富本憲吉が乗船した平野丸は、一九〇八(明治四一)年一二月一九日の三時に錨を上げ、神戸港からロンドンへ向けての処女航海の途に就いた。五三日間の船旅だった。平野丸は、年が変わった一九〇九(明治四二年)二月一〇日の水曜日にロンドンに入港。桟橋には、南薫造の姿があった。南は日記に、「午後三時頃 平野丸 入港 冨本君來」1と記す。
のちに富本は、一九六二(昭和三七)年の『日本経済新聞』に掲載された「私の履歴書」のなかで、自分のイギリス留学の経緯を以下のように回顧している。
留学の目的は室内装飾を勉強することだった。フランスを選ばず、ロンドンをめざしたのは、当時、ロンドンには南薫造、白滝幾之助、高村光太郎といった先輩、友人たちがいたからでもあるが、もう一つ、在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ( ママ ) スラーや図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったからでもある2。
富本は、美術学校在学中に関心をもった美術家としてフィスラー(現在における一般的表記は「ホイッスラー」)とウィリアム・モリスを挙げているが、前者の「フィスラー」についていえば、富本が学生時代にとくに強い関心をもった形跡を示す資料は現時点で見出されえず3、したがって、実際上の富本の留学目的を、「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき、モリスの実際の仕事を見たかったから」という一点に絞り込んだとしても、それほど大きな間違いはないであろう。
モリスは、一八九六年にすでに死去していた。それから一三年が経過した一九〇九年に富本は英国に上陸した。それでは、死去から当時に至るまでのモリスを取り巻くロンドンの空気は、一体どのようなものであったのであろうか。
一八九六年一〇月三日にモリスは他界した。レッチレイド駅から干し草用の荷馬車に乗せられたモリスのひつぎは、彼が後年最も愛した〈ケルムスコット・マナー〉のある教会墓地へと運ばれ、そこで、モリスの妻とふたりの娘を喪主とする、簡素ながらも感銘を与える葬式が執り行なわれた。
一九九四年に出版された最も信頼の置けるモリス伝記のひとつである『ウィリアム・モリス――われわれの時代のためのある生涯』の著者のフィオナ・マッカーシーは、モリスの死亡記事を扱った記述箇所で、次のような描写を試みている。
目に着くのは、それに続く数日間の死亡記事の多くにあって、主としてモリスは著述家として記憶されていたことである。「詩人、しかも、テニスンやブラウニングがまだ健在だった時代にあってさえも、六本の指に数えられるわれわれの秀でた詩人のひとり」と『ザ・タイムズ』は述べているし、『ザ・デイリー・ニューズ』は、「私たちの心に残るまさしく正真正銘の詩の巨匠」と書いている。「英国の中産階級の心のなかに美的共感を目覚めさせた」という意味において、彼が視覚芸術に貢献したことについて報じる企ても幾分かなされた。同じくその死亡記事の書き手は、深い洞察力をもって、こう論評している。「最初はブルームズバリーの小さな店において、その後はマートンにあるより大きな施設において」製作された壁紙と家具は、詩歌や絵画が理解できない人びとに芸術的認識を植え付けるのに成功した4。
存命中のモリスは確かに一流の詩人として自らの名声をすでに確立していた。一八七七年にはマシュー・アーノルドの後任としてオクスフォード大学の詩学教授職への就任がモリスへ要請されたし、一八九二年にはテニスンの死去に伴い、桂冠詩人の地位提供の打診も受けている。これらの申し出は、もし受諾されていれば、詩人としての最高の名誉を名実ともにモリスにもたらすものであったにちがいなかった。実際には双方ともモリスは辞退した。しかしそれによってモリスの名声が低下するわけではなく、モリスの死亡記事の多くが詩人としてのモリスを賞讃していたとしても、それはそれとして当然のことであった。
身近な人たちであれば、誰もがよく知っていたように、実際のモリスの活動領域は、詩人に限定されたものではなく、同時にデザイナーであり、政治活動家でもあった。しかし、そうした幾つもの側面をもつモリスであったにもかかわらず、なぜ多くのヴィクトリア時代の人びとはモリスの詩人として側面を最重要視し、高く評価したのだろうか。
