ロンドンに到着した富本憲吉【図一七】は、さっそくヴィクトリア・アンド・アルバート博物館【図一八】へ通いはじめた。そのときのことを富本はこう回顧する。
……大沢三之助工博が私たちの指導者のような人であったが、その人からすすめられて、私は下宿に落ち着くと早々、サウス・ケンジントンのアルバート・アンド・ビクトリア・ミュージアムへ足を運んだ。これは工芸品の研究を第一の目的として建てた博物館で、私は最初から強く心をひかれるものがあり、毎日の日課として訪れた1。
富本のいう「アルバート・アンド・ビクトリア・ミュージアム」は、今日通例として呼び習わされているヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(正式名称は、国立美術・デザイン博物館)のことであろう。当時この博物館は、サウス・ケンジントン博物館からヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へとすでに改称されていたものの、以下に富本が呼称しているように、いまだ巷では、旧称のサウス・ケンジントン博物館が使用されていた可能性がある。ここで富本は、実際のウィリアム・モリスの作品にはじめて出会うことになる。
サウスケンシントン博物館の裏門から這入つて二階に上がつた左側の室を通つて左に廻つた室が諸種の圖案を列べてある處と記憶します、私は其處で初てモリスの製作した壁紙の下圖を見ました2。
当時のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の陳列室の平面配置図【図一九】【図二〇】から判断すると、このとき富本は、エキシビション・ロードに面した西の入り口からこの博物館に入っている。そしてすぐに階段を上がると、左手が図書館の「七四室」、右手が「テキスタイル」の「一一八室」になる。富本は、左手の「七四室」を通り、「七六室」の手前で左折して、「版画、イラストレイション、そしてデザイン」の部門が展示に使用していた「七〇室」から「七三室」のなかのいずれかの部屋に入り、そこでこの「壁紙の下圖」3を見たものと思われる。
それでは、ロンドン滞在中、富本が「毎日の日課として訪れた」ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とは、どのような博物館だったのであろうか。そしてまた、とりわけモリス【図二一】とは、その博物館はどのような関係にあったのであろうか。
一八三〇年代、英国政府は、海外市場での産業製品の競争力の低下に苦しんでいた。とりわけテキスタイル産業におけるフランスのデザインの優位性をそのまま放置することはできなかった。そうした貿易上の劣勢という背景のなかにあって、一八三五年に「芸術と製造」に関する特別委員会が下院に設置され、二回にわたる聴聞会ののちに作成された報告書には、イギリスの主要な都市に、国家が助成するデザインの学校をつくることが盛り込まれていた。「こうして、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の祖形となる、最初のロンドンのデザイン学校は、一八三七年に設立された」4。その学校は、サマセット・ハウスのなかに設置された。わずかながらの図書のコレクションがあり、のちにそれが博物館付属の図書館へと発展してゆく。また一方で、石膏像の小さなコレクションもあり、これが、博物館収蔵品の基礎となるものであった。このロンドンのデザイン学校は、正式名称を国立デザイン師範学校といい、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の祖形であると同時に、現在の王立美術大学の母体となるものでもあった。
この博物館にとっての次の発展は、国家公務員のヘンリー・コウルとヴィクトリア女王の夫君のアルバート公によって推進され、「芸術と産業の結合」に向けたふたりの熱意は、一八五一年の大博覧会の開催へとつながってゆく。正式名称を万国産業製品大博覧会といい、一回目の万国博覧会に相当するものである。このとき、ジョセフ・パクストンによって設計された〈クリスタル・パレス〉のなかに、創造性と多様性に満ちた英国の産業製品が展示され、その偉業が国の内外に向けて誇示されたのであった。そして、ここまでで「この博物館の前史は終わり、その歴史は一八五二年にはじまるのである」5。
大博覧会が終わり、一八五二年にコウルは実用美術局の主任審議官に任命されると、ただちに彼は、王室の住まいであったモールバラ・ハウスの使用許可をうまくヴィクトリア女王から引き出すことに成功した。こうして、製造品博物館(翌一八五三年に装飾美術博物館へ名称変更)とデザイン学校(このとき中央美術訓練学校へ名称変更)を含む実用美術局(翌一八五三年から科学・芸術局へ改組)はこの建物を使用するようになり、このとき製造品博物館が、デザイン学校の収蔵品や大博覧会の展示品を主たるコレクションとして開館したのであった。コレクションの選定には、コウルのほかに、オウイン・ジョウンズ、リチャード・レッドグレイヴ、そしてA・W・N・ピュージンが従事した。このなかには「恐怖の館」と呼ばれる部屋があり、悪いデザインの事例が展示されていた。つまりこの博物館は、産業製品のデザインや趣味のよし悪しについて、国民とりわけ製造業にかかわる人びとに明示する教育の場として想定されていたわけであり、これが、その後の発展のなかにあって、この博物館の変わらぬひとつの基本指針となるものであった。
