中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第二章 日本におけるウィリアム・モリス

一.果たしてモリスとは何者なのか

それでは、中学校の生徒だったころに富本が興味をもったウィリアム・モリスとは、どのような人物なのであろう。今日の視点から、短くモリスの生涯を再現してみたいと思う。

周知のように、モリスは、一八三四年三月二四日にロンドン北東郊外のウォルサムストウにある〈エルム・ハウス〉において、父ウィリアム、母エマの三番目の子として生まれた。一三歳のときに、株の仲買人で資産家でもあった父を亡くし、翌年から、モールバラに新設されたパブリック・スクールで教育を受ける。一八五三年にオクスフォード大学エクセター校に入学。当初は聖職者になることを考えていたが、画家を志す学友のエドワード・バーン=ジョウンズと親しくなったことにより、関心は建築とデザインへと移っていった。一八五六年に、当時ゴシック様式の復興主義者のひとりであったG・E・ストリートの建築事務所に入所。そこで、上級所員であった建築家のフィリップ・ウェブと知り合うも、ラファエル前派の中心的画家として活躍していたダンテ・ゲイブリエル・ロセッティからの強い影響を受けて、絵を描きはじめる。翌年、ロセッティの呼びかけで、オクスフォード大学の学生会館の壁画製作に参加し、そこでモリスは、ロセッティのモデルをしていたジェイン・バーデンと顔見知りとなり、二年後の一八五九年に結婚。新居となる〈レッド・ハウス〉の設計がフィリップ・ウェブに依頼され、他方、家具、調度品の製作が、友人たちの協力によって進められた。

そうした芸術家たちによる共同作業は、中世の職人組織であるギルドに倣うものであり、すぐさま新会社の設立を促し、一八六一年にロンドンのレッド・ライオン・スクウェアの地にモリス・マーシャル・フォークナー商会が誕生。それ以降その会社から、ステインド・グラスや家具、壁紙などのデザインと製作が生み出されていった。とくにこの会社の知名度を高めるきっかけとなったのは、一八六二年の第二回ロンドン万国博覧会における〈セント・ジョージ・キャビネット〉を含む数々の展示作品であり、さらには一八六六年のサウス・ケンジントン博物館(一八九九年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に改称)の〈グリーン・ダイニング・ルーム〉の室内装飾の施工もまた、高い評判をもたらした。一八七五年には、モリスを単独の経営者とするモリス商会へと改組され、一八八一年には、マートン・アビーに見つけた古い染織工場跡を賃貸により借り受け、それよりのち、染織、織物、刺繍などを製作する工房として利用された。亡くなる五年前の一八九一年には、私家版印刷工房であるケルムスコット・プレスを設立。ここから、いわゆる「理想の書物」が五十数点生み出されていった。

一方で、物語詩『地上の楽園』の刊行が一八六八年からはじまると、モリスは、デザイナーとしてだけではなく、詩人としての名声もまた勝ちえていった。その後の代表的な物語詩の刊行だけでも、一九七二年の『愛さえあれば』、そして一八七六年の『ヴォルスング一族のシガード』を挙げることができる。

さらにこの時期のモリスは、芸術や労働、そして社会主義に関する講演や演説を英国の各地で頻繁に行なっている。代表的な講演として、一八七九年二月のバーミンガムでの「民衆の芸術」、一八八二年一月の同じくバーミンガムでの「生活の小芸術」、同年二月のロンドンでの「パタン・デザイニングの歴史」などが列挙されうる。そして一八八二年には、第一講演集として『芸術への希望と不安』を、一八八八年には、第二講演集として『変革の兆し』を刊行する。

初期のモリスの政治的関与は、東方問題協会や古建築物保護協会を舞台に進められたが、一八八三年にはH・M・ハインドマンの率いる民主連盟(翌年に社会民主連盟に改称)に加わるも、意見の対立から翌年社会民主連盟を脱会。次の一八八五年にモリスは社会主義同盟を結成し、機関紙『ザ・コモンウィール』の創刊にも献身的に携わった。モリスは、この『ザ・コモンウィール』に、一八八六年から翌年にかけて、中世のワット・タイラーの乱を主題とした「ジョン・ボールの夢」を、一八九〇年には、革命後の理想社会を描いた「ユートピア便り」を連載する。そしてこの間、しばしば不況や失業にあえぐ労働者たちのデモの隊列に加わり、積極的に政治活動家としての役割を担う。

一八九六年の一〇月三日、ハマスミスの自宅〈ケルムスコット・ハウス〉にて死去。一八九九年には、バーン=ジョウンズ夫妻の娘婿のジョン・ウィリアム・マッケイルによる公的伝記『ウィリアム・モリスの生涯』(全二巻)が刊行され、その後、一九一〇年から一九一五年にかけて、娘のメイ・モリスの編集による「ウィリアム・モリス著作集」(全二四巻)の刊行が続く。現在、モリス作品は、主としてヴィクトリア・アンド・アルバート博物館とウィリアム・モリス・ギャラリーが所蔵し、一方、旧宅〈ケルムスコット・ハウス〉に本部を置くウィリアム・モリス協会が、ジャーナルの刊行、展覧会や講演会の開催などをとおしてモリス研究とその普及活動に持続的に取り組んでいる。

