中山修一著作集

著作集6 ウィリアム・モリスの家族史  モリスとジェインに近代の夫婦像を探る

第一八章 メイの結婚生活の終焉とモリスの最期

一.メイの結婚生活の終焉

すでに見てきましたように、一八八〇年代の後半もまた、モリスにとりまして激動の時代となりました。一八八八年の秋、第一回のアーツ・アンド・クラフツ展覧会が開催されると、それをきっかけに、その名称を冠したアーツ・アンド・クラフツ運動が、新たな勢いを増してゆきます。この運動は、手仕事の尊重と労働の喜びを標榜する、装飾美術の復興を目指すものでありました。しかしそれは、新しい社会や政治の仕組みを要求するものでもあり、単なる芸術運動に止まらない、社会運動と表裏をなすものでありました。

一方、モリスが当時関与していた社会主義同盟は、その運営を巡って、混乱を招いていました。一八八九年、この組織の執行委員会は、一部の過激な政治勢力によって乗っ取られ、機関紙である『コモンウィール』の編集権も剝奪され、編集長のモリスと副編集長のヘンリー・ヘリディ・スパーリングは解任されました。モリスが社会主義同盟を脱退し、ハマスミス社会主義協会を設立するのが、翌年の一八九〇年の一一月のことで、私家版印刷工房のケルムスコット・プレスを創設するのが、その二箇月後の一八九一年の一月のことでした。

モリスにとっての激動は、こうした公的分野だけに止まりませんでした。同じく私的な分野においても、この時期、その風景が大きく変わろうとしていたのです。一八八八年の第一回アーツ・アンド・クラフツ展覧会が開催される少し前の夏、長女のジェニーの体調が悪化して、モールヴァーンの養護施設に入所することになりました。養護施設へジェニーを入れるのは、これがはじめてではありませんでしたが、モリスにとって心を痛める大事件であったことは間違いなかったものと思われます。次女のメイについても、モリスは父親として、心配のなかにあって、バーナード・ショーとの恋愛の挫折を受け止める一方で、新たなスパーリングとの交際を見守っていたにちがいありません。すでにモリス商会の刺繍部門の責任者の立場にあったメイが、スパーリングと正式に結婚するのは、一八九〇年六月一四日のフラム戸籍登記所でのことでした。かくして、短い〈ケルムスコット・マナー〉での新婚旅行ののち、二一年の契約で賃借したハマスミス・テラス八番地において、ふたりの新しい生活がはじまりました。次の年、ケルムスコット・プレスを設立したモリスは、娘婿のスパーリングを「秘書」として起用し、しかるべき職を与えます。こうして、一八九〇年代に入り、モリス家の新しい風景が整ってゆくのでした。

一八九一年に女中としてモリス家に奉公に上がったフロス・ガナーが、後年、インタヴィューに答えて、そのころの様子を振り返っています。彼女の記憶によりますと、モリス家の当時の家族は、こうでした。まず、ジェインについて――。

彼女は、とても美しい女性でした。とてもきれいで、とても上品な方でした。メイ・モリスは……いつもお父様の仕事を手伝っておられました。そしてジェニーは……とてもひどいてんかんの発作をおもちでしたので、ずっと家に引きこもっていらっしゃいました。……とても気だての優しい方でした。

同じくフロス・ガナーは、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉を開放しての政治集会についても、記憶していました。一八九〇年に社会主義同盟を脱退すると、モリスはハマスミス社会主義協会を結成しますが、集会は、引き続きこの家で開催されていました。

ケルムスコット・ハウスの脇に、使われていないホールがありました。日曜日の夜、ここで集会が開かれていました。集会が開かれると、トム、ディック、ハリーとやら、いろんな名前の誰かれとなくやってきて、夕食を食べます。……私が思いますに、これが集会に参加する目的だったのです。そうすれば、そのあと家に上がって、おいしい食事にありつけるのですから。そんなわけで、土曜日の私どもは、大忙しでした。

社会主義同盟が設立されるに伴い、社会民主連盟のハマスミス支部は、一八八五年一月七日、社会主義同盟ハマスミス支部に衣替えし、引き続き書記にエマリー・ウォーカーが、財務にモリスが就任します。会合は、ハマスミスのモリスの居宅〈ケルムスコット・ハウス〉の敷地内にある細長く狭い部屋で開かれていました。もともとこの部屋は、マートン・アビーへ転居するまでは、「ハマスミス・カーペット」とか「ハマスミス・ラグ」とか呼ばれる織物を製作する部屋として使われていました。それ以前にあっては、この部屋は「馬車小屋」でした。したがいまして、ハマスミス支部の集会場は、最近に至るまで「馬車小屋」という名称が使用されていました。たとえば、一九九四年に刊行されたフィオナ・マッカーシーの『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』でも、「馬車小屋」になっています。しかしながら、その二年後の一九九六年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で開催された「ウィリアム・モリス」展のカタログを見てみますと、これまでしばしば見慣れてきたこの部屋を示す図版には、次のようなキャプションがつけられています。「ケルムスコット・ハウスの艇庫の部屋。一八九〇年代の社会主義者の会合に使用。マートン・アビーへの移転する前は、カーペットを織る部屋として利用された」。したがいまして、こうした一連の政治集会が開催されていた部屋は、もともとは、「馬車小屋」ではなく「艇庫」だった可能性も残されます。

日曜夜に開かれる集会に参加したひとりに、アイルランド出身の若き詩人W・B・イェイツがいました。彼は一八六五年の生まれで、幼少期をロンドンで過ごすも、一時期ダブリンにもどり、一八八七年に再びロンドンに出てきていました。彼の『自伝』のなかに、こうした記述がみられます。

最初誰が私を、ハマスミスのウィリアム・モリスの家であるケルムスコット・ハウスの隣りのかつての馬小屋に連れて行ったのかは、思い出すことができない。その場所で、社会主義同盟の日曜夜の討論会が開かれていた。まもなく私は、討論会のあとでモリスと一緒に夕食をする小さなグループの一員になった。こうした夕食会のおりに、多くのすばらしい本の印刷工であるゴブダン=サーンダスンと一緒に仕事をしているウォルター・クレインとエマリー・ウォーカーに頻繁に会った。そして、それほど頻繁ではなかったが、バーナード・ショーや、当時ケンブリッジの博物館に勤務するコカラルとも会った。また、確かほんの一度か二度、社会主義者のハインドマンと無政府主義者のクロポトキン公爵と顔をあわせた。

この引用文には、幾つもの重要な情報が散りばめられていますが、「メイの結婚生活の終焉」というこの節の文脈で重要なのは、日曜日の夜にモリスの自宅で開かれる政治集会に、メイとは別れたはずのバーナード・ショーが、いまなお引き続き、参加していることです。おそらく別れは一時的で形式的なものであり、この間も、メイとショーとの交感は存在していたにちがいありません。その根拠のひとつとして、一八八八年の最初のアーツ・アンド・クラフツ展覧会に出品したメイの作品について論評した、以下のようなショーの言説を挙げることができます。

