帰国の航路、富本は、日本にいるバーナード・リーチを訪問するために乗船していたレジー・ターヴィーというひとりの青年画家に出会った。富本は、ロンドン滞在中にすでにリーチのことを耳にしていた。リーチのこと、日本のこと、そしてイギリスのこと、話題に事欠くことはなく、航海中、富本とターヴィーの会話はおそらく弾んだにちがいなかった。一九一〇(明治四三)年六月一五日、ふたりを乗せた三島丸が雨に煙る神戸港に錨を降ろすと、ふたりはそこで別れ、ターヴィーはリーチの待つ東京へ、富本は、とりあえず大阪の親戚の家へと急いだ。その後富本とリーチのあいだで手紙のやり取りが交わされ、すぐにも富本は東京に上り、リーチが新築していた桜木町の自宅を訪ねた。帰国後の富本の活動は、こうした偶然の経緯から知り合ったバーナード・リーチと、そして、英国生活をともに経験し、一足先に帰朝していた南薫造――このふたりの新旧の友人との密接な交流のなかから、萌芽してゆく。
リーチの家をはじめて訪れたときの様子について、富本は次のように書き記す。
リーチとの初對面は、櫻木町の家だつた。彼が設計したといふ茶の間の眞中の疊一帖だけ床を落しそこに格好な卓を置いてあつたので、床が椅子がはりになつて皆で腰をかけて向ひ合ふことの出來る設計で一寸面白いと思つて見た。
それまで既に文通もあつたし、これが初めて會ふといふ氣持ちなどはなくすぐに肝膽相照すといふ具合で英國の話や工藝の話や圖案の話などを話し会つた1。
一方リーチは、こう回想している。「私は最初から彼[富本]が好きになった。……私が日本で暮らした一九一〇年から一九二〇年にかけて、富本と私はさながら仲のよい兄弟のようであった――何でも分かち合った。……[そのころを]振り返ってみると、寛大で熱意にあふれるも、鋭い識別力をもった彼のまなざしが、過去の世界から蘇ってくる」2。
一九一〇(明治四三)年の夏を境に富本の東京での活動がはじまった。最初の寄宿先は、大久保近くの柏木村にある、すでに南が投宿していた同じ下宿屋であった。以下は、富本の南評である。
……美術學校やロンドンでは同じ室に住んだり、大抵毎日遇つて、私の友達のうちでは、最も親しい、又私に取つて最も尊重す可き人です。模樣や水彩は勿論、音樂、詩、とあらゆる方面に、高尚な趣味を敎て呉れた人です……大抵毎夜眠れない私は、眼を血ばしらして居りました。角の多いすぐ泣きたくなる、すぐ怒りたくなる、感じ易い私を、温和な南君が、長い間、此の美しい好みで良く誘導してくだすつた事を感謝して居ます3。
この宿泊先で富本はまず木版画の製作に着手した。年が明ける前にすでに安芸の内海町に帰省していた南に宛てた、一九一一(明治四四)年一月二五日の日付をもつ手紙のなかで、その間の東京での出来事が記されている。「木版の色づくりウマク行ったナー」と書き出し、昨夜東京美術学校の建物が焼けたことについて言及したうえで、「外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あるのに敬愛すべき建築物が先き へ ( ママ ) 焼けて厭やな奴は世にハビコル。アゝ――」4といった心情を隠すことなく吐露する。明らかに、美術学校の図案(デザイン)教育に携わる教師陣への痛烈な批判である。これが、記録に残る、富本の帰国後の反抗精神の第一声であった。
続く二月一日付の同じく南に宛てた書簡では、「東京に居って一文も金が取れなければ勿論田舎をとも思ふが……地主も大きいのなら良いが小さい猫の額では此の血が、若い僕の血が聞いて呉れない。他の人が多忙がって居る中に君は繪をかいて居るそうだが僕は、繪なら未だ良いが、他の人が想像もつかぬ椅子やステインド、グラスを考へて暮らしている」5。南が行なっている絵画という表現形式の安定性や認知度に比べて、ウィリアム・モリスの実践に倣い多様な工芸分野において今後製作を行なおうとした場合、技術修得の問題、製作の場の問題、素材入手の問題、購入者の有無の問題など解決が迫られる課題は多岐にわたり、そこには、「他の人が想像もつかぬ」困難性が横たわっていることを、そのときそれとなく富本は南に伝えたかったのであろう。
初対面以降、富本とリーチはしばしば会っては、自分たちの今後の活動や生計の見通しについて相談していたようである。というのも、「イギリスから帰国した富本は、数ある創作活動のなかにあってすでに木版画に手を染めはじめていた。私はエッチングを行なっており、そのなかには、日本に来てから製作したものが何点かあった。そこで私たちは、何か合同展のようなものを開けないか話し合った」6と、リーチが回想しているからである。ここで考えられている合同展とは、見せるために作品を単に陳列するというよりも、むしろ売るためのものであり、「展覧會を用ひて商賣をやることなどは其頃から始まつたかとも思ふ」7と、富本は述懐している。
