中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第一七章 京都での再起

一.図案権の主張と追憶の形象化

一九四七(昭和二二)年六月、新匠美術工芸会の第一回展が、東京の日本橋高島屋において開催された。会誌『新匠』(第参号)によると、このとき出品した作家は、稲垣稔次郎、小合友之助、北出塔次郎、鈴木清、富本憲吉、徳力孫三郎、内藤四郎、平野利三郎、福田力三郎、古山英司、増田三男、森一正、山永光甫、山脇洋二、山田喆、矢部連兆、河井隆三、竹内泉石、富岡伸吉の一九名であった

展覧会が開催されたこの六月、上京したおりに憲吉は、祖師谷に一度帰宅している。一枝とどのような会話がなされたのか、それを構成する資料は残されていない。しかし、ここで憲吉は、「續陶器技法感想」を執筆した。巻末の「昭和二十二年六月二日 東京・祖師ケ谷にて 富本憲吉」の文字が、そのことを示している。これは、四月に安堵村で書いていた「陶技感想五種」に続く二番目の巻き物に相当する。両巻を通じて、白磁、青磁、染附、鐵釉銅彩、色繪の五種類の技法について、その要領骨子が述べられており、同年一〇月の『美術と工藝』(第二巻第三号)に「陶技感想二篇」と題されて掲載された。この号には、「ロクロの展開」として、白磁壺、青磁花瓶、鐵釉銅彩刷毛目鉢、染附皿、色繪陶盤の五作品が写真により紹介され、加えて、けしの花の写生画も四点添えられている。さらに興味深いのは、技法や作品の紹介だけに止まらず、続けて、「圖案に關する工藝家の自覺と反省」と題された一文により、富本の工芸図案についての持論が展開されていることであろう。富本はこう語る。

 私は今よりおよそ三十年前、欧洲の工藝圖案および工藝對社會等についての學習を終り、歸朝第一に感じたことは、この國には著作權同様の圖案權の法律もなく、人々は勉強のために歴史的な作品を模倣する他、自分の作品としてその模倣したものを平氣で發表出來ることに驚いた。その頃から圖案權の法律を作る必要があることは、雜誌その他で幾度か述べたが行われることなく今日に及んでいるのは残念である

この図案権についての富本の主張は、前年(一九四六年)八月の『美術及工藝』(第一巻第一号)に掲載された「工藝家と圖案權」においても、すでに表明されていた。前置きとして、まず富本は、次のようにいう。「日本は、敗戦によつて有史以來はじめての社會革新をなし、民主々義國家として、文化國家として再出發の途上にある。この時に當つて工藝にたづさはるものとして我々も亦、幾多重要な問題をもち、その解決を全く新しい立場に於いてしなければならぬことは當然である」。そして本題に入り、作家の独創性と良心の重要性を説く。「先づ、最も考へたいことは、工藝の指導性に就いて、それと不可分の關係にある工藝作家の獨創性と作家的良心の問題だと思う」。具体的には、それはどのようなことであろうか。

 そのためには、作家として有名な陶工が、自らロクロせず、自ら窯を焚くことも知らず、多くの工人弟子の手になつたものを自作の如く稱して高價にその作品を賈るといふボス的やりかたへの反省、實に重大なことは圖案權の問題だと思ふ。これまでに圖案權を有たなかつたことが、日本の工藝を現在見る樣なものにしたことは斷言しても過言ではあるまい。……従來日本の作家は人のつくつた模樣圖案を平氣で借用し……いさゝかの恥も感じないできた。それを自他共にゆるして通用してきたこと自體奇怪千萬なことだつた。……換言すれば圖案權がないから、よき圖案家の發生もなかつたと言へよう。その結果として、藝術作品はもとより、一般國 ママ が使ふ日常諸雜器につまらないものが多くなるわけだ

模倣や「写しもの」を戒める富本の論法の先には、新しい模様の創出や図案の法的保護の重要性が展望されている。若き日から「模様から模様を造る可からず」を強く心に誓い、その一方で、自ら轆轤に向い、窯を焚き、白磁、青磁、染附、鐵釉銅彩、色繪という、製陶の技法を一つひとつ独自に習得してきた憲吉にとって、作品の独創性と作家の良識は、決して譲ることのできない、核心となる魂の部分であった。そして、それは同時に、戦後の再出発に際しての、意気軒高な御旗となる部分でもあった。

しかし、この年(一九四七年)も次第に秋が深まってゆく。寂寥感が忍び寄る。このとき富本は、次のような切々たる詩を書いた。

半ば枯れたる荻

風になびき倒れむとして倒れず

あゝ秋風になびく荻

窯なく放浪のわれに似たる

あゝ秋風になびく荻

われに似たる

このあとに「昭和二十二年立冬 大和國安堵村舊宅にて 憲吉寫並文」の文字列が続く。この詩片と茶碗の絵は、水原秋櫻子が主宰する句誌『馬酔木』の一九四八(昭和二三)年正月号の巻頭詩に用いられた。富本は当時の自分を「窯なく放浪のわれ」として描き、安堵の枯れかけた荻に、「倒れむとして倒れず」にたたずむ、その姿に己を重ねるのであった。

