一九五三(昭和二八)年二月、リーチが来日し、翌年の一一月まで長期にわたり滞在した。そのときの滞在記録が『バーナード・リーチ日本絵日記』である。そのなかに「十一月二十一日」として、次のようなことが記されている。
昨日の午後、富本にそのささやかな家で会い、夕食もそこでとった。ささやかな家ながら、その中に含まれているものはすべて、その配置と言い、選び方と言い、彼自身の性格がにじみ出てみごとである。――煎茶趣味――それは抹茶とも違うし、明らかに民藝ではない1。
このときまでに、富本と柳宗悦(ないしは民芸)との関係を、リーチがどこまで把握していたのかはわからないが、すでに両者の関係は完全に断ち切れていた。
この滞在期間中に、富本とリーチの対談が企画され、「作陶遍歴」と題されて、一九五四(昭和二九)年の『淡交』(第八巻第七号)に掲載された。内容は、ふたりの出会いから作陶へ入るきっかけにはじまり、全体として、これまでの両人の歩んできた陶工としての道のりを振り返るものになっている。
富本とリーチが向かい合って「作陶遍歴」を語ったこの年(一九五四年)、富本は、「乾山の『陶工必用』について」と題した一文を『大和文華』(第一三号)に寄稿した。冒頭富本はこう書いている。「大和文華館の好意により、永年望んで得られなかった、尾形乾山著『陶工必用』の全文が寫眞に写されて、去年十一月私に送られた」2。すでに言及しているように、富本が石井白亭からその名を聞き、ふたりして訪ねたのが、六世乾山(浦野乾哉)の家であった。富本が通訳を務め、ただちにリーチは六世乾山に入門した。つまりこれが、両者にとっての「作陶遍歴」の最初に位置する出来事だったのである。初代尾形乾山の「此書完成が今より約貳百貳拾五年前であり」3、それよりのち途切れることなく乾山の陶技が伝承され、死去する直前に六世乾山は、「リーチさんとあなたの樣な人を二人も弟子に持つた事をあの世で先生の[三浦]乾也に自慢出來ますわい」4と、富本にいった。その意味からすれば、リーチは、直系の「七世乾山」を襲名する立場にあり、富本はその傍系に位置する継承者といってよい。富本は、この『陶工必用』のもつ、自分にとっての特別な意味を、次のように説明する。
歴史家でない私は代々の系譜を調べたりする事に興味がないものであり、特に家元とか何代とかと無理にその傳統を表圖だけに連ける如き事は大嫌ひな性格であるが、乾山には何か連關がある如く思へる。その上に私の樣に素人から入った陶器家は廣く色々な技法に渡つて、次ぎつぎに試みて居るので系體的に關係あるだけでなく、この書の樣に陶器全般に亙つて書かれたものを實験的に研究する事は、たとひ永くかかつてもやつて見たいものだと思ひ出した。今はその材料の字義、種類について研究中である5。
リーチが日本を発って数箇月後の一九五五(昭和三〇)年の二月、富本は、第一回の重要無形文化財技術保持者(色絵磁器)に認定された。認定者は「人間国宝」とも呼ばれる。しかし富本は、この認定を決して喜ばなかった。そして翌年九月、この認定を受けて富本は、「富本憲吉自伝」として自分の経歴について口述し、内藤匡が筆記した。そのなかで富本は、こう語っている。「認定するのは政府の勝手ではありましょうが、この無形文化財というものについては、私は反対なのであります。……イミテーションを作るのは職人で、芸術家ではありません。図案(形も図案の一つです)ができて、自分のこしらえた絵具なりなんなりを十分使いこなして、創作するのが美術家であります。しかるに今の無形文化財を受けている人は創作力のない職工がだいぶおります」6。
重要無形文化財技術保持者の認定を受けたこの年(一九五五年)の一一月、「富本憲吉作陶四十五年記念展」が開催された。「一九五五年は私が英国でスティンドグラスを初めてから四十五年になりますので、それを記念して東京の高島屋の大ホールで展覧会を開きました。焼物約三百点と、図案、スケッチ、絵巻物などを、大和時代、東京時代、京都時代と分類して陳列しました」7。富本が、ロンドンの中央美術・工芸学校のステインド・グラス科に入学するのは一九〇九(明治四二)年のことなので、厳密にいえば、この年が「作陶四十五年」ではなかった。この展覧会には、《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》が展示されて、注目を浴びた。内藤は書き記す。「この八角箱は素地を作るに大そう困難した。助手が二人して苦心して磁土を型に打ってくれたが、二十数個を手がけて、完全に仕上がったのは二個だけだ。一つは赤更紗に、一つは金銀彩にした。モチーフはやはりテイカカズラを四弁花に変形したものである」8。ふたりの助手のうちのひとりが、のちに京都市立芸術大学の教授になる小山喜平であった。このときの様子を小山は、こう述懐する。