ふたりの話し合いも進み、いよいよ実行に移された。二月一八日のリーチの日記には、こう綴られている。「若い美術家たちの展覧会の会場になることを想定してつくられた、東京の中心にある 画報社 ( ママ ) [吾楽殿]へ森田[亀之輔]と一緒に行った。そこは小規模ながらも、まさに最初の自主運営による画廊で、トミー[富本]と私の作品も参加させてくれるかどうかを見にいったのであるが、快く承諾してくれた。そのあとパーティーにも加えてもらい、そこで、森田、トミー、そして私は、余興に陶器の絵付けをしていた約三〇名の若い美術家や文筆家、それに俳優といった人たちに会った」8。事実上これが、リーチが陶芸の道へ進むきっかけとなるものであった。こうして、『美術新報』(版元は画報社)主催による新進作家小品展覧会は、四月一五日から三〇日までを会期として、京橋区八官町に新築落成した古宇田実の設計になる吾楽殿を会場に開催されることになった。
売れ行きは上々だった。会期末が近づいた四月二七日のリーチの日記によると、「私は展覧会で、楽焼きを一〇点、エッチングを七点、紙に描いた油絵を二点売った。トミーは版画の小品を四〇点くらいと皿を一、二点、それに水彩画を一点売った。ふたりであわせて百点ほど売ったことになる」9。富本は、自分の水彩画が売れたことについて、「僕初めて水彩を一枚拾円で賣つた。何むだか変な気がする」10と、感想を漏らしている。この水彩が、いつ、どこで、何をモティーフに描かれたものなのかは、資料に見出せないが、富本にとって心に残る最初期の売却作品であったにちがいない。
会場では、富本がデザインした椅子が並べられて、使用された。この椅子を見て、「天地が急に広くなったような強烈な啓示を受けた」11ひとりの学生がいた。高村豊周である。高村は、当時美術学校で鋳金を学ぶ学生で、そのときの「開眼」の様子を、のちにこう回顧している。
富本さんの帰朝は日本の新しい工芸の啓蒙にとっても、また私に新しいものの見方を教えてくれたことからいっても、非常に意味の深いことであった。富本さんは京橋八官町の吾楽という店を借りて、帰朝記念の展覧会を開いた。……私はそこに出品されていた椅子に非常に感動した。普通の椅子のようなごく簡単な構造のものなのだが、この椅子の一部に普通なら皮とか布とか用いる所を、小包用の縄でぎりぎりに巻いてある。……その時分には前人未踏の試みだった。つまり工芸品を作るのに、材料には自分が使いたいものを使えばよいのだ。昔からの掟によらなければ物を作ることが出来ないのではない。……今考えるとそれは一種の開眼でもあった12。
富本の、先例や常識に囚われない椅子のデザインは、確かに高村のような若い学生に大きな衝撃を与えた。しかしその時期、美術界全体を支配していたのは、旧弊な秩序に守られた官僚主義であったようである。四月一九日のリーチの日記。「個人的に独立して活動する画家や彫刻家や建築家には、めったに好機が訪れない。人びとは役人にへつらう習慣から逃れることができない。高村[光太郎]もトミーも、他の人もそうだが、反旗を揚げることができず、それで逃避したがっているように見える」13。そして、二七日の日記。「トミーは落ち着いて仕事に打ち込むために、五月三日ころに田舎へ帰る。高圧的な官僚主義的芸術の影響から逃れるためもあるのではないかと思う」14。一方、南に宛てた四月二二日の富本の手紙では――。「展覧會は先づ成功の方だろう。……君や僕の版画、リーチのエッチングを買って行く人も大分ある。……室内の装飾、リーチのやった ヅ ( ママ ) [ズ]ックのステンシル、僕の椅子等大分評ばんが良い。……只例のバルーン、イワムらが何うも困った。それから小品は小品でも面白い作が少ないことだ」15。「バルーン、イワムら」とは、当時美術学校の美術史の教授をしていた岩村透男爵のことである。続けて二六日の手紙。「……急に荷物をまとめて来月二日頃大和へ歸る事になった。柏木の置ゴタツ吾楽の小品集も夢の様だ。誰れも大和へ行けと命令するものもなく、餘儀なく歸ると云ふ譯でもない。春の東京はカッフエー、プランタンにローカン洞にニギヤカな事だ。此の世界をのがれて肩をすぼめて旅に行く」16。
帰国後の最初の一年は、こうして、あわただしく過ぎ去った。喧騒の東京から逃げるようにして、「肩をすぼめて」安堵村へ帰る富本の胸には、どのようなことが去来していただろうか。帰国後も変わらぬ友情で支えてくれる南がそばにいた。相互に信頼できる友人としてリーチとの因縁にも似た出会いがあった。腸チフスで入院したときには、このふたりは見舞いに駆けつけてくれたりもした。そして、吾楽殿での展覧会においては、単に、帰国後はじめて作品を発表する場に恵まれたというだけに止まらず、それをとおして――展示会場の装飾に携わったという点では、今日にいうインテリア・デザイナーとしての、椅子や入場券兼しおりをデザインしたという点ではプロダクト・デザイナーでありグラフィック・デザイナーとしての、楽焼きと木版画を製作したという点では陶芸家であり版画家としての、水彩を描いたという点では美術家としての――それまで隠されていた多様な能力の片鱗を確かに示すことができた。別の観点に目を移せば、作品を売るという実体験もできたし、既成概念を超えたデザインへの評価も感じ取れた。さらにはまた、東京を離れるに際しては、「森田は僕の歸国を東京から夜にげと評し、岩村[透]先生は国家のために何むとかと言はれた」17。