長時間を要する京都通いの不便さを解消するため、富本は京都住まいをはじめた。「しばらくして、やっとの思いで清水の寺に近い小房を借り、そこから仕事場に通うようになった」。「清水の寺に近い小房」とは、松風栄一の居宅の一室を示しているのであろう。そして当時の仕事場とその後の住居については、藤本能道が、後年次のように振り返る。

 仕事場は新匠会員の福田[力三郎]氏や山田喆氏の世話になり、三十三年[一九五八年]に鈴木清氏の工房の続きに専用の棟が改築されるまではその状態が続いた。住まいは上京区烏丸頭町に、祖師ヶ谷時代の内弟子天坊武彦氏の持家で二室ほどの小さな家を借りられて、一室を建て増し、そこで上絵の仕事を始められた

この時期の富本は、友人の窯を渡り歩く、まさしく「窯なき放浪の陶工」の身であった。そうしたなか、一九四九(昭和二四)年一〇月二五日の『毎日新聞』(大阪)に目を移すと、「秋深む温泉郷 女弟子と精進の絵筆 夫人と別居の陶匠富本憲吉氏」という見出しをつけて、富本が石田寿枝というひとりの若い女性とともに奥津温泉に遊ぶ様子を報じた。松風栄一の居宅の一室から、京都市上京区新烏丸頭町にある天坊武彦の持ち家へと居を転じたのも、ちょうどこのころのことであった。富本を師と仰ぐ染織家の志村ふくみは、当時を回顧し、「先生は新しい伴侶を得られ、烏丸の住まいに落着かれた」と、書いている。ここに至って、「窯なき放浪の陶工」の私生活も、徐々に安定の方向へと向かっていったものと思われる。

一九五〇(昭和二五)年の五月一日に、富本の京都市立美術大学における教授採用の発令がなされた10。教授就任のころをこう振り返る。「京都市立美大は戦時中、東山区の飛行機の監視所になっていたため、学校は廃校同様の荒れほうだい、教室のつくえやイスは燃してしまってなんにもないという哀れな状態だった。私は前に美校(現在の芸大)の教授をしていたので、なんとなく、同じようなところと思っていたが、まるでようすがちがっているのでとまどった。就任して、一、二年は困難な時期がつづいたが……」11。『百年史 京都市立芸術大学』には、開学当初の工芸科陶磁器専攻のカリキュラムについて、以下のように書き記されている。

(一)昭和二五年美術大学が発足し、工芸科として授業が行なわれた。陶磁器に関する授業は毎週一日通年で行なわれた。工芸科の教室での授業であり、土から焼成迄の全工程を含む授業は組まれなかった。主として絵付を中心に授業が行なわれた。

(二)昭和二七年工芸科は現在の工芸ガイダンス的性格から各専攻の分離独立となった。この年から陶磁器専攻として新しいシステムにより授業が行なわれる様になる。カリキュラムの基本は土から焼成迄全工程を体験させながら、制作を行なう事になる。設備は手廻しロクロ四台でのスタートであったが……以降毎年の整備を行ないながら授業をスムースに進めるための努力がなされる。カリキュラムはロクロの基本的な技術の体験とスケッチ等を通して文様や形態の研究に対する指導が行なわれた。窯は五条の共同の登窯が使用された12

一九五一(昭和二六)年に入ると、新匠美術工芸会は「新匠会」に名称を改め、翌年(一九五二年)には、会誌『新匠』も創刊された。そのなかの「會員名簿」13には、安堵村時代の富本の下仕事をしていた当時二〇歳に満たなかった近藤悠三(京都市東山区清水新道一ノ二九一七)や、富本が主事を務めた東京美術学校の工芸技術講習所時代の助手だった藤本能道(鹿児島市下新荒田町三〇一)の名前も、かいま見ることができる。京都市立美術大学における近藤雄三(悠三)の助教授採用は一九五二(昭和二七)年四月一日、藤本能道の講師採用は、さらに四年後の一九五六(昭和三一)年四月二日であった14。その後近藤は、京都市立美術大学の教授(さらには学長)に昇任し、藤本は、採用から六年後に東京芸術大学に移動し、そののち、その大学の教授(さらには学長)に就任する。こうして両者は、富本から授かった薫陶を背景に、日本の高等教育機関において工芸(とりわけ陶磁器の分野)の研究と教育を先導するようになるのである。

