一九一五(大正四)年三月、富本夫婦は、東京から憲吉の生地である大和の安堵村へ帰った。そして五月に入ると、本宅から少し離れた地所に、さっそく家と窯の建設に着手した。富本はこう記録する。「八月、窯成り、試験を終り、完成し、拾二月、家成りわれら二人と八月生れたる幼兒に下女一人、子犬一匹を携へて移れり。家は寝室、茶の間、臺所、書齋とベーウインドの如き三疊の椅子ある室と轆轤を置く四疊の工房と窯場と、全部耐火煉瓦を以てせられたる内方三尺餘りの窯とをもつてす」1。そして富本は、本窯をつくるにあたっての経緯を、後年こう述懐する。
まだはっきり焼物に生涯を打ち込む決心はできてませんでしたが、一九一五年に村はずれに本窯を築いて、丈夫な陶器を焼きはじめました。というのは楽焼は弱くて実用にならないからです2。
この言葉からもわかるように、この時期、いまだ多様な工芸製作への展望が温存されており、決して「富本憲吉氏圖案事務所」設立に際しての理念が完全に失われているわけではなかった。先述のとおり、『卓上』(第三号)に掲載された「富本憲吉氏圖案事務所」の広告には、製作品目として、印刷物(書籍装釘、廣告圖案等)、室内装飾(壁紙、家具圖案等)、陶器、染織、刺繍、金工、木工、漆器、舞臺設計、其他各種圖案が挙げられていた。これらはすべて、人間の生活と直接結び付くものであり、あるべき人間生活の全体像を提示しようとするものであった。『デザインのモダニズム』の編者のポール・グリーンハルジュは、モダニズムを構成するひとつの規範となる要素として「反細分化」を挙げ、これについてこう述べる。
近代運動がもっていた全体的な関心事は、視覚的にも実用的にも最高の質を備えたひとつの適切なデザインが大衆に対して生み出されるために、美学と技術と社会のあいだに存する障壁を打ち破ることであった。人間の経験の「反細分化」についてのこの考えが、おそらく唯一最も重要な理念であった3。
そのなかにあって、富本の関心は、丈夫な実用の陶器を数多く造ることを目指して、楽焼きから本焼きへと移ろうとしていた。それは、結婚をした以上、今後妻子を扶養することを念頭に、安定した収入の道を確保することと、ある程度結び付くものであったのかもしれない。しかしながら、そうした家庭人としての立場とは別に、一部の裕福で地位のある人のために少数の陶器を焼くのではなく、多くの普通の人びとのために安価で実用的な陶器を量産することが、美術家としての、そして同時にモダニストとしての富本の内面に秘められた、このときの最終の目標であった。
それをはっきりと例証する言葉が、最晩年の一九六二(昭和三七)年二月に『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」に残されている。それは、次の一文である。
私は若い時分、英国の社会思想家であり工芸デザイナーであるウイリアム・モリスの書いたものを読み、一点制作のりっぱな工芸品を作っても、それは純正美術に近いものだ。応用美術とか工業美術とかいうのなら、もっと安価な複製を作って、これを広く大衆の間に普及しなければならない、という考えを深く胸にきざみつけていた4。
富本の「安価な複製」への強い意欲は、若いころに接した「ウイリアム・モリスの書いたもの」から発せられていた。しかし、それから幾多の歳月が流れたこの時期、いまだに美術家のあいだにあって、そのことへの意識が十分に向かわない現状を見て、富本は不満であったし、自らも「大いに責任を感じる」。以下は、同じく最晩年に、後進に向けて書かれた「わが陶器造り」のなかの一文である。
美術家にいたっては食器のような安価品は自分ら上等な美術品を焼くものには別個の問題としているようにみえる。しかし公衆の日常用陶器が少しでもよくなり、少なくとも堕落の一途をたどりゆくのを問題外としておいてそれでいいのだろうか。私は大いに責任を感じる。一品の高価品を焼いて国宝生まれたりと宣伝するよりは数万の日常品が少しでもその標準を上げることに力を尽す人のいないのは実に不思議といわねばならない5。