[私は]美大を卒業後専攻科へ進み、続いて二年先生の指導を受ける事が出来た。その間、先生の泉涌寺の工房へも通い勉強をかねてお手伝いをした。東京で作陶四十五周年展を準備しておられた頃である。大学への出講日以外は工房で作陶を続けておられたが、朝の十時には車が止まり工房へ入られ、夕方五時には又車が迎えに来られる。食事とティータイムの外は制作三昧である。……出品作が次第に焼成されて行ったが八角の大型の飾箱が窯出しされた時の喜びは大変なものであった。一つは金銀彩に一つは色絵で仕上げられた。
展覧会は盛会であった。高松宮様も会場にみえ歓談された。志賀直哉さんや武者小路実篤さんら旧友の方々が多数会場に参集された。浜田庄司さんも御令息さんをつれ会場にみえた時、子供もこんなに大きくなりましたと話しかけた浜田さんの顔には旧友の再会の笑があった9。
柳原睦夫も、この時期の憲吉から指導を受けていた。柳原はのちに、大阪芸術大学の教授となる。
私が先生のご指導をいただいたのは、昭和二十九年から亡くなられるまでの九年間です。美術大学の学生として、卒業後は研究室の助手に採用していただき一層お目にかかる機会が多くなりました。大学と東山泉涌寺の工房を三日にあけず往来したものです。
この時期は先生の晩年の円熟期にあたり、赤絵金銀彩の技法を完成され、羊歯模様や四弁花模様の名作がたてつづけに創出されてゆきました10。
同じく柳原は、憲吉の英語力にも、目を奪われた。
先生のご自慢の一つに、本場英国仕込みの英語があります。これはなかなかのもので、私共がペラペラ喋るアメリカ英語とは趣の違った格調の高い古風なものでした。たえず大学を訪れる海外の陶芸家や留学生の応援は、まさに先生の独壇場でした。体格風貌ともに欧米人に比べて遜色がなく、服装の選択と着こなしに於いては、アメリカ人など足もとにも及ばないスタイリストの先生が、得意のキングスイングリッシュを話される様子は、一寸絵になる光景でした。私達は羨望と畏敬の念で舌をまいて眺めていたものです11。
「作陶四十五年記念展」が終わると、翌一九五六(昭和三一)年九月に、「作陶四十五年記念展」の展示作品のなかから約五〇点が選ばれて解説された『富本憲吉陶器集』が、内藤匡の編集によって美術出版社から刊行された。他方この時期、すでに述べているように、重要無形文化財技術保持者の認定に伴う「色絵磁器」と「自伝」に関する富本からの聞き取りも、同じく内藤の手によって進められていた。さらにこの年の夏は、「模様集」の刊行へ向けて、その準備が急がれていた。こうして翌年(一九五七年)、中央公論美術出版より『富本憲吉模様選集』が上梓された。出版されると、美術評論家の水沢澄夫が、『三彩』に次のような書評を寄稿した。
一九一二年から五六年にいたるほぼ半世紀にわたる名匠の陶歴の中から、その間にくりかえし使われた陶器模様三十図を、紺紙に金泥で描き、解説もまた作家みずからが日本紙に筆写したものを、ともに原色版におこしてつくられた見事な図譜。さきに美術出版社から出された「富本憲吉陶器集」と同じ装釘の姉妹篇である。
模様のなかのあるものは雄健、あるものは細緻、陶器作家にとってよき参考図譜であるばかりでなく、内外の陶器愛好家にとって貴重な資料となるだろう。巻末に英文解説をつけたことは適切だ12。
「作陶四十五年記念展」の開催、あわせて『富本憲吉陶器集』と『富本憲吉模様選集』の刊行――どれもが、これまでの製陶活動の偉業の全貌を俯瞰するにふさわしい内容であり、おそらく誰の目にも、まさしく前人未到の輝かしい記念碑的企てとして映じたことであろう。
一九六一(昭和三六)年五月、東京でのロータリークラブの第五二回国際大会の開催にあわせて、日本橋の高島屋八階ホールにて、「富本憲吉作陶五十年記念展」が開催された。内藤匡は、この展覧会図録に「作陶五〇年記念展について」の一文を寄稿し、そのなかで富本のこれまでの作風の変遷にかかわって、次のように書き添えた。