富本の京都での戦後生活も安定してきた。当時をこのように振り返る。「世間が落ち着くにつれ、私の生活もだんだん改善された。そして小さいながらも市中[上京区新烏丸頭町]に一軒を構えることができるようになった。生活にゆとりができるにしたがい、陶芸の仕事も知らず知らず手のこんだものに移ってきた。大正時代、大和にいるころから、しばしば手掛けたことのある色絵金銀彩も戦後七、八年して、ようやく本格的に取り組むことができるようになった」15。しかし、金銀彩には、技術上の大きな問題が横たわっていた。「焼物に銀彩を施すことは無理である。銀は変化はなはだしく、数年たつと銹て灰黒色になってしまう。……また、金銀彩を焼き付ける場合、金と銀とでは火に溶ける温度が違う。金が十分に焼き付くまで温度を上げると、銀はよほど厚くかけておいても蒸発してしまうおそれがある」16。そこで富本は、「白金泥を少量混入することを考えた。そうすると、銀が赤に付着する時間と、金の付着する時間がほぼ同じ時間になることがわかった」17。こうして、金、白金、銀の三種を混ぜ合わせた新しい合金が工夫されることによって、銀に変色をきたさない、富本独自の色絵金銀彩がこのとき生まれたのであった。

この時期に富本が好んで色絵更紗(赤更紗)や金銀彩に用いた模様のモティーフは、「テイカカズラ(定家かずら)」であった。富本の息子の壮吉は、こう記憶していた。テイカカズラは「昭和初年、安堵村から東京千歳村に居を移し窯をきずいた父憲吉が、大和からうつし植えたものである。……五瓣の花模様はいつしか四瓣となって、染付、色絵、金銀彩さまざまに用いられた。五分割して描くことの不便、連続させる上での不便……そう父は言っていた」18。テイカカズラは白い花を咲かすつる草の一種で、実際は五弁であるが、連続パタンに適した「四弁花模様」【図七五】へと、富本は改変する。

そしてまた富本は、この時期、「シダ(羊歯)」の連続パタンにも成功している。赤絵の上に金彩と銀彩を用いて、連続するシダのパタンを描いたものが、いわゆる「金銀彩羊歯模様」【図七六】【図七七】と呼ばれるものである。シダについては、富本はこうした思い出をもっていた。安堵村時代に富本は九谷を訪ね、知人を介して、九谷焼の名工として世に知られていた石野龍山に面会した。そのとき富本は、『景徳鎮陶録』という本のなかに、 鳳尾草 ほうびそう の灰を釉薬に使うと、シナの焼き物のようなちりめんジワができると書いてあるが、それがどんな草なのかを調べてくれまいか、年寄りの遺言として聞いてくれ、と龍山に頼まれた。その後富本は、ブッセルという英国人が『景徳鎮陶録』を訳した本から、鳳尾草が「ファーン(シダ)」であることを知った。ちりめんジワ自体は、「石野龍山のように、中国陶磁の写しを専門にし、その通りのものをまねたい人にだけ重要なことである」19のであろうが、しかし鳳尾草(シダ)そのものは、富本にとっての、この時期の重要な連続パタンのモティーフとなってゆくのである。

こうした植物をモティーフにした連続繰り返しのパタン・デザインは、ウィリアム・モリスの壁紙やタペストリーにも多くみられる。すでに例証しているように、東京美術学校時代に富本は、文庫(図書館)へ行っては、『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』、「ウィリアム・モリスと彼の芸術」が所収された『装飾芸術の巨匠たち』、および、「パタン・デザイニングの歴史」と「生活の小芸術」が所収された『古建築物保護協会の主催による芸術に関する講演』の三つの書物のすべてか、そうでなくても、少なくともどれかには目を通した可能性がある。これらの本には、図版を含め、モリスの連続繰り返しパタンが紹介されていたのであった。

一方、この時期の憲吉は、植物の連続模様だけではなく、文字模様にも力を入れている。好んで描いたのが、「風花雪月」や「壽」、それに「春夏秋冬」や「富貴」【図七八】などの文字であった。一九四九(昭和二四)年の《常用文字八種図》(奈良県立美術館所蔵)のなかで、憲吉は「壽」の文字のデザインについて、このように書いている。

文字を模様として取扱ふ事は随分以前から考へて居た事であるが、それを考へ出すと欧州中世の装飾文字や、若い頃見たカイロ市回教寺院の建物前面に大きく彫られた回教文字に唐草模様を配されたのが頭に来て、全く手も足も出なかった。この寿文字は李朝期織物にあったもので多分古代支那から受けついだものと思はれる。それをヴァリエートしたもので横に長く帯模様にも、左右上下に連続模様にも使用に便利である20

すでに述べているように、富本の美術学校時代の卒業製作は、明らかに文字デザインの実験の場となっていた。さらに上記の引用からもわかるように、富本は、その後のロンドン滞在中やそれに続くエジプトとインドにおける調査旅行中に、文字のもつ重みにかかわって、圧倒されんばかりの何か強い体験をしていた。