このふたつの引用文から明らかなように、富本がその生涯にあって身を置いた「陶器造り」の世界で目指したことは、「一品の高価品を焼いて国宝生まれたり」とする「純正美術に近い」作品の製作ではなく、「公衆の日常用陶器が少しでもよくなり」「その標準を上げることに」心血が注がれた、「応用美術とか工業美術とかいう」領域に属する量産品への挑戦であった。ここに、美術家としての高い社会的倫理観を読み取ることができるであろう。グリーンハルジュは、「社会倫理」について、こう述べる。「疎外された大衆は資本主義の永遠の犠牲者になっていると理解された。第一次世界大戦という特殊な状況下にあって、彼らは著しくそうなっていた。デザインは日用品の生産と密接に結び付いており、その一方で、富の創出を背後で支える推進力となっていた。そこで、大衆の経済的、社会的状況を転換させる潜在能力をデザインはもっている、との論議がなされた。そうした状況の転換を図ることによって、疎外という妖怪は克服されうるのであった」6。
しかし、資金の問題もあり、すぐさま「安価な複製」ができるわけでもないし、ひとりの力をもってして、容易に「大衆の経済的、社会的状況を転換させる」ことができるわけでもない。それはあくまでの最終の目標であり、陶工として一歩を踏み出した富本は、製陶の一から独習し、あらゆる試行を繰り返さなければならなかった。それには時間を要した。一言でいえば、「公衆の日常用陶器」の量産へ向けての試行の連鎖こそが、これから富本がたどろうとする、約半世紀の陶工人生の道筋であった。
「陶器について何の知識も經験もない私が、騒がしい東京を嫌つて大和へ歸つて陶器や模樣を造ると云ひ出した時、友人達は皆非常に心配してとめて呉れた事を記憶して居る」7。しかし、次の短い言葉に、富本の決意の堅さが表出する。
鶏となり人に飼はれて美食せむより、夜鷹となりて空洞に眠らむ8。
富本は、先達に弟子入りすることも、教えを乞うことも避けて通った。製陶にかかわって素人同然の身であった憲吉にとっては、ほとんどすべてがはじめての体験であり、研究と試験の繰り返しであり、そして失望や落胆の連続だったのではないだろうか。
憲吉は、築窯当時をこう振り返る。
大正五年頃[正しくは、大正四(一九一五)年五月]、陶器を焼くために小さいながら本窯といふものを初めて築く時、私は燃料を石炭とするか松薪を使はうかと色々迷つたものだ。どうせ耐火煉瓦を使つて窯を築く位なら思ひきつて石炭だけで焼いても見たかつたが……散々迷つた揚句、日本在來の「登り窯」の樣式を採つて、松薪も石炭も併用出來るやうなものにして置いて、石炭で試験的に染附、繪高麗を焼いて見たが、結果は思はしくなかった9。
やはり、石炭より松薪の方がいいのだろうか。「新しく築かれたる窯に初めて黒き煙立ち登り、暗き星月夜は東の山よりさす薄き光につゝまれて朝とならむとす。小さき鳥の音微かに聞え、吾が工場に輕き風吹く」10。これが初窯のときの様子であろう。しかし、心安らぐ時間はそう長くは続かない。翌年(一九一六年)の二月、「陶器會」の作品を焼いているときの出来事である。「餘り焼きつゞけ候ため窯の底部やけてとけ全然改築をよぎなくされ候。耐火煉瓦が去年四銭五厘のもの八銭にても市場になく此れ等の費用のため殆むど會の利益をろうだんされ申し候」11。何ということか、最初の「陶器會」の利益のほぼすべてが、そのまま、破損した窯の改築費用に消えてしまったのである。
当初、土や 釉 ( うわぐすり ) についても、憲吉は他人に頼ることをせず、地元で調達した。「本窯を築くと、付近の溜め池の底の土を水のたまっていない冬の間にとっておいて素地に使った。釉は村の染め物屋から紺屋灰(染め物用のアルカリをとった灰のカス)をもらった」12。しかし、 轆轤 ( ろくろ ) はまだうまく引けなかったようで、人の手を借りる。「そのころロクロはまだ自分ではやらず、京都の職人をやとっていた……はじめは、薄黒い陶器をつくっていたが、やがて白磁を作りたくなった。そのためには、溜め池の土ではいけないので、京都から磁器の原料を取り寄せて、いろいろ苦心した結果、やっと思い通りの磁器ができるようになった。磁器を手掛けるころにはロクロも自分で引くようになっていた」13。
上の引用のなかで憲吉は、「いろいろ苦心した結果」という表現を使っているが、そのなかには、次のような苦心も含まれていたであろう。「青磁の釉薬を石臼に麿する事二日。吾が手は器機の如くまろくまろく動くのみ。見るものは唯赤灰色の泥汁のみ細き線となり小さき音を立てゝ落つ。油切れて把手の鳴る音、工場の静寂を破りてきしる。あヽ吾が製陶の病、將に膏盲に入る」14。そうした苦闘する憲吉の姿を一枝は日々そばで見ていた。その様子を一枝はこう描写する。
今度の窯で磁器を焼くについて、その用石を求める爲に、彼は出來るだけ良種な用石を欲しいといつて、陶説や支那の古い製陶の本を随分長い間あさつて、羽二重の小布で袋を作り、自分で氣に入る迄縫つたり、ほどいてみたりして、とにかくその出來た袋で毎日、時間を切つて少しづゝ用石をこし――どんなにあせつてもそれは草の露ほどづゝしかたまらぬもの――で根氣よく、その露の雫程の石をせつせとためてゐた15。
