中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第八章 「ウイリアム・モリスの話」の執筆

一.帰国後の政治、文学、美術を取り巻く状況

富本は、イギリスから帰国すると、すぐにでも、帰朝報告として、かの地で調べてきたウィリアム・モリスの芸術と社会主義についてまとめ、世に問おうとしたにちがいなかった。しかし、日本の社会状況がそれを許さなかったものと推量される。以下は、晩年に語った富本の認識である。

[イギリスから]帰ってきてモリスのことを書きたかっ ママ んですけれども、当時はソシアリストとしてのモリスのことを書いたら、いっぺんにちょっと来いといわれるものだから、それは一切抜きにして美術に関することだけを書きましたけれども

富本がここで述べている「ちょっと来い」というのは、官憲による連行や検束、さらには検挙や投獄を意味しているものと思われる。

そこでまず、評伝「ウイリアム・モリスの話」の執筆内容の吟味に入るに先立って、ごく短く、富本が東京美術学校に入学する一九〇四(明治三七)年から、この評伝が公表される一九一二(明治四五)年までの政治を中心に、文学や美術にかかわる日本の状況の一端について述べておきたいと思う。

周知のように、『平民新聞』などにみられた反戦や非戦の論調に耳を傾けることなく、対露軍事行動の開始が御前会議で決定されると、一九〇四(明治三七)年二月一一日の紀元節の日に国民へ公表することを意図して、前日の一〇日に宣戦が布告された。こうして日本は日露戦争への道を邁進することになる。

偶然ではあるが、同じこの年の四月に、富本は東京美術学校へ入学する。入学以前にすでに富本は、週刊『平民新聞』をとおしてモリスの社会主義の一端に触れている。入学後には、日露戦争反対の意志表示とも受け止められる「亡国の会」と書き記された自製絵はがきを郡山中学校時代の恩師に送っている。そして、「徴兵の関係があった」ために、卒業を待たずして、急きょ私費で英国へ留学する。目的は、「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかった」ことであった。

韓国の保全が日露戦争のひとつの名目となっていた。その戦いに勝利するや、日本は韓国に対する政治的経済的支配を着実に進めてゆく。これに対する韓国国民の怒りを象徴する出来事が、安重根による一九〇九(明治四二)年一〇月の伊藤博文の暗殺であった。安重根は翌年三月、旅順において死刑が執行され、一方、日本国内にあっては、日韓併合に至る侵略行為が阻まれることを恐れ、社会主義者や無政府主義者の根絶が企てられることになった。おおよそこうした経緯をたどって大逆事件は発生する。

大逆事件の発端は、一九一〇(明治四三)年五月二五日の宮下太吉の逮捕であった。そしてその翌月の六月一五日に、イギリスから富本が帰国するのである。九月一六日から『東京朝日新聞』が「危険なる洋書」を連載。一二月一〇日、大審院において二六名の逮捕者について裁判開始。年が明けて一九一一(明治四四)年一月一八日、全員に有罪の判決言い渡し。何と六日後の一月二四日に、一一名の男性死刑執行。翌二五日、一名の女性死刑執行。こうして、架空の「天皇暗殺計画」の容疑により逮捕された社会主義者や無政府主義者の二六人のうち、『平民新聞』を創刊した幸徳伝次郎(秋水)と管野スガを含む一二人に対して、大逆罪での死刑が執行された。その一週間後の二月一日付の南に宛てた書簡のなかで、富本は次のように述べる。

明治の今は僕等を苦しめる様に出来 ママ て居る時代とも考へられる

富本にとってこの時代は、イギリスで調べてきたモリスのことを書くに書けない、受難の時代であった。それでも富本は、それから一年ほどの時間を置き、その年(一九一一年)の暮れか、年が明けた一九一二(明治四五)年の正月ころまでには、「ウイリアム・モリスの話」を脱稿した。おそらくそのとき、祈るような気持ちで、『美術新報』の画報社へその原稿を送ったのではないだろうか。一九一二(明治四五)年の一月一二日付の南に宛てた手紙の冒頭で、括弧を使って強調するかのように、「モリスの話は二月号に出るそうだ」と、書いているのである。この評伝は、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に分載された。しかし、モリスの社会主義について触れられることはなかった。それにかかわって富本は、こう記す。

