」について講演したときのものです。アーツ・アンド・クラフツ運動は、文明世界によって破壊されてしまった「労働と使用の喜びとしての民衆芸術」を取り戻すための改革運動であり、同時に、破壊へと導いた機械文明への抗議運動でもありました。人間にとって真に「役に立つものや美しいもの」は、どのような労働の所産によって生み出されるのでしょうか。そのような労働の産物としての芸術が共有される社会とはどのような組織原理によってつくられる共同体なのでしょうか。こうした芸術的/社会的主題へ向けての実践が、アーツ・アンド・クラフツ運動の重心となるものでした。それでは当時、そのための実践の場と形式は最終的にどこに求められようとしたのでしょうか。
すでに述べていますように、一八七〇年代のはじめに、ジョン・ラスキンは「英国の職工と労働者」に対して、「イギリスの大地のしかるべきささやかなる部分を美しく安寧で豊穣なものにするように私たちは努めたい。そこには蒸気機関車も鉄道の軌道も欲しくない。……私たちは、庭にはたくさんの花と野菜を、野にはたくさんの穀物と牧草を手にしたい……」と述べていました。ほぼ同じ時期にモリスも、オクスフォードシャーの田舎に別荘として使う〈ケルムスコット・マナー〉を見つけると、それを「地上の天国」という言葉でもって形容し、その後、この別荘に咲き乱れる植物や野に遊ぶ小鳥を主題にした作品を生み出していました。確かにこの地は、ヴィクトリア時代の資本主義がもたらしていた賃金のための労働からも醜悪な製品の氾濫からも、無縁でありえました。その意味で、アーツ・アンド・クラフツは「田園への回帰」や「自然への回帰」、さらには「簡素な生活」と固く結び付くものでした。一九世紀も終わりに近づき、田園回帰運動が勢いを得るにしたがって、田舎生活を愛する信条は、アーツ・アンド・クラフツの実践形態へと移行してゆきます。一八九三年には、アーニスト・ジムスンがバーンズリー兄弟とともにコッツウォウルズに移り住み、家具製作を再開していますし、遅れて一九〇七年には、エリック・ギルが自分の工房をロンドンからディッチリングの村へと移すことになります。こうした文脈にあって、とくに重要な意味をもつのが、一九〇二年のC・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校のチピング・キャムデンへの移転でした。なぜならば、それは、ある意味でアーツ・アンド・クラフツ運動の到達点を示す出来事だったからです。
すでにアシュビーは、一八九六年にモリスが亡くなると、「ケルムスコット・プレス」の設備の一部を手に入れることによって「エセックス・ハウス・プレス」を興し、一九〇〇年には、自ら独自のタイプフェイスをデザインし、そのタイプフェイスは、『ジョン・ラスキンとウィリアム・モリスの教えに向けての努力』にはじめて適応されました。しかしアシュビーにとって、喧騒のロンドンに欠けていたものがありました。つまりそれは、エドワード・カーペンターのロマン主義的社会主義に認められるような、簡素で正直な田園生活のなかにあって展開されうる同志的結合( カムレッドシップ ) であり、これはモリスの「フェローシップ」とほぼ同義をなす用語でもありました。
アシュビーが求めた田園は、コッツウォウルズに位置するチピング・キャムデンでした。この小さな村は、セント・ジェイムズ教会に象徴されるように、中世にあってはコッツウォウルズ地域の羊毛の集積地として、またヨーロッパへ向けての販売の拠点として繁栄していました。しかし一九世紀の後半に至ると、農業の衰退が進むにしたがって人口も減少し、また一八五三年の鉄道の開設に際しては、この地域を遠巻きにするように軌道が敷設されたこともあって、近代文明から取り残された、産業革命以前の「未発見」の田舎という様相を呈していました。一方、八〇年代に入ると、田園回帰運動への熱狂に促されて、幾人かの芸術家や建築家たちがすでにこの地に移り住みはじめようとしていました。そうした状況のなかにあってアシュビーは、五〇家族、総勢約一五〇人の男女と子どもとともにロンドンのイースト・エンドを離れ、チピング・キャムデンへの移住を決意するのです。
それぞれの工房の設備が、順次ロンドンからシープ・ストリートのかつての絹織工場へと搬入され、その建物は〈エセックス・ハウス〉と命名されます。一階を印刷工房が、次の階を宝石細工と銀細工と琺瑯の工房が、最上階を家具製作と木彫の工房が占めました。敷地内に一二馬力の石油エンジンが納められた小さな小屋があり、そこから電力と動力が供給されました。アシュビーの仕事場は隣接する別棟に設けられていました。こうして工房における生産活動は開始され、加えてこのギルドには、演劇や歌唱やスポーツだけでなく農耕も取り入れられてゆきました。農業と手工芸が統合された共同体の建設こそ、アシュビーの理想郷だったのです。しかしこの理想の共同体は六年間しか維持されることはありませんでした。失敗の原因について、これまで、次のような指摘がなされてきました。ギルドの規模が大きくなりすぎたこと。事務職員や管理業務が重荷になったこと。リバティー商会のような小売業との競争が激化したこと。利益を度外視したアマチュアの工芸との競争に見舞われたこと。経済不況があったこと。キャムデンのような田舎では、時代が悪化したとき、ほかに行く場所がないために、ギルドの職人を解雇することが容易ではなかったこと。これらのなかの幾つかの理由からすれば、明らかに、アーツ・アンド・クラフツの理想は、粗暴な資本主義の力の前に、敗退したことになります。
この時期までには、織物、陶芸、家具製作、食器やジュエリーの金属細工、造本やカリグラフィーなどの分野で仕事に従事する芸術家=工芸家が多数英国に存在していました。多くはアーツ・アンド・クラフツ哲学の信奉者であり、建築についての経験と知識をもち、画家や彫刻家と同じやり方で生計を立てていました。大きい都市には彼らのギルドや団体があり、芸術労働者ギルドがその典型的な例であり、各地の美術・工芸学校で教える教師の供給源としての役割も担っていました。そして彼らの信条を要約するならば、それは、産業主義的社会構造の変革であり、より簡素でより正直な新たな生活様式の再生であり、金銭や権力を媒介としない創造的な人間関係の確立にあったといえます。こうしたロマン主義的でユートピア的な社会主義は、少なくとも一八九三年の独立労働党の結成以前にあっては、ひとつの社会主義の立場を標榜する理論と実践として、とくに芸術家=工芸家のあいだで広く共有されていたものであり、この立場の限界性を一九〇八年のアシュビーのギルドの崩壊は象徴していたのでした。