その理由は、さまざまな分野におけるモリスの業績のなかにあって詩人としての業績が明らかに他を抜きん出て突出していたからではなく、壁紙や家具の製作に比べて詩作や著述の方がより高い社会的活動領域であるとみなす、ヴィクトリア時代特有の社会通念におおかた由来していた。モリスは豊かな中産階級の家庭に生まれ、オクスフォード大学へ進学する。当時のオクスフォード大学は若い紳士たちの教養学校という面影をいまだ強く残しており、聖職者への道に進むことが当然のこととして期待されていた。モリスが別の進路を決意するにあたっては、一時期母親を嘆き悲しませてもいる。そうした出自と教養をもった紳士が、丸いふちどりの帽子をかぶり、作業着に身を包みながら、版木を彫ったり、織機や染め桶の前で仕事をしたりする光景を想像することさえ、ヴィクトリア時代の中産階級の人びとには困難だったにちがいなかった。
ほぼ同じような理由から、政治に対するモリスの社会主義的な姿勢に対しても、二〇世紀の前半までにあっては適切な評価を与えられるようなことはなかった。というよりは、とくに公的な場面においては無視に近い取り扱いを受けてきた。事実、モリスの死去に際しての日刊紙の評伝は、モリスの詩人としての側面を絶讃したのに比べて、全体としてモリスの政治思想や政治活動については直接的な言及を避けてしまっている。
『ザ・タイムズ』は、「理論に対してや生活の諸要因に対しての配慮を著しく欠いたまま、彼を一種のセンチメンタルな社会主義へと引き入れた力」に蔑視を浴びせた。いずれにせよ、その執筆者は、「どう見てもモリス氏の社会主義的見解が多くの実害をもたらした様子はない。彼のそうした見解は、詩的な言い回しでもって労働者向けに述べられたものであった。そしてその詩的な言い回しは、実に周到に用意された簡潔さのため、労働者には奇怪に映った」と言葉を足していた5。
さらに『ザ・タイムズ』の執筆者は、モリスの政治性を「暖かい心と間違った熱狂の結果」とみなし、それらは「その人物の強さではなく、弱さを指し示すものであった」6と分析した。これらの論評が、モリスの政治性を正確に描写することなく、逆に隠蔽してしまったことは明白である。モリスの社会主義を、詩人としての夢想的な視点から導き出されたセンチメンタルなものとみなし、ある意味で温情的な歪曲を加え、モリスを、政治の世界から切り離して別の世界に意識的につなぎ止めようとする行為は、この時期、保守層の陣営にとって避けて通ることのできない企てであったようである7。
「図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき」英国の地に足を踏み入れた富本ではあったが、詩人としての評価は別にして、工芸家であり社会主義者でもあったモリスへの当時のロンドンの空気には、何か物足りないものを感じたかもしれなかった。しかし、晩年の富本は、このときの滞在を振り返って、ロンドンでは「彼[モリス]の組合運動などを調べてきました」8と、はっきりと述べている。富本は「組合運動」という曖昧な言葉を使っているが、これが社会主義運動を指し示していることは、ほぼ間違いないであろう。
それでは富本は、この英国留学中に、社会主義者としてのウィリアム・モリスの思想にかかわって、どのような方法を使って学習したのであろうか。本人は、これについて全く何も語っていない。これこそが、まさしく、その後の生涯にわたる富本憲吉というひとり人間にとっての、あるいは美術家・富本憲吉という生き方にとっての土台となる思想形成にかかわる重要な部分なのであるが、それを本人の著述物によって語らしめることはできず、そのため、以下の考察は、あくまでも推論の域に止まるものでしかない。
まず考えられることは、モリスが書き残した書物を入手し、そこに書かれてある内容をもって、モリスの社会主義に接近したのではないかということである。しかしながら、モリスの娘のメイ・モリスによって、『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)がロングマンズ社から刊行されるのは、富本が英国から帰国したのちの一九一〇年から一五年にかけてのことであり、しかもこの『著作集』は、詩歌にかかわる内容が中心をなし、『著作集』に欠落していたモリスの政治的な著述が公にされるのは、同じくメイの手によって編集され、『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』と題された二巻本がブラックウェル社から上梓される一九三六年まで待たなければならなかった。