[ロンドンから帰ってその]後の話ですが岩村 とおる 氏の美術新報に大和から原稿を送ったことがありました。それに美術家としてのモリスの評伝を訳して出しましたが、社会主義者の方面は書きませんでした。あの当時もしも書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません

このとき富本は「獄死」を意識している。大逆事件が念頭にあったのであろう。裏を返せば、それほどまでに、富本の社会主義理解は深く進んでいたことになる。

一方、文学、とりわけ西洋文学の紹介という点で見受けられた当時の特筆すべきことは何であったのであろうか。富本が帰国して三箇月が立った一九一〇(明治四三)年の九月一六日から翌月の四日にかけて、『東京朝日新聞』は、「危険なる洋書」の連載を展開した。ねらいは、自然主義や社会主義が伝統的な道徳や習慣に反する破壊思想であるとの立場から、「危険なる洋書」を取り上げ批判と攻撃を加えることであった。この連載で断罪されたのは、たとえば、モーパッサン、イプセン、ニーチェ、オスカー・ワイルド、ゾラ、クロポトキンなどで、それを紹介したり模倣したりしていた日本の文学者が標的とされた。おそらく、富本もこの連載を読んだであろう。

上で示した引用文のなかにあるように、富本は、「美術家としてのモリスの評伝を訳して出しました」と述べている。「ウイリアム・モリスの話」の底本が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことは、すでに例証しているとおりである。もし富本が、「危険なる洋書」の連載に目を通していたとするならば、社会主義に関して書かれている、このヴァランスの『ウィリアム・モリス』もまた、体制にとって「危険な洋書」ではないかという思いに駆られる一方で、そのとき富本は、無言のうちに社会から圧迫されるような身の「危険」を個人的に感じたかもしれなかった。事実富本は、この評伝「ウイリアム・モリスの話」において、それがヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本に成り立っていることについては、何ひとつ触れていないのである。

そうした文学の危機的状況を見過ごすことができなかったひとりの作家がいた。森鴎外は、反発と皮肉を込めて、『三田文学』(一一月号)に短編の寓意小説「沈黙の塔」を発表し、そのなかで、「外國語を敎へられてゐるので、段々西洋の書物を讀むやうになつた」パアシイ族のなかの少壮者たちが、そのような自然主義と社会主義との「危険なる洋書」を読んだがゆえに殺され、「沈黙の塔」に運ばれる姿を描くのである。以下は、その結びの一節である。

 藝術も學問も、パアシイ族の因襲の目からは、危険に見える筈である。なぜといふに、どこの國、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がゐて隙を窺つてゐる。そして或る機會に起つて迫害を加へる。只口實丈が國により時代によつて變る。危険なる洋書も其口實に過ぎないのであつた。

 アラバア・ヒルの沈黙の塔の上で、鵜のうたげが酣である

富本はこの「沈黙の塔」を読んでいたであろうか。それはわからない。しかし読んでいれば、「ウイリアム・モリスの話」の執筆へ向けて、大きく後押しするものであったにちがいなかった。