このように見てくると、色絵金銀彩も、テイカカズラやシダといった植物を用いた連続模様も、あるいは文字模様も、突然にもこの時期、単なる思いつきや偶然により創案されたのではなく、そのインスピレイションの起源をたどるならば、それは間違いなく、生地である安堵村での生活、学生時代の文庫での学習、加えて、英国留学中の見聞にまでさかのぼることができるであろう。若き日に富本が受けた美的衝撃は、確かに内にあって温存されていたわけであり、老境へと向かうなかにあってのこの時期のこうした陶技と模様の開花が、そのことを明瞭に物語っているのである。

二.「抽象性」の模索とインダストリアル・デザインの展望

こうして老境の最晩年、追憶が形象化されてゆく一方で、当時富本には、それとは別の形式に向かう発想が芽生えていた。それは、具象の美から抽象の美へ至る道筋であった。志村ふくみの書いたものに、「富本先生からいただいたことば」と題したエッセイがある。呼び出しを受けて、志村は富本邸に足を運んだ。そこで富本はこういった。「工芸の仕事をするものが陶器なら陶器、織物なら織物と、その事だけに一しんになればそれでよいが、必ずゆきづまりが来る。何でもいい、何か別のことを勉強しなさい。その事がいいたかった」21。そして富本は、続けて志村にこう諭した。「あなたは何が好きか。文学ならば、国文学でも仏文学でも何でもよい。勉強しなさい。私はこれから数学をやりたいと思っている。若い頃英国に留学した時、建築をやりたいと勉強したが、それが今大いに役立っていると思う」22

このとき富本が志村に語った数学とは、パルテノン神殿の刳り形を念頭に置いた幾何学のことだったのではないだろうか。すでに言及しているように、おそらく富本はル・コルビュジエの『新しい建築に向って』を読んでいたにちがいなかった。そのなかには、次のような一節がある。「パルテノンの刳り形は、実に効果的であり、抗しがたい。刳り形は、その厳格さにおいて、私たちの実践を、つまりは人間の通常の能力をはるかに超えている。ここに、感覚の生理学と、それに付随する数学的な思索との存在が、固定的かつ決定的に、最も純粋なかたちで証明される」23。そして加えて、パルテノンを構成する大理石による造形のシステムが、多数の図版を使って例証されていた。【図七九】、【図八〇】、そして【図八一】は、その一例である。

そのころ富本は、石のもつ美しさに魅了されていた。富本は、「石の美」という表題をつけたエッセイのなかで、こう書いている。「私が石を見て樂しむようになったのは今から何年ぐらい前からだろう。……ただしみじみ心に溶けこむ面白さであり、陶器を見て樂しむような美の世界というような通俗なものではない」24。これは、陶器の美(具象模様の美)を超えた石の美(抽象形態の美)を示唆した言葉ではないかと思われる。

 京都に住むようになつて有名な加茂川の石を自分で歩く足の下で樂しむようになり、これ一つが嫌いな京都住まいのうちの眼福であり、私にとつてのただ一つの利益であるとも考えている。……自宅から學校へ、陶器工場への往復に必ず通る東山線(電車路)に沿うた妙法院、智積院の石垣、その排水穴等の構築に興味を持ちだし……私の稚拙な寫眞技術を使つて撮つて見たのがこれらの寫眞である。……垂直の石垣から水平の石畳や石段、石橋までに追々とその目的物を擴げていつた。……すぐ百枚ぐらいは集まるが、もともと標本を集める目的でもなく……ただ獨り樂しむ一種のメモのようなものである25

テクストとは別に、この「石の美」というエッセイには、富本自身が撮影した石段と石垣、加えて自然石の写真が、全部で一三点掲載されている【図八二】【図八三】【図八四】【図八五】。この「写真集」は、明らかにこれまでの植物や風景を写生した「模様集」とは異なる。もっとも富本には、石に対する興味がもともとからあったらしく、「当時、私は石彫りに心を動かし、自分でも一度手掛けてみたい気持ちもあったので、なんとなく美校[東京美術学校]を志した」26ともいっている。

かつて英国に滞在していたとき、富本は新家孝正の助手として、エジプトとインドを旅行した。そしてインドでは、更紗を打っている場面に出くわす。「廣い木綿を廣げて小さい型をコツコツ打つていく、その中に少しゆがむだのや明瞭に行かないのが出来ます、此れが暗い赤や黄、靑と云ふ樣な細かく點々と置かれる彩に交つて實に面白いものが出來ます」27。こうして調査旅行の「二、三ヵ月間に、回教国の寺院の宮殿、墓地といったところの建築様式、モザイックとか天井のデザインなどの部分にまでレンズを向け、約五百枚写して農商務省に送った」28。しかし、明治天皇の死去に伴い、目的となっていた博覧会は中止されることになった。それでも富本は、新家に随行したこの旅行の意義を次のように回想している。

……目的が建築だったにしろ、回教のさまざまな装飾をつぶさに観察する機会を得て、私の将来の仕事にとって決してむだなことではなかったと考えている。特に、回教の模様は、具象的なものは糸杉以外はすべて宗教上のタブーとなっており、幾何的な模様ばかりなのである。この点からもユニークな収穫があったといえよう29