このように引き止める者もあった。それでも富本の気持ちのなかには、何か満たされないものが沈着していた。推量すれば、このときの富本の大和への帰郷には、東京の美術界への反発も一因としてあったであろうが、それと同時に、英国留学とそれに続く東京滞在にひとまず終止符を打ち、今後の仕事と結婚について落ち着いて熟考する場を自ら欲したことも、もうひとつの要因となっていたのであろう。しかし、熟考すべき中身は、いまだ具体的輪郭をもたない漠然としたものであったとしても、周りの人間はいざ知らず、富本本人にはこのときのこの帰郷が、その中身にかかわって、これから起こりうる苦悩と焦燥の予鈴として、ある程度自覚されていたものと思われる。もっとも、「此の世界をのがれて肩をすぼめて旅に行く」――このロマンティシズムの詩情は、決してこのときの一過性のものではなく、これ以降の多くの詩歌等にみられるように、まさしく、富本固有の生涯の背景に漂う主旋律のひとつとなるものであった。
大和の実家に帰ると、母屋から少し離れた富本家ゆかりの菩提寺である円通院を仮の画室と定め、ここに荷を解いた。東京の騒音から逃れ、木版の製作に精を出しながらも、話相手もなく、寂しさを紛らわすかのように友だちへ手紙を書き送る日々。その一方で、大和の美しい自然に感動しつつも、この土地の人間や村社会に対する深い嫌悪感が入り混じる。「大和の空気、土の色、山の蔭、花の香、追想、古代の作品は皆僕自身の守本尊であるが、此處に住むで居る人間となると有金全体をカッパラって西洋で住むともコンナ国に住むものかと考へる程厭やだ」18。
富本が東京を離れたあと、リーチは、「モリス商会」のようなものをつくることをしきりと考えていた。次は、リーチの五月三一日の日記である。「芸術性を追求しながら、必要な生活費を得られるような計画を絶えず考えている。目下のアイディアは、ウィリアム・モリスが考えたような形式で、高村[光太郎]、トミー、私、そしてあと数人でもってひとつのグループをつくるというものである。油絵、彫刻、陶器、漆器などを自分たちの画廊に展示する」19。おそらくリーチは、手紙をとおしてこのことを富本に提案したものと思われる。しかし、そうした誘いにも、現実生活が許さず、さほど乗り気を示さない。南に宛てて富本は、こう書く。「Leach はウィリアム、モ ー ( ママ ) リ ー ( ママ ) スの様な小さい店を僕にやれとスゝメて居た。僕も何うかと思ふて居るが、コウ云ふ風に田舎で思ふ存分木版でもやる、片ヒマに河漁に行くと云ふ様になってはトウテイ東京へ出られない」20。それでは、結婚はどうかというと、これも五里霧中。「早く麻上下を着せたいと家の人も云ふて居り僕自身も探して居るがサテとなると困るものばかり」21。
そして、体たらくな自己を見詰める。「田植の最中に僕獨り笛をふいて居る。何むだかトルストイが地獄の底からオコリに来る様な気がしてならぬ」22。このように富本がいっていることから推量すると、ふたりのあいだでかつてトルストイが話題にのぼっていたのであろう。ふたりが美術学校に通っていたころであるが、一九〇五(明治三八)年一月二九日の週刊『平民新聞』終刊号に、金子喜一の「トルストイとク ラ ( ママ ) [ロ]ポトキン」が掲載されている。たとえば、こうした一文をふたりは一緒に読んでいたのかもしれない。そこにはこのような一節があり、富本はそれを思い起こし、いまの心境を南に伝えようとしたものと思われる。
トルストイも、クラポトキンも、等しく露國の貴族で、而も時代の欠點をみて、两個等しく一身の地位幸福を犠牲として、社會民人のために起つた所の偉人である。彼等の胸中にひそめる思想は、實に社會民衆の幸福であつた。彼等两個が露國を愛し、露人を思ふの情は、恐らく他の何人にも劣らなかつたであらふ。然るに彼等两個は露國政府のために苦められた。トルストイは國教より見はなされた。クラポトキンは外國に放逐された23。
そうしたなか、旧家の家長として一日も早く結婚してほしいという周りの願いに翻弄されはじめることになる。七月になると、具体的な縁談が憲吉にもたらされたものと思われる。というのも、七月八日付の手紙を読むと、「裃は大分せまって来た。音楽が好きでない事や親類と云ふ理由で未だ印度以来の指輪の落ち付き處がはッきりせぬ」24と、南に述べているからである。ここから、憲吉は音楽を趣味とする女性を好み、プロポーズのあかしとしてインドから持ち帰った指輪を用意していたことがわかる。そして「来るべきものが来た」という思いに、一瞬かられたのであろう。襲ってきた現実の問題からあたかも逃亡するかのように、富本は南の住む安芸を突然訪れている。次は、七月二一日付のかしこまったお礼の手紙である。「突然参上種々御厄介に相成有り難く御礼申し上げ候。自分勝手の事のみ申しあげ誠に申し譯け御座なく候」25。こうした現実逃避のなかから、心の落ち着きをわずかなりとも取り戻したものと思われる。
八月に入ると、はじめて安堵村をリーチが訪れてきた。おそらくこのときのことであろうと思われるが、富本本人にリーチは直接結婚について問いただしている。