憲吉は、すでにできた磁器の用石を京都あたりから取り寄せるようなことはしない。一枝は続けて、このようにいう。「彼は、優種で親切な昔の磁器の性質が、いやと云ふ程、頭に浸み込んでゐて、とても他から取り寄せたもの位では氣がすまない。……しかし、この結果は恐ろしい程、出來上つてくる品物の上に現はれる」16。
以上の二箇所の引用文は、末尾に「一九一七年三月一七日」という脱稿の日付が入った、一枝のエッセイ「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」のなかの一節である。憲吉が磁器の製作に取りかかったのは、おそらくこのころからであろう。そして一枝は、「今度の窯で磁器を焼く」といっているが、そのことは、六月一五日より流逸荘で開かれる「富本憲吉氏夫妻陶器展覧會」へ向けての作品づくりのことを意味しており、実際に展示された「白磁大花瓶(白木蓮彫模樣)」や「九號白磁菓子器」は、そうしたこの時期の窯でつくられた作品だったのではないだろうか。
さらに苦闘が続く。今度は温度の問題である。楽焼きからはじまって、土焼き、そして石焼きと進むに従って、求められる窯の温度も高温になる。「燃せど燃せど熱のあがらぬ窯と、つめたき人の心こそ世に情なき極なりける」17。温度がどうしても上がらない、そのために満足に焼けない。「 生焼 ( なまやけ ) の陶器、それは白飯に混ずる砂をかむが如き不愉快さなり」18。どこに問題があるのだろう。どう解決すればいいのだろうか。悩む。このようなとき憲吉は、しみじみと思う。家計を預かる自分の妻のことを、そして、収入に結び付かない自分の職業のことを。「『薪代――職業費』と、わが妻は彼女の出納簿に記入し置けり。わが一家生計の幾分の一も満たすに足らざるわが職業の持主たるわれは彼女のために恥づ」19。
周りには、一枝以外にこうした憲吉の苦しみの闘いを知る者はいない。憲吉はこう記す。「『陶器をおやりですか、お楽しみですな』と云う人あり。如何に答ふ可きかを知らず」20。そしてこうも書く。「遊人とはぶらぶらする人」の意味をもつこの村の方言であると前置きをし、「吾等まことの遊人なるか。見よ、垣根にはつくれる花うつくしく咲き、吾等の幼兒は譬へば若芽のはじけ育つが如く成長し、棚には數十の陶器光りを放つ」21。 工場 ( こうば ) から外を眺めると、「曇りて風なき秋の午後、幼兒と妻と遊ぶ聲す」22。苦闘と孤独を慰める安息と矜持の一瞬であった。
こうした連続する、いばらのごとき苦難の道を歩きながら、憲吉は悟る。「われ思う。此の道の最難なりと思うことは……陶土の選定、燃料の良否、購入、良き職人の識別と操縦」23。最後の「良き職人の識別と操縦」という文言には、「捏らる可く水を待つ陶土、燃さるべく乾ききりたる松薪、主人の眼を盗まむとする雇人」24がいたことからくる、教訓も含まれているのであろうか。
一九一七(大正六)年の『美術』四月号は、「富本憲吉君の藝術」と題した特集を組み、七人の執筆者によって憲吉の人物評や作品評が掲載された。執筆者名と題目を列挙してみると、田中喜作の「何人の作品にも見られない美しい追憶」、水落露石の「土を玉に」、西川一草亭の「軽雋な人格な人」、岡田三郎助の「即興的なものが多かつた」、永原孝太郎の「趣味の高い美術家氣質の人」、バアナード・リーチの「『アイノコ』の眞意義(原文對照)」、そして大澤三之助の「技術家として立派な人格」。内容は、その題目からも連想できるように、総じて憲吉の高潔な性格と作風とを讃えるものであった。
この特集「富本憲吉君の藝術」には、さらにもう一編、妻である一枝の「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」も、あわせて掲載されていた。そのなかで一枝は、夫の正直で悲壮なまでの日々の工場での奮闘ぶりを紹介する一方で、憲吉をこう讃美するのである。
