中山修一著作集

著作集5 富本憲吉研究  富本憲吉という生き方――モダニストとしての思想を宿す

第九章 デザイン思考の萌芽

一.西洋的価値の相対化と多様な表現への関心

富本憲吉の英国留学の主たる目的は、一九世紀イギリスの詩人でデザイナーであり、かつまた社会主義者でもあったウィリアム・モリスの思想と仕事を実地に見聞することであった。富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館へ日参してはスケッチを描き、中央美術・工芸学校ではステインド・グラスの技術を習得し、さらには、新家孝正に随行して、エジプトとインドの地において回教様式の建築と装飾の調査にも携わった。こうして帰国すると、その成果を、「ウイリアム・モリスの話」と題して上下の二回にまとめて『美術新報』へ寄稿し、一九一二(明治四五)年の二月号と三月号の誌上において公表した。これは、デザイナーとしてのモリスの側面に光をあてた、日本で最初の画期的な評伝であった。そして、同じくこの年の三月一五日から三一日まで上野の竹の台陳列館で美術新報主催の第三回美術展覧会が開催され、その第三部として一室が与えられた富本は、そこに一五一点から構成された作品を展示した。このなかには、留学中に描いた大量のスケッチ類が含まれていた。評伝「ウイリアム・モリスの話」の執筆と美術展覧会第三部への出品が、英国留学から帰国した富本にとっての、いわゆる「帰朝報告」となるものであった。かくして富本は、ウィリアム・モリスを携えて、鮮烈にも日本の美術界へ足を踏み入れることになる。

すでに紹介しているように、昨年(一九一一年)の秋、東京の美術界に失望し帰郷した際に南薫造から受け取った手紙の返事に、富本は、「僕の展覧會は來年にならうが五年延び樣が一向に平氣だ」と、書いていた。しかし展覧会の機会は、思ったよりも早くもたらされた。年が明けた一九一二(明治四五)年、『美術新報』二月号に「ウイリアム・モリスの話(上)」が掲載され、続けて三月号に「ウイリアム・モリスの話(下)」が掲載されようとしていた二月二三日に、富本は、次の内容の書簡を南に書き送った。

こむど新報で洋画家のかいた日本画展覧會と云ふものを竹の台でやるそうだ。……處がその室が大き ママ 過ぎるとかで僕に個人の室を持っては何うか、森亀[森田亀之輔]の手紙によると策志めくが「モリスの話」、白樺の手紙がエッフェリティブ[効果的]にきくから今に限ると云ふ様な事を云ふて来た。会期は十五日か 三月イッパイだそうだが、なる可く早く荷物をまとめて上京し様と考へて居る

「白樺の手紙」とは、一箇月前の『白樺』一月号(第三巻第一号)に掲載された、南薫造の「私信徃復」を意味しているのだろう。しかし富本の脳裏には、昨年秋の東京での苦々しい思いが過ぎる。そして、不安をのぞかせる。「厭やな東京の空気が僕の頭に一層重い石のカブトを着せるか、少しよくして呉れるか、此れが問題だ」。他方、計画については――。

今の處の僕の計畫、

 一工藝品のスケッチ、二百餘枚。

 一木彫。一木版。一更紗。

 一図案。一皮。 等

兎に角、二三百枚のスケッチを八百幾枚の僕の例の黒いポー ママ [ト]フォリオからぬき取って此れを主とし、此れに最近作の小さい持ち運びに便利な作品を列べ様と考へて居る。水彩は三拾枚程列べられる奴をより出したが額を製るのがオックウなのと室全体を工藝、早く云へばモリスの気持ちでイッパイにしたものを見せたいつもり

「美術新報主催第三回美術展覧会第三部富本憲吉君出品目録」【図二三】によると、主として英国滞在中に描いたと思われる、時代と地域を超えた図案、金物、染織陶器、彫刻に関する大量のスケッチないしは模写と、帰国後に製作された木版や更紗やエッチングなど、総計一五一点の作品が富本の部屋に展示された【図二四】。これが、本人のいうところの「モリスの気持ちでイッパイにしたもの」であり、「ウイリアム・モリスの話」の発表に続く、まさしく実作による、英国留学の成果を示す展覧であった。

会場の装飾にかかわって、富本は関係者を喜ばせている。

會場の入口の装飾から、旗の紋樣から、富本氏の考案並に下圖を煩はしたので、従来の諸展覧會とは、聊か異つた趣味を現はし得たのは愉快でした、其他同氏は所蔵の更紗や珍らしい織物などを貸して會場を飾られたことは一同の感謝した處であります

おそらくこれは、作品というものはそれ単独で存在するものではなく、空間全体との関係で考えるべきものであるという、昨年の夏に「室内装飾漫言」において主張していた信念に基づく、具体的な試みの一環であったものと思われる。

一方、「美術新報主催第三回美術展覧会第三部富本憲吉君出品目録」には、南薫造とバーナード・リーチによるふたつの頌辞が花を添えていた。そのなかで、英国生活をともにした南は、モリスを敬愛する富本について、自分の思い出と重ねながら次のように書いた。