ある日結婚についてトミー[富本]に問うたことがあった。すると彼は首を横に振り、屋敷の屋根の一番高い所へと私を連れて行った。平らに耕された田畑から、木々の群生、そして遠くに見える比較的大きい家へと指で追いながら、彼は幅広のベルトから財布を取り出し、それから、この一帯に住む地主の娘の写真を私に差し出した。富本家に雇われた仲人が、思慮深い習慣とはいえ、相手方の家族の健康状態や財産について、それでも正確な調査を行なってから、この娘とあと数人の娘たちを推薦してきていたのである。トミーはこれらの写真を全部脇へ押しやると、しっかりと私を見詰めて、胸の内をこう説明した。「ぼくは昔ながらのやり方では結婚したくないんだよ。――君の国であるイギリスで生活したことがあるんだからね」。そしてこう続けた。「ぼくは長男だし、結婚が遅れていることに家族は悩んでいる。家長という立場を弟に譲り渡さなければならないかもしれない」26。
伝統的な家制度を憲吉は嫌った。家督を弟に譲ることまでもが、このとき憲吉と家族のあいだで話し合われていたようである。いずれにしても結果的には、このときの縁談すべてをきっぱりと憲吉は断わったものと思われる。そしてそれにより、家族とのあいだに大きな軋轢が生じてしまったにちがいない。というのも、八月二九日付の南に宛てた書簡で、引き裂かれるような胸のうちをこう吐露しているからである。
御説の通り東京は厭やだ。又大和もいやになった。近親に對するテキガイ心の様なものが僕の神経をサゝラの様にする。……自分には東京にも大和にもホントの宿る家がないのだと云ふ事がコミ上げる様に涌いて来る。実は此の間安藝[の君の家]へ行って長らく御厄介になった時も此のいやなセンプウの中心から逃げ様と行ったのだ。歸った一週間は御かげでよかった。今日あたりは実にヒドイ。家も倉も自分の教育も皆むな白蟻にやられゝば良いと思ふ程いやだ。……妹はシンケイスイジャクと云ふ病気だ □ ( 欠 ) ら醫者に見て貰へと云ふが、有馬の湯で タ ( ママ ) メな事は解って居る27。
東京の美術界にみられる、リーチのいう「高圧的な官僚主義的芸術」と、大和の村社会を支配する因習的な婚姻制度とは、ある種同一の共通構造をもち、このことから逃れることができない現実的苦悩が、富本をして「自分には東京にも大和にもホントの宿る家がない」と、いわせているのであろう。
心底に自覚された「近親に對するテキガイ心の様なもの」は、このとき、富本を東京へと向かわせる力として作用した。一〇月、幾つかの作品をまとめると、いやな安堵村をあとにして、逃げるように上京していった。リーチとの再会も、このときの目的のひとつであったかもしれない。東京に着いてみると、相も変らぬ美術界の旧弊さに気づかされたようである。資料に乏しく具体的内容はわからないが、結果から判断すると、この地の美術関係者は富本の作品に好意を示すことはなかった。ある程度わかっていたこととはいえ、実際に直面してみると、怒りと悲しみが富本の心を覆った。文展(文部省美術展覧会)や白樺の展覧会にかかわってちょうど東京に滞在していたと思われる南は、富本の置かれているこの間の状況をよく知っていただけに、落胆して大和へ帰った富本の気持ちを気遣い、すぐにも慰めの手紙をしたためた。
僕は君が此度君の個人展覧會を開く事が出來ずに歸國した事を悲しく思つては居ないだらうかと心配して居る、實際僕も残念に思つた。……初め君が國で作つて持つて來た色々な種類の物を見た時に、之れでは今日のガチヤガチヤした東京で其の展覧會を開く事は中々考へを要すると思つた、其れは君の多くの作が非常にデリケートなもので例えば露の玉の如きものである、今日の粗雜な物事に馴れてしまつて居る者の頭では到底君の作の好い點を解する迄一つの物を味はつては居ないだろう、今日の人の多くは大きな太鼓などで頭から鳴らしつけられる事に馴れて居る、其んなもので無ければ耳に入らない。
君は君の作つた更紗の巾の内に悲しみを包んで國へ歸つた、……君の作つて居るものは非常に新しいものである、其の發表期が五年遅れても尚ほ早や過ぎる位に僕は思つて居る、何卒急がずに、自重し給へ、ソシテ猶ほ多くの製作を續け給へ28。
それに対して、次のように、富本は南のもとへ返信を書き送った。
[一九一一(明治四四)年一〇月]二拾八日夜、御親切なお手紙有りがたう、……個人展覧會は誰れにも解かりさうにもなかつたから止した、……今は東京人に(美術家にも)僕のやつたものを見せる時期で無いと云ふ事である。……東京で見るもの聞くものは皆な僕の感じ易い精神に針を差す樣なものであつた、……製作欲があつて仕事の出來ない時、胃病患者が物を喰い度いが喰へなくなつた時、コウ云ふ場合は誰にもある事と思ふ。……製作欲……暗い恐ろしい穴から逃げる樣な氣持……年老つた祖母や氣の毒な母が僕獨りの心がけで世間體は泣かずに涙を流がして居るのが見へる……兎に角く安堵村へ歸つて自然を見た時、總てが美しい秋の光線に包れて自分の眼に映つた。精神がトゲトゲの樣になつても、美しいものは美しく見へると思つた、嬉しかつた。此れで如何なる場合も死ぬ迄僕は如何んな迫害が有つても美しいものを見る僕の眼に變化は來ないと考へた。一日此の新らしい發見を試る為めに野に出たが實に聲を擧げて泣き度い程美しく見えた、此の新しき幸福を神に感謝する。……僕の展覧會は來年にならうが五年延び樣が一向に平氣だ29。