大博覧会は大きな収益を残し、それを原資としてサウス・ケンジントンに広大な土地が購入された。建物群が完成すると、モールバラ・ハウスの機能はここへ移され、美術教育の新たな複合施設が完成することになった。一八五七年のことである。これよりこの博物館はサウス・ケンジントン博物館と呼ばれるようになり、コウルが、科学・芸術局の局長とこの博物館の初代館長に就任した。
ちょうどこの年、ラファエル前派の中心的画家であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの誘いを受けてモリスは、新築されたオクスフォード大学の学生会館の壁画製作に参加している。「アーサー王の死」を主題とした壁画自体はロセッティのフレスコ画に対する知識が不十分だったこともあって中断することになったが、そのときロセッティのモデルを務めていたジェイン・バーデンとモリスは知り合うことになる。そして一八五九年にふたりは結婚し、フィリップ・ウェブに設計を依頼して完成した新居〈レッド・ハウス〉の内装を、芸術家の仲間たちの協力を得て、モリス自らが手掛けることになる。この経験が発展して一八六一年に発足したのが、モリス・マーシャル・フォークナー商会であった(一八七五年からモリス単独の経営による「モリス商会」となる)。翌年、大博覧会に続く第二回のロンドン万国博覧会が開催され、このとき、日本の美術工芸品がはじめて博覧会をとおしてイギリスに紹介されるとともに、商会は、出品したふたつの作品がメダルを受賞し、順調にその評判を勝ちえるようになっていった。そうしたなか、コウルはこの商会に、サウス・ケンジントン博物館の西側食堂の装飾を依頼することになる。モリスとウェブが室内装飾のデザインにあたり、エドワード・バーン=ジョウンズが、ステインド・グラスの窓に描く人物のデザインを担当し、一八六六年に完成した。これが、のちに〈グリーン・ダイニング・ルーム〉として知られるようになるのである。ジェリミー・ベンサムやジョン・ステューアート・ミルの影響を受けた功利主義者として有名であったコウルが、中世の芸術と社会を理想と考えるモリスになぜこのような大きな仕事を依頼したのかは明らかではない。しかしその後も、この博物館とモリスは深いかかわりをもつことになる。たとえばモリスは、しばしばこの博物館を訪れ、とくにインド、ペルシャ、トルコのタペストリーやカーペット、陶磁器などについて、さらには、中世の木材染料についても詳しく研究をしているし、その一方で、コウルが一八七三年にこの博物館を退いたのち、この博物館が美術品を購入するに際しての是非の判断をする「美術審査員」の制度が設けられたおりには、マシュー・ディグビー・ワイアットらとともに、モリスもその一員に加わっているのである。
この博物館の発展はさらに続いていった。アストン・ウェブの設計による新しい建物の建設が同敷地内ではじまったのである。一八九九年にヴィクトリア女王によって礎石が置かれると、それ以降この博物館は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と呼ばれるようになり、建物が完成したのは一九〇八年で、翌年の一九〇九年の六月に開館の儀式が執り行なわれた。このときロンドンに滞在していた富本は、偶然にもこの記念すべき式典を目撃したのではないだろうか。
式典を目撃したかどうかは別にして、確かにこの博物館で富本はモリスの作品を目にした。そのときの感動を、帰国後に執筆した「ウイリアム・モリスの話」のなかで、次のように告白している。
初めて見た時から勿論大變面白いものであると考へて居りましたが、追々と見なれるに連れて、たまらなく面白いと考へました、眞面目な、ゼントルマンらしい、英吉利風な作家の、けだかい趣味が強く私の胸を打ちました6。
そして、最晩年に書いた「私の履歴書」においては、こうも述べる。
私が渡英するころには、モリスはすでに世になかったが、彼の唱導した日常生活の中に手作りの良さを浸透させようとする一種の芸術運動の影響は見いだすことができた7。
この「芸術運動」が、アーツ・アンド・クラフツ運動を指していることは、いうまでもないであろう。しかしながらこのとき、アーツ・アンド・クラフツ運動は、もはや終焉に近づこうとしていたのであった。というのも、富本が英国に到着する一九〇九年の前年にあって、アーツ・アンド・クラフツ運動の最後の灯ともいえる、C・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校が崩壊していたからである。それでは、アーツ・アンド・クラフツにかかわって、その起こりからこの時期に至るまでの推移を、ここで概観しておきたいと思う。
周知のように英国は、産業革命を経験する世界で最初の国家であり、一八世紀中葉から一九世紀の三〇年代までにかけての産業革命期以降、急速に機械文明が現前化してゆくことになる。ここに、産業や機械の問題だけではなく、広く社会や芸術の問題が胚胎されていた。産業革命初期における機械の役割は、綿工業の工程を加速することに限られていた。はじめのうちは、そのエネルギーとなるものは水力に頼っていたが、機械の工夫や改良が進むにつれて、エネルギー集中の必要性が増し、蒸気エンジンが発達していった。このように機械が、より大きく、より複雑化してゆくことによって、従来からの小屋式産業は次第にその姿を消そうとしていた。このような社会状況のなかにあって、一九世紀のイギリスでは、機械が人間の手に取って代わりその優位性が顕著になるも、その一方で、機械に対する不信感もまた増長されてゆくのである。産業主義に対する抗議や否定の態度は、一八一一年のラッダイト運動や一八三〇年代の都市での機械破壊といった社会現象を誘発し、また、パーシー・B・シェリーやウィリアム・ブレイクなどの文学者たちは、作品をとおして、産業がもたらす悲劇を予言した。