それでは、政治と文学に続けて、当時の美術界の様相、とりわけ、それに対して富本がとった対応について見てみることにする。

富本の帰国後の東京滞在期間中に起こった大逆事件は、富本の政治的信条に少なからぬ衝撃を与えたものと思われる。すでに紹介しているように、富本は、母校である東京美術学校の建物が焼けた際には、「外に図案科あたりには焼く可き教授も澤山あるのに敬愛すべき建築物が先き ママ 焼けて厭やな奴は世にハビコル。アゝ――」といった心情を隠すことなく吐露しているし、その後も繰り返し、美術学校の教授たちに対して強い反感を向けている。そしてまた、吾楽殿での新進作家小品展覧会が終わるや、東京滞在をきっぱりと切り上げ、「肩をすぼめて」大和へ帰郷もしている。ひょっとしたら、それは公然と誰とでも論議できるような性格のものではなかったにしても、この大逆事件を巡る富本の思いと何か関係があったのかもしれない。つまり、リーチのいう「高圧的な官僚主義的芸術」をさらに超えて「狡猾な国家主義的芸術」ないしは「偏狭な愛国主義的芸術」への強烈な嫌悪が、また一方で、この事件を無視するかのような東京の華美なる喧騒への苛立ちと不満とが、すでにこのときまでに、表からは見ることのできない富本の深い精神的谷底にあって着実に形成されていたのではないだろうか。

大和へ帰って半年が立った一九一一(明治四四)年一一月一一日に南に宛てた手紙のなかで、富本は、こう書いている。

讀賣新聞へ高村君が書いて居る文章は実に嬉しい。特に小杉ミセイ[未醒]のウソのデコラテイフな繪に對する感想が気に入った。アノ文章は美術を志す学生や美術家らしい顔をしてホントに美術の解って居ない岩村男[爵]の様な人を教育する教科書にしたい様な気がする10

この一文は、当時美術学校の西洋美術史の教授として、また『美術新報』の顧問的存在として、この時期美術批評の世界に君臨していた岩村透の旧い講壇的な知識が、西洋を経験し帰朝していた若い美術家たちに受け入れられず、もはや限界にまで達していたことを物語っているのであろう。こうした実情が、東京で富本が味わった失意の原因と何がしか関係していたのかもしれなかった11。のちに兒島喜久雄は、美術批評界を取り巻いていたその当時の様子を以下のように回顧している。ちなみに、リーチが来日してすぐにもエッチングを教えようとしたときに訪ねてきてくれたひとりが、この兒島喜久雄であった12

其間に靑年學生の外國語の力は非常に進んで歐文の美術書を耽讀する者も多く、西洋美術の歴史は元より各種の雜誌を通じて其現状をも知るやうになつたので、漸く美術學校の實情を侮り岩村透の文章などは顧みなくなつた。美術關係の圖書、雜誌、複製等も之に伴つて澤山輸入されるやうになつて來た。夫が丁度日露戦争後から歐洲大戦後迄の状勢であつた13

そうした状況のなかにあって、富本は、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を読みはじめていた。一九一一(明治四四)年一一月三〇日の日付をもつ南に宛てた書簡のなかで、「夜大抵おそく迠モリ ママ スの傳記を讀むで居る」14と、述べているからである。富本が、この本をいつ、どこで、いかなる経緯で手に入れたのかについては、現時点までの資料には残されていないものの、すでに第四章「モリス研究の深化と政治的信条の形成」において詳述しているように、美術学校在籍中にこの本を入手し、その影響もあって、英国留学への展望が開かれた可能性は、いまも十分に残されている。もしそうであれば、「夜大抵おそく迠モリースの傳記を 讀むで ・・・ 居る」という文言は、正確には、「夜大抵おそく迠モリースの傳記を 讀み返して ・・・・・ 居る」という意味になる。