焼物のいろいろの技法を自由に使いこなすばかりでなく、先生の更らに優れた点は美しい新鮮な模様を作られた事だ。昔の図案を改良したり、それにヒントを得たりしたのでなく、先生自身で自然を観察して、新らしく創り出したものばかりを使われた。そこで、大正の時代から先生は“模様の作家”として知られた。やがて“色絵の作家”と歌われ、“金銀の作家”と讃えられるようになったが、やはり私は、“模様の作家”の方が先生を最もよく表わしているように思う13。
そして続けて内藤は、今回の展覧会について、こう紹介する。「此の五〇年間に先生の創られた模様はおびただしい。そのうちから十数点を選び、これを約五〇点の皿、陶板、壺、飾箱、香炉等に焼いて、図案と共にならべて、作陶五〇年記念展を開く事にした。図案の作り方、その応用のしかた、熟練した手腕等を研究鑑賞するにはまたとないよい機会だ。御覧んになることをおすすめします」14。この図録は、英文による配慮も行き届いており、内藤による英文の序文には、富本の来歴のみならず、国展、民芸、新匠会の三者の関係もまた明示されていた。この展覧会を『朝日新聞』は、「若々しい装飾感覚」という見出しをつけて、「こんどの展観では、銀彩の効果をみごとに生かした飾り箱や、円や斜線でしょうしゃな構成を見せた大ザラの表現など、その若々しい装飾感覚に注目したい」15と、評した。
一九五三(昭和二八)年二月に続いて、この年(一九六一年)の八月、バーナード・リーチが来日した。戦後二度目の訪問であった。しかし、彼のおよそ五〇年来の旧友であり、民芸運動の主導者であった柳宗悦は、すでにこの五月に亡くなっていた。「私は民芸館で、旧友柳宗悦の霊前で香を焚いた」16。続いてリーチの「一〇月二五日」の日記には、安堵村を訪問したことが記されている。
昨日、富本と堀内と私は、奈良を通り抜け、京都からおよそ四五マイル離れた法隆寺の近くにある安堵村のトミー[富本]の旧宅へ車で行った。……何年もの月日を経たのちに、このゆかりの地を再び訪れることは、感動的であった。前と同じように庭には古い石があり、古い蔵の脇には同じ木蓮の木が立ち、門番小屋の外側には、変わることなく、緩やかな流れの掘割があった――五〇年の歳月が流れていたのだった17。
リーチの日記は、この安堵訪問には、わけがあり、それは、まじかに迫った憲吉の国家的栄誉の顕彰に関係していたことを伝えている。先祖への報告や祝賀会の打ち合わせのようなことが考えられるが、リーチは具体的には何も語っていない。安堵村の生家を訪ねる五日前の一〇月一九日、『朝日新聞』は、この年の文化勲章の受章者として、富本をはじめ、作家の川端康成、京大名誉教授(中国文学)の鈴木虎雄、東大名誉教授(構造化学)の水島三一郎、日本画の福田平八郎、同じく日本画の堂本三之助(印象)の六氏が内定したことを報じていた18。「川端康成氏ら六人 文化勲章の受章者きまる」の見出しがつけられたこの記事のなかで、富本の受章は、工芸分野にあっては板谷波山に次ぐ二人目であることが紹介され、さらに、一〇名の選考委員の名前も公表された。そのなかには、倉敷レイヨン社長の大原総一郎の名前も含まれていた。受章が決まると、富本の身辺では、急に慌ただしさが増してゆく。
受章が決まって、最初に奈良県郡山中学の同級生で、大和の同村の出身である今村荒男君(元阪大学長)が電話をよこした。「えらいものをもらうんだね。僕が去年もらったのは文化功労年金で、君のやつの方が、ずっと上だよ。しっかりせにゃいかんね」ということだった。暗に、僕がまた「[重要無形文化財技術保持者の認定のときと同じように]そんなものいらんよ」と断わるのではないかと心配してくれたのかもしれない19。
しかし、この受章を断わることはなかった。一一月三日の文化の日、その授与式が皇居で行なわれ、その後受章者たちは、天皇陛下を囲んで昼食をともにし、歓談した。そのとき富本は、「陶器の上に溶解度のちがう金と銀を重ねて置けるよう工夫した苦心談を披露」20した。
授与式から一〇日が立った一一月一三日、大原美術館に新たに設けられた陶器館の開所式が行なわれた。その日の様子を、大原総一郎は、「大原美術館 陶器館開設の日に」と題して綴り、『民藝』(第一〇九号、一九六二年一月号)に寄稿している。以下は、その一部である。