それでは、当時の建築家や工芸家たちは、機械に対してどのような態度を取ったのだろうか。
機械が、人間の価値や美的価値の後退を強いるものであると判断する人たちにとっては、機械は否定されなければならなかった。しかし、その態度においては決して一様ではなかった。このことについて、ライオネル・ラバーンは、ウォールター・クレインの一八六九年の一枚の絵《三つの道》を用いて説明する。この絵には、中央に三人の若者(求婚者たち)が立ち、ちょうど立っている地点から道が三つに分かれていて、後景の(ひとりの姫がいる)険しい森のなかの城へと続いている様子が描かれている。ラバーンは、この絵を「一九世紀の人びとの反応の三つの主要な要素を説明するのに役立つ視覚的暗喩として利用できる」8としながら、第一の道を、「中世の秩序ある社会にもどる道」であり、第二の道を、数多くの教育機関を設立することによって「産業生産品の水準と生活とを改善する道」であり、第三の道を、「社会主義者のユートピアへ至る道」である、と解釈する。換言すれば、その三つの道とは、A・W・N・ピュージンに導かれたゴシック・リヴァイヴァルがたどろうとした道、社会教育にその活路を見出したヘンリー・コウルとその仲間たちがたどろうとした道、思想家としてのジョン・ラスキンと実践家としてのウィリアム・モリスがたどろうとした道、の三つであるというのである。そして、続けて彼は、「しかしながら、これらのすべての思索家たちは、共通して、根本的なそして互いに関連しあうふたつの関心事をもっていた。労働者の運命、そして、機械生産のデザインとその低い水準であった」9と述べ、一九世紀の思想家や製作者たちの精神的底流をなすものが何であったのかを指摘している。
ラバーンがいうとおり、デザイン改革の方途には幾つかの道があったにせよ、全体としては一九世紀後半の工芸家たちの多くは、機械生産によるデザインの質の低下を回復する方法として中世のギルド社会を理想とした歴史主義的態度を、また、機械による生産では製作(労働)の喜びは失われるという判断から手による製作を尊重する個人主義的製作態度を、さらには、人間と人間を分断し分け隔てる抑圧の力に対してはフェローシップの精神を回復させようとする友愛主義的態度10を、取ろうとしたのであった。そして、いうまでもなくこれらの態度こそが、アーツ・アンド・クラフツ運動の底流に横たわる基本思想であり、その理念のもとに、一八六一年にモリス・マーシャル・フォークナー商会が、一八七一年にラスキンによってセント・ジョージ・ギルドが、一八八二年にA・H・マクマードウによってセンチュリー・ギルドが、一八八四年にセント・ジョージ芸術協会を母体として芸術労働者ギルドが、さらに一八八八年にはC・R・アシュビーによって手工芸ギルド・学校が設立され、こうしたなかから、実践的な活動が行なわれてゆくのである。各々のギルドの性格は別にして、このような工芸製作組織や芸術運動体の芸術観は、芸術を社会から遊離した超越的存在とは考えず、常に芸術のあり方をその人の生き方との関連のなかでとらえ、倫理的な側面をもつことで共通していた。つまりは、その目指すところは、アシュビーのコッツウォウルドでの実験がそうであったように、製作することと生活することと教育することとが分離することなく、三者が一体となって有機的に結合した世界観の達成だったのである。
もっとも、アシュビーが手工芸ギルド・学校をつくるにあたっては、モリスは反対している。何となれば、モリスその人は、過去の先例に倣う芸術や教育の理想的復興に先立って、まずは社会それ自体の組織原理を変革すべきであると考えていたからである。モリスが危惧していたことは、社会変革なくしては、理想の芸術も教育も、醜い現実にいつかは呑み込まれてしまうであろうということであった。
しかし、その後の経緯を見ると、明らかにアーツ・アンド・クラフツは、実際的な社会変革へとは向かわず、あたかも現実から逃避するかのように、「田園への回帰」や「自然への回帰」、さらには「簡素な生活」と固く結び付いていった。というのも、田園や田舎における自然で簡素な生活は、ヴィクトリア時代の資本主義がもたらしていた賃金のための労働からも醜悪な製品の氾濫からも、無縁でありえたからである。一九世紀も終わりに近づき、田園回帰運動が勢いを得るにしたがって、田舎生活を愛する信条は、アーツ・アンド・クラフツの実践形態へと移行していった。一八九三年には、アーネスト・ジムスンがバーンズリー兄弟とともにコッツウォウルズに移り住み、家具製作を再開しているし、遅れて一九〇七年には、エリック・ギルが自分の工房をロンドンからディッチリングの村へと移すことになった。こうした文脈にあって、とくに重要な意味をもつのが、一九〇二年のC・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校のロンドンのイースト・エンドからチピング・キャムデンへの集団的移転であった。ここに、エドワード・カーペンター流儀の 同志的結合 ( カムレッドシップ ) に基づいた、総勢約一五〇人のギルド員とその家族による、工芸製作(日用品の生産)と農業(食糧の自給)とが結び付いた、ひとつの理想の共同体がつくられたのである。