良識をもって楽しく刺繍するうえで主たる障害となるのが、あの恐ろしいほどの退屈な工程である、という意識を十分に克服しているのは、お針子たちのなかでは唯一メイ・モリス嬢だけである。ひたすら彼女は自分の静かなる偉業を展示している。鮮烈な色彩の果実の森で覆われた彼女の偉大なるカーテンはすべて、大海を越えてアメリカ合衆国の百万長者の愛好家をおそらく狂気させたことであろう。

メイとスパーリングが結婚して四箇月と少しが過ぎた一八九〇年一〇月二六日に、ジェインは、愛人のウィルフリッド・スコーイン・ブラントへ手紙を書きました。

ちょうどメイが訪れたところです。以前よりも幸福そうに見えるわ、といってあげなければなりません。そこで、彼女なりのやりかたで幸福でありますよう、望まずにいられません。

そうした「幸福そうに見える」メイの家庭に、バーナード・ショーが、一時の客人として入り込んできたのは、一八九二年のことでした。当時ショーは、年上の未亡人のジェニー・ペタスンに続いて、女優のフロランス・ファーに熱を上げていました。しかしショーは、相手が執着心を燃やすようになると、ひじ鉄を食らわして、逃げ回るタイプの男でした。メイとの関係においてもそうでしたが、このときもまたそうだったものと思われます。彼の目には、メイとスパーリングが住むハマスミス・テラス八番地が、心身の過労と乱れた生活から逃れるための、一種の安息の場に映ったのでしょう。さらにいえば、メイの気持ちをうまく利用しようとする、安易で身勝手な傲慢さが、そこには隠されていた可能性もあります。彼自身は、「私の知るウィリアム・モリス」のなかで、このときの様子に触れ、以下のように書いています。

[スパーリングも]私を喜んで招き入れた。というのも、私は彼女を上機嫌にしてあげたし、並みの亭主では思いつかぬ料理法を編み出したからである。おそらくわれわれ三人の生活で最も幸福なひとときだったにちがいない。

この家は、メイの芸術的な趣味のおかげで快適で魅力的なものになっており、ここでショーは、味わうことのなかった家庭的な雰囲気に接することになります。こうして、ハマスミス・テラス八番地を舞台にした、男女三人による、いわゆる「三角関係」の生活がはじまるのです。

過去にあっては、両親のあいだにダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが割り込むかたちで「三角関係」が展開されました。いまこの時期にあっては、メイ自身その実態を正確に知ることはなかったとしても、ジェインとブラントのあいだに性的関係が発生し、両親にかかわる新たな「三角関係」が潜行していたのでした。ともに多くの場合、〈ケルムスコット・マナー〉がその舞台となっていました。ロセッティとジェインの場合を振り返ってみますと、その関係には、一種の詩的な「恋愛物語」と呼ぶにふさわしい部分が含まれていました。他方、ブラントとジェインの恋愛を概観しますと、そこにはどう見ても、軽薄極まる「情欲事件」に近いものが全体として漂っています。それでは、メイとスパーリングとショーのあいだに見受けられた「三角関係」は、どうでしょう。それは、両親の事例とは趣が異なります。そこには、ある意味で「社会主義的大義」に基づく、愛の自由や結婚の共有を前提とした、新しい男女の生活共同体の創造という試みが潜在していたものと思われます。もっとも、結果的にメイの場合は、エリナ・マルクスの事例ほどの悲惨な結末を迎えることはありませんでした。しかしながら、それでもこの「三角関係」には、おそらく理知的な思想的背景のもと、たとえそれを偽善的で無政府的な悪用と一方的に決めつけないまでも、微妙な男女の恋愛感情がない交ぜになって進行していたものと思われます。

一八九二年のクリスマス、モリスとジェニー、加えてメイ夫妻と客人のショーは、〈ケルムスコット・マナー〉へ出かけ、そこでひとときの休暇を過ごしました。滞在中スパーリングは、ある友人に宛てて次のような手紙を書いています。

モリスはカワカマスを捕りに、ちょうで出かけたところです。というのも、自分の釣り熱にショーや私を引き入れようとして、うまくゆかなかったからです。

ショーの『日記』によれば、自身のこのマナー・ハウス滞在は一二月二一日から二九日までで、ロンドンへ帰るときはメイと一緒でした。いかなる事情があったのかはわかりませんが、スパーリングはすでにその前日に帰っているのです。このことは、メイの思いが再燃したことを表わすひとつの事例といえるかもしれませんし、ショーが無責任にも火を着けた可能性もあります。翌年(一八九三年)になると、メイとショーが一緒にいる姿が目につきはじめます。六月、ふたりはイプセンの戯曲の『ヘッダ・ガーブラー』を見に行きました。八月には、英国の派遣団とともに、ふたりして、国際社会主義労働者大会が開催されるチューリッヒへ出かけました。ショーは、こう書いています。

すっかり健康も回復し、永久に滞在したいと自分の方から申し出ない限り、そこにいる口実がもはやなくなったとき……あらゆる幻想がそうであるように、法律上の彼女の結婚も消滅してしまった。そして神秘の結婚がいやおうなく出現したのである。私はそれを成し遂げるか、あるいは、姿を消すしかなかった。

スパーリングの思いは、想像するしかありませんが、友人の自分勝手な横暴さと妻の優柔不断な裏切りに、込み上げる怒りのようなものがあったにちがいありません。こうして、この「三角関係」は、あっけなく破綻したのでした。一八九四年五月二四日、母親のジェインは、ブラントへ手紙を書き、そのなかで、そのことについて、こう述べています。

メイの結婚生活は終わりました。私たちは破局のようなものか、そういった方面のものを常に予期していたものの、それが本当のことになってしまったいま、その衝撃の過酷さは決して小さくありません。このことについて、まだ私たちは、家族以外の人間には誰にも話しておりません。

さらに二日後の五月二六日、ジェインは再びブラントに手紙を書きました。

メイの立場はこうです。彼女は前の恋人といまもしばしば会い続けており、彼女は夫の生活に負担をかけていたのです。彼はこれ以上の負担に耐えることを拒否しました。彼女はまだ外国にいますが、もどってくればふたりは別々の道を歩むことになるでしょう。

こうして、一八九四年の六月までにはスパーリングはパリで生活するために家を出てゆき、ハマスミス・テラス八番地には、メイひとりが残されたのでした。

ジェインとメイについての伝記作家であるジャン・マーシュは、ショーが立ち去るとき、ふたりはいつか再会することを約束したのではないかと、推測しています。つまり、スパーリングとの離婚が正式に決まるまでは、裁判の障害となるような行為は避け、そのために、慎重にもショーは、表の世界から姿を消したのではないかと、推量しているのです。マーシュは、こう書いています。

したがって、慎重に振る舞う期間が必要だった。全くそれは、むしろ心乱される悲痛であった。しかし疑いもなくメイは、生涯の恋を経験しようとしていたのであり、いつの日かショーと一緒に、彼の「神秘の愛人」としてではなく、彼の妻として、そして彼の同志として生活できるものと信じていた――もしくは願っていた――のである。