去る十一月十三日、来日中のリーチさんと富本憲吉、河井寛次郎、浜田庄司の四氏を倉敷に迎え、大原美術館の新しい陶器館の開館式を行いました。……この陶器館は、去年の終り頃着工を決意し、今年の十一月頃を目指して完成させるよう計画したものでした。建物は昔の米倉です。……八つの土蔵は……その中の北側にある三棟が陶器館となり……一号館は浜田さん、二号館の二階は富本さん、階下はリーチさん、三号館は河井さんの作品にあてられており、現在では、二百点ばかり陳列されています。これらの陶器は今から三十年近く前に、父が好んで蒐めたものに端を発して現在に及んでいます21。
この日の夕刻、四人は、倉敷民芸館の主催による講演会に臨んだ。美術館裏手の新渓園で催され、テーマは、中世英国の陶器についてであった。富本は、楽焼きをはじめたころ、たまたま本屋で見つけたローマックス著の『風雅なる英国の古陶器』という洋書をリーチと奪い合うようにして読んだ思い出を語っている。この講演会での講話の内容は、「四陶匠は語る」と題して抄録編集され、同じく『民藝』同号に掲載された。このとき話題になった、『風雅なる英国の古陶器』という本については、すでに言及しているように、その経緯は判然としないが、現在、駒場の日本民藝館に残されている。
この開館式の様子については、リーチの日記でも、「倉敷――一一月一二―一四日」の箇所で触れられている。しかし、招待された四人の陶工の心のなかについての描写はない。文化勲章を受けたばかりの富本。富本とは絶縁状態の民芸派に属する河井、濱田、そしてリーチ。さらに加えれば、このたび、文化勲章の選考委員を務める一方で、四人の常設展示室を設けた大原総一郎。民芸を唱導するも、この五月に亡くなった柳宗悦。そこには複雑な人間関係があったことが想像される。果たして開所式のこの一日、彼らはどのような会話をしたのであろうか。
この秋のある日のことである、リーチと富本は、丹波の山に車で一日旅行を楽しんだ。「私は日本の田舎が、かくも見事に美しいことを発見しつつある。そして、農家の一年を表わすために、時間と技量があれば、田園生活を一連の図案に描いてみたいと思った。自分も同じ思いをもっている、と富本は私にいったが、彼の場合は、イギリスの田舎生活が念頭にあった」22。さらに滞在中の回顧が続く。この一文のすぐあとに、リーチはこう書き記す。「京都では、堀内家に滞在した。最近[栃木県の佐野地方で]発見され、森川勇氏の所有になる初代乾山の陶器を見るために、私は、[六代]乾山の娘の尾形奈美とそこへ向かった。富本は、自分の思いが的中し、もしそれらの作品が贋作であることがわかったならば、やっかいな立場になることを恐れて、どうしても行こうとはしなかった。そこで私は、堀内と奈美と一緒に出かけた」23。果たしてリーチの目には、どう映ったか。「最初のひとまとまりの陶器を見て、私は仰天した。それらすべてが本物であることを確信したからである!」24。リーチは、年が改まった一九六二(昭和三七)年の「一月六日、高度三万フィートの上空を大阪から東京へと飛ぶ」25。
富本は、リーチとの最後の別れについて、こう書いている。
彼が日本を離れる日も近づいたある日、工房で昔のように長い間、話し合ったが、別れぎわ、彼は私の手を握り「もう、これで、お互い死ぬまで会えないかもしれないね」と目にいっぱい涙をためていた。五十年前、リーチとともに、いたずら半分にやった即席楽焼きが私たちの生涯の道を決定した。思えば、陶芸一筋につながる長い友である。私も感慨無量だった26。
「目にいっぱい涙をためていた」のは、リーチだけではなく、富本もおそらくそうだったであろう。
リーチが関西を発って一箇月が過ぎた。一九六二(昭和三七)年の二月に入ると、『日本経済新聞』は、富本の「私の履歴書」を一〇回に分けて連載した。各回のタイトルは以下のようなものであった。
一 十二歳で父を失い家督をつぐ
二 ふらふらと東京美校に入学
三 日本で最初のバンドを作る
四 二十三歳、ロンドンに留学
五 カメラ提げて回教寺院回り
六 楽焼が陶芸一筋の生涯を決める
七 多事多難の二十年
八 安い陶器を作って売る
九 終戦の翌月芸術院を去る
十 思いもかけぬ文化勲章
