神戸大学に就職して数年が立ったとき、はじめて私は短いヨーロッパ旅行をし、そのとき数日間ロンドンにも宿泊した。私は博物館や史跡だけではなく、積極的に書店回りをした。ある店の書棚に並べてあった Noel Carrington 著の Industrial Design in Britain と背表紙に刻まれた一冊の本が私の目に留まった。手に取って開いてみた。そこにはウィリアム・モリスとその仲間たちによって展開されたアーツ・アンド・クラフツ運動以降の、英国におけるデザインの近代運動が語られていた。帰国するとさっそく、誰の紹介もなく、いきなり晶文社に電話を入れ、あつかましくも翻訳したい旨のお願いをした。当時晶文社は、小野二郎さんを中心にモリスや英国文化に関する書籍の刊行に力を入れていた。しばらくしても返事がないので、意を決して、再び電話をしてみた。最初のときと同様に編集者の島崎勉さんが電話口に出られた。結果についてお聞きすると、「先日の会議で小野二郎がこの本は中山にやらせたらどうかといい、それで決まった」という返事が返ってきた。こうしてこの本の翻訳作業がはじまった。しかしながら、この翻訳書1が出版される少し前に小野さんは急逝された。この本が出たらぜひとも一度お会いし、この本についてだけではなく、モリスやアーツ・アンド・クラフツについていろいろとお話をお聞きしたと思っていただけに、小野さんの突然の死は私にとって大きな衝撃となった。
月日が流れ、文部省の長期在外研究員としてイギリスに行くことが決まると、さっそく親しい友人たちに手紙を書いた。彼らは、その前にブリティシュ・カウンシルのフェローとして英国でデザインの歴史について調査をしたとき以来の研究上の仲間たちであった。さっそくウィリアム・モリス協会の元会長のレイ・ワトキンスンさんからの返事が届いた。そこには、ウィリアム・モリス協会において、日本におけるモリスについて講演をしてほしいという依頼のメッセージが書かれてあった。開催日も指定されていた。ところが、手紙を受け取ったちょうどその翌日、私たちが住む神戸を大地震が襲った。書斎での仕事も、大学の図書館での調査も、その機能をすべて失った。それから数箇月が立ち、何とか講演原稿の執筆に向かうことができるようになった。しかし、残された時間はわずかであった。やっとのことで、本当に日本を離れる前日に原稿は完成した。内容は、およそ一〇〇年に及ぶ日本のモリス受容の歴史を概観するものであった。このとき、モリス主義者を自認する小野二郎さんの業績も自分なりに位置づけることができたし、加えて、英国留学からの帰朝後、富本憲吉が「ウイリアム・モリスの話」という評伝を書いていたこともはじめて知った。そして詳しく調べてゆくにつれて、小野さんも、英国での研究を終えて帰国すると、モリスを扱った『装飾芸術』(青土社、一九七九年)という書を公刊していたことに気づかされたし、さらに驚いたことには、「アール・ヌーヴォーのイギリス起源という問題」(『現代思想』一九七六年一二月号所収)と題した評論の結びを、小野さんは、「中村義一氏の業績と長谷川[堯]氏のそれとを踏まえて、実は富本憲吉のモリス論を論じようと思ったのだが、……なかなか富本にはたどりつけそうもない」2という一文で締め括っていた。日本を離れてイギリスに向かう飛行機のなか、私は、モリス研究の先達である憲吉さんと小野さんがいかにして英国で暮らし、モリスに向き合っていたのかに、しきりと思いを巡らせていた。ロンドンに着くと、親切にもモリスやラファエル前派研究の第一人者であるジャン・マーシュさんが原稿に目を通してくれて、無事に、ウイリアム・モリス協会の本部のある〈ケルムスコット・ハウス〉で、王立美術大学の客員教授のジリアン・ネイラーさんをチェアに、講演を行なうことができた。レイ・ワトキンスンさんだけでなく、ジャン・マーシュさんもジリアン・ネイラーさんも、それ以前からの親しい友人であり、一気に旧交を温めることができたし、私の二度目の英国でのデザイン史研究にとって幸先のよいスタートの機会となった。
さらに月日が流れた。帰国してしばらくして、ジャン・マーシュさんから手紙が届いた。すでにそのときまでに私は、マーシュさんの著書である『ウィリアム・モリスの妻と娘』3を晶文社から翻訳出版していたし、来日のおりには自宅に滞在していただいたこともあり、そのころは日常的に手紙のやり取りをしていた。そのときの手紙の内容とその後の経緯は、だいたい次のようなものであった。
一八六〇年から一八六五年までモリス家の住まいとして使用された〈レッド・ハウス〉は、その後、幾人かの個人所有者に引き継がれていった。そして、最後の所有者であったテッド・ホランビーさんとドリス・ホランビーさんの夫妻が亡くなると、ナショナル・トラストはこの家を買い上げ、ただちに二〇〇三年から一般公開に踏み切った。一方、ナショナル・トラストは、その家の歴史についての本の執筆をジャン・マーシュさんに正式に依頼することになった。この家を国際的文脈に照らして記述する意向をもったマーシュさんは、この家の室内のガラス扉に記載されていた四人の日本人訪問者の特定をまず私に依頼した。さっそく依頼のあった訪問者の特定作業を急ぐとともに、そのときまで私は、富本憲吉が日本人としてはじめての〈レッド・ハウス〉訪問者であると思い込んでいたので、そのことをマーシュに伝えると、富本が最初の訪問者でないことはすぐに判明したものの、一九〇九年前後のこの家の室内の様子を記述した資料がほとんどないので、富本が〈レッド・ハウス〉を記述した箇所を送ってほしいという要望が返ってきた。そこで改めてその部分を読み直してみると、私も二度ほどそれまでに〈レッド・ハウス〉を訪問していたが、富本がどの場所に立って、どのような場面を見ているのかが必ずしも判然とせず、富本自身の実体験に基づく記述ではないのではないかという、かすかな疑問が生じた。そこで、「ウイリアム・モリスの話」のなかで富本が〈レッド・ハウス〉に関して記述している部分を全訳して送るとともに、この英訳に相当する記述をもった本なり雑誌なりが当時ロンドンで刊行されていなかったかどうかの確認をマーシュさんに依頼した。彼女はすばやくその仕事を大英図書館で行ない、私の英訳のセンテンスごとに、それに相当する英文の対照表を作成し、それが、エイマ・ヴァランスからのものであることを私に告げた。