そして、南へのその手紙のなかで、富本は、「バアン、ジョンスとの関係、当時連中がたがひに一生懸命だった事が今の自分に大変面白い」15と、続ける。

エドワード・バーン=ジョウンズとウィリアム・モリスは、オクスフォード大学エクセタ・カレッジで知り合い、卒業後、バーン=ジョウンズはただちに画家としての道を歩み出した。一方モリスの職業選択には紆余曲折があった。ゴシック・リヴァイヴァリストの流れを汲むG・E・ストリートの建築事務所でまず建築の修行を行なうも、約一〇月間でその単調な仕事に飽き、続いて、ラファエル前派の中心的画家であったダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの勧めで絵の分野に興味を示すも、そこにも自分の天分を見出すことはなかった。最終的にはこうである。G・E・ストリートの建築事務所で面識を得ていたフィリップ・ウェブの設計によって、ジェイン・バーデンとの結婚に際しての新居〈レッド・ハウス〉が完成し、その内装をバーン=ジョウンズやロセッティといった芸術家仲間の支援を受けて手掛けたことがきっかけとなって、その共同製作の経験をもとに、室内に必要とされるステインド・グラスや家具、壁紙やタペストリーなどのデザインおよび製作と販売を行なう「モリス・マーシャル・フォークナー商会」という名の会社をロンドンに興し、ここからモリスの本格的な共同実践は開始され、彼本来の才能が開花してゆくのである。富本は、この経緯をこの本から知り、南をバーン=ジョウンズに、そしてモリスを自分になぞらえ、「当時連中がたがひに一生懸命だった事が今の自分に大変面白い」と、いっているのかもしれない。

富本は、この本を読み進めてゆくにつれて、東京の連中の悪趣味ともいえる仕事が思い出されたのであろう。南へのこの手紙のなかで、さらに続けてこうも付け加えているのである。「[美術学校図案科の教授の]古宇田[実]とか誰れ彼れとか実にヒドイ連中だから。モリースの傳記を讀むでマスマス大学を出 ママ 建築をやって居る人々の悪い趣味が腹立たしい様な気がする」16

こうして富本は、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を底本に使い、ロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館でのモリス作品についての見聞を織り込みながら、「ウイリアム・モリスの話」という評伝にまとめ、一九一二(明治四五)年の『美術新報』第一一巻第四号(二月号)および第五号(三月号)に寄稿することになる。

二.執筆に隠されたモリスの社会主義

しかし、すべて述べているように、この評伝において富本は、工芸家としてのモリスにもっぱら焦点をあて、モリスの社会主義に関しては意図的に記述を放棄した。それでは、「ウイリアム・モリスの話」に記述されなかったモリスの社会主義とは、どのようなものであったのだろうか。逆にいえば、これが、富本が理解した社会主義者ウィリアム・モリスの内実となる。そのためには、富本が「ウイリアム・モリスの話」を書くために底本に使った『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の「第一二章 社会主義」に、いま一度、立ち戻らなければならない。

すでに論述しているので、繰り返しになるが、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の「第一二章 社会主義」が、どのような立場から記述され、どのような内容をもつものであったのかを、確認しておきたい。この章は、晩年のモリスが政治運動の場とした社会民主連盟とそれに続く社会主義同盟での彼の活動について、その概略が記述されている。モリスの死後、モリスの生涯の友人であったバーン=ジョウンズ夫妻は、古典学者であった娘婿のJ・W・マッケイルに公式伝記の執筆を依頼した。一方、ヴァランスは、モリスの生前より伝記を書くことを熱望し、準備を進めていた。そこで、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかを心配した、つまりモリスの私的側面が興味本位に描かれることを恐れたバーン=ジョウンズ夫妻は、副題にあるようなそれぞれの活動領域に限ってのひとつの記録としてまとめるようにヴァランスに求め、記述内容に制限を加えたものと思われる。そのような上梓するにあたっての事情が介在していたために、この「第一二章 社会主義」も、モリスの社会主義的言説、とくに社会民主連盟の機関誌『ジャスティス』と社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』のなかにおけるモリスの言説を断片的に引用でつなぎ合わせるかたちで、逆にいえば、モリスの社会主義に関しての分析も論評もほとんど行なわれることなく、極めて機械的に、したがってある意味では極めて客観的に構成されているのである。