ウ井リアム モリスを最も尊敬して居る君の製作を見ては、またモリスの懐かしい藝術の深い味ひを多く思ひ出させます。

同じくその「出品目録」なかで、英国人であるリーチは、こう指摘した。以下は、富本作品に寄せるリーチの英文による頌辞の一部訳である。

 ついにここに、ひとりの日本人による見事な奮闘を見ることができる。装飾的な美術の側面が十分に理解され、イギリスの樫の木彫、ペルシャのタイル、エジプトとインドの彫刻、メキシコの陶器、中国、日本、そしてヨーロッパの絵画、そのいずれのなかにも同等の美が存在することが明らかに認識されているのである。

リーチは、明らかにここで、西洋的表現の相対化、さらには既存の表現序列の否定といった、ロンドン滞在中だけではなく、エジプトとインドへの調査旅行中に富本が新たに獲得したと思われる価値観に触れているのである。こうした異文化へ向けられたまなざしは、富本に先立って、すでにモリスのなかにあって見受けられた事柄でもあった。富本の英国留学の成果を総括するとするならば、すでに述べているとおり、それは、いまだ知られざるモリスそのものの研究に単に止まるものではなく、さらにそこから発展して、リーチが指摘しているように、世界のさまざまな工芸や装飾美術の分野へと分け隔てなく関心が向けられ、図案や小芸術が、美において純正美術と同等の価値をもつものであるとの認識にいち早く到達したことにあった。

富本の個人展示室は、「モリスの世界」であると同時に、さながら「イメージの世界史」を例証するものであったにちがいない。これは、日本にあっておそらくこれまで誰ひとりとして試みることのなかった、実に名状しがたい空間として異彩を放っていたのではあるまいか。帰郷後、「東京の展覧會も無事、餘り損をせずに収支つぐなったとか。大分よくなって来たねー」と、南に書き送っているところを見ると、この展覧会は、富本にとってほぼ満足のゆくものであったと思われる。その背景に、森田亀之輔が指摘していたように、確かに「私信徃復」と「ウイリアム・モリスの話」の効果があったのかもしれない。しかし、この富本の展示室で展開されていた作品群の意味が、どのように東京の美術界に理解されたのかは、明確な資料がないので明らかにすることはできない。ただ、富本がいう「八百幾枚の僕の例の黒いポー ママ [ト]フォリオ」とは、まさしく彼にとっての「デザイン・ソース・ブック」であり、一方、「最近作の小さい持ち運びに便利な作品」とは、多かれ少なかれそこからインスピレイションを受けて実体化された帰国後の数点の試作例であり、そうしたものは、当時一般に認知されていた美術のカテゴリーとしての「絵画」にも「彫刻」にも、あるいは「工芸」にも、いずれにもあてはまらない。また、「水彩は三拾枚程列べられる奴をより出したが額を製るのがオックウ」なのも、画家を目指しているわけではない富本にとっては当然の心情であったであろう。ここにひとつの「図案(デザイン)」の近代の予兆が認められるとするならば、このことの意味の重さ、つまりは富本が何を指向しようとしているのか、すなわち、大多数のスケッチや模写で構成された作品群が指し示す内容の価値と展示の意図について、南やリーチのような身近な理解者を除けば、このとき、それ以外の鑑賞者に十分に伝わったとは思えない。「ウイリアム・モリスの話」がほぼ誰にとってもはじめて聞く話であったのと同様に、木彫、タイル、彫刻、陶器、絵画「そのいずれのなかにも同等の美が存在することが明らかに認識されている」この富本の展示室も、多くの人にとってははじめて見る光景であったのではないだろうか。しかしそこには、言葉では表現しがたいある種の驚きと関心が伴っていたであろう。そのような状況のなかにあって富本の存在は、このとき人の目に止まるところとなったものと思われる。富本の満足感も、おそらくそうした点に起因していたのではあるまいか。

『青鞜』五月号に、田澤操によってその展覧会の様子が次のように紹介されている。

 富本憲吉氏の木版やエッチング、山下新太郎、柳敬介、湯淺一郎、津田靑楓氏など、新歸朝者の個人室がある。バーナード、リーチ氏の日本畫、伏見人形の掛圖は排つたもの皆輪郭が鉛筆でとつてある。南薫造氏の辭に、富本君の工藝美術の趣味は、今日の日本に於ける卑俗なるそれとは餘程離れて居る樣に思はれます。遠く東京の地を距つて奈良の邊の自分の静かな家にあつて……嚴格な心持ちで模樣を置き刺繍をこゝろみて居るのが窺はれる、ウ井リアム、モリスを最も尊敬して居る君の製作を見ては、又モリスのなつかしい藝術の深い味を多く思ひ出させます。とある。ハンギング、テーブルセンターに更紗模様をおき、ぬいとりをして居る。奈良とさへ云へば幽しい所なのに、藝術のかをりの高い土地なのに。何となくなつかしい氣分になる