このように、すでにこのとき、更紗模様にも幾何学的な模様にも、強い感動を受けている。おそらくこうした異国での体験もあり、さらには、中学生のころの石彫りへの憧れや、ル・コルビュジエの『新しい建築に向って』から得られた知見などとも折り重なって、最晩年の京都の地において石のもつ魅力への関心が再び蘇ってきたのであろう。しかしながら、富本の「抽象性」の発見は、若き日の経験の連続性といった文脈からだけではなく、デザインのモダニズムという文脈からも、極めて重要な意味をもっていたのではないかと推量される。というのも、ポール・グリーンハルジュは、モダニズムの指標のひとつである「抽象性」について、こう述べているからである。「『抽象性』は、大多数のデザイナーによって費やされた、美学上の基調をなす創案であった。最初の純粋な非具象・抽象美術は、キュビスムの先例に倣う画家たちによって生み出された。……明らかに抽象性は、デザインにおける形象的な要素をねこそぎ拒絶することを意味していたし、その結果として、物語ないしは象徴の伝達装置としての作品(オブジェクト)の潜在能力が容赦なく切り詰められることを含意していた」30。つまり、一例を挙げるならば、安堵村時代に描いた「大和川急雨」も「サワアザミ」も、決して他人の模様の模倣ではない。確かに富本の独創による作品である。しかし、「大和川急雨」にしても「サワアザミ」にしても、その作品のもつ「物語ないしは象徴」を読み取ることができる人は、実際にそれを体験したことのある、限られた一部の人でしかない。多くの人にとっては無縁の、読解不能な「物語ないしは象徴」なのである。したがって、モダニズムが求める「国際様式と普遍性」へは、当然ながら、遠く及ばない。グリーンハルジュは、こう述べる。「『国際様式と普遍性』は、どう見ても先駆的モダニストたちにとって事実上同じことを意味するようになったふたつの理念である。消費者の規律や階級のあいだに見られる障壁が除去されることになり、年代区分の指標としての歴史様式が追放されることになれば、そのとき、避けがたく国家間の違いは消滅せざるを得ない。したがって近代運動は、見通しとしては、不可避的に国際主義的なものだったのである。これは、普遍的な人間の意識を探索するうえでの不可分な要素であった」31

「国際様式と普遍性」は、第一次世界大戦の終結を踏まえて、再び文化の優越性を巡っての国家間の対立を招かないことを願ってヨーロッパの先駆的モダニストたちが到達した理念であった。一方、アジア・太平洋戦争の終了後に、どのような思想的あるいは政治的心情に富本が達していたのかについて、本人が直接述べている資料は残されていないようであるが、しかし、その生涯を閉じるまで、富本は共産党を支援し続けた。蔵原惟人はこう書き記す。「富本さんは戦後、日本芸術院会員、東京美術学校教授を辞任して、郷里である奈良県安堵村の旧宅に帰り、京都で陶業に従っていたが、そのあいだ京都府委員会の同志を通じて、わが共産党の活動にも協力して下さっていた」32。そうであれば、おそらく富本も、西洋の先駆的モダニストたちのあいだで共有されていた「国際様式と普遍性」という理念を、言葉に出さなくとも、内面に秘めていたものと思われ、その理念からするならば、ほぼ間違いなく、最晩年のこの時期、富本は、具象的な絵画的模様からいち早く抜け出して、抽象的な幾何学模様へ移行しようとしていたということになるであろう。「私はこれから数学をやりたいと思っている」という富本の言葉にも、「石の美」という富本のエッセイの題名にも、以上に述べてきたような、「抽象性」と「国際様式と普遍性」とにかかわる諸点が含意されていたものと思われる。おそらくこれが、モダニストとしての富本にとっての最後の思索だったにちがいなかった。

京都市立美術大学の教授職を得てしばらくすると、富本は、「わが陶器造り」の執筆に取りかかった。その理由のひとつは、「私の関係している美術学校に陶器科なるものが創設され、学生諸君のために講義という形式で技法その他のことを口述する必要が生じた」ことにあり、「次に[初代の]尾形乾山が七十歳の死期の近きをさとり『陶工必用』という書を残しておいた」先例に倣うためであり、「その他この書に筆を執った理由としては……ここに書かれた一行の指示によって半年、一カ年の苦しみを数日間に短縮出来たかも知れないということを心において初歩の人々のために書く」33ことであった。「わが陶器造り」を読むと、富本が、こう語る箇所がある。