模樣について、製陶について、今日の彼を導いたものは、矢張り細心の研究であつた。……恰度良心と思想が一致であらねばならなぬ如に、彼の藝術は良心と仕事が常に一致して働いている。……彼は、彼の模様が、未だに人々に理解されず、少しの注意も拂つてゐない今の世に對して決していゝ感情をもつてゐない。……惡辣な手段を常使してゐる者と、正直な方法で仕事をしてゐるものとが、何故もつとはつきり區別されぬだろう。どうして彼の模樣がもつとよく人々等に解つてくれぬか。……總てこんな事が彼に孤獨の感じを起させてゆく、彼の道は寂しい、しかも、苦しい。けれど、それは總ての「先驅者」の運命ではなかつたろうか。いきほい彼は、沈黙で心の感激を抑えてゐる。……これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう。けれ共、不幸にして、そんな時期は、まだまだめぐつて來まい。……何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか、私は眞當に考へずにはおれなくなる25。
一枝は、憲吉の芸術に「良心と仕事」の一致を見る。「これからさき、いつか、彼の模樣によつて……豊富に生産されてくるなら、彼は最も喜ばしい慰藉をそこに得る事が出來やう」と、量産へ向けての将来の展望を記す。この時期一枝は、憲吉の最大かつ最良の理解者であった。そして、この一枝のエッセイのあとの次の頁に、実は憲吉の「工房より」が続く。そのなかで憲吉は、自分の念願をこう書きつけるのである。
大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます。若し私の望みが少しでも達せられて安い陶器で私の考案模樣になつたものが澤山市場に現はれて今ある俗極まる普通陶器と値でも質でゞも戰つて行ける日があるならば大變に面白いと思ひます。私は今、日夜その事を思ひつゞけます26。
「大仕掛に安いものを澤山造るには」、当然のこととして、空間、設備、材料、工人などの問題が控える。今後資金の問題を何とか克服して、自分の模様になる美しくも安価な陶器を普通の人びとの生活のために量産したい――これが本窯を安堵の地に築くにあたっての憲吉の望みであり、目標でもあった。しかし一枝が書くように、「何故、正直な方法によつて勝つことがこんなに困難なのか」、障壁は高い。それは、モダニストの「先驅者」にとって避けて通ることのできない障壁であり、まさに「聖戦」と呼ぶにふさわしい苦闘であった。
このころから柳宗悦との交流がはじまる。富本と柳の出会いについては、必ずしも正確にはわからない。ただ富本は、晩年にこう述べている。「柳君との交友は、リーチのところへエッチングを習いに佐藤とか柳とかがきた時分からです。だからあの人が大学生だったです」27。バーナード・リーチが来日するのが一九〇九(明治四二)年で、柳が東京帝国大学を卒業するのが一九一三(大正二)年であることを考えれば、富本と柳の親密さが増すこの時期は、最初に知り合ってすでに一〇年くらいが経過していたことになる。
一九二一(大正一〇)年の『白樺』の五月号に「富本憲吉作湯呑配布會」の広告が掲載された。この広告には、「陶器研究につき今度たてた特別の計畫をやるために金が要るので此の會をする。少しでも申込の多い事を望む。……特に湯呑を撰むだのは窯の都合と私の陶器を諸君の日常用の陶器として送りたい理由による」28と書かれている。「特別の計画」の具体的な内容については触れられていないが、すでに紹介したように、一九一七(大正六)年の『美術』四月号に掲載された「工房より」のなかで、富本は、「大仕掛に安いものを澤山造るには可なりの資金が必要であります、私は今その資金を何うすれば良いか、せめて陶器だけでも何うにかして見たいと思ひますが私の貧しい財産では一寸出來兼ねます」と述べている。このことを想起するならば、「特別の計画」とは、「大仕掛に安いものを澤山造る」計画だったのかもしれない。つまり、「日常用の陶器」を量産するための実験や試作に必要な資金の捻出が、この「配布會」の目的だったのではないだろうか。配布されるこの日常用の湯呑はみな同じものではあるが、焼き上がったでき具合により、価格は、五円と三円の二種類が、設定されていた。
配布会の広告と同じく、この号の『白樺』には、「富本君の陶器(廣告欄参照)」と題された柳からの推薦文もまた掲載されていた。
自分は富本君を信じてゐる。又その作品を信じてゐる。……富本君の性格は鋭く、又その感覺は非常に速かだ。従つてその圖案も線も活きてゐる。富本君の作つた陶器の最上なものは、既に日本の偉大なる陶工の永遠な作の中に列するのだと自分は思つてゐる。それは美しく又、非常に鋭い。技巧にのみ没して死にかゝつてゐる今の日本の陶磁器界に富本君のゐる事は力強い。自分は富本君の未來を信じてゐる29。