「第一二章 社会主義」は、次のような文言ではじまる。

モリスが死去したとき、公的な報道に見受けられた評伝は、多種多様であった。しかしながら、それらを要約するならば、幾つかの注目に値する例外を除けば、執筆した数名の人たちは、思うところの立場の違いに従って、おそらくはふたつの主たる層に分けられたであろう。すなわち、ウィリアム・モリスの社会主義に憎悪を感じる人たちは、そうであるがゆえに、彼が何か特別の名声を享受することに心を許すようなことはなく、概して、その人間とその芸術を大いに好んで蔑んだ。他方、支配的な偏見に従属する人たちは、内面上許容できる範囲にあって、そうした口にあわない事実と向き合った。その場合、そのことは、単なるエピソードとして言及されるか、あるいは、せいぜいのところ、次のように語られた。慈悲の心があまりにも勝るために、不幸にして彼が負けてしまった自らの弱さを示すものであり、それを別にすれば、彼は極めて優秀で、才能豊かな人間であった。しかし、当然ながら、双方の層に属するどちらの判断も間違っている。……モリスの考えによれば、自分の芸術と自分の社会主義は、一方が一方にとって不可欠なものとして結び付くものであった。いやむしろ、単にひとつの事柄のふたつの側面にしかすぎなかった17

そしてヴァランスは、モリスの社会主義を紹介するにあたって、『ジャスティス』のなかのモリス自身の言葉を引用した。

『ジャスティス』の編集者の求めに答えて、一八九四年に彼[モリス]はこう書いている。「はじめに私は、社会主義者であるということに関して私がいわんとするところをお話します。というのも、社会主義者という言葉は、一〇年前に指し示していた内容に比べ、もはやそれ以上に厳密かつ正確に言い表わせないということに気づいているからです。さて、社会主義という言葉でもって私がいおうとしているのは、あるひとつの社会状況についてです。その社会にあっては、要するに、富める人と貧しい人が存在すべきではありませんし、また主人とその下僕も、怠け者と過度の働き者も、さらには、脳が病んでいる頭脳労働者と心が病んでいる手工従事者も、存在すべきではありません。その社会では、すべての人間が、平等なる状況のもとに生きていると思われますし、物事は浪費されるようなことなく取り扱われていると思います。ひとりの人にとっての苦痛はすべての人にとっての苦痛を意味するであろうことを十分に意識しながら。つまりは、〈 公共の幸福 コモンウェルス 〉という言葉の意味の最終的な達成なのです」18

この一文に触れたとき、富本は何を思ったであろうか。資料には残されていないが、推量するにそのとき、富本は、かつて『平民新聞』に掲載されていた「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」という記事や、モリスのユートピア・ロマンスである「理想郷」の抄訳を思い出し、それらも含めてすべての関連する知識を想像的に融合させることによって、詩人、工芸家、社会主義者が必然のうちにひとりの人間において複合的に完結している姿が像(イメージ)をなし、強い衝撃と興奮のなかにあって、その像をもって、生涯にわたる自己の内的真実として引き受けようとしたのではないだろうか。

モリスは、「芸術の原理」を「社会の原理」に重ね合わせることを要求した。芸術的製作と社会的生産が分離し別個に存在する状況を否定し、それが一体となりえる新世界を理想に描き、その現実化のための運動へと実践的に自己を向かわせた。「芸術の原理」が単に「芸術の原理」に止まらないところに、モリス思想の特質はあった。こうした社会主義は、ロマンティックなものというよりも、むしろ極めてラディカルなものであったといえるであろう。モリスは、中世社会の製作的=生産的行為にみられるような、つくる喜びとしての労働の所産を真の芸術とみなし、そうした芸術を万人が等しく手に入れることができる社会を説き、そのために、その理想の実現を阻んでいる現行の資本主義体制を変革し、それに取って代わる新しい社会組織を生み出す戦いに挑んだ。そのような意味でモリスは、当時の体制のなかにあって、労働の充足感からかけ離れた分業と機械による生産品も、また裕福な少数者のみが享受可能な美術品も、真の芸術と呼ぶことはなかった。