アーツ・アンド・クラフツが田園回帰運動と結び付き、新しい人間の共同体を目指したことは、それ自体崇高な理想の追求でした。しかしそれは反面、現実からの逃避でもありました。現実の物質世界の醜悪さから目をそらし、そこから逃避するようなかたちでの理想社会の追求は、いつかは再び醜悪な現実世界に飲み込まれてしまうことを、革命主義者としてのモリスはすでに理解していました。そのような理解があったがゆえに、一八八七年にアシュビーがギルド設立に際して行なった援助の要請に対して、モリスは決して友好的ではありませんでしたし、一八八八年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の発足のときにも、必ずしも積極的な姿勢を示したわけではなかったのです。醜悪な社会からは醜悪な芸術しか生み出されることはなく、真の芸術を手に入れるためには、まず革命によって醜悪な社会を理想の社会へと変革しなければならない――これが、社会と芸術の一体不可分の関係性を主張する、モリスの政治的立場でした。モリスにとっての理想の芸術は、社会的生産構造そのものとして成立しなければならない以上、社会革命を経ないアーツ・アンド・クラフツの実践は、自己満足的なアマチュアの仕事へと至る、ある意味で危険な道でもあったのです。明らかにアシュビーのギルドが例証しているように、全国に広がるアーツ・アンド・クラフツのさまざまなギルドが当時の資本主義的な生産組織にそっくり取って代わることはありませんでした。それどころか、モリスの予見にみられるように、その運動によって、アマチュアの工芸への熱狂に火がついたことも事実なのです。しかし、またその一方で、モリスの言説や『ユートピア便り』のなかにみられるような社会革命も、起こる気配はほとんどなくなろうとしていました。そうであるならば、モリスが求めて止まなかった「役に立つものや美しいもの」は、一体どのようにして社会的に生み出されなければならないのでしょうか――これが、アーツ・アンド・クラフツ衰退以降の主要な二〇世紀初期のデザイン実践上の命題になってゆくのでした。
早くも一八九〇年代の後半には、アーツ・アンド・クラフツの限界を指摘する声が上がりはじめました。たとえば『ステューディオ』のなかに、アーツ・アンド・クラフツ展覧会協会への鋭い批判的論調を認めることができます。
美しくてしかも経済的な家具の問題を正面から論じることは、一人ひとりは優れた建築家やデザイナーや工芸家であるとしても、おおむねそのような人たちを会員とする一団体にとっては能力を越えるものではないだろうか。……安価で美しい家具、うまく装飾が施された家庭向け陶器やディナーセットやティーセットの類、美的でしかも高価でないガラス器、低価格でしかも満足のいく壁紙やクレイトン更紗やカーペット――こうしたものを提供してくれるような製造業者に対して、彼らは誉れある感謝状を贈呈すべきである、という提案は無分別なことであろうか。
こうした批判にもかかわらず、一九〇三年とそれに続く一九〇六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会では、従来どおり、高価な手づくりの家具、ゴシック調の装飾彫刻品、丹精につくり上げられた刺繍、さらには宝石をあしらった帽子用の留め金などが選ばれ、展示されました。それに対する一九〇六年の『ステューディオ』の論評は、「この展覧会にみられる美術・工芸品は、家庭生活の快適さのために実際に必要なものを改善しようとする闘いに、ほとんど失敗していた」というものでした。この段階に至って求められようとしていたものは、快適な生活に必要な低価格でしかも良質な品物でした。別の言葉でいえば、それは、「個人的なつくり手と使い手」のあいだに成り立つ因習的なアーツ・アンド・クラフツ(あるいは、より世俗的な意味でのアーティー/クラフティー)ではなく、明らかに「社会的な製造と消費」にかかわって要求されることになる新たな次元でのデザインだったのです。
限られた少数者ではありましたが、アーツ・アンド・クラフツの世界のなかにも、そのことを強く受け止めはじめていた人たちがいました。彼らにとって、一九一四年にケルンで開かれたドイツ工作連盟の展覧会は、実に大きな衝撃でした。ヴァルター・グロピウスがデザインしたモデル工場とブルーノ・タウトによる革命的な「ガラスの家」に認められるように、大量生産と機械化を積極的に是認しようとする近代精神によって、その展覧会は満ちあふれていたのです。このとき英国からケルンを訪れたのは、ドライアッド工房のハリー・ピーチとヒール商会のアムブロウズ・ヒールと建築家のセシル・ブルアーでした。明らかにこのケルン訪問は、彼らに大きな刺激を与え、アーツ・アンド・クラフツに取って代わる、産業のための新たなデザインの未来像を確信させるとともに、そのために必要な運動体の設立を決意させます。こうして誕生したのが、「新しい目的をもった新しい団体」を看板に掲げたデザイン・産業協会だったのです。それはちょうど、イギリスとドイツが戦争に突入する二箇月前の出来事でした。
以上が、モリスが亡くなる一八九六年からジェインが亡くなる一九一四年までのアーツ・アンド・クラフツの世界の概略的な様相です。しかし、メイは、そうした新しい動きのなかではなく、旧来どおりのアーツ・アンド・クラフツに身を置いて製作を続けていました。一九一六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会にメイも出品します。ジャン・マーシュが伝えるところは、以下のとおりです。