このような流れに沿って富本は、自分の歩んできた道を振り返った。死去する一年数箇月前の最晩年、まもなく人生の終わりを迎えようとするこのときに、最期の言葉として、富本は何を語っているのであろうか。最終回の「思いもかけぬ文化勲章」の最終部分には、量産陶器のさらなる発展へ向けての期待と、乾山が書き残した『陶工必用』の解読へ向けての意欲が、綴られていた。
若いころからの私の念願であった“手づくりのすぐれた日用品を大衆の家庭にひろめよう”という考えは、いろいろな事情で思うにまかせないが、いま私は一つの試みをしている。
それは、私がデザインした花びん、きゅうす、茶わんといった日用雑記を腕の立つ職人に渡して、そのコピーを何十個、何百個と造ってもらうことである。……すでに市販もされて、なかなか好評だということだが、価格が私の意図するほど安くないのが残念である。だが、これも、まだ緒についたばかりだから、やがて、コストダウンの方法が見つかるかもしれない27。
そして続けて――。
もう一つ、かねてから初代乾山の「陶工必用」という本(大和文華館所蔵)を写真にとってもらってあるが、ことしは、これを読んで乾山の処方通りの材料を集め、乾山の楽焼きや色絵の実験をやるつもりでいる。私の実験の結果が、ひとり私の陶芸ばかりでなく、日本の陶芸界全体にお役に立てればよいと考えている次第である28。
これをもって、「私の履歴書」の連載は完結した。そしてこれが、富本にとっての事実上の絶筆となるものであった。
思い起こせば、中学時代に堺利彦が訳載したウィリアム・モリスの「理想郷」を『平民新聞』に読み、モリスの思想と仕事に憧れを抱いて渡英すると、サウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参し、モリスの実作を見ては、英国風の気高き趣味に胸を打たれ、その一方で、日本ではなく、この博物館において、垂れ下がる梅の枝と詩句を描いた初代乾山の焼き物にはじめて遭遇するのである。富本は、純正美術と応用美術の両者(たとえば絵画と更紗の両作品)が、差別されることなく同等の美的価値をもつものとして陳列されていることに驚き、この博物館を知らなかったならば、自分は工芸家になることはなかったであろう、とのちに告白する。帰朝すると、バーナード・リーチと知り合い、焼き物に熱中するリーチを連れ、通訳として六世乾山を訪ねた。こうしてリーチは知遇を得て、乾山の弟子として焼き物の世界に入る。他方富本は、初代乾山の梅の図柄に寄り添い、《梅鶯模様菓子鉢》をリーチの窯で焼く。この楽焼きが富本の事実上の処女作となるものであった。このころのトミーと自分は、すべてを分かち合う、さながら兄弟のごとき関係であった、とリーチは回顧する。ほぼこれと時期を同じくして、『美術新報』に富本は、「ウイリアム・モリスの話」を寄稿した。それを出発点として、「芸術のための芸術」でも「国宝」でもなく、「生活のための芸術」と「日用雑器」を重視する、富本のモリスに倣った哲学が、苦闘を伴いながらも晩年に至るまで展開されてゆく。同じく晩年には、初代乾山の『陶工必用』に出会う。そしてその伝承内容を、さらなる自分の血と肉にしようと努める。没後、その間リーチの手もとに置かれていた《梅鶯模様菓子鉢》が、最終的にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に寄贈される。
人は、厳然たる事実として父と母から生命を受け継ぐ。その観点に立てば、工芸家としての富本は、父をモリスに、そして母を乾山にもったことになる。さらにそれに加えるならば、富本の生没地は、明らかにロンドンのサウス・ケンジントンであり、リーチは、生涯にわたりそれぞれが日英にあって同じ道を歩き続けた七箇月違いの若き弟であった。上に引用した「私の履歴書」におけるモリスと乾山への最終的言及が、疑いもなく、それらのことをすべて、静かに例証しているのである。
他方、この「私の履歴書」の全編を通覧してわかる特質も、幾つか存在する。ひとつは、初回から第六回の終盤に至るまでが独身時代にかかわる記述であるということである。若き日の出来事と思い出が、かくも大きな衝撃となって最後の最後まで富本の心を強く支配していたのであろうか。別のいい方をすれば、実際に製陶人生を開始したのちのことよりも、そこに到達するまでに展開された様態の方が、富本の記憶にとっては、重みをなすものであり、同時に、意味をなすものであったということになろう。