おそらくこれが、富本の製陶活動について柳が言及した最初の文ということになろう。こうして柳と富本の本格的な交流がはじまった。翌年の一九二二(大正一一)年の『中央美術』二月号において、「富本憲吉論」の特集が組まれた。この特集には、田中喜作の「稀に見るアルチスト」、佐藤碧坐の「富本君のポートレー」、長谷川傳次郎の「私との交遊」、長與善郎の「工藝美術と富本君」に加えて、柳は「富本君の陶器」という題でもって寄稿した。そこには、このようなことが書かれてあった。
沈む信仰のかゝる時代に、再び自然への信仰を甦らしてゐるのは富本君の作品である。……私は先日あの法隆寺の塔がま近くに見える安堵村に、富本君を訪ねたその日、京都で仁清、木米、及び乾山の遺作品展覧會を見る事が出來た。私はその時益々富本君の作品に對する尊敬の念を慥める事が出來た。私は早くも近い將來に於て、それ等の著名な人々に並んで富本君の作が展覧せられ、人々が新しく驚嘆の眼を以てそれを見る日の來る事を信じて疑はない30。
おそらくこのときの安堵訪問のおりに、柳は、自分が予定している朝鮮への旅行について富本に語り、誘ったものと思われる。一九二二(大正一一)年の九月二四日、先に京城に滞在していた柳を富本は訪ね、合流する。この滞在中、富本の関心を強く引きつけたのは、建築だった。一〇月三日の日記に、こう書きつけている。「今度來て最も驚き最も尊敬した事を聞かれるなら自分は建築と云ふ。陶器は勿論であるが以前から随分見て居たし破片での勉強も随分やつて居た爲に、種類の大半は未だ來ない前から知つて居た。然し建築は素敵だ、何と言つても造形美術のうちで建築程力強く意味あるものはなかろう」31。最後の「何と言つても造形美術のうちで建築程力強く意味あるものはなかろう」という文言は、注意を払うに値する。というのも、後述するように、富本が西洋のモダニズムの造形原理に接する機会をもつのは、主としてこの建築という領域からだったからである。つまり、先行する建築の原理が、その後、富本の工芸思考へ投影されてゆくことになるのである。
この時期の苦難体験は製陶の技術面だけに止まらない。一方で模様についてもまた、富本の奮闘の日々が続いていた。
「模樣より模樣を造る可からず。」
この句のためにわれは暑き日、寒き夕暮れ、大和川のほとりを、東に西に歩みつかれたるを記憶す32。
第一二章「過去の模倣から作家の個性へ」のなかで詳しく述べているように、思い起こせば、一九一三(大正二)年の夏のこと、リーチのあとを追うように楽焼きをはじめたものの、つくるものはどれも、よく見ると自分のオリジナルではない。それは、過去に見たことのある作品や雑誌に掲載されている図版の残像や残滓ではないか。そのことに気づいた富本は、ちょうどそのとき避暑で箱根に来ていたリーチを訪ねる。そこで、リーチと語り合い、考え抜き、たどり着いたのが、過去の他人の模様を模して、自分の模様にしないという自分との燃えたぎるような熱い誓いであった。これがそれ以降、「模樣より模樣を造る可からず」という金言に凝集され、生涯を通じて富本作品の基調をなす旋律となってゆくのである。富本はこのようにいう。全き独創性と個性の追求である。
私は私自身の模樣を見る時以下のことを念として取捨する。模樣から模樣を造らなかつたか、立派な古い模樣を踏臺として自分の模樣を造りその踏臺を人知れずなげ散らしてさも自分自身で創めた如く装うては居ぬか33。
「立派な古い模樣を踏臺として自分の模樣を造らなかつたか」という基準の前には、他人の過去の模様の陳列品のごとき骨董は、工芸家には不要であり、危険でさえある。富本は、骨董を麻薬に見立て、それを手本にしたり、それを模倣したりする行為を厳しく戒める。
作家にとつて古物陶酔は皿に盛られた美味でそれを喰べるうちに僅少な毒が、たとへば阿片常習者の樣な病状を與へる。恐るべきではないか34。
また富本は、言葉を変えて、骨董参照の弊害をこうも表現する。
骨董の貝殻が工藝家の全身を包みこむ程恐る可き事はない。造るに容易であり、衆愚の眼に適切であり、喰ふにはたやすく、名聲を得る事も非常に早い。古いもの、特に古陶器を見る必要は大いにあるが、見てこれにつかまれぬ人は實に僅少である35。
「見てこれ[古陶器]につかまれぬ人」になるためには、どのようにしたらよいのか。「或時は美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て」さえした。いっさい見ないことである。