すでに第七章「帰国してから」において詳述しているように、尾竹一枝(紅吉)は、この展覧会がはじまる直前の二月に、はじめて憲吉を安堵村に訪ねている。一枝が大阪から上京し、実質的に『青鞜』の編集に加わるのは、この展覧会が終了した四月のことであった。したがって、一枝がその展覧会に足を運ぶことはなかったにちがいない。しかし、新居に落ち着くとすぐにも一枝は、転居を知らせるはがきを憲吉に出したものと思われる。するとさっそく、東京での展覧会を終えて安堵村に帰っていた憲吉から、春の大和に咲き乱れる野の花の美しさを告げる返信の手紙が届いた。日付は、四月一三日となっている。

東京は何うです。大和の今はステキです。只シャバンヌの様な柔い空に桃の花が―、砂の丘に咲く菜の花、麦のグリーン、わら束、ソロソロと咲き出した春の野の花―、実にキレイです。遠い処に円い青い山が、屏風の様に見えます。……

東京は何うです。何日頃、大阪に帰りますか。五月の初め頃は富士川と云ふ法隆寺の東を流れる小川に、白い野バラがステキです。ご案内致します。

春になって大和の野も山も馬鹿にキレイですが、寂しい事は、前に同じです

一枝との再会を待ち望む憲吉の思いが、確かにここから伝わってくる。しかし一枝の関心は憲吉ではなく、平塚らいてうへと向かう。紅吉の青鞜社における青春と挫折の幕が、ここからこうして一気に開いてゆく。他方、憲吉はといえばこの時期、「民間芸術」への関心を明確化すると同時に、「半農半美術家」を自認し、そうするなかから、自らが拠って立つデザイン思考を切り開いてゆくのである。

二.民間芸術と半農半美術家

一九一二(大正元)年一〇月二四日の官報において、第六回文展(文部省美術展覧会)の審査結果が発表された。それによると、第二部西洋画にあっては、小杉未醒の《豆の秋》とともに、南薫造の《六月の日》【図二五】が二等賞に輝いた。一等賞は設けられていないので、二等賞の作品が事実上、最高位の入賞作であった。南は、留学から帰国した一九一〇(明治四三)年の第四回文展で三等賞を、続く昨年の第五回で二等賞を受賞しており、二九歳という若さながら、画壇における揺るぎない地歩を着実に固めようとしていた。そうしたなか、日本画家の結城素明が、『美術新報』(一一月号)のインタヴューに応じるかたちで、南のこの作品をこう評した。

 南氏の「六月の日」は矢張り塲中一番の繪だね、然し缺點を見ればいくらもあるね、人物と景色とが調和して居ないね、人が水を呑んで居ないね、其の瓶へ持つて行つて、西洋の模樣を附けたなぞは、惡いシヤレで日本の百姓と云ふ感じを殺ぐね、模樣の爲めに眞面目な態度に裏切りされた樣だね、矢張り去年の方が宜いと思ふ10

これを読んだ富本は、すかさず『美術新報』へ、その誤謬を指摘するとともに自分の考えを加えて書き送った。それが、翌年(一九一三年)一月号の『美術新報』に掲載された、次にみられる「大和の安堵久左君より來信の一節」である。「安堵久左」は、富本の雅号である。

……先月號(文展號)の結城氏の南君の繪を批評されたうちにあの徳利の模樣を西洋の模樣の樣に言はれたことに就て申し上げたい事があります、あれは地方で現今でも使用されて居る百姓の徳利で、必しも西洋のものではありませむ。

民間の藝術と云ふものに今少し眼を向けていただきたいものです、それは結城氏だけでなく、又陶器だけではなく漆器、木工その他の模樣にも民間藝術の研究の必要がある事と考へます。……11

ここにおいて富本は「民間藝術」という用語を使って、その研究の必要性を訴えている。それでは、その意味するところは何だったのであろうか。

この一文を『美術新報』に寄稿するおよそ二箇月前、富本はリーチの庭に新築された楽焼き窯の前で《梅鶯模様菓子鉢》の製作に向かおうとしていた。そのときリーチは、疲れてあまり気乗りのしない富本を無理に誘い、それでもふたりは仲よく兄弟のように連れ立って、上野公園で開かれていた拓殖博覧会へ足を運んだ。行ってみると、朝鮮、満州、台湾、そしてアイヌの部屋があり、それぞれの生活用品や工芸品が展示され、製作の実演も行われていた。見るものすべてが、ふたりにとって大きな衝撃であった。とりわけ「蕃人」と呼ばれる台湾人の小屋では、時代や場所を超えて変わらない糸紡ぎの手法を見て、富本は驚きを禁じ得なかった。「土人主人の承諾を得て兩人が入つて行くと糸をつむいで居た主婦が自慢そうに見せて呉れたツムは眞直ぐな鐵の針の先きに石の薄い圓いツバの樣なものをはめたもので、西洋の博物舘で見た羅馬時代のそれと同形のものだつた、博物舘でそれを見た時、壺や何にかにある繪で利用法は知つて居るが、滊車や電車のある時代に未だこの形式が残つて居てマジメに實用に使つて居る人があるかと一種變な感想に打たれた。主人は室の内で籠をあむで居た」12。それとは別に、アイヌの会場では、「ギリヤーク」と呼ぶらしい樺太アイヌの「拾四五の娘が靜かに黑い毛を兩方にわけて繒はがきを賣つて居る前では動かれなかった」13。一目惚れとでもいうのであろうか――。隣りに座って同じく絵はがきを売っていた別の女性が、この娘のことを「本名位は日本語で書き、内地語もナカナカうまいそうだが、此處の來て多勢の人に顔を見られる樣になつてから下をむいて何むにも言はなくなりました」14と説明した。このとき富本は、もしかつて何かの機会に読んでいたとするならば、『美術新報』に掲載されていた「アイヌ装飾意匠」のなかの次のような一節が即座に脳裏に蘇ったにちがいなかった。