そのため富本は、自らの英国滞在中に、『ウィリアム・モリス著作集』も『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』も、目にすることはなかった。そうであれば、富本が参照したのではないかと考えられるのは、『ウィリアム・モリス著作集』と『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』を構成する、一つひとつの個別の論考や著述ということになるが、それらを図書館から借り出し、読破していった可能性を完全に否定することはできないものの、分量からして、短い滞在期間中にそのすべてに目を通したとはとても考えにくい。それでは、モリスの思想を知るうえでの、比較的に容易なほかの手立てはないのか。あるとすれば、富本の英国滞在中までに刊行されていたモリスの評伝を手に入れ、そのなかに書かれてある内容から、モリスの社会主義を学習した可能性である。
当時、モリスに関する伝記としては、一八九九年に出版されたジョン・ウィリアム・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』(二巻本)と、それに先立つ二年前の一八九七年に出版されていたエイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の二冊が存在していた。しかし、この二冊が世に出るにあたっては、幾分複雑な経緯があり、それはおおかた次のようなものであった。
一八九六年にモリスが亡くなると、すぐさま遺族や親しい友人たちのあいだで、モリスの伝記について話し合われた。彼らにとっての関心は、今後心ない書き手によってモリスの人生や作品、さらには家族や交友関係が興味本位に解釈され、暴露されることを避けることにあった。そこで彼らは、モリスの終生の友人であり、仕事上のパートナーであり、かつまた双方の家族にとって相互に信頼を寄せ合っていた、バーン=ジョウンズ家の娘婿のJ・W・マッケイルにその任を負わせることにした。マッケイルはオクスフォード大学の教授で古典学者であり、その能力という点においてはいうまでもなく、同時に、モリスを取り巻く人びとの思いを反映させることができる立場にあったという点においても、最もふさわしいモリスの公式伝記作家としての役割を担うことになる。当然ながら、その執筆にあたっては、エドワード・バーン=ジョウンズとその妻のジョージアーナ・バーン=ジョウンズが協力し、積極的に資料の提供を行なった。しかし、これも当然なことではあるが、その伝記には、幾つかの重要な注文がつけられることになった。それは、モリス本人については、彼が積極的な政治活動家であったこと、また彼の妻のジェインについては、その貧しい出自やラファエル前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティとの愛情問題、そして夫婦にとっては、長女ジェニーがわずらっていた病気に関することであった。つまりバーン=ジョウンズ夫妻と遺族は、そうした世間に対して表ざたにしたくない問題の記述にかかわっては極力和らげるようにマッケイルに配慮を求めたのであった。マッケイルは、自分に課せられた注文を実にうまく処理し、機敏にも三年後の一八九九年にこの伝記を上梓するのである。
しかし、モリスが亡くなる以前にあって、モリスの伝記を書くことを熱望していた人間がいた。それが、エイマ・ヴァランスである。ヴァランスの経歴については、ほとんど詳しい記録が残されていない。一八六二年生まれの彼は、学者であると同時に牧師であった。また唯美主義者でもあり、資産家でもあったらしい。しばらくすると芸術に傾倒し、教会の仕事をあきらめ、『ザ・ステューディオ』に寄稿するようになる。モリスが亡くなる二年前の一八九四年に、ヴァランスは、伝記を書きたい旨の申し出をモリスに行なっているが、そのときのモリスの返事は、「あなたであろうと、ほかの誰であろうと、自分が生きている限り、そのようなことはしてほしくありません。もし死ぬまで待ってもらえれば、そうしていただいてもかまいません」9というものであった。