とくにこのなかで、「如何なる場合も死ぬ迄僕は如何んな迫害が有つても美しいものを見る僕の眼に變化は來ない」という言辞は、富本の生涯を貫く、偽らざる自己との約束として、見逃すことはできないであろう。そしてその一方で、実は南からの手紙には、極めて重要なひとつの指摘が最後に付け加えられていたのであった。
其れから此の間或る婦人が君の作つた更紗を見て大變讃めて居た。そして其れは色は變りませんかと僕に尋ねた、僕は正直に之れは水彩畫の繪具で押したのだから、水に洗ふ事は出來ませんと答へたら其の婦人は稍々失望した樣に思はれた。お互の樣な美しき夢の世界に遊んで居る者は更紗は水に洗はれやうが洗はれまいが綺麗でありさえすれば是れで宜いのであるけれども矢張り多くの人には此婦人の樣に洗はれる更紗でなければならない。之れは實際的な世界では致方も無い30。
更紗は、あるいはすべての日常生活で使用に供される工芸品一般についていえることであろうが、壁に掛けたり飾り棚に置いたりして、単に所有欲を満たし見て楽しむ美術品とは異なる。更紗は、「美しき夢の世界」であると同時に、機能という「實際的な世界」につなぎ止められ生きなければならない宿命にある。そうした更紗の宿命を誠実に引き受けることが、つくり手に要求されるわけであって、この南からの指摘は、富本に大きな衝撃を与えずにはおかなかった。帰郷すると、ただちにその課題に取りかかったらしく、富本は、こう述べる。「早速仕事場をかたづけにかゝつて昨日終つた。今日はモーわき目も振らずに二疊敷の更紗を打つて居る。今度は水で洗へる奴が出來さうだ」31。それから二週間後の一一月一一日の朝に、富本は南へ次のような手紙を書いた。
今日初めて更紗の彩が止まった。洗濯の出来 き ( ママ ) る奴が出来 き ( ママ ) た。……兎に角更紗の彩が止まった と ( ママ ) 事だけでも嬉しい處へ澤山美しい野の花を見て今日一日を馬鹿にカナシクもなく暮した32。
年が明けると、このときの南と富本のあいだで交わされた往復書簡が、南の手によって、一九一二(明治四五)年一月号(第三巻第一号)の『白樺』において、「私信徃復」と題して公開された。そのときのこの寄稿文が、若き日の濱田庄司の目に留まった。濱田は、晩年、こう述懐する。
……たしか古い「白樺」だったと思いますが、洋画家の南薫造さんと富本の往復の手紙が載っていて、南さんがたまたま工芸店 互楽 ( ママ ) にいたとき、どこかの奥さんがそこに出ている更紗は洗えますかということをたずねられた。南さんは洗える洗えないより自分達の作るものは美しければいいのだと答えた、という手紙を出したのに対して、富本はすでにそのとき、自分としては洗ってなおよくなるような更紗を作りたいという返事を書いております。私は初めて工芸家の見識というものを教えられた思いがして、今も富本の五十年前の言葉に敬意を深めます33。
『白樺』に掲載された南の、この「私信徃復」を読んで、強い共感を覚えたのは、濱田庄司だけではなかった。尾竹一枝というひとりの女性の心にも、高まる関心を抱かせた34。一枝は、さっそく単身安堵村に憲吉を訪ねた。高い理想を抱きながらも現実に苦悩する若き美術家に一度会ってみようと思ったのであろう。これがふたりにとっての最初の出会いであった。晩年一枝は、次のように回顧している。
私は、本当に絵で立つ決心をしまして、法隆寺の壁画を勉強するため、ひとりで奈良へ行ったんです。ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました35。
このときの一枝の訪問の様子について、あるとき憲吉は、リーチに打ち明けていたにちがいなかった。というのも、のちにリーチはこう回想しているからである。
ある日のことである、富本が水墨画を描いていると、ひとりの客が面会を求めて玄関で待っていることをそっと伝えるために、下男がやってきた。そして下男は、男物の大判の名刺をこの家の主人[である富本]に差し出した。富本はちょっと目を向けただけで、「それでは、その男の方を別の部屋に案内しなさい。お茶を差し上げて、この絵が終われば行きます、と伝えなさい」という指示をした。
しばらくすると、弁解をしようと下男がまたやってきて、作法に倣って咳払いをすると、「旦那様、もう一度その名刺をご覧になっていただけますでしょうか」と小声でささやいた。トミー[富本]はそうしてみた。すると、そこに書いてある住所が、いままさに東京で売り出し中の「女性」雑誌の住所であることに気づいたのであった36。