私はこれまで古いものをかなり見てきたが、その見たものを出來得る限り眞似ないことに全力をあげてきた。それでもその古いものがどこまでも私をワシヅカミにしてはなさない。私は自分の無力を歎きかなしみ、どうかしてそれから自由な身になつて仕事をつづけたいために、或時は美しい幾十かの古い陶器を打ち破り棄て、極くわづかな私の仕事の上での一歩をふみ出したことさへある36。
またあるときは、「見てこれ[古陶器]につかまれぬ人」になるために、実際の作品だけではなく、そのような作品が掲載されている書物さえも、身近に置くことは危険であると思うこともあった。同じく一九三〇年代のはじめのころ富本は、自らを「現在一冊の書物を持たないと云ふ事を自慢して居る私」と形容している37。
もちろんのこと、他人の模様に影響を受けずに、全く独自の模様をつくるには、大きな苦しみが伴う。これから逃げることなく、何としてでもそれに耐え、新しい模様をつくらねばならぬ――これこそが、富本の模様にかかわる苦闘の内実であった。
「若し嚴重な意味で模樣を造らず、繰りかへしとつぎはぎで安心出來るなら、此の熱火に投げ入れられる樣な苦しみはないだろう」38。しかしながら、多くは安易な模様製作に流れ、富本のこうした主張もこうした苦しみも、理解する人はほとんどいない。「苦しみを知らない多くの人びとに、私の云はうとする處が如何に千萬言を費やしても解つて貰へる道理がないからよす、私は骨董を排斥する」39。そしてひたすら自分を鼓舞する。「新しく陶器を造り出す力、それは知識によつても古名作を數多く蔵された博物館によつてゞもない。……自分にほしいのは一圖に立派な新陶器を造り出す力」40なのである。こうして憲吉は、「立派な新陶器を造り出す力」の探索へと向かう。得られた結論は――「眞正の藝術はその生活より湧き上つたものでなければならぬ事を私は堅く信じる」41。
先人の模様を模倣しないためには、それを見ないこと。それに代わって、自分の生活に目を向けること。するとそこには、自分だけが気づく、感動の世界がある――憲吉はそれを追い求めた。村の道を歩いた。川の堤に腰かけた。野や山を駆け巡った。自分の生活のなかの、どうかすると見落としてしまいそうな、かすかな美の息遣いのようなものを、自分の目と手だけを頼りに、そっと一瞬にしてすくい取ってできたもの――これこそが、真正の富本独自の風景模様であり、植物模様だったのである。
富本は模様を、こうとらえていた。「私は模樣と云ふ語のうちに立體的のもの及び外形等をも含ませて考へて居る。……形は身體骨組であり、模樣はその衣服である。形と模樣とは相互に連關して初めて一つの生命を造る」42。つまり、壺であれば壺の形と、その表面に描かれる模様とは、相互に連関しあう一体のものとして考えられているのである。もっとも、描かれる模様は、キャンバスに描かれる絵画のような細密画としては成立しない。また形にしても、人体の彫像のごとき具象性はほとんどない。それゆえに、「模樣は繪彫刻よりも一層抽象的である」43。こうして富本は、模様にも独自の新たな世界があることを要求する。
繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模樣も亦それ特別な世界44。
かくして、「模樣より模樣を造る可からず」という鉄のような頑強な精神は、絵画や彫刻がそれぞれに独自の世界であるように、同じく「模樣も亦それ特別な世界[である]」といえるまでに富本を鍛えていった。英国留学中、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館を訪問したおり、この日本とは異なり、絵画や彫刻といった純正美術と、工芸のような装飾美術とが、同等の価値をもって展示されていることに驚いた富本は、帰国後そのことを幾度となく雑誌のなかで指摘していた。たとえば、こう述べる。
繪と更紗の貴重さを同等のものと云ふ事は、ロンドン市南ケンシントン博物館[当時の正式名称は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館]で、その考えで列べてある列品によつて、初めて私の頭にたしかに起つた考へであります45。
「模樣も亦それ特別な世界」という言葉は、図案や模様が、絵画や彫刻の従属物や派生物ではないという、この間の憲吉の強い信念の明確な開陳であり、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の展示の指針へと、まさしくこの時期、いくらかなりとも自分が近づけたことに対する自信の一端をのぞかせているのではあるまいか。