こうしてヴァランスは、モリスの死後、伝記を書き進めることになるが、すでに公式伝記の執筆をマッケイルに依頼していたバーン=ジョウンズ夫妻にとって、ヴァランスの伝記がどのようなものになるのかについて心を痛めたにちがいなかった。そこでバーン=ジョウンズ夫妻は記述内容に制限を加えたものと想像される。つまり、デザイナー、製造業者、詩人、政治活動家といった公的側面に限ると。そのことは、この伝記の表題にも表われることになる。こうしてヴァランスは、わずかな例外を除いてはモリスの私的側面にいっさい触れることなく、したがって十全な個人の生涯物語としてではなく、公的側面の一記録として、この『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』を書き上げることになるのである。
この英国滞在中に富本は、J・W・マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』とエイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』の双方か、どちらかの一冊を手にしたものと思われる。もっとも後者については、すでに前章において論述しているとおり、英国留学に先立って日本で読んでいた可能性も残されている。いずれにせよ富本は、この二冊が上梓されるにあたっての内輪の思惑についてまで、このとき知る由はなかったであろう。しかしながら、たとえわずかであろうとも、事情が許す範囲にあって、双方の伝記とも、モリスの社会主義に触れており、そこから、述べられている内容を手掛かりに学習を進めていったものと思われる。
マッケイルの伝記では、モリスの政治活動については「民主連盟 一八八三―一八八四年」と「社会主義同盟 一八八五―一八八六年」と題して、主としてふたつの章が割り当てられている。しかし、著者のマッケイルと彼の義父のバーン=ジョウンズが、社会主義に共感を覚える立場の人物ではなかったこともあってか、全体としてそれらの章の記述内容は、モリスの政治活動を積極的に跡づけようとするものではなかった。
他方、ヴァランスの伝記では、「第一二章 社会主義」のなかにあって、社会民主連盟の機関誌『ジャスティス』と社会主義同盟の機関紙『ザ・コモンウィール』において表明されていたモリスの言説を断片的に引用するかたちでもって、モリスの社会主義の側面が紹介されていた。分析も論評も含まないという点で、記述の仕方は、機械的ではあるが、客観的なものとなっていた。
こうした性格を背景にもつ「第一二章 社会主義」を、富本はどのように読み進めたであろうか。ここで想起しなければならないことは、すでに富本は『平民新聞』のなかの記事「社會主義の詩人 ウヰリアム、モリス」と、モリスのユートピア・ロマンスである「理想郷」の抄訳とを間違いなく読んでいたということである。このことを念頭に置いて、この「第一二章 社会主義」を読んでみると、次に引用する一文が、すぐさま富本の目をとらえたのではあるまいか。
モリスの考えによれば、自分の芸術と自分の社会主義は、一方が一方にとって不可欠なものとして結び付くものであった。いやむしろ、単にひとつの事柄のふたつの側面にしかすぎなかった10。
もし渡英前に気づく機会に遭遇していなかったとすれば、このような知見を得て、六年前に読んだ『平民新聞』において紹介されていた美術家としてのモリスと社会主義者としてのモリス――このふたつの側面が、富本のうちにあってこのときはじめて結び付けられることになったものと推量される。さらに『平民新聞』とのかかわりでいえば、枯川生(堺利彦)訳による「理想郷」の原著が、いかなる背景と文脈にあってモリスが執筆したものであったのかについても、おそらく理解が進んだものと判断される。
それでは、モリスの社会主義とは何であったのか。ヴァランスは、「第一二章 社会主義」のなかで、『ジャスティス』のなかのモリスの言葉を引用して、こう紹介していた。
『ジャスティス』の編集者の求めに答えて、一八九四年に彼[モリス]はこう書いている。「はじめに私は、社会主義者であるということに関して私がいわんとするところをお話します。というのも、社会主義者という言葉は、一〇年前に指し示していた内容に比べ、もはやそれ以上に厳密かつ正確に言い表わせないということに気づいているからです。さて、社会主義という言葉でもって私がいおうとしているのは、あるひとつの社会状況についてです。その社会にあっては、要するに、富める人と貧しい人が存在すべきではありませんし、また主人とその下僕も、怠け者と過度の働き者も、さらには、脳が病んでいる頭脳労働者と心が病んでいる手工従事者も、存在すべきではありません。その社会では、すべての人間が、平等なる状況のもとに生きていると思われますし、物事は浪費されるようなことなく取り扱われていると思います。ひとりの人にとっての苦痛はすべての人にとっての苦痛を意味するであろうことを十分に意識しながら。つまりは、〈 公共の幸福 ( コモンウェルス ) 〉という言葉の意味の最終的な達成なのです」11。
