富本憲吉は、南薫造に宛てた一九一二(大正元)年一一月一日付の書簡のなかで、はじめて自らを「陶器師」と名乗っている。もっとも、ここで富本が使用している「陶器師」という表現は、専門の職業人としての「陶器師」というよりも、この間に実践してきた木版画、革細工、木彫、木工、更紗、刺繍、エッチング、本の装丁にかてて加えて、当時、楽焼きという新しい分野に向かおうとしている自分の新鮮なる内面を少しばかり裏打ちしたものとして受け止めることができよう。それでも、その後の富本の職業選択の過程を考えた場合、この自己規定の表現が極めて重要な意味をもつことはいうまでもない。以下はその手紙の末尾の一節である。
雨が降って陶土が乾かなくて困る。
十一月一日夜 陶器師 久左
薫造様1
この手紙の宛て先は「東京市外千駄ヶ谷町三五二」となっており、第六回文展にあわせて、ちょうどこのとき南はこの地に滞在していたものと思われる。富本がこの手紙を書いたのは、バーナード・リーチの陶器製作にかかわる求めに応じて東京に上るも、それとは別に、またしてもその地の美術家や批評家に傷つけられ、不快な心情を引きずるようにして大和へ帰郷した、その直後のことであった。
今度程厭やな東京は今迠になかった。又今度程政 事 ( ママ ) 家の様なポリシーをつかふ美術家或は批評家が居る事をテキセツに感じた事はなかった。それで直に歸へって見た2。
そしてまた富本は、どうやらこのときの上京中に、リーチのみならず、英国留学のおり以来「入道」という呼び習わしでもって慕っていた白滝幾之助にも会って、二度目の「英国留学」というよりは、「英国逃亡」と呼ぶにふさわしい、自らの今後の進路について相談をしたらしい。
かなりのコウフンもあったしリーチ夫婦白瀧夫妻の親切な忠告によって英国へ行く事をよした以上、画室の取りひろげを決行し様と考へて兎に角少しイライラ(いつもの事ながら)する気持で歸へって来た3。
もっとも、富本の「英国逃亡」の願望は、これが最初で最後というわけではなく、生涯を通して見受けられることになるのではあるが――。一方、帰郷した大和での生活はどうかというと、一向に進展しない自分の縁談の推移に、みじめささえ覚える。以下もまた、同書簡に述べられている一文である。
中央評論に出してある志賀直哉君の大津順吉と云う小説を讀むだなら今僕はその小説にかいてある気分と少しも異はない気持で暮らして居る。今日あたりは非常に歯がいたい。志賀君の順吉と云う主人公は七十二になる祖母と自分の妻とする女の事でケンクワをやって居る。僕は七十四になる祖母と弟や妹の嫁入話でケンクワをして居る。自分の事でないだけツマラないツマラない。
家庭の連中と自分の恋の事でケンクワをして居る志賀君の主人公を見ると、それすら出来 き ( ママ ) ないあはれな自分がいやになる4。
英国から帰国したのちの大和での生活を、後年富本は「精神的な放浪生活」5と形容しているが、上記書簡の内容からも明らかなように、東京の美術家たちの術策を弄する言動に失望し、他方、安堵村での自らの結婚話には全く展望が見出せず、東京と安堵村の双方の場が塞がり、居場所を失った「精神的な放浪生活」の状況のなかにあって、リーチの積極的な行動に引き込まれるかたちをとりながら、ある意味で付随的に富本の「陶器師」は誕生してゆくのである。
それでは、「陶器師」へと至る道程をここに記述するにあたって、その発端となる、東京美術学校の古宇田実の設計によって京橋区八官町に新築された吾楽殿へ、森田亀之輔を案内役にリーチと富本が訪れたその日の出来事へと話をもどさなければならない。それは一九一一(明治四四)年二月一八日のことであった。すでに第七章「帰国してから」において引用しているように、リーチはこの日のことを、こう日記に記していた。
若い美術家たちの展覧会の会場になることを想定してつくられた、東京の中心にある 画報社 ( ママ ) [吾楽殿]へ森田[亀之輔]と一緒に行った。そこは小規模ながらも、まさに最初の自主運営による画廊で、トミー[富本]と私の作品も参加させてくれるかどうかを見にいったのであるが、快く承諾してくれた。そのあとパーティーにも加えてもらい、そこで、森田、トミー、そして私は、余興に陶器の絵付けをしていた約三〇名の若い美術家や文筆家、それに俳優といった人たちに会った6。
リーチと富本にとって、これがおそらく、はじめての陶器の絵付けとの出会いであった。このパーティーに続けて、四月一五日から三〇日までを会期として、『美術新報』(版元は画報社)主催による「新進作家小品展覧会」が吾楽殿で開催された。しかし、同じく第七章で詳述しているように、富本は、ここに至って東京の生活に見切りをつけると、「此の世界をのがれて肩をすぼめて」大和へと逃げ帰った。ここから、富本の大和における「精神的な放浪生活」がはじまる。一方のリーチは、ここを起点として、楽焼きのもつ魅力に惹きつけられてゆくのである。