美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない34

たとえば「作陶四十五年記念展」における白眉の陳列品となった《色絵金銀彩四弁花文八角飾箱》が、国宝のごとき「一品の高価品」であるとするならば、一方で富本が、強い責任感のもと「少しでもその標準を上げることに力を尽す」必要性を主張するのが、安価な「公衆の日常用陶器」に対してなのである。「一品の高価品」の製作と「公衆の日常用陶器」の製作とのあいだには、矛盾はないのか。前者は、床の間に飾られる器であり、後者は食卓に並ぶ器である。富本のなかには、必然的な「社会の進歩」にも似た、白磁、染め付け、色絵、金銀彩へと向かう、自律した「技術の進歩」を信じる側面があったであろうし、一方で富本は、近代社会が進展するなかにあって、器を求める階層が、前時代にみられた支配や権力に連なる人びとから、大多数の無産の大衆へと変化することへの認識も、確たるものとして体内に宿していたであろう。そこには、誰にでも手に入るような安価で美しい日常陶器を量産する必要が要請された。富本は、安堵村で製陶を開始したときから、量産を目指していた。しかし、技術的には全くの未経験者であった。製陶にかかわるすべての技法を体得した暁に、はじめて量産陶器のプロトタイプ(原案ないし手本)を職人たちや協力者たちに提示しえるものと考えていたとすれば、「技術の進歩」は、富本にとって量産のための必須の要件であったものと思われる。また、「一品の高価品」の製作が、「公衆の日常用陶器」を生み出すために必要とされる設備や材料や工賃などの資金源となっていた可能性も否定できない。さらにそのうえに、「一品の高価品」が一種のプロトタイプとしての役割を果たし、「公衆の日常用陶器」にうまく適応されてはじめて、「数万の日常品が少しでもその標準を上げること」につながるものと考えられていたとすれば、美術家の真の創案による「一品の高価品」と、法的に保障された美術家の有する図案権のもとに大量に生産される「公衆の日常用陶器」とのあいだには、何ら隔たりはなく、富本の思いのなかでは、むしろ両者は、連続した表裏一体の関係にあるものであったにちがいなかった。逆に、富本にしてみれば、「一品の高価品」の製作に止まり、「公衆の日常用陶器」の製作に目を向けようとしない美術家を見るにつけ、「自覚と反省」が欠如した不可思議で愚なる存在として映ったのではないだろうか。

続けて富本は、こうも書く。

公衆のためのよき陶器を作るには技法を心得た人によって図案を指導されるべきであると思う故に、ここに図案権とわが国現代陶器の大略を書いた。私はこのことを三十年間いいつづけているが、公衆にも作家にも何一つ反応がない。安くて誰にも買える日常陶器を大量に、しかも相当な図案で焼き出そうとする私の企てに一つの賛成を聞いたことがない。私はいうたことは必ず実行に移したい性格なので、二十年ほど前瀬戸で一枚売価五十銭の中皿を千個単位で焼いたことがある。資生堂から依頼されて帯留一万五千個を一個二円五十銭ぐらいで焼いたのも記憶している35

このように富本は、「公衆のためのよき陶器を作るには技法を心得た人によって図案を指導されるべきであると思う」と、はっきりと「技法」の重要性を説く。そして、この短い引用文のなかにおいても、「図案」や「図案権」といった用語が出てくる。どのような意味を込めて、富本はこの言葉を使っているのであろうか。以下は、「わが陶器造り」のなかの「図案」と題された一節の冒頭の書き出しである。ここに「図案」の概念がこう規定されている。

図案という語は、英語のDesignという語から来たものと思う。同じ字を建築で通用しているような計画とか設計とかの意味ならもっと判然とするように思える。何か図案というと、絵ではない模様風の染物等の平面に限られたもののように明治以来慣らされてきた。ここでは陶器を造る最初の計画、設計という意味の図案を書く36

こうした規定を踏まえるならば、富本が理解していた「図案」は、今日でいうところの「デザイン」に相当する。この時期、富本の脳裏では、明治以来使い慣らされてきた「図案」という言葉が指し示す意味内容が解体され、それに代わって、「デザイン」という本来の英語が含み持つ原義に即した概念が生成されようとしているのである。つまり、「図案」という用語を使用する限り、「染物にみられる絵ではない模様風の代物」、転用すれば、「陶器にみられる絵ではない模様風の代物」になってしまう。そうではなく、「デザイン」という概念を用いれば、製作にかかわる全工程(たとえば陶器であれば、着想、陶土、成形、装飾、焼成、さらには販売を含む)の計画と管理を、その言葉に担わせることが可能になる。加えてその場合、模倣や盗用を厳しく排除し、創案者の独創性と個性とを法的に守るうえから「図案権」は必須の法的要件として見なされることになるであろう。そうした概念の進化は、ひとり富本だけのものではなく、大学の学科や専攻科内の呼称においても同様の進展がみられた。この時期、教育の現場にあっても、「工芸」という母体から産み落とされた「インダストリアル・デザイン」という幼児が、その第一歩を踏み出そうとしていた。『百年史 京都市立芸術大学』には、このような記述が残されている。