この時期までには、織物、陶芸、家具製作、食器やジュエリーの金属細工、造本やカリグラフィーなどの分野で仕事に従事する芸術家=工芸家が多数英国に存在していた。多くはアーツ・アンド・クラフツ哲学の信奉者であり、建築についての経験と知識をもち、画家や彫刻家と同じやり方で生計を立てていた。大きい都市には彼らのギルドや団体があり、芸術労働者ギルドがその典型的な例であったが、各地の美術・工芸学校で教える教師の供給源としての役割も担っていた。そして彼らの信条を要約するならば、それは、産業主義的社会構造の解消であり、より簡素でより正直な新たな生活様式の再生であり、金銭や権力を媒介としない創造的な人間関係の確立にあった。こうしたロマン主義的でユートピア的な社会主義は、少なくとも一八九三年の独立労働党の結成以前にあっては、ひとつの社会主義の立場を標榜する理論と実践として、とくに芸術家=工芸家のあいだで広く共有されていたものであり、この立場の限界性を一九〇八年のアシュビーのギルドの崩壊は象徴していたのであった。
以上が、大まかなアーツ・アンド・クラフツ運動の流れである。富本がロンドンに入ったのは、アシュビーのギルドが崩壊した翌年(一九〇九年)のことであった。紹介したように、のちに富本は、「彼[モリス]の唱導した日常生活の中に手作りの良さを浸透させようとする一種の芸術運動の影響は見いだすことができた」と書いている。しかし、その具体的な内容についてまでは詳しく述べていない。このとき「見いだすことができた」内容の実際は、何だったのだろうか。それに関しては、帰国後の本人の実践と主張に照らし合わせて、跡づけるしか道はない。
ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で富本が感動したのはモリス作品だけではなかった。「一四五室」のふたつ西隣りの「一四三室」にも、富本の好みの作品があった。というのも、この展示室の北東方向の隅にある小さな窓に、一八六四年にエドワード・バーン=ジョウンズがデザインし、モリス・マーシャル・フォークナー商会が製作した《ペネロペ》のステインド・グラス・パネルがはめ込まれていたからである。富本は「『ぺネロープ』[《ペネロペ》]と云ふサウスケンシントン博物館にあるのを大變好きです」11と述べている。
「この展示室の西端には、日本の陶磁器が展示されており、そのなかには、一八七七年にこの博物館のために日本政府が形成したコレクションが含まれていた」12。つまりこの「一四三室」の展示室は、ステインド・クラスだけではなく、中国と日本の磁器、さらには日本の陶器を含む構成から成立していたのである。富本はここで、偶然にも乾山の作品を見ることになる。
乾山 ( けんざん ) の焼き物を初めて目にしたのも、日本ではなく、この博物館であった。それは角形を二つ組み合わせた平向こう付けで、上から垂れ下がる梅一枝と詩句とを黒色で描いたものだった13。
富本の生涯を見ればわかるように、この乾山の作品との出会いが、結果として、陶工としての富本の出発点となるものであった。
話は晩年へと飛ぶ。バーナード・リーチの日本滞在期間中に、富本とリーチの対談が企画され、「作陶遍歴」と題されて、一九五四(昭和二九)年の『淡交』(第八巻第七号)に掲載された。内容は、ふたりの出会いから作陶へ入るきっかけにはじまり、全体として、これまでの両人の歩んできた陶工としての道のりを振り返るものになっていた。
富本とリーチが向かい合って「作陶遍歴」を語ったこの年(一九五四年)、憲吉は、「乾山の『陶工必用』について」と題した一文を『大和文華』(第一三号)に寄稿した。冒頭富本はこう書いている。「大和文華館の好意により、永年望んで得られなかった、尾形乾山著『陶工必用』の全文が寫眞に写されて、去年十一月私に送られた」14。
思い起こせば、富本が石井白亭からその名を聞き、ふたりして訪ねたのが、六世乾山(浦野乾哉)の家であった。富本が通訳を務め、ただちにリーチは六世乾山に入門した。つまりこれが、両者にとっての「作陶遍歴」の最初に位置する出来事だったのである。初代尾形乾山の「此書完成が今より約貳百貳拾五年前であり」15、それよりのち途切れることなく乾山の陶技が伝承され、死去する直前に六世乾山は、「リーチさんとあなたの樣な人を二人も弟子に持つた事をあの世で先生の[三浦]乾也に自慢出來ますわい」16と、憲吉にいった。その意味からすれば、リーチは、直系の「七世乾山」を襲名する立場にあり、憲吉はその傍系に位置する継承者といってよい。憲吉は、この『陶工必用』のもつ、自分にとっての特別な意味を、次のように説明する。
歴史家でない私は代々の系譜を調べたりする事に興味がないものであり、特に家元とか何代とかと無理にその傳統を表圖だけに連ける如き事は大嫌ひな性格であるが、乾山には何か連關がある如く思へる。その上に私の樣に素人から入った陶器家は廣く色々な技法に渡つて、次ぎつぎに試みて居るので系體的に關係あるだけでなく、この書の樣に陶器全般に亙つて書かれたものを實験的に研究する事は、たとひ永くかかつてもやつて見たいものだと思ひ出した。今はその材料の字義、種類について研究中である17。
富本の乾山(初代)へ関心は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を起点として、こうやって晩年へと引き継がれてゆくことになるのである。
この博物館では乾山の焼き物以外にも日本の作品を展示していた。「德川頃のオリモノとか錦とか云ふ標本風に、一つの箱に列べられたものは南ケンジントン博物館で初めて見ました」18と富本は述べている。そしてそのときの感想を、こう書き記す。
……小さい標本とは云へ一々名から時代迄付けられた日本の織物を、獨逸や佛國の古い織物の中に發見して、ますます此れを味ふ度を強う致しました19。