しかしその後、メイとスパーリングの離婚は成立するも、メイとショーが結婚し、一緒に暮らすことはありませんでした。この「三角関係」の恋愛には、多くの疑問が残ります。そもそもなぜメイとショーとの恋愛が破綻したのか、その後なぜメイは、スパーリングと結婚したのか、続いて、なぜふたりの新婚生活にショーが入り込み、共同生活がはじまったのか、最後にこの三人の同志による共同体が分解したとき、その瞬間の三人の思いはどうであったのか――。残されている資料も少なく、こうした疑問を正確に解き明かすことはできません。もっとも、三人が書き残した資料が、たとえあったとしても、その間の思いのすべてが文字によって表現されているとは限らず、口に出さずに胸にしまい込まれてしまったであろう複雑で微妙な陰影は、上で引用したマーシュの筆致にも現われていますように、後世の人間の絵筆によって彩色されるほかないように感じられます。

二.モリスの最期

一八九〇年代へ向かうころのモリスの心労は、長女のジェニーの病気の悪化、次女のメイの恋愛の挫折と次の男性との交際、そして妻の夫以外の男性との情交という家庭内の問題だけでなく、それに加えて、自らが主導する社会主義同盟の活動の破綻、あるいは、新しく印刷事業を興すうえでの準備の多忙さといった仕事上の難局にも起因していたものと思われます。そしてついに、一時期、病床に臥す事態へと発展してゆきました。それは、ケルムスコット・プレスが設立された翌月の一八九一年二月のことでした。マッケイルは、このように書いています。

二月の終わりに向けてモリスは、幾度となく痛風に見舞われ、さらには、ほかの危険な症状にも襲われ、数週間、病の床に就いた。医者の診断によると、かなりひどく腎臓が侵されていた。医者は、モリスにこう告げた。今後あなたはご自身が病人であることを自覚し、体力の消耗を避け、極めて摂生した日常生活を送ることが肝要です。

不幸にも、同じくこの時期、ジェニーの容体も悪化しました。二月二八日のブラントに宛てたジェインの手紙には、こう書かれてあります。

私たちは、大変な悲しみに浸っています。かわいそうにジェニーが、脳脊髄膜炎にかかってしまいました。差し当たり危機は脱しましたが、いまだに彼女は重体で、日夜看護婦がふたりついています。

このときのことを、ブラントは、自身の一八九三年五月一八日の日記に、こう書き記しています。

モリス夫人は私に、ジェニーは一年半前に本当に発狂し、自分が父親を殺してしまったと思い込み、窓から身を投げようとした、と語った。狂暴になったジェニーはベッドに縛り付けられなければならなかった。

父親の病状を知ったジェニーが、その原因を自分の病気にあると思い込んだとしても不思議ではありません。ジェニーの発病以来これまでに書かれた幾多のモリスからジェニーへの手紙がはっきりと示していますように、常にモリスの心はジェニーにありました。そこで、このとき逆にモリスは、ジェニーの「発狂」の原因を、自分の体調不良と結び付けたにちがいありません。といいますのも、すでにこのときまでに、モリスとジェニーは、父と娘の揺るぎない深い愛情で結ばれていたものと思われるからです。父の病を心配する娘、一方、娘の病状に心を寄せる父親――。ふたりは、四月に入るとロンドンを離れ、フォウクスタンで療養します。おそらく他人の目には、幸福に満ち溢れた恋人同士のように映ったにちがいありません。しかしモリスは、医者の忠告をよそに、ここでも仕事に夢中になっています。マッケイルの書くところによれば、「この地に滞在中、彼は、『黄金伝説』の最初の頁に使う装飾縁飾りと大きな花模様の頭文字を数点デザインした。この頭文字は、『ブルーマー』と呼ばれ、この印刷工房の伝統的な俗称となっていた」。「ブルーマー」という言葉には、「花の咲く植物」「技術や才能や興味を開発する人」、あるいは「どえらい間違い」といった意味が含まれます。

一度ロンドンにもどったモリスは、再びフォウクスタンへ行き、七月二九日、この地からモリスは、ジョージーに宛てて手紙を書きました。以下は、その書き出しです。

 言葉に出すのも恥ずかしいのですが、思うような体調ではありません。というよりも、むしろ、身を案じるほどのお馬鹿さんになっており、これがいまの私なのです。

同じ日に(つまり一八九一年七月二九日に)モリスは、もうひとりの心を寄せる女友達であるアグレイア・コロニオにも手紙を書いています。そのなかには、ジェニーを連れて、フランスへ行くことが示されていました。

私はジェニーに付き添って長いことここに滞在しています。ジェニーは発病以来、ほとんどここで過ごしています。いまや彼女は、この間に比べるとよくなっているようです――実際に元気にしています。万事がうまくゆけば、次の週の金曜日に、私は彼女を連れて、フランスに行くつもりでいます。これは、医者の指示なのです。……ところで、明日から一週間、ロンドンの町にいます。あなたはいらっしゃらないのではないかと思いますが、もしいらっしゃるようでしたら、来ていただいてお話ができれば、大変うれしく思います。

八月七日の金曜日に、モリスとジェニーは、フランスへ向けて旅立ちました。モリスは、八月八日、最初の訪問地のアブヴィルから妻のジェインに手紙を書きました。

ジェニーがいまメイに書いているので、この手紙は短いものになります。みな元気です。霧雨が降り始めたところですが、これまでとてもいい天気に恵まれました。この地を堪能しました。明日の朝アミアンへ向かうつもりです。

ジェニーの容体は、メイに手紙を書ける程度には回復しているようです。続く八月一一日には、宿泊したボーヴェのホテルからモリスは、フィリップ・ウェブに手紙を書きます。三三年前の一八五八年の八月に、モリスは、ウェブとフォークナーと一緒にこの地を訪ねていました。そのときは、アミアンの大聖堂の塔の上で、モリスが肩に掛けていたカバンから金貨を落としてしまい、ウェブが足で押さえる一幕がありました。さらには、聖歌隊の席に座って絵を描いていたモリスが、紙の上にインクのボトルを落とすという出来事もありました。「三三年ぶりにここに来ています。きっとそうなると思っていたのですが、それほど感傷的にはなっていません」の語句で書き出されこの手紙には、ジェニーについての記述も読み取ることができます。

私たちは一時間以上も聖職者席にいて、十分に楽しみました。教会を立ち去ろうとしたとき、ジェニーは、そこを離れるのを拒もうとするほどでした。彼女は、うれしがり、体調もよく、そして、幸福感に浸っています。

八月二六日までにはふたりはフランスから帰国しました。モリスとジェニーにとって、この夏休みの旅行は、大いなる気分転換と転地療養の役割を果たしたものと思われます。

帰国してしばらくすると、バーミンガムの市立博物館・美術館でラファエル前派の絵画の回顧展が開かれました。開催にあわせて、一〇月二日にモリスは記念の講演を行ない、いかにラファエル前派の画家たちがアカデミズムと対峙したかという内容で、振り返りました。

そのころ、ケルムスコット・プレスでは、ジェインの愛人であるブラントの『プロテウスの愛の叙情詩と歌』の出版準備が進められていました。ケルムスコット・プレスの三番目の書籍としてこの本が印刷されたのが、次の年の一八九二年一月二六日で、刊行されたのが、二月二七日のことでした。ゴールデン体の活字を用いた、黒と赤の二色刷りでした。この本は、頭文字が赤で印刷された唯一の用例で、著者の希望によるものでした。