リーチの焼き物製作への関心はますます熱を帯び、「友人たちに誰か先生を探す手助けをしてくれと頼む」7ほどまでに、その熱は高まっていった。結果的にリーチの「先生」になるのが六代尾形 乾山 ( けんざん ) で、大和から上京し、通訳としてその橋渡し役を務めたのが、富本本人であった。その日のはじめての顔合わせの情景について、のちに富本は次のように書き記している。それは、富本の大和帰郷からほぼ五箇月が過ぎた一〇月のある日のことであった。
歐洲大戰が突發して歸國の話のあつたリーチもそのために遅れてゐた。その間に何か日本獨特な技術を歸るまでに習つておきたいといふので、拓殖博の席燒がもとになり樂燒をやつてみてはどうだといふことになつた。誰かよい先生はゐないかと尋ねてゐると、石井柏亭氏が樂燒の上手な老人を知つてゐるといふ。其人は入谷にゐるといふ事であつた。或日のこと私はリーチの通譯となつて入谷小學校の向側の尾形といふ人だと聞いて尋ねて行つた8。
その家は表通りを入った小路の突き当たりにあり、小路に入ると、長唄のおさらいが聞こえてきた。その家は、格子戸のある三間ほどの小さな家であった。玄関に立って、富本が来意を告げると、右手にあるらしい仕事部屋から、袖なしの仕事着を着た、白髪で無精ひげを生やした老人が現われ、ぶっきらぼうに「お上がりなさい」という。ふたりは、左側の部屋に通された。富本の回想は、さらに続く。
私はリーチを紹介して「英國人で是非日本獨特な樂燒の法を覺えたいから弟子にして敎へて下さるやうに」と話した。ところが老人がいふには「私は變屈で、やかましいので是まで弟子をとつても半歳もつゞく者はなかつたので、弟子は取らん事にしてゐたのだが、外國人で、そんな心がけの人は今の世に珍らしいことであるから引き受けませう」といふ事で、弟子入りはかなつた。そしていろいろな話を聞いたが三浦乾也の唯一の弟子で六代乾山であることを初めて知つたのであつた9。
この老人が六代乾山であることがわかったとき、ロンドンに滞在していたおりのヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のことが富本の頭を過ったにちがいなかった。というのも、そこで富本は、初代乾山の焼き物を見ていたからである。「それは角形を二つ組み合わせた平向こう付けで、上から垂れ下がる梅一枝と詩句とを黒色で描いたものだった」10。
こうして、富本の通訳のおかげもあって、乾山のもとへのリーチの弟子入りはうまくいった。それ以降リーチは、毎日のように彼の仕事場へ通うようになった。当時のことをリーチは次のように回想する。
乾山が好きなのを知っていたので、エビスビール一瓶をたいていもっていき、お昼に、ふたりで分け合った。硬い床に座り、棒でろくろを回しながら、濡れた手でやわらかい器をつくるか、チーズほどの硬さの壺を挽くかして、この工房で陶土のいろはを学びはじめた。乾山は非常に口数の少ない人だった。それで、実際のところ彼は、私が発するとても限られた日本語での多くの質問をうるさがった。「よくまあ、なぜ、なぜ、という人だな。――酸化焔(完全燃焼)とは何かとか、還元焔(いぶる)とは何かとか。あんたの質問を聞いていると頭が痛くなる」。私の貧弱な日本語の質問では、そうさせるのも無理はなかったかもしれない。「私がやってみせたようにやってごらんよ。こうやって私も師匠に教わったんだから」11。
わからないことがあると、どうしても知りたくなるらしくて、リーチの質問の矛先は、次に、英語のできる富本に向かった。
リーチを弟子入さして私は郷里に歸つた。乾山も今までにない熱をもつて敎へたらしい。リーチも良師を得たことを喜んで勉強し段々仕事もよくなつて來た。色に泥を交ぜて使ふことなども工夫して熱心にやつてゐて、乾山に聞いても、のみこめない事が出來ると私の處にハガキで照會してよこした12。
この時期富本は、東京の美術界に対する不信や自らの結婚についての苦悩にあえぐ「精神的な放浪生活」のただなかにあった。それにもかかわらず富本は、こうした照会に対して、決してわずらわしく思うこともなく、誠実に応える。かくして知らず知らずのうちに、富本自身もリーチの熱狂に自然と巻き込まれてゆくのである。
私もしろうとだから、それ[リーチからのはがきによる照会内容]をいちいち調べて返事を書かねばならなかったし、ときにはまた遠い大和からも東京へ通って、リーチと尾形[乾山]氏の技法上の通訳をしなければならなかった。
そうしているうちに、いつの間にかリーチの研究心が私にうつって私も家の裏にあるあき地に三、四十センチ立方の移動可能の楽焼き窯を一つこしらえ、熱心に楽焼きをはじめた13。
日本語が不自由なリーチから毎日のように届く、楽焼き製作にかかわる問い合わせに、より正確に答えるために、自らも試してみようと思ったのだろう――。はじめて富本が携帯用の簡単な楽焼き窯を準備したのは、南に宛てた七月二七日付の書簡からもわかるように、一九一二(明治四五)年の七月のことであった。
ちょうどそのころ、リーチの方は、自分の家に窯をつくる計画に胸躍らせていた。リーチの腕は、乾山も認めるところとなったのであろう。ほぼ一年にならんとする乾山の仕事場での修業ののち、ある日のこと、乾山はリーチに、「自分の庭の片隅にでもちょっとした工房をもちたくないかね」14と、告げる。そして、「必要な棚と 轆轤 ( ろくろ ) を備えた簡素で小さい仕事部屋がまもなく建った。またこの工事が終わるまでには、乾山が窯をつくってくれていたので、こちらもまた、まもなくすると使用の準備が整うことになった」15。