もうひとつ特徴を挙げるとすれば、この連載のなかにあって、一枝のことも結婚生活のことも、そして、のちの伴侶についても、いっさいその話題が登場することはなかったということである。その意味で、富本の「私の履歴書」は、あくまでも「私の仕事の履歴書」であって、「私の家族の履歴書」は全く含まれていない。裏を返せば、「私の家族の履歴書」など、決して易々と表に出される筋合いのものではなく、それは自分だけの心にそっとしまい込むものであるというような何がしかの夢想的判断が、執筆中の富本の脳裏を常時支配していたのかもしれなかった。あるいはそれとは逆に、一枝との過去の結婚生活も、いまの伴侶との内縁関係にある生活も、もはや心の重きをなすものではなく、事実としてただあるだけの、いっさいそれにとらわれない空なる存在となってしまっていたのかもしれなかった。さらに可能性を広げるならば、そうした二者択一的な明確さとは様相を異にする、曖昧で複雑で、行ったり来たりの、もはや輪郭を描くことさえできない何か別の模様が、愚痴や嘆きとなって、富本の心を覆っていたのかもしれなかった。富本は、文化勲章の皇居での授与式にどちらかの女性を同伴することもなかったし、自分の死後について、常々こうも漏らしていた。以下は、藤本能道の言葉である。
先生は六十歳にして、それまでに得た地位も何もかも捨て再出発しようとするような気の強い反面、よく愚痴もいわれ「私は嘆くことの多い人間だ」と笑われ「私には墓はいらぬ。死んでも拝んだりするような事はして欲しくない。作品が墓だ」と晩年、常々口ぐせのように言われた。自分の行った行為を、作品を見、感じることによって正当な評価を望むだけで、結果としての地位や伝説のような論議は困るとの教えのように感じられた29。
富本は、父親の死後、長男として家督を相続したにもかかわらず、従来の家制度を継承することなく、その外側にあって生きようとした。その結果、結婚に際しては、富本家にも尾竹家にも属さない、ともに家を出た男女がつくる新しい家族という集団の形成を目指した。しかし、それは完成することなく、夫の立場にある憲吉の方から、途中でその集団を脱した。同じようにそのとき、帝国芸術院や東京美術学校という集団からも離れた。どの集団の組織原理も、当時の富本にしてみれば、耐えて無言のまま内面化することができなかったのであろう。それらのことは、この文脈において、何を意味するのであろうか。このときまでに富本は、強固に因習に残る国家的な制度としての「家」、相互の信頼のうえに本来築かれるはずの「夫婦」、本人の力量や思いとは無関係に体制維持の都合により供与される「栄誉」――それらはどれも、色あせやすく、移ろいやすく、壊れやすく、あくまでも他者の現世界であり、永遠に安住できる自己の「墓所」にはなりえないことを悟っていたにちがいなかった。それでは、ここに至って、富本にとっての確かなるものとは一体何だったのであろうか。それは、「家」でも「夫婦」でも「栄誉」でもなく、ひたすら自分がこしらえた「作品」、ただそれだけだったにちがいなかった。おそらくは、こうした思いが強められてゆくなかで、「墓不要」という次なる意識が形成されていったものと思われる。自分の判断と責任において、すでに家制度からも婚姻制度からも距離を置いていた富本は、したがって、入るにふさわしい「家」の墓廟も、墓石を共有するにふさわしい「夫婦」の相方も、この時点に至るまでに完全に失っていたといえる。確かに、京都市立美術大学教授、重要無形文化財技術保持者(人間国宝)、文化勲章受章者という、金銀彩にも似た華麗なる「栄誉」は身にまとっていたものの、それも埋葬とともに消滅するとすれば、生きて残るのは、やはり、魂としての「作品」だけであり、富本はそれを強く思いに秘めていたのであろう。上の引用に認められるように、藤本は、憲吉の性格として、気の強い側面と、嘆き愚痴をこぼす側面とを指摘している。「窯なき放浪の陶工」が、嘆き愚痴をこぼす側面を表象しているとすれば、気の強い側面を表わす字句としては、さしずめ「すべての不合理を捨てて個に生きる 近代人 ( モダニスト ) 」ということになろう。悲嘆と信念というふたつの対照的な色彩によって一体的に描き出された 近代の図案 ( モダン・デザイン ) こそが、富本その人のあるがままの心模様だったのではないだろうか。