富本がこの博物館で日本の作品を見たとき、単に自尊心をくすぐられることに終始したというような形跡は、資料に残されていない。むしろそのとき富本は、異国のこの地で自文化を再発見する機会をもつとともに、ヨーロッパの工芸品のなかにあって東洋や非西洋諸国の工芸が同等のものとして展示されている手法はまさしく工芸の世界史的展開を明示するものであり、その寛大で適切な展示手法に感動しただけではなく、西洋文化を相対化する視点さえもそこから学び取ったのではないかと思われる。
この博物館には、「さらに、ペルシャ陶器、インカの土器、英国の木工、染織、金工などの優品が目を奪うような美しさで並んでおり、私はすっかり、この博物館のとりこになった。そこで毎日足繁く通い、一点か二点ずつスケッチして、これが何百枚にもなった」20。それでも、富本がこの博物館から学びえたものは、「ペルシャ陶器、インカの土器、英国の木工、染織、金工などの優品が目を奪うような美しさ」で展示されていたことによる知見の拡大、ただそれだけではなかった。
其の博物館は工藝品の研究を第一の目的で建立したとは云ひ條、工藝品の研究には大變都合の良い處です。有名なミレーの「木挽き」バアンジョンス[バーン=ジョウンズ]の「水車」コンステブル[カンスタブル]の風景畫等が、ペルシヤの陶器やエヂプトローマンの織物等と、靜かに別段變つた敬意の使ひわけをしられずに列むで、美術愛好者のために好き敎への光りをはなつて居ります21。
なぜ、たとえばミレーの絵画とペルシャの陶器とが、区別されることなく同等のものとして展示されているのだろうか。富本のこうした驚きには計り知れないものがあったものと推測される。それは、日常生活に供するために無名の工人によって製作される工芸品よりも、その表現の形式において、純粋に作家の内面の投影として形づくられる純正美術を常に上位に位置づける既成概念を大きく揺り動かすことを意味するものであったからである。人間と人間のあいだには本質的に上下の区別はない。それであれば、平等であるはずの人間がつくる美術品と工芸品とのあいだにあっても、優劣の差はないであろう。そしてまた、こうも考えたかもしれない。洋の東西で製作されたものについても、東と西でその価値の違いが先験的に存在することはありえない。こうした、この博物館で学んだ富本の造形思考は、帰国後、日本の美術界において強固に制度化されていた秩序概念の修正へ向けての挑戦というかたちをとって展開されてゆく。たとえば、図案や模様が絵画や彫刻の従属物や派生物でないという信念が、次のような金言を生み出すのである。
繒は繒の世界、彫刻は彫刻の世界、模様も亦それ特別の世界22。
こうした観念を形成するにあたっての、そのインスピレイションの源は、確かにこの博物館、そのもののなかにあった。富本は、このようにもいう。
繒と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンジントン博物館で、その考えで列べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります23。
「繒と更紗の貴重さを同等のもの」として扱い、「別段變つた敬意の使ひわけ」をしない、つまりは、偏見による、いわれなき差別をしない――これこそが、モリスと乾山の双方の作品との出会いに加えて、この博物館で富本が体得した、もうひとつの大きな学習成果だったのである。
死去する前年に、おおよそ半世紀もの前に日々訪問した曾遊の地、サウス・ケンジントンにあるこの博物館について、富本はこう回顧している。
ロンドンのアルバート・アンド・ビクトリア博物館[ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]でのスケッチは、私ののちの仕事の血となり肉となった。私の焼き物や図案が新風を開いたのは、この時代のスケッチが大きな力となっていると思うが、そればかりではない。もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う24。
何と決然たる一工芸家の最晩年の総括であろうか。富本の工芸家としての揺るぎない原点は、まさしく、このヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にあったのであった。こうして昼間はこの博物館に通い、スケッチに精を出す一方で、「そのころ、私はロンドン市会立セントラル・スクール・オブ・アーツのステンドグラス科に入学した」25。
富本が入学したこの中央美術・工芸学校26は、一八九六年にロンドン市議会によってリージェント・ストリートに開設されたことにその源を発している。開設された年は、ちょうどウィリアム・モリスが亡くなった年であり、モリスに影響を受けた、いわゆるアーツ・アンド・クラフツ運動の第二世代に属する建築家のウィリアム・リチャード・レサビーが、彫刻家のジョージ・フレムトンとともに共同の管理者としてこの学校の運営にかかわり、一九〇二年には、校長に任命されている。レサビーの伝記作家は、この学校での彼の功績について次のように述べている。
……彼[レサビー]の指導のもと、この学校は成長し続け、その影響力は増していった。海外での評判は、日本のような遠くから訪問者を集めるほどであった。若い人たちが勉強にやって来た――ドイツから訪れた人たちもいた。それは、疑いもなく、イギリスの建築とデザインについて調査報告をするためにドイツ大使館付けの建築家となっていたヘルマン・ムテジウスの[一九〇一年の]次の言葉によるところが大きかった。彼は、この学校のことを「ヨーロッパで最もうまく組織された現代の美術学校」と記述していたのである27。