元來アイヌの小兒は文字も算盤もなし、親が敎へることは無い、それで全く無教育かといふに、さうではない。其小兒の時分に男の子には彫刻の考をすゝめ、女の子には 刺繍 ぬひ の考をすゝめる。故に小兒は初め地面に慰みに刺繍彫刻をする……[このように]意匠圖案を重んじて居るとは、恐らく世界中で同じ樣なものはあるまいと思はるゝ位である15

これは、日本図案会総会で坪井正五郎が北海道の蝦夷人の美術について行なった講演記録の一節である。幼いときから刺繍に馴染んだアイヌの女の子は、単に刺繍の製作だけに止まらず、着物の着方そのものにも、独自の自己表現を身につけていたのであろうか。富本は、座ったままうつむいて絵はがきを売るこの無口な女性から受けた鮮烈な印象をさらにこう続ける。

……美つくしい首の線……大きな黑い眼、美つくしい黑髪、それが模樣から模樣にうつる時のクズレ方の面白味と云ふ樣なキモノの着かたをして無言で座つて居る、近年自分はコンナ美つくしい形をした娘を見た事がない……少し亢奮した自分は『女房にするならコノ形と心をした女』と云うに、一度去りかけたリーチは又近かよつて熱心に見て居た。そして左の眼だけ細くして肩を一寸あげて笑つて居た16

こうして富本は、確かに、この若いギリヤーク人のなかに理想の女性像を見出した。結婚に悩む富本にとって、何か希望を抱かせる、あるいは届かぬ夢と終わりそうな、切ない一瞬の出来事であった。

いよいよ帰ろうとして正門に近づいたとき、売店が目に留まった。台湾のものばかりが並べられていたが、とりわけふたりは、「背の上部に白と青で段々にして下部赤、正面に太い赤い筋を二本通した『蠻衣』」17を争うようにして握りしめていた。そして「木製のパイプは明日金をもつて來ますから賣らないで呉れと頼んで置て其處を出た」18。【図二六】がこのとき購入した「蠻衣」(台湾人の晴れ着)で、【図二七】が翌日買いにいった「木製のパイプ」であろう。リーチの家に帰宅したふたりのあいだからは、食事がすんだあとまでも、「何う云ふ譯で野蠻人はコウ美つくしいものを造る力をシッカリと持つて居るのだろふか」19という羨望の問いかけが、幾度となく繰り返された。

書かれた時期から判断して、「大和の安堵久左君より來信の一節」のなかにおける「民間藝術」研究の重要性の指摘は、直接的には、主としてこの博覧会の見学から得られた知見に負うところが大きかったものと思われる。

このとき富本とリーチが衝撃を受けた朝鮮、満州、台湾、そして南樺太の芸術は、「内地」の「文明人」を中心に考えれば、すべて「外地」に属する「土着の人びと(土人ないしは野蛮人)」の芸術であった。この構図を世界にあてはめたらどうなるであろうか。そこには明らかに相似形に近いものがもはやすでに存在していた。ヨーロッパが「内地」であるとすれば、「外地」は、エジプト、ペルシャ、インド、中国、日本などの周縁の辺境地を指すことになる。そしてこの世界的構図は、一年前の『美術新報』(一九一一年の九月号)において、ヨーロッパ視察を終えて帰国した東京美術学校校長の正木直彦の談話をとおして紹介されていた。

美術上に於けるレネッサンスと云ふものは、十五六世紀に起つたのであつたが、今美術工藝上に一種のレネッサンスが起つて居ると云ふことが出來る。それには種々の原因があるであろうが、アーキオロジーの研究が、其主もなる原因を為して居る樣に思はれる。近來歐米の學界に於て、埃及[エジプト]、アッシリヤ、ペルシヤ、印度、支那等に關して、アーキオロジカルの探求が非常に盛んに行はれて、發掘品がどんどん本國に持ち歸へられて、博物館などに陳列せられて、盛んに研究せられて居る。そして、それ等の古代文明の遺品に、多大の趣味を見出して、それに倣つて種々の試作が行はれて居る。たとえば、埃及から發掘せられた、三四千年前のグラス……又支那の古代の ギヨク の名品……敷物などは古代ペルシヤ製品……陶磁器は、古代の波斯や支那の製品に倣ふとか云ふ風に、古代文明の遺品を研究して、復興に努力して居る。日本の古代の美術工藝品も大分渡つて居るから直接間接に、刺戟を與へたことであらうとも思はれる20