準備が整うと、さっそくリーチは、富本に上京するように手紙を書いたものと思われる。富本は、そのときのことをこう述べている。
これを道樂にして家をつぶした連中は古來隨分あるから注意し給えと云ふ前おきをつけて、陶器と云ふ事を友人のリーチに話してから二年になる[。]此頃では非常な熱心で、ユーロピアン、ブルウが何うの、ゴス又はオールド、ブル ー ( ママ ) ウが何うと、ナカナカ通な事を云ふて自分を困らせる。今度もいよいよ本式の大きい樂焼のカマを築くから來いとの事、厭やな東海道線を無理に我慢して東京に着いて見ると、その日から古道具屋や數寄者の家を案内者然と熱心に引つぱり廻す16。
そうするうちに、いよいよ製作がはじまると、リーチは富本の手際のよさに驚かされた。それは、富本が楽焼きの道具を買い求めた七月から三箇月が経過した一〇月の出来事であった。この間、リーチの感嘆を引き出すほどの鍛錬を富本は自らに課していたのであろうか――。以下は、そのときのリーチの述懐である。
当然ながら、本当に必要な所では手を貸したが、土をろくろの中央に盛り、内径七インチの鉢を成形することがおおかたできるのを知って驚いてしまった。私はこれに、半乾きのときに手を加え、うまく形を整えると、素焼きを行ない、次の週末までには富本が絵付けができるようにはからった17。
こうした製作の途中を利用して、ふたりは、折しもこのとき上野の不忍池の湖畔で開催されていた拓殖博覧会の見学に出かけた。この博覧会は、第九章「デザイン思考の萌芽」において詳しく述べているように、リーチと富本に大きな衝撃を与えた。リーチは、この日に至るまでの自分の製陶の歩みをこう回顧する。「その楽焼きのお茶会[陶器の絵付けを楽しんだ吾楽殿でのパーティー]のすぐあと、日本拓殖博覧会が上野公園で開催された。公園の片側は、蓮がいっぱい生えた大きな池であったが、南側に、私はある店を発見した。観覧客はこの店で、釉薬がかけられていない素焼きの器を買い、自分の手で絵付けをし、楽焼きにしてもらうことができた。この臨時店舗の持ち主は、私の隣人で、陶工でもあった。腕はよくなかった!それでも、私は足しげくその店に通い、適切な考えが頭に浮かんでくると、それをもとに絵付けを施していった……私のやったものがうまいとは思わなかったが、とにかくおもしろくてしようがなかったし、目で見て覚えることも多くあった」18。拓殖博覧会に出店していた「この臨時店舗の持ち主」とは、リーチの近所に住む茶わん屋の店主で、客が絵付けしたものを即席で楽焼きすることを商いにしていた堀川光山のことであろう。
一方の富本にとっては、この博覧会訪問は、「民間芸術」に目を向け、「半農半美術家」を自認するきっかけとなる出来事であった。そして、リーチの庭に新築された窯では、陶器における富本の処女作品が誕生しようとしていた。このとき富本は、絵柄として梅の花と、よく知られた春の歌「梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……」を選んだ。リーチは、さらにこう述懐する。
その後私は、初代乾山が二〇〇年前に同じこの春の歌を自分の壺のひとつに引用していたことを発見した。この壺はのちに私に与えられた。同じく富本のこの最初の作品も。双方の作品とも、いま、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館にある19。
このとき富本が製作した《梅鶯模様菓子鉢》【図四六】が一般に公開されたのは、翌年(一九一三年)の早春に三越新美術部によって開催された「現代大家小藝術品展覧會」においてであった。そのとき『美術新報』の雪堂(別の筆名を坂井犀水と称し、実名は坂井義三郎で、一九〇九年一一月の第九巻第一号より『美術新報』の主幹)は、富本の展示品のなかにあって、なかんずく「梅鶯模樣の菓子器の古雅なのが最も優れて見えた」20と評した。その後この作品は、その時期や理由を正確に特定することはできないが、結果的に富本からリーチの手に渡り、そしてその人によってヴィクトリア・アンド・アルバート博物館に贈与されたのが、この博物館の作品番号から判断して、一九七七年のことであった。この年の三月三日から五月八日までこの博物館でリーチの回顧展が開かれており、おそらくそのとき寄贈されたものと思われる。リーチ九〇歳、亡くなる二年前のことであった。一方富本が亡くなって、もうすでに一四年が経過していた。寄贈されたこの作品には、割れ目や破損箇所に修復された跡が残されている。そのことは、リーチの手によって長い歳月のあいだ、富本の形見の品ででもあるかのように、大切に身近に保管されていたことを意味しているのであろうか――。このヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参してはスケッチに明け暮れていた富本の若かりし日の姿を、知り合った当時リーチは直接本人から聞かされていたにちがいなかったし、さらに最晩年に富本が、「もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う」21と、率直に告白していたことも、その後の来日のおりに読み知っていたかもしれない。現在、この博物館には四点の富本作品が収蔵されているが、わけてもこの《梅鶯模様菓子鉢》が、リーチと富本とを相結ぶ、さらにはまた富本をヴィクトリア・アンド・アルバート博物館につなぎとめる、永遠のきずなを人知れず物語っているのである――寄贈の翌年(一九七八年)に出版されたリーチの自伝の書題にあるように、まさしく「東と西を超えて」。