ムテジウスが、英国の建築とデザインの発展過程について調査を命じられ、本国からイギリスのドイツ大使館に派遣されたのは、一八九六年のことであり、これも偶然ではあろうが、中央美術・工芸学校が発足した時期と重なる。英国滞在中のムテジウスは、翌年の一八九七年にミュンヘンにおいて創刊された『装飾芸術』やその他のメディアを通じて、ウィリアム・モリスと第五回アーツ・アンド・クラフツ展覧会、C・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校、さらには、スコットランドの建築家のC・R・マッキントシュの作品などを積極的に本国に紹介し、その後ベルリンにもどると、一九〇四年から翌年にかけて三巻からなる『イギリスの住宅』28を刊行することになるのである。
富本が東京美術学校に入学するのが、この本が刊行された一九〇四(明治三七)年であったが、富本が英国に留学するまでの在学中にこの本を読んでいたかどうかはわからない。しかし、留学後、その成果のひとつとして一九一二(明治四五)年に「ウイリアム・モリスの話」を発表したことは、デザインにおける近代運動史の観点からすれば、ドイツにおけるムテジウスの役割に類似するような歴史的役割を、たとえその一部分であったとしても、日本において富本が担っていたものとしてみなすことができるのではないだろうか。その後ムテジウスは、周知のとおり、一九〇七年に工業製品の良質化を目的としてドイツ工作連盟の創設に尽力することになる。一方富本は、量産について次のような見解に到達していた。
私は若い時分、英国の社会思想家でありデザイナーであるウィリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた29。
明らかにふたりには、イギリスに学び、モリスの業績を紹介し、その後、日常生活品の工業化に関心を向けていったという点において共通性が見受けられるのである。まさしくこれが、ドイツと日本におけるデザインにおけるモダニズムの出発点というにふさわしい原像であった。
この学校は、独自の校舎が完成したのに伴い、一九〇八年にリージェント・ストリートからサウサンプトン・ロウの地へ移転する。たまたま偶然であろうが、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館もこの年に完成しており、富本にとって幸運なことに、昼間を過ごすこの博物館も、夜間に学ぶこの学校も、ともに真新しい建物であった。
富本は、入学するにあたって、一九〇八―九年度のこの学校の『概要と時間割』【図二二】を入手したものと思われる30。これには、この年度の教育スタッフ、各学科の説明、授業料、各授業のシラバス、時間割などに加えて、諸規則と注意の項目に、「セッションは二つに分けられる。すなわち、一九〇八年九月二一日から一九〇九年二月六日まで、そして、一九〇九年二月八日から六月二六日まで」31と明記されており、そこから判断すると、富本が在学したのは、二月八日からはじまる後半の学期だったのではないかと推測される。さらに『概要と時間割』によると、この学校は、女性を対象とした昼間の美術の学科を別にすれば、すべて、有職者のための夜間の学科で構成されており、「建築と建設」「指し物細工と家具」「銀細工とその関連工芸」「製本」「描画、デザインおよび塑像」「刺繍とニードルワーク」「ステインド・グラス、モザイクおよび装飾絵画」の七つの学科が準備されていた。このなかから富本が選択したのが、「ステインド・グラス、モザイクおよび装飾絵画」の学科であった。この学科は、天国に一番近い最上階の六階にあり、「ステインド・グラス製作」「モザイクと装飾絵画」「テンペラ絵画」の三つの授業から成り立っていた。開講曜日は、「ステインド・グラス製作」が火曜、水曜、木曜、「モザイクと装飾絵画」が金曜、「テンペラ絵画」が月曜で、授業時間は、いずれも夜の七時から九時三〇分までであった。富本はおそらく、「ステインド・グラス製作」の授業が開講される火曜日から木曜日までの三晩をこの学校で過ごしたのではないだろうか。「ステインド・グラス製作」を担当する教師は、G・F・ブロッドリック、A・J・ドゥルアリー、カール・パースンズの三名であった。ほかにもうひとり、この学校が設立された一八九六年から一九〇四年までこの学校でステインド・グラスとデザインを教え、その後外来講師となっていたクリストファー・W・ウォールが加わっていた。
中央美術・工芸学校が設立されてしばらくすると、一九〇四年ころから校長のレサビーは、「美的工芸の技法入門叢書」と題された各工芸分野の入門書の編集に携わることになる。執筆陣にはこの学校の教師たちも選ばれ、たとえば、クリストファー・W・ウォールは『ステインド・グラス製作』を、ヘンリー・ウィルスンは『銀細工とジュエリー』を、そしてエドワード・ジョンストンは『ライティング、イルミネイティングおよびレタリング』を著わしている。そして、この叢書の巻頭につけられた「編者序文」のなかでレサビーは、工芸とデザインについて自己の見解の一端を以下のように披瀝するのである。