この書物の出版からおよそ半年が過ぎたこの年(一八九二年)の夏、ブラントは〈ケルムスコット・マナー〉を訪れました。以下は、八月一一日の彼のノートに書かれてある文言です。意図的な誇張や強調があるかもしれません。すべてを疑う必要はないかもしれませが、すべてが真実であるという証拠もありません。

私たち、M夫人と私は、一緒に寝た。彼女は、過去の出来事を話した。それには、ロセッティにかかわる多くの説明が含まれていた。彼女は打ち明けた。「いまこうしているように、すっかり私の身を捧げたことは一度もなかった」。

さらに一〇月一四日のノートのなかでは、ブラントは、このようにも書いています。もし自分が「ロセッティ亡きあとの九年か一〇年のあいだ彼女を慰めるためにそこへ行く」ことがなかったとしたら、「彼女はそれ以前に精神病院に担ぎ込まれていたことであろう」。

それからしばらくした一一月のある日、モリスの書籍目録をつくっていたコカラルは、モリスとその妻に「おやすみなさい」をいうために居間に入りました。以下は、そのときのジェインの様子です。

M夫人は豪華な青のガウンを身にまとい、ソファーに座っていました。見るからに彼女は、生き生きとしたロセッティの一枚の絵であり、王と王妃のかつてのモリスの本の一頁でありました。

そのあとすぐにもジェインは、再び静養のためにイタリアのボーディジーエラに向けて出立するのですが、それに先立って、「私の死後五〇年間は公表してはならない」という指示を付して、ロセッティからの手紙が入った包みをブラントに送ったのでした。

こうした一連の行動から判断しますと、このときジェインの心身はおそらく極度に衰弱し、もはやこれ以上生きることに強い不安を抱える状態にあったものと推量されます。二年前に続けて、このときなぜブラントとの関係を清算しようとしたのか、その理由は正確にはわかりませんが、前年のジェニーの病状の悪化が、モリスのみならず、母親であるジェインにも、大きな苦悩をもたらしたにちがいありません。おそらくこの夏の〈ケルムスコット・マナー〉での逢瀬が、ふたりにとっての最後の情交の機会であり、それ以降は、落ち着いた理性的な男女の友人関係に復帰したものと思われます。

この年(一八九二年)の一〇月、桂冠詩人のテニスンが死去したことに伴って、モリスの周りでは、その後任についての話題が持ち上がりました。一〇月一一日にモリスは、ジョン・ブルース・グレイジャに宛てて手紙を書いています。これは、予定されていたスコットランドでの芸術に関する講演へ行くことができないことを伝えるための手紙ですが、そのなかで、桂冠詩人職についても触れているのです。

 桂冠詩人職をあまりにもばかげた物々しさでもって取り扱っていて、何と新聞は、取るに足りないことを書きたてるのでしょう!きっとスウィンバーンに提供され、間違いなく彼が応じることでしょう。

実際には、桂冠詩人職への就任の打診はスウィンバーンではなく、モリスになされました。しかし彼は、それを断わったのでした。モリスには、そうした形式的で仰々しい地位は、実にむなしいものに思えたのでしょう。それは、その二年前にネッドがバロネット(準男爵)の爵位を授かったときの感想でもあったにちがいありません。モリスはあくまでも反権力、反権威主義の立場を貫いたのでした。そのことは、桂冠詩人への就任を拒む一方で、同じモリスが、その前年の一八九一年にアーツ・アンド・クラフツ展覧会協会の会長職に、そして、この年(一八九二年)に芸術労働者ギルドの会長職に就いたことが、明確に例証します。

この年のクリスマスをモリスは、〈ケルムスコット・マナー〉で過ごしました。ジェインは、転地療養のためにイタリアのボーディジーエラに滞在中でしたので、参加したのは、ショーの『日記』によりますと、静養を必要とするモリスとジェニーのほかに、メアリー・ダ・モーガンを含む、メイとスパーリングとショーの三人を加えた数人でした。すでに、この三人による「三角関係」ははじまっていました。クリスマス・イブの日にスパーリングは友人に手紙を書き、そのなかで、モリスは「全く健康で満足しています」と付言しています。幾分回復していたのかもしれません。以下は、それから三日後の二七日にジェイムズ・リー・ジョインズに宛てて出されたモリスの手紙です。

ショーは、(窓を開けっぱなしのまま寝るので)自分の水差しがほかの誰のものよりも厚く凍るため、喜んでいます。

 私にとって真冬にここに来るのはこれがはじめてだったため、霜が気分を変えてくれ、むしろこれを楽しんでいるといえます。もっとも、四〇年前ならもっと楽しめたと思います。

このとき使用された便箋は、〈ケルムスコット・ハウス〉の自宅住所が印字された、通常モリスがロンドンにいて使う専用の便箋でした。次の引用は、離婚成立後のことになりますが、このことにかかわって後年メイが記述した一文です。この「手紙はケルムスコットから出されました。そこで父親と私はクリスマスを過ごしていたのですが、一緒にいたのはショーと、ひとりかふたりのほかの友人たちでした」。実に不可解なことに、ここで、夫であるスパーリングの存在が消されています。すでに述べていますように、このとき、事実上メイとスパーリングの夫婦の関係は破綻へと向かっていました。さらに加えて、姉のジェニーの存在もありません。ショーは明記するも、なぜスパーリングとジェニーを参加者名から外し、真実から遠い記述にしてしまったのでしょうか。その理由は憶測するしかありません。スパーリングとは比べものにならないショーへの深い思い入れがメイにあったのかのかもしれませんし、他方、父親の愛する娘が長女のジェニーではなく次女の自分であることを誇示したかったのかもしれません。いずれにせよ、短いこの一文に表わされた内容が、最晩年のメイの真実であり、心象風景だったようです。

前年の体調悪化以降も、この間モリスの政治活動は続いていました。そのひとつの舞台であるモリス家の自宅には、日曜夜に開かれる集会に社会主義者たちが集まってきます。そのなかのひとりにイェイツがいました。彼の回想するところによりますと、集会のあと夕食をともにしていたとき、モリスは、かつて自分が装飾した住宅に悪口を放ち、次のようにいったようです。

こんな家を私が好むとでも、あなたはお思いでしょうか。どちらかといえば私は、大きな納屋のような家が好きなのです。その家では人は、片隅で食事をし、別の片隅で料理をし、三つ目の隅で眠り、そして、四つ目の隅で友人たちを遇するのです。

このことを裏付けるかのように、フィリップ・ウェブの伝記作家であるW・R・レサビーは、その本のなかで、サー・ロウジアン・ベル邸の内装にかかわって、以下のようなモリスの逸話を紹介しています。

 モリス自身、その家の装飾を描く仕事に加わった。サー・ロウジアン・ベルは、アルフリッド・パウエル氏に、こう語っている。ある日のこと、モリスが、興奮した様子で言葉を発し、歩き回っているので、訪ねるために近寄ってゆき、何かうまくゆかないことでもあるのか、と聞いてみた。「彼は、狂った獣のように、私に襲いかかってきた――『ただ自分は、金持ちの豚のように下品な贅沢のために人生を投げ出しているだけなのさ』」。