こうして私は、富本の「ウイリアム・モリスの話」の底本が、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』4であったことを確証する一方で、ほぼ間違いなく、富本は英国留学中に〈レッド・ハウス〉を訪れていないという心証を得ることができた。それは、天地が逆転するほどの驚きであった。というのも、かつて小野二郎さんが、自分の〈レッド・ハウス〉訪問について、こう書いていたからである。
私が「レッド・ハウス」を訪れたのは、一九七四年の二月だったと思う。ロンドンから南へ約一〇マイル、ケント州べックスリ・ ヒル ( ママ ) [ヒース]の地を踏むと、写真で見馴れたその建物の姿を目にする前に、六〇年以上も昔、ここを訪ねたであろう一日本人青年のことが、どうしても思い出された。その青年とはのちの陶芸家富本憲吉である5。
これが、小野さんの「『レッド・ハウス』異聞――フィリップ・ウェッブとモリス」の書き出しである。富本の「ウイリアムス・モリスの話」を読み、小野さんのこの一文を読み、私自身もまた、富本は〈レッド・ハウス〉へ行っていたものとばかり、それまで思い込んでいたのであった。
マーシュさんの『ウィリアム・モリスとレッド・ハウス』が二〇〇五年に上梓されると、一部、私のもとにも届けられた。表題紙には、「ウィリアム・モリスの理想への絶え間ない共感とともに」という自筆の一文と署名がつけられていた。そして本文を開くと、「ウイリアム・モリスの話」なかの〈レッド・ハウス〉の箇所をかつて私が英訳した一部が引用、再録されたうえで、続けて、「言葉遣いからすれば、個人的な訪問のように受け止められるが、富本の記述は、おおかたヴァランスの本に依拠している」6と書かれてあった。
それ以降私の研究は、富本へと向かっていった。富本は、なぜモリスに興味をもったのか、英国留学中、富本はどのようなモリス研究をしたのか、そして帰国後、陶工としての仕事と一枝との家庭生活において、モリスの理想はどう展開されたのか、これらの課題を、途中で放棄したくなることもあったが、何とか一つひとつ一次資料にあたりながら概観していった。こうしていま、私は、本稿「富本憲吉という生き方――モダニストしての思想を宿す」を脱稿しようとしている。そこには、以上に述べたような、多くの人びととの親密な交流と知的触発に富む影のストーリーが存在していたし、明らかに自分自身のモリス行脚とも重なる。そのような意味で本稿は、外に向けて発表することを目的に書かれたものというよりは、むしろ、私自身の内面の関心事を探索した結果的産物であり、同時に、これまでにお世話になったすべての人への心からの感謝の気持ちをささやかに実体化したものとなっている。
いつのまにか、長い時間が流れ去った。やつと擱筆の日が来た。書きはじめる前に比べて少しだけ富本憲吉という生き方の実相がつかめてきたような気がしている。そしてまた、一九八七―八八年のブリティシュ・カウンシルのフェローとしての、続く一九九五―九六年の文部省の在外研究員としての、二度にわたる長期の英国滞在を、昨日のことのように思い出している。そのときどきに得られた多くの知見を源泉とする本稿をもって、遅ればせながらの私の帰朝報告とさせていただきたい。憲吉さんの「ウイリアム・モリスの話」の先見性、小野さんの『装飾芸術』の洞察力、それらにははるか遠く及ぶものではないが。
(二〇一九年)
(1)ノエル・キャリントン『英国のインダストリアル・デザイン』(中山修一・織田芳人訳)晶文社、1983年。[原著は、Noel Carrington, Industrial Design in Britain, George Allen & Unwin, 1976]
(2)小野二郎『ウィリアム・モリス研究』(小野二郎著作集1)晶文社、1986年、396頁。
(3)ジャン・マーシュ『ウィリアム・モリスの妻と娘』(中山修一・小野康男・吉村健一訳)晶文社、1993年。[原著は、Jan Marsh, Jane and May Morris: A Biographical Story 1839-1938, Pandora Press, London, 1986]
(4)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
(5)小野二郎『ウィリアム・モリス研究』(小野二郎著作集1)晶文社、1986年、327頁。[初出は、「『レッド・ハウス』異聞」『牧神』第12号、1978年]
(6)Jan Marsh, William Morris & Red House, National Trust Books, 2005, p. 115.