一九一六年のアーツ・アンド・クラフツ展覧会は、こうしたことは戦時にあっては軽薄であるという一般的な感情を無視して挙行されたにちがいないが、主として彼女がかかわったふたつの展示を含んでいた。そのひとつは、女性芸術ギルドが全面的に設営し、さまざまな芸術家の作品が収められた一室で、そのなかに、彼女がデザインと刺繍をした外套と、彼女とメアリー・ニューイルが製作したベッドの掛け物と、彼女自らがデザインした銀の宝石箱とリンゴ型の香水びんが含まれていた。そして、もうひとつは、その隣りの一室で、コッツウォウルドのサパートンでデンマーク風の工房を経営していた建築家で家具デザイナーのアーニスト・ジムスンとメイによって設営されていた。ジムスンは家具と金属細工を出品し、それと並んでメイは、刺繍を施したカーテン、クッション・カヴァー、衝立、テーブル・マット、それに、仕切りカーテンを出品した。メイはまた、三点の精妙なネックレスも展示しており、このことから、彼女はまだ宝石類の製作をしていたことがわかる。
このときのアーツ・アンド・クラフツ展覧会は、王立アカデミーで開催されました。メイのこうした製作は、一八九〇年以降の住まいとなっていたロンドンのハマスミス・テラス八番地の自宅の仕事場で行なわれたにちがいありません。しかしながら、戦争が進むにつれて、メイは、多くの時間を〈ケルムスコット・マナー〉で過ごすようになり、戦争が終結し、一九二〇年代に入ると、自宅の借地権を友人で画家仲間のメアリー・スロウンに売り渡し、その後この地での隠遁生活に入ってゆくのでした。その背景に、そうするにふさわしい年齢に達したというだけではなく、自分のデザインと製作が、時の流れと批判に晒されてゆく、避けがたい現状から逃れたいという気持ちがあったのかもしれません。こうしてメイは、刺繍や宝石細工の工芸家としての現役を退くことになるのです。
晩年を過ごすべき新しい〈ケルムスコット・マナー〉での生活がはじまりました。しかしそれは、メイ単独の生活ではなく、一六歳年下のひとりの女性との共同生活でした。その人の名は、メアリー・フラーンシス・ヴィヴィアン・ロブといい、一八七八年一〇月の生まれの独身で、通常はロブ嬢という名で呼ばれていたようです。おそらく一九一七年の末ころからこの〈ケルムスコット・マナー〉に住み着くようになったものと思われます。ロブ嬢がケルムスコットの村を訪れたもともとの目的は、農婦として銃後活動を行なうためでした。おそらく彼女は、婦人国土奉仕部隊の一員であったにちがいありません。この組織は、戦争に行ってしまった農場労働者のあとがまとして、さまざま農作業に女性を配置することをその主たる目的にしていたのでした。
メイ自身は、銃後活動に直接参加することはなかったようですが、村の住宅事情に関心をもっていました。母親が亡くなったとき、その記念として、ジムスンに依頼してコティッジを建てていますが、これは、堅牢で衛生的な施設を村の家族に提供するためのものでした。またメイは、村人の栄養状態や食料配給にも心を寄せ、行政当局とあいだの橋渡しも行なっています。当時のケルムスコットの村には、電気も水道も主要排水路もありませんでした。戦争で残された女性たちを、こうしてメイは、懸命に支援し続けたのです。メイがロブ嬢に出会ったのは、そうした戦時中のことでした。
これまで、ロブ嬢につきましては、当時の様子を知るさまざまな人が言い伝えています。それらを全体的にまとめると、体格はずんぐりしていて、短髪で、着ているものはいつも男物、粗暴な言葉遣いもみられ、両性具有の可能性があるというものでした。ジャン・マーシュは、ふたりの関係を、こう表現します。
この特殊な一件の場合、メイ・モリスとメアリー・ロブの年齢や背景を考えると、性行為はなかったように思われる。それはそうだとしても、ふたりの関係は、夫婦間の特徴を数多く備えた、親密な愛情で結ばれていた。そのうえ、女性が髪を短く刈り、ズボンをはいていれば、同じような身なりを今日においてする以上に、その当時目立っていたわけであり、メアリー・ロブは女性的役割の規範を断固として拒否していたのである。またそのころは、しばしば感情の面において非常に深くて強いレズビアンの関係が追及され維持されていた時代でもあった。
この記述内容が真実であるとするならば、ほぼ間違いなく、メアリー・ロブはレズビアン(女性間の同性愛者)というよりも、肉体的には女性であるも心的には男性を自認するトランスジェンダーであった可能性が強く残ります。そしてまた、性的欲望や恋愛感情が女性へと向かう性的指向をはっきりと示していたとするならば、ロブのメイに向けたその愛は、同性愛ではなく、異性愛だったということになるのではないでしょうか。
メイとロブとの親密性は、ふたりのアイスランド旅行にも現われます。ふたりは、メイの父親が生前訪問したアイスランドを、一九二四年ころ、一九二六年、そして、三回目として一九三一年に訪れています。これは、父親のかつての旅程をたどるために実施されたというだけではなく、ふたりの愛の深さを確かめるために実行された旅だったようにも感じられます。
そうした、メイとロブとが共同生活を営む〈ケルムスコット・マナー〉へ、一九二八年一一月九日、日本からひとりのモリス巡礼者が現われます。その巡礼者は、四年前に『藝術と社會』(更生閣、一九二四年刊)を著わしていた関西学院の北野大吉でした。彼は、その本のなかで、モリスの労働観と芸術観に対して、次のような適切な認識を示していました。
彼[モリス]はラスキンの藝術論を體得して、「藝術とは人々の勞働に於ける歡喜の表現である。」と云つた。モリスはこの一句に、幾多の重大なる意義を持たせつゝ、彼の社會批評への敎義として進んだのである。……
モリスはこの藝術の原理を、社會の原理とせんがために、社會運動の先頭に乘り出した。
モリスは、「芸術の原理」を「社会の原理」に重ね合わせることを要求し、その理想の実現のための運動へと実践的に自己を向かわせました。日本にあっては、北野の『藝術と社會』が刊行されるころから、モリスの社会主義を指して、「芸術的社会主義」という固有の用語がしばしば使用されます。以下は、北野の「ケルムスコツト・マノア訪問記」からの抜粋です。
訪問に至るまでの経緯は、こうでした。