ここで思い出されてよいのは、一八七一年のアイスランド旅行中にモリス一行が立ち寄った一軒の民家についてです。グラーントンの港からダイアナ号が出航して二日後の朝、フェロー諸島が見えてきました。朝食のあと下船すると、マーグヌースソンが知り合いの店に案内し、それからその店主の家に行きました。この家について、モリスは日記に、こう書いているのです。

私たちは……とても親切な奥さんによって、実にかわいらしい木造の家に迎え入れられました。船の船室にとてもよく似ていました。……清潔感にあふれ、白のペンキで塗られており、(室内の)居間の壁は一面、大きな植木鉢から伸びるバラとツタで覆われていました。

おそらくモリスにとっての理想の家は、こうした装飾のない素朴な造作の家だったにちがいありません。このアイスランドへの旅から一二年後の一八八三年のはじめ、モリスは民主連盟に加わり、ロンドンに亡命していた家具デザイナーで社会主義者のアンドリアス・ショイに出会います。その年の九月五日(あるいは一五日)にショイに宛てて出されたモリスの手紙には、自分の生い立ちから民主連盟に参加するまでの経緯が簡潔に述べられており、そのなかで、アイスランド旅行の意義をこう記しています。

 一八七一年に私は、マーグヌースソン氏とともにアイスランドへ行きました。そして、その地の非現実的な荒野を見る喜びとは別にして、そこで私は、ひとつの教訓を学び、徹底的に自分のものにしたいと思いました。その教訓とは、階級間の不平等に比べるならば、大多数の過酷な貧困など、わずかな害悪でしかない、ということでした。

ここで述べられているとおり、階級間の不平等の解消こそが、モリスの社会主義の原点となるものだったのです。これには、すでに見てきていますように、大芸術と小芸術の上下的分断の解消も、男女間の不平等の解消も含まれていました。つまり、幾多の方法論はあれど、あらゆる不平等と格差あるいは分断の是正――これが、モリスの社会主義だったのです。目的の達成のためには運動が必要です。いつしかその運動が勝利し、完全に不平等と格差が瓦解したとき、そのとき世界はどのようなっているのでしょうか。新しい世界の、そして新しい時代の、男女のあり方、労働のあり方、さらには、芸術のあり方――そのヴィジョンを示したひとつの作品が、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『コモンウィール』に連載された「ユートピア便り」だったのでした。

それ以降も、彼の社会主義は、決して衰えたり、雲散霧消したりすることはありませんでした。当時のイギリスの社会主義運動にとっての大きな課題は、異なる社会主義団体の主義主張をひとつにまとめ、将来への確たる見通しと、安定した運動形態を整えることでした。そのことを話し合うために、モリスのハマスミス社会主義協会、ハインドマンの社会民主連盟、そしてショーのフェビアン協会の三団体からそれぞれ五人の委員を出して、一五人による合同委員会が結成されました。最初の会合は、一八九三年二月二三日に開催され、モリスが議長に選ばれました。モリス、ハインドマン、ショーが、共通理念にかかわって草案をつくり、労働者の祭典である「労働の日」の五月一日に、「イギリス社会主義者宣言」を発行するに至ります。しかし実際には、その後の足取りに乱れが生じます。方針を巡ってハインドマンとフェビアン協会との対立が顕在化し、七月には、ファビアン協会の代表が合同委員会から身を引く事態へと発展するのです。それに対するモリスの見解を、一八八三年八月九日のエマリー・ウォーカーに宛てた手紙のなかに、読み取ることができます。

 合同委員会について。ほかの人たちがどう行動しようとも、私たちハマスミス社会主義協会は、どちらの団体とも可能な限り争いを避けるよう、慎重であるべきです。思いますに、フェビアン協会の委員は間違いを犯しました。しかし私は、むしろ社会民主連盟の方が原因となって混乱が生じたことを認める責務があります。……いずれにせよ、まっとうな社会主義政党が成立するのをますます見たいという気持ちになっています。

そうした困難な政治的調停役を引き受ける一方で、モリスの精力は、ケルムスコット・プレスでの本づくりに向けられていました。八月一〇日に『チョーサー作品集』の最初の頁がヴェラム紙に印刷されました。そして、この月の二二日のジェニーに宛てたモリスの手紙を見ますと、「チョーサーはいま実にうまく印刷されています」と、書かれてあります。そうした多忙さをかいくぐるかのように、この年(一八九三年)、モリスは、バクスとの共著で『社会主義――その成長と成果』を刊行します。これは、一八八六年から一八八八年までのあいだに『コモンウィール』へ寄稿した連載記事を改訂して一巻本にまとめたものでした。同じくこの年に、メイの『装飾ニードルワーク』も上梓されました。そのなかでメイは、刺繍の歴史を要約しながら、自らの美学上の趣味にかかわって、以下のように語っています。

美的に最上の作品であると定義されているものについては大きな混乱がある。一八世紀初期の伝統的なデザインの奇怪な猥雑さや、一六世紀と一七世紀の華やかで堂々とした復古調様式をさらにさかのぼり、中世の作品にみられる純然たる高貴さと優雅さに立ち戻ろうとする人はほとんどいない。まさにここに……真剣に製作を行なおうとする者は霊感を求めて立ち向かわなければならないのである。

さらにメイは、次のような美的=政治的論点についても言及します。

美しいものを所有する特権は、王侯貴族の宝庫にあるべきなのか、人類そのものの宝庫にあるべきなのかとか、そうした美しいものを享受する力はどちらの方にあるのかといった問題をここで提起するつもりはないが、美の力を信じることは健全なことである以上、あえて私はそのことを、ついでながら述べておかなければならない。

この主題について、かつて父親のモリスは、一八七七年の講演「装飾芸術」のなかで、このように述べたことがありました。

 趣味の簡素さ、つまりそれは、甘美にして高尚なるものへの愛なのですが、それを生み出す生活の簡素さが、私たちが待ち望む、新しくてよりよい芸術の誕生にとって必要とされるすべての事柄なのです。簡素さは、田舎家だけではなく宮殿においても、至る所で必要とされます。

おそらくメイの関心も父親の関心を引き継ぐものだったにちがいありません。ふたりの見解に従えば、「趣味の簡素さ」と「生活の簡素さ」は表裏の関係にあり、そこからあまねく芸術は誕生するのです。そして、贅沢や過剰が美の豊饒の表象となるのではなく、中世の作品に認められるように、純朴で簡潔なるものが、美的な豊かさを生み出すのです。それは、この講演に先立ち、すでにモリスがアイスランドで体験した事柄でもありました。

『装飾ニードルワーク』が出版された一八九三年ころ、メイとモリス商会は、〈ケルムスコット・マナー〉で父親が使う四柱式ベッドの天蓋用掛け飾り、ベッド・カーテン、そしてベッド・カヴァーの製作に入りました。とりわけ天蓋用掛け飾りは、「ケルムスコットのベッドのために」と題されたモリスの詩句をメイが刺繍することによって、親子の合作として完成しました。その詩は、以下のとおりです。