過去の一〇〇年間のなかにあって、アカデミックな性格を帯びた絵画と彫刻を除くと、諸芸術の多数は、ほとんど関心をもって扱われることはなかったし、単に「外見」に関する事柄として「デザイン」をみなす傾向があった。従来のこうした「加飾」は、通常、製作における技術的プロセスについてしばしばそう多くの知識をもっていない芸術家が描いた絵を機械的に参照することによって得られていた。しかし、[ジョン・]ラスキンと[ウィリアム・]モリスが各種の工芸に対して批判的なまなざしを向けたことに端を発して、もはやこの点において工芸からデザインを分離することは不可能であり、最も広い意味において、……真のデザインは良質にとっての不可分の要素であるという考えが認められるようになってきたのである32。
これらの叢書を富本が実際に読んでいたことを根拠づけるような資料は残されていないが、在学期間中のいろいろな機会をとおして、こうした校長の考えは富本にも伝わっていたものと思われる。アーツ・アンド・クラフツの先達であるラスキンやモリスの主張に倣い、レサビーは、過去に製作された模様を機械的に参照することによって工芸品の「外見」を「加飾」しようとする旧来のデザイン行為を戒め、それに取って代わる新しいデザイン観を工芸に吹き込もうとしていたのである。
一九〇九年も終わりに近づこうとしていたある日のこと、明治天皇の在位五〇周年を記念して開催が計画されていた世界博覧会の事前の現地調査の一環として、建築家の新家孝正がロンドンを訪れた。そして新家は、富本に対し、主として写真撮影の助手として、エジプトとインドでの回教建築についての調査に随行するように依頼した。結果としてこの旅行は、そののち富本が考案する模様にかかわって、大きく分けて三つの収穫をもたらした。というのも、そのふたつの地には、実に富本を圧倒せんばかりの、文字模様、更紗模様、そして幾何学模様が存在していたからであった。
一九四九(昭和二四)年の《常用文字八種図》(奈良県立美術館所蔵)のなかで、富本は「壽」の文字について、このように書く。
文字を模様として取扱ふ事は随分以前から考へて居た事であるが、それを考へ出すと欧州中世の装飾文字や、若い頃見たカイロ市回教寺院の建物前面に大きく彫られた回教文字に唐草模様を配されたのが頭に来て、全く手も足も出なかった33。
そしてインドでは、更紗を打っている場面に出くわす。「廣い木綿を廣げて小さい型をコツコツ打つていく、その中に少しゆがむだのや明瞭に行かないのが出来ます、此れが暗い赤や黄、靑と云ふ樣な細かく點々と置かれる彩に交つて實に面白いものが出來ます」34。
こうして調査旅行の「二、三ヵ月間に、回教国の寺院の宮殿、墓地といったところの建築様式、モザイックとか天井のデザインなどの部分にまでレンズを向け、約五百枚写して農商務省に送った」35。しかし、明治天皇の死去に伴い、目的となっていた博覧会は中止されることになった。それでも富本は、新家に随行したこの旅行の意義を次のように回想している。
……目的が建築だったにしろ、回教のさまざまな装飾をつぶさに観察する機会を得て、私の将来の仕事にとって決してむだなことではなかったと考えている。特に、回教の模様は、具象的なものは糸杉以外はすべて宗教上のタブーとなっており、幾何的な模様ばかりなのである。この点からもユニークな収穫があったといえよう36。
こうして、エジプトとインドへの旅行を含む約一年四箇月の英国滞在は終わり、一九一〇年の五月一日、富本は、日本郵船の三島丸に乗船してロンドンを離れ、帰国の途についた。
(1)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、199頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に連載]
(2)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』第11巻第4号、1912年、14頁。
(3)しかし、ここで富本が見たものは、本当に「壁紙の下圖」だったのであろうか。この時期この博物館が収蔵していたモリスの壁紙は、《キク》一点であった。しかしこの作品は、全面を多色刷りで印刷されているサンプル・シートなのである。このサンプル・シートをもって富本が下図と判断することは考えにくく、実際に富本が見たものは、下図に相当する別の作品であった可能性の方が極めて高い。その推論が正しければ、残された作品から判断して、それに該当するものは、刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン以外にはない。なぜ富本が、刺繍の下図を壁紙の下図に見間違ったのかはわからない。この博物館の学芸員なり、中央美術・工芸学校の引率教師なりから与えられた情報が、そもそも間違っていたのかもしれない。しかしいずれにしても、ふたつの作品の表現上の様態から判断して、富本がここで述べている「壁紙の下圖」とは、「壁紙《キク》(サンプル)」ではなく、実際には「刺繍による壁掛け《アーティチョーク》のためのデザイン(下図)」であったと考えて、ほぼ間違いないであろう。詳細は、中山修一「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅰ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館におけるウィリアム・モリス研究」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、27-58頁を参照のこと。
(4)Anna Somers Cocks, The Victoria and Albert Museum: The Making of the Collection, Windward, Leicester, 1980, p. 3.