私は昨年一一月九日かねて希望して居たケルムスコツト・マノアの訪問を試みた。こゝはかの有名な藝術的社會主義者ウイリアム・モリス(一八三四―九六年)が其の晩年を樂しんだ所である。そして今は彼の娘のミス・メイ・モリスが秘書のビゝアン・ロツブと共に静かな生活をして居る所だ。……豫め先方の都合を聞き合わせて見たが、生懀モリス嬢は八月以來長らく病氣で入院中だとの事であったから、日本から持つて行つた扇子を送つて病床を慰めるに止めやうとした。所が秘書のロツブさんから返事が來て「モリス嬢は御不在だが自分が代わつてマノアを御案内するから、是非共御來駕を乞ふ」ということであつた。
ロンドンから〈ケルムスコット・マナー〉までの道程は、さながら近代から中世へといざなわれる旅路でした。
そこで一一月八日夜急に電報を打つて翌九日午後二時にお訪ねする旨を知らせて置いた。……
シャラバンは朝の九時半にユーストン停車場の附近から出發して、ロンドンの町を巧みに縫ひながら西へ西へと走つて行く。……然し一一時を過ぐる頃シャラバンがオツクスフオードの西方に差しかゝつてからといふものは、周圍の景色が一變して來た[。]近代の英國から中世の英國へ歸つた來たやうな氣持がし出した。
こゝらまで來ると本當に英國の田園の美しさが判つて來る。……殊にモリスがこのテムズの上流ケルムスコツトを愛した氣持は一倍とよく判る。モリスがニュース・フロム・ノーウエアのうちに田園生活を基調とする理想郷を畫いたのも成る程とうなづかれる。ラスキンがロンドン市を見て近代文明の怪物だと呪ひ、オツクスフオードの町が灰色から近代色に變化して行くのを眺めて、嘆聲をもらした彼の氣持に敬意を表したくなる。英國の田園は確かに詩人、藝術家を魅するだけの力を持つて居る事を斷言する。……やがて私はグロスターシアのレチレードに着いた。そこから約十町程後戻してトラウト・インの所から横に折れ、更に五町程行けばケルムスコツトの村である。人家は數十個しかない。家は皆昔からのものだ。この灰色の村の中にモリスのマノアがある。村の人々は……未だに惡ヅレして居ない。こんな村人の間を縫って私はマノアの入口に立つた。
出迎えてくれたのは、一瞬狼狽を引き起こすほどの、とても印象的な人でした。
「やあ、いらつしやい。電報を受け取つたので早速オツクスフオードから歸つて参りました」と、言ふのを聞いて始めて、この人( ・ ) が秘書のロツブさんだと判つた。然し困つたことには頭髪は私共と變りがない。それに赤いネクタイをつけて居る。洋服は男物だ。私の最初に受けた感じは、梅ヶ谷の體格をした、顔は常睦山といふ所だつた。これはしまつた。手紙の返事にはミス・ビゝアン・ロツブと書いて置いた。……それに實物を見れば立派な男子である。私の狼狽振を御想像願上げます。……
然るに一言二言話して居るうちに、私はロツブさんが女( ・ ) であることを直觀的に認めることが出來た。彼女の聲と表情が彼女を男にすることを許さなかつたのだ。私は手紙の「ミス」を思出して、先ず安心した。
当時の〈ケルムスコット・マナー〉の様子を正確に描写することはできませんが、この建物の北側に位置する玄関である「ノース・ポーチ」を入ると、廊下が続き、その廊下の左手は開放的な「ノース/ガーデン・ホール」と呼ばれるホールになっており、ここが食堂に使用されていたものと思われます。ロブ嬢は、食堂に案内すると、日本からのこの訪問者に食事を提供してもてなし、食材について、このように説明しました。
このパンはケルムスコツトで出來た小麥で以て宅で作つたのです。味が違ふでせう。このチーズは附近の百姓から貰つたもので、色々と種類がありますが、お好きなものをお取り下さい。この茶もミルクもケルムスコツトで取れるものです。クルミやリンゴは後の庭にあるのを取つて來たばかりです。
さあ、さあ、幾らでも召上れ、ハハ……
しばしば発せられる「男」のような「ハハ……」という豪傑笑いが、訪問者を驚かせます。そしてまた、赤いネクタイを締めていたので、モリス同様に革命主義者かと思いきや、意外にも保守主義者だったことも、この訪問客にとっての驚きとなりました。しかし、それはそれとして、このホールには、ふたつの椅子が並べられていました。これらについてのロブ嬢の説明は、こうでした。
左右の椅子はモリス夫妻の使用して居たものです。その食卓も其の當時のものです。ミス・モリスはこれらのものを大事にして自分で使用することもない位です。
どちらかは、フィリップ・ウェブがデザインした椅子だったかもしれません。食事のあと、ロブ嬢と訪問客は、主として日本についての雑談に興じました。それが一段落すると、ロブ嬢が案内したのは、このホールの東側に続く「パネルド・ルーム(羽目板の部屋)」だったのではないかと思われます。「訪問記」は、次のように続きます。
こんな話で約一時間を面白く費して後に、ロツブさんはモリスの應接間に案内して呉れた。彼女が先づ最初に私の注意をひいたのは、かの有名なる畫家ロゼツチが畫いたといふモリス夫人の肖像であつた。私が最初この繪を見たのはレツキツト氏の「ウイリアム・モリス」の中に挿入されて居たものであつた。其の當時、私は大きなものだとは思わなかつたが、實物は豫期に反して疊二疊敷位のものであった。
そして其の隣の所にモリスの畫いた唯一の油繪があつた。ロツブさんの説明ではロゼツチのモリス夫人よりも、このモリスの油繪の方が餘程上出來であるとの事だ。……かくの如く油繪の方では遺物が殆んどないが、彼のデザインはケルムスコツト・マノアに無数に残つて居る。カーペット、クツシヨン、カーテン等にして、彼のデザインにモリス夫人或はミス・メイ・モリスの刺繍を施したものも多數にあつた。
絵画作品のうち、前者の作品が、《青い絹の衣装をまとったウィリアム・モリス夫人》で、後者の作品が、《麗しのイゾルデ》であったのではないかと思われます。
後者の作品については、確かにマッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』においては、図版のキャプションに《王妃グウェナヴィア》が用いられています。しかしながら、メイが編集した『ウィリアム・モリス著作集』の第一四巻に掲載された同作品のキャプションには、《麗しのイゾルデ》が使われており、したがって、このときロブ嬢は、《麗しのイゾルデ》という名称でもってこの作品を紹介したにちがいありません。
さらに、ロブ嬢の案内が続きます。
それから二階に案内された。先づ第一がモリス夫人の寝室であつた。こゝにはモリス自身の作品以外に冩眞が澤山に列んで居た。そして友人のモルガンから送られた器物が所々に飾られて居たのも目立つて居た。