風は原野を走り、夜は冷えている
そしてテムズ川は牧草地と水車小屋のあいだを冷たく流れる
しかし安らぐいとおしい場所はこの古き家なのである
過酷な冬のただ中にあってわが心は温まる。
それでは休もう、休んで、思い起こそう
木のある町であらゆる鳥たちが歌う
春と夏のあいだの最もよきことを
さあ、わが胸に翼を休め、動こうとしないでおくれ
一日が終わる前に大地とこの愛が消えるといけないから。
わが身は老い、これまでに生じた多くの事柄を見てきた
悲しみも平安も、そして潮の満ち引きも。
よいとも悪いともそれについては語るまい
しかしこれだけはいっておこう、すなわち昼を踏み越えて夜が来る
だからいずれにせよ、まさしく休息こそがよきことなのである。

この詩句を読むにつけ、死期が迫っていることをモリスはこのとき自覚していたのではないかという思いに駆られます。

モリスの母親エマ・モリスも、当時病の床に伏していました。それでもエマは、愛する息子へプレゼントを送っています。クリスマスの二日前の一八九三年一二月二三日に、モリスは母親に手紙を書きました。そのなかに、次のような一節があります。

 また、親愛なるお母さま、すてきな皿立てとお皿につきましても、親切にもお送りいただきまして、本当にありがとうございました。美しいドレスデンのカップ、いつも愛用しています。とても楽しく飲んでいます。

現在残されているモリスから母親に宛てて出された手紙のなかにあって、これが最後の手紙となっています。

一八九一年に体調が悪化して以来、モリスは、〈ケルムスコット・マナー〉のベッドでしばしば静養するようになっていました。その時間を少しでも楽しめるようにとの配慮のもとに、モリス自作の詩を刺繍した天蓋用の掛け飾りと、ベッド用のカーテンとカヴァーは製作されたものと思われます。一方、製作された時期を勘案しますと、一八九四年三月二四日がモリスの六〇歳の誕生日でしたので、そのときの家族からのプレゼントだった可能性も残されます。カヴァーに、「もし私にできますならば。ジェイン・モリス。ケルムスコット」の署名が入っていることに着目した伝記作家のジャン・マーシュは、このような指摘をしています。

この標語は、モリスが製作活動に入った最初のころに自分の座右銘として自ら採用したものであり、〈レッド・ハウス〉の初期の掛け飾りや装飾には刺繍されているが、いまや用いられなくなってしまっていた。したがって、この標語を夫のベッド・カヴァーに刺繍することで、ジェイニーは、ある程度和解の意思表示をしようとしたものと思われる。彼女なりのやり方で、最終的には彼を愛するようになっていたように思われるのである。

確かにベッド・カヴァーの刺繍は、妻から夫への和解の意思表示だった可能性があります。しかし、モリスがそれを心から受け入れたかどうかは、定かではありません。

この時期、もうひとつの和解もありました。この年の六月、モリスは、社会民主連盟の機関紙である『ジャスティス』に、「いかにして私は社会主義者になったか」と題した一文を寄稿します。これは、社会民主連盟を率いるハインドマンとのあいだにすでに和解が成立していたことを示すものとして理解することができるのです。そのなかでモリスは、民主連盟に参加したころの自分は、マルクスの『資本論』の経済学的分析が理解できなかったことを率直に告白しています。民主連盟から社会民主連盟へと名称が変わり、モリスが社会民主連盟を離れたのは一八八四年のことでした。「いかにして私は社会主義者になったか」を『ジャスティス』に発表するまでには、その間、およそ一〇年の歳月が流れていたのでした。

しかし、こうした和解とは別に、六〇歳の誕生日を迎えたたこの年(一八九四年)には、悲しい出来事も起こりました。それは、メイとスパーリングの結婚生活が破綻し、スパーリングが家を出たことでした。父親としてのつらさは、推し量るに余りありますが、娘婿は、ケルムスコット・プレスでの自身の秘書的仕事をしていた関係上、モリスはその後任を必要とするようになりました。そこで、一八九四年七月に正式に任用されたのが、シドニー・コカラルという人物でした。はじめてモリスとコカラルが知り合ったのは、古建築物保護協会の会合の席で、その後一八九二年の一〇月にモリス蔵書の目録化をする仕事に就いていました。彼は一八六七年の生まれで、ケルムスコット・プレスのモリスの秘書に任用されたときは、まだ二七歳の青年でした。メイよりも五歳若く、モリスにとっては息子も同然の関係だったのかもしれません。信頼が篤かったらしく、モリスが死去するとコカラルは、ほかのふたりとともに、モリス家の資産管理の任に当たるのでした。

さらにこの年、メイの実質的な結婚の終焉に加えて、もうひとつの悲しみがモリスを襲いました。それは、母親エマ・モリスの死でした。コカラルの日記によると、一二月八日に亡くなり、一一日の葬儀にモリスは参列しています。以下は、一二月一四日に書かれたジョージー宛てのモリスの手紙です。

 火曜日に母の埋葬に行ってきました。薄日の差す、心地よい冬の一日でした。母は、家のそばの教会墓地に眠りました。……あれほど優しく、深い愛情に包まれたものがいまや消え去ってしまい、そのことが、老いて頑固になった私の心を揺さぶります。彼女は八九歳で、最近の四年間、病に伏していました。

そして、この手紙には、次の言葉が続いています。「さて、私はその選挙であなたが上位で当選することを期待しています」。「一八九四年の地方自治法」に基づく最初の選挙がこのとき行なわれ、ジョージーは、ロティングディーンの行政教区の議会選挙に立候補していたのでした。ブライトンに隣接するロティングディーンは海に近い南部の保養地で、バーン=ジョウンズ夫妻の別荘のある地区です。一二月二〇日、選挙結果を知ったモリスは、再びジョージーに手紙を書きました。「さて、当選おめでとう。あなたが『バンブル』たちを打ちのめしてくれそうで、心から本当にうれしく思います」。「バンブル」とは、ディケンズの小説『オリヴァー・ツウィスト』に出てくる、尊大でもったいぶった教区官吏の名前に因むものです。社会民主連盟との和解の時期前後からすでにこのときまでに、モリスの政治信条は、無政府主義に近いものから、議会制民主主義へと、修正されていたものと思われます。

年が明けた一八九五年の春の好季節に、モリスは、〈ケルムスコット・マナー〉へ行きました。四月二日、そこから、ジェニーに向けて手紙を書きました。

草原が大きく変わっています。至る所、緑に覆われ、美しく見えます。花は、実際には多くありません。……ピンクと青の美しいユキワリソウが開花しています。これは、私がまだ小さい少年のころ、大好きだった花です。……鳥の声は、ほとんど聞くことはありません。しかし、ミヤマガラスだけは、みな興奮しています。寒い天候が繁殖の季節を遅らせているように思います。

この手紙は、自然に対するモリスの優しい感性が表出された文例でもあります。そうした感性は、他方で、自然破壊や労働破壊や芸術破壊へと向かう当時の金満的精神への強い抗議として、これまで展開されてきていました。その勢いは、病弱になったいまにおいても、決して衰えることはありませんでした。