しかし、こうしたモリスの芸術と社会主義を巡る考えは、この『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の「第一二章 社会主義」に直接書かれているわけではなく、またこの章は、上述のとおり、モリスの言説が部分的に引用されながら、社会民主連盟から社会主義同盟へと至るモリスの政治活動の過程が主として描写されていたこともあって、その行間に漂うものをうまく察知したとしても、その全体像をこの時点で富本がどの程度まで把握していたかについては、それを直接例証するにふさわしい資料はなく、明らかにすることはできない。しかし富本は、すでに第五章「いざ、ロンドンへ」のなかで言及しているように、ロンドン滞在中にモリスの「組合運動」を調べている。これが、社会主義運動のことを暗に示していることは疑いを入れないであろう。そうであれば、ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の「第一二章 社会主義」を補うに十分な知識を、別の資料に基づきすでに得ていた可能性も残る。

もっともその一方で、たとえば上に引用したようなモリスの社会主義に関する幾つかの見解さえも、そのまま訳して紹介するには、そのときの日本の政治状況に照らして危険すぎると富本は判断し、執筆を躊躇したことも事実である。そう考えると、モリスの社会主義に関する富本の理解の深度は必ずしも明瞭ではないものの、それを公表することには、このとき極めて慎重な態度を富本は示したということになる。慎重だったのはこのときだけではない。富本がモリスのことを社会主義者や社会思想家といった肩書きで公に呼ぶようになるのは、アジア・太平洋戦争終結以降のことであった。

しかし、モリスの社会主義に言及することを避け、美術家としてのモリスに限定したとはいえ、それでも、モリスについて富本は 実際に ・・・ 書いた。『平民新聞』においてすでに紹介されていた過去の経緯からして、モリスが社会主義者であることを官憲が知りえる立場にあったことは、富本も理解していたであろうし、また、堺利彦がそのとき投獄されたことについても『平民新聞』の記事をとおしておそらく知っていたであろう。というのも、モリスの「理想郷」の訳載が終わると、次の号(四月二四日付の二四号)に堺は、「花見には少し後れたれど、小生は本日[四月二一日]より二箇月の間、面白き『理想郷』に入りて休養致します。……いざさらば!諸君願はくば健在なれ、小生も必ず無事で歸つて來ます」19と、書き記していたからである。したがって、モリスを書くことには、それなりの大きな危険性が伴っていたにちがいなかった。そうした危険性を押してまで、なぜこの段階で富本は、日本にあってはいまだ全く無名に等しい美術家モリスを取り上げ、あえて紹介しなければならなかったのであろうか。考えられうる理由は、おおかた次の二点に絞られるにちがいない。

まずひとつは、英国留学を終えて帰国した富本にとって、一般によく認知されている画家や彫刻家としてではなく、工芸家として出発するにあたって、敬愛するモリスを事例に引きながら自らの拠って立つ立場をどうしても明確にし、それを周りの人びとに理解してもらいたいという思いがあったのではないだろうか。この評伝「ウイリアム・モリスの話」の最後の結論部分に、そのことがよく現われている。

「作家の個性の面白味」とか「永久な美くしいもの」は只繒や彫刻にばかりの物でなく織物にも金屬性の用具にも凡ての工藝品と云ふものにも認めねばならぬ事であります、モリスは此の事を誰れも知らぬ時にさとつた先達で又之れを實行して私共に明らかな行く可き道を示して呉れる樣な氣が致します20

このようにして、絵画や彫刻の下位に工芸が位置づけられることを否定し、同等なる別個の世界として工芸をみなし、その独自の美と個性を追求した人間としてモリスを紹介することにより、富本は自らの工芸への姿勢を明確化しようとしているのであろう。