その名刺には、住所と一緒に、『青鞜』という雑誌名と「尾竹紅吉」というペンネームが書いてあったものと思われる。『青鞜』は、前年(一九一一年)の九月に創刊され、平塚らいてうを中心とする女性だけで編集されていた文芸雑誌であった。そして、「尾竹紅吉」という名前から判断して男性とばかり思い込んでいたこの女性こそが、のちに富本憲吉と結婚することになる尾竹一枝だったのである。実際に会ってみると、憲吉はさらに驚いたことであろう。名前だけではなく、着ている物といい、体格といい、まさしくそれは男と見間違わんばかりのものであったからである。このふたりの出会いは、おそらく憲吉に何か特別の印象を植え付けたにちがいなかった。というのも、明らかに旧来の日本人女性にない特質を一枝は備えていたからである。青鞜社へ加わったこの時期の紅吉(一枝)の様子について、平塚らいてうは次のように描写している。
円窓のあるわたくしの部屋へ、このとき以来紅吉はよく訪ねてくるようになり、社の事務所へも顔を出して、編集の手伝いや表紙絵やカットの仕事など、なんでも手伝ってくれるようになりました。久留米絣に袴、または角帯に雪駄ばきという粋な男装で、風を切りながら歩き、いいたいことをいい、大きな声で歌ったり笑ったり、じつに自由な無軌道ぶりを発揮する紅吉。それが生まれながらに解放された人間といった感じで、眺めていて快いほどのものでした37。
この時期の仕事と結婚を巡る憲吉の置かれていた状況に照らし合わせて考えれば、このような「生まれながらに解放された人間といった感じ」の女性との初対面が、密かなるある思いを憲吉にもたらしたとしても、何ら不思議ではなかった。
さらに一枝は、その日の帰り道の出来事についても回想している。「帰りには、わざわざ私を大阪まで送って来てくれたんですが、そのとき、印度のガンジス川にいた洗濯女からもらったものだという、美しい石の指輪を、富本は私にくれました。ずいぶん、セッカチな話なんですが、一目惚れとでも言うんでしょうか…」38。これが一枝の記憶違いでないとすれば、驚くことに、はじめて会ったその日のうちに憲吉は一枝に対して愛の告白とも受け止めることができる「美しい石の指輪」をプレゼントしているのである。一方的な思いからであったかもしれないが、憲吉にとっては、確かにこのプレゼントは一枝へのプロポーズを意味し、これでもって「印度以来の指輪の落ち付き處がはッきり」したという、今後の行方は不透明ながらも、一種の賭けにも似た、自分を曝け出したときに伴う安堵の気持ちをこのとき憲吉は体感したのではないだろうか。
(1)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、64-65頁。
(2)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, pp. 53-54.[リーチ『東と西を越えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、37-38頁を参照]
(3)坂井犀水「新時代の作家(一)」『美術新報』第11巻第3号、1912年1月、82頁。
(4)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、12頁。
(5)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁。
(6)Bernard Leach, op. cit., p. 55.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、39頁を参照]
(7)前掲「六代乾山とリーチのこと」、65頁。
(8)Bernard Leach, op. cit., p. 55.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(9)Ibid., p. 65.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、55頁を参照]
(10)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、23頁。
(11)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、125頁。
(12)同『自画像』、同頁。
(13)Bernard Leach, op. cit., p. 64.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(14)Ibid., p. 65.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(15)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、20頁。
(16)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、22頁。
(17)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、23頁。
(18)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、14頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。