これまで以上に古建築物保護協会での彼の活動は、勢いを増していました。このときの彼の関心は、幼いころに馴染み親しんだピータバラ大聖堂の修復にかかわる問題でした。四月一日、彼は、それにかかわって『デイリー・クロニクル』の編集長宛てに手紙を書いています。四月二二日にも、『デイリー・クロニクル』の編集長に宛てて書きました。このときの手紙は、同じく幼いころに遊び場として楽しんだ「エッピングの森」が開発によって破壊されることを危惧する内容でした。同じく編集長に宛てて出された五月八日の手紙には、実際に現場に行ったことが報告されています。コカラルの「日記」によりますと、五月七日、〈ケルムスコット・ハウス〉で朝食をとったあと、モリス、ウェブ、ウォーカー、エリス、そしてコカラルの一団が、「エッピングの森」へ行ったことが記されています。さらにモリスは、五月三一日に『タイムズ』の編集長に手紙を書き、そのなかで、ウェストミンスター寺院のなかにある王家の墓が修復されることへの抗議の意思を示しています。そうした歴史的建造物の修復や自然環境の破壊に対する抗議行動だけではなく、ハイド・パークで開かれた、おそらくこの年のメーデーにも彼は参加し、社会民主連盟の旗のもと、大衆を前に演説を行なったのでした。

この年(一八九五年)の夏、ジョージーが〈ケルムスコット・マナー〉を訪れました。滞在中、家族に手紙を書きました。次は、その手紙の一部です。

トプシーはとても幸せそうに見え、ここで心地よい暮らしをしています。……花が咲く庭は魅力的で、たくさんの花、そのすべてが、美しく整えられています。あれから九年が立ち、当然ながら木も灌木も成長し、どこもかしこも、葉で覆われています。それでも、先週来たかのような感じがしています。位置がほとんど変わっていないのです。――そうはいっても、ジェイニーもトプシーも、そして私も、年を重ねたように感じられます。そのため、決して現実ではない所を訪問しているようにも思えます。

講演活動も、体が許す限り、続けられました。マッケイルは、こう書いています。

一二月に、彼はロンドンでふたつの講演をした。ひとつは、イギリス建築に関するもので、ひとつは、印刷された本に用いられたゴシックにかかわる挿し絵に関するものだった。後者の講演は、ボウルト・コート技術学校で行なわれ、昔ながらの力強さが発揮された最後の講演となった。

新しい年、一八九六年を迎えました。一月三日、モリスは、社会民主連盟の新年の会合に出席し、団結のためのスピーチをし、さらに二日後、自宅の〈ケルムスコット・ハウス〉で開かれた日曜夜の会合で、最後の講演を行ないました。テーマは、「ひとつの社会主義政党」についてでした。

しかし、マッケイルが記述するところによれば、「年が変わるに伴って、この数箇月のあいだに彼を襲っていた衰弱は、さらにいっそう明白なものになっていた。いまや、激しいせきで心身を消耗させるようになり、目立って筋肉が衰え、夜は、不眠が続くようになっていた」のでした。仕事の量も次第に減ってゆきました。四月二八日、モリスは〈ケルムスコット・マナー〉から、ジョージーに宛てて手紙を書きました。

 一週間前にあなたにお会いして以来、回復が進んでいるように思えるとは、いいがたく、これ以上悪化しないことを願うばかりです。……こちらは、すべてが、あるがままに美しく、いまに至る季節はすばらしく、牧草はよく茂り、色つやもよく、リンゴの花は、これまでにここで見たなかで、比較的豊かに咲き乱れています。

この滞在中に彼は、『ジャスティス』のメーデー号のために短評を書いています。これが、社会主義にかかわる文献として寄与したモリスの最後の論述となりました。

五月六日にロンドンにもどると、ケルムスコット・プレスでは、『ジェフリー・チョーサー作品集』が完成に近づいていました。六月二日、最初の二部が、製本工から手渡されました。一部はモリスに対して、そして、もう一部はバーン=ジョウンズに対して。マッケイルは、こう書いています。

 かくして、計画にちょうど五年、そして、実際の準備と製作に三年と四箇月を費やしたこの仕事が終わった。印刷には一年と九箇月を要した。この作品には、バーン=ジョウンズの八七点の絵のほかに、木版による一枚全頁の表題紙、一四点の大判の縁飾り、絵につけられた八点の縁飾りないしは枠飾り、そして、二一点の大きな頭文字をもつ単語が含まれていた。

バーン=ジョウンズの八七点の絵以外は、そのほとんどが、モリス自身によるデザインでした。編集は、F・S・エリスが担当しました。本文はチョーサー体、詩のタイトルはトロイ体で構成され、黒と赤を用いた二色刷りでした。紙に印刷された四二五部が二〇ポンドで、そして、ヴェラム紙に印刷された一三部が一二〇ギニーで販売されました。

医師の指示により、モリスは、六月の大部分をフォウクスタンに滞在して気分転換を図りました。しかし、とくにいい結果をもたらしたわけではありませんでした。次に計画されたのは、ノルウェーへの旅でした。かつてのアイスランドへの航海を追体験し、北方人の不屈の精神に再び触れたかったのかもしれません。これには、旧友のジョン・カラザズが同行し、一行は七月の二二日に出発しました。しかしこれも、失敗に終わりました。マッケイルは、次のように書いています。

 しかし、この船の旅は、賢明な助言であったにしても、そうでなかったにしても、その進行、あるいはその結果のどちらかにおいて、不幸なものとなった。彼は、愛する本も写本も、残してこなければならなかった。ほとんど絶え間なく、退屈と不安が彼を襲った。彼は、内陸部の旅行ができず、快適な天気と太陽の日差しに恵まれながらも、フィヨルドのもつもの悲しさが、彼の気持ちに冷気を浴びせかけた。

旅行中の七月二七日に、モリスはウェブに手紙を書きました。そして帰国すると、さっそく筆を執り、八月一八日、再びモリスは、ウェブに宛てて書きました。「帰ってきました。会いに来てくれたまえ。……追伸 体調は幾分よいが、航海にはいや気がさした。家に帰れて、うれしい」。

帰国後のモリスの心からの願いは、できるだけ早く〈ケルムスコット・マナー〉に行くことでした。マッケイルの書くところは、こうです。「しかし、一日、二日ののちに、彼の病気は深刻な状態へと転じ、医者は、そこへの移動を禁じなければならなかった。二度と彼は、ハマスミスを離れることはなかった。衰弱し、彼の書く数文字さえ口述されなければならなかった」。そしてマッケイルは、こうも書いています。「彼が自分で書くことができた最後の手紙は、ロティングディーンに滞在していたレイディー・バーン=ジョウンズへ宛てて出された、九月一日の数行の手紙だった」。そこには、わずかに一〇文字が並んでいました。「すぐに来てください。いとおしいあなたのお顔を一目見たいです」。