正木が、ヨーロッパの主要な国々において一九世紀後半から二〇世紀初頭にかけて同時代的に進行していた美術とデザインの改革ないしは近代化をどのように認識していたかは、正確にはわからないが、ここでは、帝国主義や植民地支配といった政治的文脈は含まず、また原始美術、とりわけ現存する原住民族や先住民族の部族社会のなかに見受けられる美術やデザインに対する前衛芸術家たちの関心についても触れることなく、もっぱら正木は、古代文明に関する「アーキオロジーの研究」という学術上の文脈からこの時期を第二の「レネッサンス」とみなし、その胎動を語っていた。

その後正木はまた、日本における「土人藝術」の流行を認めたうえで、その社会的背景と造形上の特徴について、こうも述べることになる。

 近頃は大分、土人藝術が流行して來た。世間が文明に進む程、あゝ云ふ反對の原始的の物を好む樣に成る。漸次社會の組織から、我々が日常生活の些細な事に至る迄、複雜し錯雜して來、従つて仕事も複雜して來ると、慰安を求める方法が、どうしても單純な方に傾くのは、自然の要求だらうと思ふ……[ペザントアートは]製作する上に於て少しも屈託した所がないから、斯うしやうと云ふ考丈で、斯う出來たもので、世間に少しもかまけた所がない……だから、ペザントアートと云ふ風のものには従つて行き届かない所がある……文明人の作品殊に日本の工藝家の有樣は隅から隅まで行き届き過ぎるので、是を玩賞する側の人に餘裕がなく、行き届いた作品を、一日も見て居ると、飽きが來る。然し行き届かないのは、想像の餘地が有る故、いつまで見て居ても飽きが來ないと思ふ21

この文脈にあっては、文明化社会の進展に逆らうかのように、「土人藝術」が着目されているが、そうした人たちの表現や製作にみられる「ペザント・アート(農民芸術)」は、自由意志の発露であり、それゆえに製作者の心持ちが直截的に表出され、したがって文明人の技巧的で精緻な工芸品に比べ、造形的に行き届かない点があるも、それだけに人の想像力を喚起するのではないか、と正木は指摘しているのである。しかし、正木が指摘している、古代文明にかかわる考古学的研究についても、あるいは、土人芸術における造形上の魅力についても、正木に先だって富本は、主として一九〇九(明治四二)年の一年をとおして、ロンドンのサウス・ケンジントンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館においてすでに体験していたにちがいなかった22

この体験記が、「工藝品に關する手記より(上)」で、「ウイリアム・モリスの話(下)」が掲載された翌月号の『美術新報』のなかに、それを見ることができる。「工藝品に關する手記より(下)」については、その後掲載された形跡は残されておらず、したがって、一九一二(明治四五/大正元)年の一年間にあって執筆された、美術家としてのモリスの生涯と作品を評伝としてまとめた「ウイリアム・モリスの話(上)」(二月号)および「同(下)」(三月号)、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館のお気に入りの展示作品を紹介した「工藝品に關する手記より(上)」(四月号)、それに、主に大英博物館やヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が所蔵している椅子類を歴史的に通覧した「椅子の話(上)」(九月号)および「同(下)」(一〇月号)――これら五編の『美術新報』への寄稿文が、富本の英国での見聞を伝える貴重な報告書となるものであった。

さて、この「工藝品に關する手記より(上)」を読むと、世界から集められた過去の工芸品の数々に富本が魅了されていたことがわかる。それをごく断片的に拾い上げれば、おおよそ次のようになる。富本は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で何を学び、何に関心を寄せていたのであろうか――。

南ケンジントン博物館の近東の陶器を列べてある室に、私の好きな[陳列]箱があります……太古の西洋ではエジプトも自由な獨特な圖案を残して居り、アッシリヤでは諸種の彩瓦を建築に使つて居る事は皆樣御存じの事でしよう……ダツチや北獨逸、ロシアあたりの中世紀のもので麥酒を飲むコップや皿に面白いものが澤山ある樣です。雜誌ステゥデォの増刊で北歐の百姓の美術品を集めたものに面白い例が澤山ある樣です……歐洲中古のステインドグラスにも、隨分好きなものがあります……西洋の古いものではエヂプトのマンミーを巻いてある荒い麻布、エヂプトローマンの荒い木綿糸の刺繍やツゞレ織が好きです…… 敷物 カーぺツト は何むと云つてもぺルシヤ、印度一帯の地をあげねばなりませむ……野蠻人のやつた織物にも面白いものが無數にあります、特にぺルウの古代は刺繍でも染め方でも圖案でも好きなものが澤山にありました……織物に附隨して考へ得る皮細工、染め皮、皮の上に施す刺繍等の研究もやれば面白い事はたしかでしよう23

この「工藝品に關する手記より(上)」には、富本が毎日のように通ってはヴィクトリア・アンド・アルバート博物館で模写したスケッチのなかから一四点が選ばれて、掲載されている。その幾つかを紹介すると、【図二八】が、一九世紀ペルシャの花瓶、【図二九】が、古代エジプトの頸飾りの一部、【図三〇】が、一一、一三世紀インドの彩瓦、【図三一】が、一六、一七世紀ペルシャの敷物の一部、そして【図三二】が、古代ペルーの染めた木綿である。すでに紹介したように、「もしこの博物館を知らなかったら、私はおそらく工芸家になることはなかったと思う」と、晩年富本は語っている。その意味でこれらのスケッチは、工芸家富本の原点となるものであった。