「私の履歴書」の連載が終了してしばらくすると、「京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三」に新築中であった住まいが完成し、富本と石田寿枝はそこへ引っ越した。新烏丸頭町の借家は、二間ほどの居室と、上絵の仕事をするために増築された別室とからなる、実に簡素な設えであった。これで、長いあいだの幾分不自由な仮住まいの生活も終わった。しかし一方で、憲吉の体は日に日に弱まりはじめていた。このことを考えるならば、この新しい家の建設は、自分が住むためというよりも、むしろ、十数年にわたる内助の功に対する感謝の気持ちとして、自分よりもはるかにこれから長く生きることになるであろう伴侶へ遺すためのものだったのかもしれない。
富本は、新居の庭に竹の植え込みをつくった。これを眺めていると、一一歳のときに失くした父豊吉のことが、しきりと思い出される。色絵竹模様の角陶板に、富本は、次のような自作の詩句を書いた。
新庭に竹を植えたり
六拾五年前、世を去りし/わが父を思はむ爲めなり
拾月の薄日さす庭に/石に腰して微風に動く影を見る
影は植えられたる杉苔と白河砂にあり
太き竹幹は動かず/風にそよぐ竹葉のみ動く
不肖の子われ/七拾歳を越して亡き父を想ひ
動中の静の影を見て楽しむ30
この詩句を富本がつくったのは、なかに書かれてあるとおり、一〇月の薄日射す日のことだった。そのころだったのであろうか、この新居を息子の壮吉が訪ねてきた。そのときの様子を壮吉は、次のように記憶していた。
「“静中動”ということば、死んだ父親がよく言っていたんやがねえ、――ようやくわかったなアーあの笹の影、見てみい、綺麗やなあ」風が吹きすぎ、笹の葉かげがかすかにゆれているのを父は示した。……父の病が重いことを知らされていた私と、それを知らず黙って笹の葉影を眺めつづける父と。長い時間が流れていった31。
一九六二(昭和三七)年が終わり、次の年の春が来た。三月三一日、この年より、京都市立美術大学では、「教員の定年制を実施することになり、黒田重太郎・上野伊三郎・榊原紫峰・富本憲吉・川端彌之助・小合友之助・平舘酋一郎・久松眞一・金尾音美・上野リチの教授が退官し、開学以来の有名教授が大学を去った」32。そして、「川村[多實二]学長の任期満了にともない、富本憲吉元教授が選出され、[五月六日付で]学長に就任した」33。しかし、すでにこのとき、富本は、大阪府立成人病センターに再入院していた。学長職に就く状況にはなかった。
『朝日新聞』が報じた富本の死亡に関する複数の記事34を総合すると、一九六三(昭和三八)年六月八日夜の九時半に大阪府立成人病センターで肺がんにより富本は死去、その後、六月一〇日の午後、京都市東山区山科御陵檀ノ後七ノ三の自宅で密葬、一三日に天皇陛下により供物料が贈られると、続く一四日の閣議で政府は、従三位、勲二等旭日重光章を富本へ贈ることを決定、翌一五日の午後二時から奈良県生駒郡安堵村東安堵の生家において告別式が執り行われた。こうして、七七年の富本憲吉の生涯が幕を閉じた。
「私の履歴書」の最後の箇所に書き記したふたつの念願が、未完のまま残された。ひとつは、普通の人びとが日常に使う安価で丈夫な「量産陶器」の広範な展開へ向けての願望であり、いまひとつは、大先達である初代乾山が著した『陶工必用』の実験的解読へ向けての願望であった。これらふたつの見果てぬ夢とともに霊骨は、富本家の菩提樹の円通院に、戒名もなく純朴簡素にして恭しく埋葬された。
(1)バーナード・リーチ『バーナード・リーチ日本絵日記』(柳宗悦訳/水尾比呂志補訳)講談社、2002年、263頁。
(2)富本憲吉「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』第13号、1954年、45頁。
(3)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、48頁。
(4)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、45頁。
(5)同「乾山の『陶工必用』について」『大和文華』、同頁。
(6)富本憲吉述、内藤匡記「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、79頁。口述されたのは、1956年9月12日。