その一方で、同じく富本は、陶器の製作だけではなく、他の工芸分野にも、強い関心を持ち続けていた。以下に引用する一文は、この時期より少しのちの言葉ではあるが、このように、富本の真に望むところは、すべての工芸品の形と模様を、自分のオリジナルでもって製作したいという一点にあった。まさしくその願望の内実は、モリスの実践活動を念頭に置いた、近代的生活の全般にわたる視覚的物質的文化にかかわっての総合的なデザインの展開なのである。
私は[初めて陶器に親しみ出した]その頃から、染物や織物や木工の事或は家具建築の事について忘れた事なく、陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へで居た46。
こうした願望をかたちにしたものが、結婚する少し前に美術店田中屋に開設した「富本憲吉氏圖案事務所」であった。しかしそれも、安堵村への移住もあり、自然と消滅した。いま全身を駆使して集中している製陶は、そうした流れのなかにあって、富本の気持ちのうえでは、全体的な関心のなかの一部にすぎなかった。実際にこの間、富本が創案した独自の模様が、陶器だけではなく、木下杢太郎の『和泉屋染物店』(一九一二年刊行)を第一作として、沖野岩三郎の『宿命』(一九一九年刊行)に至るまで、幾多の書籍や雑誌の表紙を飾っていった。模様を一種のイラストレイションと考えるならば、富本は、すでにイラストレイターでもあった。さらにその後、富本の模様(イラスト)は、書籍や雑誌の表紙絵や挿し絵として利用されるだけではなく、帯や着物などへも応用されてゆく。
この時期、富本が留学した英国のデザイン界では、どのようなことが起こっていたのであろうか。帰国から五年後の一九一五(大正四)年に富本は安堵村で本窯を築いた。くしくも同じ年、英国では、第一次世界大戦のさなかながら、ドイツ工作連盟を手本に、デザイン・産業協会が設立された。この団体の多くの会員たちは、ウィリアム・モリスの思想と実践に影響を受けて育った工芸家であったが、彼らが標榜するところは、「新しい目的をもった新しい団体」であった。「新しい目的」とは何か、設立当初の十数年間にあっては、会員のあいだにあっても十分な共通認識が形成されず、五里霧中を進む状態ではあったものの、それでも「無意味な装飾」を排除し、「適切な機械的生産」への移行が含意されていた。この時期の英国は、アーツ・アンド・クラフツ運動から巣立ち、近代運動の緒についたところであった。初期の運動にあっては、ヴィクトリア時代に由来する模倣と俗物根性による見せかけの過剰な装飾が攻撃の対象となり、同時に「よい趣味」を意味していた骨董趣味もまた批判の対象とされた。彼らが求めたものは、二〇世紀にふさわしい新しい文明の顔であり、新しい生活様式であった。多くは、一九世紀の資本主義がもたらす蛮行に抗ったモリスの哲学を継承する中産階級の比較的穏健な社会主義者であり、デザイン改革と社会改革とは共通の根をもつという認識で一致していた。それはまさしく、「過去」を清算して、「真実」を実現しようとする、ある意味で聖なる戦いであった。
『デザインのモダニズム』の編者のポール・グリーンハルジュは、「真実」について、こう述べる。「倫理的価値としての真実は、同時に美的本質の問題でもある、という認識へと移調された。作品(オブジェクト)の構造と外観という観点の内にあって、真実は、 錯視 ( イリュージョン ) ないしは虚偽の印象の創出を企てようとする行為の忌避を意味していた」47。そしてまた、「反歴史主義」については、こう述べる。「歴史上の装飾と技術は、可能な至る所で、排除されなければならなかった。進歩の過程に人類があり、不満足な状態を過去がさらけ出しているとすれば、社会はそこから抜け出そうとしてまさに奮闘中であった。その場合過去の様式は、美学のうえからも倫理のうえからも、望ましいものではなかった、したがって、大多数の装飾が歴史的なものであった以上、『反歴史主義』は反装飾と同義語であった」48。さらに、「総合芸術」については、次のように述べる。「すべてのモダニストたちは、とくにバウハウスのモダニストたちがそうであったが、ほかの芸術を踏み台にして幾つかの芸術が特権化し、その地位を謳歌することをことのほか嫌った。そうした特権化は、社会において機能している階級制度を反映したものとして理解されていた」49。