以上が、現在一般的に語られている、モリスについての簡単なプロフィールである。中学生のころ富本が読んだという『平民新聞』の「理想郷」は、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載された News From Nowhere の、枯川生(堺利彦)による抄訳であった。今日にあっては、News From Nowhere は、「ユートピア便り」と訳すことが通例となっている。

二.『平民新聞』に至るまでのモリス紹介

富本憲吉が東京美術学校に入学するのが、日露戦争開戦直後の一九〇四(明治三七)年の四月である。おりしもこの時期は、日本におけるモリス紹介の初期の小さなピークを迎えていた。それでは、そのときまでにあって具体的にはどのようにモリスは日本へ紹介されていたのであろうか。

牧野和春と品川力(補遺)による「日本におけるウィリアム・モリス文献」のなかには、一九〇四(明治三七)年以前のモリス紹介の文献として、書籍と雑誌をあわせて、一八点が挙げられている。それに依拠しながら代表的な事例を紹介するとすれば、おおむね以下のようになる。

最初の文献は、一八九一(明治二四)年に博文館から刊行された澁江保の『英國文學史全』で、「第二章 最近著述家」のなかの詩人の項目に「ウ井リアム、モーリス 一八三四年生」という、名前と生年のみの記載が認められる。

そしてモリスが死去した一八九六(明治二九)年には、『帝國文學』はモリスへの追悼文を掲載し、次のように報じている。執筆者名は「B S」のイニシャルのみである

老雁霜に叫んで歳將に暮れんとするけふ此頃、思ひきや英國詩壇の一明星また地に落つるの悲報に接せんとは。長く病床にありしウ井リヤム、モリス近頃稍輕快の模樣なりとて知人が愁眉を開きし程もなく、俄然病革りて去る十月三日彼は六十三歳を一期として此世を辭し、同六日遂にクルムスコット墓地に永眠の客となりぬという。彩筆を揮て文壇に闊歩すると四十年、ロセッテ、ス井ンバルンと共に英國詩界の牛耳を取りし彼が一生の諸作を一々品隲せんは我今為し得る所にあらず、まして彼が文壇外或は美術装飾の製造に預かり、或は過去の實物保存の為め、また將來社會民福の為め種々の團躰の中心となりて盡瘁せしところ、其功績決して文界に於けるに譲らざるを述ぶるは到底今能くすべきにあらねば此篇には只近著の英國雜誌を蔘考して彼が著作の目録を示し、併せて彼が傑作「地上樂園」に付して少く述ぶるところあるべし

ここからこの追悼文は、『地上の楽園』を中心としたモリスの詩の解説が讃美の基調でもってはじめられるわけであるが、注目されてよいのは、上で引用した書き出しの文のなかにあって、わずかながらも、モリスが工芸家や社会主義者であったことも連想させるような記述がなされていることである。

さらに一九〇〇(明治三三)年には、『太陽』において上田敏も、ラファエル前派の詩人としてのモリスに言及し、「『前ラファエル社』の驍將にして空しき世の徒なる歌人と自ら稱し、『地上樂園』(一八六八―七〇)の歌に古典北歐の物語を述べたり」と、短く紹介している。

『帝國文學』や『太陽』以外においても、この時期、『早稻田文學』『國民之友』『明星』などの雑誌をとおして断片的に紹介された形跡はあるものの、とりわけ社会主義者としてのまとまったモリス紹介は、一八九九(明治三二)年に出版された『社會主義』においてがおそらくはじめてであった。著者の村井知至は、「第六章 社會主義と美術」のなかで、社会主義者へと向かったウィリアム・モリスの経緯を、ジョン・ラスキンと関連づけながら次のように描写していた。

ジヨン、ラスキンとウ井リアム、モリスとは當代美術家の秦斗にして、殊にモリスは美術家にして詩人なり、……モリスも亦ラスキンの感化を受けたる一人にして、彼と同じき高貴なる精神を持し、己れの位置名譽をも顧みず、常に職工の服を着し、白晝ロンドンの街頭に立ち、勞働者を集めて其社會論を演説せり、……ラスキンは寧ろ復古主義にしてモリスは革命主義なりも現社会に対する批評に至つては二者全く其揆を一にせり、彼等は等しく現今の社会制度即ち競争的工業の行はるゝ社会に於ては到底美術の隆興を見る可はず、……今日の社会制度を改革せざる可らずと主張せり、如此にして彼等は遂に社会主義の制度を以て、其理想となすに至れり、……モリスは社会主義者の同盟の首領として、死に抵る迄運動を怠らざりき