(7)同「富本憲吉自伝」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、80頁。
(8)富本憲吉校閲、内藤匡記「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、57頁。
(9)小山喜平「富本先生を偲ぶ」『陶工・富本憲吉の世界――その人間と詩魂』富本憲吉記念館発行、1983年、92頁。
(10)柳原睦夫「京都市立美術大学時代の富本先生」『現代の眼』443号、東京国立近代美術館、1991年、2頁。
(11)同「京都市立美術大学時代の富本先生」『現代の眼』、同頁。
(12)水沢澄夫、書評「富本憲吉模様選集」『三彩』第92号、1957年、16頁。
(13)『富本憲吉作陶五十年記念展』(展覧会図録/国立近代美術館資料)、1961年、ノンブルなし。
(14)同『富本憲吉作陶五十年記念展』(展覧会図録/国立近代美術館資料)、1961年、ノンブルなし。
(15)「若々しい装飾感覚」『朝日新聞』、1961年5月25日、7頁。
(16)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 268.[リーチ『東と西を越えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、347頁を参照]
(17)Ibid., p. 270.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、350-361頁を参照]
(18)「川端康成氏ら六人 文化勲章の受章者きまる」『朝日新聞』、1961年10月19日、1頁を参照。
(19)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、228頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(20)「陛下と文化勲章受章者の午後」『朝日新聞』、1961年11月4日、15頁。
(21)大原総一郎「大原美術館 陶器館開設の日に」『民藝』第109号、1962年1月号、8-9頁。
(22)Bernard Leach, op. cit., p. 274.[前掲『東と西を越えて――自伝的回想』、356頁を参照]
(23)Ibid., p. 274.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、356-357頁を参照]
(24)Ibid., p. 274.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、357頁を参照]
(25)Ibid., p. 274.[同『東と西を越えて――自伝的回想』、356頁を参照]
(26)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、228-229頁。
(27)同『私の履歴書』日本経済新聞社、229頁。
(28)同『私の履歴書』日本経済新聞社、同頁。
(29)藤本能道「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、167頁。
(30)『生誕120年 富本憲吉展』(展覧会カタログ)朝日新聞社、2006年、210頁。
(31)富本壮吉「父、富本憲吉のこと」『現代の眼』185号、東京国立近代美術館、1970年、6頁。
(32)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、12頁。
(33)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、同頁。同じく、『朝日新聞』、1963年5月6日、7頁を参照。
(34)朝日新聞が報じた富本憲吉死亡に関する記事は、次のとおりである。『朝日新聞』、1963年6月9日(夕刊)、11頁。『朝日新聞』、1963年6月10日(夕刊)、7頁。『朝日新聞』、1963年6月14日(朝刊)、15頁。および『朝日新聞』、1963年6月14日(夕刊)、6頁。