次はモリス自身の寝室である。この室内にはモリスの著作並に出版圖書が整然と列んで居た。そしてベッドの上にはモリスの「チヨーサー」が恭しく置かれて居る。ロツブさんの説明ではこの「チヨーサー」の時價が數千圓とか數萬圓とかする相だ。流石に私もこれには一寸驚かされた。手垢のつかぬ樣( ・・・・・・・ ) に大事にして中を見て呉れとの話であつた。御尤もな御注意であると思つたので、最大の注意を以て拝見に及んだ。
それから次は現在のメイ・モリスの書齊となつて居る室であつた。こゝに於いてモリスが晩年力を注いで居たケルムスコツト版のオリヂナルのものを多數に見せて貰つた。そしてケルムスコツト・マノアの冩眞を二枚頂戴した。これは病床にあつたメイ・モリスからの傳言に依つて私に送られたものである。
ここでロブ嬢に別れを告げ、最後にこの巡礼者は、モリス夫妻の墓参にケルムスコット教会に立ち寄り、黙祷を捧げました。夕闇のレッチレイドを四時半に出発した、この巡礼者を乗せたシャラバンが、電灯が灯るロンドンに到着したのは、八時半ころのことでした。
北野大吉が訪問してからおよそ七箇月後の一九二九年の六月、ふたり連れの日本人が、この〈ケルムスコット・マナー〉を訪れました。ひとりが、民芸運動の唱道者の柳宗悦で、もうひとりが、民芸派の陶芸家である濱田庄司でした。北野の場合は、『藝術と社會』の著者としてのモリスへの深い敬愛の念が〈ケルムスコット・マナー〉訪問へと導いたようですが、柳の場合は、一定の尊敬の気持ちは示しながらも、それはあくまでも形式的なものであり、実質的にはモリスの思想と実践に対しての批判者でありましたので、この〈ケルムスコット・マナー〉訪問には、巡礼訪問というよりも、むしろ敵陣視察といった意味合いが多く含まれていたものと想像されます。それでは柳は、この訪問に先立って、モリスにかかわって、どのような認識をもっていたのでしょうか。
柳は、モリスへ向けられた関心の経緯を、「工藝美論の先驅者に就て」(一九二七年)において、こう述べています。
私がラスキンやモリスを熟知するに至つたのは實に最近の事に屬する。近年出版された大熊信行氏の好著「社會思想家としてのラスキンとモリス」が、兩思想家に對する私の注意を一層新にせしめた事を、感謝を以て茲に銘記したい。
この時期柳宗悦は、一九二五(大正一四)年に、雑誌『木喰上人之研究』に研究成果を寄稿し、翌年(一九二六年)の四月には、「日本民藝美術館設立趣意書」を公表し、九月には地方紙『越後タイムス』に「下手ものゝ美」を発表します。大熊信行の『社會思想家としてのラスキンとモリス』(新潮社)が世に出たのは一九二七(昭和二)年のことで、そのとき柳は、『東京朝日新聞』紙上の書評でこう書きました。
私は最近多くの悦びと尊敬とをもって大熊信行氏の近著「社會思想家としてのラスキンとモリス」とを讀了する事が出來た。……
何人も今日ラスキン、モリスの考へに、考へを止める事は出來ないであろう。(私もその一人である)。しかし何人も彼等の偉大な精神が見ぬいた社會の正しい目標について、思慮を拂はずして自らの考へを進める事は出來ないであろう。私達は幾多の批判を彼等の上に加へるべき資格を有つてはゐるであらうが、同時に尊敬をもつて彼等を顧みるべき義務と愛慕とを持つてゐるのである。こうしてこの事實をこの著書程われわれによく示してくれるものは稀であろう。
ここにおいて柳は、モリスを尊敬の対象としつつも、全面的にその思想と実践に倣うつもりはないことを言明します。それでは柳は、モリスのことを具体的にはどのように受け止めていたのでしょうか。それについては、「工藝美論の先驅者に就て」のなかで、次のように言及しています。
私は彼の善き意思を愛し得ても、彼の作を愛する事が出來ぬ。なぜならそれは既に工藝の本質を離れてゐるからである。どこにも工藝の美しさがないからである。それは民藝となり得ない個人的作に過ぎないからである。彼の社會主義的主張それ自体に悖るからである。貴族的な贅澤品に終つてゐるからである。そうして古作品の前に立つて、如何なる部分にも勝ちみがないからである。それ等のものに向かつて遂に私は「美しさが乏しい」と言ひ終るより外ない。
明らかに、モリスの全否定です。それでは、個別の作品については、柳はどう見ているのでしょうか。まず、〈レッド・ハウス〉について――。
彼の建てたと云う有名な「赤き家」を見られよ。如何に甘い建物であるか。それはひとつの美的遊戯に過ぎない。……「赤き家」は一つの繪畫であつて住宅ではない。美の為であつて用の為ではない。特に内部の装飾に至つてそれは完全な失敗である。その壁紙の模様の如きは見るに堪えぬ。
おそらく柳は、それまでに〈レッド・ハウス〉を実際に訪問した形跡は残されていないようですので、雑誌か書籍の図版を見て、批判しているのではないでしょうか。また、モリスが住んでいたときの〈レッド・ハウス〉には、壁紙は使われていませんでした。
次に、ケルムスコット・プレスによって刊行された書籍については、このような認識を示します。
彼の遺作のうち、恐らく最も難の無いのはケルムスコットKelmscott版の刊本である。彼は字體を再び中世期から選び、首字の装飾を始め用紙から羊皮に至る迄古格を保とうと欲した。……だが過日私が中世代の本とそれとを同時に比べてみた時、如何に後者に引けめがあるのかを眼の前に見る事が出來た。前者はその當時にはそれ以外に擦り樣がない程普通な工藝品であつた。だが後者は最初からそれ以外には決してない僅少な美術品ではないか。……モリスの仕事は工藝とはなり得ずに終つた美術である。
このとき柳が見比べた、「中世代の本」とは何だったのでしょうか、そしてまた、ケルムスコット版の書籍については、五三点のうちのどの本だったのでしょうか。それらが明示されていれば、誰しも再び比較検討ができるのですが……。
それはそれとして、「工藝美論の先驅者に就て」におけるひとつの結論として、柳は、以下のように断言します。
私達は彼の如く贅澤な、美術的な、そうしてロマンティックな作に工藝の本道を託す事が出來ず、又託してはならぬ。私達は彼の作の如き貴重品や装飾品にではなく、質素の中に、雑記の中に、日常の生活の中に工藝を樹立せねばならぬ。ラスキンやモリスにはまだ民藝に對する明確な認識が存在してをらぬ。後に來る私たちは彼らの志を進めて、更に此認識へと入る任務を負びる。