一方、「ウイリアム・モリスの話」がこの時期に書かれなければならなかったもうひとつの理由についてであるが、この執筆には、東京で受けた不快感のなかにあって、無知とも無神経とも思える東京の美術批評の世界に一矢を浴びせたいという富本の隠れた意図が含まれていたのではあるまいか。たとえば、岩村透に関していえば、どうだろう。高村豊周は、こう回想している。「第一その時分、大正四年頃に、こういっては悪いが、[美術学校の]工芸科の先生でウィリアム・モーリスの名前を知っている先生はいなかったのではないかと思う」21。そうしたなかにあって、富本の「ウイリアム・モリスの話」を読んだ岩村は、自分の教え子が自分の知らない世界を知っていることに、おそらくあせりを感じたものと思われる。自費で渡英を企て、帰国後、コムトン=リキットの『ウィリアム・モリス――詩人、工芸家、社会改革者』を底本とする「ウイリアム、モリスと趣味的社會主義」が巻頭に所収された岩村の『美術と社會』(趣味叢書第十二篇)が、趣味叢書発行所から上梓されるのは、富本の「ウイリアム・モリスの話」から遅れて三年後の一九一五(大正四)年のことであった。そして、モリスの社会主義に触れたことが直接の原因であったかどうかは別にしても、また、それが適切なモリスの社会主義紹介になっていたかは置くとしても、最終的に岩村は、翌年の一九一六(大正五)年三月に、東京美術学校教授を解任されるのである。そのような事実関係に目を向ければ、富本の「ウイリアム・モリスの話」の執筆から、岩村の美術学校解職までの時空には、何かひとつのつながりが存在していた可能性も、決して排除することはできないであろう。結果から判断すれば、美術学校時代の教師であった岩村と、学生であった富本との師弟の関係は、富本の健筆のもとに見事にも立場が入れ替わり、一九一五(大正四)年に富本は、安堵村において築窯し、陶工としての新たな旅に就く一方で、岩村は、その一年後、失意のうちに失職するのである。

以上に述べたようなふたつの理由があったからこそ、ある程度の危険を覚悟せざるを得なかったにもかかわらず、どうしてもこの時期に、モリスについて富本は書き記さなければならなかったものと推量される。しかし、幸いなことに、「理想郷」を訳出した堺利彦と違って、富本は、獄窓の人となることもなかったし、加えて、「危険なる洋書」に類する本を読んだがゆえに殺され、森鴎外が描く「沈黙の塔」に運ばれ、鵜の餌食になることもなかった。

すでに引用に示した、「あの当時もしも[社会主義者としてのモリスを]書けば私はとっくに獄死して、焼物を世に送ることはできなかったかもしれません」という富本の晩年の言葉は、見てきたように、決して記憶違いでも、誇張でもなかった。もちろん、書かなかったからといって、モリスの社会主義を理解せず、共感を覚えなかったわけではない。事態は全くその逆で、ロマンティシズムの詩情が、富本固有の生涯の背景に漂う主旋律になる一方で、もうひとつの主旋律となるものが、実はこの社会主義だったのである。以降の章において適宜述べるように、疑いもなくこれが、モダニストたる富本憲吉の精神を醸成する核となる主要部分であった。

(1)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、6頁。

(2)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、14頁。

(3)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、43頁。

(4)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。

(5)1910(明治43)年の9月16日から翌月の4日にかけて、『東京朝日新聞』は、14回にわたって「危険なる洋書」の連載を展開した。表題と掲載日とは、以下のとおりである。
 (一)「モーパツサン」(9月16日、五頁)、(二)「イプセン」(9月17日、五頁)、(三)「 露西亜 ロシア 小説」(9月18日、六頁)、(四)「頽廢詩人」(9月19日、六頁)、(五)「フローベルのマダム、ボバリー」(9月20日、六頁)、(六)「エデキント」(9月21日、六頁)、(七)「ニイチエ」(9月22日、六頁)、(八)「オスカワイルド」(9月23日、六頁)、(九)「メレヂコスキー」(9月24日、六頁)、(十)「ダヌンチオの『死の勝利』」(9月27日、六頁)、(十一)「アンドレーフ」(9月28日、六頁)、(十二)「ゾラのナゝ」(9月29日、六頁)、(十三)「非愛國的傾向」(10月1日、五頁)、そして「クロポトキン」(10月4日、六頁、回数の記載なし)をもって中断。この最後の回となる文の末尾には、丸括弧書きで、「……脅迫的の中止請求書が頻々として來る、筆者も恐いから之で罷めておく」と記されている。「中止請求書」を書いたひとりに、その後、『三田文学』に「沈黙の塔」を寄稿する森鴎外が含まれていたのかもしれない。