(5)The Victoria and Albert Museum: A Bibliography and Exhibition Chronology, 1852-1996, compiled by Elizabeth James, Fitzroy Dearborn Publishers, London, 1998, p. xiv.
(6)前掲「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』、同頁。
(7)前掲『私の履歴書』(文化人6)、198-199頁。
(8)Lionel Lambourne, Utopian Craftsmen: The Arts and Crafts Movement from the Cotswolds to Chicago, Astragal Books, London, 1980, p. 4.[ラバーン『ユートピア・クラフツマン』小野悦子訳、晶文社、1985年、22頁を参照]
(9)Ibid., p. 6. [前掲『ユートピア・クラフツマン』、24頁を参照]
(10)社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に一八八六年から掲載が開始された「ジョン・ボールの夢」のなかでモリスは、「フェローシップは天国であり、その欠如は地獄である。つまり、フェローシップは生で、その欠如は死なのである」ことを述べている。このことについて詳しくは、May Morris (ed.), The Collected Works of William Morris (1910-1915), 24 vols., reprint, Routledge/Thoemmes and Kinokuniya, London and Tokyo, 1992, vol. XVI, p. 230を参照のこと。
(11)前掲「ウイリアム・モリスの話(上)」『美術新報』、20頁。
(12)Guide to the Victoria and Albert Museum, South Kensington, London: Printed for His Majesty’s Stationery Office by Eyre and Spottiswoode, LTD., 1909, p. 52.
(13)前掲『私の履歴書』(文化人6)、200頁。
(14)富本憲吉「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』第13号、1954年、45頁。
(15)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、48頁。
(16)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、45頁。
(17)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、同頁。
(18)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』、12頁。
(19)同「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』、同頁。
(20)前掲『私の履歴書』(文化人6)、同頁。
(21)前掲「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』、9頁。
(22)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、130頁。
(23)前掲「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』、8頁。
(24)前掲『私の履歴書』(文化人6)、同頁。
(25)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。
(26)中央美術・工芸学校(Central School of Arts and Crafts)は、工芸産業の従事者のために専門的な美術教育を提供する目的で1896年にロンドン市議会(London County Council)によってリージェント・ストリートのモーリー・ホールに設立された学校で、ウィリアム・モリスとジョン・ラスキンの教えに影響を受けたアーツ・アンド・クラフツ運動の直接的な産物でもあった。創設された1896年から1911年まで、ウィリアム・リチャード・レサビーが校長を務めている。1903年に、サウサンプトン・ロウにこの学校のための新たな敷地が購入されると、建物の建設がはじまり、1908年にこの学校はこの地に移転することになる。その後1966年に、この学校は、中央美術・デザイン学校(Central School of Art and Design)へ名称を変更し、さらに1986年には、インナー・ロンドン教育機構(Inner London Education Authority)によって設置されたロンドン・インスティテュート(London Institute)を構成するひとつの大学となり、続いて1989年に、もうひとつの構成大学であったセント・マーティンズ美術学校(St Martin’s School of Art)と合併し、中央セント・マーティンズ美術・デザイン大学(Central Saint Martins College of Art and Design)へと衣替えしている。
(27)Godfrey Rubens, William Richard Lethaby: His Life and Work 1857-1931, The Architectural Press, London, 1986, p. 194. なお、この引用文のなかで著者のゴッドフリー・ルービンズが利用しているヘルマン・ムテジウスの文章の出典は以下のとおりである。 Hermann Muthesius, Di Krisis in Kunstgewerbe, Leipzig, 1901, p. 18.
(28)Hermann Muthesius, Das englische Haus, Wasmuth, Berlin, 1904 and 1905, 3 volumes. この本の英語版は以下のとおりである。 Hermann Muthesius, The English House, translated by Janet Seligman, Blackwell Scientific Publications, Oxford, 1987.
(29)前掲『私の履歴書』(文化人6)、219頁。
(30)一九〇八(明治四一)年一月八日付のロンドンにいる南に宛てて書き送られた長文の富本の書簡のなかに、「建築図案を研究するに僕等の様なものに良き方法ありや(勿論ロンドンにて)(卒業後)」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』大和美術史料第3集、奈良県立美術館、1999年、2頁)という一節がある。ここから推量すると、富本が日本を発つ前に、この学校の『概要と時間割』が南から送られてきていた可能性もある。もしそうであれば、富本は、後期のセッションが1909年2月8日からはじまることを知っており、その時期にあわせるように、日本を発ったものと考えられる。
(31)London County Council Central School of Arts and Crafts, Southampton Row, W. C., Prospectus & Time-table for the Session Beginning 21st September, 1908, p. 5.
(32)Edward Johnston, Writing & Illuminating, & Lettering, Seventeenth Impression, The Artistic Crafts Series of Technical Handbooks, Sir Isaac Pitman & Sons, Ltd., London, 1932. (first published in 1906)[ジョンストン『書字法・装飾法・文字造形』遠山由美訳、朗文堂、2005年、8頁を参照]
(33)『モダンデザインの先駆者 富本憲吉展』(同名展覧会カタログ)朝日新聞社、2000年、84頁。
(34)前掲「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』、13頁。
(35)前掲『私の履歴書』(文化人6)、204頁。
(36)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。