これこそが、柳にとってのモリス業績の理解であり、その否定のうえに成り立つ、自らが唱道する「民藝」の進むべき道ということになるのでしょう。
その柳が、濱田と連れ立って〈ケルムスコット・マナー〉を訪問したのは、オックスフォードから遠くないマナー・ハウスに住む友人のロバートスン・スコットに会いに行ったおり、案内されて近在のコッツウォウルズの村々を訪ねたときのことでした。柳は、そのときの様子を、短くこう記しています。
モリスの末の娘メリーはもう大分の齢だつた。吾々の訪問を悦んで、室々に案内して呉れた。この工藝家が晩年を過ごしたその建物は昔のまゝである。……數々の室に馴染みの繪や肖像が壁に掛り、幾つかの作物が机の上に置かれてあった。こゝが書齊でいつも仕事をしていたとか、こゝがタペストリーを作つた室だとか、こゝを寝室に使つたとか云つて、往時を想ひ囘し乍ら色々と話をして呉れた。一番奥の室のガラス戸の内には自筆の原稿やケルムスコット版の「チョーサー」が入れてあつた。メリーは私達に自由に見るようにと云つて出して呉れた。……何しても近代の書物として最も有名なこの本を目前にして、うたゝモリスの残した仕事を偲んだ。メリーも私達の署名を求め、私も彼女のを求めて後、庭に出て木々の間に佇むその家を再び振り囘つた。歸りがけに私達は程遠からぬ會堂の庭に眠るモリスの墓を訪ねた。
別れ際に受け取った案内人の署名には、「メアリー・モリス」と書かれていたのでしょうか、それとも、「メアリー・フラーンシス・ヴィヴィアン・ロブ」と書かれていたのでしょうか。前者であれば、メイは、日常使用することのない、洗礼名を書いたことになります。後者であれば、メイのパートナーのロブ嬢だったことになります。どちらにしましても、「メリー」という表記ではなかったのではないかと思われますが、しかし一方、同行者である濱田庄司は、「テームス川上流のケルムスコットに、モリスの旧居を訪ね、まだ健在だったモリスの妹さんから、モリスの日常をいろいろ聞いている」、と書き記しています。このとき応対したのが「モリスの妹さん」だったのであれば、メイでもロブ嬢でもなかったことになります。モリスにはふたりの姉とふたりの妹がいて、三女がイザベラ、四女がアリスという名前でした。果たして、このとき柳と濱田を案内したのは、誰だったのでしょうか。
この訪問のとき、一行は、モリスのケルムスコット版『チョーサー作品集』を手にとって見ています。しかし、その後柳は、ケルムスコット・プレスが生み出した書籍について、以下のように論評します。
尤も忌憚なく云ふと、私はケルムスコット・プレスに感心しない點が數々ある。第一活字が餘りゴシックの風に捕はれてゐて、寧ろ讀みづらい所がある。…第二に私はモリスの挿繪を好まない。……あの十五世紀の木版画の卓越した挿繪と比べて、如何にその差がひどいであらう。モリスもそのことは知つてゐたであろう。併し彼が青年の時受けたプレ・ラファエライト派の畫家達、特にロセッティの感化は彼に致命の傷を與へたと思へる。ロマンティクの畫風で何れも甘く弱い。バーン・ジョーンズなどゝの提携も彼をいたく不利にしたと思へる。かくして彼は終生プレ・ラファエライトの畫風から一歩も出ることが出來ず、不思議にも彼が愛したゴシックの確かさを逃がして了つた。有名な「チョーサー」の如きは挿繪から見ると甚だ面白くない。
『チョーサー作品集』の八七葉の挿し絵(イラストレイション)は、モリスではなく、エドワード・バーン=ジョウンズの手になるものでした。また、モリスが、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティやバーン=ジョウンズと深いかかわりをもつことがなかったならば、モリスのあのような生涯と芸術は存在しなかったにちがいないというのが、おそらく、当時も、そして今日においても、変わらぬおおかたの解釈のように推量されます。
この時期、〈ケルムスコット・マナー〉の玄関の戸をたたくモリス巡礼者の流れは、途絶えることはなく、いつもメイによって歓迎されていました。そしてそのおり、巡礼者には、父親の記念館建設のための寄付が呼びかけられていたのでした。
一九一八年、遺産管財人のひとりであるシドニー・コカラルに宛ててメイは、次のような手紙を書いています。
早晩まちがいなくケルムスコットに私の父の記念館のようなものが建てられるでしょう。私は、このような記念館が、私たち全員が生きているうちに建てられることを望んでいます。そして、戦前の時代に私たちの家族のあいだで建てられるはずだった小さな集会場として、その記念館が実現してほしいと思っています。
しかし、巡礼者からだけの寄付には限界があり、一九三四年のモリス生誕一〇〇周年を控えて、本格的な募金活動が開始されました。メイとジェニーが最初の足掛かりとして、それぞれ一、〇〇〇ポンドを出資し、ロイド・ジョージ、スタンリー・ボウルドウィンをはじめとする著名人による委員会が設立されました。その構成員には、メイの隣人の農場主のロバート・ホブズも加わりました。将来、この集会場ができた暁には、その運営員会の議長を務めることが予定されていたからです。
こうして寄付が集まると、建物の建設が進められ、無事、一九三四年に開館の運びとなりました。大勢の人が集まり、中に入りきれない人が出るほどの大盛況でした。メイは、司会をバーナード・ショーに依頼していました。そして、ショーのスピーチがはじまりました。そのときの様子を、マーシュは、以下のように記述しています。
スピーチのなかでショーは、幾つかの驚くべきばかげたことを述べた。まずモリスを「ケルムスコットの聖ウィリアム」として聖人の列に加え(これは信者と無神論者のどちらにも不快感を与える言い方である)、それから次のような愚かな言い方で、モリスが無類の人であったことを述べた。「ウィリアム・モリスが家を建てたとき、その家は他の誰の家にも似ていなかったし、彼の奥さんも他の誰の奥さんとも似ていなかったし、そして彼の子どもたちも他の誰の子どもにも似ていなかった」。……名士たちと壇上に腰をかけていたメイは、このような人物評に不快のあまり身を震わせる思いをしたにちがいない。