(19)Bernard Leach, op. cit., p. 66.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、57頁を参照] しかしながら、バーナード・リーチのモリスに対するこのときの認識は、極めて表層的なものであったのではなかろうか。一九一六年から二〇年ころにおいてさえも、リーチの認識は以下のようなものであった。「産業革命の影響に対する反動として、ウィリアム・モリスの指導のもとに、芸術家=工芸家の技能がイギリスに誕生した社会的必要性には、その段階において私たち[富本、浜田、そして私]は全く気づいてさえおりませんでしたし、来るべきヨーロッパの工芸運動についても本当に少ししか、あるいは全く知らなかったのであります。私たちは、陶器を造りたいがために造っておりました」(Ibid., p. 128.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、145頁を参照])。しかしこの言説は、リーチ自身にはあてはまるとしても、少なくとも富本にはあてはまらない。というのも、すでに一九一二年に富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本として、評伝「ウイリアム・モリスの話」を『美術新報』に発表していたわけであり、そのことを想起するならば、「産業革命の影響に対する反動として、ウィリアム・モリスの指導のもとに、芸術家=工芸家の技能がイギリスに誕生した社会的必要性」についての理解は、この段階でリーチよりは富本の方が、はるかに進んでいたものと思われるからである。
(20)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(21)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(22)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、15頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。
(23)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、521頁。
(24)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、25頁。
(25)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、27頁
(26)Bernard Leach, op. cit., p. 113.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、122-123頁を参照] バーナード・リーチの来訪について富本は、南薫造に宛てた一九一一(明治四四)年八月七日付の書簡のなかで、「手紙を書かふと思ふ中に箱根からリーチがやって来て一週間僕の家に居た。今法隆寺驛迠送って来た處」(前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、30頁)と書いており、リーチが富本本人に結婚について問いただしたのは、富本が置かれている前後の状況から判断して、この来訪のときであったと思われる。ただし、翌年の四月七日付の同じく南に宛てた書簡には、「そこへリーチ夫妻が小児をつれて僕の家へ来た。そのセッタイに拾日ほど暮れた。二日前……リーチは……東京へかへった」(同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、49頁)とあり、したがって、本文に引用しているリーチの回想が、そのとき(翌年の二回目の訪問のとき)のものであった可能性も、全くないわけではない。
(27)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、33頁。
(28)南薫造「私信徃復」『白樺』第3巻第1号、1912年1月、65-66頁。
(29)同「私信徃復」、67-68頁。
(30)同「私信徃復」、66頁。
(31)同「私信徃復」、68頁。
(32)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、39頁。
(33)濱田庄司『無藎蔵』講談社文芸文庫、2000年、268頁。