《梅鶯模様菓子鉢》の製作が終わると、この滞在中にまたしても東京の美術の世界に幻滅した富本は、怒りの気持ちを内に秘めながら大和へと帰っていった。だからといって、帰宅した大和の地が心安らぐ場かといえば、いつものように、決してそうではなかった。そうした心情を伝えるべく、まだ東京にいる南に宛てて富本は手紙を書き送った。その手紙に綴られた最後の短い一文が、冒頭の書き出しにおいて紹介した、「雨が降って陶土が乾かなくて困る。十一月一日夜 陶器師 久左 薫造様」だったのである。かくして富本の「陶器師」は誕生した。
リーチの窯で製作された富本の本格的な最初の楽焼き作品である《梅鶯模様菓子鉢》が、一九一三(大正二)年二月二〇日から三越呉服店の三階で開催された「現代大家小藝術品展覧會」において陳列された。このとき富本は、作品の搬入か事前の打ち合わせのために上京したものと思われる。百貨店という新たな大規模小売業の事業形態に何らかの刺激を受けたのであろうか、帰路の東海道の汽車のなかで富本は、「モウぐずぐずして居る時でない。今春から大いにビジネスの方向にも自分と云ふものを進めて行け」22という、強い思いに駆られている。いうまでもなく、敬愛するモリスも、工芸家であると同時に「モリス商会」のれっきとしたビジネスマンでもあった。このことが脳裏に浮かんだかどうかは別にして、「その第一歩としてリーチと同じサイズの楽ガマを築く事にした」23。二月一八日付の南宛ての富本書簡は、さらにこう続く。
[東京から]歸へってキンカンの樹の下へ煉瓦二百枚をつみ陶器用の土、繪具、その他の道具一切を買ひ入れ、リーチの處へ小僧をかして呉れと電報を打った24。
当時リーチの工房で見習い中であった小僧の亀ちゃんが、呼ばれて大和の富本の家にやって来た。富本は、夢中になって亀ちゃんと一緒に、「カマを築き繪の具を大乳鉢ですり、ロクロを試して用意につとめた」25。絵の具をする仕事には「下女、弟、母、家族全體を使用して、約二十日間乳鉢のゴロゴロ云ふ音をきゝました」26と、そのときの壮絶な家族の働きぶりを語っている。富本には、急がなければならない理由があった。「實はイヨイヨ大阪の三越で五月一日から展覧會をやる事が決定(工藝品のみ)致しましたので、夜を日につぎ一生懸命、家族が狂者と思ふ程の有樣でやつて居ります」27。そして続けて、準備の進み具合を、「一尺の外ガマは乾き切つて、何時でも素焼ガマを待つて居り、二百五十程の壺、皿等の乾かぬ木地は、静かに南の米倉に模樣を待つて居る事になりました。其模樣の腹稿を三冊の帳にかきつけ、今は只東京より發送し参る内ガマを待つばかりです」28と、述べる。内窯は、先日の上京のおりに、六代乾山に依頼していたのかもしれない。以下は、晩年の富本の回顧談である。
私はその時分大和(法隆寺に近い安堵村)にいたんです。それから亀ちゃんという人がおりましたね。あれがロクロをけいこしたものだからきてくれた。また尾形[乾山]さんに一尺の折り畳み式のカマを作ってもらって、本宅のほうの庭へつくったんです29。
このとき富本は、二五〇点もの大量の器を焼こうとしている。明らかにビジネスを目指しているといえる。加えて家族総出の製作――これこそまさに、富本のいう「半農半美術家」による「民間藝術」の発露だったのではあるまいか。富本の興奮した気持ちが、南に宛てた手紙に踊る。
今自分の心は陶器を造ると云ふ事にのみワクワク、して居る。何物も見えない。コンナにコウフンした事は先づ一生中に未だない。そしてコンナに長く連く事も30。
そしてこの手紙のなかで、「此の手紙が着く頃には三越の展覧會はフタを 明 ( ママ ) けて居様と考へる。二十七点ばかり出しておいたが何うだか」31と、二日後に迫った東京三越での「現代大家小藝術品展覧會」のことを気遣う。富本にとって「現代大家」という呼称には、少々面映ゆさを感じる面があったかったかもしれない。それに対して「小藝術」という言葉には、なにがしかの共感をおそらく覚えたであろう。さっそく開催三日後の一九一三(大正二)年二月二三日に、「小藝術の興味」という見出しをつけて、『讀賣新聞』がその展覧会をおおむね以下のように紹介した。まず、「題名の珍らしいやうに内容も珍らしい展覧會である。