これを読んだとき、富本は何を考えたであろうか。もちろん、これを明らかにする資料は残されていない。しかし、次のような理解は可能だったかもしれない。王侯貴族が支配する社会体制から市民社会へと変革されるとき、芸術の擁護者、あるいは享受者もまた、王侯貴族から市民へと移り変わる。そのときの芸術の視覚的表現様式は、どのように変革される必要があるのか。社会の変革を望む美術家の立場に立てば、〈 公共の幸福 ( コモンウェルス ) 〉の最終的な達成のために、芸術の変革は、社会の変革に連動して必然的に起きる。
果たして富本は、このロンドン滞在の期間中に、どのような社会主義理解に到達していったのであろうか――残念ながらその全貌を、不足する資料のために、この章において完全に再現することはできなかった。しかしながら、ロンドンでは「彼[モリス]の組合運動などを調べてきました」と富本が語る短い一語の意味するところの重さに変わりはなく、本章においてその具体的内容を正確に記述することはできなかったものの、それでもその一語のうちに、ソーシャリストとしての、あるいは、デザイン領域においてはほぼ同義語ともいえるモダニストとしての思想形成の核心部分が隠されているのではないか――いまはそう推断しておきたいと思う。
(1)南八枝子『洋画家 南薫造 交友関係の研究』杉並けやき出版発行・星雲社発売、2011年、11頁。
(2)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、198頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(3)学生時代の富本憲吉のホイッスラーへの言及は、以下のとおり、留学が許されたことをロンドンにいる南薫造に伝える書簡に唯一認められる。 「聞きたい事云 ふ ( ママ ) たい事山々。クリスマスは何うだった。ロンドン搭、音楽、プレラフワエリスト[ラファエル前派]の作品フィスラー…――」(『南薫造宛富本憲吉書簡集』、前掲書、2頁)。 しかし、この一節は、南が関心をもっていたラファエル前派やホイッスラーの作品について、それらがどうだったのかを富本の方から聞いているように読める。もっとも富本自身も学生時代からホイッスラーにある程度の関心をもっていたことを否定することはできない。というのも、たとえば、東京美術学校に入学する約半年前の『美術新報』(第2巻第16号、1903年10月20日)の「櫟亭閑話(四)」においてホイッスラーが取り上げられており、入学後に文庫(図書館)でこの記事を読んでいた可能性があるからである。しかしその一方で、英国滞在中にそれにも増してホイッスラーに強い興味をもつようになった可能性も残されている。というのは、ロンドンに到着した直後ではなく、ロンドンを離れる直前に、富本はホイッスラーに関する以下の書物をサウス・ケンジントンの書店で買い求めているからである。 Mortimer Menpes, Whistler as I Knew Him, Adam and Charles Black, London, 1904. そこで推論になるが、「在学中に、読んだ本から英国の画家 フィ ( ママ ) スラーや図案家で社会主義者のウィリアム・モリスの思想に興味をいだき」という富本の述懐にみられる、ホイッスラーに関しての「読んだ本」とは、「在学中に」ではなく、そのとき購入し、その後に読んだ本のことを指しているのではないだろうか。そのことの妥当性は別にしても、いずれにせよ、英国留学の目的のひとつになるほどまでに学生時代の富本がホイッスラーに特別強い関心を抱いていたことを根拠だてるにふさわしい資料は、現時点で見出すことはできない。なお、ロンドンで富本が買い求めた本は、すでに閉館になっているが、かつての富本憲吉記念館に所蔵されており、その本には購入の時期と場所に関して「富本憲吉 英国を去る前日 南建新町書店にて」と記されていた。この本の現在の所有先は不明。
(4)Fiona MacCarthy, William Morris: A Life for Our Time, Faber and Faber, London, 1994, pp. 671-672.