(34)一九一四(大正三)年の一〇月二七日に、富本憲吉と尾竹一枝は日比谷の大神宮神殿で白滝幾之助夫妻を仲人として結婚式を挙げた。そのとき憲吉は二八歳、一枝は二一歳であった。ふたりの結婚に際して、東京美術学校の先輩で、ロンドン滞在以降も深い親交で結ばれていた、当時安芸の内海町に住む南薫造は、そのとき富本にお祝いの品を送った。富本はその返礼の書簡のなかで、冒頭でまず、「随分手紙もかゝず随分長がく遇はない。先づ第一に昨日は小包便で御祝ひを有り難う」と述べ、それに続いて、一枝との出会いのきっかけをこう南に紹介している。「道楽にやり出した楽焼きもいよいよ春夏大阪と東京でやった展覧會の結果本業にたち入る事となり。夏 信州 ( ママ ) [上州の鹿沢温泉]の海抜五千尺の上で脚の下に白雲が飛ぶのを見ながらガラになく結婚と云ふ話を[一枝と]して居た。それが其處では今二[、]三年末つと云ふ約束であった處が君の知って居る通りの僕の性質、それにあい手が僕と似て居るので早速にまとまり遂に入道[白滝幾之助]の手をわづらわす事となった。處が面白いのは四[、]五日前書棚の古い白樺を見て居て「私信往復」と云ふ例の手紙があった。初めて[一枝が僕の住む]大和[安堵村]の画室へ訪ねて来たのはアノ手紙を見たセイらしい」(前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、85頁)。この記述から、一枝は、一九一二(明治四五)年一月号(第三巻第一号)の『白樺』に掲載された南の「私信徃復」を読んで、安堵村の憲吉を訪ねたことがわかる。
(35)尾竹親『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』東京出版センター、1968年、252-253頁。 著者の尾竹親は、尾竹竹坡の次男である。一枝にとって竹坡は叔父にあたり、したがって、親と一枝はいとこ関係になる。親は、後年『尾竹竹坡伝』を執筆するに際して成城の自宅へ二度一枝を訪ねている。そのとき一枝は、憲吉との出会いについて、正確には、実はこのように親に語っている。「青鞜でのいろいろな事件のあったあと、私は、本当に絵で立つ決心をしまして、法隆寺の壁画を勉強するため、ひとりで奈良へ行ったんです。ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」。 しかし、一枝が憲吉に宛てた面会を求めるはがきは残されていないが、それに応じる憲吉の返信のはがきは残っており、その消印が一九一二(明治四五)年二月八日となっていることから判断すると、はじめて一枝が憲吉を訪問したのは、「青鞜でのいろいろな事件のあったあと」ではなく、「青鞜社への入社が認められたあと」になる。また、この回顧談の最後は、「『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」となっている。しかし、一九一三(大正二)年の『青鞜』一月号の表紙絵から一枝の「アダムとイヴ」に差し替えられていることから判断すると、一枝は、一九一二(大正元)年の暮れに、再度安堵村に憲吉を訪ね、表紙絵の依頼をしていたことになる。 以上のふたつの事実関係を踏まえてこの回顧談を読み返すと、一枝の記憶違いか、あるいは親の聞き取り違いによるものであろうが、はじめての出会いと二度目の出会いとが混在して記述されていることがわかる。 そこで本稿では、「私は、本当に絵で立つ決心をしまして、法隆寺の壁画を勉強するため、ひとりで奈良へ行ったんです。ちょうど、その頃、英国の留学から帰った人で木版を彫る人が近くに住んでいるということを聞きましたので、清宮さんという方を介して訪ねてみたんです。それが富本だったわけです。当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました」の箇所をはじめての出会いに関する回想とみなし、一方、「青鞜でのいろいろな事件のあったあと、当時、私は『青鞜』の表紙など描かされそれがたまたま木版刷りだったものですから、教えてもらうために一人でたのみに行きました。『青鞜』の表紙のなかに、アダムとイヴを描いたものがありますが、あれは富本が下絵を描いてくれたものを、私が彫ったのです」の箇所を二度目の出会いに関する部分とみなし、それぞれに分けて引用したいと思う。 次に問題になるのは、それに続く、「帰りには、わざわざ私を大阪まで送って来てくれたんですが、そのとき、印度のガンジス川にいた洗濯女からもらったものだという、美しい石の指輪を、富本は私にくれました。ずいぶん、セッカチな話なんですが、一目惚れとでも言うんでしょうか…」という回想部分についてである。「帰りには」とは、一九一二(明治四五)年二月の最初の安堵村訪問の「帰り道」なのか、それとも一九一二(大正元)年暮れの二回目の安堵村訪問の「帰り道」なのか。これも上記の理由から必ずしも判然とはしないが、本稿では、「わざわざ私を[当時住んでいた]大阪まで送って来てくれた」および「一目惚れとでも言うんでしょうか…」という、ふたつの語句に着目することによって、「帰りには」とは、はじめての出会いのときの「帰り道」であったという立場をとっている。
(36)Bernard Leach, op. cit., p. 113-114.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、123頁を参照]。
(37)平塚らいてう自伝『元始、女性は太陽であった②』大月書店、1992年、29頁。
(38)前掲『尾竹竹坡傳――その反骨と挫折』、253頁。