『小藝術』と云ふ言葉は英語にも独逸語にもあるし、我國でも従來美術論の内には用ひられたが、一般にはまだ使はれてゐない……名の示す如く分量から見て小さいもので、つまり小さい工藝美術、又は應用美術、又は装飾美術である」と、展覧会の名称についての解説を施したうえで、次に、「併し分量の小は必ずしも性質上の價値の小を意味しない……日本は元來この小藝術に優れた遺物を持つてゐる」と、日本の伝統に照らして価値ある芸術領域であることを示唆し、そして今回の展示作品の造形上の特徴に触れて、「今三越に出品されてゐるのは、焼繪、刺繍、象眼、樂焼、木彫などであるが、元來畫家の餘技が多いので、技巧の方からは精緻とは云へない。寧ろ比較的簡單にして幼稚な技巧である。併し意匠は中々奇抜で面白いのが多い。殊に最も著しい傾向は、[多くはエジプト模様、なかには日本の古いものに見られる]原始的意匠の復活である」と指摘し、「而してこの原始的意匠が、簡單な幼稚な技巧と相待つて其處に立派な小藝術を現出したのである」と、全体を総括した。そしてそのあとに続く、岡田三郎助や津田青楓を含む主だった作家の個別作品評においては、富本に関してはこう紹介されていた。
富本憲吉 ( ・・・・ ) 君の樂焼は、陶器中では最も面白味がある、櫻鶯の菓子器などはあまりに氣に入つたので賣るのを止めた位のもの。刺繍の半襟も凝つたものである。版畫に至つては小藝術から出かけてゐる32。
このなかで「櫻鶯の菓子器」として紹介されている作品は、実際は、昨年の一〇月にリーチの窯で焼いた「梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……」の模様をもつ鉢のことだったのではないだろうか。一方『美術新報』(四月号)は、富本憲吉のこの《梅鶯模様菓子鉢》、バーナード・リーチの「花瓶」、津田青楓の「刺繍壁掛」などの作品図版を五点入れて、この展覧会を紹介した。以下は、そのなかにみられる富本に関する作品評である。
富本憲吉 ( ・・・・ ) 氏は精練せられた趣味性を以て、稍々荒削りなる手法を用ゐて、縦横に溢出する藝術的熱心を発揮して居る、其陶器は極て味ひのあるものであるが、就中梅鶯模様の菓子器の古雅なのが最も優れて見えた。名刺入や、刺繍の半襟や、銅の打出名刺盆や孰れも特色のあるものであつたが、習作女の胴の能く古代印度の作品の気持と、其特有なる現代的の感じとを現し得たのを見落すべからざるものと思つた33。
二月二三日付の『讀賣新聞』も四月号の『美術新報』も、ともに富本の作品に好意を示していた。おそらくそれは、ひとまず富本に満足を与えたであろうし、自信にもつながったであろう。しかし富本は、その喜びに浸る間もなく、五月一日から大阪の三越で開催される予定の「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」に向けて、「夜を日につぎ一生懸命」応援の亀ちゃんと家族を動員して製作に励んでいた。そのときの画室の様子はといえば、「四五十の図案は画室の床に散ってあり、その棚には僕の持って居る支那陶器の標本がおき切れない程のって居る」34。そしていよいよ、初窯の日が来た。三〇点ほどの器が焼けた。以下は、石井柏亭との大阪三越での合同展のために大阪に滞在していた南に宛てた、三月一一日付の富本書簡からの抜き書きである。
丁度[三月]九日に夜一時半迠楽ガマ初めて立てた……座敷へ列べた三拾程既成の皿や丼を見て呉れ給え。先づ先づ此れ一つをたよりに寂みしい浮世に住むで行く……今度の三越では是非賣りたいものだ。その金をもって旅行したい……大抵拾五日に第二のカマを入れる。その日午後三時頃から夜二時頃迠なら出す處が見られる。面白いものだよ是非見せたい……聖僧の生活もあきあきした35。
いよいよ五月一日、「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」の幕が開いた。展示された陶器は、本人が望んでいたとおりに、よく売れた。富本は、こう回想する。「津田青楓君と二人で大阪の三越で個展をやったことがあります。きわめて幼稚なものですが、私の楽焼の図案が面白いというのでよく売れました。売行は百三十円でした。けれどその時分の百三十円はかなり使いでがありました」36。そして、この売れ行きのよさが、富本の職業選択に大きな影響を与えた。富本はこうも回想する。
大阪の三越で展覧會をやつた時などは相當な成績を上げて、賣場の係りの人が後から後からと賣れて補給に間に合はないといふ有樣もあつた……だからまず自分の道樂が金になつたやうな譯で、賣れると面白いからまたやるといふ具合で勉強になつたことにもなつた……今にして思へばあの頃作品が賣れてゐなかつたら或は陶器はやめてゐたかもしれないのだ37。
大阪三越での「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」が五月六日に終わるや、富本は、一〇日間くらいの滞在予定で一二日に上京した38。目的は、どうやら東京での豪遊であったらしい。晩年の座談会で、式場隆三郎の「いちばんはじめの個展はいつでしたか」という質問に答えて、富本はこう述べている。