ちょうどそのときです。過ぎ去りし日の社会主義同盟時代のもうひとりの亡霊が会場に到着したのです。この亡霊は、労働党の前の党首でいまや首相へと姿を変えていたレムジー・マクドナルドでした。すでにマクドナルドは欠席の意向を示しており、したがってこの突然の出席は、メイをはじめとする参加者たちに大きな驚きを与えたにちがいありません。以下は、同じくマーシュの記述するところです。
彼が立ち上がり、打ち解けたモリスへの賛辞を言い添えると、聴衆は嵐のような喝采を彼に送った。彼は……モリスの信念は「最終的に勝利を収める日まで存在し続けるだろう」と付け加えた。「この会館こそがまさにモリスその人がつくりたいと願ったものであります。……私はここに出席させていただき、モリスの精神に触れることができたことを喜ばしく思っております」。
しかし、マクドナルドのモリス賛辞とは別に、この時期、アーツ・アンド・クラフツに対して、そしてその中心人物であったモリスに対して、厳しい目が注がれようとしていました。
少なくとも、アーツ・アンド・クラフツが開始されるころのおおかたの工芸家の認識では、工芸品のデザインは装飾とともにありました。次に引用するのは、一八八二年のルイス・F・デイの『日常の芸術――純粋にあらぬ芸術に関しての短篇評論集』のなかの言説です。
装飾を愛することは、救世主御降世以来のこの年に固有の特徴ではない。装飾は人類の最初の段階にまでさかのぼる。もし装飾をその起源に至るまで跡づけようとするならば、私たちは自らの姿をエデンの園のなかに――あるいは猿の領地のなかに見出すことであろう。今日においても、装飾は、私たちのなかにあって無限の力を有している。したがって私たちは、装飾をもたない「来るべき人類」を心に描くことはほとんどできないのである。
しかし、それからおよそ四〇年が立つと事態は一変し、「装飾をもたない『来るべき人類』」が出現することになるのです。一九二六年版の英国の美術雑誌『装飾美術――ザ・ステューディオ年報』を見てみますと、「今日の家具と銀製品」と題された評論文があり、そのなかに、デザインの近代運動の黎明を告げるような、次の一文を読むことができます。
確かにうまくつくられてはいるが、古い家具の模倣では、ほとんど本質的な価値を備えているとはいえない。……
すでに変化の兆しがある。国中が、偽造された家具や骨抜きにされた過去の作品の模倣であふれかえっている。しかし、そうしたやり方に対して、知的な人びとのあいだでは、嫌悪感のようなものが確かに生まれつつあり、何か動きが始動するのに、そう時間はかからないかもしれない。もし変化が起きるとするならば、そのときの新しい流儀は、ヴィクトリア時代の家具を模すようなかたちをとることはないであろう、といったことが期待されているのである。
この評論文が発表されたのは一九二六年です。モリスが亡くなって、ちょうど三〇年が経過していました。英国にとってのこの時代は、一九世紀からのアーツ・アンド・クラフツの伝統が徐々に衰退しつつも、しかしいまだにモダニズムが明確に出現していない、そのような過渡期の重苦しい時期にあたり、オランダのデ・ステイルやドイツのバウハウス、フランスの純粋主義といったような、大陸における近代運動の高まりからすれば、明らかに英国は大きな遅れを余儀なくさせられていたのでした。そうした遅延を解消し、英国の近代運動に明快な指針を提供するうえで、極めて重要な役割を演じたのが、ハーバート・リードの『芸術と産業――インダストリアル・デザインの諸原理』でした。刊行されたのは、モリスの記念館が開館した年と同じ一九三四年です。そのなかでリードは、モリスとその追従者たちについて、こうも決然と断罪したのでした。
今日われわれがモリスの名前と業績を思い浮べるとき、そこに非現実感がまつわりつく。こうした非現実感は、彼が設定したそのような目標が間違っていたことに起因しているのである。……
私は、……今日にあってはモリスも、機械の不可避性を甘受するであろうと信じているのであるが、ところが、失われた主義主張を取りもどすための戦いを起こそうとしている昔からの彼の弟子たちが、いまだに見受けられるのである。
リードは、モリスとその後に続くアーツ・アンド・クラフツ運動が理想に掲げた、手工芸の美の宝庫である中世への回帰を否定し、現代社会における「機械の不可避性」を主張したのでした。
そうした状況のなかにあって、この年(一九三四年)の二月九日から四月八日までの期間、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館において、モリス生誕一〇〇周年を祝う展覧会が開催されました。展覧会カタログは、前文をエリック・マクレガンが、序文をJ・W・マッケイルが執筆し、展示物は、モリスのデザインによる壁紙が中心だったようです。
このように、この展覧会では、モリスの社会主義につきましては、ほとんど言及されませんでした。すでに社会主義者としてのモリスの存在は、世間の目から遠ざかりつつありました。一九一〇―一五年に刊行された『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)が詩人としてのモリスを強調するために編集されていたことも一因となっていた可能性があります。さらに加えて、実際問題として、社会主義者としてのモリスを知る人たちの多くがすでに世を去ろうとしていたことも要因に挙げることができるかもしれません。そうした背景を受けて、記念館建設に続く、メイの最後の行動が、開始されることになるのです。それは、『ウィリアム・モリス著作集』に所収できなかったすべての遺稿を集めた書物を刊行することでした。そうすることで、モリスの社会主義者像をいま一度確保しようとしたのです。しかし、その刊行には、紆余曲折がありました。