また富本は、この引用文のなかで、「雜誌ステゥデォの増刊で北歐の百姓の美術品を集めたものに面白い例が澤山ある樣です」と述べているが、たとえばこれは、A・S・レヴェタスが『ザ・ステューディオ』へ寄稿していた、「オーストリア農民のレース」(一九〇五年一二月号)、「オーストリア農民の刺繍」(一九〇六年七月号)、「オーストリア農民の個人用装飾品」(一九〇六年九月号)、「昔のオーストリア=ハンガリー農民の家具」(一九〇六年一二月号)のような農民芸術に関する一連の記事を指しているのであろうか。もしそうであれば、その場合対象地域は「北歐」ではなく「オーストリア」ということになるが、刊行の年月からして、これらの連載記事を富本は、早くも英国留学以前の学生時代に文庫(図書館)において読んでいたことになる。自らの出自と重ね合わせながら、すでにこのとき以来、農民芸術に対して何か強い興味を抱いていたのかもしれない。以下の四つの図版は、上記の四編の紹介記事に掲載されている図版からそれぞれ一点を選んで複写したもので、【図三三】はダルマチア人農民のレースを、【図三四】はスロヴェニア人のヘッドスカーフを、【図三五】はダルマチア人の銀の首飾りを、そして【図三六】は、オーストリア北部とボヘミヤの農民家具を示している。

富本は、「工藝品に關する手記より(上)」を執筆しながら、一方で自らも、実際に織物の試作に着手した。そのときのインスピレイションの源泉となったものは、存命中に父豊吉が残していた推古布と呼ばれる標本であった。

實は私の父が生存中に集めておいた二十種ばかりの推古ぎれと云ふ標本を持つて居ります、此れで見ると小さい一寸四方程のきれが語る當時の支那印度遠くは中央亞細亞の文明、それが長時間に美しくされた植物や礦物の染料、模樣の形式の面白み、私は或日獨り畫室に坐りこむで自分で織物を始めようと云ふ決心を此れを見て致しました24

さっそく行動へ移された。

先づ倉へ行つて曾祖母が使つたと云う最もプリミティーブな「手ばた」と云ふのに糸をのべて最初の試作をやりました、只今は研究中で何むとも申し上げられませむ、此の「手ばた」と云ふのはモー私の地方の百姓の手から亡むで仕舞つたもので、隨分器機の方から申せば馬鹿げたものです25

富本にとってこの織物の試作が、一年後の「大和の安堵久左君より來信の一節」において主張することになる「民間藝術」の研究へ向けての最初の実践だったのかもしれない。

一方、ちょうど同じ時期、正確には一九一二(明治四五)年一月二二日の夜、富本は南に宛てて手紙を書いているが、その手紙のなかで、次のようなことを述べていた。これは、夫婦で協力して刺繍をはじめることを知らせる南からの手紙への返信だったものと思われる。

製作及び案 By Mr. & Mrs. Minermi と云ふ刺繍が出来 ママ るそうだが面白いだろう。面白く行かない道理がない。僕からも特に奥様に申し上げます「マヅク ヤルコト」…… Mr. & Mrs. の刺繍は大変面白い事と思ふ。[一九一二年の]二月号の[美術]新報に出る Mor[r]is の話にも此の事を一寸書いておいた26

富本のいう「マヅク ヤルコト」――こうすることによって、正木のいう「行き届かない所」が、結果的に生まれるのではないだろうか。そしてそれが、「いつまで見て居ても飽きが來ない」、つまり「想像の餘地が有る」作品へとつながってゆくのであろう。

拓殖博覧会を見たあとの、「何う云ふ譯で野蠻人はコウ美つくしいものを造る力をシッカリと持つて居るのだろふか」という富本やリーチの感嘆の声は、少し前までにあって西洋人が日本の工芸品や美術品に向けたまなざしを再現するものであった。またこのとき、「自分等より確實に良い工藝品を造り得る土人の作品に蠻の字を加えない事にしよふ」と、富本がいえば、それに対してリーチは、「サベーヂ[未開の]と云ふ字の意味を自分等は普通の人と異つて考へて居るのだからかまわない」27と応じる。こうしてふたりは、製作する人が野蛮人や未開人であるからといって、その人たちによって造られた工芸や美術までもが同じく「野蛮」であったり、「未開」であったりするわけではない、という認識に到達する。このことは、「未開」から「文明」へと進む社会の歴史的な発展が、必ずしも工芸や美術の領域にはあてはまらないことを含意しており、その視点に立ってふたりは、進化論的絶対性から離れて文化的相対性のうちに、工芸や美術を定位させようとしているのである。

博覧会の見学を終えて安堵村へ帰ると、ただちに今度は、「吉野塗り」についての研究に富本は手をつける。以下は、一九一二(大正元)年一一月二六日付の南に宛てた富本書簡のなかからの抜粋である。

今自分は 吉野塗 ・・・ と云ふ櫻の皮でツナ ママ 目をとめた檜細工に薄いウルシを施したものに面白みを感じて研究の歩を進めて居る。光悦とか乾シツとか云ふものの研究も必要な事だが、第一に民間の藝術を知らずに六ツカシイ[難しい]ものをやったってダメだと思ふ。