 昭和三八年[一九六三年]より教員の定年制を実施することになり、黒田重太郎・上野伊三郎・榊原紫峰・富本憲吉……が退官し、開学以来の有名教授が大学を去った。

 同年四月、工芸科の定員を二五名に増員し、工芸科の図案専攻をデザイン専攻に、染織図案専攻を染織専攻に改称し、美術専攻科においても同様に改称が行なわれた37

定年直後の新学期からの改称であったことを考えれば、「図案」から「デザイン」への呼称の変更は、富本の考えが広く深く投影された結果だったのかもしれなかった。いずれにしても、大量に安価に生産される日常使いの美しい陶器の出現と、「デザイン」という新しい概念の一般化とは、その当時、車の両輪のごとき不可分の関係にあったものと思われる。

一九五六(昭和三一)年の四月に京都市立美術大学の講師として着任した藤本能道は、当時の富本について、こう回想する。「そのころ、自作の見本を八坂工芸という問屋に出して安い実用品を量産されることを熱心に実行されていた」38。このときの量産の製作方法は正確にはわからないが39、おそらく富本は、三つの方法の段階的進化を考えていたものと思われる。第一段階は、有能な職人たちに轆轤を引かせて大量の素地をつくり、それに富本自身が絵付けを行なう。第二段階は、富本が製作したプロトタイプ(原型ないし見本)に従って、有能な職人たちが忠実かつ大量に素地づくりと絵付けを行なう。第三段階が、富本が製作したプロトタイプに従って、可能な限り工程を機械化し量産へとつなげる。

一九六一(昭和三六)年に、富本憲吉の作陶五〇年を記念して座談会が開かれ、その内容が『民芸手帖』(第三九号と第四〇号)に掲載された。そのなかで富本は、「私は手の工芸が、水が下に流れていくように、機械になっていくのをせき止めるようなことはだめだ。……手の工芸といえども機械生産を認めながらやらなければいかぬ、これが私の考えだ」40との持論を展開する。それを受けて中村精が、このようにいう。「この問題はインダストリアル・デザインといいますか、だれかがいいデザインをしたものを、機械で大量生産するという方法である程度解決しているようですね」41。それに対して富本は、「しかしやはり今はスエーデンだって、デンマークだって、工芸を非常に盛んにやっているというのは、手の工芸が残っていたところだけですね」42と、応じる。このなかの「工芸を非常に盛んにやっている」という表現では文意が通じず、実際には富本は、単に「工芸」ではなく「 機械の ・・・ 工芸」といったような言葉を使って、そのとき発話したのではないかと推量される。つまり、この座談会においても、富本のなかにあっては、「手の工芸」から「機械の工芸」への移行が、明確に展望されていたのであった。

英国のデザイン史家のジリアン・ネイラーは、「スウェディッシュ・グレイス……それはモダニズム受容の姿なのか」と題した論文のなかで、かつてこう分析した。

 ところで、クラフツマンシップという精神のもとで大量生産を行なうことは、一九三〇年代初頭の英国の応用美術におけるモダニズムの理想であった。いうまでもなく、スウェーデンの人たちは、わずかな妥協をすることもなく、この理想を達成した。一九五〇年代から六〇年代初期において、その成功は、実証されてゆく43

この理想は、福祉国家を目指す戦後の英国政府の政策にも取り入れられ、国家のデザイン振興機関であるデザイン・カウンシルが発行する雑誌『デザイン』のなかにおいても、しばしば語られていた。日本の戦後復興期のこの時期、富本は、『デザイン』の頁を開きながら、「クラフツマンシップという精神のもとで大量生産を行なうこと」の意義の大きさを改めて確認していたのかもしれなかった。

ヨーロッパにおいて展開された一九三〇年代以降のデザインの近代運動を俯瞰すると、家具、陶器、織物、印刷物などの旧来の工芸は、手から機械へと、その生産手段が置き換わりながら、そのための新しいデザインの模索が進行していった。そして、その行く手には、インダストリアル・デザインと呼ばれる新たな造形の領域があった。しかしその一方で、旧来の手による工芸品は、生活用品から美術作品へと、その目的を変えて生き残り、新たな別の道を選択しようとしていたのである。出発点は同じであったとしても、富本が生涯をとおして達成しようとしたのは、あくまでも前者の道であり、他方、英国人のバーナード・リーチが進んだ道は、ほぼ間違いなく後者の道であった。異なる歩みを続けながらも、このふたりは よわい を重ね、いよいよ最後の別れに向おうとしていた。

(1)『新匠』第参号、1955年、21頁を参照。

(2)富本憲吉「圖案に關する工藝家の自覺と反省」『美術と工藝』第2巻第3号、1947年10月、16-17頁。
 富本は、「図案権」あるいは「図案の創作権保護」について、たとえば次の一文からも読み取れるように、すでに戦前において強い関心を抱いていた。「太平洋戦争開始の年である昭和一六(一九四一)年には、五月二四日に、大日本窯業協会はなぜか大倉陶園で『陶磁器座談会』を開いた。図案の創作権保護、芸術と美術の保存、資材配給、工芸図案などの問題がテーマで、出席者は、富本憲吉、宮之原謙、小川雄平、豊田勝秋、加藤士師萌、各務鉱三、日野厚、世良延雄らである」(砂川幸雄『大倉陶園創成ものがたり』晶文社、2005年、240頁)。