大正 四 ( ママ ) [二]年じやないでしようか、大阪の三越で私と津田 晴風 ( ママ ) [青楓]とやったんです。売上げが百くらいあってね、その百円をもらうとき、支店長から、富本君この百円をどうして使うのですかというから、いやもう切符は買ってあるんだけれども、東京へ行ってこの百円がなくなるまで遊んでくるといってきたんです……そのときの宿賃が八円です。私は酒を飲まないので使いようがなくて……そこらの腰かけて食うような店や、寿司屋のようなところを食いまわって、とうとうその百円を無理に使つてしまって帰えった39。
もっとも、豪遊だけが目的ではなかった。上京すると丸善に立ち寄ることが当時の富本の習いとなっていた。このときも、大和へ帰る前日に丸善に足を運んだ。するとそこで、ある本40に釘付けにされてしまった。そのとき富本は、昨日まで意味もなく浪費を重ねていた自分の愚かさにじだんだを踏んだかもしれなかった。
……フェーント・オールド・イングリシュ・ポタリーの一冊である。たしか廿三圓だつたと記憶する……かなしいかな持つて居る金子全部でも未だ足りない。不足の分は明日迄貸して貰ふ事にして電車賃だけ引いた持金全部を拂つて兎に角自分のものとなつた……走る電車のなかで包紙をほぐして……何事をも忘れて上野櫻木町のリーチの家へと急いだ41。
ところがリーチは、「金子は貸してやるが自分が充分見て仕舞ふ迄は自分の處に置くと云ふ条件でなければいやだと云ふ」42。そこで、とうとう茶の間に上がり込み、「如何にしてスリップを試む可きかを夜おそく迄語り明した……今から考へると電燈の下であの書物を見入つて居る若いふたりの眼は血ばしつて競ひ合つて燃えさかる焔のやうなものであつたらう」43。
このチャールズ・J・ロウマックスの『風雅なる英国の古陶器』という本は、伝統的な英国のスリップウェアを主として紹介するものであった。しかしこの本への熱狂も、富本にとってはつかのまのことだったのではないだろうか。というのも、それ以降、自らの製作を巡って深い苦悩へと陥っていくからである。
確かに大阪三越での「富本憲吉・津田青楓工芸作品展」は、ビジネスとして望みどおりの大成功であった。これは同時に、今後製陶を職とすることへの実感をもたらすものでもあった。しかし自分は、そこに展示した作品をどのような方法でつくったのであろうか――それは、真に自らの作品と呼ぶにふさわしいものだったのであろうか。製作の忙しさに忘れかけていた疑問が、展覧会が終わって一段落するや、再度頭をもたげ、富本に激しく襲いかかってきた。そのときの苦悩の様子を富本は、「模様雑感」と題して松屋製二百字詰め原稿用紙一四枚にまとめた。そして最後に次の一文をつけて、南に送った。「前略 十二号の新報か現代洋画かへ出したいと思ふて書きて見たが書きたい事ばかり多くてマトマラないで、これ位でよした……讀むだアト御返しに及ばない。憲吉 南様」44。差し出し日は、一九一三(大正二)年一一月六日となっている。それでは、この年の夏、富本の身に何が起こったのであろうか。この「模様雑感」を手掛かりにしながら、少し再現してみたいと思う。冒頭の書き出しはこうである。
今年の一月二月は多く刺繍更紗等に日を過ごし三四五の三ヶ月は大部分陶器等の試作に暮らした……五月初旬それ等約百五拾点を大阪で公開して先ず一つの段落を付けた。その頃から一種の模様に對するふ案?(別に良い云ひ現し方を知らないからふ安と云ふ語を使ふ事にした)、厭やな例へば獨り旅びで宿は見つからず汽車は明朝迠出ないと云った様な気持に襲はれた……出来上がった作品を見て充分會得し得ぬ自分の心を考へ出すとモウ一個の製作も出来なくなった45。
自分の苦しみを人に伝えることもせず、ただいらいらの日々を送る。そうするうちに大和に暑い夏が巡ってきた。「今迠やって来た自分の模様を考へて見ると何むにもない。実に情け無い程自分から出たものが無いのに驚いた」46。なぜなのだろうか、と自問する。すると、思いは学生時代へと遡行する。
学生時代の事を思ひおこすと先生から菊ならば菊と云ふ実物と題が出ると菊だけを写生しておき文庫なり図書館に行って書物――多く外国雑誌――を見る……全体見たあとで好きな少し衣を変れば役に立ちそうな奴を写すなり或は其の場で二つ混じり合したものをこさえて自分の模様と考へ[て]居た事もある……人も自分も随分平氣でそれをやった。近頃は一切そむな事が模様を造る人々にやられて居ないか、先づ自分を考へるとタマラなく恥かしい47。
こう書きながら富本は、学生だったころ、一九〇七(明治四〇)年の東京勧業博覧会に出品した《ステーヘンドグラツス圖案》が、脳裏に蘇ってきたのではないだろうか。すでに第三章「東京美術学校の図案教育への不満」のなかで詳述しているように、そのとき富本は文庫に入り、『ザ・ステューディオ』を開いてゆくと、エドワード・F・ストレインジの「リヴァプール美術学校のニードルワーク」において使用されていた図版に心を動かされた。それは、フローレンス・レイヴァロックというリヴァプール美術学校の女子学生のうちわのデザインで、《アップリケと刺繍によるハンド・スクリーン》という題がつけられていた。富本は、この作品を下敷きにして、博覧会への出品作をつくることを決意した。このようにして完成した、富本にとっての事実上の処女作となる《ステーヘンドグラツス圖案》は、明らかに「人の模様」から生まれていたのであった。