吉野塗に残って居る形、クリ形ジョイントが古い藤原時代の繪巻にある様な立派なものに源をなして居る事は言ふ人があっても、実際手に取って研究して居る人が無い様に思へる。……

[美術]新報十二月号に「拓殖博の一日」と云ふものを書いた28

『美術新報』に「拓殖博覧会の一日」が掲載されてからほぼ三箇月後の一九一三(大正二)年三月二日の夜、今度は「半農藝術家より」と題された手紙形式の一文を執筆し、『美術新報』に送っている。そのなかで富本は、いまの自分のあり方について、こう模索し主張するのである。

都會に居住する繪かき又は田園の畫家がある以上、田舎にすみ、田舎の空氣に育つ工藝家が有るのも、さし支へ無い事と思ふ……田舎の澄み切つた空氣、野花、百姓の生活から、繪彫刻と同じ程度の興奮を模様にも起し得る人々には田舎に住む事が大變良い事だと信ずる……喰ひものや着るものが都會風でない事と、話し相手が無い位は我慢する事である。兎に角田舎に限る、そして半農半美術家(?)の生活が、今の自分自身には唯一の道である如く考へる29

富本がイギリスに渡る少し前から、すでに当地にあっては「田園への回帰」や「自然への回帰」と呼ばれる生活信条が美術家や建築家たちのあいだで広まっていた。たとえば、早くも一八七〇年代のはじめにはジョン・ラスキンが、イギリスの大地のしかるべきささやかなる部分を美しく安寧で豊穣なものにするように私たちは努めたい、と述べていたし、ほぼ同じ時期にウィリアム・モリスも、ある事情からオクスフォードシャーの田舎に別荘として使う〈ケルムスコット・マナー〉を見つけると、友人へ宛てた手紙のなかでそれを「地上の天国」と形容していた。その後モリスは、この別荘に咲き乱れる植物や野に遊ぶ小鳥を主題にした作品を生み出すことになるが、確かにこの地は、ヴィクトリア時代の資本主義がもたらしていた賃金のための労働からも醜悪な製品の氾濫からも、無縁でありえた。一九世紀も終わりに近づき、田園回帰運動が勢いを得るにしたがって、田舎生活や簡素な生活を愛する信条は、ロマン主義的でユートピア的な社会主義と結び付きながら、とりわけ工芸や装飾美術の新たな実践形態への移行を促したし、それは同時に、まさしくアーツ・アンド・クラフツ運動の起こりの背景をなす部分でもあった。一八九三年には、アーネスト・ジムスンがバーンズリー兄弟とともにコッツウォウルズに移り住み、家具製作を再開しているし、遅れて一九〇七年には、エリック・ギルが自分の工房をロンドンからディッチリングの村へと移すことになった。こうした文脈にあって、とくに重要な意味をもつのが、一九〇二年C・R・アシュビーの手工芸ギルド・学校のイースト・エンドからチピング・キャムデンへの移転であった。というのも、ここでは工芸製作と農作とが分かちがたく一体となって、ひとつの共同体が一五〇人ほどの男女によって形成されていたからである。

このとき富本が実践形態に選び取ろうとしている「半農半美術家」という考えは、昨年(一九一二年)一〇月の拓殖博覧会の見学がもたらした衝撃と、そしてそれに先立つ一九〇九年のロンドン滞在中に経験しえた知見とに、おそらく基づいていたものと思われる。

それでは富本が、その研究の重要性を主張する「民間藝術」と、工芸家のあるべきひとつの姿として、いまここで自己規定しようとしている「半農半美術家」とは、どのような関係にあるのであろうか。それについては、「半農藝術家より(手紙)」からさらに一年後に富本が、『藝美』において発表した「百姓家の話」のなかに見出すことができる。

 私の見た處百姓等は立派な美術家であります。特に彼れ等の社會に殆むど國から國に傳へられた樣な形で殘つて居る歌謡、舞踏、織物、染物類から小道具、棚、箱類等を造る木工に至る迄、捨てる事の出來ぬ面白みを持つたものが多い事は誰れも知つて居られる事でしよう。私は此れ等のもの全體に「民間藝術」と云ふ名をつけて、常に注意と尊敬を拂つて参りました30

人類の歴史にさかのぼれば、その起源にあってはすべてが農民であったであろうし、そして同時に、彼ら自らが実質的に美術家でもあったであろう。それは西洋にあってはおおむね中世まで続いた。そうであるがゆえに、アシュビーの手工芸ギルド・学校にみられるような、アーツ・アンド・クラフツ運動の正統なる活動基盤は再生されえたのである。そう考えれば、「百姓=美術家」あるいは「半農半美術家」という富本の考えは、歴史的にも原理的にも、すぐれて正しい認識であったということができよう。

それでは一方、「民間藝術」という用語法は、どうだったのであろうか。拓殖博覧会を見学するおよそ一年前、南に宛てた手紙のなかで富本は、「夜大抵おそく迄モ ママ リスの傳記を讀むで居る」31と書き記している。これは、エイマ・ヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』という伝記であったが、そのなかに次のような一文を読むことができる。