(3)富本憲吉「工藝家と圖案權」『美術及工藝』第1巻第1号、1946年8月、8頁。

(4)同「工藝家と圖案權」『美術及工藝』、同頁。

(5)同「工藝家と圖案權」『美術及工藝』、8-9頁。

(6)富本憲吉「繪と詩」『馬酔木』第27巻第1号、1948年、ノンブルなし。

(7)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、225頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に連載]

(8)藤本能道「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』世界文化社、1980年、160頁。

(9)志村ふくみ「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』美術出版社、1974年、233頁。

(10)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、74および519頁を参照。

(11)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、226頁。

(12)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、419頁。

(13)「會員名簿」『新匠』創刊号、1952年、6頁。

(14)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、519頁を参照。

(15)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、同頁。

(16)前掲「写真解説」、文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、57頁。

(17)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、226-227頁。

(18)富本壮吉「『定家かずら模様』あれこれ」『陶工・富本憲吉の世界――その人間と詩魂』富本憲吉記念館発行、1983年、62頁。

(19)前掲『私の履歴書』日本経済新聞社、218頁。

(20)富本憲吉記念館編『富本憲吉の陶磁器模様』グラフィック社、1999年、124頁。

(21)前掲「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、229頁。

(22)同「富本先生からいただいたことば」『富本憲吉陶芸作品集』、同頁。

(23)Le Corbusier, Towards a New Architecture, translated from the French by Frederick Etchells, The Architectural Press, London, first published 1927, reprinted 1978, p. 204.
 なお、翻訳書として、ル・コルビュジエ『建築をめざして』(吉阪隆正訳、SD選書21、鹿島出版会、1967年初版)がある。

(24)富本憲吉「石の美」『芸術新潮』第4巻第4号、1953年、46頁。

(25)同「石の美」、同頁。

(26)前掲『私の履歴書』(文化人6)、191頁。

(27)富本憲吉「工藝に關する私記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、13頁。

(28)前掲『私の履歴書』(文化人6)、204頁。

(29)同『私の履歴書』(文化人6)、同頁。

(30)Paul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 11-12.[ポール・グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、12-13頁を参照]

(31)Ibid., p. 12.[同『デザインのモダニズム』、13頁を参照]

(32)蔵原惟人「富本憲吉さんのこと」『文化評論』8、1963 - NO. 21、58頁。

(33)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、11-13頁。

(34)同『富本憲吉著作集』、43頁。

(35)同『富本憲吉著作集』、同頁。

(36)同『富本憲吉著作集』、30頁。

(37)『百年史 京都市立芸術大学』1981年、12頁。

(38)前掲「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、161頁。
 同じく富本の量産陶器について、藤本能道は、さらに次のように述懐する。模様の単純化の重要性を指摘したあと、「信楽で自身で描かれた量産の大皿と、京都で『富泉』として作られた家庭食器ではその点よく考慮されていて、後者には力強い筆力を必要とする文様はなるべくさけて、全体としてさわやかな感じにとの配慮が見える」(同「富本憲吉先生・その人と作品」『陶芸の世界 富本憲吉』、166頁)。

(39)中村精は、「富本憲吉とモリス」というエッセイのなかで、工芸の仕事に関して、かつて富本が『東京日日新聞』へ一文を寄稿していたことを、以下のように紹介している。「氏は東京日日新聞(後に毎日新聞と改題)に執筆した『一工芸家の提言』のなかで、工芸の仕事には次の三つの方法があるとしている。(一)工芸家自身が一切の仕事を初めから終りまでやる工法 (二)一個の見本を自分で造り上げ、それを助手なり職人に渡してその見本に最も接近した複製を造る方法 (三)器機力により全然職工の手のみで工芸家が一指もふれずに作りあげる方法」(中村精「富本憲吉とモリス」『民芸手帖』63号、1963年8月、18-19頁)。「自作の見本を八坂工芸という問屋に出して」という表現から推量すると、このとき富本は、(二)の「一個の見本を自分で造り上げ、それを助手なり職人に渡してその見本に最も接近した複製を造る方法」によって量産を試みていたものと思われる。

(40)座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、1961年8月、12頁。

(41)同座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、同頁。

(42)同座談会「富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号、13頁。

(43)Gillian Naylor, ‘Swedish Grace…or the Acceptable Face of Modernism?’, in Paul Greenhalgh ed., op. cit., p. 182.[ジリアン・ネイラー「スウェディッシュ・グレイス……それはモダニズム受容の姿なのか」、同『デザインのモダニズム』、196頁を参照]