富本は「模樣より模樣を造る可からず」という名句に到達し、「私は骨董を排斥する」と言明した。同時期の西洋のデザイン史の文脈からすれば、これらの主張は、近代運動の内実であった「真実」の追求と「反歴史主義」の立場とを体現するものであった。そして、さらに進んで富本は、「富本憲吉氏圖案事務所」創設の精神を喪失することなく、「陶器の一段落がすめば又、別の工藝品に手を染めて見たい考へ」を表明し、「繪は繪の世界、彫刻は彫刻の世界、模樣も亦それ特別な世界」という展望にたどり着く。これは、芸術世界において強固に機能していた階級制度を覆そうとするひとつの試みであり、特権化を拒む「総合芸術」へ向けての思考の現われとして理解することができるのではないか。こうしてこの時期、富本は、西洋におけるデザインの近代運動とうまく連動するかのように、物質世界と視覚世界にかかわって、遠く離れた日本の安堵村にあって、過去の価値の残滓に対峙し、新しい近代の扉を開こうとしていたのであった。
(1)富本憲吉『窯邊雜記』生活文化研究會、1925年、24頁。
(2)文化庁編集『色絵磁器〈富本憲吉〉』(無形文化財記録工芸技術編1)第一法規、1969年、74頁。口述されたのは、1956年。
(3)Paul Greenhalgh ed., Modernism in Design, Reaktion Books, London, 1990, p. 8.[ポール・グリーンハルジュ編『デザインのモダニズム』中山修一・吉村健一・梅宮弘光・速水豊訳、鹿島出版会、1997年、8頁を参照]
(4)『私の履歴書』(文化人6)日本経済新聞社、1983年、219頁。[初出は、1962年2月に日本経済新聞に掲載]
(5)『富本憲吉著作集』五月書房、1981年、43頁。
(6)Paul Greenhalgh ed., op. cit., p. 9.[前掲『デザインのモダニズム』、9頁を参照]
(7)前掲『窯邊雜記』、「序」1頁。
(8)同『窯邊雜記』、17頁。
(9)富本憲吉『製陶餘録』昭森社、1940年、88-89頁。
(10)前掲『窯邊雜記』、7-8頁。
(11)『南薫造宛富本憲吉書簡集』(大和美術史料第3集)奈良県立美術館、1999年、93頁。
(12)前掲『私の履歴書』、209頁。
(13)同『私の履歴書』、同頁。
(14)前掲『窯邊雜記』、13頁。
(15)富本一枝「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』第1巻第6号、1917年、28頁。
(16)同「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』、同頁。
(17)前掲『窯邊雜記』、30頁。
(18)同『窯邊雜記』、26頁。
(19)同『窯邊雜記』、30頁。
(20)同『窯邊雜記』、17頁。
(21)同『窯邊雜記』、18頁。
(22)同『窯邊雜記』、26頁。
(23)同『窯邊雜記』、27頁。
(24)同『窯邊雜記』、18頁。
(25)前掲「何故、正直な方法で勝つ事が困難か」『美術』、28-29頁。
(26)富本憲吉「工房より」『美術』第1巻第6号、1917年、30頁。
(27)「座談会 富本憲吉の五十年」『民芸手帖』39号(8月号)、1961年、12頁。
(28)『白樺』第12巻第5号、1921年、広告欄。
(29)柳宗悦「富本君の陶器」『白樺』第12巻第5号、1921年、178頁。
(30)柳宗悦「富本君の陶器」『中央美術』第8巻第2号、1922年、92頁。
(31)前掲『窯邊雜記』、58-59頁。
(32)前掲『製陶餘録』、104頁。
(33)同『製陶餘録』、33頁。
(34)前掲『窯邊雜記』、108頁。
(35)前掲『製陶餘録』、37頁。
(36)同『製陶餘録』、129頁。
(37)同『製陶餘録』、165頁。
(38)前掲『窯邊雜記』、125頁。
(39)前掲『製陶餘録』、106頁。
(40)前掲『窯邊雜記』、109頁。
(41)同『窯邊雜記』、47頁。
(42)同『窯邊雜記』、44-45頁。
(43)同『窯邊雜記』、46頁。
(44)同『窯邊雜記』、130頁。
(45)富本憲吉「工藝に関する私記より(上)」『美術新報』第11巻第6巻、1912年、8頁。
(46)前掲『製陶餘録』、36頁。
(47)Paul Greenhalgh ed., op. cit., p. 9.[前掲『デザインのモダニズム』、9頁を参照]
(48)Ibid., p. 11.[同『デザインのモダニズム』、12頁を参照]
(49)Ibid., p. 10.[同『デザインのモダニズム』、10頁を参照]