(6)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, George Bell and Sons, London, 1897.
 なお、富本憲吉が、1912(明治45)年の『美術新報』第11巻第4号および第5号に2回に分けて発表した「ウイリアム・モリスの話」の底本が、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』であったことについては、以下の拙論のなかで詳しく論じている。中山修一「富本憲吉の『ウイリアム・モリスの話』を再読する」『表現文化研究』第5巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2005年、31-55頁。

(7)森鴎外「沈黙の塔」『三田文学』第1巻第7号、1910年、49頁。
 『東京朝日新聞』に連載された「危険なる洋書」と森鴎外の「沈黙の塔」との関連については、西垣勤『近代文学の風景』(績文堂、2004年)のなかの「漱石、その時代と社会」に詳述されており、参考にさせていただいた。

(8)同『三田文学』、56頁。

(9)富本憲吉が「沈黙の塔」を読んでいたことを例証する資料は、現時点で存在しない。しかし富本は、東京美術学校に在籍していたとき、鴎外の姿だけは目にしている。自分が京都市立美術大学の学生だったころに、教授の富本本人から聞かされた回顧談の一部として、陶芸家の柳原睦夫がこう紹介しているからである。「先生の回顧談は話題豊富で、『馬で美術学校に来よったわ……』というのは森林太郎閣下(鴎外)のこと。個展を見にきた島崎藤村と田山花袋の話など、私たちに明治は遠いものではありませんでした」(柳原睦夫「わが作品を墓と思われたし」『週刊 人間国宝』1号、朝日新聞東京本社、2006年、18頁)。
 ところで、岩村透が、「西洋美術史」の授業を美術学校から嘱託されているのは、一八九九(明治三二)年のことであり、嘱託教員として「美学および美術史」を講じていた森林太郎(鴎外)の第一二師団(小倉)への転任に伴うものであった。富本の美術学校への入学は一九〇四(明治三七)年であるので、解任後もときどき鴎外は美術学校に顔を見せていたことになる。
 本文で例証しているように、帰国後の富本は、岩村の言動に批判を募らせてゆく。一方、この鴎外の「沈黙の塔」は、読んでいたとすれば、富本の帰国後の心情を慰め、勇気づけるものであったにちがいない。もし仮に美術学校時代に、岩村からではなく、鴎外から美術史が教授されていたならば、個性や独創性を巡るその後の富本の精神的葛藤は、おそらく幾分かは軽減されていたのではあるまいか。

(10)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、39頁。

(11)当時の富本憲吉と岩村透の関係については、以下の拙論のなかで詳しく論じている。中山修一「岩村透の『ウイリアム、モリスと趣味的社會主義』を再読する」『デザイン史学』第4号、デザイン史学研究会、2006年、63-97頁。

(12)来日したてのバーナード・リーチが自宅を開放して行なったエッチング教室について、のちに兒島喜久雄が次の小論のなかで追憶している。兒島喜久雄「入門の思出」、式場隆三郎編『バーナード・リーチ』建設社、1934年、387-392頁。

(13)兒島喜久雄『希臘の鋏』道統社、1942年、146頁。

(14)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、41頁。

(15)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(16)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(17)Aymer Vallance, op. cit., p. 305.

(18)Ibid., p. 310.

(19)『週刊平民新聞』近代史研究所叢刊1、湖北社、1982年、196頁。

(20)富本憲吉「ウイリアム・モリスの話(下)」『美術新報』第11巻第5号、1912年3月、27頁。

(21)高村豊周『自画像』中央公論美術出版、1968年、151頁。