それでは、最近作については、どうであろうか。これについても、そのとき富本の脳裏に去来したものと思われる。これもすでに原文を訳して示しているように、一年前(一九一二年)にリーチの窯で鉢を製作した際に富本が選んだ絵柄について、リーチ自身次のように述懐している。「彼は、梅の花と、有名な春の歌である『梅に鶯、ほけきょ!ほけきょ!とさえずる……』を選んだ……その後私は、初代乾山が二〇〇年前に同じこの春の歌を自分の壺のひとつに引用していたことを発見した」。これが正しいとすれば、事実上陶器の第一作となる《梅鶯模様菓子鉢》もまた、「人の模様」から生まれていたことになる。
さらには、これもまたすでに引用によって示しているが、五月の展覧会に向けて製作していたときの画室には、「四五十の図案は画室の床に散ってあり、その棚には僕の持って居る支那陶器の標本がおき切れない程のって居る」というありさまであった。床に広がる「四五十の図案」は「支那陶器の標本」から生み出されていたのであろうか。
加えて突き詰めていけば、つい三箇月くらい前、丸善で見つけた『風雅なる英国の古陶器』をリーチの家で興奮して読んだのは、一体何だったのであろうか、無意識にもそこから自分の模様をつくろうとしていたのであろうか――そうした思いも、このとき容赦なく富本を襲ったにちがいなかった。いずれにしても、過去を振り返り、こうしかできなかった「自分を考へるとタマラなく恥かしい」という自責の念に駆られていったのであった。
そのとき富本は、「我れわれ日本人には初めて考へ出すと云ふ力が乏しい或は全然無いのかと云ふ事や……古い尊敬すべき模様以外に異ったものを、ある感動から作り得らるゝか又その造ったものを施す可き工藝品との関係が如何だろふなどと云ふ考へが無茶苦茶に頭の中に踊り廻る様に感じた」48。「初めて考へ出すと云ふ力」とか「ある感動から作り得らるゝ……もの」とかいう言葉の使い方から判断して、既存の手本や権威に対する模倣や順応を超えた、まさしく独創性や個性といったような概念が、そのとき富本の頭のなかに浮かびつつあったのであろう。それは、工芸における「近代的な自我」の発現としてみなすことができるかもしれない。歴史や伝統に彩られた重厚な拘束服、異国や舶来に見受けられる目新しい流行服、土着の民間に伝えられてきた素朴な野良着――それらとは、どのように向き合えばよいのであろうか、あるいは、それらに取って代わる、自分たちが普段に身につけるにふさわしい日常着は、どのようにして新たに造られるべきなのであろうか――このとき、改めて富本は、このような問いかけを自らに行なったにちがいない。しかし、容易に解決のつく問題ではなかった。風が止まり、強い日差しだけが、富本の不安と苦悩に照り注いでいた。「一切の製作を止めて暗い台處から後庭に光る夏の日を見ながら以上の考へにつかれた自分は旅に出た」49。それは一九一三(大正二)年八月二〇日の出来事であった。
(1)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、56頁。 なお、このとき富本憲吉は差出人の名前に「久左」を使っているが、「久左」の由来について、後年濱田庄司が、《梅鶯模様菓子鉢》にかかわって、次のように説明している。「この鉢の見込みに久左という署名が書いてあるのですが、令息の壮吉君に聞きますと、富本家には久左衛門、久右衛門を隔代に使った家憲があって富本が久左衛門の当たるのだそうです。そういえばその頃『美術新報』等に書かれた文章にも、安堵久左衛門という筆名があったように思います」(濱田庄司『無盡蔵』講談社、2000年、265頁)。
(2)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、55頁。
(3)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(4)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(5)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、208頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(6)Bernard Leach, Beyond East & West: Memoirs, Portraits & Essays, Faber & Faber, London, 1978, p. 55.[リーチ『東と西を超えて――自伝的回想』福田陸太郎訳、日本経済新聞社、1982年、39頁を参照]
(7)Ibid., p. 56[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、41頁を参照]
(8)富本憲吉「六代乾山とリーチのこと」『茶わん』第4巻第1号、1934年、65頁。