いずれにしても、モリスは次のように述べている。「明らかなことは、中世に見受けられたような悲惨さと、私たちが生きるこの時代の悲惨さとでは、本質的に異なっていた。こうした結論は、ひとつの証拠によってひたすら私たちにもたらされることになる。つまり中世は、本質的に 民間 ・・ 芸術[popular art]の時代、つまり民衆芸術[the art of people]の時代だったのである。その時代の生活状態がいかなるものであったにせよ、民衆は、目で見て、手で触れることができる莫大な量の美を生み出していたのであった……」32

ここでモリスは、自分たちがいま生きている一九世紀という時代が、有閑人に奉仕する芸術がひたすら残り、資本家に加担する芸術が新たに出現し、そして、中世の共同体に存在していた民衆による豊饒な民間芸術がすでに枯渇してしまっている、そんな悲惨な時代であることを指摘しているのである。もちろんこれが、詩人であり工芸家であり、そしてまた政治活動家でもあったモリスの原点となる時代認識であった。モリスはロマン主義の詩人としてこの悲惨さを歌い上げ、工芸家として民衆の芸術の復興を実践し、さらには、悲惨さの元凶とみなされる資本主義に取って代わる新たな理想主義を求めて自らを政治運動へと駆り立てていった。おそらく富本は、こうしたヴァランスの『ウィリアム・モリス――彼の芸術、彼の著作および彼の公的生活』のなかで描き出されていたモリスの生涯を参照しながら、この「民間藝術」という用語法にたどり着いたものと思われる。

(1)南薫造「私信徃復」『白樺』1912年1月、68頁。

(2)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、47頁。

(3)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(4)同『南薫造宛富本憲吉書簡集』、同頁。

(5)「展覧會雜事」『美術新報』第11巻第6号、1912年4月、198頁。

(6)「室内装飾漫言」の書き出しはこうである。「ある暗き雨ふる日語る友なき寂しさを消さむと獨り座敷に座りこみ、オランダ古渡りと稱する杯に酒をくみ、黙想にふけり申し候」(富本憲吉「室内装飾漫言」『美術新報』第10巻第10号、1911年、328頁)。そして富本は、美術品とそれが置かれる空間との関係性について、ロダンやホイッスラーの事例を挙げてその重要性を論じ、結論として、「洋風を混入した日本室内装飾の前途……に光明を望む」(上記同頁)のである。

(7)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、49頁。

(8)田澤操「雨の日」『青鞜』第2巻第5号、1912年5月、61頁。

(9)山本茂雄「富本憲吉・青春の奇跡――出会い・求愛・結婚までの書簡集」『陶芸四季』第5号、画文堂、1981年、73頁。

(10)結城素明氏談「日本畫家の見たる文展の洋畫」『美術新報』第12巻第1号、1912年、20頁。

(11)安堵久左(富本憲吉)「大和の安堵久左君より來信の一節」『美術新報』第12巻第3号、1913年、35頁。

(12)安堵久左(富本憲吉)「拓殖博覧會の一日」第12巻第2号、1912年、19頁。

(13)同「拓殖博覧會の一日」、20頁。

(14)同「拓殖博覧會の一日」、同頁。 (

15)坪井正五郎氏口演「アイヌ装飾意匠」『美術新報』第2巻第17号、1903年、2頁。

(16)前掲「拓殖博覧會の一日」、同頁。

(17)同「拓殖博覧會の一日」、21頁。

(18)同「拓殖博覧會の一日」、同頁。

(19)同「拓殖博覧會の一日」、同頁。

(20)雪堂生「正木校長を訪ふ――歐洲藝術界近時の風潮」『美術新報』第10巻第11号、1911年、19頁。

(21)正木直彦「土人の藝術に就て」『美術新報』第12巻第6号、1913年、7頁。

(22)詳細については、以下の拙論を参照。「一九〇九―一〇年のロンドンにおける富本憲吉(Ⅱ)――ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館と中央美術・工芸学校での学習、下宿生活、そしてエジプトとインドへの調査旅行」『表現文化研究』第7巻第1号、神戸大学表現文化研究会、2007年、59-88頁。

(23)富本憲吉「工藝品に關する手記より(上)」『美術新報』第11巻第6号、1912年、10-14頁。

(24)同「工藝品に關する手記より(上)」、12頁。

(25)同「工藝品に關する手記より(上)」、12-13頁。

(26)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、18頁(この書簡集の後ろにまとめてある横書きの手紙類を集めた部分に対する算用数字によるノンブル)。

(27)前掲「拓殖博覧會の一日」、同頁。

(28)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、57-58頁。

(29)富本憲吉「半農藝術家より(手紙)」『美術新報』第12巻第6号、1913年、29頁。

(30)富本憲吉「百姓家の話」『芸美』第1巻第1号、1914年、7頁。

(31)前掲『南薫造宛富本憲吉書簡集』、41頁。

(32)Aymer Vallance, William Morris: His Art, his Writings and his Public Life, Longwood Press, Boston, 1977, p. 326. (reprint of the 1898 second edition, published by G. Bell, London, and originally published by George Bell and Sons, London, 1897.)