(5)Ibid., p. 672.
(6)Paul Greenhalgh, 'Morris after Morris', in Linda Parry (ed.), William Morris, Philip Wilson Publishers in Association with the Victoria and Albert Museum, London, 1996, p. 362.
(7)温情的歪曲は、死亡記事に止まらず、その後もさらに、その鋳造のプロセスは続いていった。モリスの娘メイ・モリスの編集によって、一九一〇―一五年に『ウィリアム・モリス著作集』(全二四巻)がロングマンズ社から刊行された。詩作活動が、晩年のデザインや政治の分野での精力的な活動に対する影の部分となっていたことに意を用い、詩人としてのモリスの名声をいま一度確保することが、この『著作集』を刊行するにあたっての主たる目的であった。したがって、社会民主連盟や社会主義同盟などでモリスが行なった政治演説の原稿も、『ザ・コモンウィール』などに掲載されたモリスの記事や論評も、ともに収録されることなく、削除された。このことは、詩人としてのモリスの地位をさらに際立たせるうえで確かに役に立ったかもしれないが、その一方で、モリスの非政治的な人間像を結果的に強化させる役割も、十分果たすことになった。しかし、この『著作集』を『地上の楽園』や『フォルスング族のシグルド』といったモリスの詩で構成する意向は、編者のメイからではなく、出版社側から提示されたものであった。『著作集』に欠落していたモリスの政治的な著述が公にされるのは、同じくメイの手によって編集され、『ウィリアム・モリス――美術家、著述家、社会主義者』と題された二巻本がブラックウェル社から上梓される一九三六年まで待たなければならない。しかし三〇年代にあっては、モダニズムが重視されるに従い、ヴィクトリア時代の詩人としても、ユートピア社会主義者としても、モリスはすでに人びとのあいだから忘れ去られようとしていた。一九三四年にヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で、ウィリアム・モリスの生誕一〇〇年を祝う展覧会が開催されたときも、モリスの社会主義は全く取り上げられることはなかった。 しかし、第二次世界大戦の終結以降、事情は一変した。モリスの政治性を隠蔽しようとするこれまでの鋳造のプロセスに歯止めがかかり、逆に、解体のプロセスが始動し出したのであった。このプロセスのなかにあって、最も大きなハンマーとなったのが、一九五五年に刊行された、こののち「新左翼」の担い手のひとりとなるE・P・トムスンの『ウィリアム・モリス――ロマン主義者から革命主義者へ』であり、彼はこの八〇〇頁を超える重厚な本をとおして、「中産階級の俗物精神」によってそれまで無視されてきたモリスの実像を緻密にえぐり出す実証的作業に取りかかったのである。トムスンの見解に従うと、伝統的にロマン派の詩人たちが共有していた「ロマン主義的反抗」の精神を最後に受け継いだウィリアム・モリスは、その精神を絶やすことなく苦悩の期間中も温存し、社会主義運動の最初の高揚期を迎える一八八〇年代に、彼のそれまでのロマン主義は必然性と連続性のうちに革命的社会主義へと進展していった。こうしてトムスンは、非政治的で超俗的な夢見る詩人としての旧来のモリス像を一気に解体し、それに代わる、「ロマン主義的反抗」という実に強固な伝統的抗議精神に裏打ちされた実践的革命主義者像を新たにモリスに用意したのであった。
(8)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、72頁。口述されたのは、1956年。
(9)Aymer Vallance, ‘PREFACE’, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977. (reprint of the 1898 second edition, published by G. Bell, London, and originally published by George Bell and Sons, London, 1897.)
(10)Ibid., p. 305.
(11)Ibid., p. 310.