(9)同「六代乾山とリーチのこと」、66頁。
(10)前掲『私の履歴書』、200頁。
(11)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、41-42頁を参照]
(12)前掲「六代乾山とリーチのこと」、同頁。
(13)前掲『私の履歴書』、209頁。
(14)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]
(15)Ibid. [同『東と西を超えて――自伝的回想』、同頁を参照]
(16)安堵久左(富本憲吉)「拓殖博覧會の一日」『美術新報』第12巻第2号、1912年、19頁。
(17)Bernard Leach, op. cit., p. 57.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]
(18)Ibid., p. 56.[前掲『東と西を超えて――自伝的回想』、41頁を参照]
(19)Ibid., p. 57. [同『東と西を超えて――自伝的回想』、42頁を参照]
(20)雪堂「早春の諸展覧會」『美術新報』第12巻第6号、1913年、42頁。
(21)前掲『私の履歴書』、200頁。
(22)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、61頁。
(23)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(24)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(25)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(26)富本憲吉「半農藝術家より(手紙)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、29頁。
(27)同「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(28)同「半農藝術家より(手紙)」、同頁。
(29)富本憲吉、式場隆三郎、對島好武、中村精、座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、9頁。
(30)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(31)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(32)「小藝術の興味」『讀賣新聞』、1913年2月23日、日曜日。
(33)前掲「早春の諸展覧會」、同頁。
(34)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(35)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、65-66頁。
(36)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、74頁。口述されたのは、1956年。
(37)前掲「六代乾山とリーチのこと」、同頁。
(38)「よみうり抄」『讀賣新聞』(1913年5月18日、日曜日)を参照のこと。
(39)前掲座談会「富本憲吉の五十年」、5頁。
(40)Charles J. Lomax, Quaint Old English Pottery, with a Preface by M. L. Solon, Sherratt and Hughes, London, Manchester, 1909. この本については、以下に掲載の図版を参照のこと。『芸術新潮』2004年4月号、新潮社、32頁。見返しに、「K. Tomymoto May 1913 Tokyo」の署名が見られる。現在、日本民藝館に所蔵。
(41)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、166-167頁。
(42)同『製陶餘録』、168頁。
(43)同『製陶餘録』、同頁。
(44)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、77頁。
(45)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、74頁。
(46)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。
(47)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、75頁。
(48)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、75-76頁。
(49)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、76頁