モリスの生誕一〇〇周年が近づくと、オクスフォードの出版業者のベジル・ブラックウェルから、モリスの未刊行著作について出版したい旨の提案がなされました。すると、メイから、未公開の資料が同封された大きな小包が届きました。小さな記念誌のようなものを考えていたブラックウェルは、これには困惑しました。というのも、もはや、ヴィクトリア時代の詩人としても、アーツ・アンド・クラフツの創始者としても、また、ユートピア的社会主義者としても、モダニズムが重視される一九三〇年代にあっては、モリスはすでに時代遅れの過去の人間になっていたからです。そこでブラックウェルは、残された資料のなかから入念に選別したうえで出版する案を提示しました。残りの遺稿のすべてが出版されることに期待を膨らませていたメイは、この提案に失望しましたが、最終的に同意せざるを得なかったようです。
その間、話し合いのためにブラックウェルは、〈ケルムスコット・マナー〉を訪ねています。その帰りの際、メアリー・ロブは村の集会場(モリス記念館)へ案内すると、彼の前に立ちふさがり、次のように、必死に懇願したのでした。
さあ、こちらを見なさい、ブラックウェルさん。あなたはメイを苦しませているのですよ。私は彼女を苦しませたくありません。あなたは残らずすべて( ・・・ ) のものを出版しなければならないのです。私が著作のことを気にしているなどとは思わないでください。私は老ウィリアム・モリスが嫌いです。あの年老いたひどく退屈な人なんか。でも私は、メイを苦しませたくないのです。帰宅したら、すべて( ・・・ ) 出版する意思があることを今晩中( ・・・ ) に彼女に手紙を書いてください。私にはお金がありません。私はたった五〇ポンドしかもっていないのです。しかし、あなたが私のいうとおりにしてくれれば、そのお金を差し上げ、歓待いたしましょう。さあ今晩手紙を書き、そうするつもりだといっておあげなさい。
こうしたロブの熱意に後押しされたのでしょうか、もちろん、提案された五〇ポンドを使うことはありませんでしたが、ついに一九三六年に、メイの編集になる『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』と題された分厚い二巻本が上梓されたのでした。
ブラックウェルは、当時のメイの様子を、こう描写しています。
彼女の顔は高貴で、禁欲的な美しさをもち、どことなく、やつれていた。ギリシャ悲劇の仮面を思い出させる角度のある眉毛は、彼女の人生に何か悲しく痛ましい出来事があったことを暗に示していた。……彼女の容姿と振る舞いは、適切にも献身の感覚を表わしていた。それは、絶えず彼女との会話に現われた。というのも、「私の父親は」という言葉が、しょっちゅう彼女の口をついて出ていたからである。
『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』の第一巻に、モリスの美術と文学作品に関する未公開資料が収められ、主として第二巻に、モリスの政治的な論説と講演原稿が組み込まれました。この二巻本の刊行は、父親の業績を世に残すうえでの、娘メイにとっての総仕上げの事業でしたし、他方で、メイ自身の恋愛感情を最終的に締めくくるものでもありました。
メイが最後まで関心をもっていたのは、父親の政治的著作でした。すでに『ユートピア便り』は、政治的経済的視点が欠落しているという理由から、批判に晒されていました。それに対してメイは、こう抗弁しています。
ユートピアの架空の政体と市場の経済計画について数十もの案が存在したが、すべて退屈でよそよそしいし、共産主義のもとでの生活がどのようになるかということについての信用できる魅力的な描写がひとつもなかった以上、政治上の空中楼閣を建てて時間を浪費する代わりに、まさに必要なものを提供したからといってモリスが責められる理由は何もないのである。
自らの恋愛感情の総括という点では、第二巻の序文として所収された、バーナード・ショーによる「私の知るウィリアム・モリス」に、そのことがよく現われています。このなかでショーは、メイとの結婚を避けるために姿を隠したことも、スパーリングとメイの結婚生活に入り込んだ事情についても、率直に言及しました。そして最後に、それからおよそ四〇年の時を経て訪れた、モリス記念館の開館式典の終了後の出来事に触れたのでした。
私がこの土地の人間であるかのように、彼女[ロブ嬢]は扉を大きく開けっ放しにしたまま、一〇分かそこいらのあいだいなくなっていた。ほどなく、美しい娘[メイ]と私は、いまやとげとげしさのない老人となって、あたかもふたりのあいだにはこれまで何もなかったかのように、再び出会ったのである。
バーナード・ショーが書いた序文のこの一節を、メイ・モリスは、どう読んだのでしょうか。心を揺すぶる何かが起きていたのかもしれません。このことに関するジャン・マーシュの解釈を、以下に引用します。
というのも、彼女の本へのこのうぬぼれに満ちた序文のなかで、ショーは――いまや彼は生きた伝説上の人物となり、今世紀の偉大な文学者のひとりとして崇敬の念を集めていた――メイ・モリスが結局自分が真に愛していた女性であることを公然と認めたからである。このような満足を彼女は長いあいだ待ち焦がれていたのである。
おそらく自分の最後の仕事を成し遂げた充足感のなかにあって、メイは、『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』の出版から二年後の一九三八年一〇月に、インフルエンザを罹病してこの世に別れを告げました。七六年と約七箇月の生涯でした。メイには子どもはいませんでしたし、姉のジェニーは生涯独身でしたので、モリスの直系の家族は、これをもって途絶えました。
ロブ嬢も、メイのあとを追うかのように、翌年の三月に他界します。マーシュは、「ブランディーと銃を持ち込んでロブ嬢は床に就いていた、と村では伝えられていた。メイが死んだ時点で、生き続ける何の理由もないと彼女が思ったことは明らかである」と、書いています。そして、同じくこの年(一九三九年)、〈ケルムスコット・マナー〉の「パネルド・ルーム(羽目板の部屋)」におそらくそれまで飾られていたものと思われる、モリス夫妻の神話的伝説を象徴する《麗しのイゾルデ》が、ロンドンのテイト・ギャラリーに遺贈されました。
かくして、〈ケルムスコット・マナー〉に生きた家族最後の女性が姿を消し、そしてまた、関係する遺品のすべてが整理され、父が誕生した一八三四年から末娘が亡くなる一九三八年までのおよそ一世紀にわたるウィリアム・モリスの家族の歴史が、ここに幕を下ろしたのでした。