いよいよモリスの生涯の最期が訪れました。やはり、そのときの様子も、身近にいたマッケイルの筆に従わなければなりません。

 最後の数週間、彼は、家族の手を越えて、友人たちのたゆまぬ献身に支えられた。メアリー・ダ・モーガン嬢は、長い経験から生み出されたすべての技術と、何年ものあいだお返しにモリスが心から示してきていた愛情の知的共感とをもって、この最後の看取りに捧げた。サー・エドワード・バーン=ジョウンズとレイディー・バーン=ジョウンズ、ウェブ氏、そしてエリス氏が、ほとんど毎日彼に付き添った。コカラル氏は、絶え間なく熱心に看病に当たった。エマリー・ウォーカー氏は、辛抱強く女性のような優しさでもって彼を看護した。一〇月三日の土曜日の朝、一一時から一二時のあいだ、彼は、苦痛の色を見せることなく、静かに息を引き取った。

マッケイルの記述には、妻のジェインがこの間どう対応したのかについては、いっさい触れられておらず、この点が、この記述の特徴となっています。

モリスの死の知らせを聞いたブラントも、弔問に訪れました。最初にバーン=ジョウンズ宅に寄り、それから〈ケルムスコット・ハウス〉へ向かいました。彼は、次のように書き記しています。

ひつぎは、実に質素な箱で、階下の小さな部屋に置かれていた。ひつぎの上には、美しく刺繡された古い布が掛けられ、葉と悲しみ色の花とでできた小さな花輪が載せられていた。そこは、彼が寝室にしていた部屋で、そこで彼は亡くなった。その部屋には、彼にとっての最高の、そしてお気に入りの本が並び、彼を取り囲んでいた。

学生時代からこの最後の日まで固い友情で結ばれていたエドワード・バーン=ジョウンズの言葉が、彼の義理の息子であるマッケイルが書いたモリス伝記に残されています。ここに引用します。

あの当時の最初の数年を思い返し、それを、私が知ることになる最期と比べれば、その生涯は、ひとつの連続した道のりであった。彼の最初の熱狂が、最後の熱狂であった。一三世紀が彼の理想の時代であり、それは、私たちが最後に交わした話題でもあり、決して変わることはなかった。

一〇月六日、モリスのひつぎは、黄色に塗られた車体と明るい赤で塗装された車輪をもつ荷馬車に乗せられ、レッチレイド駅からケルムスコットの教会墓地へと運ばれ、そこに埋葬されました。墓石はウェブがデザインし、「ウィリアム・モリス 一八三四―一八九六」の文字が、実に簡素に、刻まれています。モリスがジェインと結婚したときの新居となる〈レッド・ハウス〉をデザインしたのもウェブでした。その意味で、最初と最後の住み家がウェブからモリスへの贈り物となったのでした。

夫の死を妻のジェインはどのように受け止めたのでしょうか。これにつきましては、ジャン・マーシュが書いたジェインとメイについての伝記のなかから、以下に引用します。

 ジェインは結婚して三七年になっていた。モリスの死を彼女はどのように受け止めたのか、それについての見解はさまざまであった。旧友のアーサー・ヒューズは、「よく耐えている」メイと「悲しそうに泣いている」ジェニーと一緒に、ジェインが「ひどく落胆している」様子を報告している。ブラントは葬式には出席できなかったものの、前日にジェインを訪れており、彼女の言葉を記録している。「私は不幸ではありません」と彼女はいった。「大変過酷なことではありますけれども。それというのも、物心がつき始めたときからずっと私は彼と一緒だったのですから。結婚したのは私が一八歳のときでした。しかし私は、彼を一度も愛したことはありませんでした」。

新聞各紙は、モリスの死と論評をただちに掲載しました。『ウィリアム・モリス――われわれの時代のための生涯』の著者のフィオナ・マッカーシーは、モリスの死亡記事を、次のように概観していいます。

 目に着くのは、それに続く数日間の死亡記事の多くにあって、主としてモリスは著述家として記憶されていたことである。「詩人、しかも、テニスンやブラウニングがまだ健在だった時代にあってさえも、六本の指に数えられるわれわれの秀でた詩人のひとり」と『タイムズ』は述べているし、『デイリー・ニューズ』は、「私たちの心に残るまさしく正真正銘の詩の巨匠」と書いている。「英国の中産階級の心のなかに美的共感を目覚めさせた」という意味において、彼が視覚芸術に貢献したことについて報じる企ても幾分かなされた。同じくその死亡記事の書き手は、深い洞察力をもって、こう論評している。「最初はブルームズバリーの小さな店において、その後はマートンにあるより大きな施設において」製作された壁紙と家具は、詩歌や絵画が理解できない人びとに芸術的認識を植え付けるのに成功した。

 全体として日刊紙は、モリスの政治的側面については言及を避けていた。『タイムズ』は、「理論に対してや生活の諸要因に対しての配慮を著しく欠いたまま、彼を一種のセンチメンタルな社会主義へと引き入れた力」に蔑視を浴びせた。いずれにせよ、その執筆者は、「どう見てもモリス氏の社会主義的見解が多くの実害をもたらした様子はない。彼のそうした見解は、詩的な言い回しでもって労働者向けに述べられたものであった。そしてその詩的な言い回しは、実に周到に用意された簡潔さのため、労働者には奇怪に映った」と言葉を足していた。

こうしたモリス評価が、適切でないのは明らかです。逆に明らかなことは、ヴィクトリア時代における人物評価にあっては、デザイナーや社会主義者よりも、数段高く詩人の方が位置づけられていたということです。そしてまた、多くのメディアにとっては、教養も資産もある中産階級の紳士が、丸いふちどりの帽子をかぶり、作業着に身を包みながら、版木を彫ったり、織機や染め桶の前で仕事をしたりする光景など、とうてい想像すらできなかったにちがいありません。さらにいえば、そうした労働は、大芸術と小芸術に分断される以前の中世の労働=芸術に広く見受けられた根源的な人間生存の形式であり、それを資本と市場が破壊し、それに立ち向かう運動の論理として社会主義が生まれ、モリスがその先頭に立ったという事実も、当時の人びとに受け入れられることはほとんどありませんでした。

他方、モリスの葬式のあと、ジェインは、ブラントとその妻の招待を受けて、メイとともに、その年の冬のあいだエジプトの彼の別邸に滞在することになります。こうした、夫の死のあと、ただちに、かつて性的関係にあった愛人とともに時を過ごす事実のなかにも、「私は、彼[モリス]を一度も愛したことはありませんでした」というジェインの言説は生きているのかもしれません。

モリス死後のこうしたメディアの論評や妻の行動に思いを馳せますと、いかにもモリスは、孤独です。一部の信頼できる友人たちを除けば、ほとんどの人に理解されることなく、モリスの亡骸は埋葬されたことになります。しかし、死によってモリスの生涯は終わったわけではありません。いよいよ、モリスの第二の生涯の幕が開くのです。それは、その後に続く文学者や社会主義者、そしてデザイナーたちによる仕事の継承、そして同時に、研究者や伝記作家による真実の発掘というかたちをとって、今日に至るまで(あるいは、これよりのち未来永劫)脈々と展開されてゆくことになるのです。モリスの業績のもつ重みは大きく、その影響は、本国イギリスに止まることなく、その第一波は、極東の日本へもすぐさま到達しました。第二〇章の「遺族たちのその後」に進む前に、次章の「モリスの日本への影響」におきまして、そのことについて詳しく描写したいと思います。