こうした社会主義者としてのモリスは、その後、週刊『平民新聞』の紙面を通じて、さらに紹介されてゆくことになる。

周知のように、週刊『平民新聞』とは、幸徳秋水や堺利彦らによって一九〇三(明治三六)年一一月一五日に創刊号が刊行され、創刊一周年を記念して第五三号に「共産黨宣言」を訳載すると、しばしば発行禁止にあい、一九〇五(明治三八)年一月二九日の第六四号をもって廃刊に追い込まれた、日本における社会主義運動の最初の機関紙的役割を果たした新聞である。発行所である平民社の編集室の「後ろの壁の正面にはエミール・ゾラ、右壁にはカール・マルクス、本棚の上にはウィリアム・モ ママ リスの肖像が飾られていた」。この『平民新聞』においてはじめてモリスが紹介されるのは、「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という表題がつけられた、一九〇三(明治三六)年一二月六日付の第四号の記事【図一】においてであった。この記事は、一八九九(明治三二)年にすでに刊行されていた、村井知至の『社會主義』のなかのモリスに関する部分を転載したものであった。おそらくその間、この本は発行禁止になっていたものと思われる。それに続いて、一九〇四(明治三七)年一月三日付の第八号から四月一七日付の第二三号までの連載をとおして、一八九〇年に社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』に連載されたモリスの「ユートピア便り」が、はじめて日本に紹介されることになる。それは、「理想郷」と題され、枯川生(堺利彦)による抄訳であった。そして連載後、ただちにその抄訳は単行本としてまとめられ、「平民文庫菊版五銭本」の一冊に加えられるのである【図二】。

こうして見てゆくと、美術学校入学以前にあって文献をとおして富本が知りえた可能性のあるモリスは、おおよそ、上述のような雑誌類によって紹介されていた主として詩人としてのモリス、さらには単行本や『平民新聞』のなかにあって記載されていた社会主義者としてのモリスということになる。しかしそれは、いまだ断片的なモリスについての情報に止まっていただけではなく、とくに工芸家としてのモリスについてはほとんど紹介がなされておらず、全体的なモリス像の紹介という点からは程遠いものであった。しかも、モリスのような社会主義思想家の紹介は、この時期からさらなる官憲の圧迫の対象となり、その後のいわゆる「大正デモクラシー」の高まりを迎えるまで、衰退の途を余儀なくされるのである。

そうした日本におけるモリス紹介と社会主義を取り巻く状況のなかにあって、富本は東京美術学校へ進学していった。

(1)牧野和春、品川力(補遺)「日本におけるウィリアム・モリス文献」『みすず』第18巻第11号、みすず書房、1976年、33および39頁。

(2)澁江保『英國文學史全』博文舘、1891年、218頁。

(3)のちに新村出は、この追悼文の執筆者である「B S」が島文次郎であったことを、以下のように回想している。
 「自分がモリスの名聲と業績の一面とを初めて知つたのは、其の死が傳へられた明治二十九年すなはち西暦一八九六年の秋のことでありました。丁度私が東京帝國大學の文科に進んだ歳のことでありました。『帝國文学』といふ赤門の雜誌の上に今の島文次郎博士が新文學士で S.B. ママ の名を以てモリスの死を紹介されたのでありました」(新村出「モリスを憶ふ」『モリス記念論集』川瀬日進堂書店、1934年、11頁)。

(4)『帝國文學』第2巻第12号、帝國文學會、1896年、88-89頁。

(5)上田敏「『前ラファエル社』及び近年の詩人」『太陽』第6巻第8号、臨時増刊「一九世紀」、博文舘、1900年、180頁。

(6)村井知至『社會主義』(第3版)労働新聞社、1903年、43-44頁。
 なお、本稿において使用したのは、1903年刊行の第3版であるが、『社會主義』は、この第3版をもって発行禁止になったようである。1899年に刊行された初版は、以下の書物において復刻、所収されている。
 『社会主義 基督教と社会主義』(近代日本キリスト教名著選集 第Ⅳ期 キリスト教と社会・国家篇)日本図書センター、2004年。

(7)日本近代史研究会編『画報 日本の近代の歴史 6』三省堂、1979年、136-137頁。

(8)この記事は、二重かぎ括弧で括られており、記事のあとに、次のような注釈が加えられている。
 「以上は吾人の同志村井知至君が其著『社會主義』中に記せし所を摘載せしもの也、以てウヰリアム、モリス氏が如何なる人物なりしかを知るに足らん」(『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、33頁)。

(9)ヰリアム、モリス原著『理想郷』堺枯川抄譯、平民社、1904年。
 そのなかの広告文で、『理想郷』については、べラミーの『百年後の新社會』と比較して、次のように書かれている。
「此書は英國井リアム、モリス氏の名著『ニュース、フロム、ノーホエア』を抄譯したるものであります。[同じく平民文庫菊版五銭本の]べラミーの『新社會』は經濟的で、組織的で、社會主義的でありますが、モリスの『理想郷』は詩的で、美的で、無政府主義的であります。此二書を併せ讀まば人生將来の生活が髴髣として我等の眼前に浮かぶであらう。卅七年一二月初版二千部發行」